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2023/02/27

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 狒々

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正六(一九一七)年三月発行の『鄕土硏究』初出である。なお、言わずもがなであるが、「狒々」は「ひひ」である。本邦に伝わる妖怪で、猿を大型化したような姿をしており、事実、老いた日本猿がこの妖怪になるとも言われる。参照した当該ウィキを読まれたい。但し、そちらにも書かれてあるが、人を攫(さら)うという属性などから、元は中国由来であることが判る(但し、その源流は中国ではなく、シルク・ロード経由で齎された幻獣である)。私は『「和漢三才圖會」卷第四十  寓類 恠類』の「狒狒」で、その想定実在モデルの考証もしているので、是非、読まれたい。

 

     狒  々

 

 所謂山丈《やまたけ》[やぶちゃん注:「山男」の別名。]・山姥の硏究を徹底的ならしむるには、是非とも相當の注意を拂はねばならぬ一の問題がまだ殘つてゐる。それは屢深山の人民と混淆せられて來た狒々といふ獸類の特性、及びこれと山人との異同如何《いかん》である。全體狒々といふやうな獸が果してこの島に居るかといふ事が、現代學界の疑問であるのに、近年自分の記憶するだけでも狒々を捕つたといふ新聞記事は二三にて止《とどま》らず、更に前代の記錄に亙つて攷察《かうさつ》すると覺束無い點が多い。本草家に限らず、日本の學者には妙な一癖《ひとくせ》があつて、支那に在る物は日本にも在るといふ前提から議論する場合が多い。益軒ほどの先覺までが、往々にしてこの弊に落ちて居る。陸地を蹈まねば移ることの能《あたは》ぬ動物に於ては、殊にこの豫斷は危險な筈であるが、例の山𤢖《やまわろ》木客《ぼつかく》から狒々の類までも、いつの間にか遠い國土の記述が和譯せられて我邦のことのやうに傳へられて居る。言海を引いて見るとかうある。「ひゝ(狒々)、怪獸の名、深山に棲む、猴《さる》に似て極めて大きく、又極めて猛《たけ》く、人を見れば大いに笑ひて脣《くちびる》其目を蔽ふと云ふ。詳《つまびらか》ならず。猴の年を歷《へ》たるものをいふにや。ヤマワラハ、ヤマワロ(以上)」これでは日本でヒヒといふ物がこの通りであるとしか見えぬが、さうで無いらしい。本草啓蒙四十八などを見るに、狒々の上唇至つて長く笑ふとき目を掩ふ故に笑はせて置いて唇の上から錐で額を突刺して捕へるといふのは實は外國に於る話であるやうだ。日本のヒヒの唇の寸法は未だ必ずしも檢せられなかつたのである。しかも支那の一地方でこの物を山笑と稱し我邦には又ヤマワロと名づくる物が山に居るといふのを、同じく「山笑ふ」の意と解し二物同じと認めたので、而もヤマワロのワロはワラハの方言で山童の義であるのを察せなかつた。從つて狒々深山中に棲むといひ「木曾飛州能登豐前薩摩に有りと聞けり」とあるのも二者いづれを意味するかわからず、「人形にして毛ありて猴の如し毛は刺の如くして色赤し、死すれば脫落す」とあるも、狒々の話か山童の話であるかを決しかねる。唯《ただ》疑《うたがひ》を容れざる一事實は、近世各地で遭遇し乃至は捕殺した猴に似てこれよりも遙かに大なる一種の動物を、人がヒヒと呼んで居たといふことだけである。和訓栞《わくんのしほり》の狒々の條には安永以後[やぶちゃん注:安永は十年(一七八一年)に天明に改元している。]の或年に伊賀と紀州とにこの物現れしことを記し、更に天和三年[やぶちゃん注:一六八三年。]に越後桑取《くはとり》山で鐵砲を以て打取つたのは大さ四尺八寸[やぶちゃん注:一メートル四十五センチ。]云々、正德四年[やぶちゃん注:一七一四年。]の夏伊豆豐出村で捕つたものは長七尺八寸[やぶちゃん注:二メートル三十六センチ。]餘云々と述べて居る。但し最後のものは果して狒々であるか否か疑はしい。面は人の如しとあるが而も鼻四寸ばかり手足の爪は鎌のやうで水搔があつたとある。この類の怪獸記事は江戶期の隨筆類には往々にして見えて居り、何れも傳承の際に誇張があつたとおぼしく、畫圖などの添ふ者は却つて不信用の種が多い。卽ちその獸が眞の狒々か否かを究める前に、果して話のやうな動物が有り得るかを問はねばならぬことになる。但し何れの場合にも何か獵師も見たことのない異獸を獲へたといふだけはうそでないらしい。内閣文庫に在る雜事記といふ見聞錄の卷四十にも、天明二年に會津磐梯山の麓塔澤の溫泉で滯在中の少年が幾人も取られるのでこの山に怪獸あるを知り、或武勇の者往きてこれを打留めたといふ物の圖を載せて居るが、これなども尾と水掻とあつて鼻は天狗のやうに長く、それで立つてあるくとあるから、何物とも解し難い。そこで自分などの兼々考へて見ることは、これ等前代の記錄を能ふ限り多く集めて見るも一方法であるが、それよりも急務は靜岡の新聞などに冬になると殆と每年一つ位づゝは現れる狒々捕殺の事件を精査して行くことである。これとても十年か二十年の間には大袈裟な噂になつて、始末がつかぬやうになるかも知らぬが、幸に後から後からほゞ同じ地方に同じ出來事が繰返されて居るから、今の内なら土地の人に就てゞも、果して猿の年經た者といふ世上の說が正しいかどうかを知る方法はあらうと思ふ。新聞の報道は常に一度きりで滅多に正誤なども出ぬから疑へば疑はれるが、或は蜜柑畠へ來て荒すのを擊つたとか、鐵砲の上手な町の醫者が打留めて持つて還つたとかいふ類の話があつて、志太郡島田あたりのこともあつたやうに記憶する。かういふ實地の例に由つて狒々と漢譯してよい一種の猴が日本にも居ること、乃至は普通の猴の中にも稀には非常に强大且つ神怪なる者のあることが立證せられることになると、神隱しその他深山の蠻民の所爲と認められて居た多くの不思議が何でも無くなるかも知れぬが、同時に又所謂ヒヒはそれ程大きなえらい動物でも無いと決すると、結局古來猿神などと稱して人の怖れて居た怪物は正眞の山男を誤認して居たことを知るに至るかも知れぬ。有斐齋別記の一節にある寶曆中越後の山中で擊取つた狒々の如きは、これを實見した人上京しての談話に、「獼猴《びこう》とは類せず別種の物ならん」というたとある。この物常に山巓に據り大石の上などに踞まり居り、これを見た人若し頓首跪伏して通して下されと賴めば敢へて害を加へず、無事に行過ることを許したとあるなど、大分山人の方に近い話である。

[やぶちゃん注:「木客」私の『「和漢三才圖會」卷第四十  寓類 恠類』で「木客」として立項されている。本文を引く(改めて所持する原本を視認して作り直した)。

   *

「本綱」に、『「幽明録」に載せて云ふ、『南方の山中に生(せい)す。頭(かしら)・靣(おもて)・語言(ごげん)、全く人に異ならず。但し、手脚の爪、鈎(かぎ)のごとく利(と)し。絕岩(ぜつぐわん)の閒(かん)に居(ゐ)、死するも亦、殯殮(ひんれん)す。能く人と交易するも、其の形(かた)ちを見せず。今、「南方(なんぱう)に、鬼市(きし)有る。」と云ふは亦、此れに類(るゐ)す。』と。』と。[やぶちゃん注:「殯殮」とした箇所は原本では「殯※」で「※」は「歹」+「隻」であるのだが、こんな漢字はない。そこで、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の巻五十一下の「獸之四」の[120-42b] にある「木客」を影印本で確認したところが、「殯殮」であることが判明した。「殯殮」は所謂、「仮殯(かりもがり)」で「生き返ることを想定して、死者を納棺しても、埋葬や焼いたりせず、暫く安置して祀ること」を指す。しかれば、ここは暗に「木客は蘇生することがある」ということを言いたいのだろうか?

   *

私はその注で、この「木客」は、実は『一種の少数民族若しくは特殊な風俗を有する人々の誤認ではないかという確信に近いものがある。それは死者を断崖絶壁に埋葬するという習俗が、四川省の崖墓(がいぼ)を容易に連想させるからである。これは懸棺葬・懸崖葬などと呼ばれる葬送民俗で、NHKが「地球に乾杯 中国 天空の棺〜断崖に消えた民族の謎〜」で二〇〇四年に紹介したものを私も見た』。『思うに彼等は、埋葬の際、また、日常生活にあって、断崖や山上の菌類・山野草を採取する道具として、四肢に鈎状の器具を装着していたのではあるまいか。識者の御教授を乞うものである』と書いた。私はこの見解を変えるつもりは全くない。

「言海」は所持する原本で確認した。元はカタカナ漢字書きで、ルビは「さる」以外にはない。読みは「ちくま文庫」版で補った。

「本草啓蒙四十八」国立国会図書館デジタルコレクションの当該書の当該部はここの左丁の終りから三行目に「狒狒」が立項されている。柳田が言うのは、ここの右丁四行目附近に出る。以下の「木曾飛州能登豐前薩摩に有りと聞けり」及び「人形にして毛ありて猴の如し毛は刺の如くして色赤し、死すれば脫落す」もそこからの引用である。

「和訓栞」「わくんかん」とも読み、「倭訓栞」とも書く。江戸後期の国語辞書。九十三巻八十二冊。谷川士清(ことすが)編。安永六(一七七七)年から谷川の死後の明治二〇(一八八七)年にかけて刊行された。古語・雅語・俗語・方言など、語を五十音順(第二音節まで)に配列、語釈・出典・用例を示す。よく整備され、日本最初の近代的国語辞書とされる。国立国会図書館デジタルコレクションで探したが、「ひひ」の項自体が、ない。不審。「さる」も見たが、そこには出てこないし、「しやうじやう」も調べたが、ない。ますます不審。

「越後桑取山」現在の新潟県上越市皆口は旧桑取村である。「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、桑取村のここに944,7メートルのピークがある。ここか。

「内閣文庫に在る雜事記」天保八(一八三七)年の写本。

「天明二年」一七八二年。

「會津磐梯山の麓塔澤の溫泉」現在、この名の温泉は磐梯山の麓には現認出来ない。

「志太郡島田」現在の静岡県島田市(グーグル・マップ・データ)。

「有斐齋剳記」儒者皆川淇園(きえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)の随筆。聞書きであるが、妖狐のランクが天狐・空狐・気狐・野狐の順で記されあることで知られる。本文に出る話を、ざっと「国立公文書館デジタルアーカイブ」の同書写本で見たが、確認出来なかった。但し、皆川はかなり「獼猴」や「山男」に関心があったらしく、複数の記載があることが判った。例えば、9コマ目の左丁に「獼猴」二条があるので見られたい。

「寶曆」一七五一年~一七六四年。]

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