佐藤春夫 改作 田園の憂鬱 或は病める薔薇 正規表現版 (その6)
[やぶちゃん注:電子化意図や底本は初回の私の冒頭注を参照されたい。]
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或る夜、彼のランプの、紙で出來た笠へ、がさと音をたてて飛んで來たものがあつた。
見るとそれは一疋の馬追ひである。その靑い、すつきりとした蟲は、その緣(ふち)を紅くぼかして染め出したランプの笠の上へとまつて、それらの紅と靑との對照が先づ彼の目をそれに吸ひつけたが、その姿と動作とが、更におもむろに彼の興味を呼んだ。その蟲は、それ自身の體の半分ほどもあるやうな長い觸角を、自分自身の上の方でゆるやかに動かしながら、ランプの圓い笠の紅い場所を、ぐるぐると靑く動いて進んで行つた。それは圓く造られた庭園の、側[やぶちゃん注:新潮文庫版では「外側」。]に沿うて漫步する人のやうな氣どつた足どりのやうにさへ、彼には思へた。この靑い細長い形の優雅な蟲は、そのきやしやな背中の頂のところだけ赤茶けた色をして居た。彼は螢の首すぢの赤いことを初めて知り得て、それを歌つた松尾桃靑の心持を感ずることが出來た。この蟲は、しばらくその圓いところをぐるぐると步いた。さうして時時、不意に、壁の長押や、障子の棧や、取り散した書棚や、或は夜更しをしすぎて何時になれば寢るものともきまらない夫を勝手にさせて自分だけ先づ眠つて居る彼の妻の蚊帳の上のどこかなどへ、身輕に飛び渡つては鳴いて見せた。「人間に生れることばかりが、必ずしも幸福ではない」と、草雲雀に就てそんなことを或る詩人が言つた。「今度生れ變る時にはこんな蟲になるのもいい」或る時、彼はそれと同じやうなことを考へながらその蟲を見て居るうちに、ふと、シルクハツトの上へ薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)のとまつて居る小さな世界の場面を空想した。あの透明な大きな翅を背負うた靑い小娘の息のやうにふはふはした小さな蟲が、漆黑なぴかぴかした多少怪奇な形を具へた帽子の眞角[やぶちゃん注:「まつかく」。]なかどの上へ、賴りなげに併しはつきりととまつて、その角の表面をそれの線に沿うてのろのろと這つて行く……。それを明るい電燈が默つて上から照して居た……。彼は突然、彼の目を上げて光を覗いた。それは電燈ではない。ランプの光である。彼はそのランプの光を自分の空想と混同して、自分も今電燈の下に居るやうに思つたからである。
[やぶちゃん注:「それを歌つた松尾桃靑」これは、
晝見れば首筋赤きほたる哉
で、「芭蕉句選」(華雀編・元文四(一七三九)年刊)で「追加」のパートに収録されている。他に「芭蕉翁發句集」・「蕉句後拾遺」・「風羅袖日記」・「芭蕉翁句解参考」・「俳諧一葉集」にも収録されている(「風羅袖日記」では貞享二丑(一六八五)年作とする)が、岩波文庫の中村俊定校注 「芭蕉俳句集」(一九七〇年刊)では「存疑の部」 に配されており、所持する多くの芭蕉句集でも所収しないので、佐藤春夫には悪いが、この句は芭蕉の句ではないと断じてよい。句としても、「ひねり」も何もなく、駄句以外の何物でもない。]
何故に彼がシルクハツトと薄羽蜉蝣といふやうな對照をひよつくり思ひ出したか、それは彼自身でも解らなかつた。唯、さういふ風な、奇妙な、纖細な、無駄なほど微小な形の美の世界が、何となく今の彼の神經には親しみが多かつた。
馬追ひは、每夜、彼のランプを訪問した。彼は、最初には、この蟲が何のためにランプの光を慕うて來るのか、さてその笠をぐるぐると廻るのか、それらの意味を知らなかつた。併し、見て居るうちに直ぐに解つた。それは決してその蟲の趣味や道樂ではなかつたのである。この蟲は、其處へ跳んで來て、その上にたかつて居るところのもう一層小さい外の蟲どもを食ふためであつたのだ。それらの蟲どもは、夏の自然の端くれを粉にしたとも言ひたいほどの極く微細な、ただ靑いだけの蟲であつた。馬追ひは彼の小さな足でもつてそれらの蟲を搔き込むやうに捉へて、それを自分の口のなかへ持つて行つた。馬追ひの口は、何か鋼鐵で出來た精巧な機械にでもありさうな仕掛に、ぱつくりと開いては、直ぐ四方から一度に閉ぢられた。一層小さな蟲どもはもぐもぐと、この强者の行くに任せて食はれた。食はれる蟲は、それの食はれるのを見て居ても、別に何の感情をも誘はれないほど小さく、また親しみのないものばかりであつた。指さきでそれを輕く壓へると、それらの小さな蟲は、靑茶色の斑點をそこに遺して消え去せてしまふほどである。
馬追ひは、或る夜、どこでどうしたのであるか、長い跳ねる脚の片方を失つて飛んで來た。長い觸角の一本も短く折れてしまつてゐた。
遂には或る夜、彼の制止も聞かなかつた猫が、書棚の上で、彼の主人の夜ごとの友人であるこの不幸な者を捉へた。さんざん弄んだ上で、その馬追ひを食つて仕舞つた。彼は今度生れ變る時にはこんな蟲もいいと思つたことを思ひ出すと、こんな蟲とてもなかなか氣樂ではないかも知れないと小さな蟲の生活を考へて見た。
彼がそんな風な童話めいた空想に耽り、醉ひ、弄んで居る間に、彼の妻は寢牀の下で鳴くこほろぎの聲を沁み沁みと聞きつつ、別の童話に思ひ耽つて居るのであつた。――こほろぎの歌から、冬の衣類の用意を思うて、猫が飛び乘つても搖れるところの、空つぽになつた彼女の簞笥の事を考へ、それから今は手もとにない彼の女のいろいろな晴着のことを考へた。さうしてそれ等の着物の縞や模樣や色合ひなどが、一つ一つ仔細に瞭然[やぶちゃん注:新潮文庫版では「はつきり」とルビする。]と思ひ浮ばれた。又それにつれてそれ等の一かさね一かさねが持つて居る各の歷史を追想した。深い吐息がそれ等の考へのなかに雜り、さてはそれが淚ともなつた。彼の女は、女特有の身勝手な主觀によつて、彼の女の玩具の人生苦を人生最大の受難にして考へることが出來た。さうして其悲嘆は、而も訴ふるところがなかつた。これ等のことを今更に告げて見たところで、それをどうしようとも思はぬらしく「何ものも無きに似たれどもすべてのものを持てり」といふやうな句をただ聞かせるだけで、一人勝手に生きて居る夫、象牙の塔で夢みながら、見えもしない人生を俯瞰した積りで生きて居る夫、その夫を妻が賴み少く思ふことは是非ない事である。彼の女は、時時こんな山里へ來るやうになつた自分を、その短い過去を、運命を、夢のやうに思ひ𢌞しても見た。さて、今でもまだ舞臺生活をして居る彼の女の技藝上の競爭者達を、(彼の女はもと女優であつた)今の自分にひきくらべて華やかに想望することもあつた。……Nといふ山の中の小さな停車場まで二里、馬車のあるところまで一里半、その何れに依つても、それから再び鐵道院の電車を一時間、眞直ぐの里程にすれば六七里でも、その東京までは半日がかりだ……それにしても、どんな大理想があるかは知らないが、こんな田舍へ住むと言ひ出した夫を、又それをうかうかと贊成した彼の女自身を、わけても前者を彼の女は最も非難せずには居られなかつた。遠い東京……近い東京……近い東京……遠い東京……その東京の街街が、アアクライトや、ショウヰィンドウや、おひおひとシィズンになつてくる劇場の廊下や、樂屋や、それらが眠らうとして居る彼の女の目をゆつくり通り過ぎた。
[やぶちゃん注:「佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その6)」と対照されたい。]
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