柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 大人彌五郞
[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。
注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。
なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正六(一九一七)年一月発行の『鄕土硏究』初出である。]
大 人 彌 五 郞
彌五郞といふ巨人があつたといふ話は、曾て竹崎嘉通《たけざきよしみち》氏も報ぜられたことがある。その大要をいふと石見國邑智郡田所村大字鱒淵字臼谷に三丈ばかりの瀧があつて、その瀧壺を彌五郞淵といふ。昔巨人名を彌五郞といふ者、石臼を負うてこの地を過ぎ、誤つて瀧に落ちて死んだと傳へ、瀧の中程の岩に足跡の如き凹《へこみ》がある。臼谷は則ちその石臼の流れ止つた地である。彌五郞淵の水は鱒淵本村の高善寺淵と地下に通ずと稱せられ、巨人の屍《しかばね》は地底を流れてその高善寺淵に浮び出たといふ云々。これは例の大人《おほひと》足跡の數多い村話の一であつて、類型を諸國に求むれば限も無くあるが、自分の特に珍しいと感ずるのは石見でも大人の名を彌五郞といひ傳へて居たことである。
[やぶちゃん注:「竹崎嘉通」大社教の教職者である。
「石見國邑智郡田所村大字鱒淵字臼谷に三丈ばかりの瀧があつて、その瀧壺を彌五郞淵といふ」現在の島根県邑智(おおち)郡邑南町(おおなんちょう)鱒渕(ますぶち)のここに「弥五郎の滝」がある(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。個人ブログ「神話伝説その他」の「『日本伝説大系』話型要約:三四 大人の足跡Ⅰ」に、『島根県瑞穂町「弥五郎淵 鱒淵の小川の滝壺をかく呼んでいる。大人弥五郎が臼を負うて滝に落ちて死んだといい、岩の上にその足跡があり、臼は流れて臼谷に止まったという。」』とあった。
「高善寺淵」高善寺という寺はここにある。「弥五郎の滝」から東南東に四キロメートルほどの位置にある。淵は判らないが、南直近を出羽川が流れているので、そこにあるのであろう。]
三國名勝圖會などに依れば、ずつと懸離れた日向大隅あたりで、やはり大人彌五郞の樣々の昔話をば傳へて居る。例へば大隅囎唹《そお》郡市成《いちなり》村大字諏訪原《すはばら》の二子塚《ふたごつか》は、塚といふよりも小山といふが當つて居る。平野の中に騈立《べんりつ》して一は高さ二十丈許り周り五町四十間許り、他の一は高さ十一丈周り二町三十間ほどで、相距《あひへだた》ること一町内外、樹木無き芝生地である。昔大人彌五郞が草畚《さうほん》(簣(あじか)?)で土を運んで居た所、棒が折れてその土が飜(こぼ)れ、この二つの塚になつたので、片荷は土が半分殘つたために少し小さいのである云々。この話も至つて弘く行はれて居るもので、本誌にも既に幾つかの報告があつたが、これを關東各地方の「だいだ坊」山移し譚に比べて最も著しい相異は、海南二州の、大人に在つては更に重要なる後日譚の附隨して居ることで、大人が必ずしもその非凡なる强力のみを以て名を轟かしたので無いことは、これに由つて少しづゝ判つて來るのである。毛坊主《けばうず》考の餘論として今度はこの問題を片端述べて見よう。
[やぶちゃん注:「三國名勝圖會」江戸後期、薩摩藩第十代藩主島津斉興(なりおき)の命によって編纂された領内地誌。天保一四(一八四三)年完成。書名の「三國」は薩摩国・大隅国と日向国の一部を含むことによる。特に神社仏閣についてはその由緒・建物の配置図・外観の挿絵まで詳細に記載されており、各地の名所風景を描いた挿絵も多い。全六十巻(以上はウィキの「三国名勝図会」に拠った)。
「大隅囎唹郡市成村大字諏訪原の二子塚」新鹿屋市輝北町(きほくちょう)諏訪原にある「二子塚の田の神」附近(かの地では「たのかんさぁ」と呼ぶ:グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルのこちらの写真で大きさが判る。実は私の亡き母は、この東北東八キロメートル半ほど離れた鹿児島県曽於市大隅町岩川の出身であり(祖父は旧志布志線岩川駅前(「ひなたGPS」の戦前の地図)で歯科医院を営んでいた)、伝説の巨人「弥五郎どん」の話は小さな頃から聴いていた。大隅町の岩川八幡神社の「弥五郎どん祭り」(次男とされる)は、私は残念ながら見たことがないのだが、生きているうちに一度は見たいと思っている。「弥五郎どん」については当該ウィキ及び「鹿児島県教育委員会」公式サイト内の「民俗文化財」のページにある「大隅町岩川八幡神社の弥五郎どん祭り」(PDF)を見られたい。
「騈立」並び立つこと。「へんりつ」とも読む。
「二十丈」約六十メートル半強。
「五町四十間」約六百十八メートル。
「十一丈」約三十三メートル。
「二町三十間」約二百七十三メートル弱。
「一町」百九メートル。
「だいだ坊」所謂、巨人伝承「ダイダラボッチ」。当該ウィキもあるが、「柳田國男」の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡』(全九回)がよい。その最後の「九」は「大人彌五郎まで」である。
「草畚(簣(あじか)?)」「畚」は「ふご」「もっこ」とも読み、縄を網状にしたものの四隅に綱をつけ、土石などを入れて運ぶものを指し、「簣」は竹・葦・藁などで編んだ籠・笊の一種。物を入れるのに用いたり、また、同じく土石などを運ぶ道具とした。]
彼地方のいひ傳へでは、大人彌五郞は終《つひ》に殺されたといつて居る。大隅始良(あひら)郡國分村大字野口の枝の宮といふ社は、彌五郞の四肢を斬つて埋め且つ祀つた故跡である。なほ鼻面川《はなづらがは》には彼の鼻を埋めたといひ東國分寺大字福島ではその弓を埋めたと稱してゐる。同じく國分村大字上小川には拍子川といふ川あり、その橋を拍子橋といふ。土人等は昔大人隼人《はやと》といふ夜叉の如き者あつて、此處に於て皇軍に誅伐せられたといふ話を傳へて居る。大人隼人記といふ書物に曰く「大人彌五郞殿は上小川の拍子橋に於て日本武尊御討ちなされたり、其時舞躍して手拍子を取りしよりこの名あり云々」(以上三國名勝圖會)。
[やぶちゃん注:以上は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和五七(一九八二)年青潮社刊の「三国名勝図会」第三巻の「拍子川」の条で視認に出来る。「弥五郎どん」のルーツは大和朝廷に蹂躙され、従属を余儀なくされた大隅隼人(隼人族の象徴)がルーツであると考えている。天皇の即位式では、「隼人の舞」が演じられるが、これはまさに屈辱的なものなのである。
「大隅始良(あひら)郡國分村大字野口の枝の宮」鹿児島県霧島市国分野口町(こくぶのぐちちょう)にある枝宮(えだみや)神社。北西直近に隼人塚もあるので、確認されたい。但し、これは、観光サイト「かごしまの旅」のこちらに写真があり、そこには、『大和朝廷に平定された隼人族の霊魂を供養して災厄を免れるために建られた供養塔と伝えられてきましたが、平安時代の仏教遺跡と考えられるようになりました』とはある。しかし、そう御霊(ごりょう)伝承されたほどに、朝廷の侵攻は惨かったことの証である。
「鼻面川」不詳。サイト「川の名前を調べる地図」でも掛かってこない。
「東國分寺大字福島」鹿児島県霧島市国分福島。
「國分村大字上小川には拍子川といふ川あり」現在の国分上小川はここ。現在、拍子川は確認出来ないが、「三国名勝図会」の「拍子川」の頭に記された流路から、この小流れか、南東に上小川の南飛地を流れる、現在の水戸川の孰れかであろう。当時とは流路が変わっているような気がする。]
大人彌五郞を隼人といふ武士見たいな名にしたのは、多分は八幡愚童訓などの八幡王子が隼人を誅戮せられたといふ記事に合せたものであらう。同書下には次の如く記して居る。「隼人打負テ頸ヲ被ㇾ切、故ニ惡緣トナリ依ㇾ致二其難一、御幸ノ前ニハ二百人騎兵奉ㇾ隨、隼人打取給御鉾ヲ號シテ名二隼風鉾一、實長八尺廣六寸也云々」。卽ち御大將は日本武尊では無いが、御孫の應神天皇と同じきが如くに傳へらるゝ王子神であつたといふので、つまりはこの口碑の大隅正八幡宮卽ち今の鹿兒島神宮の祭と因《ちなみ》あるものなることを示して居る。現今この地方の神社で大人彌五郞の故事を傳へて居るものは何れも八幡である。その一は日向北諸縣《きたもろかた》郡山ノ口村大字富吉字的野《まとの》の圓野(まどの)神社、古くは的野正八幡宮と申せし社の十月二十五日の例祭に、濱殿下《はまどのくだ》りといふ儀式があつて、朱面を被り刀大小を佩いた一丈餘の偶人を作りこれを大人彌五郞と稱し、四つ輪の車に載せ十二三歲の童子數多これを押して行く。隼人征討の故事に依るものといふとある。大隅囎唹郡末吉村字中島の八幡宮十月五日の祭にも、同じく濱下《はまお》りの式あつて大人の形を作り神輿の先拂ひとする。長一丈六尺、梅染の單衣《ひとへぎぬ》をき大小を帶び四輪車の上に立つ、これを大人彌五郞といふとある。明治神社誌料には同郡岩川村大字中ノ内の八幡神社の條に地理纂考を引いて、殆とこれと同じ事を述べてゐるが、二社別々であるか否かを確め得ぬ。但し此方は祭日が十月十五日である。又大人彌五郞は武内宿禰のことだとの說もあるといふ。
[やぶちゃん注:「八幡愚童訓」「はちまんぐどうくん」又は「はちまんぐどうきん」と読む。鎌倉時代中・後期の成立とされる縁起。作者不詳。「愚童訓」とは八幡神の神徳を「童子や無知蒙昧の徒にも分かるように読み説いたもの」という意味で、「三韓征伐」から「文永・弘安の役」までの歴史的事実を素材としつつ、八幡神の霊験を説いている。石清水八幡宮社僧の作と推定されている。「八幡大菩薩愚童訓」「八幡愚童記」とも言う。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和三四(一九五九)年刊「羣書類従」第一輯(訂正版)のここで当該部が視認出来る(左ページ上段後ろから二行目)。
宮崎県都城市山之口町富吉(やまのくちちょうとみよし)にある的野正八幡宮(二〇〇二年に修復・改築によって旧正名に改称している。近くに「弥五郎どんの館」があり、そのサイド・パネルの写真群がいい。また、サイト「Photo Miyazaki 宮崎観光写真」内の「宮崎の神社」に、「御神幸行列 弥五郎どん祭り」として『三俣院の宗廟として和銅』三(七一〇)年に『建立された的野正八幡宮の御神幸祭では、御神幸行列の先頭に立つ弥五郎どんが、千数百年の時を経た今も隼人族を守り、その雄姿を今でも見せてくれます』。『身の丈』四メートル『もある弥五郎どんを先頭に、的野正神社から約』六百メートル『離れた池の尾神社まで、「浜殿下り(はまくだり)」とよばれる御神幸行列が行われます』。『当時』、『全国規模で行われたと思われる「放生会次第」による祭りで現存しているのは南九州では』、『鹿児島県曽於市の岩川八幡神社、宮崎県日南市飫肥の田之上八幡神社、ここ山之口町の的野正八幡宮の三ヶ所だけと言われています』とあり、「三国名勝図会」の行列の挿絵や写真も載る。こちらは「山之口弥五郎どん祭り」と呼び、三人兄弟の長男とされる。三男は宮崎県日南市飫肥(おび)の田ノ上八幡神社のそれで、「田ノ上八幡神社の弥五郎人形行事」とされる。但し、こちらは現在はねり歩くことはなく、屋内に立ててあるのが、サイド・パネルで確認出来る。
「大隅囎唹郡末吉村字中島の八幡宮」曽於市末吉地区はこの附近だが、現在、八幡を冠する神社自体が確認出来ない。岩川八幡はここの五~七キロメートル南西である。但し、サイト「九州の神社」の「岩川八幡神社」の解説に、『戊辰の役における伊勢家家臣団・私領五番隊の功績により岩川が末吉郷』(☜)『から分離独立したのに伴い』、明治六(一八七三)年、旧岩川郷の郷社とな』ったとあったのが、どうも臭う。ただ、そこに同神社は当初、『今の中之内の地に創建』したとあり、ここは下冤罪の神社の直ぐ北西地区に接する地名であって、末吉とは異なる。何らかの原著者の認識に錯誤があったとする方が妥当であろう。
「大人彌五郞は武内宿禰のことだとの說もある」私は朝廷に組みするこんな説には賛同出来ない。]
大人彌五郞と稱する人形の祭は、前に些しく述べ置いた奧州津輕その他の所謂侫武太(ねぶた)流しと如何にもよく似てゐる。舊日本兩極端の地ではあるがこれは偶合であるまいと思ふ。ネブタは何れの地方でも七月中元の頃の行事で彌五郞は十月下元の前後に行はれた。然るに季節に於てもちやうど二者の中間に、地理上からいつても大隅と陸奧との中程なる、越前大野郡のある村に於て亦同種類の儀式が行はれた。大野郡誌に依ると、同郡下味見《あぢみ》村大字西河原《にしか
うばら》では正月十五日の左義長に、大なる藁人形を作つて兩手に日の丸の扇を持たせ、左義長の火の車へ入れて共に燒く。これをヤンゴロと名づけた。昔彌五郞といふ惡者あつて全村を燒いたのを火刑に處した。その記念といふことである。こゝには大太坊《だいだばう》のやうな傳說は伴はぬかも知らぬが、惡者の人形に日の丸の扇を持たせるは、兇暴に由つて誅罰せられた大人に梅染の單衣を着せ大小を差させるといふのと同程度の不思議で、つまりは二者に共通なる彌五郞といふ名稱の陰に、何か隱れたる仔細があるらしいのである。關東でも野州氏家と喜連川との中間舊奧州街道最初の峠の名を十貫《じつかん》彌五郞坂といふ。坂道半分上つて右手の山に彌五郞の墳があつた(武奧行程記)。この彌五郞などは、如何なる經歷の彌五郞か。往來からは見えぬが石碑も立つて居たさうだ。御承知の人があらば敎示を乞ひたいものである。
[やぶちゃん注:「前に些しく述べ置いた奧州津輕その他の所謂侫武太(ねぶた)流し」これは大正三(一九一四)年七月の同じ『鄕土硏究』に発表した「ネブタ流し」である。底本と同じものの第九巻のここから視認出来る。上を読んでもすぐに感ずるが、柳田は「虫送り」(実盛送り)や御霊供養と関連づけて考証していることが判る。実はリンク先のこの前章はまさに「實盛塚」なのである。これは納得出来る説である。
「越前大野郡」「下味見村大字西河原」福井県福井市西河原町(にしこうばらちょう)。
「奧州街道最初の峠の名を十貫彌五郞坂」Hitosi氏のサイト「悠々人の日本写真紀行」の「旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 8」に地図入りで「弥五郎坂(旧早乙女坂)」で確認出来る。そこには、『弥五郎坂の頂上付近に、松尾弥五郎博恒墳墓と刻まれた碑がある』。『この階段を上がったところに早乙女坂古戦場の碑と五輪塔を納めた小さな祠があ』り、『現在は弥五郎坂となっているが、もとは早乙女坂(五月女坂とも)と呼ばれていた』。『戦国期の天文』一八(一五四九年)、『宇都宮氏』二千『余騎と那須氏』五百『余騎との間で激戦』「早乙女坂の戦い」『が展開されたところであ』り、『この戦いで宇都宮氏側の総大将であった宇都宮尚綱が戦死し』、『宇都宮氏側が敗退した』。『この尚綱を討ったのが、那須氏側の鮎瀬弥五郎でその時の恩賞』十『貫文で、敵将である尚綱の菩提を弔う為にここに五輪塔を建てたという』とあるので、大人伝承とは関係がないことが判る。栃木県さくら市早乙女で、ここに「伝弥五郎の墓及び五輪塔」があり、サイド・パネルで五輪塔の写真も見られますよ、柳田先生。]
話がこれまで進んで來ると、どうしても一寸批評を試みねばならぬのは愛知縣の縣社津島神社の境内社に、彌五郞殿《やごらうでん》の社と祀らるゝ神の由來である。後世社家の傳ふる所では祭神を彌種繼命(いやたねつぐ《のみこと》)といひ、或は又彌五郞をそのまゝイヤイツヒコなどとも稱へて居たが、鹽尻の著者の說に依れば、この地方の名族堀田氏の舊記に、その祖先彌五郞正泰なる者、正平元年戊の年の七月十三日に、家の高祖武内宿禰を祀つたのが最初で、これに由つて社名を彌五郞殿と呼ぶのださうである。併し社の名は常に祭神の名に從うのが延喜式以來の舊例で、殊に信者若くは勸請者の名を呼ぶが如きは、なんぼ中古からの事にしても穩當で無い。この社の創立の隨分古いことは、遷宮牒《せんぐうちやう》の殘缺が傳はつて居て、應永十三年十月以後度々の遷宮が記錄せられて居るので疑《うたがひ》を插むことが出來ぬが、而もその堀田家の舊記といふものが果してどの位舊いのか。今少し具體的にいへば、僞本の評ある浪合記などの出てから後のものか否か、果してこれに基づいて編述したもので無いかどうか、今となつてはこれを明らかにする途《みち》が殆と無いのである。尾州から出て大名になつた堀田家が紀氏を稱し武内宿禰を祖先として居たことは人の知る所で、彌五郞殿を武内宿禰といふことは大隅にもあるが、何よりも奇異に感ぜられるのは八幡でも無い津島天王の末社に、紀氏の祖神が祀られて居たことである。
[やぶちゃん注:「津島神社」ここ。
「彌五郞殿の社」弥五郎殿社として現存する。kk28028hrk氏のブログ「古代史の道」の「弥五郎殿社(やごろうでんしゃ)…津島神社境内」に説明板が電子化されており(板の写真から修整を加えた)、
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弥五郎殿社
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
武内宿禰公
御祭神武内宿禰公の末裔堀田弥五郎正泰が、正平元年(西暦一三四六年)造替した縁故を以て社名としたと伝える。
堀田弥五郎は南朝方の忠臣で 正平三年楠正行公に従い 四条畷に於いて戦死した勇将である
正泰公が当社の宝物として寄進した伯耆国の名工大原真守作の太刀は 現在神社に持伝え重要文化財に指定され、なお社前の石灯篭は津島市文化財に指定されている。
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とあった。これで、一応、筋は通りませんか? 柳田先生? まあ、そもそも武内宿禰の末裔というのは如何にも胡散臭い。後で柳田は、「この社の創立を七月十三日とすることゝ、その一名を佐太彥宮《さたひこのみや》と呼んだ」「大人は或地方では猿田彥のことだとも傳へて居る」というのも、都合よく神道と習合させた結果と考えれば、どうということはない。有象無象の弥五郎神社もそれに無批判に習ったに過ぎないように私には思われる。巨人「だいだらぼっち」は、所詮、国家神道には不都合だからである。
「鹽尻」江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該活字本の当該箇所が国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認できる。右下段最初から。
「應永十三年」一三九六年。
「僞本の評ある浪合記」私の「譚海 卷之一 遠州長門御所の事」の私の引用注を参照されたい。]
浪合記はもと美濃高須の德川家に在つた書で、それが世に現れたのは寶永六年[やぶちゃん注:一七〇九年。]の七月、その發見者はやはり鹽尻の著者天野翁である。南朝の王子良王君《りやうわうぎみ》難を避けて尾張に隱れ、堀田大橋等の土豪の援助を得て、終に津島社の神職となられたことを述べたもの、記事中に見える年號は文正《ぶんしやう》元年[やぶちゃん注:一四六六年。]を以て最後とするが、王子の叔父に當るといふ世良田萬德丸政親が遊行上人に命を救はれ、三河の松平に住して次第に家榮えたことを力說して居るのを見ると、少なくとも德川氏の天下になつて後始めて筆錄したものと察せらるゝ。しかして津島の彌五郞殿社の根源はこの書中にそつくり出て居るので、彌五郞殿社本の名は佐太彥宮、堀田彌五郞夢想に由つてこれを崇祀し、時人願主の名によりて彌五郞といふ。祭神は武内大臣と平定經、定經は地主の神也とある。この定經は鹽尻に大橋太郞貞經ともあつて、大橋一族の先祖らしいが、この家は源平亂後に尾張へ移住したもので、その樣な新分家の初代を武内大臣と相殿に祀つたといふのも、又これを地主神といふのも共に受けられぬ話である。浪合記の中にはまだ幾組かの矛盾撞着が潛んで居るらしいが一々取立てゝいふにも及ばぬ。假に全然の虛構で無いにしても、茫漠たる口碑の斷片を遙か後年に綴り合せ、つい一通りの鍔目《つばめ》を合せて置いたに過ぎぬらしく、善意に解した所で應永[やぶちゃん注:一三九四年から一四二八年まで。]以來既に存して居た津島の彌五郞社が、この社に仕へて居た社家中の有力者堀田大橋の遠祖と關係があることを知る迄である。唯我々として注意すべきはこの社の創立を七月十三日とすることゝ、その一名を佐太彥宮《さたひこのみや》と呼んだ點である。大人は或地方では猿田彥のことだとも傳へて居る。伊勢の多度神社はこの神を祭ると稱し、その末社中に三つの何々大人社がある。大人の足跡を地方に由つては大の足跡といひ、又神事の行列に出る鼻高の面を「王の鼻」といふ例は多い。因幡などでは大人の足跡を猿田彥の神跡と解する者もあつたことが因幡誌に見えて居る。而して津島の彌五郞社の如きも、地主神《ぢしゆしん》とあるのが正しいとすればこれを國神《くにつかみ》たる左太彥の名に繫くるも差支が無いかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「良王」愛知県津島市の「つしま幼稚園」の「瑞泉寺」(ここ。津島神社の南東直近)の縁起(年譜形式)に後醍醐天皇の曽孫とあり、そこに、津島に向った際の護衛した津島四家七党の中に「大橋」「堀田」の名が見える。没年は延徳四・明応元(一四九二)年とする。
「伊勢の多度神社」よく判らぬ。三重県北東部に多度大社を始めとして多度神社は複数あるが、猿田彦を主神とするものは調べたがないようである。]
鹽尻の天野翁の如きは右の浪合記と内容を同じくする堀田家譜の記事を信じ切つて居られた故に、他の處々の天王社の末社に彌五郞社の多いのは甚だ謂れの無いことだと論ぜられたが、津島の彌五郞殿にして實際社人又は有力な氏子の祖先であつたとすれば、その事實が永く隱されて居る筈も無く、これを知りつゝその樣な特殊の末社までを勸請する筈も無い。殊に地主神に至つては何れの地にもそれぞれ既に存するが故に、それを本社から移して來る者はあるまいと思ふ。然るにも拘らず彌五郞を末社とする社が往々あつたといふのは、何か別途の仔細があつたものと考へて見るべきであつた。今日でも名古屋の廣井天王(州崎神社)の境内に一の彌五郞社あり、祭神を武内宿禰と稱して居る。元和《げんな》[やぶちゃん注:一六一五年から一六二四年まで。]以前に建立せられた古社である(名古屋市史社寺篇)。美濃可兒《かに》郡上之鄕村大字中切の牛頭天王も古い社であるが攝社の彌五郞殿社には永祿六年[やぶちゃん注:一五六三年。]の棟札を傳へて居る。この天王もとは寶泉寺といふ山伏寺の鎭守神で明治の初めまでやはり眞言派の法印がこれに仕へて居た(明治神社誌料)。この社でも津島の天王と同じく祭禮には車樂(だんじり)を牽出すのが例であるが、その期日は舊曆七月十四日で、彼は十一艘の飾り船を出すのに反して、こゝは二輛の眞の車樂を牽くことになつて居る。土地のいひ傳へでは近鄕の送木(おくりぎ)といふ里に昔時送木御所といふ人があつて神鉾を獻納したといひ、今でもその村の者が來て鉾だけは裝(かざ)る例になつて居るといふのは、何か尾張の方の傳承と異つた由緖が存して居たものと思はれる。
[やぶちゃん注:「廣井天王(州崎神社)」「洲嵜神社」(廣井天王社)が正しい。ここ。
「美濃可兒郡上之鄕村大字中切の牛頭天王」現在の岐阜県可児郡御嵩町(みたけちょう)中切(なかぎり)にある神社である。「岐阜神社庁」の同神社の解説で確認出来た。そこに、『貞永二』(一二三三)年に『鎌倉執権北条泰時、治世美濃國小泉庄の庄屋吉田主計正奏し、請ふて一宇の社殿を羽ヶ嶽に経営して牛頭天王』(☜)『を奉祀す。弘長三』(一二六三)年、『最明寺入道』(北条時頼)『夢想に依りて弥五郎殿』(☜)『を奉祀す』とある。さあて、どれをとってもこうした弥五郎殿は中世より前には遡れない。まあ、後で柳田は御霊信仰が変化したと言ってはいるのだが、それは取りも直さず、やはり覇権者側の多分に都合のいい呪的封じ込めである(現代の政治もそうだ)と考えている。]
津島の車樂祭《だんじりまつり》は海道第一の評ある花やかな祭であつた。その期日は各地の祇園と同樣に六月の十四日で、十一艘の船を飾り立てゝ神輿に供奉するのは所謂濱下りの一形式であらうが、これをしも「だんじり」といふのは珍しいことと考へられて居た。他に確とした舊記も無いから不本意ながら又浪合記を引くが、浪合記にはこの儀式の起つたのは永享[やぶちゃん注:一四二九年から一四四一年まで。]中の事で、所謂四家七名字の祖先の者共天王の神託を拜し、良王君に讐《あだ》を爲す佐屋の臺尻大隅守がこの日祭を見に押渡るを待受け、十艘の飾り船を以てその船を取卷き、悉く大隅が一類を討取つた。それよりしてこの日の祭には右の光景を象《かたど》つて十一艘の船を出すことになり、後世に至る迄だんじり討《うち》と囃すべしとの良王の命に從ひ、每年この囃子變ること無しとある。この話の眞僞如何は必ずしも佐屋に臺尻氏なる者が住んで居たか否かを詮議する迄も無く、八幡の祭に大昔王子のために誅戮せられたといふ大人彌五郞の人形を車に乘せて曳いた例、或は越前西河原の兇賊彌五郞の記念祭なるものを考へ合せて見れば、測り知ることがあまり六つかしく無い。「だんじり」が津島の天王だけのものならば或はかういふ話も永く用ゐられ得るか知らぬが、緣もゆかりも無い中部諸國の神祭に、この物を牽き出して神事を送る例は多いので、「だんじり」といふ語の意義こそは不明であるが、鉦鼓歌舞の花々しい歡樂の背後に、今人の感覺にはやゝ强烈に失する殺伐なる昔語《むかしがたり》を潜ましめて居たことが、髣髴として窺ひ知られるといふに過ぎぬことである。若狹高濱町の縣社佐伎治《さきち》神社などでも、以前は六月上酉日の大祭に太刀振《たちふり》といふ式あり、氏子等《ら》刀を拔いて擊合ひをして後、やはり「だいじりうつた」と口々に訇(ののし)つたといふ。この社の祭神は素盞嗚尊外二神で祇園祭には相違ないが、祭の式は津島天王と異つて居るのに、伴信友翁の如き學者までがこの社の式内の神なることを主張しつゝも、しかもその「だいじりうつた」を尾張から模倣したものゝやうに說かれるのは、理窟に合はぬことである。
[やぶちゃん注:「若狹高濱町の縣社佐伎治神社」福井県大飯郡高浜町宮崎のここにある。]
自分の見る所では、尾張の臺尻大隅守は取りも直さず越前又は日向大隅の彌五郞である。從つて今日社家の傳ふる所に合致すると否とを問はず、津島末社の彌五郞殿は必ず車樂祭の最初の目的と關係する所が無くてはならぬ。而して彌五郞が果して實在の人物であつたか否かに答ふる前に、是非とも一考して見ねばならぬのは牛頭天王と御靈會《ごりやうゑ》との關係である。京都では所謂八所の御靈の如き、近世に至つて既に儼然たる獨立の社となつたが、山城朝廷の初期に御靈の祭を行はしめられた頃には、時に臨んで祭場を設備し、これを古來の神々の如く常在の社地とは認められなかつたのである。御靈會が年々時を定めて繰返さるゝことになつて後、乃ち祇園今宮等の社は起つたのである。これ等の臨時の社が彼時代の神道に同化した道筋は非常に簡單であつた。僅々百年餘の間に早くも主なる宮社の中に地位を占めて、寧ろ次第にその當時の諸大社を御靈化したといつてもよい。而も御靈に對する世人の畏怖は增しても減ずることが無かつた故に、古い御靈が高い地位に昇ると共に第二第三の御靈が祭られ、終に前述の如き兇賊退治の昔話を發生するに至つたのである。御靈は日本の語でいへば「みたま」である。太古以來の國魂郡魂も同じことで、本意は現人神卽ち實在した人の靈を祀るといふに過ぎなかつたが、平安朝初期の御靈は特に冤枉《ゑんわう》[やぶちゃん注:冤罪に同じ。]を以て死んだ人々をのみ祭るやうな信仰に變化した。武家全盛の時代を經過して、名だたる多くの荒武者が神となつたのも、つまりはこの威力の怖しさを體現した結果であつて、何でも强い人が死んでなる神といふ所から、御靈の社とさへいへば多くは何の五郞といふ人を祀ると傳へられた。美濃で落合五郞、信濃で仁科五郞、會津で加納五郞、下總で千葉五郞、相州で曾我五郞の類、勿論そんな武士はあつたにしても、神と稱へたのは御靈の音に近かつたためである。就中鐮倉では御靈の宮を鎌倉權五郞といふこと、最も弘く信ぜられた說である。もと梶原村に在つて彼が後裔鎌倉權八郞某なる者これに奉仕したともいふが、要するに最初は鶴岡の八幡に從屬して居たものに違ない。八幡はそれ自身が祇園と共に最古の御靈祭場から發達した神である。それ故に九州などでは八幡社の末社に御靈が多く、又意外な西國の田舍に權五郞景政が建立したなどといふ八幡が多くある。何れもこの神が今のやうに盛んになつた當初の動機を暗々裡に語るもので、權五郞の權も彌五郞の彌もどういふはずみに附着したかは知らぬが、御靈卽ち人間の亡靈の是非とも慰撫し且つ送却せられねばならぬことを固く信じて居た人々の、やさしい心持を今日に遺《のこ》して居るものに他ならぬ。而してその彌五郞の御靈といふ思想中に、國魂《くにみたま》卽ち先住民の代表者ともいふべき大人に對する追懷若しくは同情を包含して居た例がありとすれば、愈々以て我邦民間に於るこの種信仰の由來古いものなることが察せられるのである。
[やぶちゃん注:「五郞の類、勿論そんな武士はあつたにしても、神と稱へたのは御靈の音に近かつたため」これは全面的に支持する。
「やさしい心持を今日に遺して居るものに他ならぬ」心情としては判る。
以下は、底本では全体が一字下げである。]
(附記)
信濃時事の記者中原君の話に、三河八名《やな》郡富岡の附近で、ヤハタヤゴロウ(八幡彌五郞)といふ神の名を耳にしたことがある。但し軍隊に居た頃の忙しい行軍中のことで詳しい話は知らぬといふ。この件誰か御承知の人は御報告を乞ふ。
[やぶちゃん注:「三河八名郡富岡」現在の愛知県新城(しんしろ)市富岡。]
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