柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版電子化注始動 / 自序・妖怪談義(狭義の正篇)
[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。
以下の正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く。
注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。
なお、以下の狭義の「妖怪談義」は昭和一一(一九三六)年三月発行の『日本評論』初出である。]
妖 怪 談 義
自 序
どうして今頃この樣な本を出すのかと、不審に思つて下さる人の爲に、言つて置きたいことが幾つかあります。第一にはこれが私の最初の疑問、問へば必ず誰かゞ說明してくれるものと、あてにして居たことの最初の失望でもあつた事であります。私の二親は幸ひに、あの時代の田舍者の常として、頭から抑へ付けようともせず、又笑ひに紛らしてしまはうともしませんでした。ちやうど後年の井上圓了さんなどとは反對に、「私たちにもまだ本たうはわからぬのだ。氣を付けて居たら今に少しづゝ、わかつて來るかも知れぬ」と答へて、その代りに幾つかの似よつた話を聽かせられました。平田先生の古今妖魅考を讀んだのは、まだ少年の時代のことでしたが、あれではお寺の人たちが承知せぬだらうと思つて、更に幾つもの天狗・狗賓に關する實話といふものを、聽き集めて置かうと心がけました。
[やぶちゃん注:「井上圓了」(安政五(一八五八)年~大正八(一九一九)年)は哲学者。東京大学哲学科卒。在学中の明治一七(一八八四)年に『哲学会』を発足、三年後には哲学書院を創立して『哲学会雑誌』を創刊した。同年には哲学館(現在の東洋大学)を創設、哲学を中心とした高等教育を大衆が学ぶことが出来るようにした。また同時期に『政教社』を結成して『日本人』を発刊、新来の西洋人文科学を認めつつ、本邦固有の学問体系の保存を主張した。著書は純正哲学を説き、進化論に基づいてキリスト教を批判、心理学・心理療法の紹介にも努めた。一方で、学際的分野として、民間の旧来の土俗伝承・噂話・迷信を撲滅して近代化を図るためとする科学概論としての「妖怪学講義」(明治二七(一八九四)年を始めとする現実分析に基づく特異な否定検証の妖怪学の著作を多く残した(それらは私も総て所持している)。柳田國男は民俗伝承としてのそうした妖怪・幽霊・噂話を徹底的に当時の科学的物差しで一刀両断にしているものが多く、柳田國男は、しばしば、彼の反則的『妖怪学』について、その学問としての分析法が致命的に間違っているとして、強く批判している。
「平田先生の古今妖魅考」特の神道観・幽界観を構築した復古神道・国学の「四大人」(他は荷田春滿(かだのあずままろ)・賀茂眞淵・本居宣長)の一人とされる平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年)の幽冥界の実在を主張し、「妖魅」(=天狗)の考証と、知られた過去の名僧を「堕天狗」と指弾した文政四(一八二一)年稿成立、浄書完成は文政一一(一八二八)年。全七巻。林羅山の「本朝神社考」の中の天狗に関する考察に共鳴して執筆したもので、仏教の天堂と地獄が幻想に過ぎないことを説いた。
「狗賓」「ぐひん」は「狗品・倶品」とも書き、天狗の異称、或いは、一種とされる鬼神・妖怪。狼の姿をしており、犬の口を持つともされる。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]
川童《かつぱ》を私などの故鄕ではガタロ卽ち川太郞と申しました。家が市川の流れと渡しに近かつたために、その實害は二夏と途絕えたことは無く、小學校の話題は秋のかゝりまで、ガタロで持切りといふ姿でありました。それから大きくなつて三十年餘、ずつと續けてといふとうそになりますが、旅に出たり本を讀んだりして、その頃を思ひ出すことが益々多く、たうとう持ち切れなくなつて大正三年、世間が全く改まらうとする頃に入つて、川童駒引《かつぱこまびき》といふ古風な一册の本を世に出すことになりました。今となつて考へると、これが適當な時節であつたとは言はれませんが、少なくとも問題の保存には役立ちました。私などのうつかり見過さうとして居た隅々の事實が、各地の同志者によつて注意せられ、又報告せられるやうになりました。うすうすは自分もさうでないかと思つて居たことが、もう今日ではほゞ確かになつた例が幾つかあります。
[やぶちゃん注:「私などの故鄕」柳田國男は明治八(一八七五)年に飾磨(しかま)県神東(じんとう)郡辻川村(現:兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町(ふくさきちょう)西田原(にしたはら)辻川)生まれで(彼は六男で、父は医師)、生家はグーグル・マップ・データのここ(以下、無指示は同じ)であり、「市川」は、その西直近を流れる。
「ガタロ」「河太郞(がたらう)」の転訛。
「川童駒引」同名の柳田國男の著作はない。恐らくは「山島(さんとう)民譚集」(大正三(一九一四)年甲寅(こういん)叢書刊行会刊)の「河童駒引」パート等を指すものと思われる。同作は私のこのブログ・カテゴリ「柳田國男」で電子化注を二〇一九年に終わっている。第一回はここ。]
たとへば川童の地方名は、何處へ行つても大抵はカハの童兒、そのカハは水汲み場又は井堰《ゐせき》のことでありました。沖繩の諸島に行くと、こちらの川童卽ちカワラハとよく似た靈物を、インカムロとカーカムロとの二つに分けて居ります。卽ち海の童と井の童で、曾ては海中の盡きぬ寶と、次々耕されて來た陸上の富とが、共にこの幼ない神たちの管理に屬したことを、語るものかと思ひます。日本の古典の中の珍しい文字使ひ、遠い航路を守る神で、同時にみそぎといふ嚴重な神事に立會ひたまふ神が、しばしば少童《せうどう》といふ漢語を以て表現せられてあるのも、恐らくこの方面からでないと說明が出來ぬかと思ひます。
[やぶちゃん注:「インカムロとカーカムロ」「イン」はしばしば聴く「うみんちゅ(海)人」の「うみん」が実際には「う」と「い」の中間音であることから「海」の、「カー」は「井」(井戸・井泉)の沖縄方言である。「カムロ」は「禿(かむろ)」で「お河童頭」のこと。]
こんな話をつゞけると、愈々序文らしくなくなりますが、終りにもう一つだけ附け加へたいことは、最初この本に入れるつもりで、後に削つてしまつた砂まき狸の話であります。これは說明があまりにあくどいので、一應引込めて置いたのですが、あれにもなつかしい思ひ出が永く附き纏うて居ります。私がたしか十四歲の年、兩親に離れて遠く利根川の岸の町に住んで居た頃、始めてこの話を聽いて大きな印象を受けました。話をしてくれたのは四十ばかりの女性で、さう巧妙であつたわけではありませんが、問題の樹といふのがこんもりと、たつた一本だけ堤のつい目のさきに見えて居るので、渡し小屋の床几《しやうぎ》に腰を掛けるたびに、何囘でもその折の光景を胸に描いて見たのであります。月の明るい夏の晚の宵の口に、下から土手づたひに歸つて來た或人が、ちやうどこの近くまで來ると一匹の小さな獸が、土手を飛び越えて水の岸まで走つて行くのを見ました。砂場の廣さは二三十間で、何も植ゑては無かつたといひます。この近くには農家も一軒あるので、そこの猫だらうとは思つたのですが、少し擧動が變つて居るので、步みを緩めて遠くから見て居ますと、一旦淺瀨の水の中をあるいてから、すぐに砂地の上をころころと轉げまはりました。さうして引返して來て土手の上の、そのこんもりとした一本木の梢に、かき登つてしまつたといふのであります。そこで漸く猫では無いと心づいて、用心をしいしいその樹の下を通つて來ると、果せるかな澤山の砂が降つて來ましたが、樂屋を見て居るから、聲を立てる程には驚かなかつたといふ話。これを私が戶川殘花先生の編集せられた「たぬき」といふ本に、全部實話のつもりで報告してしまつたのであります。今から心付くと、あれは狸の爲には迷惑な、輕妙なこしらへ話でありました。
[やぶちゃん注:「戶川殘花」(とがはざんくわ)は幕末の元旗本で、文学者(詩人・評論家)にしてキリスト教プロテスタント系の『日本基督教会』の牧師でもあった戸川安宅(とがわやすいえ 安政二(一八五五)年~大正一三(一九二四)年)のこと。名は当初は隼人、後に達若とし、次いで安宅と改めた。残花は雅号。
「二三十間」約三十六~五十四・五メートル。
「たぬき」は戸川残花の編で複数の記者の叙述から成る、大正七(一九一八)進堂書店・清和堂書店刊の、本邦のタヌキの民俗学的随筆集。国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来るが、柳田國男の名も扉下に並ぶ著者名の十八名の中にある。柳田の記事は「狸とデモノロジー」という標題で、ここから視認出来る(これはいつか電子化するが、私は一部を『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 二十一 狸の最後』の注で紹介しているので見られたい)。なお、タヌキはイヌ科の動物の中では、特異的に木に登ることが出来る数少ない種であるが、柳田は「猫だったら、木に登らない」と考えているのは大いなる誤りである。ネコは、しっかりがっちり木に登る。]
戶川さんは、今でも覺えて居る人が多いと思ひますが、半生を江戶會誌の事業にさゝげられた老學者で、この頃は紀州の德川侯などと共に、今いふ文化財の保存事業に手を着けて居られました。段々生物學方面の人の話を聽いて見ると、狸くらゐ耕作者のために、蔭の援助をつゞけて居る野獸は少ないのに、由無き「かちかち山」などの昔話が流布したばかりに、居れば必ず捕つて食はれるまでに、農家の同情を失つてしまひ、近年はめつきりと數を減じ、野鼠や害蟲の害がこの爲に非常に多くなつたといふことだ、これは何でも一つ、心ある人たちの協力の下に、この狸の眞實を世に明らかにしなければならぬといふ趣意から、最初に先づ喚びかけられたのが狸の會といふ、數年前から出來て居た有力な團體でありまして、それがこの珍しい一卷の書の、發行にも參與して居たのであります。
[やぶちゃん注:「江戶會誌」戸川が中心となって発行された旧幕臣についての研究雑誌『舊幕府』のことであろう。]
東京にも以前は確に狸屋敷といふ評判の家がありました。現に私なども中學生の頃に、二年足らずもさういふ家に、兄と共に住んで居たこともありますが、よほどびくびくして居ても、曾てそれらしい形跡が無く、たまたま二階の雨戶にさはる音を聽いて、がらりと開けて見たら尾の長い猫だつたので、兄が狂歌を詠んだといふ位が思ひ出であります。あれから又ざつと六十年、地下には色々の人の掘つた橫穴が縱橫に通り拔けて居る世の中に、いくら理解があり趣味が豐かな人たちであらうとも、こゝで狸の眞相を究めさせようとしたことは、戶川先生の無理な望みでした。しかも考へて見なければならぬことは、かうしたきらめくやうな新しい文化の中に於て、なほ且つ古風きはまる化け物を信じたり怖れたり、たまたまおまけだ誤解だといふことがわかつても、それを噂にして人に話して見たり、自分も時々はもしやと思つたり、更に巧者な人は新たにこしらへて世に傳へ、こればかりはいつも舶來の更に精妙なるものを以て、さし換へて置かうとする者の無いことであります。
私は幼少の頃から大分この方面にむだな時間を費しましたけれども、今となつてはもう問題を限定しなければなりません。我々の畏怖といふものゝ、最も原始的な形はどんなものだつたらうか。何が如何なる經路を通つて、複雜なる人間の誤りや戲れと、結合することになつたでせうか。幸か不幸か隣の大國から、久しきに亙つてさまざまの文化を借りて居りましたけれども、それだけではまだ日本の天狗や川童、又は幽靈などといふものゝ本質を、解說することは出來ぬやうに思ひます。國が自ら識る能力を具へる日を、氣永く待つて居るより他は無いやうであります。
昭和三十一年十二月
妖 怪 談 義
一
化け物の話を一つ、出來るだけきまじめに又存分にして見たい。けだし我々の文化閱歷のうちで、これが近年最も閑却せられたる部面であり、從つて或民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供與する資源でもあるからである。私の目的はこれに由つて、通常人の人生觀、分けても信仰の推移を窺ひ知るに在つた。しかもこの方法をやゝ延長するならば、或は眼前の世相に歷史性を認めて、徐々にその因由を究めんとする風習をも馴致《じゆんち》し、迷ひも悟りもせぬ若干のフィリステルを、改宗せしむるの端緖を得るかも知れぬ。もしさういふ事が出來たら、それは願つても無い副產物だと思つて居る。
[やぶちゃん注:「馴致」ある状態に徐々に馴染ませること。
「フィリステル」Philister。ドイツ語で、元は「聖書」に出る「ペリシテ人」(ヘブライ人を圧迫した非セム系民族)であるが、転じて「俗物・小市民」の意。]
私は生來オバケの話をすることが好きで、又至つて謙虛なる態度を以て、この方面の知識を求め續けて居た。それが近頃はふつとその試みを斷念してしまつたわけは、一言で言ふならば相手が惡くなつたからである。先づ最も通例の受返事《うけこたへ》は、一應にやりと笑つてから、全體オバケといふものは有るもので御座りませうかと來る。そんな事はもう疾くに決して居る筈であり、又私がこれに確答し得る適任者でないことは判つて居る筈である。乃《すなは》ち別にその答が聽きたくて問ふのでは無くて、今はこれより外の挨拶のしやうを知らぬ人ばかりが多くなつて居るのである。偏鄙な村里では、怒る者さへこの頃は出來て來た。なんぼ我々でも、まだそんな事を信じて居るかと思はれるのは心外だ。それは田舍者を輕蔑した質問だ、といふ顏もすれば又勇敢に表白する人もある。そんならちつとも怖いことは無いか。夜でも晚方でも女子供でも、キャッともアレエともいふ場合が絕滅したかといふと、それとは大ちがひの風說はなほ流布して居る。何の事は無い自分の懷中にあるものを、出して示すことも出來ないやうな、不自由な敎育を受けて居るのである。まだしも腹の底から不思議の無いことを信じて、やつきとなつて論辯した妖怪學時代がなつかしい位なものである。無いにも有るにもそんな事は實はもう問題で無い。我々はオバケはどうでも居るものと思つた人が、昔は大いに有り、今でも少しはある理由が、判らないので困つて居るだけである。
二
都市の居住者の中には、今は却つて化け物を說き得る人が多い。これは一見不審の樣であるが、その實は何でも無いことで、彼等は殆と[やぶちゃん注:ママ。]例外も無く、幽靈をオバケと混同して居るのである。幽靈の方ならば、町の複雜した生活内情の下に發生し易く、又少々は心當りの有る人もあつて、次々の噂は絕えず、信じて怖れをのゝく者も出て來るので、これを我同志者と心得て意見を交換しようとすると、がつかりする場合ばかり多いのである。幽靈もそれ自身討究されてよい現象であり、又最初の聯絡と一致點はあつたかも知らぬが、近世は少なくとも丸で物がちがつて居て、此方は言はゞ御寺の管轄であつた。それをオバケとは謂ふ者はあつても、化け物と謂ふとまだ何だか變に聞える。お岩も累(かさね)も見覺えが有るからこそこはいので、これを化けて出るといふのは言葉の間違ひである。へんぐえといふからには正體が一應は不明で、しまひに勇士に遭つて見顯はされるものときまつて居る。それを平知盛幽靈なりなどと、堂々と自ら名乘つて出たものと一つに見るのは、つまりは本物の種切れとなつて後まで、なほこの古い名前に對する關心の、失せて居なかつた證據とも見られる。
[やぶちゃん注:「へんぐえ」ママ。「變化」であろう。柳田の生国の訛りか、或いは、異界の存在を指す場合に、普通でない読み方や、正しい歴史的仮名遣を確信犯で奇異な読みに変えて発音することは、古くから本邦の民俗社会で行われてきたことから、そうしたものの一つとして、柳田個人が親しんでいた表現なのかも知れない。例えば、知られた妖怪オール・スター・キャストのオンパレードとして知られる「稲生物怪禄」の最後に現われる親玉が「山本五郎左衛門」と称するが、その姓を敢えて「やまもと」と読まず「さンもと」と読むような類いである。]
誰にも氣のつく樣なかなり明瞭な差別が、オバケと幽靈との間には有つたのである。第一に前者は、出現する場處が大抵は定まつて居た。避けてそのあたりを通らぬことにすれば、一生出くはさずに濟ますことも出來たのである。これに反して幽靈の方は、足が無いといふ說もあるに拘はらず、てくてくと向ふから遣つて來た。彼に狙はれたら、百里も遠くへ逃げて居ても追掛けられる。そんな事は先づ化け物には絕對に無いと言つてよろしい。第二には化け物は相手を擇ばず、寧ろ平々凡々の多數に向つて、交涉を開かうとして居たかに見えるに反して、一方はたゞこれぞと思ふ者だけに思ひ知らせようとする。從うて平生心掛けが殊勝で、何等やましい所の無い我々には、聽けば恐ろしかつたらうと同情はするものゝ、前以て心配しなければならぬ樣な問題では無いので、たまたま眞つ暗な野路などをあるいて、出やしないかなどとびくびくする人は、もしも恨まれるやうな事をした覺えが無いとすれば、それはやはり二種の名稱を混同して居るのである。最後にもう一つ、これも肝要な區別は時刻であるが、幽靈は丑みつの鐘が陰にこもつて響く頃などに、そろそろ戶を敲いたり屛風を搔きのけたりするといふに反して、一方は他にも色々の折がある。器量のある化け物なら、白畫でも四邊を暗くして出て來るが、先づ都合のよささうなのは宵と曉の薄明りであつた。人に見られて怖がられる爲には、少なくとも夜更けて草木も眠るといふ暗闇の中へ、出かけて見た所が商賣にはならない。しかも一方には晚方の幽靈などといふものは、昔から聽いたためしが無いのである。大よそこれほどにも左右別々のものを、一つに見ようとしたのはよくよくの物忘れだと思ふ。だから我々は怪談と稱して、二つの手をぶら下げた白裝束のものを喋々《てふてふ》するやうな連中を、よほど前からもうこちらの仲間には入れて居ないのである。
三
そこで話はきつすゐの晚方のオバケから始めなければならぬのだが、夕をオホマガドキだのガマガドキだのと名づけて、惡い刻限と認めて居た感じは、町では既に久しく亡びて居る。私は田舍に生れ、又永い間郊外の淋しい部落に住んで居る爲に、まだ少しばかりこの心持を覺えて居る。古い日本語で黃昏をカハタレと謂ひ、もしくはタソガレドキと謂つて居たのは、ともに「彼は誰」「誰ぞ彼」の固定した形であつて、それも唯單なる言葉の面白味以上に、元は化け物に對する警戒の意を含んで居たやうに思ふ。現在の地方語には、これを推測せしめる色々の稱呼がある。例へば甲州の西八代《にしやつしろ》で晚方をマジマジゴロ、三河の北設樂《きたしたら》でメソメソジブン、その他ウソウソとかケソケソとか謂つて居るのは、何れも人顏のはつきりせぬことを意味し、同時に人に逢つても言葉も掛けず、所謂知らん顏をして行かうとする者にも、これに近い形容詞を用ゐて居る。歌や語り物に使はれる「夕まぐれ」のマグレなども、心持は同じであらう。今でも關東ではヒグレマグレ、對馬の北部にはマグレヒグレといふ語がある。東北地方で黃昏をオモアンドキと謂ふのも、やはりアマノジャクが出てあるく時刻だといふから、「思はぬ時」の義であつたらしく考へられる。
[やぶちゃん注:「オホマガドキ」「大禍時」「大魔が時」「逢魔が時」などと表記する。言うまでもなく、大きな災いの起こりがちな時刻の意から、そうした魑魅魍魎の跳梁が始まるとされた、夕方の薄暗い頃を指す語となった。その時間帯は異界との境界の時空間の変質する時に当たり、柳田の言うように、暗いから相手の顔が判り難いことから「彼(か)は誰(たれ)ぞ」で「かはたれ時(どき)」となり、「誰(た)ぞ」(=そ)「彼は」で「たそかれ時」という語が生まれたのである。夕方暗くならないうちに母が子を呼び返すのも、人の顔が判らないということは、それが運命共同体である村の外部からやってきた異邦人や、ひいては、生身の人間ではない物の怪的、或い、は霊的・妖怪的な、非人間の異形の存在である危険性を孕んでいるからである。「ガマガドキ」は「魔が時」の転倒で、やはり、異界の反転空間を示したり、注意を促すための、逆転であろう。
「西八代」現在の山梨県の南部中央部、富士山の北西の麓一帯の旧郡名。当該ウィキの地図で確認されたい。
「マジマジゴロ」「咒咒頃」ではなく、副詞の「まじまじ」(と見る)のそれで、薄暗いが故に顔や姿がはっきりしない故に、「目を離さずに一心に見つめねばならない頃」の意であろう。同じ語が宮城県でも採取されている。
「北設樂」愛知県の北東部の郡名。旧域は当該ウィキの地図を見られたい。
「メソメソジブン」「気弱で、何かというとすぐ泣き悲しんだりするさま」を表わす「めそめそ」は、転じて「勢いや能力が衰えたり、小さくなったりするさま」を表わす。則ち、これも薄暗くて視認能力や気力が減衰したり、怖気づいたりする「時分」を言うのであろう。
「ウソウソ」「落ち着かない態度で、見回したり歩き回ったりするさま」を表わす語で、「きょろきょろ・うろうろ・まごまご」と同じで、転じて、ズバリ、「どことなく物事のはっきりしないさま」を表わす語でもある。
「ケソケソ」博多方言で「けそけそする」は「落ち着きがない」の意である。
「マグレ」「紛(まぎ・まぐ)れる」の名詞形である。「まぎれる」には「入り雑じってしまって区別がつかなくなってしまう・はっきりしなくなる」の意がある。
「オモアンドキ」「思もわん時」(=「思わぬ時」)という古い東北方言で、やはり、妖怪が出るとされた黄昏時を指す。]
村では氣をつけて見るとかういふ時刻に、特に互ひに挨拶といふものを念入れて、出來る限り明確に、相手の誰であるかを知らうとする。狹い部落の間ならば、物ごし肩つきでも大抵はすぐに判る筈だが、それでも夕闇が次第に深くなると、さうだと思ふが人ちがびかも知れぬといふ、氣になる場合が隨分ある。最も露骨なのが何吉かと呼んで見たり、又はちがつてもよい積りで、丁寧に「お晚でございます」と謂つたりする。それもしないのはもう疑はれて居るので、卽ち所謂うさん臭いやつである。だからこの樣な時刻に里を過ぎなければならぬ他所者《よそもの》は、見られる爲に提灯を提げてあるく。その前は恐らく松の火であつたらう。見馴れぬ風體《ふうてい》で火も無しにあるくといふのは、化け物でなくともよくない者にきまつて居る。さう取られても致し方の無い所に、旅の夕《ゆふべ》のかなしさといふものは始まつて居る。それがこの節は町の子供などに、もう提灯は火事か祝賀會か、涼み舟ぐらゐの聯想しか浮ばなくなつた。さうして又白晝にも知らぬ人同志が、互ひにウソウソと顏を見てすれちがふやうになつた。化け物の世界も一變しなければならぬわけである。
四
この見たことの無い他所者のことを、肥前の上五島《かみごとう》などではヨシレンモンと謂つて居る。今では小兒の間にしか用の無い語かも知れぬが、昔の無事太平の田舍では、それが通つたゞけでももう一つの事件であつた。私などの小さい頃には、ヨソの人といふ語にこの不安を托して居たが、少し西へ行くとボウチといふ語がある。岡山縣でも Stranger を意味する語を、面と向つてはボーッツアン、陰ではやはりボウチと謂つて居る。同じ呼び方は備後から安藝、或はもつと西へも及んで居るやうだが、その起りは未だ明らかでない。越中の氷見地方では、以前賤しめられた或部落をボーシ、遠江ではこれをホチ・ポチ、又はポチロク、三河では下級の職工にホチと呼ばれる者があるから、事によると法師といふ語からの分化かも知れぬが、とにかくに子供たちには氣味の惡い、普通の通行人とは全く別なものに、感じられて居たことはほゞ慥かで、少なくとも中國地方のボウチには、薄暮の影響があつたかと思ふ。九州の南部は日向でも大隅でも、ヤンボシと謂へば化け物のことである。夜分山路をあるくと時々出逢ふもの、坊主が首を縊つた處には必ず出るといふ、ぼうとした大きな人影のやうな妖怪ださうで、只の山伏もヤンボシ又ヤンブシと謂つて通ずるが、此方は通例ヒコサンと謂はれて居る。
[やぶちゃん注:「上五島」五島列島の北部分。
「ヨシレンモン」「よう(は)知れん(胡乱(うろん)な)者」か。
「ボウチ」「ボーッツアン」「ボーシ」「ホチ・ポチ」「ポチロク」「ホチ」これらは私には、皆、行脚僧や、坊主のなりをした願人坊主(がんにんぼうず)や、あくどい売僧(まいす)といったものを孰れからも連想される。「法師(ほふし)」「坊(ばう・ぼん)さん」「發地(ほち・ぼち・ぽち)」(僧の別称)が古くからある語だからである。なお、「ろく」は大阪で「乞食」の意がある。]
だから黃昏に途《みち》を行く者が、互ひに聲を掛けるのは竝《なみ》の禮儀のみで無かつた。言はゞ自分が化け物でないことを、證明する鑑札も同然であつた。佐賀地方の古風な人たちは、人を呼ぶときは必ずモシモシと謂つて、モシとたゞ一言いふだけでは、相手も答へをしてくれなかつた。狐ぢやないかと疑はれぬためである。沖繩でも以前は三度呼ばれる迄は、返事をしてはならぬといふ、甚だ非社交的なる俗信があつた。二度までは化け物でも呼び得るからと言つたが、無論これは夜分だけの話であらう。加賀の小松附近では、ガメといふ水中の怪物が、時々小童に化けて出ることがある。誰だと聲を掛けてウワヤと返事をするのは、きつとそのガメであつて、足音もくしやくしやと聞えるといふ。能登でも河獺《かはうそ》は二十歲前後の娘や、碁盤縞の着物を着た子供に化けて來る。誰だと聲かけて人ならばオラヤと答へるが、アラヤと答へるのは彼奴である。又おまへは何處のもんぢやと訊くと、どういふ意味でかカハイと答へるとも謂ふ。美濃の武儀《むぎ》郡でも狸が今晚はと謂つて戶を開けたりすることがあるが、誰ぢやと聲かけるとオネダと答へるさうだ。オレダといふことが出來ぬので、化けの皮が露はれるのである。土佐の幡多郡でも、狸には誰ぢやときくと必ずウラヂャガと答へるといふ。卽ちオラとは謂ひ得ないのである。そこで此方でも「ウラならもとよ」と言ひ返してやると、もう閉口して化かすことは無いといふ。人の至つて多い都會のまん中にも、今なほ「今晚は」・「どなた」・「あのわたくし」などといふ問答はよく行はれ、あぶない話だがこれだけで直ちに承認される。それほどまでに我々は、互ひの語音を記憶し合つて居るので、從つて己《おれ》をウラと謂ふ地方の人々は、うつかり土佐の幡多《はた》郡へは行けなかつた。しかしそんなに近づいてからでは、遁げるにも實は骨が折れる。これは先づ一つの噂であつて、人々はそれよりももつと遠くから、用心して居たに違ひないのである。陸中大槌《おほつち》地方の小兒等は、狐は人に化けても手頸のクロコボシが無いから直ぐ判る。だから狐らしいと思つたら、手を出して見せろといふがよいなどといふが、そんな大膽な事はいよいよ出來さうにも無い。
[やぶちゃん注:「ガメ」北陸地方で河童を指す語。
「河獺」日本人が滅ぼしたユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon 。河童の原形の一つともされ、民俗社会では狐狸とともに人を誑(たぶら)かす妖怪扱いもされていた。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を読まれたい。
「武儀郡」現在の岐阜県南部の中央附近にあった旧郡。旧郡域は当該ウィキと、地図を見られたい。
「土佐の幡多郡」高知県幡多郡の旧郡域は高知の南西の四分の一を占めた広域である。当該ウィキと、地図を参照。
「ウラならもとよ」意味不明。郷土史家の御教授を乞うものである。
「陸中大槌地方」岩手県上閉伊(かみへい)郡大槌町。
「クロコボシ」サイト「横手/方言散歩」の「二、身体部位にみられる方言」の「(8) くろこぼし」に足首の「踝(くるぶし)」の意とあった。ここで柳田は「手頸」と言ってるので、腕首の遠位端の左右に出ている踝に対応する隆起した間接骨部分を指していよう。]
五
親たちが日暮に子供の外に遊んで居るのを、氣にすることは非常なものであつた。子供も臆病なのから順々に、まだ蝙蝠も飛び出さぬうちから、家の近くへ近くへと戾つて來るし、さうで無くとも心の内では、御飯だよと搜しに來られるのを待つてゐる。さういふ中に僅ばかり、誰も呼びに來ぬ兒がまじつて居た。
親の無い兒は入日を拜む
おやは入日のまん中に
といふ子守唄があるが、奉公に來た者でなくとも、何か家の樣子で飯時にも自分の方から、そろそろ還つて行かねばならぬ兒はあつた。かういふのが屢々神隱しに遭つたのである。
東京では「蛙が鳴くからかへろッ」といふ田舍じみた童言葉《わらべことば》が、今でも町なかに唱へられて居るが、田舍では却つてさういふ口合ひは聽かない。佐渡の島には「あとの子は貉(むじな)の子」といふ諺があると、中山德太郞翁は書留めて居られる。これも多分は遲れた子をからかふ語であらうが、さういふ不安は少しは伴なうて居たと思ふ。小兒を夕方に誘うて行く怪物を、多くの地方では隱し神と謂つて居る。沖繩人はこれを物迷ひと名づけ、神といふ土地でも今はたゞ怖れるばかりである。丹波の夜久野(やくの)では暗くなる迄隱れんぼをして居ると、隱し神さんに隱されるといひ、若狹の名田莊《なたのしやう》でも、又ずつと離れた肥後の玉名郡にも、同じ言葉がある。栃木縣の鹿沼《かぬま》邊では、カクシンボと謂つて居る。隱れんぼは今は單なる遊戲であるが、最初或は信仰と關係のあつたものかと私は想像して居る。秋田縣雄勝《をがち》郡ではカクレジョッコ、夜分隱れん坊をすると、カタレジョッコに攫《さら》はれるといふ點は同じである。
[やぶちゃん注:「中山德太郞」(明治八(一八七五)年~昭和二六(一九五一)年)は現在の佐渡市河原田本町の旧家で「河崎屋」と称した中山一族の中でも「主屋」と呼ばれた新兵衛家に生まれた。明治二一(一八八八)年に上京、慶応中等科から千葉医専に進み、明治三十七年に帰郷し、河原田本町で産婦人科を開業した。早くから郷土研究に関心を持ち、特に古い習俗を来院する患者などから聴き取り、昭和一一(一九三六)年に「民俗聞書帳」として、お産のこと・山の神のこと・八百比丘尼のことなどを世に紹介した。同十三年には青木重孝と共著で「佐渡年中行事」を出版している。その後も中央の『旅と伝説』誌や、地方の民俗研究雑誌『高志路』『ひだびと』などに精力的に投稿し、それは昭一七(一九四二)年まで続いている(以上はサイト「ガシマ」のこちらの拠った)。
「若狹の名田莊」若狭国遠敷(おにゅう)郡にあった荘園。旧福井県名田庄(なたしょう)村(現在の福井県大飯(おおい)郡おおい町)の南川流域一帯と、下流の小浜(おばま)市の中名田・口名田の地域を占めた。平安末期に盛信入道の所領であった名田郷を前身とする。ここ。
「肥後の玉名郡」旧郡域は有明海奥の東岸。当該ウィキを参照。
「栃木縣の鹿沼」栃木県鹿沼市。
「秋田縣雄勝郡」秋田県の南東端部分。今は飛び地化しているが、旧郡域は当該ウィキを参照。
「ジョッコ」は「子」の意である。以上に出る妖しい名は霊界の「神隠し」を意識すつつも、現実の「人攫(ひとさら)い」をも意味し、しばしば実の親の子を叱り嚇すに、「攫ってきた子」「拾ってきた子」のニュアンスも感じられる。その底辺には、「間引き」や、「七つ内は神の子」(これは数え七つまでは神の子だから殺して業(ごう)にならない)の闇が透けて見えるような気がする。]
神戶市ではこれをカクレババといふ者がある。小兒は夕方に隱れんぼをすることを戒められる。路次の隅や家の行きつまりなどに、隱れ婆といふのが居てつかまへて行くからといふ。島根縣その他ではこれをコトリゾと謂つて居た。子取りは本來は產婆のことだが、夙《はや》くさういふ名を以てこの妖怪を呼んだのである。足利時代にも臥雲日件錄か何かに、丹波から子取尼といふ者が出て來た風說が載せられ、實際亦さういふ惡黨も無かつたとは言へぬが、今ある名稱に至つては空想の產物である。出雲の子取りなぞは子供の油を絞つて、南京皿を燒く爲に使ふなどと、丸で纐纈城《かうけちじやう》かハンセル・グレッツェルの樣なことを傳へて居り、東北では現にアブラトリといふ名もあつて、日露戰爭の際にも一般の畏怖であつた。東京では普通にヒトサラヒといふ判り易い語を使ふが、信州の埴科《はにしな》地方ではフクロカツギが通稱で、大きな袋を持つてあるいて居る樣に想像せられる。これも夕方に隱れ鬼をして居ると隱すのである。親が子供の「なぜ?」に答へる爲に、こんな急ごしらへの名前をお化けに附した例は多い。私などの幼ない頃には、泣くとやつて來るのはチンチンコワヤであつたが、これなどはよく考へて見ると夜蕎麥賣《よそばう》りの聲色であつた。名前が出たらめだから怖いのまで虛誕であつたと、いふことは出來ぬやうである。
[やぶちゃん注:「纐纈城」現在は「こうけつじょう」と読むことが多いが、私は「こうけち」に組みする。「纐纈」は古代の染め方の一種。布を包んだ状態で浸み染めにし、斑らに模様を染め出すものを言うが、これは「宇治拾遺物語」の「慈覺大師、纐纈城に入り給ふ事」が古層で、慈覚大師円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)が最後の遣唐使として唐に留学した際に不当在唐中に経験した怪奇談として語られる。則ち、首魁が人々を捕えては、その身から生きながら血を絞り採り、その血で以って染め上げていたというスプラッター・ホラーである。「やたがらすナビ」のこちらで新字であるが、原文が電子化されてある。
「ハンセル・グレッツェル」ドイツ語で‘Hänsel und Gretel’の音写。あのグリム童話の有名な「ヘンゼルとグレーテル」 のことである。]
六
この事はずつと以前、「山の人生」の中にも說いて置いたが、秩父の山村では五月高麥《かたむぎ》の頃に、小兒の神に隱される者が最も多く、その怪の名をヤドゥカと謂つて居た。ところがヤドゥカとは高野聖のことであつて、迂散《うさん》くさい旅人には相違ないが、要するに只の人間に過ぎない。だから怖くは無いとも言はれぬのは、それにも拘はらず子供が隱されたからである。不思議の根源はもう少し底にあつたやうに思ふ。隱し神は子どもを取匿すからさう名づけたと見てよいが、神戶の隱れ婆や秋田縣のカクレジョッコなどは、もう一度どうしてそんな名が出來たかを、考へて見なければならぬ。關東では子供が隱れ座頭に匿されるといふことを、半ばは戲れにだらうが近頃まで說く人があつた。或は夜中に踏唐臼《ふみからうす》の音をさせ、又は箕を屋外に出して置くと借りて行く怪物だなどとも謂つて居たが、さて子供を取つてどうしてしまふのかは全くわからない。つまりは子供の時々見えなくなる事實と、こんな名前とを結びつけた迄である。羽後の橫手では、隱れ座頭は踵《きびす》の無い盲人だといふが、これには害をした話は無く、却つて市《いち》の日にこの座頭を見つけると、福を授かるなどと傳へて居た。北海道でも江差と松前の間の海岸に、昔は隱れ座頭といふ化け物が出る場處があつたさうだが、見た人は勿論なくて、たゞさういふ名の岩窟があるのみであつた。段々考へて行くと、座頭と解したのは全くの思ひ違ひで、これだけは古くからある隱れ里の口碑が、少しづゝ化け物話に變つて行く過程らしいのである。茨城縣のどの地方かには、隱れ座頭の餅を拾へば長者になるといふ說があつた。その餅は山野の草の間などに、ゆくりなく見出されるものであるといふ。さうかと思ふとその隣縣の芳賀郡あたりには、隱れ里の米搗きといふ話があり、たまたまその音を聽いた者は、長者の暮らしをすると傳へて居る。ちやうど鼠の國の昔話にも有る樣に、昔の米搗きは三本の杵で、唄をうたつて賑やかなものであつた。それが地面の下などから聽えて來るのである。或は又シヅカモチとも稱して、夜中にこつこつと遠方で餅を搗くやうな音を、人によつて聽いたり聽かなかつたりする。靜か[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版全集のもママ。「靜かに」の原稿の脱字ではなかろうか?]餅を搗き出されると謂ふのは、その音が追々遠くなつて行くことで家の衰へる前兆、これに反して段々近く聽えると、搗き込まれたと云つて運が開ける。その音を聽いた人は後向きに箕を突出すと、その箕へ財寶が入つて來るとまで言はれて居る。諸國里人談その他の近世の見聞錄に、隱れ里の話は餘るほど出て居るが、それは悉くめでたい瑞相とあつて、人に災ひしたといふ言ひ傳へなどは一つも無い。しかもこまごまとした内容が忘れられて、名稱ばかりが後に殘ることになると、とかく人はこれをお化けの方へ引付けたがる。信仰は世につれて推し移り又改まるが、それが最初から何も無かつたのと異なる點は、かういふ些細な無意識の保存が、永い歲月を隔てゝなほ認められることである。その中でも殊に久しく消えないものは畏怖と不安、見棄てゝは氣が咎めるといふ感じではなかつたかと思ふ。もしさうだとするとこの隱し神の俗信などは、前期の狀態の殊に不明に歸した場合である。私の方法以外には、これを遡り尋ねて行く道は恐らくあるまい。
[やぶちゃん注:「山の人生」は大正一五(一九二六)年二月に郷土研究社から刊行された柳田民俗学の核心に触れる記念碑的著作で、「遠野物語」に刺激された彼が、山中異界へと本格的に旅立った最初の作品である。同底本のここ(本文)で正字正仮名で視認出来る。当該部はここの「子供の居なくなる不思議には、……」以下。左ページの終りに秩父の「ヤドウカイ」(本篇とは表記が微妙に異なる)が出る。
「高麥」前掲部分に『麦が成長して容易に小兒の姿を隱』す頃とある。
「隱れ座頭」当該ウィキを参照。
「諸國里人談」作家菊岡沾涼(せんりょう)が寛保三(一七四三)年に刊行した怪奇談への傾きが有意に感ぜられる百七十余話から成る俗話集。私はこちらで全篇を電子化注してある。例えば、「諸國里人談卷之四 津志瀧」。
「隱れ里」『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里』を参照(十五回分割)。]
七
固より一つや二つの事實に據つて、大きな斷定を下すことは許されない。故に私たちは他にもこれと同じ樣な過程をとつて、進化して來たらしい化け物があるか否かを、探して見ようとして居るのである。一つの類例は本所の七不思議などと稱へて、オイテケ堀といふ怪談がある。魚釣りの歸りなどに「置いて行け置いて行け」と路傍から呼びかける聲ばかりのオバケで、氣がついて見ると魚籠は空つぽになつて居たといふ類の評判がある。しかしこれは江戶以外には稀にも聽かぬ話で、狐や山猫はよく攜へて居る食物を奪ふといふけれども、闇の橫合から聲を掛けるといふことは無い。聲を掛ける各地の路の怪は、寧ろ反對に持つて行けといふのが普通である。多くの昔話に傳はつて居るのは、昔正直な爺樣が夜の山路を通ると、頻りに路脇から「飛びつかうか引ッつかうか」と呼ぶ者がある。あまり何度もいふので「飛びつくなら飛び付け」とつい答へると、どさりと肩の上へ重い物が乘りかゝつた。家へ擔いで戾つて燈の下でひろげて見れば、金銀一ぱいの大きな袋で、これに由つて忽ち長者になる。それを大いに羨んで隣の慾ばり爺が、同じ時刻に同じ處を通ると例の如く、これに答へて「引つくなら引つけ」といふや否や、どさりと背一面に落ち被さつたのは松脂であつた云々。かういふ話が僅づゝ形を變へて、今もまだ多くの女子供の記憶に活きて居る。
[やぶちゃん注:「本所の七不思議」本所(現在の東京都墨田区)に江戸時代頃から伝承される極めてメジャーな怪奇談の名数。ウィキの「本所七不思議」によれば、『江戸時代の典型的な都市伝説の一つであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきた。いわゆる「七不思議」の一種であるが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから』八『種類以上のエピソードが存在する』としつつ、オーソドックスなそれとして「置行堀(おいてけぼり)」・「送り提灯」・「送り拍子木(おくりひょうしぎ)」・「燈無蕎麦(あかりなしそば)」(別名「消えずの行灯」)・「足洗邸(あしあらいやしき)」・「片葉の葦(かたはのあし)」・「落葉なき椎(おちばなきしい)」・狸囃子(たぬきばやし)(別名「馬鹿囃子(ばかばやし)」)・「津軽の太鼓」を挙げる。リンク先からこれらの個別記載に飛べるので、そちらを参照されたい。「オイテケ堀」は「置行堀」でここ。]
運は生れる時から一人々々に、定まつたものがあつて動かせない。もしくは善心の男に授かるべき福分は、どんなに眞似ようとも橫着者には橫取りが出來ない。强ひて眞似ると却つて災ひを受ける、といふ樣な敎訓が昔話にはよくついてまはつて居る。不思議は誠に不思議だが、これには少しでも化け物の分子は伴なはぬ。從つて他日さういふ事件の起りさうな夜路をあるいても、怖しくもこはくもならなかつたわけである。ところがこの如き現實は當然に夙く信じられなくなつて、しかもその全部を丸々の作り話とは認めない人々が、何とかしてその要點だけでも保留しようとするらしいのである。薩摩の阿久根近くの山の中に、半助がオツと稱する崖がある。地名の起りは明治十年頃の出來事だといふさうだが、四助と三助といふ二人の友だちがあつた。或日四助は山に入つて雨に遭ひ、土手の陰見たやうな處に休んで居ると、どこからとも無く「崩《く》ゆ崩ゆ」といふ聲が聞え、あたりを見まはしても人は居ない。四助はこの聲に應じて「崩ゆなら崩えて見よ」といふと、忽ちその土手がくづれて、澤山の山の薯が手もかけずに取れた。三助はこの話を聽いて大いに羨み、やはり同じ山に往つて松の木の下を通ると、又どこからとも無く「流る流る」といふ聲がする。「流るゝなら流れて見よ」と答へたところが、今度は松脂がどつと流れて來て、三助がからだを引包んで動けなくなつた。三助の父の半助、炬火《たいまつ》を持つて山へ搜しに來て、おーいと喚ばはるとおーいと答へるので、近よつて松の火をさしつけたら、忽ち松脂に火が移つて三助は燒けてしまひ、父の半助は驚いて足を踏みはづして落ちた。それで半助がオツと稱すると謂ふのは、歷史の樣に見えるが、疑ひ無く改造せられたる昔話である。これと下半分だけ似通うた話は、濃尾の境には傳說となつて多く殘つて居る。何れも木曾の川筋に在るから、源流は乃ち一つであらう。尾張の犬山でもヤロカ水、美濃の太田でもヤロカ水と謂つて、大洪水のあつたといふ年代は別々でも、この名の起りは全く同じであつた。それは大雨の降り續いて居た頃の眞夜中に、對岸の何とか淵のあたりから、頻りに「遣らうか遣らうか」といふ聲がする。土地の者は一同に氣味を惡がつて默つて居たのに、たつた一人が何と思つたか、「いこさばいこせ」と返事をしたところが、流れは急に增して來て、見る間に一帶の低地を海にしたといふのである。これと同樣の不思議は明治初年に、入鹿池(いるかいけ)の堤の切れた時にもあつたといふが、それも一種の感染としか思へない。木曾の與川《よがは》の川上では古い頃に、百人もの杣《そま》が入つて小屋を掛けて泊つて居ると、この杉林だけは殘して置いてくれといふ、山姬樣の夢の告《つげ》があつた。それにも拘はらず伐採に取懸かると、やがて大雨が降つて山が荒れ出した。さうしてこれも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」と頻りに聲を掛けた。小屋の者一同が負けぬ氣で聲を合せ、「來いよー」と遣り返すと忽ち山は崩れ、殘らず押し流されてたつた一人、この顚末を話し得る者が生き殘つた。話はかういふ風に段々と怖ろしくなつて來るのである。
[やぶちゃん注:「薩摩の阿久根」鹿児島県阿久根市。
「ヤロカ水」当該ウィキを見られたい。
「入鹿池」愛知県犬山市に入鹿池は現存する。]
八
傳說と昔話とは、今でもごつちやにして喜んで居る人があるが、二者の堺目はかなり截然《せつぜん》として居て、說く者聽く者の態度が共に全く別であつた。卽ち昔話はどうせ現世の事でないと思つて居るから、出來るだけ奇拔な又心地よい形にして傳へようとして居るに反し、傳說は今でも若干は信ずる者があるので、怪異を有りさうな區域に制限する。從うて時代々々の智能と感覺はこれに干涉し、屢〻改造を加へて古い空想を排除する。化け物の話などはその好い例で、昔話の天狗、狐、鬼も山姥も皆少々愚かで弱く、傳說の方では殆と常に强剛で人を畏服せしめる。この點だけから云ふと近代に入つて、人は却つて怯懦《けふだ》となり無能となつた樣にも見え、事實亦妖魔の世界も進化して居るのだが、これは要するに迷信の最後の殘壘を意味するのである。曾て昔話の中に誇張せられて居る樣な奇跡が、一般に承認せられて居た時代が無かつたら、今ある怪談の如きものだけが、唐突として我々の間に、生れ出るわけはなかつた。所謂ヤロカ水の史實もこれを暗示して居るが、これと關聯してまだ幾つかの例證がある。たとへば姿は見せないで、聲だけで人を嚇すといふ化け物の中に、越後ではバリオン又はバロウ狐といふのが居る。あの土地の人なら少しづゝ皆知つて居ることゝ思ふが、これが狐ときまつたのはさう古いことでない。バロウは方言で「負はれよう」を意味する。南蒲原郡の昔話に、昔惡い狐が晚方になると、路のほとりへ出てバロウバロウと謂ひ、村の通行人を怖がらせた。或一人の若者があつて、おれが往つてぶて來ると、皆の留めるのも聽かず、擂鉢を被つて一人で出かけた。果してバロウバロウと謂ふから「さアばれ、さアばれ」と、繩で背中へぐるぐる卷きにして戾つて來た。狐は逃げようとして若者の頸筋に咬み付くが、堅くて齒も立たない。大きな尻尾を出して降參したけれども、構はずに燒き殺してしまつた云々。先づざつとかういふ風に、昔話の方では取扱つて居るのである。ところが他の一方にまだ少し信じて居る土地では、傳說はずつと尤もらしい形で殘つて居る。同じ越後でも古志郡上條村の、大榎の下へ出たバローンといふ化け物、これは狸であつた。剛膽な一靑年が行つてこれを負ひ、逃げようとするのを無理につれて來て、仲間と共に殺して煮て食つた。さうしたら食つた者が皆死んでしまつたなどと傳へられる。
[やぶちゃん注:「南蒲原郡」新潟県南蒲原郡。旧郡域は現在の新潟県中央部の広域。当該ウィキの地図を参照。]
この二通りの話は今でも全國に竝び行はれて居る。たとへば岩手縣遠野の昔話には、老翁が夜分山畠小屋に居て鹿追ひをして居ると、向ひの山に美しい娘が一人、兩腋に瓢簞を抱へて現れ、
おひょうらんこ・ひょうらんこ
ししっぽひの爺樣さ行つてばッぼされたい
といふ歌をうたふ。爺はをかしくなつて「そんだら早く來ておんぶされ」と謂ふと、娘は直ぐに飛んで來て爺樣の背に負さつた。と思つたらすぐに消えてしまつて、背中には大きな黃金の塊が乘つて居た。さうして爺樣は忽ち長者になつてしまふ。津輕の昔話では山中の荒寺へ、元氣な若者が化け物退治に行く。本堂の來迎柱の下から化け物が出て來て「おぼさるおぼさる」と頻りにいふので「そつたらにおぼさりたがらおぼされ」と答へると、「そら負ぼさる」と謂つて若者の背中へ、がらがらと何か來て乘つかつた。それを夜が明けてから見ると殘らず大判小判云々。こんなのも亦ちつとも怖くは無いやうである。さうかと思ふと羅城門の綱、美濃の渡《わたり》の平季武、さては太平記の大森彥七以來、負はれて甚だしく物凄かつた例も段々にある。それが悉く負はれようと呼び掛けたといふのは、前の話と無關係とは思はれない。三州長篠の乘越峠《のつこしたうげ》などでは、夕方そこを通ると「負んでくれ負んでくれ」と呼ぶ聲がすると謂ひ、近村の某といふ男はさう云はれると急に肩が重くなり、麓の寺の灯が見える處まで來ると、急に輕くなつたと思つたといふ樣な話が、つい近年の實事としても噂せられる。阿波の德島の市外に、オッパショ石と稱して名所の如くなつて居たものも、やはりこの亞流であつて、オッパショは卽ち「おんぶしよう」である。諸書の記述は區々《まちまち》になつて居るが、星合茂右衞門といふ勇士これに遭ひ、然らば負うてやらうと擔いで來ると、段々に重くなるので奇怪に思つて、おのれと言ひさま地上に投付けたら二つに割れた。それ以後オッパショといはなくなつたといふ說もあつて、久しい後まで路傍に轉がつて居た。その眞僞はともあれ、怪談は普通勇士によつて、過去へ送り込まれることになつて居るのである。
[やぶちゃん注:「羅城門の綱」。頼光四天王の筆頭渡辺綱(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)。大江山の酒呑童子退治で知られるが、単独対決のそれは、京の一条戻橋の上で茨木童子の腕を源氏の名刀「髭切(ひげきり)の太刀」で切り落とした逸話で知られるが、この「羅城門」というのは、室町時代の観世信光作の謡曲「羅生門」で、ロケーションを羅城門に移し変えたものに過ぎない。
「美濃の渡《わたり》の平季武」同じく頼光四天王の一人とされる卜部季武(天暦四(九五〇)年?~ 治安二(一〇二二)年?)。ここは、「今昔物語集」巻二十七 の「賴光郞等平季武値產女語第四十三」(賴光の郞等(らうどう)平季武、產女(うぶめ)にあひし話)を指している。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』の注で電子化してある。
「太平記の大森彥七」「太平記」由来の怪奇伝承。南北朝時代の武将。通称を彦七(ひこしち)と称した大森盛長(生没年未詳)。派生話はウィキの「大森盛長」に詳しい。盛長が楠木正成の怨霊に遭った伝説を描いた月岡芳年画「新形三十六怪撰」の「大森彦七道に怪異に逢ふ図」も見られる。「太平記」の原話の梗概は、サイト「日本伝承大鑑」の「愛媛」の「魔住ヶ窪」がよい。]
「三州長篠の乘越峠」岐阜県下呂市小坂町のここ。]
九
ところが今一つ、諸國のオバケ話のをかしい特徵は、かうして出處進退を誤つて退治せられたといふやつが、暫くするとやがて又現はれるといふ評判の立つことである。信州桔梗ヶ原の玄蕃丞、藝州比治山のお三狐を始めとし、狐狸には殊にこの話が多いが、その他の化け物でも、岩見重太郞一流の壯快なる征服記が、數多く公表せられて居るに拘らず、その割には彼等の數が減少して居ない。これは恐らく風說が限地的のもので、互ひに他を統一するだけの力が無い爲であらうが、又一つには昔話と傳說との對立併存、殊に退治譚が昔話の系統の方に、屬して居る結果かと私は思つて居る。記錄がこの問題を解釋する資料にならぬことは、この一點からでも主張し得られる。何となればその大部分が、我々の耳に快い人間勝利の記念塔に他ならぬからである。たとへ幽かであつても現實に感じられ、又黃昏の幻の中に描かれるものを尋ねなければ、到底化け物の由來の全面を知ることが出來ない。それが今日はわざと忘れようといふ時代に臨んで居る。この點永久に不明でもよろしいと思ふ人以外、誰でも心せはしく國の隅々を、採訪しようとせずには居られぬのである。
[やぶちゃん注:「信州桔梗ヶ原の玄蕃丞」現在の長野県塩尻市宗賀の桔梗ヶ原。狐については、ウィキの「桔梗ヶ原」の「伝承」の項を参照されたい。
「藝州比治山のお三狐」比治山は広島県広島市南区比治山である。ウィキの「おさん狐」を参照されたいが、同じ広島市内の中区江波地区の皿山には別伝承がある。
「岩見重太郞一流の壯快なる征服記」サイト版『芥川龍之介「岩見重太郞」(「僻見」より) 附やぶちゃん注』を参照されたい。古い電子化なので正字不全はお許しあれ。]
しかもその仕事は相應に面倒である。相手が多くは我々とは話したがらぬ人たちで、その上に各自の經驗は限られて居る。うかと或人或土地の談話のみによつて、結論を下さうとすれば必ず誤る。比較と綜合が何よりも大切なのである。そこでその資料に僅ばかりの見聞を揭げて置くのだが、今日北九州の海で働く人々が、現實に畏怖して居るウグメといふ怪は、船幽靈のことである。不知火灣内でも、海で死んだ者の亡魂がウグメに成ると謂ひ、一方に島や汽船に化けて漁夫を迷はすと言ひながら、他の一方では「あか取り」を貸せといつてついて來るとき、底を拔いて貸さぬと舟を沈められるなどと、まるで東國の海坊主と同じやうなことを信じて居る。海上の妖魔は九州沖繩方面では、もとはシキ幽靈又はソコ幽靈と呼んで居た。夜分に水の色を眞白にし、或は色々の幻を見せて、船乘りの肝を冷させて居た。それがいつの間にかウグメと呼ばれる樣になつたのが、ウブメの間違ひであることには證據がある。つまり化け物は名前までが變幻出沒して居たのである。
[やぶちゃん注:「ウグメ」ウィキの「船幽霊」の「各地の船幽霊」の「ウグメ」によれば、『長崎県平戸市、熊本県御所浦島などの九州地方。船がこれに取り憑かれると航行が阻まれるといい、平戸では風もないのに』、『突然』、『帆船が追いかけて来るともいう』。『九州西岸地方では船や島に化けるともいう』。『この怪異を避けるために』、『平戸では灰を放り込むといい、御所浦島では「錨を入れるぞ」と言いながら』、『石を投げ込み、それから錨を放り込むとい』い、『煙草を吸うと消えるともいう』。『淦取り(あかとり。船底にたまる水を取る器)をくれといって現れるともいい、淦取りの底を抜いて渡さないと』、『船を沈められるという』。以下で柳田も推論しているが、本邦の海神(わたつみがみ)は女性とされ、嫉妬深く、女性の乗船を古くから禁忌とした。そうしたものを基底として、「産女(うぶめ)」が集合し、こうした船幽霊の呼称が生まれたものであろう。なお、「うぶめ」は「姑獲鳥」とも書き、妖鳥とする明の李時珍の「本草綱目」由来の説もあるが、本邦でも鳥タイプは腰から下が血だらけの人型に次いで各地に存在する(以下の叙述で、鳥タイプがよく報告されているのが、西日本、特に九州というのは、中国渡来型の「姑獲鳥」として納得出来る)。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」も参照されたい。]
十七世紀の初頭になつてロドリゲエスの日葡語典にも、既にウブメは產婦の死して化したるものと信ぜらるゝ亡靈、下(しも)にてはウグメと謂ふとあつて、その語だけはもう生れて居た。これを海の怪とするに至つたもとは、出雲石見あたりで今も有るやうに、この赤兒を抱いた精靈が、濱や渚に現はれることが多かつた爲で、海姬《うみひめ》磯女《いそをんな》も恐らく同一系統の、日本ではかなり注意せらるべき、大きな未解決の問題かと私たちは思つて居る。少しちがつて居るのは壹岐島のウーメが、靑い火の玉で空を飛びまはるものと言はれ、肥前諫早地方のオグメが、三度手を叩くと山の峯から飛んで來るといふなどであるが、その他は大體に西國も東日本と同じに、陸上のウグメは子持ちの女性である。たとへば豐後直入《なほいり》郡の或寺の入口では、ウグメが現はれて通行の人に兒を抱いてくれと賴む。抱いて遣るとやがてその子が藁打槌《わらうちづち》であつたり、石であつたりするものだといふ。東松浦の山村でも、姙婦が死ぬとウグメに成ると謂ひ、抱いて遣ると赤兒はいつも石塔になると謂ふかと思ふと、又一方にはウグメには何か欲しい物があるとき、賴めば授けてくれるとも傳へて居る。この點は殊に自分等の面白いと思ふ所で、弘く古く尋ねて行くほど、これが寧ろウグメ本來の使命であつたかとさへ思はれて來るのである。
[やぶちゃん注:「ロドリゲエスの日葡語典」誤り。「ロドリゲエス」はポルトガル人のイエズス会士でカトリック教会司祭で在日布教もしたジョアン・ツズ・ロドリゲス João “Tçuzu” Rodrigues 一五六一年か一五六二年~一六三三年)で、彼は「日本大文典」・「日本語小文典」の著者ではある。しかし、「日葡語典」、現行の「日葡辞書」(Vocabulário da Língua do Japão:キリシタン版の一種で、日本語をポルトガル語で解説したはイエズス会によって宣教師が日本語を学習するための文法書や辞書を印刷出版するために、複数の宣教師と日本人同宿が四年以上の歳月をかけて編纂し、一六〇三年から一六〇四年にかけて長崎で発行されたしたもので、国語学では非常に知られたものである)は、現在、ジョアン・ロドリゲスはこの編纂には加わっていないとされている(以上はウィキの「ジョアン・ロドリゲス」及び「日葡辞書」に拠った)。
「豐後直入」現在の大分県の中部の南にあった山間部の旧郡。当該ウィキの地図を見られたい。]
一〇
山口縣の厚狹《あさ》郡あたりでは、同じ產女の怪をアカダカショ、又はコヲダカショとも謂つて、古い道路の辻などへ晚方に出るものと謂つて居た。やはりその名の如く子を抱かせようとしたと思はれる。化け物の目的が人を畏怖せしむるに在り、乃至は隨筆家の所謂姑獲鳥のやうに、人間の赤兒に害を加へるに在るならば、いつそ手ぶらで現れた方が仕事がし易かつたらうと思ふのに、必ず自分の乳吞兒をかゝへて、母子二人で出て來るといふのには意味が無ければならぬ。伊豫の越智郡の某川は、折々死んだ兒が包《つつみ》に入れて、棄てゝあるといふ氣味の惡い處だが、時として赤子の啼聲が川に聽えるのを、土地ではやはりウブメと謂つて居た。夜更けてこの堤を通行すると、そのウブメが出て兩足にもつれる樣な感じのすることがある。そんな時には自分の草履を脫いで、それそれこれがお前の親だよと投げて遣ると、一時は啼き止むともいひ、又子供だけで夜釣りなどに行く時は、このウブメは決して出て來ないとも謂つて居る。つまり赤兒を啼かせることが、以前はウブメの怪の要件といつてもよかつたのである。二百年ばかりも前に出た百物語評判といふ書には、ウブメは產の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形腰より下は血に染み、その聲オバレウオバレウと啼くと申し習はせりと記してある。越後のバリオンなどと大分近くなつて來るが、かういつて母の方が啼くのでもあるまいから、やはり子をつれて出るといふのが眼目であつたらうと思ふ。
[やぶちゃん注:「山口縣の厚狹郡」現在の宇部市及び山陽小野田市一帯。
「伊豫の越智郡」旧郡域は当該ウィキの地図を参照。
「百物語評判といふ書には、ウブメは產の上にて身まかりたりし女、……」私の「古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事」を参照されたい。]
ウブメに百人力を授かつたといふ話は、曾て日本昔話集にも揭げて置いた。賴まれて抱いて居るうちに段々と重くなつたといふことは、今昔物語の中にも出て居るが、これをじつと辛抱して居たら、ウブメが還つて來て大いに感謝し、その禮に非常な腕力を授けてくれたといふ類の話が、今でもそちこちに有るのである。或は又莫大の金銀財寶を、褒美に貰つたといふ話もある。さうかと聽いてわざわざウブメの赤兒を抱きに、出かけて行く者もまあ有るまいけれども、兎に角に彼の眞意は人を試みるに在つて、キャッと言はせるだけが目的で無かつたことは、近頃までも想像して居た人が多かつたのである。越後のバリオンなども三條附近で傳へて居るのは、負はれようといふのを承知して負うて遣ると、それは重いもので還つてから見ると黃金の甕だつたなどといひ、これにも富と幸運との輸送者であつたかの如く、解して居る信仰はあつたのである。肥後の天草島ではこれをもつと露骨に、カネノヌシなどと呼んで居る。大晦日の眞夜中に、武士の樣な姿をして現れる怪物で、これと力競べをして勝てば大金持となる。仍《よつ》てその名を金の主といふとある。吾妻昔物語に出て居る北上川原の化け物は、ある大膽な男が大刀を拔いてその列の一人を斫《き》ると、ぐわらりと音がして地上に落ちこぼれたものは黃金珠玉であつたといふが、この話も古く各地方に行はれて居る。つまりは怖れ無く膽力のある者が、かねて目ざされて大福長者に取立てられる爲に、かういふ靈怪を以て試驗せられたといふ迄の話であつた。それを到底事實とは信じ得なかつた人々が、いよいよ誇張してをかしい昔話を流布せしめただけで無く、一方にはその小部分の不思議な因緣の、普通の人にもさも有りなんと思はるゝ個條を、大事に保存して獨りで勝手にこはがつて居たのである。かういふ分裂はよく見ると川童にも山男にもある。信じて聽從する者には無限の恩惠を施す代りに、多數の不信者の「世の中にお化けなどがあるものか」といふ者は、每度眞靑になつて氣を失ふやうな目に遭はせられた。それと同時に心の奧底でたゞ少しばかり、不思議は全く無いとも言へぬと思つて居る人人には、雙方二種の口碑が、いつ迄もチャームとなつて殘つたのである。お化けを前代信仰の零落した末期現象といふことは、私の發明では無論無い。たゞ我々は外國の學者に盲信せず、自分の現象を檢し、自分の疑惑を釋《と》くことを心掛ける必要を認めるのみである。こんな話ならばまだまだ澤山にあり、私は又大よそこれを順序立てゝ、竝べて置かうといふ用意もある。たゞ果して當世の讀者の好奇心と忍耐とが、どれだけ迄續くだらうかを問題とするのみである。
[やぶちゃん注:「日本昔話集」昭和五(一九三〇)年アルス刊の『日本児童文庫』の柳田國男「日本昔話集」の、その「上」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)にある「力士(りきし)と產女(うぶめ)」がそれであろう。
「賴まれて抱いて居るうちに段々と重くなつたといふことは、今昔物語の中にも出て居る」不審。これは先に出た「今昔物語集」巻二十七 の「賴光郞等平季武値產女語第四十三」を、類似譚の子が重くなるというお約束と混同し、錯覚したものではなかろうか。
「吾妻昔物語」「吾妻むかし物語」で松井道円(京都の医師で絵もよくし、元禄頃に南部藩に漫遊している)の古民譚・逸事を蒐集したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『南部叢書』第九冊のここに見つけ、間違いなくこれと思って、読んでみたのだが、柳田の抄録する内容の話が、これ、ありそうながら、なかった。非常にくやしくも、不審であった。
「チャーム」charm。魅力。]
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