大手拓次譯詩集「異國の香」 「交通」(ボードレール)
[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]
交 通 ボードレール
自然は生きてゐる柱から
ときとして錯雜した言葉を出さしめる寺である、
親しみ深い注意でそれを見る人は
象徴(サンボル)の森をとほりてそこへゆく。
遠くより、 隱密なる深い統一のなかに
冥合する遙かなる木靈のやうに、
夜(よる)のやうに、 又光明のやうにひろく、
匂ひと、 色と、 音とは相答へる。
それは子供の肉のやうに潑溂たる匂ひである、
笛の音のやうにこころよく、 牧場のやうにみどりである。
そして腐れたるもの、 ゆたかに誇揚するものは、
琥珀や麝香、安息香(パンジオアン)や薰香(アンサン)のやうな、
無限のもののひろがりを持つて、
靈と官能との感激を歌つてゐる。
[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:本篇は「国立国会図書館サーチ」の「ボードレール = Charles Baudelaire : 明治・大正期翻訳作品集成」(ボードレール著/川戸道昭・榊原貴教編集/二〇一六年大空社刊)の書誌で調べたところ、前の「夢幻の彫刻」と同じ大正四(一九一五)年四月一日発行の『地上巡禮』初出であることが判明した。
標題(原詩‘correspondance’)は「交通」とあるが、以下に示す原詩と、その詩想からは、こなれた訳とは言えない(但し、「交通」や「鉄道等交通機関の乗換(駅)」の意はある)。第一義の「符合」「合致」「合一」「調和」「対応」「照応」或いは「交感」「呼応」が相応しい。対象物との精神の深いところでの「交感」(「交通」)を指す。堀口大學「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)では「呼應」と訳しており、同詩集の冒頭の「憂鬱と理想」(‘Spleen et Idéal’)の中でも彼の詩的琴線を表わす象徴的な一篇である。堀口はこの詩に注して、『この詩の主題はボードレールには譜代の親しいもの』で、彼の『美術評論『一八四六年のサロン』の中にも、色彩と音響と香氣の間の呼應を說いたホフマンの『クライスレリアナ』の一節を引用したりして』おり、『また、この詩の第一、第二連の兩節は、自分の評論文『リヒヤルト・ワグネルとタンホイザー』中に引用してゐる』とある。
「木靈」「こだま」。
「琥珀」植物の樹脂が化石となったもの。黄褐色か黄色を呈し、樹脂光沢を持ち、透明か半透明。石炭層に伴って産出する。想像を絶する時間を隔てて自然が作り上げた秘宝の象徴物の一つであり、特定の条件で琥珀を燃やした際、松の木を燃やしたような香りがすることから、古くから香料として用いられ、漢方医薬として用いられることもあった。
「麝香」雄のジャコウジカ(鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に七種が現生する)の腹部にある香嚢(こうのう:麝香腺)から得られる分泌物を乾燥したもので、主に香料や薬の原料として用いられてきた。甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として古くから重要なものであった。また、興奮作用・強心作用・男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされて、本邦でも伝統的な秘薬として使われてきた。ジャコウジカ及び麝香の詳しい博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。
「安息香(パンジオアン)」安息香(あんそくこう)はツツジ目エゴノキ科エゴノキ属のアンソクコウノキStyrax benzoin、またはその他同属植物が産出する樹脂で、それらの樹木の幹に傷をつけ、そこから滲み出た樹液の固化した樹脂として採集する。主要な成分は芳香族カルボン酸とそのエステルで、古くから香料として利用されてきた。
「薰香(アンサン)」原詩の“l'encens”であるが、これは第一義的には特定の香料を指すのではなく、以上の三種のような神秘的なそれら等を薫じた「香」(こう/かおり)を言う。但し、原詩を見るに、上記三種と並列してあることから、私は香味料として古代から用いられてきたシソ目シソ科アキギリ属 ローズマリー Salvia rosmarinus のことを指しているものではないかと考えた。所持するフランス語辞書の“encens”の最後に『まんねんろう』とあり、これはマンネンロウ(迷迭香)でローズマリーの和名であるからである。しかし、個人ブログ「ボエム・ギャラント」の『ボードレール「コレスポンダンス」(万物照応) Correspondances』(この「万物照応」は本詩篇の邦訳題としてよく用いられるものであり、これはなかなかに良い訳と思う。この拓次の表題「交通」が「萬物照應」とあったとなら、詩想の吸収は遙かに躓かないからである)では、これを「乳香」(にゅうこう)と訳しておられる。これはムクロジ目カンラン(橄欖)科ボスウェリア属ボスウェリア・カルテリィ Boswellia carterii などの同属の北アフリカ原産の常緑高木から採取される樹脂で、芳香があり、古代エジプト以来、薫香料として用いられてきたものであり、並列に相応しい。而してフランス語の「乳香」Encens(résine oliban)」の冒頭にも、別名として“L'encens”とあることから、ここは「乳香」と訳すべきところと思う。
以下、原詩を示す。英文サイトの英訳附きのページのものを使用し、壺齋散人(引地博信)氏のサイト「フランス文学と詩の世界」の「交感(ボードレール:悪の華)」によって連を決定稿の形である四連構成で示した。なおそちらによれば、『この詩はボードレールの比較的若い頃に書かれていたとする説もあるが、1855年に「両世界評論」に発表した18篇の中には含まれていない。おそらく』「惡の華」『初版の刊行』(一八五七年)『に併せて、新たに書いたものだと思われる。』とある。
*
Correspondances Charles Baudelaire
La Nature est un temple où de vivants piliers
Laissent parfois sortir de confuses paroles;
L'homme y passe à travers des forêts de symboles
Qui l'observent avec des regards familiers.
Comme de longs échos qui de loin se confondent
Dans une ténébreuse et profonde unité,
Vaste comme la nuit et comme la clarté,
Les parfums, les couleurs et les sons se répondent.
II est des parfums frais comme des chairs d'enfants,
Doux comme les hautbois, verts comme les prairies,
— Et d'autres, corrompus, riches et triomphants,
Ayant l'expansion des choses infinies,
Comme l'ambre, le musc, le benjoin et l'encens,
Qui chantent les transports de l'esprit et des sens.
*
以上のように、本篇は四連構成とするのが、諸訳者でも共通しており、原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)の「翻訳篇」でも四連構成に変えてある。以上の正字のものを、そのようにして以下に示す。なお、そちらでは標題の「交通」に「コレスポンダンス」とルビがあるが、ブログ版では五月蠅くなるので、この注で留める。
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交 通 ボードレール
自然は生きてゐる柱から
ときとして錯雜した言葉を出さしめる寺である、
親しみ深い注意でそれを見る人は
象徴(サンボル)の森をとほりてそこへゆく。
遠くより、隱密なる深い統一のなかに
冥合する遙かなる木靈のやうに、
夜(よる)のやうに、 又光明のやうにひろく、
匂ひと、色と、音とは相答へる。
それは子供の肉のやうに潑溂たる匂ひである、
笛の音のやうにこころよく、 牧場のやうにみどりである。
そして腐れたるもの、 ゆたかに誇揚するものは、
琥珀や麝香、安息香(パンジオアン)や薰香(アンサン)のやうな、
無限のもののひろがりを持つて、
靈と官能との感激を歌つてゐる。
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恐らく、拓次は第三連末がコンマとなっているのを意識して、確信犯でかく処理したものとは推察出来る。]
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