柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山姥奇聞
[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。
注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。
なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正一五(一九二六)年六月発行の『週刊朝日』初出である。「山姥」は「やまうば」或いは「やまんば」と読む。当該ウィキを参照されたい。]
山 姥 奇 聞
一
遠州のどの邊であつたか、汽車の走る廣々とした水田の間から、遙かの北の方に縣境の連峰が、やゝしばらくのうち旅人の眺望に入つて來る處がある。時には雪を持ち、又は白い雲が搖曳してゐる。
かつて私は天龍川の上流から、あの片端を越えて奧山の谷に降りて行つたことがある。人間は水路をたどつて案外な入野まで伐り開いて住んでゐることに驚いたが、しかし山の力がこれによつて少しも弱められたり衰へたりしてゐないのには更に驚いた。平地に住む者の想像を超脫した寂漠たる生存、これにともなふ强烈な山の情緖が、人間の心を衝《う》つてやまない。
「遠江國風土記傳」といふ百年前の記錄に「豐田郡久良幾《くらき》山、奧山鄕大井村字泉に至り、巖《いはほ》一所《いつしよ》、明光寺の山の上、名づけて子生《こうみ》たわと謂ふ。天德年間山姥これに住し、時として民家の紡績を助く。多年にして三子を生む。一男名は龍筑房、龍頭嶺《りゆうづみね》の山の主なり。二男は白髮童子、戶口村神之澤の山の主なり。三男常光房は山住奧院《やまづみおくのゐん》の山の主なり」とある。山住の常光神社は今なほ參遠地方の靈神としてあふがれてゐる。この神の使ひは御犬卽ち狼であつて、信徒がこれを招請して、あらゆる邪惡を驅逐治罰せしめるといふ。
しかも同じ書物によれば、山姥の三子は或時は里に下つて民家の小兒を害したために、平賀中務《ひらがなかつかさ》矢部後藤左衞門の二人が朝命を奉じてこれを征伐し、その子孫の者終に土着して奧山鄕に佳んだといふ。
母の山姥はこの後秋葉山に逃れ住み遺跡はかの地に存するのであるが、なほ後世に至るまで每年子生たわの岩の上で山姥を祀つた。山香《やまが》の相月《あひつき》といふ村にも山姥の社がある。神の澤では今も雪中に白髮童子の足跡を見ることがあり、山住山の常光房もまた時として雪の上にその跡を留めて行くことがあると記してある。かの地方の山村の人は知つてゐるだらうが、藁科《わらしな》・大井・氣多《けた》・天龍の谷々には、山男の大足蹟の噂は絕えたことが無い。たゞそれが白髮童子の三兄弟の末であるか否かは、信仰以外にこれを決する者が無かつただけである。
[やぶちゃん注:「遠江國風土記傳」江戸中・後期の国学者で内山真龍(またつ 元文五(一七四〇)年~文政四(一八二一)年:商人の長男として遠江の豊田郡大谷村(現在の静岡県浜松市天竜区)に生まれ、家業を継いだ後の宝暦一〇(一七六〇)年に転居し、宝暦一二(一七六二)年には賀茂真淵らに学んだ)の著。寛政元(一七八九)年刊。柳田は「百年前」と言っているが、実際には百六十六年前である。国立国会図書館デジタルコレクションの明治三八(一九〇五)年郁文舎刊の活字本を見ることができ、当該部はこちらの「久良幾山」の条である。漢文である。また、そこでは「子生(コウミダワ)ト云」ふ、と濁音になっている。なお、以上のロケーションは恐らくは現在の静岡県浜松市天竜区佐久間町戸口(さくまちょうとぐち:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)附近と思われる。「龍頭山」や「秋葉山秋葉寺奥之院」が確認出来る。また、サイト「昔話の考古学」の「◆P.30 一度にたくさんの子を生む 昔話の考古学(中公新書)吉田敦彦著」に「山の人生」の方のそれが引かれ、そこに『この佐久間町西渡の明光寺には、丸木俊氏によって描かれた扁額があり、その絵には山姥は、笹を口にくわえ、三人の赤ん坊を抱いて、山の峯々の空中を飛翔する、豊満な双の乳房を露呈した美女の姿に描かれているという。また同じ佐久間町西渡の浅間山の山頂の浅間神社の裏には、姥神と銘を刻まれた山姥の坐像があり、この像では山姥は、皺だらけの顔をした、老婆の姿に表わされているという』とあった。明光寺はここである。
「久良幾山」この山が特定出来ない。識者の御教授を乞う。
「奧山鄕大井村字泉」これは、思うに大井川の上流、寸又峡の手前にある現在の静岡県榛原郡川根本町奥泉(はいばらぐんかわねほんちょうおくいずみ)ではなかろうか(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「子生《こうみ》たわ」柳田は「山の人生」の「一九 山の神を女性とする例多き事」の中でも言及している。同じ底本のここ(左ページの後ろから五行目)。そこでは「小生嵶(こうみたわ)」とある。「嵶」は「峠」に同じ。
「天德年間」平安中期。九五七年から九六一年まで。
「常光神社」個人サイト「BODHI SVAHA」の「常光神社 奥宮(天寿山 常光神)・常光寺山」に写真と地図が載る。先の地域の東北十キロメートルほどの位置にある。
「藁科」この藁科川上流域(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「氣多」静岡県浜松市天竜区春野町気田(はるのちょうけた)であろう(同前。ポイントした郵便局名に旧地名が残る)。]
二
山姥山姬の話は信越の境の山々を始めとして、山國の里に多い。關東から奧羽へかけては、山母はアマノジャクに近いものとされ、今では單なる童話中の妖怪にまで零落してゐる。だが山姥も最初は山をめぐり里に通うて、木樵の重荷を助け民の妻の紡織を手傳つたといふ說があり、北ヨーロッパのフェアリーなどと同じく、單なる空想の產物ではなかつたらう。阪田公時を足柄山の山姥の子といふことなども、前太平記以前には確な記述もないやうだが、相當根據のある作りごとであつたらしい。阿波の半田の奧の中島といふ村の山には、山姥石といふ大きな岩がある。この邊には山姥が住んで、時々里の子供を連れて岩の上に出て來て火を焚いてあたらせることがある。それを見たといふ人も以前にはあつたさうな。他の地方の山村でも、冬の特別に暖かい年は、「今年は山姥が子を育てゝゐる」と戲れのやうにいふ處が少なくない。それがほんたうかどうか、信じないのは勿論我々の權利であるが、何も理由が無くこんな話の發生することはあるまい。說明が出來ないからといつて無視しようとするのは橫着だ。
[やぶちゃん注:「阿波の半田の奧の中島といふ村」徳島県美馬(みま)郡つるぎ町(ちょう)半田(はんだ)はここ。]
私はこれについて、こんな風に考へてゐる。
第一には、現實に山の奧には、昔も今もそのやうな者がゐるのではないかといふことである。駿遠でも四國でも、または九州の南部でも、山姥がゐるといふ地方には必ず山爺《やまじい》がゐる。或は山丈《やまぢやう》ともいふが、ジョウ[やぶちゃん注:ママ。]とは老翁のことである。山母《やまはは》に對しては山父といふ語もあり、山姥に向つてはまた山童《やまわろ》がある。これを總稱しては山人《やまびと》と呼び、形の大きいために大人《おほひと》といふ名もあつた。果して我々大和民族渡來前の異俗人が、避けて幽閑の地に潜んで永らへたとしたら、子を生み各地に分れ住むことは少しも怪しむにたらない當然のことである。問題は寧ろ文明の優れた低地人が、何故に彼等を神に近いものとして畏敬したかといふ點にある。
第二には正反對の側面から、山の神の信仰には以前は明らかに狼の恐れが含まれてあつた。狼が群をなして移動する威力、或はその慧敏《けいびん》と狂猛に恐れをなして、祭れば害をまぬがれるだらうと考へて大口眞神《おほくちのまがみ》の名を與へ、更に進んでは人間に准じてその隱れたる成育を想像した。御犬が子を生むといふ場處は靈地であり、又その季節には戒愼して、特に十分なる食物を寄贈する風習も各地にあつた。武藏の三峰山のごときは今でもこの時の儀式があつて、御犬は夜深く吠えて祭の催促を信號すると傳へられる。又狼の首領が老女の姿を借りて人間に往來したといふ話は多い。さすれば、山姥の子育てといふことも、これから類推した物語りの類かも知れぬが、それにしては深山の雪に殘した足跡が人の足跡であることが、改めて解釋せねばならなくなる。
三
第三には、山に入つて行く女のことが考へられる。山隱れする女は多くの場合狂女で、いはゞ常から山の力の威壓に堪へ兼ねてゐた山村の女であつたが、彼等はしばしば山の神に娶《めと》られると信じて喜び進んで山に入つてゐる。或女は產後の精神異狀から山に入つたなどといふ話もある。
日本固有の宗敎には神の御血筋といふ思想がある。後には轉じて高祖を神と拜む慣習に併合したが、地方の端々にはなほ年久しく、明らかに人間以上の神靈を祖先とした家があつた。その靈がもし男神ならば、人間の少女を配すると神の子を生むと傳へられる。別に又上總の玉前神《たまさきのかみ》のやうに、姬神にして自然に子を設けたまふ例もあつた。これがやがては我國神道の成長力となつたもので、鹿島も八幡も諏訪も熊野も、一つとして御子神《みこがみ》若宮の信仰にもとづかずに、その敎へを傳播した例はなかつた。故にもし山中の口碑が純然たる精神上の破產であつたとしても、やはり遠江の奧山に傳へた如く、今の神は前の神の御子と考へて祭るのほかはなかつたのである。
[やぶちゃん注:「上總の玉前神」千葉県長生郡一宮町一宮にある玉前(たまさき)神社。しかし、ここで柳田の言っていることは、今一つ、ピンとこない。同神社公式サイトの「祭神」を見ても、そんな単為生殖のことは記されていない。因みに、ここは芥川龍之介の青春の頃の忘れ難い避暑地でもある。]
話は長くなつたが、私の說は假定であつて、まだ結論でも何でもない。ただ山嶽を、いはゆるアルプス黨の蠻勇によつて始めて占領した空閑の地の如く考へないやうに、最後にも一つだけ何か理由のあるらしい奇異なる物語を附添へよう。
今からもう十七、八年前のこと、私は九州の南部市房山《いちふさやま》の麓の村に入つて、一卷の狩の傳書を見たことがある。文字が橫なまつて精密な意味は取れなかつたが、その一節に次のやうな話が、唱へ言として殘つてゐた。
[やぶちゃん注:以上の事績は柳田國男の「後狩詞記(のちのかりのことばのき) 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」を指す。柳田国男が明治四一(一九〇八)年に宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)で村長中瀬淳から狩猟の故実を聴き書きしたもので、私家版として翌年五月に刊行され、後の昭和二六(一九五一)年の彼の喜寿記念に覆刻された。日本の民俗学に於ける最初の採集記録とされる。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で全六分割で全電子化注を終えている。なお、「市房山」は同村の南端。但し、以下の話は「後狩詞記」には記されていない。]
昔大滿《おほま》、小滿《こま》といふ二人の獵師が狩の支度をして山に入ると、一人の女が來て、私は今子を產んだ。產腹《うぶばら》を溫めたいから何か食物をくれといつた。それを一人は狩の前の血の忌《いみ》を畏れてすげなく拒絕したが、他の一人は快く承諾したといふのである。話はこれで終つて何の意味か分らなかつたが、最近に佐々木喜善君の東奧異聞が出版せられて、始めて一千里の北の端まで、同じ神話の流布してゐることを知つたのである。岩手縣の獵師の口傳にあつては、二人の名は萬次、萬三郞であつた。產をした女は山の神であつて、血の穢れをも厭ふことなく、その望みをかなへた獵人は永く豐富なる獲物をもつて報いられたことになつてゐる。これは常陸風土記の富士と筑波の話、もしくは備後の巨旦(こたん)蘇民(そみん)の二兄弟が、武塔天神《ぶたうてんじん》を待遇した話から、近世になつては瘤取りや花咲爺まで、賢愚善惡の二つの型が、神の選擇によつて盛衰した昔話のたゞ一つの變形といふに過ぎないが、それにしても山の神が女性であり、山にあつて子を產むといふことがその信仰の重要な一部をなしてゐたことは、假に九州と東北と二つの一致がなくても、なほ小さからぬ暗示である。問題はたゞ山を愛する人たちが、かうした山の神祕を顧みるか否かにある。
[やぶちゃん注:「佐々木喜善君の東奧異聞」新字・新仮名であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「世界教養全集」第二十一巻(昭和三九(一九六一)年刊)のここ(右ページ下段)で当該部(「四 稀に再び山より還る者あること」の内)が読める。
「常陸風土記の富士と筑波の話」「常陸国風土記」にみえる両山の神に纏わる伝説。「風土記」から引くと長くなるので、小学館「日本大百科全書」の「富士筑波伝説」を引いておく。『神祖(みおや)の神が諸神のもとを巡る途中で、富士の山に着いた。宿を求めると、富士の神は新嘗(にいなめ)の物忌みを理由に断った。これを恨んで神祖は、この山は年中雪霜が降っていて寒く、それに登る人もなく供物もないとののしった。次に筑波の山に行くと、筑波の神は新嘗の夜にもかかわらず歓待してくれた。神祖の神は喜んで、歌を詠んで祝福した。それでいまでも、富士の山はいつも雪が降っていて人が登ることもなく、反対に筑波の山は人々が集まり』、『歌舞飲食が絶えないのだという。特定の日に神が来訪し、その接待いかんによって懲罰や報恩を授けるという話は古くからあるし、また世界的にもある。わが国では弘法大師』『が各地を行脚』『しながら、弘法清水』『や弘法芋』『といった伝説を残していった。古くは』「備後国風土記」『逸文にある蘇民将来(そみんしょうらい)の話も、神の来訪譚』『である。弟の巨旦(こたん)将来が宿を拒んだのに対し、兄の貧しい蘇民将来が神を供応し』、『泊めた。そのために、蘇民一家は疫病を免れて、神の庇護』『を受けることができたのである。貴い神人を歓待するということは、さかのぼれば、来訪してくる神々を祀』『ることなのであった。こうした古代信仰が、これらの説話の根底にはある。ところで富士筑波の説の場合、その要素に加えて嬥歌(かがい)の由来譚になっている点も注目される』とある。「備後の巨旦(こたん)蘇民(そみん)の二兄弟が、武塔天神を待遇した話」というのは、以上でよかろう。]
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