西播怪談實記 廣山村葬場神の咎有し事 / 西播怪談實記一終
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。【 】は二行割注。]
◉廣山村葬場(そうは)神の咎(とかめ)有《あり》し事
揖東(いつとう)郡廣山村に、八幡宮、在《あり》。
靈驗、揭焉(いちしるしく)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]して、繁榮なり。
往昔(そのかみ)、豫州河野(かうのゝ)七郞通弘(みちひろ)、遁世して、当國(とうこく)にわたりしに、行暮《ゆきくれ》て、宿もなく、幸《さひはひ》と此拜殿に通夜《つや》せしに、五更の比《ころ》、けだかき御聲(みこゑ)にて、
「汝、『言語同斷心行所滅(ごんごとうたんしんきやうしょめつ)』といへる意を、しれりや。」
との給ふ。通弘、
「いまた、存せす。仰願(あふきねかは)くは、承(うけ給り[やぶちゃん注:読みはママ。])奉らん。」
と申上れは、
「とこ とはに 南無あみだ佛を唱(となふ)れば 南無あみだぶに生れこそすれ」
と、一首の神詠(《しん》えい)にて、告(つけ)給へば、通弘、
「はつ。」
と平伏し、感淚、數行(すかう)に及ひしが、是より、
「歌は、よく理(ことはり)を、さとすものなり。」
と、執心してよみけるが、今に到り、遊行上人は、代々、歌をよみ、又、回國の節は、必《かならず》、爰(こゝ)に社參するは、此因緣とぞ、きこへし。
其後、通弘は、行脚の中(うち)に、知識と成(なり)、「遊行一遍上人」と号し、則《すなはち》、今の遊行の祖なり。
然《しか》るに、廣山村の葬場は、北に向《むき》て、僧・俗、儀式を、つとむ。
其來由(らいゆ)を聞《きく》に、都(すへ)ては、導師、南へ向(むき)、死人(しに《ん》)を北へむけ、引導する事、通例なれども、其格《そのかく》にしては、忽(たちまち)、數人(すにん)一所に、逆(さかしま)に抛(なけら)るゝによつて、葬送の儀式、勤(つとま)らず。
此故に、北へむく事、古來の仕來り也。
宝永の末つかた、能化《のうけ》【當国、魚崎村西福寺。今は眞乘寺と改号す。】、つくづくと、社檀の容須、葬場の次第を聞《きき》て、いはれけるは、
「世間の通りにては、導師、南へ向、死人を北へ向《むけ》るゆへ、社《やしろ》の正面に指向《さしむか》ふゆへ、神慮に叶(かなは)ずして、其ごとく、變の、有《ある》なるべし。重(かさね)ては、新菰(あらころも)を社檀の前に引張(ひつはり)、神前を見通し見通されぬやうに隔(へたて)なば、定《さだめ》て、子細も有まじき歟《か》。」
と、いはるゝにまかせて、かさねて、能化の敎(をしへ)のごとく致(いたし)ければ、何の故障(こしやう)もなく濟《すみ》けるにより、其神㚑のあらたなる事、ならびに、能化の德を感じけると也。右、正說(《しやう》せつ)を聞ける趣を書つたふもの也。
西播怪談實記一終
[やぶちゃん注:前半は歴史的な本八幡宮の神仏混交の霊験譚で、後者は神社で仏僧が葬儀をする際の位置関係の特異的な習俗の神意の咎めを語るという、かなり変わったものである。
なお、最後の丁の左には附記がある。原写本者の名とそれをさらに書き写した人のものか。一行目下方のそれ(その下方部は落款を被る)は適当に判読した。自信はない。
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松四郞之丞
寬政十三酉年
前編書已
矢口牧太郞書之
*
ここの「寬政十三酉年」は一八〇一年。
「揖東郡廣山村に、八幡宮、在」現在の兵庫県たつの市誉田町(ほんだちょう)広山にある阿宗神社(グーグル・マップ・データ)は旧社名を弘山八幡宮と呼ぶ。
「河野七郞通弘」これは時宗の開祖一遍の実父河野通広(かわのみちひろ ?~ 弘長三(一二六三)年:鎌倉時代の武将。「承久の乱」の時には、法然の高弟西山上人証空の下で如仏として出家していたため、どちらにも参加していない。但し、その後に還俗し所領も持っていた)の誤認。彼の第二子(幼名松寿丸)で、出家して随縁と称し、諱を智真という。後、他力念仏に目覚めて一遍と改めた。十歳の時、母と死別し、父の勧めによって出家、建長三(一二五一)年十三歳の時、九州に赴き、浄土宗西山派の法然の高弟証空の弟子聖達に入門、仏教の学問を修めた。その間に智真と名を改めている。弘長三(一二六三)年、父の死を知って、伊予に帰って還俗して家督を継いだものの、一族の所領争いなどで希望を失い、再出家した。善光寺等を行脚した後、郷里に戻り、三年の間、草庵に籠もって念仏を修し、「十一不二頌」(じゅういちふにじゅ:十劫の昔に実現している弥陀の正覚と、衆生の現在の一念による往生は、一体のもので二つのものではないという思想を詩にしたもの)を作った。後、現在の愛媛県にある岩屋に参籠し、修験的な行にも挑戦している。 文永一一(一二七四)年(蒙古襲来の年)三十六歳で、超一・超二らを伴って念仏を勧化する旅に出た(超一・超二は彼の妻と娘とする説もある)。四天王寺・高野山を経て熊野に詣で、本宮の証誠殿に百ヶ日の参籠をしている際、「衆生の浄土往生は信・不信や浄・不浄に関わりなく阿弥陀如来の名号によって定まる」という熊野権現の夢告を受け、それを機に名を一遍と改め、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と記した札を人々に配る「賦算の行」を開始、これを以って時宗は開宗されたと言ってよい。 以後、九州・四国・山陽・京都の各地を巡り、四十一歳の時、信濃国の伴野(長野県佐久市)を訪れ、「踊り念仏」を始めた。平安時代の空也の念仏に倣ったものだが、民衆の人気を博し、彼の遊行・伝道の生活に欠かせないものとなった。次いで奥州を巡って関東へと旅を続け、再度の蒙古来襲のあった翌年の弘安五(一二八二)年には鎌倉に入ろうとしたが、幕府に阻まれ、果たせず、藤沢から東海道に出、弘安七年、再び京都に入って、熱狂的に受け入れられた。その後も四国・山陽道・山陰道と、とり憑かれたような行脚を続け、正応二(一二八九)年、摂津国の和田岬(神戸市)の観音堂で示寂した。享年五十一歳であった。生涯を、文字通り、「一所不住」の旅に過ごし、「救いは南無阿弥陀仏の名号そのものにあり」として、一切を放棄する「捨て聖」の境涯を貫いた。浄土信仰の極致をきり開いたといってもよく、「踊り念仏」の普及とともに民衆のあいだにダイナミックな宗教運動を展開した点で特筆される(主文を朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」の山折哲雄氏の解説に拠った)。
「五更」凡そ午前三時又は四時からの二時間を指す。
「言語同斷心行所滅」「仏が悟った境涯(仏界)は言葉では表明仕様がなく、凡夫の思考も全く以って及ぶものではない」の意。
「宝永の末つかた」宝永八年までで同年四月二十五日(グレゴリオ暦一七一一年六月十一日) 正徳に改元している。
「能化」一宗派の指導的地位にある長老・学頭などを称する語。
「魚崎村西福寺。今は眞乘寺と改号す」現在の兵庫県神戸市東灘区魚崎北町に浄土宗西福寺(さいふくじ:グーグル・マップ・データ)ならある。
「容須」ママ。様子。或いは弘山八幡宮社壇のことを解説者が仏僧であるから、本尊を祀る「須弥壇」に引かれて、かく原著者が書いたものか。
「神前を見通し見通されぬやうに隔(へたて)なば」衍文ではない。「神前の祭壇が見通しにしないで、新しい綺麗な薦(こも)を垂らして、見通せぬようにして視覚的に隔てを置いておけば、」の意。]
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