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2023/02/05

佐藤春夫 改作 田園の憂鬱 或は病める薔薇 正規表現版 (その5)

 

[やぶちゃん注:電子化意図や底本は初回の私の冒頭注を参照されたい。] 

    *     *     *     *

       *     *     *

 自然の景物は、夏から秋へ、靜かに變つて行つた。それを、彼ははつきりと見ることが出來た。夜は逸早くも秋になつて居た。轡蟲だの、蟬[やぶちゃん注:ママ。新潮文庫版では「蛼(こおろぎ)」。歴史的仮名遣は「こほろぎ」。全集としてはあってはならないトンデモ誤植と思われる。]だの、秋の先驅であるさまざまの蟲が、或は草原で、或は彼の机の前で、或は彼の牀の下で鳴き初めた。樂しい田園の新秋の豫感が、村人の心を浮き立たせた。村の若者達は娘を搜すために、二里三里を涼しい夜風に吹かれながら、その逞しい步みで步いた。或る者は、又、村祭の用意に太鼓の稽古をして居た。その單純な鳴りものの一生懸命な響きが、夜更けまで、野面を傳うて彼の窓へ傳はつて來た。この村に歸省してゐた女學生、それはY市の師範學校の生徒で、この村で唯一の女學生は、夏の終りに、彼の妻と友達になつたが、間もなく喜ばしさうにその學校のある都會へ彼の妻をとり殘して歸つて行つた。

 彼の狂暴ないら立たしい心持は、この家へ移つて來て後は、漸く、彼から去つたやうであつた。さうして秋近くなつた今日では、彼の氣分も自ら平靜であつた。彼は、ちやうど草や木や風や雲のやうに、それほど敏感に、自然の影響を身に感得して居ることを知るのが、一種の愉快で誇りかにさへ思はれた。この夜ごろの燈は懷しいものの一つである。それは心身ともに疲れた彼のやうな人人の目には、柔かな床しい光を與へるランプの光であつた。彼はそのランプを、この地方へ來た行商人から二十幾錢かで買つた。その紙で出來た笠は一錢であつた。けれどもそのランプのガラスの壺は、石油を透して琥珀の塊のやうに美しかつた。或る時には、薄い紫になつて、紫水晶のことを思はせた。その燈の下で、彼は、最初、聖フランシスの傳記を愛讀しようとした。けれども彼は直ぐに飽きた。根氣といふものは、彼の體には、今は寸毫も殘されては居なかつた。さうしてどの本を讀みかけても、一切の書物はどれもこれも、皆、一樣に彼にはつまらなく感じられた。そればかりか、そんな退屈な書物が、世の中で立派に滿足されて居るかと思ふと、それが非常に不思議でさへあつた。何か――人間を、彼自身を、すべての物がこの世界とは全く違つたものから出來上つてゐる別世界へ引きずり上げて行くやうな、或はただ彼の目の前へだらしなく展げられてゐるこの古い古い世界を、全然別箇のものにして見せるやうな、或はそれを全く根柢から覆してめちやめちやにするやうな、それは何でもいい、ただもう非常な、素晴らしい何ものかが、どうかして、何處かにありさうなものだ。彼はしばしば漫然とそんなことを考へて居た。ほんとうに「日の下には新らしいものがあることは無い」のか。さうして一般の世間の人たちは、それなら一たい何を生き甲斐にして生きることが出來て居るのであるか? 彼等は唯彼等自身の、それぞれの愚かさの上に、さもしたりげに各の空虛な夢を築き上げて、それが何も無い夢であるといふ事さへも氣づかない程に猛つて生きてゐるだけではなからうか――それは賢人でも馬鹿でも、哲人でも商人でも。人生といふものは、果して生きるだけの値のあるものであらうか。さうして死といふものはまた死ぬだけの値のあるものであらうか。彼は夜每にそんなことを攷(かんが)へて居た。さうして、この重苦しい困憊しきつた退屈が、彼の心の奧底に巢喰うて居る以上、その心の持主の目が見るところの世界萬物は、何時でも、一切、何處までも、退屈なものであるのが當然だといふ事――さうしてこの古い古い世界に新らしく生きるといふ唯一の方法は、彼自身が彼自身の心境を一轉するより外にはない事を、彼が知り得た時、但、さういふ狀態の己自身を、どうして、どんな方法で新鮮なものにすることが出來るか。彼の父の慍つて[やぶちゃん注:「おこつて」。「怒つて」に同じ。]居る手紙のなかの、「大勇猛心」と呼んで居るものはどんなものか。それを何處から齎してどうして彼の心へ植ゑ込むことが出來るか。どうして彼の心に湧立たせることが出來るか。それらの一切は、彼には全然知り得べくもなかつた。さうして田舍にも、都會にも、地上には彼を安らかにする樂園はどこにも無い。何も無い。

「ただ萬有の造り主なる神のみ心のままに……」

と、そんなことを言つて見ようか。けれども彼の心は、決して打碎かれて居るのではなかつた。ただ萎びて居るだけである……。彼は太鼓のひびきに耳を傾けて、その音の源の周圍をとりかこんで居るであらう元氣のいい若者たちを、羨しく眼前に描き出した。

 彼の机の上には、讀みもしない、又、讀めもしないやうな書物の頁が、時時彼の目の前に曝されてあつた。彼はその文字をただ無意味に拾つた。彼は、又、時時大きな辭書を持ち出した。それのなかから、成可く珍らしいやうな文字を搜し出すためであつた。言葉と言葉とが集團して一つの有機物になつて居る文章といふものを、彼の疲れた心身は讀むことが出來なくなつて居たけれども、その代りには、一つ一つの言葉に就てはいろいろな空想を喚び起すことが出來た。それの靈を、所謂言靈(ことだま)をありありと見るやうにさへ思ふこともあつた。その時、言葉といふものが彼には言ひ知れない不思議なものに思へた。それには深い神的な性質があることを感じた。それらの言葉の一つ一つはそれ自身で既に人間生活の一斷片であつた。それらの言葉の集合はそれ自身で一つの世界ではないか。それらの言葉の一つ一つを、初めて發明し出したそれぞれの人たちのそれぞれの心持が、懷しくも不思議にそれのなかに殘つて居るのではないか。永遠にさうして日常、すべての人たちに用ゐられるやうな新らしい言葉のただ一語をでも創造した時、その人はその言葉のなかで永遠に、普遍に生きてゐるのではないか。さうだ、さうだ、これをもつと明確に自覺しなけりやあ……。彼はそんなことを極くおぼろげに感じた。さうして或る一つの心持を、仲間の他の者にはつきりと傳へたいといふ人間の不可思議な、靈妙な慾望と作用とに就ても、おぼろに考へ及ぶのであつた。言葉に倦きた時には、彼はその辭書のなかにある細かな揷畫を見ることに依つて、未だ見たことも空想したこともない魚や、獸や、草や、木や、蟲や、魚類や、或は家庭的ないろいろの器具や、武器や、古代から罪人の處刑に用ゐられたさまざまな刑具や、船や、それの帆の張り方に就ての種種な工夫や、建築の部分などに就て知ることを喜んだ。それらの器物などの些細な形や、動物や植物などのなかにはさまざまな暗示があつた。就中、人間自身が工夫したさまざまなもののなかには言葉の言靈のなかにあるものと全く同じやうに、人類の思想や、生活や、空想などが充ち滿ちて居るのを感じた――それは極く斷片的にではあつたけれども。さうして、彼の心の生活はその時ちやうどそれらの斷片を考へるに相應しただけの力しか無いのであつた。

 彼は、時時それらの感興の末に、夜更けになつてから、詩のやうなものを書くことがあつた。それはその夜中、彼自身には非常に優秀な詩句であるかのやうに信ぜられた。併し、翌日になつて目を覺してまつ先きにその紙の上を見ると、それは全く無意味な文字が羅列されて居るに過ぎなかつた。それは寧ろ、先づ驚くべきことであつた。――ふと、いい考へが彼のつい身のまはりまで來て居たのであつたのに。さうして、それを捉へようとした時、もうそこには何物も無かつたのである。捉へ得たと思つた時、それはただ空間であつた。ちやうど夢のなかで戀人を抱く人のやうに。そのもどかしさと一緖に、彼はふと自分の名が呼びかけられたと思つて振り返つた時、そこに言葉の主が誰も居なかつた時に似た不安をも、その度每に味うた。

 家の圖面を引くことを、彼は再び初めた。彼は非常に複雜な迷宮のやうな構へを想像することがあつた。さうかと思ふと、コルシカの家がさうであるといふやうに、客間としても臺所としても唯大きな一室より無い家を考へることもあつた。それの外形や、間どりや、窓などの部分の意匠のデテイルなどが、殆んど每夜のやうに、彼のノオトブツクの上へ縱橫に描き出された。遂には白い頁はもう一枚も無くなり、方一寸ぐらゐの餘白が最も貴重なものとして探し出されて、そこもいろいろに組合された幾多の直線で、ぎつしりと埋められてあつた。その無意味な一つ一つの直線に對して、彼は無限の空想を持つことが出來た。そんな時の彼の心持は、ただ一人で監禁された時には、無心で一途に唐草模樣を描き耽るものだといふ狂氣の畫家たちによほどよく似て居た。

 かうして、又してもたうとう生氣のない無聊が來た。さうしてそれが幾日もつづいた。

[やぶちゃん注:「佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その5)」と対照されたい。]

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