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2023/02/26

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山男の家庭

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正三(一九一四)年八月発行の『鄕土硏究』初出である。

 冒頭に出る「南方殿」は無論、南方熊楠である。所謂、二人の「山人論争」は、この後の大正五年十二月二十三日、南方は柳田の「山人」説を批判する長い手紙を出し、之を以って二人は袂を分かってしまうことになる「いわくつき」の論争である。これについては、『岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」』の金文京氏の「柳田、南方山人論争と中国の山人」(『図書』二〇二二年十二月号より)に詳しいので、参照されたい。]

 

     山 男 の 家 庭

 

 山男が市に往來し古着を買ひ米を買ふといふことは、奇怪なやうだが今では有りふれた事實である。何故に古着又は米を買ふかといふ問には、拙者は只その方が暖かいから旨《うま》いからと答へるの他は無い。然らば如何にして古着の暖かく米の飯の旨きを知るに至つたかと問ふ人が有つたとする。これに對しては亦やゝ說くべき肝要なる箇條が殘つて居たのである。蓋しこの點は山人文化史上最も顯著なる一時代を劃するもので、吾々が山人を硏究すべき必要もそれから出て來るのだ。山人はその本能の要求を滿さんがために、彼等が敵視する日向人の中からその配偶者を得ねばならなんだのである。勿論彼等の中にも色の白い女子はあつた。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げで、行頭の空けはない。前後を一行空けた。]

 

熊野山中にて炭を燒く者の所へ、七尺ばかりなる大山伏の來ることあり。魚鳥の肉を火に投ずれば腥きを嫌ひて去る。又白き姿の女の猪の群を追掛けて來ることありといふ。(秉穗錄《へいすいろく》)

熊野の山中に長八尺ばかりなる女の屍あり。髮は長くして足に至る。口は耳のあたり迄裂け、目も普通よりは大なりしとぞ。(同上)

日向國飫肥(をび)の山中にて、獵人の掛置きし罠へ怪しき者罹りて死に居たり。惣身女の形にして色白く、黑髮長く赤裸なり。人に似て人に非ず。これは山の神ともいひ又は山女ともいふものにて、深山に有るものなりと。考ふるに人間の始は全くこの山女より多く生み出せしなるべきか。さあらずはいかで赤子の内生育するの理あるべき。人自然にわき出でたりとは虛說に近し。後世にも阪田公時の如きその證とすべきもの也。(野翁物語卷二)

[やぶちゃん注:「秉穗錄」尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん元文二(一七三七)年~寛政一一(一七九九)年:松平君山(くんざん:尾張藩書物奉行)に学び、天明三(一七八三)年には尾張藩校明倫堂教授、寛政四(一七九二)年に督学(学頭)となり、歴史編纂所継述館総裁も務めた)の随筆。寛政一一(一七九九)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで昭和三(一九二八)年刊の「日本随筆大成卷十」で前者が(左ページ七行目)、後者が次の右ページの後ろから四行目から視認出来る。

「日向國飫肥」旧飫肥藩の支配地。日向国宮崎郡と那珂郡(現在の宮崎県宮崎市中南部及び宮崎県日南市全域。堺部分は山間地帯である)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「野翁物語」大田南畝の随筆。享和元(一八〇一)年序。]

 

 後半の原人說は引用の必要も無いか知らぬが、阪田公時を後世の類例に引き、我々の難物とする山姥問題を無造作に解決した勇氣が賴もしいから出して置く。これと同じ話かと思はれるのは、

[やぶちゃん注:同前で同じ処理をした。]

 

日向國飫肥領の山中にて、近き年菟道弓(うぢゆみ)にて怪しきものを取りたり。惣身女の形にて色ことの外白く、黑き髮長くして赤裸なり。人に似て人に非ず。獵人も之を見て大に驚き怪しみ、人に尋ねけるに山の神なりと云ふにぞ、後の祟も怖しく、取棄てもせず其まゝにして捨て置きぬ。見る人も無くて腐りしが、後の祟も無かりと也。又人の言ひけるは、是は山女と云ふ物にて深山にはまゝ有るものと云へり云々。(西遊記卷三)

薩摩の人上原伯羽の談に、彼《かの》國の深山中には時々婦人の姿なる物を見る。髮を振亂し泣きながら走り行くと云へり。思ふに此も山氣の產する所なるべし。(今齊諧《きんせいかい》卷四)

寶曆五年[やぶちゃん注:一七七五年。]の秋、(土佐)高岡郡影野村往還の路より十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ほど山に入りたる所の松の枝に、髮の長さ三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]餘ある婦人腰を掛けて居たり。村の者集まり見れば其まゝ飛下り行方知れず消失せり。下は茅原にて候所、分け行きたる所も見えず。草の葉一つも損ぜず候由。田中勢左衞門書中にて丙子(寶曆六年)の正月申し來る。影野は相間氏領知なり。彼家の家來和田彥左衞門に此事を尋ね候へば、夫は昔より折節村の者見申す由。五六尺ほどの茅原を行くとて、腰より上まだ六尺餘も見え候由。多くは後姿又は橫顏を見たるばかりにて、正向の面を見たる者無しと承り候と云へり。(南路志續篇稿草卷二十三、怪談抄)

信州蟲倉山に山女住すると云ふ洞(ほら)三あり。其中に新なるあり。古洞は谷を隔てゝ古木繁茂せる中に在りて、山燕の巢甚だ多し。新洞と名くるは絕壁の中間に在るを仰ぎ見るに數十丈あり。山女は見ることなけれど、洞口草苔生ぜずして出入する者あるが如し。雪中に大人(おほひと)の足跡ありと云ふ。(越後野志卷十八)

[やぶちゃん注:「菟道弓」これは何らかの無人の罠で、獣道に仕掛け、それに動物が触れると、弓が射出されるタイプのものと思われる。岡本綺堂の「飛驒の怪談」(大正二(一九一三)年鈴木書店刊)に同書から引いた「日向國の山中で、獵人(かりうど)が獸を捕る爲に張つて置いた菟道弓(うぢうみ)といふものに、人か獸か判らぬやうな怪物が懸つた」とある。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ最後から)。

「今齊諧」江戸後期の漢学者で幕府儒官古賀侗庵(天明八(一七八八)年~弘化四(一八四七)年)の漢文体怪奇談集。全七巻。全篇を翻刻した論文を入手したが、検索不能で、見出せなかった。そのうち、ゆるりと読んで発見したら、追記する。

「高岡郡影野村」現在の高知県高岡郡四万十町(ちょう)影野(グーグル・マップ・データ)。

「南路志」は文化一二(一八一五)年に高知城下の武藤到和・平道父子が中心となって編纂された高知地誌。全百二十巻に及ぶ大叢書である。「續篇稿草」とあるので、続編の草稿らしい。

「信州蟲倉山」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「越後野志」水原(現在の阿賀野市)の書籍商小田島允武(のぶたけ)が文化一二(一八一五)年に記した民俗地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本ここで視認出来る(左ページ後ろから三行目)。]

 

 最後の例は姿を見たといふので無いから、或は例で無いかも知れぬが、とにかく山人にも女性が有ることだけは、歸納法を用ゐても證出することが出來たのである。これ等の山女は赤裸とある一事で、山に生れた者であることがわかる。至つての深山に居る幸福なる山男は、これ等の山女を呼ぶことが出來て、或は永く血統の純を保ち得たかも知れぬが、元々孤立獨走の生活に陷り易く、飢餓に迫られ獵人に追はれてあちこちと經過の中には、夜などは堪へ難く寂寞に感ずる場合が多かつたであらう。その結果や果して如何。日本には人を運び去るやうな猛獸は居らぬのに、神隱しと稱して兒女の失踪する者が甚だしく多い。加賀の金澤の按摩曰く、この土地も大きに開けました。十年ほど前迄は冬の夜更に町を步いて、迷子の迷子の誰それと呼ぶ聲と、これに伴なふ淋しい鉦の聲を聞かぬ晚はありませなんだ云々。冬季に限つてこの事の多いのは何れの地方にも共通の事實であるかと思ふ。一日の中では黃昏を逢魔が時などともいひ、一人出て居る者に災がある。この如き季節や時刻の選擇は、超人間力の天魔波旬等が必要とすべきもので無い。さて例も段々あるが、さのみは諸君の要求せらるゝ所ではあるまい。拙者は唯近世迷信の進化を說明する料に、或一點の特色を指示して見たいと思ふ。それは神隱しに遭つた者が、他日必ず一度は親族知音に姿を見せるといふことである。

[やぶちゃん注:「天魔波旬」人の生命や善根を絶つ悪魔。他化自在天(第六天)の魔王のこと。「波旬」は、サンスクリット語の「パーピーヤス」の漢音写で、「パーパ」(「悪意」の意)ある者の意。仏典では、仏や仏弟子を悩ます悪魔・魔王として登場し、しばしば魔波旬(マーラ・パーピマント)と呼ばれる。「マーラ」(「魔」)は「殺す者」の意で、個人の心理的な意味合いでは、「悟り」(絶対の安定)に対する「煩悩」(不安定な状態)の、集団心理的には新勢力たる「仏教」に対する、旧勢力たる「バラモン教」の象徴と考えられている。

 以下、同前。]

 

盛岡の邊にては黃昏に婦人小兒の戶外に在るを忌むこと殊に甚だし。十年ばかり前のこと也。此町に住みて醬油の行商を爲す者の妻、夕方戶口に立ちて唯一人外を見て居りしを、近所の人々氣遣はしきことに思ひしが、それなりにふと行方を失ひたり。亭主は狂氣の如く諸方を求めあるきたれども、絕えて消息も無くして其年を過したり。翌年の夏綱張の溫泉に湯治に行き、日暮に宿の外を見るに、僅か一二町[やぶちゃん注:百二~二百十八メートル。]さきの山腹の熊笹の中に、かの失せたる妻立ち居たり。急ぎ走り出で追掛けたれども、次第次第に遠ざかり嶺の方へ登りて、終に又見えずなりたりと云ふ。(柳田聞書)

陸中岩手郡雫石《しづくいし》村の農家にて、娘を嫁に遣るとて飾り馬に乘せ、松明の火を附けて居る間に其娘見えずなりたり。百方に覓(もと)むれども其效無し、二三年の後此村の者近村に行きて酒屋に立寄り居酒を飮みてありしに、初夜の頃[やぶちゃん注:午後八時頃。]酒買ひに來たる見馴れぬ女あり。よく見れば我村のかの娘也。あまり奇怪なれば傍人と眼を見合はすばかりにて語も掛けず、女出で行きたる後直ちに潛戶(くゞりど)をあけ其跡を附けんとしたれども、早既に遠き影も見えず。足音も聞えず。怪物庇の上に居り女を引上げて還りしなるべしと云ふ。(柳田聞書)

陸中上閉伊郡鱒澤《ますざは》村にて農家の娘物に取隱され永く求むれども見えず。今は死したる者とあきらめてありしに、或日ふと田の掛稻の陰に、此女の來て立てるを見たる者あり。其時は既によほど氣が荒くなりをり、竝の少女のやうでは無かりきと云へり。それより又忽ち去り終に歸り來らずと云ふ。(水野葉舟君談)

同郡松崎村の寒戶《さむと》と云ふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脫ぎ置きたるまゝ行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に集まりてありし處へ、極めて老いさらぼひて其女歸り來れり。如何にして歸つて來たかと問へば、人々に逢ひたかりし故歸りしなり、さらば又行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。其日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野鄕の人は、今でも風の騷がしき日には、けふはサムトの婆が歸つて來さうな日なりと云ふ。(遠野物語)

伊豆宗光寺《そうくわうじ》村(田方郡田中村大字)にて言傳へたるは、此村の百姓惣兵衞が娘にはつとて十七の女、ゆくりなく家を出でて歸らず。今(寬政四年[やぶちゃん注:一七九二年。])より八十餘年前の事なり。はつの母亡せて三十三囘に當る年の其月日に、此女をのが家の前に佇みけるを、あたりの者見付けて聲を掛けたるに、答もせで馳せ出し、又行方知れずなれり。其後も此國天城山に薪樵《たきぎこ》り宮木曳《みやきひ》きなどに入る者、稀にはつに行逢《ゆきあ》ふことあり。いつも十七八の顏形にて、身には木葉《このは》など綴り合せたるあらぬ物を纏ひてあり。詞を掛《かく》れば答《こたへ》もせで遁げ行くこと今に然《しか》りなりと云ふ。(槃遊餘錄《ばんいうよろく》第三編、伊豆紀行)

[やぶちゃん注:「陸中上閉伊郡鱒澤村」現在の岩手県遠野市宮守町下鱒沢(グーグル・マップ・データ)。

「水野葉舟」(明治一六(一八八三)年~昭和二二(一九四七)年)は歌人・詩人・小説家。本名は盈太郎(みちたろう)。東京出身。早大卒。自然主義文学で独自の地位を占めた。大正一三(一九二四)年に高村光太郎の影響を受け、千葉県印旛郡で半農生活に入った。彼は若くから怪談蒐集に凝り、明治三六(一九〇五)年には早大在学中の佐々木喜善と知り合い、彼が語る遠野地方の物語を「怪異譚」として捉えて熱中、明治四一(一九〇七)年には、文学者サロン『龍土会』で柳田國男と知り合い、怪談への嗜好により拍車が掛かって行った。翌年三月には柳田の訪問に五ヶ月先立って遠野の佐々木宅を訪問、現地での体験・見聞を小説化もしている。

「同郡松崎村の寒戶《さむと》と云ふ所の民家にて、……」私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆』の「八」を参照。

「伊豆宗光寺村」現在の静岡県伊豆の国市宗光寺。]

 

 歸化した里の女までがこのやうに長命することの信ぜられぬのは、年老いて迄も日本人の情合を有して居るのでも明らかであるが、山に入つてやゝ永く生存し居ることは、物馴れた保護者のあつたことを想像せしめる。同じ遠野物語の中には、山女が故里の人に逢つて夫とする者の酷薄にして疑深いことを歎いた一條が載せてあつた。それから推せば取られた女は誰も彼も末は食はれてでもしまつたかと思はれるが、元來が女といふ者はよくそんな事をいふもので卑近な譬《たとへ》を引けば夫婦喧嘩を仲裁しに往つて恥を搔いたなどといふものも同じ消息であらうと思ふ。酒顚童子[やぶちゃん注:酒呑童子に同じ。]のハレムに住まば知らず、泣きながらも遁げて出なかつたのには、やはり恩愛の絆があつたものと見ねばならぬ。因つて思ふに、羅馬人の最初の母たちも、亦この如くにして敵人の家庭を和げたのである。假令《たとひ》夫は心强く怖しい人であつても、その子に至つては我乳房に縋《すが》つた者である。時には母の獨言《ひとりごと》にも同情し、或は昔戀しの里の歌に耳を傾けたものかも知れぬ。語(ことば)などは母の敎へるものである。山男が天孫人種の談話を理解したとて必ずしも不思議では無い。拙者などは人煙稀少なる山奧の地では、山男が知らん顏をして土着し草屋を葺き田を作り、今日の大字何々字何々になつたのもあらうと思つて居る。農業などは學び難い手練祕密のある產業で無いから、やゝ氣永に母が勸誘したら相の子の山男などは終にこれを企てたことであらう。況やキモノが暖かくしなやかで、米が甘く柔かだといふ位の簡單な眞理は、捨てゝ置いても覺り得たであらうと思ふ。次には山女のことである。女も亦人間であるとすれば、獨居して偶《ぐう》を懷ふは當然の推理であるが、これが又多くの例證を具へて居る。

[やぶちゃん注:「遠野物語の中には、山女が故里の人に逢つて夫とする者の酷薄にして疑深いことを歎いた一條が載せてあつた」は『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆』の「七」の話であろう。

「偶」対する人物。カップル。

 以下、同前。]

 

秋田の早口澤《はやくちざは》と言ふは二十七里の澤間也。去る丁巳(寬政九年[やぶちゃん注:一七九七年。以下の七年は誤りである。])の七年初、此澤六里程奧に長さ二里餘の堤を一夜の中に造り出す。兩方より山崩れ溪流を塞ぎ留めしを見れば四丈五丈に餘る大石にて築き成せり。如何なる者の仕業にや。此山口にはニシコリと云ふ木あれば山𤢖《やまわろ》鬼童《おにわろ》のすだくとも云ふ。此山中に折として童《わらは》の鬼の如くなるを見ることあり。先《さき》つ年或人の見る一人の大童は、十人しても抱へ難き大石を背負ひ、うつ伏して澗水(たにみづ)を飮み居たり。之を鬼童と云ふ。又或人の云へるは、仙人山中無聊《ぶりやう》のときは必ず彼《か》のニシコリを燒きて、色々の怪物を集め見ることあり。南部境の山奧にて燒きし時は怪しき女を出せり。薜茘(へいり)に身を纏ひ荊棘(けいきよく)に亂せる尺の髮は白き針金の如くなるが、年の程まだ四十ならず見えしは、兼て聞きたる毛女郞《けぢよらう》雪女なども是等を謂ふかと思はれたり。ほゝ笑みて仙人に馴れ昵《むつ》ぶ有樣に、仙人も無聊の折からとて之を犯したりと云へり。(黑甜瑣語《こくてんさご》第三編卷四)

播州表より和州芳野へ大勢挊(かせ)ぎに行通ふこと年々なり。予が近在よりも行《ゆく》者多し。或時歸りての物語に、當年は例の働き場所に、さしたる仕事もなく、上市《かみいち》より五里ばかり川上へ入《いり》込み、仲間十人小屋を打ち罷り在り候が、或夜八つ頃[やぶちゃん注:午後十時前後。]にてもあるべし。眼の醒めたるもの二三人ありしが、俄かに身毛立つばかり恐しくなりし所に、小屋の入口に下げ置きたる莚《むしろ》を揚げて來《きた》る者あり。見れば女なり。身の丈を過ぐる程の髮を亂し、眼の光强く消え入るばかりなりしとかや。見たるものは何れも五七日づゝ氣色《きしよく》を煩ひ候ひき。私は仕合よく正體も無く寢入りて別條なく候ひし。後に處の者に尋ね候へば、稀にさやうのことあり、山姥と申す者にてあるべしと云ふ。又木の子と云ふ者、三つ四つ位の子供の如くにして身には木葉を着たり。姿は影の如く有りとも無しとも定まらず。杣人或は山働きの者共、油斷をすると中食《ちゆうしよく》[やぶちゃん注:昼飯。]を木の子に取られ難義仕事に付、木の子見ゆるや否や棒を以て追散《おひちら》し申候。是は銘々共も度々見て珍しからず候へ共、此邊にては一向聞かぬ事ゆゑ御話申すと語れり。(扶桑怪談實記卷二)

播州揖東《いつとう》郡新宮《しんぐう》村に七兵衞と云ふ土民あり。正德年中[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。]のこと也。山へ薪樵りに行きて歸らず。親兄弟歎き悲しみて二年を經たりしに、或夜同村の後の山へ來りて、七兵衞が戾りたるぞ戾りたるぞと大聲に呼ばるを、元より聞知りたる聲なれば悅びて山へ走り行けば、近所の者聞付けて共々麓に走り行く迄は峰に聲しけるが、尋ね上りて見れば居らず。慥かに此のあたりなりしとて、追々に集まる人其近邊を殘る方無く探し求めたれど、終に見えざればせん方なく皆々歸りたり。さては天狗につまゝれ奴となりたるならんと沙汰しあへり。其後村の者久しく東武に在りて歸國する折柄、興津《おきつ》にて出合ひ物言ひかはしたる由なれば、東國邊を徘徊してあるにやと、東國へ下る者には必ず賴み置きけれども、其後は逢ひたる人も無く、風の音信(たより)もなかりしとかや。右は彼が一度村の山へ戾りし時、共に尋ねに行きし人、年經て後語りける趣を書傳ふるもの也。(西播怪談實記卷一)

[やぶちゃん注:「秋田の早口澤」現在の米代川右岸にある秋田県大館市早口堤沢(はやぐちつつみのさわ)附近か(グーグル・マップ・データ)。

「二十七里」これはまず一里を六町(六百五十四・五メートル)坂東里である。でなければ、この数値では米代川の長さに匹敵してしまうからである。十七・六七二キロメートル。ちょうど早口堤沢を中心として西の鷹ノ巣と東の大館市の間がそれと一致する。

「山𤢖」私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖」で詳しく考証してあるので参照されたい。

「鬼童」同前の「山𤢖」に出る。

「ニシコリ」「錦織」。錦の織物。

「薜茘(へいり)」種としてはバラ目クワ科イチジク連イチジク属オオイタビ Ficus pumil を指す。イタビカズラの異名を持つから、ここ広義の蔓草の鬘(かづら)の意である。

「荊棘(けいきよく)」広義の茨(いばら)のこと。

「毛女郞」「毛倡妓」とも書く妖怪。長い髪がぼうぼうとした倡妓(遊女)の姿をしており、遊廓に現れるとされる。当該ウィキを参照されたい。

「黑甜瑣語第三編卷四」出羽国久保田藩の藩士で国学者であった人見蕉雨(宝暦一一(一七六一)年~文化元(一八〇四)年)の記録・伝聞を記した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。「大石」は「大甃」でルビは潰れて判読不能だが、昭和四三(一九六八)年刊の「人見蕉雨集 第二冊」(『秋田さきがけ叢書』二)で当該部を確認したところ、「おほみきり」とあった。「甃」は「しきがわら」(敷瓦)或いは「いしだたみ」(石畳)の意であるが、これは「砌(みぎり)」が正しく、これは本来は「軒下や階下の石畳」を意味する。

「挊」は漢語では「弄」の俗字であるが、国字の用法で、「働く・家業に励む」の意がある。

「上市」奈良県吉野郡吉野町上市(グーグル・マップ・データ)。

「扶桑怪談實記」書誌不詳。厚誉春鶯「扶桑怪談辨述鈔」寛保二(一七四二)年刊の全七巻二冊があるが、それか?

「播州揖東郡新宮村」現在の兵庫県たつの市新宮町新宮附近(グーグル・マップ・データ)。

「興津」静岡県静岡市清水区興津地区(グーグル・マップ・データ)。

「西播怪談實記卷一」材木商春名忠成が西播磨地方で蒐集した怪奇譚集。五十一話から成る。佐用村(現在の兵庫県佐用郡佐用町(さようまち):グーグル・マップ・データ)の材木商春名忠成(屋号は「那波屋」)が西播磨地方で蒐集した怪奇譚集。五十一話から成る。話柄の時間帯は寛永から享保(一六二四年~一七三六年)年間の年号が見えている。宝暦四(一七五四)年刊。「卷一」とあるが、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」を見たところ、「卷二」の誤りである。「国文学研究資料館」のこちらで写本の当該部が視認出来る。標題は「新宮村農夫天狗に抓(つかま)れし事」である。本書は、たまたまであるが、本日より、「新・怪奇談集」で電子化注を開始する。]

 

 男の神隱しに遭うたのは未成年者が多い。然らざれば些《すこ》し所謂拔けた男である。この輩が山人の社會文明に幾何《いくばく》の影響を與へたかは問題である。山姥とは言へ女などに勾(かど)はかされるやうな柔弱さでは、果して永く髮結の亭主の如き地位を保持し得たとは思はれぬ。但し右の七兵衞の如きは屈强な壯男であれば、或は話の如く天狗につまゝれて奴となつたのかも知れぬ。然りとすれば誠に笑止な一生涯であつた。

[やぶちゃん注:以下、同前。]

 

世の物語に天狗の情郞(かげま)と云ふことありて、爰かしこにて勾引(かどはか)さるゝあり。或は妙義山に將《ゐ》て行かれて奴《やつこ》となり、或は讃岐の杉本坊[やぶちゃん注:天狗の名。]の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元祿の頃仙北稻澤《いなざは》村の盲人が傳へし不思議物語にも多く見え、下賤の者には別して勾引さるゝ話多し。近くは石井某が下男は四五度もさそはれけり。始は出奔せしと思ひしに、其者の諸器褞袍《をんぱう》[やぶちゃん注:「どてら」と読んでもよい。綿入れのこと。]も殘りあれば、それとも言はれずと沙汰せしが、一月ばかり過ぎて立歸れり。津輕を殘らず一見して委しきこと言ふばかりなし。其後一年程過ぎて、此男の部屋何か騷がしく、宥《ゆる》して下されと叫ぶ。人々出《いで》て見しに早くも影なし。此度《このたび》も半月ほど過ぎて越後より歸りしが、山の上にてかの國の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辭を左右に托して言はず。若し委曲を告ぐれば身の上にも係るべしとの戒を聞きしと也。四五年を經て或人に從ひ江戶へ登りしに、又道中にて行方なくなり。此度は半年ほどして大阪より下れりと云ふ。(黑甜瑣語第一編卷三)

[やぶちゃん注:以上は前掲の国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。

「仙北稻澤村」現在の秋田県大仙市協和稲沢(きょうわいなざわ:グーグル・マップ・データ)。]

 

一度朋友の中に復歸し得た以上は、懲りて又行くまいと思ふに、右の如く呼出されるのを見ると、何か抵抗し難い力あるやうに人の思ふのも無理は無い。又神隱しが中途祈禱等の效驗に由り發見せられた話も多い。その者の精神狀態から推して醫者はこれを一種の病氣と見て居る。遺傳に基づく心力の故障が病氣の内とすれば、その斷定も決して誤では無い。津輕南境の田代嶽の麓村で、農家の娘氣が變になり、おれは山の神へ嫁に行くのだと常に言ひ、時々飛出す樣子のあるのを、よくよく用心して居る處、ある日家人の眼を盜んで家を出で、心づいてそれと追掛けたるに、走ること飛鳥《ひてう》の如く終に田代嶽に入つて見えなくなつた事がある。これは狩野享吉先生の話であるが、あの邊一帶の山彙《さんゐ》に於ては、山人は久しく相應な優勢を保つて居たらしく見える。

[やぶちゃん注:「津輕南境の田代嶽」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狩野享吉」(かのうこうきち 慶応元(一八六五)年~昭和一七(一九四二)年)は詩想家・教育家。出羽大館(秋田県)出身。帝国大学卒。明治三一(一八九八)年に一高校長に就任、明治三十九年には京都帝大文科大学初代学長に就任した。明治四十一年の辞職後は書画の鑑定・売買を業とした。自然主義・無神論の立場から独自の倫理学を唱え、また。安藤昌益・志筑(しづき)忠雄らの思想家を紹介した。]

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