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2023/02/07

佐藤春夫 改作 田園の憂鬱 或は病める薔薇 正規表現版 (その17)

 

[やぶちゃん注:電子化意図や底本は初回の私の冒頭注を参照されたい。「佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その17)」を参照されたい。次回で終わる……

    *     *     *     *

       *     *     *

 闇が彼の身のまはりに犇(ひしめ)いて居た。それは赤や綠や、紫やそれらの𨻶間のない集合で積重ねてあつた、無上に[やぶちゃん注:「むしやうに」。]重苦しい闇であつた。彼は闇のなかでマツチを手さぐり、枕もとの蠟燭に灯をともすと寢床から起き上つた。さうしてその燭臺を、隣に眠つて居る妻の顏の上へ、ぢつとさしつけた。けれども深い眠に陷入つて彼の女は、身じろぎもしなかつた。彼はしばらくその女の無神經な顏を、蠟燭の搖れる光のなかで、ぢつと視つめて見た。彼はこの時、自分の妻の顏を、初めて見る人のやうに物珍らしくつくづくと見た。

 蠟燭の光はものの形を、光の世界と影の世界との二つにくつきりと分けた。その光のなかで見た人間の顏は、强い片光[やぶちゃん注:「かたひかり」。]を浴びて、その赤い光の强い濃淡から生ずる效果は、人間の顏の感じを全く別個のものにして見せた。彼は人間の顏といふものは――唯に自分の妻だけではなく、一般にかうも醜いものであらうかと、つくづくさう感じた。それは不氣味で陰慘で醜惡な妙な一つのかたまりのものとして彼の目に映じた。女は枕元に、解きほどいた束髮のかもじを黑く丸めて置いて居た。奇妙な現象には、彼はそのかもじを見た時に、これが、ここに眠つて居る女が自分の妻だつたのだと初めて氣がついた。

 彼は燭臺を高く少し持上げたり、或は女の顏の耳の直ぐわきへくつつけて見たり、暫くその光の與へる效果の變化を實驗して遊ぶかのやうに、それをいろいろと眺めて居た。彼の妻はそんなことには少しも氣がつかずに眠つて居る。寢返りもしない。こんな女は、今若し喉もとへ劍を差しつけられても、それでも平氣で眠つて居るだらうか。いや、そんな場合には、いかに無神經なこの女でも、さすがに人間の本能として當然目を睜く[やぶちゃん注:「みひらく」。]であらう。さうでなければならない。彼はそんなことを考へた。さうして、若しやこの女は今、殺される夢でも見ては居ないだらうかとも思つた。……それにしても、かうした光の蠱惑から人間といふものはさまざまなことを思ひ出すものである。こんなことから、實際人を殺さうと決心した男が、昔からなかつただらうか……

「尤も、俺は今この女を殺さうとして居るわけではないのだが」

 彼は思はず小聲でさう言つた。自分自身の愕くべき妄想に對して、慌てて言ひわけしたのである。

「そこでと……俺は今何のためにこんなことをして居たのだつたけな」

 彼は氣がついて急に妻を搖り起した。

 夜中である。

 妻はやつと目を覺したが、眩しさうに、搖れて居る蠟燭の光を避けて、目をそむけた。さうして未だ十分に目の覺めて居ない人がよくする通りに口をもがもがと動かして、半ば口のなかで、

「また戶締りですか、大丈夫よ」

 さう言つて、寢返りをした。

「いいや、便所へ行くんだ。ちよつとついて行つてくれ」

 厠から出て來た彼は、手を洗はうとして戶を半分ばかり繰つた。すると、今開けた戶の透間から、不意に月の光が流れ込んだ。月はまともに緣側に當つて、歪んだ長方形で板の上に光つた。不思議なことには、彼はこれと同じやうに、全く同じやうに月の差込んで居る緣側をちやうど今のさつき夢に見て、目がさめたところであつた。何といふ妙な暗合であらう。彼には先づそれが怪奇でならなかつた。さうして、今、自分達がかうして此處に立つて居ることも、夢のつづきではないのか……ふと、さう疑はれた。

「おい、夢ではないんだね」

「何がです。あなた寢ぼけていらつしやるのね」

 蠟燭は彼の妻の手に持たれて、月の光を上から浴びせかけられて、ほんのりと赤くそれ自身の光を失つた。光の穗は風に吹かれて消えさうになびいたが、彼の妻の袖屛風の陰で、ゆらゆらと大きく搖れた。風は何時の間にかおだやかになつて居たが、雲は凄じい勢で南の方へ押奔(おしはし)つて居た。小雨を降らせて通り過ぎる眞黑な雲のぱつくりと開けた巨きな口のファンタステイツクな裂目から、月は彼等を冷え冷えと照して居た。

 彼は手を洗ふことを忘れて、珍らしいその月を見上げた。それは奇妙な月であつた。幾日の月であるか、圓いけれども下の方が半分だけ淡くかすれて消え失せさうになつて居た。併し、上半は、黑雲と黑雲との間の深い空の中底に、硏ぎすましたやうに冴え冴えとして、くつきりと浮び出して居た。その上半のくつきりした圓さが、何かにひどく似て居ると、彼は思つた。然うだ。それは頭蓋骨の顱頂のまるさに似て居る。さう言へば、その月の全體の形も頭蓋骨に似て居る。白銀[やぶちゃん注:「しろがね」。]の頭蓋骨だ。硏ぎすました、或は今鎔爐からとり出したばかりの白銀の頭蓋骨だ。彼の聯想の作用は、ふと海賊船といふやうなものの事を思ひ出させた。「神聖な海賊船」どういふわけかそんな言葉を思ひ浮べた。彼は靑い月を飽かずに眺めた。ああ、これと同じ事が、全く同じことが、その時も俺はここにかうして立つて居た。雲の形も、月の形もこれとそつくりだつた。どこからどこまで寸分も違はない。そればかりかその時にもかう思つたのだつた。今と同じ事を思つたのだつた。遠い微かな穴の奧底のやうな昔にも、現在と全然同一な、そつくりそのままで重り合ふ、寸分の相違もない出來事が曾てもあつた……茫然として、彼は瞬間的にさう考へた……何時の日のことだつたらう……何處でであつたらう……

 空一面を飛び奔る斷れ雲[やぶちゃん注:「ちぎれぐも」。]はもう少しで月を、白銀の頭蓋骨を呑まうとして居る。

「もう、閉めてもいい?」

 妻は、寒さうにさう言つた。

 彼はその言葉で初めて我に歸つたのか、手を洗はうと身を乘り出した。その瞬間であつた。

「や、大變!」

「え?」

「犬だ!」

「犬?」

 彼は卽座に手早く、戶締りに用ゐた竹の棒を引つつかむと、力任せに、それを庭の入口の方へ投げ飛した。彼の目には、もんどりを打つ竹ぎれからす早く身をかはして、いきなりそれを目がけて飛びかかると、その竹片[やぶちゃん注:「たけぎれ」。]を咥へたまま、眞しぐらに逃げて行く白犬が、はつきりと見えた。尾を股の間へしつかりと挾んで、耳を後へ引きつけ、その竹片に嚙みついた口からは、白い牙を露して、涎をたらたらと流しながら、彼の家の前の道をひた走りに走つて行く。月光を浴びて、房房した毛の大きな銀色の尨犬[やぶちゃん注:「むくいぬ」。]、その織るやうな早足、それが目まぐるしく彼の目に見える。それは王禪寺といふ山のなかの一軒の寺の犬だつた。その形は明確に細密に、一瞬間のうちに彼には看取出來た。

「狂犬だよ!」

 彼は自分の犬どもの名を慌しく呼んだ。呼びつづけた。其處らには居ないのか、犬どもは彼の聲には應じなかつた。妻には何事が起つたのか、少しも解らなかつた。併し、夫のさうするままに、彼の妻も聲を合せて犬の名を呼んだ。その甲高い聲が丘に谺した。七八度も呼ばれると、重い鎖の音がして、犬どもは、二疋とも同時に、いかにものつそりと現はれた。さうして鎖をぢやらんぢやらんと言はせながら身振ひして、主人の不意な召集を訝しく思ひながらも、彼等は尾をちぎれるほどはげしく振り、鼻をくんくんとならした。

 月は雲のなかに呑まれてしまつた。

 彼は妻の手から燭臺を受け取るや否や、それを、犬どもの方へ差し出したが、一時に風に吹き消された。直ぐに、ランプに灯をともし代へて見たが、彼の犬には別に何の變事もないらしかつた。

「ああ、愕いた。俺はうちの犬が狂犬に嚙まれたかと思つた」

 彼は寢牀に這入つたが、妻にむかつて、今見たところのものを仔細に說明した。彼の妻は最初からそれを否定した。いかに明るくとも月の光で、そんなにはつきりと見える筈はない。それに王禪寺の犬は、なる程、狂犬になつたのだ、けれども、もう一週間も十日も前に、そのために屠殺された。その時、お絹が、

「だから、お宅の犬もお氣をおつけなさい」

とさう言つた。その事は、その時彼の女自身の口から彼に話した筈だつた。――妻は事を分けて、宥めるやうに彼に說明するのであつた。しかし彼は王禪寺の犬が氣違ひになつた話などは聞いたこともないと思ふ。

「犬の幽靈が野原をああして驅けまはつて居たのだ。さうして、さういふ靈的なものは俺にばかりしか見えないのだ……。」……憂鬱の世界、呻吟の世界、靈が彷徨する世界。俺の目はそんな世界のためにつくられたのか――憂鬱な部屋の憂鬱な窓が憂鬱な廢園の方へ見開かれて居る。彼はそんな風に考へた。俺の今生きてゐるところは、ここはもう生の世界のうちでは無く、さうかと言つて死の世界でもなくその二つの間にある或る幽冥の世界ではないか。俺は生きたままで死の世界に彷徨してゐるのであらうか……ダンテは肉體をつけたままで天界と地獄をめぐつたと言ふならば……。少くとも、少くとも俺が今立つて居る處は、死滅をそれの底にしてその方へ著しく傾斜して居る坂道である……

 

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