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2023/02/02

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 熊が惡人を救ひし話

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 熊が惡人を救ひし話

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

      熊が惡人を救ひし話  (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 享保頃、松崎堯臣の著「窓のすさみ追加」に、『薩摩の獵師にやありけん、山路を通るとて、がけ道を踏み外し、谷底《たにそこ》へ陷り、幸ひに過ちはせざりけれど、絕倒しけるを、大なる熊出《いで》て、掌を口に當てて、すりければ、おのづから嘗《なめ》けるが、甘き事、限りなし。扨、有りて、熊、先に立ちて行きてけるに付きてゆくほどに、窟の中に入りぬ。草を置きてその上に居らしめ、いたはる體《てい》にみえ、時々、掌を出して舐《ねぶ》らするに、飢うる事、なかりけり。『明日、歸るべき』と思ひ、人に暇《いとま》請ふ如くして出でけるに、熊は名殘《なごり》惜しげにみえて、登るべき路まで案内して別れ去りけり。此者、不仁なる者にや、其後、鐵砲を持ちて、かの路より傳ひ下りて、かの窟に往き、熊の臥居《ふしゐ》たるを打ち殺し、膽《い》を取って奉行所に捧げしに、その次第を尋ねられて、中將綱久朝臣、聞き給ひ、「獸さへ人の難儀を救ひ勞《いたは》りしに、其恩を知らざるのみならず、これを害せしこと、人にして獸に劣れり。かゝる者は、世のみせしめなり。」とて、其窟の前に磔《はりつけ》に行はれけり。宋景濂《そうけいれん》の筆話にも、猩々《しやうじやう》に助けられて、却ちてこれを殺さんと謀りし事、あり。昔より、善人のすること、必ず、符合《ふかふ》し、惡人の所爲《しわざ》、又、同じく合ひぬること、一、二にあらず。自然に斯くの如くなると見ゆ。」と出づ。

[やぶちゃん注:「享保頃、松崎堯臣の著「窓のすさみ追加」に、……」松崎尭臣(ぎょうしん 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:江戸中期の儒者。丹波篠山(ささやま)藩家老。中野撝謙(ぎけん)・伊藤東涯に学び、荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。別号に白圭(はっけい)・観瀾)の「窓のすさみ」は随筆(伝本によって巻冊数は異なる)。以上の本文は丸ごとの引用であるので、国立国会図書館デジタルコレクションの「有朋堂文庫」(昭和二年刊)の当該本文と校合したが、南方熊楠のそれは全く読み無しで、「勞はる」を「痛はる」とするなど、ちょっと上手くない(熊楠の拠った伝本がそうであるのかも知れぬが)ので、今回は特異的に、全部をそちらから転写して(読みは一部に留めた)本文をいじったことをお断りしておく。

 「新著聞集」には、江州甲賀郡の山中へ、木の葉を、かきに出でし孕婦が、熊に助けられて、子をうみ、七日、その穴で、養はれて、歸り、獵師に、その穴を示すと、熊、かけ出で、その女を、引き裂いて、逐電した、と作る。熊の穴に落ちて熊に助けられた獵師の話は支那にもあれど、恩を仇で返したとは、ない(「淵鑑類凾」四三〇)。

[やぶちゃん注:「新著聞集」寛延二(一七四九)年刊の説話集。各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めている。 八冊十八篇三百七十七話。永く著者不詳とされてきたが、森銑三の指摘により、紀州藩士で学者の神谷(かみや)養勇軒が、藩主の命によって著したことが定説となっている。但し、厳密には俳諧師椋梨一雪の説話集「続著聞集」を再編集したもので、神谷は編者に過ぎないと考えられている。実際、他の説話集や怪奇談集からの丸ごと写しただけのものも有意に多い。私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」「続・怪奇談集」で、先行する他者の作品に酷似した箇所を幾つも発見している。ここで挙げた当該条は、「第十四 殃禍篇」の「產婦恩をわすれ熊のために槪せらる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷本のここで読める。

『「淵鑑類凾」四三〇』同書はさんざん既出既注した南方熊楠御用達の類書(百科事典)。清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した。一七一〇年成立。その「四百三十」「獸部二」の「熊」は「一」から「五」まであるが、しかし、「漢籍リポジトリ」当該部[435-23b]以下)を見た限りでは、「熊の穴に落ちて熊に助けられた獵師の話」のなどの記載さえもないので、熊楠は権威づけ目的で「そこを見たよ」と注しただけに過ぎない疑いがある。]

 薩摩の話の根本か、又、偶合か知らぬが、同樣の譚が、唐の義淨譯「根本說一切有部毘奈耶破僧事」一五[やぶちゃん注:巻数は「選集」で付加した。]にあり、云く、往昔婆羅痆斯城有一貧人、常取柴樵賣以活命、其人復於一時。執持繩斧、往趣林邊、將欲ㇾ伐ㇾ柴、卽逢非ㇾ時、大暴風雨、七日不息、爲ㇾ避風雨、漸次經歷、遂至山邊、見一石窟、卽欲ㇾ入ㇾ中、將ㇾ至窟門、見熊在一ㇾ内、驚怖却走、熊見驚走、便呼ㇾ彼云、善男子來、汝勿ㇾ怖ㇾ我、其人雖復聞彼熊呼、猶懷恐怖、躊躇而立、〔往昔、婆羅痆斯(ばらにし)城に一(ひと)りの貧人有り。常に柴樵(さいしやう)を取り、賣りて、以つて、活命(なりはひ)とす。其の人、復(ま)た、一時(あるとき)、繩と斧を執り持ちて、林の邊りに往-趣(おもむ)き、將に柴を刈らんとす。卽ち、時に非(あら)ざるに逢ひ、大暴風雨、七日、息(や)まず。風雨を避けんが爲め、漸次、經-歷(へめぐ)りて、遂に、山の邊りに至りて、一つの石窟を見る。卽ち、中に入らんと欲し、將に窟の門に至らんとして、熊、内にあるを見、驚怖して却(しりぞ)き走る。熊、驚きて走るを見、便(すなは)ち、彼を呼びて云はく、「善き男子よ、來たれ。汝、我れを怖るる勿(なか)れ。」と。其の人、彼(か)の熊の呼ぶを、聞くと雖も、猶ほ、恐怖を懷き、躊躇して、立てり。〕熊、卽ち、來たりて、人を抱き、窟に入れ、七日問、美果樹根を食はしむ。八日めに、風雨、やんだので、美果を與へ去《さら》しむ。其人、跪《ひざまづ》いて、「此報恩に、何をなすべきや。」ととふ。熊、曰く、「汝、但《ただ》、吾が此所《ここ》にすむを洩らす勿れ。」と。其人、窟を出《いで》て、家へ歸る途上、獵師にあひ、「此程、何處《いづこ》に在《あり》つる。」と問《とは》れ、子細を述ぶ。獵師、巧言もて、其人に、熊の住所をとひ、「手に入《いれ》たら、汝に多分を、吾は、唯、一分を取るべし。」と勸められ、貪心、起こりて、遂に、引き還し、往《ゆき》て、熊の在所を示し、獵師、窟の口で、柴を積んで、熊を熏《くす》ぶ。熊、苦《くるし》んで、「我 此山中に住し 一人をも害せず 食菓及樹根 常起慈悲念 我今命欲盡 當復作何計 自念過去業 善惡今得ㇾ報〔果(このみ)及び樹根を食らひ 常に慈悲の念を起こす 我れ 今 命盡きんとして 當(は)た 何の計を作(な)さんや 自(みづか)ら 過去の業(がふ)を念(おも)へば 善惡 今 報ひを得たり」〕と頌《じゆ》[やぶちゃん注:「偈」に同じ。]を說《とき》て、死す。獵師、其皮を、はぎ、樵人《きこり》に、「二分の肉をとれ。われは一分を取らん。」といふ。樵人、肉を取《おら》んとする時、兩手、俱《とも》に、落つ。獵師、驚き、城に入《いり》て、王に白《まを》す。王、此の熊は、勝上菩薩たるを、僧より、聞き知り、塔を起こして、供養す。熊は佛、樵人は提婆達多《だいばだつた》の前身と。

[やぶちゃん注:「根本說一切有部毘奈耶破僧事」の以上の話は「大蔵経データベース」で校合して修正した。熊楠が途中を訳しているように、この話は原典では、かなり長い。訳された「頌」の頭は「頌」らしくするために、勝手に読点を打たずに字空けを施し、訓読もそのようにした。

「提婆達多」は釈迦の従兄弟。出家前の釈迦の競争相手であり、釈迦が出家し、悟りを開いて以後、一度はその弟子となったが、後に離反し、阿闍世王と結んで仏教教団に対抗したとされる。仏典では、生きながら地獄におちた極悪人とされるが、仏教から分立した禁欲主義的な宗教運動の組織者としての一面を持っている(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 ラスムッセンの「北氷洋之民」(一九〇八年板・英譯)一七六頁には、エスキモーの一婦人、不品行で、脫走して、或る家の入口に、熊の皮あるをみて、はいると、家内はみな、人の形した熊で有た。そこに留《とどま》りおるに、一つの大熊が、熊の皮を著て、外出すると、必ず、海狗《をつとせい》を捉《とらへ》て歸り、一同に食せた。其後、彼女《かのをんな》が「内へ歸りたい。」といふと、其熊は、二疋の子が人に殺さるゝを惧《おそ》れ、「内へ歸つても、吾れ吾れの事を、人間に語るな。」と云た。女は内へ歸つて、默り居られず、其夫に熊の住所を明したから、人々、橇を馳《はせ》て、熊の家を襲ひ、熊は「人手に渡すよりは。」と、自分で二子を咬殺《かみころ》し、家より走り出《いで》て、女が留守しおる[やぶちゃん注:ママ。]を襲ひ、咬殺した。それから、外へ出た處を、犬共が取卷くを、防ぐ最中に、犬共も、熊も、天上して、星に成《なつ》た、とある。

[やぶちゃん注:『ラスムッセンの「北氷洋之民」一七六頁』グリーンランドの極地探検家で人類学者のクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年:グリーンランドのイルリサット(デンマーク名:Jakobshavn)のデンマーク人宣教師の子として生まれた。母親はイヌイット。グリーンランドのイヌイット(Kalaallit)の中で暮らし、彼らの言葉・狩猟方法・犬橇りの御し方・厳しい季候の中での暮らし方等を小さな頃から学んだ。「エスキモー学の父」と呼ばれ、北西航路を始めて犬橇りで横断した。グリーンランド・デンマーク及びカナダのイヌイットの間では非常によく知られた人物である。以上は当該ウィキに拠った)のThe People of the Polar North’(「極北の人々」。一九〇八年刊の英訳本)。なお、デンマーク語の彼のウィキを見るに、原書はデンマークで書かれたものかと思われれ、題名は‘Lapland’であり、しかも出版は前年の一九〇七年である。「Internet archive」のこちらで英訳本が視認出来、当該部はここである。この話、最後が星辰説話となっているのが、熊や犬にとっては、美しくも哀れである。]

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