西播怪談實記 高田の鄕熊の鞍山怪異の事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。【 】は二行割注。]
◉高田(たかた)の鄕(ごう)熊(くま)の鞍山(くら《やま》)怪異(けい)の事
赤穗(あかほ)郡高田の鄕(ごう)に福本何某(なにかし)といへる農家あり。その家、富饒(ふ《ねう》)にして、奴婢(ぬひ)も多く召遣ひたり。
元來、殺生數寄(せつせうずき)にて、山川を徘徊して慰(なくさみ)とせり。
寬永年中の事成しに、夜興(よごう)に行《ゆき》て、熊の鞍山を通り、麓へ下りけるに、持《もつ》たる鐵炮の火挾(ひはさみ)、見えず。
『こは。落したるにや。』
と能(よく)々見れば、都(すへ)ての金具、壱つも、なし。
『慥に、山の半途迄は有しが。不思議なり。』
と、おもひけれども、深更の事なれば、せん方なく歸りて、翌朝未明に起(おき)て、彼(かの)山へ行(ゆきて)、尋迥(たつねまは)るに、平なる大石の有ける上に、悉く並(ならへ)て有《あり》。
目釘(めくき)壱つ、紛失なく、是を取て歸《かへり》、つくづくと思ふに、
『能堅めたる鐵炮の金具といひ、自分(じぶん)にかたげ居《をり》て、殊に金具の辺(あたり)は、我手にて持《もち》たる所なるを、少(すこし)もしらぬやうに、はづして、石の上に置し事、狐狸(きつねたぬき)の業(わざ)ともおもはれず、いかさま、不審なり。』
とは思ひけれども、久しく人にもいはざりしが、ある出會(であい)にて、雜談(そう《だん》)の次手(ついで)に此事を咄しけるに、近村(きんむら)の與七、いふやうは、
「先ほどより、始終を得(とく)と承《うけたまは》る。自分も、鐵畑數寄(すき)にて、折ふしは、夜も徘徊すれども、是迄は、左樣なる事に出會(てはあは)ず。元來、熊の鞍山は、獵のある山にあらねば、行《ゆく》事も、なし。近日、夜更て慰(なくさみ)に行《ゆき》て見るべし。わが鐵炮の金具は得《え》取《とらる》まじ。」[やぶちゃん注:「得(え)取まじ」はママ。呼応の不可能の副詞「え」に漢字を当てたもの。]
と荒言(くわうげん)を吐《はき》て、宅へ歸りし比《ころ》、既に子の刻斗《ばかり》なれば、
「幸《さひはひ》。」
と、鐵畑を持て立出《たちいで》、彼山に至り、往來の内、金具に心を附《つけ》て居《をり》けるに、子細なく、麓へ出《いで》て、見れば、金具、壱つも、なし。
「こは。口惜(くちおし)。」
と、山へ歸り、尋𢌞《たづねまは》れども、闇(あん)やの事なれば、いかんともする事なく、すごすごと歸り、よの明《あく》るを待(まち)ゐて、又、山へ行《ゆき》、尋ぬるに、咄《はなし》のごとく、石の上に並べて有しを、集取(あつめ《とり》)て歸りけるが、久しく、人にも、いはす。
年へて、有し子細を語り、
「荒言は、いふまじき事也。」
と、いひしとかや。
今に至りても、此山にては、必《かならず》、此事ありて、行《ゆく》人、なし、と。
予が高田の肉緣(にくゑん)のものより聞ける趣を書傳ふもの也。
[やぶちゃん注:「赤穗(あかほ)郡高田の鄕(ごう)」佐用町の十五キロほど南で、千種川左岸の、現在の兵庫県赤穂郡上郡町高田台である。「ひなたGPS」の戦前の地図で「高田村」とあるのが確認出来る。
「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。
「熊の鞍山」前掲の戦前の地図を見たが、判らない。少し気になったのは、高田村の北北東五キロ強の位置に「鞍居村」があり、地名で「鞍」が確認出来る。この鞍の北側の無名のピークは一つの候補にはなるかも知れない。
「夜興」「よこ」。「夜興引(よこびき)」の略。夜、猟師が犬を連れて猟に出かけることを指す。春の農作業に害を成す猪・鹿などを捕らえるためであるが、冬場は獣肉に脂がのって美味であるともされる。
「火挾」「ひばさみ」。鉄砲の機関(からくり)の一つ。火縄を固定し、引金と連動して、火皿に火を点ずる装置。「龍頭」(りゅうず)とも言う。
「目釘」鉄砲の銃身・筒を銃床に固着する螺子(ねじ)。
「自分(じぶん)に」自分で。みずから。]
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