大手拓次譯詩集「異國の香」 「憑き人」(ボードレール)
[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。標題のルビ(「憑」のみ附されてある)はみっともない感じがするので上付きにした。原詩の標題‘Le Possédé’は「悪魔にとり憑かれた人」の意。「狂人」の意もある。]
憑(つ) き 人 ボードレール
太陽は黑布(クレープ)でおほはれた。
そのやうにわたしの命(ヴイ)の月も影につつまれよ、
おまへの隨意に鍍金し、 あるひは煙らせよ、
また沈默にほのぐらくたもちつつ、 退屈のふかみにのこりなくしづみゆけ。
わたしはこのやうにお前を愛する。 しかしおまへが今にも、
半影(ペノンブル)から生ずるかげつた星のやうに
道化役がじやまをする場所におまへを誇らうとするならばそれもよい!
妖靈なる短刀(ポアナール)はおまへの鞘からはしりでよ!
燭臺の焰におまへの瞳を點火せよ!
野人の注意のなかに希望を點火せよ!
おまへのすべては、わたしにとつて繊麗なせはしい娛樂である。
おまへの望むものは、くろい夜、 くれなゐの曙であれ、
ふるへてゐる私の全身の筋(すぢ)は一つとして
『おお親しいペルゼエブスよ、私はお前を禮拜する』と叫ばないものはない。
[やぶちゃん注:堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の本篇(堀口氏の標題訳は「憑かれた男」である)の訳者註に、『雜誌『フランス評論』一八五九年一月二十一日號に發表』としつつも、『原稿によると』前年『一八五八年の作』とする。
「黑布(クレープ)」以下に示す通り、原詩の「縮み織りで作った黒い喪章のベール」を意味する“crêpe”の音写をそのままルビとした。
「命(ヴイ)」同前で“vie”、「生命・生・人生・一生・生涯」のそれ。
「月」「つき」。言うまでもないが、“Lune”であるから、英語の“Moon”のそれ。彼の人生自体が自らは輝かない月のようなネガティヴなものなのである。
「鍍金」「メッキ」。しかし、拓次はこの一行の前半を致命的に誤読している。頭の“Dors”は「眠る」の意の“dormir”の現在形であるのを、「金鍍金する」の意の“dorer” と取り違えてしまっている。この頭は「好きなだけ眠ったり、煙草を吹かしたりしていいが、」である。
「退屈」原詩では“Ennui”。個人的には「アンニュイ」とルビするか、「倦怠」としたい気がする。
「半影(ペノンブル)」原詩の“pénombre”の音写をルビしたもの。物理学用語では確かに「半影」であるが、「絵画の明暗の境目(さかいめ)」や単に「薄暗がり」をも意味する。ここは最後の「薄暗がりから」の方が、以下との表現との関係上では、分りいいように感じる。
「かげつた星」原詩の“éclipsé”は「エクリプス」でお馴染みの「日食」のことであるが、ここは日食のように全部或いは一部が触(しょく)を起こして欠けている状態から、原形を漸く僅かずつ現わすように、見かけ上、見えるような感じで、という比喩を言っているものととる。
「道化師」原詩では、“la Folie”と大文字になっているのに着目すると、腑に落ちる。通常、この単語は「狂気」・「熱狂」・「馬鹿げた滑稽なこと」の意であるが、大文字で「快活を象徴する独特の帽子を被り、鈴を付け、錫杖を持った人物」とあるからである。
「短刀(ポアナール)」“poignard”は「短刀」の意であるが、音写は「ボヮンニャール」に近い。
「おまへのすべては、わたしにとつて繊麗なせはしい娛樂である。」“morbide ou pétulant;”が訳されていない。「病的か、激しく手に負えない存在であっても、」。
「ペルゼエブス」“Belzébuth”はフランス語の音写は「ベルゼビューット」に近い。所謂、「蠅の王」(「糞の王」とも)の意の、現在ではキリスト教の悪魔の中でも強大兇悪の存在とされる「ベルゼブブ」(ラテン語:Beelzebub)のことである。
以下、英訳付きの英文サイトのものを、フランス語サイトのこちらのものと校合した。
*
Le Possédé Charles Baudelaire
Le soleil s'est couvert d'un crêpe. Comme lui,
Ô Lune de ma vie ! emmitoufle-toi d'ombre;
Dors ou fume à ton gré; sois muette, sois sombre,
Et plonge tout entière au gouffre de l'Ennui;
Je t'aime ainsi! Pourtant, si tu veux aujourd'hui,
Comme un astre éclipsé qui sort de la pénombre,
Te pavaner aux lieux que la Folie encombre,
C'est bien ! Charmant poignard, jaillis de ton étui !
Allume ta prunelle à la flamme des lustres !
Allume le désir dans les regards des rustres !
Tout de toi m'est plaisir, morbide ou pétulant;
Sois ce que tu voudras, nuit noire, rouge aurore;
II n'est pas une fibre en tout mon corps tremblant
Qui ne crie: Ô mon cher Belzébuth, je t'adore!
*
以上のように、本篇も四連構成とするのが、諸訳者でも共通しており、原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)の「翻訳篇」でも四連構成に変えてある。以上の正字のものを、そのようにして以下に示す。
*
憑(つ) き 人 ボードレール
太陽は黑布(クレープ)でおほはれた。
そのやうにわたしの命(ヴイ)の月も影につつまれよ、
おまへの隨意に鍍金し、 あるひは煙らせよ、
また沈默にほのぐらくたもちつつ、 退屈のふかみにのこりなくしづみゆけ。
わたしはこのやうにお前を愛する。 しかしおまへが今にも、
半影(ペノンブル)から生ずるかげつた星のやうに
道化役がじやまをする場所におまへを誇らうとするならばそれもよい!
妖靈なる短刀(ポアナール)はおまへの鞘からはしりでよ!
燭臺の焰におまへの瞳を點火せよ!
野人の注意のなかに希望を點火せよ!
おまへのすべては、わたしにとつて繊麗なせはしい娛樂である。
おまへの望むものは、くろい夜、 くれなゐの曙であれ、
ふるへてゐる私の全身の筋(すぢ)は一つとして
『おお親しいペルゼエブスよ、私はお前を禮拜する』と叫ばないものはない。
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