西播怪談實記 正規表現電子化注始動 / 序・「一」目録・姬路皿屋敷の事
[やぶちゃん注:佐用村(本来の読みは「さよむら」。「さよう」への読みの変更は公的には敗戦後の昭和三〇(一九五五)年の合併以後のこと。:現在の兵庫県佐用郡佐用町(さようまち):グーグル・マップ・データ)の材木商春名忠成(屋号は「那波屋」)が西播磨地方で蒐集した怪奇譚集。五十一話から成る。話柄の時間帯は寛永から享保(一六二四年~一七三六年)年間の年号が見えている。宝暦四(一七五四)年刊。生没年は明確でないが、以下の「近世民間異聞怪談集成」の北条伸子氏の解題によれば、『およそ宝永(一七〇四―一一)から正徳』(一七一一年から一七一六年まで)『の初め頃に生まれたと考えるのが妥当であろうか』とされ、さらに『祖父母の眠る法覚寺の過去帳から、寛政八年(一七九六)に没した可能性が高いとされる。だとしたら、かなりの長寿だったと思われる』とある。
底本は「国文学研究資料館」のこちらの写本を視認する。但し、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるもの(本文は北条伸子氏校訂で底本は国立国会図書館本であるが、挿絵の落書激しいため、挿絵については東洋大学附属図書館本が使用されている)をOCRで読み込み、加工データとする。ここに御礼申し上げる。なお、以下の「序」は写本にはないため、国書刊行会本のそれを恣意的に正字化して用いた。また、挿絵も同書のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。
略字か正字か迷ったものは、正字で示した。読みは写本にも拘らず、かなりしっかりと振られているが、ちょっと五月蠅くなるので、難読或いは振れると判断したもののみに丸括弧で附した。読みが振られていない箇所は「近世民間異聞怪談集成」を参考にしつつ、《 》で私が歴史的仮名遣推定で読みを添えた。読み易さを考え、段落を成形し、句読点・記号を用いた。また、ストイックに注を附す。踊り字「〱」は正字化した。]
西播怪談實記
序
年比(としごろ)聞傳(ききつた)へたる村老の物がたり、あるはまのあたり、見もしきゝもしつる事の、世の常ならぬ類ひをひろひ集めて、里の子の泣(なく)をとゞむるなぐさめにもつたへまほしとて、春名忠成のぬし、何くれと書(かき)つらね、笈(おひ)の中に、ものし侍るを、浪花の書林鳥飼の何某、梓(あづさ)にちりばめんと乞(こふ)。もとより西播磨の片山里にして、こゝかしこ邑里(むらさと)の中に有(あり)つる事のみを書記(かきしる)しぬれば、ひろく、人のもてはやすべきことにはあらざるべし。さはいへ、ことやうなる物語ながらも、其事の跡は皆、まのあたり見聞(みきき)せしことにて、僞り作れる事ならねば、「怪談實記」と名づくるものならし。
岡靖軒書
[やぶちゃん注:「岡靖軒」岡田光僴(みつかど ?~安永三(一七七四)年)は北条伸子氏の解題によれば、同じ佐用村で大庄屋を務めた人物で、また、『播州随一の歌人であった』とある(春名も『和歌に造詣が深』いとあることから、和歌仲間でもあったものと思われる)。彼については、「神戸松蔭女子学院大学リポジトリ」のこちらでダウン・ロード出来る、同大学紀要『文林』(一九六九年三月発行)に収録されている金井寅之助氏の論文『西播怪談実記と岡田光僴』に詳しい。没年はそれに従った(その中に『行年不明のため生年は分らない。弟の忠吉は庄屋廣野家を嗣ぎ』、『安永四年正月二十六日に七十歳で残してゐる。すれば宝永三年(一七〇六)以前の生れであることは確かであり、行年は七十歳以上であつたであらう』とあった)。
以下、底本表紙及び「一」の目次。目次の読みは総て附した。「ひめち」「たか」「くほ」「あほし」「かほく」「かし」「つはめ」「かちや」の濁点なしはママ。「逢(あい)」(二箇所)「殺(ころ)し事」「ゆうれい」「追(をは)れ」はママ。最後の「そうは」もママ。本文でも、読みの濁点なしは多いので、以下では注しない。歴史的仮名遣の誤りも甚だ多いため、五月蠅くなるので、やはり注しない。不審な場合は、底本を確認されたい。]
西播怪談實記 天
西播怪談實記一
一 姬路皿屋敷(ひめちのさらやしき)事
一 多賀(たか)村弥左衞門小坊主を切し事
一 佐用邑(さよむら)大市久保屋(おほちくほ《や》)下女山伏と角力《すまふ》を取《とり》し事
一 高田の鄕《がう》熊《くま》の鞍山《くらやま》怪異《けい》の事
一 網干浦(あほしうら)にて鱶(ふか)人を取し事
一 新宿村春名氏《うぢ》家僕(かほく)大蛇を見し事
一 新宮水谷何某《みづたになに》(かし)化物《ばけもの》に逢(あい)し事
一 德久《とくさ》村源左衞門宅(たく)にて燕(つはめ)繼子(まゝこ)を殺(ころ)し事
一 佐用(さよ)鍛冶屋(かちや)平左衞門幽㚑(ゆうれい)に逢(あい)て死し事
一 小赤松(こあか《まつ》)村與右衞門大蛇《だいじや》に追(をは)れし事
一 佐用鍛冶屋平四郞大入道《おほにふだう》に逢し事
一 廣山(ひろ《やま》)村葬場(そうは)神(かみ)の咎(とがめ)有(あり)し事
◉ 姬路皿屋敷の事
姬路御郭《ひめぢおんくるわ》の内に「皿屋敷」といふあり。
其(その)來由(らいゆ)を尋(たつぬ)れば、小寺領(《こ》でらりやう)の節《せつ》とかや、ある仕官の歷々に、家老衆、請待(せうたい)にて、珍味の奔走を盡され、器物(きぶつ)、又、大形《おほかた》ならず、中にも祕藏たる信樂燒(しからきやき)の皿、十人前、出さる。膳、揚りて、仲間(ちうけん)・小者(こもの)、請取、洗ひ揚るを、腰本(こしもと)、請(うけ)取《とり》て、それぞれの箱に入《いれ》けるが、彼の皿を箱へ入《いる》るとて、誤つて、取(とりをと)し、二つに割(わり)けるを、押合(をしあひ)し箱の下へ入置《いれおき》けるが、酒、たけなはに及びて後(のち)、客衆、歸られけれは、亭主、門送り(かとをく)りして、歸るや否や、腰本をよび、
「信樂燒の皿箱、持參すべし。」
と申せしは、実(げ)に「祕藏」とぞ聞へける。
腰本、
『はつ。』
と思ひ、ふるいふるい持出(もちいて)れは、
「我《わが》前へ持來りて、數を改むべし。」
といふに、是非なく、蓋を明けて、
「壱つ、二つ、」
と、かぞヘて、九つ迄は、出して猶豫(ゆうよ)しけるを、
「今、壱つは。」
と問(とは)れ、
「先ほど、麁相(そそう)にて。」
と、いひも終らぬに、拔討(ぬき《うち》)にそ[やぶちゃん注:「ぞ」。]しられける。
ほどなく、夜な夜な、家鳴(やなり)する事、夥敷(をびただしく)、幽㚑、出《いで》て、
「壱つ、二つ、」
と、かぞへ出し、
「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、やれ、かなしや、」
と鳴叫(なきさけ)ふ聲は、耳に止(とゝま)りて、恐しさ、いふ斗《ばかり》なし。
かくて、有驗(うけん)の高僧、或は、知德の貴僧を請して、追善祈禱、樣々、手を尽すといへども、更に止(やま)ざれば、段々、願ひを立(たて)、新屋敷、拜領ありて、屋移(やうつり)有けれとも、幾ほどなく、其家、断滅(たんめつ[やぶちゃん注:「い」に見えるが、「津」の崩しと断じた。])せしとかや。
されば、討《うた》れし時、
「壱つ、二つ、」
と、かぞへしも、屠所(としよ)の羊(ひつし)の歩行(あゆみ)、心中を、おもひやるも、哀《あはれ》なり。
終(つい)に臨終の一念にひかれて、永く修羅の奴(やつこ)となるぞ、不便《ふびん》なる。
所は「桐の馬場」にて「皿屋敷」といひ傳へ、寬延の今に到りても、其亡魂、來《きた》る事、止(やま)さるにや、住(すむ)人なく、明(あき)屋敷となれり。
此条、年數(ねんすう)久しく、いかゞなれども、皿屋敷の事、必定(ひつでう[やぶちゃん注:ママ。「ひつぢやう」。])なれば、是を証(せう)として、余(よ)は鄕談(きやうたん)の趣きを、書傳(きゝつた)ふものなり。
[やぶちゃん注:所謂「播州皿屋敷」の一話である。お菊の亡霊が井戸で夜な夜な皿を数えるという凄絶な情景で知られるそれである(江戸番町を舞台とする「番町皿屋敷」も知られる)。詳しくはウィキの「皿屋敷」を読まれたいが、『播州ものでは、戦国時代の事件としている。姫路市の十二所神社内のお菊神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『は、江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、戦国時代までは遡れないと考察され』ているとあり、例の『お菊虫については、播州で』寛政七(一七九五)年に『おこった虫(アゲハチョウの蛹)の大発生がお菊の祟りである』(蛹を、女が後ろ手に縛られた形にミミクリーしたもの)『という巷間の俗説で、これもお菊伝説に継ぎ足された部分である』とある。
「仲間(ちうけん)」「中間(ちゆうげん)」のこと。
「寬延」宝暦の前。一七四八年から一七五一年まで。日本全国に最も知られたこれを巻頭に持ってくるのは自然であり、本書の本格的な原稿起筆がそれとなく判る感じもする。]
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