譚海 卷之五 東叡山津梁院・觀慈院書院畫の事
○東叡山觀慈院の座敷は、探幽畫(ゑが)く所の源氏物語の繪樣(ゑやう)也。是(これ)常憲院公方樣御臺所の御座敷をその儘移されたる故、御帳内の間よりはじめ、嚴然たる營中のもの也、二の間三の間まで同じ繪也。なげしには松の並木を書(かき)たり、殊勝いふべきやうなし。觀慈院に御臺所の御廟あるゆゑ、彼(かの)寺に御座敷をも寄附(よせつけ)有しゆゑ也。同所津梁院(しんりやうゐん)は桂昌院一位の御母公御廟あるゆゑ、又その御座敷を寄附せられたり。是も探幽畫(ゑが)く所にて、伊勢物語の繪やう也。觀慈院の畫《ゑ》やうは、富貴に賑はしく見ゆ、津梁院の方は少し物さびて見ゆるは、いせものがたりのゆゑなるべしといへり。
[やぶちゃん注:「東叡山觀慈院」現存しない。
「常憲院公方樣御臺所」五代将軍徳川綱吉の正室鷹司信子(たかつかさのぶこ 慶安四(一六五一)年~宝永六(一七〇九)年)。綱吉の死から一ヶ月も経たないうちに逝去した。享年五十九(綱吉は六十四で亡くなっている)。死因は夫綱吉同様に成人性麻疹(はしか)とされる。
「津梁院」寺は現存する(グーグル・マップ・データ)。
「桂昌院一位」綱吉の生母。没年は宝永二(一七〇五)年で享年七十九。因みに、鷹司信子とは不仲であったとされる。]
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