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2023/03/31

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 野生食用果實

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、この前にある「鄕土硏究一至三號を讀む」は、単発考証の集合体であるため、本書の最後に回して、分割して電子化することとした。

 

     野生食用果實 (大正二年六月『鄕土硏究』第一卷第四號)

 

 一八七七年初板「リュイス・エチ・モルガン」の「古代社會論」四章に、北米「イロクイス」族が全く耕稼《かうか》[やぶちゃん注:「耕作」に同じ。]を知なんだ時に、其發展に大必要だつた食料を擧《あげ》た。第一に、麪包根(カマツシユ)とて豆科の草根《くさのね》、丁度、吾國の窮民が豆科の「ほど」の根を食ふやうな物。第二に、夏中、諸《もろもろ》の漿果(ベリース)、多かつた。次に川に鮏《さけ》と介類と、斯《か》ふ揃つて居たので、「コロムビア」谷は穀物知らぬ民族の樂土だつた、と見える。吾邦にも、田畑無い處では、魚介鳥獸の外に、草木の根・葉・芽・莖から、皮までも、食《くつ》たに相違無い。其等《それら》草木の名は、故伊藤圭介翁が「救荒雜記」とか題して、官報へ出した物を見ると大抵分かると思ふ。

[やぶちゃん注:『「リュイス・エチ・モルガン」の「古代社會論」忌まわしい白人優位主義者であったアメリカの文化人類学者ルイス・ヘンリー・モーガン(Lewis Henry Morgan 一八一八年~一八八一年)の‘Ancient Society’ (一八七七年・ニュー・ヨークにて出版)。「Internet archive」で原本の“PART  IV”は“GROWTH  OF  THE  IDEA  OF  PROPERTY”(「所有権の概念の発達」)はここから。

『北米「イロクイス」族』イロコイ族(Iroquois:アメリカ・インディアンの言葉で「毒蛇」を意味する語と、フランス語の語尾を合成したもの)。アメリカ・インディアンの一種族で、北アメリカ東部森林地帯に居住し、十六世紀以後、五部族を統合し、政治的連合としての部族集団「イロコイ連邦(同盟)」を形成した。詳しくはウィキの「イロコイ連邦」を読まれたい。「イロコワ族」とも呼ぶ。

「麪包根(カマツシユ)とて豆科の草」熊楠はマメ科(被子植物門双子葉植物綱マメ目マメ科 Fabaceae)と言っているが、全く違って、アスパラガスの仲間である。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ(クサスギカズラ)科 Agavoideae亜科カマッシア属Camassia(タイプ種カマッシア・クアマッシュCamassia quamash)である。北アメリカ原産で、同属は湿った牧草地に自生する。英文のタイプ種のウィキによれば、カマッシア属の種の球根は、ローストしたり、煮たりすると、食用になり、栄養価も高くなる旨の記載があった。カマッシアが食用になることは、邦文の花言葉情報サイト「華のいわや」の「「カマッシア」の花言葉とは?花言葉を徹底解説」の中にも書かれてあり、『「カマッシア」の和名はヒナユリ(雛百合)といいます』。『雛は雛人形を表し、人形が使うサイズのような小さいものに一般的に付く言葉で、「カマッシア」の場合は花の小ささから付いたものです』。『「カマッシア」というのは、アメリカ先住民のチヌーク族が「カマス」「カマッシュ」と呼んでいた事から付いた名前です』。『現地では低湿地に群落を形成し、草原全体が花の色で染まるそうです』。『ユリ科に共通する鱗状の球根は、有毒ですが』、『デンプン質で甘味があるため、貴重な食糧や非常食として利用されました』。『毒の処理が必要で農薬も使われている事から、実際に食べるのはやめましょう』と注意書きがあった。

「漿果(ベリース)」“berry”(ベリー)の複数形“berries”の音写。小さく多肉質・多汁質で、しばしば、食用とされる果実のこと。

「鮏」硬骨魚綱サケ目サケ科サケ属サケ(シロザケ)Oncorhynchus keta 。北太平洋と北極海の一部を棲息地とする。

「介類」アメリカの淡水貝には詳しくないが、古異歯亜綱イシガイ目 Unionoidaの内の大型二枚貝類であろう。英文ウィキの「Unionida」を見て戴くと判るが、長い年月、真珠層を得るために多量に漁獲されてしまった結果、北米では、同目の七十%が絶滅し、残りの種も絶滅が危惧されるまで個体数が減っている。但し、そちらにもある通り、淡水真珠を得るために養殖で増やすことに成功した種もある。それほど旨くはないと思うが、インディアンたちは食用にしたであろう。

『「コロムビア」谷』カナダのブリティッシュコロンビア州およびアメリカ合衆国太平洋岸北西部を流れる、カナディアン・ロッキーに源を発するコロンビア川(Columbia River)の形成した非常に規模の広い峡谷。川自体は、ウィキの「コロンビア川」を参照されたいが、『ザ・ダルズとポートランドの間で、コロンビア川はカスケード山脈を横断し、雄大なコロンビア川峡谷を形作る』とある。また、そこには、かの「マンハッタン計画」以来、半世紀間に亙って『操業したハンフォード・サイトのプルトニウム生産炉による放射能汚染が深刻な問題となっている』とあった。別にウィキの「コロンビア川峡谷」Columbia River Gorge)があり、そこのこの地図で狭義の峡谷の位置が判る。

「伊藤圭介」理学博士で男爵の伊藤圭介(享和三(一八〇三)年~明治三四(一九〇一)年)。幕末から明治期に活躍した植物学者で、「雄蘂」「雌蘂」「花粉」といった植物学用語を創ったことでも知られる。詳しくは、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 16 本草学者伊藤圭介との邂逅」の私の注を見られたい。「救荒雜記」不詳。しかし熊楠は「とか題して」と言っているので、これは思うに、「救荒食物便覽」(天保八(一八三八)年述・門人二人による編)のことではないか。思ったより、簡便な表形式のものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで見られる。]

 紀州では到る處、今も小兒が「椎、櫧《かし》、柴の實、くへぬ物はどんぐり」と唱へて遊ぶ。蒙昧の代《よ》に、親子、森林に食料果實を求むる時、斯樣な句を唱へて子供に訓《をし》へた遺習であらう。二年前、既《すんで》の事、伐《きら》るゝ處を、予が其筋と公衆に訴へて漸く免れた那智瀧の水源、寺山《てらやま》も、「紀伊續風土記」卷八十に、『其廣さ、大抵、二里四方と云ふ。四十八瀧、多く寺山の内に在り、且つ、此處、一の瀧の源なれば云々、其區域、廣大なるに、他木を植《うゑ》ずして、一面に樫木ばかりを植たり。其故は、樫木は、冬、凋《しぼ》まざる故、四時、鬱蓊《をううつ》[やぶちゃん注:「鬱蒼」に同じ。]として靈山の姿を表《あらは》すべく、且つ、瀧の源水を蓄ふるに宜しくして、材木の用に非ざれば、伐り荒らす害、無し(所が、近時、樫も、其材、用、多く、價格、出で來り、種種《いろいろ》、奸計して伐悉《きるつく》さうとする事と成《なつ》て來た)。從來、色川《いろがは》の村々は、山中に栖《すん》で、食物の乏《とぼし》きを憂ひ、山稼《やまかせ》ぎを專らにする者なれば、年々、寺山にて樫の實を拾ひて、食料の助けとす。大抵、家每に拾ひ得る事、十俵より十五俵に至るを常とす。鄕中の所得を考《かんがふ》るに、一歲の總高、千二、三百石に至ると云ふ。然《しか》れば、材木の用を成《なさ》ざれども、食料となる事、大なる益と言ふべし。」と出づ。

[やぶちゃん注:「椎」ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の樹木、或いは、近縁のブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis かも知れぬ。

「櫧」「樫」に同じ。ブナ目ブナ科 Fagaceae の常緑高木の一群の総称。ウィキの「カシ」によれば、狭義にはコナラ属Quercus中の常緑性の種をカシと呼ぶが、同じブナ科でマテバシイ属のシリブカガシもカシと呼ばれ、シイ属 Castanopsis も別名でクリガシ属と呼ばれる。この類は渋み成分のタンニン類が含まれているため、灰汁抜きが必要である。

「柴の實」ツツジ目ツツジ科スノキ(酢の木)亜科スノキ属アクシバ(灰汁柴) Vaccinium japonicum 。果実は直径五ミリメートル球状の液果で、赤色に熟す。食用になる。

「どんぐり」広義にはブナ科の果実の俗称で、狭義にはクリ・ブナ・イヌブナ以外のブナ科の果実、最狭義にはブナ科のうち特にカシ・ナラ・カシワなどコナラ属樹木の果実の総称を指す。但し、灰汁抜きをすれば、所謂、「どんぐり」類は食用になる。縄文時代から食されてきた。

「寺山」これは以下の「紀伊續風土記」の引用の引用前の部分に、『寺山は那智山の奥の總名にして鎌は那智境内四至の外にもあり。』とある。「ひなたGPS」で戦前の地図を見ても、「寺山」という地名自体は見当たらない。

『「紀伊續風土記」卷八十に、……』国立国会図書館デジタルコレクションの同書の活字本の「第三輯」の「牟婁 物産・古文書・神社考定」(仁井田好古 等編・明治四三(一九一〇)年帝国地方行政会出版部)のこちら(「牟婁郡第十二」の「色川鄕」の「○寺山樫ノ木」の条の一節。ここの右ページ上段の二行目以降で視認出来る

「色川の村々」先と同じ「ひなたGPS」で戦前の地図を参照されたい。東端に『色川村』が確認出来る。現在は、那智山の北西部に和歌山県東牟婁郡那智勝浦町口色川くちいろがわ)として名が残る(グーグル・マップ・データ)。]

 扨、問(一七)[やぶちゃん注:「選集」に編者割注があり、「『郷土研究』一巻三号」とある。]の質問者が知つて居ると云ふ栗と椎(と「まてば椎」)の外に、山の中で食べる樹の實、予が知た丈《だけ》を爰《ここ》に錄す。?を附したのは、予が試みに食《くつ》て何の害も無《なか》つたが、果して他人も食ひ得るか分らぬ物だ。又、喬木に限らず、灌木・亞灌木・木質の蔓生、又、攀緣《はんえん》、又、匍匐植物の實も名を出《いだ》す。

[やぶちゃん注:「攀緣」崖や樹木の幹に絡みついたり、附着する形でそれらを登攀する植物群を指す。]

 其名に云《いは》く、かや、いちい、まき、てうせん松、くるみ、やまもゝ、はしばみ、つのはしばみ、ぶな、いぬぶな(?)、かしは、くぬぎ、こなら、其他、櫧《かし》屬數種、むく、えのき、桑、いぬびは、くわくわつがゆ、やなぎいちご、つくばね、あけび、みつばあけび、むべ、めぎ(?)、やしほ、さくら、いぬざくら、うわみづざくら、ふゆ苺、かぢ苺、くま苺、あは苺、なはしろ苺等の木本苺、かまつか、うらじろのき、びわ、しらき、がんかうらん、とち、なつめ、けんぽなし、がねぶ、のぶだう(紀州鉛山《かなやま》温泉邊で、此果を「藤次郞」と呼び、「之を食ふと、齒、落ちる。」と云ふ。和歌山市でも、齒無き人を、「齒拔け藤次郞」と嘲稱す)、さんかくづる、ひさかき(?)、さるなし、またゝび、みやままたゝび、ぐみ數種、やまぼうし、あくしば、いはなし、こけもゝ、つるこけもゝ、あかもの、くろまめのき、しらたまのき、しやしやんぼ、くこ、にわとこ(?)、がまずみ、うぐひすかずら。先づ、こんな物ぢや。

[やぶちゃん注:やって呉れちゃいましたね、熊楠先生。おう! 受けましょうぞ!!!

「かや」榧。裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera当該ウィキによれば、『種子は食用となり、焙煎後の芳香から「和製アーモンド」と呼ばれることもある』。『生の実はヤニ臭くアクが強いので、数日間アク抜きしたのち煎るか、クルミのように土に埋めて果肉を腐らせて取り除いてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯で茹でるなどしてアク抜き後に乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある』。古くは『カヤの実には戦場のけがれを清浄なものにする力があるといわれ、武士が凱旋した際には搗栗(かちぐり)とともに膳に供えられた』とあった。私も食したことがある。以下、私が食べたことがある場合は文末に「◎」を添え、食べたことがないものには「✕」を添える。

「いちい」櫟。裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata 当該ウィキによれば、『果肉を除』いて、『葉や植物全体に有毒』の『アルカロイドのタキシン(taxine)が含まれて』おり、『種子を誤って飲み込むと』、『中毒を起こす。摂取量によっては痙攣を起こし、呼吸困難で死亡することがあるため注意が必要である』が、『果肉は甘く』、『食用になり、生食にするほか、焼酎漬けにして果実酒が作られる』。『アイヌも果実を「アエッポ(aeppo)」(我らの食う物)と呼び、食していたが、それを食べることが健康によいという信仰があったらしく、幌別(登別市)では肺や心臓の弱い人には進んで食べさせたとされ、樺太でも脚気の薬や利尿材として果実を利用した』とある。◎。

「まき」真木。裸子植物門マツ綱マツ目マキ科 Podocarpaceae の複数の種を指すが、「マキ」という種は存在しないウィキの「マキ科」によれば、『マキ属』(Podocarpus:マキ科の中でも最大のグループで百種余りを含む。イヌマキ(Podocarpus macrophyllus)が日本にも分布する)『のイヌマキ』『の果実には少量なら食べられるものもあるが、一般に種子は細胞毒性を持ち』、『有毒である。葉や花粉も有毒で、これらはイチイ科』(Taxaceae:櫟は前揭)『にも共通である。特に花粉はアレルギーの原因となることがあるとされる。毒成分の一つがラクトン類であり、生薬として利用されることもある』とある。✕。

「てうせん松」「朝鮮松」はマツ目マツ科マツ属 Strobus 亜属 Cembra 節チョウセンゴヨウ(朝鮮五葉) Pinus koraiensisの異名。種子は、所謂、「松の実」として利用される。◎。

「くるみ」胡桃。双子葉植物綱ブナ目クルミ科クルミ属 Juglans 。本邦に自生するクルミ属マンシュウグルミ変種オニグルミ(鬼胡桃)Juglans mandshurica var. sachalinensis や同じく変種ヒメグルミJuglans mandshurica var. cordiformisは、実が小さく、殻が割り難いが、縄文時代以来、食用にされている。◎。

「やまもゝ」山桃。ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra 。◎。私の好物である。勤務した横浜翠嵐高校の正面の二階教室寄りに何本も植わっていて、テラスに実が溜まって、自然発酵し、甘ったるい酒のようなそれが、よく匂ってきたものだった。

「はしばみ」榛。ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種ハシバミCorylus heterophylla  var. thunbergii 。国産のハシバミの実は「和製ヘーゼルナッツ」とか、「国産ヘーゼルナッツ」などと呼ばれ、流通している。◎。

「つのはしばみ」角榛。ハシバミ属ツノハシバミ変種ツノハシバミCorylus sieboldiana var. sieboldiana 当該ウィキによれば、『堅果は黄褐色に熟したら食用になる。果実を採取し、刺毛に気をつけながら』、『総苞を剥いて』、『堅果を取り出し、堅果の殻から取り出したナッツを食用にする。脂肪に富み美味で、渋みがなく』、『生でも』、『煎っても食べられ』、『茶碗蒸しや煮物、すり潰して』、『和え物や菓子などの原料にも用いられる』とある。山奥の温泉宿に行った際に、料理として出たのを食べた経験がある。◎。

「ぶな」「椈」或いは「橅」。ブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata当該ウィキに、『果期は秋』(十 月から十一月)』で、『果実は総苞片に包まれて』十月頃に『成熟し』、『その殻斗が』四『裂して散布される。果実(堅果)は』二『個ずつ殻斗に包まれて』おり、『断面が三角の痩せた小さなドングリのような』形態を持つ。『しかし』、『中の胚乳は渋みがなく』、『脂肪分も豊富で美味であり、生のままで食べることができる。なお、ブナの古名を「そばのき」、ブナの果実を「山そば」「そばぐり」というのは、果実にソバ(稜角の意の古語)がある木、山で採れるソバ、ソバのある栗の意である』とある。私は教師時代の初め、ワンダー・フォーゲル部の顧問をしていた頃、先輩教師が教えてくれ、食したことがある。◎。

「いぬぶな(?)」犬椈。ブナ属イヌブナ Fagus japonicaサイト「GKZ植物事典」の同種のページに、『属名は、ギリシャ語で「食べる」の意』で、『ヨーロッパでは果実を食用』とし、『また、家畜の飼料にも用いたことによる』とあった。✕。

「かしは」柏。ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata 。サイト「森と水の郷あきた」(あきた森づくり活動サポートセンター編)のこちらに、本種を『救荒植物の一つ』と題して、『ナラ類のドングリと並び、飢饉の際の救荒植物として利用された。ただし、タンニンを含むため渋いので、渋抜きしないと食べられない。実は粉に挽き団子にして食べたり、炒ってコーヒーの代用にもされた』とある。葉はお馴染みだが、実の方は食べたことはない。✕。

「くぬぎ」漢字は「櫟」(先に出たイチイと同じだが、全くの別種)の他「椚」「橡」(トチノキ(後掲)と同じだが、全くの別種)「椚木」などと書く。ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima当該ウィキによれば、狭義には「ドングリ」は、この『クヌギの実を指』し、『地方によってはクヌギのことを、ドングリノキ』と呼ぶとあり、『実は爪楊枝を刺して独楽にするなど』、『子供の玩具として利用される』。『また、縄文時代の遺跡からクヌギの実が土器などともに発掘されたことから、灰汁抜きをして食べたと考えられている』とある。私はとある縄文体験学習で、灰汁抜きしたそれを食したことがある。◎。

「こなら」小楢。ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata。本種はタンニンが多く含まれ、渋みが強く、流水で晒したり、灰汁とともに煮沸するなどの手を加えないと食せないと、「東京学芸大学」公式サイト内の「『学芸の森』植物情報」の同種のページの解説にあった。✕。

「櫧屬」「選集」のルビを参考に添えたが、この単漢字は、教義にはコナラ属アカガシ亜属 Cyclobalanopsi アカガシ(赤樫) Quercus acuta を指すから、ルビは「あかがし」が正しいことになろうか。当該ウィキには、『果実は堅果、いわゆる「どんぐり」で、殻斗に褐色の毛があり、翌年の秋に熟すと食べられる』とあるが、食用した記憶はない。✕。

「むく」双子葉植物綱バラ目アサ科ムクノキ属ムクノキ Aphananthe aspera 。当該ウィキによれば、『果期は』十月頃で、『熟すと』、『黒紫色になり、乾燥して食用になり、味は非常に甘く美味である』とある。山間の土産物として買って食したことがある。◎。

「えのき」榎。バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis 。身近な木だが、実を食したことはない。調べると、サポニン(saponin)を含むので、ちょっとやめた方がよさそうだ。✕。

「桑」バラ目クワ科クワ属 Morus であるが、本邦の山に多く自生するのは、ヤマグワMorus bombycis 。私の大好物。「どどめ」と呼ばれるそれを、小さな頃は裏山でとって食べたのを思い出す。美味いけれど、唇や舌が強力な紫色に染まり、習合果の粒々の間の毛が、舌にイライラしたのものだった。◎。

「いぬびは」犬枇杷。バラ目クワ科イチジク連イチジク属イヌビワ Ficus erecta var. erecta 。果嚢は甘く、食用になる。少年時代、鹿児島の母の実家(鹿児島県曽於市大隅町岩川。グーグル・マップ・データ航空写真。私の祖父はこの中央にあった志布志線岩川駅前で歯科医を開業していた)に行った際、山で採って食べた。美味かった。◎。

「くわくわつがゆ」現代仮名遣では「かかつがゆ」で「和活が柚」と書く。クワ科ハリグワ属カカツガユMaclura cochinchinensis 。小学館「日本大百科全書」によれば、『別名ヤマミカン。大きなものは高さ』十『メートル、径』十『センチメートルにもなる。枝や葉は乳液を含む。葉腋(ようえき)に長さ約』一・五『センチメートルの刺(とげ)を生じ、刺は針状か』、『逆さに曲がって』鈎針(かぎばり)状を成す。『葉は互生し』、『柄があり、長楕円』『形ないし倒卵形で長さ』は四~七『センチメートル、全縁で薄い革質』を呈する。『球形の頭状花序は』一~二『個で腋生し、雌雄異株。集合果は径約』二『センチメートル、黄色に熟し』、『若葉とともに生食できる。材や根は黄色染料とする。本州南西部から四国、九州、沖縄の丘陵地に生え、東南アジア、インド、オーストラリア、東アフリカに分布する』とあった。正直、この和名自体を聴いたことがなかった。✕。

「やなぎいちご」柳苺。バラ目イラクサ科ヤナギイチゴ属ヤナギイチゴ Debregeasia orientalis 。小さな頃、「木苺(きいちご)」と呼び、裏山でクワの実と同じく、よく食べたものだったが、最近はとんと見ない。◎。

「つくばね」衝羽根。双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ツクバネ属ツクバネ Buckleya lanceolata当該ウィキに、『果実』の写真が載り、そのキャプションに『落下する時、羽根つきの羽根のようにクルクル回転する』とあるのが、和名の由来である。解説には『若葉は食用にできる。また若い果実も塩漬けにして食用にできる』とあるが、私は食したことはない。✕。

「あけび」木通。キンポウゲ目アケビ科アケビ属アケビ Akebia quinata 。小学生時代、向かいの寺のイチョウの木に、沢山、成った。寺の敷地にあった長屋に住んでいた、私を可愛がってくれたお兄さんが、季節(九~十月)になると、次のミツバアケビを含めて、沢山、採ってきて呉れた。私の大好物だったが、今、スーパーで売られているのを見ると、私は、何だか淋しい気がして、一度も買ったことがない。少年期の至福が壊される気がするからであろうか。

「みつばあけび」三葉木通。アケビ属ミツバアケビ Akebia trifoliata 当該ウィキによれば、『アケビよりいくらか山奥に生え』、『アケビに比べて育成地域が広く、荒れ地や乾燥地でも旺盛に繁殖する』。『果実がアケビよりも大きくなることから』、『果樹としても栽培される』とあった。今、売られているのは、こちらか。◎。

「むべ」郁子。野木瓜とも書く。アケビ科ムベ属ムベ Stauntonia hexaphylla 。昔、教員の大先輩が農家の出で、家で成ったものを頂戴したことがある。アケビと同じで、甘いのだが、種がやたらに多かった。◎

「めぎ(?)」目木。キンポウゲ目メギ科メギ属メギ Berberis thunbergii 。当該ウィキの画像を見ると、山でよく見かけたことはあるが、見るからに、ちょっと食指が動かなかった。✕。

「やしほ」「八潮」で、双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron のヤシツツジ類(アカヤシオRhododendron pentaphyllum var. nikoense・シロヤシオRhododendron quinquefolium・ムラサキヤシオツツジRhododendron albrechtiiの総称)か? 花は孰れも山行で見かけたことはあり、蜜を吸ったことならあるが……調べて見ると、ツツジ類は花が食用花となるらしい。✕。

「さくら」桜。双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜サクラ属 Cerasus 若しくはスモモ属 Prunus亜属(上位分類をスモモ属とした場合)サクラ亜属  Cerasus のサクラ類となるが、普通の日本人なら、ソメイヨシノ(染井吉野)Cerasus × yedoensis ‘Somei-yoshino’を想起する(同種は♀を本邦に自生するエドヒガン(江戸彼岸)Cerasus itosakura と、♂を日本固有種のオオシマザクラ(大島桜)Cerasus speciosaの雑種とする自然交雑若しくは人為的な交配で生まれた日本産の栽培品種である)。ここは塩漬けの花(桜湯・桜茶)や葉を指して挙げているものと思われるが、葉の場合は、オオシマザクラが適切とされ(芳香成分クマリン(coumarin)が他の種では発生し難いことによる)、花のそれは、花びらの重なりが多いカンザン(関山:Cerasus Sato-zakura  Sekiyama)がよいとされる。因みに、ソメイヨシノは葉も花も旨味はないという。以上の加工品なら、◎である。小学生の頃、学校のソメイヨシノの実をふざけて食べたが、甚だ不味かった。その点でも◎ではある。

「いぬざくら」犬桜。サクラ属イヌザクラ Prunus buergeriana個人ブログ「風の囁き」の「ウワミズザクラとイヌザクラの実」に、本種は『熟すと』、『黒紫色になり』、『果肉には苦みがある。果実酒には向かないのでは?と思います』とあるから、アウトだろう。✕。

「うわみづざくら」上溝桜(うわみずざくら)。バラ科ウワミズザクラ属 Padus 若しくはサクラ属 PrunusウワミズザクラPadus grayana 若しくは Prunus grayana 。同前の記事で、『黒く熟し』、『食べられる。果実酒にすると』、『香りと色が良い』とあるから、OKで、当該ウィキにも、『香りのよい、若い花穂と未熟の実を塩漬にしたものは杏仁子(あんにんご)と』称し、『新潟県を中心に食用とされる』。『また、黒く熟した実は果実酒に使われる』とあった。今度、新潟へ行ったら、探してみよう。✕。

「ふゆ苺」冬苺。バラ亜科キイチゴ属フユイチゴ Rubus buergeri 。山行で採って食べた。◎。

「かぢ苺」現代仮名遣「かじいちご」。「溝苺」「梶苺」。キイチゴ属カジイチゴ Rubus trifidus当該ウィキの写真を見たところ、どこかの家の庭で見かけたことはある。そちらに実が食用となるとあった。✕。

「くま苺」熊苺。キイチゴ属クマイチゴ Rubus crataegifolius 当該ウィキによれば、『茎は』一~三メートルに『に達し、直立するか傾斜する』。『キイチゴ属の中では大型な』種で、『茎は赤紫色で赤黒っぽい斑点があり、毛がなくて刺が多い。葉には長さ』二~五センチメートルの『葉柄があり』、『鉤形の刺をもつ。葉身は広卵形でややモミジ状に裂け、表面には伏毛があり、裏面の葉脈には』これまた、『刺がある』とあり、『果実は』六『月ごろに赤く熟し』、『食用になる』とある。そして、『丈夫な茂みを形成するので、このヤブに入り込むと痛いめに遭う』ともあった。私も、少年時代、裏山で、実を採ろう入り込んで、コヤツにイタい経験をさせられたものであった。◎。

「あは苺」泡苺。キイチゴ属ナガバモミジイチゴ変種モミジイチゴ Rubus palmatus var. coptophyllus の異名。木苺の定番。僕らは「黄いちご」と呼んでいた。文句なしに美味い。◎。

「なはしろ苺」苗代苺。キイチゴ属ナワシロイチゴ Rubus parvifolius 。当該ウィキに、『花期は』五=六月で、『日当たりの良いところに生え、雑草的に生育する。赤紫色の花をつける。果実は食用になり、生食には向かないが、砂糖を加えてジャムにすると美味』とある。『苗代の頃に赤い実が熟すため、この名がある』とあった。見たことはあるものの、ジャムにしたことはないから、✕。

「木本苺」イチゴ類の中で、「木本(もくほん)」類に分類される「苺」、以上のキイチゴ属  Rubus の総称。以上の種以外も載る、渡辺坦氏のサイト「植物の名前を探しやすい デジタル植物写真集」の「イチゴ類(バラ科)」を参照されたい。但し、それらが総て食用になるかどうかは、関知しない。

「かまつか」鎌柄。バラ科ナシ亜科カマツカ属カマツカ Pourthiaea villosa 当該ウィキには、『材を鎌の柄に用いたことによりこの名があるという』とあり、『果実は梨状果で長さ』七ミリから一センチ『ほどの倒卵形』で、『明瞭な果柄があり』、『秋から晩秋に赤色に熟す』。『果実は少し甘酸っぱく食用になるが』、『通常』、『あまり美味しいものではない』とある。✕。

「うらじろのき」裏白の木。ナシ亜科アズキナシ属ウラジロノキ Aria japonica 。複数の記載で『実は生で食べられる』とある一方、『じゃりじゃりしていて食用には向かないよう』だともあった。山で見たことがあるが、その実はちょっと食欲をそそらなかったので、食べたことはない。✕。

「びわ」枇杷。ナシ亜科ビワ属ビワ Eriobotrya japonica 。◎。

「しらき」白木。双子葉植物綱類キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ亜科ヒッポマネ連 Hippomaneaeヒッポマネ亜連シラキ属シラキ Neoshirakia japonica サイト「庭木図鑑 植木ペディア」の本種のページに、『種』(たね)『には脂分が多く、食用、灯油などに使用できる』とあった。✕。

「がんかうらん」現代仮名遣「がんこうらん」。「岩高蘭」。ツツジ科ツツジ亜科ガンコウラン属セイヨウガンコウラン変種ガンコウラン Empetrum nigrum var. japonicum 当該ウィキによれば、『日当たりの良い高山の岩場や海岸近くに生育』し、『果実は径』六ミリから一センチの『黒い球形で、食べられる。集めてジャムなどにする人もいる。果実はビタミンやミネラルなどの栄養素が豊富である。果実は鳥のえさともなっている』とあった。山で見かけたことはあるが、食べたことはない。✕。

「とち」栃。双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata 。種子は、灰汁抜きをして、「栃餅」などを作って食用にする。食用の歴史は古く縄文時代からある。◎。

「なつめ」棗。バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis 当該ウィキによれば、『南ヨーロッパ原産』とも、『中国北部の原産とも』され、『日本への渡来は奈良時代以前とされて』おり、六『世紀後半の遺跡から果実の核が出土している』とある。◎。

「けんぽなし」玄圃梨。バラ目クロウメモドキ科ケンポナシ属ケンポナシ Hovenia dulcis 。当該ウィキに、『秋に直径』七『ミリメートル』『の果実が黒紫色に熟』し、『同時にその根元の果柄部が同じくらいの太さにふくらんで』、『ナシ(梨)のように甘くなり』、『食べられる』とある。山の帰りに、東北の山村で食べさせて貰ったことがある。◎。

「がねぶ」「紫葛」と漢字を当てるようである。ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae の異名。小学生の頃は、裏山で、よく食べたものだった。◎。

「のぶだう」野葡萄。ブドウ科 Vitoideae 亜科ノブドウ属アンペロプシス・グランデュロサ Ampelopsis glandulosa 変種ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla 。食ったことがあるが、正直、不味い。◎。

「紀州鉛山温泉」現在の白浜温泉の前身ここの「白良浜」のある湾を鉛山湾(かなやまわん)とある(グーグル・マップ・データ)。サイト「エコナビ」の「温泉を巡る」の布山裕一氏の記事「009 南紀白浜温泉へ」の「白浜の名称と発展」の項に、『江戸時代には、紀州徳川家の人々の来湯が記録されていますが、当時温泉が湧いていたのは鉛山(かなやま)村の湯埼地区で「湯埼七湯」と呼ばれ、白浜という名前はありませんでした。明治時代になると鉛山村は隣接する瀬戸村と合併し、瀬戸鉛山村となります。旧瀬戸村地区では明治時代の末頃から温泉が開発されはじめ、大正時代初期に温泉開発を進めた会社の社名にはじめて「白浜」という名前がつきます。これは、鉛山(かなやま)湾に面した美しい砂浜である「白良浜(しららはま)」の略称ですが、以後「白浜」という名称が広がったと言われています』昭和一五(一九四〇)『年には瀬戸鉛山村が町制を施行して白浜町となりました。古賀浦や文殊など』、『町内各地で温泉開発が進められ』、『白浜温泉は大きく発展していきます。海岸を中心に高台に及ぶまで旅館・ホテルや保養所そして温泉入浴施設や足湯が点在し和歌山県最大の温泉地となっています。なお、千葉県にも白浜という地名があることから、南紀白浜と呼ばれるようになりました。温泉地のすぐ傍に空港が設置されており、空港名は南紀白浜空港となっています』とある。「ひなたGPS」の戦前の地図で、現在の和歌山県西牟婁郡白浜町に『瀨戶鉛山村』と『鉛(カナ)山』に並置して『(湯崎)』が確認出来る。

「さんかくづる」三角蔓。ブドウ科ブドウ属サンカクヅルVitis flexuosa 。「Weblio 辞書」の「植物図鑑」の同種の解説に、『わが国の本州から四国・九州、それに朝鮮半島や中国に分布しています。山地の林縁などに生え、他の樹木などに絡みついて伸びます。葉は三角形から卵状三角形で互生し、縁には歯牙状の浅い鋸歯があります。雌雄異株で』、五『月から』六月頃、『葉と対生して円錐花序をだし、小さな淡黄緑色の花を咲かせます。果実は液果で』、『黒く熟し、食べることができます。蔓を切ると』、『わずかに甘い樹液がしみ出てくることから、別名で「ぎょうじゃのみず(行者の水)」とも呼ばれます』とあった。見かけたことはあるが、食べたことはなかった。✕。

「ひさかき(?)」姫榊。ツツジ目モッコク科ヒサカキ属ヒサカキ変種ヒサカキ Eurya japonica var. japonica 。花がガスのような臭い匂いがする厭な木という認識しかなかったが、サイト「苗木部」の「ヒサカキの特徴と育て方」によれば、『主に神事で使われる切花の代用として用いられますが、葉に光沢があり』、『美しく常緑樹なので、庭木や生け垣としてもよく使われています』。『寒い地域では榊(サカキ)が生育しないため、ヒサカキを代用として用いることもあります。地域によっては仏壇に供える枝ものでも利用されます』。『春には小さくて目立たないですが、クリーム色のスズランに似た釣り鐘状の花を咲かせます。稀にピンク色の花が咲くことがあります。花は独特の強い匂いがあります』。『雌雄異株もしくは両性花を咲かせる株もいます。雄株以外には秋になると黒い果実が実ります。種』(たね)『が多いので食用には向きませんが、果汁が多く』、『熟すと』、『甘いです。野鳥が好む果実です』とあった。なお、そちらには、『中国原産のツバキ科の常緑樹』とあるが、当該ウィキを見たところ、注釈に、『新しいAPG体系ではモッコク科(サカキ科)であるが、古い新エングラー体系やクロンキスト体系ではツバキ科(Theaceae)としていた』とあったので不審解消。熊楠先生、大丈夫! 食べられます。✕。

「さるなし」猿梨。ツバキ目マタタビ科マタタビ属サルナシ変種サルナシActinidia arguta var. arguta 当該ウィキによれば、『果実はキウィフルーツを無毛にしてかなり小さくしたような楕円形で、淡緑色の』二~三センチメートル『程度のものに熟する』。『果実の味はキウィフルーツに似ている(系統上の近縁種である)』とある。◎。

「またゝび」「木天蓼」。「もくてんりょう」とも読む。ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ  Actinidia polygama 。◎。

「みやままたゝび」深山木天蓼。マタタビ属ミヤママタタビ Actinidia kolomikta 。✕。

「ぐみ數種」茱萸(ぐみ)。バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus 。◎。

「やまぼうし」山法師。双子葉植物綱ミズキ目ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属ヤマボウシ Cornus kousa subsp. kousa 当該ウィキに、『果実が食用になり』、『クワの実に見立てたことから、別名でヤマグワとよぶ地域も多』いとあり、『若葉は食用にな』り、『果実は生食でき』、『やわらかく』、『黄色からオレンジ色』を呈し、『マンゴーのような甘さがある。果皮も熟したものはとても甘く、シャリシャリして砂糖粒のような食感がある。果実酒にも適する』とある。本種は花が美しい。東北の温泉の土産に葉を買ったことがある。結構、気に入った。◎。

「あくしば」灰汁柴。ツツジ目ツツジ科スノキ亜科スノキ属アクシバ Vaccinium japonicum 。これも花が何とも言えない形をしていて、好きだ。当該ウィキに『果実は食用になる』とあるが、食べたことはない。✕。

「いはなし」岩梨。双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科イワナシ属イワナシ Epigaea asiatica 当該ウィキに、果実は『ナシのような甘味があり、食用になる』とあった。✕。

「こけもゝ」苔桃。ツツジ科スノキ亜科スノキ属コケモモ Vaccinium vitis-idaea 。問題があるので、どことは言わないが、山行の途中で見つけ、食べたことがある。美味い。◎。

「つるこけもゝ」蔓苔桃。スノキ属ツルコケモモ亜属ツルコケモモ Vaccinium oxycoccos 当該ウィキに、『クランベリーとして食用にされる』とある。◎。

「あかもの」赤物。ツツジ科シラタマノキ属アカモノ Gaultheria adenothrix当該ウィキに、『花が終わると』、『萼が成長し、果実を包み込み、赤色の偽果となる。この偽果は食用になり、甘みがあり』、『おいしい。名前は赤い実から「アカモモ(赤桃)」と呼ばれ、これが訛って付けられたといわれる』とあった。う~ん、食べられるのか! 山行の途中で見たことはあったが、赤がかなり強くて、食えなかったわ。✕。

「くろまめのき」黒豆の木。ツツジ目ツツジ科スノキ亜科スノキ属クロマメノキ Vaccinium uliginosum当該ウィキに、『果実は食用になる。長野県ではアサマブドウとして食用にされる』とある。これは食べて見たい。✕。

「しらたまのき」白玉の木。ツツジ科シラタマノキ属シラタマノキ Gaultheria pyroloides 。花が好きだが、実は食べたことがない。但し、当該ウィキによれば、『果実は甘味はあるが』、『サリチル酸の臭いがするため』、『生食には向かず、果実酒にされる』とあった。✕。

「しやしやんぼ」現代仮名遣「しゃしゃんぼ」で「小小坊」。「南燭」とも書く。ツツジ科スノキ属シャシャンボ Vaccinium bracteatum当該ウィキに、『漢字表記では「小小坊」と書くが』、『これは当て字で、シャシャンボの実際の語源は』、『古語のサシブ』(烏草樹)『が訛ったものである』とあった。『果実は直径』五『ミリメートル』『ほどの球形の液果で、黒紫色に熟すと』、『白い粉が吹いて』、こうなると、『食べることができる』。『これは同属のブルーベリー類と同じく、アントシアニンを多く含む』とあった。和名も知らなんだわ。✕。

「くこ」枸杞。ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense 。◎。

「にわとこ(?)」接骨木。「庭常」とも書く。双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ニワトコ属亜種ニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana 当該ウィキによれば、『日本の漢字表記である「接骨木」(ニワトコ/せっこつぼく)は、枝や幹を煎じて水あめ状になったものを、骨折の治療の際の湿布剤に用いたためといわれる。中国植物名は、「無梗接骨木(むこうせっこつぼく)」といい、ニワトコは中国で薬用に使われる接骨木の仲間であ』るとあって、『若葉を山菜にして食用としたり、その葉と若い茎を利尿剤に用いたり、また』、『材を細工物にするなど、多くの効用があるため、昔から庭の周辺にも植えられた』。『魔除けにするところも多く、日本でも小正月の飾りや、アイヌのイナウ(御幣)などの材料にされた』。『樹皮や木部を風呂に入れ、入浴剤にしたり、花を黒焼にしたものや、全草を煎じて飲む伝統風習が日本や世界各地にある』。『若葉は山菜として有名で、天ぷらにして食べられる』。但し、『ニワトコの若葉の天ぷらは「おいしい」と評されるが』、『青酸配糖体を含むため』、『多食は危険で』、『体質や摂取量によっては下痢や嘔吐を起こす中毒例が報告されている』とあった。『果実は焼酎に漬け、果実酒の材料にされる』とある。天ぷらを食べたことがある。熊楠先生、若葉はあきまへんで。◎。

「がまずみ」莢蒾。マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属ガマズミ Viburnum dilatatum当該ウィキによれば、『和名「ガマズミ」の語源は、赤い実という意味の「かがずみ」が転訛したものといわれる』とあり、『果実は最終的に晩秋のころに表面に白っぽい粉をふき、この時期がもっとも美味になる。冬になっても、赤い果実が残っていることがある』とあって、『果実は甘酸っぱく食用になる』。『大根を漬ける時に用いられ、「赤漬け」は長野県戸隠村でよく行うもので』、『紅色に染まり、実の酸味がついた大根漬けとなる。ジュースやキャンディ、酢、ポン酢、果実酒、ジャム、ゼリー、健康ドリンクなどに商品化されている』とある。◎。

「うぐひすかずら」これは、多分、熊楠の「うぐひすかぐら」の誤記であろう。「鶯神楽」で、マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属の変種ウグイスカグラ Lonicera gracilipes var. glabra Weblio 辞書」の「デジタル大辞泉」に写真入りで、『日本特産で、山野に自生。高さ約』一・五~三『メートル。葉は楕円形で、若葉では縁に赤みがある。春、枝先に淡紅色の花が』一『個垂れ下がって咲く。実は熟すと』、『赤くなり、食べられる』とあった。✕。]

 「しきみ」の實は毒物だが、食《くつ》て害を受けぬ例が多い。「ぬるで」の實、熟すれば、外薄皮上有薄鹽、鹽生樹上者、卽是也、小兒食ㇾ之。〔外の薄皮の上に、薄き鹽、有り。鹽の樹上に生ずるは、卽ち、是れなり。小兒、之れを食らふ。〕と支那の本草に云《いへ》り。「さんせう」の實抔と同じく、味を助くる料とし、本邦の山民も、古來、用ゐたのだろう[やぶちゃん注:ママ。]。紀州には、山中に、古く、柿や柚《ゆづ》が自生結實する者が有るのを、予、自ら、食た事がある。淺い山には、半野生の梅林も有るが、深い山林では、唯、一度、日高郡川又《かはまた》官林で、一本、見た。所の者言《いは》く、「鹽氣無き地に、梅、生ぜず。」と。詰り、『人家に遠い場所に、生えぬ。』と云ふ意味だ。

[やぶちゃん注:『「しきみ」』(樒(しきみ))『の實は毒物だが、食《くつ》て害を受けぬ例が多い』被子植物門双子葉植物綱アウストロバイレヤ目Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミIllicium anisatum 。しかし、当該ウィキによれば、神経毒として知られる『アニサチン』(anisatin)『などの毒を含み、特に猛毒である果実が』、『中華料理で多用される八角に似ているため、誤食されやすい危険な有毒植物である』とあり、『葉や茎、根、花、果実、種子など全体が有毒で』、『なかでも』、『果実、種子は毒性が強く、食用にすると死亡する可能性がある』。『実際、下記のように事故が多いため、シキミの果実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定されている』。『中毒症状は、嘔吐、腹痛、下痢、痙攣、意識障害等であり、昏睡状態を経て死に至ることもある』。『有毒成分は』『アニサチン』『やネオアニサチン(neoanisatin)で』、『同じシキミ属に属するトウシキミ』(Illicium verum:本邦には自生しない)『は毒成分を含まず、果実は八角(はっかく)、八角茴香(はっかくういきょう)、大茴香(だいういきょう)、スターアニスとよばれ、香辛料や生薬として利用される』。『シキミの果実は形態的にこれに非常によく似ているため』(画像と図有り)、『シキミの果実をトウシキミの果実と誤認して料理に使用し』てしまい、『食べることで中毒を起こす事故が多い』。『そのため、シキミの果実は「毒八角」ともよばれる』。『トウシキミの果実とくらべると、シキミの果実は』、『やや小型で先端が鋭く尖り、また抹香の匂いがする点でも異なる』。『第二次世界大戦以前は、シキミの果実を実際に「日本産スターアニス」として出荷し』、『海外で死亡事故などが発生したことがある』、『また』、『シキミの種子は、ややシイの実(果実)に似ているため、誤って食べて』、『集団食中毒を起こした例がある』。『人間以外の動物に対しても、ふつうシキミは有毒である。たとえば、放牧されるウシは、毒性のある草を選択して食べないことが多いが、シキミに関して』は、『これを誤食して死ぬ可能性があると指摘されている』。『また、シキミはニホンジカの食害を受けにくく、不嗜好性植物リストにも挙げられている』とあるから、熊楠先生! この記載は取り下げないと、アウトですよ!

「ぬるで」白膠木。ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis 当該ウィキに、『葉にできた虫えいを五倍子(ごばいし/ふし)という。お歯黒の材料にしたり、材は細工物や護摩を焚くのに使われる』とある。また、『熟した果実を口に含むと酸味が感じられる』とあるから、食べることには、危険性はないようである。

「支那の本草に云り」以上は、李時珍の「本草綱目」の巻之三十二の「果之四」の「鹽麩子」の「集解」の一節。熊楠にしては、書名も出さないのは、ちょっと不親切である。漢文原文のネット検索ですぐに判ったが、一昔前なら、探すのに苦労したろう。「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[079-22b]の影印本の画像を見られたい。罫線六行目の左中央からである。「鹽麩子」は先のヌルデの漢名の異名。中文の当該ウィキ「盐肤木」を見て戴くと、本文最後の「别名」の最後から二つ目に「盐肤子」とあるのが、それである。「盐」は「鹽(塩)」の簡体字である。

「さんせう」山椒。ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum

「日高郡川又官林」現在の和歌山県日高郡印南町(いなみちょう)川又(グーグル・マップ・データ航空写真)。「ひなたGPS」で戦前の地図の方を見ると、『川又國有林』のも古賀確認出来る。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 七 女の妄念怖ろしき事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、同書にあるものが、比較的、状態がよいので、それをトリミング補正した。]

 

     七 女の妄念怖ろしき事

 

 近江國(あふみのくに)、「さほ山」と云ふ處に、昔、ある何某(なにがし)はべりけるが、彼(か)の者、二人の妻を持てり。今に始めぬ事ながら、取りわき、本妻、妾(めかけ)を憎む事、限りなし。

 ある時、妾、雪隱(せつちん)に居(ゐ)ければ、たけ一丈ばかりある大蛇(おほくちなは)、前に來たりければ、

「あら、怖ろしや、」

と喚(をめ)きしかば、人々、出合(であ)ひけるほどに、何處(いづく)ともなく、失せぬ。

 其の後(のち)、本妻、產後に、殊の外、病(わづら)ひ、既に末期(まつご)に及ぶ時、男、折りしも、妾の處にゐ侍るが、此の由を聞き、急ぎ歸り、色々、養生すると雖も、叶ふべきとも覺えず、彼の女、云ふやう、

「我は、只今、身まかりぬ。此の年月(としつき)の怨み、生々世々(しやうじやうせゝ)、忘れ難く候。」

とて、男の飮ませける水を、顏に、

「ざつ」

と、吐き掛け、齒がみをして、終(つひ)に空しくなる。

 片時(へんじ)も過ぎざるに、妾の所へ忍び、首を、ねぢ切り、消すが如くに、失せぬ。

 さて、力(ちから)、及ばず、妾の葬禮を致しけり。

 

Kubisage

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、「あふみの国さほ山といふ所にての事」とある。]

 

 其の時、件(くだん)の首を手に提げ、橋のありける所に立ちてゐたり。

 本妻の乳母、これを見付け、

「あら、淺ましの御姿や、」

と云へば、消え失せぬ。

 又、妾の子、十一歲と九歲とになる男の兒子(こご)、二人、有り。是れも、三日の内に、病み出(いだ)し、身まかりぬ。

 男は、取り集めたる歎き。一方(かた)ならず、これも、程なく、亡せぬ。

 總領、一人、殘りけるが、髻(もとゞり)を切り、高野山に、とり籠り、父母(ふぼ)の後世(ごせ)をぞ、弔ひける。

[やぶちゃん注:この首を下げた亡霊のシークエンスは、小泉八雲の名品OF A PROMISE BROKENを想起させる。私の拙訳も御笑覧あれ(孰れも私のサイト版)。田部隆次氏の訳「破約」もブログで電子化注してある

「さほ山」中世中期から近世初期にかけて近江国坂田郡(現在の滋賀県彦根市)の佐和山に佐和山城があった(織豊政権下に於いて畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点で、十六世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、「関ヶ原合戦」の後は、井伊家が一時的に入城したことでも知られる。以上はウィキの「佐和山城」に拠った)が、サイト「オンライン三成会~石田三成のページ~」のこちらによれば、『佐和山は古くは佐保山と呼ばれ』たとある。

「片時(へんじ)も過ぎざるに」ごく僅かな時間も経たぬうちに。瞬く間に。

「取り集めたる歎き」岩波文庫の高田氏の注に、『一時にうち重なった悲しみ』とある。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二一番 黃金の鉈

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本は、ここから。]

 

    二一番 黃金の鉈

 

 或所の大層正直な爺樣が、淵の岸へ行つて、がツきり、がツきりと木を伐つて居つた。そしたらどうした拍子か手の鉈を取ツ外して淵の中へ落してしまつた。さあこれア事なことをした。たつた一丁しかない大事な鉈(ナタ)コを失くしてしまつては明日から木を伐ることも出來ない。木を伐ることが出來ないと、婆樣をあつかう[やぶちゃん注:ママ。]事も出來なくなる。これはどうしても淵の中さ入つて探(サ)がさなければならないと思つて、淵の中さ入るべえと思つて居ると、淵の中から美しい姉樣が、手に黃金の鉈コを持つて出(デ)はつて來た。そして爺樣爺樣お前は今鉈コを落さないかと言つた。はい今大事な鉈を落したので淵の中さ見つけに行くべえとして居るところでがンしたと爺樣が言ふと、それではこの鉈だべと、姉樣はその黃金の鉈を爺樣の目の前へ差し出した。爺樣はそれを見て驚いて、いゝえ、いゝえ、そんな立派な鉈ア勿體のない。この爺々の鉈は鐵の錆びた古鉈でごぜいすと言ふと、はアさうかと言つて、姉樣は淵の中に入つて行き、更に爺樣の落した古鉈を持つて出て、それでは爺樣この鉈コかと言つた。はいその鉈コでごぜいますと言ふと、姉樣は笑つて、爺樣は本當に正直な人だから、この黃金の鉈も上げツから持つて歸れと言つて、古鉈コと黃金の鉈コを一緖に爺樣に持たした。爺樣の家はそのお蔭で長者となつた。

 隣家で、淵の神樣から黃金の鉈コをもらつて來て長者になつたジことを聞いた上の家の婆樣は、カラナキ(怠者《なまけもの》)で何時(イツ)もごろごろしてばかり居る吾家の爺樣をいづめこづめ、叱り小言して其淵の岸さ木伐りにやつた。

 其爺樣は淵のほとりへ行つて木を伐つて居たが、いくら伐つても手から鉈コが取り外れないので故意(ワザ)とそれを淵の中さ投げ込んでやつた。そして速く神樣が黃金の鉈コを持つて來てくれゝばいゝなアと思つて、淵の水面を見詰めて居ると、淵の水に水輪ができ、すらりと美しい姉樣が出て來た。そして手に持つた黃金の鉈を差し伸べて、何か言ふべえとしたのに、爺樣は魂消(タマゲ)もの見たよに、あゝ其れ々々ツ、其が俺の鉈だツと言つて、姉樣の手からその鉈ア取んべえとすると、姉樣はこれこの不正直爺々ツと言つて、その鉈で頭を切り割つた。爺樣は血みどろになつて、家さ泣きながら歸つて、以前よりもずつと貧乏になつた。

  (下閉伊郡岩泉町邊の話。野崎君子氏談の一、昭和五年六月二十三日採集の分。)

[やぶちゃん注:所謂、「イソップ寓話」の一つである「金の斧」或いは「ヘルメスと木樵(きこり)」譚の本邦転用版。当該ウィキによれば、『正直であることが最善の策であるという教訓の物語で』、『正直なきこりが斧を川に落としてしまい嘆いていると、ヘルメース神が現れて川に潜り、金の斧を拾ってきて、きこりが落としたのはこの金の斧かと尋ねた。きこりが違うと答えると、ヘルメースは次に銀の斧を拾ってきたが、きこりはそれも違うと答えた。最後に鉄の斧を拾ってくると、きこりはそれが自分の斧だと答えた。ヘルメースはきこりの正直さに感心して、三本すべてをきこりに与えた』。『それを知った欲張りな別のきこりは斧をわざと川に落とした。ヘルメースが金の斧を拾って同じように尋ねると、そのきこりはそれが自分の斧だと答えた。しかしヘルメースは嘘をついたきこりには斧を渡さなかった。欲張りなきこりは金の斧を手に入れるどころか自分の斧を失うことになった』。『日本では当初ヘルメース神を水神と訳したためか、これを女神とすることが児童書などで一般的となっている』とある。また、三浦佑之氏の講演の再録である「機織淵-『 遠野物語 』第五四話をめぐって-」(講演:一九九八年十月/一九九九年二月発行『遠野常民』八十三号・遠野常民大学刊所収。主題となっている話は、私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五四 神女」を読まれたい)の、「二 「黄金の鉈」に似ている発端」の「2.樵夫とヘルメス ( 『 イソップ寓話集 』 )」で以上の原話を紹介された後に、『『イソップ寓話』というのは教訓話ですから、あるお話を元に一つずつ、古代ギリシャのイソップ(アイソポス)が教訓をつけていくというかたちで語られています』。『ただ、構造的に見ますと、イソップの話は、金、銀、鉄というふうに三度繰り返されるのですが、喜善さんのお話では金の鉈と自分の鉈と二つだけしか出てきません。ただ、これは語り方よって金、銀、鉄となる場合もありますが、構造的にいいますと、間違いなくこの二つはほとんど同じであると言っていいと思います』とされ、次の『3.「金の鉈」は外国より伝播』で、『もちろん、古代ギリシャにも、日本にも、同じような話が元々あったと考えらることもできるのですが、そしてそのような話も多いのですけれども、この「金の鉈」という話に限って言いますと、おそらくかなり新しい段階で日本に伝えられたのではないかと考えられています。もっとも古いとしてもキリシタンが日本に入って来たとき、修道士たちがいろんな書物を持ち込んで、それを元に布教活動を始めます。その中で「イソポのファブラス」という最古の和訳本が今も残っておりまして』、天正二〇・文禄元(一五九三)『年のことです。それ以降、さまざまな書物ができ、それらを元に宣教師によって語られていくわけです』。『そういうふうに』十六『世紀末期に日本に入ったのですが、イソップの話が日本中でよく知られるようになったのは、おそらく明治になって国定教科書に載せられてからではなかろうかと考えられるわけです。どの段階で一般化したのかはにわかには断定できないのですが、どうも日本に元からあった話ではなさそうだ。ただ、この喜善さんのお話は岩泉で伝えられているお話ですから、少なくともこの段階、昭和初期あたりになりますと、もう一般化した話として人々によく知られていたらしいと考えられます』。五十四『話の話で、斧を取り落とし淵に探しに行く、という発端の部分というのは、イソップの話と極めて近いのではないか、それが一つです』。『そして、この「黄金の鉈」の話が、岩手県でどれくらい採録されているかというと、『日本昔話大成』によれば、それほど多くはありません。九戸、下閉伊郡、『聴耳草紙』の今の話ですね、それから江刺、気仙郡、後は「すねこ たんぱこ」に一つというわけですから、全部で』五つ『ぐらいしか採録されていない。広くはありますが、それほど濃密に広がっている話ではありません。他の県でも同じような状態です。そして『日本昔話大成』、これは関敬吾さんという方が編集なさった全国の昔話を集めた本ですけれども、その注にはこんなことが書いてあります』として、『注 この話はすでにイソップ(アイソーポス寓話集・二五三、岩波文庫・一九八)にもある。世界的にいかに分布しているかは知らない。わが国の話が果たしてこのイソップによって文献として輸入されたか、またその以前のものか、これを明らかにすることは困難である。この話は国定教科書に採用され、現在の採集の中にそれが見られる』と引用され、続けて、『「明らかにするのは困難」とおっしゃっていますけれども、日本に元々あったというよりも、外来の伝承がいつの間にやら日本化していったものだということは間違いないだろうと思います』と述べておられる(前後の話も興味深いものであるので、是非読まれたい)。

「婆樣をあつかう事」「婆樣」は爺樣の妻。「あつかう」は「養う」の意。

「カラナキ(怠者)」語源不詳。

「いづめこづめ」不詳。「何時も何時も」か。

「下閉伊郡岩泉町」岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう:グーグル・マップ・データ)。

「昭和五年」一九三〇年。]

ブログ1,940,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和二十九年四月

 

 [やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、『共同通信』三月二十日発行に掲載されたとある。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合等を除いて、原則、注しない。悪しからず。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日の深夜、1,940,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年三月三十一日 藪野直史】]

 

   昭和二十九年四月

 

 先月にくらべて今月は短編が多く、連載をのぞけば長いものは丹羽文雄の「柔媚の人」(新潮)、「女は恐い」(文芸春秋)、火野葦平「続戦争犯罪人」(文芸)、真船豊「赤いランプ」(群像)ぐらいなものである。「柔媚の人」は養子にやられたある少年の心理や生態をとりあつかったもので、題名通り柔媚な性格の少年であるが、その柔媚感がそくそくと読者の身に追ってくるというまでには達していない。やはり頭の中で構築された題材のせいなのであろう。まだしも「女は恐い」中の女の執念の方がはるかに生き生きとしている。その代りこちらの方はモデルに寄りかかりすぎていて、小説性はうすい。「女は恐い」という題名は編集部でつけたものだろうと推察されるが、その女のおそるべき偏執、それを恐がっている作者のかたちが、相当の現実感をもって描き出されている。

[やぶちゃん注:「柔媚」(じゅうび)は「嫋(たお)やかなこと・もの柔らかで艶(なま)めいたさま」、また、「媚(こ)び諂(へつら)うさま」をも言う。]

 短編の中では安岡章太郎「吟遊詩人」(文学界)が面白かった。いつもの手慣れた手法で安岡的世界を描き出しているのだが、それなりに安心して読めるし、また面白い。どんな現実をとり扱っても彼一流の世界となるあたり、ちょっと井伏鱒二に似ている。何を書いても自分流になるのは、この両者とも現実に対して強烈な支配力を持っているのではなくて、むしろ内攻型の性格がそうさせるのだろう。現実を一度自分の内側に引きずりこみ、もぐもぐと嚙みしめ、そして第二の世界として造形する。こういう型の作家は、読者から信用されることなしには成立しない。

 安部公房「変形の記録」(群像)、福永武彦「冥府」(群像)はともに死後の世界をとりあつかっている。安部のは長いものの一部らしいが、なかなかの才筆で、生前と死後との食い違いの感じがうまくとり入れられている。しかしこれだけではその寓意は不明である。

 福永のはその点はっきりしているが、筆致にうるおいがなく真面目すぎるので、かえって現実感をそがれた。こういう題材に対しては、正攻法よりむしろ逆手を使うべきではないのか。なおこの作品はジャン・コクトオあたりがつくった死後の世界を描いた映画の影響のようなものが、いくらか感じられた。

[やぶちゃん注:「ジャン・コクトオあたりがつくった死後の世界を描いた映画」言い方が微妙で、よく判らないが、ジャン・コクトー (Jean Cocteau 一八八九年~一九六三年) の最初期の映画で監督・脚本を手掛けた「詩人の血」( Le Sang d'un poète :一九三二年)『あたり』を指すものか。]

 同じく「群像」の室生犀星「黄と灰色の問答」。これは死後ではなく生きている世界だが、しかしもうこれは死に近づいた世界である。胃潰瘍にかかった入院記だが、この作品には人間の業(ごう)のようなものも感じられ、その人間臭はやはり読者の心をうつ力を持っている。私はこの作家にいつも「悪戦苦闘」といった感じを抱くのであるが、その対象が空疎な場合には作品も空転するようであるけれども、対象があきらかな場合にはその作品も成功するようだ。この作品もそれであろう。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の新潮社版室生犀星全集第九巻(一九六七年刊)のこちらから読める。]

 井伏鱒二「石州わかめ」(改造)は、女子でありながら男性的骨格をもった女の悲劇で、もちろんこの作者のことだからこれを真正面からとりあつかわず、側面からエピソード風に描いている。この女も最後に絶望して、食事を拒否し衰弱死をくわだてようとする。しかしこれは小説の形式の関係から重大な悲劇としては出ず、一抹の哀感として読者の胸を通りぬけるだけである。それでいいともいえるだろうが、同時にこれがこの作者の限界(厭な言葉だが)だともいえよう。

 西野辰吉「烙印」(改造)は、戦争や占領がもたらす非人間的なものへの抗議。西野の小説はいつも怒号的でなく、つぶやきに似ていて、それも非常に効果的なつぶやきであるのも、この作家の性格によるものだろうし、またそこが手腕だということだろう。彼は庶民の代表として書くというよりは、庶民の一人として書いている。それが西野辰吉の作品を強く特微づけていると思う。この作品もその点において成功している。

[やぶちゃん注:「西野辰吉」(大正五(一九一六)年~平成一一(一九九九)年)は作家。当該ウィキによれば、『北海道生まれ。足尾銅山変電所の雑役夫、魚河岸の人夫など職を転々とする』。昭和二二(一九四七)年、『日本共産党に入り、同年』、「廃帝トキヒト記」で『作家デビュー』、昭和二五(一九五二)年、「米系日人」を『発表』、昭和三十一年には、『『新日本文学』に連載した』「秩父困民党」『(単行本は講談社から)で毎日出版文化賞受賞した。このころ、霜多正次』(梅崎春生の友人)、『窪田精、金達寿たちとリアリズム研究会を発足させ、全国的な組織へと発展させた』。昭和三九(一九六四)年、新日本文学会から除籍され、翌『年の日本民主主義文学同盟の創立に参加し、その後『民主文学』の編集長もつとめた』。昭和四四(一九六九)『年、文学同盟を退会した』後、『共産党を離党し、その後は』、公的な『文学運動とは無縁のままに創作活動を』続けた、とある。]

 「文芸」では、全国学生コンクール入選作一編と佳作が四編載っていて、それぞれ面白かった。それぞれ題材にも変化があったが、冒険的な試みはなかったとしても、技法的にそれぞれかなり確実なものを持っている。「文芸」のこういう試みは有益なことだから、止めないで続けてもらいたいと思う。

 

2023/03/30

曾呂利物語」正規表現版 第四 / 六 惡緣にあふも善心のすゝめとなる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。挿絵は今回は御覧の通り、底本の画像の状態がかなりいいので、それをトリミング補正して添えた。]

 

     六 惡緣にあふも善心のすゝめとなる事

 信濃の國の守護に、召使(めしつか)はれける何某(なにがし)、或時、人をあやまりて、隱れゐたりけるが、かたき、數多(あまた)狙ひける由(よし)、傳へ聞き、竝(なら)びの國に、所緣あつて、

『彼(かれ)を、賴み下らん。』

と思ひ、夜(よ)に紛れて、忍び出でけるが、一門眷屬にも知らぜずして、女房をも、留(とゞ)め置きけるが、女房は、

「道にて、如何にもならばなれ、留まるまじ。」

とて、强ひて、

「行かん。」

と云ふ。

『げにも。人に探し出(いだ)され、如何なる憂目にも遇はんは、却つて我等が恥辱。』

と思ひ、

「さらば、伴ひ行かん。」

とて、夫婦、只、二人、深山(しんざん)の嶮(さか)しきを、分けて辿り行く。

 折節(おりふし)、女房は、唯ならぬ身にて侍るが、頻りに、腹を痛みけるほどに、腰を押さへて、負ひ、たどりたどりと、行きけるが、向かひの山の、火、幽かに見えけるを。

『幸ひ。』

と思ひ、辛苦して、やうやう、火をしるべに、行きて見れば、辻堂なり。

 内に入りて、少時(しばし)、息をぞ、つきたりける。

 かかりける所に、人、一人(ひとり)來たり、辻堂の戶を、荒らかに敲く者、あり。

「誰(たれ)ぞ。」

と問へば、

「『はる』にて候。斯樣に落ち行かせ給ふ由、承り、『隨分、追ひ付き奉らん。』と存じ、山中を凌ぎ、やうやう、これまで、參りたり。妾(わらは)が事は、餘(よ)の者と違ひ、幼けなき頃より、召使(めしつか)はれ、片時(へんし)も御傍を離れ參らせず、年月(としつき)の御恩賞に、斯樣(かやう)に御先途(ごせんど)を見屆け參らせでは、あるべきか。殊に、御うへ樣、たゞならず御渡り候ふに、人一人も副(そ)ひ奉らず、斯かる嶮しき山路(やまみち)を、如何で忍ばせ給ふべき。はやはや、開けさせ給へ。」

と云ふ。

 男、餘りの不審さに、

「女の身として、斯かる嶮しき山路を、殊更、夜中(やちう)の事なるに、是れまで來たる事、覺束なし。よも、『はる』にては、有らじ。」

と云ふ。

「是は。御詞(おことば)とも聞こえぬ事を承り候ふものかな。身こそ、はかなき女なりとも、心は、男に劣るべきか。物ごしにても、やがて、其れとは知ろし召されずや。遙々、是れまで參りたる心ざし、如何で空しくなさせ給ふ。」

と、さめざめと泣きければ、

『實にも。「はる」が聲にて、ありけるよ。』

と思ひ、やがて、内へぞ、呼び入れける。

 

Akuen

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「あくゑんにあふて善心のすゝめに成事」とあるか。しかし、「のす」の崩しは異様で、そのようには見えないのだが。また、絵では、戶もなく、辻堂ではなく、四阿のように描かれているが、これは堂内を透視画法で、大胆に描いたということか。しかし、松が見えていて、そのように好意的にとるには、無理がある。]

 

 とかくする内に、女房は產(さん)にゐて、少し、心も安ければ、傍(そば)に、「はる」を添へ置きて、居眠りてぞ、ゐたりけれ。女房も、流石、

「山路の疲れ。」

と云ひ、殊の外に困(こう)じにたれば、我かのけしきに、寄り添ひゐたるに、後(うっしろ)なる「はる」、女房の首の𢌞りを、ひたもの、舐(ねぶ)り𢌞しける。

 驚き、目を黨まし、

「なうなう、はるが、我を舐りて怖ろしきに、これへ、寄らせ給へ。」

と云ふ。「はる」が曰く、

「斯(か)やうの時は、御血(おんち)の心(こゝろ)にて、左樣(さやう)の空事(そらごと)を仰せあるものにて候。少しも、苦しき御事にては候はず。音もせで、御休み候へ。」

と云ふ。

 男は、

『實(げ)にも。さある事ならん。』

と思ひ、油斷してゐたる間(ま)に、何處(いづく)ともなく、二人共に、失せにけり。

 男、目を覺まして後(のち)、肝をつぶし、

「こは、如何にしつる事ならん。」

と、堂の外を尋ぬるに、行方(ゆきがた)なし。

 ひた呼ばはりに、呼ばはれども、見えず。

 其の後(のち)、山の上に、聲のしける程に、登りて見れば、谷の底に、叫ぶ音(おと)。しけり。

 又、下手(しもて)を見れば、峯に聳立(そびえた)てるなど、彼方此方(かなたこなた)と惑ひ步く内に、夜(よ)も明けぬ。

 無念、類(たぐひ)もなくて、

「腹を切らん。」

と、しけるが、麓に寺の見えけるほどに、

「これにて、如何にも、ならん。」

と、急ぎ下りて、主の長老に向ひ、

「しかじかの事、侍り。後世をば、賴み奉る。」

とて、既に、腹を切らんとするを、坊主、色々に、なだめ、

「兔角(とかく)、内儀の行方(ゆくへ)を尋ね給ひて、兔も角も、ならせ給へ。」

とて、弟子・同宿、其の外、地下(ぢげ)の人を入れて、至らぬ隈もなく、尋ねけれぱ、大きなる木の上に、すんずんに、引き裂きてぞ、懸け置きける。

 愈(いよいよ)、

『自害を、せん。』

と思ひ定めけるを、長老、色々、敎訓して勸めければ、則ち、そこにて、出家して、妻の後世(ごせ)を弔(とぶら)ひ、道心堅固にして、終はりけると、なん。

 斯かる憂き目に遭ふことも、却つて、佛の御慈悲にこそ。

[やぶちゃん注:「はる」に化けた物の怪の正体が明らかにならないのは、怪奇談としては今一である。

「人をあやまりて」人を殺してしまい。

「御先途(ごせんど)」主人が向かう隣国の落ち着き先を言う。

「覺束なし」ここは、「いぶかしい・怪しげである」の意。

「我かの氣色」岩波文庫の高田氏の注に、『夢うつつで、心のぼんやりしたさま』とある。

「血の心」同前で、『出産のさいの、精神や身体の変調をさすことば』とある。

「兔も角もならせ給へ」同前で、『とにかく(奧方の行方をつきとめてから)事をなさいませ』とある。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 謎(ポッドマン)

大手拓次譯詩集「異國の香」 謎(ポッドマン)

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

    ポツドマン

 

私は水で身躰をぬらした、

わたしの前に、 もう一つ身躰を感じてゐる

いつか、 わたしは忘れるかも知れない、

胸と胸とのあひだの影を、

それは光りの明け方を暗くし、

そしてただ淫佚に、

星が星のなかに輝くとき

わたしの思ひから消えうせる。

お前の脣の微笑は言葉であるか。

お前の心のなかに何が書いてあるか。

わたしはお前の顔のなかに沈んだが

どうしても其底に達することが出來ない

 

[やぶちゃん注:作者不詳。識者の御教授を乞う。しかし、この詩、妙に惹かれる。

「淫佚」「いんいつ」で「淫逸」に同じ。淫(みだ)らな楽しみに耽(ふけ)り、怠けて遊ぶこと。]

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「飛んで登らぬ鯉」・「ハヤのこと」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ。]

 

 飛んで登らぬ鯉  鮎に限らず、ハヤでも、鯇《あめのうを》でも鱒でも何魚《なにうを》でも、夏は川上に登るので、其等が瀧にさしかゝると、一旦飛上つて、其餘勢で泳ぎ上りましたが、鯉のみは、決して飛ばないで、初めから泳いで登りました。眞つ蒼に水の垂下《すいか》した中を、潜航艇のやうに、すうつと見事に泳いで登りました。

[やぶちゃん注:「ハヤ」既注であるが、再掲しておくと、そもそも「ハヤ」という種は存在しない「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」を見られたいが、そこの私の注から転写すると、本邦で「ハヤ」と言った場合は、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称であるから、その中の幼魚と断定してよいと私は考えている。

「鯇」これは、かなり、メンドクサい。この名自体は、琵琶湖固有種である条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus の異名である(産卵期の特に大雨の日に群れを成して河川を遡上することに由来する「雨の魚」は異名としてかなり知られている)。当該種は、現在、栃木県中禅寺湖・神奈川県芦ノ湖・長野県木崎湖などに移殖されているが、当時、横山の寒狹川にいた可能性は、まずあり得ないから、ビワマスではない。とすれば、本種は何か? 私は思うに、

アマゴ(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の河川残留型(陸封型)を指す異名。人によっては見た目がかなり異なることから、アマゴとサツキマスは別種と頑強に主張する人(西日本に多い)が有意にいるが、魚類学では同一種と決定されている)

を指しているいるのではないかと考える。如何にこの「鯇」「アメノウオ」が痙攣的にメンドクサいかは、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鯇(ミゴイ/ニゴイ)」の本文及び私の痙攣的注を参照されたいが、ともかくも、この異名は驚くべき多数の種の異名として、中国や本邦で使用されているのである。但し、魚体の特徴が記されていないから、全く別の魚を横山では「鯇」と呼んでいた、或いは、呼んでいる可能性もあるから、当地の方の御教授を乞うものではある。

「鱒」これも一種と考えている方が多いが、前注のリンク先で注してあるが、「マス」という種はいない。「マス」とは、本邦の場合は、

条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科 Salmonidae に属する魚類の内で和名・和名異名に「マス」が附く多くの魚

或いは、本邦で一般に、「サケ」(サケ/鮭/シロザケ:サケ科サケ属サケ Oncorhynchus keta)・ベニザケ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属ベニザケ[本邦ではベニザケの陸封型の「ヒメマス」が択捉島・阿寒湖及びチミケップ湖《網走管内網走郡津別町字沼沢》)に自然分布する]Oncorhynchus nerka)・マスノスケ(=キング・サーモン:サケ亜科タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha)など)と呼ばれる魚以外のサケ科の魚(但し、この場合、前者の定義とは「ヒメマス」「マスノスケ」などは矛盾することになる)を纏めた総称である。「マス」・「トラウト」ともにサケ類の陸封型の魚類及び降海する前の型の魚を指すことが多く、主に

イワナ(サケ科イワナ属 Salvelinus。現在、日本のイワナは二種であるという見解が一般的であるが、亜種を含め、分類は未だに決定されていない。詳しくは当該ウィキを参照されたい)

ヤマメ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou

アマゴ(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae

ニジマス(タイヘイヨウサケ属ニジマス Oncorhynchus mykiss

などが「マス」類と呼ばれるのである。これも同前で、現地の方からの御教授を得ないと、完全な特定は不可能である。

「鯉」コイ目コイ科コイ亜科コイ属コイ Cyprinus carpio 。まるで、東洋の川魚のチャンピオンのように誤解されているが、本種の元はヨーロッパ原産であって、凡そ本邦の象徴的淡水魚でも何でもない。

 

 ○ハヤのこと  山溪の水の尠《すく》ない流れには、ブトと呼んでゐるハヤの一種がいました。水が淀んで淵をなした所には、必ず一群のブトがゐて、其處には、赤ブトと云ふ頭や尾の赤くなつた大きなブトが雌雄居て、他のブトの群《むれ》は、それに隨つて行動してゐるやうで、餌が流れて行つてもこの赤ブトが動かない中《うち》は、小ブトはぢつとしてゐました。この赤ブトを捕つても、其處には、いつか又同じやうな赤ブトがゐるものでした。

[やぶちゃん注:早川氏は正しく前注で述べたように、「ハヤ」が複数の川魚を指すことの認識されていて、頼もしい。

「ブトと呼んでゐるハヤの一種」これは以下の婚姻色の叙述から、私は、「桜うぐい」の名をし負う、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis の♂

を真っ先に想起した。釣ったことはないが、若い頃、富山県高岡の庄川べりの川魚料理店で食べた美しいそれが、川魚の最上の味だったことを忘れない。【二〇二三年四月一日改稿・追記】しかし、「早川孝太郎研究会」の、この次の本文(「蜘蛛に化けて來た淵の主」相当・PDF)に編者注があり、『カワムツ(ブト)』と題して魚体の写真も添えられ、『膨大な数の方言があるが、これらのすべてが石川県と愛知県を東限としている。とりもなおさず東日本には分布していなかった証だが、最近は稚アユの放流に混じって関東地方などへも移入され、定着している(この辺りでは「ハヨ」と言います。)』とあった。 カワムツの♂も強い赤い婚姻色を呈するので、ここは、

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii の♂

であることが判ったので、修正した。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 五 常々の惡業を死して現はす事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵が赤茶けてひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     五 常々の惡業を死して現はす事

 關東に宇都宮の何某(なにがし)とかや云ふ、ありけり。

 彼(か)の北の方、幼なき時、名を、「おちやあ」と云ひける。「おかみさま」、「お上さま」など、人、云へば、

「年寄りたる心地する。」

とて、やゝ年(とし)たくるまで、幼名(をさなな)を呼ばせける。

 斯かる心より、萬事、不得心にて、召し使ひける者をも、或は、打叩(うちたゝ)き、少しの事にも折檻して、慈悲の心は、夢程も、なかりけり。

 さるから、身まかりけるに、臨終の有樣(ありさま)、怖ろしき事、思ひやるべし。

 扠(さて)、邊(あたり)の寺へ送りけるが、未(いま)だ葬禮をば、せで、香(かう)の火を取りに行く程をぞ、待ち居たる。

 死骸を棺に入れて、佛前に置き、番の者、數(す)十人、其の他、一門眷族、數多(あまた)、附近の僧など、集まり居けるに、俄(にはか)に、彼(か)の棺、震動する事、夥(おびたゞ)し。

「何事にか。」

と、皆人(みなひと)、奇異の思ひを爲しけるところに、彼の死人(しにん)、棺の内より、怪しからぬ姿にて、立ち出でぬ。

 

Akugou1

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、幾つかの画像を見たが、「つねづね」(どれも板木が擦れて後半が判読不能だが、恐らくは踊り字「〱」であろうと推察した)「のあくか」(が)「うに」、「しゝてあらわす事」と読める。]

 

 白晝の事なれば、諸人、

「あれや、あれや、」

と云ふ程こそあれ、見る内に、面(おもて)、變りて、眼(まなこ)、日月(じつげつ)の如くにして、髮は、そらざまに生ひ上(のぼ)り、齒がみをして、つい立つたる[やぶちゃん注:「突き立つたる」のイ音便。「すっくと立ちはだかった、その姿は」の意。]有樣(ありさま)、眞(まこと)に面を向くるべきやうもなし。

 かかるところに、長老、出で向ひ、引導して弔(とぶら)はるれば、元の如くの死骸と、なる。

 惡心の怖ろしさ、佛經の尊(たふと)さ、彼(かれ)これ、もつて、疑ふべきことかは。

[やぶちゃん注:「宇都宮の何某」岩波文庫の高田氏の注に、『宇都宮の何某 中世、下国で勢威を振った豪族宇都宮氏の一族か』とされる。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二〇番 親讓りの皮袋

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本は、ここから。]

 

   二〇番 親讓りの皮袋

 

 或所に貧乏な婆樣と息子があつた。息子はある長者の家に下男奉公をして居た。そして母親を案ずるあまり、飯時には椀の飯を食ふふりをして、半分はぼろぼろと懷ろへこぼし入れて、家へ持つて還つて母親(オフクロ)を養つた。婆樣は臨終の時、息子やえ息子やえ、おらはお前に大層手厚い世話になつたども何一ツこれが親の記念(カタミ)だと言つて、お前に殘してやる品もない。たゞ之ればかりはお前の生れた所でもあり、又おらが一生の間人にも見せないで大事にして來た物であるから取つて置いてケロ(くれろ)と言つて、薄毛ブカの生えた生臭い醜(メグサ)い不思議な物を息子に與へた。婆樣はそして遂々《たうとう》この世を立つてしまつた。

 息子は親孝行者だから、そんな汚らしい風の物でも、たつた一ツの母親の記念だと思ふから、ごく大事にしてしまつて置いた。ただ、ちよつとやはツとに役に立ちさうもないもの故、陰干しにして柱の所サ釣るして置いた。或時それを見て思ひついて、熊の皮(のやうな)の巾着を作つて、火打ち道具を入れて常(イツ)も腰に下げて居た。

 或日息子は旦那樣の牧山へ行つた。すると牛どもが交尾(ツル)んで居たが、それがどうしたことか一日も二日もツルミツきりで放れなかつた。そのうちに牛どもは疲れて悶へて死にかゝつた。息子は如何(ナゾ)にしたらよいかと、大變困つたが手のつけやうも無かつた。呆《あき》れ果てゝ煙草でも一プクやるべえと思つて、いつもの皮巾着の口を指でひろげ開けると、それと一緖に今迄放れなかつた牛どもが、ポツンと、二ツに引き放れて立ち上つた。なるほど之れはよい物だと息子は初めて氣がついた。

 それから間もない時のことであつた。長者どんの美しい一人娘に聟取りがあつた。婚禮の夜も過ぎて翌朝になつたが、どうしたのか花嫁花聟が揃つて寢所から起きて來なかつた。初めの中《うち》は皆も眠過《ねすご》したこつた、今に出て來るべえと思つて遠慮して居つたが、次の日の晝過ぎになつても出て來ないから、これはロクなことではあるまい。ざえざえ娘(アネ)コ、兄(アヱコ)と靜かに呼んで寢室を覘《のぞ》いて見ると、これはしたり二人は同じく眞靑になつて、グツタリと抱き合つたまま[やぶちゃん注:底本は「また」。「ちくま文庫」版で訂した。]倒れて居た。それから、あれア大變だと云ふ大騷ぎになつて、醫者だア法者だアと搖げ廻つて賴んでみたが少しも驗《しるし》がなかつた。

 其時息子は先日の牧山のことをひよツと思ひ出して、旦那樣の所へ行つて、もしもし俺が娘樣兄樣のところを放して見申すベアと言ふと、旦那樣も苦しいところだから、そんだらお前にできれば早く放してケロと言つた。そこで息子は奧の娘樣の寢室へ行つて、片脇の方サ向いていて皮巾着の口を力《ちから》ホダイに押し開けると、今迄放れないで居た二人の體がボツラと放れて別々になつた。

 長者どんの上下の歡び繁昌はたいしたものであつた。聟どのはシヨウス(恥かし)がつて、それツきり生れた家へ歸つて來なくなつたので、旦那樣は何もかにもお前のお蔭だ、一人娘の生命拾ひをしたと云つて、改めて息子を長者どんの聟に直して、孫繁げた。

  (村の大洞犬松爺の話の二。大正十年一月三日の採集分。)

[やぶちゃん注:この病態は所謂、現在の医学用語では「腟痙」(英語:vaginism/ドイツ語:vaginismus)である。以下、信頼できる学術的な記載として、嘗つて万有製薬株式会社の提供していた「メルクマニュアル 第17版」の「女性の性機能不全」より、「腟けいれん」部分をコピー・ペーストしたものを掲げる。

   《引用開始》

腟けいれん

腟の下部の筋肉の条件反射的な不随意性収縮(けいれん)で、挿入を阻みたいという女性の無意識的欲求が原因である。

 腟けいれんの痛みは挿入を阻むため、しばしば未完の結婚をもたらす。腟けいれんのある女性の一部は、クリトリスによるオルガスムを楽しんでいる。

病因

 腟けいれんは、しばしば性交疼痛症を原因とする後天的な反応で、性交を試みると痛みを引き起こす。性交疼痛の原因が取り除かれた後であっても、痛みの記憶が腟けいれんを永続させうる。その他の原因としては、妊娠への恐れ、男性に支配されることへの恐れ、自制を失うことへの恐れ、または性交時に傷つけられることへの恐れ(性交は必ず暴力的だという誤解)がある。女性がこのような恐れを抱いている場合、腟けいれんは通常原発性(生涯続く)である。

診断と治療

 患者の回避反応は、しばしば診察者が近づいた時に観察される。骨盤の診察時に不随意的腟けいれんが観察されれば、診断は確実である。病歴と身体診察により、身体的または心理的原因が確定できる。最もおだやかな骨盤診察によってさえ引き起こされるけいれんを除くために、局所または全身麻酔が必要な場合がある。

 有痛性の身体疾患は治療されるべきである(前述「性交疼痛症」参照[やぶちゃん注:「女性の性機能不全」内。])。腟けいれんが持続する場合には、段階的拡張などの、腟の筋肉けいれんを軽減する技法が有効である。切石位をとらせた患者に、十分に潤滑油を塗った段階的なサイズのゴムまたはプラスチックの拡張器を、最も細いものから始めて腟の中へ差し込み、そのままの位置に10分間置いておく。代わりにヤングの直腸拡張器が用いられることがあるが、理由はそれが比較的短く、不快感がより少ないからである。患者自身に拡張器を腟内に入れさせることが望ましい。拡張器を中に入れている時にケーゲル練習法を行うことは、患者が自身の腟筋肉のコントロールを発達させるのに役立つ。患者は腟周囲の筋肉をできるだけ長時間収縮させてから腟筋肉を緩めるが、この際同時に、緩めた時の感覚に注意を払う。患者に大腿の内側に片手を置かせてから、それらの筋肉を収縮させ、緩めるよう要求することが役に立つが、これは患者が一般的に、大腿、そしてこの処置の間は腟周囲の筋肉を、両方ともリラックスさせているからである。段階的拡張は、自宅で行ったり、または医師の監督のもとに1週間に3回行われるべきである。患者は1日に2回、自分の指で似たような処置を行うべきである。

 患者が、より大きい拡張器の挿入に不快感なく耐えられるようになったら、性交が試みられる。この処置には教育的カウンセリングが必要である。段階的拡張を始める前の性科学的診察は、しばしば有用である;患者のパートナーを同席させ、手鏡を使って患者に自分の身体を診察させながら、医師は諸器官の構造を同定する。このような処置は、しばしばパートナー双方の不安を軽減し、性的事柄についてのコミュニケーションを促す。

   《引用終了》

 以上の記載からも想像出来る通り、性行為結合のままで離脱不能になるケースは、皆無でないものの、極めて稀であることは、ネット上に散見される信頼できる(と判断される)真摯な記事からも、また、実際にそのような事態を私自身、実際に見たことも聞いたこともなく(勿論、経験もない)、これが所謂、都市伝説(アーバン・レジェンド)の性格を持って、市井に流布されていることは明白なことと思われる。なお、万が一、私がそのような事態を経験した場合は、必ずや隠すことなくここで実例として掲げることをお約束する(約束して十四年になるが、経験はない)。

「薄毛ブカの生えた生臭い醜(メグサ)い不思議な物」不詳。思うに、母は「たゞ之ればかりはお前の生れた所」であると言っているからには、後産(のちざん)の胞衣(えな)の一部であるようには、まず、思われるのだが、但し、「薄毛ブカの生えた」とあるのは不審で、或いは、彼と一緒に生まれるはずだった双生児の二重体の奇形化して分離した奇形嚢腫中の断片かも知れない(以前に調べた際、頭皮と髪の毛だけのそれを医学雑誌で見たことがある)。謂わば、生れるべきであった者の人体の一部であれば、これは類感呪術としての強い咒物となることは、明白である。

「法者」法士。方術士。所謂、民間で病魔・悪魔退散等の祈禱を行う山伏や、民間の巫覡(ふげき)・巫女等を指す。]

2023/03/29

愛する奈良岡朋子に――

愛する奈良岡朋子に――アディュ!…
四十数年前……貴女が中華街の店の真向かいにおられて、僕は何度か声を掛けたかったのに……

私が本気で貴女を愛したのは……黒澤の「どですかでん」の……唯一の――哀しい女の――それでありました…………

「曾呂利物語」正規表現版 第四 四 萬のもの年を經ては必ず化くる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵が赤茶けてひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     四 萬(よろづ)のもの年を經ては必ず化(ば)くる事

 伊豫國(いよのくに)、出石(いづし)と云ふ所に、山寺、あり。鄕里(さと[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を、へだつる事、三里なり。

 彼(か)の寺、草創のはじめ、二位(ゐ)と云ふ某(なにがし)、本願(ほんぐわん)として、年月を送りしが、いつの頃よりか、此の寺に、化物(ばけもの)ありて、住持の僧を、とりて、行方(ゆきがた)、知らず。

 その後(のち)、度々、住持ありけれども、いづれも、幾程なく、とり、終りぬ。

 今は、主(ぬし)なき寺になりしかば、如何(いか)にも破(やぶ)れて、霧、不斷の香(かう)をたき、扉(とぼそ)、落ちては、八月、常住のともし火を揭(かゝ)ぐるとも、いひつべし。

 斯かる處に、關東より、

「足利の僧。」

とて、上(のぼ)り、二位が許(もと)に來り、かの寺の住持を、望みける。

 二位が云ひけるは、

「此の寺は、しかじかの仔細有りて、中々、一時も勘忍なるまじ。寺は、さいはひ、無住の事なれば、易き程の事なれども。」

と云ふ。

「さればこそ、望みて候間、是非とも、彼の寺に行きなん。」

と云ふ。

 二位、更に請けずなりければ、押して、彼の寺に行きて見れば、寔(まこと)に、年久しく人の住まざりければ、荒れ果てたる態(てい)、實(げ)にも、變化の物も住むらんと覺ゆ。

 斯くて、夜(よ)に入り、暫(しば)しあれば、門より、

「物、申さん。」

と云ふ。

『さては。二位が許より、使(つかひ)、おこしけるか。』

と思ひたれば、内より、いづくとなく、

「どれ。」

と答ふ。

「圓遙坊(ゑんえうばう)は、御内(おうち)にご座候か。『こんかのこねん』、『けんやのはとう』、『そんけいが三足(さんぞく)』、『こんさんのきうぼく』にて、候。御見舞申すとて、參りたり。」

 ゑんえう坊、出で逢ひ、樣々(やうやう)に、もてなして後(のち)に、

「御存知の如く、久しく、生魚(なまざかな)、絕えて無かりつるところに、不思議なるもの一人(にん)、出で來りはべる。御歡待(おんもてなし)においては、不足、あらじ。」

と云ふ。

「客人も、寔に、珍しき事、あり。參り候事、何より、もつての御もてなしにてこそ候へ。夜(よ)と共に、酒盛を致し、食(く)はん。」

と、興に入りぬ。

 

Idusiyamaderanokai

 

[やぶちゃん注:右端上のキャプションは、「いよの国いづしといふ所にての事」である。]

 

 彼の僧は、元より、覺悟したる事ながら、

『彼等の餌食(ゑじき)にならんこと、口惜しき次第なり。さるにても、化け物の名字をたしかに聞くに、先づ、「圓遙坊」と云ふは、「丸瓢簞(まるへうたん)」なるべし。「こんかのこねん」は、「坤(ひつじ)の方(かた)の河(かは)の鯰(なまづ)」、「けんやのはとう」は、「乾(いぬゐ)の方の馬(うま)のかしら」、「そんけいの三足」とは、「巽(たつみ)の方の三つ脚(あし)の蛙(かへる)」、「こんざんのきうぼく」とは、「艮(うしとら)の方の古き朽木(くちき)の伏したる」にてぞ、あらん。彼等ごときのもの、如何に劫(こう)を經たればとて、何程の事かあるべき。常に筋金(すぢがね)を入れたるぼうを、つきて來たり。彼(か)の棒にて、何(いづ)れも、一討(ひとうち)の勝負なるべし。』

とて、大音聲をもつて、

「各々、變化(へんげ)の程を、知りたり。前々の住持、その根源を知らずして、遂(つひ)に、空しくなりぬ。我は、それには、事變るべし。手並の程を、見せん。」

とて、彼(か)の棒を、取り直し、爰(こゝ)にては、打ち倒し、彼處(かしこ)にては、追ひ詰め、丸瓢簞をはじめて、皆、一打ちづゝに、打ち割り、四つの物ども、散々に、打ち碎き、其の他(た)、眷族(けんぞく)の化物ども、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、ふくべ、すり小鉢の割れ、缺(か)けざ鉢(ばち)、摺粉木(すりこぎ)、足駄(あしだ)、木履(ぼくり)、蓙(ござ)の切れ、味喰漉(みそこし)、いかき、竹(たけ)ずんぎり、數(す)百年を經たるものども、その形を變じて、つきまとひたる所なり。

 かの棒に、一あて、あてられて、何かは、少しも、たまるべき、一つも殘らず、打ちくだきてぞ、捨てたりける。

 夜明(よあ)けて、二位が許より使(つかひ)を立てて見れば、僧は、恙も、なかりけり。

 さて、二位は、寺へ行きて、問ひければ、有りし事ども、委しく語る。

「眞(まこと)に、智者なり。」

とて、卽ち、彼の僧を、中興開山として、今に絕えず、古跡となり、佛法繁昌の靈地とぞ、なりにける。

[やぶちゃん注:「宿直草卷一 第一 すたれし寺を取り立てし僧の事」は本篇の転用。

「伊豫國(いよのくに)、出石(いづし)と云ふ所に、山寺、あり」現在の愛媛県大洲(おおず)市豊茂乙(とよしげおつ)にある出石山(いずしやま:標高八百十二メートル)山上に真言宗御室派別格本山金山(きんざん)出石寺(しゅっせきじ)ががあるが(グーグル・マップ・データ航空写真)、これをモデルとしたものか。但し、同寺の公式サイトや、当該ウィキの寺の歴史を見ても、本篇の内容と係わるような一致する過去は全く見られない。

「二位」岩波文庫の高田氏の注に、『伊予国の古い豪族「新居」氏のあて字』とある。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『古代から中世にかけての伊予国(愛媛県)の豪族。古代の豪族越智(おち)氏の流れをくむと伝えられる。平安時代の中期から台頭し、後期には東・中予地方に大きな勢力を有した。新居郡(新居浜市、西条市)を中心にして周敷(しゆふ//すふ)郡(東予市,周桑郡)、桑村郡(東予市)、越智郡(今治市とその周辺)、伊予郡(伊予市とその周辺)等に進出し、風早郡(北条市)からおこった河野氏と勢力を競った。平安末期には平家との関係が深くなり、その家人化していた』とある。

「本願」「本願主」(ほんがんしゅ)。自身の発願(ほつがん)によって個人的或いは自身の氏族のためにのみ建立した寺院を指す。

「とり、終りぬ」物の怪のために、完全に攻略され、掠奪されてしまった。

「足利の僧」高田氏の注に、『足利学校で学んだ』僧とある。

「如何(いか)にも破(やぶ)れて、霧、不斷の香をたき、扉(とぼそ)、落ちては、八月、常住のともし火を揭(かゝ)ぐるとも、いひつべし」ここは「平家物語」の、よく知られたコーダ「大原御幸(おはらごかう)」の冒頭部の一節を転用したもの。「八月」と珍しく仲秋の侘しい季節設定をするなど(但し、あまりに唐突で、私などはちょっとヘンに躓いた)、なかなか、作者の知的な工夫がなされている特異点ではある。「平家物語」は各種全巻を四種ほどを持つが、正字表記のものは持たないので、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文學大系』校註第十四巻(大正一四(一九二五)年国民図書刊)の当該部を視認して示す。読点・記号と一部の読みは、適宜追加してある。なお、こちらの時制設定は文治二年の『卯月二十日餘り』で、グレゴリオ暦換算では一一八六年の五月十七日以降で初夏である。

   *

 西の山の麓に一宇(いちう)の御堂(みだう)あり。すなはち、寂光院(じやうかうゐん)、これなり。ふるう作りなせる泉水・木立(こだち)、よしある樣(さま)の所なり。甍(いらか)、破れては、霧、不斷の香を焚き、扉(とぼそ)、落(おち)ては、月(つき)、常住(じやうぢう)の燈(ともしび)をかゝぐとも、斯樣(かやう)の所をや、申すべき。庭の若草、茂り合ひ、靑柳(あをやぎ)、絲を亂りつゝ、池の浮草、波に漂(たゞよ)ひ、錦を曝(さら)すかとあやまたる。中島(なかじま)の松にかゝれる藤波の、裏紫(うらむらさき)に咲ける色、靑葉まじりの遲櫻、はつ花よりも珍しく、岸の山吹、咲き亂れ、八重立(やへた)つ雲の絕(た)えまより、山時鳥(やまほととぎす)の一聲(ひとこゑ)も、君の御幸(みゆき)を待ちがほなり。法皇、これを叡覽あつて、かうぞ遊ばされける。

  池水にみぎはの櫻ちりしきて波の花こそさかりなりけれ

   *

「勘忍なるまじ」高田氏は同前で、『たえ忍ぶことができないだろう』と訳注されておられる。この台詞は、その僧を何となく見くびっている感も感じられるのだが、これから起こる変異を、読者側に、生半可なものではないと感じさせるホラー効果としては、よく効いているともいえる。

「ゑんえう」高田氏注に、『(円揺)は瓢簞の異名(『三才図会』)』とある。挿絵の壊れた瓢箪(ひょうたん)が描かれてあり、それが正体だというのである。これは生物ではないから、「付喪神」(つくもがみ)と言えなくもないが、瓢箪自体は元植物の実であるから、彼だけをつまはじきにするのは、やめておく。或いは、枯れ果ててぶら下がっていたヒョウタンの残骸かも知れんしな。

「こんかのこねん」以下、僧の名乗りの解読部分は、高田氏の注を一部で引用する。「坤」(ひつじさる/コン」で南西を指し、寺のその方角に正体が存在することの証しであり、これは『「坤家(こんか)の小鯰(こねん)」と解せる』とある。その方角にある「家」、則ち、「棲み家」であろうところの、沼か池か小流れかに巣食う、「ちっぽけなナマズ」が正体なのである。

「けんやのはとう」は「乾」(いぬゐ/ケン)」で「戌亥(いぬゐ)」で、北西を指し、同前で、これは『「乾谷(けんや)の馬頭(ばとう)」と解せる』とある。この馬頭は「馬の頭(かしら)」で、挿絵から、その辺りに転がっている「死んだ馬の頭骸骨」が正体。

「そんけいの三足」これは『「巽溪(そんけい)」の三足(さんそく)」』で「巽」(たつみ/ソン)lは「辰巳」で南東。その辺りに潜んでいる三本脚の奇形の蛙が正体。

「こんざんのきうぼく」は『「艮山(こんざん)の朽木(きゅうぼく)」』で「うしとら」は「丑寅」=「艮(うしとら/コン)」で鬼門東北に植わっていた朽ちた木の木片・破片(挿絵参照)が正体となるのである。

「筋金を入れたる棒」高田氏の注に、『芯に鉄棒を仕込んだ錫杖』とある。

「事變るべし」「そんな過去の連中とは、訳が違うぞ!」という僧のいさおしである。

「卷族」眷属。子分ども。

「すふくべ」徳利。土製の瓶。ここから後は、概ね、加工された物品であるから、真正の劫(こう)を経た付喪神であると断じてよい。

「いかき」竹で編んだ笊(ざる)、或いは、特に「味噌漉し笊」をも指す。ここは挿絵に従うなら、前者。

「竹ずんぎり」高田氏の注では、『竹を輪切りにした食器』とある。この語は「髄(ずん)切り」の意ともされ、「寸」は当て字とも言うが、一説には「すぐきり(直切り)」の音変化ともされる。なお、挿絵では、他に寺の厨房にあった擂り粉木や、砧(きぬた)或いは搗くための短い杵(きね)のようなものも、描かれてある。壊れた草履か雪駄のようなものもある。その下にあるのは、ちょっと判らないが、私には、少し大振りだが、法具の鈴(りん)二個のようにも見えなくはない。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一九番 蜂のお影

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     一九番 蜂のお影

 

 或所の立派な家に、娘が三人あつた。似合ひのよい聟が見つからなかつたので、聟探しの高札を門前に立てた。すると一人の男が、表の高札を見て來たが、俺が聟になり度いと申込んだ。其の家の主人(アルジ)は、よく來てくれた、俺の所の聟になり度いならば、先づ家の裏屋敷の森の中の御堂をよく掃除して見てくれと言つた。そこでその男は翌朝早く、大きな握飯を四つ貰つて、御堂掃除に出掛けたが、そのまゝ歸つて來なかつた。

 その次の日、また別の男が、俺が聟になりたいと言つて來たが、前の男と同じやうに、翌朝森の中の御堂掃除にやられて、そのまゝ歸つて來なかつた。

 その次の日にまた違つた男が、俺が聟になりたいと言つて來た。そして前と同じやうに握飯を四つ貰つて、翌朝早く森の中の御堂掃除にやられた。男が御堂を掃除して居ると、向うから霧のやな物がむくむくと立つて來た。男はそれに一つの握飯を半分かいて投げてやつて平氣で掃除を續けて居た。さうして居ると又霧が立つて來たから、又半分の握飯を投げて遣つた。斯《か》うして霧が立つごとに握飯の半分づつを投げてやつて、恰度握飯がみんな[やぶちゃん注:底本は「みん」。「ちくま文庫」版で補った。]無くなつてしまつた時に掃除が終つた。自分は握飯を食べないで娘の家に歸つて來た。

 其家の主人は、あゝよく御堂の掃除をしたなア。しかしそればかりでは俺の娘はお前にやられない。こんどは此藁一本を千兩に賣つて來いと言つて、藁一本(イツポン)を男に渡した。男は打藁一本手に持つて出かけた。そして水澤ノ町なら丁度寺小路のやうな所を步いてゐると、向ふから朴(ホウ)の木の葉を括《くく》りもしないで、風でも吹けば吹ツ飛ばされさうにして持つて來る人があつた。そこで男は自分の持つてゐる打藁を與へて、これで括るがよガすと敎へた。すると其人は、そのお禮に朴ノ葉を二枚くれた。

 男は貰つたその朴ノ葉を持つて、水澤ノ町なら大町の通りのやうな所へさしかゝると、向ふから味噌賣りが、

   三年味噌ア

   三年味噌ア…

 とふれながら遣つて來た。近づいて見ると味噌の入物《いれもの》には蓋もしてゐない。そこで男は持つてゐた朴ノ葉を二枚與へて、これをその味噌の上にかけて置くがよガすと敎へた。すると味噌賣りはそのお禮に三年味噌を玉にして二つくれた。

 男は貰つた味噌玉を二つ持つて步いて行くうちに日が暮れたから、或町の立派な家に泊めて貰つた。ところが其家の旦那樣が病氣で、三年味噌を食はなければ、どうしても癒らないと云つて居た。そこで男は持つてゐた三年味噌を其旦那樣にすゝめると、それを食べたお蔭で、次の朝にはすつかり快(よ)くなつた。旦那樣は大層喜んで、貴方(アンタ)のお蔭ですつかり永年の病氣が全快した。何かお禮をしたいが何が御所望だと訊かれた。男は俺は何にもいりませんと言ふと、そんだらこれでも是非取つて置いてクナさいと[やぶちゃん注:底本は『クナとさい』。誤植と断じて訂した。]言つて、千兩箱を一個男に與へた。斯うして男は、打藁一本を千兩の金にして、嫁の家に歸つた。

 娘の父親主人は、あゝお前はよくも藁一本を千兩の金にして歸つた。なかなか偉えが、もう一つの事を仕出かさなくては、俺の娘を遣られない。今度は家の後(ウシロ)の唐竹林に唐竹が何本あるか、日暮れ際《ぎは》までに算へてみろ。それが當つたら今度こそは眞實《まこと》に娘を遣ると言つた。男は唐竹林の前へ行つて立つて見たが、あんまり數が多いので呆氣《あつけ》に取られてぼんやり立つてゐると、スガリ(蜂)が飛んで來て、

   三萬三千三百三十三本

   ブンブンブン…

 と唸つた。それを聽いて男はすぐに戾つて、あの唐竹の數は、三萬三千三百三十三本御座りすと言つた。其家では村中の人達を賴んで來て、一本一本算へさしてみたら、たしかに唐竹の數はそれ丈《だけ》あつた。

 まづまづこれで三度の難題を首尾よく解いたので、最後にそれでは、三人の娘の中《うち》、どれがお前の嫁になるのだか、當てなくてはならぬと言はれた。そこで男は娘三人を座敷に並べて緣側から眺めて見たが、三人が三人とも揃つて同じやうな顏形なので、一向判斷がつかなかつた。男は當感して、まづ小便して來てからと言つて、厠へ立つて、考へて居ると、以前のスガリが飛んで來て、

   なかそだ、ブンブン

   なかそだ、ブンブン

 と唸つた。男はそれを聽いて座敷へ戾つて、中の娘がさうでありますと言つた。果して眞中に坐つている娘が嫁になる娘であつたから、男は目出度く、其家の聟になつた。

  (水澤町《みづさはちやう》邊の話。森口多里《たり》氏の御報告の分の一。)

[やぶちゃん注:「水澤ノ町」現在の岩手県奥州市水沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。遠野の南西四十キロ位置。

「寺小路」ここ。増長寺という寺が有意な部分を占める。

「朴(ホウ)の木の葉」モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata当該ウィキに、『ホオノキの葉は大きく、芳香があり、殺菌・抗菌作用があるため、食材を包んで、朴葉寿司、朴葉にぎり、朴葉餅(朴葉巻)などに使われる』。『乾かした若葉で』、『温かい米飯を包んだり、葉の上で肉を焼いて』、『葉の香り』も『楽しまれ』、『味噌や他の食材をのせて焼く朴葉味噌、朴葉焼きなどに』も『利用され、飛騨高山地方の郷土料理としてよく知られている』とある。

「水澤ノ町」「大町」寺小路の西南に接する奥州市水沢町大町

「三年味噌」丸三年間、木桶の中で熟成発酵させて造られた高級な味噌。

「スガリ(蜂)」蜂の俗称であるが、万葉時代の用法では、典型的な「狩り蜂」として知られるジガバチ(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini、或いは、その一種サトジガバチ(ヤマジガバチ) Ammophila sabulosaを狭義には指すことが多い)の古名で、同種が有意に腹部がくびれていることから、「女性の細腰」に喩えた。但し、本篇では、最初の難題に登場する「霧のやうな物」というものの正体が、蜂の群飛であると考えられることからは、ジガバチではあり得ない。ジガバチの生態は非社会性で、群飛することはないからで、ここは、ミツバチ(細腰亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属トウヨウミツバチ亜種ニホンミツバチ Apis cerana japonica を想起するのが適切であろうかとは思う。ただ、同種は握り飯は食わないが。

「森口多里」(明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八四)年)は美術史家・美術評論家で民俗学者。本名は多利(たり)。当該ウィキによれば、『岩手県胆沢郡水沢町大町』で『金物商を営む父』『母』『の次男として生まれ』、『一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て』、明治四三(一九一〇)年に『早稲田大学文学部予科に入学』、『在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される』。『また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人とな』った。大正三(一九一四)年、『早稲田大学文学部英文科を卒業し』、その『後は美術評論活動を行い』、ロマン・ロランの「ミレー評伝」『の翻訳や』、「恐怖のムンク」と『いった評論文を執筆した』。『森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で』五十『冊余の書作を世に送り出している』。『第二次世界大戦中、岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)に疎開した森口は』、『そのまま郷里に留まり』、『深沢省三や舟越保武らとともに岩手美術研究所を設立』、『後には岩手県立岩手工芸美術学校の初代校長を務めた』。『また』、『岩手県文化財専門委員として民俗芸能や民俗資料の保存調査に尽力し』、『収集した蔵書や研究資料は岩手県に寄贈され、岩手県立博物館や岩手県立図書館に収蔵されている』とある。佐々木喜善より六つ年下である。個人サイト「落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)」の『佐々木喜善と森口多里の「馬鹿婿噺」』によれば、『佐々木喜善の『聴耳草紙』には、森口多里が収集して記録した昔話や伝説が数多く提供されている。森口が採集した説話を挙げると、たとえば水沢町付近で採取した「ランプ売り」、同じ地域の「蒟蒻と豆腐」、芝居見物の「生命の洗濯」、笑い話の「鰐鮫と医者坊主」、下姉帯村の「カバネヤミ(怠け者)」、そして「馬買い」「相図縄」「沢庵漬」などの「バカ婿(むこ)」シリーズだ。特に、森口多里は「バカ婿」シリーズが大好きだったようで、地元の古老にあたっては積極的に収集していたフシが見える』。『「馬鹿婿噺」と総称される一連の伝承は、親が子どもを寝かしつけるときに語る昔話でも童話でも妖怪譚でもなく、大人が集まってヒマなときに披露しあう日本版アネクドートのようなものだったのだろう。もちろん、「バカ婿」シリーズだけでなく「バカ嫁」シリーズも数多く伝承されており、小噺の中にはかなり艶っぽくきわどい卑猥な笑いも含まれている。森口多里が集めた説話の傾向からすると、妖怪譚や昔話などの系列ではなく、滑稽でつい笑いを誘う大人の小噺収集に注力していたのではないだろうか』と述べておられる。リンク先には守口の肖像写真もあり、記事も興味深い。是非、読まれたい。]

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「鮎の登れぬ瀧」・「龍宮へ行つて來た男」・「人と鮎の智惠競べ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

      川 に 沿 つ た 話

 

 ○鮎の登れぬ瀧  前を流れる寒峽川[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]に二ノ瀧と云ふ瀧があつて、川の中央にある二ツの岩のから水が溢れ落ちてゐて、絕えず物凄い響をたてゝゐましたが、此處から二町程下つた所に、鵜の頸と云ふ淵があつて、大淵とも呼んでゐますが、此處は龍宮へ通じてゐるなどゝ謂ひました。此淵と二ノ瀧との間は、奇岩が重疊して、物凄い所でした。

 夏鮎が川下から登つて來て、此瀧を登る事が出來ない爲め、これより上流には鮎は居ませんが、昔上流の段嶺に城のあつた時、城主が瀧を破壞して鮎を誘はうと計ると、夢に龍神が現はれて、段嶺に城のある限り鮎を登らする約束をして、瀧の破壞を思留《おもひとど》まらせたと謂つて、段嶺に城のあつた閒は、上流にも鮎が居たなどゝ謂ひました。

 明治の初め頃、附近の村の材木商が申合せて此瀧の破壞を計畫すると、閒もなくその人たちが病氣になつたり、死んだりしたので、龍神の祟りだと怖れて、瀧の傍に、南無阿彌陀佛の文字を刻んで中止したと謂ひましたが、明治四十二年に、水力電氣の工事の爲めに破壞されて、昔の形はなくなりました。

[やぶちゃん注:「寒峽川」現行では「寒狹川」が正しいが、早川氏は「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図でも、『寒峽川』と記しておられるので、嘗てはこうも書いたものらしい。後の『日本民俗誌大系』版(一九七四年角川書店刊)でも、やはり『寒峡川』となっている。

「二ノ瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川(表記は既に述べた通り、『寒峽川』)の『ウノクビ及大渕』のすぐ上流、右岸から『大バニ川』が合流する、すぐ下流に『二ノ滝』とある。「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『二の滝は、長篠発電所の取水堰(花の木ダム)の本堤付近にあつたと思われます。子供の頃(昭和』三〇(一九五五)『年ごろ)父親が「オイ!、二の滝に行くぞ」といつて、大きなタモを持つて、鱒をすきに来たのを覚えています』。『岩の上からそつと覗くと』、四十・五十センチメートル『の鱒が川隅の浅瀬に出ているので、逃げ道に網を当てておいて、石を投げたり』、『中に入つて嚇したりして網に追い込んだものでした』と注を附しておられてある(写真有り)ことから、現在の「長篠堰堤」附近にあったことが判る。グーグル・マップ・データ航空写真のここで、サイド・パネルには九百七十六葉もの写真があるので、見られたい。また、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、この中央に「小さな滝」を示す記号らしきものが認められる(横棒線の下方に左右●二つ)ので、見られたい。

「此處は龍宮へ通じてゐる」完全な内陸で海から遠く離れていても、例えば、琵琶湖や、中部地方の山間でも、池や川の淵などが龍宮に通じているという伝承は枚挙に遑がない。例えば、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』を挙げておく。

「昔」、「上流の段嶺に城のあつた時」グーグル・マップ・データでこの附近を調べると、直近では、「塩瀬古城址」と「大和田城跡」が、また、その北西の山中に「城ヶ根城跡」がある。

「明治四十二年」一九〇九年。]

 

 ○龍宮へ行つて來た男  昔瀧川村の瀧川宋兵衞と云ふ男が、材木を川上から流して二ノ瀧にさしかゝると、其材木が全部瀧壺に落ち込んだまゝ、何時迄待つても浮んで來ないので、腹を立てゝ、刀を持つて瀧壺に飛込んで行つたと謂ひます。そしてだんだん奧深く潜つて行くと、遙か向ふに龍宮が見えたので、急いでゆくと、龍宮では、其男の材木をみんな薪にして、ちようど[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]其時、籠に入れて燃さうとしてゐる處なので、早速王樣に面會して段々事情を話して、其非を責めると、それでは一鍬田《ひとくはだ》のカイクラへ浮かべてやるから、歸つて待つてゐろと云はれて、急いで歸つて來たさうですが、自分には其間が僅か三時《さんとき》ばかりと思つたのが、家へ歸つて見ると、ちようど三年忌の最中であつたと謂ひました。そして材木は無事五里ばかり下流のカイクラへ浮んだと謂ひます。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。なお、「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『大淵⇒鵜の首』と題されて、『二の滝から』二『百メートル位下つたところが大淵で、その淵に流れ込むところを鵜の首といいます。大淵がちょうど鵜が羽を広げたような形をしているので、この様な名が付いたと思われます。大水の時は、川が上の岩盤と同じ高さで平らになつて、一気に二十メートルほど流れ落ち壮大な滝になります。そのため鵜の首から大淵にかけて、深くえぐられていつまでたつても埋まつて浅くなることはありません。竜宮に通じていると言い伝えられているのは、この鵜の首のところです』。『川小僧だつた私達も、二の滝は鰻を捕りに潜りましたが、鵜の首だけは潜つた者はありません。淵を泳いで渡るときに、淵が大きすぎて水が替わらないのか、水面から五十センチぐらい下は、異常に冷たかつたのを覚えています。竜宮まで通じているか定かではありませんが、二十メートルは優に超える深さがあると思われます』と注を附しておられてある(写真有り)。「大淵」前に述べた通り。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の『寒峽川』の『ウノクビ及大渕』とあるのが、それ(グーグル・マップ・データ航空写真)。名真もにし負う巨大な円形の淵であり、龍宮へ通じているという感じは満点である。

「瀧川村」前の「二ノ瀧」のあった上流直ぐの横山の対岸(右岸)(「ひなたGPS」)。

「一鍬田《ひとくはだ》のカイクラ」現在の愛知県新城市一鍬田(ひとくわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「カイクラ」は現在、「海倉橋」(かいくらばし:但し、ネット・データの中には「かいそうばし」と記すものもある)に名が残る。「萩さんのホームページ」の中の「牟呂松原頭首工」(むろまつばらとうしゅこう:「頭首工」とは農業用水を河川から取水するために、河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設(水門・堰堤・土砂吐(どしゃばき)等)を指す。用水路の頭の部分に当たることから、かく呼ぶ。 稲作は多くの水を必要とするため、古来から多くの先人達が苦労を重ね、頭首工の建設を行ってきたと「大分県」公式サイト内の「農村基盤整備課」の「頭首工とは?」にあった)のページには、『頭首工の横を通る橋は』、『海倉(かいくら)橋です』。『海倉橋のたもとには,以下の説明がありました』。『一鍬田の海倉淵は龍宮につづいているといわれます』。『昔から村に人が集まることがあって』、『お膳やお椀がほしい時』、『必要なだけ紙にかいてこの淵に流すと』、『やがて』、『お膳とお椀が紙にかいた数だけ浮いてきたということです』とあって、ここもまた、龍宮に通ずる聖なる場所であり、また、柳田國男の好きな「椀貸伝承」の一つにして、「龍宮伝説」とカップリングされたものであって、各地にある伝承である。因みに「大淵」から、この海倉橋までは、実測で十四・五キロメートルはある。

「三時」六時間ほど。まさに「浦島伝説」同様、異界での時間経過は恐ろしく異なるのである。]

 

 ○人と鮎の智惠競べ  こゝ(大淵)から川を四五丁[やぶちゃん注:約四百三十七~五百四十五メートル]降つた處に鮎瀧と云ふ瀧があつて、其から一丁[やぶちゃん注:百九メートル。]川下に矢筈と云ふ瀧があります。夏この瀧を飛上がる鮎を捕るのに、古老の話によると、四五十年前迄は、捕る術を知らなかつたさうですが、餘り鮎が飛ぶと謂つて、農事に使ふ箕《み》で受けて捕つたのが最初と謂ひます。私の記憶にある頃は、笠網と云ふ菅笠の形した網に竹の柄をつけたもので捕りました。六月一日から瀧番を決めて、一日四戶宛《づつ》番に當りました。雨上りの水量の增した時は、四斗樽に幾杯捕れたなどゝ謂つて、夕方暗くなつてから、岩の上で鮎の分前《わけまへ》を籤引《くじびき》にしたりしました。それから鮎がだんだん網を嫌つて、網を出すと飛ばなくなるなどゝ謂ふやうになつて、それ迄の手製の太い糸の網を改めて、細い透明な糸で造つた網を使ふやうになりましたが、それも僅かの間で、瀧の下に眞つ黑に押合つて、我がちに飛でゐた鮎が、網を出すと、ばつたり飛ばなくなると謂ひました。そんな風で、瀧番で行つてゐる者が、網を岩の上へ投げ出しては、ぢつと瀧を見詰めては考へてゐましたが、鮎が瀧に向つて飛上がつても水勢がはげしいので、水が岸の岩へ當つて卷返つてゐる所へ一度休んで、其處から泳ぎ上るのを發見したものがあつて、其處へ休みに來た鮎を待つて杓《すく》ひ取るやうにしますと、そこ迄は鮎も氣がつかないと見えて、其方法で非常に澤山捕れました。其の水が卷き返る處を、ザワザワと謂ひましたが、對岸の出澤《すざは》村には、このやうな天惠がないので橫山方《がた》を妬んで、種々な邪魔をしたものでした。しかし此方法も二三年で鮎が覺えてしまつて、其後はザワザワへ休まなくなつてしまつたので最早瀧を利用する途《みち》も絕へ[やぶちゃん注:ママ。]て、近年は、瀧の下へ集まつてゐる鮎を碇《いか》り針と云ふので、引かけて捕るやうになつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、当該地の写真(場所の詳細なキャプションも附されてある)とともに、『現在、私達がヤハズといつているのは、出沢』(すざわ)『側のピンコ釣の穴場です。ピンコ釣は、出水の時、鮎が遡上するのでよく釣れるのですが、水位が下がるにつれて、猿橋から上流に、順次、釣れる場所が移動していきます。その中でも「馬の背」と対岸の「ヤハズ」は最も釣果が多い処です。孝太郎がザワザワと言つているのは、馬の背岩の上流側のところだと思われます。今でも水がいい日にこの場所が取れれば、クーラーに何杯も鮎を釣る人がいます』。『滝番についての記述は、出沢区の鮎滝番のことと思われます。出沢区の鮎滝番は、正保三年』(一六四六年)『に、領主、設楽市左衛門貞信が瀧川家に「永代瀧本支配」のお墨付(すみつき)を与えたことにより始まり、大正』一五(一九二六)年には、『漁業組合との間で、笠網漁についての覚書を交わしています』と詳細な注記もなされてある。最後に『詳しくは、鮎滝のホームページを参照して下さい』とあつて、URLを記しておられるのだが、このURLは現在、機能していないので、取り敢えず、サイト「鮎滝笠網漁」の「笠網漁のご案内」のページをリンクさせておくこととする。ここに出る「ピンコ釣」とは、yamame_ayu氏のブログ「愛知三河の鮎・アマゴ・レインボー・うなぎ・スッポン他」の「鮎のピンコ釣り」によれば、『仕掛けはオモリを一番下につけ』、『その上に複数の針を結んで』、『深い場所に沈め縦の岩盤に付く鮎や』、『泳いでいる鮎を竿をしゃくって』、『引っ掛ける釣り方』とあり、その前で、『私がホームグラウンドにしている愛知県内の豊川水系や矢作川水系のポイントでは』、『針を沢山結んで、流れに入れて』、『鮎の掛かるのを待つナガシガリ(待ちガリ)で鮎釣りをする人はよく見かけますが』、『ピンコ釣りといわれる釣り方で鮎を釣っている人は』、『私が知る限り』、『一人だけです』とされ、『そのポイントも』、『深さのある岩盤の』一『か所だけです』とあって、現地では、殆んど廃れてしまった漁法らしい。因みに、私の父は鮎の毛針り釣りを、永年、趣味としていて、協議会の機関誌まで発行していた。

「鮎瀧」既出既注

「矢筈と云ふ瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央下の『寒峽川』の『矢筈滝』とあるのが、それであるが、ここは位置的には、現在の寒狭峡大橋の直下やや下流にある瀧が、それらしくは見える(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「出澤村」現在の新城市出沢(すざわ)。「ひなたGPS」でここ

「碇り針」調べてみると、鮎の友釣りの仕掛けらしい(私の父は友釣りが嫌いなため、私もやったことがなく、知識もない)。サイト「#gunma上毛新聞」の「【アウトドア】㊸釣り場の癖に応じた道具をアドバイス ワカサギやアユ釣り助言 つりピット!プロショップマツダ(高崎市江木町)」に、友釣りの仕掛けは、三、四『本の針を』、『船のいかり状に束ねた「いかり針」を』一『カ所に付けるのが一般的』とあったからである。グーグル画像検索「アユ イカリ針」をリンクさせておく。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 二人(ホフマンスタール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  二   人 ホフマンスタール

 

彼女は彼に盃を持つて來た、

彼女の顎と口とはそれの緣(ふち)のやうであつた。

かるくかるく またしつかりと步いて來て、

彼女は台盃から一しづくもこぼさずに跳びはねた。

彼は、 かるいしつかりした手で、 精に充ちた火のやうな種馬を檢束した。

そして、 だらしのない身振で、

彼は、 ふるへる馬を立ちどまらした。

 

然し、この軽いもので滿された盃をとらうとして

彼の手がさはつたとき、

それがポンドほども重かつた。

その譯は、 彼等の二人がふるへたので

お互の手が分らなかつた、

それで、 暗い酒は地の上にこぼされた。

 

[やぶちゃん注:フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホフマンスタール(Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal 一八七四年~一九二九年)はオーストリアの詩人・作家・劇作家。ウィーン世紀末文化を代表する『青年ウィーン』(Jung-Wien)の一員であり、印象主義的な新ロマン主義の代表的作家である。その文学的早熟性は当該ウィキを読まれたい。作品執筆にはドイツ語を用いた。詩全集は一九〇七年に刊行されている(Gedichte:詩(韻文))。大手拓次の訳は恐らくはフランス語からの重訳と思われるので、原詩は探さない。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 三 狐再度化くる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     三 狐再度(ふたたび)化くる事

 さる何某(なにがし)、召し使ひける男、妻に離れ、幾何(いくばく)もなきに、彼(か)の妻、夜な夜な、來たり侍る。

 彼の男の心、空(そら)にや有りけるやらん、化生(けしやう)の物とも知らず、いつもの如く思ひ、夜な夜な、傍(かたはら)を離れず、云ひ侍る。

 傍輩ども、聞きつけて、

「斯かる不審なる事こそ、なけれ。いざ、持佛堂を見ん。」

とて、彼の者の家に行き、伺ひ見れば、人の云ふに違(たが)はず。

 思ひ呆れたるところに、二人、相向かひてぞ、居たりける。

「とかく、押し入り、女も、男も、捉(とら)へ見ん。」

と、云ひ合はせて、彼(か)の家に押し込み、男女共に、抱きとりけり。

 斯くする内、燈火(ともしび)、消えぬ。

「女を、とり放すな。」

と、聲々に云ひて、外に出で、松明(たいまつ)を點(とも)してあれば、彼の男の主(しう)の飼ひける、唐猫なり。

 脇よりも、

「聊爾(れうじ)を、すな。殿の御祕藏の唐猫なり。」

と云ひければ、抱(いだ)きける者、少し、たゆみける内に、

「くわい、くわい、」

と云ひ、藪の中(うち)に入りぬ。

「さては。狐にてありけるものを。」

と、人々、頭を搔きける、とぞ。

[やぶちゃん注:「空(そら)にや有りけるやらん」岩波文庫の高田氏の注に、『虚脱して、正気でなくなったのか。』とある

「云ひ侍る」同前で、『夫婦のかたらいをしていた』とある。

「持佛堂」主人公は雇人であるから、やはり高田氏の注にある、『ここでは仏壇のある仏間のこと』、或いは、下人で仏間というのも何だから、位牌をおいてある奥の仕切り部屋ということであろう。

「聊爾(れうじ)」(りょうじ)は「軽率・迂闊(うかつ)」或いは「不作法・失礼なこと」で。ここは前者。

「くわい、くわい、」民俗社会での狐の鳴き声のオノマトペイア。「こんくわい」が知られ、漢字では「吼噦」、現代仮名遣「こんかい」。狐の鳴き声から転じて、「こんくわい」は「狐」を指す語ともなった。現在の「こんこん」の古形。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一八番 蜂聟

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     一八番 蜂   聟

 

 或る長者どんに、太郞と勘吉と三藏と云ふ三人の下男があつた。或日勘吉は家に居て馬飼(ウマアツカ)ひをして居《ゐ》、三藏は旦那樣と一緖に町へ行つた。

 太郞は草刈りに行けと言ひつけられて野原へ行く途中で、村の子供等五六人が蜂の巢を見つけて石を投げつけたり小便をしツかけたりして大變蜂をイジメテ居るのを見た。太郞は不不憫に思つて、懷中(フトコロ)に貯えて[やぶちゃん注:ママ。]置いた小錢を出して、その蜂を買ひ取つて、山に連れて行つて放して遣つた。

 それから三日ばかり經つと、旦那樣が三人の下男を呼び寄せて、今日俺が屋根の上から大石を轉がし落すから、それを下に居て地面に落さぬやうに受け止めた者を此の家の一人娘の聟にすると言つた。それを聽いて二人の朋輩どもは、俺こそ此の家の聟殿になれると言つて大威張りで居たが、太郞は自信がないから、相變らず野原さ草刈りに行つた。そして草をさくさくと刈つて居ると、何處かで斯《か》う云ふ歌を唄ふ小さな聲が聞えた。

   太郞どの太郞どのヤ

   屋根から落ちて來る大石は

   石ではなくて澁紙だ

   澁紙だア、ブンブンブン…

 見るとそれは此の前に助けて遣つた蜂であつた。これはよい事敎はつたと思つて勇んで家へ歸つた。

 夕方マヤマヤと暗くなつた頃に、旦那樣は屋根へ上つて、軒下に三人の下男を立たせて置いて、それア誰でも受け止めろツと言つて一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]四方ばかりの大石を棟の上からごろごろと轉がし落して寄越(ヨコ)した。二人の下男はヒンと叫んで遠くへ逃げ去つたが、太郞ばかりは大手を擴げて、やつとばかりにそれを受け止めた。やつぱり澁紙であつた。そしてめでたく長者どんの花聟になつた。

  (昭和四年、角館小學校高女一、鈴木貞子氏の筆記摘要。武藤鐵城氏御報告分の一)

[やぶちゃん注:「マヤマヤと」岩手方言であろうが、不詳。「もやもやと」で「徐々に薄暗く視界がぼんやりしてくるさま」であろう。渋紙の張りぼてがバレぬように、黄昏れ時を選んだのである。]

2023/03/28

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 『鄕土硏究』第一卷第二號を讀む

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では、本篇は「南方雜記」から外して、それの後に配されてある。]

 

      『鄕土硏究』第一卷第二號を讀む

            (大正二年五月『鄕土硏究』第一卷第三號)

 

 「鯨の位牌の話」(九〇頁)に載つた、諏訪の祠官「鹿食無ㇾ穢《しかくひ、ゑ、なし》」の章の異傳が、「諏訪大明神繪詞」に出て居る。是には、延文元年源尊氏奧書があるから、鐮倉時代の行事を記したらしい。其卷下に、『正月一日、祝《はふり》以下の神官・氏人、數百人、荒玉社若宮寶前を拜し、偖《さて》、御手洗河《みたらしがは》に歸りて、漁獵の義を表《あらは》す。七尺の淸瀧の冰《こほり》閉《とぢ》て、一機《ひとはた》の白布、地に布《し》けり。雅樂數輩、斧鉞《ふゑつ》をもて切り碎けば、蝦蟇《がま》、五つ六つ、出現す。每年、不闕《かかざる》の奇特なり。壇上の蛙石《かへるいし》と申す事も故あることにや。神使六人、赤衣きて、小弓・小矢を以て是を射取《いとり》て、各《おのおの》串にさして捧げ持《もち》て、生贄《いけんいへ》の初とす』云々。『業深有情、雖ㇾ放不生故、宿人身、同證佛果〔業深き有情(うじやう)は、放つと雖も、生きざる故に、人身に宿りて、同じく佛果を證す〕』云々と見える。「沙石集」卷一上に、山法師が、琵琶湖の鮒を取《とり》て、「汝、放つまじければ、不ㇾ可ㇾ生〔生(い)くべからず〕、たとひ生《うま》るとも不ㇾ可ㇾ久〔久しかるべからず〕、生ある者は、必ず、死す。汝が身は我が腹に入《いら》ば、我が心は、汝が身に入れり。入我々入《にふががにふ》の故に、我が行業《ぎやうごふ》、汝が行業と成《なり》て、必ず、出離すべし。然《しか》らば、汝を食《くひ》て、汝が菩提を訪《とぶら》ふ可し。」とて、打殺《うちころ》してけり。まことに慈悲和光の心にて有けるにや、又、只、ほしさにころしけるにや、おぼつかなし。信州の諏訪、下野の宇都宮、狩を宗として、鹿、鳥なんどをたむくるも、このよしにや。」と有る。「書紀」卷十、吉野の國、樔人《くすひと》、煮蝦蟆上味〔蝦蟆(かへる)を煮て上味とす〕と有るに參して、本邦、古え[やぶちゃん注:ママ。]、蝦蟇を珍膳とする方俗、處々に有たと知れる。

[やぶちゃん注:「鯨の位牌の話」柳田國男が大正二(一九一三)年四月発行の『鄕土硏究』第三巻第十一号に発表した論考。本篇のために先立って電子化注しておいたので、まずはそちらをお読みあれかし。

「諏訪大明神繪詞」「国立国会図書館デジタルコレクションの『信濃史料叢書』中巻(信濃史料編纂会編・昭和四四(一九六九)年歴史図書社刊)のこちらの右ページ下段から左ページ上段で当該部が視認出来る。一応、校合したが、一部は熊楠の表記に従った。

「延文元年」一三五六年。

「源尊氏」室町幕府将軍足利尊氏。彼は河内源氏義国流足利氏本宗家第八代目棟梁である。延文三(一三五八)年四月三十日に背部の腫瘍で亡くなっている。

『「沙石集」卷一上に、山法師が、……』所持する岩波文庫版(築土鈴寛校訂・一九四三年刊)で校合した。そちらでは、「卷第一」の「八 生類を神明に供ずる不審の事」にあり、所持する岩波の『日本古典文学大系』版の「沙石集」の「拾遺」では、同書の古本にある旨の注がある(同書はかなり異なる伝本が複数ある)。国立国会図書館デジタルコレクションの元和四 (一六一八)年の版本では、「第一下」の中の「生類神明供不審事」のここに出る。

『「書紀」卷十、吉野の國、樔人《くすひと》、煮蝦蟆上味国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫の黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」(昭和六(一九三一)年刊)の当該部をリンクさせておく。「樔人」は古代、現在の奈良県吉野地方にいた土着の住民で、「国栖」「国巣」とも書く。記紀の神武天皇の伝説中に、「石押分」(磐排別:いわおしわけ)の子を「吉野国巣の祖」と注しているのが、文献上の初見である。]

 紀州西牟婁郡朝來《あつそ》村に、大きな諏訪明神の社が有たが、例の合祀で全滅された。其邊に楠本氏の家が多い。信州より移り來たと云ふ。色々、古傳說も有たらしく、異樣の祭儀も有たが、廢祠と俱に信を得難くなつたのは惜しむ可し。和歌山近傍に宇須《うず》明神の社有りしが、是も合祀で滅却された。其邊に諏訪と云ふ侍が有て、藩士が鹿を食ふ前に、その侍の使ふた箸を貰ひに往《いつ》た。岡本柳之助、諏訪秀三郞、其れから、二人の兄に、「諏訪船」とか云ふ物を創製した海軍士官〔名は親昌とて、退職海軍中佐とかで、數年前迄、友人杉村楚人冠《そじんかん》の我孫子《あびこ》の宅の隣りにすみ居たりと、きいた〕、孰れも兄弟で、其家から出た。永々《ながなが》、巴里に寄留する秀三郞君から、右の次第を聞いたが、言語風采、丸で、佛人に成つて了《しま》つた人の事故、由緖等、更に分らぬ。一八六三年板、ミシェル・プレアルの「エルクル・エ・カクス論」六四頁に、移民は、多く祖先來の傳話を、遠地へ將來、持續す、と有るより推すと、件《くだん》の宇須明神は、諏訪氏が古く信州より頒《わか》ち移した者かと思ふ。

[やぶちゃん注:「紀州西牟婁郡朝來村」現在の和歌山県西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)朝来あっそ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。田辺の南東に接する。

「諏訪船」不詳。

「杉村楚人冠」私の「南方熊楠 履歴書(矢吹義夫宛書簡)(その1)」の注を参照されたい。

「我孫子」手賀沼と北の利根川の間に当たる千葉県我孫子市

『ミシェル・プレアルの「エルクル・エ・カクス論」』フランスの言語学者・比較神話学者であったミシェル・ジュール・アルフレード・ブレアル(Michel Jules Alfred Bréal 一八三二年~一九一五年)が一八六三年に刊行した比較神話学書「ヘラクレスとカークス」(Hercule et Cacus:「カークス」はローマ神話に登場する巨人の怪物。火神ウゥルカーヌスの息子)。]

 明治二十六年、予、倫敦で、至つて、貧しく暮らし、居常、斷食して讀書した。直《すぐ》近所に、去年、死んだ博覽多通家アンドリュウ・ラングの邸が有《あつ》て、學友から紹介狀を貰ふたが、街え[やぶちゃん注:ママ。]出ると犬に吠えられる體《てい》故、到頭、會はずに仕舞つた。「梅が香や隣りは」の句を思出して可笑しかつた。仕事が無いから、當時、巴里の「ギメー」博物館に讀書中の土宜法龍師と、以ての他、長い書翰で、每度、雜多の意見を鬪《たたかは》した。何を書いたか、多分は忘れたが、其時の予の翰は、悉《ことごと》く、土宜師の手許に現存すと聞く。一つ確かに覺えて居《を》るのは、吾國に古く銅鐸が出た事と、橘南谿の「東遊記」に見えたる出羽の飛根《とびね》の城跡抔の例を引き、南洋イースター島抔の由緖不知《しれず》の大墟址抔に照《てら》して、吾邦上代に、今日の邦人が思ひも付《つか》ぬ、種類、全く懸隔した開化が有た事を述べ、又、弘法大師が銘を書た茨田池《まむたのいけ/まんたのいけ/まんだのいけ》の碑を例として、中古の物にも、後人が、中々、企て及ばぬ物、有る由を論じた。確か、其時、飛根等の城址を、オハヨ、ミシシッピ谷の諸大城塚に同じく、今日、全滅した民族が建てた物だらうと述《のべ》たと覺えるが、最近の硏究によると、北米の大城塚は、全く跡絕えた民族の作でなく、之を建てた輩の後裔が現存し乍ら、全く其傳を失つた者らしい(「大英類典」十一板、卷十八、九三五頁)。して見ると、文字の用を知《しら》なんだ時代の事は、吾邦にも、多く、其傳を失ふたので、必しも、大城を築いた邦人が絕滅したので無いかとも思ふ。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。

「アンドリュウ・ラング」「南方熊楠 履歴書(その17) 自力更生」の私の注を参照されたい。

「梅が香や隣りは」「梅が香や隣は荻生惣右衞門」は宝井其角の句と言って人口に膾炙する句であるが、現在、この句は杉山杉風の弟子であった松木珪琳のものとされている。私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 梅が香や隣は荻生惣右衞門』を参照されたい。

『「ギメー」博物館』パリにある国立の東洋美術専門美術館であるギメ博物館Musée Guimet)。ギメ東洋美術館(Musée national des arts asiatiques Guimet)とも呼ぶ。

「土宜法龍」(どきほうりゅう 嘉永七(一八五四)年~大正一二(一九二三)年)は尾張出身で、本姓は臼井。真言宗の高僧。上田照遍に師事した。明治二六(一八九三)年にシカゴで行われた「万国宗教大会」に参加した後、ロンドンで熊楠と親交を結んだ。明治三十九年に仁和寺門跡・御室派管長、大正九年には高野派管長となった。熊楠との往復書簡は哲学的に非常に面白いものである。

『橘南谿の「東遊記」に見えたる出羽の飛根の城跡』国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』の第三十四の「東西遊記」(塚本哲三等編・大正六(一九一七)年有朋堂書店刊)のここから視認出来る。この「飛根の城跡」は現在の秋田県能代市二ツ井町(ふたついまち)飛根(グーグル・マップ・データ航空写真)。橘の記載にある「鶴形」(つるがた)も、この西南西直近の秋田県能代市鶴形。但し、現在、何らかの遺跡指定はなされていないようである。

「オハヨ、ミシシッピ谷の諸大城塚」これは、アメリカの古代文化で、現在のアメリカ合衆国中西部・東部・南東部にまで広がっていた、地域によって様々な形態を成した「ミシシッピ文化」のことを指す。「オハヨ」はオハイオ州のことで、この文化は北東部ではそちらまで達していた。マウンド(塚:上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化で、凡そ紀元後八〇〇年から一五〇〇年まで栄えたとされ、参照した当該ウィキによれば、『その人々は持っていた技術からみて』、『ヨーロッパの銅器時代に比定される』とある。]

 偖《さて》、喜田博士が「法苑珠林」から引た、所謂、日本の阿育王塔の聞書は、『珠林」よりは七年前に成た釋道宣の「三寶感通錄」卷一に出て居る。「珠林」に『會丞』と有るに、此書には『會承』と有る。前者爲ㇾ正〔前者を正となす〕の義に隨はば、『承』を正とすべし。「珠林」と少しく文意が差《ちが》ふから、今、全文を擧ぐ。倭國在此洲云々、有會承者、隋時來ㇾ此學、諸子史統及術藝、無事不一ㇾ閑、武德之末猶在、至貞觀五年、方還本國、會問、彼國昧谷東隅、佛法晩至、未已前育王不、會答、文字不ㇾ言、無以承據、驗其事迹、則是所ㇾ歸、何者有人開發土地、往往得古塔露盤佛諸儀相二一、故知素有也。〔倭國は、此の洲の外に在り云々。會承といふ者有り。隋の時、此に來たりて、學ぶ。諸子、史統及び術藝、事として、閑(なら)はざるなし。武德の末、猶、在り。貞觀五年に至りて、方(はじ)めて、本國に還る。會に問ふ、「彼(か)の國は、昧谷(まいこく)の東の隅にて、佛法、晚(おく)れて至る。未だ知らず。已前(いぜん)に育王の及べるや不(いな)や。」と。會、答ふ、「文字は言はず。以つて承據(しやうきよ)すること無けれど、其の事迹(じせき)を驗(けん)するに、則ち、是れ、歸する所なり。何となれば、人の土地を開發する有るに、往往、古塔の露盤・佛の諸(もろもろ)の儀相を得。故に素(もと)有りしことを知んぬ。」と。〕是には、神光を放つ等の虛譚が無い。

[やぶちゃん注:漢文部は熊楠が支持する「三寶感通錄」を「大蔵経データベース」で調べて校合した。一部に漢字をそれで補い、推定で返り点を加えた。

「喜田博士」歴史学者・文学博士で考古学や民俗学も取り入れて学問研究を進めた喜田貞吉(きたさだきち 明治四(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)。この引用の元論考は不明。

「阿育王塔」分骨した釈迦の遺骨を納めるために作られた仏塔のこと。

「貞觀五年」唐代の太宗の治世の元号。六三一年。

「昧谷」日の入る所。]

 和歌浦近き愛宕山の住僧愛宕貫忠師(今九十歲近し)、十年許り前、語られしは、女形役者で高名だつた芳澤《よしざは》あやめは、日高郡山の瀨と云ふ地の產也。其が斯る極《ごく》邊鄙の出に似ず、古今の名人成たので、其頃、所の者が、「山の瀨の瀨の眞菰の中で、菖蒲咲くとは、しほらしや。」と唄ふた(一〇一頁參照[やぶちゃん注:本書のページではない。「選集」に『前田林外「潮来と民謡」』とある。当該記事は確認不能。])。あやめの父は無下の農父だつたが、非常に忰が役者となつたのを恥《はぢ》て、一生、久離《きうり》して音信せなんだ、と。右の唄は、眞僞、如何《いかが》はしいが、此人、日高郡の產に相違なきにや、「紀伊國名所圖會」にも、日高郡の卷に、其肖像を出し有ると記憶する。〔(增[やぶちゃん注:「増補」の意。])福岡彌五四郞の「あやめ草」には、『あやめ、申されしは、「我身、幼少より道頓堀に育ち、『綾之助』と申せし時より」云々』と有て、紀州生れといふ事、見えず。是は、今日、某侯爵や某男爵が、吾祖先は劫盜《ごふたう》[やぶちゃん注:強盗に同じ。]、又、ラヲシカエから立身した、と主張せぬごとく、生所《せいしよ》を隱したのだ。貫忠師、又、言《いひ》しは、紀州家の菩提所、濱中の長保寺の昔しの住職は、無下の水呑百姓の子で有た。僧となりて、幼少より精勉して榮達したと聞いて、その父、悅ばず、「吾れは、菩提の爲に彼《かの》者を出家せしめたのに、諸侯の菩提寺にすはるやうな不所存な者は、後生も、賴まれず。」とて、老夫婦づれで廻國したが、途中で追剝《おひはぎ》に遇《あふ》て殺された、と。此貫忠師は、和歌の名人で、若い時、小林歌城抔と交りあり、色々、珍談、多い人だつた。迚も、今まで生き居る人でないから、聞た丈《だけ》の事、書付けおく。〕

[やぶちゃん注:「和歌浦近き愛宕山の住僧愛宕貫忠」和歌山県和歌山市栄谷(さかえだに)に愛宕山はある。山麓に幾つもの寺はある。「愛宕貫忠」なる僧は不詳。

「芳澤あやめ」初代芳澤あやめ(延宝元(一六七三)年~享保一四(一七二九)年)は元禄から享保にかけて、大坂で活躍した女形歌舞伎役者。当該ウィキによれば、『屋号は橘屋。俳名に春水。本姓は斎藤。通名を橘屋』權七と称した。『紀伊国の中津村(和歌山県日高川町)の生まれ』で、五『歳の時に父を亡くし、その後』、『道頓堀の芝居小屋で色子として抱えられ、吉澤綾之助を名乗った。はじめ三味線を仕込まれたが、丹波亀山の筋目正しい郷士で』、『有徳の人として知られた橘屋五郎左衛門が贔屓となると、その強い勧めで』、『女形としての修行を重ねた。後年』、『女形として大成したあやめは、この橘屋五郎左衛門の恩を一生忘れず、屋号の「橘屋」も彼にあやかって用いるようになったという。のち』、『口上の名手・水島四郎兵衛方に身を置き、初代嵐三右衛門の取り立てで、若衆方として舞台を踏』んだ。元禄五(一六九二)年に『京に上り、元禄』八『年』『に太夫の号を取得して芳澤菊之丞と改名。元禄』十一『年』には「傾城浅間嶽」での『傾城三浦役が人気を博』した。正徳三(一七一三)年十一月には、『江戸に下り、翌年』十一『月に帰京。その』二『年後には役者評判記』「三ヶ津惣芸頭」で『高い評価を受け』た。享保六(一七二一)年には、『立役に転じて』、『芳澤權七を名乗』ったものの、『不評で』、『女形に戻』った。『この前後に「吉澤あやめ」を名乗ったといわれているが、詳細は不明』。享保十三年に隠居したが、翌年、死去した、とある。また、『初代あやめは、舞台だけでなく』、『日常生活でも常に「女性」を意識していなければならない』、『と門人に教えていた』。『食事は、みなから離れて一人で食べなくてはいけない、食べている時に男になってしまったら』、『相方の役者がどう思うか、そこまで考えなくてはいけない、という徹底したものだった。初代のこうした「芸談」は、それを直に見聞きしたという狂言作者の福岡彌五四郎が晩年に口述、この他にも数人の役者の芸談を加えて』「役者論語」に『まとめられた』とある。この内容からも、彼の父の話はデタラメであると断じてよかろう

「久離」「舊離」とも書く。江戸時代、不品行の子弟が失跡などをした際、連帯責任から免れるため、目上の親族が、奉行所に届け出て、失跡者を「人別帳から除名し、縁を切ることを言う。「勘当」と混同されるが、違う。

『「紀伊國名所圖會」にも、日高郡の卷に、其肖像を出し有る』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらでその挿絵を見ることが出来る。

「福岡彌五四郞」(生没年不詳)は江戸前・中期の歌舞伎役者で歌舞伎作者。立役を経て、親仁方・道外方となった。元禄一三(一七〇〇)年、京都夷屋座で福岡弥五四郎を名のり、作者も兼ねた。享保になって、近松門左衛門の「国性爺合戦」を脚色、大当たりをとった。初名は藤村一角。前名は藤村宇左衛門。別名に京屋弥五四郎(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「ラヲシカエ」よく判らぬが、これは「羅宇屋(らうや)」のことではなかろうか。「らう」は煙管(きせる)の火皿と吸口の間を繋ぐ竹管を指す。インドシナ半島のラオス産の黒斑竹を用いたのが、この名の起こりとされる。江戸時代に喫煙が流行するとともに、三都などで「らう」の「すげかえ」を行う「羅宇屋」が生まれた。「らう」は時を「らを」とも記し、「すげ換え」は「仕(し)換へ」と通ずることからの連想である。行商の彼らは、やはり蔑まれた人々であった。

「濱中の長保寺」和歌山県海南市下津町(しもつちょう)上(かみ)にある天台宗慶徳山長保寺。紀州藩主紀州徳川家歴代の墓所がある。当該ウィキによれば、『同地の歴史的な地名は紀伊国海部郡浜中荘上村。長保寺の塔頭・吉祥院は、仁和寺が荘園領家である浜中荘(濱中荘)の荘務を委任されていたことから、浜中荘がまとめた田数目録などの文献のなかには』、『往事の長保寺の伽藍の規模を考察する上での貴重な資料となる記載も多い。浜中荘はこの長保寺を中心にして平安時代末から室町時代にかけて栄えていた』とあった。]

 頭白《ずはく》上人緣起(一一一頁[やぶちゃん注:前と同じく本書のページ数ではない。「選集」に『吉原頼雄「頭白上人縁起伝説」』とある。当該論考は現認出来ない。])は、佐夜中山夜啼石の話と同類らしい。穗積隆彥の「世田谷私記」に、世田谷の吉良賴康の妾《めかけ》常盤、不義の事有《あり》て、懷胎にて殺害せられけるに男子を生めり、といふ事あり。何れも佛經の飜案だらう。劉宋の沮渠京聲《そきよけいせい》譯「旃陀越國王經《せんだおつこくわうきやう》」に、旃陀越王が特寵する小夫人《しやうぶにん》、孕む。他の諸夫人、王が信用する婆羅門に賂《まひなひ》し、此人凶惡、若其生ㇾ子、必爲國患〔此の人は凶惡なり。若(も)し、其れ、子を生まば、必ず、國の患(わざは)ひと爲(な)らん〕と讒《ざん》し、小夫人を、殺し、埋めしむ。塚中で、男兒、生れしを、母の半身、朽《くち》ずして、乳育す。三年、經て、塚、崩れ、兒、出でて、鳥獸と戲れ、夜分、塚に還る。六歲の時、佛、之を愍《あは》れみ、出家せしめ、後、羅漢と成る。佛、命じ、往《ゆき》て父王を敎化せしむ。此僧、王を見て、「何を憂ふるぞ。」と問ひしに、「嗣子無きを憂ふ。」と答ふ。僧、聞き笑ふて許り居るので、王、之を殺さんとす。僧、察し知《しり》て、便輕擧飛翔、上住空中、分身散體、出入無間。〔便(すなは)ち、輕く擧がりて飛翔し、上(ぼ)りて、空中に住(とどま)り、分身、散體して、無間(むけん)に出入す。〕王、之を見て、恐れ入り、伴《ともなひ》て、佛を訪《と》ふ。佛、便ち、因緣を說く。この僧、前身、貧人たりし時、酪酥《らくそ》を比丘に施す。其功德で、王に生まれしが、人の好《よ》き母牛《めうし》、犢《こうし》を孕めるを見、人をして、其牛を殺さしむ。天人、諫めて、犢のみ、殺さしめず。牛主《うしのあるじ》、還つて、牛の腹を破り、犢を取り養ひ、怒つて、「後世《ごぜ》、王をして、此の犢の如く、ならしめん。」と詛《のろ》ふ。王の後身、此僧となり、生れぬ内に、母、殺さる。母は、前世の王夫人也。婆羅門は牛主也。此僧、前世、酪酥を比丘に施したので、今生《こんじやう》にも死《しん》だ母の乳で育つたちう事ぢや。按ずるに、上述、「無間に出入す」と云ふ句に據《よつ》て、「佐夜中山、無間の鐘。」抔と、云出《いひだ》したのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「旃陀越國王經」は、一応、「大蔵経データベース」を確認した。

「頭白上人緣起」サイト「茨城の民話WEBアーカイブ」の「頭白上人伝説:生まれ変わって敵を倒す」、及び、「頭白上人伝説:飴を買う幽霊」を見られたい。

「佐夜中山夜啼石の話」当該ウィキを読まれたい。ここに現在も残る(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

『穗積隆彥の「世田谷私記」』国立国会図書館デジタルコレクションの『世田谷区史料』第一集(昭和三三(一九五八)年)のこちらで当該内容が確認出来る。

「無間」この場合は私は「無限空間」の意ととる。

「酪酥」牛や羊の乳を煮て、又は、発酵させて造ったもの。チーズやヨーグルトの類。

『「無間に出入す」と云ふ句に據《よつ》て、「佐夜中山、無間の鐘。」抔と、云出したのかも知れぬ』ちょっと違うだろう。これは、小夜の中山の近く、静岡県掛川市東山にあった曹洞宗観音寺にあった鐘のことだろう。この鐘をつくと、来世では無間地獄に落ちるが、この世では富豪になるという伝説があった、と小学館「日本国語大辞典」にあった。現在は、その鐘を投げ入れた井戸と称する「無間の井戸」が、「小夜の中山」の北西にある阿波々(あわわ)神社にある。サイド・パネルのこの画像を見られたい。サイト「ハマラボ」の「謎スポット【遠州七不思議】 無間の井戸 〜幸運の鐘と地獄の入り口は隣合わせ〜」が、丁寧にルートを写真で挙げておられて、ヴィジュアルには最もよい。さて、元に戻ると、まあ、それをお手軽に引っ掛けたに過ぎないでしょ? 熊楠先生? 漢文の「旃陀越國王經」の難解な識域を読み解くより、その方が、ずっとショート・カットで、民草も納得だぜ。]

柳田國男 鯨の位牌の話

 

[やぶちゃん注:本篇は大正二(一九一三)年四月刊の『鄕土硏究』第三巻第十一号に発表されたもの。所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」には収録されていない。本電子化は現在進行中の南方熊楠「續南方隨筆」中の「鄕土硏究第一卷第二號を讀む」のために、急遽、電子化する必要が生じたために作成した。されば、注はごく一部に留める。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の「定本 柳田国男集」第二十七巻(昭和四五(一九七〇)年筑摩書房刊)の正字正仮名版を視認した。但し、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は「定本 柳田國男集」第二十七卷(新装版・筑摩書房・一九七〇年初版の一九七二年の三刷)の新字正仮名の当該論考を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。]

 

   鯨 の 位 牌 の 話

 

 狩の前後の儀式には各國とも珍しい慣習が伴つて居る。山狩の後で山の神を祀る祭を弘く狩直し祭と謂ふ。ナホシは機嫌を直すなどのナホシで、物の命を絕つても災をせぬやうにとの趣意であるらしい。佛敎と獨立したよほど古い思想であることは改めて述べたいと思ふが、爰には就中奇拔の一事を擧げて置く。東京人類學會雜誌第百十一號秩父紀行浦山村の條に、獵師熊鹿などを捕りし時には、殺した獸の生肝を取出して山の神に供へ、スハノモン、マイコノモンと唱へるとある。スハ、諏訪であることは次の話でわかるが、マイコはメイゴでは無いか。何のことであるか知らぬが、日向の椎葉山でも、熊の紐解の祕傳として、ナムメイゴノモンと三度唱へる。此事は後狩詞記に載せて置いた。此山村でも獲物の心臟を山の神に供へる。又矢開の祭の祭文の中に、グウグセヒノ物助クルトイヘド助カラズ、人ニ食シテ佛果ニ至レと云ふ語がある。或は引導と稱してヒガフグニセイノ物助クルトイヘド云々とも云ふ。帝國書院本の鹽尻卷五十に、信州諏訪の祠官鹿食無穢の章を出し妄に火を穢す。恐くは佛家の意より出でたり、今其札と云ふを見るに神代の故に非ず、業盡有情、雖放無生、故宿生身、同證佛果と書きたり、是全く佛者の方便の說なりとある。竹抓子(ちくはし)と題する或江戶人の隨筆に、諏訪の神と宇都宮とは祭に鳥獸を供へる。諏訪では中の酉の日の大祭に鹿の頭三十(?)五を生板の上に列べて神前に供へ、別に鹿の肉を料理して社人之を食す、他人も神官より箸を受けて食へば穢無し、又鹿を食ふ者に與へる札がある。業盡有情、雖放不生、故宿人中、同證佛果とあるのは大般若經の文句である云々。大般若經は驚入るが、諏訪の信仰は九州でも天草又は薩摩に迄及んで居るから、椎葉山の祭文も是れから出たものである。

[やぶちゃん注:「浦山村」現在の埼玉県秩父市浦山(グーグル・マップ・データ。以下の無指示は同じ)。

「此事は後狩詞記に載せて置いた」私の『柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「附録」「狩之卷」』を参照されたい。

「鹽尻卷五十に、信州諏訪の祠官鹿食無穢の章を出し……」国立国会図書館デジタルコレクションの「鹽尻」上巻(室松岩雄校訂・明四一(一九〇八)年国学院大学出版部刊)のこちらの右ページ下段の後方で視認出来る。]

 業の盡きたる有情は放つと雖生きず、故に人中に宿して同じく佛果を證せよと云ふのは諏訪明神の託宣であると云ふことは、以前何かの本で見たことがあるが本の名を忘れた。(甲賀三郞終篇)然るに右の山の神の呪文を直に海の獸に對して應用した例がある。長門風土記に依れば、此國大津郡通島は鯨取の盛な島である。此浦の向岸寺の抱なる觀音堂の中に、元祿五年に安置した鯨の位牌がある。立派な位牌で上に梵字を書き眞中に南無阿彌陀佛とあつて、其左右に業盡有情、雖放不生、故宿人天、同證佛果と書いてある。長門仙崎の寺にも之と同樣の位牌があつて、雙方共に每年三月に鯨の供養をする例であつた。人天は人中よりも大分哲學的であるが、兎に角手前勝手な文句である。一休和尙の逸事にも之に似た話がある。手前勝手とは云ひながら之をすら遣らない今の人は笑ふ事は出來ぬ。殺すけれども化けるなは少なくとも一箇の挨拶であつた。昔者は此の如く非類とも精神上の附合をして居たのである。羽後の男鹿半島の光飯寺では每年十月、朔日に鰰の祭をした。鰰は秋田名物八森鰰云々の歌もあつて、此海で澤山に捕られる魚である。風俗問狀答に依れば、此日は浦々の漁民めいめい小石を多く持來る、寺の僧此石に光明眞言を一字づつ書し神前に法樂加持す、漁民之を持歸り五穀を添へ己が漁場の海中へ散し入る。是漁業の利を得んことを折り、且つ數萬の魚の爲に冥福を囘向するとなりとある。米を散すと云ふ一點からも魚の精靈に對する浦人の態度がよく窺はれるのである。

[やぶちゃん注:「大津郡通島」山口県長門市の北の日本海にある青海島(おおみじま/おうみじま)の東部分の通(かよい)地区(グーグル・マップ・データ)。この島は以前は、本土の一部を含めて大津郡仙崎通村(せんざきかよいむら)であった。拡大すると、「くじら資料館」があり、「向岸寺」(浄土宗)も現存する。

「抱なる」「かかへなる」と訓じておく。「所属であって管理している」の意であろう。

「長門仙崎」上記の青海島と陸の岬部分も含む長門市仙崎。「寺」は島に複数あり、岬にもあるので、特定は不能。

「男鹿半島の光飯寺」寺名は「こうぼうじ」と読む。半島岬のど真ん中のここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「鰰」言わずもがな、「はたはた」と読み、スズキ目ハタハタ科ハタハタ属ハタハタ Arctoscopus japonicus

「風俗問狀答に依れば、……」「風俗問狀答」は「ふうぞくとひじやうこたへ」と読み、出羽国秋田領の「答書」(こたえがき)。主な執筆者は秋田藩の藩校明徳館の儒者那珂通博(なかみちひろ)で、跋文により、文化一一(一八一四)年に成立したことが判る。国立国会図書館デジタルコレクションの「諸國風俗問狀答」(中山太郎校註・昭和一七(一九四二)年東洋堂刊)の活字本のここで当該部が視認出来る。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 麥畑のなかの死(デトレフ・フォン・リーリエンクローン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  麥畑のなかの死 クローン

 

罌粟の花と實つた麥のなかに

ひとりの兵士が、 誰にも知れずに、

もう二日二夜といふもの、 繃帶もされず、

うづき出した傷に

死んだやうになつてゐる。

 

熱病のやうに荒い脉搏がはげしく打つてゐる。

死の苦篇のうちに彼は頭をもたげた。

彼は夢のなかに、 とほいとほい過去を見る、

上の方をながめてゐる、 ガラスのやうな眼で。

彼はライ麥のなかにひらめく大きい鎌のさらさらといふ音をきいた。

彼はクローバのおひしげるスヰートな牧場の香を嗅いだ。

「もうさよならだ、 なじみの士地よ、 なじみの古い人々よ、 さよならだ」

彼は頭をさげた、 そして凡てはおしまひだ。

 

[やぶちゃん注:作者は、前の二篇のドイツの詩人リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル(Richard Fedor Leopold Dehmel 一八六三年~一九二〇年)の友人であった、同じドイツの詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)。当該ウィキによれば、『キール出身』で、一八六六『年より軍隊に入り』、『普墺戦争』・『普仏戦争に従軍』し、『負傷』した。『軍隊を退いたあとは』、『一時』、『アメリカ合衆国に渡った。帰国後』、『プロイセンの官吏となり』、三十『代で詩作を始め』、「副官騎行」(Adjutantenritte:一八八三年刊)で『注目を集めた。軍人気質の実直さや』、『文学的な伝統にとらわれない感覚的な詩風で、印象主義の詩人として人気があった。劇作や小説も残している』とある。本篇は従軍中の経験に基づくものであろう。私はドイツ語は判らないし、他言語からの重訳と考えられるので、原詩は探さない。

「罌粟」被子植物門双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum

「ライ麥」単子葉植物綱イネ目イネ科ライムギ属ライムギ Secale cereale

「クローバ」クローバーは被子植物門双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ(車軸草・トリフォリウム)属 Trifolium の総称。世界で二百六十種が植生する。本邦の在来種はシャジクソウ属シャジクソウ Trifolium lupinaster のみであるが、同種はヨーロッパにも分布し、本邦には、知られたヨーロッパ原産のシロツメクサ(シャジクソウ属Trifolium亜属Trifoliastrum節シロツメクサ Trifolium repens )をはじめとする多くの種が牧草・園芸・緑肥などの目的で導入され、帰化植物となった種も多い。されば、シロツメクサをイメージして構わないと思われる。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 二 御池町の化物の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、同書にあるものが、比較的、状態がよいのでそれをトリミング補正した。]

 

     二 御池町(おいけちやう)の化物(ばけもの)の事

 都、御池町、さる者の家に、

「化物、有り。」

といふ事。あり。

 主(あるじ)も、人に家を貸して、外(そと)に出でぬ。

 かくはいへど、定かに見たると云ふ人も、なし。

 爰(こゝ)に、をこの者、二人、寄りあひ、

「さるにても、かの家にゆき、化物あるか無きかを、見とどけずば、あらじ。」

と云ひて、彼(か)の家に、宿(やど)借りて居たる者は、銀細工する者なるが、夜な夜な、變化(へんげ)の物にも怖れず、又、化物も何のわざをも爲(な)さで、上下)じやうげ)、二、三人、居(ゐ)侍る。

 かの宿主に、案内(あんない)云ひて、ある夜、三人、忍び行き、彼の家の有樣(ありさま)、裏に、茂りたる藪、あり。

「是れから、化け物は、出づる。」

など云ひ、裏の戶、固く、しめ、多くの押しをかけ、又、いつも内なる唐臼の上に、俵物(たはらもの)、石(いし)など、多く置き、二十人許りしては、動かし難く拵(こしら)ヘて待ち居たり。

 其の時ばかりに、裏の戶口(とぐち)に、物の音、しけるが、程なく、何者とは知らず、來りぬ。

 二、三人、驚きゐたれば、いつもの如く、唐臼を踏み鳴らす。

 

Oikenoperabou

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「おいけの町のばけ物坊主からうすふむ所」である。]

 

 其の夜、しも、朧月夜(おぼろづきよ)なりしが、三人ながら、臥して隙(すき)を見れば、白きもの着たる坊主、長(たけ)七尺ばかりなるが、目、鼻、口もなきが、唐臼を蹈(ふ)み、後[やぶちゃん注:「うしろ」。]に、三人の方へ、顏を向けける。

 日頃は、

「いかやうなる化け物にも、逢ひたらば、切りなん。」

と云ひしが、息をも、立てず、ゐたり。

 程なく、化け物は、いづくともなく、失せぬ。

 夜明けて、見れば、裏の戶も、唐臼も、宵の儘なり。

 不審とも、怖ろしとも、云はんかた、なし。

[やぶちゃん注:「御池町」岩波文庫の高田氏の注に、『現在では「御池之町」。中京区室町押小路下ル』とある。「御池之町」は「おいけのちょう」、「押小路下ル」は「おしこうじさがる」と読み、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「をこの者」既出既注。

「宿主」借家人の主人である銀細工師。

「案内云ひて」ここに来た理由を正直に述べて。

「押し」突支棒(つっかいぼう)のこと。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一七番 打出の小槌

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   一七番 打出の小槌

 

 或所に婆樣と伜とが居つた。伜も齡頃《としごろ》になつたので、近所の人の世話で隣村から嫁をもらつた。嫁は來た當座は姑婆樣にもよく仕えたが、だんだんと邪魔にし出した。そして折があれば何のかんのと伜に言いつけた。夫(アニ)な夫(アニ)な婆樣は良くネます。ナジヨにもはア汚くて分《わかり》かねますと言つた。婆樣が寢て居て虱をとつて嚙みつぶして居る音を聽き、あれあれ夫な、婆樣はあるもない米を盜んで、あゝして夜晝嚙み食つて居ます。あんな婆樣を家さ置いてはよくないから、奧山へ連れて行つて棄てゝ來てがいと言つた。伜も初めうちはそんなことア言うもんでないと言つて居たが、餘り嫁が言ふし、嫁の言ふ事をきかないと面白くない事ばかりであるから、よしほんだら婆樣を奧山へ連れて行つて棄てゝ來ツからと言つて、婆樣を負(オブ)つて奧山へ行つた。嫁はその時川戶口(カドグチ)まで出て、夫々(アニアニ)山さ行つたら萱《すげ》のトッツペ小屋を作つて、其の中さ婆樣を入れて、火をつけて置いて來てがいと言つた。何でも斯《か》んでも妻(オカタ)の言ふことだら聞く夫は、あゝえゝからえゝからと言つて奧山へ行つた。そして妻の言ふ通りに萱を刈集めてトッツペ小屋を造り、其中に婆樣を入れてから、火をつけて逃げ歸つた。

 婆樣は伜が逃げ歸つた後で、死にたくないから小屋の中から這出《はひだ》した。這ひ出《だし》はしたが何處にも行かれないから、其の小屋の燒け殘りの火にあたつて居た。其中《そのうち》に夜になると、山奧でその火明りを見た鬼の子供等が五六匹、不思議に思つて出て來て見た。すると一人の婆樣が火を焚いてあたつて居たから鬼の子供等もやつぱり近寄つて火に手を翳してあたつた。さうして婆樣の内胯《うちまた》を不思議さうに覗いて見て、婆樣婆樣そこは何だと言つた。婆樣はああこれか、これは鬼の子供等を食ふ口だぞと言ふと、鬼の子等は魂消《たまげ》て騷ぎ立てた。それを見ると婆樣はわざと、大跨《おほまた》をひろげて、さア餓鬼ども取つて食ふぞとおどかすと、子鬼どもはあやまつて、婆樣々々許せ、その代りこの打出の小槌と謂ふ寳物を上げるからと言つた。婆樣は其の小槌をよこしたら、捕つて食ふ事ばかりは許すと言つた。子鬼どもは喜んで婆樣に寳物をあづけて山奧へ歸つて行つた。

 婆樣は子鬼から貰つた打出の小槌をもつて、さあさあ此所《ここ》さ千軒の町が出ろと言つて、トンと地面を打叩くと、其通りぞろりと千軒の町屋が出た。婆樣は其の町星の眞中頃に行つて又、此所さ大きな館(ヤカタ)ア出ろと言つて、トンと地面を叩くと、忽ちに大きな館が出た。それから婆樣は人だの馬だの酒屋だら木綿屋だの、色々な店を打出して、喜んで俺は女殿樣《をんなとのさま》になると言つて、其所の女殿樣になつた。

 或日、伜夫婦は元通りの貧乏なまゝで、瘦馬に薪《たきぎ》をつけて、木賣《きう》ろ木賣ろと呼んで、此の町へ薪賣りに來た。そして其の町一番の立派な館へ行つて、女殿樣を見ると、それは先達《せんだつて》自分等が捨てた家の婆樣であつた。嫁はあの婆(バンゴ)だがアと腹を立てて家に歸つた。そして夫に、俺も婆樣のやうにあんなに立派な人になりたい。俺もあんな女殿樣になりたいと言つて、夫をせがみ立てた。夫も仕方ないものだから、そんだら婆樣のやうに俺さ負さつてあべと言つて、嫁を背負つて婆樣とは別な奧山へ連れて行つた。そして婆樣の時のやうに、彼方此方《あつちこつち》から萱を刈集めて、萱のトッツペゴヤをかけて、其の中に嫁を入れて火をつけた。嫁は燒死んだ。

[やぶちゃん注:姥捨伝説の変形ものだが、なかなか興味深いパートが、複数、ある。

「川戶口(カドグチ)」粗末な家の「門口」の卑称であろう。

「トッツペ小屋」不詳。原義も判らぬが、思うに、柱を立てずに、周囲に茅(かや:単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae 及びイネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae の草本の総称)の茎と穗(綿毛)を老婆の周囲に多く立て掛けて、その頭上で簡易に藁で縛ったもののようなもののように私には思われる。]

早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと 「ジネン殼(自然殼)」・「ツンバラ(茅花)」・「二股のオンバコ(車前草)」・「蕨の綿で織つた着物」 / 草に絡んだこと~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げるが、何故か、以下の四条は同ページには存在しない

 なお、これを以って「草に絡んだこと」は終わっている。]

 

 ○ジネン殼(自然殼) 笹の實を自然殼《じねんから》と謂つてこれがなると、飢饉の前兆であると謂ひます。凡そ五十年程前、これが到る處の根笹は勿論、どんな竹にもなつた事があつたさうですが、貧困者などは每日山へ行つて、此實を採つたといひます。よく臼で搗いて精製すれぱ、麥《むぎ》より味がいゝとも謂ひます。

[やぶちゃん注:「ジネン殼(自然殼)」以下に記されている通り、所謂、「竹の実」「笹の実」である。サイト「笹JAPON」の「竹の実と笹の実・竹の花と笹の花」に詳しいので見られたいが、そこには、『タケ類の開花は珍しく、俗説では』六十『年に一度と言われています』。『そのため、開花は不吉の前兆と考えられることもあります』が、『あくまで俗説であって科学的根拠はありません』とあり、「日本気象協会」のこちらでは、『笹ではおよそ』五十『年』、『マダケの開花は』百二十年とある。私は、小学校を卒業した昭和四五(一九六八)年の三月、今いる鎌倉から富山へ引っ越す直前、家の近くの崖に笹の実が成っているのを見た。母が「不吉だわ。」と言ったのを覚えている。実見はその一度きりで、五十年周期が納得された。

「笹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科 Bambusoideaeのうち、その茎にあたる稈(かん)を包んでいる葉鞘が枯れる時まで残るものだけを総称して「笹」と呼んで区別している。但し、ウィキの「ササ」によれば、『タケとササの分類は必ずしも標準和名と一致しない。分類上、ヤダケ』(矢竹:タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica)『は稈に皮がついたままなのでササ、オカメザサ』(阿亀笹:タケ亜科オカメザサ属オカメザサ Shibataea kumasaca 。本種の自然個体は稀少)『は皮が脱落するのでタケに分類される』とある。則ち、『植物学上』で『はイネ科タケ亜科のうち、タケ』(竹)『は稈が成長するとともに』、『それを包む葉鞘が早く脱落してしまうものを』指すということである。]

 

 ○ツンバラ(茅花)  子供の頃は茅花《ちばな》を喜んで喰べたものでした。茅花の未だ穗に出ない前、葉に包まれてゐる時、引拔いて喰べるのでした。ツンバラ餅はうまいな、などとは拍子をとつて、澤山掌に丸めて、片々《かたがた》の肘《ひぢ》で搗いて喰べたものでした。茅萱《ちがや》の根は、甘い味がして、虎杖《いたどり》や、スイ葉(酸模)の出來ない前、春先きよく喰べたものでした。

[やぶちゃん注:「茅花」三重県四日市市羽津(グーグル・マップ・データ)地区の「羽津地区公式WEBページ」の『羽津の昔「子どもの遊び」』にある「シバの根」の項に、『「つばな」の出る茅』(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica )『のことを「チワラ」といい、これの根を「シバの根」とか「甘根」とか称して、噛むと甘い味がした。土の中から、白く細い根を掘りだすと、洗いもせず』、『手で土をしごき落としたままで、口に入れて噛み』、『残りの繊維は吐き出した』とあり、ウィキの「チガヤ」にも、『この植物は分類学的にサトウキビ』(イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum )『とも近縁で、根茎や茎などの植物体に糖分を蓄える性質がある』。『外に顔を出す前の若い穂はツバナといって』、『噛むとかすかな甘みがあって、昔は野で遊ぶ子供たちがおやつ代わりに噛んでいた』。『地下茎の新芽も食用となったことがある。万葉集にも穂を噛む記述がある』。『晩秋』の十一月から十二月頃に『地上部が枯れてから、細根と節についていた鱗片葉を除いた根茎を掘り起こして、日干しまたは陰干したものは』「茅根(ぼうこん)」『と呼ばれる生薬で、利尿、消炎、浄血、止血に効用がある薬草として使われる』とあった。

「虎杖」ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica既出既注

「スイ葉(酸模)」これは前記のイタドリの別名としても用いられるが、標準和名では、ナデシコ目タデ科スイバ属スイバ Rumex acetosa を指す。実は、私は昔から「すっかんぽ」と呼び、畦道で見つけては、好んでしゃぶったのは、イタドリであるよりも、このスイバであった。スイバという標準和名でも呼んだ。もう、四十年以上、噛んでいないな。]

 

 ○二股のオンバコ(車前草) 二股になつて咲いたオンバコ草の油を採つて、其れで火を點《とも》して肺病忠者の枕邊へ行くと、同じ人が二人、枕を並べて寢て居るのが、見えると謂ひます。其内の一人は病氣の精だから、其を刺し殺せぱ、必す病鼠が治るなどゝ謂ひます。

[やぶちゃん注:「オンバコ草」「車前草」(しやぜんさう(しゃぜんそう):漢名)はお馴染みの「大葉子相撲」でよく知られる、スモトリグサ(相撲取り草)、シソ目オオバコ科オオバコ属オオバコ Plantago asiatica である。しかし、ここで早川氏の記された呪的用法は初めて聞いた。]

 

 ○蕨の綿で織つた着物  蕨の綿で織つた着物や羽織があつたと謂ひます。これを着てゐれば、雨の中を步いても、雫が下へ通らぬと謂ひます。

[やぶちゃん注:「蕨」既出既注。これ、なんとなく納得してしまうから不思議。]

2023/03/27

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 巻第四目録・一 聲よき者をば龍宮より欲しがる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回の本文は、ここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。 にあるものが、比較的、状態がよいのでそれをトリミング補正した。]

 

曾呂利物語卷第四目錄

 

  一 聲よき者をば龍宮より欲しがる事

  二 御池町(おいけちやう)の化物(ばけもの)の事

  三 狐二たび化(ば)くる事

  四 萬(よろづ)の物年(とし)を經ては必ず化くる事

  五 常々の惡業(あくごふ)を死して現はす事

  六 惡緣(あくえん)に逢ふも善心のすゝめとなる事

  七 女の妄念怖(おそろ)しき事

  八 座頭あたまかり合ふ事

  九 耳きれうん市が事

  十 怖ろしくあいなき事

 

 

曾 呂 利 物 語 卷第四

 

      一 聲よき者をば龍宮より欲しがる事

 

 尾張國(をはりのくに)、熱田の宮(みや)に、常に謠(うたひ)を好きて、夜畫ともなく、唄ふ者、ありけり。

 少し、海上に地を築き出(いだ)し、爰(こゝ)に一つの亭(ちん)を造り、彼(か)の一曲、なほ、怠らず。

 ある夜更(よふけ)過ぐるまで、唄ひ侍りけるが、海上一丁[やぶちゃん注:百九メートル。]程(ほど)沖より、大音聲(だいおんじやう)を出(いだ)し、

「いや、いや。」

と、褒めたりけり。

 此の聲、彼(か)の者の耳に留(とま)り、いと堪へ難かりけるが、其の儘、勞(いたは)りつきぬ。

 

Ruuguudassyu

 

[やぶちゃん注:右上のキャプションは「聲よき者はりうぐうゟほしかつてだき取」(とら)「むの所」か。但し、この挿絵のように、主人と異人が見えるシークエンス自体は、本文にはない。]

 

 程經て、心、亂れ、既に末期(まつご)に及ばんとす。

 時に、一門眷族、集まり、歎き悲しむ。

 斯かりけるところに、沖の彼方より、俄(にはか)に震動して、身の毛、よ立ちけるが、丈(たけ)一丈もあるらんと覺しき男の、眼(まなこ)は日月の如く光り輝き、面(おもて)の色、朱をさしたるが如く、左右(さう)の眉は、漆を塗りたるが如くして、眞(まこと)に面(おもて)を向ふるに、魂(やましひ)を失ふ程なるが、彼(か)の座敷に、

「むず」

と居直(ゐなほ)り、

「何(なに)と養生するとも、明日(あす)の暮程に、必ず、迎ひに來(きた)るべし。」

と云ひて、消すが如くに失せにけり。

 とかう、云ふべき方(かた)もなく、

「さあらば、明日は、番を置け。」

とて、弓・胡籙(やなぐひ)を持つて、各(おのおの)、宿直(とのゐ)して、待ちかけたり。

 又、明くる子(ね)の刻と覺しき頃、海上、鳴動して、光、滿ちて、件(くだん)の者、來れり。

 前(まへ)かどは、

「討ちも、とゞめ、射(い)も殺さん。」

と、犇(ひしめ)きしものども、滿ちて、心、茫然として、足も、なえて、俄に、かの氣色(けしき)にて、さまよふ内に、其の儘、彼の病人を抱(いだ)きて、海中に入りぬ。

 此の上は、力、及ばぬ事なれば、亡き跡(あと)、弔(とぶら)ひ歎き居たる座敷へ、又、明くる戌(いぬ)の時[やぶちゃん注:午後八時前後。]ばかりに、彼の男を、寸々(すんずん)に、引き裂きて、

「欲しくば、返さん。」

とて、屋敷へ投げ出(いだ)す。

 如何なる事とも、わきまへかねて。

[やぶちゃん注:ちょっと奇妙な末尾だが、謡の文句のように洒落たものであろうか。湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収。ネットでPDFで入手可能)では、本話の原拠らしいものとして、「今昔物語集」巻第二十七「近衞舍人於常陸國山中詠歌死語第四十五」(近衞舍人(こんゑのとねり)、常陸國(ひたちのくに)の山中(やまなか)にして、歌を詠(うた)ひて死ぬる語(こと)第四十五(しじふご))を掲げてある。所持する小学館『日本古典文学全集』の「今昔物語集」の第四巻を参考に、カタカナをひらがに直し、漢字を概ね正字にして、以下に示す。□は欠字。読み易くするため、私が送りがなに読みの一部を出してある。

   *

 今は昔、□□の比、□□の□□と云ふ近衞舍人、有りけり。神樂舍人(かぐらとねり)などにて有るにや、歌をぞ、微妙(めでた)く詠(うた)ひける。

 其れが、相撲(すまひ)の使ひにて、東國に下だりけるに、陸奧國より常陸の國へ超ゆる山をば、「燒山(やけやま)の關(せき)」とて、極(いみ)じく深き山を通る也。

 其の山を、彼の□□、通りけるに、馬眠(むまねぶり)をして、徒然(つれづれしかりけるに、打ち驚くまゝに、

『此れは。常陸の國ぞかし。遙かにも、來りける者かな。』

と思ひけるに、心細くて、泥障(あふり)を拍子に打ちて、「常陸歌(ひたちうた)」と云ふ歌を詠ひて、二、三返許(ばか)り、押し返して詠ひける時に、極じく深き山の奧に、恐ろし氣なる音(こゑ)を以つて、

「穴(あな)、※(おもしろ)。」[やぶちゃん注:「※」=「言」+「慈」。]

と云ひて、手を、

「はた」

と打ちければ、□□、馬を引き留めて、

「此れは。誰(た)が、云ひつるぞ。」

と、從者共(じうしやども)に尋ねけれども、

「誰が云つるぞとも、聞かず。」

と云ひければ、頭の毛、太りて、

『恐ろし。』と思々(おもふおも)ふ、其(そこ)を過ぎにけり。

 然(さ)て、□□、其の後(のち)、心地惡(あ)しくて、病ひ付きたる樣に思えければ、從者共など、怪しび思ひけるに、其の夜(よ)の宿にして、寢死(ねじに)に死にけり。

 然(しか)れば、然樣(さやう)ならむ歌などをば、深き山中(やまなか)などにては、詠ふべからず。

 「山の神」の、此れを聞きて、目出(めづ)る程に、留(とど)むる也。

 此れを思ふに、其の「常陸歌」は其の國の歌にて有りけるを、其の國の神の、聞き目出(めで)て、取りてけるなめり、とぞ、思(おぼ)ゆる。

 然(しか)れば、此れも、「山の神」などの感じて、留めてけるにこそは。

 由無き事也。

 從者共、奇異(あさま)しく思ひ、歎きけれども、相ひ構へて、京に上(のぼ)りて、語りけるを、聞き繼(つ)ぎて、此(か)く語り傳へたるとや。

   *]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 七 山居の事 / 第三~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。

 今回は傍点を特異的に用いた。

 なお、本書の巻第三は本篇を以って終わっている。]

 

     七 山 居 の 事

 

 世を憂きものに思ひ澄ましたる僧、ありけり。

 都、東山(ひんがしやま)鳥邊野(とりべの)に、柴の庵(いおり)を結びて、年月を送りける。

 彼(か)の僧の俗たりし時の友達、訪(おとな)ひ來りけるが、年久しく隔(へだ)てしかば、いと懃(ねんごろ)に物語し侍りし程に、秋の夜(よ)、いたく更けて、色々の獸(けだもの)の、近く音するも、いと物凄(ものすご)くして、

『斯かる所に唯一人、如何(いかゞ)耐へ忍びけるぞ。』

と思ふところに、何處(いづく)とも知らず、

「今宵、そんじよう、それこそ、空(むな)しくなりぬ。日頃、契約のごとく、御出(おい)で候はば、とりおき給はり候へ。」

と云ふ。

 主(あるじ)、云ふやう、

「今夜は、さり難き約束、御入(おい)り候閒(あひだ)、參るまじき。」

由、云ふ程に、彼の何某(なにがし)、

「何とて、左樣には、宣ふぞ。ことに日頃の契約の上(うへ)は、急ぎ、行き給へ。」

と云ふ。

「さらば、參り候はんずる。……如何にも怖ろしき事……有りとも……あなかしこ、音もせでゐ給へ……頓(やが)て、歸り侍らん。」

とて、出でぬ。

 彼の何某は、常々にも、心に剛(がう)ある者とは云ひながら、唯一人殘りければ、凄(すさ)まじくこそ、思ひけれ。

『漸(やうや)う、寅の刻[やぶちゃん注:午前四時前後。]許りになりぬ。』

と思ふ頃、何處(いづく)ともなく、光りて、内に入りぬ。[やぶちゃん注:ママ。「光り物ありて」ぐらいでないとちょっとおかしい気がする。]

 何某、刀(かたな)の柄(つか)を、

『碎けよ。』

と握りゐたるが、魂(たましひ)は何處(いづく)にか拔けつらん、夢ともなく、門(かど)を守りゐたれば、繪に書ける鬼(おに)の形したる者、一人、内へ押入(おしい)りて、主(あるじ)の閨(ねや)に行きて、少時(しばらく)、物食ふ音しけるが、稍(やや)ありて、彼(か)の者、又、光の中に、何處ともなく失せぬ。

 其の時、少し、人心地、出で來て、

『さるにても、主の部屋の内、不思議。』

に思ひ、垣(かき)の隙(すき)より、覗きければ……

……人の死骸……

……山の如くに……積めり。

『……それを……食ふなるべし。』

 いとゞ恐ろしくぞ、思ひける。

 夜(よ)、明けて、主、歸り、

「さても。不思議の命(いのち)、助かり、斯くの如くの事に遇ひつるは、如何(いかゞ)。」

と語りければ、

「何時(いつ)も左樣の事は、有る事に候。」

と、さらぬ體(てい)にもてなし、ゐ侍る。

 よく是れを案ずるに、何時(いつ)の程(ほど)にか、人を食(く)習ひ、其の罪、果して、一つの鬼となれり。

 夜(よる)、來つる鬼の形なる者は、坊主なるべし。

[やぶちゃん注:所謂、「食人鬼(ぢきにんき)」譚である。言うまでもなく、この鬼は、最終行で初めて、その山居している僧自身が変じたものであることが明かされるというなかなかに構成を考え抜いた一篇ではある。但し、最後の部分、その食人鬼坊主は一向に、その究極の悪業を何ら悔いる様子もなく、それが、本篇を特異な猟奇的カニバリズム・ホラーに仕立てているところが特異と言える。但し、表現にやや問題があり、完全には上手く仕上がってはいない憾みがある。この手の話の最も完成された古文の名品は、何と言っても、上田秋成の「雨月物語」中の「靑頭巾」(⇒やぶちゃん訳やぶちゃんのオリジナル授業ノート)であり、それを元にした小泉八雲のJIKININKI(英文原文)を措いて他にはない。「食人鬼」藪野直史現代語訳もある(孰れも私のサイト版。ブログ版の詳細オリジナル注附きの「小泉八雲 食人鬼(田部隆次訳)」もある)。

「そんじよう」「尊上」ならば「そんじやう」でなくてはならないから違う(仮に、歴史的仮名遣の誤りなら、「目上の者」を敬して言う語であるが、ここは、「ある家の隠居した主人」、或いは「その家の最も年老いた病んだ年上の家人」を指すとはとれる)。とすれば、これは「存(そん)じよう」で「存(ぞん)じよう」(「よう」は形式上の軽い敬意を含んだ推量・意志・勧誘の助動詞)が一般的で、「ご承知の通り(の)」意。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 沈默の町(リヒャルト・デーメル)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  沈默の町 デーメル

 

町は谷のなかに橫はり、

靑白い日はうすれて亡ぴた。

さて、 月が消え、 星の光が失せるのも間もないだらう、

そして夜がただ空を滿すのだ。

 

山々の峯からは、

霧が出て町をとりまく、

畑も、 家も、 また濡れた紅い家根も

この厚い織物を通すことは出来ない。

いや、尖塔や橋でさへも出來はしない。

 

けれど、さすらひ人が身ぶるひするとき。

その暗い丘に

光りの條(すぢ)が彼の心を悅ばす、

そして、 烟と靄と子供らの聲から

讃美の歌がはじめられる。

 

[やぶちゃん注:作者については、前回の私の注を参照されたい。また、そちらと同じ理由で原詩は原詩は示さない。

「橫はり」「よこたはり」。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 お前はまだ知つてゐるか(リヒャルト・デーメル)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  お前はまだ知つてゐるか デーメル

 

まだお前は知つてゐるか、

ひるの數多い接吻のあとで

わたしが五月の夕暮のなかに寢てゐた時に

わたしの上にふるへてゐた水仙が

どんなに靑く、 どんなに白く、

お前のまへの足のさわさわとさはつたのを。

 

六月眞中の藍色の夜のなかに

わたし達が荒い抱擁につかれて

お前の亂れた髮を二人のまはりに絡(から)んだとき、

どんなにやはらかくむされるやうに

水仙の香が呼吸をしてゐたかを

お前はまだ知つてゐるか。

 

またお前の足にひらめいてゐる、

銀のやうなたそがれが輝くとき、

藍色の夜がきらめくとき、

水仙の香は流れてゐる。

まだお前は知つてゐるか、

どんなに暖かつたか、 どんなに白かつたか。

 

[やぶちゃん注:リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル(Richard Fedor Leopold Dehmel 一八六三年~一九二〇年)はドイツの詩人。当該ウィキによれば、『プロイセン、ブランデンブルク州ダーメ=シュプレーヴァルト郡の小村に山林監視人を父として生まれる。教師と対立してギムナジウムを放校されたのち、ベルリンとライプツィヒの大学で自然科学、経済学、文学などを学ぶ。その後火災保険の職に就き、仕事の傍ら』、一八九一『年に処女詩集』「救済」(Erlösungen)を『刊行、これをきっかけに』、詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)『との交際が始ま』った。一八九五から『文筆専業となり』、一八九六『年に代表的な詩集』「女と世界」( Weib und Welt )を『刊行』、一九〇一『年より』、『ハンブルク郊外のブランケネーゼに永住した。一九一四年から一九一六年まで『自ら志願して第一次世界大戦に従軍し』たが、『終戦後の』一九二〇『年に戦争時の傷の後遺症』(静脈炎)『が元で死去』したとあり、『その詩は自然主義的・社会的な傾向を持ちつつ、精神的・形而上学的なエロスによる救済願望に特徴付けられている。童話、劇作などもあり、晩年は第一次世界大戦の従軍記録も残した』。また、『彼の詩には、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、アレクサンドル・ツェムリンスキー、アルノルト・シェーンベルク、アントン・ヴェーベルン、クルト・ヴァイルなど』、『多くの作曲家が曲を付けた。また、彼の詩を元にしたシェーンベルクの弦楽六重奏曲』「浄夜」作品四(Verklärte Nacht:一八九九年作曲)には特に有名である、とあった。シェーンベルクのそれは私の好きな曲である。

 本篇は恐らく英訳或いはフランス語訳からの重訳で、私はドイツ語は判らないので原詩は探さなかった。]

早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと 「かわ茸のシロの噺」・「人の恨みを嫌ふ椎」・「笑ひ茸をとつた男」・「毒茸のクマビラ」・「萬年茸(靈芝)の生へる處」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 かわ茸のシロの噺 かわ茸《たけ》は、秋、松茸より稍《やや》早く北向の雜木林に生へる[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]と謂ひますが、生へるところをシロ(代)と謂つて、シロ以外には生へるものではありません。それですから、代を知ってゐる者は、自分のシロを他の人には覺《おぼえ》られない用心に、採りに行くときは、直接シロのある處へは行かないで、とんでもない方向違ひの所から、林の中をシロのある所へ近づいて行くのです。歸る時も同じようにして來るものです。私が子供の頃、村に居た弘法米と云ふ爺さんに連れられて、かわ茸を採りに行つた事がありましたが、途々爺さんの話に、村の者は、北向《きたむき》の山にしか生へないと思つてゐるけれど、そんな事はないものだ、自分はもう年を老《と》つて、近い内に死んでゆく體《からだ》だから、シロを敎へて置くと謂つて、軈《やが》て連れて行かれた所は、南向の暖かい山で、其處には、見事なかわ茸が、ずつとウネをなして、齒朶《しだ》の中に生へてゐました。

 此爺さんが死んでから、私はコツソリ三年程、コヽでかわ茸を採りました。

[やぶちゃん注:「かわ茸」表記はママ。担子菌門真正担子菌(菌蕈)綱イボタケ目マツバハリタケ科コウタケSarcodon aspratus の異名。平凡社「世界大百科事典」によれば、笠の裏に剛毛状の針が密生しているのを、野獣の毛皮と連想して「カワタケ」(皮茸)と名づけられ(だとすれば、本文の「かわ茸」というのは、歴史的仮名遣では「かはたけ」が正しい)、それが訛って「コウタケ」となった、とする(「香茸」の漢字も当てるが、実はこちらはシイタケ(菌蕈綱ハラタケ亜綱ハラタケ目キシメジ科(又はヒラタケ科、或いはホウライタケ科、或いはツキヨタケ科)シイタケ属シイタケ Lentinula edodesに対して漢字名として宛てられたもので本種を指すものではない)。傘の径は十から二十五センチメートルで、深い漏斗状を成し、中央部には茎の根元まで達する深い窪みがある。表面は淡紅褐色で、濃色の大きなささくれがある。傘の裏面の針は〇・五から一・二センチメートルで、灰白色、後、暗褐色に変わる。胞子は類球形で疣状の突起がある。食用可能であるが、生では中毒を起こす危険がある。

「シロ(代)」「田地」の意を「茸の生える場所」として隠語で言い換えたものであろう。

「弘法米」「こうぼふよね」か。通称のように思われる。

「ウネ」畝・畦。「かわ茸」の生えている部分が周囲の地面より有意に高くなっているのであろう。]

 

 ○人の恨みを嫌ふ椎  椎茸は、人に恨みを受けた者や不運な男が培養したのでは、出ないと謂ひます。

 明治二十年頃、瀧川村の瀧川源三郞と云ふ男が、永い間、椎茸の培養に苦心した結果、非常な豐作を得るやうになつたさうですが、其頃同じ村の某の男の培養したものは少しも生へないので、妬《ねた》ましく思つて、自分が金力のあるを笠に着て、無理矢理に共同を申込んで、二人合同で培養すると、其年は又、稀な豐作であつたさうです。處が、其後利益の分配の事から爭論して、果は裁判沙汰になつて爭ふと、源三郞と云ふ男は文字が讀めなかつた爲めに、其の男の罠にかゝつてゐて、不利な證書に捺印してあつた爲め、敗訴となつて、多年苦勞して出るやうにしたホダ迄、全部其の男に橫取りされてしまつて、悲慘な生活に陷つたさうです。某の男は翌年から、全部自分の所有になつたホダを樂しみにしてゐると、どうした譯か少しも出ないで、來る年も來る年も、更に出なくなつてしまつたので、ホダが腐つたものと諦めて打捨《うつちや》つて置いた處、幾年か後に、ホダの傍で材木を伐つて、其材木を、ホダの上へ落し出して運搬した處が、一旦腐つたと思つて、見返りもしなかつたホダから、殆ど手もつけられないほど群がり生へたと謂ひました。

 椎茸が生へ始めた時は、椎茸小屋へ成べく澤山の人を招いて、椎茸飯を焚いて、大騷ぎして祝つてやると、盛んに生へるなどゝ謂ひます。

 椎茸が出なくなつた時は、何でもホダをビツクリさせるやうな事をしてやると生へると謂つて、棒きれでホダを叩いたり池の中へ轉がし落したりしました。

[やぶちゃん注:「ホダ」「ほた」とも言い、「榾木」(ほだぎ)とも称する。椎茸を、その皮の部分から発生させるための木材。椎・栗・櫟(くぬぎ)などの幹を用いる。]

 

 ○笑ひ茸をとつた男  村のある男が、秋、かわ茸を採りに行つて、カキシメジと云ふ茸《きのこ》に似た初茸《はつたけ》の澤山出て居たのを採つて來て、家内中で喰べると、暫くしてから家の者が、互《たがひ》の顏が可笑しく見えて來て、果は口から涎《よだれ》を流しながら、ゲラゲラ一晚中笑ひ續けて、翌日は、ガツカリしてしまつたと謂ひますが、採つて來た男の話に、名も知らない茸だから、最初採る氣はなかつたのが、餘り見事に出てゐるので、それを見てゐると、急に欲しくなつて、採つて來たのださうです。

[やぶちゃん注:「笑ひ茸」担子菌門ハラタケ綱ハラタケ亜綱ハラタケ目オキナタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus。幻覚作用のあるシロシビン(Psilocybin)を含有する毒キノコとして知られる。当該ウィキによれば、『傘径』二~四センチメートル、『柄の長さ』五~十センチメートル。春から秋にかけて、『牧草地、芝生、牛馬の糞などに発生』し、『しばしば亀甲状に』、『ひび割れる。長らくヒカゲタケ (Panaeolus sphinctrinus)やサイギョウガサ(Panaeolus retirugis)、P.campanulatusと区別されてきたが、これら』四『種は生息環境が違うことによって見た目が変わるだけで』、『最近では同種と考えられている』。六月から十月の『本州に発生し、北海道』や『沖縄の庭の菜園でも観測されている』。『菌類学者の川村清一が古い文献にみられる笑茸を探しており』大正六(一九一七)年の『の石川県』で夫婦が、『栗の木の下で採取したキノコを汁に入れて食べたところ、妻が裸で踊るやら、三味線を弾きだしたやらということであり、 Panaeolus papilionaceus だと同定しワライタケと命名した。その』三『年前の『サイエンス』にはアメリカ、メイン州における男女の中毒例の記載があり、ピアノを弾いたり』、『飛んだり跳ねたり』、『おかしくてたまらず、部屋の花束が自分を巻いているようだというような幻覚が起きたという。この時点では、他にも同様の作用を起こすキノコがあるのではと考えており、ほどなく』、一九二二年に『別の種である』『オオワライタケ Gymnopilus junonius 』が確認された、とある。『幻覚症状シロシビンを含有しているシビレタケ属やヒカゲタケ属のキノコはマジックマッシュルームとして知られているが、ワライタケは一連のキノコよりは毒成分は少ないため』、『重篤な状態に陥ることはない。成分は他にコリン、アセチルコリン』『など。誤食の例は少ない』。『本種を』一『本食した』十一『歳と』、十二『歳の男児には「しびれ・笑い出し」が表』われ、二『時間継続し』、十五『本から』二十『本を食した』三十四『歳の男性には「しびれ・笑い出し・麻痺・呼吸困難」が発生し入院となり、更に「呼吸を忘れる程の愉快な気分」「光る物体、幾何学模様、魚に食べられる体験、湾岸戦争に参加する体験などの幻覚が生じる」といった症状が』十二『時間継続した』。なお、本種は『麻薬及び向精神薬取締法において麻薬原料植物として指定されており、売買は』勿論、『故意の採取や所持も法律で規制されている』。方言では「おどりたけ」とも『呼ばれ、秋田では』、「ばふんきのご」・「きじゃぎじゃもだし」の『方言がある』とあった。]

 

 ○毒茸のクマビラ  鳳來寺村玖老勢《くろぜ》の丸山鐵次郞と云ふ男が、山小屋で仕事をしてゐる時、仲間の一人が名も知らぬ茸を澤山採つて來て、明朝の汁の實にすると云つて小 屋の天井へ吊して置いたのを、其男が寢ながらそれを見ると、夜目にもキラキラと光つて見えるので、てつきり毒茸と思つて、翌日は朝早く起きて、一人で別の汁を煮て喰《た》べて、仲間の者の寢ている中《うち》、默つて仕事に出かけたと謂ひます。其日は一日、殘つた連中が仕事に出て來ないので内心茸に中《あ》てられたなと思ひながら、夕方小屋へ歸つて見ると、殘りの連中が、仕事着を着けたまゝ、口も利けないで、蒼くなつて唸つてゐたさうです。汁の鍋には、茸がまだ澤山殘つてゐたと謂ひました。翌日になつて、やつと中てられた連中も治つたさうですが、それはクマビラと云ふ大變毒のある茸だつたさうです。

[やぶちゃん注:「クマビラ」ハラタケ目ホウライタケ科ツキヨタケ属ツキヨタケ Omphalotus japonicus の異名。当該ウィキによれば、『和名としては』、当初、『提案されていた』のは『クマヒラタケ』あったが、『江戸時代に坂本浩然によって提唱され』ていたことが判明して、命名規約に従い、この名となったとある。『晩夏から秋にかけて主にブナの枯れ木に群生する。子実体には主要な毒成分としてイルジン』(Illudin)『を含有し、その』襞『には』、『発光成分を有する。古くから食用とされてきた無毒のシイタケ・ムキタケ(ハラタケ目ガマノホタケ科ムキタケ属ムキタケ Sarcomyxa serotina)・ヒラタケ(ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus)『などと』似ているため、『誤認されやす』いが、『誤食した場合には下痢や嘔吐といった中毒症状』は勿論、『死亡例も報告されている』、毒キノコとしては、よく挙げられる種である。傘は『半円形』或いは『腎臓形をなし(ごく稀に、倒木の真上に生えた場合に杯状』を形成する『ことがある)、長径』は五~三十センチメートル『程度になり、表面は』、湿っている状態では、幾分、『粘性を示し、幼時は橙褐色から黄褐色で』、時に『微細な鱗片を散在するが、老成するに従って紫褐色または黄褐色となり、にぶい光沢を』現わす、とある。毒成分は『イルジン (Illudin)』で、『摂食後』三十『分から』三『時間で発症し、下痢と嘔吐が中心となり』、或いは『腹痛をも併発する』。『景色が青白く見えるなどの幻覚症状がおこる場合もあり、重篤な場合は、痙攣』、『脱水』、アシドーシス・ショック(acidosis shock:細胞機能の急激な悪化による重篤な発作障害)『などをきたす。死亡例』『も少数報告されているが、キノコの毒成分自体によるものではなく、激しい下痢による脱水症状の』二『次的なものであると考えられる』。『医療機関による処置が必要で、消化器系の症状に対しては、催吐・胃洗浄、あるいは吸着剤(活性炭など)の投与が行われる。また、嘔吐や下痢による水分喪失の改善を目的とした補液も重要視される。重症例では血液吸着 DHPDirect Hemoperfusion:直接血液灌流法)により、血中の毒素の吸着除去が行われることもある』とあった。

「玖老勢」新城市玖老勢(グーグル・マップ・データ航空写真)。南西側で横川と一部が接する。]

 

 ○萬年茸(靈芝)の生へる處  靈芝《れいし》は、楢《なら》の木の根株が腐つた跡へ出るものだと謂ひます。

[やぶちゃん注:「萬年茸(靈芝)」ハラタケ綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum当該ウィキによれば、『民間薬』や『健康食品として』知られるが、『古代中国では霊芝の効能が特に誇大に信じられ、発見者はこれを採取して皇帝に献上することが義務付けられていた。また、官吏などへの賄賂としても使われてきたという』とあるものの、『自然界においては珍しい』稀種でも何でもないとある。『後漢時代』(二五年~二二〇年)に纏められた「神農本草経」に『命を養う延命の霊薬として記載されて以来、中国ではさまざまな目的で薬用に用いられてきた。日本でも民間で同様に用いられてきたが、伝統的な漢方には霊芝を含む処方はない』。他のキノコ類にフックまれる『β-グルカン同様、抗腫瘍作用の報告は多い』ものの、『ヒトでの臨床報告は限られて』ており、その有効性は確かなものではない、といった感じで書かれてある。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 六 をんじやくの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、同書にあるものが、比較的、状態がよいのでそれをトリミング補正した。]

 

     六 をんじやくの事

 信濃國(しなののくに)末木(すゑき)の觀音とて、山の峯に立ちたまふありけり。

 此處(こゝ)に、若き者、寄り合ひ、

「さるにても、誰(たれ)れかある。今夜、觀音堂へ行き、明日まで、居(ゐ)侍らん。」

と云ひければ、言葉の下(もと)に、をこの者、一人、

「それこそ易(やす)き事なれ。さらば、我、行きて見ん。」

と、云ひも敢へず、出でぬ。

 彼(か)の堂は、人家より、二十四町[やぶちゃん注:二キロ六百十八メートル。]行きて、深山(しんざん)なれば、晝だにも、往來(ゆきき)稀なる所にて、狐狼野干(こらうやかん)の聲ならでは、音する物も、無かりけり。

 彼の者、堂の中に入りて、夜(よ)の明くるをぞ、侍ち居たり。

 夜半(やはん)過ぐる程になりて、朧月(おぼろづき)に見れば、座頭一人、琵琶箱を負ひて、杖をつき、堂の内に、入り來たる。

 不思議に思ひ、

『いかさま、唯者(たゞもの)にては、あらじ。』

と、先づ、

「何者なれば、此處(こゝ)に來れるぞ。」

と云ひければ、

「さては。人の坐(おは)しけるか。其方(そなた)は何人(なにびと)ぞ、我は、此の山に居(ゐ)侍る座頭にて、何時(いつ)も、此の觀音に步みを運び、夜(よる)は聲を使ひ候はん爲(ため)、詣で侍る。常に參り通ひ候へども、人の有りける事は、なし。いと、不審にこそ候へ。」

と、咎めければ、

「云々(しかじか)の仔細有りて、來たりたり。扠(さて)は、よき連れにて侍るものかな。向後(きやうこう)は、我等が方(かた)へも來たり候へ。そんぢやうそこ程(ほど)に、居(ゐ)侍る。」

など語り、「平家」を一句所望しければ、

「易きことなり。」とて、琵琶を調ベて、一句、語りければ、

「世の常、『平家』を聞き侍れども、斯やうの面白き事は、なし。節より始め、音聲(おんじやう)、息つき、中々、目を覺ましたる事どもなり。今、一句。」

と、所望すれば、また、語る。

 愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、感に堪ヘにけり。

 「平家」過ぎて後、轉手(てんじゆ)、きしみければ、「をんじやく」を取り出だし、絲(いと)に塗りけるを、

「それは、何と云ふ物ぞ。」

と問ふ。

「これは、『をんじやく』と云ふ物なり。」

「ちと見せ給へ。」

と云ふて、手に取りけるが、左右(さいう)の手に、取り付き、何とすれども、離れず。

 手は、板敷きに著(つ)きて、働かざる時(とき)、彼(か)の座頭、長(たけ)一丈もあるらんと覺しく、頭(かしら)は焰立(ほのほだ)ち、夥(おびたゞ)しき口、大きに裂け、角、生(お)ひて、怖ろしとも云はん方なし。

「汝は、何とて、此處に、來たれるぞ。」

とて、首(かうべ)を、顏を、撫(な)で、色々に、なぶり威(おど)して後(のち)、何處(いづく)ともなく、失せぬ。

 男は、漸(やうや)う、「をんじやく」を、離しけるが、無念、比(たぐひ)もなくてゐたる處に、松明(たいまつ)の、數(かず)數多(あまた)見えて、人、來たれり。

 見れば、宵の座敷に有りつる友達なり。

「やうやう、夜(よ)も明方(あけがた)になれば、迎ひに來たり候。扠(さて)、何事も珍らしき事は、無かりつるか。」

と云へば、

「その事にて候。」

とて、始めよりの事ども、細々(こまごま)と語りければ、皆人(みなひと)、手を打ちて、

「どつ」

と笑ふを見れば、又、件(くだん)の化け物の形なり。

 

Onjyaku

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「しなのゝ国すゑきくわんおんの所」と読める。]

 

 其の時にこそ、消え入りにけり[やぶちゃん注:失神・気絶してしまった。]。

 夜明(よあ)けて、人、來たり、漸(やうや)う、氣を付けけれども、見る人每(ごと)に、

「化け物の、來たりて、吾を、誑(たぶらか)す。」

と、のみ、人に云ひて、少時(しばらく)、人の心地も、なかりしが、遂(つひ)には、本性になりて、斯く、語り侍る。

[やぶちゃん注:「諸國百物語卷之三 一 伊賀の國にて天狗座頭にばけたる事」は、コンセプトをほぼ完全転用している。また、「諸國百物語卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事」シチュエーションの一部が類似する。『東京学芸大学紀要』湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(ネットでPDFでダウン・ロード可能)では、他に、「宿直草卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事」と、「宿直草卷二 第二 蜘蛛、人をとる事」を類話として挙げておられ、類似度は後者の方が高いとされる。個人的には挿絵の影響からか、前者を、まず、想起はした。

「をんじやく」「溫石」。体を暖める用具。蛇紋石(じゃもんせき)等を温(あたた)め、布や綿に包み、懐(ふところ)に入れるものが普通。軽石や滑石などを火で焼いたり、蒟蒻(こんにゃく)を煮て、代用品にしたりもした。「薬用に用いる、ある種の青い滑らかな小石」(「日葡辞書」)、「夏の温石と傾城の心とは冷たい」(「譬喩尽(ひゆづくし)」三)等と言われた。「塩(しお)温石」「焼石(やきいし・やけいし)」等とともに俳諧の冬の季語でもある。なお、転じて、ぼろ裂(ぎれ)に包むところから、「粗末な服装」を嘲る言葉ともなっている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「末木の觀音」岩波の高田氏の注に、『現長野県北佐久郡の釈尊寺か』とある。釈尊寺は長野県小諸市にある天台宗布引山(ぬのびきさん)釈尊寺(グーグル・マップ・データ)。「布引観音」とも呼ばれ、「牛に引かれて善光寺参り」伝説発祥の地とされる。本尊は聖観世音菩薩。「小諸市」公式サイト内の同寺の紹介が、写真もあり、よい。観音堂は布引山の断崖絶壁に建つなかなか凄絶なものであるが、冒頭の「山の峯に立ちたまふありけり」は、それらしい表現ではある。

「をこの者」「癡(痴)・烏滸・尾籠」などと書き、「愚かなこと・馬鹿げたこと・思慮の足りないことを行なうこと」、又は、「不届きなこと・不敵なこと」及びそうしたさまや人をも指す。参照した小学館「日本国語大辞典」によれば、「うこ」の母音交替形で、奈良時代から盛んに用いられ、漢字を当て、漢文脈の文書中にも多く使われた。多くの漢字表記が残っているが、時代で、使う漢字が定まっていたらしい。平安時代の漢字資料では「𢞬𢠇」「溩滸」など、「烏許」を基本に、これに色々な(へん)を付した漢字を用い、院政期には「嗚呼」が優勢となり、鎌倉時代には「尾籠」が現われ、これを音読した和製漢語「びろう(尾籠)」も生まれた、とあった。高田氏の注では、『ここでは無鉄砲なことを好む、馬鹿な奴、の意』とされる。

「そんぢやうそこ程」同じく高田氏の注に、『どこどこの辺に』とある。具体に言った場所を筆者が伏字にしたもの。

「轉手」原題仮名遣「てんじゅ」で「「点手・伝手」とも書く。「デジタル大辞泉」によれば、『琵琶・三味線などで、棹(さお)の頭部に横から差し込んである、弦を巻きつける棒。これを手で回して』、『弦の張りを調節する』。他に「糸巻き」「天柱(てんじ)」「転軫(てんじん)」とも言う。リンク先に琵琶の各部の名称を記したカラー絵図有り。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一六番 瓢簞の話

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     一六番 瓢簞の話

 

        瓢箪の始まり (其の一)

 或所に、多勢のとても育てきれぬほど澤山子供を持つた親があつた。後から後からと順々に生れるので、とうとう[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]生計(クラシ)が立たなくなり、惡いことだとは思ひながら、遂に一番の末子(バツチ)を縊《くび》り殺して土中に埋めた。

 翌春になると、其所から一本の見たことの無い草が生へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]出した。それが成長して多くの不思議な實を結んだ。その實は、みな中程からくびれて居た。其の譯は縊り殺された兒の體から生へ出たものだからであつた。

 親はそれにフクベと名をつけて、街へ持つて行つて賣つて生計を立てた。それが千成瓢簞の始まりである。

  (遠野町、佐々木緣子氏御報告分の一。大正九年秋の頃の分。)

[やぶちゃん注:「大正九年」一九二〇年。]

 

         瓢簞長者(其の二)

 或所に貧乏な爺樣があつた。子供が三人あつたが、その子供等を育てるのにさへ、ひどく困難した。それで山の洞合(ホラアヒ)にアラク(荒畦)を切開いて栗を蒔いたが、秋になつて思いの外のよい收穫があつた。それから年々アラクを切擴げて行つた。それだけ收穫も增えて來て、いくらか生活(クラシ)向きも樂になつた。其のうちに子供等も大きくなつた。

 或年の秋、夜になると山端(ヤマバタ)のアラク畑に鹿や猪どもがついてならぬので、總領息子が鹿追(シヽボ)ひに行つて、鹿追(シヽボ)ひ小屋に泊つて居て、[やぶちゃん注:「鹿追(シヽボ)ひ」の「鹿」(シシ)は猪と鹿を含めた謂いである。]

   しらほウ

   しらほウ

 と呼んで、穀物の穗を切りに來る鹿どもを一生懸命に追つていた。するとどこかで、

  ヤラ瓢簞(フクベ)コひとつ

  ちやんぷく茶釜に毛が生えて

  チャラリン

  チャラリン

と返辭をした。兄は怖(オツカナ)くなつて、夜の明けるのを待ちかねて家へ逃げ歸つた。(そして其事を話した。)

 中面(ナカヅラ)はそれを聞いて、兄(アニ)々、そんな馬鹿氣た話があるべかヤ。ほんだら今夜は俺が行つて見ると言つて、山畑の鹿追ひ小屋に行つて泊つて居た。そしていつものやうに、

  しらほウ

  しらほウ

 と畠荒しの鹿どもを追うて居ると、ほんたうに何所かで、

  ヤラ瓢簞コひとつ

  ちやんぷく茶釜に毛が生へて

  チヤラリン

  チヤラリン

と返辭をした。中兄(ナカヅヒ)も魂消《たまげ》て家へ逃げ歸つた。[やぶちゃん注:「中面(ナカヅラ)」不詳だが、以上の記載から、岩手方言で「次兄」を意味する語である。]

 所の末息(スツパラヒ)はその話を聞いて、兄共(アニド)アなんたらヂクナシ(臆病)ドだでヤ。そんだら今夜は俺が行つて、その化物(バケモノ)を捕(オサ)へて來るでアと言つて、さきのアラク畑の鹿小屋へ行つて泊つて居た。そして今返辭するか、今返辭するかと思ひながら、

[やぶちゃん注:以下、三字下げはママ。]

   しらほウ

   しらほウ

 と大きな聲で呼ぶと、どこかでほんたうに、

   ヤラ瓢簞コひとつ

   ちやんぷく茶釜に毛が生えて

   チヤラリン

   チヤラリン

 と返辭した。弟は物は試しだ、化物の正體を見屆けてやるべえと思つて、しらほウ、しらほウと呼びながら、聲のする方を尋ねて行くと、澤の水のドドメキコに、トベアコな(小さな)瓢簞(フクベ)コが浮んだり沈んだり、ちやんぷく、ちやんぷくと踊コを踊つて居た。息子はそれを見て、これはよい寶物だと思つて、拾ひ上げて懷中に入れて家へ持つて歸つた。そして誰にも見せないで、

   しらほウ

   しらほウ

 と呼ぶと、ふところの中で、

   ヤラ瓢簞コひとつ

  ちやんぷく茶釜に毛が生えて

  チヤラリン

  チヤラリン

 と、返辭をした。[やぶちゃん注:「ドドメキコ」不詳。沢水の浅い淵か、小滝の流れ落ちる淀みを指すか。]

 隣りの長者どんがそれを聞いて、その歌うたひ瓢簞コをひどく欲しがつて、とうとう自

分の身代悉皆(ミンナ)ととりかへつこをした。そこでこの末息子は村一番の長者どんとなつた。

  (鹿追ひ小屋、鹿(シヽ)小屋といつていた。私等の少年の頃までは方々の山畑に其の茅葺きの小屋が殘つてゐたものだが、今日では殆ど無くなつた。それは勿論鹿、猪などが山に居なくなつたからであるが、山村の風趣の點から、それが無くなつたのも物淋しい氣持がする。)

  (昭和二年五月二十九日蒐集。上閉伊郡鱒澤村地方で行はれてゐる話。鈴木重男氏御報告分の一。)

[やぶちゃん注:二つの附記は底本では全体が二字下げ。

「昭和二年」一九二七年。

「上閉伊郡鱒澤村」現在の遠野市宮守町(みやもりちょう)上鱒沢(かみますざわ)・宮守町下鱒沢相当(グーグル・マップ・データ)。]

 

         瓢簞踊り(其の三)

 或所に一人の息子があつた。生れつき餘り利巧では無かつたが、心は至つて正直であつたから村の人達は何も邪魔にはしてゐなかつた。

 或日息子が山へ行くと、谷川の淵の中で、浮んだり沈んだりして、踊を踊つてゐる瓢簞があつた。これは面白いもんだと思つて、それを拾つて持つて歸つて、町に出て見世物にした。ところが大層評判をとつて、しこたま金儲けをした。そして村に歸つて長者どんとなつた。

  (一六番其の一話同斷、其の二話。)

 

         本なり瓢簞(其の四)

 或所に三人の兄弟があつた。父親が死ぬ時、兄弟を一人々々枕もとに呼んで、瓢簞を一個づつ與へて[やぶちゃん注:行末で読点なし。]これこれや[やぶちゃん注:読点が欲しい。]お前達はこれを大事にして、俺の亡き後を繼いでケロ(くれろ)やエ、と遺言した。そして間も無く命(メ)を落(オロ)してしまつた。

 父親が死んだ後(アト)で、兄弟三人が、三人同じやうな瓢簞を貰ひ、亦同じやうなことを遺言されたので各々(テンデ)に、父親の後世(アトセ)を繼ぐのは俺だと言ひ張つた。さうして遂々《たうとう》村の檀那寺の和尙樣の所へ行つて、裁判を附けて貰うことになつた。

 和尙樣は兄弟の言ふことを、とツくりと聽いた。そして、何それは譯もない。一番本(モト)ナリの瓢簞を貰つた者が家督を繼ぐのが當然さと言つた。ほだらモトナリ瓢簞はナゾにすれば分りますべかと云へば、和尙樣はそれは目方に掛けてみれば直ぐ分ると言つた。

 そこで兄弟三人の瓢簞を目方に掛けて見ると、總領のが一番重かつた。それで矢張總領が家督を繼ぐことになつた。

  (一六番其の一同斷、其の三話。)

 

         粉南蕃賣(其の五)

 或所に粉南蕃(コナンバ)(唐辛子)賣りを渡世にして居る男があつた。そして如何《どう》かして一生の中《うち》に一度、紀ノ國の熊野樣へ參脂したいものだと思つて居た。

 それから三年三月と云ふもの、瓢簞で藁を打つて草畦《わらぢ》をつくり、それを履いて商賣のコナンバンを賣りながら旅へ出た。さうして首尾よく熊野詣りをして歸國した。それでもその草畦は切れなかつた。

  (同上其の四話。)

 

         瓢簞の質物(其の六)

 或所に一人の隱居婆樣があつた。小金を廻して質屋をはじめて居た。或日一人の博奕打《ばくちうち》が一個のただの瓢簞を持つて來て、これは黃金(キン)の瓢簞だから百兩借《か》せと言つて、遂々《たうとう》婆樣から百兩借り出して行つた。だが其男は其後一向質物を請けに來なかつた。

 婆樣もこれには困つて、何とかよい工風《くふう》はないかと考へたあげく、近所の子供等を呼び集めてお菓子(クワシ)をくれくれ、斯《か》う謂ふ歌を敎へて流行(ハヤ)らせた。

   質屋の婆樣が

   黃金(キン)の瓢簞(フクベ)コ失《な》くしたとサ

   請人(ウケト)が行つたらば

   ナゾすべなア

 それを聞いて博奕打は、これはよいことを聞いたと喜んだ。そして早速掛合ひに出かけて行つた。質屋の婆樣はひどく當惑顏をして、いつにない酒肴などを出した。そして一寸待つてケてがんせやと言つて奧に引込んで行つてなかなか出て來なかつた。

 博奕打はもうしめたと思つて、大きな聲を立てゝ、何して居れヤ婆樣、俺ア急がしい體だ。質物を早く出して貰うべえ。ほれここに百兩と利息を置くでアと怒鳴つた。婆樣は博奕打が出した金を見た時、はじめて奧から瓢簞を持つて來て渡した。博奕打は舌打ちコをしながら仕方なく、その瓢簞を持つて歸つた。

 

         寶瓢簞(其の七)

 或時、博奕打が勝負にさんざんぱら負けて、夜明方に歸つて來た。すると八幡樣のやうなお宮の大きな松の樹の上に天狗樣が止つて居た。見れば天狗樣は寶瓢簞(タカラフクベ)を持つて居て、ゼアゼア博奕打、博奕打、今夜もまた負けて來たなアと言つた。あゝ誰かと思つたら天狗樣か、俺ア負ける事ア嫌ひだから、ただ貨して來ただけさと負惜しみを言つた。すると天狗は何を思つたか、時に博奕打、ソチア何ア一番怖(オツカナ)いでアと言ふので、博奕打は、俺の一番怖いのは小豆餅さ。ところでさう云ふ天狗樣は何が一番怖いなと問ふと、俺か、俺はまづ鐵砲の音だなアと言つた。

 氣まぐれな天狗樣は一つ博奕打をからかつてやるべと思つて、松の樹のテン上から小豆餅を、ボタボタと落してよこした。博奕打は、ああ怖い、ああ怖いと言ひながら、小豆餅を澤山食べた後で。

   ズトン!

 と鐵砲の眞似をすると、天狗樣はびツくりして飛んで行つた。其の時餘りアワテたので、大事の寶瓢簞を落して行つた。その瓢簞は何でも好きな物が出るので、博奕打は忽ち長者になつた。ドツトハラヒ。

  (田中喜多美氏の御報告分の四。)

[やぶちゃん注:「ドツトハラヒ」感動詞感。昔話の語り終わりや、ものを数え終わったときに言い添える語。「これでおしまい」の意。一説に、「どっと祓ひ」で、その話しをした人物、或いは、それを聴いた人々の心のうちに漂っている言霊(ことだま)を「どつと(総て)祓ふ」ための咒言(じゅごん)とされているようである。

「田中喜多美」既出既注。]

2023/03/26

早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと 「蕨取りの遺恨」・「蕨が結びつけた緣」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]

 

 ○蕨取りの遺恨  四十年ばかり前の事、橫山の者が、川上の布里《ふり》と云ふ村の山へ、春、蕨取《わらびと》りに行くと、其村の者が兼《かね》て待伏せしてゐて、採つた蕨は全部押收して、各自持つてゐた叺《かます》迄も取上げて追歸《おひかへ》したことがあつたさうですが、それは蕨取りが、山を踏荒《ふみあら》すので、其村で最後の手段としてやつたのださうです。處が其年の夏、洪水があつて、布里村の有力な材木商の材木が流れ出して、橫山の村へも、澤山《たくさん》打上《うちあ》げられたのを、後になつて受取りに來ると、春の頃蕨取りの遺恨があるので、村の地内へかゝつた材木は、一本も手を觸れさせないと頑張つたので、其材木商が村へ歸つて、村の者と協議した結果、翌日になつて、春の頃押收した叺に饅頭を一包《ひとつつみ》づつ添えて、橫山の各戶へ詑《わび》を入れて返したので、無事落着したと謂ふ話がありました。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『寄木』と題して注と写真があり、そこには、『 鮎滝から二百メートルほど上流で、寒狭川が大きく曲がっているところを寄木と言います。友釣りの穴場なのですが、洪水の時、水が出れば出るほど、横山側で大きく渦を巻いて、水が引いた後は、材木が山のように溜まっています』。『この話の材木も、この寄木に打上げられたと思われます』とあった。グーグル・マップ・データ航空写真のこの中央部である。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川の左岸『(ヨリ木)』とある(但し、川の流れは曲りを描いてはいない)。読みは「よりき」「よりぎ」の孰れかは不明だが、早川氏は一貫してルビを附さず、「早川孝太郎研究会」のものでもルビがないところを見ると、「よりき」でよいのかなとは思う。

「川上の布里」寒狹川の上流で、横山の対岸の北部地区である、現在の愛知県新城市布里(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「蕨」シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ亜種ワラビ Pteridium aquilinum subsp. japonicum 。ワラビはウィキの「ワラビ中毒」によれば、牛・馬・羊などの家畜などはワラビ摂取によって中毒を起こし、牛では重症化すると死亡することが知られ、ヒトの場合も中毒を起こすことがあり、『適切にアク抜きをせずに食べると』、『ビタミンB1を分解する酵素が』、『他の』摂餌した食物の『ビタミンB1を壊し、体がだるく』、『神経痛のような症状が生じ、脚気になる』場合『もある』。『一方、ワラビ及びゼンマイはビタミンB1を分解する酵素が含まれる事を利用して、精力を落とし』、『身を慎むために、喪に服する人や謹慎の身にある人、非妻帯者・単身赴任者、寺院の僧侶たちはこれを食べると良いとされてきた』とあり、また、発癌性も指摘されており、ウィキの「ワラビ」によれば、発癌物質とされる『プタキロサイド』(ptaquiloside)『はアクの部位に多いが、アク抜きしても発ガン性は残存』し、『ラットの発ガン率は、処理なし78.5%に対し、灰処理25%、重曹処理10%、塩蔵処理4.7%と低下はするものの』、『残存』することが証明されてはいる。

「叺」「かます」は古く「蒲(かま・がま)」の葉で編み作ったところから「蒲簀(かます)」の意とされる。藁莚(わらむしろ)を二つに折って、左右両端を縄で綴った袋。穀物・菜・粉などを入れるのに用いる。「かますだわら」「かまけ」とも呼ぶ。]

 

 ○蕨が結びつけた緣  明治十五年頃の事ださうですが、鳳來寺村字門谷《かどや》の布袋屋と謂ふ大きな宿屋の娘が、橫山の字追分の隱居所へ遊びに來てゐる時、ある日女中を供につれて蕨取りに出かけると、近くの堀[やぶちゃん注:ママ。]立小屋に居た重吉と云ふ者の忰《せがれ》が道案内をすると謂つて、椎平《しひだいら》と云ふ所の板橋を渡る時、其忰が手を引いて半分渡りかけると、雨上りの後で水勢が增してゐたので、娘が眼が眩《くら》んで、あつとよろけたのを、抱き留めやうとする間に、二人共溺れてしまつたと謂ひます。どちらも未だ十三の春を迎へたばかりの子供で、間もなく數町の川下で發見された時は、はたで見る眼《め》も哀れな程、しつかり抱き合つて死んでゐたと謂ひました。男の方がひどい貧乏人の忰なのに、娘の親は、其頃附近に時めいた家だつたので、兎角の噂を厭《きら》つて、翌朝早く葬式を出さうとした處が、何かしらのさまたげが出來て、日の暮方になつたと謂ひますが、棺が家を出るから葬る迄、二人の葬式が、申し合せたやうに、寸分違はぬ時刻になつたと謂ひました。

[やぶちゃん注:涙を誘う無垢の少年少女の哀話である。柳田國男には決して出来ない語りである。

「椎平《しひだいら》と云ふ所の板橋」「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、現在の「椎平橋」の写真とともに、『当時の板橋は橋脚下の岩盤に架かっていたと思われます』とある。ストリートビューのここが現在の椎平橋。読みは、ネット上のバス停留所名で確認し、歴史的仮名遣で入れた。

「鳳來寺村字門谷の布袋屋と謂ふ大きな宿屋」現存しないようだが、山地和史氏のブログ「地図を見ながら」の「鳳来寺山へ(その5)伊勢参宮」によれば、天保一二(一八四一)年、『相模国大山寺の大工棟梁手中敏景の「伊勢道中日記」』『を見ると、閏正月三日「秋葉山参詣」の後、石打村(現浜松市天竜区)で泊まり』、『四日、天気よろ敷、六ツ過ニ出立仕、大ヰニ道あしく、同行ノ皆難義仕、巣山村坂本屋ニ而中食ヲ遣』とあり、この『巣山村は現在の新城市鳳来町巣山、道が悪く難儀したようです』とされた後、『大野村ニ休、鳳来寺山江参詣仕、角屋宿漆屋弥兵衛方止宿仕、暮方ニ着仕候』とあって、『大野村は、JR飯田線の三河大野で、ここから行者越を越えると』、『鳳来寺。彼らは、門前町にあたる角屋(門谷)宿で泊っています』とあるから、古くからの宿屋であったことが判る。

「橫山の字追分」横川追分地区(グーグル・マップ・データ)。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 五 猫またの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     五 猫またの事

 

 山家(やまが)の事なるに、「ぬたまち」とて、山より鹿(しか)の下(くだ)るを、庵(いほり)の中(なか)にて待つこと、あり。

 ある男、宵より行きて、待ちゐたれば、女房、片手に行燈(あんどう)を持ち、杖に縋(すが)りて、來たりて云ふやうは、

「今宵は、殊に寒く、嵐(あらし)烈しく候まま、疾(と)く、歸り給へ。」

と云ふ。

 男、思ふやう、

『何(なに)とて、女房、是れまでは、來たるべし。いかさま、變化(へんげ)の物なるべし。』[やぶちゃん注:助詞の「と」が欲しい。]

「汝、何物なれば、我が心を誑(たぶらか)すらん。矢一つ、參らせん。受けて、みよ。」

と云ひければ、

 女、云ふやう、

「御身(おんみ)は物が憑きて、左樣に宣(のたま)ふか。疾く、疾く、歸り給へ。誘(いざな)ひ參らん。」

と云ふ。

 

Nekomatanokoto

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「ねこまたの事」。]

 

 男、

『たとひ、妻女にてもあらばあれ、夜半(やはん)に、是れまで來たる事、心得ず。』

と思ひければ、大雁股(おほかりまた)を以つて、胴中(どうなか)を、かけず、射通(いとほ)しけるが、手に捧(さゝ)げたる行燈(あんどう)も消えて、行方(ゆきがた)知らずなり終(をは)りぬ。

 男は、

「我が家に、歸らん。斯かる不思議に逢ひぬる夜(よ)は、はかばかしき事は、なきもの。」

と思ひ、歸りければ、門の口に、血、多く、流れて、有り。

「こは、如何に。聊爾(れうじ)を、しつる事かな。」

と、肝を潰し、急ぎ、閨(ねや)に行き訪(おとな)ひければ、女房、

「何とて、今宵は、早く歸らせ給ふ。」

と云へば、さては、恙(つゝが)も、なし。

 それより、血を、とめて、見ければ、飼ひける猫の、年へたるにてぞ、ありける。

 久しく、猫は飼はぬもの、とぞ。

[やぶちゃん注:「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」は本篇の転用であるが、そこでは、狩りの対象が猪で「ぬたまち」(そちらでは「のたまち」)で、私は、そちらの方が躓かない。

「猫また」「猫股・猫又」。年老いた猫で、尾が二またに分かれ、化けて、人を害するといわれるもの。「徒然草」第八十九段で知られる通り、中世前期には定着していた猫の妖怪。「諸國百物語卷之二 七 ゑちごの國猫またの事」の本文と私の注も参照されたい。

「ぬたまち」「沼田待ち」。「沼田」は、「猪が泥の上に枯れ草を集めて寝る」とされることや、泥浴びをする習性から生まれた語で、そうした「ヌタ場」の直近で猪(「いのしし」は「しし」とも読み、「しし」はイノシシとシカをともに指す)を狙って狩ることを言った。岩波文庫版の高田氏の注には、『「にたまち」とも。ふつう、山中で猪が泥浴びをするためのニタツボにやってくるのを、隱れて待ち撃つこと。「濕田待(にたまち)」(『倭文麻環』巻十二)』とあった。書名は「しづのをだまき」で、江戸後期の薩摩藩第八代藩主島津重豪(しげひで:但し、一説には第十代藩主斉興(なりおき)とも)の命で、藩士で記録奉行・物頭にして国学者でもあった白尾国柱(しらおくにしら)が纏めた薩摩に伝わる故事・軍記・怪奇談・人物等を集成したもの。

「庵」とあるが、挿絵で分かる通り、雨を凌ぐための仮屋である。

「聊爾(れうじ)」(りょうじ)は「軽率・迂闊(うかつ)」或いは「不作法・失礼なこと」で。ここは前者。]

早川孝太郞「三州橫山話」 蟲のこと 「クサ木の蟲」・「アセボの木とダニ」・「シラミ屋敷」 / 蟲のこと~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから

 なお、これを以って「蟲のこと」は終わっている。]

 

 ○クサ木の蟲  蜂の子は美味いものだと謂つて食べましたが、クサ木《ぎ》の蟲は子供の藥になると言つて喰べました。とりわけ土用の丑の日は藥になると謂つて捕へて喰べる風習がありました。クサ木の蟲に限らず、山椒魚、ゴーナイ(寄居)、目高、アンコ(山澤に住むハヤに似た小魚)などを、燒いたり、生のまゝ呑んだりしました。

 一般にクサ木の蟲と謂ひますが、クサ木に限らず、虎杖《いたどり》、楊《やなぎ》、サルトリ茨《いばら》などの蟲を捕へて、串にさして、燒いて喰べました。この蟲をとるには、竹筒に鹽水《しほみづ》を入れて用意し、鉈と、細い竹の針を持つて行きます。

 最初に蟲の喰入《くひい》つて、糞の出てゐる所が、虎杖や楊の小枝ならば、其木を伐り取つて、蟲を捕へますが、大木《たいぼく》に喰入つて居るのは、糞を除《のぞ》いて、穴の口から、竹筒で鹽水を吹き込んでやるのです。そして穴の口に、竹針をあてて待つてゐると、蟲が鹽水の爲めに苦しがつて、穴の口へ頭を出しますから、そこを手際よく引出《ひきだ》すのです。

[やぶちゃん注:「くさ木の蟲」「臭木の蟲」。一種ではなく、カミキリムシ類(鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae)や、コウモリガ(鱗翅(チョウ)目コウモリガ科Endoclita 属。タイプ種Endoclita excrescens)などの幼虫で、クサギ(シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum。和名は葉に独特の臭いがあることに由来する。私は「臭い」とは感じない。また、その「臭い」葉は茹でると「お浸し」にして食べられる)などの木に穴を開けて材質を摂餌する。子どもの「疳の薬」とされた。「常山虫」(じょうざんちゅう)とも呼ぶ。

「山椒魚」両生綱有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoideaの多数のサンショウウオ群を指す。サンショウウオ科Hynobiidaeには四十種以上の種がおり、古来から強壮剤として、よく生食や黒焼にして食される。私も某所で黒焼を食べたが、炭のようで味は殆んどしなかった。なお、オオサンショウウオ科 Cryptobranchidaeのオオサンショウウオ属オオサンショウウオAndrias japonicus も食用になる(私の教師時代の先輩は石見出身で、幼少期にはよく茹でて食べたという話を詳しく聴いた)が、横山には棲息しないと思われるので、外す。

「ゴーナイ(寄居)」これが判らない。但し、この並んだリストから淡水産の巻貝であろうということは想像がつく。恐らくは、腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina 辺りではないかと推定する(タニシならタニシと早川氏は書くはずである)。地方では古くから食用にされた。但し、肺吸虫・横川吸虫などの第一中間宿主であるから、注意が必要ではある。

「目高」条鰭綱ダツ目メダカ科メダカ亜科メダカ属 Oryzias。ニホンメダカの異名を持つ本邦のタイプ種はキタノメダカ Oryzias sakaizumii及びミナミメダカ Oryzias latipes である。民俗社会では、古くから食用とされてきた。ウィキの「メダカ」によれば、『新潟県の見附市や阿賀町などでは』、『佃煮にして冬場のタンパク質源として保存食にする習慣がある』。『新潟県中越地方では「うるめ」と呼ばれている。新潟市にある福島潟周辺でも、メダカをとって佃煮にしていた。少量しかとれず、少し季節がずれると味が苦くなるので、春の一時期だけ自家で消費した』。『新潟県長岡市付近では、味噌汁の具にも使われていた』。『近年では養殖も行われているが、これは野生のメダカではなく、養殖が容易なヒメダカ』(緋目高:メダカの突然変異型(品種)の一つで、観賞魚や肉食魚の餌として販売されている)『である』とあった。私は一度、どこか(失念)で佃煮を食べたことがあるが、普通の佃煮の味しか記憶にはない。

「アンコ(山澤に住むハヤに似た小魚)」これもなかなか微妙である。そもそも「ハヤ」という種は存在しない「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」を見られたいが、そこの私の注から転写すると、本邦で「ハヤ」と言った場合は、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称であるから、その中の幼魚と断定してよいと私は考えている。「アンコ」ではネットに掛らない。現地の方で、種が判る方がおられれば、お教え戴けると幸いである。

「虎杖」ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica既出既注。但し、これ以下の植物を摂餌する昆虫は、上に出た「くさ木の蟲」とは異なるものである。私は昆虫には冥いので、それらを挙げることは出来ない。これと思う種はいるが、果してその昆虫が食用になるかどうかが判らない(毒性があるかも知れない)から軽々に示せないという理由もある。

「楊」キントラノオ目ヤナギ科 Salicaceaeの本邦種は三十種を越えるが、単に「やなぎ」と呼んだ場合は、ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica を指すことが多い。

「サルトリ茨」単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属サルトリイバラSmilax china。]

 

 ○アセボの木とダニ  ダニはアセボと云ふ樹の下で湧くなどゝ謂ひます。ヤマギシヤと言ふ種類が多くて毒があると謂ひます。

 山口豐作と云ふ男が、コンニヤクと云ふ所の山へ行つて、草の上に休んでゐると、いゝ心持《こころもち》に眠くなつて、其處へ眠つてしまつて、暫くしてから眼が覺めると、體中が搔《かゆ》くて仕方がないので、着物を脫いで調べて見ると、小さなダニが、一面に體に止まつてゐたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「アセボ」既出既注だが、再掲しておくと、有毒植物として知られるツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ属アセビ亜種アセビ Pieris japonica subsp. japonica の異名「馬酔木」(アシビ)の転訛。無論、特定の木の下で人に吸血するダニ(鋏角亜門クモガタ綱ダニ亜綱 Acari)が湧くはずは、まず、ない。ただ、昔、山の仲間から、とある山の草地でツェルトで仮眠していたところ、妙にムズムズするので目を覚ましたら、下半身にびっちりと大きなダニがたかっていた、という話を聴いたことがある。或いは、猪や鹿などの獣類が寝転がってダニを落とした上に彼は寝てしまったものだろうか。

「ヤマギシヤ」漢字表記は「山」以外は判らぬが、ヒト吸血性であるとなら、鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidae の種ではあろう。嘗つて長女と次女のアリス(ビーグル♀)に、時々、顔面に食いついていて、すっかり血を吸って大きくなっているのを見かけて、渾身の怒りを込めて駆除した(煙草の火を近づけて咬みついている吻部を自ずと外すのを待った。毟り取ると吻だけが残って治りが悪くなる)のを思い出す。

「コンニヤクと云ふ所の山」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左上方のやや中央寄りの『御嶽祠』の下方のピーク、『金掘址』と書いたポイントの左の山に『(コンニヤク)』とあるのが判る。「ひなたGPS」の、この中央の305の附近がそれか。]

 

 ○シラミ屋敷  八名郡山吉田村の新戶《あらと》と謂ふ所の重吉と謂ふ男は久しい前にシラミに喰殺《くひころ》されて死んだと謂つて、この屋敷跡をシラミ屋敷と謂つたさうですが、其家にはシラミが澤山居て、家の人の着物は無論のこと、足袋に迄ぞろぞろと匐つてゐたさうです。其家が沒落して、殘つた家を村の者が集《あつま》つて壞した所が、床下から白い鳩の卵程のものが出て、持つて見ると柔かいものなので、何だらうと思つて破《やぶ》いて見ると、中はシラミばかりであつたと謂ひます。その屋敷跡へは誰も寄りつくものもなかつたさうですが、四十年程前から附近の家で畑にしたと謂ひました。

 この重吉と云ふ男が、或朝江戶へ立たうとして門迄出ると、何か頸筋に喰付《くひつ》いたものがあるので、捕へて見ると一疋の大きなシラミだつたさうです。何氣なく其シラミを紙に包んで柱の割れ目に入れて江戶へ出掛けたと謂ひます。一年程して歸つて來て、ふと其事を思ひ出して、柱の割れ目から紙に包んだシラミを出して見ると、未だ生きてゐたので、其を掌に載せて見てゐると、其シラミが掌へ喰いついたのが原因で、病氣になつて死んだので、それから家が沒落したと謂ふ事です。

[やぶちゃん注:二箇所の「シラミ」の太字は底本では傍点「﹅」。他の「シラミ」には打たれていない。シラミ類(咀顎目シラミ小目シラミ上科 Anoplura)の中で、ヒトに寄生する吸血性のそれは、ヒトジラミ科ヒトジラミ属 ヒトジラミ Pediculus humanusと、ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Pthirus pubis の二種のみであり、これらが多量に寄生したからと言って、それで死に至ることはなく、二種によって媒介される重篤な死に至る感染症は、存在しないと思う(そんな話を聴いたことがない。先に出たマダニは別)。この話全体は、どの場面も現実にはあり得ないと断じてよい。

「八名郡山吉田村の新戶」現在の愛知県新城市下吉田に南新戸・北新戸・上新戸が確認でき、中央には「中新戸集会所」が確認出来るから、この中央広域の旧地名である(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、「新戶」と別に、既に「中新戶」の地名が見えるので、そこは外していいかも知れない。

「床下から白い鳩の卵程のものが出て、持つて見ると柔かいものなので、何だらうと思つて破いて見ると、中はシラミばかりであつた」ヒトジラミの体長は成虫で二~四ミリメートルほどで、ライフ・サイクルにあっても、こんな巨大な卵塊は形成しない。思うに、これはシロアリ(網翅上目ゴキブリ目シロアリ下目 Isoptera のシロアリ類。本邦には、ミゾガシラシロアリ科ヤマトシロアリ Reticulitermes speratus と、イエシロアリ Coptotermes formosanus が普通種である)の崩壊した根太の中の巣を誤認したのだろうと推理する。イエシロアリの形状はシラミが大きくなったようにも見えるからである。

「或朝江戶へ立たうとして門迄出ると、何か頸筋に喰付《くひつ》いたものがあるので、捕へて見ると一疋の大きなシラミだつたさうです。何氣なく其シラミを紙に包んで柱の割れ目に入れて江戶へ出掛けた……」この話、実は明らかな原拠がある。吉田村の物知りがそれを転用してでっち上げた全くの作り話なのである。私の「宿直草卷三 第十四 虱の憤り、人を殺せし事」を見られたいが、その正統なルーツは、実に鎌倉中期の成立である「古今著聞集」の「卷第二十 魚蟲禽獸」に載る「或る京上りの田舍人に白蟲仇を報ずる事」にまで遡るのである。リンク先では原々拠も電子化してあるので、参照されたい。早川氏は古典籍にはあまり通じておられなかったか。民俗学的記載としては、私としては、そこまで是非とも突いて欲しかった気はする。

大手拓次譯詩集「異國の香」 思ひ出(テオ・ヴァン・ビーク)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  思 ひ 出 ビーク

 

水仙よ、 水仙よ。

お前からこぼれるちいさな笑ひ、

日のひかりかがやくなかの絨毯について、

私の戀が思ひだすいろいろ………

私の覺えてゐるあの幸福な、 やさしい戀よ、

お前はどこにゐるのか、 お前はどこにゐるのか?

かつては緣であつたこの牧場(まきば)のうへに、

影のかけぎぬが一面におほうてゐる。

この世が悅びとして誇るすべてのものは、

わかれなければならない。

けれど、 百合の花や、 おまへの笑ひごゑや、

またそれからうまれる思ひ出の夢は、

いつまでも生きてゐる、

ただ私の心のなかに生きてゐる。

 

[やぶちゃん注:テオ・ヴァン・ビークなる詩人は探し得なかった。識者の御教授を乞うものである。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 四 色好みなる男見ぬ戀に手を執る事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     四 色好みなる男見ぬ戀に手を執る事

 

 京より、北陸道を指して、下(くだ)る商人(あきうど)ありけるが、ある宿(やど)に泊まり侍るに、亭主、心ありて、さまざまに歡待(もてな)し、奧の間に請じ入れけるが、連れも無く、すごすごと、臥して居たりけるが、小夜更(さよふ)け方(がた)に、次の間に、如何なる者とは知らず、如何にも氣高き音聲(おんじやう)にて、小唄を唄ひけり。

 男、

『さても、斯樣(かやう)の面白き事は、都にても、未だ聞かざる聲音(こわね)なり。

斯かる田舍にては、不思議なるものかな。」

と、いとゞ寐覺(ねざ)めて、次の間に行き、

「如何なる人にて御入(おい)り候へば、是れへ、御越しありて。」

とて、傍(そば)近く寄りたれば、女の聲にて、

「奧の間には、誰れも坐せぬと思ひ、片腹痛き事どもを申し、返す返すも、御恥(おはづ)かしく候へ。」

とて、なよやかに臥したる御姿(おすがた)なり。

「今宵は、添ひ臥して、御音聲(ごおんじやう)をも承り、御伽(おとぎ)致し候はん。」

と云ふ。

 女、

「是れは、思ひも寄らぬ事を承り候ふものかな。左樣に宣(のたま)はば、はや、外に出でなん。」

と行く。

 男、いとゞ、憬(あこが)れ、

「これに不思議に泊まり候ふも、出雲路の御結び合はせにてこそ、候はめ。」

と、いろいろ、言ひ、恨みければ、女、言ふやう、

「寔(まこと)に左樣に思召(おぼしめ)され候はば、我々、未だ良人(をつと)を持ち參らせ候はねば、永き妻と御定(おさだ)め候はば、兎も角も、御計ひに從ひ候べし。さりながら、堅き御誓言(ごせいごん)無くしては、仇(あだ)し心(こゝろ)は、まことしからず。」

と云へば、あらゆる神に佛(ほとけ)に、誓ひこめて、

「童(わらは)も、妻を持ち候はねば、幸ひに、我が國に伴ひ侍らん。」

と云ふ程に、流石、岩木(いはき)ならねば、打解(うちと)けて、妹背(いもせ)の契り、淺からず、秋の夜(よ)の、千夜(ちよ)も一夜(ひとよ)と歎(かこ)ちける。

 斯(か)くて、夜(よ)も、ほのぼのと明け行く儘に、彼(か)の女を、よくよく見れば、其の姿、あさましく、眉目(みめ)の惡(あ)しき瞽女(ごぜ)にてぞ、坐(いは)しける。

 男、大いに、肝(きも)を消し、亭主に暇(いとま)を乞ひ、奧へは下(くだ)らずして、上方(かみがた)指してぞ上りける。

 ある大河(おほかは)を渡りて、後(あと)を返り見れば、件(くだん)の瞽女、杖、二本に縋(すが)り、

「やるまじ、やるまじ、」

とて、追掛(おつか)くる。

 男、これを見て、馬方に言ふやう、

「其方(そのはう)を、平(ひら)に賴み候ふ間(あひだ)、才覺をもつて、彼(か)の瞽女を、此の川へ、沈めて給はれ。」

とて、やがて、料足(れうそく)を取らせけり。

 これも、慾(よく)、深く、不得心(ふとくしん)なる者なれば、易々(やすやす)と賴まれ、彼の女を、深みに、突き倒(たふ)し、さらぬ體(てい)にて、歸りけり。

 其の後(のち)、商人(あきうど)は、日、暮れければ、ある宿に泊まり侍りけるに、夜半(よは)ばかりに、門を、荒らかに敲き、

「これに、商人の泊まり給ふか。」

と問ひければ、亭主、立ち出で、これを見るに、彼の者の氣色(けしき)、世の常ならず、凄(すさ)まじかりければ、頓(やが)て門を閉(た)て、

「左樣の人は、これには、御泊まりなき。」

由、答ふ。

 そこにて、瞽女、愈(いよいよ)、忿(いか)りをなし、

「いやいや、何と言ふとも、此の内になくては、叶ふまじ。」

とて、戶を押し破り、内へ入り、旅人の隱れてゐたる土藏の中へ、押し込み、鳴神(なるかみ)の如く、震動(しんどう)すること、稍(やゝ)久し。

 

Gozenihikisakarukoto

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、「大藏」(おほくら)「にてこせ」(瞽女(ごぜ))「あき人お引さく」(を引き裂く)「事」である。]

 

 餘りの怖ろしさに、其の夜(よ)は、亭主も近づかず。

 夜明けて見れば、彼の男、其の身、寸々(すんずん)に、裂けて、首(くび)は、見えずなりにけり。

[やぶちゃん注:「諸國百物語卷之二 一 遠江の國見付の宿御前の執心の事」はロケーションを変えただけの転用。まあ、しかし、本篇自体が「道成寺縁起」を下敷きにしているのは、見え見えである。

「出雲路」岩波文庫版の高田氏注に、『出雲路の神の略。縁結びの神。出雲路は京の北部の地名』とある。

「童」私。商人の台詞としては、自身を若く見せるための自称か。

「瞽女」小学館「日本大百科全書」より引く。『盲目の女性旅芸人。三味線を弾き、歌を歌って門付(かどづけ)をしながら、山里を巡行し暮らしをたてた。「ごぜ」の名は、中世の盲御前(めくらごぜ)から出たといわれるが』、『確証はない。座頭のような全国的組織はもたず、地方ごとに集団を組織して統率するとともに、一定の縄張りを歩くことが多かった。近世の諸藩では、駿府』『や越後』『の高田、長岡などのように、瞽女屋敷を与えて』、『これを保護し、集団生活を営ませることによって支配する所もあった』。『今日』、『わずかに命脈を伝える越後の高田瞽女からの聞き書きによれば、高田では親方とよばれる十数人の家持ちの瞽女がいて、親方は』、『さらに座と称する組織を結成し、修業年数の多い瞽女が座元になって座をまとめていたという。仲間内には掟(おきて)があっ』て、『違反者は罰せられて追放された。それを「はなれ」といった。「縁起」や「式目」を伝えている所もある。瞽女は』三『人』、乃至、『数人が一団になって巡遊した。娯楽に乏しい山村では大いに歓迎された。昼間は門付に回り、夜は定宿に集まった人々を前に芸を披露した。葛(くず)の葉(は)子別れや』、『小栗判官(おぐりはんがん)などの段物をはじめ、口説(くどき)、流行唄(はやりうた)というように』、『語物(かたりもの)や』、『多くの唄を管理した。近年は昔話や世間話の伝播(でんぱ)者としても注目を集めている』とあった。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一五番 黃金の牛

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   一五番 黃金の牛

 

 昔、遠野の小友《をとも》村に長者があつた。その家に丁人の下男が居たが、此男は俺は芋を掘ると言つて年がら年中暇さへあれば鍬を持つて近所の山に入り、彼方此方《あちらこちら》と土を掘つて居た。村の人達はあれアまたあの芋掘りア山さ行くぢえと言つて笑つて居た。ところが其男は遂々《たうとう》或年の大晦日の晚方、同村日石(ヒイシ)と云ふ所の谷合で、黃金(キン)のヒに掘り當てた。その黃金の一塊(ヒトカタマリ)を笹の葉に包んで持つて來て、自分の破家(ブツカレエ)の形ばかりの床の間に供へた。するとその光が破戶《ぶつかれど》を透して戶外まで洩れて明るく輝いた。その人は今の遠野の新張(ニバリ)といふ所の人であつたが、それからは、小松殿と言はれる程の長者となつた。

[やぶちゃん注:「遠野の小友村」現在の遠野市街の南西の山間部、岩手県遠野市小友町(おともちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

「ヒ」小学館「日本大百科全書」に、『鉱脈のこと。日本の近世から鉱山用語として使われ始め、露頭から鉱脈に沿って採掘する際』、「ひ追(お)ひ」又は「ひ延(の)べ」等と『称した。現在でも鉱脈を追って』掘り進む『坑道を』「ひ押(お)し坑道」と呼び、『広く使われている』とあった。

「黃金(キン)のヒに掘り當てた」の底本は「掘」は「堀」。ここは流石に前後から誤植と断じ、特異的に訂した。本篇では以下にも同じ誤植を訂したあるが、一々、注はしなかった。

「破戶」普通なら「やれど」であるが、前の「破家(ブツカレエ)」の佐々木の方言に合わせて仮に訓じておいた。]

 小松殿は金掘りになつて、多くの金掘りどもを賴んで每日每日其ヒを掘り傳つて行つた。一年掘つても二年掘つても思つたやうな金は無くて、世間からはまた元の芋掘殿になつたなアと言はれて愚《ぐ》にされて居た。けれども何と言はれてもかまはないで掘つて行くと、丁度全(マル)三年目のやはり大晦日の晚方に、ベココ(牛)の形をした親金(オヤガネ)に掘り當てた。小松殿は大喜びで、すぐに坑外に多勢の金掘りドを集めて大酒宴をして其の夜を明《あか》した。

[やぶちゃん注:「親金(オヤガネ)」古く、山師は、鉱山の鉱床の主要本体の核部を「親金」と呼んだようである。ネット上の「地質ニュース」の高島清氏の論文「金と銀」PDF)の23ページ右下方に(字空けは詰めるか、読点に代え、ピリオド・コンマは句読点に代えた)『金銀に関係のある歴史のほかに、金銀山の開発とか発見にまつわる数多くの物語りの中にまた興味のあるものが多い。伝説として、興味のあるのは〝おそとけ″の話である。現在の岩手県上閉伊郡上郷村付近、大峰鉱山[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データ航空写真のここ。本篇の旧「小友村」とは盆地を隔てて東北十九キロメートルしか離れていない。]のある付近に、〝おそとき″と称する伝説がある。〝おそとけ″とは〝牛徳(おそとき)″が、なまったものと思われるが、慶長年間、あるいはそれより古く、この付近の仙人峠[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データ航空写真のここ。大峰鉱山の東南東約三キロメートル直近。]付近の火石金山で』、(★☞!)『親金が牛の形をした金鉱が発見された』(★☜!)『という。そして、その金塊を引き出すのに、繩をつけて引出す「牛徳」という一正直者は、坑外からの神の呼声で、外に出て、命を助けられ、作業中の鉱夫75人は、巨大なこの金塊と共に埋まっているという』とあるのである。これは驚天動地で(「親金」を補説しようとして、とんでもない金脈を探し当ててしまった感じだ!!!)、以下の展開を見られれば判るが、以上の話は、本話の源泉にある「黄金の牛」伝承そのものルーツであることが判明するのである!

 明くれば元朝の目出度い日で、朝日の登るのと一緖に、改めて坑の入初めの祝ひを擧げた。そして黃金の牛の額の片角《かたづの》に錦の手綱を結び着けて、歌を歌つてみんなに曳かせると、その角がポキリと折れてしまつた。今度はその首に綱を結びつけて引張ると、親金の牛が二步(アク)三步(アク)動いたかと思つた時ドガリと坑《あな》が墜ちて、鑛夫(カネホリ)どもが七十五人死んでしまつた。

 其時炊事男にウソトキと謂ふ男があつた。正直者で、時刻を正しく朝飯夕飯などを呼ばるので、金掘りどもからはあれは融通の利かない男だ、ウソトキだと言はれて居た。家には盲の婆樣(老母)があつて、自分の食物や鍋底のコビ(こげ飯)などを貰つて持つて行つて母親を養つて居た。それぐらゐの孝行者だから色々な雜物などは石の上に並べて置いて鳥どもにやつた。鑛夫《くわうふ》どもからは常に愚者《おろかもの》あつかひにされて居た。

[やぶちゃん注:「ウソトキ」ここでの意味は不詳。先の高島清氏の論文では「おそとき」「おそとけ」とあり、「牛徳(おそとき)」の訛りとされるが、ここでの「ウソトキ」を上手く説明出来ない。「牛の徳」を卑称として「牛のように融通の利かない頑固で鈍重な奴」の意味だろうか? 判らぬ。岩手方言の「うそ」は「噓」であるが、これでは説明不能で、私は一瞬、鳥の「鷽(うそ)」、スズメ目アトリ科ウソ属ウソ Pyrrhula pyrrhula をイメージした。何故かと言えば、この鳥の「うそ」は古語の「うそ」で「口笛」を意味するからである。私はこの「炊事男」の「ウソトキ」は、食事時を正確に鉱夫らに伝えて「呼ば」わったとあるのを、『彼は坑道に入って「口笛」を吹いてそれを告げたのではなかったか?』と夢想したことによる。思いつきだが、結構、私は気に入っているので、ここに記しおくこととする。なお、最後の私の注で引用した佐々木の注が、これを実は解読しているので読まれたい。私の妄想は一蹴される。]

 其日の親金曳きに、一人でも多い方がよいからと謂ふので、このウソトキも坑中に連れ込まれて綱に取りついて居た。すると不意に坑口で、ウソトキ、ウソトキと呼ぶ聲がした。あれア誰か俺を呼ばつて居ると思つて、綱を放して坑口に駈出《かけだ》して外を見れば、誰も居なかつた。これは俺の空耳だべと思つて、また坑穴に入つて綱を引張つて居ると、またこそ、けたたましく、ウソトキッと呼ぶ聲がした。あれアまた呼ぶと思つて出て見たが、矢張り前の通りで誰も居なかつた。どうもおかしいと思ひながら復《また》坑中に入つてまた綱を引いて居た。すると今度は以前よりも高く、ウソトキッと呼ぶ聲がした。誰だッと思つて綱を放して駈出して坑口から片足の踵《かかと》の出るか出ぬ間に、ドチンと坑が墜ちた。斯《か》うして七十五人ある鑛夫の中にたつた一人ウソトキばかり助かつた。

  (この墜坑《ついこう》口碑は私の「東奧異聞」にその一端を發表したやうに、奧州の鑛山地帶には至る所にある譚で、さうして又話の内容も少しづゝ異つてゐる。こゝには數ある同話の中から昔話になつてゐる遠野の小松長者の譚をより出して見た。)

 (詳しくは私の東奧異聞の中の「黃金の牛」と謂ふ短篇に書いておいたが、あの本を出した後また續々と同じ口碑を方々から聽かして貰つて居る。)

[やぶちゃん注:最後の附記は底本では、最初の丸括弧附記が全体が二字さげポイント落ちで、二番目の頭だけは一字下げで次行は二字下げ(全体ポイント落ちは同じ)となっている。

「東奧異聞」佐々木が大正一五(一九二六)年三月に坂本書店の『閑話叢書』の一冊として刊行した東北地方の民譚の研究書である(研究書と書いたのは、他の殆んどの民譚集成書群は、あくまで、それら採集した民譚に紹介・報告の体(てい)を出ないのであるが、この書だけは民話の分類や内容考証にまで及んでいるからである。佐々木の指示したそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの平凡社『世界教養全集』第二十一巻(一九六一年刊)のこちらの「黄金のウシの話」で視認出来る(新字新仮名)。また、「青空文庫」のこちらでも、同書底本で電子化されてある。佐々木はそこで前に述べたように、特異的な考証注を附しており、その中に「ウソトキ」の解読が示されてある。前後の注も含めて以下に示す。なお、「青空文庫」のものを加工データとして原底本の当該部と校合した(底本では、各注の頭の丸括弧数字のみが一字下げで、二行目以降は、全体が二字下げで全部ポイント落ちであるが、再現していない。地名のうち、読みに躓いたものは、検索可能だったものについては私が注で補った)。

   *

(1)盛岡地方にもこの口碑があるとみえて、同地の金山踊りの唄に左のようなものがあります。「金のウシ(ベココ)[やぶちゃん注:「ウシ」へのルビ。]の錦の手綱おらも曳きたい、ハアカラメテカラメテ、シッカリカラメテ、掘った手綱はうっかり放すな」というのや、また本話の小松長者の黄金のウシを曳くときに歌わせたのは、「金のウシこに錦の手綱、おらも曳きたい曳かせたい」といったと言います。

(2)ウソトキ、オソトキについては、これもあとで誰かの解釈でしょうが、この男はあまり正直者で、御飯をきちんと正確な時間にしか出さなかったので、鉱夫どもは逆に偽時[やぶちゃん注:「うそとき」。]だといって諷したとも言い、またこの男は時を知らす役目であったが、あまり正確に時間を守るのでみんなからそう逆諷[やぶちゃん注:「ぎゃくふう」事実とは反対に当てこすって言うこと。]されたとも言います。これはどこの金山の口碑でもこの助かり役の者をオソトキ、ウソトキということであることに注意を願います。ほかには女をもそう呼んでおります。すなわち陸前国気仙郡竹駒村玉山金山の炊事役は女でウソトキといったとなっております。また同郡唐丹(とうに)村、今手(いまで)山金鉱での口碑には三郎となっておりまして、やはり炊事係でありますが、これにはこの男が流し下に溜まる飯粒を克明に拾い集めておき、毎日それをカラスにやったと言い、墜坑のとき呼び出したのはたぶんそのカラスであったろうというような情合い談[やぶちゃん注:「じょうあいだん」。]もあります。同所の山谷の間に三郎墓(さぶはか)といって、この男の墓まで残っております。その他は青森県でも秋田県でも同様ウソトキで通っております。

(3)女であったというところは本文のほかに、前註の気仙郡玉山金山のウソトキなどでありますが、こちらは同郡広田村の及川与惣治氏の報告ですとオソイトという名まえになっております。また本文の上郷村左比内のオトタツ女なども、同郡釜石方面では男となってよそと同様にウソトキといわれているように、じつに区々[やぶちゃん注:「まちまち」。]であります。

(4)この口碑のある金山およびその跡について私の手帳に控えた一端を申しますと、

[やぶちゃん注:以下、底本ではリスト部分は全体が三字下げ。]

陸前国気仙郡竹駒村、玉山金山、ウソイト、ウソトキ  同郡唐丹村今手山金山、三郎  陸中国和賀郡田瀬村、黄金(こがね)沢、ウソトキ  稗貫郡湯本村字日影坂万人沢、ウソトキ  江刺郡米里村字古歌葉[やぶちゃん注:「よねざとむらあざこがよう」。]、千人沢、ウソトキ  上閉伊郡上郷村字左比内、千人沢、オトタツ  同郡同村仙人峠の長者洞[やぶちゃん注:「ちょうじゃほら」。]、ウソトキ  同郡土淵村字恩徳金山[やぶちゃん注:「おんどくきんざん」。]、ウソトキ  同郡栗橋村字青木金山、オソトキ  同郡甲子村字大橋日影沢(?)ウソトキ  同郡小友村日石[やぶちゃん注:「おともむらひいし」。]金山跡、オソトキ  紫波郡佐比内村[やぶちゃん注:「しわぐんさひないむら」。]銅ヶ沢金山、ウソトキ(?)  同郡彦部星山[やぶちゃん注:「ひこべほしやま」。]赤坂金山、ウソトキ(?)  陸奥岩木山麓百人沢、ウソトキ  羽後国鉱山地方某所、ウソトキなど親金が黄金のウシであることは、いずれも同様であります。

   *]

2023/03/25

早川孝太郞「三州橫山話」 蟲のこと 「双尾の蜥蜴」・「蜂の巢と暴風」・「蜂の戰爭」・「蜂の巢のとりかた」・「蜂の巢の探し方」・「眼白を殺した蜂」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○双尾の蜥蝪  フタマタ(双尾)の蜥蝪《とかげ》を見れば、思ふことが叶ふと言つたり、これを捕らへ來て飼つて置くと、金銀が自然に集つて來るとも謂ひます。

 春彼岸前に蜥蝪を見ても、其年は運がいゝなどゝ謂ひますが、それが靑蜥蜴では惡いとも謂ひました。

[やぶちゃん注:底本では「悪」の後に一字分空白(行末)があるが、誤植と断じ、詰めた。二叉尾のトカゲ類はとりたてて稀なものではない。先天的な奇形ではなく、自切後や尾部周辺で傷を負ったりすると、彼らは再生力が強いので、尾が切れたと再生システムが起動し、二股の尾が出現するケースが多いのではなかろうか。因みに、私は高校時代、演劇部と生物部を掛け持ちしていたが、後者で専ら担当したのが、イモリの再生実験であった。尾のみならず、前肢・後肢を人工的に切断して行った。前肢では中央を突にして、根本付近で三角形にカットしたところ、腕の指がその両側に発生した。但し、大抵は再生途中で腐敗して失敗した。高校レベルの装置では、細菌感染を予防するシステムや、抗生物質の投入などは金が掛かり過ぎて出来なかったからである。今考えれば、私は血塗られたマッドなサージャリーに過ぎなかったのだ。]

 

 ○蜂の巢と暴風  蜂が人家の軒や屋根棟へ巢を造ると、その家が榮える前兆であると謂ひまして、わざわざ蜂の巢をとつて來て門に置く風習もありました。

 人家の棟などに、大きな籠のやうな巢を造るのは、赤蜂と云ふ種類で、これが橋の下や、其他低い所へ巢を造つた年は、暴風があると謂ひました。

[やぶちゃん注:嘗つて、山登りをしに色々な地方の山村を登山口にしたが、酒屋でもない大きな民家の軒先に『杉玉があるな。』とよく勘違いし、近づいて見ると、明かにどこからか持ってきて、そこにわざわざ飾ってある、蜂のいなくなったスズメバチ類の巢であったことを何度も体験した。まさに、こうした民俗に基づくものであったのである。

「赤蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科チャイロスズメバチVespa dybowskii の異名と思われる。体長一・七~二・七センチメートルで、全身が黒から茶・くすんだ赤の深い色に覆われている。北方系種で、日本では中部地方以北に棲息していたが、近年、中部以南にも分布を広げており、二〇〇〇年代初頭までに、山口県を除く本州全域で棲息が確認されており、都市部にも進出しているから、だんだんに被害は増えそうな、如何にも、見た目(ネット上で見た)、特異的に赤黒と文字通り異色に派手で、兇悪そうな感じに見える種ではある(私は自然界では、今のところ、幸いにして現認したことがない)。]

 

 ○蜂の戰爭  私の子供の頃に、私の家と溪を隔《へだて》て、竝んでゐる三軒の家の土藏へ、同じやうに赤蜂が巢を造つた事がありました。秋も遲くなつて、巢が充分大きくなつた頃、一番端の家の巢へ、熊蜂の群が襲つて來て、赤蜂の群を喰《く》ひ殺して、中の子を咥へ出して持つて行つた事がありましたが、其翌日は、次の家へ襲つて來て、同じやうに全滅させてしまひました。三日目の晝過ぎ頃、私の家の巢へやつて來ました。最初は二つ程熊蜂が來て赤蜂と爭つてゐるやうでしたが、だんだん熊蜂の數が增えてきて、約二時ばかり盛んな戰爭をした結果、赤蜂は殆ど全滅してしまひました。戰爭してゐる最中は、一ツの熊蜂へ、三つ四つ程も赤蜂が絡まつて落ちて來ては、盛んに嚙合つてゐました。巢の下の地面が、赤蜂の死骸で赤く染まつたやうに見えました。巢の中からは、熊蜂が子を咥へ出しては、何處ともなく運んで行きました。時々一ツ位赤蜂が歸つて來ても忽ち喰ひ殺されてしまひました。

 後で、蜂の死骸を檢《あらた》めますと、赤蜂が二十に對して、熊蜂の死骸は一ツ位の割合でした。

 又或年の秋、屋根裏に集まつてゐる小蜂を、熊蜂が捕へるのを見た事がありましたが、捕へたと思ふと、一度地上に落ちて來て、再び提け[やぶちゃん注:ママ。後の『日本民俗誌大系』版では『提げ』である。]上げて屋根の上へ持つて行きました。

[やぶちゃん注:「熊蜂」これは私は「クマンバチ」と呼ぶ花蜜・花粉食の温厚な膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属クマバチ Xylocopa violacea ではなく、肉食性の細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属 Vespa の大型の一種、或いはその中で最悪最強のオオスズメバチ Vespa mandarinia の異名である。]

 

 ○蜂の巢のとりかた  秋、彼岸が過ぎると、蜂の巢が實ると謂つて巢をとりました。

 ヘボと謂ふ、虻程の蜂や熊蜂は、地下に巢が造つてあつて、其處には幾層にも重なつた巢があつて、大きな巢になると、子が一斗[やぶちゃん注:十八リットル。]あつたなどと云ひました。

 これ等の巢をとるには、夜、穴の傍で麥藁などを燃やして置いて、鍬で掘りましたが、中から蜂が飛び出して來て、羽を燒かれてしまふのですが、人間の方も、必ず刺されるものでした。それが煙火を使つてとるやうになつてからは、雜作なくとれました。穴の口に、筒花火を向けて、火を全部穴の中へ放出して置いてから堀[やぶちゃん注:ママ。]ると、蜂は全部麻醉劑にかゝつたやうになつてゐました。

 晝間、竹竿などの先に、麥藁を結へつけて、其に火をつけて巢の近くに差し出したりして、惡戲をすると、その竹竿を蜂が傳つて來るものでした。

[やぶちゃん注:「ヘボと謂ふ、虻程の蜂」: スズメバチ亜科クロスズメバチ属クロスズメバチVespula flaviceps を代表とする地蜂類を指す。体長一~一・八センチメートル。小型で、全身が黒く、白又は淡黄色の横縞模様を特徴とする。ウィキの「スズメバチ」によれば、『日本では地方によってヘボ、ジバチ、タカブ、スガレなどと呼ばれて養殖も行われ、幼虫やさなぎを食用にする。長野県では缶詰にされる。クロスズメバチを伝統的に食用とする地方の一部では「ヘボコンテスト」等と称し、秋の巣の大きさを競う趣味人の大会も行われている。岐阜県でもヘボとして食文化が発達して』いるとある。小さく黒いことから、まさにアブと間違えやすく、それで刺されてしまうこともあるので、注意が必要。但し、攻撃性はそれほど高くなく、毒性もあまり強くない(但し、蜂毒は、その毒性の強弱に限らず、寧ろ、二回目に刺された際のアナフィラキシー・ショック(anaphylaxis shock)の方が生命に関わる危険性がある)。「へぼ」の異名については、「農林水産省」公式サイト内の「うちの郷土料理」の「へぼ飯 愛知県」で確認でき、次の条に出る、その巣を探す方法も記されてある。

「熊蜂」前掲の広義のスズメバチ属 Vespa の中・大型の種群。]

 

 ○蜂の巢の探し方  秋、蛙の肉やバツタなどを、棒切れの先につけて持つてゐると、何處からともなく蜂がやつて來て、其肉を喰千切《くひちぎ》つて持つてゆくので、其行衞を見定めて少しづゝ巢へ近づいて行くものでした。其時、蜂の體へ、眞綿を千切つて引つかけてやつて、眼印にする方法もありました。

 熊蜂などの、體の大きなものは、澄んだ空を疑視めて[やぶちゃん注:ママ。「凝視」の誤植。後の『日本民俗誌大系』版では『凝視(みつ)めて』とルビもある。]蜂の去來する姿をみて、巢に近づいて行きました。

 

 ○眼白を殺した蜂  子供の頃、眼白《めじろ》が熊蜂に喰殺《くひころ》された事がありました。それは眼白を入れた籠を、裏口に掛けて置いたら、熊蜂が眼白の頸を喰切《くひき》つて其の肉を食べてゐました。私が近づくと、蜂は一塊の肉を持つて逃げて行きました。

[やぶちゃん注:「眼白」スズメ目メジロ科メジロ属メジロ Zosterops japonicus であるが、本邦で見られるのは五亜種。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 眼白鳥(めじろどり) (メジロ)」を参照されたい。]

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 三 蓮臺野にて化け物に逢ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、状態がかなりいいので、その岩波文庫版からトリミング補正したものを用いた。]

 

     三 蓮臺野にて化け物に逢ふ事

 

 都、蓮臺野に、大いなる塚の中に、不思議なる塚、二つ、ありけり。

 其の間、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]ばかりありけるが、一つの塚は、夜な夜な、燃えけり。

 今一つの塚は、夜每に如何にも凄(すさ)まじき聲して、

「こはや、こはや、」

と呼ばはる。

 京中の貴賤、恐れ戰(おのゝ)き、夕(ゆふべ)になれば、其の邊(へん)に立ち寄る者、なし。

 爰(こゝ)に、若き者、集(あつ)まりて、

「さても。誰(たれ)れか、今夜、蓮臺野に行きて、彼(か)の塚にて、呼ばはる聲の、不審を霽(は)らしなんや。」

と云ひければ、其の中(なか)に、力、勝れ、心、あくまで不敵なる男、進み出でて、云ひけるは、

「我こそ、行きて、見屆け侍らん。」

と、云ひも敢へず、座敷を立ち、蓮臺野にぞ、赴きける。

 其の夜、折しも、殊に暗く、めざすとも知らぬに、雨さヘ降りて、もの凄まじとも云はん方、なし。

 則ち、彼の塚に立寄りつつ、聞きけるに、言ひしに違はず、

「こはや、こはや、」

とぞ、呼ばはりける。

 

Rendaino

 

[やぶちゃん注:以上では右上端の「キャプションが半分切れてしまって見えないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像で、「れんだい野にて二ツつかばけ物の事」と読める。]

 

 此の男、

「何者なれば、夜每に、斯くは、言ふぞ。」

と罵(のゝし)りければ、其の時、塚の内より、年頃四十餘りなる女の、色靑く、黃ばみたるが、立ち出でて、

「斯樣(かやう)に申す事、別の仔細にても、なし。あれに見えたる燃ゆる塚に、我を具(ぐ)して、行き給へ。」

と云ひければ、男、恐ろしくは思へども、思ひ設(まふ)けたる事なれば、易々(やすやす)と請け合ひて、彼の塚へと、伴ひ行きぬ。

 さる程に、彼の者、塚の内に入るかと思へば、鳴動すること、稍(やゝ)久し。

 暫くあれば、彼の女、鬼神(きじん)の姿と成りて、眼(まなこ)は、日月(じつげつ)の如くにて、光り輝き、身には、鱗、生(お)ひ、眞(まこと)に面(おもて)を向くべきやうも、なし。

 さりければ、又、

「舊(もと)の塚に、連れて歸れ。」

と云ふ。

 此の度(たび)は、氣も、魂(たましひ)も、失せけれども、兎角、遁(のが)るべき方(かた)なければ、舊の塚に、負ひて、歸る。

 扠(さて)、彼(か)の塚へ入(い)り、少し、程經(ほどへ)て、又、元の姿に現はれて、

「さてさて、其方(そのはう)のやうなる、剛(がう)なる人こそ、おはせね。今は、望みを達し、滿足、身(み)に餘り候。」

とて、小さき袋に、何とは知らず、重き物を入れて、與(あた)ヘけるが、彼の男、鰐(わに)の口を遁(のが)れたる心地してぞ、急ぎ、家路に歸りける。

 前の友達に逢ひ、

「爾々(しかじか)。」

と語りければ、各(おのおの)、手がらの程を感じける。

 彼(か)の袋に入れたる物は、如何なる物にかありけん、知らまほし。

[やぶちゃん注:この手の短い怪談集では、こうした最後の最後まで引っ張っておいて、消化不良にさせることが、続いて話を読ませるナニクソ力(ぢから)を発揮させるから、上手い手である。「諸國百物語卷之一 七 蓮臺野二つ塚ばけ物の事」は転用。但し、袋の中身を最後に明らかにしている。やはり、それは、お読みになれば、誰もが、「つまならない」と感じられるであろう。寧ろ、ブラック・ボックスであることが、怪奇の余韻を燻ぶらせるとも言えるよい例なのである。

「蓮臺野」洛北の船岡山西麓から現在の天神川(旧称は紙屋川)に至る一帯にあった野。古来、東の「鳥辺野(鳥辺山)」、西の「化野(あだしの)」とともに葬地として知られた。後冷泉天皇・近衛天皇の火葬塚がある。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)

「思ひ設けたる」ある程度までの覚悟や、心構えはしていたことを指す。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 二 離魂と云ふ病ひの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     二 離魂(りこん)と云ふ病(わづら)ひの事

 

 何時(いつ)の頃にかありけん、出羽國(ではのくに)守護何某(なにがし)とかや、ある夜(よ)の事なるに、妻女、雪隱(せつちん)に行きけるに、稍(やゝ)ありて、歸り、戶をたてて、寢(い)ねけり。

 又、暫く、女の聲して、戶を開けて、内に入りぬ。

 彼(か)の何某、不思議に思ひ、夜(よ)明くるまで、守(まも)り明かして、彼の女を、二所(ふたところ)に分けて、色々、詮索しけれども、いづれに、疑はしき事、なかりしかば、

『如何(いかゞ)せん。』

と、案じ煩(わづら)ふところに、ある者、

「一人の女體(によたい)、疑はしき事、侍り。」

と、申しければ、猶、詮索致してより後(のち)、卽ち、頸(くび)をぞ、刎(は)ねてける。

 疑ふ所もなき、人間にてぞ、坐(おは)しける。

「今一人こそ、變化(へんげ)の物なるべし。」

とて、それをも、頓(やが)て切りたりけり。

 これも又、同じ人間にてぞ候ひける。

 扠(さて)、死骸を、數日(すじつ)、置きて見たれども、變はる事、なし。

 如何なる事とも、辨(わきま)へ兼ねたるが、或(ある)人の曰く、

「『離魂』と云ふ病(わづら)ひなり。」

と。

[やぶちゃん注:ここで言う「離魂病」とは、江戸時代になって一般的に「影の病ひ」などと呼称された、奇体な離人症(通常の精神疾患では自身の見当識があるにも拘わらず、自分にそっくりな人物を垣間見たり、その人物が自分の意志とは無関係に異なった行動をとったりするように見える視覚型の重い妄想を指すが、最近では、旧「多重人格」、「解離性同一性障害」の産物と見做すことが多いようである)である。芥川龍之介が自ら蒐集した怪奇談集「椒圖志異」にも、正篇の最後に引用している、

   *

      3 影の病

 

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

が、創作ではない貴重な「影の病ひ」=「離魂病」の事実(但し、聞き書きではある)記載である。私は真葛の「奥州ばなし」を「附・曲亭馬琴註 附・藪野直史注」を縦書ルビ附・PDF版で電子化しているが、その「二十一 影の病」(69コマ目)が、その引用元である。PDFが見られない方は、ブログ版「奥州ばなし 影の病」もある。近年はドイツ語由来の「ドッペルゲンガー」(Doppelgänger:「Doppel」(合成用語で名詞や形容詞を作り、英語の double と同語源。意味は「二重」「二倍」「写し」「コピー」の意)+「gänger」(「歩く人・行く者」))の方が一般化した。これは狭義には自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象を指す。しかし、本篇はそれを完全に突き抜けて、妻が二人に分離し、しかも、孰れも夫や家人にも見える状態にあるという点で、完全にブッ飛んでいる怪奇談で、さらに、結果的に、二人ともに夫が化け物と断じて、殺害してしまっている。しかも最後まで二体の死体には何らの変容もなく、二体ともに同じ妻の遺体なのである。これは最早、怪奇異というより、猟奇というべきスプラッター的死体変相的リアリズムの凄惨である。また、私には敬愛する芥川龍之介の向こうを張った怪奇蒐集「淵藪志異」があるが、その中の「十五」は、私が直に沖縄出身の女性から聴き取った二重身で、自身は風邪をひいて学校を休んだのに、同級生がその日、ガジュマルの上にいる彼女と話しをしたという驚愕のもので、沖縄では「生きまぶい」(生霊の分離出現)と呼ぶ現象である。彼女がユタから受けたそれを鎮める呪法も、簡単だが、記してある。未見の方は、是非、読まれたい。なお、芥川龍之介自身、自ら自分のドッペルゲンガーを見たと、晩年に証言している。これは、二年前にブログで『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』として公開してある。これは、一つにネット上に、「芥川龍之介が自殺した原因は彼が自分のドッペルゲンガーを見たからである」などという、無責任極まりない非科学的な糞都市伝説が横行していることを正したいという思いから電子化したものであるが、未見の方は読まれたい。なお、「諸國百物語卷之一 十一 出羽の國杉山兵部が妻かげの煩の事」は本篇の転用である。因みに、近代幻想小説中で、離人症を扱った嚆矢は芥川龍之介が敬愛してやまなかった泉鏡花で、それは鎌倉を舞台とした「星あかり」(明治三一(一八九八)年八月発表)である(リンク先は昨年五月に公開した私の正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版である)。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 / 第三目録・一 いかなる化生の物も名作の物には怖るゝ事

「曾呂利物語」正規表現版 第三 一 いかなる化生の物も名作の物には怖るゝ事

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇には挿絵があるので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどくみえにくくなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。

 

曾呂利物語卷第三目錄

 

 一 いかなる化生(けしやう)の物も名作の物には怖るゝ事

 二 離魂と云ふ病(わづら)ひの事

 三 蓮臺野にて化物(ばけもの)に遇ふ事

 四 色好みなる男見ぬ戀に手を執る事

 五 猫またの事

 六 をんじやくの事

 七 山居(さんきよ)の事

 

 

曾 呂 利 物 語 卷 第 三

 

     一 いかなる化生の物も名作の物には怖るゝ事

 

 ある座頭、都の者にておはしけるが、

「田舍へ下り侍る。」

とて、山里を通りしが、道に行き暮れて、とある辻堂にぞ泊りける。

 弟子一人を召し具しけるが、夜半ばかりに、女の聲して、

「こは。何處(いづく)よりの客人(きやくじん)にて、渡らせ給ふぞ。妾(わらは)が庵(いほ)、見苦しくは候へども、是れに御入り候はんよりは、一夜(や)を明し給へ。」

と云ふ。

 座頭、

「御志(おこゝろざし)は有り難(がた)う侍れども、旅の習ひにて候へば、是れとても、苦しからず。其の上、早(はや)、夜の程もなく候間、參るまじ。」

と云ふ。

「さあらば、此の子を少しの間、預け參らせ候べし。」

とてさし出す。

「いやいや盲目の事にて候へば、御子(みこ)など、えこそ預り候まじ。」

と云へば、

「それは、情なし。すこしの間にて候まゝ、平(ひら)に賴み奉る。」

とて、さし出せば、弟子なる座頭ぞ、あづかりける。

 師匠の座頭、

「沙汰の限りなること。」

と忿(いか)りければ、

「少しの程。よも、別の事は、あらじ。」

とて、懷に入れにけり。

 扠(さて)、彼(か)の女は何處(いづこ)ともなう歸りぬ。

 とかくする中(うち)に、

「此の子、少し大きになり候は、如何に。」

と云へば、

「さればこそ、無用の事を、しつる。」

と云ひも敢へぬに、十二、三、四程に、なりぬ。

 

Satoumeisakunitetasukarukoto

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「めいさくのかたなにて命たすかる所」とある。]

 

 扠、座頭を頭(あたま)より喰(く)ひまはる程に、

「あら、悲しや、何(なに)となるべき。」

と、泣き悲しむ中(うち)に、はや、喰(く)ひ殺しぬ。

 斯かりけるところに、女、來り、

「何とてあの師匠の座頭は、喰はぬぞ。」

と云ひければ、「何としても、寄られ候はぬ。」

と云ふ。

 其の中(うち)に、座頭の家に傳はる三條の小鍛冶宗近(むねちか)を、琵琶箱より取り出して、

「何者なりとも、たゞ、一うちたるべし。」

とて、四方八方を、盲切りに、切り拂へば、あへて近づく者も、なし。

 しばらくあつて、彼の女は何處(いづく)ともなく、失せぬ。

 扠も、

『怖ろしき事にて、ありける物かな。』

と思ひて、猶も、脇差を離さで居(ゐ)たる中(うち)に、早、夜(よ)も明けぬ。

『さらば、立ち出でん。』

と思ひ、道にかゝりて、行く。

 又、女ありて、云ふやうは、

「座頭は何處(いづく)に泊られ候。」

と云へば、

「あれに候ひつる。」

と答ふ。

「それは。化物ありて、容易(たやす)く人の泊る所にては、なし。不思議の命、助かり給ふことから。此方(こなた)へ入らせ給へ。」

とて、吾が家(いへ)へ連れて行く。

 扠、

「彼(か)の脇差を、ちと、御見せあれ。」

と云ふ。

 座頭、分別して、

「此の脇差は、總別(そうべつ)、人に見せ候はず。」

とて、鎺元(はゞきもと)を拔きくつろげてぞ、ゐたりける。

 又、そばより云ふやう、

「見せずは、唯(たゞ)喰ひ殺せ。」

とて、數多(あまた)の聲こそ、したりけれ。

「扠は。化物、ついたり。」

と云ふ儘に、脇差を拔き、四方を拂へば、彼の者共、かゝり得ず。

 少時(しばし)、戰へば、眞(まこと)の夜(よ)こそ、明けにけれ。

 邊[やぶちゃん注:「あたり」。]を探れば、元の辻堂に、唯、一人ぞ、居たりける。

 それより、座頭、辛き命、助かりて、斯くぞ、語り侍るとぞ。

[やぶちゃん注:「諸國百物語卷之一 二 座頭旅にてばけ物にあひし事」は完全転用。

「夜の程もなく候間」「夜半」になっているから、「夜も程なく明くる頃合いで御座いますから」という謂いであろう。

「三條の小鍛冶宗近」は平安時代の刀工。当該ウィキによれば、『山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある』。『古来、一条天皇の治世、永延頃』(九八七年~九八九年)『の刀工と伝える。観智院本』「銘尽」には、『「一条院御宇」の項に、「宗近 三条のこかちといふ、後とはのゐんの御つるきうきまるといふ太刀を作、少納言しんせいのこきつねおなし作也(三条の小鍛冶と言う。後鳥羽院の御剣うきまると云う太刀を作り、少納言信西の小狐同じ作なり)」とある』。『日本刀が直刀から反りのある彎刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている』。『実年代については、資料によって』十~十二世紀と『幅がある』。『現存する有銘の作刀は極めて少なく』、『「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」』であるとある。

「總別」副詞で「総じて・概して・およそ・だいたい」の意。

「鎺元(はゞきもと)」刀剣などの鍔元(つばもと)。鎺金(はばきがね:刀や薙刀などの刀身の区際(まちぎわ:刀剣の柄に出ている本体の刃と背の部分)に嵌めて、鍔(つば)の動きを止め、刀身が抜けないようにする、鞘口の形をした金具を指す語。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 善光寺詣りの出處

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

 

   南 方 雜 記

 

     善光寺詣りの出處 (大正二年四月『鄕土硏究』第一卷第二號)

 

 牛に牽かれて善光寺詣りの話の出處ならんとて、『鄕土硏究』(第一卷一號三〇頁)に載せたる、釋迦如來、舍衞郊外、毘富羅山《びぶらせん》(「寫」は「富」の誤)說法の時、采女輩《うねめはい》が、花に牽かれて、佛の所に詣りし話は、隋朝に闍那崛多《じやなくつた》が譯せし「無所有菩薩經《むしようぼさつきやう》」卷四に出づ。但し、正しく牛に牽かれて如來詣りの根本は、劉宋の朝に所ㇾ譯〔譯す所〕の「雜阿含經」卷四十四に、一時佛住毘舍離國大林精舍、一時有毘利耶婆羅豆婆遮婆羅門、晨朝買ㇾ牛、未ㇾ償其價、即日失ㇾ牛、六日不ㇾ見、時婆羅門爲ㇾ覓ㇾ牛故、至大林精舍二一、遙見世尊坐一樹下。〔一時、佛、毘舍離國(びしやりこく)の大林精舍に住す。一時、毘利耶婆羅豆遮婆羅門(びりやばらずしやばらもん)有り。晨朝(あした)に牛を買ひ、未だ其の價(あたひ)を償(つぎな)はざるに、卽日、牛を失ふ。六日、見(あらは)れず。時に、婆羅門、牛を覓(もと)めんが爲め、故(ゆゑ)に、大林精舍に至り、遙かに世尊の一樹の下(もと)に坐せるを見る。〕其容貌・形・色の異常を見、敎化《きやうげ》を受け、出家得道せる由を載せたる、是なるべし。

[やぶちゃん注:熊楠の「雜阿含經」の引用は「大蔵経データベース」で校合した。熊楠は判り易くするに経典をいじっている。一部は復元した。

「牛に牽かれて善光寺詣りの話の出處ならんとて、『鄕土硏究』(第一卷一號三〇頁)に載せたる」「選集」に編者の割注があり、これは高木敏雄の論考「牛の神話伝説補遺」とある。

「毘富羅山」梵語「ヴィプラ」の漢訳で、原義は「広々と大きい」の意。王舎城を囲む五山の一つで、王舎城の東北に当たる。「雑阿含経」第四十九に「王舎城の第一なるを毘富羅山と名づく。」とあり、有名な山であったと、個人サイト「日蓮大聖人と私」の「女人成仏抄・第三章 経を挙げて六道の衆苦を示す」にあった。

「采女」ここは単に広く中・下級民の女性を、中国や本邦の食膳などに奉仕した下級女官のそれに仮に当てたもの。漢訳経典には多く出る。]

 これに反し、元魏譯「雜寶藏經」四に、人あり、亡牛を尋ねて、辟支佛が坐禪する所に至り、一日一夜、誹謗せし因緣で、後身、羅漢と成つても、所持品、悉く、牛の身分に見え、牛、失いし者に、「その牛。盜めり。」と疑はれ、獄に繫がるゝ話あり。牛に牽かれて罪造りと謂ふべし。

 また、「百喩經」(蕭齊の代に譯さる)に、愚人、所有の二百五十牛の一を、虎に殺されて、燒けになり、二百四十九牛を自ら坑殺《こうさつ》せし事あり。

[やぶちゃん注:「坑殺」地面に穴を掘って生き埋めにして殺すこと。]

 序でに言ふ。借りた物を返さぬ人、牛に生まれた話(『鄕土硏究』一卷三一頁)、佛經に見えたるを、二、三。擧ぐ。

 西晉竺法護譯「佛銳生經《ぶつえいしやうきやう》」卷四に、釋尊、過去世に轉輪王たり。其の舊知が、五十金を償ふ能はず、債主《さいしゆ》に、樹に縛られ、去るを得ざるを見、「之を、倍し、贖《あがな》ふべし。」とて、解かしめけるに、其人、「此外にも、尙、百兩の債あり。」と云ふを聞いて、「其をも。贖ひやるべし。」と誓ふ。扨、臣下、五十金を拂ひしも、百兩金を拂はず。彼《かの》人、死して、牛に生れ、前世の債主の爲に賣られんとする時、佛、來《きた》るを見て、牛、走り就《つい》て、前世の債金の支拂ひを求めし事、出づ。

 吳の支謙譯「犢子經《とくしきやう》」、又、晉の竺法護譯「乳光佛經」、ともに多欲の高利貸、死して、十六劫間《こふかん》、牛と生れ、釋尊の聲を聞いて、死して、天に生れ、次に羅漢と成り、二十劫の後、乳光佛となるべしと、佛が予言せし由を說けり。

 梁の僧旻《そうみん/そうびん》等の「經律異相」四七には、「譬喩經」を引き、借金一千錢不拂《ふばらひ》の人、三たび、牛に生まれて、業《ごふ》、なほ、了《をは》らず。二人、還さぬ覺悟で、牛の主人より、金十萬を借らんとするを立聞き、牛、自分を例證として、之を諫止し、解放されし譚を載せたり。(三月十八日)

[やぶちゃん注:「二人」「大蔵経データベース」で同巻を見て見たが、これ、意味不明。二人の人物が共謀して牛である自分を騙し取ろうとしたということか。

 底本では、以上で終わっているのだが、「選集」には、「追記」として以下の文章が載る。転記(新字新仮名)しておく。

   *

【追記】

 三十二年前、予が和歌山中学校で画学を授かった中村玄晴先生は、もと藩侯の御絵師で、いろいろ故実を知っておられた。ある日教課に、黒板へ少年が奔牛を追うところを描いた。予その訳を問いしに、この無智の牧童、逃ぐる牛を追い走るうち、日が暮れて、十五夜の月まさに出づるところを観て悟りを開いたのだ、と教えられた。呉牛月に喘ぐという支那の古言を、前に引いた、婆羅門(ばらもん)牛を尋ねて仏に詣(いた)り得道せし話に合わせて、作り出した話らしいが、今に出処を見出だしえぬ。

   (大正二年七月『郷土研究』一巻五号)

   *

「三十二年前」数えで計算しているとして、明治一三(一八八〇)年。南方熊楠満十四歲で、同中学校二年次。

「中村玄晴」不詳。

「今に出処を見出だしえぬ」南方先生、教師というのは、知っている知識を勝手に作り変えてオリジナルな話をでっち上げるのは特異なんですよ。私は朗読で演出はしましたが、捏造はしませんでしたがね。……私の伏木高校時代の古典の蟹谷徹先生は、中国の怪談話を、えらくリアルに面白く語って呉れたが、即日、図書室に行って漢文大系で読んでみたら、どれも原文の表現は痩せていて、怖くも何ともなくて、思わず、先生にその感想を正直に言ったら、ニヤりと笑って「そうでしたか。」と一言言って、満足げに去って行かれたのを思い出す。かくあれかし! 現役の国語教師よ!]

「曾呂利物語」正規表現版 第二 八 越前の國白鬼女の由來の事 / 第二~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

      八 越前國白鬼女(はくきぢよ)の由來の事

 越前國(ゑちぜんのくに)、平泉寺(へいせんじ)に住める出家、若き時、京うちまゐりを、おもひ立ち、彼方此方(かなたこなた)を見物して、歸りがてに、かいづの浦に泊まりしが、其の宿に、女旅人(をんなたびびと)ぞ、泊まり合はせける。

 かの出家、美僧なる故、件(くだん)の女、僧の閨(ねや)に行き、思ひ入りたる體(てい)なり。

『けしからず。』

とは思へども、其の夜(よ)は、一所(しよ)にぞ、宿りける。

 夜あけて、彼の女は巫女(みこ)にて、年の程六十ばかり、かみ、すほに、さも、凄(すさ)まじき姿なり。

 則ち、

「いづくまでも、御後(おんあと)を慕ひ申さん。」

とて、又、同じまとり[やぶちゃん注:ママ。岩波文庫版は訂して『泊まり』とする。]にぞ、つきにける。

 女房、伴ひ、寺に歸らんこと、いかにも迷惑に思ひければ、

「ここに、逗留し侍らん。」

とて、女を欺(あざむ)き、夜(よ)の明方(あけがた)に、「ひやきち」といふ所まで逃げのびぬ。

 巫女の事なれば、珠數(じゆず)を引き、神下(かみおろし)して占ひもてゆくほどに、やがて、追ひつき、かなたこなた、尋ぬれば、大きなる木の空(そら)にかゞみゐたるを、

「さてもさても、情けなきことや。とても、そなたに離るる身にてもあらばこそ。命の内は、離れまじきものを。」

と云ふ。

 僧、

「此の上は、力、なし。さらば、同道申さん。」

とて、いまだ夜(よ)をこめて、立ちいで、船渡(ふなわたり)の深みにて、取つて引き寄せ、其のまゝ、淵に沈め、平泉寺をさしてぞ、歸りける。

 くたびれける儘に、まづ、我が寮に入りて、晝寐(ひるね)をしゐたり。

 師匠の坊、

「新發意(しんぼち)、歸りたるに、逢はん。」

とて、寮へ行きて見れば、長(たけ)十丈ばかりなる白き大蛇、新發意を呑まんとて、かゝりけるに、何(なん)としてか持(も)たれけん、新發意、家に傳はるとて、よしみつの脇差しの有りけるが、己(おのれ)れと拔け出で、彼(か)の大蛇を、切り拂ふ。

 これ故、大蛇、左右(さう)なく、寄り得ず。

 其の體(てい)ぞ、見て、急ぎ歸り、人々をして、新發意をおこし、都の物語(ものがた[やぶちゃん注:ママ。])など申させ侍る。

 師匠、彼(か)の吉光を、常々、望みの有るに、また、奇特を見ければ、いよいよ、欲(ほ)しさぞ、まさりける。

 師匠も黃金作(こがねづくり)を持たれけるが、いろいろ、云ひて、よしみつに換へて、取りたりけるに、大蛇、思ひの儘に、寮へ、押し入り、彼の僧を、引き裂きて、やがて、食ひてげり。

 それより、彼(か)の所を「はくきぢよ」といふは、此のいはれとぞ、申し侍る。

[やぶちゃん注:「白鬼女」岩波文庫の高田氏の注に、『現在』、『福井県鯖江市の日野川東岸に、北陸道ヘ向かう白鬼女(しらきじょ)の舟渡しがあった』とある。現在、その渡しがあった附近にまさしく「白鬼女橋」が架かる(福井県越前市家久町(いえひさちょう)と鯖江市舟津町(ふなつちょう)を結ぶ。グーグル・マップ・データ)。同橋の右岸直近に「白鬼女観世音菩薩」の小さな堂(昭和三八(一九六三)年建立)がある。その説明板がサイド・パネルのこちらで読めるので、そちらを参照されたい。恐るべき鬼女伝説があったとする説が記されてある一方、この菩薩は「渡河往来の守り神」として古くに建立されてあったが、十七世紀末の大洪水で流出してしまった。ところが、昭和三十七年の災害復旧工事中に、直近下流の福井鉄道日野川橋梁から約八十メートル下流の川底の約三メートル下から菩薩像が発見され、今に至るとあった。菩薩像はこれ。なんとも惹かれる優しい菩薩像である。

「平泉寺」同じく高田氏の注に、『現在』の『福井県勝山市にあった天台宗霊応山平泉寺。白山の大御前(おおみさき)の山神を祀る。修験道道場』として名を馳せたが、明治の悪しき神仏分離で『白山神社と平泉寺に分離』されてしまい、結局、今は平泉寺白山神社(グーグル・マップ・データ)として残る。私も高校時代、奥の弁ヶ滝(べんがたき)まで延々と徒歩で両親と行ったことがある。

「かいづ」「海津」現在の滋賀県高島市マキノ町海津(グーグル・マップ・データ)。同前の高田氏の注に、『琵琶湖北岸。古代から大和、山城と北陸を結ぶ湖上運送の要港』とある。

「かみ、すほに」岩波文庫では「すほに」は『すぼに』とするが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本でも「すほに」である(左丁後ろから五行目冒頭)。高田氏は、『不詳。「髮すぼみ」(髮がばさばさになって、薄いさま)の訛か』とされる。

「ひやきち」同前の高田氏には、『不詳。地名であろう』とある。私も少し探してみたが、この部分、地方が示されておらず、滋賀から福井と広汎であるから、結局、諦めた。

「木の空」高田氏注に『木のてっぺん』とある。しかし、この部分、どうも表現が上手くない。「大きなる木の空(そら)にかゞみゐたるを」は、或いは、「大きなる木の空(そら)にかゞみ」たる、その根元に「ゐたるを」の意ではなかろうか?

「新發意」新たに発心して仏門に入った者。仏門に入って間もない僧を言う。

「十丈」三十・二九メートル。蟒蛇の類いである。しかし、寮の僧の内室で、この長さはちょっと無理がある。蟠っていたのを、推定で延ばして述べたものか。

「よしみつ」「吉光」粟田口吉光(あわたぐちよしみつ 十三世紀頃)は鎌倉中期に京都の粟田口で活動した刀工で、相州鎌倉の岡崎正宗と並ぶ名工とされ、特に短刀作りの名手として知られる。京都の粟田口には古くから刀の名工がいたが、吉光は、安土桃山時代に豊臣秀吉によって正宗・郷義弘(ごうよしひ)とともに「天下の三名工」と称され、徳川吉宗が編纂を命じた「享保名物帳」でも、正宗・郷義弘とともに、最も多くの刀剣が記載され、「名物三作(天下三作)」と呼ばれている。殆んどの作には「吉光」の二字銘を流暢に切っているが、年期銘のある作がなく、あくまで、親や兄弟の作からの類推で鎌倉時代中期に活動したと見られている(ウィキの「粟田口吉光」に拠った)。しかし、この「吉光」を口八丁手八丁で強引に取り替えさせた師匠、地獄に落ちるべきではあろう。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一四番 淵の主と山伏

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここ。]

 

   一四番 淵の主と山伏

 

 西磐井《にしいはゐ》郡戶河内《へかない》村に琴ケ瀧と云ふがあつて、其の近所に又琵琶(ビワ)ケ瀧と云ふがある。昔此の二つの瀧の淵に男と女の主《ぬし》が棲んで居た。或る時瀧のほとりを山伏が通ると、水際の大石に綺麗な女が腰をかけて憇(やす)んで居て、私を此の川上の瀧の所まで連れて行つてくれと賴んだ。山伏は承知して女を連れて其の瀧壺の所まで往くと、女は私は此所へ入りますが、此の事を口外してくれてはならぬと言つて靜かに瀧壺の中へ入つて行つた。斯《か》うして此の主どもは互に往來して逢瀨を樂しんで居た。

 所が其の山伏が次の村里へ行つて、偶然に其の事を人々に話してしまつた。それからは此の二つの主は永久に逢ふことが出來なくなつた。それと同時にまた其の山伏も石に化されて今でも其所に在る。山伏石と云ふのがそれである。瀧壺には今も主が居て、舊曆七月の何日かに、水のよく枯れた時などは其の姿が見えることがあると謂ふ。

  (大正九年七月一日附、千葉亞夫氏御報告分の一。)

[やぶちゃん注:「西磐井郡戶河内村」かの中尊寺の後背地の山間を「戸河内川」が流れるが、その周辺の旧村名。岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉町(ひらいずみちょう)平泉広滝(ひらいずみひろたき)に「戸河内公民館」もある(グーグル・マップ・データ航空写真:以下の無指示は同じ)。何より「ひなたGPS」の戦前の図で、「平泉村」の「戶河内(ヘカナイ)」という地名がはっきり見える。さて、現在の先の広滝を拡大すると、この地区内の戸河内川下流に「戸河内川の女滝」が、その上流の、河川遡上実測で五百メートル、陸の実測で三百八十メートル弱位置に「戸河内川の男滝」がある(意想外に、両者はかなり近い)。これが、本篇の舞台である。前者は休憩所もあり、整備されている。その「女滝」の方にある説明半板がサイド・パネルで読めるのだが、結末がちょっと異なる。山伏はこの瀧の主を化け物と断じ、村人を集め祈禱を行うと、二つの主が姿を現し(形状は語られていないが、瀧だから龍形だろう)、山伏と激しく戦ったが、遂に山伏の法力が勝ち、二人の瀧の主は、『滝のほとりの黒い大きな石になったという。そして法力を使い果たした山伏も石となったという』とあるのである。とすれば、どこかに石は三つあるはずだが、その写真は、残念ながら、ない。もう現存しないのかも知れない。さて、では「男滝」も見てみよう。こちらにも標柱はあり、説明板もあるのであるが、ここは少し荒れており、説明版も摩耗している。それを読むと、嘗ては『渓流を走りおりてきた川水が落差三十尺(約十メートル)の淵(ふち)』()『に一条の銀色に輝きながら一気に流れ落ち霧を生じ雲と変じる様子は雄大で雄滝の名にそむかないものでした』とあり、さらに、「ありゃ?」という違った伝承と、意外な民俗資料が記されてある。『この滝の主神(ぬし)は、連銭芦毛(れんせんあしげ)の馬にまたがり、時折りその雄姿を瀑下(ばっか)に現わしました。又常に滝の底を往来して達谷の姫待滝に通うと言い伝えられていました』。『それ以来、戸河内と達谷の滝の上では、芦毛や白毛の馬を飼う家はありませんでした』とあるのである。びっくりするのは、ここにあるこの「雄滝」の主が通う「達谷の姫待滝」は「女滝」ではなく、達谷窟毘沙門堂の下流にある滝で、男滝からは、まさに真北に谷に入り、相応のピークの尾根を幾つか経た直線でも三キロメートルはある「姫待滝」なのである(或いは、「雌滝」は異界の通路であって「姫待滝」に続いているという伝承もあるのかも知れないが。なお、この「姫待滝」の由来は悪路王絡みで、ご存知ない方は、簡潔であるが、サイト「中世歴史めぐり」の「姫待不動堂~平泉:達谷窟毘沙門堂~」を見られたい)。

「琴ケ瀧と云ふがあつて、其の近所に又琵琶(ビワ)ケ瀧と云ふがある。昔此の二つの瀧の淵に男と女の主が棲んで居た」この部分の記載順列に疑問があるが、楽器から見て「琴ケ瀧」が現在の「雌滝」で、「琵琶ケ瀧」が「雄滝」であろう。「雄滝」は前に示した説明板によって、現行(サイド・パネルに瀧と上空からの動画もあるが、十メートルの落差は今はない)と異なり、相応の瀑布であったらしいから、琵琶の方が相応しいと考えたからでもある。

「千葉亞夫」不詳。名は「つぎを」「つぐを」と読むか。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三番 上下の河童

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     一三番 上下《かみしも》の河童

 

 

 ある男が、夕方急いで川端の途を通ると、一人の男が雜魚(ザツコ)釣りをして居て、其の男を呼び止めて、下の方の淵のほとりにも一人の雜魚釣りが居る筈だから、此の手紙を屆けてくれと言つて、一封の手紙を男に託した。

 男は何氣なしに、一曲り曲つた淵のほとりに居る雜魚つりの男に其の手紙を渡すと、默つて開いて見て居たが、一寸待つてくれ、今淵に落しものをしたからと言つて、ザンブリと淵の中へ飛び込んだ。暫くすると出て來て、俺は本當は此の淵に居る河童だが、實は今川上の河童から、此の男は紫尻でうまいアセだから捕つて食へと言つて來たけれども、お前が餘り正直だから、捕つて食ふどころか、かへつて此の寶物をやると言つて、黃金包《こがねづつみ》みをくれた。そして此の事は誰にも言つてはならぬぞと言つて、河童は再び淵の中に入つて行つた。

 それから此の男は金持ち長者となつた。

  (田中喜多美氏の御報告分の三。摘要。大正十五年六月、田植の時、簗場《やなば》留藏より聽いたもの。此の人、元御所《ごしよ》村の生れだと云ふ。)

[やぶちゃん注:最後の附記は全体が二字下げポイント落ち。

「紫尻」水怪は、尻に青や紫の痣のある人間が食用のお好みのようである。「一二番 兄弟淵」の「靑臀」の私の注を参照。

[やぶちゃん注:「アセ」この語源は、方言ではなく、上古よりの古語である「吾兄(あせ)」ではあるまいか。二人称代名詞で、女子が男子を親しんで呼ぶ語であり、上代の歌謡では、多く間投助詞「を」を伴って歌の囃子詞に用いられてある。

「田中喜多美」既出既注

「大正十五年」一九一六年。

「御所村」現在の御所湖を中心とした岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)及び岩手県盛岡市繋(つなぎ:グーグル・マップ・データ)の旧村名。]

2023/03/24

早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「女を追ふ蛇」・「蟻に化した蛇」・「砂を吐く蛇」・「蛇の神樣」・「兩頭蛇」・「トカゲを追ふ蛇」・「蛇の苦手」 / 蛇の話~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから

 以下に出る蛇の各種は、回の記事の私の注を見られたい。

 なお、これを以って「蛇の話」パートは終わっている。]

 

 ○女を追ふ蛇  女が石垣の上から小便をすると、蛇が陰部へ這入《はい》るなどゝ謂ひます。昔、ある處で、女が石垣の上から小便をして、其處を行過《ゆきす》ぎようとすると、石垣の間から蛇が頸を出して追ふので、通る事が出來ずにゐると、其處へ一人の武士が通りかゝつて、石垣の蛇のゐる穴の上に刄《かたな》を十字に擬して女を通してやると、蛇が四つに裂けながら、女の後を追つて行つたと云ふ話もあります。

[やぶちゃん注:dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-』の「蛇と女(蛇が女性に侵入する時…。)」に、筆者の『高校時代に、遠野は小友町の荷沢峠で』起った、バス・ガイドの女性の陰部にマムシが侵入し、彼女は亡ったという、驚天動地の事件が記されてあった。古い説話集にも類似譚は数多ある。そちらでも紹介されてある「耳嚢 蛇穴へ入るを取出す良法の事」も私のものをリンクさせておく。]

 

 ○蟻に化した蛇  所は忘れましたが、ある家でツバメの巢へ蛇が來ては、卵をとつて仕方がないので、其蛇を殺して、土中に埋めました。處が、それから蛇は少しも來なくなりましたが、その代りに、ツバメが少しも育たないのに、不審に思つて巢を檢《あらた》めると、澤山の蟻が來て、ツバメの子をみんな食ひ殺してゐましたので、だんだん其蟻の來る道を辿つて行つて見ると、前に蛇を殺して埋めた場所へ行つてゐるので、其處を掘り返してみたら、蛇の體が蟻になつてゐたなどゝ云ふ話がありました。

 

 ○砂を吐く蛇  之も母から聞いた話ですが、ある處で、蛇が鷄の巢に來て、卵を呑んで仕方がないので、その家の若者が、卵の殼に砂を詰めて鷄の巢に置くと、蛇が其を知らずに呑んでしまつたと謂ひます。其後蛇が背戶口に出て、其砂を吐き出して置いて行つたのを、若者が知らずに踏付《ふみつ》けると、其日から足か[やぶちゃん注:ママ。「が」の誤植。]痛み出して、どんなに療治しても治らず、しまい[やぶちゃん注:ママ。]にビツコになつたと言ひます。八名郡の宇里と云ふ所にもかうした話があつた事を聞きました。

[やぶちゃん注:「八名郡の宇里」愛知県新城市富岡を中心にした旧村のことと思われる。そのグーグル・マップ・データの地区を貫流する川は「宇利川」で、東方域外に「宇利城跡」も確認出来る。]

 

 ○蛇の神樣  鳳來寺村字門谷《かどや》の、里人が白岩樣と呼ぶ神樣は、お神體が蛇で、此神に願《ぐわん》を掛けた時は、お禮に白米を供へると云ひます。昔は蛇が姿を見せて其米を喰べたと云ひますが、現今は蛇の體が大きくなつた爲め、穴より外に出る事が出來なくなつて、里人にも見る事は出來ないと謂ひます。此神が、門谷の庚申堂の尼に思ひをかけて美男に化けて每夜尼の許へ通つた爲め、尼は日每に衰弱して遂に死んでしまつたなどゝ云ひました。其尼の許へ通つて來る若い男の姿を見たものはあつても、白岩樣と知るものはなかつたのを、尼が自慢に、附近の者に、話したとも謂ひます。近年此神に靈驗ありと傳へて、立派な御堂などを寄進するものがあつて、非常な繁盛をしてゐると話を聞きました。

[やぶちゃん注:「門谷」既出既注

「白岩樣」「早川孝太郎研究会」の本篇(PDFの注に、三葉の写真入りで、『門谷の鳳来寺表参道の一番奥、そこからは石段が始まる所の右方に、雲竜荘という宿屋があります』(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)『その雲竜荘の駐車場から、如何にも蛇が棲みそうな、苔生した大小の岩が積み重なった間にある石段をのぼって行くと、白岩大龍王のお幟が立っていました。龍になってしまってはよほどの穴でないと出て来れないと思います。その分、霊験も大きくなったと思われますので、願い事がある人は一度お参りしてはいかがでしょうか』という解説があった。何時か、行ってみたい。]

 

 ○兩頭蛇  兩頭蛇と云ふ奴は、蛇が蛇を呑んで、呑まれた奴が、呑んだ方の腹を食ひ破つて頭を出して、出來ると謂ひます。この蛇を人間が見つけた時は、中央から二つに切つてやるものだと謂ひます。

 橫山の山口豐作と云ふ男が、相知刈《あひちがり》と云ふ所の山で仕事をしてゐると、傍で、縞蛇の大きな奴が、同じ大きさの山かゞしを、半分程呑みかけてゐたそう[やぶちゃん注:ママ。]ですが、一日仕事をして、夕方歸りがけに見ると、まだ全部呑み切らないでゐたさうです。蛇が仲間喰いする事は珍しくないと見えて、或年、籔坂と云ふ所を通りかゝると、丈三寸ばかりの小蛇を、同じ山カヾシが、頭から呑みかけてゐるのを實見した事がありました。又子供の頃、雨乞ひをするとて村の辨天の池の水を替へて、岸へ上つて休んでゐると、烏蛇の四尺ほどもある奴が、同じ程の縞蛇を追ひかけてゆくのを見た事がありました。

[やぶちゃん注:古いところでは、「谷の響 二の卷 十七 兩頭蛇」の私の注で、頭部の二重体奇形である双頭の蛇の話に触れてあり、最近のものでは、二〇二一年八月の、やはり二重体の絵入りで、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩頭蛇』があるので、見られたい。無論、早川氏の言われる通り、蛇は、よく共食いをするので、その呑まれた蛇が、いちばんありそうなのは、腹を食い破るのではなくて、蛇の総排泄腔から頭を出した状態のものであろうか(小さな頃にぼろぼろになるまで眺めた図鑑に貪欲なヤマメが蛇を飲み込み、肛門からそれが首を出している絵を思い出す)。

「相知刈」既出の「相知の入」はここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の左の上方に『字相知ノ入』とあるこの地区の内か、辺縁と推定される。]

 

 ○トカゲを追ふ蛇  私が少年の頃、村の寄木と云ふ所の道を通りかゝると、道に沿つて赤土を掘り取った跡に、靑大將が、赤土の面《おもて》に頸を突込んでをるのを見かけ、不審に思つて二三間[やぶちゃん注:約三・六四~五・四五メートル。]離れた場所から見てゐると、蛇の首から五寸許りはなれたところの土がポンと跳ね上がつて、其處から一疋の、大きなトカゲが飛び出し、道に向けて走つて來ました。蛇もあとから追つて來て、幅二間程の道を橫ぎつて、あと二尺程で、反對の側の草むらにトカゲが逃げ入るかと思ふ時、私の眼にも、トカゲが跳ね上つたと思はれましたが、そのまゝトカゲの姿が見えなくなりました。蛇も見失つたと見えて、其處に留まつて、頸を高く上げた儘頻りに胸の邊りを波打たせてゐました。私にも、トカゲが草むらの中へ這入つた樣にも思はれないので、不思議に思つてよく見ると、トカゲは體を一つ𢌞轉して、蛇の胸の下に、腹の方に頭を向けてこれも胸を波打たせて、ぢつと、すくんでゐました。蛇が今一寸程動けば腹がトカゲの頭に觸れる處です。危機一髮[やぶちゃん注:底本では、「危」がない。誤植。『日本民俗誌大系』版で補った。]とでも云ひましようか、何とも言へず此爭ひが怖ろしくなつて、そつと足を後《うしろ》に運んで逃げ歸りましたが、暫くしてから再び其處へ行つて見た時は、もう何も居ませんでした。

[やぶちゃん注:四箇所の「トカゲ」の太字は底本では傍点「﹅」。但し、「私の眼にも、トカゲが」の箇所は底本では傍点がずれて、「も、ト」の部分に振られてあったので、訂した。なお、後の「トカゲ」には傍点はない。それにしても、この観察力は民俗学者のそれというより、生物学者のそれである。最後まで見届けられなかったのは、早川少年のトカゲが襲われるかもしれない悲惨の瞬間を見られない優しさ故である。柳田國男なんぞのインキ臭い奴らの及ぶところではない。素晴らしい!

「寄木」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川右岸に『(ヨリ木)』とあるのが判る。グーグル・マップ・データ航空写真のこの中央附近と推定する。]

 

 ○蛇の苦手  人間に、ニガテと云ふ特殊な手の所有者があつて、此ニガテの者に握られると、蛇の自由が利かなくなると謂ひます。それは男にも女にもあつて、ニガテの人の子供が、必ずしも、ニガテとは定まらぬやうです。或人は、掌の筋が特別な形をしてゐるとも云ひましたが、私の實驗では、それも判然と區別はされぬやうに思はれます。現在私の記臆の中にも、女に一人、男に二人、此ニガテの所有者があります。

 ナメクジの肌が觸れると蛇の體が腐るとは矢張り言ふことですが、百足は蛇の急所を知ってゐて、百足と蛇と爭ふ時は、蛇が急所を刺されて、非常な苦しみをすると云ひますが、果して急所は、どこであるか聞いた事はありません。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『もしかしたらニガテ?? ◆◇マムシの掴みかた教えます◆◇』という、写真入りの伝授注がある。是非、見られたい。因みに、私は「ニガテ」の持ち主であるのかも知れない。幼稚園から小学一年の間、私は、父母が外交官であった伯父の甥っ子らを預かった関係上、練馬の大泉学園で二年半ほど過ごした。幼稚園から帰ると、友だちと一緒に近くの白子川沿いにある弁天池に遊びに行くのが常だった。周囲は田圃(半ばは休耕田であった)の広がる葦原と湿地で、水田の中にはシマヘビが鏡花好みなほど、さわに、いた。友だちと私は、その中の大物を捕るのを一番の楽しみとした。最後に首を持って垂らし、長さを競ったものだった(その後は、自然に返してやった)。一度も恐ろしいと思ったり、咬まれたことはなかった。今でも私は蛇を全く以って怖いとは思わないのである。

早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「引越して行つた蛇」・「群をした蛇」・「ヒバカリの塊り」・「烏蛇の恨」・「ツト蛇」・「人の血を吸ふ蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから

 以下に出る蛇の各種は、前回の記事の私の注を見られたい。]

 

 ○引越して行つた蛇  橫山の字池代(いけしろ)、柳久保と云ふ所の田の畔に、山カヾシの大きな奴が居るとは、私の祖父の若い頃からの言ひ傳へたさうですが[やぶちゃん注:ママ。『日本民俗誌大系』をみると、「だ」となっているので誤植。]、私の父なども、每年二三囘は必ず見かけたと云ひました。大蛇と云ふ程ではないが、長さが二間[やぶちゃん注:約三メートル六十四センチメートル。]程あつたと謂ひます。草刈りに行つて見た者の話には、草むらの中に長くなつてゐるので、蛇の居るまわりだけ草を刈り殘して、他の部分を刈つてゐると、蛇がいつか刈り取つた方へ引き移つてゐるので、後から殘した處を刈つたと云ひます。その蛇がこの二十年來、見えないのは、餘り軀が大きくなつたので、何處か、深山へ引越したのだらうと云ひましたが、其後、村の山口伊久と云ふが、近くの山で、藤蔓を採つてゐて見た蛇が、それだらうと云ひましたが、それ以後は、見かけた事を聞きません。

 私の家の前の石垣に、每年秋の彼岸頃に姿を見せる、三疋一交《つが》ひだと云ふ山カヾシがありましたが、これが近年何處かへ引越したものか、居なくなつたさうです。大分遠方迄遊んで步くと見えて、澤を越して五六町[やぶちゃん注:約五百四十五~七百六十四メートル。]も隔つた場所に遊んでゐるのを見た事がありました。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「橫山の字池代」現在の愛知県新城市横川池代(よこがわいけしろ:グーグル・マップ・データ)

「柳久保」不詳。現在、新城市海老柳久保(えびやなぎくぼ)があるが、ここは横川地区を外れた、ずっと北にあるので、ここではない。消えてしまった池代地区の小字のようである。

「長さが二間」は錯覚の類いである。ヤマカガシは最大長でも一メートル五十センチである。]

 

 ○群をした蛇  蝮《まむし》は魔虫《まむし》だから、これを殺して、桑の木(楊《やなぎ》とも云ふ)や、ウツギの木で皮を剝ぐと、其處いら、一面の蝮になると云ひます。橫山の早川定平と云ふ四十年前に亡くなつた男の話ださうですが、此男が若い時、家を壞したあとの、古木の積み重ねた下から、蝮が一ツ頭を出してゐるのを見つけて、殺して皮を剝ぐと、同じ場所にまだ一ツ頭を出してゐるので、其も殺して皮を剝ぐと、あとから後から、同じやうに一ツ宛居るのに、たうとう十三迄殺してもまだ一ツ同じやうに居るので、豪氣な男故、何程居るのかと言つて、棒切《ぼうきれ》で、其の木を持ち上げてみると、中に何百と數知れぬ蝮がゐたと謂ひます。

  何等か眼のせいで、假に蝮に見えたのではなからうかと云つて、殺した蝮を串にさして、軒に吊るして置いたさうですが、何時迄たつても、蝮に變りはなかつたと謂ひます。其時何の木で皮を剝いだか聞きませんが、蝮には、斯うした話が、他にも三ツ四ツあります。

 現今八十餘歲になる小野田ぎんと云ふ老婆の話ですが、此老婆が子供の頃、村の北澤と云ふ幅一間半[やぶちゃん注:約二・七三メートル。]ほどの小川の岸で、山口豐作と云ふ友達と遊んでゐると、川下から、何千と數知れぬ蝮の群が、ぞろぞろと水も見えない程登って來るのを見て恐ろしくなって、近くの家の、早川彌三郞と云ふ男を呼んで來ると、其男が棒切れを持つて、岸に這ひ上らうとする蝮を、拂落《はらひおと》としたと云ひますが、大部分は、川上へ登つて行つたさうですが、後から後から果てしなく續いて來るので、一旦家へ歸つて、再び行つて見た時は、もう一ツも居なかつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「桑の木」バラ目クワ科クワ属 Morus は変種や品種が多いが、本邦で一般に自生するそれは、ヤマグワMorus bombycis である。「どどめ」と呼ばれるそれを、小さな頃は裏山でとって食べたのを思い出す。美味いけれど、唇や舌が強力な紫色に染まり、習合果の粒々の間の毛が、舌にイライラしたのものだった。

「楊」キントラノオ目ヤナギ科 Salicaceaeの本邦種は三十種を越えるが、単に「やなぎ」と呼んだ場合は、ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica を指すことが多い。

「ウツギ」ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata。初夏に咲く「卯の花」は本種である。和名は「空木」で、幹(茎)が中空であることに由来するとされる。私が中・高を過ごしたのは富山県高岡市伏木の二上山麓で、しばしば山中を跋渉したが、この花を見つけると、人気のない山中でも心落ち着いたことを思い出す。

「北澤」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川に「北澤」と指示がある。「ひなたGPS」のこの小流れがそれである。]

 

 ○ヒバカリの磈り  ヒバカリは、奇麗な赤色をした小蛇で滅多に居ない蛇ですが、これに咬まれると、その時刻が朝なれば夕方、夕方なれば朝までしか壽命がないから、それでヒバカリと云ふのださうですが、咬まれて死んだと云ふ話は聞いた事はありません。

 私の母方の祖父が子供の時、八名郡山吉田村字新戶の實家の裏の畑で見たと言ふのは、ヒバカリが、一ツの大きな磈《かたまり》になつて、轉がつてゐたさうですが、一ツ轉がつては、全部の蛇が頭を上げて、あたりを見たと謂ひます。附近からは、何處から來るともなく、無數ノヒバカリが、ゾロゾロと其れに向かつて集つて來たと云ひますが、遠い所から來るやうにはなく、ふつと其所いらから、湧《わい》て來るやうに見えたさうです。家の人達が全部仕事に出たあとで、隣の子供と見て居て、何時迄も果てしがないのに、一旦家へ入つて、再び出て見た時は、もう一ツも居なかつたと謂ひます。

 ヒバカリに限らず、どんな蛇でも、かうして磈になつてゐる時は、中に玉を持つてゐて其玉を人が奪つて來ると、金銀が自然に集つて來るなどゝ謂ひます。又其磈の中へカンザシを入れてやると、其玉を置いて行くとも謂ひます。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。ヒバカリが無毒蛇であること、その誤った和名の由来は前回の私の注でも示しておいた。]

 

 ○烏蛇の恨《うらみ》  蛇が鐮首(頸を高く上ける事[やぶちゃん注:「け」はママ。「げ」の誤植。])を上げて怒つた時は、ちよつと撲《う》つても、すぐ頸が飛ぶといひます。飛んだ頸は必ずさがして殺して奥ものと謂ひます。

 烏蛇は、蛇の中でも最も執念深く、又强いものださうで、これに馬の沓《くつ》を投げつけると、すぐ鐮首を上げて追ふと謂ひ、とりわけ芦毛馬《あしげうま》の沓には、怒つて果しなく追ふさうです。ある時、山吉田村の滿光寺の小坊主が、門前に遊んでゐて、烏蛇を見つけ、馬の沓を放りつけた所が、何處までも追つて來て、遂に逃げ場がなく、本堂の須彌壇《しゆみだん》の上に驅け上がつたので、蛇がすべつて登ることが出來ないでゐると、其物音を聞きつけた方丈が、此有樣を見て、掃木《はうき》を持つて來て、其蛇を拂ふと、蛇の頸が飛んで行衞が知れずなつたと云ひます。其夜から小坊主が發熱して頻りに渴きを訴へるので、寺女が水甕の水を汲んで來ては飮まして介抱してゐると、明方になつて遂に息が絕えたと謂ひます。朝になつて、其女が水甕の傍へ行くと、甕の中で何か音がするので、覗いて見ると、中に前日の蛇の頭が泳いでゐたといふ事です。

 同じ村の豐田某と云ふ農夫(名前を聞きたれ共《ども》記臆せず)が、秋、山間の田で仕事をしてゐて、烏蛇を見かけ、馬の沓を放りつけると怒ると言ふ話を思ひ出して、投げつけて見ると、果して鐮首を上げて追つて來たので、素早く稻叢《いなむら》の影に隱れて待つてゐて、追つて來た蛇を鍬で打つと、矢張り頸が飛んで其行衞が知れなくなつたので、其日は仕事を中止して家へ歸つて、再び其處へは行かなかつた。ところが、翌る年の春、そんな事は忘れてしまつて、雨の降る日に、其田へ行つて春田(春、田を耕す事を春田と云ふ)をしてゐると、「何處からともなく幽かなうなり聲がすると共に、小石程のものが、咽喉の所へ飛んで來て、ぶつかつたので、簑を脫いで檢《あらた》めると、一つの蛇の頭が、簑の紐に喰付《くひつ》いてゐたと謂ひました。大方《おほかた》秋の頃殺した烏蛇の頸が、恨みを晴らしに來たのが、簑を着てゐた爲、咽喉に喰付く事が出來なかつたのだらうと云ふことでした。私の母が子供の折、本人から聞いたと謂ひました。

[やぶちゃん注:ここで早川氏が挙げた二話は、本書の中でも、近代怪談譚として自信を以って推薦出来る優れたリアルなホラーと言えるものである。

「烏蛇」は既に述べた通り、アオダイショウの異名である。

「山吉田村」現在の愛知県新城市下吉田五反田山吉田(グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近の広域旧村名。

「滿光寺」愛知県新城市下吉田田中に現存する曹洞宗青龍山満光寺。本尊は十一面観世音菩薩。

「須彌壇」仏像を安置する台座。仏教の世界観で、その中心に聳える須彌山(しゅみせん)に象ったことが名の由来。

「方丈」もとは禅宗で寺の長老・住職を指す。後に他宗でも、かく呼ばれた。]

 

 ○ツト蛇  ツトツコとも、槌蛇《つちへび》とも謂ひます。ツトのやうな格好だとも、又槌の形をしてゐるとも、槌のやうに短かいのだとも謂ひます。蛇の頸ばかりになつたのが、死なゝいでゐて、其れに短かい尾のやうなものが生へるのだとも謂ひます。山や、澤などにゐて、非常な毒を持つたもので、これに咬まれると命はないなどゝ謂ひます。私の母の幼友《をさなとも》だちは、この蛇に咬まれて一日程患つて死んだと聞きましたが、それは澤にゐたのだと謂ひました。東鄕村出澤の鈴木戶作と云ふ木挽《こびき》の話でしたが、鳳來寺村門谷《かどや》から、東門谷と云ふ所へ行く道で、某と云ふ男が見たのは、藁を打つ槌程の大《おほき》さで、丈《たけ》が二尺ほどのものであつたと謂ひます。道の傍の山を、轉がつてゐたと云ひました。

 澤などにゐるのは、蛇ではなく、鰻の頭ばかしなのがなつたのだと云ふ人もありました。

[やぶちゃん注:所謂、幻の空想の異蛇「つちのこ」である。古くから「野槌」などと呼んだ(当該ウィキによれば、鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」には、『徳のない僧侶は深山に住む槌型の蛇に生まれ変わるとされて』おり、『生前に口だけが達者で智慧の眼も信の手も戒めの足もなかったため、野槌は口だけがあって目や手足のない姿』なのだとあるとし、「古事記」「日本書紀」に登場する『草の女神』とされる『カヤノヒメの別名に野椎神(ノヅチノカミ)があ』るとし、『記紀神話にはカヤノヒメを蛇とする記述は見られないものの、夫のオオヤマツミを蛇体とする説があることから』、『カヤノヒメも蛇体の神だと考えられている』とはある。しかし、これらを以って、上代や鎌倉まで「ツチノコ」のルーツが探れるとするのは如何なものかと私は思う。例えば、「沙石集」のそれは、所持する岩波文庫版(一九四三年刊)で示すと、『野槌(づち)といふは常にもなき獸なり。深山の中に希にありと云へり。形大にして、目鼻手足もなくして、只、口ばかりある物の人をとりて食ふと云へり。是は佛法を一向名利のために學し、勝負諍論して、或は瞋恚を起し、或は怨讎を結び、慢憍勝他等の心にて學すれば、妄執のうすらぐ事もなく、行解のおだやかなる事もなし。さるままに、口ばかりわさかしけれども、知惠のもなく、、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかるをそろしき物に生たるにこそ。』とあり、口だけの存在とあって、蛇とも言っていない。而してこれは、仏僧が架空した不心得の学僧の畜生道に落ちたもののカリカチャアに過ぎず、「つちのこ」の正統なる祖先とはとても言えないのである)、奇体な全くの未確認蛇類である。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇崇拜(18:野槌)」の私の詳細な注を見られたい。但し、私は実在を全く信じていないので、悪しからず。

「ツトツコ」「ツト」は「苞」で、土産や携帯用の、藁などで包んだ入れ物。「野槌」は、首と短い尾以外の胴体部は、五平餅をややスマートにした形状で、全体にずんぐりむっくりして、まさにその「苞」に似ているとされたことによる。

「東鄕村出澤」横山の寒狹川の対岸の、現在の愛知県新城市出沢

「鳳來寺村門谷から、東門谷と云ふ所へ行く道」「門谷」は鳳来寺の門前町を含む鳳来寺山の周囲の地域を指す。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。「東門谷」はその南東部の山間。「ひなたGPS」の戦前の地図と、現在の国土地理院図でも地名が確認出来る。]

 

 ○人の血を吸ふ蛇  靑大將は、人家の天井にゐて、病人などの血を吸ふと謂ひます。さうした時は、病人の體から、見えるともなく、糸のやうなものが、するすると天井に昇つてゆくなどゝ謂ひます。

 鳳來寺字長良の、ある家の隱居が、久しく患つてゐて格別何處が惡いと云ふのでもなく、每日炬燵にばかり這入つてゐて、だんだん衰弱して行くので、家の中が陰氣でならないからと、春の彼岸に家の大掃除をやり、九重《ここのへ》の守《おまも》りと云ふものは、靈驗があると云ふ噺を聞いて、近くの村にあるのを借りて來て祀つて置いて、其れから一ケ月程たつてから、何となく炬燵の中が氣味が惡いから、一度檢《しら》べて吳れと、老人が再三訴へて聞かないので、炬燵の檐[やぶちゃん注:ママ。『日本民俗誌大系』版の当該部を見ると、『櫓(やぐら)』となっていて誤植と判る。]を取除《とりの》けて見ると、中に靑大將の三尺程もあるのが、二つ丸くなつてゐたと云ふことでした。大掃除をした時には更にそんな物の姿は見かけなかつたと謂つて不思議がつてゐました。蛇は、二つ共裏口の方へ逃げてしまつたさうですが、病人は、其れからめきめき全快したさうです。

[やぶちゃん注:「鳳來寺字長良」前にも疑問を掲げたが、これは「長樂」の誤りではなかろうか。旧鳳来寺村には「長良」はなく、「長樂(ながら)」ならあるからである。「ひなたGPS」のこちらを見て戴くと、現在も地名として生きていることが判る。

「九重の守」サイト「奈良寺社ガイド」の「天川村」の「最強のお守り 九重守」に、『大峰山系中七十五靡(なびき)中の神仏像数基を壱巻の軸に修録した霊験あらたかなるお守りで』、『家庭内に困難・心病の極限に当たった場合、この守軸を開封すればご利益ありと伝えられ』、因みに、『一度も開封しなければ、一家が無事平穏で安泰だった証明』とある、こりゃまた、完全万能なる御守りのことらしい。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 長柄の人柱 / 「話俗隨筆」パート~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた(今回は例外あり)。

 なお、本書の「話俗隨筆」パートはこれで終わっている。]

 

     長 柄 の 人 柱 (大正四年二月『民俗』第三年第一報)

        (『民俗』第二年一報三二頁參照)

 

 雉を射つるを見て瘖女《おしをんな》が初めて聲を出した話は、支那にも有る。「左傳」に、賈大夫惡、娶妻而美、三年不言不笑、御以如臯、射雉獲之、其妻始笑而言〔昔、賈の大夫、惡《みに》くし。妻を娶つて美なり。三年、言(ものい)はず、笑わず。御(ぎよ)して以つて皋(さhじゃ)に如(ゆ)き、雉を射て、之れを獲(う)。其の妻、始めて笑ひて言(ものい)ふ。〕と晉の叔向が言《いつ》た其頃以前よりの傳說だ。

[やぶちゃん注:「選集」では、標題の後の「(『民俗』第二年一報三二頁參照)」の代わりに、『藤田好古「長柄の人柱」参照』とある。藤田好古は不詳。

「射中つる」「選集」では『射』(い)『中(あ)つる』とある。

『「左傳」に、賈大夫惡、……』「中國哲學書電子化計劃」の「春秋經傳集解」の「六」の影印本(ここから次の画像まで)で校合し、修正を加えた。「春秋左氏傳」の魯の第二十五代君主昭公二十八(紀元前五一四年)の秋の記載の中の知られた挿入譚。「賈」は国名で、西周から春秋時代(紀元前十一世紀~紀元前六七八年)の諸侯国。

「羊舌肸」(ようぜつきつ 生没年不詳)は春秋時代の晋(紀元前十一世紀~紀元前三七六年)の公族・政治家。姓は姫、氏は羊舌、諱は肸。]

 又、長柄長者《ながらちやうじや》が、「袴につぎの當りたる者を、牲《いけにへ》にすべし。」と言《いふ》て、自ら牲されたと言ふに似た事は、西洋にも有る。ヂドが、智略もて、カーセージ市を建てた後(『民俗』二年一報二八頁に出《いづ》)、蠻王ヤルバス、其强盛を妬み、カーセージの貴人十人を召し、「ヂド、吾に妻たるべし。しからずんば、兵戈《へいくわ》相見えん。」と言た。十人の者、還つて、事實をジドに語るを憚り、詐《いつはり》て、「『誰なりとも、一人、カーセージより、ヤルバス方へ[やぶちゃん注:底本は「カーセージよオリヤルバス方え」であるが、「選集」で訂した。]來て、文明の作法を敎《をしへ》て欲しい。』と望まれた。」と報ずると、誰も蠻民の中へ[やぶちゃん注:底本は「え」。同前。]往《ゆか》うと[やぶちゃん注:ママ。「といふ」。]望み手が無《なか》つた。ヂド、之を見て、「自國の爲となら、生命すら辭すべきでない。」と一同を叱る。十人の者、「左樣なら、實を述べん。」迚《とて》、「彼《かの》王、ヂドと婚《えんぐみ》せん。然らずば、此國を伐つべし。」と言つた、と語る。ヂド、「今は駟《し》も舌に及ばず、何とも辭せん樣《やう》も無いから、如何にも國の爲に、吾、彼《か》の王の妻となるべし。」と言て、準備の爲とて、三ケ月を過す。其間、市の一端《ひとすみ》に柴を積み、婚嫁[やぶちゃん注:底本は「婚家」。「選集」を採用した。]の期、到りて、畜《かちく》を多く牲し、斯《かく》て、亡夫アセルボスの靈を鎭むと云た。其から、一劍を提《とり》て、柴、堆《つん》んだ上に登り、人民に向ひ、「汝ら、望《のぞみ》通り、吾、今、吾夫の方へ往く也。」と言て、胸を刺して自殺した。カーセージの民、此を「義」として、國、續いた間、ヂドを神として祀つた(スミス「希臘羅馬人傳神誌字彙」一八四五年板、卷一)[やぶちゃん注:最後の丸括弧の出典は底本には、ない。「選集」を参考に正字で補った。]。

[やぶちゃん注:『長柄長者が、「袴につぎの當りたる者を、牲にすべし。」と言て、自ら牲された』『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その2)』を参照されたい。Yoshi氏のサイト「大阪再発見」の「長柄の人柱」にも詳しい解説があるので、見られたい。

「ヂド」『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 少許を乞て廣い地面を手に入れた話』に出た。そちらを参照されたい。

『スミス「希臘羅馬人傳神誌字彙」一八四五年板、卷一』イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」(Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology)。恐らくは、一八四九年版であるが、「Internet archive」のこちらの「DIDO」の条に拠るものと思われる。]

「曾呂利物語」正規表現版 第二 七 天狗の鼻つまみの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどくみえにくくなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     七 天狗の鼻つまみの事

 

 參河國(みかはのくに)に「だうしん」といふ坊主、萬(よろづ)に付け、恐ろしきといふこと、露ほども、なかりしこそ、不審なれ。

 平岡の奧に、一つの宮、有りけるに、此所(こゝ)は、人跡絕えて、深山幽谷なれば、いつしか、宮(みや)つ子も、いづちともなく失せて、跡を、とどめず。

 しか、しけるほどに、「だうしん」、社僧となりて、年月(としつき)、仕へ侍りしが、糧料(かてれう)など、乏しくて、有りけり。人家まで程遠しといへども、心ざし有る人にたよりて、齋(とき)・非時(ひじ)を乞ひ侍る。

 ある時、在所に出でて、暮れ程に歸り侍りけるに、寺近き所に、死人(しにん)、有り。

 道のほとりなりければ、腹、蹈(ふ)みて通るに、彼(か)の死人、坊主の裾をくはへて、引きとどむ。

 立ちもどり、腹をおさへければ、放しけり。

『蹈みけるとき、口を開き、足を擧(あ)げたるに、くはへ侍る。さも、有りぬべき事。』

と思ひ、通りしが、

『何者なれば、路頭に、斯(か)く。』

と、不審におぼえ、

『まづ、夜(よ)、あけば、取り置き侍らん。』

と思ひ、寺の門前なる大木(たいぼく)に、したたかに縛(いまし)め置き、「だうしん」は、内に入りて、いね侍る。

 夜更けて、

「だうしん、だうしん、」

といふもの、有り。

 例の、萬に驚かぬ者なれば、ねぶさに、音(おと)もせでゐたり。

 されども、彼(か)のもの、呼びやまで、

「我を、何(なに)とて、縛りけるぞ、解けや、解けや、」

といへども、猶、とりあはず。

「さらば、解かん。」

とて、繩を、

「ふつふつ」

と、切りて、寺に入り、戶、二重(ふたへ)を入(い)りける時、

「何者なれば、憎(にく)し。」

とて、太刀を拔き、はひる所を斬りけるが、右の腕を、節(ふし)の際(きは)より、

「ふつ」

と、切り落とす。

「あ。」

といふ聲より、姿も、見えずなりぬ。

 程なく、五更の空も明けにけり。[やぶちゃん注:「五更」午前三時から五時までの間。ここは既に曙の頃。]

 

Tenguninattaotoko
[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「参川の国の天狗のはなつまみの事」か。]

 

 彼(か)の社(やしろ)に、朝な朝な、詣でくる老女の有りけるが、いつも、音づれ侍るが、此の度(たび)も來たりて、云ふやう、

「今夜(こよひ)、御坊(おばう)さまは、恐ろしき事に逢はせ給ふよし、聞き侍る。まことか。」

と云ふ。

「いやいや、恐ろしくはなく候ふが、過ぎし夜、しかじかの事、侍る。」

と語り、

「その手を、見せ給へ。」

と云ひけるほどに、取り出(いだ)し見せければ、

「我等が手にて、はべる。」

とて、我が手に、さし接(つ)ぎ、門外へ出でけると思へば、又、もとの暗闇(くらやみ)になりぬ。

 此の時にこそ、初めて驚き、消え入るばかりに成りにけり。

 次第に、夜(よ)、あけて、いつもの老女が來たつて、音づれければ、人心地、おはせざりけるほどに、在所に行つて、人、多く、呼び寄せ、養生しければ、生き出でぬ。

 それより、此の坊主、世の常の臆病になりて、此所(こゝ)にもゐ侍らざりしとかや。

「常に自慢しける故、天狗の、鼻を、つまみける。」

とぞ。

 何事によらず、よろづ、高慢なる者、わざはひに逢へること、これに限るべからず。

[やぶちゃん注:時制を眩惑して騙すというところが、実にワイドな幻術として読者に意外感を与える。「諸國百物語卷之一 三 河内の國闇峠道珍天狗に鼻はぢかるゝ事」と、「宿直草卷二 第六 女は天性、肝ふとき事」は本篇のインスパイア。後者は、主人公を男の元に通う女の疑似的怪異体験に変え、それを物理的現象として説明し、それを別に現実的に、本来の女性が汎用属性として持っている(と筆者の主張するところの)現実に対する先天的な〈肝の太さ〉という〈女の本性の恐ろしさ〉への指弾(というか、その「げに恐ろしきは女の本性」というホラー性という点では立派に怪談ではある)というテーマへとずらしてある。

「平岡」岩波文庫の高田氏の注に、『不詳。三河一の宮に近い平尾村(現豊川市)の誤記か』とされる。愛知県豊川市平尾町はここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。豊川の市街の北西であるが、南を除く三方は元山間である。「ひなたGPS」の戦前図を参照されたい。もしここならば、「奥」にある「宮」としては、現存するものでは、この稲束(いねづか)神社(グーグル・マップ・データ航空写真)が候補となろうか。近くに寺もある(江戸時代までは神社は別当寺を持つのが普通であり、廃れた社祠の管理を寺が請け負うのは普通であった)。但し、現社地は昭和三(一九一八)年に移されたものとあり、それ以前の元地は判らない。しかし、グーグル・マップ・データのサイド・パネルの境内地写真を見るに、それほど新しくは見えないし、山奥では全くないが、それらしい淋しい雰囲気はある。

「宮(みや)つ子」神主。

「齋(とき)・非時(ひじ)」ここは「僧侶の食事・その糧」の意。狭義のそれは以下。仏教僧は原則、食事は午前中に一度しか摂れないとされ、それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際には、それでは身が持たないので「非時」と称して午後も食事をした。

「節(ふし)の際(きは)」肘を指す。

「天狗の、鼻を、つまみける」同前の高田氏の注に、『天狗が来て、自慢の鼻をひしぎ折った』とある。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二番 兄弟淵

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

      一二番 兄 弟 淵

 

 川井村腹帶(ハラタイ)の淵の邊りを、ある娘が通ると、淵から立派な美男が出て來て、これこれ娘この手紙を御行(オギヨウ[やぶちゃん注:ママ。])の淵へ持つて行つておくれ、淵の岸に立つて手を三度打つと、中から人が出て來るから其人に渡せと言つて賴まれた。娘はその手紙を持つて行くと、向ふから旅の六部が來て、お前の手に持つて居るものは何だと言ふから、これこれの事で賴まれて來た手紙だと言つた。すると六部はハテそれは如何にも不思議な話である。どれ俺にその手紙を一寸貸せと言つて、開いて中を見ると、ただの白紙であつた。六部曰く、これは水の物の手紙であるから水に浸して見れば分ると言つて、水に浸すと、この娘は靑臀《あをけつ》だから取つて食つてもよろしく候と謂ふ文句が現はれた。六部はそれを讀んで、これは大變だ[やぶちゃん注:読点なし。続きも同じ。]よし俺が別に書き替えてやるからと言つて、路傍の南瓜《かぼちや》の莖を採つて、此女は靑臀なれども決して取り申間敷候。かへつて金を多く與へ可申候事と書いてくれた。

 娘は六部に書き替えてもらつた手紙を持つて、御行の淵へ行き、岸に立つて手を三度叩くと、中から一人の美男が現はれた。そして娘が渡した手紙を見て厭な顏をして居たが、一寸待つて居れと言つて淵の中に入つて行つて、金を持つて來て娘に渡した。娘はその金を持つて逃げて歸つた。

 元は腹帶の淵と御行の淵とは仲の良い兄弟で、腹帶の方から行く靑脊の者をば、御行へ手紙をつけて取らせ、御行の方から來る同じ者をば、腹帶へ手紙をつけて遣つて取つて食はせて居たが、其娘のいきさつの事から非常に仲が惡くなつた。さうしてそれからはどつちでも知らせぬから、今日ではどんな靑臀の者が通つても大丈夫だと謂ふことである。

   (今の下閉伊郡川井村。此淵についての色々な口碑は「遠野物語」其他にも出て居る。其中最も有名なのは、釜石の板ケ澤の女の人が此淵へ嫁に行つた話。また近年は此淵近 くの農家の娘が假死して淵の主へ嫁に行つた等の話である。盛岡から宮古へ行く縣道のすぐ緣にある閉伊川の流中である。御行の淵も同じ川の中である。)
  (靑臀(アヲケツ)、臀部に靑い斑點のある者は川の物(主に河童)に取られるという言ひ傳へが此地方にある。紫臀(ケツ)の上上臀《じやうじやうけつ》等と謂ふのである。)
  (本話は大正九年八月十日、村の菊池永作氏の談。)

[やぶちゃん注:最後の三つの附記は全体が二字下げポイント落ち。

「川井村」「腹帶(ハラタイ)の淵」「御行(オギヨウ)の淵」二つの淵の位置は確認出来ないが、この「川井村」は遠野の北北東外、早池峰山の東の山間部、閉伊川と小国川の合流地点である岩手県宮古市川井(グーグル・マップ・データ航空写真)である(「ひなたGPS」で戦前の地図も見たが、淵名は確認出来なかった)。但し、この「腹帶の淵」には疑問がある。それは佐々木が最後の附記で述べている通り、これと非常によく似た話(特に六部は書き換えをするという設定)が「遠野物語」の「二七」にあるが、そこでは、『早地峯(ハヤチネ)より出でゝ東北の方宮古(ミヤコ)の海に流れ入る川を閉伊(ヘイ)川と云ふ。其流域は卽ち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池(イケ)の端(ハタ)と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての歸るさ、此川の原臺(ハラダイ)の淵(フチ)」『と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す』と冒頭にあり、そこでは「原臺(ハラダイ)の淵(フチ)」となっているからである。

「六部」既出既注

「靑臀」尻の部分に青い痣(あざ)があること。蒙古斑の残痕(私は小学六年生の時、友人の臀部の上方にしっかり残っているのを日光の修学旅行の入浴の際に見たのを覚えている)とは別の尋常性の痣のようである。

「南瓜の莖」カボチャの維管束の汁で字が書けるというのは初耳であった。

「其中最も有名なのは、釜石の板ケ澤の女の人が此淵へ嫁に行つた話」不詳。発見したら、追記する。

「近年は此淵近くの農家の娘が假死して淵の主へ嫁に行つた等の話」同前。

「大正九年」一九二〇年。]

2023/03/23

早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「蛇のいろいろ」・「昇天する蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○蛇のいろいろ  最も數多く居るのは、山カヾシで、靑大將(ナマズと謂ふ)[やぶちゃん注:読点なしはママ。]蝮《まむし》、縞蛇《しまへび》(シロオロチとも謂ふ)[やぶちゃん注:読点なしはママ。]烏蛇《からすへび》、ヒバカリなどで、稀に、ヂモグリと云ふ、地の中をモグツてあるく、蚯蚓《みみず》の大きいやうな、真赤な蛇があると云ひます。

[やぶちゃん注:「山カヾシ」爬虫綱有鱗目ナミヘビ(並蛇)科ユウダ(游蛇)亜科ヤマカガシ(赤楝蛇・山楝蛇)属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus認識が甘い人が多いが、ヤマカガシは立派な毒蛇である。同種は後牙類(口腔後方に毒牙を有する蛇類の総称)で、奥歯の根元にデュベルノワ腺(Duvernoy's gland)という毒腺を持っている。出血毒であるが、血中の血小板に作用して、かなり速いスピードで、それを崩壊させる。激痛や腫脹が起こらないため、安易に放置し勝ちであるが、凝固機能を失った血液は、全身性の皮下出血を引き起こし、内臓出血から腎機能低下へ進み、場合によっては脳内出血を引き起こして、最悪の場合は死に至る。実際に一九七二年に動脈のヤマカガシ咬症によって中学生が死亡する事故が発生している。深く頤の奥で咬まれた場合は、至急に止血帯を施し、医療機関に直行する必要がある。和名の「カガシ」は、古語で「蛇」を意味し、「山の蛇」の意。である。水辺を好み、上手く泳ぐことも出来る。私は昔、富山の高岡市伏木の家の裏山の中型の貯水池で、悠々と中央を横切って泳ぎ渡る彼を見て、惚れ惚れしたしたのを忘れない。

「蝮」クサリヘビ(鎖蛇)科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii。「マムシ」は恐らく有毒の広義の一部獣類を含む「蟲類」の強毒のチャンピオンという意味の「眞蟲」が語源と推定される。毒性はハブよりも強いが、体が小さいため、注入される毒量は少ない。マムシ咬症の一般的病態は、出血(但し、咬傷を受けた部位にもよろうが、咬んだ部分は小さいため、通常ならば、それほど目立たないようであるが、動脈を咬まれた場合は、凝固反応が阻害された出血症状が顕著に起こる)・血圧低下・腫脹(顔面及び眼球の腫脹が暫くして発生する)・皮下出血(体外出血が顕著でなくても、これは普通に広く見られる)・発熱・眩暈(めまい)・リンパ節の腫脹及び圧痛(これは受傷後一~二時間後)、重症の場合は意識混濁・腫脹部の筋肉の壊死・眼筋麻痺からの視力低下等を示す。適切な治療を受けないと。二~九日後には、急性腎不全による排尿障害・蛋白尿・血尿等の循環器障害を呈し、後遺症として腎機能障害が残るリスクは高い。致命的なケースは極めて少ないと言えるが、甘く見てはいけない。

「縞蛇(シロオロチとも謂ふ)」ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata。本種は普通は淡黄色の体色に四本の黒い縦縞模様が入る)種小名「quadrivirgata」は「四本の縞」の意)が、縞が全くない個体や頤の辺りが黄色い個体もおり、腹板が目立つ模様はなく、クリーム色・黄色・淡紅色を呈することから、白系へ偏った箇所が他の蛇類よりも目立つことから「白大蛇(しろおろち)」という異名となったものか。或いは、しばしば認められる「神使」と崇められるシマヘビのアルビノ(albino:白化個体)が縁起担ぎで転用されたものかも知れない。但し、個人的には、後に出るヒバカリの強い白系に偏移した個体を形状の似たシマヘビと誤認したではないかと私は思っている。

「烏蛇」これはアオダイショウ(青大将:ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora)、及び前記のシマヘビ、或いは先のニホンマムシの孰れかを指す広汎な地方名である。「カラスヘビ」は文字通り、烏のように「黒い蛇」を通称総称するものであり、種名ではない。

「ヒバカリ」ナミヘビ科ヒバカリ属ヒバカリ Hebius vibakari当該ウィキによれば、北海道を除いて、本州・四国・九州・壱岐・隠岐・屋久島などに棲息する。全長四十~六十五センチメートルで、『胴体の斜めに列になった背面の鱗の数(体列鱗数)は』、『総排出口までの腹面にある幅の広い鱗の数(腹板数)』で百四十二から百五十三枚、『総排出口から後部の鱗の数(尾下板数)は左右に』六十二から八十二枚ずつを数える。『背面の色彩は淡褐色や褐色』(白偏移の個体も多い)で、『吻端から口角、頸部にかけて』、『白や淡黄色の斑紋が入る』。『腹面を覆う鱗(腹板)の色彩は黄白色で、外側に黒い斑点が入る』とある。和名のそれは「日計」「日量」で、これは、『無毒種』であるが、嘗つては『毒蛇とみなされていた』ことから、『「噛まれたら命がその日ばかり」に由来する』ものである。

「ヂモグリと云ふ、地の中をモグツてあるく、蚯蚓《みみず》の大きいやうな、真赤な蛇」ナミヘビ科ナメラ属ジムグリ属ジムグリ Elaphe conspicillata。当該ウィキによれば、全長は七十センチメートルから一メートルで、『体色は赤みがかった茶褐色で、黒い斑点が入る』。『個体により、ジグザグ状になる』。『斑点は成長に伴い』、『消失する。腹面の鱗(腹板)には黒い斑紋が入り、市松模様(元禄模様)状になるため』、『別名、元禄蛇とも呼ばれる』。『頭部に』『「V」字の模様があり、この線が眼にかかるところが』、『学名の由来(鼻眼鏡の意)となっている。上顎は下顎に覆い被さる』。『頸部は太く、頭部と胴体の境目が不明瞭』である。和名の「地潜」で、『特に林床を好み、よく地中や石の下等に潜ること』に由来する、とある。]

 

 ○昇天する蛇  山カヾシは天に昇ると謂ひます。又山カヾシの、軀が太くどす黑い奴は能無しで、引締まった軀の、赤色の勝つた蛇が、昇るのだとも謂ひます。

[やぶちゃん注:以下、底本では、「午後二時頃だつたと云ひます。」までが全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

 昇つたのではなからうかと云ふ噺  大正四年の夏、橫山の近藤福太郞と云ふ男が、早川明と云ふ當時十三歲の少年と二人で、字仲平の桑畑の中で桑を摘んでゐると、傍の桑の木へ、小さな山カヾシが梢に近くなると、軀[やぶちゃん注:底本では「驅」。『日本民俗誌大系』版で訂した。]の重さで、梢が曲るのに落《おつ》こちては登つて行き、登つては落ちしてゐたさうですが、ふと眼を他へそらした間に、其蛇が皆目知れなくなつたので、二人してあたりを探したさうですが、遂に見つからなかつたと云ひました。餘まり不思議故、天に昇つたのではなからうかと云つてゐました。よく晴れた日の、午後二時頃だつたと云《いひ》ます。

[やぶちゃん注:古来からある「蛇の龍への昇天」に基づく認識である。思うに、猛禽類が攫っていったものと私は思う。]

 

 三河に近い、遠江の引佐《いなさ》郡井伊谷《ゐいのや》村のジグジと云ふ所の、ジグン寺と云ふ寺の門前に、六月、田植の人達が雨やどりしてゐると、門前にある大きな桑の木に、山カヾシの赤く輝くやうな奴が卷きついて、篠突く夕立の中に、昵《じつ》と頭を空に向けてゐたと云ひますが、其人達が、あの蛇は、何をしてゐるのかと、不思議がつて、何だか先刻より思ふと、蛇の頭が少し長くなつたやうだと、囁き云ふ中《うち》、ふと眼を他にそらしたか、と思ふ瞬間、其處に居合した者の眼にも、蛇の行衞が更に知れなくなつたと、其中の一人の女が、私の母に話したのを聞きました。

[やぶちゃん注:これは衆目の中で起こったことで、複数の目撃者がいる以上、猛禽類に捕えられたとするには、ちょっと問題のある真正の怪異である。

「引佐郡井伊谷村のジグジ」現在の浜松市北区引佐町(いなさちょう)井伊谷(いいのや:グーグル・マップ・データ)の地区内に飛地として存在する浜松市北区神宮寺町(じんぐうじちょう:同前)であろう。

「ジグン寺」現在の神宮寺町にはそれらしい寺はない。一つ思ったのは、南直近の井伊谷にある井伊谷宮(いいのやぐう:同前)の旧別当寺(廃寺か)ではなかったろうか? と感じはした。

 以下、同前。同じ処理をした。]

 

 昇つたのを實見した話 名前は今記憶してゐませんが、私の母方の祖母の從弟で、八名郡下川村字下條《げじやう》と云ふ村へ、婿養子に行つた男が、夏、畑に出て綿を採つてゐると、傍へ小さな山カヾシが來て、空に向つて高く頸を上げてゐるので、不思議に思つて、仕事の手を休めて視てゐると、其蛇が、尾をぶるぶると顫はせたと思ふ間に、するする空に向つて昇つて行くので、驚いて、附近に働いている人たちを呼集め、蛇がだんだん高く昇つて最後にヒラヒラと小さく見えずなる迄、見物したとひました。其日は空に雲一ツない、よく晴れた日であつたと言います。其男が祖母に話したのを聞きましたが、同じ男が、其處此處で幾度も其事を物語つたと云ひます。

 

[やぶちゃん注:これも目撃者が複数おり、やはり怪異である。

「八名郡下川村字下條」Geoshapeリポジトリ」のこちらで旧村域が確認出来る。愛知県豊橋市下条東町(げじょうひがしまち:同前)附近か。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一番 天人子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。

 なお、標題の「錢緡」は「ぜにさし」(「錢差」)と読み(「ぜんびん」の読みもあるが、読みの用例は圧倒的に前者)円形方孔の穴開き銭の穴に通して銭を束ねるのに用いる細い紐を指し、藁、又は、麻で作られた保管又は運搬用の銭の束の組みを指す。「錢繩(ぜになは)」「錢貫(ぜにつら)」とも言い、「ぜにざし」とも読み、頭を略して二字で単に「さし」とも呼称した。束には「百文差(ざ)し」・「三百文差し」「一貫文(=千文)差し」等がある。グーグル画像検索「銭緡」をリンクさせておく。]

 

   一一番 天 人 子

 

 昔、六角牛山(ロクカウシサン)の麓の里に百姓惣助と云ふ男があつた。其の近所に七ツの池があり、其の中に巫女石(ミコイシ)と云ふ石のある池があつた。池には多くの雜魚(ザツコ)がゐたので、或日惣助が魚釣りに行くと、六角牛山の天人子(テンニンコ)が飛んで來て、巫女石に着物をぬいで懸けて置いて、水浴をしてゐた。

[やぶちゃん注:「六角牛山」(ろっこうしさん)は岩手県遠野市と釜石市との境にある北山山地の高峰(グーグル・マップ・データ航空写真)。標高は千二百九十四メートル。「遠野小富士」の異名を持つ。

「麓の里」「ひなたGPS」の戦前に地図で見ると、六角牛山の西麓は扇状地になった旧「靑笹村」(現在は青笹町)で、その扇状辺縁には、現在の国土地理院図にも「踊鹿(おどろか)堤」といういかにも民話的な貯水池を始めとして五つ以上の沼沢らしきものを現認出来る。まず、この「靑笹村」を比定してよいと思われる。

「巫女石のある池」不詳だが、地図を見ていると気になる池がある。前に出した「踊鹿堤」で、この池、国土地理院図でも確認出来るのだが、中央に小さな島があるのである。グーグル・マップ・データ航空写真で拡大(以下同じ)しておく。ただ、これは私が気になっただけで、この「巫女石」だというわけではない。但し、dostoev氏のサイト「不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-」の「遠野物語拾遺97(荒滝と巫女石)」で、当該話を示された上で、『「遠野物語拾遺97」の冒頭にしか出てこない荒滝の話だが、実際荒滝は六角牛の女神から石を授かり大力となったと云い、その石を「御ご石」と云ったという伝承が青笹町に伝わっている。この「御ご石」とは、実際は「巫女石(みごいし)」であるとも云われている。また力士となった荒滝の名前も、六角牛山から授かったものだと云う』とあって、『六神石神社の右脇に白龍神が祀られているのは、古来から六角牛山は雨乞い祈祷をされてきた歴史もあるのだと思う』と続き、最後に『ちなみに六角牛山の「巫女石」は、元宮司であった千葉氏によれば、六角牛山中腹の不動の滝にあるという』とある。この「大瀧神社」か。しかし話柄は麓と言っているから、「六神石(ろっこうし)神社」附近が元ロケーションか。

「天人子(テンニンコ)」天女。本話は所謂、「天の羽衣」譚の遠野ヴァージョンである。]

 惣助は其の着物が餘りに美しくて珍らしかつたから、窃(ソツ)と盜んでハキゴ(腰籠)に入れて家へ持つて歸つた。

 天人子は着物を盜まれたので天へ飛んで還ることが出來なかつた。それで仕方なく朴(ホウ)ノ葉をとつて體を蔽ふて、着物を尋ねて里邊の方へ下がつて來た。池の近くに一軒家があつたから其所へ寄つて、今池へ釣りに來た男の家は此の邊ではないかと訊くと、その家から爺樣が出て來て、その男ならこれから少し行くと家が三軒あるが、その眞中の家の者だと敎へた。そこで天人子はその家へ行つて、先刻お前は妾《わらは》の着物を持つては來なかつたか、あの着物が無いと、私は天へ還ることが出來ないからどうか返してくれと言ふと、惣助は、如何にもあの池の巫女石に懸かつてあつた見たことのない着物は俺が持つて來たが、あまりに美しく珍しい物だから、今、殿樣に献(ア)げて來たばかりの所であると僞言(ボガ)を吹いた。

[やぶちゃん注:「朴」朴葉味噌でお馴染みの、モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovate。葉身は倒卵形から倒卵状長楕円形を成し、非常に大きく、長さ二十~四十センチメートルにも達し、幅は十~二十五センチメートル、全縁で波状、基部は鈍形、先端は鈍頭、表面は明緑色、裏面は白色を帯び、長軟毛が散生する(当該ウィキに拠った)。]

 天人子は大層歎いて、妾は裸體(ハダカ)のまゝでは天へも還られない。さう言つて暫時《しばらく》泣いて居たが、やがて惣助に向つて、それでは妾に田を三人役(ヤク)(凡そ三反步)ばかり貸してクナさい。其の田に蓮華の花を植えて糸を取つて機を織つて、それで着物をこしらへねばなりませんからと言つた。惣助も今では女の身の上が憐れになつて、女の云ふ通りに三人役の田を貸し、なひ其の上に巫女石のある池の傍《ほと》りに、笹小屋を建てゝ、其所に天人子を入れて置いた。

 蓮華の花が田一面に咲いた。それから糸を採つて、天人子は笹小屋の中で每日每日機を織つて居た。女は機を織りながら、たゞの人間ではないやうな佳(ヨ)い聲で歌をうたつて居た。そして小屋の内を覗いて見てくれてはならないと謂ふのだけれども、惣助が堪りかねて覗いて見れば、梭(オサ)の音は聽えるけれども、女の姿は見えなかつた。それで、これは多分、六角牛山で天人子の織つて居る機の音が、かう聞えるのだらうと思つて居た。後(アト)で惣助は天人子の着物をば眞實に殿樣へ献上した。

 天人子は間もなく、マンダラと謂ふ布を織り上げた。そして惣助に、これを殿樣へ献げてクナさいと賴んだ。惣助は天人子から賴まれたから、其のマンダラを殿樣に献げると、殿樣はそれを見て、これは珍しい織物である。この布を織つた女を見たい。また何か望みでもあるならば申出ろと言ふことであつた。

 惣助は歸つて來て、其の事を天人子に言ふと、天人子は妾は別に何の望みもないが、ただ殿樣の御殿に御奉公がして見たいと言つた。惣助はまた殿樣の所へ行つて其の事を申上げると、それでは早速連れて來て見ろと言つた。殿樣は天人子を見ると、世にも類ひ無いやうな美しい女であつたから、喜んで御殿に置いた。

 天人子はそんなに美しかつたけれども、一向物も食はず物を言はず、また仕事もしなかつた。そして始終ぶらぶらして居た。其の年の夏になつて、お城でも土用干しをした。其の時惣助から献上した天人子の着物も出して干された。天人子は𨻶を見て、其の着物を取つて手早く體に着けて、六角牛山の方へ飛んで行つた。

 殿樣は其の後、歎いて居たが、天人子のことだから仕方がないと思つてあきらめた。そして天人子の織つたマンダラをば、これは尊いものだからと言つて、今の綾織村の光明寺に納めさせた。(その綾のマンダラと云ふ物があるので今の綾織と謂ふ村の名前が起つた。)

 (この話は、岩手縣上閉伊郡遠野鄕の話。綾織村の光明寺には現にそのマンダラであると稱する古巾(フルキレ)が殘つてゐる。昭和三年三月二十八日、早池峯山神社社掌、宮本愛次郞氏談。)

[やぶちゃん注:最後の附記は底本では全体が二字下げポイント落ち。

「綾織村の光明寺」現在の岩手県遠野市綾織町(あやおりちょう)上綾織(かみあやおり)の曹洞宗照牛山光明寺で、ここに現存する(グーグル・マップ・データ)。風琳堂主人氏のブログ「月の抒情、瀧の激情」の「天女の行方──六角牛神社と綾織・光明寺伝説」には、本譚に関わる考証が驚くべき細部まで記されてあるので是非、読まれたいが、『光明寺へうかがえば、この天女伝説ゆかりの「曼荼羅」を見せてもらえる』とあって、写真も添えられてある。

「昭和三年」一九二八年。

「早池峯山神社」早池峰山は岩手県にある標高千九百十七メートルの山。北上山地の最高峰であり、ここに出る六角牛山、及び、石上山とともに「遠野三山」と呼ばれる。山岳信仰のメッカで、山自体が神体であり、麓などの周辺には複数の早池峰神社が存在する。グーグル・マップ・データでは山頂に近いそれをポイントした。]

「曾呂利物語」正規表現版 第二 六 將棊倒しの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどくみえにくくなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(右丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     六 將棊倒(しやうぎだふ)しの事

 

 關東に、ある侍(あぶらひ)、主(しう)の命(めい)に背き、とうがん寺といふ寺にて、腹を切りけるを、

「明日(あす)、葬禮をせん。」

とて、庫裏(くり)には、其の用意をし、彼(か)の死人(しにん)を棺(くわん)に入れ、客殿におき、坊主十人ばかり、番をしてゐたりけり。

 更けゆく儘(まゝ)に、皆、壁に寄りかゝり、居睡(ゐねぶ)りけるに、其の中に、下座なる坊主二人は、未(いま)だ寢入(ねい)らで、物語りして侍るに、かの棺、震動して、死人、棺を打破(うちやぶ)り、立ち出で、さも、凄まじき有樣(ありさま)にて、燈火(ともしび)の下(もと)に行き、紙燭(しそく)をして、火を付け、土器(かはらけ)なる油を、ねぶる。[やぶちゃん注:この「ねぶる」は通常の「舐める」の意。]

 

Syaugidahusi

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「しやうぎたふしの事ひそくはな入る所」(「ひそく」はママ。)である。亡者からは未だに切腹の血が鮮やかに滴っているのも奇異を添えている。]

 

 其の後(のち)、上座(かみざ)にある坊主の鼻へ、紙燭を入れて、ねぶり、次第に、下座(げざ)まで、鼻へ入れて、ねぶりねぶり、しける。[やぶちゃん注:ここに出る「ねぶる」は特異な用法で、「吸引して舐める」のであるが、岩波文庫の高田氏の脚注に、『鼻の穴へ、こよりをさして、生者の「気」をなめ取ることをい』っているのである。挿絵も、その一瞬を切り取っているのである。]

 二人の僧、あまり、恐ろしさに、息も立てず居(ゐ)たりけるが、次第に、近づきければ、逃ぐるともなく、走るともなく、庫裏へ倒れ入りぬ。

 各(おのおの)、肝を潰し、

「これは、如何なる事ぞ。」

と、いひければ、

「しかじか。」

と云ふ。おのおの、急ぎ行き見れば、彼(か)の幽靈も、なし。

 棺を見れば、別の事も、なし。

 坊主たちを、起こしければ、將棊倒しの如く、いづれも死に入りにけり。

 いろいろ、氣を付けけれども、遂に、生き出でずなりにけり。

[やぶちゃん注:「諸國百物語卷之二 四 仙臺にて侍の死靈の事」は芸のない転用物。

「東岸寺」岩波文庫の高田氏の注に、『不詳。同名の寺は下野国都賀』(つが)『郡、下総国海上』(古くは「うなかみ」、近代は「かいじょう」)『郡などにあったが、いずれも該当せず』とある。]

2023/03/22

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 五 行の達したる僧には必ずしるしある事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。]

 

     五 行(ぎやう)の達したる僧には必ずしるしある事

 

 一所不住の僧、武藏國を修行しはべりしが、をりふし、道に行き暮れて、泊るべき宿(やど)もなし、野原の露に、袖を片敷きて、明しける。

 をりしも、秋のなかば、月の夜すがら、まどろむひまもなかりけるに、笛の音、幽(かすか)に聞えけり。

『不思議や。此の邊には、人里も、なかりつるに、いかなる物やらん。』

と思ひけるが、次第に近づきて、程なく、僧のあたりへ來(く)るを見れば、年の程、二八(にはち)ばかりなる少人(せうじん)の、其のさま、優なるよそほひなり。

 やんごとなき姿を見るに付けても、

『疑ひなき、變化の物なるべし。』

と思ひをる。彼の少人、いひけるは、

「お僧は、何(なに)とて、かかる野原に、たゞ一人、ましますぞ。」

と、有りければ、僧、答へて曰く、

「かかる、里離れなる所とも存ぜず、行きくれて候。御身は、いかなる人にてわたらせ給ふぞ。」

と、いうて、おそろげなる有樣なり。此のけしきを見て、

「我をば、變化(へんげ)の物とや、おぼしめすらん。さやうの物にては、候はず、月夜になれば、笛を吹きありき、心を慰むる者なり。さいはひに、童(わらは)が宿にともなひ奉らん。いざ、給へ。」

と有りければ、僧、おぼつかなく思ひながら、

『變化の物ならば、こゝに有りても、よも安穩(あんをん)にては、おかじ。』

と思ひ、

「御心ざし、有り難う侍る。」

とて、則ち、連れたちて、行きにけり。

 とある里に至りぬれば、ゆゝしき一つの、城郭、有り、彼(か)の内に誘(いざな)ひ入りぬ。

 宮殿・樓閣を通り、奧に小さく設(しつら)ひたる座敷、有り。

 少人、いひけるは、

「此處(こゝ)に、御泊りあれ。旅の疲れにや、おはすらん。」

とて、障子を、あけられ、火を持ちて出で、僧に與へ、 茶など、參らせて、心、殊にもてなし、

「我は此の障子の內に寢(い)ね參らせ候。御用の事候はば、我等が臥(ふ)しどへ、音なひ給へ。」

とて、入りぬ。

 僧は、

『かかる不思議なる所へも、きつる物かな。』

と、まどろむ暇(ひま)もなく、光明眞言などを唱へ、心を澄ましけるが、やうやう、八聲(やこゑ)の鳥も告げわたり、鐘の音(ね)も、物すごくこそ、聞えけれ。

 しかる所に、人、あまた、來りて、

「こゝに不思議なる坊主有り。何者なれば、かやうの奧まで、忍び入りけるぞや。たゞ事にあらず。いかさま、變化の物なるべし。蟇目(ひきめ)にて射よ。さらずば、鼻を、ふすべよ。」

とて、まづ、諫めんとす。

 僧、

「ことわりを申さん程の、いとまを、賜はれ。」

とて、宵のありさま、こまごまと語りけり。

 咎めつる者ども、これを聞いて、思ひの外に、うちしめり、淚をながす人も有り。

 ことを、委しく尋ぬるに、其の城主の若君、其の年の春の比(ころ)、身まかり給ひけるが、その亡靈にてぞおはしける。

 常に、笛を手なれるに、佛前に、漢竹(かんちく)の横笛を置きけるなり。

 茶の具、靈供を供へおきはべるを、僧には、與へ給ふらん。

「お僧、貴(たつと)う思はれける故なれば、しばらく、爰に逗留し給へ。」

とて、色々の追善を營み、其の後(のち)、僧は歸り給ひけり。

[やぶちゃん注:本話は、個人的には好みである。但し、ややあっさりとしている感じはする。これを換骨奪胎して優れて映像的に、しかも設定をリアルに細敍して見事にインスパイアしたものが、「伽婢子卷之八 幽靈出て僧にまみゆ」であり、そちらに軍配を挙げたいと思う。なお、「諸國百物語卷之一 十 下野の國にて修行者亡靈にあひし事」は、ほぼ転用。

「八聲(やこゑ)の鳥」「八」は多いことを示し、夜の明け方にしばしば鳴く鷄を指す。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 母衣

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた(今回は例外あり)。]

 

      母 衣(ほ ろ) (大正三年四月『民俗』第二年第二報)

 

 始于漢樊噲、出陣時、母脫ㇾ衣爲餞別、噲毎戰被衣於鎧、奮勇殊拔群(一說非樊噲、爲後漢王陵故事。)其後馳驅武者用ㇾ之(「和漢三才圖會卷廿」)[やぶちゃん注:本篇に先立ってブログで「和漢三才圖會 卷第二十 母衣」として電子化注を公開しておいた。なお、ウィキの「母衣」の内容も侮れないので、一見をお勧めする。]。

 新井白石の「本朝軍器考」卷九に、『保呂と云ふ物、その因て來《きた》る事、定かならず、又定まれる文字も有《あら》ず。古《いにしへ》には保侶(「三代實錄」)、保呂(「扶桑略記」)、母廬(「東鑑」)抔書きしを、其後は、縨、又は、母衣抔《など》、記《しる》せり。「下學集」には、縨を母衣と書く事、本《もと》と、是れ、胎衣(えな)[やぶちゃん注:写本では「タイヘ」とルビする。]に象《かたど》れる由を載せ、又「壒嚢(あいのう)抄」には、『母の小袖抔、縨に掛《かけ》し事の有るを、未だ其因(いわれ[やぶちゃん注:ママ。])の知れざる事も有るにや。』と書(しる)しぬ(『「縨」の字は韻書等にも見えず。「幌」の字は有り、是は「帷幔《いまん》」也。』と註す。)。其餘、世に云習《いひならは》せる文字も多けれど、皆な、信《うけ》難し(「武羅(ほろ)」、「神衣(ほろ)」、「綿衣(ほろ)」等、是也。)。神功皇后、三韓、討《うた》せ給ひし時、住吉の神、作り出《いだ》して進《まゐ》らせしと云《いふ》說あれど、正しき史には、見えず。貞觀十二年[やぶちゃん注:八七〇年。]三月、對馬守小野朝臣春風、奏せし所に、軍旅之儲、啻在介冑、介冑雖ㇾ薄助以保侶〔軍旅の儲(まうけ)は、啻(ただ)に介冑《かつちう》に在り。介冑は薄しと雖も、助くるに保侶を以つてす。〕。調布《つきぬの》をもて、保侶衣(ほろぎぬ)千領を縫《ぬひ》作り、不慮に備へんと望み請《こひ》し事、見え(「三代實錄」)、又、寬平六年[やぶちゃん注:八九四年。]九月、新羅の賊船、四十五艘來りて、對馬島を犯す事有り。守(かみ)文屋(ふみや《の》)善友、迎へ戰ふて、彼《かの》大將軍三人、副將軍十一人を始《はじめ》て、三百二人を射殺《いころ》して、取る所の大將軍の甲冑・大刀・弓・胡籙《やなぐひ》・保呂等、各《おのおの》一具、脚力に附《つけ》て進《まゐ》らせし由、見ゆ(「扶桑略記」)』と有て、次に、其師順庵の說なりとて、「母衣」てふ字は「羽衣(うい)」を誤寫せるにて、是れ、「毦(じ)」と云物也。「毦(じ)」の字は羽毛の飾り、一に言《いは》く、羽を績《つむぎ》て衣とす、一に言く、兜鍪上《かぶとのうへ》の飾なり云々。「三國志」に、蜀の先生の結びしは、犛牛《りぎう》の尾と見え、梁の庾信《ゆしん》が詩に、『金覊翠毦《きんきすいじ》』と云りしは、翠羽《すいう》を以て作りたれば、羽を績て、衣とす、と云ふ註に合ひぬるにや云々。思ふに毦と云物は、三國の頃、專ら、軍容の飾りと成せし物にぞ有ける。「後漢書」の内に、其と覺しき物、既に見ゆ。三韓の地にも其製に倣ひ來り、寬平の御時の賊帥も、之を負ひたるにこそ。我國の軍裝に、保呂掛け・總角《あげまき》付《つく》るは、神代よりの事と見ゆ。「六月晦大祓祝詞《ろくぐわつこもりおおほはらへのつと》」に、比禮挂伴男《ひれかくるとものを》、手纏挂伴男《たすきかくるとものを》と云《いふ》、卽《すなはち》、此也。古時、「比禮《ひれ》」と云しを、後ち、「保侶」と云、其語、轉ぜしなり。春風が奏せし所に據るに、其代には、此物、介冑を助け、身を保つべき物と見ゆ。軍裝とのみも、云可《いふべか》らず。只、其制の如き、今、はた、知らるべきにも非ず。古き繪共に、保呂、掛し物を、𤲿きしを見るに、近き世の制と大《おほい》に異なり、古《いにしへ》は、是を着《つ》くべき樣《よう》も、兵《つはもの》の家、傳ふる所の故實、ある事なりき云々、今樣は、帛《はく》の長《たけ》も長く、其幅の數も多く成し程に、保呂籠と云物に引覆ひて、前に「はだし」と云物、立て、串をもて、鎧の後《うしろ》にさす事に成にけり。斯る制、元弘、建武の頃よりや始まりぬらむ。近き頃まで、東國の方にては、多くは古《いにしへ》の制を用ひて、今樣の物をば、提灯保呂《てうちんほろ》抔云し由云々、又、「近代より、羽織と云物をもて、軍裝とする事、有りけり。古えには、斯る物有りとも、聞こえず。されど、古に羽を績ぎて衣とすと云しは、此物の類也。扨こそ、斯くは、名《なづ》けたらめ。」と云人、有り。近代迄、有りつる昔、保呂と云ひける物、此物に似たる所もあれば、かの羽を績ぐと云ひしも、羽を織ると云はんも、其義の、相遠《あひとほ》からねば、其名を、斯《かく》、名づけたりけんも知《しら》ず。』と論じ居る。

[やぶちゃん注:『新井白石の「本朝軍器考」』全十二巻から成る故実書。享保七(一七二二)年跋、元文五(一七四〇)年刊。古代からの軍器の制度・構造・沿革などについて、旗幟・弓矢・甲冑等に部類して考証したもの。全十二類百五十一条から成る。付考として、白石の義弟朝倉景衡(かげひら)の編に成る「本朝軍器考集古図説」がある。国立国会図書館デジタルコレクションのここから、非常に状態の良く、判読も容易な美しい写本の当該部を視認出来たので、それを元に南方熊楠の引用の誤り或いは誤植と思われるものを、一部、訂した。熊楠のものの方が読み易く、意味が変わらないと判断したものはそちらを採用した。但し、「云々」で分かる通り、原文はもっと長く、熊楠は途中にかなり手を加えて書き変えてあるので、まずは、原文を見られんことを強くお勧めする。以上の注は、やりだすと、だらだらと労多くして益少なきものになるのは、目に見えているので、一部を文中注とし、注を入れた方がいいと考えた箇所のみ以下に注する。

「三韓」紀元前二世紀末から紀元後四世紀頃にかけて、朝鮮半島南部の三つの部族連合で、馬韓・辰韓・弁韓を含む。

「小野朝臣春風」(おののはるかぜ 生没年不詳)は平安前期の貴族・歌人。従五位上。小野石雄の子。当該ウィキによれば、貞観一二(八七〇)年『正月に従五位下に叙爵するとともに、新羅の入寇への対応を行うべく、対馬守に任ぜられる。対馬守在任時に、甲冑の防御機能を強化するための保侶衣』一千領、()『及び』、『兵糧を携帯するための革袋』一千『枚の必要性を朝廷に訴え、大宰府に保管されていた布でこれらが製作された』とあるのを指す。

「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文徳天皇実録」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九百一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

「文屋(ふみや《の》)善友」(ふんやのよしとも 生没年不詳)は平安前期の官人。官職は上総大掾・対馬守。当該ウィキによれば、元慶七(八八三)年に『上総国で起きた俘囚の乱を上総大掾として諸郡の兵』一千名を『率いて鎮圧した経験を有していた。この時期、新羅の海賊が対馬国・九州北部沿岸を襲う事件がたびたび起こり』、前に述べた小野春風が貞観一五(八七三)年に『対馬守に赴任』、『朝廷に』上奏して『軍備の拡充を行ってい』たが、寛平五(八九三)年にも『新羅の賊が九州北部の人家を焼くという事件があり、翌寛平』六年四月、『新羅の船大小』百『艘に乗った』二千五百『人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に来襲した。この知らせを受けた朝廷は、参議・藤原国経を大宰権帥に任命して討伐を命じるなどの対策に追われ』、当時、対馬守であった善友は、それを迎え撃った。九月五日の』『朝、対馬に押し寄せたのは』四十五『隻』で、『善友は』、先ず『前司の田村高良に部隊を整えさせ、対馬嶋分寺の上座面均と上県郡の副大領下今主を押領使とし、百『人の兵士を各』五『名ずつ』二十『番に分け』、最初に四十『人の弱軍をもって敵を善友の前までおびき寄せ、弩』(おおゆみ)『による射撃戦を挑んだ。矢が雨の如しという戦いののち、逃走しようとする敵を』、『さらに追撃』、大将三人、副将十一人を含む賊三百二人を『射殺した。また』、船十一隻、甲冑、保呂』()。『銀作太刀および太刀』五十『柄、桙』一千『基、弓』百十『張、弓胡(やなぐい)』百十、『置き楯』三百十二『枚など』、『莫大な兵器を捕獲し』、『賊』一『人を生け捕っ』ている。而して、『この捕虜が述べるには』、『これは私掠ではなく新羅政府によるものであり、「飢饉により王城不安であり食料や絹を獲るため」、『王の命を受けた船」百『隻』、二千五百もの『兵を各地に派遣した」と』述べ、『対馬を襲ったこの』四十五『艘も』、『その一部隊であった。また』、『逃げ帰った中には優れた将軍が』三『人おり、その中でも一人の唐人が強大であると述べた』とあり、さらに、『当時は律令軍制の最末期であり、またその装備である弩が蝦夷以外の対外勢力との戦いで使われた数少ない例である』とある。

「扶桑略記」歴史書。元三十巻。天台僧皇円の著になり、平安末期に成立した。漢文体による神武天皇から堀河天皇に至る間の編年史書。仏教関係の記事が主で、現存するのは十六巻分と抄本である。

「其師順庵」新井白石の師であった儒学者木下順庵(元和七(一六二一)年~元禄一一(一六九九)年)。甲府徳川家のお抱え儒学者を探しに来た際、順庵は新井白石を推薦している。

「梁の庾信」(五一三年~五八一年)は南北朝時代の文人。初め、南朝の梁に仕え、武康県侯に封ぜられたが、北周に使いした際、留められ、その後、梁が滅亡したため、そのまま北周に仕えた。驃騎将軍・開府儀同三司となり、その華麗な美文は、梁・陳に仕えた文人政治家徐陵とともに「徐庾体」と称される。但し、「金覊翠毦」の文字列は、私が調べた限りでは魏の武帝の古楽府、梁の元帝の「燕歌行」の一節にしか見当たらない。

「三國の頃」後漢滅亡後の二二〇年から~二八〇年、華北の魏・江南の呉・四川の蜀の三国が分立した時代。

「後漢書」南朝宋の范曄(はんよう)及び晉の司馬彪の撰。四三二年成立。

「六月晦大祓祝詞《ろくぐわつこもりおおほはらへのつと》」七鍵氏のサイト「Key:雑学事典」の「六月晦日大祓とは」を参照されたい。]

 「康煕字典」に按服虔通俗文、毛飾曰ㇾ毦、則凡絲羽革草之下垂者、並可以毦名矣〔服虔《ふくけん》の「通俗文」を按ずるに、毛の飾(かざ)りを「毦」と曰ふ。則ち、凡そ絲羽革草の下がり垂るる者、並(みな)、「毦」を以つて名づくべし。〕と有る。熊楠謂ふに、其字、「耳」と「毛」より成る。角鴟(みゝづく)や猫に近いリンクス獸抔[やぶちゃん注:底本は「等」は空白で脱字。「選集」の『など』から、この熊楠の好きな字で補った。]、耳の尖《さき》に、長毛、有り。最初、其形容に用ひた字で、後には、冑《かぶと》や帽の後《うしろ》に垂《たれ》た飾《かざり》を言《いつ》たので、「博雅」の、一日績ㇾ羽爲ㇾ衣〔一(いつ)に曰はく、「羽を績いで、衣と爲す。」と。〕と有るは、ほんの異說に過ぎぬのだろ。吳の甘寧が敵を襲ふ迚《とて》、毦(じ)を負ひ、鈴を帶ぶべく、兵卒に令せしは、主として敵と混ぜぬ樣、徽章《きしやう》としたらしい。

[やぶちゃん注:「康煕字典」。清の一七一六年に完成した字書。全四十二巻。康煕帝の勅命により、張玉書・陳廷敬ら三十人が五年を費やして、十二支の順に十二集(各々に上・中・下巻がある)に分け、四万七千三十五字を収める。「説文解字」(漢。許愼撰)・「玉篇」(梁。顧野王撰)・「唐韻」(唐。孫愐(そんめん)撰)・「広韻」(宋。陳彭年(ちんほうねん)らの奉勅撰)・「集韻」(宋。丁度(ていたく)らの奉勅撰)・「古今韻会挙要」(元。熊忠(ゆうちゅう)撰)・「洪武正韻」(明。宋濂(そうれん)らの奉勅撰)などの歴代の代表的字書を参照したものであるが、特に「字彙」(明・梅膺祚(ばいようそ)撰)と「正字通」(明。張自烈撰)に基づいた部分が多い。楷書の部首画数順による配列法を採用、字音・字義を示し、古典に於ける用例を挙げ、この種の字書としては、最も完備したものとされる。但し、熟語は収録していない(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「服虔」後漢の古文学者(生没年不詳)。河南の出身。清貧の中で志を立てて大学に学び、論説の卓抜さを称された。霊帝の中平(一八四年~一八九年)の末年には、官は九江太守に至っている。

「角鴟(みゝづく)」フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称で、古名は「ツク」で「ヅク(ズク)」とも呼ぶ。俗称に於いては、フクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称である(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」を見られたい。

「猫に近いリンクス獸」ネコ科オオヤマネコ属オオヤマネコ Lynx lynx のこと。当該ウィキによれば、十一亜種(但し、分類は混乱しており、確定亜種ではない)が挙げられてある。そちらの生体の野生画像を見れば判る通り、耳の先端から有意に毛が生えてシュッと立っていることが判る。

「吳の甘寧」(?~二一五年?)は後漢末期の武将。孫権に仕えた。]

 古今、歐州にも冑や帽に毦を垂るゝ事多きは、ラクロアの「中世軍事宗敎生活(ミリタリ・エンド・レリジアス・ライフ・イン・ザ・ミツドル・エイジス)」英譯や知友ウェプ氏の「衣裝の傳歷(ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレス)」(一九一二年板)に其圖多し。毦(じ)は、本來、羽毛より成たが、後には布帛《ふはく》を以て作つた大きなものも出來、隨つて身を護り、兵を避《さく》るの具とも成たらしい。ラクロアの書一一七頁、ゴドフロア・ド・プーヨンの肖像など見て知るべし。陣羽織を鳥羽で織つたから羽織と云た、と聞く。確か秀吉が著たとか云う鳥羽で織《をつ》たものを大英博物館で見たと記憶する。歐州では、十三世紀の終り迄鳥羽を裝飾に用ひること稀だつた(「大英類典」卷十)。之に反し、未開民中、鳥羽を裝飾とする、精巧を極めた者あり。例せば、布哇《ハワイ》では、以前、羽細工、最も精巧を極め、鳥の羽もて、兜や、假面や、節(セプトル)や、冠や、頸環や、上衣を作る職人、頗る重んぜられた(英譯、ラッツェル「人類史(ヒストリー・オヴ・マンカインド)」一八九六年板、卷一、頁一九八、羽製の諸品は、一五五頁に對せる圖版に載す。英譯、フロベニウス「人類の幼稚期(ゼ・チヤイルドフツド・オヴ・マン)」一九〇九年板、六二頁)。南米のムンヅルク人、尤も妙麗なる羽細工もて、上衣や節や帽を作るも、特殊の迷信的觀想を存し、容易《たやす》く外人に賣らず(ベイツ「亞馬孫河畔之博物學者(ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス)」一八六三年板、第九章)。墨西哥《メキシコ》發見の時、トラスカラン族の諸酋長と重臣、身に厚さ二吋《インチ》[やぶちゃん注:五センチメートル。]にて其國の兵器が徹り得ぬ綿入れの下著を著《き》、上に薄き金、又、銀板の甲を被《かぶり》、其上に莊嚴を極めたる鳥羽の外套を被り、美麗、口筆に絕した(プレスコット「墨西哥征伐史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》」ボーン文庫本、一九〇一年板、卷一、頁四七及び四三二頁)。歐州の將士、中古、サーコートとて、吾國の鎧直垂《よろひひたたれ》樣の物を鎧の上に著た。その狀は、ウェブの著(上に引た)八四、八五、八八の諸圖を見れば、分かる。惟《おも》ふに「三代實錄」等に見えた保呂衣は、介冑を助けて兵器を防ぐ爲め、古墨西哥人の下著、又、歐州中古のサーコート樣の者だつたのが、追々、變化して、後世の提灯保呂と成たんだろ。提灯保呂は、矢のみか、一寸した鐵砲をも防ぐと聞たが、實際を見ぬ故、果して然りやを、予は知らぬ。

[やぶちゃん注:『ラクロアの「中世軍事宗敎生活(ミリタリ・エンド・レリジアス・ライフ・イン・ザ・ミツドル・エイジス)」英譯』フランスの作家ポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)の英訳本「中世の軍事的宗教的生活」。原本はVie militaire et religieuse au Moyen Áge et à l'époque de la Renaissance(「中世とルネッサンス時代の軍事的宗教的生活)。英訳本は「Internet archive」のこちらで見られる。

『知友ウェプ氏の「衣裝の傳歷(ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレス)」(一九一二年板)』『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 忠を盡して殺された話』(大正二年九月『民俗』第一年第二報)で既出既注であるが、再掲すると、『リンネ学会』会員で博物学者であったウィルフレッド・マーク・ウェッブ(Wilfred Mark Webb 一八六八年~一九五二年:熊楠より一つ下)の‘The Heritage of Dress’(「ドレスの伝統」一九一九刊)。

「節(セプトル)」よく判らぬが、「節」は「ふし」で木片を平たく削った板のことではないかと踏んだ。そこから「セプトル」の発音に似たものとして、私は「scepter」(セプター)、所謂、汎世界的に、王権の表象として王が持つ「笏(しゃく)」とか何かを指したり、探ったり、こじとったりする「箆(へら)」のような実用を兼ねたアクセサリーのようなものを言っているのではないかと推理した。

『ラッツェル「人類史(ヒストリー・オヴ・マンカインド)」』一八九六年板、卷一、頁一九八、羽製の諸品は、一五五頁に對せる圖版に載す」ドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本‘History of Mankind’ trans. Butler)。「Internet archive」の英訳原本のこちらの左ページが当該部。残念ながら、リンク先のそれは、画像の殆んどがカットされているが、思うに、熊楠の指示するのは、辛うじて見られるこれようにも思われる。また、以下で同書第二巻を探していたら、同じ絵と、美麗なカラー図版(左ページ)を見出せたので、こちらを是非、見られたい。

『フロベニウス「人類の幼稚期(ゼ・チヤイルドフツド・オヴ・マン)」』一九〇九年板、六二頁』「Frobenius, ‘The Childhood of Man’, London. 1909, p. 242」ドイツの在野の民族学者・考古学者で、ドイツ民族学の要人であったレオ・ヴィクトル・フロベニウス(Leo Viktor Frobenius 一八七三年~一九三八年)の英訳本「人類の幼年期」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られる。

「ムンヅルク人」“Mundurucú”。ムンドゥルク族。アマゾン川南部に住むラテン・アメリカ・インディアンの一民族。言語はトゥピ諸語に属する。嘗つては首狩りを行う民族として知られていた。マニオク(キャッサバ)栽培と採集漁労を営む。 三十家族ほどで集落を形成。男子結社があり、成人男子は家族の家には住まず、男性の家に住む。儀礼も女性・子供の参加を禁じている。一方、家屋は母系で継承されるという、男性と女性の対立原理の明確な社会である。現在では野生ゴムの樹液を日用品と交換しており,宗教的にはキリスト教化している(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『ベイツ「亞馬孫河畔之博物學者(ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス)」一八六三年板、第九章)』イギリスの博物学者・昆虫学者・探検家ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)は、「ウォレス線」で知られる博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)とともに、アマゾンで多様な動植物を収集し、進化論の発展に寄与した人物で、「ベイツ型擬態」(本来、無害な種が、捕食者による攻撃から免れるため、有害な種に自らを似せる生物擬態)に名を残している。原著書名はThe Naturalist on the River Amazons(「アマゾン川の博物学者」)。一九四三年版であるが、「Internet archive」の同書の当該章はここからだが、調べたところ、南方熊楠が紹介している部分は「245」ページが当該引用と推定されることが判った。

「トラスカラン族」 “Tlaxcala”で「トラスカラ」が正しい。「トランカラ族の」の意の“Tezcucan”(次注の原文を参照されたい)を熊楠が補正して意訳したものと思われる。現在のメキシコ中部のトラスカラ州の州都トランスカラ(正式名称はトラスカラデシコテンカトル Tlaxcala de Xicohténcatl)はメキシコ市の東約百キロメートルの、ラマリンチェ火山北西麓の標高約 二千二百五十メートルの高高度の地にあり、サワパン川に臨む。周辺の農業地帯の中心地で、トウモロコシ・豆類・家畜などを集散するほか,繊維工業が発達し、綿織物毛織物・合成繊維などが生産される。スペインによる征服前からインディオのトラスカラ族が住んでいた地域で、正式名称の「シコテンカトル」は、トラスカラ族がメキシコ征服者エルナン・.コルテス(Hernán Cortés 一四八五年~一五四七年)に協力することに、強く反対した首長の名を記念したものである。コルテスは 一五一九年に市を制圧し、二年後にアメリカ大陸最初のキリスト教の聖堂「聖フランシスコ聖堂)」を建設した。近くにオコトラン神殿やティサトラン遺跡などがある、と「ブリタニカ国際大百科事典」にあった。

『プレスコット「墨西哥征伐史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》」ボーン文庫本、一九〇一年板、卷一、頁四七及び四三二頁)』アメリカの歴史家で、特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が一八四三年刊行したもの(The History of the Conquest of Mexico:「メキシコの征服の歴史」)。一八四八年版だが、「Internet archive」のこちらの47ではなく、その前の46ページにそれらしい記載はあった。432ページは?。

「サーコート」Surcoatウィキの「シュールコー」(フランス語:surcotte:「コット」(オーバーオール。昔の上着)の上に重ねるもの」の意)によれば、『男性は』十二『世紀の末(女性は』十三『世紀に入ってから)』十四『世紀半ばまで、西欧の男女に着られた丈長の上着のこと。シクラス、サーコート』『とも』呼んだ、『コットという丈の長いチュニックの上に重ねて着る緩やかな外出用の上着で、男性は長くても踝丈』(くるぶしだけ)まで、『女性は床に引きずる程度の長さであった。長袖のものは』、『やや珍しく、大半が袖無しもしくは半袖程度の短い袖』であった。十四『世紀に入って、タイトなコットが流行すると』、『シュールコートゥベールという脇を大きく刳ったタイプが大流行する』。元来は『シクラスという十字軍兵士が鎧の上から羽織る白麻の上着であった』(☜・☞)。『金属でできた鎧が光を反射するのを抑えるためと、雨による錆を抑えるために着るようになったものだが、戦場で乱戦となった時に』(☜・☞)『他の騎士と見分けがつきやすいように盾に付けていた自分の紋章などを大きく飾る場合もあった。イングランド王ヘンリー』Ⅲ『世は、最上の赤地の金襴で仕立てられ』、『前後に三匹の獅子を刺繍したシクラスを身に着けていた』。十二『世紀末に、十字軍からの帰還兵士を中心に日常着となる。初めは白麻などで作った白無地のものが多かったが、コットと同じようなウールの色物が一般的になっていった。フランス王室の』一三五二『年の会計録には、シャルル王太子(後のシャルル』Ⅴ『世)の着る袖付きシュールコーの表地のために赤色と藍色のビロードと金襴、裏地のためにヴェール(リスの毛皮)を購入した旨が記載されている』とあった。

「ウェブの著(上に引た)八四、八五、八八の諸圖」「Internet archive」のこちらで原本が視認でき、当該部は図「八四」(84)がここ、図「八五」(85)がここ、図「八八」(88)がここである。

「提燈保呂は、矢のみか、一寸した鐵砲をも防ぐと聞たが、實際を見ぬ故、果して然りやを、予は知らぬ」ネットで調べたが、判らぬ。画像検索で提灯のように上下が絞られた、それらしいものを一つ見つけたが、ウィルス・ソフトが「不審」とするサイトであったので、見るのはやめた。]

 扨、一九〇八年、ラスムッセンの「北氷洋之民(ゼ・ピープル・オブ・ゼ・ポラール・ノールス)」英譯一八〇頁に、「或村でエスキモ人が殺されて、少時《しばらく》有《あつ》て、村民、皆な、狩りに出立《いでたつ》つ。村に留《とどま》るは、殺された人の妻と牝犬一疋だつたが、兩《ふた》つながら、姙娠中だつた。頓《やが》て其女、男兒を產み、自分と兒の食物を求めに出で、蹄《わな》で鴉を多く捉へ、翅を捨て、其羽で、自身と兒の衣類を拵えた[やぶちゃん注:ママ。]。所ろで、牝犬、亦、一子を生んだので、彼女、其子と狗兒とを咒《まじなひ》し、一年の間に、全く成長させ、長途を旅して、見も知らぬ人民の所に往《いつ》た。其處で、聊かの事から、母が彼《かの》人民と口論を始めると、其兒が彼等に向ひ、「彼是云ふより、我等を射《い》て見よ。」と云ふ。彼輩、弓矢を執つて母共に射掛ける。母、兒の前に立塞がり、兒が嬰兒だつた時、背に負ふに用ひた囊《ふくろ》の皮紐を振つて矢を打落すと、悉く外れて、一つも中《あた》らぬ。其後《そのご》、[やぶちゃん注:「其の後、」は「選集:」で補った。]其兒が、弓を執つて、敵衆を射盡《いつく》し、又、進んで他の新しい國に往《いつ》た。」と有て、此譚を著者に語つた者、吾、此譚を大海の他の側から來た人に聞《きい》たと言ふた、と附記し居る。吾國にも羽で衣を作つた事、「日本紀」一に、少彥名命《すくなびこな》、白蘞皮(かゞみのかは)を舟とし、鷦鷯羽(さざきのはね)を衣として海に浮《うか》み、出雲の小汀《おはま》に到る。是は、其頃、樹皮もて、舟を作り、諸鳥の羽を衣と作る事、行はれたので、此神、特に、身、小さい故、斯《かか》る小舟に乘り、斯る最小鳥の羽を衣としたと謂《いつ》たんだろ。

[やぶちゃん注:『一九〇八年、ラスムッセンの「北氷洋之民(ゼ・ピープル・オブ・ゼ・ポラール・ノールス)」英譯一八〇頁』グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年:デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である)の英訳本The People of the Polar North(「極北の人々」)はイヌイットの風俗を纏めた旅行記。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ

『「日本紀」一に、少彥名命、白蘞皮(かゞみのかは)を舟とし、鷦鷯羽(さざきのはね)を衣として海に浮み、出雲の小汀に到る』国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓讀 上卷」(昭和八(一九三三)年岩波文庫刊)の当該部をリンクさせておく。大己貴命(おおなむち:大国主神)と彼が初めて出逢うシーンの直前である。「白蘞皮(かゞみのかは)」は種同定されていないが、蔓性植物で、巻ひげを持つもとされる。但し、少彥名命は体が極度に小さいので、中・大型の蔓性類は外せる。小型の蔓草でよいのである。「鷦鷯羽(さざきのはね)」(私は上代の文学は清音傾向主義で「そささき」と読みたい)は現在の「みそさざい」(鷦鷯)の古名。スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytesは本邦産の鳥類の中でも最小種の一つで、全長約十一センチメートル、翼開長でも約十六センチメートルで、体重も七~十三グラムしかない。囀りともに私の好きな鳥である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい。]

 一體エスキモ人は綠州《グリーンランド》より亞細亞の最東瑞の地、北亞細亞や北歐州で誰も棲得《すみえ》ぬ程の沍寒貧澁《ごかんひんじふ》の地に棲む民で、生態萬端、餘程、諸他の民族と異り居る。因て、其根源に就ても、學說、區々たり。だが、予が僻地に在乍ら、知り得た最近の報告に據ると、エスキモ人は、體質、全く、蒙古種《モンゴリアン》の者との事だ(チスホルム輯「ゼ・ブリタニカ・イヤーブック」、一九一三年板、一五四頁)。ラスムッセンに上述の話をしたエスキモが、大海の他の側から來た人に聞たは、漠として何の事か知れがたいが、先《まづ》は、當人が住む綠州から、餘程、北氷洋に沿つて隔つた地、乃《すなは》ち亞細亞の東端に近い地から來たエスキモ人に聞たと云ふ事だらう。ボアス博士が、一九〇二年出した、北太平洋遠征の調査書に據《よれ》ば、東北亞細亞の端に住む、チュクチ、コリヤク、カムチャダル、ユカギル等は、亞細亞民と云ふよりは亜米利加民と云ふべき程、人文の性質が亜米利加土人に似て居ると云ふから、無論、古くよりエスキモと交際しただろう。然《しか》る上は、日本人の祖先及び其近處《きんじよ》の古民族中に、曾て、羽を衣としたり、又、白石が推論した通り、比禮、即ち、原始態の母衣を掛て、兵箭《へいせん》を防ぐ風《ふう》が有たのを、東北亞細亞の諸族から聞傳えて、ラスムッセンが聞た樣な漠然たる譚がエスキモ人の中に殘つたので無《なか》ろうか。本邦で、樊噲や王陵の母が、子に與へた衣が、母衣の始めと云ひ、エスキモ譚に、母が、曾て、其子が幼なかつた時に、包んだ嚢の紐で、子の爲に、矢を防いだと言うが、酷《よく》似て居る。但し、サンタ・カタリナの墓窟から、エスキモの遺物を掘出した中に、馴鹿《となかい》の毛と、鳥の羽で織つた蓆《むしろ》が有つた(ラッツェル「人類史」、二卷、頁一二一)と云ふから、エスキモ人も、古くは、羽で衣を作る事を知て居《をつ》たかも知れぬ。從つて、鳥の羽で衣を作り、子を包む嚢の紐で矢を禦いだのが、史實かも知れぬ。然るときは、羽を衣としたり、嚢樣の物で、矢を防ぐ風が、日本から東北亞細亞を通じて、北米の北端に住むエスキモ人迄の間に廣く古く行はれ居た譯となる。序に云ふ。十七年斗り前、大英博物館東洋圖書部長ダグラス男の官房へ、予、每度出入《でいり》した時、老婦人、各を忘れたが、屢ば、來り、曾て、宣敎に往《いつ》た序に、エスキモと、支那人の兒が產まれた時、必ず、臀に異樣の痣《あざ》有るに氣付き、精査すると、區別出來ぬ程、能《よく》似て居つたが、日本の赤子の痣は何樣《どん》な形かと、每度、問ふを、予、極《きはめ》て五月蠅く思ひ、其老婦の顏見ると、事に托して迯《にげ》て來たが、其後、又、雜誌に投書して、此事を質問し居た。予、一向知ぬ事乍ら、何かの參考にでも成る事かと、焉《ここ》に記付《しるしつ》く。

[やぶちゃん注:「沍寒貧澁」「冱寒」は「一面に凍り塞がって、寒気の激しいこと」で「極寒」に同じ。「貧澁」は見慣れない熟語だが、「自然と生活の全般が、極めて乏しく貧困な様態にあって、ずっとその状態が滞って続いている厳しい環境であること」を指してはいよう。

『チスホルム輯「ゼ・ブリタニカ・イヤーブック」、一九一三年板、一五四頁)』かのEncyclopædia Britannicaに盛り込まれた情報や、統計数値を、常に最新に保つため収集された資料に基づき、毎年刊行されている百科年鑑。「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る(編者にはHUGH CHISHOLMM.A., OXON の名が載る)。ページの頭にすぐ出て来る。

「ボアス博士が、一九〇二年出した、北太平洋遠征の調査書」恐らくは、ドイツ生まれのアメリカの人類学者フランツ・ボアズ博士(Franz Boas 一八五八年~一九四二年)のそれと思われる。

「チュクチ」主にロシアのシベリア北東端のチュクチ半島(チュコト半島)(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)に住んでいる民族。その居住域は、ほぼツンドラ気候に属する。かつてオホーツク海沿岸に住んでいた人々が起源と考えられている。現在の総人口は凡そ一万六千人(当該ウィキに拠った)。

「コリヤク」コリャーク人。ロシア連邦極東のカムチャツカ地方の先住民族で、ベーリング海沿岸地帯からアナディリ川流域南部及びチギリ村を南限とするカムチャツカ半島極北部にかけて居住している。体つきや生活習慣などが極めて似ているチュクチ人と同系である。現在の総人口は八千七百四十三人(当該ウィキに拠った)。

「カムチャダル」この名称は二十世紀に入る頃に当地に居住していた先住民、或いは、先住民と混血したロシア人を指した呼称で、「イテリメン」が自称。ロシア・カムチャツカ半島に居住する同地の先住民族。現在の総人口は三千二百十一人(当該ウィキに拠った。居住地域は同ウィキの地図を参照)。

「ユカギル」ユカギール人はシベリア東部に住む先住民族で北東アジアで最も古い民族の一つと考えられ、古くはバイカル湖から北極海まで住んでいたとされる。現在の総人口は千六百三人(当該ウィキに拠った。居住地域は同ウィキの地図を参照)。

「サンタ・カタリナの墓窟」次注リンク先で綴りは“Santa  Catarina”であることは判ったが、北米の北西部とあるが、位置不詳。

「馴鹿」哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus 。和名トナカイはアイヌ語での同種への呼称である「トゥナカイ」又は「トゥナッカイ」に由来する。トナカイは樺太の北部域に棲息(現在)しているものの、アイヌの民が本種を見知ることは少なかったかと思われ、このアイヌ語も、より北方の極東民族の言語からの外来語と考えられてはいる。

『ラッツェル「人類史」、二卷、頁一二一』「Internet archive」の英訳原本のこちらの右ページの下から二段落目が当該部。

「大英博物館東洋圖書部長ダグラス男」複数回既出既注。こちらを参照されたい。

「臀に異樣の痣有る」蒙古斑。

「日本の赤子の痣は何樣な形かと、每度、問ふを、予、極て五月蠅く思ひ、其老婦の顏見ると、事に托して迯て來た」熊先生、「マダムは私のケツでも見とう御座いますか?」といって、尻をベロっと出してやれば、よかったッスよ。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 十番 盡きぬ錢緡

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。

 なお、標題の「錢緡」は「ぜにさし」(「錢差」)と読み(「ぜんびん」の読みもあるが、読みの用例は圧倒的に前者)円形方孔の穴開き銭の穴に通して銭を束ねるのに用いる細い紐を指し、藁、又は、麻で作られた保管又は運搬用の銭の束の組みを指す。「錢繩(ぜになは)」「錢貫(ぜにつら)」とも言い、「ぜにざし」とも読み、頭を略して二字で単に「さし」とも呼称した。束には「百文差(ざ)し」・「三百文差し」「一貫文(=千文)差し」等がある。グーグル画像検索「銭緡」をリンクさせておく。]

 

    十番 盡きぬ錢緡

 

 昔、大槌(オホツチ)濱(今の上閉伊郡)の吉里(キリ)々々の里に善平と云ふ者があつた。家がごく貧乏でつまらない生活(クラシ)をして居たけれども、大層正直者で世間からも褒められ者で通つて居た。或年村の人達が揃つて伊勢參宮に立つと云ふので、善平も村の義理で誘はれたが、いくら行きたいと思つても路銀がないので其の事ばかりはと思ひ煩つて居た。そのうちに村の人達は旅立ちしてしまつた。

[やぶちゃん注:「大槌(オホツチ)濱(今の上閉伊郡)の吉里(キリ)々々」現在の岩手県上閉伊郡大槌町(おおつちちょう)吉里々々(きりきり:グーグル・マップ・データ。以上の地図の現地名では「々々」を用いているが(郵政上の地名表記それも「々」)、国土地理院図では「吉里吉里」であり、「ひなたGPS」の戦前の地図でも「々」は使用されていない。「々」は本邦で作られた独自の記号(漢字ではない)であるから(最近は中国でも逆輸入されて用いることがあるらしい)、私はあくまで「吉里吉里」とすべきであると考えている。なお、この地名は、井上ひさしの小説「吉里吉里人」で全国的に知られるに至ったが、同小說の「吉里吉里」は東北本線沿いの宮城県・岩手県県境付近に設定されており、実際の吉里吉里とは別の場所であって、架空地名である。江戸時代は遠野と同じ盛岡(南部)藩内である。]

 さうなると善平も參宮がしたくて、矢も盾も堪らず、かねて蓄へて置いた百文錢を持つて、村の人達の後を追つてとにかく旅へ出た。そして少しも早く仙臺領へ出て、村の人達に追(カ)ツつくべと、急いで行くと、方角を間違へて、飛んでもない秋田樣の領分の方へ山越えして行つてしまつた。峠の上から眺めると、遙か向ふの方に大きな沼の水が光つて見えるから、あれは音に聞く仙臺の姉沼と云ふ沼であンベと思つて行くと、さうではなくて其れは秋田ノ國の黑沼と云ふ大きな沼であつた。

[やぶちゃん注:「仙臺の姉沼」仙台(伊達)藩の「姉沼」は不詳。東北の「姉沼」と言えば、青森の「姉沼」(グーグル・マップ・データ)であるが、ここは広域の旧盛岡藩である。

「秋田ノ國の黑沼」秋田県横手市山内大松川に現存する黒沼(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「神が宿るところ」のこちらがよい(写真有り)。『「黒沼」は』、天長四(八二七)年の『大地震により出現したと伝えられる陥没湖で、水深は』十二メートル『あるいは』十七メートル『という。旱魃のときも水位が下がらないとされ、傍らの「黒沼神社」は別名「蛇王神社」といって、古来から竜神信仰による雨乞いの神として平鹿・仙北地方の農家の信仰を集めたという。また、この「黒沼」と、南西約』五キロメートル『にある「鶴ヶ池」(横手市山内土渕字鶴ヶ池。「塩湯彦神社 鶴ヶ池里宮」』『)とは水底で繋がっているというトンデモな伝説もある』。『「黒沼」に関する伝説は他にもある(というか、こちらが本筋。)。伝説であるから、いろいろなヴァリエイションがあるが、最も簡単なものは「貧しい旅人が南部(旧・南部藩領?)で若い女から黒沼に住む妹に手紙を渡すように頼まれ、手紙を届けたお礼に三角形の重たいものをもらった。それは黄金の塊で、旅人は忽ち大金持ちになった。」というものである。ここで示唆されるのは、当地に金の鉱山があったことと、その富に由来する長者が居たということだろう。注目されるのは、この長者の名が「地福長者」というところである。かつて、「黒沼」の更に奥に、「大松川ダム」建設によって集団移転した「福万」という、めでたい地名の集落があった。江戸時代の紀行家・菅江真澄は、「地福長者」の福と、「満徳長者」の満(万)を合わせた地名ではないかとしている。「満徳長者」は、出家して保昌坊と名乗り、「湯ノ峰白滝観音」』『の施主になったと伝えられている』とあった。この「福万」、「ひなたGPS」で現在の「大松川ダム」の「みたけ湖」の最奥の箇所の北の谷相当地区に、戦前の地図で「福萬」を見出せた。但し、最後に佐々木の不審な附記がある。]

 その沼の少し手前へ差しかゝると、それこそ俄に黑雲の大嵐が起つて、一寸先へも進まれない程であつたが何とかして少しでも早く村の人達に追(カ)ツつきたいものだと思つて、大風雨の中を押切つて、脇見もせずに沼のほとりを大急ぎで行くと、不意に後(ウシロ)から、善平どの、善平どの、ちよつと待つておくれあンセと云ふ聲がした。善平が振返つて見ると、十七、八ぐらゐの美しい娘が子どもを抱いた姿で、沼の中から出て來た。

 善平が不思議に思つて小立ちをして居ると、その女は善平に近寄つて來て、お前を呼びとめたのは外でも無いが、妾はこの沼の主である。お前を故鄕(フルサト)の吉里々々から此處まで呼び寄せたのも實はこの妾である。妾はわざとお前に同行の人達とは違った道をとらせて、この沼のほとりへ來て貰つたのである、妾はこの沼へ嫁に來てから三年にもなるけれども、まだ一度も故鄕の父母のもとへ歸ったことがない、それでその父母が戀(コヨ)しくてならぬ。それでお前を見込んでの賴みである。この手紙を私の故鄕の父母の許へ屆けてもらいひたい。私の故鄕と云ふのは大阪の西の赤沼と云ふ沼である。どうかお賴み申します。それからこの手紙を持つて行つたら、私の父母はきつとお前に何かお禮をすることであらうから受けてクナさい。そしてこれはほんの僅かの錢ではあるけれども、私の心差しだから、旅の費用として使つてクナさい。ただこの錢は緡(サシ)から、みんな取らずに一文でも五文でも殘して置くと翌朝になれば復《また》、元の通りになつて居ります。必ず妾の言葉を疑つてはなりませんと言つて、一貫緡(サシ)の錢と、一封の手紙を善平に手渡した。

[やぶちゃん注:「小立ち」ちょっと立ち止まっていることか。

「大阪の西の赤沼と云ふ沼」不詳。]

 善平は沼の主から一封の手紙と錢緡(サシ)とを受取つて、それから大阪表へ行つた。人傳《ひとづて》に聞くと、赤沼といふ所は、何處かにあるにはあるが、其所へ行つた者に二度と歸つて來た者がない。それは大變な魔所であるから、そんな所へはお前も行かぬ方がよいと、聞く人每に言ふのであつた。さうは言はれても善平はあれ程までに堅く賴まれたものだからと思つて、思ひきつてその赤沼の方へ行つた。向うの方に大きな沼が見え出した。善平が沼の邊まで行くと、その少し手前から俄に黑雲が起り大嵐になつて一寸先きも見えなくなつた。それでも怖れないで沼の岸へ行つて、トントンと手を打つと、沼の逆卷く浪の眞中から一つの小船が現はれた。その船の中には一人の爺樣が居て舟を岸邊に着けた。そしてこれはこれは南部の善平どのであつたか、よくこそ娘の手紙を持つて來てクナされた。まづまづこの船に乘つて私の家にアエデ[やぶちゃん注:東北方言の「行つて」であろう。]おくれエあれと言つた。善平は何も惡いことをした覺えもなし、別に怖れることもないから、言はれるまゝに爺樣と一緖に船サ乘つて沼の眞中へ行くと、舟はズブンと沈んでしまつた。あツと思ふ拍子に善平は實に立派な座敷の中に坐つて居た。其所へ一人の品のよい婆樣が出て來て、善平が出した手紙を見たり、なほ善平から秋田の黑沼の娘が孫までも抱いて居たツけと謂ふ話などを聽いたりして、お前の話を聽いて娘に逢つたと二つない[やぶちゃん注:「全く同じくした」の意であろう。]喜びだと言つてひどく喜んだ。そして色々と善平をもてなした。善平はすゝめられるまゝに其の夜は沼の底の館に泊まつた。翌朝起きると、直ぐに見たこともない多くの御馳走が出た。そして朱塗りの盆に山ほどの黃金を盛つてくれた。それからまた舟で沼の岸邊まで送り屆けて貰つて、無事に陸へ上つた。

 善平はそれから大阪表へ引返すと、街中で故鄕の參宮の人達と出會つた。あれア村の善平ではないか。お前ナンして來てヤと、皆が驚いて言つた。善平は俺はお前達の後(アト)を追うて此所まで來たが、お前たちは四國へ渡つたかと訊くと、アア其所からの歸りだと言ふので、それでは俺もこれから四國へ渡ると言つて、故鄕の人達と別れて四國へ渡り金比羅詣りも無事に濟まし、西國巡りも札場々々を變りなく踏んで(打つて)首尾能く奧州に歸つて來た。そしてその黃金や盡きぬ錢緡などで、忽ち長者となり、奧州東濱では一とあつて二とはないと言はれるほどの並ぶ者ない、吉里々々の善平長者と呼ばはれる身分身上とはなつた。

 この善平長者は、每年秋田の黑沼へお禮參りに行くのが慣例であつた。その時には餅米一斗を餅に搗いて、戶板に乘せて沼の上に浮べると、それがひとりでに、しらしらと水の上を走つて沼の眞中へ行つて、餅は沈んで、戶板ばかりがもとの岸邊に戾つて來るのであつた。これは善平長者代々の吉例であつた。ところが近代の主人が、それを否消(ヒゲ)して、その行事を怠つたために忽ちに貧乏になつた。今では後世(アトセ)も無くなつて、その邸跡には大きな礎石ばかりが殘つて居る。

  (黑沼と云ふ沼は、話者は秋田の國と話した。私の想像では田澤湖ではないかと思つたりした。外に斯樣《かやう》な沼のあると云ふことを此國では聞かぬからである。)

[やぶちゃん注:最後の附記は底本では全体が二字下げポイント落ち。

「田澤湖」ここ。しかし、ここでは吉里吉里から北西に当たり、西に向かう善平がそこまで方向違いに間違えるのは、ルングワンダリングとしても方向が明後日過ぎて、認め難い。「黒沼」は吉里吉里から真西であり、北上で南下しなかったのは不審であるが、何らかの神秘的な誘いによって、どんどん西へ向かって山中に入ったとすれば、田沢湖よりは無理がない。単に佐々木は中古以来ある黒沼の実在を知らなかったのであろう。]

2023/03/21

和漢三才圖會 卷第二十 母衣

 

[やぶちゃん注:〔 〕は私の補塡。矢印は私の補正。【 】は二行割注。画像は「東洋文庫」(島田勇雄他訳注・第四巻・一九九六年刊)のものをトリミング補正した。]

 

Horo

 

ほろ   母羅 縨【俗字】

母衣   【保呂】

 

母衣五幅五尺【七幅七尺八幅八尺】近代六幅七尺

中錄緒 一尺二寸【或二尺八寸】幅六分自上三尺下附之

波不立緒 長九尺、周六分組絲也

𧚥【比太】 如六幅の母衣除兩端二幅以中四幅寄八𧚥

籠【加古】 竹骨三十二本或三十或十二本

 如以母衣飾之臺槃髙一尺九寸方八寸【下闊方二尺五寸】

 串波不立緒與串結置之

 母衣始于漢樊噲出陣時母脫衣爲餞別噲毎戰被衣

 於鎧奮勇殊拔群【一說非樊噲爲後漢王陵故事】其後馳驅武者用之

   *

ほろ   母羅〔(ほろ)〕 縨〔(ほろ)〕【俗字。】

母衣   【保呂】

 

母衣、五幅〔(いつの)〕五尺【七幅七尺、八幅八尺。】、近代、六幅七尺。

中錄〔(ちゆうろく)〕の緒〔(を)〕は、一尺二寸【或〔いは〕、二尺八寸。】、幅〔(の)〕六分、上より三尺下に、之〔れを〕附く。

波立〔(なみたた)〕ずの緒は、長〔(たけ)〕九尺、周〔(めぐり)〕六分の組絲〔(くみいと)〕なり。

𧚥(ひた〔→ひだ〕)【比太。】 六幅〔(むつの)〕の母衣の如きは、兩端二幅〔(ふたの)〕を除き、以中〔(なかの)〕四幅〔(よの)〕に八𧚥を寄〔(よそ)〕ふ。

籠(かこ〔→かご〕)【加古。】 竹の骨、三十二本、或〔いは〕、三十、或、十二本。

 如〔(も)〕し、母衣を以〔て〕、之〔を〕飾るには、臺槃〔(だいばん)〕髙さ一尺九寸、方八寸【下の闊〔(ひろさ)〕、方二尺五寸。】、二〔→(ここに)〕、串を立〔て〕、「波立ずの緒」を、串〔と〕與(〔と〕)もに、結〔びて〕、之を置〔く〕。

母衣は、漢の樊噲〔(はんくわい)〕に始〔(はじま)〕る。出陣の時、母、衣を脫〔(ぬぎ)〕て、餞別(はなむけ)と爲〔(な)〕す。噲、戰〔(いくさ)の〕毎〔(たび)〕に、衣を鎧に被(かつ)け、勇を奮つて、殊に拔群なり【一說に樊噲〔に〕非〔ず〕、後漢の王陵か〔→が〕故事と爲〔す〕。】。其れより後、馳驅〔(ちく)〕の武者(むしや)、之〔を〕用〔ふ〕。

[やぶちゃん注:図のキャプション(部位名その他)は、右下方に「並不立緖」、中央上に「日之緖」、中央(左方向に指示線有り)に「四天ノ緖」、そのやや左上に「姓氏字」(「字」は「あざな」)、左上から「大奮威緖」(だいふんいのを)、「中録緖」とある。

「母衣」小学館「日本大百科全書」によれば、『甲冑の背につけた幅の広い布で、風にはためかせたり、風をはらませるようにして、矢などを防ぐ具とした。五幅(いつの)』(約一・五メートル:「幅(の)」は布帛類の幅(はば)を表わす単位。現在では通常は鯨尺八寸(約三十センチメートル)或いは一尺(約三十八センチメートル)の幅を指す)、乃至、三幅(みの)(約九十センチメートル)『程度の細長い布である。中世以降、色を染めたり、紋章をつけて旗幟(きし)のかわりともした』。「三代実録」の貞観一二(八七〇)年の条に、『その名称があって甲冑の補助とするとあり』、「本朝世紀」の久安三(一一四七)年の『条に、幅広い布を鎧武者(よろいむしゃ)がまとい、これを世人が「保侶(ほろ)」とよんだとし、また中世』、「吾妻鏡」の建仁三(一二〇三)年の『条に母衣の故実』『の記事がみえる。絵画としては』、「平治物語絵巻」(六波羅合戦)や、『法隆寺の絵殿の太子絵伝に母衣着用の騎馬の甲冑姿がある』。「保元物語」「平家物語」「太平記」などに『登場する華麗な戦衣でもある。近世に至って、神秘的な付会もされ、種々な故実も生じた。古くは十幅』(約三メートル)で、一丈(約三メートル)『などという大きなものがあったが、ほぼ』一・五『メートル四方程度となった。しかしとくに一定した寸法の定めはない。上辺と下辺に紐』『をつけて背に結び、あるいは、竹籠』『を母衣串(ほろぐし)につけてこれを包み、背後の受け筒に挿したりして、一種の旗指物(はたさしもの)ともなった。別に背に負うた矢を包む母衣状の矢母衣(やぼろ)もある』とある。

「𧚥」「籠」母衣の各種の部分名のようである。

「臺槃」図の下方にあるように、母衣を安置する支えの台のようである。但し、「槃」の字自体は「平たい鉢・盥」をいう漢語である。

「樊噲」漢文の教科書で必ずやる「鴻門之会」でお馴染みの、前漢の高祖劉邦の功臣。劉邦と同郷で沛(はい)の人。紀元前二〇六年、楚王項羽と劉邦とが鴻門に会した際、謀殺されそうになった劉邦を機転を以って脱出させた。のち、劉邦が漢王になると、将軍に任ぜられ、功を成した。紀元前前一八九年没。

「王陵」前漢の宰相で、同じく沛の人。項羽との戦いで、劉邦に味方した。東洋文庫の注によれば、『項羽は陵の母を捕え、陵を自陣につけようとしたが、母は自殺して陵をはげましたという』とある。安国侯に封ぜられ、後、恵帝の右丞相となった。紀元前一七七年没。]

早川孝太郞「三州橫山話」 鳥の話 「ニホヒ鳥」・「ウイ鳥」・「佛法僧の鳴き聲」・「雨を降らせる水戀鳥」・「シヨウビン(翡翠)の巢」・「弟を疑つた杜鵑」・「鶺鴒のこと」・「種々な鳥の鳴聲」 / 鳥の話~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○ニホヒ鳥  ニホヒ鳥が病人のある家を中にはさんで鳴き交はすと、其病人は助からぬと謂ひます。鳴く聲がちようど[やぶちゃん注:ママ。]病人の呻吟するやうに聞えるのでつけた名と謂ひますが呻吟することを、ニホフと謂ひます。

 日の暮れ方か明け方日の出前に、谷間の木立や、山の窪のやうな所で鳴きましたが、眼の前に瀕死の病人が呻《うめ》いてゐるかと思ふ程で、淋しいものでした。姿を見た者はないと謂ひます。

[やぶちゃん注:「ニホヒ鳥」「匂ひ鳥」と漢字を当てる。スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone の別名。本邦に棲息する種及び博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす) (ウグイス)」を参照されたいが、私はホトトギスの鳴き声(ね)を不吉とする伝承はよく見かけるが、ウグイスは、まず、聞かないので、ちょっと意外であった。ウグイスの「チャッチャッ」という地鳴きを指すか。

「呻吟することを、ニホフと謂ひます」当地の方言のようである。]

 

 ○ウイ鳥  これも夏の明け方に、ニオヒ鳥と同じやうな場所で鳴く鳥で、スーツ、スーツと云ふやうな聲で鳴きました。川を隔てた遠くの山などで鳴くのが、朝の靜かな中で淋しく響きました。この鳥とニオヒ鳥が鳴き交《かは》すと、矢張人が死ぬと謂ひました。

[やぶちゃん注:「ウイ鳥」ツバメを「烏衣鳥」(ういどり)と別称するが、どうも違う。思うに、これは季節かみて、「チョットコイ」で知られるキジ目キジ科コジュケイ属コジュケイ(小綬鶏)Bambusicola thoracicus thoracicusの地鳴きを指しているように思われる。YouTubeの川上悠介氏の「コジュケイ 地鳴き」を聴かれたい。]

 

 ○佛法僧の鳴き聲  佛法僧は、鳳來寺山にも棲むと云ひますが、雄はブツポウと鳴き、雌は、ソウと鳴くと謂ひます。私が聞いた聲は、單にホウホウと謂ふやうに聞へました。其後北山御料林で、夜鳴いてゐた鳥が、同じ鳴音《なきね》と思つたので、居合せた瀧川村の山田廣造と云ふ人に訊きますと、鳩程の大きさの鳥で、目の圍《まは》りに黃色い羽毛のある鳥だと謂ひました。

[やぶちゃん注:「佛法僧」先行する「水神樣」の「鳳來寺」の私の注を参照されたいが、「私が聞いた聲は、單にホウホウと謂ふやうに聞へました」というのは、頗る正しい感想で、これが「声の仏法僧」=フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus sunia であり(姿は学名のグーグル画像検索を見られたい)、「鳩程の大きさの鳥で、目の圍《まは》りに黃色い羽毛のある鳥」(これは嘴の色の誤認。学名のグーグル画像検索を見られたい)というのが、「姿の仏法僧」と呼ばれる、日本には夏鳥として飛来するブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis である。この誤認が正されたのは、本書刊行から十四年後の昭和一〇(一九三五)年のことで、実に一千年にも及び、鳴き声を勘違いされてきたことで知られる。

 

 ○雨を降らせる水戀鳥  水戀鳥《みづこひどり》が鳴けば雨が降ると謂ひます。夏の初め呼子の笛を吹くような聲で鳴きます。

 水戀鳥は前世は女であつて、家の人達が仕事に出た留守を預かつてゐて、馬に水を與へる事を怠つた爲めに、其罰で鳥に生まれて來たと謂ひます。水を飮まうとして川へ行くと體が紅《あか》い所から、其れが水に映つて、火に見えるので飮む事が出來ないで、空に向つて鳴いて雨を喚ぶと謂ひます。雨が降れば其《その》滴《しづく》で喉を潤してゐるのだと謂ひます。

[やぶちゃん注:「水戀鳥」これは現行では、ブッポウソウ目カワセミ科ショウビン亜科ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromanda の何とも哀しい美しい異名和名である。カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis との類似性が気にはなるが、「體が紅い」というのは、より体全体が赤みを帯びているアカショウビンに相応しいのでそれに比定しておく。]

 

 ○シヨウビン(翡翠)の巢  シヨウビンの巢は川に沿った崖などに橫に穴を造つてあると謂ひますが、巢の繞《まは》りに、ナメクジの這つた跡が幾重にもついてゐると謂ひます。それは蛇を防ぐ爲めだと謂ひますが、どうしてナメクジを連れて來るか、その事は聞きません。

[やぶちゃん注:「シヨウビン(翡翠)」これは先行する「水潜りの名人」から、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis と比定する。ナメクジと関係性は生態学的には私は不詳である。]

 

 ○弟を疑つた杜鵑   杜鵑《ほととぎす》は、カツチヤン、カケタカと云つて鳴くと謂ひますが、また弟戀《おととこひ》しやと鳴くとも言います。それについて、こんな話があります。

 杜鵑は、昔盲目で、弟と二人暮らしであつたさうですが、家が貧しくて、碌に美味いものも喰べられないので、或時、弟が山へ行つて山芋(自然薯)を堀つて[やぶちゃん注:ママ。]來て、自分は皮や固い不味いところばかり喰べて、兄の杜鵑には、柔かで美味いところを選んで喰べさせると、兄の杜鵑は其味のいゝのに驚いて、盲目の兄にくれた所がこんなに美味いのでは、眼の見える弟の喰べたところは、どんなに美味からうと、一人言《ひとりごと》を云つて、目の見えぬ事を嘆いたので、弟が其れを聞いて口惜しく思つて、兄さんは眼が見えないので、特別に美味いところを差上げたけれど、それ程に疑ふのならば、私の食べたのを腹を立割《たちわつ》て見せてあげたいと言ふと、杜鵑は、すぐ弟の腹を斷つて、だんだん腹の中を探つて行くと、眼の見えぬ杜鵑にも判る程、ゴツゴツした味もないやうなところばかり喰べてゐたのに、初めて弟を疑つて殺してしまつたのを後悔して、氣も狂ほしくなって、弟戀しやと叫びながら、家を迷ひ出でゝ鳴くのだと謂ひます。

[やぶちゃん注:「杜鵑」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を参照されたい。そこにもあるが、この悲しい「兄弟殺し」譚のルーツは中国である。]

 

 ○鶺鴒のこと 鶺鴒《せきれい》はゴシンドリと呼んで、庚申のお使鳥《つかひどり》だと謂ひます。それ故この鳥を殺せば神罰があると謂ひます。

[やぶちゃん注:横山の位置から、スズメ目セキレイ科セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ Motacilla alba lugens(北海道及び東日本中心)、或いは、セキレイ属セグロセキレイ Motacilla grandis と比定出来る。博物誌は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 白頭翁(せぐろせきれい) (セキレイ)」を見られたい。

「ゴシンドリ」不詳。「御神鳥」(根っこは伊耶那岐・伊耶那美に「みとのまぐはひ」を教えたことからであろうか)或いは「護身鳥」か?

「庚申のお使鳥」私には初耳である。調べてはみたが、納得出来る記載はちょっと見当たらなかった。]

 

 ○種々な鳥の鳴き聲  頰白は、テントニシユマケタ、シンシロイチヤ二十八日と鳴くと謂ひます。燕は、トキワの國では、芋喰《く》つて豆喰つて、ベーチヤクチヤ、クーチヤクチヤと鳴くと謂ひます。

 梟は、ゴロスケと呼んでゐて、ゴロスケホーコ、去年も奉公、今年も奉公と鳴くなどゝ謂ひます。

 早川種次郞と云ふ男が、子供の頃、首ツチヨと云ふ罠を裏の山へかけた時、それにかゝった鳩の形した鳥は、猫と少しも違はぬ鳴聲を立てゝゐたと謂ひました。

[やぶちゃん注:「頰白」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsis。博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 畫眉鳥(ホウジロ) (ホウジロ・ガビチョウ・ミヤマホオジロ・ホオアカ)」を参照されたい。

「テントニシユマケタ、シンシロイチヤ二十八日」「一筆啓上仕候」「源平つつじ白つつじ」等のそれはあるが、この聴きなしの意味は私には不明。

「トキワの國」「常盤(常磐)の國」。平凡社「世界大百科事典」に、中世の物語草子や説経節などの語り物、或いは、諸国の田植歌などに現われる国の名。戌亥(北西)の方角にある祖霊のいる国とされ、富や豊饒の源泉と考えられ、燕・時鳥・鶯などの、祖霊の使者とか、乗物と考えられている鳥が媒(なかだ)ちをすると考えられた。「常磐」は「常にその性質を変えずに存続する岩」の意であるが、これを「とこよ(常世)」と混同して、ほぼ「常世」と同義に用いられたものらしい、とある。

「首ツチヨ」「首っちょ」で野鳥の小鳥の首を挟み込んで捕獲する発条仕掛けの罠。植田光晴氏のサイトのこちらに詳しい解説がなされてあるので、見られたい。また、NISSIE'S Home Page」内の「首っちょ」に実際の罠の写真と、構造図が示されてあるので、そちらも参照されたい。

「鳩の形した鳥は、猫と少しも違はぬ鳴聲を立てゝゐた」種不詳。]

早川孝太郞「三州橫山話」 鳥の話 「人を化かす山鳥」・「肉の臭い山鳥」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○人を化かす山鳥  山鳥の尾に一三の斑《まだら》のあるものは、人を化かすと謂ひます。又山鳥の、人閒が近づいても逃げないやうな奴は、決して構ふものではないと謂ひます。明治三十年頃、私の家に子守をしてゐた山口末吉と云ふ當時十五六歲の子供が、山鳥に化かされたと云つた事がありましたが、何でも子供を背負つて裏の山へ行くと、眼の前に大きな山鳥がゐたので、其を捕へやうとして、尾を握《つか》むと、スルリと拔けて、鳥は五六尺前へ逃げるので、又後を追って握むと、矢張スルリと拔けてしまつたさうです。斯うして段々山深く、日が暮れるのも忘れて、山へ入つたと謂ひました。

 又、尾に十三段の斑があるものが、夜、山から山へ越す時は、人魂のやうな、長く尾を引いた火に見えると謂ひます。

 山鳥の尾は魔除けになると謂つて、人家の門口にさしてあるのを、よく見かけますが、十三段の斑のあるものは、井戶を掘る時、豫《あらかじ》め掘らうとする場所へ立てゝ置くと、一夜の内に、水のある深さ迄露が昇つてゐると謂ひます。例へば斑の十段目に露があれば、十ひろの深さに水がある兆しだと謂ふのです。

[やぶちゃん注:日本固有種であるヤマドリは、

キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans

ウスアカヤマドリ(薄赤山鳥)Syrmaticus soemmerringii subrufus

シコクヤマドリ(四国山鳥)Syrmaticus soemmerringii intermedius

アカヤマドリ(赤山鳥)Syrmaticus soemmerringii soemmerringii(基亜種)

コシジロヤマドリ(腰白山鳥)Syrmaticus soemmerringii ijimae

の五亜種がいるが、横山周辺で見られるのは、ヤマドリと、ウスアカヤマドリである(リンク先は学名のグーグル画像検索。尾の段々が明瞭に見てとれる)。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を見られたい。

「明治三十年」一八九七年。

「私の家に子守をしてゐた」著者早川孝太郎は明治二二(一八八九)年生まれであるから、満で八つの頃である。

「十ひろ」約十八メートル。]

 

 ○肉の臭い山鳥  山鳥には、非常に肉の臭いものがあつて、折角擊つても喰べる事が出來ないと謂ひます。

 又別の話では、肉が臭いのではなく、擊ち所が惡いと臭いのだとも謂ひます。

[やぶちゃん注:小学館「日本大百科全書」の「ヤマドリ」の「食用」の項には、『肉質、風味ともキジ』(キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor)『肉に似ている。猟鳥なので、山間部や観光地での郷土料理としてすき焼き、炊(た)き込みご飯、つけ焼き、から揚げなどにして食べられている。内臓のにおいが強いため、肉にも』、『いくぶんにおい』(山鳥の糞は臭いことで知られる)『が残るが、みそ、ショウガ、ネギなどを用いるとにおい消しができる』とあった。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 うた(ギユスターブ・カアン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  う た カアン

 

おおはなやかなきれいな四月、

おまへの陽氣な唄のこゑ、

白いリラ、 さんざしの花、 枝をもれくる黃金(こがね)の日ざし、

でもわたしに何であろ、

可愛い女は遠くへはなれ、

北國のさ霧のなかにゐるものを。

 

おおはなやかなきれいな四月、

二度の逢瀨はつれないゆめよ、

おおはなやかなきれいな四月、

かあい女がまたやつてくる。

リラの花、 黃金(きん)の日ざしの花かざり、

もう、 わたしは有頂天、

 

はなやかなきれいな四月。

 

[やぶちゃん注:ギュスターヴ・カーン(Gustave Kahn 一八五九年~一九三六年)はフランスの詩人。サイト「鹿島茂コレクション」の「18,19世紀の古書・版画のストックフォト」のこちらによれば、メッス生まれ。国立古文書学校を卒業後、四年間、アフリカに滞在した。その後、パリで『ヴォーグ』(La Vogue:「流行・人気」の意)、『独立評論』(Revue independante)の『両誌で、編集者としてアルチュール・ランボー、ジュール・ラフォルグらの作品を積極的に紹介し、また、自ら』も、詩人として「自由詩」(Vers libre)を『実践することで当時の文学運動の中心的存在となった。また美術批評も多く残しており、紹介文を書いている』美術評論家『フェリクス・フェネオン Felix Feneon』(一八六一年~一九四四年)『とともに後期印象派の画家たちを擁護した』とある人物である。幾つかのフランス語の単語で検索したが、原詩は遂に見当たらなかった。

「リラ」フランス語「Lilas」。モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ライラック Syringa vulgaris のこと。紫色の花がよく知られるが、白いものもある。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「さんざし」「山査子・山樝子」で落葉低木のバラ目バラ科サンザシ属 Crataegus。タイプ種はサンザシ Crataegus cuneata同前(属名)でリンクを張っておく。]

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 四 足高蜘の變化の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]

 

     足高蜘(あしたかぐも)の變化(へんげ)の事

 

Asidakagumonokai

 

[やぶちゃん注:上では、右上端にあるキャプションが完全に切れて映っていないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで見ると、「ある山里にて大也」(なる)「くもばける所」と読める。]

 

 ある山里に住みける者、いと靜かなる夕月夜に、慰みに出でたるに、大きなる栗の木の叉(また)に、六十許りになる女(をんな)、鐵漿(かね)をつけ、髮のかすかに見えたるを、四方に亂し、彼(か)の男を見て、けしからず、笑ふ。

 男、肝(きも)を消し、家に歸りて後(のち)、少しまどろみけるに、さきに見えける女、現(うつゝ)のやうに遮(さへぎ)りける故、心凄くて、起きもせず、寢もせで、ゐたる所に、月影に、うつろふ者、あり。

 晝、見つる女の姿、髮の亂れたる體(てい)、少しも變はらず、恐ろしさ、比(たぐひ)なくて、刀(かたな)を拔きかけて、

『いかさま、内(うち)に入りなば、斬らんずるものを。』

と、思ひ設(まう)けてゐたる所に、明障子(あかりしやうじ)をあけて、内に入りぬ。

 男、刀を拔き、胴中(どうなか)を、かけて切つて落としたり。

 化け物、斬られて弱るかと見えしが、男も、一刀(かたな)切つて、心を取り失ひける時、

「や。」

といふ聲に驚き、各(おのおの)、出であひ見るに、男、死に入りてぞ、ゐたりける。[やぶちゃん注:気絶・失神したのである。]

 やうやう、氣をつけられ、舊(もと)の如くになりにけり。

 化け物と覺しき物は無かりしが、大(だい)なる蜘蛛の足ぞ、切り散らしてぞ、侍る。

 かかる物も、星霜(せいさう)經(ふ)れば、化け侍るものとぞ。

[やぶちゃん注:「足高蜘」挿絵の右上には巣の網が描かれてあり、変化の原様態の形状を描いたそれを見るに、私は節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Trichonephila clavata をモデルとするものであろうと推理する。なお、現在の本邦には、クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモHeteropoda venatoria がおり、現在の本邦に棲息する徘徊性のクモとしては最大種で、人家に棲息する最大級のクモとしてもよく知られるそれがいる。我が家では昔からの馴染みで、若い頃、深夜、寝ていたところ、顔に掌大の彼が登り、その八つの脚のクッと構えた感じが顔面全体で、ありありと感じられて、眼を覚まし、大乱闘の末、外に逃がしたこともあった。しかし、本篇の蜘蛛は、このアシダカグモでは、ないのである。何故なら、江戸時代にはアシダカグモは本邦いなかったからである。当該ウィキによれば、『原産地はインドと考えられるが、全世界の熱帯・亜熱帯・温帯に広く分布している』。『アシダカグモは外来種で、元来は日本には生息していなかったが』、明治一一(一八七八)年に『長崎県で初めて報告された』。『移入した原因としては、輸入品に紛れ込んでいた可能性が考えられる』とあるのである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 九番 黃金の臼

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   九番 黃金の臼

 

 昔、橫田村(今の遠野町)に孫四郞といふ百姓があつた。或日の朝、草苅りに物見山へ行つて、嶺(ミネ)の沼のほとりで草を苅つて居ると、不意に、孫四郞殿、孫四郞殿と自分の名を呼ぶ者があつた。誰かと思つて四邊を見たが人影もない。これは俺の心の迷ひだべと思つて、なほも草を苅り續けて居るとまた孫四郞殿、孫四郞殿と呼ぶ聲がする。初めて氣がつくと、沼のほとりに美しい女が立つて、こちらを手招ぎをしていた。孫四郞はこれは魔えん魔神(マシン)のものではないかと思つて魂消(タマゲ)て見て居ると、女は笑ひかけて、私は大阪の鴻ノ池《こうのいけ》の娘であるが、先年この沼へ嫁に來てから永い間實家(サト)の方サも便りをしたことがない。お前樣は近い中《うち》に伊勢參宮に上(ノボ)ると謂ふから、その序《ついで》にこの手紙を私の實家(サト)へ屆けてクナさいと言つて、一封の手紙を出した。そして大阪の鴻ノ池に往く路筋(ミチスヂ)や、いろいろな事を斯《か》うしろあゝしろと敎へた。そしてこれは、ほんのシルシばかりだが道中の饌だと言つて錢百文を渡したうへ、この錢は皆んな使はないで一文でも二文でも殘して置くと、翌朝にはまた元の通りに百文になつてゐるから必ず少しは殘して置けと言ひ聞かせた。孫四郞は賴まれるまゝに女から手紙と錢百文を受取つて其の日は家に歸つた。

[やぶちゃん注:「橫田村(今の遠野町)」現在の岩手県遠野市のこの中央附近であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「物見山」現在の遠野町市街地の南背の遠野市綾織町下綾織にある物見山(同前)。標高九百十六メートル。

「大阪の鴻ノ池」大坂の富商。寛永二(一六二五)年に初代善右衛門が海運業を始め、主として諸侯の運送等を引き受け、のち両替商として大をなした。

「魔えん」「魔緣」は、厳密には、仏教に於いて正道を妨げる障魔となる悪縁(三障四魔)を指すが、同時に、特にそうした仏道修行を妨げる魔王である第六天魔王波旬(他化自在天)をも指し、さらに広義には、所謂、慢心した山伏らが変じた妖怪としての天狗、即ち、魔界である天狗道に堕ちた者たちの総称としても用いる。ここは「悪鬼」の謂いであろう。

「道中の饌」「饌」は「供え物・飲食すること」で、音は「セン・サン」であるが、「ちくま文庫」版では『餞(はなむけ)』とある。その方が、躓かない。]

 それから間もなく村の衆どもに、伊勢參宮に往くべえという話が持ちあがり、話が順々に進んで、孫四郞もその同行の丁人に加つて上方へのぼつた。ところが沼の女からもらつた錢が、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に幾何《いくら》使つても使つても翌朝はもとの通りになつて居た。さうして漸く大阪に着いて諸所を見物してから、俺は一寸用達《ようた》しに行つて來ると言つて、同行に別れて物見山の女に敎はつた通りの道を行つた。すると一々樹木の立つてゐる樣や山の樣子が女の言つた通りであつた。山の中に入つて行くが行くが行くと、廣い池があつた。此所だと思つて、池のほとりに立つてタンタンタンと三度手を叩くと、一人の若い女が池の中から現はれた。孫四郞は俺は奧州の遠野といふ所の者だが、物見山の沼の姉樣から斯謂《かういふ》手紙を賴まれて來た。受取つてケてがんせと言つて出すと、その女は手紙を手に取つて見てから、ひどく喜んで、お前樣のお蔭で永年逢はない妹が無事で居ると謂ふことが分つて、これ程嬉しいことはない。この返事を遣《や》りたいから暫時(シバラク)待つてクナさいと言つて、其儘池の中に入つて行つたが、直ぐに一封の手紙を持つて來て、これをまた物見山の沼の妹のもとへ持つて行つて貰ひたいと言つた。孫四郞が心よく賴まれると、女はさもさも嬉しさうに禮を言つて、お前樣は私の爲めに同行に遲れたのだから是から馬で送つて上ませう。一寸(チヨツト)待つてクナさいと言つて、するすると水の中に入つて行つたが、直ぐに一疋の葦毛馬を引いて來て、さアこれに乘つて行きなさい。そして同行に追(カツ)ついたら此馬を乘り捨てるとよい。さうすれば獨りでに此所へ歸つて來るからと言つた。孫四郞は女に言はれるままに馬に乘つた。すると女は、目を瞑(ツム)つて開(ア)くなと言ふ。何もかにも女の言ふが儘にして居ると、馬は二搖(ユ)り三搖り動いて脚を止めた。孫四郞が目を開いて見ると、同行は目の前の道中の茶星で憩《やす》んで居る處であつたから、孫四郞は馬から下りた。すると馬はそのまゝもと來た道へと駈け戾つたやうであつたが、ヒラツと見えなくなつた。

 同行の者等は驚いて、孫四郞お前は何處さ行つて來てア、彼《あ》の馬は何所から乘つて來たと口々に尋ねた。また其所の茶店の亭主も、お前樣の行かれたと謂ふ路に入つた者に今迄一人として戾つて來た者が無いから今も其話をして心配して居たところだつた。お前樣はどんな所へ行つて來たと頻りに仔細を問ふた。けれども孫四郞はただ夢のやうで、何が何だか一向分らないと言つて何にも言はなかつた。一同はともかくも孫四郞が無事に歸つて來たことを喜んだ。そうして[やぶちゃん注:ママ。]伊勢參宮も無事にすまして遠野に歸つた。

 孫四郞は鴻ノ池の主(ヌシ)から、ことづかつた手紙を持つて物見山の沼へ行つた。そしてタンタンタンと三度手を打つと、いつかの女が出て來た。孫四郞はお蔭で無事に參宮して來たことの禮を言つた後、お前樣の手紙を鴻ノ池の姉樣に屆けると、この手紙を、よこしたと言つて手紙を渡した。女は大層喜んで、この手紙を讀んで姉と逢つたと二つない喜びだ。これも是も皆お前樣のお蔭だ。けれども何もお禮に上《あげ》る物はないが、この挽臼《ひきうす》を上るから大事にしろ。この挽臼は一日に米一粒づゝ入れて一回轉(ヒトカヘリ)廻(マワ)せば、金粒が一つづゝ出る。決して一カエリの上、廻すなと言つて、小さな石の挽臼をくれた。そして女は沼の中に入つて行つてしまつた。

 孫四郞はその挽臼を大事に神棚に上げて、每日、米一粒入れて廻しては金粒一個(ヒトツ)づゝ出して、次第次第に長者になつた。ところが或日、夫の留守に其の妻が、家の人はこの臼コから獨りで金を取つて居るが、おれもホマツをすべと思つた。それには何時(イツ)も彼時(カツ)もさう勝手には出來ないから、一度にうんと金粒を出さうと思つて、ケセネ櫃《びつ》から米を大椀で一盃持つて來て、ザワリと其の挽臼に入れて、ガラガラと挽き廻した。すると挽臼はごろごろと神棚から轉び落ち、主人が每朝あげた水をこぽして、自然に小池となつて居た水溜りに滑り入つて見えなくなつてしまつた。

  (この譚は「遠野物語」にも話し、また別話ではあるが物見山の沼の譚は「老媼夜譚」にも採錄してある。ただし本話は内容が變つているから又採記錄した。決して重複ではないのである。[やぶちゃん注:丸括弧閉じるがないのはママ。]

  (孫四郞の末孫と謂ふのが、今現に遠野町にいる池ノ端(ハタ)と謂ふ家である。挽臼の轉び入つたと謂ふ池もあつたが、明治二十三年のこの町の大火の時に埋沒して今は無いとのことである。)

  (同譚の類話は氣仙郡廣田村の五郞沼から八郞沼と云ふに手紙を持つて行つて、萬年臼という黃金を挽き出す寶臼《たからうす》をもらつて歸つたと謂ふ男の話もある。大正十一年五月九日。釜石尾崎《をさき》神社社司山本若次郞氏談話。)

[やぶちゃん注:最後の附記は三条とも全体が二字下げのポイント落ちである。本話は同一の起源に基づく伝承が、附記の最初にある通り、「遠野物語」の「二七」に記されてある。

「ホマツ」「穗末」で、「豊饒の残りに与(あず)かること」の意であろう。

「ケセネ櫃」柳田國男の「食料名彙」(初出『民間傳承』昭和一七(一九四二)年六月~十二月)の「ケシネ」の条に(国立国会図書館デジタルコレクションの「定本 柳田國男集」第二十九卷(一九七〇筑摩書房刊)を視認して示した)、

   *

ケシネ 語原はケ(褻)の稻であらうから、米だけに限つたものであらうが、信州でも越後でも又九州は福岡・大分・佐賀の三県でも共に弘く雑食の穀物を含めていふことは、ちやうど標準語のハンマイ(飯米)も同じである。東北では発音をケセネまたはキスネと訛つていふ者が多く、岩手縣北部の諸郡でそれを稗のことだといひ、又米以外の穀物に限るやうにもいふ土地があるのは(野邊地方言集)、つまりは常の日にそれを食して居ることを意味するものである。南秋田郡にはケシネゴメといふ語があって、是は不幸の場合などの贈り物に、布の袋に入れて持つて行くものに限つた名として居る。さうして其中には又粟を入れることもあるのである。家の経済に応じて屑米雜穀の割合をきめ、かねて多量を調合して貯藏し置き、端から桝又は古椀の類を以て量り出す。その容器にはケセネギツ、もしくはキシネビツといふのもある。ヒツもキツも本来は同じ言葉なのだが、今は一方を大きな箱の類、他は家屋に作り附けの、落し戶の押入れのやうなものゝ名として居る地方が東北には多い。九州の方のケシネは甕に入れ貯藏する。之をケシネガメと謂つて居る。

   *

とある。ここでは、「米を大椀で一盃持つて來て」とあるから、米櫃である。

『「老媼夜譚」にも採錄してある』同書の「四番 黃金丸犬」を指す(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部)。

「明治二十三年」一八九〇年。

「氣仙郡廣田村」現在の陸前高田市広田町(ひろたちょう:グーグル・マップ・データ・。以下同じ)。沼の名は確認出来ない。

「大正十一年」一九二二年。

「釜石尾崎神社」岩手県釜石市平田にある尾崎(おさき)神社。三陸海岸総鎮守を名乗り、当該ウィキによれば、『当社縁起によると、日本武尊が東征の折の足跡の最北端であり、最終地点が尾崎半島であり、その足跡の標として半島の中程に剣を建ておかれたものを、土地の人々が敬い祀った事が当社の起こりであり、祭神は日本武尊であるとされる』とある。]

2023/03/20

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 三 怨念深き者の魂迷ひ步く事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]

 

     三 怨念深き者の魂迷ひ步く事

 

 會津若松といふ所に、「いよ」と云ふ者、有り。

 彼(かれ)が家に、色々、不思議なる事多き中に、まづ、一番に、ある日の酉の刻[やぶちゃん注:午後六時前後。]に、大きなる家を、地震の搖(ゆ)る樣(やう)に、動かす。

 次の日の同じ時に、何とは知らず、家の内へ入り、裏口の戶を叩き、

「初花(はつはな)、初花。」

と、よばはる。

 主(あるじ)の女房、聞きつけて。

「なんぢ、何ものなれば、夜中に來たり、斯くは云ふぞ。」

と叱(しか)らる。

 ばけもの、叱れて、右の方(かた)に、又、口、有りけるが、折りしも、戶をあけおきけるに、其所(そこ)へ、きたりける。

 

Iyokewnokaii

 

[やぶちゃん注:上では、右上端にあるキャプションが完全に切れて映っていないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで見ると、「おんねんふかき者のたましいまよふ事」と読め、また、家の女房が右手に持つ「御祓箱」(以下の本文に出る)の蓋の上には、「太神宮」の文字が書かれているのもはっきりと判る。なお、この「御祓箱」とは、中世から近世にかけて、伊勢神宮の御師(おんし:「御師」(おし)は特定の社寺に所属して、その社寺への参詣者や信者の求める護符の配布や祈禱、或いは、実際の参拝時の案内及び宿泊などの世話をする別当僧や神職を指すが、特に伊勢神宮の場合のみ、差別化して「おし」と呼ぶ)が、毎年、諸国の信者に配って歩いた伊勢神宮の厄除けの大麻(たいま:本来は「おおぬさ」と読むが、「ぬさ」とは「木綿・麻」などを指す。「大麻」とは、お祓いに用いられる用具である細い木に細かく切った紙片をつけた「祓串」(はらえぐし)を指す)を納めた小箱。「はらへ(え)ばこ」とも呼ぶ。]

 

 その姿を見れば、肌には、白き物を著(き)、上には、黑き物を著て、いかにも色白き女房、髮を捌(さば)き、内へ入(い)らんとしけるを、あるじの女房、

『これは、只事ならず。』[やぶちゃん注:後に助詞の「と」が欲しい。]

思ひて、御祓箱(おはらひばこ[やぶちゃん注:ママ。])の有りけるを、取りいだし、

「汝、これに、恐れずや。」

とて、投げつけければ、其のまゝ消えぬ。

 三日目には、申の刻[やぶちゃん注:午前四時前後。]許りに、かの女房[やぶちゃん注:ここは変化の女のこと。]、臺所の大釜の前に來りて、火を焚きて、ゐたり。

 うちの者ども、これを、

「いかに。」

と騷ぎければ、又、消え亡(う)せぬ。

 四日めの晚のことなるに、鄰(となり)の女房、裏へ出でければ、彼(か)の女、垣(かき)に立ちそひ、家の内を見入(みい)れてゐたりけるを見付けて、肝(きも)を消し、

「鄰の化物こそ、こゝに、居て候へ。」

と呼ばはれば、化物、いひけるは、

「汝が所へさへ行かずば、音もせで、ゐよ。」[やぶちゃん注:「お前の所には、さらさら行く気はないのだから、五月蠅い声を挙げずに、黙って、おれよ。」の意。中古以来の「ずは」(「~でなくて」、或いは打消の順接仮定条件を示す「もし~でないならば」。打消の助動詞「ず」の連用形+係助詞「は」か、接続助詞「ば」とする説もある)が近世初期に打消の確定条件に転用されてしまった慣用表現である。真正の物の怪の、抑制した制止であり、それが、また、なかなか、キョワい!]

と云ひて、又、消え亡せぬ。

 五日めの事なるに、臺所の庭に來て、打杵(うちきね)をもつて、庭を、

「とうとう」

と、打ちて、𢌞る。

「此の上は、御念佛(ごねんぶつ)ごとより外の事は、有るまじ。」

とて、さまざまの祈りをぞ、初めける。

 眞に神明(しんめい)・佛陀の納受(なふじゆ)有る故か、其の次の日は、來(きた)らざり。

「すべて、ばけ物、こゝに來(きた)る事、五たびなり。此の上は、何事も、あらじ。」

と、いひもはてぬに、虛空(こくう)より、女の聲にて、

「五たびには、限り候はじ。」

と呼ばはりける。[やぶちゃん注:追い打ちをかける凄みのあるキレのある台詞である。なかなか、心理戦に長けた物の怪と見える。]

 扠(さて)、其の夜(よ)の事なるに、いつも、主の女房、いねざま[やぶちゃん注:「寢ね態」で「就寝する頃合い」の意。]になれば、蠟燭を立ておきけるを、彼(か)の化け物、姿を現はして、蠟燭を、吹き消しぬ。

 主(あるじ)の女房、肝を消し、絕入(ぜつじゆ)[やぶちゃん注:失神。気絶。]する折りも、有り。

 七日めの夜は、女夫(めをと)臥したる枕許に立ち寄り、頭(あたま)どちを、寄せがまちにし、其の上、夜(よる)の物を、裾よりまくり、冷(つめた)き手にて、足を撫でければ、夫婦(ふうふ)の者は、魂(たましひ)を消すのみならず、しばし、物ぐるはしくなりける、とぞ。

[やぶちゃん注:この波状的な怪異の襲来は、なかなかに名品と言える。特に、六日目の物の怪の本領発揮の巧妙な仕儀も、確信犯で、人間どもを油断させるための巧妙な手段であって、実は出現はしなかったのは、「神明・佛陀の納受」のお蔭でも何でもなく、サウンド・エフェクトだけで、震えあがらせているところなど、実にホラーとしての勘所を、逆に押さえているとさえ言えるのである。さても、本書の後に怪奇談を書く作者なら、これを再話しない手は、ない。「諸國百物語卷之一 四 松浦伊予が家にばけ物すむ事」がそれである。ただ、この話、虚心に読むと、「いよ」というのが、女の名のように錯覚させる(ただ、冒頭「彼(かれ)の家」とあるから、男主人が「いよ」なんだろうとは思うのだが)。確かに再話のように、旦那の通り名が「伊予」なのだろうかも知れぬが、本篇は、最後まで「いよ」の家の主人の姿が、これ、まともに見えてこないのでる。七日目の閨房のシーンでも、夫の映像が浮かばないように意図的に描かれているように感ずる。ここに何らかの作者の隠された意図、或いは、特別なある心理上の拘りがあるように思われるのだが、その核心は、私には、未だよく判らないのである。或いは、霊が呼びかける「初花」(女房の名ではないことは、彼女の反応からみて間違いない)という言葉に何かヒントがあるような気がする。

「寄せがまちにし」「寄せがまち」は「寄せ框(がまち)」で、商家などの入り口の取り外しが出来る敷居のことで、昼間は外しておき、夜、戸を閉める時に取り付けるようにしたもの指す。岩波文庫の高田氏の注によれば、『寄框のように直角に頭を突き合わせること』とある。]

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 二 老女を獵師が射たる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]

 

     二 老女を獵師が射たる事

 

 伊賀國(いがのくに)なんばりといふ所より、辰巳(たつみ)[やぶちゃん注:南東。]にあたりて、山里あり。

 かの所に、夜な夜な、人、ひとりづゝ、失せぬ。

「如何なる事にか。」

と、皆人(みなひと)、不審しあへり。

 其の村に獵人(かりびと)の有りけるが、ある時、夜(よ)に入り、山に入らんとしける所に、山の奧より、年(とし)、百にも及びなんとおぼしき老女、髮には雪をいたゞき、眼(まなこ)は、あたりも、輝き、さもすさまじく出できたる。

 

Roujyokariudouti

 

[やぶちゃん注:以上では右端上にあるキャプションが完全にカットされて見えないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの単体画像で、『伊賀の国なんばりといふ所にての事』と読める。]

 

 獵人は、

『何者にてもあれ、矢つぼは、違(たが)へじ。』

と、大かりまたを持つて、胴中(どうなか)を射通(いとほ)す。

 射られて、いづくともなく、逃げうせぬ。

 獵人は、前々なかりし不思議に逢ひしかば、まづ、其の夜は歸りぬ。

 夜明(よあ)けて、彼(か)の物、射たる所を見ければ、道もなき山の奧を、かなたこなたと、血(のり)を引きける程に、それをしるべに求めければ、我が在所の方(かた)へ有り。

 不思議に思ひ、見れば、莊屋(しやうや)が家(いへ)の、後ろなる小家(こいへ)のうちへ、ひき入(い)りたり。

 さて、莊屋かたへ行き、

「ちか頃(ごろ)、率爾(そつじ)なる事ながら。」[やぶちゃん注:後に引用の助詞「と」が欲しい。]

過ぎし夜の事共(ことども)、ねんごろに語りければ、莊屋、不思議にたへかね、

「此の家は、我等が母のゐ所(どころ)にて侍るが、夕べより、『風の心地。』とて、我にも逢はで、事の外、うめきゐられ候ふが、心もとなく候。」

とて、行きて見れば、家のあたり、戸口より、血(のり)、したゝかに、引きたり。

 いよいよ、怪しみ、

「押し入りて、見ん。」

とすれば、雷電(らいでん)の如く、鳴り、はためきて、母は、家の内より、拔け出でぬ。

 件(くだん)の矢は、食ひ折りて、軒(のき)にさしてぞ、有りける。

 さて、ゐたる跡を見れば、夥しく、血(のり)、流れ有り。

 牀(ゆか)を、はづし、此處彼處(こゝかしこ)を見れば、人の骨、山の如し。

 それより、在所の者共、山々へわけ入りて、見れば、深山(しんざん)の奧に、大(だい)なる洞(ほら)あり。

 此の洞のうちに、古狸(ふるだぬき)の大きなるが、胸板(むないた)を射貫(いぬ)かれながら、死してぞ、ゐたりける。

 これを案ずるに、莊屋の母をば、疾(と)く食ひ殺し、我が身、母になりてぞ。

[やぶちゃん注:「伊賀國なんばり」岩波文庫版では本文で『南張』とあり、注に、『現在の三重県志摩郡』とある。但し、ここは逆立ちしても絶対に「伊賀國」ではないから、これは筆者の誤りであろう。現在は合併により、三重県志摩市浜島町南張(はまじまちょうなんばり)である(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。当該ウィキによれば、『南張メロンの栽培や酪農が展開される農業地域であるとともに、南張海水浴場を擁する海の町でもある』とあり、どうも変な感じがする。同町の集落拠点は完全に南端の英虞湾の入口の南の海岸であって、そこの「辰巳」は海である。百歩譲って、東の、海に迫った山間部のここに当たるか。しかし、寧ろ、この話、内陸の伊賀の方が遙かに相応しい。「ひなたGPS」で戦前の地図で伊賀地方を調べたが、「南張」はない。ただ、三重県西部の伊賀地方に含まれる名張市(なばりし)が目に止まったここは南東部はガッツり、山間地である。私はここを真のロケ地としたい。実は、本話を転用した「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」では御覧の通り、名張になっているのである。さらに、そちらでは、『東京学芸大学紀要』湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(ネットでPDFでダウン・ロード可能)で、やはり、ロケーションを三重県名張市と規定しておられる。さらに湯浅氏は先行する非常に知られた、「今昔物語集 第二十七卷」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと)第二十二)を挙げておられる(私は微妙にそれを原拠とすることには躊躇する)のを受けて、それも電子化してある。さらに、そこで類話として別に掲げてある、「伽婢子卷之九 人鬼」や、「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」も電子化注済みであるので、参照されたい。

「大かりまた」「大雁股」。既出既注。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 八番 山神の相談

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     八番 山神の相談

 或る時、六部《ろくぶ》が或村へ來て、山神の御堂に宿つて居た。眞夜中に人語がすると思つて眼を覺ますと、山神と山神とで話をしていた。今夜は行かなかつたな。あゝ、お客があつて行かなかつたが首尾は如何《どう》だつた。うん、母(アンバ)も子(ワラシ)も丈夫だ。それで何歲(ナンボ)までかな、イダマスども七歲(ナヽツ)までだ。そしてチヨウナン(釿《てうな》)で死ぬ……

 六部は何の話かと思つて聽いて居た。其の後七年經つて、六部が又其の村へ行くと、在る家で大工であつた親父が、子供を傍《そば》に寢かして置いて仕事をして居たが、子供の寢顏に虻(アブ)がタカツたので、手に持つてゐた釿で追ひ拂はふとして子供の頭を斬り割つたと云つて大騷ぎをして居るところであつた。

 六部は七年前の御堂での山神樣達の話を思ひ出して、あゝ神樣達はこの事を言つたのだなアと始めて思ひ當つた。

  (田中喜多美氏の御報告分の二、摘要。)

[やぶちゃん注:「六部」「六十六部」の略で、本来は全国六十六ヶ所の霊場に、一部ずつ納経するために書写された六十六部の「法華経」のことを指したが、後に、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚僧のことを指すようになった。別称を「回国行者」とも称した。本邦特有のもので、その始まりは、聖武天皇(在位:七二四年~七四九年)の時とも、最澄在世(七六六年~八二二年)の頃とも、或いは、ずっと下って鎌倉時代の源頼朝・北条時政の時代ともされ、定かではない。実際には、恐らく鎌倉末期に始まったもので、室町を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく、民間人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲・脚絆、甲掛(こうがけ:履き物に添える補助具。主に足の甲を保護するためのもので、形は足袋によく似ているが、底はない。材料は白若しくは紺の木綿で、強度を増すために刺子にすることが多い。これをつけるのは草鞋を履く時で、甲に紐を巻きつける際、甲や側面に擦り傷がつくのを防ぐ)、股引をつけ、背に仏像を入れた厨子を背負い、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。彼らは、地域社会では異邦人・異人であり、各地に、迎えておいて、騙して殺害して金品等を奪ったが、その後に生まれた子が殺した六部の生まれ変わりで、仇(あだ)を成すといったタイプの「六部殺し」怪奇譚でも知られる(当該ウィキを参照されたい)。

「イダマスども」東北地方及び岩手方言で「いだましねえども」で「惜しい(傷ましい)ことだけれども」の意。

「チヨウナン(釿)」歴史的仮名遣「てうな」は現代仮名遣で「ちょうな」。大工道具の一つ。「手斧」と書く方が一般的。柄の先が曲がっていて、先に平らな刃が柄に対して左右に伸びた形で付けた、小型の鍬のような形をした斧に似た刃物。木材の表面を平らに仕上げるために、初めに「荒削り」をするのに用いる。「ちやうな(ちょうな)」は「ておの」が転訛したもの(講談社「家とインテリアの用語がわかる辞典」を主文に用いたが、使用している絵と画像は「広辞苑無料検索」のこちらの写真がよい)。

「田中喜多美」既出既注。]

2023/03/19

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 / 目録・一 信心深ければ必ず利生ある事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

曾呂利物語卷第二目錄

 

  一 信心深ければ必ず利生(りしやう)ある事

  二 老女を獵師が射たる事

  三 怨念深きものの魂(たましひ)迷ひありく事

  四 足高蜘(あしたかぐも)の變化(へんげ)の事

  五 行(ぎやう)の達したる僧には必ずしるし有る事

  六 將棊倒(しやうぎだふ)しの事

  七 天狗鼻(はな)つまみの事

  八 越前國(ゑちぜんのくに)鬼女(きぢよ)の由來の事

 

 

     一 信心深ければ必ず利生ある事

 南郡興福寺の衆徒、なにがしの律師とかや、いふ人、有り。

 又、かすが山の麓に、「しのやの地藏堂」とて、靈驗あらたなる地藏、おはしけり。

 彼(か)の律師、年月、步みを運びけるが、ある日、少し紛(まぎ)るゝこと有りて、日、已に暮れて、酉(とり)の終り[やぶちゃん注:午後六時半過ぎ。]よりぞ、詣でける。

 道芝の露、拂ふ人もなくて、心凄(こゝろすご)きところに、何處(いづく)より來りけるともおもえず、一人の稚兒(ちご)、忽然として、佇みたり。

「いかなる人にておはしければ、こゝには御入(おい)り候ぞ。」

ちごのいはく、

「そなた、いづ方へ通らせたまふぞ。まづ、わが方(かた)ざまへ、入(い)らせたまへ。こゝのほどこそ、わらはが庵にて候へ。」

といふ。

「いや、これは、地藏へ參り候へば、それへは、參るまじき。」

といふ。

 ちご、重ねて、

「まづ、立ちよらせ給へ。」

とて、強ひて、手をとりてゆく。

 月かげに、色あひ、定かならねど、蘭奢(らんじや)の匀(にほ)ひなつかしく、いとあてなる裝(よそほ)ひに、覺えず、心ときめきして、やがて、誘はれ行くかと思へば、程なく、かの家に至りぬ。

 彼(か)の體(てい)、世の常ならず、宮殿・樓閣なり。

『不思議や。此の邊(へん)には、斯樣(かやう)の家居(いへゐ)は、なかりつるものを。』

と思ひたれば、衆從眷屬(しゆじゆけんぞく)、あまた出であひ、いろいろにもてなし、酒宴、さまざまなり。

 あるじの稚兒も醉(ゑ)ひ、客の僧も醉ひ臥しぬ。

 夜(よ)、ふけぬれば、たゞ假臥(かりぶし)とは思ひながら、行くすゑまでのかね言(ごと)も淺からずこそ契りける。[やぶちゃん注:「かね言」「予言(かねごと)」で、「前もって言っておいた言葉」、則ち、若衆道の「互いの睦びの約束の言葉」である。]

 曉方に、ふと、夢さめて、あたりを見れば、ともし火、かすかにして有りけるに、かの稚兒、繪にかける鬼(おに)の形(かたち)なり。

 恐ろしとも、いはん方、なし。

 扠(さて)、ぬき足して、次の座敷を見れば、こゝに臥したるもの、十人ばかり、皆、鬼なり。

『いかゞして、拔け出でん。』

と、かたがた、見まはしけれども、隙間も無く、造り續けたる家なれば、もれて出づべきやうも、なし。

 

Tigooniinusinjin

[やぶちゃん注:「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入した。右上端のキャプションは、「しん心ふかきゆへ利生をゑたる事」である。]

 

 まづ、緣の戶をあけて見れば、彼(か)の律師が飼ひける犬、何處(いづく)より來(きた)るともなく、尾を振りて、出で來りぬ。

『不思議なること。』

に思ひぬ。

 彼の犬、僧の裾を、くはヘ、門外へ出でぬ。

 宵に稚兒に逢ひたる所に、引きて行く。

 僧は、つくづくと、犬を守り、

「汝は禽獸なれども、主(しう)を守る心、奇特(きどく)さよ。此の世ならぬ緣なれば、當來(たうらい)は、必ず、佛果菩提に至るべし。」

と、いうて、常に持ちたる念珠を、頸にかけてぞ、放しける。

 未だ、夜(よ)深ければ、僧は、それより、地藏堂へ詣でけり。

 暫く拜し、歸らんとしけるが、本尊を見れば、犬の頸に掛けたる珠數の、かゝりてぞ、侍りける。

「年月、每日怠らず、詣で侍りしが、其の日は、暮に及びしが、道にて稚兒に迷ひし事、犬の導きつる事、地藏の化現(けげん)にて、たうしんの眞諦(しんたい)を示し給ふにや。」

と、信心、肝(きも)に銘じしかば、いよいよ、步みを運びけるとかや。

「今生、後生、たのもしかりける悲願かな。」

と、感淚を押へかねてぞ。

[やぶちゃん注:個人的には、この話、好きだ。

『かすが山の麓に、「しのやの地藏堂」とて、靈驗あらたなる地藏、おはしけり』興福寺の東方が春日大社であるが、「地藏堂」は不詳。荒木又右衛門が試し斬りをしたと伝えられる、鎌倉時代の作の石地蔵で「首切り地蔵」が春日山の東方の谷のかなり奥にあるが、堂はない(グーグル・マップ・データ。実測、四キロメートルだが、半分は登攀路である)、軽々に比定は出来ない。

「紛(まぎ)るゝこと」ちょっと手のかかる仕事があって。

「蘭奢」ここは単に類い稀れなる奥床しい香の香りを喩えて言ったものであろう。狭義のそれについては、そうさ、「小泉八雲 香 (大谷正信訳)」の「ランジヤタイ」の私の注でもお読み下され。

「たうしんの眞諦(しんたい)」「眞諦」は、仏教で唯一無二の真実にして平等の不変の真理を指す。「たうしん」は「當身」であろうか。化現(けげん)でも垂迹でもないところのそのまま(等身)の「絶対の実体」に相「当」する物「身」の意か。]

早川孝太郞「三州橫山話」 鳥の話 「鷹の眼玉」・「鷹を擊つ方法」・「鷹の羽藏」・「クラマの鷹」・「鷄を襲ふ鷹」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○鷹の眼玉  鷹の眼玉は黃疸の藥と云つて珍重しますが、又、眼病の靈藥とも謂ひます。これを用うるには、藥鑵に水を入れ火に掛けて、其上に眼玉を糸で吊るして置くと、水が煮立つにつれて、湯氣が懸つて、眼玉から垂れた滴で、中の湯が黃色に染まるから、其を飮ませると謂ひます。

[やぶちゃん注:これは、本邦の鳥類ピラミッドの頂点に位置する猛禽であること、希少であること、及び、多分に類感呪術的な要素(黄疸は直ちに眼球の黄色となって示されること・鷹の遠くを見通せる視力こと)からの伝承であろう。成分上からそれらに実際効果があるとは全く思われない。エキスの抽出法も如何にも怪しい呪的な方法ではないか。但し、ウィキの「鷹」によれば、『縄文時代の遺跡からは』、『タカ類の骨が発掘されており、当時は人間の食料であったと考えられている』とある。なお、「鷹」は新顎上目タカ目 Accipitriformesタカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、比較的、大きさが小さめの種群を指す一般通称である。同前のウィキによれば、オオタカ(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis:(和名は「蒼鷹」「大鷹」で、由来は前者で、羽の色が青みがかった灰色を呈することからの「あをたか」が訛ったものに由来する)・ハイタカ(ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus:灰鷹・鷂)・クマタカ(クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensi:角鷹・熊鷹・鵰)などが知られる種である。タカ科に分類される種の中でも、比較的、大きいものを「鷲」(わし:Eagle)、小さめのものを「鷹」(Hawk)と呼び分けてはいるが、これは明確な区別ではなく、古くからの慣習に従って呼び分けているに過ぎず、生物学的区分ではない。また、大きさからも明確に分けられているわけでもなく、『例えば』上記の『クマタカはタカ科の中でも大型の種であり大きさからはワシ類といえるし、カンムリワシ』(タカ科カンムリワシ属カンムリワシ Spilornis cheela)『は大きさはノスリ』(タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus)『程度であるからタカ類といってもおかしくない』とある。より詳しくは、古い私のリキの入った「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」を参照されたい。]

 

 ○鷹を擊つ方法  鷹を擊てば、其家が一代續かぬと謂ひます。獵師が鷹を擊つ方法だと云つて、こんな話があります。ます不断《ふだん》[やぶちゃん注:ママ。]鷹の休む樹を見つけて、其傍に穴を掘つて、其には脫け穴を造つて置いて、樹の枝には鷹の好む兎や猿の肉を吊るして置いて、穴に隱れて待つてゐる内、鷹が來ると、其肉を一口喰べて見て、二日目には提げて行かうとするものださうですから、其處の呼吸を計つて、ドンと放すが否や、鐵砲を放り出して、後《うしろ》をも見ず脫穴《ぬけあな》へ身を避けると謂ひます。必ず雌雄二羽居るもの故、片々《かたがた》の鷹が擊つと殆ど同時に穴の口へ襲つて來ると謂ひます。

[やぶちゃん注:「必ず雌雄二羽居る」鳥は詳しくなく、これが、どの種を指しているか不詳だが、「必ず」というのは私には、到底、信じられない。]

 

 ○鷹の羽藏  鷹の羽藏《はねぐら》を發見すれば、夫婦差向《さしむか》いで、一代左團扇で暮せるなどゝ謂つたさうですが、それは深山の岩石の聳えてゐるやうな所に、岩と岩との間の雨や風のかゝらぬ所に、きれいに羽が積重ねてあると謂ひます。鷹は自分の體から脫けた羽は、みんな其處へ持つて行つて藏《しま》つて置くので、其を見つけた時は、鷹の留守にそつと出掛けて行つて、積んである下から少し宛拔いて來るのださうです。四十年ばかり前鳳來寺山にあるのを發見した者があつたさうですが、遠くからは羽の積んであるのが見えてゐても、險しい場所で近づく事が出來なかつたさうです。

[やぶちゃん注:聞いたことがないし、ネット検索でも掛かってこない。そのような習性はタカ類にはないであろう。]

 

 ○クラマの鷹  明治二十年頃のこと、北設樂《きたしたら》郡名倉村の鎭守の森へ、鳥とも獸ともつかぬ、奇怪なものが來て、樹の枝に留まつた盡《まま》[やぶちゃん注:漢字はママ。]、昵《じつ》としてゐて、幾日經つても動かないので、村のものが怪しんで鐵砲で擊殺《うちころ》して見ると、それは大變年を老《と》つた鷹で、羽に鞍馬と云ふ文字が現れていたと云ひました。

[やぶちゃん注:「明治二十年」一八八七年。

「北設樂郡名倉村」横山の真北の十四キロほど先の、現在の愛知県北設楽郡設楽町(「ひなたGPS」の戦前の地図で「名倉村」を確認出来るが、現在は地名として残っていない)。Geoshapeリポジトリ」の「愛知県北設楽郡名倉村」の旧村域を見るに、完全に現在の設楽町と一致することが判る。設楽町役場はこの中央(グーグル・マップ・データ航空写真)。かなりの山間地である。

「羽に鞍馬と云ふ文字が現れていた」白羽の中の黒羽の交りが「鞍馬」の崩し字に見えたと感じたのであろうことは、想像に難くない。「鞍馬」は天狗の本拠地であり、一般には鳶が眷属だが、鷹もそこに連なっていると考えたとしても、意外ではない。]

 

 ○鷄を襲ふ鷹  鷄が鷹に襲はれた時は、必ず雄が殺されて、雌は助かると謂ひますが、それは雄が雌を庇護《かば》つて、鷹と鬪ふからだと謂ひます。山口文吉と云ふ人が、鷹と鬪鷄と盛《さかん》に格鬪してゐるのを實見した時は、三十分も爭つてゐる中《うち》、鬪鷄の勢《いきおひ》が猛烈なため、鷹も諦めて逃げて行つたさうです。最も其は小さなマグソ鷹だつたと謂ひます。

 私が子供の頃、家の鷄の雄が鷹に襲はれた事がありまして、家のものが發見した時は、もう背中を喰破《きふやぶ》つて、其處から腸を引出して持つてゆきましたが、鷄は昵《じつ》と地に坐つた儘、未だ生きてゐました。

[やぶちゃん注:「鬪鷄」ニワトリ(鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリGallus gallus domesticusの♂を使用するが、特に一品種である軍鶏(シャモ)が闘鶏用として知られた(もとは江戸期にタイから輸入された種であるとされる)。

「マグソ鷹」「馬糞鷹」でハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculusの差別異名である。当該ウィキによれば、和名の『語源は不明だが、吉田金彦は、蜻蛉(トンボ)の方言の一つである「ゲンザンボー」が由来ではないかと提唱している』。『チョウゲンボウが滑空している姿は、下から見ると』、『トンボが飛んでいる姿を』髣髴『とさせることがあると言われ』、『それゆえ、「鳥ゲンザンボー」と呼ばれるようになり、いつしかそれが「チョウゲンボウ」という呼称になったと考えられている』とあり、また、『学名の「Falco tinnunculus」はラテン語でFalcoが「鎌」に由来し、tinnunculusが「チンチンと鳴く」を意味する』とあった。『全長は』♂が約三十三センチメートル、♀が約三十九センチメートルで、『翼を広げると』六十五~八十センチメートル になる。体重は♂で百五十グラム、♀で百九十グラム程度あり、性的二型である。『羽毛は赤褐色で黒斑があ』り、♂の『頭と尾は青灰色』であるのに対し、♀は『褐色で翼の先が尖っている。ハヤブサ科の中では最も尾が長い』とある。]

「曾呂利物語」正規表現版 十 狐を威してやがて仇をなす事 / 卷一~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     十 狐(きつね)を威(おど)してやがて仇(あた)をなす事

 

 ある山伏、「大(おほ)みね」より、かけ出で、ある野を通りけるに、こゝに、狐、晝寢してゐたりけるを、立ちより、耳の元にて、ほらの貝を、したゝかに吹きければ、狐、肝(きも)を潰し、行き方(がた)知らず、逃げにけり。

 其の後(のち)、山伏は、猶、ゆきけるが、

『いまだ未(ひつじ)の刻ばかりにや。』[やぶちゃん注:午後二時前後。]

と思ふ頃、空、かき曇り、日、暮れぬ。

 不思議に思ひ、道を急ぎけれども、野、遠くして、とまるべき宿も、なし。

 ある三昧(さんまい)に行きて、火屋(ひや)の天井に上がりて、臥しにけり。[やぶちゃん注:「三昧」火葬場。「火屋」同じく火葬場の意であるが、ここは敷設するお堂か、遺体を一時置いておく控えの小屋(霊安室)であろう。]

 かかりける所に、何處(いづこ)ともなく、幽(かすか)に、光り、あまた見えけるが、次第に近づくまゝに、よく見れば、其の三昧へ、葬禮するなり。

 凡そ、二、三百人もあらんとおぼしくて、その、てい、美々しく、引導など、過ぎて、やがて、死骸に、火をかけ、各(おのおの)、かへりぬ。

 山伏は、

『折りしもあれ、かかる所に來たりぬる事。』

と思ふに、やうやう、燒けぬべき所、死人(しにん)、火の中より、身ぶるひして、飛びいで、あたりを、

「きつ」

と見まはしけるが、山伏を見つけて、

「何者なれば、そこにおはしますぞ。知らぬ道を、ひとり行くは、おぼつかなきに、我と共に、いざ、給へ。」

と、山伏に飛びかゝりければ、そのまゝ山伏は、消え入りぬ[やぶちゃん注:気絶した。]。

 やゝしばらく有りて、やうやう、氣をとり直し見れば、いまだ晝の七ツ時分[やぶちゃん注:定時法で午後四時前後。]にて、しかも三昧にても、なかりけり。

 さてこそ、貝に驚きし狐の意趣とは、知られけり。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収。ネットでPDFで入手可能)によれば、「今昔物語集」の巻第二十七の「於播磨國印南野殺野猪語第三十六」(播磨國(はりまのくに)印南野(いんなみの)にして野猪(やちよ)を殺したる語(こと)第三十六)を先行する原話として挙げておられる。主人公は飛脚であり、最終的に真相は猪が彼を化かしたという点では異なるが、中間部の展開のコンセプトは明らかに酷似しており(「今昔」のそれはもっとシークエンスが細かく長い)、本篇の原拠の一つであることは疑いようがない(但し、本篇の山伏の法螺貝の悪戯と、それへの狐の仕返しという部分は、私は非常に面白い構成と感じている)。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたものが読める。また、「諸國百物語卷之一 六 狐山伏にあだをなす事」は本篇の完全な転用である。

「大みね」大峰山(おおみねさん)。奈良県南部にある山脈で、狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ:グーグル・マップ・データ)を指し、そこは修験道の聖地として知られる。]

「曾呂利物語」正規表現版 九 舟越大蛇を平らぐる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今までは、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入してきたが(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)、裏映りを消すために補正すると、薄くなるか、全体が黄色くなるかで、今一つ気に入らない。そこで、状態がかなりいい、上記岩波文庫版に挿絵の載るものは、それを画像で取り込み、トリミング補正することとした(今回はそれである)。

 なお、標題は「船越(ふなこし)、大蛇(だいじや)を平(たひ)らぐる事」である。]

 

     九 舟越大蛇を平らぐる事

 いつの頃にか有りけん、淡路國(あはぢのくに)に、「舟越」とて、弓矢を取つて、名を得し有りけり。

 彼の知行所に、

「大蛇、住みける。」

といふ池あり。

 廣さ二町四方[やぶちゃん注:約二百十八メートル四方。]も有るべし、眞(まこと)に凄まじき池の心(こゝろ)なり。[やぶちゃん注:「心」ここは様子・有様・雰囲気の意で用いている。]

 しかるに、每年、人御供(ひとごく)をそなふること、久し。怠りぬれば、必ず、洪水し、多くの田畠(たはた)、損じけり。[やぶちゃん注:「人御供」人身御供(ひとみごくう)。]

 さるによつて、今も在所の女を、一人(ひとり)づつ、池の中に牀(ゆか)をして、供ヘ置けば、大蛇、來たりて、是を、とる。

 舟越、つくづく思ふやう、

『かくしつつ、はてはては、我が知行所に、女といふもの、たゆべし。縱(たと)ひ、さなきとて、我が領する下(もと)に、斯樣(かやう)の事あらんを、いかで、打捨(うちす)てては置くべき。いかさまにしるしを見せでは、適(かな)ふまじ。』

と思ひ、重籐(しげどう)の弓に、山どりの尾にて矧(は)いだる大(おほ)かりまた一つがひ、あし毛の馬に、うち乘つて、かの池を、さして行く。

 馬の太腹(ふとばら)、ひたるほど、乘りこみて、大音聲(だいおんじやう)にて、のたまひけるは、

「抑(そもそも)、我ならで、此の池に、主(ぬし)有るべき事、心得ず。そのうへ、地下(ぢげ)の女子(によし)を御供にとる、供へざれば、洪水して、多くの田地を損ふ事、かれこれ、以つて、奇怪なり。まこと、此の池の主たらば、只今。出でて、我と、勝負をあらはせ。」

と、高らかにこそ、呼ばはつたれ。

 その時、水の面(おもて)、俄に騷ぎ、鳴動すること、やゝ久しうして、たけ一丈ばかりなる大蛇、いで、角を振りたて、紅(くれなゐ)の舌をいだして、舟越を目掛けて、かゝりける。

 待ち設(まう)けたる事なれば、矢、ひとつ、打番(うちつが)ひ、其の間(あひだ)、十四、五間(けん)[やぶちゃん注:二十五・五~二十七・三メートル。]もあるらんとおぼしき頃、

「もと筈(はず)、うら筈、一つに、なれ。」

と、よつぴき、

「ひやう」

と放つ。

 此の矢、誤またず、大蛇の口に、

「つつ」

と、入る。

 乙矢(おや)を射る間のあらざれば、駒を、はやめて、逃げ來たる。

 大蛇は、のがさじと、追つかくる。

 

Bueihunakosi

 

[やぶちゃん注:以上では切れてみえないが、「国書データベース」で確認すると、キャプションは「ふなこし大しやたいらく事」と読める。]

 

 舟越、我が屋に驅け込み、門を、

「はた」

と、たてければ、門の上へ、及びかゝる所を、内より、乙矢(おとや)を放ちければ、手ごたへして、

「はた」

と當たり、さすが大兵と云ひ、二の負ひ手、なじかは以つて、たまるべき、門の上に及びながら、大蛇は、忽ち、死してけり。

 されども、舟越も其のまま、氣を、とり失ひ、三日(か)めに、空しくなる。

 かの葦毛(あしげ)の駒(こま)も、死にけるとかや。

[やぶちゃん注:ダイナミックでリアリズムがある悲壮なる英雄の大蛇退治譚である。この話、以前に電子化注した後代の「老媼茶話 武將感狀記 船越、大蛇を殺す」と同話であり、そちらで、この舟越なる人物について、私なりにモデルを比定してあるので(知人の指摘を受けて二〇二三年三月二十日に修正した)、是非、読まれたい。なお、湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収)では、類話について、膨大なそれらを掲げておられるので、興味のある方は、一読を強くお薦めするものである。

「重籐(しげどう)の弓」「滋藤」とも書き、「しげとう」とも読む。弓の束(つか)を黒漆塗りにし、その上を籐(とう)で強く巻いたもの。大将などの持つ弓で、籐の巻き方などによって多くの種類がある。正式には握り下に二十八ヶ所、握り上に三十六ヶ所を巻く。参照した「goo辞書」のこちらに、当該の弓の図があるので見られたい。

「矧(は)いだる」竹に羽をつけて矢を作ることを言う。

「大(おほ)かりまた」大雁股。「雁股」は鏃(やじり)の一種で、先端を二股にし、その内側に刃をつけたもの。飛ぶ中・大型の鳥や、走っている鹿や猪などの足を一矢で射切るのに用いる。ここはそれを矢の先に装着した矢を言う。参照した「コトバンク」の「精選版 日本国語大辞典」のこちらに、その鏃をつけた矢の先の図があるので、参照されたい。

「一つがひ」同一の大雁股の矢二本。

「もと筈(はず)、うら筈」岩波文庫版の高田氏の注に、『弓の兩端の弦(つる)をかける所。弓を射る時、上になる方を末筈』(うらはず)、『下になる方を本筈』(もとはず)『という』とある。ここは、強力に弓を引いて射て、大蛇を仕留めるための窮極の勲(いさおし)である。

「乙矢」第二番目に射る矢のこと。

「二の負ひ手」同前の高田氏の注に、『二つの重い傷』とある。無論、大蛇の受けたそれである。

「なじかは」副詞で、ここでは「どうして~か、いや、~ない」で反語の意を表わす。「なにしにかは」→「なにしかは」→「なんしかは」→「なじかは」と変化・縮約されて出来た語。]

「曾呂利物語」正規表現版 八 狐人にむかつてわびごとする事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(本篇は載らない)。本篇はここから。]

 

     八 狐人にむかつてわびごとする事

 寬永八年ひつじのとし、關東武藏國(むさしのくに)、さる御方(おんかた)さまの屋敷に、植込あるため池、あり。

 そのうちに、白鴈(はくがん)を放し飼ひおかるゝ所に、狐、これを取りはべりしかば、あるじの殿(との)、腹(はら)を立て、近習の人々にまうし付けらるゝは、

「かひ鳥(どり)を、狐めが、とる事、にくき仕合(しあはせ)なり。明日は、うゑこみの中を狩り、きつね、穴にあらん程に、盡く、殺せ。」

と、云ひつくる。

 人々、

「かしこまる。」

と申す。

 しかれば、其の夜(よ)、宿直(とのゐ)する人の夢に、

「殿の御飼ひなされ候(さふらふ)鳥を、植込に住ひする狐がとりたるとて、御腹立遊ばし候事、御尤もに候へども、さりながら、さにはあらず、他の狐がわざなり。すなはち、成敗して差上げ候はんまゝ、明日(あす)の狐狩は、御赦し給ふやうに賴み奉る。」

由、現(うつゝ)の如く見えしかば、

『ふしぎなる夢を見申したるものかな。』

と思ひながら、かくともいはで、其の日は暮れぬ。

 扠(さて)、その日は、殿に、客人(まらうど)、しげく有りしかば、狐狩も、沙汰なくて過ぎぬ。

 又、其の夜(よ)の夢も、同じく見えて、

「情(なさけ)なき事よ、ゆうべの程、御詫言(おわびこと)を申すに、訴へも給はらぬことよ、御客人あればこそ、昨日の命は助かりたれ、明日は、すでに、御成敗、きはまりぬ。」

と、二夜(ふたよ)まで、有り有りと見えしかば、餘りの事の不思議さに、御前(ごぜん)に參り、此の由を、こまごまと、申し上ぐる。

 殿も、

「今夜、不思議の夢を見つるなり。さらば、まづ、今日の狩をば、やめよ。」

と宣(のたま)ひける。

 扠(さて)、明くるつとに、大きなる狐、五匹を殺して、緣に、もておくと、なん。

 これは、昔物語のたぐひにはあらぬを、不思議なるまゝに書きつけ侍るとぞ。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収)によれば、これは鎌倉中期に成立した説話集「古今著聞集」の「變化」の中の一章「大納言泰通、狐狩を催さんとするに、老狐夢枕に立つ事」を先行類話として挙げておられる。古典テクスト・サイト「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたものが読める。

「寬永八年ひつじのとし」寛永には、八年辛未(一六三一年)と、二十年癸未(一六四三年)がある。

「白鴈(はくがん)」カモ目カモ科マガン属ハクガン Anser caerulescens 。カナダ北部・アラスカ州・ウランゲリ島・シベリア東部で繁殖し、冬季になると、北アメリカ大陸西部へ南下して越冬するが、日本には、越冬のため、極く稀れに冬鳥として飛来する。

「つと」「つとめて」の縮約。早朝。夜明け方。]

「曾呂利物語」正規表現版 七 罪ふかきもの今生より業をさらす事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(本篇は載らない)。なお、本篇には挿絵があるので、国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入した。

 

     七 罪ふかきもの今生(このじやう)より業(ごふ)をさらす事

 

 宮古(みやこ)[やぶちゃん注:京都。]北野近(ちか)うに慳貪(けんどん)なる女、あり。まことに、善根なる心ざしは露ほども無(な)うして、惡業(あくごふ)は須彌(しゆみ)の巓(いたゞき)にも越えつべし。

 さるつれあひの男、用の事有りて、一條戾橋(でうもどりばし)の邊(へん)を、曉方(あかつきがた)に通りしが、橋の下に死人(しにん)の有りけるを、老女が、引き裂き、引き裂き、食ひけるを、よくよく見れば、我が子の母なり。

 

Hitokuihaha

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、「罪ふかき者今生ゟ」(より)「ごう」(ママ)「をさらす所」である。]

 

 不思議といふも愚かにて、急ぎ、我が屋に立ちかへり、母の、いまだ、臥して有るを、起しければ、驚き、起きあがりて、

「さてさて、おそろしき夢を見つる中(うち)に、嬉しくも、おこさせ給ふものかな。」

といふ。

「いかなる夢を見給ひつる。」

と謂へば、

「橋の下に、死人のあるを、引きさきて食ふと思ひしが、夢心にも、『こは、淺ましきことかな。』と思ひしながらも、食ふは嬉しき心地ぞかし。」

といふ。

 程なく、彼のもの、身まかりにけるが、今生の罪業深かりしかば、來世はさこそと思ひやるさへ、不便(ふびん)なり。

[やぶちゃん注:同時期に出版されたもので、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』は展開部のコンセプトに強い類似性が認められる。また、後発の「諸國百物語卷之一 五 木屋の助五郎が母夢に死人をくひける事」は明らかに本篇の転用である。なお、『西原未達「新御伽婢子」 人喰老婆』は、京都が舞台で、橋の袂に「人喰姥(ひとくひうば)」が出現するというコンセプトが親和性を持っている(以上は総て私の過去の電子化注である)。

「さるつれあひの男」「我が子の母なり」という表現が、私には妙に躓く。「さる」には、この女が複数の男と関係を持っていたことを暗示しておきながら、家にいる子は、確かにこの男の「我が子」であり、産んだのは、妻であるという変なニュアンスを嗅がせるためであろうか?

「一條戾橋」既出既注。]

「曾呂利物語」正規表現版 六 人をうしなひて身に報ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今までは、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入してきたが(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)、裏映りを消すために補正すると、薄くなるか、全体が黄色くなるかで、今一つ気に入らない。そこで、状態がかなりいい、上記岩波文庫版に挿絵の載るものは、それを画像で取り込み、トリミング補正することとした(今回はそれである)。

 

     六 人をうしなひて身に報ふ事

 

 津の國大坂に、「兵衞(ひやうゑ)の次郞(じらう)」とかや云ふもの、有り、いろを好む心、ふかうして、召使(めしつか)ひける女を、忍びて、褄(つま)を重ねけり。

 本妻は、例(れい)より、物(もの)ねたみ、いとはしたなくて、かく、雨夜(あまよ)のものがたりに、左馬頭(さまのかみ)がゆびを食ひきりしには、猶、こえたり。

 さるに、なにがし、他行(たぎやう)のひまに、かの女を、とらへ、井(ゐ)のうちへさかさまにおとし、ふしづけにこそしたりけれ。

 なにがし此の事、夢にも知らず、月頃(つきごろ)すごしけるに、一人(ひとり)の寵愛の男子(だんし)有りけるが、以ての外に勞(いたは)りけるを、色々、養生・祈念・祈禱をしけれども、其のしるし、なし。[やぶちゃん注:「以ての外に勞(いたは)りけるを」尋常でない重い病気に罹ってしまったので。]

 其の頃、「あまのふてらやの四郞右衞門」といふ針(はり)たて[やぶちゃん注:針医(はりい)。]、天下無雙の聞え有りけるを、招き、一日、二日のうち、養生す。

 ある夜(よ)、月のあきらかなるに、四郞右衞門、緣に出(で)て有りけるが、何處(いづく)ともなく、いとあてやなる女、きたりて、四郞右衞門にうちむかひ、さめざめと泣きゐたり。

 不思議なることに思ひ、

「いかなるものぞ。」

と、尋ねければ、

「恥かしながら、此の世を、去りしものなり。あるじの北の方、あまりに情(なさけ)なきことの有りしにより、うらみ申しに、來りたり。其の子は、何と針をたて給ふとも、さらに甲斐、あるまじ、いそぎ、そなたは歸りたまへ。さなくば、眼前にうきめを見せ侍らん。」

と云ふ。

 四郞右衞門、肝(きも)をけし、

「さては、亡靈にて有りけるかや。たゞし、如何(いか)やうの恨みぞ。其方の跡をば、ねんごろにとぶらはせ侍らんに、恨みを、晴らし給へ。」

といふ。

「いやとよ、此の子を取り殺さでは、おくまじ。」

とて、歸らんとするを、餘りの不思議さに、袖を控へ、

「さるにても、いかなる恨みの侍るぞ。」

といへば、

「しかじかの事、さふらひし。」[やぶちゃん注:以下の頭に「と、」を入れたい。]

折檻は世の常、あまりに情なき事ども、ありのまゝにぞ語りける。

 

Hitowokorositeminimukuu

 

[やぶちゃん注:キャプションは以上では切れて確定的には読めないが、最も状態のよい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像(これは残念ながら許可なくして使用は出来ない)を見るに、「ひとをころし身にむくう事」と判読出来る。]

 

 扨(さて)、女は、たけ、一丈もあるらんと思(おぼ)しくて、そらざまに生(お)ひたち、髮は白がねの針をならべたる如く、角さへおひて、朱(しゆ)まなこ、牙(きば)を嚙みたる有樣、たとへて、云はん方も、なし。[やぶちゃん注:ここで亡霊は瞬時に鬼形(きぎょう)に変じているのである。]

 四郞右衞門、一目見(めみ)、あはせて、そのまま消え入り侍りしが、あるじ、來たりて、[やぶちゃん注:「一目見、あはせて」(ひとめみ)で、「一瞬、その亡霊と目を見合わせた途端」の意。]

「此は、いかに。」

と、やうやう、助けものして、事の仔細を問ひければ、

「かやうかやうの姿を、一目見しより、夢うつつともわきまへず、たえ入り候。」

といふ。

 猶も、委しく尋ぬれば、はじめ、終はり、事(こと)こまかにぞ語りける。

 兵衞の次郞、これを聞き、

『いかゞすべき。』

と思ひ患(わづら)ひ、又、一兩日のほど過ぎて、四郞右衞門を呼びに遣(つか)はし、

「いかゞすべき。」

と談合しけるが、又、其の夜、四郞右衞門が枕上に來り、

「如何に言ふとも、かなふまじ。日こそ隔たるとも、一門眷屬、次第々々に取りて、北の方に、思ひ知らせん。」

と、いふかと思へば、屋根より、大磐石(だいばんじやく)をおとしけるが、彼(か)の子は、微塵に碎けて、亡(う)せぬ。

 母は、月花(つきはな)とも眺めしひとり子(ご)を、かく恐ろしき事にして、歎き悲しみ侍りしが、それより打續(うちつゞ)き、母の一門、盡(ことごと)く滅びて、つひには、母、重き病(やまひ)の牀(とこ)にふす。

 人に憂き目を見せければ、かかりける事、有りとは、昔物語にこそ聞きしが、今も有ることにこそ。

[やぶちゃん注:本篇は「諸國百物語卷之五 十一 芝田主馬が女ばう嫉妬の事」で、コンセプトを転用しつつ、よりリアルに換骨奪胎している。

「雨夜(あまよ)のものがたりに、左馬頭(さまのかみ)がゆびを食ひきりし」非常に知られた「源氏物語」の「帚木」(ははきぎ)の帖の、光源氏(数え十七歳)が色好みに覚醒する、所謂、「雨夜の品定め」の中の、左馬頭の経験談を指す。サイト「源氏物語の世界 再編集版」のこちらの冒頭がそれ(原文・二種の現代語訳附き)。私の教師時代のシノプシスのダイジェスト・プリントから引く。

   *

◇左馬頭の経験談――「指喰(ゆびく)いの女」(嫉妬深い女)――若い頃に付き合った女がいたが、これが、あまりに嫉妬深く、わざと薄情な素振りを見せたところが、「女も、えさめぬ筋(すぢ)にて、指(および)ひとつ、引き寄せて、喰ひはべりし」。その後、ちょっと意地を張って会わぬうちに、亡くなってしまった。気の毒をした。

   *

「ふしづけ」「柴漬け」と書く。体を簀巻きなどにして、水に投げ入れること。元は拷問や刑罰・私刑としてあった。

「あまのふてらやの四郞右衞門」岩波文庫版の高田氏の注に、『不詳。地名であろう。尼野江寺か』とある。但し、そちらの本文は『あまのふてら四郎右衛門』である。

「いやとよ」「否とよ」で感動詞。元は感動詞「いや(否)」+連語「とよ」。「いや! そうではない!」「いや! 違う!」と言った感じで、相手の発言を強く否定する際に発する語。

「助けものして」岩波文庫版の高田氏の注に、『正気づかせて』とある。「ものす」で他動詞(サ変)で「(ある動作を)する」の意の代動詞。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七番 炭燒長者

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

   七番 炭燒長者

 

 或る所に、隣同志の仲の良い父(トヽ)共があつて、木を伐りに山へ行き、其處の山神の御堂に入つて泊つて居ると、二人は言ひ合はしたやうに、同じ夢を見た。その夢は、自分等が泊つて居る御堂へ何處からか多勢の神々が寄り集つて、がやがやと何事か相談し合つてゐるところである。其の中の一人の神樣が、やいやい此所《ここ》の主の山神が見えぬが如何《どう》したと言つた。これは本當に可笑しい、如何したのだらうと言ひ合つて居る所に、外から其の山神が還つて來た。如何した、何處へ行つて居たといふ神々の問ひに、山神の言ふには、留守にして居て濟まなかつた。實は此の下の村に、お產があつたものだから、それを產ませてから來ようと思つて、思はず暇をつぶしたが、先づ何れも無事で此の世の中に又二人の人間が出たから喜べと言ふ。神々は、それはよかつた。して產れた子は男か女かと問ふと、山神は男と女だ、隣合つて一緖だつたと言つた。そうか、そして其の子供等の持運《もちうん》は如何だつた。そうさ、女の兒の方は鹽一升に盃一個と言ふ所だが、男の兒は米一升しか持つて居なかつたと言ふ。緣は、と又神々が訊いた。緣か、緣は初めは隣同志だから二人を一緖にしようと思ふが、とにかくそうして置いてから復(マタ)考へてみようと言つた…と思うと不圖《ふと》二人の父(トヽ)は目を覺《さま》した。そしてその夢を言ひ合つて互に不思議に堪えられず、まだ夜も明けなかつたが、共々家へ歸つた。家へ歸つて見ると、夢の通り兩方に男と女の兒が產れて居た。

 二人の子供は大きくなつて、夫婦になつた。其の家は俄に富み榮えて繁昌した。その女房は、神樣から授つたやうに、一日に鹽一升を使ひ盃が手から放れないで、出入の者にザンブゴンブと酒を飮ませた。それだから其の家の門前はいつも市のやうに賑かであつた。夫はそれを見てひどく面白くなかつた。何でもかんでも湯水のやうに使ふても、こんなに物がたまるのだから、妻が居《を》らなかつたら此上どんなに長者になれるか知れないと考へて、或る日妻を追出《おひだ》した。妻は泣いて詫びたけれども遂に許されなかつた。

 妻は夫の家を出て、何處といふ目的(アテ)もなしに步いて行つたが、其の中に日が暮れた。腹が空いてたまらぬので、路傍の畑に入つて大根を一本拔いて食べようと思つて、大根を拔くと、其の跡(アト)から佳い酒の香りがして水が湧き出した。それを掬つて飮むと水ではなくて酒であつた。妻はお蔭で元氣を取り返して、斯《か》う歌つた。

   古酒(フルサケ)香(カ)がする

   泉の酒が湧くやら

 そして自分で自分に力をつけて、道を步いて行つた。すると向ふの山の方に赤い灯の明りが見えた。女房はそれを目宛(メアテ)に辿つて其處へ行つて見ると、一人の爺が鍛冶をしてゐた。女房は火の側へ寄つて行つて、今夜泊めてクナさいと言つた。爺は見らるゝ通りの貧乏だから、とても泊めることは出來ぬと答へた。すると女房は、お前が貧乏だと言ふなら、世の中に長者はあるまい。見申《みまを》さい、この腰掛石や敷石や臺石を、これを何だと思ひますと言ふと、爺はこれはただの石だと言つた。否々これは皆《みな》金だ、金だから町へ持つて行つて賣《う》ンもさいと女房が敎へた。

 爺は翌日其の中の一個を町へ持つて行つて見た。町では[やぶちゃん注:底本は「見た 町 は」であるが、「ちくま文庫」版で訂した。]何處でもこれは大したものだ。とてもこれに引換へるだけの金(カネ)を爺一人で背負つて行けるものではないと言はれた。さう言はれる程の多くの金を爺は叺《かます》に入れて背負つて歸つた。山の鍛冶小屋の附近は一體にそれであつたから、爺と女房は忽ちに長者となつた。そしてまた女房の方では、土を掘ると前のやうに酒が湧き出たので、これも酒屋をはじめ其の山は俄に町となつた。女房の先夫は、ひどく貧乏になつて、息子と二人で薪木《たきぎ》を背負つて其の町へ賣りに來たりした。

  (和賀《わが》郡黑澤尻町《くろさはじりちやう》邊にある話、家内の知つていた分。)

[やぶちゃん注:「炭燒長者」譚は日本各地に伝承される長者譚である。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の「柳田國男 炭燒小五郞がこと」(全十二回分割)を参照されたい

「和賀郡黑澤尻町」現在、岩手県北上市黒沢尻(グーグル・マップ・データ)があるが、旧町域は遙かに広い。「ひなたGPS戦前の地図を確認されたい。

「家内」私は佐々木喜善の詳細年譜を所持しないが、この謂いからは彼の妻女はその黒沢尻の出身であったのであろう。【二〇二三年三月二十七日削除・追記】DekunobouMiyazawakenjiClub氏のサイト「気圏オペラの役者たち」の「民話」の「賢治と意外な接点をもっていた、遠野物語の語り手 佐々木喜善」に詳細な年譜があるのを見つけた。それによれば、彼は明治四三(一九一〇)年(この年、彼は満二十四歳)の時、『岩手県胆沢』(いさわ)『郡金ヶ崎』(かねがさき)『村』(ここ。グーグル・マップ・データ)『出身の看護婦千田マツノと親の反対を押し切り同棲する』とあり、大正三(一九一四)年(同前で二十八歳)の一月二十日に、『内縁の妻マツノと正式に婚姻入籍』しているとあったので、黒沢尻出身ではない。但し、金ヶ崎は黒沢尻の南西に近くので、伝え聴いてたものであろう。

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「鹽を好む山犬」・「馬には見える山犬の姿」・「煙草の火と間違へた山犬の眼」・「水に映る姿」 / 山の獸~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○鹽を好む山犬  山犬のことを山ノ犬、オイヌサマなどと謂ひ、これに後《あと》をつけられることを送られると謂ひます。夜《よる》山道などを通つて送られた時は、御禮に門口へ鹽を置くと謂ひます。又送つて來る時は轉んだら喰べようと云ふから、轉ばぬ用心が第一とも謂ひます。五十年ばかり前に亡くなつた早川孫三郞と云ふ男は、山犬に送られた事があつたと云ふ事ですが、其時、お禮に門口へ鹽を出したら、姿を顯はして喰べたと謂ひます。送る時は人の後から隨つて來ないで、路に沿つた木立の中を、時折肢音《あしおと》をさせて來ると謂ふ事です。

 又山犬は火を嫌ふから、夜道をする時は、切火繩《きりひなは》を持つて步くものと言います。

 山犬は、山の神に誓言《せいごん》して、枯草に鳴いて、靑山には鳴きませんと言つたから、夏は鳴かぬと謂ひます。これを山の神の御誓言と云ふさうです。

[やぶちゃん注:ここで言う「山犬」「山ノ犬」「オイヌサマ」は、本邦の近代までの民俗社会では、これらは「野犬」(のいぬ/やけん:哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属オオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris。私は犬が野生化した個体や、その個体群を、恰も生物種のように「ノイヌ」と表記することに反対である)ではなく、「狼信仰」で霊験を持つとも考えられた、絶滅近かったニホンオオカミ(イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax:確実な最後の生息最終確認個体は明治三八(一九〇五)年一月二十三日に奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村大字小川(グーグル・マップ・データ))で捕獲された若いオスである。著者早川孝太郎氏は明治二二(一八八九)年の生まれである)を原則的には指すので、注意が必要である。「山犬」「豺」(やまいぬ)という呼称も非常に古くからあるが、これは野犬ではなく、ニホンオオカミの別名である可能背が高いとする説が有力である。但し、ごく最近、我々が絶滅させてしまったニホンオオカミの標本のDNA解析が行われ、それが、ニホンオオカミと野犬の雑種であることが判明しており、高い確率で、近代までには、既にしてニホンオオカミと野生化したイエイヌの雑種群が広く存在していた(している)可能性が高いようには思われる。

「鹽」野生や飼育している草食動物が盛んに自然塩水や岩塩・海水塩などを摂取することは知られているが、肉食動物の場合は得物である草食動物の血液や骨から塩分を摂取するので、動物摂取が上手く行っていない場合を除いて、ニホンオオカミが積極的に置かれた塩を食べることはないはずである。野生の草食性或いは雑種摂取の動物が舐めたのを誤認したと考える方が妥当であろう。

「切火繩」適当な長さに切った火縄。火縄銃に点火する以外に、煙草に火をつけたりするほか、時間を計るのにも回して火が消えぬようにしつつ、携帯して用いた。]

 

 ○馬には見える山犬の姿  馬方が夜にかけて稼げば、大變利益があるけれど、馬が山犬を怖れて瘦せると謂ひます。またびつしより汗を搔いてゐるなどとも謂ひます。

 早川柳策と云ふ男が、暮方鳳來寺村の長良と云ふ所から馬を曳いて來て、村を出離《ではな》れて、ふだん山犬が出ると云ふ噂のある、行者樣《ぎやうじやさま》と云うふ處へさしかゝると、突然馬が手綱を振切《ふりき》つて、もと來た道を馳せ歸つたと謂ひました。馬は人家の前で、村の者が捕へて吳れたと云ひましたが、未だ人の顏がぼんやり見える程の時刻だつたさうです。

[やぶちゃん注:「長良」であるが、次の話にも出るのだが、これは「長樂」の誤りではなかろうか。旧鳳来寺村には「長良」はなく、「長樂(ながら)」ならあるからである。「ひなたGPS」のこちらを見て戴くと、現在も地名として生きていることが判る。

「行者樣」先行する「行者講」に出た「行者樣と呼んでゐる石像」と同じであろう。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の右の方の『(萬燈山)』の麓の道がカーブする南東の山側部分に『行人石像』とあるのがそれであろう。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)になくてはならないはずだが、見当たらない。ストリートビューでも確認出来ない。]

 

 ○煙草の火と間違へた山犬の眼  ある煙草好きの男が、海老《えび》へ行く街道を急用があつて夜中に步いて行く途中で、長良と云ふ處を出離れて玖老勢《くろぜ》へ越す杉林の中で、煙草の火を切らしてしまつて、煙草を煙管《きせる》へ詰めたまゝ口に咥《くは》へ行くと、行手に煙草を喫つてゐるらしい火が一ツ見えるので、急いで近づいて行つて、どうぞ火を一ツと、煙管を差出すと、それは山犬の眼であつたのに仰天して、其處に尻餅を撞《つ》いて氣絕してしまつたと謂ひますが、山犬の方でも閉口して傍の草叢へ飛込んだと謂ふ話があります。

[やぶちゃん注:「海老」橫山からは北方の山間部である新城市海老(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「長良」前条の私の注を参照されたい。

「玖老勢」新城市玖老勢(同前)。南西側で横川と一部が接する。]

 

 ○水に映る姿  遠江の山住樣《やまずみさま》や、春野山は山犬の神樣だと謂つて、狐憑《きつねつ》きなどのある時は、幾日間と期間を定めてお姿を借りて來ると謂ひます。其折は豫《あらかじ》め神主に依賴すると神主が、神樣に御都合を伺つて、行くと仰しやれば、初めてお札を渡すので、それを受取つたら決して後《うしろ》を見ないで、どんどん歸つて來るのだと謂ひます。もし後を見返ればお犬樣が歸つてしまうと謂ひます。それで途中川などがあつて、橋を渡つたり、渡し船に乘つた時などは山犬の姿が水に映つて見えると謂ひます。

 家へ着くと、山犬が先づ其屋敷を三度廻るものと謂ひますが、八名郡の山吉田村字畑中と云ふ處のある家で迎へて來た時は、姿は見えないで、門口で三聲恐ろしい聲で吠へた[やぶちゃん注:ママ。]と謂ふ事です。

[やぶちゃん注:「遠江の山住樣」狼を神使とする、横山からは東北に直線でも四十キロ離れた、静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼちょう)山住の山中にある山住神社(同前)。

「春野山は山犬の神樣」同じく天竜区の春野町(はるのちょう)花島(はなじま:同前)の峻険な花野山の山頂に立つ行基開山と伝える埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)。横川からほぼ東に直線で約四十一キロ離れる。本堂の前に