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2023/02/17

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 川童祭懷古

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一一(一九三六)年六月発行の『東京朝日新聞』初出である。]

 

     川 童 祭 懷 古

 

          

 

 夏祭は都市の繁昌につれて、次第に華やかな又目新しいものになつて來た。見物の衆がこれに心を取られて、いつと無くその姿を移し學び、後には農村の秋春の祭禮まで、神輿に山鉾に同じ風流を競ふ例が、多くなつたのも無理はないと思ふ。當世は變り改まり、又ねんごろに根原《こんげん》を求め尋ねる。一たびこの行事の由來が、我々の遠祖の生活と、如何なる交涉をもつかを考へて見るのも、今においては必ずしも無意義の業とはいはれぬであらう。

 誰でも知つて居るのは、祇園はもと行疫神《ぎやうえきじん》であつたことである。部下の荒ぶる神々を統御して、その災禍を神を敬ひ祀る者に及ぼさぬといふ御力が、特に民衆の仰ぎ信ずる所であつた。津島の天王の信仰は夙《つと》に東國の方に行はれて居たやうだが、これは更に御葭神事(みよしのしんじ)といつて、追ひ放された疫神の行くへを、信徒に警戒せられる方式さへ設けられて居た。この二箇所の御祭を美々しく、且つ極度に面白くしようとした動機はわかつて居る。

[やぶちゃん注:たまたま、Twitter氏の2020720日の記事に『「川童祭懐古」、初出は挿絵つきだった』というタイトルで、本初出の冒頭の一部が写真版で掲載されているのだが、そこで氏も指摘されているように、この僅かな部分だけでも、初出との表記の有意に異なる箇所が三箇所も確認出来る。(底本)「華やかな」→(初出)「花やかな」、「農村」→「鄕(ごう)村」、「且つ」→「且(かつ)である。さらに、よく見ると以下の第三段落一字下げで書かれてある点(以上の最後の「動機はわかつて居る」を受けた注記附記形式に見える)も異なっている。柳田本人が書き変えたとすれば、どうということはない訳だが、前の部分で如何にも不親切な初出公開順列の操作を行っていながら、それを注記もしない人物が、どうして単行本に際して、こんなに些細な表現をこまめに書き変えるだろうか? という疑問がふつふつと沸いてきたことは確かである。

「祇園はもと行疫神《ぎやうえきじん》であつた」当該ウィキによれば、祇園信仰は『牛頭天王』や素戔嗚(すさのお)に『対する神仏習合の信仰である。明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となって』おり、『京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『を総本社とする』。『牛頭天王は元々は仏教的な陰陽道の神で、一般的には祇園精舎の守護神とされ』、「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう:略して「簠簋内伝」)にある記述が著名ではある。『中国で道教の影響を受け、日本ではさらに神道の神である』素戔嗚『と習合した。これは牛頭天王も』素戔嗚『も行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は薬師如来とされた』。『平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが』、『祇園信仰の原形である。その祭礼を「祇園御霊会(御霊会)」と』称し、十『世紀後半』、『京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになった。祇園御霊会は祇園社の』六『月の例祭として定着し、天延』三(九七五)『年には朝廷の奉幣を受ける祭となった。この祭が後の祇園祭となる。山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もある。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られ、祭列として御霊会(あるいは天王祭)が行われるようになった』とある。

「津島の天王の信仰」愛知県津島市にある津島神社に対する信仰。陰暦六月十五・十六日(現在は七月第四土・日曜日)に行なう神事に厄流しの行事があり、「葦の神事」「みよしの祭」「みよし」と呼ばれ、葦数千本を束ね、川に流したが、現在は神符を川葭の簀(す)で巻いたものを流している。他に「御葭神事」としては、陰暦六月五日に尾張国(愛知県)の熱田社で行なわれていた行事があり、寛弘年間(一〇〇四年~一〇一二年)に疫病が流行し、村人が旗・矛などを捧げて、大神に疫病の鎮まるのを祈ったのが始まりとされる。熱田八ヶ村から山車(だし)が出て、川葭を池中に流す行事などがあった。現在は南新宮祭として行なわれている(以上は総て小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 流行病に對する不安は、本來は都會のものであつた。さうして又上代に於ても、やはり新たなる外來の文化と共に、先づ中心の地を目ざしたことは史證がある。夏の祭が田舍にももし古くからあつたとすれば、その最初の目的は別であり、方法も亦おのづから異つて居た筈である。それがどの程度に感化を受け、又どれだけ以前の心持を傳へて居るか。これを明らかにするのは田舍の生活について視るの他はないのだが、先生が町にばかり固まつて住んでござる結果、今まではとかく都市の知識によつて、全國を類推せられる傾きがあつて難澁した。今度の川童祭復興の噂は、この意味に於て我々の注意しなければならぬ話である。

 田舍の舊六月は水の神の祭り月であつた。これを天王樣とも祇園とも呼ぶのが普通になつて居るが、今でもその趣旨は他に色々とある。日が照り過ぎれば、植田の泥は柔らがず、梅雨が强く降れば插した苗も漂蕩《へうたう》する。川の堰や流れを飮水にしてをれば、每日の涸れ濁りを苦にしなければならぬ。惠みも惱みも一つ神の力であつた。日本はこれほどまでに水をよく使ひ、水に賴り切つた國民でありながら、どうして昔から水の祭が、こんなにいゝ加減なのかと訝かる人もあるやうだが、實はいゝ加減で無く、又「昔から」でも決してないので、單に水道などで顏を洗つて居る人が其方に冷かだつただけである。いはゆる御靈會《ごりやうゑ》系統の都市の祭でも、この月營まれるものは水の緣が深く、濱降《はまお》り神輿洗ひ泉の御旅所、さては船の中の伎樂《ぎがく》などと、すべて水の神の祭と態樣《たいやう》を同じくして居るのだが、何か理由があつたと見えて、その神を水の支配者とする信仰は、記錄の上にはまだ現れて居らず、人はたゞ夏だから又は涼しさうだから、位にしか考へて居ない。しかも惡い病の流行は每年のことでもないから、次第にその目的がはつきりとしなくなつて、町では涼み祭などといふ淸遊氣分が橫溢するやうになつたのは、勿體ない話だと私は思つて居る。

 前年神奈川縣の秦野で簡易水道を作つたときに、赤痢が流行つて大騷ぎをしたことがある。自分たちの目には水道の出來るのが、遲きに失した爲としか見えなかつたのに、土地では却つてこれが水神の御氣に入らなかつた罰のやうに、解した人が多かつた。町ではこの類の災禍と水に對する不謹愼とが、同時に起ることが稀でないので、昔もかういつた信仰解釋が行はれ、或は水の神をその怖ろしさの半面から、疫病の神と見るやうになつたのではなからうか。さうで無ければ天王と水の神との同じ日の祭、瓜を氏神の供へ物とする理由、殊に川童と胡瓜との約束が、祇園樣の日を期限とするわけが說明し得られぬのである。

 

          

 

 文學に川童が二度目の登場をしたのは泉鏡花さん、故芥川龍之介氏などの御骨折であつて、御兩所とも私たちの川童硏究から、若干の示唆を得たやうに明言せられて居るのは光榮の至りだが、遺憾に思ふことはまだ少しばかり、川童を馬鹿にしてござる。恐らく幼少の頃に見られた近代の繪空言の影響で、あれでは我々の胸に描く所の水の童子と、相去ること遠きは素より、普通の村の人の今考へて居るものよりまだ見つともない。やはり例の化競丑滿鐘(ばけくらべうしみつのかね)の類《たぐひ》の文學に、「かつぱと伏して泣きたまふ」などとしやれ飛ばした圖柄の、延長としか見られないのである。笑つちやいけませんといひたい位のものである。

[やぶちゃん注:「泉鏡花さん、故芥川龍之介氏などの御骨折」前篇に既出既注。

「化競丑滿鐘」曲亭馬琴作で、寛政一二(一八一〇)年一月、耕書堂蔦屋重三郎から板行された浄瑠璃正本形式を模した妖怪オール・スター登場の滑稽本。国立国会図書館デジタルコレクションの明治二〇(一九九七)年共隆社刊が、一段組で読み易く、挿絵もある。]

 尤もこれには川童の側にも責任があるかも知れない。彼は零落して行く精靈の常として、やゝ化物根性とでもいふべきものを發揮し過ぎる。水全般の信仰を守らうとはせずに、たゞ自分一箇の存在を主張する。淵や靈泉に對する敬不敬には構はず、いやしくも川童を否認しようとすれば乃ち出て嚇す、といふ風に考へられ勝であつた。さうして現在のところでは、その活躍の範圍が甚だしく限局せられ、それも段々に怖くなくならうとして居るのである。その滑稽化は寧ろ運命だつたといつてよい。しかも江戶末期に出たあの烏天狗一流の似顏畫の如きは、いはゞ或個人の幻覺であつて、二つ以上を引合せて見れば、すぐにその眞でなかつたことが判る。要するに困つたものが流行したのである。

 川童を水虎だ蝹《をん》だと話した人は、日本に居るものは何でもかでも、皆支那にもあるといふ謬見から、出發して居るのだから相談は出來ない。日本の實地からこの問題を考へて見ようとしたのは、以前に水虎考略といふ四卷の書があり、その第一卷だけが流布して居る。これには諸方の見取圖なるものが載せてあるが、鼻の低いもの、犢鼻褌《たふさぎ》をかいたもの、甲羅があつて四つ匐ひのものなどが、雜然として竝んで居て、實は空想のまだ統一して居なかつたことを立證する。見た出逢つたといふ者の陳述も又區々であるが、これにはなほ一貫した特徵のやうなものがあつて、奇怪とはいひながらも心の底から、古人のさう信じて居た數々の痕跡が尋ねられる。相撲を取りたがるなどといふもその一つである。東北で山人又は大人(おほひと)といふものを除くの外、そんな氣さくな化け物は他には居ない。人に近づき交涉を持たずには居られなかつた名殘かと思ふ。紫臀《むらさきげつ》その他の體質に特徵ある者が、特に引込まれ易いといふ口碑と、かの民間說話の川童が美しい娘に壻入したといふものとは、關係がありさうである。後者は汎《ひろ》く水の靈全體についてもある話で、それを恥とも不幸とも考へずに、舊家自らがそれを信じ傳へて居た時代もあつたのである。

[やぶちゃん注:「蝹(おん)」底本の字体は(つくり)が「溫」の(つくり)となったもの。「グリフウィキ」のこれ。これは「水蝹」で、「ケンムン」「ケンモン」と呼ばれる奄美群島に伝わる妖怪。当該ウィキが特異的に詳しく書かれてあるので読まれたい。それを読むに、少なくとも漢字の「水蝹」は、六朝時代(二二二年~五八九年)の代表的短編志怪小説集「幽明録」に出る、中国伝来の水の精霊ではある。

「水虎考略」先の「川童の話」で既出既注。

「犢鼻褌」褌(ふんどし)のこと。

「大人(おほひと)」山中に棲むとされた大男の妖怪「山男」の異名。

「紫臀」臀(しり)が紫色であることを言う。]

 それからこの水底の童子の援助の下に、家が富み榮えたといふ話も方々に傳はつて居る。無論傳說であつて、事實その樣なことがあつた證據にはならぬが、少なくとも或頃さう信じた者があつたことのみは推測せしめる。淵から膳椀を貸したのが不信用のため貸さなくなつたといふ類の、後年の絕緣を說く例は無數にある。つまりは今のやうに害ばかり企てるといふ以前に、接するにその道を以てすれば、恩惠を示した時代もあり、又その中間に惡戲をして、人を揶揄してゐた段階も長かつたのである。九州の方では殊に多いやうだが、川童が人間に害をせぬ約束をした話、もしくは馬を引込まうとして失敗し、詫びて怠狀《たいじやう》を書いたり、骨繼ぎの祕藥を敎へたりしたのも、五十や六十の例ではなかつた。畠の作物ことに瓜類を悅んで、夜分に出て來て食ひ荒すといふだけでなく、人もその初生《はつな》りを串などに刺して、畠の端に立てゝ機嫌を取つたといふのも、恐らく本來は供物であつた。それが又六月の川祭《かはまつり》の行事ともなつて居るのである。

[やぶちゃん注:「淵から膳椀を貸したのが不信用のため貸さなくなつたといふ類」柳田國男が拘った「椀貸伝説」との重合型である。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里』(十五回分割)で言及している。

「川祭」陰暦六月と十二月の水神祭。この名称は西日本に多い。六月は一日・十五日・晦日(みそか)などを祭日とするものが多く、祇園・天王・津島などの神社祭礼に結びついたものもある。十二月は一日が普通で、川浸り餅(かわびたりもち:「川浸り」とは川の水に尻を浸し、又、餅を搗いて、水神に供え、水難除けと豊漁などを祈るもの)を川に投げ、供える。]

 

          

 

 國學院大學の一部の若い學者が、この水道萬能の都の中に居ながら、なほ上代の水の神の神德を仰いで、出來るだけ古式に近い村里風の川祭を、每年の行事として經營して居るのは、單なる好事《こうず》のわざとは私には思はれない。かういふ感覺こそは復習をせぬと消えるからである。たゞ氣になるのは夏休の都合か何かで、新曆六月の畠の胡瓜も無い頃にくり上げたことで、溫室の小さな花落ち瓜ぐらゐでは、果して「川の殿《との》」が滿足せられるかどうかである。月夜と瓜畑は歷史ある我々の田園幻想に、缺くべからざる條件であつた。私などの生れ故鄕では、胡瓜は祇園さんを過ぎると食べるものでないといつて居た。

 ところが土地によつてはこれと反對にこの日をすませてからで無いと、食つてはならぬといふ處があり、或は又この滿月の一晝夜だけ、絕對に食はぬといふ習俗の村もある。つまりはこの頃が全國を通じて、ちやうど胡瓜のしゆんでもあり、又これを以て水の神に供進する節日でもあつたのである。祇園には御紋瓜《ごもんうり》の口碑もあり、瓜生石《うりふせき/うりふいし》の傳說も記憶せられて居るが、神と瓜との關係は今ではもう尋ね難くなつて居る。

[やぶちゃん注:「御紋瓜」胡瓜を輪切りにした際に出る独特の形を、例えば、春日大社の神紋と同じであることから、胡瓜の輪切りを忌み、或いは食物禁忌とすることを指す。この紋様がウリ類の中でも胡瓜(きゅうり)のそれであると名指されたことから、河童の大好物で、河童伝承のある地域では、胡瓜を食わないといった禁忌もあることから、以下の「瓜石伝承」とともに柳田は言及に及んだだけのことであろう。「御紋瓜」や「瓜生石」には直接に河童との強い連関伝承はない。

「瓜生石」知恩院の「瓜生石」がよく知られる。サイト「絶景かなドットコム」の『知恩院「瓜生石(うりゅうせき)」』を参照されたい。]

 これに反してこの禁忌を犯す者の制裁は、依然として水中童子の管理する所なのである。胡瓜を食つてその香のするうちは、川に泳いではならぬといふ土地もある。これに子供の名と年とを書いて、川に流すとガタロに尻を拔かれぬといふ所もある。それを天王樣に上げるといふ場合にも、畏れて居る相手はやはり川童であつた。

 胡瓜は胡(えびす)の瓜と書くが、この信仰は輸入で無く、又中頃からの發明でもないらしい。古くは匏(ひさご)と川菜とを以て水の神に供へ、又火鎭めの祭をして居る。備中縣守淵(あがたもりのふち)の舊傳にもあるやうに、今ある昔話にも瓢簞千を持つて池に嫁入し、これを沈めて下さつたら、私も入りますといふやうなのが多く殘つて居る。目的は單なる食物以上に、これを以て水の靈の、力を試みるにあつたらしいのである。

[やぶちゃん注:「備中縣守淵の舊傳」『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(19) 「河童ト猿ト」(2)』、及び、「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(37) 「河童の神異」(3)」で言及しており、私も注を附してあるので参照されたい。]

 我々日本人はまだ外國の傳染病も知らぬ頃から、既にこの神の怒《いかり》の半面を經驗し、畏れ愼んでこれに觸れまいとして居たのである。古風な多くの信仰は學問によつて裏切られたけれども、水の災《わざはひ》は現實になほ絕えず、他には優れた說明もない場合が田舍にはあつたので、妙にこの部分だけが孤立して永く傳はつた。それをかはるがはる嘲り笑つて居るうちに、終《つひ》に今の樣な滑稽な化け物にしてしまつたのは、國民として少しく心苦しい次第だ。

 農民の生活からいふと、今でも舊六月は水の惠みの豐かに溢れる月であると共に、家々の小さな不安の抑へ難い月でもある。その滿月の夜頃を中心として、心を引締める物忌の行(ぎやう)に入つて行く心持だけは、たとへ自分はこれに倣はぬまでも、もつとよく理解してやつてよかつたのである。今日まで來由を知り得ない六月朔日、東部日本では衣脫朔日(きぬぬぎのついたち)、もしくはむけの朔日などといふ日でも、越後では川童が天竺から下る日と稱し、九州南部では川童の龜の子配りといつて、龜の子が足らぬと人間の兒を算《かぞ》へ込むなどといつて居るのを見ると、やはり戒愼《かいしん》して水に入らぬ日であつた。夏物斷《なつものだ》ちと名づけて、この日は野菜を食はず、もしくは夕顏の下へ行くなといふのにも意味がある。六月晦日は又川濯(かはすそ)祭などといつて、私等の國では水の邊《べ》の祭としたが、西國ではこの日を又水に入らぬ日として居る例が多く、天草あたりではこれを川童供養の日のやうにも考へて居る。

[やぶちゃん注:「むけの朔日」「剝けの朔日」。]

 さうかと思ふと他の一方には、この日必ず海に浴するといふ土地もあれば、人は入らぬが牛馬だけは是非とも入れるといふ處もある。つまりは只の日ではなかつたのである。汎く全國の言ひ傳へを比べて見ることが出來ぬ限り、古い信仰は消えてしまはぬまでも、年を追うてをかしくなる一方であらう。それを食ひ止めて一通りは知つて置かうとすれば、どうしても都市の若い學徒の、共同の反省に待つより他は無いと思ふ。

 

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