西播怪談實記 佐用邑大市久保屋下女山伏と角力を取し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。【 】は二行割注。]
◉佐用邑《むら》大市久保屋(おちくほや)下女山伏と角力《すまふ》を取《とり》し事
佐用郡佐用邑に大市久保屋弥三兵衞《やさべゑ》といひしもの有。
寬文年中[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の事なりしに、下女に「まつ」といへる女、有《あり》けるが、ある夕間暮に、菜園(さゑん)へ菜(な)を摘(つみ)に行《ゆき》しに、側(そは)に大きなる榎(ゑのき)の古木(ふるき)有けるが【菜園の字《あざ》は「倉屋敷」といふ。往昔、備前宇喜多領の時、鄕藏《がうくら》在《あり》し所也。】、其(その)陰より、不斗《ふと》、大《だい》の山伏、出來りて、
「いざ、角力をとらん。」
と、いふ。
女、いと恐しく、
「我は女なれば、角力は得(ゑ)とらず。」
といへども、山伏、
「是非に。」
と、いふて、取附《とりつく》を、取《とつ》て抛(なけ)るに、手に、こたへず。
[やぶちゃん注:「得(ゑ)とらず」はママ。呼応の不可能の副詞「え」に漢字を当てたもの。後も同じ。]
山伏、又、起上りて取附を、力を入れて打付《うちつけ》れば、山伏いふやう、
「其方、力、强し。負《まけ》たり、負たり。」
と、いふて、行方(ゆきかた)しれず、消失(きへうせ)ぬ。
女は、氣も魂(たましい)も絕(たへ)々にて、走り歸れば、家内のもの、おどろき見るに、色、眞靑(まつさほ)にして、所々、死朽色(しくちいろ)なれば、
「こは、いかに。」
と子細をとふに、菜園の方を指《ゆびさし》て、物も得いはず。
色々、介抱しられ、漸々(やうやう)心しづまりて、有《あり》し容須(ようす)を語れば、聞(きく)ひと、大《おほ》きに怪みけり。
かくて床に打臥(《うち》ふし)けるか、躬(み)、大《おほ》イに𤍽《ねつ》し、食事も絕果(たへは)て、終《つひ》に翌(あくる)る夕暮に、むなしくなる。
それより「倉屋敷」は、暮前(くれまへ)よりは往來(ゆきゝ)なかりしが、年をへて、自然と、榎も、枯果(かれはて)、いつとなく町家(まちや)も出來(いてき)て、寬延の今は、其噺(そのはなし)のみ世に殘りける趣を書傳ふもの也。
[やぶちゃん注:「倉屋敷」現在の兵庫県佐用郡佐用町(グーグル・マップ・データ)には見当たらない。「ひなたGPS」で戦前の地図も見たが、見当たらない。
「寬延」宝暦の前。一七四八年から一七五一年まで。]
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