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2023/02/22

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ザシキワラシ(一)・(二)

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 本二篇はカップリングした。但し、この二篇は別々に発表されたもので、「(一)」は文末に柳田國男が記している通り、大正九(一九二〇)年二月に発行された佐々木喜善著「奥州のザシキワラシの話」(玄文社『爐邊叢書』第三篇)の跋文として書かれたもので(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該部。この本、いつか電子化したい。佐々木喜善は、終生、柳田國男を師としたが、正直、「遠野物語」は彼なしには存立しなかった名作であり、それを柳田は自身の著作として改変し、ブレイクさせたところに非常な怒りを私は持っているからである)、そこでは「此序(このついで)に言つて置きたい事」という標題であり、以下の再録では表記に異同がある底本巻末の「内容細目」に大正八年十月とあるのは、その文末の執筆クレジットに基づくものである。「(二)」は「(一)」よりも五年前の大正三(一九一四)年八月発行の『鄕土硏究』に初出したものである。前者はリンク先の初出(総ルビ)を参考にした

 なお、「ザシキワラシ」は当該ウィキもあるが、それが全国的に知られるようになった濫觴『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽靈』をまずは読まれるべきであろう。]

 

     ザシキワラシ (一)

 

 紀州高野山の舊記の中に、座敷稚子《ざしきちご》の事が見えぬといふのは、多分二人の紀州人のいはれた通りであらう。而も私が書物には無くても、實際有つた事かも知れぬといつたのは、あの大阪の雜誌に出たといふ話が、これを信じて報告した人の話らしかつたためばかりでは無い。私は未だ「新社會」を讀んでは居ないのである。

[やぶちゃん注:「紀州高野山の舊記の中に、座敷稚子の事が見えぬといふのは、多分二人の紀州人のいはれた通りであらう」これは跋を寄せた佐々木の「奥州のザシキワラシの話」の「三 手紙で答へられたもの」の内容を受けたものである。そこでは、まず、『東京の中山太郞氏の話に、座敷稚子(ざしきちご)と謂ふものが、紀州の高野山にも居(を)ると云ふことで、赤い衣物などを着た垂髪(さげがみ)の童子で、折ふし大寺(おほでら)の座敷の障子を細目に開けて覗くものだと云ふと聞き(後に聞くと、此話は大阪の新社會と云ふ雜誌にあつたと云ふ)』とあって、佐々木が、まず、地元の南方熊楠に確かめたところが、熊楠は『聞いたことが無いとの御返書』があり、さらに『同じ紀州の有田郡の、森口淸(もりぐちせい)氏からは、高野に関する図書を渉猟したが、見当たらないとしつつ、『十數年來高野山の寺院に居住せし者より』聞いた金剛三昧院の一人の小僧の話を添えてある(この話は非常に興味深い奇譚であるので、是非、原本で読まれたい。ここ。二人とは、上記の二人を指す。]

 東京にも百年ほど昔、一種のクラボッコが住んで居た例がある。家の人に多少は世間へ隱す心持もあつたので、存外に夙《はや》く忘れてしまはれ、又は他の不思議と混合せられたのが多いのであらう。本所二丁目の、相生町《あひおひちやう》と綠町《みどりちやう》との橫町《よこちやう》であつた。梅原宗得《うめはらそうとく》といふ人の家の古い土藏に、妖怪とはいつても、別に何か害をした話の無い妖怪が居た。いろいろの形で現れたといふ。この土藏に入つて働く者、俄に大小便を催すときは、卽ちこの物の出ようとする前兆として、急いで飛出したといふことである。

 夜は鐵(かな)棒を曳く音がした。金剛三昧院の小僧と同じく、これも火防《ひぶせ》の神として祭られ、この家から火災除《よけ》の守札《まもりふだ》を出《だ》し、その靈驗《れいけん》を認められて居た。祭の日はどういふ譯か、四月の十四日であつた。燈明菓食音樂等《とう》を以て厚く祀つたとある。而も唯の神樣では無かつた。或年近火《きんくわ》が有つて、この家も片付が間に合はなかつた時に、見馴れぬ女が一人出て來て、荷物を纏めて庫《くら》へ入れてくれる。髮長く垂れて、顏はどうしても見えなかつた。やがてその庫の中に自分も入つて、うちから戶を閉ぢたといふことである。江戶では遙かこれ以下の奇瑞が有つても、直《すぐ》に守札を受けに來る者があつた。祭るのはこのためであつたかも知れぬ。古土藏は石庫《いしぐら》で、中には何の變つた事も無かつたが、唯隅の棚の上に、五六寸四方の箱が一つあつて、昔から置處《おきどころ》を換へず、又手を着ける人も無かつた。これが不思議の源《みなもと》であらうかといふことであつた。この話は十方庵の遊歷雜記第二編の下《げ》に出て居る。その梅原氏と古土藏とは今どうなつて居るか。或はやつぱり燒けてしまつたかも知らぬ。

[やぶちゃん注:「クラボッコ」「倉ぼっこ」は倉の守り神とされる妖怪の岩手県での名。姿は子供ほどの背丈で、全身が毛むくじゃらか、頭髪が体全体を被うほど長い姿ともされる。人には危害を加えず、逆に助ける。「座敷童子(ざしきわらし)」に類する妖怪であり、「倉ぼっこ」が倉から離れると家運が徐々に傾くとされる。同じく佐々木の「奥州のザシキワラシの話」の「三 手紙で答へられたもの」の「(一三)」に、

   *

(一三)稗貫[やぶちゃん注:ルビは「ひえぬ」となっているが「ひえぬき」が正しい。]郡花卷町(はなまきまち)、里川口邊にも、クラワラシ又はクラアボツコと謂ふものならあると云ふことである。[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ち。]其地の人、島倉吉氏報。同[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年。]二月八日附。

「十方庵の遊歷雜記」私は古く二〇一五年に、「耳嚢 巻之十 怪倉の事」の追加資料として、『釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」』をブログで詳しく電子化注してあるので、そちらを見られたい。

 ザシキワラシの話が、私のこれと一緖に出す田原藤太の話の心得童子《こころえどうじ》と、若干の關係が有るらしいのは、偶然ながら面白いことである。佛敎の方で護法といひ、又は天童《てんどう》とも使者ともいふのは、本來その宗敎の大きな力を以て招き寄せたものだから、人といつてもせいぜい名僧の處へ來る迄であるが、我々の心得童子は在家にも來て仕へる。さうしてその家を長者にせざれば止まぬやうである。その中には至つてザシキワラシと近い者もある。出羽の鯉川《こいかは》といふ處に住む貧乏な夫婦、或時から、ふとこの類《るゐ》の者の援助を受けるやうになつた。寶曆《ほうれき》七年の事であるといふ。姿は決して見せたことは無いが、何處からともなく人の聲で物をいふ。後《のち》には馴れて怖くもなくなつた。主たる援助は夫婦の問《とひ》に應じて、何でも未來の事をいつてくれて、それが皆中《あた》ることであつたが、時としては食物などを彼等の求《もとめ》に從ひ、何なりとも調へて持つて來て食はせる。これと同時に近隣の家では、餅なり饂飩《うどん》なりそれだけの物が無くなる。人有つてその聲に由《よ》つてその物を取留《とりと》めんとすれば、形は見えないが力すこぶる强く、相撲を取り捻合《ねづあひ》をする體《てい》にして、曾て誰《たれ》にも負けなかつたとあるが、何處までが誇張の噂であるか分らぬ。津村氏の譚海卷二に出て居る。後《のち》いつと無くその怪止《や》むとある。

[やぶちゃん注:「私のこれと一緖に出す田原藤太の話の心得童子」これは柳田國男の全くの同時期の論考「神を助けた話」(大正九(一九二〇)年二月玄文社刊)の中に出る(これは電子化する気持ちは私には全くない)。藤原秀郷俵藤太の知られた琵琶湖の龍宮に棲む龍のために征伐した百足退治の一件があるが、この恩賞として俵藤太は龍から十種の宝物を貰うが、その中に「心得童子」がいた。別に「如意童子」と呼ばれる者で、二人であったとされ、彼らは何かを命じなくても、主藤太の心中を知り、それを叶えたり、代わりに用を足したりしたとされる。言わば、密教の高僧や修験道の行者が使役する神霊や鬼神である「護法童子」や、陰陽師が使う「式神」と同じものと言える存在である。底本と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの「定本 柳田国男集」の第十二巻のこの「一〇 田原藤太」から「一三 蒲生氏の盛衰」辺りに登場する。ログイン無しで読める「柳田国男先生著作集 第10冊(神を助けた話)」(昭和二五(一九五〇)年実業之日本社刊)の当該部にもリンクさせて便宜を図っておく。

「津村氏の譚海卷二に出て居る」これは既に私の「譚海 卷之二 同領地十二所の人家に錢をふらす事」で電子化注してあるので、見られたい。]

 佐々木君蒐集のものが、ずつと物語化した二人の娘の話などの外、豫言はおろか碌に物もいはぬらしいのは、ザシキワラシ以上の不思議である。これは後世どう說明せらるべきものであらうか。尤も人と神との懸隔は、槪して時と共に遠くなるものであるが、出現の囘數が段々と稀になり、常の事が非常の事のやうになるに至つて、何も語らずも、姿を見せるだけで目的の全部を達したからと、考へて置いてよからうか。然らば卽ち民間巫道《ふだう》の衰微を示すものである。佛敎の高僧が護法童子を天から呼んだと同じく、我々の巫女《みこ》たちは祕法を以て各自の心得童子を作つたやうである。而してこれを旅行等に同行する便宜のために、體軀《からだ》から引離した魂だけにして連れて居たやうである。さうすれば勿論人に見えず、又いろいろの物にも宿ることが出來る。これを自在に利用して、陰から不審の事を說明させ、或は他人の身の中迄も往來せしめる。但し一つの不便は、既に不用に爲つても、元々自己の體《たい》を具へぬ靈魂であれば、他には行所《ゆきどころ》が無い。それ故にいつ迄も術者の家に留《とどま》り住んで居る。これ等が舊家に纏綿《てんめん》する所のザシキワラシと關係あるものでは無からうか、もしさうだとすれば、これも今ちやうど、私が「おとら狐の話」の附錄に於て、すこしく說いて見ようとする問題である。

[やぶちゃん注:「おとら狐の話」大正九(一九二〇)年二月に玄文社『爐邊叢書』第二篇として刊行された早川孝太郎との共著の柳田の執筆部分に相当する。底本と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの「定本 柳田国男集」の第三十一巻の「おとら狐の話」、及び、ログイン無しで読める当該原本の当該部(「誑す狐と慿く狐」以下)にもリンクさせて便宜を図っておく。]

 最後に今一つ、何故《なにゆゑ》に座敷に住む者が多くワラシであつたかといふこと、これは至つて重要な點であるらしい。生きた人間の中では、老人が最も賢明にして且《かつ》指導好きであることは、殊に我々の明治大正に於る經驗であるが、奇なる哉《かな》神樣には、若い形が多い。少くとも童子に由つて神意を傳へたまふことが多い。ザシキワラシもその現象の一《ひとつ》の場合ではあるまいか。未開時代の人の考《かんがへ》では、敎育や修養に因つて人柄が改良するなどとは思はぬから、所謂若葉の魂の、成るべく煤けたり皺になつたりせぬ新しいものを、特に珍重して利用したのではあるまいか。佛敎でいふ輪𢌞の思想では、魂は蟲や鳥に宿つても同じ魂で、人間《にんげん》に來てから別に成長することも無いとして居るのだから、一日でいへば早旦、一年でいへば正月が結構なやうに、暫く休養して來た新しい魂を上玉(じやうだま)と認めて、出來るならばこれを使はうとしたことが、今日に至る迄、赤兒《あかご》を墓地には送らぬといふ奇風習の、もとを爲して居るのでは無いか。それだとすれば他の亞細亞民族の中に、ぽつぽつ殘つて居る子供を家屋等《とう》の守護者とする手段の、話をするさへ恐しい儀[やぶちゃん注:初出では「儀式」。]などと、遠い昔に於て緣を繫いで居たのかも知れぬ。ザシキワラシが時として火事の前觸《まへぶれ》をするといひ、或は又この災を防ぐ力があると迄思はれたらしいのも、曾ては火を怖れた人がこれを祀つた名殘であつて、すなはちこの怪物の由つて來《きた》る所を暗示するのかも知れぬ。何にしても、死んだ水子《みづこ》の取扱ひ方は、我々の父祖の變つた心持を推定する好い材料である故に、私は又別に赤子塚《あかごづか》の話に於て、人の運と魂との、古い關係を考へて見ようと思つて居る。但し家の中に埋《うづ》めるといふ分《ぶん》はまだ少しも注意して居なかつた。これは佐々木君に賴んで、今後大いに調べて貰はねばならぬ。

[やぶちゃん注:「話をするさへ恐しい儀」本邦の所謂、「間引き」を暗に指している。人為の親の勝手な殺人を逆手にとって、家の守護神に意味づける子殺しの正当化を言っている。但し、縄文の時代から、亡くなった子どもを住居の入口の下に埋葬する民俗習慣はあった。]

 その他オクナイサマとの隱れた關係、オシラサマといふ名前の起り、それからザシキワラシの顏の色の赤いといふこと、小豆がすきだといふこと等、それからそれへと仔細を尋ねて行くならば、今この話を只面白いと思つて讀んで居る人達が、漸く國民といふものを考へねばならぬ時分になつて、顧みてこれ等の書物の存外に深い意味を持つものであつたことを感じ始める頃には、ちつとは我々平民の歷史を知る手掛りにもなるであらう。ちやうど今から十年前に、私が佐々木君の話に據つて遠野物語を書いた時には、誰《たれ》もザシキワラシなどを問題にする者が無かつた。それが現在では、とにかく一團の硏究者が起《おこ》つて、眼を皿のやうにして解決の鍵を搜して居る。而して遠野は佐々木君の力で、學問のための一箇の高千穗峰《たかちほのみね》と爲つたのである。無しといふ返事が來たり、又は丸々に答の來なかつた地方でも、何時かは氷の解けて水草の靑い芽が見えるやうな春が來ぬといふこともあるまい。どうかこの書物を以て、茫洋たる湖上の一扁舟《いちへんしう》として、猶更に處々《しよしよ》の岸に棹《さを》さしたいものである。

 佐々木君が遠く各地を旅行するの餘裕が無くて、ひたすら猿ヶ石川《さるがいしがは》の小盆地ばかりから、有る限りの舊話を搾り取るやうにせられたのは、氣の毒ではあつたが又得がたい好經驗であつた。この一つの物をじつと見詰めるやうな態度は、我々普通の散漫な旅人には、到底望まれぬものであつて、又これでなくては次いで起《おこ》るべき蒐集者の手本とするには足りぬのである。この篇は篇者自ら奧羽民譚集の第二卷と稱して居る。然《しか》らばその是非とも第一卷とせねばならぬ一篇は何であるか。どうか次から次へと相互に脈絡を辿つて、世に隱れたる東北文明の尊《たつと》い起源を明《あき》らめ、我々の靈魂が未だその宿を移さゞる前に於て、鏡に向ふやうにこの國民の、眞面目に對してみたいものである。

 

 (附記)

 この文章は佐々木喜善氏の「奧州のザシキワラシの話」(爐邊叢書)の卷末に書いたものである。

[やぶちゃん注:「オクナイサマ」「オシラサマ」『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九~一六 山中の怪・尊属殺人・老話者・オクナイサマ・オシラサマ・コンセイサマ』の本文及び私の注を参照。

「猿ヶ石川」当該ウィキによれば、『猿ヶ石川(さるがいしがわ)は、岩手県を流れる北上川水系北上川支流の一級河川』。『岩手県遠野市北部の花巻市との境界に位置する薬師岳(標高』千六百四十五メートル『)に源を発し、北上山地を南へ流れる。遠野市中心部で西へと流れを変え、早瀬川や小友川などの支流を合わせ、田瀬湖に至る』。藝材は『北上川』五『大ダムの』一つである『田瀬ダムを経て、花巻市の中心部で本流の北上川に合流する』。『遠野市を中心とした流域は「遠野物語」の舞台となり、河童のすむ川として登場する』とある。最後の部分はここで、左岸の少し離れた小烏瀬(こがらせ)川沿いの「カッパ淵」をポイントした(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 

 

 

    ザシキワラシ (二)

 

 明治四十三年の夏七月頃陸中上閉伊《かみへい》郡土淵《つちぶち》村の小學校に一人のザシキワラシ(座敷童)が現れ、兒童と一緖になつて遊び戲れた。但し尋常一年の小さい子供等の外には見えず、小さい兒がそこに居る此處に居るといつても大人にも年上の子にも見えなかつた。遠野町の小學校からも見に往つたが、やつぱり見た者は一年生ばかりであつた。每日のやうに出たといふ。十七八年ばかり前、遠野の小學校がまだ御倉《おくら》(南部家の米倉)を使用して居た頃、學校に子供の幽靈が出るといふ噂があつて、皆が往つて見たことがあつた。友人にこれを見たといふ人がある。夜の九時頃になると、玄關から白い衣物を着た六七歲の童子が、戶の隙より入つて來て、敎室の方へ行き、机椅子の間などをくゞつて樂しさうに遊んで居たといふ。それも多分ザシキワラシであつたらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「明治四十三年」一九一〇年。

「陸中上閉伊郡土淵村」現在の遠野市土淵町土淵から北部と東部の、土淵町飯豊(いいどよ)土淵町柏崎(かしわざき)・土淵町栃内(とちない)・土淵町山口に当たる広域である。

「小学校」遠野市立遠野小学校(グーグル・マップ・データ)。dostoev氏のブログ『思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の「遠野小学校の座敷ワラシ」で詳細に考証されてある。]

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