柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪古意
[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。
注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。
なお、この「妖怪古意」は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和九(一九三四)年四月発行の『國語硏究』初出である。]
妖 怪 古 意
――言語と民俗との關係
一
東北の名物は算へきれぬほどあるが、特に言語の側から考へて見るによいのは、秋田沿海部のナマハギなどが主たるものであらう。昔の年越の節であつた舊正月十四日の夜深に、村の靑年の中から選拔せられた者が、蓑笠で姿を隱し、怖ろしい面を被つて鍬と庖丁とを手に持ち、何か木箱やうの物をからからと鳴らしつゝ、家々に入つて來て主人と問答する。小兒等がこれを懼るゝことは鬼神に對すると同じであるが、成人の男子は曾て自分もこれに扮したことのある者が多い故に、單に嚴肅なる一つの儀式としてこれを視て居る。南太平洋の多くの島々で、 Duk-duk その他の名を以て知られて居る神祕行事と、細かく比較をして見なければならぬ重要現象の一つであるが、その點は他にも發表したものがあるから今は說かない。こゝにはたゞその名稱の由つて來たる所、言葉がどの程度にまで人間の心の動きを、永い後の世に痕づけて居るかといふことを、この尋常で無い事實に沿うて、考へて行かうとするだけである。
[やぶちゃん注:「ナマハギ」「ブリタニカ国際大百科事典」の「なまはげ」から引く(コンマを読点に代えた)。 『秋田県男鹿市や潟上市』(かたがみし:ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無表示は同じ)『などで大みそかの晩に行なわれている,なまはげと呼ばれる鬼が家々を訪ねて回る行事』一九六四『年からは、男鹿市の真山神社(しんざんじんじゃ)で 』二月十三日から十五日(今日では 二月第二金曜日から日曜日まで)に、『なまはげ柴灯祭り(せどまつり)も行なわれているが、本来は小正月』(一月十四日又は 十五日)『の晩の行事』であった。『最も知られている男鹿市の例では、大みそかの晩、神籤(みくじ)で選ばれた若者が、赤鬼・青鬼の面を着け、藁蓑に藁靴姿で、手には木製の包丁と手桶を持って家々を回る。家々では主人が正装して迎え、家の中に入ったなまはげは、大きな音や声で子供や初嫁たちをおどし戒めるとともに、餅や酒、ごちそうのもてなしを受ける。なまはげの名は、いろり端に座ってばかりいるとできるナモミという皮膚の赤みをはぐ「ナモミ剥ぎ」からきているといわれ、怠け心とそれに象徴される悪疫をはらう意味がある』。一九七八年には『「男鹿のナマハゲ」として重要無形民俗文化財に指定された。同様の行事は、山形県のアマハゲ、石川県能登半島のアマメハギなど、東北地方から北陸地方にかけて分布している。また、鹿児島県の甑島列島』下甑地区『でも、大みそかの晩に、鬼が家々を訪れて子供を戒めるとともに餅を授けるトシドンの行事がある』とある。実際、我々に知っているナマハゲやその類似例では、概ね鬼形(きぎょう)面であるが、ウィキの「ナマハゲ」によれば、『なまはげには角があるため、鬼であると誤解されることがあるが、鬼ではない』。『なまはげは本来、鬼とは無縁の』、『怠惰や不和などの悪事を諌め、災いを祓いにやってくる』『来訪神であったが』、『近代化の過程で鬼と混同され、誤解が解けないまま鬼の一種に組み込まれ、変容してしまったという説がある』。『浜田広介の児童文学』「泣いた赤鬼」(昭和八(一九三三)年)の『ような、赤(ジジナマハゲ)と青(ババナマハゲ)の一対となっていることがあるが、そのような設定がいつ頃からあるのかは不明である』とあり、名称についても、『冬に囲炉裏(いろり)にあたっていると手足に「ナモミ」 「アマ」と呼ばれる低温火傷(温熱性紅斑)ができることがある。“それを剥いで”怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与えるという意味での「ナモミ剥ぎ」から』「なまはげ」「アマハゲ」「アマメハギ」「ナモミハギ」『などと呼ばれるようになった。したがって』、『ナマに「生」の字を当て「生剥」とするのは誤り』であるとある。
「南太平洋の多くの島々で、 Duk-duk その他の名を以て知られて居る神祕行事と、細かく比較をして見なければならぬ重要現象の一つであるが、その點は他にも發表したものがある」これは大正一三(一九二四)年十一月発行の『敎育問題硏究』に初出された「神に代りて來る」のことであろう。但し、そちらの「六」で、『メラネシヤの島々の Duk-duk などに近いものがあると言ひます』(本底本と同じシリーズの「定本柳田国男集」第二十巻で示すと、ここの左ページ十行目)と述べている対象は、知られた『八重山』の面を被った来訪神である『赤マタ・黑マタという二人の神』である。この記載の前後を見ても「ナマハギ」は挙がっていないものの、但し、この前の「四」の冒頭で言及している東北地方の『福島宮城邊では一般にカセトリと呼んでゐ』るとある『年祝ひの有る家へ、面を被り色々の變裝をして、訪問し、ぎ伎藝を盡して酒肴の饗應を受けて歸』るというそれは、明かに「ナマハギ」と同根の来訪神であることは言を俟たない。また、この「Duk-duk」であるが、「慶應義塾大学所蔵メラネシア民族資料データベース」のメラネシアのスマルク諸島ニューブリテン島ガゼル半島で収集されたと推定される「舞踏用彩色手持人形」の解説によれば(複数の方の解説を接合してある。一部のコンマ・ピリオドを句読点に代えた)、『ニューブリテン島ガゼル半島の人びとは、人を模った飾り棒や飾り板を持って踊る集団舞踏を好むことで知られてきた。最下部に持ち手が付けられ、軽量材で作られた展示資料もその一種と考えられる。頭の上に載る三角錐状の飾りには、一対の同心円模様が描かれている』が、これは『当該地域でドゥクドゥクと呼ばれる男性結社が、儀礼用の仮面』(☜)『に描いてきた意匠と同一である』とあり、『このような形態は、ドゥクドゥクと同地域に存在する秘密結社イニエット Iniet への加入時に使用される人形にも認められる』とある。別な方の解説には、『ガゼル半島やデューク・オブ・ヨーク諸島、ニューアイルランド島南部では、男性秘密結社によって、トゥブアン Tubuan やドゥクドゥク Dukduk と呼ばれる大型の仮面とそれに纏わる知識が独占的に保有されている。トゥブアン仮面は黒色に彩色された円錐形の被り面で』、『前面には同心円文・多重円文による眼が描かれる。ドゥクドゥク仮面も円錐形の被り面であるが、細長であること、鮮やかな色で彩色される点で異なる。またトゥブアン仮面に特徴的な同心円文・多重円文の眼は、ドゥクドゥク仮面には描かれない。それぞれの仮面の制作権は個人や母系集団によって保有され、他の成員には秘匿され、製作される。葬送儀礼の際には、両仮面の演者は葉で拵えた衣装を身に着け、舞踏を行う』とあった(この面の管理には非常に興味がある。私は二十代の頃、南太平洋の人々の信仰に興味を持ち、大学ノート三冊程の多数の論文・記事からの抜書を作成したことがある。既に書庫の藻屑となって見出すことは出来ぬが)。]
二
ナマハギは現在もなほ行はれて居る。秋田では通例生剝の字をこれに宛てゝ、ナマハゲと呼んで居る者が多く、また八郞潟の西岸の村々、男鹿の神山の麓の里ばかりに、限られたる風習の如く思つて居る人もある。その推斷の共に誤りであることは、比較に由つて追々に明らかになつて來るのである。ナマハゲといふ語の意味は、土地のこれに携はる人々にも、もう說明が出來なくなつて居るが、僅か前まではナモミハギといつて居たことは、今なほ次のやうな唱へごとを口にしつゝ、その生剝が遣つて來るのを見てもわかる。
ナモミコ剝げたか剝げたかよ
庖丁コ磨げたか磨げたかよ
あづきコ煮えたか煮えたかよ
[やぶちゃん注:以上の唱え事は一字空けでベタに続くが、ブラウザの不具合を考え、字空け部分で改行した。
「神山」「しんざん」と読んでおく。秋田県男鹿市北浦真山(しんざん)の峰である真山には、真山神社があるが、ここは元修験道の霊場として栄え、真言宗赤神山光飯寺(あかがみさんこうぼうじ)があったが、おぞましい廃仏毀釈で神社のみが残った。当該ウィキによれば、『本社の特異神事として柴灯祭(せどまつり)があ』り、『正月』三『日の夕刻』、『境内に柴灯を焚き、この火によってあぶられた大餅を』、『お山に鎮座する神に献じて、その年の村内安全、五穀豊穣、大漁満足、悪疫除去を祈る祭儀である』が、『なまはげは』、『この神の使者「神鬼」の化身と言われ』、平安中期の『長治年間』(一一〇四年~一一〇六年)『より行われてきた』とあった。恐らくは、「神山」は「眞山」の誤りではなく、神の祀れる山の意で用いているのであろうと好意的にとっておく。]
同じ縣の河邊郡戶米川《とめがは》村女米木(めめき)、又は由利郡大正寺《だいしやうじ》村などにも、同じ行事があつて現にこれをナモミハギといつて居る。そのナモミは「秋田方言」に依れば、火斑(ひがた)卽ち長く久しく火にあたつて居る者の、皮膚に生ずる斑紋のことで、由利郡でさういふとあるが、他の郡にも無い語ではあるまい。ヒガタは國語辭典などには全く出て居ないが、東京でも知られて居る語であり、又ヒダコともアマメともいつて通ずる。一言でいふならば働かぬ者の看板である。それをこの年の夜の怖ろしい訪問者が、庖丁を磨ぎすまして身から剝ぎ取り、小豆と一しよに煮て食つてしまはうといふのが、右の唱へごとの出來た時の趣意であつた。これにも若干の演戲性を含んで居るが、とにかくに以前は小さな子供ばかりを、嚇かさうとして居たので無いことは想像し得られる。
[やぶちゃん注:「河邊郡戶米川村女米木」現在の秋田市雄和女米木(ゆうわめめき)。
「由利郡大正寺村」現在の秋田市雄和新波(ゆうわあらわ)。拡大すると、旧村名を冠した「大正寺郵便局」他が確認出来る。
「ヒガタは國語辭典などには全く出て居ない」小学館「日本国語大辞典」に「ひかた【火形】」で立項されている。『方言』とし、『強い火にあたって足のすねなどに生ずる赤み』とあり、採集地を青森県・宮城県仙台(「ひがた」「ひがたよった」)・岩手県・秋田県(「ひがたがたかった」)・山形県米沢・福島県相馬郡を挙げてある。
「ヒダコ」小学館「日本国語大辞典」に「ひだこ【火胼胝】」で立項し、『火鉢や炬燵』『などの火に長くあたったとき、皮膚にできる、暗紅色のまだら模様。あまめ』とある。『語源説』として、『茹蛸』『のような色になることからか』とある。小学館「日本国語大辞典」には、同様の斑紋とし、後に『方言』の条で採集地として、富山県東礪波郡・石川県江沼郡三木・福井県坂井郡雄島(おしま)・長野県上水内郡(かみみのち)・三重県鳥羽・京都府竹野郡・奈良県吉野郡十津川・山口県阿武郡見島・徳島県。熊本県下益城郡を挙げる。]
三
右のナモミが野草の名の、ヲナモミ・メナモミと關係があるらしいことは、夙《はや》く折口君などがこれを說いた。關係はあるかも知らぬが少なくとも直接では無く、又今はまだ少しも證跡が無い。火斑のナモミは北部の地に行くと、m が g に變つてナゴメとなつて居る。靑森縣の西津輕郡では、やはり小正月に同じ行事があつて、これをナゴメタグレ、もしくはシカダハギといふさうである。シカダは火斑のことでナゴメも同じもの、タクルといふ動詞は捲き起すことで、剝ぐといふよりも一段と適切に、惰け者の皮をむく意味をよく表現して居る。
「ヲナモミ」キク目キク科キク亜科オナモミ属オナモミ Xanthium strumarium で、好く知られているトゲトゲの俵型の「ひっつき虫」がその実である。当該ウィキによれば、種子には配糖体のキサントストルマインと脂肪油が含まれており、『この脂肪油には、動脈硬化の予防に役立つとされるリノール酸が』多く『含まれ』、『生葉には、タンニンが多く含まれ、タンニンの収斂』『作用によって、消炎や止血などに役立てられる』。『漢方薬としても知られる蒼耳子(そうじし)は、秋ごろ』『に、とげの多い果実を採取して、日干ししたものを呼んでいる』。『この中国名の蒼耳子の由来は、果実の形が女性の耳飾りを連想させるところからきているといわれている』。『日本で紅花油が食用として用いるのと同様に、中国では蒼耳子からとる青耳油を食用として用いるため、栽培もされている』。『民間療法としては、動脈硬化予防、頭痛、熱に効果があるとされ、風邪の頭痛、解熱、筋肉疲労痛に用いられる』。『また、茎葉はあせもや皮膚ただれに効用がある浴湯料としても利用され、全草を花期に採って粗く刻み、日干しにしたものを青耳草(そうじそう)と』称し、『風呂に入れる』。『虫刺されにも』、『生葉を揉んだしぼり汁をつけると』、『回復を早めるとも言われている』。但し、『全草、特に果実や若芽には弱い毒性があるので、頭痛、めまい、悪心、嘔吐を引き起こす恐れもあり、薬草として使用する場合の分量には十二分に注意する必要がある』と注意書きがある。
「メナモミ」キク亜科メナモミ属メナモミ Sigesbeckia pubescens 。調べると、風邪・できもの・中風・動脈硬化・脳溢血予防、特に手足の麻痺に効果があるとあった。オナミミの異名ではないので、注意されたい。
「シカダは火斑のことでナゴメも同じもの」「シカダ」は不詳だが、「ナゴメ」はサイト「秋田県能代市の伝統文化」の「能代のナゴメハギ」に、『ナゴメとは冬に怠けて囲炉裏の火にばかりあたっていると股や脛につく火斑(火形)のこと』とあるのを確認出来た。因みに、この「ナゴメハギ」は「ナマハゲ」と同系統の来方神であるが、その写真を見ると被る面は角のある鬼形ではなく、寧ろ、能・狂言(女面・翁・べしみに酷似し、狐のそれまである)の影響が感じられるが、或いは、これは古形のそれを、そうした形に入れ代えて保存しているものかも知れない。]
これと殆と同一の語は、又太平洋の側面にも行はれて居る。例へば岩手縣下閉伊郡の岩泉《いはいづみ》地方では、ナモミは火斑を意味し又ナモミタクリの行事もある。これも正月十四日の晚に、蓑に手甲《てつかう》蒲脛巾《がまはばき》雪靴といふ裝束で、面を被つて家々を巡るのがナモミタクリであり、その假面をナモミメンと呼んで居る。九戶《くのへ》郡久慈町でも小正月の天ナガミといふ者が遣つて來るが、これは子供の行事であつてホロロ・ホロロと唱へつゝ家々を訪れて餅を乞ふばかりで、そのナガミを剝ぎ又はタクルといふことは言はない。この地方的の變化も私たちには意外では無い。成人の忘れた多くの儀式を、引繼いで保管する者はいつも兒童であつたからである。
[やぶちゃん注:「岩手縣下閉伊郡の岩泉地方」ここ。
「九戶郡久慈町」現在の岩手県久慈市の内。]
同じ岩手縣でも上閉伊の釜石附近では、右の小正月の訪問をナナミタクリといひ、これが大ナナミと小ナナミとの二種に分れて居た。小ナナミは前の久慈地方のナガミの如く、少年たちの餅をもらひあるく行事であり、大ナナミは男鹿のナマハギと似て居た。神樂面の中の成るべく怖ろしいのを被り、腰には注連繩《しめなは》を蓑に卷いて、家々にあばれ込むのは若者團の役目であつた。このナナミタクリと秋田のナモミ剝ぎと同じ語であることは、比較によつて全く疑ひが無いのである。嶺を一つ隔てた遠野の盆地などは、この名がもう無くなつて同じ行事だけがある。箱に何かを入れてからからと鳴らして來る代りに、こゝでは小刀を瓢《ひさご》の中に入れて、打振つて村中をあるくといふことである。それをモコ又はモウコといふ者もあるが、本當の名はヒカタタクリであつた。惰《だら》けて火にばかりあたつて居るやうな者を、ひどい目に遭はさうといふことは中世以後の風であらうが、いつの間にかこれほど廣く、互ひに相知らぬ土地まで行き渡つて居たのである。
四
だから今後の採集によつて、なほ他の地方からも似た例が出ることゝ思つて居る。能登の鹿島郡などでは、除夜の晚はアマメハギといふ者が來て、足の皮を剝いで行くからといつて、子供たちを早く寢させる習はしがある。勿論半ば以上戲れであらうが、曾てこの地方にも火斑を剝ぐと稱して、年越の夕に訪れた者があつた痕跡には相違ない。アマメといふのが亦秋田などのナモミのことだからである。同じ半島も西海岸の皆月《みなづき》あたりへ行くと現にまだ一部分にはこの行事が活きて居る。それは正月の六日年越の夜、靑年等天狗の面を被り、素袍《すはう》を着て御幣を手に持ち、從者三人槌《つち》や擂小木《すりこぎ》を手に携へて、家々を巡つて餅を貰つてあるくといふのが、以前のアマメハギの殘形であらうかと思はれる。これと同種の行事ならば、昔の年越であつた小正月の宵にも、中國四國その他の田舍で、今なほ到る處の村に行はれて居る。たゞその名稱が奧羽のものと別なので、簡明に系統の同一を證し得ない迄である。甲州の平野の村々で道祖神祭といつたのも、裝束はこれとよく似て居たが主として新婚の家を訪ひ、嫁壻をいぢめて酒食の料を徵發することに力を注いだ。越後の出雲崎などは獅子の面を被つて來る爲に、普通これを獅子舞とは呼んで居るが、やはり法螺貝などを吹き怖ろしい樣子をして押しあるくので、小兒がこれを見て閉息することは、秋田のナマハギや閉伊のモウコも同じであつた。近年弊害があるので面だけは警察で禁じたといつて居る。さうすれば終《つひ》には普通の獅子舞と同じものになつてしまふだらうが、その獅子舞すらも子供たちには元はこはかつた。御獅子に嚙んでもらふと惡い所が治るといつて、惡戲をする私たちは屢〻手をその口の中へ入れられた。その日は年越の宵では無かつたけれども、これなども曾てはナマハギと同じ趣旨を以て、自分等の鄕里の方を𢌞つて居た名殘では無いかと思ふ。
[やぶちゃん注:「西海岸の皆月」石川県輪島市門前町(もんぜんまち)皆月。
「素袍」歴史的仮名遣は実は二種ある。ここに出るように「素袍」とも書くが、本来は「素襖」が正しく、その場合の歴史的仮名遣は「すあを」となる。直垂(ひたたれ)の一種で、「大紋」(だいもん)と同系列の服装である。孰れも江戸時代に武家の礼装に用いられたが、その順位は、「直垂」が最高で、次が「大紋」、「素襖」はその下で平士・陪臣の料とされた。生地は布(麻)で、仕立ては直垂、大紋とほぼ同じであるが、前二者の袴の腰の紐が白であるのに対し、共裂(ともぎれ)が用いられ、後ろに山形の腰板が入る。また、胸紐・菊綴(きくとじ)は、組紐の代りに革が用いられ、この故に一名「革緒(かわお)の直垂」とも称された。背と両袖、及び、袴の腰板と左右の相引(あいびき)のところに、紋を染め抜く。頭には侍烏帽子を被り、下には熨斗目(のしめ)の小袖を着るのが正式である(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]
五
私は前に岩手縣の海沿ひを旅して居た際に、閉伊の大槌の宿舍に於て詳しくあの土地のナゴミタクリの話を聽いた。こゝではこの小正月の訪問者を、モウコ、ガンボウ又はナゴミタクリといつて居た。モウコもガンボウも共に畏ろしいものを意味して居る。ナゴミといふのは何の事ですかと、知らぬ顏をして私は尋ねて見た。さうすると宿の主人の年四十餘なる者が、きまじめにやはり妖怪のことでござりませう。この邊ではナゴミは怖いものだと思つて居ますと答へた。火斑ある皮をタクリに來るといふことは、もうあの土地では言はなくなつて居たのである。土地で忘れたといふことは、その單語のやゝ古いといふことを意味するだけで必ずしも獨立の解釋を支持する力にはならない。モウコ又はモコといふ名稱なども、近頃文字を解する者はほゞ一致して蒙古のことだといふやうになつて居るが、それは弘安の役などの歷史知識が、普及せぬ以前には考へられさうにも無く、たまたまさういふ說を立てゝも記憶せられさうにも思へぬから、起原のよほど新しいものと見ることが出來る。しかも一方には彼が人間の火斑を剝ぎに來るといふことも今こそこの樣に弘く言ひ傳へられて居るけれども、又決して最初からあつた信仰では無く、寧ろこの行事が幾分か形式化して、人がその言動に劇的の興味を、少しづゝ抱き始めてから後の話と思はれるから事によるとその今一つ以前の名が、モコ又はモウコであつたかも知れぬのである。假にさうだとすると、こんな小さな一語でもやはりその起りを尋ねて見なければならない。それをしなければその又以前の事を考へて見る足場が無くなるからである。
[やぶちゃん注:「ナゴミタクリ」所持する民俗学や妖怪関連論文を見たが、見当たらなかったが、ネットではウィキの「天狗」の「天狗の種類」に記載があった。天狗の『伝承も各地に伝わっており、変わったものとして、紀州に伝わる、山伏に似た白衣を着、自由自在に空を飛ぶ「空神」、長野県上伊那郡では「ハテンゴ」といい、岩手県南部では「スネカ」、北部では「ナゴミ」「ナゴミタクリ」という、小正月に怠け者のすねにできるという火まだらをはぎとりに現われる天狗などが伝えられる。姿を見た者はいないが、五月十五日の月夜の晩に太平洋から飛んでくる「アンモ」も』、『この類で、囲炉裏にばかりあたっている怠け童子の脛には、茶色の火班がついているので、その皮を剥ぎにくるという。弱い子供を助けてくれ、病気で寝ている子はアンモを拝むと治るという』とあった。]
六
所謂モクリコクリの名稱は、かなり夙くから中央の文獻にも見え、これをお化けのことの樣に、思つて居た子供も少なくは無かつた。それが暗々裡に東北の蒙古說を誘發したまでは意外とも言へない。我々の不思議とするのは、寧ろこの善意なる初春の訪問者が、さういふ異國の兇賊の名と解せられて、何人もこれを否認せぬ時代まで、なほ以前からの外形と言葉とを、ほゞもとの儘で持ち續けて居たことである。妖怪そのものに對する日本人の觀念が、極めて目立たずに少しづゝ變つて居たのである。さうしてその過程を明らかにする手段が、今ではもうこの二つの幽かなる痕跡以外に、我々の爲に殘されては居らぬのである。單なる學者の心輕い思ひ付きが、多數の信奉者を混亂させた例は、この方面にはまだ幾らもある。たとへば嬉遊笑覽その他の隨筆に引用せられて居るガゴゼ元興寺《がんごうじ》說なども、これを首唱した梅村載筆《ばいそんさいひつ》の筆者などには、格別の硏究があつたわけでも無いが、誰でもこれを聽いた人は覺えて居て、一生に二度や三度は少年等に言つてきかせる。昔大和の元興寺の鐘樓に鬼が居て、道場法師といふ大力僧に退治せられたことが靈異記にある。それ故に妖怪をガゴゼといふのだといふのは、ちやうど陸中などのモウコと同じく、もしもこの時始めてばけ物が日本に生じたといふので無ければ、これに命名し又改名するのが、學者物識りの役目であつたことを意味するもので、二つながら我々の想像し得ないことである。これは要するにさうでは無いやうですと言ひ得る者の、一人も居り合はさなかつた席上の說であつた。言葉はそれを使用する者の地に立つて考へて見なければ、少なくともその起りを知ることは出來ない。さうしてモウコは又婦女兒童の語であつたのである。
[やぶちゃん注:私はここで江戸の考証随筆を非学術的な思いつきで当てにならないといったニュアンスで記している柳田に対する、〈鏡返し〉の批判をしておく。柳田や折口信夫は本邦の近代の民俗学を指揮したが、ある時点から、二人は、ある種の確実な性的象徴に基づく論考を語らないようにしようという密約があったと私は考えている。而して、元詩人志望で官学に組み込まれた柳田と、同じく詩人の素質を持ったまま、独自の浪漫的世界を夢見た折口(彼が同性愛者であったことは人口に膾炙している)によって、民俗学の学術的土台は、結果して、変形した象牙の塔になってしまったのではなかったか? 柳田の晩年の「海上の道」などは、私の若き日の大先輩で、歴史地理学専攻にして日本海運史を専門された方が、「一抹の学術性もない、思いつきの軽薄なロマンチストの産物以外の何ものでもない。」と一蹴されたのを思い出すのである。熊楠の柳田批判などは、まさにそうした一番痛いところを突くものでもあったのである。
「嬉遊笑覽その他の隨筆に引用せられて居るガゴゼ元興寺說」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻のここで視認出来る。狭義の当該部は短いので、以下に示す。但し、かなり読み難いので、所持する岩波文庫版第五巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)の当該部(リンク先とは版本が異なる)を参考に一部に語句を入れ、歴史的仮名遣の読みや句読点・記号等を補塡した。特に最後の部分は岩波文庫のそれを恣意的に正字化して採用した。
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○【「見聞集(けんもんしふ)」】の跋に、「或時は顏をしかめて『がごうじ』とおどせども、問(とひ)やまず。」。又【「籠耳(かごみ)」】といふ草子に、「小兒の啼を止る時、『むくりこくりの鬼が來る』といふこと、後宇多院弘安四年、北條時宗が執權のとき、元の世祖、せめ來(きた)る(「筠庭」云(いふ)、「此說、わろし。元は蒙古なれば、『鬼がくる』とは夷賊を云なり。『蒙古國裏』といふことのいひ、誤りなり。蒙古高句麗(ムクリコクリ)の二賊をいふなり。【「吾吟我集(ごぎんわがしふ)」】に、「鬼ぐるみわりそこなひて手の皮をむくりこくりと身は成りにけり」」。顏をしかめて、「がごじ」といふは、大和國元興寺(がんこうじ)の鬼の事【「本朝文粹(ほんてうもんずい)」】に見えたり。又、手をくみ、顏にあてゝ、『手々甲(ゼヽカヾウ)』といひて、小兒をおどす事もあり。予が幼き時、乳母どもが、姑獲鳥(ウブメ)が來るといへば、身にしみて恐ろしかりし云々)あり。行風(かうふう)が【「古今夷曲集」】の序に、「土佐の手々甲、大和の元興寺(カヾウジ)」といへり。さて、これらの「手々甲」は、卽(すなはち)、【「大鏡」】の「めかゝう」なること、【「籠耳草子」】に、「手をくみ、顏にあて」とあるにて、しるし。又、土佐といふは、彼處(カシコ)に元興寺の如き古事あるにもあらず。唯、邊鄙の國なれば、鬼あるやうにいひ傳へしならん(おもふに、目に錢をあてゝ、さる戯れする事もあれば、「錢元興(ゼヽガヽウ)」といひしにや。もと、手をあてゝすることなれば、「手々甲(ゼヽカヾウ)」と書(かき)たりと見ゆ)。今も土佐國の小兒、「手々甲(テヽカウ)」といふことをするは、いたく違(たが)へり。人をおどすわざにはあらで、小兒、集り、互(たがひ)に手をくみ合せ、手の甲を互に打(うち)ながら、向ひ、「河原で、かわらけ燒(やけ)ば、五皿・六皿・七皿・八皿、八皿めにおくれて、づでん、どつさり、それこそ鬼よ、簑着て、笠、きて、來るものが、鬼よ。」とこれをいひつゝ、手の甲を打(うつ)なり。その終りにあたる者を「鬼」と定む。これ、いづくにてもする「鬼定め」なり(常陸にて、「鬼ごと」を「鬼のさら」といふも、よしあり)。「後撰夷曲集」(播州の人、是誰(ぜすい)といふ者の歌)、「節分のまめなやうにと名付子はそれこそ鬼にかなぼうしなれ」。右の諺を、とれり。今の「手々甲」は、名のみにして、其實、違へり。又、おもふに、今、「てんがう」といふも「手々甲」にや。「てんがう」は、もと、「てゝんがう」と、いへり。「松の葉」永閉ぶし、くわんくわつ一休に、「けゝらけいあんてゝんがう」と有(あり)。又、物など乞ふを、否、とて、うけがはぬにも、べかかうすること、あり。「續山井」(寬文七年撰)、「折る人にべかゝうといへいぬざくら 友靜」。此句、上にいへる、「べか犬」をいへり(又、「後撰夷曲集」、「所望する一枝をくれぬのみならずこの目むきつゝあべか紅梅 正友」)。[やぶちゃん注:以下、岩波文庫版では、私の好きな「姑獲鳥(うぶめ)」のことが記されてあるので引きたいところだが、長くなるので、ここまでとする。]
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ここに出る「べか犬」は「子犬。犬の子」或いは一説に、「べっかんこうをしたような目の赤い犬」ともする。「べいか」「べか」とも呼ぶ。なお、この「ガコゼ」は知られた妖怪の名である。「元興寺」「がごじ」「ぐわごぜ」「がんごう」「がんご」或いは「元興寺(がんごうじ)の鬼」などと呼ばれる古い妖怪で、当該ウィキを見られたいが、『飛鳥時代に奈良県の元興寺』(嘗ての南都七大寺の一つで、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院であった法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転したもの。奈良時代には近隣の東大寺・興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退し、現在は三つに分かれている。それは当該ウィキを見られたいが、そこには『興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった』とあるので、ここらに相当するか(三つの内の二つが含まれる一帯が旧地である)『に現れたと』され、平安初期に書かれ、伝承された最古の説話集「日本國現報善惡靈異記』(にほんこくげんほうぜんあくりやういき:現行では略して「日本霊異記」と呼ぶことが多い)の「雷の憙を得て生ま令(し)めし子の强き力在る緣」や「本朝文粋」などに記載がある。鳥山石燕の「画図百鬼夜行」などの近世の妖怪画では、僧形をした鬼の姿で描かれてある。私は「元興寺(がごじ)」と聞くと、つい、別な妖怪「泥田坊」(当該ウィキ参照。以下の絵もある)の偏愛する鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」の絵を誤記憶無条件反射を起こすのを常としている。
「梅村載筆」かの林羅山の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの「日本隨筆大成 卷一」(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)の当該部(「人卷」の十三条目)を用いて以下に示す。一部、衍字らしきところがあったので、所持する吉川弘文館随筆大成版で訂した。
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○小兒をおどしすかし時、面をいからしてがごぜと云ふことはいかんと云ふに、元興寺とかけり、是をがごぜと云なり、大和の元興寺に鬼ありけること、本朝文粹に載たる道場法師が傳にあり、復震動雷電とかきてしだらでんとよめり、又我他被此とかきてがたひしとよめり、又鞁の曲に、都曇答臘と云ことあり。是をたらたら(タウタウ)たらとよめり。
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吉川弘文館随筆大成版でも同じだが、「鞁」(意味は馬の「曳き綱・ 手綱・ 腹帯」しかない)はママ。これは「皷」(つづみ)の誤字ではなかろうか?]
七
遠い昔の世のことは、私たちにはまだ明瞭には知れて居ない。人が老幼男女を通じて、一樣に眼に見えぬ神靈を畏れて居た時代には、多分はモノといふ總稱があつたらうといふことになつて居る。沖繩には今なほマジモノといふ語が行はれ、又バケモノといふ語も内地には出來て遺つて居る。しかし實際にこれを怖がつて居る者の間には、別にそれよりも一段と適切なる語が、新たに生れて來るのが自然であり、又必要なことでもあつた。ガゴやモウコといふ語は現在の使用階級に取つては、必ずしも簡單に過ぎもせず、又餘りに幼稚でも無かつた。さうして日本のかなり廣い地域に亙つて、今でもまだ活きて働いて居るのである。
[やぶちゃん注:「マジモノ」母音の口蓋化が起こる沖縄方言では「マジムン」が正しい。所持する日本民俗文化資料集成第八巻に所収する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊)によれば、『魔の物。ユーリーと混同されるが、『ユーリーはふつう』、『幽霊を意味し』、『人間の亡霊に限っていう。マジムンは豚、家鴨』(あひる)、『犬、牛、器物などに変化』(へんげ)『して出るモノ。家にはほとんど出ず、道の辻などに出る。定まった場所に出るものもあるが、徘徊するものもある』。『ユーリーは背が高く顔だけが真っ赤で、木にぶらさがっていて、足のないものを見た人がいる。また歩くのに足音も足跡もないという人もいる』(以上の最後の部分は折口信夫の「沖繩採訪記」に基づく)とある。また、似た呼称に宮古島の「マズムヌ」があり、こちらは『人の死霊もあれば動物の怪もある。幽霊との区別はつけにくいが、幽霊は初めから人のほうをむいているが、マズヌムはこれが最後というときにだけ顔を人に向ける。相手を食い殺すとか呪うとか生きていたときの怨みつらみを晴らそうとする』。『この霊が来たときは山羊』(やぎ)『の臭いが強く漂うのでカンカカリア(巫女)』(ユタの宮古列島での呼称)『にはすぐわかるという』とある。因みに、この「マ」は恐らく「魂」を意味する「マブイ」の「マ」と通底しているものであろう。因みに、私は私のオリジナル怪奇談蒐集である「淵藪志異」の「十五」と「十六」で、擬古文で沖縄の出身の方から直に聴いた怪奇談を擬古文で紹介してある。この二篇は別に高校生向けに書いた原話に基づくもので、その原話「沖繩の怪異」も、こちらで電子化してある。是非、読まれたい。前者は「イキマブイ(生霊)」、後者は「シニマブイ(死霊)」である。]
前にも一度書いたことがあるから、こゝにはたゞ分布のざつとした色分けを述べて見よう。所謂化物を意味する兒童語は、大體に全國を三つに分け、それも少しづゝ改まつて來たやうである。最近の實狀によつて言へば、モウコの方言區域は東北六縣よりも大分廣い。岩手秋田の二縣はこの頃は寧ろモッコが多く、外南部ではアモコとさへいつて居るが、山形縣各郡はほゞ一圓にモウ又はモウコである。それから仙臺でも元はモウカ、福島縣でも岩瀨郡などはマモウだから、僅な變化を以てこのあたり迄は來て居るのである。日本海の側では越後にモカ、出雲崎の附近は既にモモッコで、それが富山縣の北部までは及んで居る。石川縣に於ても金澤はモウカ、能登はモウがあり又モンモウがある。蒙古の一說を以て總括することは出來なくとも、これを別個の發生と見ることは先づ六つかしからう。
[やぶちゃん注:「前にも一度書いたことがある」これはちょっと読者を馬鹿にしている。それは実にこの後に配されてある「おばけの聲」(昭和六(一九三一)年八月『家庭朝日』初出。凡そ本篇より三年前)を指すからだ。せめても、単行本化する際に、次章参照注記をするのが、普通だろ! 柳田!]
次に信州では長野の周圍からはまだ聽き出さぬが、犀川上流の盆地ではモッカもしくはモモカ、天龍水域ではモンモが行はれ、甲州も亦モンモであるといふ。靜岡縣は内田武志君の方言新集に、靜岡市以西は大體にモーン又はモーンコ、東部には一部にモーモーといふのがあるが、主として行はれるのはモモンガーもしくはモモンジーであつて、偶然にモモンガも同一系統の語であつたことを確かめ得たのである。
[やぶちゃん注:「犀川上流の盆地」現在の安曇野市附近。そこから上流は梓川と名が変わってしまう。
「モモンガー」前段の不快で注するも気も減衰したが、一言言っておくと、以上の「化け物」の児童語の方言の内で知っているのは、これだけである。或いは「ももんがあ「もんもんがー」であるが、私自身は使ったことはなく、小説や手塚治虫の漫画で見たというだけのことである。所謂、動物のモモンガ(哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga。博物誌は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)」を参照。なお、老婆心乍ら言っておくが、ムササビとモモンガは全くの別種である。誤認している方はリンク先をどうぞ)由来で、これらは、「頭から着物を被り、肘を張って、モモンガのような恰好をしたり、手の指で目や口を大きく広げた顔を作り、怪物、即ち、実在しない「化け物」の真似をして、子供などを嚇す戯れ」或いは、その時に挙げる同名の叫び声そのものを指す。さらに、転じて、人を罵って言う語にも用いられるが、そこには人間じゃない化け物レベルといういまわしい卑称のニュアンスが含まれるわけである。]
八
さて妖怪を何故にモウといひ始めたかについては、たわいも無いやうな話だが私の實驗がある。曾て多くの靑年の居る席で試みにオバケは何と鳴くかと尋ねて見たことがある。東京の兒童等は全くこれを知らない。だから戲れに仲間を嚇さうとする場合に、妙な手つきをしてオバーケーといひ、もしくはわざとケーを濁つていふこともある。つまり我名を成るたけこはさうに名乘るのである。ところが或信州の若者はこの問に對して、簡明にモウと鳴きますと答へた。丸で牛のやうだなといふと、他に鳴きやうがあらうとは思はなかつたといつた。それから氣をつけて居るのに、子供がモウと唸つて化物の眞似をして居るのを折々見る。これは誰でも試みることの出來る實驗で、もし東北のモウコが他の聲で鳴くといふ例が幾つか現れたら、私の推定は覆へることになるのだが、私だけはこれが鳴き聲といふのもをかしいが彼の自らを表示する聲から、そのまゝ附與せられた名稱であつて、犬をワンワンといつたのと同じ態度だと思つて居る。
そのワンワンを又化物の名として居る地方がある。たとへば筑前の博多ではオバケの小兒語がワンワン、同じく嘉穗《かほ》郡ではバンバン、肥後玉名郡でもワワン、薩摩でも別にガモといふ語はあるが、小兒に對してはワンを用ゐ「ワンが來《く》ッど」などといつて嚇すさうである。かういふ土地でも實驗は容易に出來る。もし化物がワンといつて現れるので無かつたら、かういふ名稱は新たに生れることは出來なかつたらう。從つて歷史を奈良朝に托せんとして居るガゴゼなども、一應はやはり彼が出現の合圖の聲に據つて、起つたものと見て置いてその當否を究むべきである。ガゴゼは自分等の鄕里播磨などで、以前はさういつたといふことであるが、近世はもう無くなつて居る。京都でも文獻には見えて今はさうで無く、本元《ほんもと》と言はるゝ北大和も唯ガンゴである。但しこのゼといふ接尾辭は、東北のコなどとは違つて、偶然に附着したものでは無いやうに思はれる。四國では阿波が一般にガゴジ又はガンゴジであり、伊豫にはガンゴといひ又ガガモもあるが、周桑《しうさう》郡の兒童語には鬼をガンゴチといふのがある。それからずつと飛び離れて、關東の方でも水戶附近がガンゴジ又はガンゴチ、これと隣接した下野芳賀郡もガンゴジーである。理由の無い附會にもせよ、元興寺說の起つたのは、始めはこれに似よつた音を以て、呼ばれて居たことを推測せしめる。
[やぶちゃん注:「嘉穗郡」旧郡域は福岡県の中央部。当該ウィキの地図を参照。
「肥後玉名郡」旧郡域は有明海奥の東岸。当該ウィキを参照。
「周桑郡」現存しない。旧郡域は当該ウィキの地図を参照。
「下野芳賀郡」旧郡域は栃木県東南端一帯。当該ウィキの地図を参照。]
九
化物をガゴ又はこれと近い音で呼ぶ區域は、殆と完全に前に揭げたモウコ區域と隔絕して居る。たつた一つの例外らしく見えるのは越中であるが、これとても多分は對立であつて、一地の二つの言ひ方が併存して居るのでは無からうと思ふ。さうしてこの地方は雀、蟷螂又蝸牛の方言でも見られる樣に、不思議に異種の語の入り交つて居る處である。大田君の富山市近在方言集に依れば、幼兒を嚇す語に「泣くとモーモに嚙ましてやるぞ」といふとあるが、それは新川郡の平野でのことらしく、五箇の山村では別に子供を威《おど》すのにガーゴンといふ語がある。卽ちこの縣の奧地だけに、ほゞ孤立してこの系統の分布を見るのである。それから又ずつと飛び離れて、關東では常野境上《じやうのさかひかみ》のガンコジがあり、その南に繼いで新治稻敷等の諸郡のゴッコがある。これがどの位の版圖を持つかはまだ調べられて居らぬが、とにかくに現在はさう廣く及んでは居ないやうである。注意すべき類似は却つて遠方にある。卽ち山口縣では、山口も下關も、共に鬼やおばけがゴンゴであつた。石見ではこれをゴンといふ兒童もあるが、別にゴンゴジー又はゴンゴンジーといふのも怖ろしい人又はモノのことだから、つまりこの地方と常陸の一角とは一致して居るのである。さうして此方は九州の北部、及び四國島の北東二面とも接續して居る。阿波のガゴジのことは既に述べた。讃岐はまだ當つて見ないが、伊豫にもガンゴチがあり、又喜多郡などはガンゴであつて、たゞその南の宇和四郡だけが、第三のガガモ系に屬して居る。九州の方では筑前のバンバンなどがあるが、それを飛び越えて肥前は佐賀藤津の二郡がガンゴ又はガンゴウ、對馬でも同上、肥後は南端の球磨《くま》郡がガゴウで、嶺を越えて日向の椎葉村《しいばそん》がガゴもしくはガンゴ、大分縣にも亦處々にガンコがある。起原が一つで無かつたならば、これまでの弘い一致は現れまいと思ふ。
[やぶちゃん注:「大田君の富山市近在方言集」在野の民間史学者田村栄太郎(明治二六(一八九三)年~昭和四四(一九六九)年)の著作で、昭和四(一九二九)年郷土研究社刊。
「常野境上」この読みの「常野」は「ちくま文庫」版のルビを参考に附した。「堺上」は私のあてずっぽである。ここは現在の東京都武蔵野市境であるが、「今昔マップ」の戦前の地図で見ても、広域地名の「常野」は存在しない。不審。
「佐賀」佐賀県の旧佐賀郡は当該ウィキを参照。有明海湾奥の東岸。
「藤津」郡の旧郡域は当該ウィキを参照。有明海湾奥の西岸。
「球磨郡」旧郡域は当該ウィキを参照。熊本県南東部の広域相当である。
「日向の椎葉村」平家落人伝説で知られる宮崎県東臼杵郡椎葉村。]
一〇
そこでなほこの序でに問題とすべきことは、これと東日本一帶のモウコ乃至はモモンガと、丸々緣無しに別々に生れたか否かであるが、私はやはり始めは一つだと思つて居る。これも當然に實驗から入つて行くべきであるが、恐らくは化物はさういふ聲を發するものと、思つて居る子供又は子供らしい人が、今でも機會ある每に見出し得られると思ふ。それがもし違つて居たら、乃ち私の假定は覆るのだが、そんな心配は先づ無ささうである。現在のおばけを意味する方言には、別に第三種の g m の二音を組み合せたものがあつて、その分布の狀態は一段と廣汎であり、しかもこれを調理する母音の傾向が、かなり顯著に前二者と共通して居る。これを兩者の中間に置いて考へると、變化の道筋は大よそ判つて來るやうに思はれるからである。少し事々しいが他日追加の便宜の爲に、表にして置くことを許されたい。私の手帖に拔き出してあるのは、今のところ次の十餘例に過ぎぬが、これは追々に增加する見込がある。
鹿兒島縣 ガモ、ガモジン(ガゴ)
長崎市 ガモジョ(アモジョ)
出雲 ガガマ
伯耆東伯郡 ガガマ
加賀河北郡 ガガモ(モウカ)
飛驒一圓 ガガモ
備後福山 ガモージー
伊豫喜多郡 ガガモ(ガンゴ)
伊豫西宇和郡 ゴガモウ
紀州熊野 ガモチ
伊勢宇治山田 ガモシ
[やぶちゃん注:表は底本では二段組だが、ブラウザの不具合を考え、一段とした。]
右の諸例の中で備後や長崎の如く、語尾に元興寺と同樣の一音節を添へてあるものゝ多いのは、私には意味のあることに思へる。我々のオバケは口を大きく開けて、中世の口語體に「咬まうぞ」といひつゝ、出現した時代があつたらしいのである。その聲を少しでもより怖ろしくする爲には、我邦では k を g 音に發しかへる必要があり、又折としてはその g 音をまゝなく(吃る)必要もあつたかと思はれる。それが今日のガモ又はガガモの元だといふことは、昔を考へて見れば必ずしも無理な想像では無い。私などの幼ない頃の言葉では、妖怪はバケモンであり又ガゴゼであつたが、なほ昔話中の化物だけは、やゝ古風に「取つてかも」といひつゝ現はれた。カムといふ言葉が端的に、咬んでむしやむしやと食べてしまふことを意味したのである。その用法は南の島にはまだ殘つて居る。これが嚥下の動作までを包含せぬ動詞となつて後も、なほ努めて日常の「食ふ」とか「たべる」とかいふ語と、差別した語を使はうとしたことは、關東でよく聞く蚊がクフや、犬がクラヒツクなどと異曲同工と言つてよからう。
[やぶちゃん注:「ままなく」不審。新潟及び東北地方の方言で「吃(ども)る」の意の方言である(小学館「日本国語大辞典」で確認)。何故「不審」なのか? 柳田は東北人ではない。ここで東北弁を用いる必要は全くない。されば、「どもる」という語をわざわざ使ったのは何故だ? ちゃんとそうした方言まで私は知ってるぞって誇示したかったのか? それとも差別言辞だからか? だったら、丸括弧で示す必要はないよね? 訳わからんこと、すな!]
一一
鳥や獸のやうな言語の丸でちがつたものゝ聲でも、我々は何かこちらの言葉で物を言つて居るやうに聽かうとした。梟は糊《のり》つけ乾《ほう》せ、畫眉鳥《ほほじろ》は一筆啓上仕り候といふやうに解せられて居た。まして化物は人間の幻を以てこしらへたもの、それが最初から意味の無い聲を出して來る筈は無かつたと思ふ。しかも彼等の要求は、以前はさう過大又複雜なもので無かつたのが面白い。「かまう」は多分猛獸などの眞似で、實際にその意圖があつたので無く、やはり「小豆が煮えたか」[やぶちゃん注:ホトトギスの聞き做(な)しの一つ。]と同樣に、相手が懾伏《せうふく》[やぶちゃん注:相手の勢いに圧され、怖れてひれ伏すこと。]し畏怖するを以て目的とする恫喝の語であつたのであらう。その語義が一旦は不明になつて、却つて語感の展開して來たことは、今ある小正月のナマハギやナゴミもよく似て居る。咬まうがモウとなつたのは所謂アクセントの問題である。東北の方では西南とちがつて第一音節の ga に力が入らなかつたものと思はれる。さうなると蒙古人のことだといふ新說も生れ易く、又は亡靈をモウコンといふ新語を案出し得られた。化物と亡靈とは本來は同類で無いのだが、それがモウと鳴いて出て來る奧州や信州では、亡魂と解せられて居る一種中間の化物が加はつて居る。さうして冥界の危險は世と共に痛烈になつた。この混同は日本の固有信仰の爲に、一般に有害であつたと言つてよい。
一方この邦の言語學の側からいふと、これには又他では得られない幾つかのよい史料を含んで居る。陸中の上閉伊などでは、お化けをモウコといふ語と併立して、別に西國流のガンボウといふ名も傳はつて居る。第二音節のモウに力を入れた發音のし方も、最初からのものでは無くて、曾てはガの音に重きを置いて居た單語が、こゝにもあつたことを想像せしめるのである。ガゴウといふ語はやゝ古く文獻に錄せられて居るから、これが今邊土に遺つて居るガモウなどの、一つの音訛《おんくわ》の例だといふことは信じ得ぬ人があるかも知らぬが、私の說明は無造作だ。一方は日本語として少し意味があり、他の一方は無意味だ。人の空想から生れた語ならば、少しでも意味のある方が前のもので、それが慣用によつて約束せられた後で無いと、他の一方の轉訛は起り得まいと思ふのである。ガゴゼ、ガンゴジ等の不可解なる接尾語が、諸處に殘つて居るのもその痕跡だと見られる。だから古く知られて居る故に正しい元の語だとも言はれぬと同時に、音韻の訛りは常に或傾向に沿うて進むとしても、それには屢々社會的原因とも名づくべきものが參與して、單なる生理作用だけではその過程を解釋することが不可能だといふこと、かういふ相應に重要なる定理も、行く行くはこれから導いて來ることが出來さうである。つまらぬ小さな問題の樣に見えて、その實は決してさうで無い。
一二
オニといふ日本語の上代の意義は、頗る漢語の「鬼」とは異なつて居た。これを對譯として相用《あひもち》ゐた結果が、いつと無く我々のオニ思想を混亂せしめたことは、曾て白鳥博士なども力說せられたことがあつた。それと同樣に方言のモウコ、ガゴジ、ガモジョ等を、直ちに標準語のお化け又は化け物に引直すことは卽ち又常民信仰史の眼に見えぬ記錄の數十頁を、讀まずにはね飛ばしてしまふやうな不安がある。方言は早晚消滅すべきものであらうが、殘つて居るうちは觀察しなければならぬ。さうしてその意義を尋ねるのが學問だと私は思ふ。所謂、お化け話の民間に傳はつて居るものは、今でもまだ若干の參考を我々に提供する。人に恨みを含み仇を復せんとする亡魂は別として、その他のおばけたちは本來は無害なものであつた。こはいことは確かにこはいが、きやアといつて遁げて來れば、それで彼等の目的は完了したやうに見える。單に化物などといふものはこの世に無い筈といつたり何がこはいなどと侮つたりする男が、ひどい目に遭はされるだけである。さうして時あつては產女(うぶめ)が子を抱いて居た者に大力を授けたり、水の精が約束を守る者に膳椀の類を貸してくれる等、素直に彼が威力を認めその命令に從順である者に大きな恩惠を付與したといふのみならず、更に進んでは妖怪變化と見えたのは、實は埋もれたる金銀財寶であつたといふ話にまで發展して居るのである。人をそこなふ爲に現れるので無かつたことだけはよくわかる。目的は要するに相手の承認、乃至は屈伏にあつた。それ故に通例は信仰の移り變りの際に、特にこの種の社會現象が多いものと、昔からきまつて居るのである。東北諸處の田舍の年の夜の訪問者が、家主も謹んで迎へ、又これに攜はつて居る若者も、嚴肅なる好意を抱いて演じて居るに拘らず、單に火斑剝離者の名を以て知られ、もしくは化け物と共通の名を以て呼ばれて居るといふことは、これをやゝ零落せんとする前代神の姿として、始めて解し得る不思議である。彼等はたゞ自分の威力を畏れ又崇めなかつた者をのみ罰せんとして居たのである。だからその表現には恫喝があつた。取つて咬まうとどなりつゝその實は咬まなかつた。神祕に參加せざる未成年者のみがそれを知らぬ故に大いに慄へたのである。しかも信仰は愈々變化して、今では兒童の最も幼ない者の間に、僅かに殘壘を保つに過ぎないのに、他の一方には何とかしてお化けを怖ろしい形に作りかへて、いつ迄もこれを信じようとする者が絕えない。おばけの話の年と共にあくどくなるのは、考へて見ると面白い人心である。
[やぶちゃん注:所謂、現代の心霊映像や都市伝説(urban legend)、グレイ型宇宙人を見れば、未だになんにも変わっちゃいませんぜ、柳田先生。]
附 錄
お化けを意味する我々の方言が、土地によつて始終變つて居たらしいことは、今ある複合語の中からもこれを窺ふことが出來る。たとへば東京は現在一樣にオバケといふが、なほ關西のアカンベを、ベッカコウといふ語だけは殘つて居る。ベッカコウは卽ち目のガゴで、わざと目を剝いてこはい顏になることである。下野の河内郡などでは、瞼に腫物が出來て赤く脹れて居るのをメカゴもしくはメカイゴといふ。これも眼だけのガゴであらうと思ふ。仙臺のお化けの聲はモウカであるらしいが、なほ隱れ鬼の遊戲はカクレカゴであり、水に住む源五郞蟲をガムシといつたと濱荻《はまをぎ》に見えて居る。この源五郞蟲は恐らく「田がめ」の誤りであらう。この蟲の水中の擧動が似て居ると見えて、これを妖怪と同じ名で呼ぶ例は、備前丹後その他の地方にある。鹿兒島縣の種子島などでも今では妖怪をガモといふやうになつて居るらしいが、この田鼈《たがめ》だけは東北流にタモツコウといふさうである。なほこの因みにいふと、タガメのガメも石龜のことで無く、やはり水中の怪物の名として、かなり廣い區域に行はれて居るから、或はガモ、ガガモの方から導かれたものかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「源五郞蟲」鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科Caraboidea のゲンゴロウ類、若しくは狭義のゲンゴロウ科 Dytiscidae 又は同科のナミゲンゴロウ Cybister japonicus や、同オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ類を含んでいよう。標準和名のそれはゲンゴロウ族ゲンゴロウ属ゲンゴロウ Cybister chinensis となる。
「ガムシ」「牙蟲(がむし)」。柳田はこれを異名ととっているらしい雰囲気があるが、大間違いである。「ガムシ」は鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ハネカクシ下目ガムシ上科ガムシ科 Hydrophilidaeに属する多くの種群を指す。因みに和名のそれは、当該ウィキによれば、『ガムシ亜族(大型種)では胸部下に後方に向かって』一』つの尖った突起があり、これを獣の牙に例えて、牙虫と呼ぶようになったと言われる』とある。
「濱荻」複数あるので、不詳。小学館「日本国語大辞典」によれば、一つは、江戸中期の方言辞書で一冊。堀季雄編。明和四(一七六七)年成立で、『江戸へ出る庄内地方の婦人のために江戸語と庄内方言を対照させて解説』したもので「庄内濱荻」とも呼ぶ。次に、江戸末期の方言辞書で三冊。匡子(きょうし)編。文化一〇(一八一三)年頃の成立で、『仙台方言約』二千六百『語を』、『いろは順に配列して解説を加え、対応する江戸語を示』したもので、「仙臺濱荻」とも呼ぶ。三つ目は、江戸末期の方言辞書で一冊。野崎教景編で、天保一一(一八四〇)年から嘉永五(一八五二)年頃に成立したもので、『久留米を中心とする九州方言約』六百『を』、『いろは順に配列し、江戸の俗語と対照しながら』、『語源・正字を解説』したもので、「久留米濱荻」「筑紫濱荻」とも呼ぶ。柳田の叙述は以上を仙台方言として示しているようなので、二つ目のがそれらしくはあるが、原本に当たれないので確認のしようがない。
「田がめ」「田鼈」半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目タイコウチ上科コオイムシ科タガメ亜科タガメ Lethocerus deyrollei。博物誌は前のげんごろうなんぞもひっくるめて私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 水蠆」を参照されたい。]
次に氷柱《つらら》を豐前あたりでモウガンコといふのも、同じ言葉の適用かと思ふが、北九州には今はモウといふ語は消えかゝつて居る。植物の畸形をさしてバケバケなどといふことは、東京附近でも折々聽く語であるが、その中で最も普通になつて居るのは薯蕷《やまのいも》の子のムカゴである。加賀は今日はモウカの地域であるが、零餘子《むかご》のみはゴンゴといひ、越中も各郡ともにガゴジョ、飛驒もガゴジョであつて、たゞ袖川村などがガモンジョになつて居る。九州も豐後筑後肥前などがすべてカゴで、浮羽《うきは》郡吉井だけはヤマイモカンゴ、壹岐島はイモカゴ、廣島縣の一部ではマカゴといつて居る。ムカゴの「ム」は多分芋であらう。或はヌカゴともいつて古くから文筆にも現れて居るが、本來はお化けのガゴから出て、もう一度優雅な k 音に復したものなることは、他の諸例から類推し得られる。怪物を曾てガゴといつて居た地方は、今よりも廣かつたものと思はれる。岩手縣のモウコ地帶にガンボウのまじつて居るのも、やはりこの地方に或時代の變化があつたことを想像せしめる。
[やぶちゃん注:「薯蕷」は音「シヨヨ(ショヨ)」で狭義には所謂、「自然薯(じねんじょ)」=「山芋」=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica を指す。「日本薯蕷」とも漢字表記し、本種は「ディオスコレア・ジャポニカ」という学名通り、日本原産である。ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya とは別種であり、別種であるが(中国原産ともされるが、同一ゲノム個体は大陸で確認されておらず、日本独自に生じた可能性がある。同種は栽培種であるが、一部で野生化したものもある)、現行では一緒くたにして「とろろいも」と呼んだり、同じ「薯蕷」の漢字を当ててしまっているが、両者は全く別な種であり、形状も一目瞭然で異なる。
「零餘子」「ぬかご」とも読み、「珠芽」とも書く。ウィキの「むかご」によれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモDioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。「零余子」という表記については、私が恐らく最もお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の「日刊☆こよみのページ スクラップブック (PV 415 , since 2008/7/8)」の「零余子」の解説中に、『零余子の「零」は数字のゼロを表す文字にも使われるように、わずかな残りとか端といった小さな量を表す文字ですが、また雨のしずくという意味や、こぼれ落ちるという意味もあります』。『沢山の養分を地下のイモに蓄えたその残りが地上の蔓の葉腋に、イモの養分のしずくとなって結実したものと言えるのでしょうか』とあり、私の中の今までの疑問が氷解した。
「浮羽郡吉井」現在の福岡県うきは市吉井町(よしいまち)。]
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