「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 錐揉み不動
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。標題は「きりもみふどう」と読む。]
錐 揉 み 不 動 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)
錐揉み不動といふのが、紀州根來寺にある。近藤甁城《へいじやう》氏の『續史籍集覽』のうち[やぶちゃん注:以上の「近藤甁城氏の『續史籍集覽』のうち」の部分は底本にはない。「選集」を参考に正字化して挿入した。]「大傳法院本願聖人御傳」に高野の密嚴院《みつごんゐん》に、覺鑁《かくばん》上人、おり[やぶちゃん注:ママ。]し時(崇德帝の保延六年十二月八日早朝)、寺領のことに付《つき》て、衆徒、蜂起して、院に打ち入り、上人を追出《おひいだ》さんとす。内陣に入《いり》て、堂内を見廻すに、上人、なく、壇上、二體同相の不動尊像、双《なら》び坐し、何《いづ》れ本尊、何れ上人と、分らず、「血の出るが、上人ぢや。」と言《いひ》て、矢の根で、木像の不動尊の膝を、もむと、血が出た。上人、これをみて、「本尊、吾に代らんとするは、恐れ入《いつ》た。」と悲しんで、本身に復(かへ)り、院を出で、直ちに根來寺に入《はいつ》たと、ある。
此話は、義淨譯「根本說一切有部毘奈耶雜事」卅三に基いたらしい。本勝苾芻尼《ほんしようびつしゆに》の塔を、五百門徒が、如來髮爪《はつさう》の塔と誤認し、禮敬《らいぎやう》せしを、尊者鄔波離《うばり》、嘲り、五百門徒、怒りて、其塔を毀《こぼ》つ。吐羅難陀尼《とらなんだに》、聽《きき》て、大いに怒り、利刀・鐵錐・木鑽《ぼくさん》をもて、尊者を殺しにゆくと、尊者、大衣《だいえ》を被り、心を斂(をさ)めて、滅盡定《めつじんぢやう》に入《い》る。諸尼、到つて、刀で、きりちらし、鐵錐・木鑽で遍體を、つきさす。尊者は、定《ぢやう》の力に由《より》て、更に息(いき)なく、死人と異ならず。諸尼は、『もはや、死んだ。』と思ふて捨去《すてさ》る。佛、聞《きき》て、以後、尼が、守門比丘の許しなしに、僧寺に入るのと、刀や錐を持ちありくのを禁じた、とある。
[やぶちゃん注:「錐揉み不動といふのが、紀州根來寺にある」和歌山県岩出市根来にある新義真言宗総本山根來寺の不動堂に祀られてある。根来寺の公式サイトの『「きりもみ不動明王」について』には、『根來寺のお不動さまは「きりもみ不動さん」の通称で親しまれています。その由来は、開山興教大師覚鑁上人の危難をお救いくださった故事によります』。『上人は日頃より』、『不動明王を深く信仰され』、『高野山での住房密厳院では、日夜修法を欠かすことはありませんでした。その折、上人の徳望を妬む暴徒が乱入し』、『危害を加えようとしました。危難を察せられた上人は、泰然自若として』、『さらに一心に不動明王を念じられますと、お不動さまと同体になる「入我我入」の境地に達せられました。暴徒の目には』、『上人のお姿と』、『本尊の不動明王が』、『同じに映り、まるで二体並んでおられるように見えてしまいました。驚いた暴徒は持っていた鏃で木造の本尊』(☜)『の膝をきりもんだところ』、『勿体なくも鮮血がほとばしりでました。暴徒はこれに驚き』、『退散し、上人のお命が無事助かりました』。『それ以来』、『「身代わり不動尊」として尊崇され、また「きりもみ不動さん」として信仰されています』とある。
「近藤甁城」天保三(一八三二)年~明治三四(一九〇一)年)は漢学者。本姓は安藤。名は宗元。三河岡崎藩の藩儒で、維新後は藩校允文館(いんぶんかん)学監などを務めた。後、江戸後期に完成した塙保己一編「群書類従」(全五百三十巻)に含まれていない史籍類の刊行を目指し、東京に「近藤活版所」を創立、明治一四(一八八一)年から実に全五百三十八巻から成る『史籍集覧』を出版した(主文は講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。
「『續史籍集覽』のうち「大傳法院本願聖人御傳」」同伝は国立国会図書館デジタルコレクションの当該書のここから。熊楠の言うところは、ここの見開きの左ページ四行目以降に出る。
「密嚴院」和歌山県伊都郡高野町高野山にある総本山金剛峯寺の塔頭・宿坊である高野山真言宗の高野山(山号)密厳院(グーグル・マップ・データ。但し、再建)。当該ウィキによれば、『本尊は大日如来。新義真言宗の教学の祖である興教大師覚鑁の自所であった寺院で』、『高野山一の橋から奥の院に向かう途中に位置する。長承元(一一三二)年に『覚鑁によって創建される。その後、覚鑁は腐敗した金剛峯寺の内紛に憂いを持ち、密厳院において』三『余年に及ぶ無言行を敢行し』、『密巌上人と称された。その直後に「密厳院発露懺悔文」(みつごんいんほつろさんげのもん)『を書き上げたと言われる』。保延六(一一四〇)年の『金剛峯寺の内紛により』(具体的には寺領分配の不均衡に対する不満らしい)の、『焼き討ち』(これを「錐鑽(きりも)みの乱」と称する)に遭い、『住職の覚鑁は』、『やむなく山を降り、新義真言宗根来寺を開創した』。『また、本堂には覚鑁の像が祀られているが、これは高野山では唯一』のもの『である』とある。
「覺鑁上人」覚鑁(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四四)年)は平安後期の真言宗僧で、真言宗中興の祖にして新義真言宗の始祖。諡号は「興教(こうぎょう)大師」。肥前国藤津庄(ふじつのしょう:現在の佐賀県鹿島市)生まれ。当該ウィキによれば、『平安』『後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学に於いて』、『如何に捉えるかを理論化した「密厳浄土」』(みつごんじょうど)『思想を唱え、「密教的浄土教」を大成した。即ち』――「西方浄土教主」である「阿弥陀如来」とは、「真言教主」である「大日如来」という「普門総徳の尊」『(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとした』。『空思想を表した』「月輪観」(がちりんかん)の『編者として著名』であり、『また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった』「五輪九字明秘密釈」の『著者でもあった』とある。「真言宗豊山派」公式サイト内の「興教大師」が事績が読み易く、しかも詳しい。
「保延六年十二月八日」一一三八年一月二十日。
「矢の根」鏃(やじり)に同じ。
「根本說一切有部毘奈耶雜事」の「卅三」の以下は、「大蔵経データベース」で原文を見たところ当該箇所を発見した。熊楠はかなり意訳、則ち、原文の漢字を判り易く書き変えているが、原文に確かに沿っていることが確認は出来た。頭にある「本勝苾芻尼」の「本勝」は、私には意味が判らない。「苾芻尼」は「比丘尼」の別表記で何ら問題はないのだが、「本勝」は意味が判らない。尼僧の生前の僧名と、取り敢えずは、とっておく。
「尊者鄔波離」サンスクリット語「ウパーリ」の漢音写。釈迦の十大弟子の一人。元は理髪師であり、直弟子の中でも戒律に最も精通していたことから「持律第一」と称せられ、釈迦入滅後の第一結集では、戒律編纂事業の中心を担った。
「嘲り」彼らが誤認していることを明かし、せせら笑ったのであろう。だから、彼らの勘違いなのに、お門違いに自責せずに、「五百門徒」は、騙されたと思って、「怒りて其塔を毀《こぼ》つ」た訳である。
「吐羅難陀尼」比丘尼の名。サンスクリット語「トゥッラナンダー」の漢音写。彼女は、阿難を「ヴィデーハ族(或いは国)の聖者」と称揚したのに対し摩訶迦葉を「元は外道」と罵倒した女性として知られるので、かなり自意識の高いブッ飛んだ女傑であったのであろう。亡き比丘尼のストゥーパを壊したことに対する怒りは、女性・比丘尼を差別する集団の差別意識に敏感に応じたものと推定出来る。
「木鑽」前が鉄製の錐であるから、ここは火を起こすの用いる螺子(ネジ)状になった太く硬い木螺子様のものを指すか。
「滅盡定」人としての心の働きを完全に消滅させた状態にある精神集中の様態・修法を言う。「五位七十五法」の「心不相応行法」の一つ。
「守門比丘」寺の門の守衛に当たる僧。]
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