フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 大手拓次譯詩集「異國の香」 「交通」(ボードレール) | トップページ | 柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 小豆洗ひ »

2023/02/18

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 盆過ぎメドチ談

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和七(一九三二)年十月十九日・二十二日・二十五日附の『奥南新報』初出である。同新聞は明治四一(一九〇八)年から昭和一六(一九四一)年にかけて青森県八戸市で発行された新聞で、当該ウィキによれば、『紙面の文芸欄から、数多くの文芸雑誌が生まれ、文芸欄に投稿した者たちで奥南詩文会(八戸郷土研究会)を結成するきっかけとなった』とある。]

 

     盆過ぎメドチ談

 

          

 

 もうそろそろ氷でも張らうかといふ頃になつて、メドチの話を始めるのも氣が利かないが、これでも來年の夏の手まはしとしてならば、早いと褒められてもよからう。奧南新報の記事目錄は、この節きまつて東京の一二の雜誌に揭げられるやうになつた。大よそ日本廣しといへども、こんな例は一つだつて他には無い。三浦利亢君とその一味の人々とが、鼻を高くしてござることは寫眞を見なくともよく察しられる。しかし八戶の諸君がこれに由つて、もしも世間に類の無い奇事珍聞がこゝだけに有り、それを聽かせてもらつて驚いて居るのだと、想像せられる樣だつたら、それだけは當つて居ない。たまにはそんな人も何處かに居るか知らぬが、我々は寧ろその正反對に、外でも格別珍しくは無い事柄、今まで何遍か承つたやうな話が、遠く南部の三戶郡あたりにも、歷然として存するといふことに眼を圓くして居るのである。それがどうしてその樣にびつくりすべき事なのかは、共同にこれから考へて行くによい。單に他府縣の人に物を敎へて遣るだけなら、新聞の役目の外である。それでは第一に地元の讀者に相濟まぬ。「村の話」が實際は國の話であり、或は弘く人類の話であるかも知れないわけが判つてこそ、讀んでもう一度考へて見ようといふ人が、土地にも追々と多くなつて行くのである。問題はまだ他にも幾つかあるが、先日是川《これかは》村のメドチの話を面白く讀んで、今でも覺えてゐるから一つその話をして置かう。

[やぶちゃん注:「メドチ」『日本民俗文化資料集成』第八巻「妖怪」に所収する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊)には青森県の項に「メドチ」が立項されてあり、『水の怪。河童のこと。十和田』では、『猿のような顔で身体が黒く髪をさらっと披った十歳位の子供という。女の子に化けて水中に誘う。人間に子を生ませる(大谷女子短大『十和田の民俗』)。紫尻を好む。相撲が好きだが腕を下に引くと技ける、麻幹(おがら)[やぶちゃん注:皮を剝いだ麻の茎。盂蘭盆の門火を焚く際などに用いる。「あさがら」とも。]にとける。左甚五郎が木屑に人の尻でも食えといって水に放したという伝説がある。八戸市櫛引[やぶちゃん注:青森県八戸市櫛引(くしひき:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)]では七日盆[やぶちゃん注:「なぬかぼん」。七月七日で盆行事の初めの日を指す語。地方によって、墓掃除・井戸替え・物洗いなどをする。「盆はじめ」「なぬかび」とも。]の日には馬をとるという。駒引に失敗、もう取らぬと約束したが生きていけないので滝の明神様にこの日だけと願って許されたという(川合勇太郎『ふるさとの伝説』)。下北半島の正津川の河童が悪戯をして困るのでショウズの婆さん[やぶちゃん注:「三途河婆(しょうずかばば)」であろう。所謂、地獄の三途(さんず)の川辺で、亡者の衣服を剝ぎ取るとされた鬼形の老女奪衣婆(だつえば)のこと。]に祈願して懲らしめてもらった。紫尻を嫌う。しかし一旦見こまれると逃れられず、友達や親戚に化けてきて必ず川に巡れ込む。生まれつきの運命だという(『奥隅奇譚』)(以上、石川純一郎『河童の世界』)。津軽藩若党町の子が川で溺れた。水を吐かせようと手を尽くすと、腹のうちがグウグウとなりたちまち肛門から長さ一尺六、七寸で体が平たく顛の大きなものが走り出て四辺を狂い回った。打ち殺そうとしたが川に飛び込まれた(平尾魯魚『谷の響』巻五-七)』とある。また、ウィキの「メドチ」には、『青森県の櫛引八幡宮』(青森県八戸市八幡八幡丁(やはたはちまんちょう)にある。ここ)『には、このメドチの発祥にまつわる伝承がある。江戸時代の名工といわれる左甚五郎が八幡宮の本殿を建てる際に材木を削った際の木屑を川に捨てると、木屑の「これから何を食えばいいか」という問に甚五郎が「尻でも食らえ」と答えたため、木屑はメドツ(メドチ)となって人を襲うようになった(別説では甚五郎が本殿建築に使役した木偶人形を、本殿完成後に川に捨てると、それらがメドツとなったともいう』『)。八幡は鷹にメドツを懲らしめさせた。鷹があまりメドツの頭を突くので、メドツの頭はへこんで毛が生えなくなった。また、人を襲わないと餓死してしまうメドツを八幡は哀れみ、旧暦』七月一日から十六日まで、『矢倉の入口から里川の入口までの間で人』一『人と馬』一『頭を襲うことを許したという。櫛引八幡宮の本殿には鷹に抑えられたメドツの彫刻が残されているが、風雨にさらされて彫刻が劣化したため、メドツの姿を確認することは困難になっている』。『なお、青森県八戸市尻内町には、メドツ河原という地名がある』とある。「櫛引八幡宮」公式サイトのこちらの「建物紹介」の下方の一番左の画像をクリックされたい。本殿の脇障子の左にある「鷹にメドツ(河童)」の彫刻を見ることが出来る。鷹が両脚でメドチを押さえ込んでいる。「メドチ」の語源については、「蛟(みづち)」(水中の下級の龍の一種)の訛りとする記事を見つけた。確かにそれもありかとは思うが、私は富山県高岡市伏木に六年住んだが、そこでは「緑」を「めど」と呼んでいた。河童の皮膚は青緑色とも言う。「緑色の奴」=「めどっち」「めどち」である。これも私は語源候補かと思っている。さらに、私の二〇一六年の電子化注「谷の響 五の卷 七 メトチ」も是非読まれたい

「三浦利亢」不詳。識者の御教授を乞う。名前は「としたか」と読むか。【2023219日削除線+追記】いつも情報を戴くT氏より「青森県史デジタルアーカイブス」の「01_奧南新報「村の話」集成(上・下巻)」(1998年刊)の「『奥南新報』にみる民俗記事―八戸郷土研究会を中心にして―」のページを紹介された(検索で「Fork_OM2_9998」を入れて出る記事がそれ)。これによれば、この三浦利亢は恐らく本名を三浦広蔵と言い、当初は、『はちのへ新聞社』(八戸印刷会社)の『職工であった』が、『事情により奥南新報社に転じた』とあり、『三浦が編輯人となるのは、大正六年新聞社が堀端町から番町に移って間もなく、前任者の関向堅吾が急死したためで』、『編輯発行人として三浦の名が初めて出るのは大正七年一二月一日付の第一二七四号から、八戸市議会議員選挙に政友会から立候補するために交代する昭和四年四月一九日付の第二四七六号までである。政友会は昭和四年六月の選挙に大勝し』、『三浦も当選するが、新聞社の仕事は続けている』とある。而して、』『かつて八戸に、文芸研究を目的とする「詩文会」があり、奥南新報社を会場に活動していた』が、『それを大正九年(一九二〇)一月一六日の例会で「郷土を中心とする百般の研究」をする会にし、会名を「郷土研究会」に改めようと協議している。当日の出席者は、黒沢林泉・小野寺柏舟・下斗米撫山・東光・恋川なぎさ・川合染之助・近藤喜衛(『奥南新報』主幹)・三浦利亢であった。その直後『奥南新報』に次のような「郷土研究会創立に際して」の一文を載せ、入会を呼びかけている』。――『(前略)郷土研究は単なる保守趣味ではない。郷土研究は町の体裁を飾らんがための故郷史編纂をもって能事とするものではない。吾々の生れ出た土地、吾々を生み出した人間、この生々進展し来れる力と熱とに対する深き理解を目的とする。故に故郷研究はまた同時に正しきたしかなる未来への唯一の出発点であらねばならぬ。(中略)しっかりと、しっかりと、この吾々が生れ出し郷土の上に立って、文芸問題に、思想問題に、その他故郷の上に美しき文化の果を結ばしめんためのなにかに対して、纒りのある中心のある研究をして行かうではないかと、吾が郷土の親愛なる友、思慮ある人々に向って、旧詩文会員等一同挙って堅き握手を求めてやまぬものである(光)』――『郷土研究会の第一回集会は、二月八日』、『奥南新報社で開き』、『川合染之助が「ゑんぶり」の起源について考証し、会員との意見交換をしている』とある(この「ゑんぶり」というのは、ウィキの「えんぶり」によれば、『初春の神事として青森県八戸市一円を中心とする東北各地で広く行われる予祝芸能の一種』とある)。T氏曰く、「『三浦利亢君とその一味の人々とが』と書いているのは、奧南新報の編集者である「三浦利亢」への挨拶でしょう」とあった。何時もながら、T氏に感謝申し上げるものである。

「是川村」青森県八戸市是川。]

 

          

 

 私たちの不思議とするのは、人は南北に立ち分れて風俗も既に同じからず、言葉は時として通譯を要するほど違つてゐるのに、どうして川童といふ怪物だけが、全國どこへ行つてもたゞ一種の生活、まるで判こで押したやうな惡戲を、いつ迄も眞似つゞけて居るのかといふ點である。たとへば人をみて角力を取らうといふこと、これはいやしくも川童といふものが居る限りは、必ず誰かにさういふ經驗をさせて居る。奧州方面だけには例が少ないかと思つてゐると、八戶では念入りに二人連れで化けて來てゐる。をかしいことには名前や外貌が少しづゝ違つてゐながら、角力のすきな點のみが特別に一致してゐる。九州では通例ガワッパだのガアラッパだのと呼ばれ、色も東北とはちがつて半透明の白色だといひ、一つの水溜りに千疋もかたまつて住むなどと言はれてゐるが、やつぱり人を見ると「おい角力とれ」といつて近づいて來る。取つて負けてやればキキと嬉しさうな聲をしてもう一番といひ、負けるとくやしがつて何疋でもかゝつて來る。今でも實際あつた事のやうに思つて居る者が少しはあるが、他人が通りかゝつて傍から見ると、相手の姿は少しも見えず、大の男がたゞ一人相撲を取つて居るのであつた。それがしまひには取り疲れて、夜が明けるとまるで病人のごとく、又は熱が出たり稀には發狂してしまふ者もあつて、あの地方ではこれを川童憑《かつぱつ》きといひ、修驗を賴んで加持して貰ふことになつてゐたさうだ。

 

          

 

 これは九州でも筑後川流域、もしくは豐前の小國川、これに隣接する小盆地などに、近い頃まで行はれて居た風說であるが、他の多くの地方、殊に中國から近畿方面へかけては、噂は今少しく說話化して、もう迷信の區域は通り越して居る。第一に川童を見たといふ者が非常に少なく、たまたま出逢つたやうにいふ者でも、よく尋ねて見ると後姿ぐらゐのもので、話は一體にぼんやりとして居る。その癖に川童は角力を挑むものださうな、うつかりと見ず知らずの者と、角力などを取つてはいけない、といふ類の評判ばかりは無闇に流布してゐる。彼の頭のまん中には窪みがある。その中に水が溜まつてゐる間はえらい力を持つて居る。だから是非とも角力を取らねはならぬ樣だつたら、先づ丁寧にお辭儀をするがよい。さうすると向ふもうつかりと答禮をして、その水を飜してしまふからなどと、さもさも誰かゞさういふ經驗でもしたやうに、私も子供の頃にはよく年上の友人から敎へられたものだつた。中國では川童をメドチとはいはない。私などの故鄕ではガタロ卽ち川太郞、備前備中では川子又はコーゴ、廣島縣からさきはエンコウといふ土地が多い。しかも奧州の三戶郡と同樣に手を引けばするすると拔けるから手を引くに限るといふことも、亦この地方では傳へられてゐるのである。近世の文人畫に猿猴の月を捕る圖と稱して、途方も無く長い手をした猿が、樹の枝につかまつて片手を伸ばし、水底の月を摑まうとするものがあつた。もとは禪家などの寓意に成つたものだらうが、かなり流行してたゞの民家にも屢拙いのが描かれてあつた。川童のエンコウも多分これから出た名であらう。私たちの鄕里でも一種エンコザルといふ水邊に住む猿だけが、手が左右兩方に拔け通つて、一方を縮めると一方が伸びるといふ、便利至極なのを持つてゐるやうに考へて居たのであつた。さうしてそれと川太郞とは同じものとは思はなかつたけれども、後者も亦手を引けば直きに拔けるやうに傳へて居るのだから、今からふり囘つて見ると、たしかに關係のあることであつた。さうで無かつたならば、あんな繪はこの樣に普及しなかつた筈だ。

[やぶちゃん注:「豐前の小國川」不詳。旧豊前国に小国や小国川はない。熊本県北東の山間部にある阿蘇郡小国町(おぐにまち)があるが、ここは旧肥後国であり、豊前ではないし、そこを流れる河川に小国川はなく、何より河童が遡上するにはちょっと山奥過ぎる気がする。不審である。旧国名及び河川名を柳田は誤っているとしか思われない。戦前の地図も確認したが、見当たらない。一つ思ったのは、旧豊前国の大分県と福岡県の県境付近を流れる「山国川(やまくにがわ)」を誤認したのではなかろうか?

「文人畫に猿猴の月を捕る圖と稱して、途方も無く長い手をした猿が、樹の枝につかまつて片手を伸ばし、水底の月を摑まうとするものがあつた」所謂、「猿猴捉月」(えんこうそくげつ)である。ウィキの「テナガザル」の「猿猴捉月」によれば、『仏教の戒律書』「摩訶僧祇律」『巻第七に』『猿猴』(=テナガザル)『の寓話が載る』。『話の内容は』五百『匹の猿猴が暮らしていた木の下に井戸があり、その水面に映った月を見たボスの猿猴が「月を救い出して世に光を取り戻してやろう」と手下に呼びかけ、これを掬い取ろうとして木の枝にぶら下がり、数珠つなぎに水面へ降りていったが、水面の月に手が届く寸前で枝が折れてしまい、猿猴たちはことごとく水に落ちて溺死してしまったというもので』、『身の程知らずの望みに基づいた行動は失敗や破滅を招くという戒めを説いている』。『猿猴捉月は特に禅で好まれた題材で、「猿猴捉月図」として水墨画に描かれたりしたほか』、『茶釜の意匠に採られたりもしている』とある。私も何度か同意匠の禅画で見た。そちらには室町後期から戦国にかけて生きた画僧雪村(せっそん)筆の「猿猴捉月図屏風」(メトロポリタン美術館所蔵)があるので、それもリンクさせておく。

「手が左右兩方に拔け通つて、一方を縮めると一方が伸びるといふ」中国由来の妖怪猿の特徴であり、その怪猿自体を「通臂猴」と呼ぶ。思うに、これは東南アジアに棲息するテナガザル類(霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科 Hylobatidae)の樹上移動の様子を見て、そのようなものとして誤認したものと考えられる。妖猿と河童の通性は人形(ひとがた)という点で親和性があり、古くのまがまがしい妖猿が河童と相互交換されることは腑に落ちる。]

 

          

 

 何故に川童が人を見るといつでも角力を取りたがるのか。今まであまり有りふれた話だから注意する者も無かつたが、考へて見ると奇妙なことである。川童の妖怪である所以のもの、平たく言ふと川童の怖ろしいわけは、人を引込んで尻の子を拔くからであらうが、それと角力とは何分にも兩立しない擧動であつた。人の命を取るだけの自信があり、又計畫のある川童ならば、何もわざわざ力を角して見る必要は無いわけである。だから子供などは既にそんな話を信ぜず、普通は彼が水浴びに誘ひに來るといふ方を怖れて居た。實際每年の夏になると、折々さういふ疑ひのある悲慘事が起つた。他の子供の出て居らぬ時刻に、又はその群からずつと離れた場所で、たつた一人だけで子供が水の中に死んで居る。又は今まで遊んで居たのが急に見えなくなる。さうして大抵はきまつた淵などである爲に、現場を見た者は誰もなくても、それが川童の所爲だといふことになるので、人間にこの說明し難い不幸のある限り、メドチの信用はいつになつても恢復する見込は無いだらうが、それにしては人と角力を取つて、勝つて嬉しがつてたゞ歸つて行つたといふ話が、愈々以て解し難い不思議になるのである。

[やぶちゃん注:「尻の子」河童は、人の「尻子玉(しりこだま)」を抜くと言われた。「尻子玉」とは人の肛門付近に存在すると考えられた想像上の臓器で、私が思うには、恐らく水死体が腐敗し、肛門部の粘膜が開き、脱肛している様から誤認されたものと考えられるが、実際の内痔核疾患をも連想させ、如何にも分かり易い伝承発祥とは言えるように思われる。私の古い「耳嚢 巻之四 痔疾呪の事」の「河童大明神」の注も参照されたい。]

 この點に關しては、私はもう大分前から奧州南部のメドチに注意しなければならぬと思つて居た。その理由は、私等の鄕里で水に溺れて死ぬ者は、他に說明のつかぬ限り、誰でも川童に引かれたといふ推測を受け、御互ひはすべてその危險が有るやうに怖れてゐるのだが、東北ではどうやらそれが最初から、人について定まつて居ると考へられて居るやうである。この兒は水のものに取られる相があると言はれて、注意をしてゐたけれどもやはり取られたといふ類の世間話は多い。川童に尻ご[やぶちゃん注:「尻子」。尻子玉。]を拔かれる資格といふのもをかしなものだが、今でもよく聽くのは紫臀《むらさきげつ》をした者が、特にメドチによく狙はれるといふことで、後になつてから成程あの子供は、ほんにさうであつたといふ場合が當地でも多いといふ話である。尻の紫は私の聞いた所では、モンゴリヤ系民族の常の現象ださうで、現に日本人の中にはその例はざらにある。それが川童の眼に好ましく見えるやうでは、格別我々も安心といふわけには行かぬが、とにかくに彼に選擇があり、その條件に合した者だけが取られるといふのは、何か仔細が無くてはならぬことであつた。さうして氣を付けてゐると他の地方にも、以前は同じやうに考へられて居たのでは無いかと思ふ節が、少しづゝ現れて來るのである。

[やぶちゃん注:「紫臀《むらさきげつ》をした者」蒙古斑のこと。先天的に発生する幼児性の、主に仙椎の部分の皮膚に発色する薄青い灰色の尋常性母斑(ぼはん)のこと。発疹の様にも見えるが、通常、三~五歳で消失する。詳しくは参照した当該ウィキを読まれたい。]

 

          

 

 そこでメドチが角力を取りに來たといふ話が、又大いに參考になるのである。人を途上に待伏せして、角力の勝負を挑むといふ怪物は、必ずしも川童だけでは無かつた。土佐でシバテン又は芝天狗といふものも、他にはこれといふ惡戲をした話も無いが、たゞやたらに角力ばかり取りたがる。さうしてうかうかとその相手をして居た者が、しまひには發狂したとか、命を失つたとかいふ風說ばかりが多かつた。但しこの話はまだ大分川童と似て居る。土佐には川童といふものも別に居たのだけれども、芝天が多く川の堤や橋の袂に現はれ、その形が七八歲の小兒と似て居たなどといふのも、どこと無く川童の出店のやうであつた。ところが今一種、これとはよほど性質はちがつて、しかも角力のすきな怪物が東北には居た。津輕から秋田に連なる深山幽谷に於て、山人、おほ人又時として鬼ともいつたものが卽ちそれであるが、此方は一向に人を害せんとする樣子は無く、たゞ我々を見かけて角力を取らうといふのみで、勝つたり負けたりして居るうちに段々と懇意になり、しまひには家へ遊びに來るまでになつたといふ話さへある。一旦交際を始めると中途で止めることが出來ぬらしく、怒られるとこはいからいつ迄も機嫌を取つて居なければならぬことが、迷惑といへば迷惑だつたかも知れぬが、命を奪はうとせぬのみか、時には相撲の相手をして貰ひたい爲に、薪を伐りマダの皮を剝ぎ畑を起す等、大きな力で山仕事を手傳つてくれたといふ話も傳はつて居る。つまり素直に彼のいふことをきいてさへ居れば、本人の利得に歸することが多かつた。その點がよほど九州の川童などと違つて居るのである。[やぶちゃん注:「シバテン」『日本民俗文化資料集成』第八巻「妖怪」に所収する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊)には高知県の項に「シバテン」が立項されてあるのだが、『水の怪。川の堤に出る。形はすこぶる河童に近く、このんで相撲を挑む。土佐郡土佐山村』『では小童の姿で幾十となく出てきて相撲を所望するが、相手になると化かされて一晩中相撲をとらされるという』とあった後に、『シバテンは旧暦六月六日の祇園の日』(不審。所謂、八坂神社で知られる祇園会(ぎおんえ)は六月七日から始まる)『からエンコウにとなる』とあって、土佐では河童の生育過程で名が変わることが判る。またシバテンは「コノハテング」と呼ぶところがあるともあり、別に妖怪ではなく、『人をたぶらかす生霊の一種ともいう』ともあった。]

 或はその九州の川童とても、もとはかういふ風に平穩な交際であつたのかも知れない。單に川童や芝天が出て來て角力を取らうと言つただけならば、考へて見ると怖い筈は無かつたのである。女や老翁の最初から自信のないものならば、第一にこれに應じて力《ちから》を角《かく》する氣にはならなかつたらうし、たまたまその道の心得のある者でも、負けてばかり居るやうだつたら、彼も相手にはしようとしなかつたらう。それが少しばかりの力自慢で、勝つた經驗のある樣な男が、つい挑まれて何のこいつがと、一番負かしてやる氣になつて引掛かるのである。或は實際こつちの方が强くて、相手を投倒した爲に後の祟が怖ろしかつたといふ話もある。何にもせよ人と川童との交涉は一般的で無く、必ず一定の資格ある者に限つたことは、角力も紫尻《むらさきじり》の場合と異なる所が無かつた。

 

          

 

 我々の妖怪學の初步の原理は、どうやらこの間から發明せられさうに思はれる。その一箇條としては、ばけ物思想の進化過程、卽ち人が彼等に對する態度には三段の展開のあつたことが、この各地方の川童の擧動と稱するものから窺ひ知られる。第一段には所謂敬して遠ざけるもので、出逢へばきやつといひ、角力を取らうとすれば遁げて來る。夜分はその邊を決して通らぬといふ類《たぐひ》、かうして居れば無難ではあるが、その代りにはいつ迄も不安は絕えず、或一定の場所だけは永く妖怪の支配に委棄《いき》[やぶちゃん注:ここは法律用語で「物又は権利を放棄して他人の自由に委(まか)せること」を指す。]しなければならない。それを出來るだけ否認せんとし、何の今時その樣な馬鹿げたことが有るものかと、進んで彼の力を試みようとして、しかも内心はまだ氣味が惡いといふ態度、これが第二段である。狐・クサイ[やぶちゃん注:見かけぬ用法だが、形容詞「臭(くさい)」を名詞化したものであろう。「疑わしいもの」「怪しい対象」の意でとっておく。]の化けかゝつて居るのを見破つて、却つていつの間にか自分が坊主にされた話、又は天狗を輕蔑して力自慢をして居た勇士が、これでもこはく無いかと毛だらけの腕でつかまれ、腰を拔かしたといふ類の話は、何れもこの心境の所產であつて、これには屢角力の勝負を伴なうて居た。つまり人にはさまざまの考へ方があつても、社會としては半信半疑の時代であつた。それが今一步を進めて信じない分子が愈々多くなると、次に現れて來るのは神の威德、佛の慈悲、乃至は智慮に富む者の計略によつて、化け物が兜をぬぎ正體を現して、二度と再びかやうな惡戲をせぬと誓ひ、又は退治せられて全く滅びてしまつたといふ話が起る。それは聽いて居ても面白く興があるので、次第に誇張せられてしまひには、馬鹿げて弱く愚鈍なる者が、妖怪だといふことに歸着し、それを最後として追々に說話の世界から消えて行くのである。現在の昔話に僅に殘つて居る妖怪は、この三つの種類が錯綜して、順序が明らかで無い爲に時々は誤つた解釋があるのだが、將來もう少し親切な觀察者が、細かな分類をしてくれたらこれだけは判つて來ることゝ思ふ。さうして川童の角力といふ言ひ傳へは、これに關しては可なり有力な參考であると信ずる。

 

          

 

 これは同時に又相撲といふ競技の今まで不明であつた歷史をも暗示する。何故に相撲が神社に伴ひ、もしくは必ず節日の行事であつたかといふ問題は、この方面からで無いと解說することが出來ぬやうだ。古人は腕力と勇氣との關係を、今よりも一層深く結び付けて考へて居た。力の根源を自分一箇の内にあるものと信ぜずして、何か幸福なる機會に外から付與せられるものゝ如く解して居た。石を持ち擧げて見てその重さ輕さの感覺に由つて、願ひ事の叶ふか否かを卜《ぼく》したと同樣に、相撲は又神靈の加護援助が、何れの側に厚いかを知らんとする方法の一つであつた。勝つた力士の自負自尊は非常であつたが、その背後には常に熱烈なる信仰があつたのである。神に禱《いの》つて大力を得たといふ口碑は、東北には殊に多い。それは平素の心掛け、もしくは難行苦行の致す所でもあつたが、兼て又その人々の持つて生れた約束のやうにも認められて居た。現在の遺傳論に照して不思議は無いやうなことまで、家に特別の力の筋といふものがあると傳へて、その理由を說かうとして居た。これが又地方の頭目の永く優勢の地位を保持して居た理由にもなつて居る。

 奧州などの川童が角力を挑んだのは、恐らく最初は主としてかういふ種類の人たちに向つてであつたらう。關《せき》は今日の語でいふと選手であり、又記錄把持者であつた。第二の競爭者の進出をせき止めて、自分が霸を稱して居るからそれで關取といつたのである。彼等の强力の根柢と賴む所が、近世風に自分一箇の體質又は習練と稱せられ、或は又全然別なる神佛の御利益に基づくものと信じられて居る限りは、川童や山人は是非ともこれと力を角して、我威力を承認させなければならなかつた。さうして昔の習はしのまゝに、負けて平伏したものは庇護せられ、これと抗爭して或は勝ち或は負けたものは、いつ迄も惡戰苦鬪を續けたのである。妖怪はつまり古い信仰の名殘で、人がその次の信仰へ移つて行かうとする際に、出て來てかういふ風に後髮を引くのである。日本の新舊宗敎は殊に入亂れて居る。さうして今日はおばけの話を透《とほ》してゞ無ければ、もはや以前の國民の自然觀は窺ひ知ることが出來なくなつた。

 南部地方の怪談にはこの意味に於て、尙珍重すべき色々の資料を保存して居る。たとへば今日既に童話化してしまつた猿の壻、或は大蛇のおかたになつた娘の話などにもこちらにはやゝ古さうな形のものが併存して居る。櫛引村のおほよが物語を始めとし、遠野には川童が壻入をして、子供を生ませたといふ家なども殘つて居た。卽ち水の神の信仰を宣傳し又立證しなければならぬ舊家が、いやいやながらもまだ古い因緣に繫がれて、急にはこの傳說を振棄《ふりす》てずに居たのである。をかしい話ではあるが、水の物に愛せられるといふ紫臀の子供なども、世が世であるならば亦一箇の神主の資格であつたかも知れない。

[やぶちゃん注:「大蛇のおかたになつた櫛引村のおほよが物語」この民話、どこかで読んだ記憶があるが、思い出せない。気づいたら、追記する。YouTubeのボイスコミックの「CV子安武人・花守ゆみり『大蛇に嫁いだ娘』」はこの伝承に基づく一つの変形譚であろう。主人公の娘の名は「おみよ」である。]

 

          

 

 この問題をこれだけの簡單な言葉で、說かうとしたのは無理であつたやうだ。それは又改めて詳しく述べることにして、さし當り御知らせをしたいと思ふのは、メドチといふ語の分布及び由來である。北海道の土人が水の神をミンツチと呼び、その怪談には若干の一致があることは、夙く金田一敎授がこれを說いて居られる。この蝦夷のミンツチと八戶などのメドチと、同じ語であることは大よそ明らかだが、問題はどちらが眞似たか採用したかである。南部では馬淵《まべち》と北上との分水嶺が境で、岩手縣ではもうメドチといつて居らぬらしいが、津輕にはたしかにその名がある。但し平尾魯仙翁の著書などを見ると、メドチと川童とは別々であるやうにも思はれ、前者は少なくとも長蟲のやうな形に空想せられて居る。それにも拘らず私はなほこれを川童の地方名の如く信じて居るわけは、遠く離れてこれと近い語が行はれて居る故である。現在知られて居る例は三箇處、能登の半島では我々の川童が明らかにミヅシで、頭の皿に水があり、相撲を取りたがり、又馬を引かうとして失敗したなどといふ逸話をもつて居る。次には滋賀縣で湖水東岸地方、これもミヅシといひ又同樣の俗信が行はれて居る。この兩地のミヅシと奧南部のメドチとは、聯絡が無いものとは考へられない。さうすればこれはアイヌの方が後に聞いて、少なくとも日本から名を學んだのである。

[やぶちゃん注:「南部では馬淵と北上との分水嶺が境」「北上川最北の湧水地」はここである。ほぼ同縮尺で馬淵川を示すとここである。一見、近くて同水源かと錯覚しそうになるが、後者の馬淵川を最上流まで遡上して戴きたい。すると、西の北上川源流とは反対の東へとどんどんカーブして行き、岩手県岩手郡葛巻町江刈の「馬淵川源泉」に辿り着く。されば、馬淵川(まべちがわ)と北上川は全く異なった水系であって、どこも繋がっていない。さればこそ真正の分水嶺とは言えるのである。]

 それから最後にはずつと懸離《かけはな》れて九州南部、薩摩と日向大隅の一部では亦確かにミヅシンといつて居る。ガアラッパ又はガオロといつても通ずるが、此方が多分新しからう。かういふ靈物には忌んで名を言はぬ場合があるので、第二の稱呼が起り易いのである。ガオロ・ガアラッパは共に「川童」の日本訓みであるが、九州では現在又カハノトノもしくはタビノヒトなどと稱へてこの語を避けようとする傾向も見えて居る。ミヅシンは土地の人たちが「水神」の湯桶《ゆとう》よみだと解して居るらしいが、これを八戶方面のメドチや蝦夷地のミンツチに比べて見ると、始めて古語のミヅチと同じものであり、たゞこの國の三方の端々にのみ、たまたま保存せられて居たことが判つて來るやうである。ミヅチは蛟と書き又虬と書いて居る。だから蛇類では無いかといふ人もあらうが、それに答へては支那ではさう思つて居たといふより他は無い。日本のミヅチといふ語には水中の靈といふ以外に、何の内容も暗示されて居らぬ。それが果して長蟲であつたか猿に似て居たかは、メドチを喚んで來て體格檢査をした上で無いと決しられぬ。我々の幻覺乃至空想は今でもまだ勝手次第である。

[やぶちゃん注:「虬」音「キウ(キュウ)」。「蛟」(みづち)と同義とされる龍の一種。中国では蛇は龍蛇類として同類であり、本邦でもそれを受けて蛇から龍への変異も語られる。]

 

          

 

 それから川童の手が拔けるといふこと、これもアイヌの中では知られて居り且つ說明せられて居る。昔神樣が多くの人數を集める必要があつて、急に草を束ねて小さな人形を作り、それに生命を吹込んで活躍させたが、用が濟んでしまつたのでこれを湖水に放ち棄てた。今あるミンツチの始めはこれであるといふ。色々惡戲をするが元來が一本の棒を突通して兩腕にしたのだから、片方を持つて引けばするすると拔けるのだといつて居る。

 これと半分以上同じ話が、又三戶郡にもあつたかと記憶する。少なくともこれに似た話は各地に存するのである。昔左甚五郞が某地の佛閣を建立した折に、大工の手が足らぬので人形を多く作りこれに息を吹込んで働かせた後《あと》川に捨てた。それが川童になつて今でも居るのだといふ話は、奈良縣などでも聽いたことがある。九州では肥前の或舊社の傳へとして、やはり人形が川童になつた話が殘つて居る。その顚末は北肥後戰記といふ書にも出て居るが、一つの特徵はその川童を利用したといふ橘島田麿といふ人の子孫が、澁江氏と稱して中世の豪族であり、今でも各地に分居して永く川童の取締りに任じ、現に右申す御社の神主の家もこれであることである。九州の川童はその災害も系統的であつたと共に、これを統御して水難を防止する役目も亦非常に發達して居た。これはヲサキ狐を攘《はら》ひ除《の》ける三峰山《みつみねさん》の信仰區域だけに、ヲサキ持ちの家が最も多く、人狐專門の行者の居る出雲伯耆に、人狐の跳梁して居るのと同樣に、なまじ祈禱の效能を說く者が居る爲に、いつ迄も住民にこれを忘却することを許さぬのであらうと思ふ。とにかくにこの人形の話は形跡無しには起るまい。さすれば曾てかういふ腕の拔け易い或偶像を作つて、ミヅチ卽ち水の神を祀つて居た時代があり、その風習は弘く國の南北端まで波及して居たもので無かつたらうか。現在はもうさうした祭り方をせぬ樣になつたとすれば、これ位の話の變化、想像の成長はありさうなことで、我々日本人は殊にその方面では氣が早かつたのである。

[やぶちゃん注:「一」の私の「メドチ」の注で既注。

「橘島田麿」「島田丸」の誤記。次のリンク先に原本を見よ。

「北肥後戰記」佐賀藩士馬渡俊継(まわたりとしつぐ)の編になる肥前を中心とした九州の戦国期通史である「北肥戰誌」のこと。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの『国史叢書』(矢野太郎編・大正七(一九一八)年国史研究会刊)の「北肥戰誌 一」の「澁江家由來の事」。次のページの『今の河童是れなり』と出る。]

 

          一〇

 

 最後にもう一つだけ、小さな八戶地方の世間話が、我々をして膝を打たしめた點を述べて置かう。既に信仰者を失つた水中の靈物が、なほ角力を取つて人間の關取を押伏せたといふことは、土地の人にとつては安からぬことであつた。何とかして結局彼等を負かしたといふ話にしようといふには、彼の祕密を聽き知つたといふのが最も手輕でよい。これは六つかしく言ふならば、人類の知識が進んで、次第に自然を制御して行くといふ理想を具體化したものとも言へる。便利なことには見馴れぬ若い者が二人づれで遣つて來て、歸りに後について聽く人があるとも知らず、不用心にも自分の腕の拔けやすいといふ祕密を、洩らしてくれたといふ話になつて居るが、これなども我々の妖怪に對する態度の變化であつた。さうしてこの空想にも前の型があつたのである。

 川童にはめつたにこんな失策が無かつた樣だが、同じ插話は日本では蛇壻入の話には多かつた。夜來て曉に歸つて行く不思議な壻殿を見あらはす爲に、母が勸めて絲のついた針をその衣服のはしに刺させる。さうして翌朝はその絲をたぐつて、山奧の洞穴に行つて大蛇を見たといふ迄は、古く且つ弘い言ひ傳へであつたが、我邦では通例これに立聽きの話が附いて語る。靜かに聽いて居ると岩穴の底で、唸り苦しむやうな聲がきこえる。その傍に誰か介抱をして居て、だからあれ程私が止めたでは無いか。やたらに人間の娘などに手を出すから、針を立てられて銕氣《かなけ》の毒に苦しめられるのだといふと、他の一方の呻く者の聲で、いやおれは死んでも思ひ殘すことは無い。種を人間の中に殘して來たからと答へる。なアに人といふ者は思ひの外賢いものだ。もしも菖蒲《しやうぶ》と蓬《よもぎ》の葉を湯に立てゝ、それで身を洗つたらどうする。折角生ませようとした子が皆下りるぢやないかと言つて居る。これはうまい事を聽いて來たと、早速家に歸つてその通りにした所が、果して盥《たらひ》に何ばいとかの蛇の子が死んで出てしまひ、その娘は丈夫になつたといふ風な話は、少しづゝの變化を以てどこの國にも行はれて居る。これにも尋ねて行けば又原《もと》の型はあらうが、近頃では先づ主として、水の神との絕緣をかういふ話にして說いて居る。角力の川童が腕を拔かれた理由に、これを適用して居ることは我々の文藝であつた。さうして格別古い頃からの言ひ傳へでも無かつた。しかも他の人は知つて居ないかういふ大切な知識を、持つて居るものは神主であり又は敎師であり酋長であつたことは、大昔以來かはりは無かつたらう。

 諸君は乃《すなは》ちそれを時代に適應するやうに改定しつゝ、今に至るまで我々の人生觀を指導して居られるのである。徒らに僅の珍しく古臭い習俗を、告げて驚かせるを以て能事《のうじ》終れりと、誤解せられずんば幸である。

 

« 大手拓次譯詩集「異國の香」 「交通」(ボードレール) | トップページ | 柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 小豆洗ひ »