佐藤春夫 改作 田園の憂鬱 或は病める薔薇 正規表現版始動 / (その1)
[やぶちゃん注:私は既に二〇一七年にブログ・カテゴリ「佐藤春夫」で全十八回分割で、マニアックな詳細注を入れた形で、まず以って電子化されることがないであろう大正七(一九一八)年十一月二十八日刊行の作品集「病める薔薇」の天佑社の初版に載る未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』をマニアックに電子化注している(未定稿及び本篇の改作決定稿に至る経緯は、私の「佐藤春夫 未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)始動 (その1)」の私の冒頭注を見られたい。なお、五月蠅い注の一部を外したサイト版横書ルビ化一括版もある)。
今回は、そのブログ分割版に対応させる形で、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「国立国会図書館デジタルコレクション」の「佐藤春夫全集 第一卷」(昭和六(一九三一)年十月二十日改造社発行)を底本とした。当該本文はここから。しかし、この全集、驚くべきことに、三段組で甚だ字が小さい。見落としのないよう、拡大して視認するが、拡大しても、字体が判明しない箇所では(かなりある)、正字を採用した。ブログでは傍点「﹅」は太字とした。また、底本では恐らく行末に読点があった場合、禁則処理が版組上、出来ないようになっているものと推定され、他の項では読点がある箇所が、有意に、ない。しかし、では、他の稿から、そこに安易に読点を打つことは出来るかと言えば、それは校訂上、出来ない仕儀であるので、無しは無しのままにしてある。 また、不審箇所及び難読漢字の読み注では、所持する新潮文庫昭和五一年五月発行の三十七版を参考にした。 なお、加工データとして「青空文庫」の新字旧仮名版(底本/筑摩書房「日本文学全集27 佐藤春夫集」昭和四五(一九七〇)年十一月一日発行・入力/阿部哲也氏・校正/津村田悟氏・二〇一八年三月二十七日公開)のこちらにあるテキスト・ファイルを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
私の電子化の意図は、既電子化マニアック注の未定稿との対比に專らがある。従って、未定稿版電子化注と対応させて、ブログでは分割し、対照出来るようにリンクも張る。こちらでは、特に必要と認めた物以外(主に難読語と判断したもの)は注は附さない。注では、所持する新潮文庫「田園の憂鬱」(昭和五一(一九七六)年三十七版)との相違を主に提示した。
最終的にはサイト縦書版も作成する。
なお、以下のタイトルの頭の「作改」と右から左に小文字で横書にされたものを反対に直して示したものである。
【二〇二三年二月四日早朝始動・藪野直史】]
【改作】田園の憂鬱
或 は 病める薔薇
I dwelt alone
In a world of moan,
And my soul was a stagnant tide,
Edgar Allan Poe
私は、呻吟の世界で
ひとりで住んで居た。
私の靈は澱み腐れた潮であつた。
エドガア アラン ポオ
その家が、今、彼の目の前へ現れて來た。
初めのうちは、大變な元氣で砂ぼこりを上げながら、主人の後になり前になりして、飛びまはり纏はりついて居た彼の二疋の犬が、やうやう柔順になつて、彼のうしろに、二疋竝んで、そろそろ隨いて來るやうになつた頃である。高い木立の下を、路がぐつと大きく曲つた時に、
「ああやつと來ましたよ」
と言ひながら、彼等の案内者である赭毛の太つちよの女が、片手で日にやけた額から滴り落ちる汗を、汚れた手拭で拭ひながら、別の片手では、彼等の行く手の方を指し示した。男のやうに太いその指の尖を傳うて、彼等の瞳の落ちたところには、黑つぽい深綠のなかに埋もれて、目眩しいそはそはした夏の朝の光のなかで、鈍色にどつしりと或る落着きをもつて光つて居るささやかな萱葺の屋根があつた。
それが彼のこの家を見た最初の機會であつた。彼と彼の妻とは、その時、各この草屋根の上にさまようて居た彼等の瞳を、互に相手のそれの上に向けて、瞳と瞳とで會話をした――
「いい家のやうな豫覺がある」
「ええ私もさう思ふの」
その草屋根を見つめながら步いた。この家ならば、何日か遠い以前にでも、夢にであるか、幻にであるか、それとも疾走する汽車の窓からででもあつたか、何かで一度見たことがあるやうにも彼は思つた。その草屋根を焦點としての視野は、實際、何處ででも見出されさうな、平凡な田舍の橫顏であつた。而も、それが却つて今の彼の心をひきつけた。今の彼の憧れがそんなところにあつたからである。さうして、彼がこの地方を自分の住家に撰んだのも、亦この理由からに外ならなかつた。
廣い武藏野が既にその南端になつて盡きるところ、それが漸くに山國の地勢に入らうとする變化――言はば山國からの微かな餘情を湛へたエピロオグであり、やがて大きな野原への波打つプロロオグででもあるこれ等の小さな丘は、目のとどくかぎり、此處にも起伏して、それが形造るつまらぬ風景の間を縫うて、一筋の平坦な街道が東から西へ、また別の街道が北から南へ通じてゐるあたりに、その道に沿うて一つの草深い農村があり、幾つかの卑下(へりくだ)つた草屋根があつた。それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、譬へば三つの劇しい旋風の境目に出來た眞空のやうに、世紀からは置きつ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押流されて、しよんぼりと置かれて居るのであつた。
一たい、彼[やぶちゃん注:ルビがあるが、「かれ」には見えず、判読不能。]が最初[やぶちゃん注:新潮文庫版では「最初に」。]こんな路の上で、限りなく樂しみ、又珍らしく心のくつろいだ自分自身を見出したのは、その同じ年の暮春の或る一日であつた。こんな場所には[やぶちゃん注:新潮版では「は」はない。]これほどの片田舍があることを知つて、彼は先づ愕かされた。しかもその平靜な四邊の風物は彼に珍らしかつた。ずつと南方の或る半島の突端に生れた彼は、荒い海と嶮しい山とが激しく咬み合つて、胸の[やぶちゃん注:新潮版は「その」。]間で人間が微小にしかし賢明に生きて居る一小市街の傍を、大きな急流の川がその上に筏を長長と浮べさせて押合ながら荒荒しい海の方へ犇き合つて流れてゆく彼の故鄕のクライマツクスの多い戲曲的な風景にくらべて、この丘つづき、空と、雜木原と、田と、畑と、雲雀との村は、實に小さな散文詩であつた。前者の自然は彼の峻嚴な父であるとすれば、後者のそれは子に甘い彼の母であつた。「歸れる放蕩息子」に自分自身をたとへた彼は、息苦しい都會の眞中にあつて、柔かに優さしいそれ故に平凡な自然の中へ、溶け込んで了ひたいといふ切願を、可なり久しい以前から持つやうになつて居た。おゝ!そこにはクラシツクのやうな平靜な幸福と喜びとが、人を持つて[やぶちゃん注:ママ。新潮版か「待つて」。誤植であろう。]居るに違ひない。Vanity of vanity, vanity, all is vanity !「空の空、空の空なる哉都(すべ)て空なり」或は然うでないにしても……。いや、理窟は何もなかつた。ただ都會のただ中では息が屛(つま)つた。人間の重さで壓しつぶされるのを感じた。其處に置かれるには彼はあまりに銳敏な機械だ、其處が彼をいやが上にも銳敏にする。そればかりではない、周圍の騷しい春が彼を一層孤獨にした。「嗟、こんな晚には、何處でもいい、しつとりとした草葺[やぶちゃん注:新潮版は「の」が入る。]田舍家の中で、暗い赤いランプの蔭で、手も足も思ふ存分に延ばして、前後も忘れて[やぶちゃん注:新潮版は「忘れる」。]深い眠に陷入つて見たい」といふ心持が、華やかな白熱燈の下を、石甃(いしだたみ)の路の上を、疲れ切つた流浪人のやうな足どりで步いて居る彼の心の中へ、切なく込上げて來ることが、まことに屢であつた。「おお! 深い眠、おれはそれを知らなくなつてからもう何年になるであらう? 深い眠! それは言はば宗敎的な法悅だ。おれの今最も欲しいのはそれだ。熟睡の法悅だ。卽ち肉體がほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に生きてゐる人の法悅だ。俺は先づそれを求める。それのある處へ行かう。さあ早く行かう!」彼は自分自身の心のなかでさう呟いた。或は、口に出してさへ呟いた。さうして矢も楯もたまらない、鄕愁に似たやうな名づけやうのない心が、その何處とも知れない場所へ、自分自身を連れて行けとせがむのであつた……。(彼は老人のやうな理智と靑年らしい感情と、それに子供ほどの意志とをもつた靑年であつた。)
その家が、今、彼の目の前に現はれて來たのである。
道の右手には、道に沿うて一條の小渠(みぞ)があつた。道が大きく曲れば、渠もそれにつれて[やぶちゃん注:新潮版は「ついて」。]大きく曲つた。そのなかを水は流れて行き流れて來るのであつた。雜木山の裾や、柿の樹の傍や、廐の橫手や、藪の下や、桐畑や片隅にぽつかり大きな百合や葵を咲かせた農家の庭の前などを通つて。幅六尺ほどのこの渠は、事實は田へ水を引くための灌水であつたけれども、遠い山間から來た川上の水を眞直ぐに引いたものだけに、その美しさは溪と言ひ度いやうな氣がする。靑葉を透して降りそそぐ日の光が、それを一層にさう思はせた。へどろの赭土を洒して、洒し盡して何の濁りも立てずに、淺く走つて行く水は、時時ものに堰かれて、ぎらりぎらりと柄になく光つたり、さうかと思ふと縮緬の皺のやうに纖細に、或は或る小さなぴくぴくする痙攣の發作のやうに光つたりするのであつた。或は、その小さな閃きが魚の鱗のやうに重り合つて居るところもあつた。涼しい風が低く吹いて水の面を滑る時には、其處は細長い瞬間的な銀箔であつた。薄(すゝき)だの、もう夙くにあの情人にものを訴へるやうなセンチメンタルな白い小さい花を失つた野茨の一かたまりの藪だの、その外、名もない併しそれぞれの花や實を持つ草や灌木が、渠の兩側から茂り合ひかぶさりかかると、水はそれらの草のトンネルをくぐつた。さうしてその影を黑く涼しく浮べては、ゆらゆらと流れ去つた。或る時には、水はゆつたりと流れ淀んだ。それは旅人が自分の來た方をふりかへつて佇むのに似て居た。そんな時には土耳古玉のやうな夏の午前の空を、土耳古玉色に――或は側面から透して見た玻璃板の色に、映して居るのであつた。快活な蜻蛉は流れと微風とに逆行して、水の面とすれすれに身輕く滑走し、時時その尾を水にひたして卵を其處に產みつけて居た。その蜻蛉は微風に乘つて、しばらくの間は彼等と同じ方向へ彼等と同じほどの速さで、一行を追ふやうに從うて居たが、何かの拍子についと空ざまに高く舞ひ上つた。彼は水を見、また空を見た。その蜻蛉を呼びかけて祝福したいやうな子供らしい氣輕さが、自分の心に湧き出るのを彼は知つた。さうしてこの樂しい流れが、あの家の前を流れて居るであらうことを想ふのが、彼にはうれしかつた。
劇しい暑さは苦しい、樂しい、と表現しようとして木の葉の一枚一枚が寶玉の一斷面のやうに輝くと、それらの下から蟬は燒かれて居るやうに呻いた。灼けた太陽は、空の眞中近く昇つて來て居た。併し、彼の妻は、暑さをさほどには感じなかつた。併し、彼の妻から暑さを防いだものは、その頭の上の紫陽花色に紫陽花の刺繍のあるパラソル――貧しい婦の天蓋――ではなかつた。それは彼の女の物思ひであつた。彼の女は今步きながら考へ耽つて居る、暑さを身に感じる閑もないほど。彼の女は考へた――さうすれば今間借りをして居る寺のあの西日のくわつと射し込む一室から涼しいところへ脫れられる。それよりもあの下卑た俗惡な慾張りの口うるさい梵妻の近くから脫れられる。さうして、靜に、涼しく、二人は二人して、言ひたい事だけは言ひ、言ひたくない事は一切言はずに暮したい住みたい。さうすれば、風のやうに捕捉し難い海のやうに敏感すぎるこの人の心持も氣分も少しは落着くことであらう。あれほどの意氣込みで田舍を憧れて來ながら、僅ながらもわざわざ買つて貰つた自分の畑の地面をどう利用しようなどと考へて居るでも無く(それはもとよりさうであらうとは思つたけれども)それよりも本一行見るではなく字一字書かうとするでもなく、何一つ手にはつかぬらしい。さうして若しそんな事でも言ひ出せばきつと吐鳴りつけるにきまつて居る、それでなくてさへも、もう全然駄目なものと見放されて居る――わけて自分との早婚すぎる無理な結婚の以後は殊にさう思はれて居るらしい父母への心づかひもなく、ただうかうかと――ではないとあの人自身では言つてもとにかくうかうかと、その日その日の夢を見て暮して居るのである。何時、建てるものとも的のない家の圖面の、而も實用的といふやうな分子などは一つも無いものを何枚も何十枚も、それは細かく細かく描いて居るかと思ふと、不意に庭へ飛び出して、犬の眞似をして犬と一緖になつて、燃えて居る草いきれの草原を這つたり轉げまはつたり、さうかと思ふと突然破れるやうな大聲で笑ひ出したり叫び出したりするこの人は、ほんとう[やぶちゃん注:、ママ。]に何か非常に寂しいのであらう。何事も自分には話してくれはしないから解る筈もない。何か自分には隱して居るのではなからうか……。彼の女は、五六日前に讀み了つた藤村の「春」を思ひ出した。單純な彼の女の頭には、自分の夫の天分を疑うて見ることなどは知らずに、自分の夫のことをその小說のなかの一人が、自分の目の前へ――生活の隣りへ、その本の中から拔け出して來たかのやうにも思つて見た……。あれほど深い自信のあるらしい藝術上の仕事などは忘れて、放擲して、ほんとうにこの田舍で一生を朽ちさせるつもりであらうか。この人は、まあ何といふ不思議な夢を見たがるのであらう……。それにしても、この人は、他人に對しては、それは親切に、優しく調子よくしながら、何故かうまで私には氣難かしいのであらう。若しや、あの人のある女に對する前の戀がまだ褪せきらない間に、私はあの人の胸のなかへ這入つて行つて、そのためにあの人はしばらくはあの女を忘れては居たけれども、根强く殘つて居たあの戀が何時の間にか再び自分をのけものにしてまた芽を出したのではなからうか。さうして私には辛くあたる……。今のままでは、さぞかし當人も苦しいであらうが、第一そばに居るものがたまらない。返事が氣に入らないといつては轉ぶほど突きとばされたり、打たれたり、何が氣に入らないのか二日も三日も一言も口を利かうとはしなかつたり……。あの人はきつと自分との結婚を悔いて居るのだ。少くとも若し自分とではなく、あの女と一緖に住んで居たならばどんなに幸福だつたらうかと、時時、考へるに違ひない。考へるばかりではない、現に、自分にむかつてさう言つたことさへある――「あの時、おれがあの女、あの純潔な素直な娘と一緖になれさへしたならば、あの人が私をよく統一して、おれは今ごろ、いろいろな意味でもつと美しいもつと善い生活が出來て居ただらうに」と……。實際あの女は、自分も知つて居るけれども、自分などよりはもつと美しく、もつと優しい。私はあの人があの女をどんなに深く思つて居るかはよく知つて居る……いや、いや、さうではない。あの人はやつぱりあの人自身で何か別のことを考へ込んで居るのである……さうだ、夫は、「ただ、私をそつとして置いてくれ」と言つた……
ふと、
「俺には優しい感情がないのではない。俺は唯それを言ひ現すのが恥しいのだ。俺はさういふ性分に生れついたのだ」
彼の女は、昨夜、いつになく打解けて彼が語つた時、彼の女にむかつて言つた彼の女の夫の言葉を思ひ出すとその言葉を反芻しながら步いた。さうして未だ見たことのない家の間どりなどを考へた。たとひ新婚の夢からはとつくに覺めたころであつても、こんな暑さの下ででもただ單に轉居するといふだけの動機で心持がふだんよりもずつと活き活きとして來て、こんなことを考へて悲しんだり、喜んだり、慰んだりすることの出來るのは、まだ世の中を少しも知らない幼妻(をさなづま)の特權であつたからだ。さうしてそれがまた、あの案内の女が、喋りつづけに喋つて居るその家の由來に就て、何の興味も持たぬらしく、ただ無愛想に空返事を與へて居るに過ぎなかつた所以ででもある。――この案内の女は、その長い暑苦しい道の始終を、ながながと喋りつづけて休まなかつた。この女は自分の興味をもつて居るほどの事なら、他の何人にとつても、非常に面白いのが當然だと信じて居る單純な人人の一人であつたから。
こんな道を、彼等は一里近くも步いた。
さうしてその家は、もう、彼等一同の目の前に來てゐた。
家の前には、果して渠が流れて居た。一つの小さな土橋が、茂るがままの雜草のなかに一筋細く人の步んだあとを殘して、それの上を步く人人に、あの幅一間あまりの渠を越させて、人人をその家の入口へ導く。
入口の左手には大きな柿の樹があつた。さうして奧の方にもあつた。それらの樹の自由自在にうねり曲つた太い枝は、見上げた者の目に、「私は永い間ここに立つて居る。もう實を結ぶことも少くなつた」とその身の上を告げて居るのであつた。その老いた幹には、大きな枝の脇の下に寄生木が生えて居た。その樹に對して右手には、その屋敷とそれの地つづきである桐畑とを區限つて細い溝があつた。何の水であらう。水が涸れて細く――その細い溝の一部分を尙細く流れて男帶よりももつと細く、水はちよろちよろ喘ぎ喘ぎ通うてゐた。じめじめとした場所を、一面に空色の花の月草が生え茂つて居た。また子供たちが「こんぺたう」と呼んで居るその菓子の形をした仄赤く白い小さな花や、又「赤まんま」と子供たちに呼ばれて居る野花なども、その月草に雜つて一帶に蔓(はびこ)つて居た。それはなつかしい幼な心をよびさます叢であつた。晝間は螢の宿であらう小草のなかから、葉には白い竪の縞が鮮に染め出された蘆が、すらりと、十五六本もひとところに集つて、爽やかな長いそのうへ幅廣な葉を風にそよがせて、ざわざわと音をたてて居るのであつた。屋敷の奧の方から流れ出て來た水は、それらの小草の莖をくぐつてそれらの蘆の短い節節を洗ひきよめながら、うねりうねつて、解きほぐした絹絲の束のやうにつやつやしく、なよやかに搖れながら流れた。さうして、か細く長長しい或る草の葉を、生えたままで流し倒して、その草のために一時流動することをさへぎられたそれらのささやかな水は、その草の葉を傳うて、より大きな道ばたの渠のなかへ、水時計の水のやうにぽたりぽたりと落ち濺いで居た。彼にはこの家の屋後に、湧き立つ小さな淸新な泉がありさうにも感ぜられた――さういふ地勢ででもあつたから。
家の背後は山つづきで竹藪になつて居た。竹のなかには素晴しく大きな丈の高い椿が、この淸楚な竹藪のなかの異端者のやうに、重苦しく立つて居た。屋敷の庭は丈の高い――人間の背丈よりも高くなつた榊の生垣で取り圍まれてあつた。家全體は、指顧の遠さで見た時にさうであつた如く、目の前に置かれて見ても、茂るにまかせた樹樹の枝のなかに埋められて、茂るにまかせた草の上に置かれてあつた。
犬は一疋づつ土橋の側から下りて行つて、灌水の水を交交に味うた。
彼はその土橋を渡らうともせずに、「三徑就荒」と口吟みたいこの家を、思ひやり深さうにしばらく眺めた。
「ねえ、いいぢやないか、入口の氣持が」
彼はこの家の周圍から閑居とか隱棲とかいふ心持に相應したる[やぶちゃん注:新潮版に従えば、「相應した或る」である。]情趣を、幾つか拾ひ出し得てから、妻にむかつてかう言つた。
「然うね。でも隨分荒れて居ること。家のなかへ這入つて見なければ……」
彼の妻は少少不安さうに、又さかしげに、氣まぐれな夫をたしなめる時にすべての妻がする口調をもつてさう答へた。併し、すぐ思ひかへして、
「でも、今のお寺に居ることを思へば、何處だつていいわ」
今飮んだ水から急に元氣を得た二疋の犬は、主人達よりも一足さきに庭のなかへ跳り込んだ。松の樹の根元の濃い樹かげを擇んだ二疋の犬どもは、わがもの顏に土の上へ長長と身を橫へた。彼等は顏を突き出して、下顎から喉首のところを地面にべつたりと押しつけ、兩方から同じ形に顏を竝べ合つた。さうして全く同じやうな樣子に體を曲げて、後脚を投げ出した樣子は、まことに愛らしいシンメトリイであつた。赤い舌を垂れて、苦しげな息を吐き出し乍ら、庭に這入つて來た彼等の主人達の顏を無邪氣な上眼で眺めて、靜かに樂しさうに尾を動かして見せた。いかにも落着いたらしいその姿は、此處がもう自分たちの家だといふ事を、彼等の主人たちよりさきに十分に豫感[やぶちゃん注:新潮版に従えば、「豫覺」である。]して居るらしいやうにも、彼には見られるのであつた。若しこの時、妻が彼のそばに居たならば彼は妻にかう言つたらう――
「ね、フラテもレオ(二つとも犬の名)も贊成してゐるよ。」
けれども彼の妻は、案内の女と一緖にその緣側の永い間閉されて居た戶を開けようとして、鍵で鍵穴をがたがた言はせて居る。
樹といふ樹は茂りに茂つて、綠は幾重にも積み重つた。錯雜した枝と枝とは網の目になり壁になり軒になつて、庭はほとんど日かげもさし込まなかつた。土の匂は黑い地面から、冷冷と湧いて來た。彼は足もとから立ちのぼるその土の匂を、香(かう)を匂ふ人のやうに官能を尖らかせて沁み沁みと味うて見た――ぢやらぢやらと涼しく音を立てて居た鍵束の音がやまつて、緣側の戶が開けられるまで。
[やぶちゃん注:以下に二行で「*」七点がずれて挿入されてパートが終わっている。次回の冒頭で再現する。
以上は「佐藤春夫 未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)始動 (その1)」と対照されたい。]
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