西播怪談實記 網干浦にて鱶人を取し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。]
◉網干浦(あほしうら)にて鱶(ふか)人を取《とり》し事
延寶年中の事なりしに、揖東郡(いつとうこほり)網干村に獵師有しが、甚(はなはだ)貧敷(まつしき)ものにて、十二、三なる娘、是も相應の手傳ひになれば、獵に行度每(ゆくたひこと)に、つれて出《いで》けり。
比《ころ》は卯月のすゑつかた、又、おやこづれにて獵に出、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]斗《ばかり》、船を出せしが、
「娘よ、筥《はこ》を忘れたり。漕(こき)戾すべし。」
といふ。
娘、
「いやいや、もはや、引汐(《ひき》しほ)なれば、船を戾すは手間入《てまいり》也。我、立歸り、取てくるべし。此所、少《すこし》深けれども、先は、遠淺(とほあさ)なれば、自由也。暫(しばらく)、まち給へ。」
と、いふて、海へ入《いる》。
元來、馴《なれ》にし業(わさ)なれば、腰より上を出し、立游(たちおよき)して、船より二十間[やぶちゃん注:約三十六メートル。]斗《ばかり》行《ゆく》とおもひしが、俄(にはか)に大波(なみ)立《たつ》と否や、娘、
「わつ。」
と、いふて、沉(しづみ)けり。
親、
「南無三宝。」
と、急に船を漕寄(こきよせす)れば、腰より上は殘りて、兩足、喰取《くひとり》たる死骸、浮(うか)み出《いで》たりけるを、引上たりけるに、まだかすかに息のかよひければ、
「娘よ。」
といふ聲に、目を開き、おやの顏をしろしろ[やぶちゃん注:「じろじろ」。]と守りけるが、直《すぐ》に息は絕果(たへはて)けり。
親は、十方(とほう)に暮《くれ》、
「いかゝせん。」
と泣《なき》かなしみ、齒喰(はくい)をすれども、甲斐なく、船を漕戾しければ、近所より聞付《ききつけ》、聞付、磯へ出で、悔(くや)みをいひ、淚を流さぬ人もなかりしが、
「かくて置《おく》べきにあらねば、葬(ほふむ)るべし。」
と、人々、世話をしけるに、親、なみだを押へ
「此子が敵《かたき》をとらむと思ふ間《あひだ》、我《わが》了簡の通りに任せて給はるべし。」
と、追善供養は扨置《さておき》、大キなる釣針に念を入《いれ》て、糸を、二筋(すし)、附《つけ》、針の見へぬやうに、死骸に付《つけ》て、翌朝、彼所(かのところ)へ船を出し、曳𢌞《ひきまは》りけるに、又、大波、打きたり、何かはしらず、死骸を一吞(ひとのみ)にして、沖の方へ、一又字に行(ゆけ)ば、親は糸をのべ、引ゆくに任せて、つき𢌞り、ほどなく晚景に成ければ、
『何にもせよ、最早、草臥(くたひれ)るべし。そろそろ、引寄(ひきよせ)む。』
と、おもひ、磯の方へ、
「そろり、そろり、」
と引寄、次第に、糸に、よりを懸(かけ)、二筋(ふたすし)を壱筋にして、難なく陸へ十間斗に引付、聲を立れば、大勢、出つゝ、もりを入《いれ》て突殺(つきころ)し、引揚(《ひき》あげ)、見れば、其長(たけ)、丈餘[やぶちゃん注:三メートル超。]の鱶(ふか)なるを、
「子の敵(かたき)なれば。」
とて、其所《そこ》にて、五日、さらしけるよし。
其節、網干へ行合《ゆきあひ》て、慥に見たりける人の、物語の趣を書《かき》つたふもの也。
[やぶちゃん注:これは確かな実話と考えてよい。今から十数年前、まさに、この近くの海域でタイラギの潜水服での漁をしていた男性が、行方不明となったが、千切れた潜水服が発見され、専門家が見るに、サメに襲われたものと推定されたのを思い出す。
「延寶年中」一六七三年から一六八一年まで。
「揖東郡(いつとうこほり)網干村」兵庫県姫路市網干(あぼし)区(グーグル・マップ・データ)。漁師であるから、「ひなたGPS」の戦前の地図の「網干町」を書かれている附近(揖保川河口近く)に住んでいたと考えてよいであろう。]