西播怪談實記 新宿村春名氏家僕犬蛇を見し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。]
◉新宿村春名氏《はるなうぢ》家僕(かぼく)大蛇(だいじや)を見し事
佐用郡新宿村に春名何某(《なに》かし)といへる農家あり。
延寶年中の事なりしに、五兵衞といふ下男有しが、五月雨(さみたれ)、降《ふり》つゝきて、洪水、成ければ、
「水流(みなかれ)を拾《ひろ》はん。」
と、棹(さほ)の先に、鎌を結付(ゆい《つけ》)て、河端に行《ゆき》、流れくる木を待《まち》ゐたるに、河上ヘ、大キなる木の、流來(《ながれ》く)るを見て、悅び、
「拾ひ得て、德をとらん。」
と、手くすみを引《ひき》て居たる所へ、間近(まちか)く流寄《ながれよれ》ば、鎌を出《いだ》して、既に打立《うつたて》んとせし時、頭《かしら》を指延(さしのば)して口を明《あけ》たる所、箕《み》を合《あはせ》たるやうにて、其赤き事、朱塗(しゆぬり)のごとく、勢ひのすさまじさ、いわん方なく、鎌も打捨、跡をも見ずして、にげ歸る。
顏色、常ならず、直(すく)に寢間へ入《いり》て、打臥《うちふし》ければ、藥など吞《のま》せ、介抱しけれども、とかく、ものもいはず、四五日斗《ばかり》、すやすやと臥(ふし)けるが、後(のち)に、氣、正しく成て、有《あり》し子細を語り、
「歸る道すがらの草も木も、皆、彼形(かのかたち)に見へける。」
となん。
終(つい)に廿日斗過《すぎ》て死けるよし。
予が本家にて、今に其噺《そのはなし》、殘りて、聞《きき》つたふ趣を書傳ふものなり。
[やぶちゃん注:その上流から流れてきたのは、良材になる倒木ではなく、所謂、巨大な蟒蛇(うわばみ)であったわけだが、標題を除いて、蛇という語を本文では一切使わずに、その映像をはっきり読者に再現して不満がないところに、本怪奇談のオリジナルな醍醐味があると言える。
「佐用郡新宿村」現在の兵庫県佐用郡佐用町西新宿附近であろう(グーグル・マップ・データ)。
「延寶年中」一六七三年から一六八一年まで。]