佐藤春夫 改作 田園の憂鬱 或は病める薔薇 正規表現版 (その12) / 未定稿にはない新たに追加された章
[やぶちゃん注:電子化意図や底本は初回の私の冒頭注を参照されたい。なお、本章は未定稿にはない。従って、次では未定稿とは数字がずれるので注意されたい。但し、以下の第二段落目は、「佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その14)」が転用されているので、見られたい。]
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彼が我にかへつて、もうフェアリイ・ランドの王ではなかつた時、闇は、遠い野や山の方から押し寄せて來て、それが部屋といふ部屋中へもうぎつしりとつめ込まれて居た。彼の身のまはりは全く暗黑であつた。彼は先づランプへ灯をともさなければと、煙草盆にあつたマツチを擦つた。さうして家中到る處でマツチを擦つた。ランプのありかを求め搜す爲めであつた。けれども何處に置かれて居るのやら、それはどうしても見つからなかつた。
一たい、この頃彼にはそんなことが實によくあつた。ランプなどといふそれ程大きなものではないにしても、その代りには今のさつきまで自分の手のなかに在つたもの、さうして使つて居たもの、例へばペンであるとか、煙管であるとか、箸であるとか、そんな風なものが、不意にどこかへ見えなくなるのである。さうして一時姿を晦して居たそれらの品物は、後になつて思ひも寄らないやうな、その癖考へればごく當りまへな場所から、或はその時に注意深く搜した筈だと思へる馬鹿げた場所から、ひよつくりと出て來る。併し、搜す時には、實に意地惡く決してそれは姿を現さない。さう言ふ事は誰にもよくある事である。併し、この頃彼に起つた程それほど屢は、決して誰にも起るものではない。彼にはこの頃そんな事が一日に少くとも二三度は必ずあつた。そのふとした事が、彼にその都度どんなにか重大に見えたであらう。實に不可解な、神祕とさへ考へたいやうな、寧ろフエイタルとも言ひたい程な出來事だ、とさへ彼には感じられるのであつた。誰か目には見えない何者かが居て、その間ちよつとその品物を匿して居るといふ風にも思へた。さうして彼の持ちものが、かうして每日二三品づつ位、身のまはりからひよつくり消え失せでもするやうに彼には感じられるのであつた。それ故ランプの時にも、「又あれだな」と思ひながら、彼はもうそれを搜すことを一先づ斷念することにした。それは、妙に、斷念すればする程早く出て來るやうだから。彼はそこで氣がついて、簞笥の上から手さぐりに燭臺をとり下した。それへ陰氣な、赤い、搖れる火をともした。
[やぶちゃん注:「フエイタル」fatal。形容詞では「(病気・事故などが)命に関わる・致命的な・命取りになる・死を齎す」、「運命を決する・重大な」、「宿命的な・運命を免れない」、「破滅的な・破壊的な」の意で、名詞ならば、「致命的な結果」の意。]
その夜のやうな時に、そんな田舍で、而もただひとりで居て、四方を未だ戶締りして居ない家が、彼を薄氣味惡くした。――何とも知れない變な、それは泥棒などといふ素性の知れたものではない別種の侵入者、それは結局正體のない侵入者、それを自由自在に出入するに任せて居るやうな氣がするのであつた。戶袋といふものはそれの性質上、家の隅隅にあつた。生れつき最も臆病な、その上更にこの頃ではそれの程度が、神經質な子供以外の普通の人間には到底同情、どころではない理解もされさうも無い程にまでなつて居た彼には、家の隅といふやうな場所さへ不安なところに思へるには十分であつた。彼がそこに立つて一枚一枚と戶を繰つて行くと、戶の走るその音が、野面の方へ重く這つて行つて、そこで空虛に反響して居た。その音に脅えたのであらうか、今までは音無しく睡入つて[やぶちゃん注:「ねいつて」。]居たらしい彼の二疋の犬は、その時床の下からほの白く出て來るや否や、又いつものあの夕方の遠吠えを初めた……。十枚くらゐもあるその緣側の戶を締めてしまつて、もう一つ反對の側にある短い緣側の戶を締めようと、通拔けに六疊の座敷へ彼が足を踏み入れた時である。そこの床の間に、ちよこんと立つて居た! ランプが。今まであれ程搜して、ここだつて念入りに搜した筈の場所ではないか! いつものやうな小さなものででもあらう事か、こんな大きなものが。[やぶちゃん注:新潮文庫版ではここに「……」が入る。]さう思ふと、彼は全く恐怖に近い或る感じがした……これや[やぶちゃん注:新潮文庫版では「これゃ」。「こりゃ」の意。]、このランプにはうつかり手はつけられない。それを持たうと何の氣もなしに手を差し延した刹那、それが自分の目の前で、ふいとまた見えなくなりでもするとしたならば……彼には、そんな事が想像された。その想像を馬鹿ばかしいと自制しながら、彼は思ひ切つてランプへ手を差し出した。ランプはいい工合に本ものであつた。
ランプへ灯をともして、戶を締めてしまつて、火鉢の前に來た時、彼の氣がついたのは、お茶を飮まうにも湯がなかつた。炭は眞白な灰になり、晝間には滾(たぎ)り立つて呻りつづけて居た鐵瓶は、それのなかの水と一緖に冷えきつて居た。それも當然の事である。彼の妻が十一時ごろに出かけて行つた時、それを生けて置いたままで、彼はそれつきり炭を次[やぶちゃん注:「つ」。]がなかつたのだから。炭などは愚か、彼にはあのフエアリイ・ランドの丘以外には、世界に何も――自分自身でさへも無かつたのだから。……いい按排にそれの遠吠えは今日は案外短くて濟んだと思つた犬は、今度は二疋で、くんくんと鼻を鳴らし出して居た。これは彼等の夕飯の催促なのであつた。空腹なのは彼等と猫とばかりではない。彼自身も先刻からの、妙に胸さわぎのするやうなその臆病な氣持も、うすら寒いのも、一つは確にそれのせゐに相違ないと考へた程に空腹なのであつた。併し、夕飯を食べるにしては、今夜は先づ飯を炊かなければならなかつた――不意に東京へ行くと言ひ出した彼の妻は、汽車の時間の都合でそれの用意はして置けない、と、くどくどと言ひ譯をして、停車場への行きがけにそれをお絹に賴んで行かうと言つた。けれども、昨夜もお絹の身の上話のもう十遍目位も聞かせられて惱まされて居た彼は、妻には米を洗はせて水をしかけさせて、自分自身で炊くことにして居た。火のない火鉢の前に坐り込んで、彼は一晚ぐらゐ飯などは食はなくともいいと思つた。けれども、かうして犬どもにせがまれて、この常に飢に襲はれて居る者どもの空腹を想像して見た時、彼は飯を炊かずには居られなかつた。この頃ではもううつかりして居るうちに日が暮れるのだから、早く用意をして置かなければ……と、さうも言ひ置いた妻の言葉を、彼は思ひ出しながら、自分を臺所の方へ運んで行つた。
彼は犬を鎖から放してやつて、それを臺所の方へ呼んで來た。うす暗い隅隅の多い臺所は、彼ひとりではもの淋しかつたからである。犬どもは彼等の主人の心持をよく知つて居たかのやうに、土間にしやがんでゐる彼の傍へ來て、フラテも、レオも、二疋とも彼にすり寄つて坐つた。猫は猫で、そこの板間の端に來て彼の顏に近く蹲つた。かうして彼の妙な一家族が、馬の蹄のやうな形に高く積み上げられて土で出來た竈の前にわびしく物言はぬ團欒をした時に、彼はやつと心丈夫に思へた。さうして彼は火を焚き出した。焚きつけだけはよく燃えた。それが燃え盛ると彼の心も明るくなつた。けれども火は直ぐ消えてしまつて、彼の投げ入れた二三本の薪へは決して燃えつかない。彼はただ徒に焚きつけを燃した。永い間の雨で、薪は濕りきつて居たからである。さうして焚きつけは――こんなもの位はもつとどつさり用意して置けばいいものを! 少ししか無かつた焚きつけは、五六遍くべて居るうちには既にもう屑も無かつた。彼は考へついて石油の鑵を持ち出した。びくびくしながら薪の上へ石油をぶつかけた。直ぐ石油は地の上から三四寸浮いたところに大きな輕い火の塊をつくつて、燃え立つた。走るやうに燃えた。神經的に燃えた。それは全く何の精神統一もない人の――彼自身のやうな人の昂奮に髣髴として燃えた。思慮なく、理性を沒却して、そのくせ力なく、ただ一氣に燃えた。直ぐにぐつたりと氣がくづをれて下火になつた。石油はただそれがある間はそれ自身だけ燃えて、燃え盡きると、あれほど大きかつた炎の塊は幾つかの小さなそれに分れ分れになつて、それの一つ一つは薪の上つらを這つて傳ひながら、靑く小さな炎がちらちらとそこを舐めてしまつたかと思ふと、もう消えて居た。どす黑い臭とどす黑い色とを持つたその特有の煙、それは馬鹿げた感激の後に來る重い氣分に似た煙が、一度にどつと塊つてさもけだるげに昇つた。それは猫がおどろいて立ち上り、二疋の犬は一樣にそれから顏を反けた程にどつさりであつた。彼はその同じことをもう一度試みた末に、石油は薪に灌がれたものよりも土の上に零れたものの方が、最後まで燃えて居るのを發見して(實際、彼は石油の燃え方に就て、いらいらした自分の感激の具象化を、例の病的な綿密さで丹念に、硏究者のやうに見つづけたのである)彼は改めて竈の下から、石油の燃えたしるしに、それの上つらだけが黑く燻されて居る薪を竈の外へ、一たんとり出した。さて竈の底の灰の上へ思ひきつてあるだけの石油を灌いで置いてから、その土の上へ薪を組み合せて積み上げた。さて燃えて居るマツチを一つかみ投げ込んだ。黑い煙の少しと大きな炎とが、釜の下を傳うて存分に吐き出された。そのうちにそれは少しづつ薪へ燃えうつり出した。
「うまい! うまい!」
彼は思はず聲を出して、さうひとり言を言つた。その低い聲を聞いて、フラテは彼の細く尖つた顏を上げて、その意味を訊す[やぶちゃん注:「ただす」。]かのやうに彼の顏を見上げた。やつと、少しづつ燃えて來た薪は、それは心から動かされた人間の、力强い感激のやうに賴もしい炎であつた。おお! 燃えて來る火といふものはどんなにうれしいか。彼と彼の犬とは同じやうに瞳を輝かして、未開人たちが神と崇めたその燃える火を見つめた。その時炎の上に濺がれて居た彼の瞳に、ふと何の關聯もなしに、妻の後姿が、極く小さく――あのフエアリイほど小さく見えるやうな氣がした。その燃える火のなかにゐる彼の妻は、どうやら大變な人ごみのなかに居るやうに感ぜられる……。單なる想像ではなく、それは目さきにちらつく幻影に近い――幻影といふのはこんなものであらうかと思へるやうな形で、そんな空想が思ひがけなく彼に起つた時に、ああ活動へ行つて居るな! と、彼には直覺的にさう思へた。その次には半ば彼自身の意志から、彼の空想は、東京のそのうちでも人氣の多いやうな場所へ向いて行つた。とその次の瞬間に、……若しや、自分自身も今ごろは、そんな人込みのなかを步いて居るのではなからうか、と、そんな有り得べからざることが極く普通の考へのやうに思ひ浮ぶ。……こんな處に、うす暗いうすら寒い臺所の片隅に、竈の前へしよんぼりと跼つて[やぶちゃん注:「うづくまつて」。]、思ふやうには燃えない炎をさつきからぢつと見つづけて居る自分。まるで苦行者が苦行をでもつづけるやうに自分自身の氣分を燃える炎のなかに見つめて、犬や猫にとり圍まれて蹲つて居る自分。これは若しや本當の自分自身ではないので、本當のものは別にちやんと何處かに在るので、ここの自分は何か影のやうな自分ではないのか! そんな氣持がひしひしと彼に湧いて來た。その心持が彼に滲入つた[やぶちゃん注:「しみいつた」。]時に、冷たい感覺が彼の背筋の眞中を、閃くが如くに直下した。身のまはりのすべては、自分自身も竈の炎も二疋の犬も猫も、眼を上げるとお櫃も手桶もランプも流しもとも悉くが、今、ふいと搔き消えはしないかと危ぶまれる。さうして怖る怖る身のまはりが振り返つて見られる。壁の上には、彼自身と二疋の犬との三つの影が三方に擴がつて、大きく黑く一面に映つて、それが炎の燃えるまにまに、壁の面で或は小さく或は大きくふるへる。それは小休みなく[やぶちゃん注:「をやみなく」。]動く每に、それだけ少しづつ彼等の本體の方へ近づいて來て、それ等の本體を呑包んでしまひさうに見える。と、彼の左側に居たレオは、突然ぬつくと立ち上つたが、煙を出すために少しばかり𨻶(あ)けて置いた戶の𨻶間からすり拔けて外の方へ出て行つた。それから急にけたたましい短い聲で吠え出した。耳を後に立ててその兄弟の聲に注意したフラテも同じやうにして出て行つた。彼等は聲を合せて吠えた。――目には見られない何者かが近づいて居ることを彼に告げでもするかのやうに。恐怖が彼を立ち上らせた。併し、犬どもは直きにそれをやめて不興げな眞面目な樣子で、もとの座へ、彼の傍へ坐つた。
犬どものその樣子が彼には不審でならなかつた。彼は心を落着けると、少し身を延び上つて、戶の節穴から、試みに、そつと外を窺うて見た。すると、ほのかな闇を見透して居る彼の目に、柿の樹の幹のかげから黑い小さな人影が、不思議にも足音なしに現はれて來た! その人影が小さかつたことが彼をいくらか安心させた。けれどもそれは正しく何の足音もない者であつた! 併し、それが動いて來て、戶の𨻶間から洩れて流れて居るランプの光につき當つた時、それは別に奇異なものではなかつた。それはお桑、彼の家へよく遊びに來る隣の家の十三になる女の子であることが確であつた。けれども? あのお喋りの、いつもずつと遠くから大聲で呼ばはりながら驅け込んで來たり、犬の名を呼んだり、或は口笛を吹いたりしながら來る子、さうして夜になつてからなどは決して遊びに來ない子が、今夜あんな風にして來る筈はない、と思ふと、そのふはふはと近づくお桑は、やはり、奇異なものであつた、彼はそれを確めようと呼んで見た――
「お桑さか?」
「おおつ! びつくらした! 小父さん居なつたか」[やぶちゃん注:「をんなつたか」と読んでおく。]
さう答へたのはやはりお桑であつた。併し、彼の呼んだのは妙に落着いた大きな聲のひとり言のやうであつたのに對して、お桑の答へは實に仰山な叫びであつた。その聲で、今まで淋しさをこらへて居た彼が飛び上らうとした程。お桑の聲で安心した彼は、戶を開けた。外には突立つたお桑の妙な表情が明るく浮き出した。
「どうしたのだ、お桑さ。……うちで叱られたのか」
「……」お桑は直ぐには返事をしなかつた。けれどもやがて暫くすると、小父さんは飯を炊いて居たのかとか、小母さんは何日歸るかとか、この子はいつもの通りに喋り出した。そのうちに、お桑はふと思ひ出したかのやうに言つた。
「然うだつけ! おら忘れて居ただ。今日おらあで風呂焚いただよ――お天氣で、皆野良へ出ただもの。今焚いて居るんだよ。もうちつとしたらへえりに來なよ。……小父さんは妙な人だなあ、無え時にべえへえりたがつて、ある時にはへえりたがんねえでねえか」[やぶちゃん注:「べえ」は副助詞「ばかり」の神奈川方言。]お桑はそんなことを言ふと、そはそはと歸り出した。今夜ばかりはお桑にでももつと喋つて居て貰ひたいと彼は思つたのに。その女の子は、五六間步き出した時には、
「小父さん。また降つて來ただよう」
と、もういつものとほりのお桑であつた。お桑の奴は今ほつと安心をしたのだ、と彼は思つた――彼には、風呂の事を聞いた時に、あの足音の無いお桑が、偶然にももう解つて來て居たから。お桑の一家族には用心せよといふ噂や、この頃外に積んで置く薪があまり減りすぎるといふ事や、時時の朝に、束から崩れて拔け落ちた薪が二三本も井戶端にある、といふやうな事を、彼の妻が言つたのを彼は思ひ合したのである。
さう解つて見ると、そんなことは彼にはどうでもよかつた。唯、
「小父さん。また降つて來ただよう」
と言つたお桑の言葉と、あの時きつかけでひよくり柿の幹から現はれた人影としてのお桑が、彼の心に殘つた。それよりも彼がそれ程に苦心をした飯は、何か用具について居たのか、彼の手にあつたのか、とにかく石油の臭が沁み込んで居た。(お茶をかけて、ランプの光に透して見ては、別に何も浮いては居なかつたが。)彼には、それはどうしても一杯しか食へなかつた。その夜は、飯にばかりではない。夜着の襟も、枕も、彼の肩のところも、彼の口のなかも、空氣そのものも、彼の腕にびくびくと小さな心臟の鼓動を傳へて彼の傍に來て眠つて居た猫も、皆石油くさかつた。さうしてそのあるかないかの臭が、夕飯の代りにと澤山に彼が飮んだ茶の作用と結びついて、それが極く微かなだけに、彼をひどく昂奮させた。臭はあると思へばあつた、無いと思へばなかつた。……ふと、夕方ランプを搜さうとして方方でマッチを擦つたことや、火を燃さうとして石油を弄んだことを思ふと、釜を竈から下した時それの尻にちらちらと動いて居た小さな火の粉の行列を面白がつたことと言ひ、この部屋にみなぎる石油の臭と言ひ、さう思つて見るとお桑が薪を盜みに來たことまで、何でもかでも皆、今夜この家から火事が出るといふ事の豫覺に思へてならない。……空氣のなかには、既にさういふ用意が出來てゐて、それが彼の官能には假に石油の臭になつて訴へられて居る。とそんな風にも思へる。たうとう……こんな家ぐらゐ燃え上がつてしまへ。火事といふものは愉快なものだ。いやいや、そんなことを考へるとほんとう[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]に火事が出る、とも思ふ……。若し火事が出たら、眞先きに犬どもを鎖から放してやらなければ彼等は燒け死ぬ、と思ふ。その時になつて狼狽するといけないから、今のうちから用意に放して置いてやらうかとも思ふ。……大丈夫火事になどはならないとも思ふ。……何しろ早く夜が明ければいいとも思ふ。そんなことを思ふ傍に別の心があつて、ほんとうに妻は活動寫眞へ行つたらうかと思ふ。今日の晝間のあのフエアリイの仕事をして居る姿を思ひ浮べる。と、夕日がぱつと丘に照つたことから、それの色からまた火事の事が思はれて來る……。彼は自分自身で、それを、未だ睡入(ねい)らずに考へて居るやうに感じ、もう眠つて居て夢のなかで考へて居るやうにも思つた。さうしてそれが果してどちらであつたやら、後になつて見ると更に解らない。――
[やぶちゃん注:これ以前の部分でも明らかに現われているが、この主人公の精神状態は、強迫神経症様の、軽い被虐性と軽い加虐性を兼ね備えた、強い関係妄想の典型的症例に非常に近いように思われる。叙述方法のそれもそうした、やや病的な粘着質な感じがよく出ている。]
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