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2023/02/06

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 遠い火災を救ふた人

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事「石田三成」と同じ初出の意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。]

 

      遠い火災を救ふた人 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 明治卅七年九月十一日、予、東牟婁郡那智村大字天滿《てんま》の墓場を見る。以前、寺有しが、廢絕し、竺源《ぢくげん》てふ僧の墓あり。碑の裏に「寶曆□戌」とあるのみ。村民傳ふ、この僧、神通力あり、かつて、天滿と川關《かはせき》[やぶちゃん注:底本は「川崎」であるが、調べた地図と「選集」を参考に訂した。]の間だ、洪水で、道、絕《たえ》たるを、何の苦もなく、常の通り、步み歸つた。或時、早朝におきて、寺の石垣に水を撒く。傍人、其故を問ふに、「吾れ、本願寺の火災を救ふ。」と答へた。七日斗り經て、本願寺より、使者、到り、火を救はれた禮を述《のべ》た。かく言傳ふるのみで、いつの人やら薩張り分らぬらしい(大正十四年板、中道等氏の「津輕舊事談」七二頁に、東津輕郡今別村本覺寺の貞傳《ていでん》上人が、寺の門へ水をかけて、遙かに京の智恩院の火を救ふた話あり)。

[やぶちゃん注:「明治卅七年」一九〇四年。

「東牟婁郡那智村大字天滿」現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町天満(グーグル・マップ・データ。以下無表示は同じ)。

「竺源」不詳。

「寶曆□戌」「戌」が正しければ、宝暦四年甲戌で一七五四年。徳川家重の治世。

「川關」天満に北で接する那智勝浦町川関。

「洪水」天満が河口附近を、その上流が川関を貫流する那智川の氾濫。

「大正十四年」一九二五年。ということは、この丸括弧内は初出時ではなく、本書刊行時に追記したということになる。本書の刊行は大正十五年。

『中道等氏の「津輕舊事談」』郷土研究社の『炉辺叢書』に「津輕舊事談」があり、国立国会図書館デジタルコレクションの同書の「九 貞傳上人の話」で当該部が読める。こちらの右ページ十行目から。

「東津輕郡今別村本覺寺」津軽半島先端の湾奥の中央海浜である青森県東津軽郡今別町今別今別にある浄土宗始覚山本覚寺(しがくさんほんがくじ)。慶安四(一六五一)年に復興・建立された津軽半島で最も古い寺とされる。

「貞傳上人」良船貞伝上人 (元禄三(一六九〇)年~享保一六(一七三一)年)は同地今別の出身で、磐城(福島県)専称寺などで修学の後、今別の本覚寺住職となり、その筆になる「南無阿弥陀仏」の名号は、海上安全や安産・火防・田畑の虫除けなどの護符とされた。海中投石でのコンブ増殖を教え(先の話では紙を昆布に変えたとあったが、これで納得)、魚根(魚のたまり場)も教えるなど、産業指導者でもあった。廃品金銅物で弥陀小像一万体を造り、船の御守りなどにされた(中経出版「世界宗教用語大事典」に拠った)。法号を訪蓮社という。リンク先の記事を見るに、相当な法力を持っていたようであるが、その割には享年四十二で病没とある。]

 こんな話は支那や印度にも多い。少々、擧げてみよう。晉の葛洪の「神仙傳」五に、欒巴徵爲尙書郞(「大淸一統志」二三七に、東漢順帝時徵拜尙書〔東漢の順帝の時、徵せられて尙書を拜す〕とせり)、正旦大會、巴後到有酒容、賜百官酒又不ㇾ飮、而西南向噀之、有ㇾ司巴奏不敬、詔問ㇾ巴、巴曰、臣鄕里以臣能治ㇾ鬼護ㇾ病、生爲ㇾ臣立ㇾ廟、今旦有耆老、皆臣來廟中享ㇾ臣、不ㇾ能早飮ㇾ之、是以有酒容、臣適見成都市上一ㇾ火、臣故漱ㇾ酒爲爾救ㇾ之、非敢不一ㇾ敬、當詔問虛ㇾ詔抵上レ罪、乃發驛書成都、已奏言、正旦食後失火、須臾有大雨三陣、從東北來、火乃止、雨着ㇾ人皆作酒氣。〔欒巴(らんは)、徵せられて、尙書郞と爲(な)れり。正旦(しやうたん:元日)の大會(だいくわい)に、巴、後(おく)れて到るに、酒(さけの)みし容(けはい)有り。百官に酒を賜ふに、又、飮まずして、西南に向かひて、之れを噀(ふ)く。司(つかさ:役人)有り、「巴は不敬なり。」と奏す。詔(しやう)じて、巴を問(ただ)す。巴、奏して言はく、「臣の鄕里にて、臣の、能(よ)く鬼を治(ぢ)し、病ひより護るを以つて、生きながらにして、臣のために、廟(べう)を立てり。今旦(けさ)、耆老(きらう)ありて[やぶちゃん注:郷里の年寄連中が来て。]、皆、臣の廟中に來たりて臣を享(まつ)る、となり。臣、早(あさ)に、之れを飮む能はざるなり。是れを以つて酒(さけの)みし容(けはい)有るは、臣、適(たまた)ま、成都市(せいとし)に火の上がるを見たればなり。臣、故(ゆゑ)に酒を漱(そそ)ぎて、爾(そ)の爲めに之れを救へり。敢へて敬せざるに非ず。當(まさ)に請ふらくは、詔(せう)じて問はるべし。詔を虛(むなし)うせば、罪に抵(あた)るべし。」と。乃(すなは)ち、驛書(ひきやく)を發して、成都に問ふ。已(すで)に奏して言はく、「正旦の食後に、失火、有り。須臾(しゆゆ)にして、大雨(だいう)、三陣(みたび)有りて、東北より來たり、火、乃(すなは)ち、止(や)む。雨の、人に着(つ)けるは、皆、酒氣を作(な)せり。」と。〕「瑯邪代醉編(らうやだいすいすいへん)」二一に、光武時、駕幸南郊、光祿勳郭憲、忽面向東北、含ㇾ酒三潠、執法奏ㇾ爲不敬、詔問其故、對曰、齊國失火、故以ㇾ此厭ㇾ之、後齊果上火灾與ㇾ郊同日〔光武の時、駕(が:貴人の車)、南郊に幸(みゆき)す。光祿勳の郭憲、忽ち、面(おもて)を東北へ向け、酒を含み、三(みたび)、潠(ふ)けり。法を執るもの、奏して不敬となす。詔して其の故を問ふに、對へて曰く、「齊國に失火あり。故に、此れを以つて之れを厭(はら)へり。」と。後、齊より、果たして火灾(かさい:「灾」は「災」の異体字)のことを上(のぼ)す。郊にゆきしと、同日なり。〕と有て、次に、欒巴と一樣に、成都の火を救ふた樊英《はんえい》の事を列《つら》ぬ。英隱壺山之陽、公卿擧賢良方正有道、皆不行、甞有暴風、從西方起、英謂學者曰、成都市火甚盛、因含ㇾ水西向漱ㇾ之、乃令ㇾ記其日時、客後有從ㇾ蜀來云、是日大火有黑雲卒從ㇾ東起、須臾大雨、火遂得ㇾ滅。〔英、壺山の陽(みなみ)に隱(かくれす)めり。公卿、「賢良にして、方正、有道なり。」と擧(あ)ぐれども、皆、行かず。甞つて、暴風、有り、西方より、起こる。英、學者に謂ひて曰く、「成都市にて、火、甚だ、盛んなり。」と。因りて、水を含みて、西へ向かひて、之れを漱(そそ)ぎ、乃(すなは)ち、其の日時を記(しる)させしむ。客、後ち、蜀より來たる有りて、「是の日、大火せるに、黑雲、卒(には)かに東より起こる有りて、須臾にして大雨(おほあめふ)り、火、遂に滅(き)ゆるを得たり。」と。〕佛僧中には、佛圖澄《ぶつとちやう》、曾て、石虎《せきこ》とともに、昇中堂、澄忽驚曰、變變、幽州當火灾、仍取ㇾ酒灑ㇾ之。久而笑曰、救已得矣、虎遣ㇾ驗幽州云、爾日火從四門起、西南有黒雲來、驟雨滅ㇾ之、雨亦頗有酒氣。〔中堂に昇る。澄、忽ち、驚きて曰く、「變々(いちだいじ)なり。幽州、當(まさ)に火灾なるべし。」と。仍(よ)りて、酒を取りて、之れに灑(そそ)ぐ。久しくして、笑ひて曰く、「救ふこと、已(すで)に得たり。」と。虎(こ)、幽州に遣はして驗(しら)べしむるに、言はく、「その日、火、四門より起こるも、西南より、黑雲、有り、來たって、驟雨(しゆううふ)りて、之れを滅(け)したり。雨、亦、頗る、酒氣、有りき。」と。〕

[やぶちゃん注:『「神仙傳」五』以下の漢文であるが、「神仙傳」の当該部を所持する訳本や複数の異なる電子化物・中文の影印本等で見たが、以下に熊楠が引く文字列は存在しないようである。『もしや?』と「大淸一統志」を調べたところ、頭の部分に似たものがあったが、「二三七」は誤りで(熊楠は大部の巻数を持つ引用書の巻号をかなり有意によく間違える。博覧強記の彼も数字の記憶は苦手だったようだ)、巻二百九十四である。しかし、それも、

   *

欒巴内黃人好道順帝時徵拜尙書正旦大㑹巴後到乃飮酒西南噀之有司奏巴不敬詔問巴頓首曰臣本縣成都市失火臣故因酒爲雨以滅之詔令驛書問成都果然

   *

で本引用の中間部が、全然、ない一番似ていると感じたのは、「後漢書卷五十七 杜欒劉李劉謝列傳第四十七」の一節の注の二箇所で、中文サイト「国学导航」の当該電子化の注部分の二箇所に(表記を一部正字化した)、

   *

「神仙傳」曰、『時廬山廟有神、於帳中與人言語、飮酒投杯、能令宮亭湖中分風、船行者舉帆相逢。巴未到十數日、廟中神不復作聲。郡中常患黃父鬼爲百姓害、巴到、皆不知所在、郡内無復疾疫。』也。

「神仙傳」曰、『巴爲尚書、正朝大會、巴獨後到、又飮酒西南噀之。有司奏巴不敬。有詔問巴、巴頓首謝曰、「臣本縣成都巿失火、臣故因酒爲雨以滅火。臣不敢不敬。」。詔卽以驛書問成都、成都荅言、「正旦大失火、食時有雨從東北來、火乃息、雨皆酒臭。」。後忽一旦大風、天霧晦暝、對坐皆不相見、失巴所在。尋問之、云其日還成都、與親故別也。」。

   *

とあるのが、それである。前の注の引用部を後者の中間に嵌め込むと、かなり似てくるように思われる。しかし、ここに「神仙傳」からとする文字列は、ネット上の現在の「神仙傳」には見出せないので、その引用元の同版本の系統は今は殆んど知られていないのかも知れない(或いは、中国では失われ、本邦に残っているのかも知れない)。熊楠はそうした貴重なものを持っていたのだろうか? 長々と前振りしたが、結局、熊楠の漢文引用を校合し得る相同に近いものを見出すことが出来なかったので(今までの南方熊楠の引用漢文では初めてである)、基本、底本通りに翻刻した。但し、二箇所に出る「酒客」とあるのは訓読出来ないので、「選集」の訓読文に従い、「酒容」としたし、返り点も不全なのでいじってある。

「東漢順帝」後漢の第八代皇帝。在位は一二五年~一四四年。当時の首都は洛陽(当時は雒陽と書いた)で、そこから成都は実に直線で九百キロメートルも離れる。

「欒巴」(?~一六八年)は後漢の宦官であるが、優れた官吏でもあった。当該ウィキには、やや詳しい事績(最後は冤罪を受けて自殺している)や、以上に記されている優れた郡政や超能力も解説されてあるので見られたい。

「瑯邪代醉編」明の学者で政治家の張鼎思(ちょうけんし 一五四三年~一六〇三年)が、官吏科都給事中であった際に彈劾され、地方官に貶謫された際、その憂悶を晴らすために、諸事の記事を抜粋して分類編次した随筆。万暦二五(一五九七)年序の刊本がある。当該部は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本が視認出来る。「潠酒」とあるのが、それ。

「光武時」後漢王朝の初代皇帝劉秀(起源前六年~五七年)。

「樊英」後漢(二五年~二二〇年)の儒者。彼に纏わるこの話は、古く私の偏愛する「捜神記」第二巻にも所収する非常に有名な話である。光武帝の没年から五十七年以前の十年余りのごく短い閉区間の出来事と判る。

「壺山」河南省にある山という。河南省の端からでも、成都は南西に実に七百キロメートル以上離れている。

「佛僧中には、佛圖澄かつて石虎とともに、……」以下は熊楠が引くことが多い、「高僧伝」の第九の同話と校合した。返り点がおかしいので勝手に補正した。

「佛圖澄」(ぶっとちょう/ブッダチンガ 二三二年~三四九年)は五胡十六国時代の西域からの渡来僧。中国の「神異僧」の筆頭に挙げられる。「竺仏図澄」とも記載される。姓は白、亀茲国(きじこく/きゅうしこく:嘗て中央アジアに存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ市(庫車市)附近に相当し、タリム盆地の北側の天山南路に位置した)の出身であるとされる。三一〇年に洛陽にやって来ている。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「石虎」(二九五年~三四九年)は五胡十六国時代の後趙の第三代皇帝で、かなり凶暴な性格の猛将であったが、仏図澄を信頼した。]

 較《や》や是等に似たのは、一七五九年、スエッヅンボルグが英國から瑞典《スウェーデン》に著《ちやく》し、ゴッテンブルグのコステル氏方に十五客とともに在《あつ》た夕《ゆふべ》、三百マイル[やぶちゃん注:約四百八十三キロメートル。]距たつた「ストックホルムに、火、起り、知友の家を燒き、スの家に逼《せま》つたが、三軒めの宅きり、火が鎭まつた。」と衆に告《つげ》た處ろ、其火事の最中に出立した飛脚が、三日めの夕、ゴッテンブルグにつき、スが言《いふ》たに違はず、火の樣子を記した狀を持來つたといふ事で、それを至細に探究して報じた友人の書面をみて、哲學者カントも疑ふに餘地なく、頗る驚異した一件である。然し、此咄しには、酒や、水をふいて火を救ふた事なし(チャムバース「ブック・オヴ・デイス」一卷一八七頁)。是等よりも、釋尊が、いつち[やぶちゃん注:「いち(一)」の音便。「いっとう(一等)・最も」。]、えらく、火災で祇洹精舍《ぎをんしやうじや》[やぶちゃん注:「祇園精舍」に同じ。]が燒れんとした時、酒の、水のと、騷がずに、「我一切漏盡眞阿羅訶得佛道。」〔「我れ、一切漏盡(らうじん)して、眞の阿羅訶佛道(あらかぶつだう:「阿羅漢道」に同じ。聖者の位)を得たり。」と。〕。是、實語ならば、「火、即ち、滅せよ。」と呪願したゞけで、火、忽ち消えた(東晉の卑摩羅叉《びまらしや》譯「十誦律毘尼序」卷下)。又、「正法念處經」に、『須彌山《しゆみせん》の四埵《した》に、持鬘天あり。十住處あり、各《おのおの》、廣さ千由甸。北に四つ、東・西・南に各二つあり。東方住處、一《いつ》を「一切喜」と名《なづ》け、花を以て、持戒人を供養し、佛に供へた人、又、此に生る。二を「行道」と名づけ、炎、起こりて、衆生をやくを見、水を以て滅した果報で、ここに生る。』と出づ。かく佛敎に消防の功をほめるから、出家も火けしの術を心得たと見え、三國の時、支那へきた維祇難《いぎなん》が天竺に在《あつ》た内、小乘の沙門の、其家に宿らんとするを、拒んで、門外に露宿せしむると、その沙門、呪を以て、難が家内に祀つた火をけす。驚き、請じ入れ、供養すると、また、呪して、火を生ぜしめた。之を難がみて、その沙門に伏し、佛敎に化した、と云ふ(「高僧傳」一)。

[やぶちゃん注:「スエッヅンボルグ」心霊現象好きの方なら、小学生時代から知っている(私がそう)知られた科学者・神学者で霊界を実在するとした神秘主義者エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg  一六八八年~一七七二年:スウェーデン王国出身で、後に貴族に叙されてより「スヴェーデンボリ」の尊名を附した。「スウェーデンボルグ」「シュエデンボルグ」等とも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られる。夏目漱石の「こゝろ」の「下 先生と遺書」の「二十七」にもKが先生に『シユエデンボルグが何うだとか斯うだとか云つて、無學な私を驚ろかせました』(初出表記)と出ることでも知られる。私のブログ版「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月13日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十一回」で同時代人の若き哲人カントの評価を含め、マニアックな注を附してあるので、そちらを見られたい)の有名な「千里眼事件」である。

『チャムバース「ブック・オヴ・デイス」一卷一八七頁』十九世紀半中葉、科学と政治の世界で非常に影響力があったスコットランドのロバート・チェンバース(Robert Chambers 一八〇二年~一八七一年:出版業者であると同時に地質学者・法学博士・進化論学者・雑誌編集者にして作家でもあった)の‘The Book of Days’。Internet archive」の一八六三年版の同じページで確認出来た。

「東晉」三一七年~四二〇年。

「卑摩羅叉」知られた西域僧で訳経僧であった鳩摩羅什(くまらじゅう 三四四年~四一三年)の戒律の師(三六九年に具足戒を授かったという)であったとされる僧。

『「十誦律毘尼序」卷下』「大蔵経データベース」で校合し、落ちている「眞」を補った

「正法念處經」同前で、第二十二に、同様の記載を確認出来た。

「四埵」思うに、須弥山の四方の麓にある盛り上がった土地の意であろう。

「三國の時」魏・蜀漢・呉による時代区分の一つで、広義には「黄巾の乱」の蜂起(一八四年)による漢朝の動揺から、西晋による中国再統一(二八〇年)までを指し、狭義には後漢滅亡(二二〇年)から、晋が天下を統一した二八〇年までを指し、さらに最も狭義には、三国が鼎立した二二九年から蜀漢が滅亡した二六三年までを指す。

「維祇難」魏・呉の武昌に渡来したインドの訳経僧。

『「高僧傳」一』以上の話は「大蔵経データベース」で確認出来た。]

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