「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 石田三成
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]
石 田 三 成 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)
石田三成が秀吉に見出されたは、或寺の小姓だつた時、秀吉其寺に入り、茶を乞ふと、三成、持出《もちいで》た。秀吉、取《とり》て飮むに、その茶、いと、ぬるし。しかし、喉かはける故、ぬるきが、快し。重ねて望むと、前より少し熱くして來た。未だ渴《かはき》止まぬ故、「今一つ。」と望むと、至つて熱きを持ち來たったので、その才智、唯人《ただびと》に非ずと感じて、召仕はれた、と(「長秋夜話」下)。似た話が「毘奈耶雜事」七に見ゆ。勝鬘女《しようまんぢよ》、下賤に生れ、釋子大名の園を守りし時、勝光王、狩の次でに、單身、其園に入り、洗足せんとて、水を乞ふ。女、日に照り暖ためられた水を蓮葉に盛《もり》て奉る。次に面を洗ふ水を求むるに、『暖水で目を洗ふべからず。』と惟《おも》ひ、冷暖相半《あひなかば》した水を奉る。次に、飮み水を求むると、冷水を奉つた。王、其智を感じ、直に大名に請《こひ》て妃とした、と出てゐる。
〔(增)(大正十五年八月二十七日記)朝鮮の李太祖、龍蜂江を渡る時、康氏の女、出《いで》て水を汲むを見、水を乞ふと、瓢《ひさご》に水を汲んで、柳の葉を浮して捧げた。その無禮を咎めると、「暑い日、急いで飮むは、よろしからず。緩々《ゆるゆる》と飮む樣に計らつた。」と言つた。太祖、感じて、銀作りの小刀を遣りおき、後ち、漢陽に都した時、召して妃と爲《なし》た(三輪環氏「傳說の朝鮮」、五一頁)。「毘奈耶雜事」一六に、やゝ似た話あり。五百群賊が、夜る、或る村を劫《おびや》かした時、其大將が一梵志の家に入《いり》て、少女に水を求めると、「待ちなさい。」と言《いふ》て、火を點《とぼ》して、水を見るから、「何をする。」と尋ねた。少女答ふ、「水の中に、髮や草があっては宜しからず。」と。賊魁《ぞくくわい》、「吾等、此村を荒らしにきた者、毒でも飮まさるべきに、そんなに氣を付けてくれるは、譯が分からぬ。」と。少女いわく、「貴公が賊をしやうと、すまいと、御勝手次第、我は、たゞ作法を外さぬ積り。」と。扨、水、淨きを確かめた上、渡したから、賊魁も、鬼の眼に淚で、「中々、そばへは、よれませぬ。われと、兄妹の義を、結ばれよ。」といふと、「それは、眞平御高免。そんな人を兄に持《もつ》て、早晚、人に、兄が殺されるに相違ない。その時、わが心配は、どうだろう。もし、よく三寶に歸依し、五戒を、もたば、悅んで妹となろう。」と、うまく說《とい》たので、賊魁、忽ち、發心し、一同、盜を止めて歸つたそうな。〕
[やぶちゃん注:「石田三成」「滋賀県」公式サイト内の「三成ゆかりの地めぐり」によれば、『三成が生まれ育った町は現在の滋賀県長浜市石田町』とあり、『三献茶の逸話の舞台ではないかとされる観音寺もこの石田町のすぐ近く』とする。『石田三成と羽柴(後の豊臣)秀吉の出会いの地とされるのが』、『石田町からほど近い米原市朝日の観音寺で』、『少年時代を寺の小姓として過ごしていた三成が、鷹狩りの帰りに立ち寄った長浜城主になってまもない秀吉に茶を献じて、「三椀の才」で見出されたという逸話「三献の茶」の舞台とされて』おり、『境内には三成がお茶の水を汲んだとされる古井戸も残ってい』るとある。観音寺(石田町の東直近の米原市朝日)はここである。
「長秋夜話」「錢孔に油を通す」にも出たが、不詳。近似する書名のものを調べてみたが、それらしい部分を発見出来なかった。国立国会図書館デジタルコレクションの「帝国図書館和漢図書分類目録 第八門 増訂」のここに、同書名で『寫本』とあるのが、それか。
「毘奈耶雜事」は二箇所ともに「大蔵経データベース」で原文を確認出来た。
「勝光王」紀元前六世紀頃又は紀元前五世紀頃の古代インドに栄えたコーサラ国の国王プラセーナジットの漢訳名。なお、彼の娘に勝鬘夫人(シュリーマーラー:「素晴らしい花輪」の意)がいるが、「下賤」とするので、或いは、何らかの伝承上の異説があるのであろう。
「朝鮮の李太祖」高麗の元武将の李成桂(一三三五年~一四〇八年)。李氏朝鮮の始祖で、初代国王。在位は一三九二年から一三九八年。一三九二年に高麗王・恭譲王を廃し、自ら「権知高麗国事」(高麗王代理。実質的な「高麗王」の意味)となり、即位を自称した。
「龍蜂江」以下の「傳說の朝鮮」の当該話に『黃海道谷山郡(こくさんぐん)邑内(いふない)から東北(ひがしきた)五町の所に龍峰があり、龍峰江が其の前を流れて居る』とある。現在の北朝鮮内で、グーグル・マップ・データでは漢字表記がないので、特定は出来ないが、この中央附近が旧「黃海道」である。
「漢陽」現在のソウル特別市。
『三輪環氏「傳說の朝鮮」』三輪環(みわたまき 生没年未詳)は当時、「朝鮮平壤高等學校普通學校敎諭」であった人物。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで同書(大正八(一九一九)年博文館刊)が視認でき、当該話は「第一編 山川」の「龍峰江」で、ここから読める。後に別説も載っている。]
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