佐藤春夫 改作 田園の憂鬱 或は病める薔薇 正規表現版 (その3)
[やぶちゃん注:電子化意図や底本は初回の私の冒頭注を参照されたい。]
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眞夏の廢園は茂るがままであつた。
すべての樹は、土の中ふかく出來るだけ根を張つて、そこから土の力を汲み上げ、葉を彼等の體中一面に着けて、太陽の光を思ふ存分に吸ひ込んで居るのであつた。――松は松として生き、櫻は櫻として、槇は槇として生きた。出來るだけ多く太陽の光を浴びて、己を大きくするために、彼等は枝を突き延した。互に各の意志を遂げて居る間に、各の枝は重り合ひ、ぶつつかり合ひ、絡み合ひ、犇き合つた。自分達ばかりが、太陽の寵遇を得るためには、他の何物をも顧慮しては居られなかつた。さうして、日光を享けることの出來なくなつた枝は日に日に細つて行つた。一本の小さな松は、杉の下で赤く枯れて居た。榊の生垣は背丈が不揃ひになつて、その一列になつた頭の線が不恰好にうねつて居る。それは日のあたるところだけが生ひ茂り丈が延びて、諸の大きな樹の下に覆はれて日蔭になつた部分は、落凹んで了つたからであつた。又、それの或る部分は葉を生かすことが出來なくなつて、恰も城壁の覗き窓ほどの穴が、ぽつかりとあいて居るところもあつた。或る部分は分厚に葉が重り合つてまるく團つて[やぶちゃん注:「かたまつて」。]繁つて居るところもあつた。或る箇所は全く中斷されて居るのである。といふのは、丁度その生垣に沿うて植ゑられた大樹の松に覆ひ隱されて、そればかりか、垣根の眞中から不意に生ひ出して來た野生の藤蔓が人間の拇指よりももつと太い蔓になつて、生垣を突分け、その大樹の松の幹を、恰も虜を捕へた綱のやうに、ぐるぐる卷きに卷きながら攀ぢ登つて、その見上げるばかりの梢まで[やぶちゃん注:新潮版は「梢の梢まで」。]登り盡して、それでまだ滿足出來ないと見える――その卷蔓は、空の方へ、身を悶えながらもの狂しい[やぶちゃん注:「くるはしい」。]指のやうに、何もないものを捉へようとしてあせり立つて居るのであつた。その卷蔓のうちの一つは松の隣りのその松よりも一際高い櫻の木へ這ひ渡つて、仲間のどれよりも迥に[やぶちゃん注:「はるかに」。厳密には底本の漢字は「迥」の異体字のこれ(グリフウィキ)である。]高く、空に向つて延びて居た、又、庭の別の一隅では、梅の新らしい枝が直立して長く高く、譬へば天を刺し貫かうとする槍のやうに突立つて居るのであつた。曾ては菊畑であつた軟かい土には、根强く蔓つた雜草があつた。それは何處か竹に似た形と性質とを持つた强さうな草であつた。それの硬い莖と葉とは土の表面を網目に編みながら這うて、自分の領土を確實にするためにその節のあるところから一一根を下して、八方へ擴がつて居た。試にその一部分をとつて、根引にしようとすると、その房房した無數の細い根は黑い砂まじりの土を、丁度人間が手でつかみ上げるほどづつ持上げて來る。これが彼等の生きようとする意志である、又、「夏」の萬物に命ずる燃ゆるやうな姿である。かく繁りに茂つた枝と葉とを持つた雜多な草木は、庭全體として言へば、丁度、狂人の鉛色な額に垂れかかつた放埓な髮の毛を見るやうに陰欝であつた。それ等の草木は或る不可見な重量をもつて、さほど廣くない庭を上から壓し、その中央にある建物を周圍から遠卷きして押迫つて來るやうにも感じられた。
[やぶちゃん注:段落冒頭は底本では一字下げがないが、誤植と断じ、一字下げた。]
併し、凄く恐ろしい感じを彼に與へたものは、自然の持つて居るこの暴力的な意志ではなかつた。反つて、この混亂のなかに絕え絕えになつて殘つて居る人工の一縷の典雅であつた。それは或る意志の幽靈である。あの拔目のない植木屋が、この廢園から殆んどその全部を奪ひ去つたとは言へ、今に未だ遺されて居るもののなかにも、確に、故人の花つくりの翁の道樂を偲ばせずには置かないものが一つならず目につくのである。自然の力も、未だそれを全く匿し去ることは出來なかつた。例へば、もとはこんもりと棗形に刈り込まれて居たであらうと思へる白斑入りの羅漢柏[やぶちゃん注:「あすならう」。]である。それは門から玄關への途中にある。それから又座敷から厠を隱した山茶花がある。それの下かげの沈丁花がある。鉢をふせたやうな形に造つた霧嶋躑躅の幾株かがある。大きな葉が暑さのために萎れ、その蔭に大輪の花が枯れ萎びて居る年經た紫陽花がある。それらのものは巨人が激怒に任せて投げつけたやうな亂雜な庭のところどころにあつて、白木蓮、沈丁花、玉椿、秋海棠、梅、芙蓉、古木の高野槇、山茶花、萩、蘭の鉢、大きな自然石、むくむくと盛上つた靑苔、枝垂櫻、黑竹、常夏、花柘榴の大木、それに水の近くには鳶尾[やぶちゃん注:「いちはつ」。]、其他のものが、程よく按排され、人の手で愛まれて[やぶちゃん注:「いつくしまれて」。]居たその當時の夢を、北方の蠻人よりももつと亂暴な自然の蹂躙に任されて顧る人とてもない今日に、その夢を未だ見果てずに居るかと思へるのである。また假りに、庭の何處の隅にもそんなものの一株もなかつたとしたところが、門口にかぶさりかかつた一幹(ひともと)の松の枝ぶりからでも、それが今日でこそ徒らに硬く太く長い針の葉をぎつしりと身に着けて居ながらも、曾ては人の手が、懇にその枝を勞はり葉を揃へ、幹を撫でたものであつたことは、誰も容易に承認するのであらう。實は、それの持主である小學校長は、この次にはその松を賣らうと考へて、この松だけはこん度の借家人が植木屋を呼ぶときには、根まはりもさせ鬼葉もとらせて置かうと思つて居るのであつた。
故人の遺志を、偉大なそれであるからして時には殘忍にも思へる自然と運命との力が、どんな風にぐんぐん破壞し去つたかを見よ。それ等の遺された木は、庭は、自然の潑溂たる野蠻な力でもなく、また人工のアアティフィシャルな形式でもなかつた。反つて、この兩樣の無雜作な不統一な混合であつた。さうしてそのなかには醜さといふよりも寧ろ故もなく凄然たるものがあつた。この家の新らしい主人は、木の蔭に佇んで、この廢園の夏に見入つた。さて何かに怯かされてゐるのを感じた。瞬間的な或る恐怖がふと彼の裡に過ぎたやうに思ふ。さてそれが何であつたかは彼自身でも知らない。それを捉へる間もないほどそれは速かに閃き過ぎたからである。けれどもそれが不思議にも、精神的といふよりも寧ろ官能的な、動物の抱くであらうやうな恐怖であつたと思へた。
彼は、その日、暫く、新らしい住家のこの凄まじく哀れな庭の中を木かげを傳うて、步き𢌞つて見た。
家の側面にある白樫[やぶちゃん注:「しらかし」。]の下には、蟻が、黑い長い一列になつて進軍して居るのであつた。彼等の或るものは大きな家寶である食糧を擔いで居た。少し大きな形の蟻がそこらにまくばられて居て、彼等に命令して居るやうにも見える。彼等は出會ふときには、會釋をするやうに、或は噂をし合ふやうに、或は言傳を託して居るやうに兩方から立停つて頭をつき合せて居る。これはよくある蟻の轉宅であつた。彼は蹲まつて、小さい隊商を凝視した。さうして暫くの間、彼は彼等から子供らしい樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]を得させられた。永い年月の間、かういふものを見なかつた事や、若し目に入つたにしても見ようともしなかつたであらう事に、彼は初めて氣づいた。さう言へば、幼年の日以來――あの頃は、外の子供一倍そんなものを樂み耽つて居たにも拘らず、その思ひ出さへも忘れて居た――落ちついて、月を仰いだこともなければ、鳥を見たこともなかつた。そんな事に氣附いた事が、彼を妙に悲しく、また喜ばしくした。さういふ心を抱きながら其處から立上つて步み出さうとすると、ふと目に入つたのは、その白樫の幹に道化た態[やぶちゃん注:「なり」。]をして、牙のやうな形の大きな前足をそこへ突立てて嚙りついて居る蟬の脫殼であつた。それは背中のまんなかからぱつくり裂けた、赤くぴかぴかした小さな鎧であつた。なほその幹をよく見て居ると、その脫殼から三四寸ほど上のところに、一疋の蟬が凝乎[やぶちゃん注:「じつと」。]として居るのを發見することが出來た。それは人のけはひに驚く風もないのは無理もない。その蟬は今生れたばかりだといふ事は一目に解つた。それはまだ極く軟かで體も固まつては居ないのである。この蟲はかうして身動きもせず凝乎としたまま、今、靜かに空氣の神祕にふれて居るのであつた。その軟かな未だ完成しない羽は全體は乳色で、言ふばかりなく可憐で、痛痛しく、小さくちぢかんで居た。ただそれの綠色の筋ばかりがひどく目立つた。それは爽やかな快活なみどり色で、彼の聯想は白く割れた種子を裂開いて[やぶちゃん注:「さきひらいて」。]突出した豆の双葉の芽を、ありありと思ひ浮べさせた。それはただにその色ばかりではなく、羽全體が植物の芽生に髣髴して居た。生れ出すものには、蟲と草との相違はありながら、或る共通な、或る姿がその中に啓示されて居るのを彼は見た。自然そのものには何の法則もないかも知れぬ。けれども少くもそれから、人はそれぞれの法則を、自分の好きなやうに看取することが出來るのであつた。尙ほ熟視すると、この蟲の平たい頭の丁度眞中あたりに、極く微小な、紅玉色でそれよりももつと燦然たる何ものかが、いみじくも鏤められて[やぶちゃん注:「ちりばめられて」。]居るのであつた。その寶玉的な何ものかは、科學の上では何であるか(單眼といふものででもあらう)彼はそれに就て知るべくもなかつた。けれどもその美しさに就ては、彼自身こそ他の何人より知つてゐると思つた。その美しさはこの小さなとるにも足らぬ蟲の誕生を、彼をして神聖なものに感じさせ、禮拜させるためには、就中、非常に有力であつた。
彼のあるか無いかの知識のなかに、蟬といふものは二十年目位にやつと成蟲になるといふやうなことを何日か何處かで、多分農學生か誰かから聞き嚙つたことがあつたのを思ひ出した。おお、この小さな蟲が、唯一口に蛙鳴蟬騷[やぶちゃん注:「あめいせんさう」。]と呼ばれて居るほど、人間には無意味に見える一生をするために、彼自身の年齡に殆んど近いほどの年を經て居ようとは! さうして彼等の命は僅に數日――二日か三日か一週間であらうとは! 自然は一たい、何のつもりでこんなものを造り出すのであらう。いやいや、こんなものと言つてただ蟬ばかりではない、人間を。彼自身を? 神が創造したと言はれて居るこの自然は、恐らく出たらめなのではあるまいか。さうして出たらめを出たらめと氣附かないで解かうとする時ほど、それが神祕に見える時はないのだから。いやいや、何も解らない。さうだ、唯これだけは解る――蟬ははかない、さうして人間の雄辯な代議士の一生が蟬ではないと、誰が言はうぞ。蟬の羽は見て居るうちに、目に見えて、そのちぢくれが引延ばされた。同時にそれの半透明な乳白色は、刻刻に少しづつ併し確實に無色で透明なものに變化して來るのであつた。さうしてあの芽生のやうに爽快ではあるけれどもひ弱げな綠も、それに應じて段段と黑ずんで、恰も若草の綠が常磐木のそれになるやうな、或る現實的な强さが、瞭かに[やぶちゃん注:「あきらかに」。]其處にも現れつつあるのであつた。彼はこれ等のものを二十分あまりも眺めつくして居る間に――それは寧ろある病的な綿密さを以てであつた――自づと息が迫るやうな嚴肅を感じて來た。
突然、彼は自分の心にむかつて言つた。
「見よ、生れる者の惱みを。この小さなものが生れるためにでも、此處にこれだけの忍耐がある!」
それから重ねて言つた。
「この小さな蟲は俺だ! 蟬よ、どうぞ早く飛立て!」
彼の奇妙な祈禱はこんな風にして行はれた。それはこの時のみならず常にかうして行はれてあつた。
[やぶちゃん注:「佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その3)」と対照されたい。]
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