柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 川童の渡り
[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。
注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。
なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和九(一九三四)年十月発行の『野鳥』初出である。]
川 童 の 渡 り
かういふ題を揭げても、川童を鳥だと思つて居る人が有るわけでは無い。むしろ或鳥類を川童だと思つて居る者のあることを報告して置きたいのである。私はもう大分以前に、宮崎縣の耳川流域でこの話を始めて聽いたのだ。が薩摩の川内川《せんだいがは》筋でも同じことをいふさうであり、南九州ではそちこちの人がこれを知つてゐる。川童は秋の末から冬のかゝりの、雨などの降る暗い晚にヒョンヒョンと細い鼻聲見たやうな聲で鳴いて濱の方から山手へ、空中を群をなして飛んで行くものださうな。それから春さきやゝ暖かくなつた頃、やはり同じやうな夜中に同じ路筋を逆に、山から海岸へ啼いて出て來る。だからガアラッパといふものは冬だけは山に入つて住んで居る者に相違ないといふ類の話で、今でも聽かうとさへすれば、隨分眞顏になつて敎へてくれる人があると思ふ。
[やぶちゃん注:「薩摩の川内川」熊本県最南部・宮崎県南西部及び鹿児島県北西部を流れ、東シナ海に注ぐ一級河川。九州では筑後川に次いで第二の規模を誇る河川であり、最上流部は熊本県、上流部は宮崎県、中下流部は鹿児島県に属し、薩摩川内市が最下流で河口となる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
眞暗な晚だといふから、無論姿を見た人は無いのである。それを川童の渡りと推斷するには、もう一つ別の根據が無くてはならぬ。だが、信じて聽かうとする者に取つては、古いといふことが實は一つの證據なので、成程近頃になつて始めてそんな事をいひ出したとしても、誰も耳を藉《か》さうとする人が無いことだけは確である。ところが一方には羽の音がするといふ人もある。さうして羽のある川童といふのは聽いたことも無いのだから、疑ふ人々はそれは一種の鳥であらうといふのだが、たゞ一種の鳥だけでは、私等でもまだ合點が出來なかつた。自分の友人では、石黑忠篤君などがその聲を聽いて居る。さうして誰かその道の人に、あれはムナグロといふ千鳥の群だといふことを敎へられたといつて居る。この點を私はもう一度、「野鳥」の問題にして見たいのである。果してムナグロがそんな聲で啼き又その季節にさういふ去來をする習性をもつものかどうか。私は繪でより外その鳥をじつと見たことが無いのだから當然その聲は耳にして居ないのである。川口君を始め九州の鳥に明るい人がこの會には多い。ムナグロならさういふ誤解を引起すかも知れぬと、いふ程度に迄でもこの問題を進めて置きたいのが私の願ひである。
[やぶちゃん注:「石黑忠篤」前の「川童の話」で既出既注。
「ムナグロ」同前。
「川口君」不詳。知られた鳥類研究家で民俗学者でもあった川口孫治郎(明治六(一八七三)年~大正一二(一九二三)年)がいるが、本篇の当時は既に逝去されており、違う。]
話はこれだけだが前以て御禮のしるしに、私の方でも判つて居ることを御參考にのべて置かう。鳥と人間との交涉が目標なら、こんな話でもまだ野鳥の會の領内だと思ふ。東京附近の人に考へさせると、川童がその樣に群をなして行動するといふことが既に一つの疑問であらう。この淵には居るといふ話があつても大抵は一頭で、畫に描いても又泉君芥川君が小說に書いても皆一つで濟ませて居る。ところが朝川善菴の隨筆に出て居る常陸の海邊の川童の如きは五頭か六頭か數は忘れたが、大分かたまつて漁夫の眼にふれたといつて居る。それから北へ行くと化けて女の所へ來たなどといふのは單獨だが、出逢つて見たといふ例は群になつて居る。寂しい水邊のよく川童の出て遊ぶ砂原には朝方通つて見ると無數に足の跡があり、それが小兒の足の如く又水鳥の趾痕《あしあと》のやうであつたともいつて居る。川童が出て來て角力《すまふ》を取らうといつた話は東日本に少なく西へ行くほど多いが、これも最初に出て來るのは一頭で、勝つてはふり投げても、わざと負けてやつても、後から後から仲間が加はつて來るといふ。姿を隱して始めから控へて居るらしいのである。九州の川童も人間を試みに來る時には矢張此方の樣に子供などに化けて一人で現れるのだが、一旦手に合はぬと見ると何處からとも無く多數の同勢を寄せ集めて來て、手取り足取りして相手を閉口させなければ止めない。それでゐて常は水の底に一ぱい居ても、丸で海月などのやうに透きとほつて少しも見えぬといひ、或は又形を變へることが自在で、馬の蹄で作つたほどの小さな水溜りにも、千匹ぐらゐは必ず隱れて居るといふ話もある。そんな都合のいい動物といふものが有る氣遣ひは無い。强いか强くないかは別問題として、かういふ出方をするからには化け物にきまつて居る。それが土地によつては數の力を以て我々を威迫するかの如く、以前から考へられて居たのである。
[やぶちゃん注:「泉君」泉鏡花。小説「貝の穴に河童の居る事」(初出は佐藤春夫主宰の『古東多万(ことたま)』昭和六(一九三一)年九月創刊号。初出は「貝の穴に河童が居る」であったが、昭和九年三月刊行の作品集『斧琴菊(よきこときく)』(昭和書房)に収録する際に改めた)等がある。旧「鏡花花鏡」のアーカイブ版の「277」番のPDFをお薦めする。近いうちに、オリジナル注附きで電子化する予定である。
「芥川君」言わずもがな、芥川龍之介の「河童」である。私は芥川龍之介作品の中でも、思い入れの強い作品で、
河童、及び、芥川龍之介 「河童」 やぶちゃんマニアック 注釈
の他、
芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史 ・同縦書版・【ブログ版】
や、お遊びの同作からの抽出、
などを公開している。なお、言っておくと、出版が本書の翌年だから仕方ないが、河童小説をソリッドに纏めた火野葦平の「河童曼陀羅」こそが、正しく筆頭に挙げられるべき正統なものと信ずる。私はとうに全篇の電子化注を終えている。未読の方はどうぞ!]
川童が冬は山に入つて山童《やまわろ/やまわらは》となるといふことを、今でも盛んに說くのは九州であるが、これは他の地方にも折々は聽く話である。山ワロは橘氏の西遊記にも出て居るやうに、裸で背高で擧動が鈍く、人の言葉はわかるが一言も物を言はず、力だけは山で働く人よりも强くて、材木をかついでその駄賃に提飯を貰つて悅んで還るといふやうな、いづれ怪物ではあらうが、かなり人間に近い逸話の持主でもある。それがヒョンヒョンと啼きながら空を飛んで行くなどといふのは、餘りとしても大膽な想像を描いたものだとも言はれるが、もともと左樣なものが全然居ないか、少くとも見たといふ人が、實は受賣であつたり、もしくは作りごとであつたりしたのだとなると、此方はまだ聲だけでも聽いて居るのだから根據がある。つまり雙方ともに、冬は山へ行くといふ古くからの言ひ傳へが、形をかへて新たに流布して居る迄のものらしいのである。紀州はドンガスだのガオロだのと、川童の異名の多くある地方であるが、それが又冬は山奧へ入つてカシャンボといふものになるといふ。靑い衣を着た少年の可愛らしい姿に見えるが、これが中々の惡戲で、人をからかつて仕方が無い。カシャグといふのも方言でくすぐることを意味するのだといふ人がある。さういふ徒《いたづ》ら者だが又一方には義理固い所もあつて、熊野も二川《ふたかは》村の何とかいふ舊家では、谷へ入つて來るカシャンボは一人づゝこの家の外へ來て、石を打《ぶ》つけて到着の知らせをするともいふ。吉野では川童を川太郞といふさうだが、これも冬になると山に入つて、山太郞となると傳へて居る。その山太郞はどんな事をする者かまだ判つて居ないが、肥後の人吉附近では山《やま》ン太郞は山の神だといひ、山神の祭文には近《ちか》山ン太郞、中山奧山の太郞各々三千三百三十三、合せて一萬に一つ足らぬ山太郞が、山に働く人々の祈願を叶へることを敍して居る。さうしてやはり亦冬の間だけ、川太郞が山に入つて山太郞になるといふ話もあるのである。山太郞の里へ下つて來る道筋は定まつて居た。二月朔日《ついたち》の朝早く或川の用水堰《ようすいぜき》の堤の上などに往《い》つて見ると、そこには必ず澤山の川太郞の足蹟があつた。長い三本の趾のすぐ後に踵《かかと》の跡があつて、人なら土踏まずといふ部分がまるで無かつたといふから、これもどうやら鳥類の足跡のやうに思はれる。
[やぶちゃん注:「橘氏の西遊記」江戸後期の医師で旅行家にして文人でもあった橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。「東遊記」とともに知られたものであるが、幕府の忌避に触れることを怖れ、削除・改変されたものが底本とされていたため、元原稿に極めて近いと思われる異本「西遊記」の写本は一九九一年刊の「新日本古典文学大系」版で初めて活字化されている。従って、国立国会図書館デジタルコレクションのものでは、例えば、「標註東西遊記 上」(平出鏗二郎・明治二八(一八九五)年版)では配置された位置が異なる(「卷之三」のここ)。それと、「新日本古典文学大系」版の本文を校合しながら、以下に電子化する。読点・記号と、一部に歴史的仮名遣で推定読みを添えた。
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山童(やまわろ)
九州、極、西南の深山に、俗に「山わろ」といふものあり。薩摩にても聞(きき)しに、彼(かの)國の「山の寺」といふ所にも、山わろ、多しとぞ。其形、大(おほき)なる猿のごとくにして、常に人のごとく立(たち)て步行(あり)く。毛の色、甚、黑し。此寺などには、每度來りて、食物を盜みくらふ。然れども、鹽氣(しほけ)有(ある)ものを、甚(はなはだ)嫌へり。杣人(そまびと)など、山深く入りて、木の大きなるを切出(きりいだ)す時に、峯を越へ、谷をわたらざれば、出(いだ)しがたくて、出しなやめる時には、此山わろに、握り飯をあたへて賴めば、いかなる大木といへども、輕輕(かろかろ)と引(ひき)かたげて、よく谷峯(なにみね)をこし、杣人のたすけとなる。人と同じく、大木を運ぶ時に、必ず、うしろの方に立(たち)て、人より先に立行(たちゆく)事を嫌ふ。飯をあたへて、是をつかへば、日々、來り手傳ふ。先(ま)ヅ、使(つかい)[やぶちゃん注:ママ。]終りて後に、飯をあたふ。はじめに少しにても飯をあたふれば、飯を食し終りて逃(にげ)去る。常には、人の害をなす事、なし。もし、此方(こなた)より是(これ)を打ち、或ひは、殺さんとおもへば、不思議に祟りをなし、其人、發狂し、或は、大病に染(そ)み、或は、其家、俄(にはか)に火もへ出(いづ)など、種々の災害起りて、祈禱・醫藥も及(およぶ)事、なし。此ゆへに、人みな、大(おほい)におそれうやまひて、手ざす事[やぶちゃん注:手出しすること。]、なし。
此もの、只、九州の邊境(へんきやう)にのみ有りて、他國に有る事を聞かず。冬より春、多く出(いづ)るといふ。』『冬は山にありて「山𤢖(やまわろ)」といひ、夏は川に住みて「川太郞(かはたらう)」といふ。』と、或人の語りき。然(さ)れば、「川太郞」と、同物にして、所によりて名の替(かは)れるものか。
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「山わろ」「山𤢖」「新日本古典文学大系」版脚注でも、以下と同じこと(「和漢三才図会」巻四十からの二つの引用)をしてあるのだが、ここは私の方が遙かに分がいい。何故なら、私にはサイト版『「和漢三才圖會」卷第四十 寓類 恠類』が既にあるからである。真似した訳でない証拠に、私の訓読の方が遙かに正確である。まずは、その「山𤢖」を見られたいが(図入り)、古い電子化(二〇一〇年)で表記に不満があるので、以下に原本を再確認して訓読文を修正して示す。
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やまわろ 【俗に「也末和呂」と云ふ。】
山𤢖
サン ツアウ
「神異經」に云ふ、『西方深山に人有り、長け丈餘、祖-身(はだか)にして、蝦・蟹を捕へて、人に就きて火に炙り、之を食ふ。名を山𤢖と曰ふ。其の名を自ら呼ぶ。人、之を犯せば、則ち、寒熱を發す。蓋し、鬼魅のみ。惟だ、爆竹の煏-𤉖(ばちつ)く聲を畏る。』と。
△按ずるに、九州の深山の中に山童(やまわろ)と云ふ者有り。貌、十歳許りの童子(わらべ)のごとく、遍身、細毛、柹褐色、長髮、面(かほ)を蔽ふ。肚(はら)、短かく、脚、長く、立行(りつかう)して、人言(じんげん)を爲して、䛤(はやくち)なり。杣人、互に怖れず、飯・雜物を與へれば、喜びて食ふ。斫木(しやくぼく)の用を助け、力、甚だ强し。若し之に敵すれば、則ち大いに災ひを爲す。所謂、山𤢖の類の小者か【川太郞を川童〔(かはわろ)〕と曰ひ、是れを山童と曰ふ。山・川の異にして同類の別物なり。】。
「川太郞」同前でリンク先から修正して引く。
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かはたらう
川太郞
一名川童(かはらう)【深山に山童有り。同類異なり。性、好みて人の舌を食ふ。鐵物を見るを忌むなり。】
[やぶちゃん字注:「川童」のルビは潰れており、判読が難しい。「カハワラ」とも読めなくもない。]
△按ずるに、川太郞は、西國九州、溪澗池川に多く、之れ、有り。狀(かた)ち、十歳許りの小兒のごとく、裸-形(はだか)にて、能(よ)く立行(りかう)して人言(じんげん)を爲(な)す。髮毛(かみのけ)、短く、少(すこし)、頭の巓(いただき)、凹(へこみ)、一匊水(いつきくすい)を盛る。毎(つね)に水中に棲みて、夕陽に、多く河邊(かはべ)に出でて、瓜・茄(なすび)・圃-穀(はたけもの)を竊(ぬす)む。性(せい)、相撲(すまひ)を好み、人を見れば、則ち、招きて、之(これ)を比べんことを請(こ)ふ。健夫有りて之に對するに、先づ、俯仰(ふぎやう)して、頭を揺(ゆら)せば、乃(すなは)ち、川太郎も亦、覆仰(うつふきあをむ)くこと、數回(すくわい)にして、頭(かしら)の水、流れ盡(つく)ることを知らず、力、竭(つ)きて仆(たを)る[やぶちゃん注:ママ。]。如(も)し、其の頭、水、有れば、則ち、力、勇士に倍す。且つ、其の手の肱(かひな)、能く左右に通(とほ)り脱(ぬけ)て、滑-利(なめら)かなり。故に、之れを如何(いかん)ともすること能はざるなり。動(ややも)すれば、則ち、牛馬を水灣(すいわん)に引入(ひきい)れて、尻より、血を吮(す)ひ盡くすなり。渉-河(さはわたり)する人、最も愼むべし。
いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏(うぢ)は菅原
相傳ふ、『菅公、筑紫に在りし時に、所以有りて、之れを詠せらる。今に於て、河を渡る人、之れを吟ずれば、則ち、川太郞の災(わざはひ)、無しと云云。』と。偶々、之れを捕ふる有ると雖も、後の祟(たゝり)を恐れて、之れを放つ。
*
なお、サイト版『「和漢三才圖會」卷第四十 寓類 恠類』の「川太郎」の項には、私の、当時としては、纏まった河童についてのかなり長い注があるので、是非、見られんことを望む。]
それから今一つ川童の聲のことであるが、私たちの知つて居るのは、人間の子供に化けて來る時だから、無論日本語のしかも方言で、泳ぎに行かうやとか角力を取らうやといふのだが、それでも不審に思つて聽き返すと次第に判らなくなり、しまひにはキキーといふ聲ばかり高くなるといふ。或は角力を取つてこちらが負けると嬉しがつて、そこでもこゝでもキキーといふ猿のやうな聲をするので、始めて川童につかれて居ることを知るのだともいつて居る。ところが秋の終りと春の初めに、暗夜に空を飛んで山に出入するといふ土地だけが、そんな低い淋しい聲で、ヒョンヒョンと啼くといつて居るのである。どうしてその樣な一致せぬ話が、僅な地域の間に併存して居るのか。どちらも誤解であらうと言つてしまへば濟むだらうが、それにしたところで昨今の誤解では無いのである。日向では川童を又ヒョウスンボといふ者が多く、それはこの啼聲から出た名だと今でもいふが、百數十年以前の水虎考略にもその事は既に述べてあるのみならず、一方には太宰府の天滿宮境内を始めとし、川童を社に祀つてヒョウスヘの神といつた例は九州に數多く、又そのヒョウスヘの神の名を唱へて、川童除けの呪文とした歌は全國に流布して居る。卽ち曾て或一種の冬鳥の渡りの聲を聽いてそれを水の靈が自ら名のる名の如く思つた者が、かなり古くからあつたことが推測せられるのである。鳥の習性には、時代の變化が尠《すくな》く、同じ現象は何千年もくり返されて居るだらうが、たゞそれだけでは無論こんな俗信は發生しない。今でも田の神が春は山より降り、秋の收穫が終ると再び歸つて山の神になるといふ信仰が、國の隅々に殘つて居るやうに、神は年每に遠い海を越えて、島の我々を幸福にしようとして、訪れ來るものといふ考へが、夙《はや》くから渡り鳥の生態を極度に神祕化して居たのであつて、川童もムナグロの聲も、いはゞ無意識に保存して居た古い記錄の消え殘りに他ならぬのでは無からうか。
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