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2023/03/31

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 野生食用果實

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、この前にある「鄕土硏究一至三號を讀む」は、単発考証の集合体であるため、本書の最後に回して、分割して電子化することとした。

 

     野生食用果實 (大正二年六月『鄕土硏究』第一卷第四號)

 

 一八七七年初板「リュイス・エチ・モルガン」の「古代社會論」四章に、北米「イロクイス」族が全く耕稼《かうか》[やぶちゃん注:「耕作」に同じ。]を知なんだ時に、其發展に大必要だつた食料を擧《あげ》た。第一に、麪包根(カマツシユ)とて豆科の草根《くさのね》、丁度、吾國の窮民が豆科の「ほど」の根を食ふやうな物。第二に、夏中、諸《もろもろ》の漿果(ベリース)、多かつた。次に川に鮏《さけ》と介類と、斯《か》ふ揃つて居たので、「コロムビア」谷は穀物知らぬ民族の樂土だつた、と見える。吾邦にも、田畑無い處では、魚介鳥獸の外に、草木の根・葉・芽・莖から、皮までも、食《くつ》たに相違無い。其等《それら》草木の名は、故伊藤圭介翁が「救荒雜記」とか題して、官報へ出した物を見ると大抵分かると思ふ。

[やぶちゃん注:『「リュイス・エチ・モルガン」の「古代社會論」忌まわしい白人優位主義者であったアメリカの文化人類学者ルイス・ヘンリー・モーガン(Lewis Henry Morgan 一八一八年~一八八一年)の‘Ancient Society’ (一八七七年・ニュー・ヨークにて出版)。「Internet archive」で原本の“PART  IV”は“GROWTH  OF  THE  IDEA  OF  PROPERTY”(「所有権の概念の発達」)はここから。

『北米「イロクイス」族』イロコイ族(Iroquois:アメリカ・インディアンの言葉で「毒蛇」を意味する語と、フランス語の語尾を合成したもの)。アメリカ・インディアンの一種族で、北アメリカ東部森林地帯に居住し、十六世紀以後、五部族を統合し、政治的連合としての部族集団「イロコイ連邦(同盟)」を形成した。詳しくはウィキの「イロコイ連邦」を読まれたい。「イロコワ族」とも呼ぶ。

「麪包根(カマツシユ)とて豆科の草」熊楠はマメ科(被子植物門双子葉植物綱マメ目マメ科 Fabaceae)と言っているが、全く違って、アスパラガスの仲間である。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ(クサスギカズラ)科 Agavoideae亜科カマッシア属Camassia(タイプ種カマッシア・クアマッシュCamassia quamash)である。北アメリカ原産で、同属は湿った牧草地に自生する。英文のタイプ種のウィキによれば、カマッシア属の種の球根は、ローストしたり、煮たりすると、食用になり、栄養価も高くなる旨の記載があった。カマッシアが食用になることは、邦文の花言葉情報サイト「華のいわや」の「「カマッシア」の花言葉とは?花言葉を徹底解説」の中にも書かれてあり、『「カマッシア」の和名はヒナユリ(雛百合)といいます』。『雛は雛人形を表し、人形が使うサイズのような小さいものに一般的に付く言葉で、「カマッシア」の場合は花の小ささから付いたものです』。『「カマッシア」というのは、アメリカ先住民のチヌーク族が「カマス」「カマッシュ」と呼んでいた事から付いた名前です』。『現地では低湿地に群落を形成し、草原全体が花の色で染まるそうです』。『ユリ科に共通する鱗状の球根は、有毒ですが』、『デンプン質で甘味があるため、貴重な食糧や非常食として利用されました』。『毒の処理が必要で農薬も使われている事から、実際に食べるのはやめましょう』と注意書きがあった。

「漿果(ベリース)」“berry”(ベリー)の複数形“berries”の音写。小さく多肉質・多汁質で、しばしば、食用とされる果実のこと。

「鮏」硬骨魚綱サケ目サケ科サケ属サケ(シロザケ)Oncorhynchus keta 。北太平洋と北極海の一部を棲息地とする。

「介類」アメリカの淡水貝には詳しくないが、古異歯亜綱イシガイ目 Unionoidaの内の大型二枚貝類であろう。英文ウィキの「Unionida」を見て戴くと判るが、長い年月、真珠層を得るために多量に漁獲されてしまった結果、北米では、同目の七十%が絶滅し、残りの種も絶滅が危惧されるまで個体数が減っている。但し、そちらにもある通り、淡水真珠を得るために養殖で増やすことに成功した種もある。それほど旨くはないと思うが、インディアンたちは食用にしたであろう。

『「コロムビア」谷』カナダのブリティッシュコロンビア州およびアメリカ合衆国太平洋岸北西部を流れる、カナディアン・ロッキーに源を発するコロンビア川(Columbia River)の形成した非常に規模の広い峡谷。川自体は、ウィキの「コロンビア川」を参照されたいが、『ザ・ダルズとポートランドの間で、コロンビア川はカスケード山脈を横断し、雄大なコロンビア川峡谷を形作る』とある。また、そこには、かの「マンハッタン計画」以来、半世紀間に亙って『操業したハンフォード・サイトのプルトニウム生産炉による放射能汚染が深刻な問題となっている』とあった。別にウィキの「コロンビア川峡谷」Columbia River Gorge)があり、そこのこの地図で狭義の峡谷の位置が判る。

「伊藤圭介」理学博士で男爵の伊藤圭介(享和三(一八〇三)年~明治三四(一九〇一)年)。幕末から明治期に活躍した植物学者で、「雄蘂」「雌蘂」「花粉」といった植物学用語を創ったことでも知られる。詳しくは、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 16 本草学者伊藤圭介との邂逅」の私の注を見られたい。「救荒雜記」不詳。しかし熊楠は「とか題して」と言っているので、これは思うに、「救荒食物便覽」(天保八(一八三八)年述・門人二人による編)のことではないか。思ったより、簡便な表形式のものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで見られる。]

 紀州では到る處、今も小兒が「椎、櫧《かし》、柴の實、くへぬ物はどんぐり」と唱へて遊ぶ。蒙昧の代《よ》に、親子、森林に食料果實を求むる時、斯樣な句を唱へて子供に訓《をし》へた遺習であらう。二年前、既《すんで》の事、伐《きら》るゝ處を、予が其筋と公衆に訴へて漸く免れた那智瀧の水源、寺山《てらやま》も、「紀伊續風土記」卷八十に、『其廣さ、大抵、二里四方と云ふ。四十八瀧、多く寺山の内に在り、且つ、此處、一の瀧の源なれば云々、其區域、廣大なるに、他木を植《うゑ》ずして、一面に樫木ばかりを植たり。其故は、樫木は、冬、凋《しぼ》まざる故、四時、鬱蓊《をううつ》[やぶちゃん注:「鬱蒼」に同じ。]として靈山の姿を表《あらは》すべく、且つ、瀧の源水を蓄ふるに宜しくして、材木の用に非ざれば、伐り荒らす害、無し(所が、近時、樫も、其材、用、多く、價格、出で來り、種種《いろいろ》、奸計して伐悉《きるつく》さうとする事と成《なつ》て來た)。從來、色川《いろがは》の村々は、山中に栖《すん》で、食物の乏《とぼし》きを憂ひ、山稼《やまかせ》ぎを專らにする者なれば、年々、寺山にて樫の實を拾ひて、食料の助けとす。大抵、家每に拾ひ得る事、十俵より十五俵に至るを常とす。鄕中の所得を考《かんがふ》るに、一歲の總高、千二、三百石に至ると云ふ。然《しか》れば、材木の用を成《なさ》ざれども、食料となる事、大なる益と言ふべし。」と出づ。

[やぶちゃん注:「椎」ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の樹木、或いは、近縁のブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis かも知れぬ。

「櫧」「樫」に同じ。ブナ目ブナ科 Fagaceae の常緑高木の一群の総称。ウィキの「カシ」によれば、狭義にはコナラ属Quercus中の常緑性の種をカシと呼ぶが、同じブナ科でマテバシイ属のシリブカガシもカシと呼ばれ、シイ属 Castanopsis も別名でクリガシ属と呼ばれる。この類は渋み成分のタンニン類が含まれているため、灰汁抜きが必要である。

「柴の實」ツツジ目ツツジ科スノキ(酢の木)亜科スノキ属アクシバ(灰汁柴) Vaccinium japonicum 。果実は直径五ミリメートル球状の液果で、赤色に熟す。食用になる。

「どんぐり」広義にはブナ科の果実の俗称で、狭義にはクリ・ブナ・イヌブナ以外のブナ科の果実、最狭義にはブナ科のうち特にカシ・ナラ・カシワなどコナラ属樹木の果実の総称を指す。但し、灰汁抜きをすれば、所謂、「どんぐり」類は食用になる。縄文時代から食されてきた。

「寺山」これは以下の「紀伊續風土記」の引用の引用前の部分に、『寺山は那智山の奥の總名にして鎌は那智境内四至の外にもあり。』とある。「ひなたGPS」で戦前の地図を見ても、「寺山」という地名自体は見当たらない。

『「紀伊續風土記」卷八十に、……』国立国会図書館デジタルコレクションの同書の活字本の「第三輯」の「牟婁 物産・古文書・神社考定」(仁井田好古 等編・明治四三(一九一〇)年帝国地方行政会出版部)のこちら(「牟婁郡第十二」の「色川鄕」の「○寺山樫ノ木」の条の一節。ここの右ページ上段の二行目以降で視認出来る

「色川の村々」先と同じ「ひなたGPS」で戦前の地図を参照されたい。東端に『色川村』が確認出来る。現在は、那智山の北西部に和歌山県東牟婁郡那智勝浦町口色川くちいろがわ)として名が残る(グーグル・マップ・データ)。]

 扨、問(一七)[やぶちゃん注:「選集」に編者割注があり、「『郷土研究』一巻三号」とある。]の質問者が知つて居ると云ふ栗と椎(と「まてば椎」)の外に、山の中で食べる樹の實、予が知た丈《だけ》を爰《ここ》に錄す。?を附したのは、予が試みに食《くつ》て何の害も無《なか》つたが、果して他人も食ひ得るか分らぬ物だ。又、喬木に限らず、灌木・亞灌木・木質の蔓生、又、攀緣《はんえん》、又、匍匐植物の實も名を出《いだ》す。

[やぶちゃん注:「攀緣」崖や樹木の幹に絡みついたり、附着する形でそれらを登攀する植物群を指す。]

 其名に云《いは》く、かや、いちい、まき、てうせん松、くるみ、やまもゝ、はしばみ、つのはしばみ、ぶな、いぬぶな(?)、かしは、くぬぎ、こなら、其他、櫧《かし》屬數種、むく、えのき、桑、いぬびは、くわくわつがゆ、やなぎいちご、つくばね、あけび、みつばあけび、むべ、めぎ(?)、やしほ、さくら、いぬざくら、うわみづざくら、ふゆ苺、かぢ苺、くま苺、あは苺、なはしろ苺等の木本苺、かまつか、うらじろのき、びわ、しらき、がんかうらん、とち、なつめ、けんぽなし、がねぶ、のぶだう(紀州鉛山《かなやま》温泉邊で、此果を「藤次郞」と呼び、「之を食ふと、齒、落ちる。」と云ふ。和歌山市でも、齒無き人を、「齒拔け藤次郞」と嘲稱す)、さんかくづる、ひさかき(?)、さるなし、またゝび、みやままたゝび、ぐみ數種、やまぼうし、あくしば、いはなし、こけもゝ、つるこけもゝ、あかもの、くろまめのき、しらたまのき、しやしやんぼ、くこ、にわとこ(?)、がまずみ、うぐひすかずら。先づ、こんな物ぢや。

[やぶちゃん注:やって呉れちゃいましたね、熊楠先生。おう! 受けましょうぞ!!!

「かや」榧。裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera当該ウィキによれば、『種子は食用となり、焙煎後の芳香から「和製アーモンド」と呼ばれることもある』。『生の実はヤニ臭くアクが強いので、数日間アク抜きしたのち煎るか、クルミのように土に埋めて果肉を腐らせて取り除いてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯で茹でるなどしてアク抜き後に乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある』。古くは『カヤの実には戦場のけがれを清浄なものにする力があるといわれ、武士が凱旋した際には搗栗(かちぐり)とともに膳に供えられた』とあった。私も食したことがある。以下、私が食べたことがある場合は文末に「◎」を添え、食べたことがないものには「✕」を添える。

「いちい」櫟。裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata 当該ウィキによれば、『果肉を除』いて、『葉や植物全体に有毒』の『アルカロイドのタキシン(taxine)が含まれて』おり、『種子を誤って飲み込むと』、『中毒を起こす。摂取量によっては痙攣を起こし、呼吸困難で死亡することがあるため注意が必要である』が、『果肉は甘く』、『食用になり、生食にするほか、焼酎漬けにして果実酒が作られる』。『アイヌも果実を「アエッポ(aeppo)」(我らの食う物)と呼び、食していたが、それを食べることが健康によいという信仰があったらしく、幌別(登別市)では肺や心臓の弱い人には進んで食べさせたとされ、樺太でも脚気の薬や利尿材として果実を利用した』とある。◎。

「まき」真木。裸子植物門マツ綱マツ目マキ科 Podocarpaceae の複数の種を指すが、「マキ」という種は存在しないウィキの「マキ科」によれば、『マキ属』(Podocarpus:マキ科の中でも最大のグループで百種余りを含む。イヌマキ(Podocarpus macrophyllus)が日本にも分布する)『のイヌマキ』『の果実には少量なら食べられるものもあるが、一般に種子は細胞毒性を持ち』、『有毒である。葉や花粉も有毒で、これらはイチイ科』(Taxaceae:櫟は前揭)『にも共通である。特に花粉はアレルギーの原因となることがあるとされる。毒成分の一つがラクトン類であり、生薬として利用されることもある』とある。✕。

「てうせん松」「朝鮮松」はマツ目マツ科マツ属 Strobus 亜属 Cembra 節チョウセンゴヨウ(朝鮮五葉) Pinus koraiensisの異名。種子は、所謂、「松の実」として利用される。◎。

「くるみ」胡桃。双子葉植物綱ブナ目クルミ科クルミ属 Juglans 。本邦に自生するクルミ属マンシュウグルミ変種オニグルミ(鬼胡桃)Juglans mandshurica var. sachalinensis や同じく変種ヒメグルミJuglans mandshurica var. cordiformisは、実が小さく、殻が割り難いが、縄文時代以来、食用にされている。◎。

「やまもゝ」山桃。ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra 。◎。私の好物である。勤務した横浜翠嵐高校の正面の二階教室寄りに何本も植わっていて、テラスに実が溜まって、自然発酵し、甘ったるい酒のようなそれが、よく匂ってきたものだった。

「はしばみ」榛。ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種ハシバミCorylus heterophylla  var. thunbergii 。国産のハシバミの実は「和製ヘーゼルナッツ」とか、「国産ヘーゼルナッツ」などと呼ばれ、流通している。◎。

「つのはしばみ」角榛。ハシバミ属ツノハシバミ変種ツノハシバミCorylus sieboldiana var. sieboldiana 当該ウィキによれば、『堅果は黄褐色に熟したら食用になる。果実を採取し、刺毛に気をつけながら』、『総苞を剥いて』、『堅果を取り出し、堅果の殻から取り出したナッツを食用にする。脂肪に富み美味で、渋みがなく』、『生でも』、『煎っても食べられ』、『茶碗蒸しや煮物、すり潰して』、『和え物や菓子などの原料にも用いられる』とある。山奥の温泉宿に行った際に、料理として出たのを食べた経験がある。◎。

「ぶな」「椈」或いは「橅」。ブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata当該ウィキに、『果期は秋』(十 月から十一月)』で、『果実は総苞片に包まれて』十月頃に『成熟し』、『その殻斗が』四『裂して散布される。果実(堅果)は』二『個ずつ殻斗に包まれて』おり、『断面が三角の痩せた小さなドングリのような』形態を持つ。『しかし』、『中の胚乳は渋みがなく』、『脂肪分も豊富で美味であり、生のままで食べることができる。なお、ブナの古名を「そばのき」、ブナの果実を「山そば」「そばぐり」というのは、果実にソバ(稜角の意の古語)がある木、山で採れるソバ、ソバのある栗の意である』とある。私は教師時代の初め、ワンダー・フォーゲル部の顧問をしていた頃、先輩教師が教えてくれ、食したことがある。◎。

「いぬぶな(?)」犬椈。ブナ属イヌブナ Fagus japonicaサイト「GKZ植物事典」の同種のページに、『属名は、ギリシャ語で「食べる」の意』で、『ヨーロッパでは果実を食用』とし、『また、家畜の飼料にも用いたことによる』とあった。✕。

「かしは」柏。ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata 。サイト「森と水の郷あきた」(あきた森づくり活動サポートセンター編)のこちらに、本種を『救荒植物の一つ』と題して、『ナラ類のドングリと並び、飢饉の際の救荒植物として利用された。ただし、タンニンを含むため渋いので、渋抜きしないと食べられない。実は粉に挽き団子にして食べたり、炒ってコーヒーの代用にもされた』とある。葉はお馴染みだが、実の方は食べたことはない。✕。

「くぬぎ」漢字は「櫟」(先に出たイチイと同じだが、全くの別種)の他「椚」「橡」(トチノキ(後掲)と同じだが、全くの別種)「椚木」などと書く。ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima当該ウィキによれば、狭義には「ドングリ」は、この『クヌギの実を指』し、『地方によってはクヌギのことを、ドングリノキ』と呼ぶとあり、『実は爪楊枝を刺して独楽にするなど』、『子供の玩具として利用される』。『また、縄文時代の遺跡からクヌギの実が土器などともに発掘されたことから、灰汁抜きをして食べたと考えられている』とある。私はとある縄文体験学習で、灰汁抜きしたそれを食したことがある。◎。

「こなら」小楢。ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata。本種はタンニンが多く含まれ、渋みが強く、流水で晒したり、灰汁とともに煮沸するなどの手を加えないと食せないと、「東京学芸大学」公式サイト内の「『学芸の森』植物情報」の同種のページの解説にあった。✕。

「櫧屬」「選集」のルビを参考に添えたが、この単漢字は、教義にはコナラ属アカガシ亜属 Cyclobalanopsi アカガシ(赤樫) Quercus acuta を指すから、ルビは「あかがし」が正しいことになろうか。当該ウィキには、『果実は堅果、いわゆる「どんぐり」で、殻斗に褐色の毛があり、翌年の秋に熟すと食べられる』とあるが、食用した記憶はない。✕。

「むく」双子葉植物綱バラ目アサ科ムクノキ属ムクノキ Aphananthe aspera 。当該ウィキによれば、『果期は』十月頃で、『熟すと』、『黒紫色になり、乾燥して食用になり、味は非常に甘く美味である』とある。山間の土産物として買って食したことがある。◎。

「えのき」榎。バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis 。身近な木だが、実を食したことはない。調べると、サポニン(saponin)を含むので、ちょっとやめた方がよさそうだ。✕。

「桑」バラ目クワ科クワ属 Morus であるが、本邦の山に多く自生するのは、ヤマグワMorus bombycis 。私の大好物。「どどめ」と呼ばれるそれを、小さな頃は裏山でとって食べたのを思い出す。美味いけれど、唇や舌が強力な紫色に染まり、習合果の粒々の間の毛が、舌にイライラしたのものだった。◎。

「いぬびは」犬枇杷。バラ目クワ科イチジク連イチジク属イヌビワ Ficus erecta var. erecta 。果嚢は甘く、食用になる。少年時代、鹿児島の母の実家(鹿児島県曽於市大隅町岩川。グーグル・マップ・データ航空写真。私の祖父はこの中央にあった志布志線岩川駅前で歯科医を開業していた)に行った際、山で採って食べた。美味かった。◎。

「くわくわつがゆ」現代仮名遣では「かかつがゆ」で「和活が柚」と書く。クワ科ハリグワ属カカツガユMaclura cochinchinensis 。小学館「日本大百科全書」によれば、『別名ヤマミカン。大きなものは高さ』十『メートル、径』十『センチメートルにもなる。枝や葉は乳液を含む。葉腋(ようえき)に長さ約』一・五『センチメートルの刺(とげ)を生じ、刺は針状か』、『逆さに曲がって』鈎針(かぎばり)状を成す。『葉は互生し』、『柄があり、長楕円』『形ないし倒卵形で長さ』は四~七『センチメートル、全縁で薄い革質』を呈する。『球形の頭状花序は』一~二『個で腋生し、雌雄異株。集合果は径約』二『センチメートル、黄色に熟し』、『若葉とともに生食できる。材や根は黄色染料とする。本州南西部から四国、九州、沖縄の丘陵地に生え、東南アジア、インド、オーストラリア、東アフリカに分布する』とあった。正直、この和名自体を聴いたことがなかった。✕。

「やなぎいちご」柳苺。バラ目イラクサ科ヤナギイチゴ属ヤナギイチゴ Debregeasia orientalis 。小さな頃、「木苺(きいちご)」と呼び、裏山でクワの実と同じく、よく食べたものだったが、最近はとんと見ない。◎。

「つくばね」衝羽根。双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ツクバネ属ツクバネ Buckleya lanceolata当該ウィキに、『果実』の写真が載り、そのキャプションに『落下する時、羽根つきの羽根のようにクルクル回転する』とあるのが、和名の由来である。解説には『若葉は食用にできる。また若い果実も塩漬けにして食用にできる』とあるが、私は食したことはない。✕。

「あけび」木通。キンポウゲ目アケビ科アケビ属アケビ Akebia quinata 。小学生時代、向かいの寺のイチョウの木に、沢山、成った。寺の敷地にあった長屋に住んでいた、私を可愛がってくれたお兄さんが、季節(九~十月)になると、次のミツバアケビを含めて、沢山、採ってきて呉れた。私の大好物だったが、今、スーパーで売られているのを見ると、私は、何だか淋しい気がして、一度も買ったことがない。少年期の至福が壊される気がするからであろうか。

「みつばあけび」三葉木通。アケビ属ミツバアケビ Akebia trifoliata 当該ウィキによれば、『アケビよりいくらか山奥に生え』、『アケビに比べて育成地域が広く、荒れ地や乾燥地でも旺盛に繁殖する』。『果実がアケビよりも大きくなることから』、『果樹としても栽培される』とあった。今、売られているのは、こちらか。◎。

「むべ」郁子。野木瓜とも書く。アケビ科ムベ属ムベ Stauntonia hexaphylla 。昔、教員の大先輩が農家の出で、家で成ったものを頂戴したことがある。アケビと同じで、甘いのだが、種がやたらに多かった。◎

「めぎ(?)」目木。キンポウゲ目メギ科メギ属メギ Berberis thunbergii 。当該ウィキの画像を見ると、山でよく見かけたことはあるが、見るからに、ちょっと食指が動かなかった。✕。

「やしほ」「八潮」で、双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron のヤシツツジ類(アカヤシオRhododendron pentaphyllum var. nikoense・シロヤシオRhododendron quinquefolium・ムラサキヤシオツツジRhododendron albrechtiiの総称)か? 花は孰れも山行で見かけたことはあり、蜜を吸ったことならあるが……調べて見ると、ツツジ類は花が食用花となるらしい。✕。

「さくら」桜。双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜サクラ属 Cerasus 若しくはスモモ属 Prunus亜属(上位分類をスモモ属とした場合)サクラ亜属  Cerasus のサクラ類となるが、普通の日本人なら、ソメイヨシノ(染井吉野)Cerasus × yedoensis ‘Somei-yoshino’を想起する(同種は♀を本邦に自生するエドヒガン(江戸彼岸)Cerasus itosakura と、♂を日本固有種のオオシマザクラ(大島桜)Cerasus speciosaの雑種とする自然交雑若しくは人為的な交配で生まれた日本産の栽培品種である)。ここは塩漬けの花(桜湯・桜茶)や葉を指して挙げているものと思われるが、葉の場合は、オオシマザクラが適切とされ(芳香成分クマリン(coumarin)が他の種では発生し難いことによる)、花のそれは、花びらの重なりが多いカンザン(関山:Cerasus Sato-zakura  Sekiyama)がよいとされる。因みに、ソメイヨシノは葉も花も旨味はないという。以上の加工品なら、◎である。小学生の頃、学校のソメイヨシノの実をふざけて食べたが、甚だ不味かった。その点でも◎ではある。

「いぬざくら」犬桜。サクラ属イヌザクラ Prunus buergeriana個人ブログ「風の囁き」の「ウワミズザクラとイヌザクラの実」に、本種は『熟すと』、『黒紫色になり』、『果肉には苦みがある。果実酒には向かないのでは?と思います』とあるから、アウトだろう。✕。

「うわみづざくら」上溝桜(うわみずざくら)。バラ科ウワミズザクラ属 Padus 若しくはサクラ属 PrunusウワミズザクラPadus grayana 若しくは Prunus grayana 。同前の記事で、『黒く熟し』、『食べられる。果実酒にすると』、『香りと色が良い』とあるから、OKで、当該ウィキにも、『香りのよい、若い花穂と未熟の実を塩漬にしたものは杏仁子(あんにんご)と』称し、『新潟県を中心に食用とされる』。『また、黒く熟した実は果実酒に使われる』とあった。今度、新潟へ行ったら、探してみよう。✕。

「ふゆ苺」冬苺。バラ亜科キイチゴ属フユイチゴ Rubus buergeri 。山行で採って食べた。◎。

「かぢ苺」現代仮名遣「かじいちご」。「溝苺」「梶苺」。キイチゴ属カジイチゴ Rubus trifidus当該ウィキの写真を見たところ、どこかの家の庭で見かけたことはある。そちらに実が食用となるとあった。✕。

「くま苺」熊苺。キイチゴ属クマイチゴ Rubus crataegifolius 当該ウィキによれば、『茎は』一~三メートルに『に達し、直立するか傾斜する』。『キイチゴ属の中では大型な』種で、『茎は赤紫色で赤黒っぽい斑点があり、毛がなくて刺が多い。葉には長さ』二~五センチメートルの『葉柄があり』、『鉤形の刺をもつ。葉身は広卵形でややモミジ状に裂け、表面には伏毛があり、裏面の葉脈には』これまた、『刺がある』とあり、『果実は』六『月ごろに赤く熟し』、『食用になる』とある。そして、『丈夫な茂みを形成するので、このヤブに入り込むと痛いめに遭う』ともあった。私も、少年時代、裏山で、実を採ろう入り込んで、コヤツにイタい経験をさせられたものであった。◎。

「あは苺」泡苺。キイチゴ属ナガバモミジイチゴ変種モミジイチゴ Rubus palmatus var. coptophyllus の異名。木苺の定番。僕らは「黄いちご」と呼んでいた。文句なしに美味い。◎。

「なはしろ苺」苗代苺。キイチゴ属ナワシロイチゴ Rubus parvifolius 。当該ウィキに、『花期は』五=六月で、『日当たりの良いところに生え、雑草的に生育する。赤紫色の花をつける。果実は食用になり、生食には向かないが、砂糖を加えてジャムにすると美味』とある。『苗代の頃に赤い実が熟すため、この名がある』とあった。見たことはあるものの、ジャムにしたことはないから、✕。

「木本苺」イチゴ類の中で、「木本(もくほん)」類に分類される「苺」、以上のキイチゴ属  Rubus の総称。以上の種以外も載る、渡辺坦氏のサイト「植物の名前を探しやすい デジタル植物写真集」の「イチゴ類(バラ科)」を参照されたい。但し、それらが総て食用になるかどうかは、関知しない。

「かまつか」鎌柄。バラ科ナシ亜科カマツカ属カマツカ Pourthiaea villosa 当該ウィキには、『材を鎌の柄に用いたことによりこの名があるという』とあり、『果実は梨状果で長さ』七ミリから一センチ『ほどの倒卵形』で、『明瞭な果柄があり』、『秋から晩秋に赤色に熟す』。『果実は少し甘酸っぱく食用になるが』、『通常』、『あまり美味しいものではない』とある。✕。

「うらじろのき」裏白の木。ナシ亜科アズキナシ属ウラジロノキ Aria japonica 。複数の記載で『実は生で食べられる』とある一方、『じゃりじゃりしていて食用には向かないよう』だともあった。山で見たことがあるが、その実はちょっと食欲をそそらなかったので、食べたことはない。✕。

「びわ」枇杷。ナシ亜科ビワ属ビワ Eriobotrya japonica 。◎。

「しらき」白木。双子葉植物綱類キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ亜科ヒッポマネ連 Hippomaneaeヒッポマネ亜連シラキ属シラキ Neoshirakia japonica サイト「庭木図鑑 植木ペディア」の本種のページに、『種』(たね)『には脂分が多く、食用、灯油などに使用できる』とあった。✕。

「がんかうらん」現代仮名遣「がんこうらん」。「岩高蘭」。ツツジ科ツツジ亜科ガンコウラン属セイヨウガンコウラン変種ガンコウラン Empetrum nigrum var. japonicum 当該ウィキによれば、『日当たりの良い高山の岩場や海岸近くに生育』し、『果実は径』六ミリから一センチの『黒い球形で、食べられる。集めてジャムなどにする人もいる。果実はビタミンやミネラルなどの栄養素が豊富である。果実は鳥のえさともなっている』とあった。山で見かけたことはあるが、食べたことはない。✕。

「とち」栃。双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata 。種子は、灰汁抜きをして、「栃餅」などを作って食用にする。食用の歴史は古く縄文時代からある。◎。

「なつめ」棗。バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis 当該ウィキによれば、『南ヨーロッパ原産』とも、『中国北部の原産とも』され、『日本への渡来は奈良時代以前とされて』おり、六『世紀後半の遺跡から果実の核が出土している』とある。◎。

「けんぽなし」玄圃梨。バラ目クロウメモドキ科ケンポナシ属ケンポナシ Hovenia dulcis 。当該ウィキに、『秋に直径』七『ミリメートル』『の果実が黒紫色に熟』し、『同時にその根元の果柄部が同じくらいの太さにふくらんで』、『ナシ(梨)のように甘くなり』、『食べられる』とある。山の帰りに、東北の山村で食べさせて貰ったことがある。◎。

「がねぶ」「紫葛」と漢字を当てるようである。ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae の異名。小学生の頃は、裏山で、よく食べたものだった。◎。

「のぶだう」野葡萄。ブドウ科 Vitoideae 亜科ノブドウ属アンペロプシス・グランデュロサ Ampelopsis glandulosa 変種ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla 。食ったことがあるが、正直、不味い。◎。

「紀州鉛山温泉」現在の白浜温泉の前身ここの「白良浜」のある湾を鉛山湾(かなやまわん)とある(グーグル・マップ・データ)。サイト「エコナビ」の「温泉を巡る」の布山裕一氏の記事「009 南紀白浜温泉へ」の「白浜の名称と発展」の項に、『江戸時代には、紀州徳川家の人々の来湯が記録されていますが、当時温泉が湧いていたのは鉛山(かなやま)村の湯埼地区で「湯埼七湯」と呼ばれ、白浜という名前はありませんでした。明治時代になると鉛山村は隣接する瀬戸村と合併し、瀬戸鉛山村となります。旧瀬戸村地区では明治時代の末頃から温泉が開発されはじめ、大正時代初期に温泉開発を進めた会社の社名にはじめて「白浜」という名前がつきます。これは、鉛山(かなやま)湾に面した美しい砂浜である「白良浜(しららはま)」の略称ですが、以後「白浜」という名称が広がったと言われています』昭和一五(一九四〇)『年には瀬戸鉛山村が町制を施行して白浜町となりました。古賀浦や文殊など』、『町内各地で温泉開発が進められ』、『白浜温泉は大きく発展していきます。海岸を中心に高台に及ぶまで旅館・ホテルや保養所そして温泉入浴施設や足湯が点在し和歌山県最大の温泉地となっています。なお、千葉県にも白浜という地名があることから、南紀白浜と呼ばれるようになりました。温泉地のすぐ傍に空港が設置されており、空港名は南紀白浜空港となっています』とある。「ひなたGPS」の戦前の地図で、現在の和歌山県西牟婁郡白浜町に『瀨戶鉛山村』と『鉛(カナ)山』に並置して『(湯崎)』が確認出来る。

「さんかくづる」三角蔓。ブドウ科ブドウ属サンカクヅルVitis flexuosa 。「Weblio 辞書」の「植物図鑑」の同種の解説に、『わが国の本州から四国・九州、それに朝鮮半島や中国に分布しています。山地の林縁などに生え、他の樹木などに絡みついて伸びます。葉は三角形から卵状三角形で互生し、縁には歯牙状の浅い鋸歯があります。雌雄異株で』、五『月から』六月頃、『葉と対生して円錐花序をだし、小さな淡黄緑色の花を咲かせます。果実は液果で』、『黒く熟し、食べることができます。蔓を切ると』、『わずかに甘い樹液がしみ出てくることから、別名で「ぎょうじゃのみず(行者の水)」とも呼ばれます』とあった。見かけたことはあるが、食べたことはなかった。✕。

「ひさかき(?)」姫榊。ツツジ目モッコク科ヒサカキ属ヒサカキ変種ヒサカキ Eurya japonica var. japonica 。花がガスのような臭い匂いがする厭な木という認識しかなかったが、サイト「苗木部」の「ヒサカキの特徴と育て方」によれば、『主に神事で使われる切花の代用として用いられますが、葉に光沢があり』、『美しく常緑樹なので、庭木や生け垣としてもよく使われています』。『寒い地域では榊(サカキ)が生育しないため、ヒサカキを代用として用いることもあります。地域によっては仏壇に供える枝ものでも利用されます』。『春には小さくて目立たないですが、クリーム色のスズランに似た釣り鐘状の花を咲かせます。稀にピンク色の花が咲くことがあります。花は独特の強い匂いがあります』。『雌雄異株もしくは両性花を咲かせる株もいます。雄株以外には秋になると黒い果実が実ります。種』(たね)『が多いので食用には向きませんが、果汁が多く』、『熟すと』、『甘いです。野鳥が好む果実です』とあった。なお、そちらには、『中国原産のツバキ科の常緑樹』とあるが、当該ウィキを見たところ、注釈に、『新しいAPG体系ではモッコク科(サカキ科)であるが、古い新エングラー体系やクロンキスト体系ではツバキ科(Theaceae)としていた』とあったので不審解消。熊楠先生、大丈夫! 食べられます。✕。

「さるなし」猿梨。ツバキ目マタタビ科マタタビ属サルナシ変種サルナシActinidia arguta var. arguta 当該ウィキによれば、『果実はキウィフルーツを無毛にしてかなり小さくしたような楕円形で、淡緑色の』二~三センチメートル『程度のものに熟する』。『果実の味はキウィフルーツに似ている(系統上の近縁種である)』とある。◎。

「またゝび」「木天蓼」。「もくてんりょう」とも読む。ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ  Actinidia polygama 。◎。

「みやままたゝび」深山木天蓼。マタタビ属ミヤママタタビ Actinidia kolomikta 。✕。

「ぐみ數種」茱萸(ぐみ)。バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus 。◎。

「やまぼうし」山法師。双子葉植物綱ミズキ目ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属ヤマボウシ Cornus kousa subsp. kousa 当該ウィキに、『果実が食用になり』、『クワの実に見立てたことから、別名でヤマグワとよぶ地域も多』いとあり、『若葉は食用にな』り、『果実は生食でき』、『やわらかく』、『黄色からオレンジ色』を呈し、『マンゴーのような甘さがある。果皮も熟したものはとても甘く、シャリシャリして砂糖粒のような食感がある。果実酒にも適する』とある。本種は花が美しい。東北の温泉の土産に葉を買ったことがある。結構、気に入った。◎。

「あくしば」灰汁柴。ツツジ目ツツジ科スノキ亜科スノキ属アクシバ Vaccinium japonicum 。これも花が何とも言えない形をしていて、好きだ。当該ウィキに『果実は食用になる』とあるが、食べたことはない。✕。

「いはなし」岩梨。双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科イワナシ属イワナシ Epigaea asiatica 当該ウィキに、果実は『ナシのような甘味があり、食用になる』とあった。✕。

「こけもゝ」苔桃。ツツジ科スノキ亜科スノキ属コケモモ Vaccinium vitis-idaea 。問題があるので、どことは言わないが、山行の途中で見つけ、食べたことがある。美味い。◎。

「つるこけもゝ」蔓苔桃。スノキ属ツルコケモモ亜属ツルコケモモ Vaccinium oxycoccos 当該ウィキに、『クランベリーとして食用にされる』とある。◎。

「あかもの」赤物。ツツジ科シラタマノキ属アカモノ Gaultheria adenothrix当該ウィキに、『花が終わると』、『萼が成長し、果実を包み込み、赤色の偽果となる。この偽果は食用になり、甘みがあり』、『おいしい。名前は赤い実から「アカモモ(赤桃)」と呼ばれ、これが訛って付けられたといわれる』とあった。う~ん、食べられるのか! 山行の途中で見たことはあったが、赤がかなり強くて、食えなかったわ。✕。

「くろまめのき」黒豆の木。ツツジ目ツツジ科スノキ亜科スノキ属クロマメノキ Vaccinium uliginosum当該ウィキに、『果実は食用になる。長野県ではアサマブドウとして食用にされる』とある。これは食べて見たい。✕。

「しらたまのき」白玉の木。ツツジ科シラタマノキ属シラタマノキ Gaultheria pyroloides 。花が好きだが、実は食べたことがない。但し、当該ウィキによれば、『果実は甘味はあるが』、『サリチル酸の臭いがするため』、『生食には向かず、果実酒にされる』とあった。✕。

「しやしやんぼ」現代仮名遣「しゃしゃんぼ」で「小小坊」。「南燭」とも書く。ツツジ科スノキ属シャシャンボ Vaccinium bracteatum当該ウィキに、『漢字表記では「小小坊」と書くが』、『これは当て字で、シャシャンボの実際の語源は』、『古語のサシブ』(烏草樹)『が訛ったものである』とあった。『果実は直径』五『ミリメートル』『ほどの球形の液果で、黒紫色に熟すと』、『白い粉が吹いて』、こうなると、『食べることができる』。『これは同属のブルーベリー類と同じく、アントシアニンを多く含む』とあった。和名も知らなんだわ。✕。

「くこ」枸杞。ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense 。◎。

「にわとこ(?)」接骨木。「庭常」とも書く。双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ニワトコ属亜種ニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana 当該ウィキによれば、『日本の漢字表記である「接骨木」(ニワトコ/せっこつぼく)は、枝や幹を煎じて水あめ状になったものを、骨折の治療の際の湿布剤に用いたためといわれる。中国植物名は、「無梗接骨木(むこうせっこつぼく)」といい、ニワトコは中国で薬用に使われる接骨木の仲間であ』るとあって、『若葉を山菜にして食用としたり、その葉と若い茎を利尿剤に用いたり、また』、『材を細工物にするなど、多くの効用があるため、昔から庭の周辺にも植えられた』。『魔除けにするところも多く、日本でも小正月の飾りや、アイヌのイナウ(御幣)などの材料にされた』。『樹皮や木部を風呂に入れ、入浴剤にしたり、花を黒焼にしたものや、全草を煎じて飲む伝統風習が日本や世界各地にある』。『若葉は山菜として有名で、天ぷらにして食べられる』。但し、『ニワトコの若葉の天ぷらは「おいしい」と評されるが』、『青酸配糖体を含むため』、『多食は危険で』、『体質や摂取量によっては下痢や嘔吐を起こす中毒例が報告されている』とあった。『果実は焼酎に漬け、果実酒の材料にされる』とある。天ぷらを食べたことがある。熊楠先生、若葉はあきまへんで。◎。

「がまずみ」莢蒾。マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属ガマズミ Viburnum dilatatum当該ウィキによれば、『和名「ガマズミ」の語源は、赤い実という意味の「かがずみ」が転訛したものといわれる』とあり、『果実は最終的に晩秋のころに表面に白っぽい粉をふき、この時期がもっとも美味になる。冬になっても、赤い果実が残っていることがある』とあって、『果実は甘酸っぱく食用になる』。『大根を漬ける時に用いられ、「赤漬け」は長野県戸隠村でよく行うもので』、『紅色に染まり、実の酸味がついた大根漬けとなる。ジュースやキャンディ、酢、ポン酢、果実酒、ジャム、ゼリー、健康ドリンクなどに商品化されている』とある。◎。

「うぐひすかずら」これは、多分、熊楠の「うぐひすかぐら」の誤記であろう。「鶯神楽」で、マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属の変種ウグイスカグラ Lonicera gracilipes var. glabra Weblio 辞書」の「デジタル大辞泉」に写真入りで、『日本特産で、山野に自生。高さ約』一・五~三『メートル。葉は楕円形で、若葉では縁に赤みがある。春、枝先に淡紅色の花が』一『個垂れ下がって咲く。実は熟すと』、『赤くなり、食べられる』とあった。✕。]

 「しきみ」の實は毒物だが、食《くつ》て害を受けぬ例が多い。「ぬるで」の實、熟すれば、外薄皮上有薄鹽、鹽生樹上者、卽是也、小兒食ㇾ之。〔外の薄皮の上に、薄き鹽、有り。鹽の樹上に生ずるは、卽ち、是れなり。小兒、之れを食らふ。〕と支那の本草に云《いへ》り。「さんせう」の實抔と同じく、味を助くる料とし、本邦の山民も、古來、用ゐたのだろう[やぶちゃん注:ママ。]。紀州には、山中に、古く、柿や柚《ゆづ》が自生結實する者が有るのを、予、自ら、食た事がある。淺い山には、半野生の梅林も有るが、深い山林では、唯、一度、日高郡川又《かはまた》官林で、一本、見た。所の者言《いは》く、「鹽氣無き地に、梅、生ぜず。」と。詰り、『人家に遠い場所に、生えぬ。』と云ふ意味だ。

[やぶちゃん注:『「しきみ」』(樒(しきみ))『の實は毒物だが、食《くつ》て害を受けぬ例が多い』被子植物門双子葉植物綱アウストロバイレヤ目Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミIllicium anisatum 。しかし、当該ウィキによれば、神経毒として知られる『アニサチン』(anisatin)『などの毒を含み、特に猛毒である果実が』、『中華料理で多用される八角に似ているため、誤食されやすい危険な有毒植物である』とあり、『葉や茎、根、花、果実、種子など全体が有毒で』、『なかでも』、『果実、種子は毒性が強く、食用にすると死亡する可能性がある』。『実際、下記のように事故が多いため、シキミの果実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定されている』。『中毒症状は、嘔吐、腹痛、下痢、痙攣、意識障害等であり、昏睡状態を経て死に至ることもある』。『有毒成分は』『アニサチン』『やネオアニサチン(neoanisatin)で』、『同じシキミ属に属するトウシキミ』(Illicium verum:本邦には自生しない)『は毒成分を含まず、果実は八角(はっかく)、八角茴香(はっかくういきょう)、大茴香(だいういきょう)、スターアニスとよばれ、香辛料や生薬として利用される』。『シキミの果実は形態的にこれに非常によく似ているため』(画像と図有り)、『シキミの果実をトウシキミの果実と誤認して料理に使用し』てしまい、『食べることで中毒を起こす事故が多い』。『そのため、シキミの果実は「毒八角」ともよばれる』。『トウシキミの果実とくらべると、シキミの果実は』、『やや小型で先端が鋭く尖り、また抹香の匂いがする点でも異なる』。『第二次世界大戦以前は、シキミの果実を実際に「日本産スターアニス」として出荷し』、『海外で死亡事故などが発生したことがある』、『また』、『シキミの種子は、ややシイの実(果実)に似ているため、誤って食べて』、『集団食中毒を起こした例がある』。『人間以外の動物に対しても、ふつうシキミは有毒である。たとえば、放牧されるウシは、毒性のある草を選択して食べないことが多いが、シキミに関して』は、『これを誤食して死ぬ可能性があると指摘されている』。『また、シキミはニホンジカの食害を受けにくく、不嗜好性植物リストにも挙げられている』とあるから、熊楠先生! この記載は取り下げないと、アウトですよ!

「ぬるで」白膠木。ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis 当該ウィキに、『葉にできた虫えいを五倍子(ごばいし/ふし)という。お歯黒の材料にしたり、材は細工物や護摩を焚くのに使われる』とある。また、『熟した果実を口に含むと酸味が感じられる』とあるから、食べることには、危険性はないようである。

「支那の本草に云り」以上は、李時珍の「本草綱目」の巻之三十二の「果之四」の「鹽麩子」の「集解」の一節。熊楠にしては、書名も出さないのは、ちょっと不親切である。漢文原文のネット検索ですぐに判ったが、一昔前なら、探すのに苦労したろう。「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[079-22b]の影印本の画像を見られたい。罫線六行目の左中央からである。「鹽麩子」は先のヌルデの漢名の異名。中文の当該ウィキ「盐肤木」を見て戴くと、本文最後の「别名」の最後から二つ目に「盐肤子」とあるのが、それである。「盐」は「鹽(塩)」の簡体字である。

「さんせう」山椒。ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum

「日高郡川又官林」現在の和歌山県日高郡印南町(いなみちょう)川又(グーグル・マップ・データ航空写真)。「ひなたGPS」で戦前の地図の方を見ると、『川又國有林』のも古賀確認出来る。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 七 女の妄念怖ろしき事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、同書にあるものが、比較的、状態がよいので、それをトリミング補正した。]

 

     七 女の妄念怖ろしき事

 

 近江國(あふみのくに)、「さほ山」と云ふ處に、昔、ある何某(なにがし)はべりけるが、彼(か)の者、二人の妻を持てり。今に始めぬ事ながら、取りわき、本妻、妾(めかけ)を憎む事、限りなし。

 ある時、妾、雪隱(せつちん)に居(ゐ)ければ、たけ一丈ばかりある大蛇(おほくちなは)、前に來たりければ、

「あら、怖ろしや、」

と喚(をめ)きしかば、人々、出合(であ)ひけるほどに、何處(いづく)ともなく、失せぬ。

 其の後(のち)、本妻、產後に、殊の外、病(わづら)ひ、既に末期(まつご)に及ぶ時、男、折りしも、妾の處にゐ侍るが、此の由を聞き、急ぎ歸り、色々、養生すると雖も、叶ふべきとも覺えず、彼の女、云ふやう、

「我は、只今、身まかりぬ。此の年月(としつき)の怨み、生々世々(しやうじやうせゝ)、忘れ難く候。」

とて、男の飮ませける水を、顏に、

「ざつ」

と、吐き掛け、齒がみをして、終(つひ)に空しくなる。

 片時(へんじ)も過ぎざるに、妾の所へ忍び、首を、ねぢ切り、消すが如くに、失せぬ。

 さて、力(ちから)、及ばず、妾の葬禮を致しけり。

 

Kubisage

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、「あふみの国さほ山といふ所にての事」とある。]

 

 其の時、件(くだん)の首を手に提げ、橋のありける所に立ちてゐたり。

 本妻の乳母、これを見付け、

「あら、淺ましの御姿や、」

と云へば、消え失せぬ。

 又、妾の子、十一歲と九歲とになる男の兒子(こご)、二人、有り。是れも、三日の内に、病み出(いだ)し、身まかりぬ。

 男は、取り集めたる歎き。一方(かた)ならず、これも、程なく、亡せぬ。

 總領、一人、殘りけるが、髻(もとゞり)を切り、高野山に、とり籠り、父母(ふぼ)の後世(ごせ)をぞ、弔ひける。

[やぶちゃん注:この首を下げた亡霊のシークエンスは、小泉八雲の名品OF A PROMISE BROKENを想起させる。私の拙訳も御笑覧あれ(孰れも私のサイト版)。田部隆次氏の訳「破約」もブログで電子化注してある

「さほ山」中世中期から近世初期にかけて近江国坂田郡(現在の滋賀県彦根市)の佐和山に佐和山城があった(織豊政権下に於いて畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点で、十六世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、「関ヶ原合戦」の後は、井伊家が一時的に入城したことでも知られる。以上はウィキの「佐和山城」に拠った)が、サイト「オンライン三成会~石田三成のページ~」のこちらによれば、『佐和山は古くは佐保山と呼ばれ』たとある。

「片時(へんじ)も過ぎざるに」ごく僅かな時間も経たぬうちに。瞬く間に。

「取り集めたる歎き」岩波文庫の高田氏の注に、『一時にうち重なった悲しみ』とある。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二一番 黃金の鉈

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本は、ここから。]

 

    二一番 黃金の鉈

 

 或所の大層正直な爺樣が、淵の岸へ行つて、がツきり、がツきりと木を伐つて居つた。そしたらどうした拍子か手の鉈を取ツ外して淵の中へ落してしまつた。さあこれア事なことをした。たつた一丁しかない大事な鉈(ナタ)コを失くしてしまつては明日から木を伐ることも出來ない。木を伐ることが出來ないと、婆樣をあつかう[やぶちゃん注:ママ。]事も出來なくなる。これはどうしても淵の中さ入つて探(サ)がさなければならないと思つて、淵の中さ入るべえと思つて居ると、淵の中から美しい姉樣が、手に黃金の鉈コを持つて出(デ)はつて來た。そして爺樣爺樣お前は今鉈コを落さないかと言つた。はい今大事な鉈を落したので淵の中さ見つけに行くべえとして居るところでがンしたと爺樣が言ふと、それではこの鉈だべと、姉樣はその黃金の鉈を爺樣の目の前へ差し出した。爺樣はそれを見て驚いて、いゝえ、いゝえ、そんな立派な鉈ア勿體のない。この爺々の鉈は鐵の錆びた古鉈でごぜいすと言ふと、はアさうかと言つて、姉樣は淵の中に入つて行き、更に爺樣の落した古鉈を持つて出て、それでは爺樣この鉈コかと言つた。はいその鉈コでごぜいますと言ふと、姉樣は笑つて、爺樣は本當に正直な人だから、この黃金の鉈も上げツから持つて歸れと言つて、古鉈コと黃金の鉈コを一緖に爺樣に持たした。爺樣の家はそのお蔭で長者となつた。

 隣家で、淵の神樣から黃金の鉈コをもらつて來て長者になつたジことを聞いた上の家の婆樣は、カラナキ(怠者《なまけもの》)で何時(イツ)もごろごろしてばかり居る吾家の爺樣をいづめこづめ、叱り小言して其淵の岸さ木伐りにやつた。

 其爺樣は淵のほとりへ行つて木を伐つて居たが、いくら伐つても手から鉈コが取り外れないので故意(ワザ)とそれを淵の中さ投げ込んでやつた。そして速く神樣が黃金の鉈コを持つて來てくれゝばいゝなアと思つて、淵の水面を見詰めて居ると、淵の水に水輪ができ、すらりと美しい姉樣が出て來た。そして手に持つた黃金の鉈を差し伸べて、何か言ふべえとしたのに、爺樣は魂消(タマゲ)もの見たよに、あゝ其れ々々ツ、其が俺の鉈だツと言つて、姉樣の手からその鉈ア取んべえとすると、姉樣はこれこの不正直爺々ツと言つて、その鉈で頭を切り割つた。爺樣は血みどろになつて、家さ泣きながら歸つて、以前よりもずつと貧乏になつた。

  (下閉伊郡岩泉町邊の話。野崎君子氏談の一、昭和五年六月二十三日採集の分。)

[やぶちゃん注:所謂、「イソップ寓話」の一つである「金の斧」或いは「ヘルメスと木樵(きこり)」譚の本邦転用版。当該ウィキによれば、『正直であることが最善の策であるという教訓の物語で』、『正直なきこりが斧を川に落としてしまい嘆いていると、ヘルメース神が現れて川に潜り、金の斧を拾ってきて、きこりが落としたのはこの金の斧かと尋ねた。きこりが違うと答えると、ヘルメースは次に銀の斧を拾ってきたが、きこりはそれも違うと答えた。最後に鉄の斧を拾ってくると、きこりはそれが自分の斧だと答えた。ヘルメースはきこりの正直さに感心して、三本すべてをきこりに与えた』。『それを知った欲張りな別のきこりは斧をわざと川に落とした。ヘルメースが金の斧を拾って同じように尋ねると、そのきこりはそれが自分の斧だと答えた。しかしヘルメースは嘘をついたきこりには斧を渡さなかった。欲張りなきこりは金の斧を手に入れるどころか自分の斧を失うことになった』。『日本では当初ヘルメース神を水神と訳したためか、これを女神とすることが児童書などで一般的となっている』とある。また、三浦佑之氏の講演の再録である「機織淵-『 遠野物語 』第五四話をめぐって-」(講演:一九九八年十月/一九九九年二月発行『遠野常民』八十三号・遠野常民大学刊所収。主題となっている話は、私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五四 神女」を読まれたい)の、「二 「黄金の鉈」に似ている発端」の「2.樵夫とヘルメス ( 『 イソップ寓話集 』 )」で以上の原話を紹介された後に、『『イソップ寓話』というのは教訓話ですから、あるお話を元に一つずつ、古代ギリシャのイソップ(アイソポス)が教訓をつけていくというかたちで語られています』。『ただ、構造的に見ますと、イソップの話は、金、銀、鉄というふうに三度繰り返されるのですが、喜善さんのお話では金の鉈と自分の鉈と二つだけしか出てきません。ただ、これは語り方よって金、銀、鉄となる場合もありますが、構造的にいいますと、間違いなくこの二つはほとんど同じであると言っていいと思います』とされ、次の『3.「金の鉈」は外国より伝播』で、『もちろん、古代ギリシャにも、日本にも、同じような話が元々あったと考えらることもできるのですが、そしてそのような話も多いのですけれども、この「金の鉈」という話に限って言いますと、おそらくかなり新しい段階で日本に伝えられたのではないかと考えられています。もっとも古いとしてもキリシタンが日本に入って来たとき、修道士たちがいろんな書物を持ち込んで、それを元に布教活動を始めます。その中で「イソポのファブラス」という最古の和訳本が今も残っておりまして』、天正二〇・文禄元(一五九三)『年のことです。それ以降、さまざまな書物ができ、それらを元に宣教師によって語られていくわけです』。『そういうふうに』十六『世紀末期に日本に入ったのですが、イソップの話が日本中でよく知られるようになったのは、おそらく明治になって国定教科書に載せられてからではなかろうかと考えられるわけです。どの段階で一般化したのかはにわかには断定できないのですが、どうも日本に元からあった話ではなさそうだ。ただ、この喜善さんのお話は岩泉で伝えられているお話ですから、少なくともこの段階、昭和初期あたりになりますと、もう一般化した話として人々によく知られていたらしいと考えられます』。五十四『話の話で、斧を取り落とし淵に探しに行く、という発端の部分というのは、イソップの話と極めて近いのではないか、それが一つです』。『そして、この「黄金の鉈」の話が、岩手県でどれくらい採録されているかというと、『日本昔話大成』によれば、それほど多くはありません。九戸、下閉伊郡、『聴耳草紙』の今の話ですね、それから江刺、気仙郡、後は「すねこ たんぱこ」に一つというわけですから、全部で』五つ『ぐらいしか採録されていない。広くはありますが、それほど濃密に広がっている話ではありません。他の県でも同じような状態です。そして『日本昔話大成』、これは関敬吾さんという方が編集なさった全国の昔話を集めた本ですけれども、その注にはこんなことが書いてあります』として、『注 この話はすでにイソップ(アイソーポス寓話集・二五三、岩波文庫・一九八)にもある。世界的にいかに分布しているかは知らない。わが国の話が果たしてこのイソップによって文献として輸入されたか、またその以前のものか、これを明らかにすることは困難である。この話は国定教科書に採用され、現在の採集の中にそれが見られる』と引用され、続けて、『「明らかにするのは困難」とおっしゃっていますけれども、日本に元々あったというよりも、外来の伝承がいつの間にやら日本化していったものだということは間違いないだろうと思います』と述べておられる(前後の話も興味深いものであるので、是非読まれたい)。

「婆樣をあつかう事」「婆樣」は爺樣の妻。「あつかう」は「養う」の意。

「カラナキ(怠者)」語源不詳。

「いづめこづめ」不詳。「何時も何時も」か。

「下閉伊郡岩泉町」岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう:グーグル・マップ・データ)。

「昭和五年」一九三〇年。]

ブログ1,940,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和二十九年四月

 

 [やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、『共同通信』三月二十日発行に掲載されたとある。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合等を除いて、原則、注しない。悪しからず。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日の深夜、1,940,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年三月三十一日 藪野直史】]

 

   昭和二十九年四月

 

 先月にくらべて今月は短編が多く、連載をのぞけば長いものは丹羽文雄の「柔媚の人」(新潮)、「女は恐い」(文芸春秋)、火野葦平「続戦争犯罪人」(文芸)、真船豊「赤いランプ」(群像)ぐらいなものである。「柔媚の人」は養子にやられたある少年の心理や生態をとりあつかったもので、題名通り柔媚な性格の少年であるが、その柔媚感がそくそくと読者の身に追ってくるというまでには達していない。やはり頭の中で構築された題材のせいなのであろう。まだしも「女は恐い」中の女の執念の方がはるかに生き生きとしている。その代りこちらの方はモデルに寄りかかりすぎていて、小説性はうすい。「女は恐い」という題名は編集部でつけたものだろうと推察されるが、その女のおそるべき偏執、それを恐がっている作者のかたちが、相当の現実感をもって描き出されている。

[やぶちゃん注:「柔媚」(じゅうび)は「嫋(たお)やかなこと・もの柔らかで艶(なま)めいたさま」、また、「媚(こ)び諂(へつら)うさま」をも言う。]

 短編の中では安岡章太郎「吟遊詩人」(文学界)が面白かった。いつもの手慣れた手法で安岡的世界を描き出しているのだが、それなりに安心して読めるし、また面白い。どんな現実をとり扱っても彼一流の世界となるあたり、ちょっと井伏鱒二に似ている。何を書いても自分流になるのは、この両者とも現実に対して強烈な支配力を持っているのではなくて、むしろ内攻型の性格がそうさせるのだろう。現実を一度自分の内側に引きずりこみ、もぐもぐと嚙みしめ、そして第二の世界として造形する。こういう型の作家は、読者から信用されることなしには成立しない。

 安部公房「変形の記録」(群像)、福永武彦「冥府」(群像)はともに死後の世界をとりあつかっている。安部のは長いものの一部らしいが、なかなかの才筆で、生前と死後との食い違いの感じがうまくとり入れられている。しかしこれだけではその寓意は不明である。

 福永のはその点はっきりしているが、筆致にうるおいがなく真面目すぎるので、かえって現実感をそがれた。こういう題材に対しては、正攻法よりむしろ逆手を使うべきではないのか。なおこの作品はジャン・コクトオあたりがつくった死後の世界を描いた映画の影響のようなものが、いくらか感じられた。

[やぶちゃん注:「ジャン・コクトオあたりがつくった死後の世界を描いた映画」言い方が微妙で、よく判らないが、ジャン・コクトー (Jean Cocteau 一八八九年~一九六三年) の最初期の映画で監督・脚本を手掛けた「詩人の血」( Le Sang d'un poète :一九三二年)『あたり』を指すものか。]

 同じく「群像」の室生犀星「黄と灰色の問答」。これは死後ではなく生きている世界だが、しかしもうこれは死に近づいた世界である。胃潰瘍にかかった入院記だが、この作品には人間の業(ごう)のようなものも感じられ、その人間臭はやはり読者の心をうつ力を持っている。私はこの作家にいつも「悪戦苦闘」といった感じを抱くのであるが、その対象が空疎な場合には作品も空転するようであるけれども、対象があきらかな場合にはその作品も成功するようだ。この作品もそれであろう。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の新潮社版室生犀星全集第九巻(一九六七年刊)のこちらから読める。]

 井伏鱒二「石州わかめ」(改造)は、女子でありながら男性的骨格をもった女の悲劇で、もちろんこの作者のことだからこれを真正面からとりあつかわず、側面からエピソード風に描いている。この女も最後に絶望して、食事を拒否し衰弱死をくわだてようとする。しかしこれは小説の形式の関係から重大な悲劇としては出ず、一抹の哀感として読者の胸を通りぬけるだけである。それでいいともいえるだろうが、同時にこれがこの作者の限界(厭な言葉だが)だともいえよう。

 西野辰吉「烙印」(改造)は、戦争や占領がもたらす非人間的なものへの抗議。西野の小説はいつも怒号的でなく、つぶやきに似ていて、それも非常に効果的なつぶやきであるのも、この作家の性格によるものだろうし、またそこが手腕だということだろう。彼は庶民の代表として書くというよりは、庶民の一人として書いている。それが西野辰吉の作品を強く特微づけていると思う。この作品もその点において成功している。

[やぶちゃん注:「西野辰吉」(大正五(一九一六)年~平成一一(一九九九)年)は作家。当該ウィキによれば、『北海道生まれ。足尾銅山変電所の雑役夫、魚河岸の人夫など職を転々とする』。昭和二二(一九四七)年、『日本共産党に入り、同年』、「廃帝トキヒト記」で『作家デビュー』、昭和二五(一九五二)年、「米系日人」を『発表』、昭和三十一年には、『『新日本文学』に連載した』「秩父困民党」『(単行本は講談社から)で毎日出版文化賞受賞した。このころ、霜多正次』(梅崎春生の友人)、『窪田精、金達寿たちとリアリズム研究会を発足させ、全国的な組織へと発展させた』。昭和三九(一九六四)年、新日本文学会から除籍され、翌『年の日本民主主義文学同盟の創立に参加し、その後『民主文学』の編集長もつとめた』。昭和四四(一九六九)『年、文学同盟を退会した』後、『共産党を離党し、その後は』、公的な『文学運動とは無縁のままに創作活動を』続けた、とある。]

 「文芸」では、全国学生コンクール入選作一編と佳作が四編載っていて、それぞれ面白かった。それぞれ題材にも変化があったが、冒険的な試みはなかったとしても、技法的にそれぞれかなり確実なものを持っている。「文芸」のこういう試みは有益なことだから、止めないで続けてもらいたいと思う。

 

2023/03/30

曾呂利物語」正規表現版 第四 / 六 惡緣にあふも善心のすゝめとなる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。挿絵は今回は御覧の通り、底本の画像の状態がかなりいいので、それをトリミング補正して添えた。]

 

     六 惡緣にあふも善心のすゝめとなる事

 信濃の國の守護に、召使(めしつか)はれける何某(なにがし)、或時、人をあやまりて、隱れゐたりけるが、かたき、數多(あまた)狙ひける由(よし)、傳へ聞き、竝(なら)びの國に、所緣あつて、

『彼(かれ)を、賴み下らん。』

と思ひ、夜(よ)に紛れて、忍び出でけるが、一門眷屬にも知らぜずして、女房をも、留(とゞ)め置きけるが、女房は、

「道にて、如何にもならばなれ、留まるまじ。」

とて、强ひて、

「行かん。」

と云ふ。

『げにも。人に探し出(いだ)され、如何なる憂目にも遇はんは、却つて我等が恥辱。』

と思ひ、

「さらば、伴ひ行かん。」

とて、夫婦、只、二人、深山(しんざん)の嶮(さか)しきを、分けて辿り行く。

 折節(おりふし)、女房は、唯ならぬ身にて侍るが、頻りに、腹を痛みけるほどに、腰を押さへて、負ひ、たどりたどりと、行きけるが、向かひの山の、火、幽かに見えけるを。

『幸ひ。』

と思ひ、辛苦して、やうやう、火をしるべに、行きて見れば、辻堂なり。

 内に入りて、少時(しばし)、息をぞ、つきたりける。

 かかりける所に、人、一人(ひとり)來たり、辻堂の戶を、荒らかに敲く者、あり。

「誰(たれ)ぞ。」

と問へば、

「『はる』にて候。斯樣に落ち行かせ給ふ由、承り、『隨分、追ひ付き奉らん。』と存じ、山中を凌ぎ、やうやう、これまで、參りたり。妾(わらは)が事は、餘(よ)の者と違ひ、幼けなき頃より、召使(めしつか)はれ、片時(へんし)も御傍を離れ參らせず、年月(としつき)の御恩賞に、斯樣(かやう)に御先途(ごせんど)を見屆け參らせでは、あるべきか。殊に、御うへ樣、たゞならず御渡り候ふに、人一人も副(そ)ひ奉らず、斯かる嶮しき山路(やまみち)を、如何で忍ばせ給ふべき。はやはや、開けさせ給へ。」

と云ふ。

 男、餘りの不審さに、

「女の身として、斯かる嶮しき山路を、殊更、夜中(やちう)の事なるに、是れまで來たる事、覺束なし。よも、『はる』にては、有らじ。」

と云ふ。

「是は。御詞(おことば)とも聞こえぬ事を承り候ふものかな。身こそ、はかなき女なりとも、心は、男に劣るべきか。物ごしにても、やがて、其れとは知ろし召されずや。遙々、是れまで參りたる心ざし、如何で空しくなさせ給ふ。」

と、さめざめと泣きければ、

『實にも。「はる」が聲にて、ありけるよ。』

と思ひ、やがて、内へぞ、呼び入れける。

 

Akuen

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「あくゑんにあふて善心のすゝめに成事」とあるか。しかし、「のす」の崩しは異様で、そのようには見えないのだが。また、絵では、戶もなく、辻堂ではなく、四阿のように描かれているが、これは堂内を透視画法で、大胆に描いたということか。しかし、松が見えていて、そのように好意的にとるには、無理がある。]

 

 とかくする内に、女房は產(さん)にゐて、少し、心も安ければ、傍(そば)に、「はる」を添へ置きて、居眠りてぞ、ゐたりけれ。女房も、流石、

「山路の疲れ。」

と云ひ、殊の外に困(こう)じにたれば、我かのけしきに、寄り添ひゐたるに、後(うっしろ)なる「はる」、女房の首の𢌞りを、ひたもの、舐(ねぶ)り𢌞しける。

 驚き、目を黨まし、

「なうなう、はるが、我を舐りて怖ろしきに、これへ、寄らせ給へ。」

と云ふ。「はる」が曰く、

「斯(か)やうの時は、御血(おんち)の心(こゝろ)にて、左樣(さやう)の空事(そらごと)を仰せあるものにて候。少しも、苦しき御事にては候はず。音もせで、御休み候へ。」

と云ふ。

 男は、

『實(げ)にも。さある事ならん。』

と思ひ、油斷してゐたる間(ま)に、何處(いづく)ともなく、二人共に、失せにけり。

 男、目を覺まして後(のち)、肝をつぶし、

「こは、如何にしつる事ならん。」

と、堂の外を尋ぬるに、行方(ゆきがた)なし。

 ひた呼ばはりに、呼ばはれども、見えず。

 其の後(のち)、山の上に、聲のしける程に、登りて見れば、谷の底に、叫ぶ音(おと)。しけり。

 又、下手(しもて)を見れば、峯に聳立(そびえた)てるなど、彼方此方(かなたこなた)と惑ひ步く内に、夜(よ)も明けぬ。

 無念、類(たぐひ)もなくて、

「腹を切らん。」

と、しけるが、麓に寺の見えけるほどに、

「これにて、如何にも、ならん。」

と、急ぎ下りて、主の長老に向ひ、

「しかじかの事、侍り。後世をば、賴み奉る。」

とて、既に、腹を切らんとするを、坊主、色々に、なだめ、

「兔角(とかく)、内儀の行方(ゆくへ)を尋ね給ひて、兔も角も、ならせ給へ。」

とて、弟子・同宿、其の外、地下(ぢげ)の人を入れて、至らぬ隈もなく、尋ねけれぱ、大きなる木の上に、すんずんに、引き裂きてぞ、懸け置きける。

 愈(いよいよ)、

『自害を、せん。』

と思ひ定めけるを、長老、色々、敎訓して勸めければ、則ち、そこにて、出家して、妻の後世(ごせ)を弔(とぶら)ひ、道心堅固にして、終はりけると、なん。

 斯かる憂き目に遭ふことも、却つて、佛の御慈悲にこそ。

[やぶちゃん注:「はる」に化けた物の怪の正体が明らかにならないのは、怪奇談としては今一である。

「人をあやまりて」人を殺してしまい。

「御先途(ごせんど)」主人が向かう隣国の落ち着き先を言う。

「覺束なし」ここは、「いぶかしい・怪しげである」の意。

「我かの氣色」岩波文庫の高田氏の注に、『夢うつつで、心のぼんやりしたさま』とある。

「血の心」同前で、『出産のさいの、精神や身体の変調をさすことば』とある。

「兔も角もならせ給へ」同前で、『とにかく(奧方の行方をつきとめてから)事をなさいませ』とある。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 謎(ポッドマン)

大手拓次譯詩集「異國の香」 謎(ポッドマン)

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

    ポツドマン

 

私は水で身躰をぬらした、

わたしの前に、 もう一つ身躰を感じてゐる

いつか、 わたしは忘れるかも知れない、

胸と胸とのあひだの影を、

それは光りの明け方を暗くし、

そしてただ淫佚に、

星が星のなかに輝くとき

わたしの思ひから消えうせる。

お前の脣の微笑は言葉であるか。

お前の心のなかに何が書いてあるか。

わたしはお前の顔のなかに沈んだが

どうしても其底に達することが出來ない

 

[やぶちゃん注:作者不詳。識者の御教授を乞う。しかし、この詩、妙に惹かれる。

「淫佚」「いんいつ」で「淫逸」に同じ。淫(みだ)らな楽しみに耽(ふけ)り、怠けて遊ぶこと。]

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「飛んで登らぬ鯉」・「ハヤのこと」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ。]

 

 飛んで登らぬ鯉  鮎に限らず、ハヤでも、鯇《あめのうを》でも鱒でも何魚《なにうを》でも、夏は川上に登るので、其等が瀧にさしかゝると、一旦飛上つて、其餘勢で泳ぎ上りましたが、鯉のみは、決して飛ばないで、初めから泳いで登りました。眞つ蒼に水の垂下《すいか》した中を、潜航艇のやうに、すうつと見事に泳いで登りました。

[やぶちゃん注:「ハヤ」既注であるが、再掲しておくと、そもそも「ハヤ」という種は存在しない「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」を見られたいが、そこの私の注から転写すると、本邦で「ハヤ」と言った場合は、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称であるから、その中の幼魚と断定してよいと私は考えている。

「鯇」これは、かなり、メンドクサい。この名自体は、琵琶湖固有種である条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus の異名である(産卵期の特に大雨の日に群れを成して河川を遡上することに由来する「雨の魚」は異名としてかなり知られている)。当該種は、現在、栃木県中禅寺湖・神奈川県芦ノ湖・長野県木崎湖などに移殖されているが、当時、横山の寒狹川にいた可能性は、まずあり得ないから、ビワマスではない。とすれば、本種は何か? 私は思うに、

アマゴ(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の河川残留型(陸封型)を指す異名。人によっては見た目がかなり異なることから、アマゴとサツキマスは別種と頑強に主張する人(西日本に多い)が有意にいるが、魚類学では同一種と決定されている)

を指しているいるのではないかと考える。如何にこの「鯇」「アメノウオ」が痙攣的にメンドクサいかは、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鯇(ミゴイ/ニゴイ)」の本文及び私の痙攣的注を参照されたいが、ともかくも、この異名は驚くべき多数の種の異名として、中国や本邦で使用されているのである。但し、魚体の特徴が記されていないから、全く別の魚を横山では「鯇」と呼んでいた、或いは、呼んでいる可能性もあるから、当地の方の御教授を乞うものではある。

「鱒」これも一種と考えている方が多いが、前注のリンク先で注してあるが、「マス」という種はいない。「マス」とは、本邦の場合は、

条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科 Salmonidae に属する魚類の内で和名・和名異名に「マス」が附く多くの魚

或いは、本邦で一般に、「サケ」(サケ/鮭/シロザケ:サケ科サケ属サケ Oncorhynchus keta)・ベニザケ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属ベニザケ[本邦ではベニザケの陸封型の「ヒメマス」が択捉島・阿寒湖及びチミケップ湖《網走管内網走郡津別町字沼沢》)に自然分布する]Oncorhynchus nerka)・マスノスケ(=キング・サーモン:サケ亜科タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha)など)と呼ばれる魚以外のサケ科の魚(但し、この場合、前者の定義とは「ヒメマス」「マスノスケ」などは矛盾することになる)を纏めた総称である。「マス」・「トラウト」ともにサケ類の陸封型の魚類及び降海する前の型の魚を指すことが多く、主に

イワナ(サケ科イワナ属 Salvelinus。現在、日本のイワナは二種であるという見解が一般的であるが、亜種を含め、分類は未だに決定されていない。詳しくは当該ウィキを参照されたい)

ヤマメ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou

アマゴ(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae

ニジマス(タイヘイヨウサケ属ニジマス Oncorhynchus mykiss

などが「マス」類と呼ばれるのである。これも同前で、現地の方からの御教授を得ないと、完全な特定は不可能である。

「鯉」コイ目コイ科コイ亜科コイ属コイ Cyprinus carpio 。まるで、東洋の川魚のチャンピオンのように誤解されているが、本種の元はヨーロッパ原産であって、凡そ本邦の象徴的淡水魚でも何でもない。

 

 ○ハヤのこと  山溪の水の尠《すく》ない流れには、ブトと呼んでゐるハヤの一種がいました。水が淀んで淵をなした所には、必ず一群のブトがゐて、其處には、赤ブトと云ふ頭や尾の赤くなつた大きなブトが雌雄居て、他のブトの群《むれ》は、それに隨つて行動してゐるやうで、餌が流れて行つてもこの赤ブトが動かない中《うち》は、小ブトはぢつとしてゐました。この赤ブトを捕つても、其處には、いつか又同じやうな赤ブトがゐるものでした。

[やぶちゃん注:早川氏は正しく前注で述べたように、「ハヤ」が複数の川魚を指すことの認識されていて、頼もしい。

「ブトと呼んでゐるハヤの一種」これは以下の婚姻色の叙述から、私は、「桜うぐい」の名をし負う、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis の♂

を真っ先に想起した。釣ったことはないが、若い頃、富山県高岡の庄川べりの川魚料理店で食べた美しいそれが、川魚の最上の味だったことを忘れない。【二〇二三年四月一日改稿・追記】しかし、「早川孝太郎研究会」の、この次の本文(「蜘蛛に化けて來た淵の主」相当・PDF)に編者注があり、『カワムツ(ブト)』と題して魚体の写真も添えられ、『膨大な数の方言があるが、これらのすべてが石川県と愛知県を東限としている。とりもなおさず東日本には分布していなかった証だが、最近は稚アユの放流に混じって関東地方などへも移入され、定着している(この辺りでは「ハヨ」と言います。)』とあった。 カワムツの♂も強い赤い婚姻色を呈するので、ここは、

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii の♂

であることが判ったので、修正した。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 五 常々の惡業を死して現はす事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵が赤茶けてひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     五 常々の惡業を死して現はす事

 關東に宇都宮の何某(なにがし)とかや云ふ、ありけり。

 彼(か)の北の方、幼なき時、名を、「おちやあ」と云ひける。「おかみさま」、「お上さま」など、人、云へば、

「年寄りたる心地する。」

とて、やゝ年(とし)たくるまで、幼名(をさなな)を呼ばせける。

 斯かる心より、萬事、不得心にて、召し使ひける者をも、或は、打叩(うちたゝ)き、少しの事にも折檻して、慈悲の心は、夢程も、なかりけり。

 さるから、身まかりけるに、臨終の有樣(ありさま)、怖ろしき事、思ひやるべし。

 扠(さて)、邊(あたり)の寺へ送りけるが、未(いま)だ葬禮をば、せで、香(かう)の火を取りに行く程をぞ、待ち居たる。

 死骸を棺に入れて、佛前に置き、番の者、數(す)十人、其の他、一門眷族、數多(あまた)、附近の僧など、集まり居けるに、俄(にはか)に、彼(か)の棺、震動する事、夥(おびたゞ)し。

「何事にか。」

と、皆人(みなひと)、奇異の思ひを爲しけるところに、彼の死人(しにん)、棺の内より、怪しからぬ姿にて、立ち出でぬ。

 

Akugou1

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、幾つかの画像を見たが、「つねづね」(どれも板木が擦れて後半が判読不能だが、恐らくは踊り字「〱」であろうと推察した)「のあくか」(が)「うに」、「しゝてあらわす事」と読める。]

 

 白晝の事なれば、諸人、

「あれや、あれや、」

と云ふ程こそあれ、見る内に、面(おもて)、變りて、眼(まなこ)、日月(じつげつ)の如くにして、髮は、そらざまに生ひ上(のぼ)り、齒がみをして、つい立つたる[やぶちゃん注:「突き立つたる」のイ音便。「すっくと立ちはだかった、その姿は」の意。]有樣(ありさま)、眞(まこと)に面を向くるべきやうもなし。

 かかるところに、長老、出で向ひ、引導して弔(とぶら)はるれば、元の如くの死骸と、なる。

 惡心の怖ろしさ、佛經の尊(たふと)さ、彼(かれ)これ、もつて、疑ふべきことかは。

[やぶちゃん注:「宇都宮の何某」岩波文庫の高田氏の注に、『宇都宮の何某 中世、下国で勢威を振った豪族宇都宮氏の一族か』とされる。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二〇番 親讓りの皮袋

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本は、ここから。]

 

   二〇番 親讓りの皮袋

 

 或所に貧乏な婆樣と息子があつた。息子はある長者の家に下男奉公をして居た。そして母親を案ずるあまり、飯時には椀の飯を食ふふりをして、半分はぼろぼろと懷ろへこぼし入れて、家へ持つて還つて母親(オフクロ)を養つた。婆樣は臨終の時、息子やえ息子やえ、おらはお前に大層手厚い世話になつたども何一ツこれが親の記念(カタミ)だと言つて、お前に殘してやる品もない。たゞ之ればかりはお前の生れた所でもあり、又おらが一生の間人にも見せないで大事にして來た物であるから取つて置いてケロ(くれろ)と言つて、薄毛ブカの生えた生臭い醜(メグサ)い不思議な物を息子に與へた。婆樣はそして遂々《たうとう》この世を立つてしまつた。

 息子は親孝行者だから、そんな汚らしい風の物でも、たつた一ツの母親の記念だと思ふから、ごく大事にしてしまつて置いた。ただ、ちよつとやはツとに役に立ちさうもないもの故、陰干しにして柱の所サ釣るして置いた。或時それを見て思ひついて、熊の皮(のやうな)の巾着を作つて、火打ち道具を入れて常(イツ)も腰に下げて居た。

 或日息子は旦那樣の牧山へ行つた。すると牛どもが交尾(ツル)んで居たが、それがどうしたことか一日も二日もツルミツきりで放れなかつた。そのうちに牛どもは疲れて悶へて死にかゝつた。息子は如何(ナゾ)にしたらよいかと、大變困つたが手のつけやうも無かつた。呆《あき》れ果てゝ煙草でも一プクやるべえと思つて、いつもの皮巾着の口を指でひろげ開けると、それと一緖に今迄放れなかつた牛どもが、ポツンと、二ツに引き放れて立ち上つた。なるほど之れはよい物だと息子は初めて氣がついた。

 それから間もない時のことであつた。長者どんの美しい一人娘に聟取りがあつた。婚禮の夜も過ぎて翌朝になつたが、どうしたのか花嫁花聟が揃つて寢所から起きて來なかつた。初めの中《うち》は皆も眠過《ねすご》したこつた、今に出て來るべえと思つて遠慮して居つたが、次の日の晝過ぎになつても出て來ないから、これはロクなことではあるまい。ざえざえ娘(アネ)コ、兄(アヱコ)と靜かに呼んで寢室を覘《のぞ》いて見ると、これはしたり二人は同じく眞靑になつて、グツタリと抱き合つたまま[やぶちゃん注:底本は「また」。「ちくま文庫」版で訂した。]倒れて居た。それから、あれア大變だと云ふ大騷ぎになつて、醫者だア法者だアと搖げ廻つて賴んでみたが少しも驗《しるし》がなかつた。

 其時息子は先日の牧山のことをひよツと思ひ出して、旦那樣の所へ行つて、もしもし俺が娘樣兄樣のところを放して見申すベアと言ふと、旦那樣も苦しいところだから、そんだらお前にできれば早く放してケロと言つた。そこで息子は奧の娘樣の寢室へ行つて、片脇の方サ向いていて皮巾着の口を力《ちから》ホダイに押し開けると、今迄放れないで居た二人の體がボツラと放れて別々になつた。

 長者どんの上下の歡び繁昌はたいしたものであつた。聟どのはシヨウス(恥かし)がつて、それツきり生れた家へ歸つて來なくなつたので、旦那樣は何もかにもお前のお蔭だ、一人娘の生命拾ひをしたと云つて、改めて息子を長者どんの聟に直して、孫繁げた。

  (村の大洞犬松爺の話の二。大正十年一月三日の採集分。)

[やぶちゃん注:この病態は所謂、現在の医学用語では「腟痙」(英語:vaginism/ドイツ語:vaginismus)である。以下、信頼できる学術的な記載として、嘗つて万有製薬株式会社の提供していた「メルクマニュアル 第17版」の「女性の性機能不全」より、「腟けいれん」部分をコピー・ペーストしたものを掲げる。

   《引用開始》

腟けいれん

腟の下部の筋肉の条件反射的な不随意性収縮(けいれん)で、挿入を阻みたいという女性の無意識的欲求が原因である。

 腟けいれんの痛みは挿入を阻むため、しばしば未完の結婚をもたらす。腟けいれんのある女性の一部は、クリトリスによるオルガスムを楽しんでいる。

病因

 腟けいれんは、しばしば性交疼痛症を原因とする後天的な反応で、性交を試みると痛みを引き起こす。性交疼痛の原因が取り除かれた後であっても、痛みの記憶が腟けいれんを永続させうる。その他の原因としては、妊娠への恐れ、男性に支配されることへの恐れ、自制を失うことへの恐れ、または性交時に傷つけられることへの恐れ(性交は必ず暴力的だという誤解)がある。女性がこのような恐れを抱いている場合、腟けいれんは通常原発性(生涯続く)である。

診断と治療

 患者の回避反応は、しばしば診察者が近づいた時に観察される。骨盤の診察時に不随意的腟けいれんが観察されれば、診断は確実である。病歴と身体診察により、身体的または心理的原因が確定できる。最もおだやかな骨盤診察によってさえ引き起こされるけいれんを除くために、局所または全身麻酔が必要な場合がある。

 有痛性の身体疾患は治療されるべきである(前述「性交疼痛症」参照[やぶちゃん注:「女性の性機能不全」内。])。腟けいれんが持続する場合には、段階的拡張などの、腟の筋肉けいれんを軽減する技法が有効である。切石位をとらせた患者に、十分に潤滑油を塗った段階的なサイズのゴムまたはプラスチックの拡張器を、最も細いものから始めて腟の中へ差し込み、そのままの位置に10分間置いておく。代わりにヤングの直腸拡張器が用いられることがあるが、理由はそれが比較的短く、不快感がより少ないからである。患者自身に拡張器を腟内に入れさせることが望ましい。拡張器を中に入れている時にケーゲル練習法を行うことは、患者が自身の腟筋肉のコントロールを発達させるのに役立つ。患者は腟周囲の筋肉をできるだけ長時間収縮させてから腟筋肉を緩めるが、この際同時に、緩めた時の感覚に注意を払う。患者に大腿の内側に片手を置かせてから、それらの筋肉を収縮させ、緩めるよう要求することが役に立つが、これは患者が一般的に、大腿、そしてこの処置の間は腟周囲の筋肉を、両方ともリラックスさせているからである。段階的拡張は、自宅で行ったり、または医師の監督のもとに1週間に3回行われるべきである。患者は1日に2回、自分の指で似たような処置を行うべきである。

 患者が、より大きい拡張器の挿入に不快感なく耐えられるようになったら、性交が試みられる。この処置には教育的カウンセリングが必要である。段階的拡張を始める前の性科学的診察は、しばしば有用である;患者のパートナーを同席させ、手鏡を使って患者に自分の身体を診察させながら、医師は諸器官の構造を同定する。このような処置は、しばしばパートナー双方の不安を軽減し、性的事柄についてのコミュニケーションを促す。

   《引用終了》

 以上の記載からも想像出来る通り、性行為結合のままで離脱不能になるケースは、皆無でないものの、極めて稀であることは、ネット上に散見される信頼できる(と判断される)真摯な記事からも、また、実際にそのような事態を私自身、実際に見たことも聞いたこともなく(勿論、経験もない)、これが所謂、都市伝説(アーバン・レジェンド)の性格を持って、市井に流布されていることは明白なことと思われる。なお、万が一、私がそのような事態を経験した場合は、必ずや隠すことなくここで実例として掲げることをお約束する(約束して十四年になるが、経験はない)。

「薄毛ブカの生えた生臭い醜(メグサ)い不思議な物」不詳。思うに、母は「たゞ之ればかりはお前の生れた所」であると言っているからには、後産(のちざん)の胞衣(えな)の一部であるようには、まず、思われるのだが、但し、「薄毛ブカの生えた」とあるのは不審で、或いは、彼と一緒に生まれるはずだった双生児の二重体の奇形化して分離した奇形嚢腫中の断片かも知れない(以前に調べた際、頭皮と髪の毛だけのそれを医学雑誌で見たことがある)。謂わば、生れるべきであった者の人体の一部であれば、これは類感呪術としての強い咒物となることは、明白である。

「法者」法士。方術士。所謂、民間で病魔・悪魔退散等の祈禱を行う山伏や、民間の巫覡(ふげき)・巫女等を指す。]

2023/03/29

愛する奈良岡朋子に――

愛する奈良岡朋子に――アディュ!…
四十数年前……貴女が中華街の店の真向かいにおられて、僕は何度か声を掛けたかったのに……

私が本気で貴女を愛したのは……黒澤の「どですかでん」の……唯一の――哀しい女の――それでありました…………

「曾呂利物語」正規表現版 第四 四 萬のもの年を經ては必ず化くる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵が赤茶けてひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     四 萬(よろづ)のもの年を經ては必ず化(ば)くる事

 伊豫國(いよのくに)、出石(いづし)と云ふ所に、山寺、あり。鄕里(さと[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を、へだつる事、三里なり。

 彼(か)の寺、草創のはじめ、二位(ゐ)と云ふ某(なにがし)、本願(ほんぐわん)として、年月を送りしが、いつの頃よりか、此の寺に、化物(ばけもの)ありて、住持の僧を、とりて、行方(ゆきがた)、知らず。

 その後(のち)、度々、住持ありけれども、いづれも、幾程なく、とり、終りぬ。

 今は、主(ぬし)なき寺になりしかば、如何(いか)にも破(やぶ)れて、霧、不斷の香(かう)をたき、扉(とぼそ)、落ちては、八月、常住のともし火を揭(かゝ)ぐるとも、いひつべし。

 斯かる處に、關東より、

「足利の僧。」

とて、上(のぼ)り、二位が許(もと)に來り、かの寺の住持を、望みける。

 二位が云ひけるは、

「此の寺は、しかじかの仔細有りて、中々、一時も勘忍なるまじ。寺は、さいはひ、無住の事なれば、易き程の事なれども。」

と云ふ。

「さればこそ、望みて候間、是非とも、彼の寺に行きなん。」

と云ふ。

 二位、更に請けずなりければ、押して、彼の寺に行きて見れば、寔(まこと)に、年久しく人の住まざりければ、荒れ果てたる態(てい)、實(げ)にも、變化の物も住むらんと覺ゆ。

 斯くて、夜(よ)に入り、暫(しば)しあれば、門より、

「物、申さん。」

と云ふ。

『さては。二位が許より、使(つかひ)、おこしけるか。』

と思ひたれば、内より、いづくとなく、

「どれ。」

と答ふ。

「圓遙坊(ゑんえうばう)は、御内(おうち)にご座候か。『こんかのこねん』、『けんやのはとう』、『そんけいが三足(さんぞく)』、『こんさんのきうぼく』にて、候。御見舞申すとて、參りたり。」

 ゑんえう坊、出で逢ひ、樣々(やうやう)に、もてなして後(のち)に、

「御存知の如く、久しく、生魚(なまざかな)、絕えて無かりつるところに、不思議なるもの一人(にん)、出で來りはべる。御歡待(おんもてなし)においては、不足、あらじ。」

と云ふ。

「客人も、寔に、珍しき事、あり。參り候事、何より、もつての御もてなしにてこそ候へ。夜(よ)と共に、酒盛を致し、食(く)はん。」

と、興に入りぬ。

 

Idusiyamaderanokai

 

[やぶちゃん注:右端上のキャプションは、「いよの国いづしといふ所にての事」である。]

 

 彼の僧は、元より、覺悟したる事ながら、

『彼等の餌食(ゑじき)にならんこと、口惜しき次第なり。さるにても、化け物の名字をたしかに聞くに、先づ、「圓遙坊」と云ふは、「丸瓢簞(まるへうたん)」なるべし。「こんかのこねん」は、「坤(ひつじ)の方(かた)の河(かは)の鯰(なまづ)」、「けんやのはとう」は、「乾(いぬゐ)の方の馬(うま)のかしら」、「そんけいの三足」とは、「巽(たつみ)の方の三つ脚(あし)の蛙(かへる)」、「こんざんのきうぼく」とは、「艮(うしとら)の方の古き朽木(くちき)の伏したる」にてぞ、あらん。彼等ごときのもの、如何に劫(こう)を經たればとて、何程の事かあるべき。常に筋金(すぢがね)を入れたるぼうを、つきて來たり。彼(か)の棒にて、何(いづ)れも、一討(ひとうち)の勝負なるべし。』

とて、大音聲をもつて、

「各々、變化(へんげ)の程を、知りたり。前々の住持、その根源を知らずして、遂(つひ)に、空しくなりぬ。我は、それには、事變るべし。手並の程を、見せん。」

とて、彼(か)の棒を、取り直し、爰(こゝ)にては、打ち倒し、彼處(かしこ)にては、追ひ詰め、丸瓢簞をはじめて、皆、一打ちづゝに、打ち割り、四つの物ども、散々に、打ち碎き、其の他(た)、眷族(けんぞく)の化物ども、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、ふくべ、すり小鉢の割れ、缺(か)けざ鉢(ばち)、摺粉木(すりこぎ)、足駄(あしだ)、木履(ぼくり)、蓙(ござ)の切れ、味喰漉(みそこし)、いかき、竹(たけ)ずんぎり、數(す)百年を經たるものども、その形を變じて、つきまとひたる所なり。

 かの棒に、一あて、あてられて、何かは、少しも、たまるべき、一つも殘らず、打ちくだきてぞ、捨てたりける。

 夜明(よあ)けて、二位が許より使(つかひ)を立てて見れば、僧は、恙も、なかりけり。

 さて、二位は、寺へ行きて、問ひければ、有りし事ども、委しく語る。

「眞(まこと)に、智者なり。」

とて、卽ち、彼の僧を、中興開山として、今に絕えず、古跡となり、佛法繁昌の靈地とぞ、なりにける。

[やぶちゃん注:「宿直草卷一 第一 すたれし寺を取り立てし僧の事」は本篇の転用。

「伊豫國(いよのくに)、出石(いづし)と云ふ所に、山寺、あり」現在の愛媛県大洲(おおず)市豊茂乙(とよしげおつ)にある出石山(いずしやま:標高八百十二メートル)山上に真言宗御室派別格本山金山(きんざん)出石寺(しゅっせきじ)ががあるが(グーグル・マップ・データ航空写真)、これをモデルとしたものか。但し、同寺の公式サイトや、当該ウィキの寺の歴史を見ても、本篇の内容と係わるような一致する過去は全く見られない。

「二位」岩波文庫の高田氏の注に、『伊予国の古い豪族「新居」氏のあて字』とある。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『古代から中世にかけての伊予国(愛媛県)の豪族。古代の豪族越智(おち)氏の流れをくむと伝えられる。平安時代の中期から台頭し、後期には東・中予地方に大きな勢力を有した。新居郡(新居浜市、西条市)を中心にして周敷(しゆふ//すふ)郡(東予市,周桑郡)、桑村郡(東予市)、越智郡(今治市とその周辺)、伊予郡(伊予市とその周辺)等に進出し、風早郡(北条市)からおこった河野氏と勢力を競った。平安末期には平家との関係が深くなり、その家人化していた』とある。

「本願」「本願主」(ほんがんしゅ)。自身の発願(ほつがん)によって個人的或いは自身の氏族のためにのみ建立した寺院を指す。

「とり、終りぬ」物の怪のために、完全に攻略され、掠奪されてしまった。

「足利の僧」高田氏の注に、『足利学校で学んだ』僧とある。

「如何(いか)にも破(やぶ)れて、霧、不斷の香をたき、扉(とぼそ)、落ちては、八月、常住のともし火を揭(かゝ)ぐるとも、いひつべし」ここは「平家物語」の、よく知られたコーダ「大原御幸(おはらごかう)」の冒頭部の一節を転用したもの。「八月」と珍しく仲秋の侘しい季節設定をするなど(但し、あまりに唐突で、私などはちょっとヘンに躓いた)、なかなか、作者の知的な工夫がなされている特異点ではある。「平家物語」は各種全巻を四種ほどを持つが、正字表記のものは持たないので、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文學大系』校註第十四巻(大正一四(一九二五)年国民図書刊)の当該部を視認して示す。読点・記号と一部の読みは、適宜追加してある。なお、こちらの時制設定は文治二年の『卯月二十日餘り』で、グレゴリオ暦換算では一一八六年の五月十七日以降で初夏である。

   *

 西の山の麓に一宇(いちう)の御堂(みだう)あり。すなはち、寂光院(じやうかうゐん)、これなり。ふるう作りなせる泉水・木立(こだち)、よしある樣(さま)の所なり。甍(いらか)、破れては、霧、不斷の香を焚き、扉(とぼそ)、落(おち)ては、月(つき)、常住(じやうぢう)の燈(ともしび)をかゝぐとも、斯樣(かやう)の所をや、申すべき。庭の若草、茂り合ひ、靑柳(あをやぎ)、絲を亂りつゝ、池の浮草、波に漂(たゞよ)ひ、錦を曝(さら)すかとあやまたる。中島(なかじま)の松にかゝれる藤波の、裏紫(うらむらさき)に咲ける色、靑葉まじりの遲櫻、はつ花よりも珍しく、岸の山吹、咲き亂れ、八重立(やへた)つ雲の絕(た)えまより、山時鳥(やまほととぎす)の一聲(ひとこゑ)も、君の御幸(みゆき)を待ちがほなり。法皇、これを叡覽あつて、かうぞ遊ばされける。

  池水にみぎはの櫻ちりしきて波の花こそさかりなりけれ

   *

「勘忍なるまじ」高田氏は同前で、『たえ忍ぶことができないだろう』と訳注されておられる。この台詞は、その僧を何となく見くびっている感も感じられるのだが、これから起こる変異を、読者側に、生半可なものではないと感じさせるホラー効果としては、よく効いているともいえる。

「ゑんえう」高田氏注に、『(円揺)は瓢簞の異名(『三才図会』)』とある。挿絵の壊れた瓢箪(ひょうたん)が描かれてあり、それが正体だというのである。これは生物ではないから、「付喪神」(つくもがみ)と言えなくもないが、瓢箪自体は元植物の実であるから、彼だけをつまはじきにするのは、やめておく。或いは、枯れ果ててぶら下がっていたヒョウタンの残骸かも知れんしな。

「こんかのこねん」以下、僧の名乗りの解読部分は、高田氏の注を一部で引用する。「坤」(ひつじさる/コン」で南西を指し、寺のその方角に正体が存在することの証しであり、これは『「坤家(こんか)の小鯰(こねん)」と解せる』とある。その方角にある「家」、則ち、「棲み家」であろうところの、沼か池か小流れかに巣食う、「ちっぽけなナマズ」が正体なのである。

「けんやのはとう」は「乾」(いぬゐ/ケン)」で「戌亥(いぬゐ)」で、北西を指し、同前で、これは『「乾谷(けんや)の馬頭(ばとう)」と解せる』とある。この馬頭は「馬の頭(かしら)」で、挿絵から、その辺りに転がっている「死んだ馬の頭骸骨」が正体。

「そんけいの三足」これは『「巽溪(そんけい)」の三足(さんそく)」』で「巽」(たつみ/ソン)lは「辰巳」で南東。その辺りに潜んでいる三本脚の奇形の蛙が正体。

「こんざんのきうぼく」は『「艮山(こんざん)の朽木(きゅうぼく)」』で「うしとら」は「丑寅」=「艮(うしとら/コン)」で鬼門東北に植わっていた朽ちた木の木片・破片(挿絵参照)が正体となるのである。

「筋金を入れたる棒」高田氏の注に、『芯に鉄棒を仕込んだ錫杖』とある。

「事變るべし」「そんな過去の連中とは、訳が違うぞ!」という僧のいさおしである。

「卷族」眷属。子分ども。

「すふくべ」徳利。土製の瓶。ここから後は、概ね、加工された物品であるから、真正の劫(こう)を経た付喪神であると断じてよい。

「いかき」竹で編んだ笊(ざる)、或いは、特に「味噌漉し笊」をも指す。ここは挿絵に従うなら、前者。

「竹ずんぎり」高田氏の注では、『竹を輪切りにした食器』とある。この語は「髄(ずん)切り」の意ともされ、「寸」は当て字とも言うが、一説には「すぐきり(直切り)」の音変化ともされる。なお、挿絵では、他に寺の厨房にあった擂り粉木や、砧(きぬた)或いは搗くための短い杵(きね)のようなものも、描かれてある。壊れた草履か雪駄のようなものもある。その下にあるのは、ちょっと判らないが、私には、少し大振りだが、法具の鈴(りん)二個のようにも見えなくはない。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一九番 蜂のお影

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     一九番 蜂のお影

 

 或所の立派な家に、娘が三人あつた。似合ひのよい聟が見つからなかつたので、聟探しの高札を門前に立てた。すると一人の男が、表の高札を見て來たが、俺が聟になり度いと申込んだ。其の家の主人(アルジ)は、よく來てくれた、俺の所の聟になり度いならば、先づ家の裏屋敷の森の中の御堂をよく掃除して見てくれと言つた。そこでその男は翌朝早く、大きな握飯を四つ貰つて、御堂掃除に出掛けたが、そのまゝ歸つて來なかつた。

 その次の日、また別の男が、俺が聟になりたいと言つて來たが、前の男と同じやうに、翌朝森の中の御堂掃除にやられて、そのまゝ歸つて來なかつた。

 その次の日にまた違つた男が、俺が聟になりたいと言つて來た。そして前と同じやうに握飯を四つ貰つて、翌朝早く森の中の御堂掃除にやられた。男が御堂を掃除して居ると、向うから霧のやな物がむくむくと立つて來た。男はそれに一つの握飯を半分かいて投げてやつて平氣で掃除を續けて居た。さうして居ると又霧が立つて來たから、又半分の握飯を投げて遣つた。斯《か》うして霧が立つごとに握飯の半分づつを投げてやつて、恰度握飯がみんな[やぶちゃん注:底本は「みん」。「ちくま文庫」版で補った。]無くなつてしまつた時に掃除が終つた。自分は握飯を食べないで娘の家に歸つて來た。

 其家の主人は、あゝよく御堂の掃除をしたなア。しかしそればかりでは俺の娘はお前にやられない。こんどは此藁一本を千兩に賣つて來いと言つて、藁一本(イツポン)を男に渡した。男は打藁一本手に持つて出かけた。そして水澤ノ町なら丁度寺小路のやうな所を步いてゐると、向ふから朴(ホウ)の木の葉を括《くく》りもしないで、風でも吹けば吹ツ飛ばされさうにして持つて來る人があつた。そこで男は自分の持つてゐる打藁を與へて、これで括るがよガすと敎へた。すると其人は、そのお禮に朴ノ葉を二枚くれた。

 男は貰つたその朴ノ葉を持つて、水澤ノ町なら大町の通りのやうな所へさしかゝると、向ふから味噌賣りが、

   三年味噌ア

   三年味噌ア…

 とふれながら遣つて來た。近づいて見ると味噌の入物《いれもの》には蓋もしてゐない。そこで男は持つてゐた朴ノ葉を二枚與へて、これをその味噌の上にかけて置くがよガすと敎へた。すると味噌賣りはそのお禮に三年味噌を玉にして二つくれた。

 男は貰つた味噌玉を二つ持つて步いて行くうちに日が暮れたから、或町の立派な家に泊めて貰つた。ところが其家の旦那樣が病氣で、三年味噌を食はなければ、どうしても癒らないと云つて居た。そこで男は持つてゐた三年味噌を其旦那樣にすゝめると、それを食べたお蔭で、次の朝にはすつかり快(よ)くなつた。旦那樣は大層喜んで、貴方(アンタ)のお蔭ですつかり永年の病氣が全快した。何かお禮をしたいが何が御所望だと訊かれた。男は俺は何にもいりませんと言ふと、そんだらこれでも是非取つて置いてクナさいと[やぶちゃん注:底本は『クナとさい』。誤植と断じて訂した。]言つて、千兩箱を一個男に與へた。斯うして男は、打藁一本を千兩の金にして、嫁の家に歸つた。

 娘の父親主人は、あゝお前はよくも藁一本を千兩の金にして歸つた。なかなか偉えが、もう一つの事を仕出かさなくては、俺の娘を遣られない。今度は家の後(ウシロ)の唐竹林に唐竹が何本あるか、日暮れ際《ぎは》までに算へてみろ。それが當つたら今度こそは眞實《まこと》に娘を遣ると言つた。男は唐竹林の前へ行つて立つて見たが、あんまり數が多いので呆氣《あつけ》に取られてぼんやり立つてゐると、スガリ(蜂)が飛んで來て、

   三萬三千三百三十三本

   ブンブンブン…

 と唸つた。それを聽いて男はすぐに戾つて、あの唐竹の數は、三萬三千三百三十三本御座りすと言つた。其家では村中の人達を賴んで來て、一本一本算へさしてみたら、たしかに唐竹の數はそれ丈《だけ》あつた。

 まづまづこれで三度の難題を首尾よく解いたので、最後にそれでは、三人の娘の中《うち》、どれがお前の嫁になるのだか、當てなくてはならぬと言はれた。そこで男は娘三人を座敷に並べて緣側から眺めて見たが、三人が三人とも揃つて同じやうな顏形なので、一向判斷がつかなかつた。男は當感して、まづ小便して來てからと言つて、厠へ立つて、考へて居ると、以前のスガリが飛んで來て、

   なかそだ、ブンブン

   なかそだ、ブンブン

 と唸つた。男はそれを聽いて座敷へ戾つて、中の娘がさうでありますと言つた。果して眞中に坐つている娘が嫁になる娘であつたから、男は目出度く、其家の聟になつた。

  (水澤町《みづさはちやう》邊の話。森口多里《たり》氏の御報告の分の一。)

[やぶちゃん注:「水澤ノ町」現在の岩手県奥州市水沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。遠野の南西四十キロ位置。

「寺小路」ここ。増長寺という寺が有意な部分を占める。

「朴(ホウ)の木の葉」モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata当該ウィキに、『ホオノキの葉は大きく、芳香があり、殺菌・抗菌作用があるため、食材を包んで、朴葉寿司、朴葉にぎり、朴葉餅(朴葉巻)などに使われる』。『乾かした若葉で』、『温かい米飯を包んだり、葉の上で肉を焼いて』、『葉の香り』も『楽しまれ』、『味噌や他の食材をのせて焼く朴葉味噌、朴葉焼きなどに』も『利用され、飛騨高山地方の郷土料理としてよく知られている』とある。

「水澤ノ町」「大町」寺小路の西南に接する奥州市水沢町大町

「三年味噌」丸三年間、木桶の中で熟成発酵させて造られた高級な味噌。

「スガリ(蜂)」蜂の俗称であるが、万葉時代の用法では、典型的な「狩り蜂」として知られるジガバチ(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini、或いは、その一種サトジガバチ(ヤマジガバチ) Ammophila sabulosaを狭義には指すことが多い)の古名で、同種が有意に腹部がくびれていることから、「女性の細腰」に喩えた。但し、本篇では、最初の難題に登場する「霧のやうな物」というものの正体が、蜂の群飛であると考えられることからは、ジガバチではあり得ない。ジガバチの生態は非社会性で、群飛することはないからで、ここは、ミツバチ(細腰亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属トウヨウミツバチ亜種ニホンミツバチ Apis cerana japonica を想起するのが適切であろうかとは思う。ただ、同種は握り飯は食わないが。

「森口多里」(明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八四)年)は美術史家・美術評論家で民俗学者。本名は多利(たり)。当該ウィキによれば、『岩手県胆沢郡水沢町大町』で『金物商を営む父』『母』『の次男として生まれ』、『一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て』、明治四三(一九一〇)年に『早稲田大学文学部予科に入学』、『在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される』。『また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人とな』った。大正三(一九一四)年、『早稲田大学文学部英文科を卒業し』、その『後は美術評論活動を行い』、ロマン・ロランの「ミレー評伝」『の翻訳や』、「恐怖のムンク」と『いった評論文を執筆した』。『森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で』五十『冊余の書作を世に送り出している』。『第二次世界大戦中、岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)に疎開した森口は』、『そのまま郷里に留まり』、『深沢省三や舟越保武らとともに岩手美術研究所を設立』、『後には岩手県立岩手工芸美術学校の初代校長を務めた』。『また』、『岩手県文化財専門委員として民俗芸能や民俗資料の保存調査に尽力し』、『収集した蔵書や研究資料は岩手県に寄贈され、岩手県立博物館や岩手県立図書館に収蔵されている』とある。佐々木喜善より六つ年下である。個人サイト「落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)」の『佐々木喜善と森口多里の「馬鹿婿噺」』によれば、『佐々木喜善の『聴耳草紙』には、森口多里が収集して記録した昔話や伝説が数多く提供されている。森口が採集した説話を挙げると、たとえば水沢町付近で採取した「ランプ売り」、同じ地域の「蒟蒻と豆腐」、芝居見物の「生命の洗濯」、笑い話の「鰐鮫と医者坊主」、下姉帯村の「カバネヤミ(怠け者)」、そして「馬買い」「相図縄」「沢庵漬」などの「バカ婿(むこ)」シリーズだ。特に、森口多里は「バカ婿」シリーズが大好きだったようで、地元の古老にあたっては積極的に収集していたフシが見える』。『「馬鹿婿噺」と総称される一連の伝承は、親が子どもを寝かしつけるときに語る昔話でも童話でも妖怪譚でもなく、大人が集まってヒマなときに披露しあう日本版アネクドートのようなものだったのだろう。もちろん、「バカ婿」シリーズだけでなく「バカ嫁」シリーズも数多く伝承されており、小噺の中にはかなり艶っぽくきわどい卑猥な笑いも含まれている。森口多里が集めた説話の傾向からすると、妖怪譚や昔話などの系列ではなく、滑稽でつい笑いを誘う大人の小噺収集に注力していたのではないだろうか』と述べておられる。リンク先には守口の肖像写真もあり、記事も興味深い。是非、読まれたい。]

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「鮎の登れぬ瀧」・「龍宮へ行つて來た男」・「人と鮎の智惠競べ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

      川 に 沿 つ た 話

 

 ○鮎の登れぬ瀧  前を流れる寒峽川[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]に二ノ瀧と云ふ瀧があつて、川の中央にある二ツの岩のから水が溢れ落ちてゐて、絕えず物凄い響をたてゝゐましたが、此處から二町程下つた所に、鵜の頸と云ふ淵があつて、大淵とも呼んでゐますが、此處は龍宮へ通じてゐるなどゝ謂ひました。此淵と二ノ瀧との間は、奇岩が重疊して、物凄い所でした。

 夏鮎が川下から登つて來て、此瀧を登る事が出來ない爲め、これより上流には鮎は居ませんが、昔上流の段嶺に城のあつた時、城主が瀧を破壞して鮎を誘はうと計ると、夢に龍神が現はれて、段嶺に城のある限り鮎を登らする約束をして、瀧の破壞を思留《おもひとど》まらせたと謂つて、段嶺に城のあつた閒は、上流にも鮎が居たなどゝ謂ひました。

 明治の初め頃、附近の村の材木商が申合せて此瀧の破壞を計畫すると、閒もなくその人たちが病氣になつたり、死んだりしたので、龍神の祟りだと怖れて、瀧の傍に、南無阿彌陀佛の文字を刻んで中止したと謂ひましたが、明治四十二年に、水力電氣の工事の爲めに破壞されて、昔の形はなくなりました。

[やぶちゃん注:「寒峽川」現行では「寒狹川」が正しいが、早川氏は「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図でも、『寒峽川』と記しておられるので、嘗てはこうも書いたものらしい。後の『日本民俗誌大系』版(一九七四年角川書店刊)でも、やはり『寒峡川』となっている。

「二ノ瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川(表記は既に述べた通り、『寒峽川』)の『ウノクビ及大渕』のすぐ上流、右岸から『大バニ川』が合流する、すぐ下流に『二ノ滝』とある。「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『二の滝は、長篠発電所の取水堰(花の木ダム)の本堤付近にあつたと思われます。子供の頃(昭和』三〇(一九五五)『年ごろ)父親が「オイ!、二の滝に行くぞ」といつて、大きなタモを持つて、鱒をすきに来たのを覚えています』。『岩の上からそつと覗くと』、四十・五十センチメートル『の鱒が川隅の浅瀬に出ているので、逃げ道に網を当てておいて、石を投げたり』、『中に入つて嚇したりして網に追い込んだものでした』と注を附しておられてある(写真有り)ことから、現在の「長篠堰堤」附近にあったことが判る。グーグル・マップ・データ航空写真のここで、サイド・パネルには九百七十六葉もの写真があるので、見られたい。また、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、この中央に「小さな滝」を示す記号らしきものが認められる(横棒線の下方に左右●二つ)ので、見られたい。

「此處は龍宮へ通じてゐる」完全な内陸で海から遠く離れていても、例えば、琵琶湖や、中部地方の山間でも、池や川の淵などが龍宮に通じているという伝承は枚挙に遑がない。例えば、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』を挙げておく。

「昔」、「上流の段嶺に城のあつた時」グーグル・マップ・データでこの附近を調べると、直近では、「塩瀬古城址」と「大和田城跡」が、また、その北西の山中に「城ヶ根城跡」がある。

「明治四十二年」一九〇九年。]

 

 ○龍宮へ行つて來た男  昔瀧川村の瀧川宋兵衞と云ふ男が、材木を川上から流して二ノ瀧にさしかゝると、其材木が全部瀧壺に落ち込んだまゝ、何時迄待つても浮んで來ないので、腹を立てゝ、刀を持つて瀧壺に飛込んで行つたと謂ひます。そしてだんだん奧深く潜つて行くと、遙か向ふに龍宮が見えたので、急いでゆくと、龍宮では、其男の材木をみんな薪にして、ちようど[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]其時、籠に入れて燃さうとしてゐる處なので、早速王樣に面會して段々事情を話して、其非を責めると、それでは一鍬田《ひとくはだ》のカイクラへ浮かべてやるから、歸つて待つてゐろと云はれて、急いで歸つて來たさうですが、自分には其間が僅か三時《さんとき》ばかりと思つたのが、家へ歸つて見ると、ちようど三年忌の最中であつたと謂ひました。そして材木は無事五里ばかり下流のカイクラへ浮んだと謂ひます。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。なお、「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『大淵⇒鵜の首』と題されて、『二の滝から』二『百メートル位下つたところが大淵で、その淵に流れ込むところを鵜の首といいます。大淵がちょうど鵜が羽を広げたような形をしているので、この様な名が付いたと思われます。大水の時は、川が上の岩盤と同じ高さで平らになつて、一気に二十メートルほど流れ落ち壮大な滝になります。そのため鵜の首から大淵にかけて、深くえぐられていつまでたつても埋まつて浅くなることはありません。竜宮に通じていると言い伝えられているのは、この鵜の首のところです』。『川小僧だつた私達も、二の滝は鰻を捕りに潜りましたが、鵜の首だけは潜つた者はありません。淵を泳いで渡るときに、淵が大きすぎて水が替わらないのか、水面から五十センチぐらい下は、異常に冷たかつたのを覚えています。竜宮まで通じているか定かではありませんが、二十メートルは優に超える深さがあると思われます』と注を附しておられてある(写真有り)。「大淵」前に述べた通り。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の『寒峽川』の『ウノクビ及大渕』とあるのが、それ(グーグル・マップ・データ航空写真)。名真もにし負う巨大な円形の淵であり、龍宮へ通じているという感じは満点である。

「瀧川村」前の「二ノ瀧」のあった上流直ぐの横山の対岸(右岸)(「ひなたGPS」)。

「一鍬田《ひとくはだ》のカイクラ」現在の愛知県新城市一鍬田(ひとくわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「カイクラ」は現在、「海倉橋」(かいくらばし:但し、ネット・データの中には「かいそうばし」と記すものもある)に名が残る。「萩さんのホームページ」の中の「牟呂松原頭首工」(むろまつばらとうしゅこう:「頭首工」とは農業用水を河川から取水するために、河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設(水門・堰堤・土砂吐(どしゃばき)等)を指す。用水路の頭の部分に当たることから、かく呼ぶ。 稲作は多くの水を必要とするため、古来から多くの先人達が苦労を重ね、頭首工の建設を行ってきたと「大分県」公式サイト内の「農村基盤整備課」の「頭首工とは?」にあった)のページには、『頭首工の横を通る橋は』、『海倉(かいくら)橋です』。『海倉橋のたもとには,以下の説明がありました』。『一鍬田の海倉淵は龍宮につづいているといわれます』。『昔から村に人が集まることがあって』、『お膳やお椀がほしい時』、『必要なだけ紙にかいてこの淵に流すと』、『やがて』、『お膳とお椀が紙にかいた数だけ浮いてきたということです』とあって、ここもまた、龍宮に通ずる聖なる場所であり、また、柳田國男の好きな「椀貸伝承」の一つにして、「龍宮伝説」とカップリングされたものであって、各地にある伝承である。因みに「大淵」から、この海倉橋までは、実測で十四・五キロメートルはある。

「三時」六時間ほど。まさに「浦島伝説」同様、異界での時間経過は恐ろしく異なるのである。]

 

 ○人と鮎の智惠競べ  こゝ(大淵)から川を四五丁[やぶちゃん注:約四百三十七~五百四十五メートル]降つた處に鮎瀧と云ふ瀧があつて、其から一丁[やぶちゃん注:百九メートル。]川下に矢筈と云ふ瀧があります。夏この瀧を飛上がる鮎を捕るのに、古老の話によると、四五十年前迄は、捕る術を知らなかつたさうですが、餘り鮎が飛ぶと謂つて、農事に使ふ箕《み》で受けて捕つたのが最初と謂ひます。私の記憶にある頃は、笠網と云ふ菅笠の形した網に竹の柄をつけたもので捕りました。六月一日から瀧番を決めて、一日四戶宛《づつ》番に當りました。雨上りの水量の增した時は、四斗樽に幾杯捕れたなどゝ謂つて、夕方暗くなつてから、岩の上で鮎の分前《わけまへ》を籤引《くじびき》にしたりしました。それから鮎がだんだん網を嫌つて、網を出すと飛ばなくなるなどゝ謂ふやうになつて、それ迄の手製の太い糸の網を改めて、細い透明な糸で造つた網を使ふやうになりましたが、それも僅かの間で、瀧の下に眞つ黑に押合つて、我がちに飛でゐた鮎が、網を出すと、ばつたり飛ばなくなると謂ひました。そんな風で、瀧番で行つてゐる者が、網を岩の上へ投げ出しては、ぢつと瀧を見詰めては考へてゐましたが、鮎が瀧に向つて飛上がつても水勢がはげしいので、水が岸の岩へ當つて卷返つてゐる所へ一度休んで、其處から泳ぎ上るのを發見したものがあつて、其處へ休みに來た鮎を待つて杓《すく》ひ取るやうにしますと、そこ迄は鮎も氣がつかないと見えて、其方法で非常に澤山捕れました。其の水が卷き返る處を、ザワザワと謂ひましたが、對岸の出澤《すざは》村には、このやうな天惠がないので橫山方《がた》を妬んで、種々な邪魔をしたものでした。しかし此方法も二三年で鮎が覺えてしまつて、其後はザワザワへ休まなくなつてしまつたので最早瀧を利用する途《みち》も絕へ[やぶちゃん注:ママ。]て、近年は、瀧の下へ集まつてゐる鮎を碇《いか》り針と云ふので、引かけて捕るやうになつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、当該地の写真(場所の詳細なキャプションも附されてある)とともに、『現在、私達がヤハズといつているのは、出沢』(すざわ)『側のピンコ釣の穴場です。ピンコ釣は、出水の時、鮎が遡上するのでよく釣れるのですが、水位が下がるにつれて、猿橋から上流に、順次、釣れる場所が移動していきます。その中でも「馬の背」と対岸の「ヤハズ」は最も釣果が多い処です。孝太郎がザワザワと言つているのは、馬の背岩の上流側のところだと思われます。今でも水がいい日にこの場所が取れれば、クーラーに何杯も鮎を釣る人がいます』。『滝番についての記述は、出沢区の鮎滝番のことと思われます。出沢区の鮎滝番は、正保三年』(一六四六年)『に、領主、設楽市左衛門貞信が瀧川家に「永代瀧本支配」のお墨付(すみつき)を与えたことにより始まり、大正』一五(一九二六)年には、『漁業組合との間で、笠網漁についての覚書を交わしています』と詳細な注記もなされてある。最後に『詳しくは、鮎滝のホームページを参照して下さい』とあつて、URLを記しておられるのだが、このURLは現在、機能していないので、取り敢えず、サイト「鮎滝笠網漁」の「笠網漁のご案内」のページをリンクさせておくこととする。ここに出る「ピンコ釣」とは、yamame_ayu氏のブログ「愛知三河の鮎・アマゴ・レインボー・うなぎ・スッポン他」の「鮎のピンコ釣り」によれば、『仕掛けはオモリを一番下につけ』、『その上に複数の針を結んで』、『深い場所に沈め縦の岩盤に付く鮎や』、『泳いでいる鮎を竿をしゃくって』、『引っ掛ける釣り方』とあり、その前で、『私がホームグラウンドにしている愛知県内の豊川水系や矢作川水系のポイントでは』、『針を沢山結んで、流れに入れて』、『鮎の掛かるのを待つナガシガリ(待ちガリ)で鮎釣りをする人はよく見かけますが』、『ピンコ釣りといわれる釣り方で鮎を釣っている人は』、『私が知る限り』、『一人だけです』とされ、『そのポイントも』、『深さのある岩盤の』一『か所だけです』とあって、現地では、殆んど廃れてしまった漁法らしい。因みに、私の父は鮎の毛針り釣りを、永年、趣味としていて、協議会の機関誌まで発行していた。

「鮎瀧」既出既注

「矢筈と云ふ瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央下の『寒峽川』の『矢筈滝』とあるのが、それであるが、ここは位置的には、現在の寒狭峡大橋の直下やや下流にある瀧が、それらしくは見える(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「出澤村」現在の新城市出沢(すざわ)。「ひなたGPS」でここ

「碇り針」調べてみると、鮎の友釣りの仕掛けらしい(私の父は友釣りが嫌いなため、私もやったことがなく、知識もない)。サイト「#gunma上毛新聞」の「【アウトドア】㊸釣り場の癖に応じた道具をアドバイス ワカサギやアユ釣り助言 つりピット!プロショップマツダ(高崎市江木町)」に、友釣りの仕掛けは、三、四『本の針を』、『船のいかり状に束ねた「いかり針」を』一『カ所に付けるのが一般的』とあったからである。グーグル画像検索「アユ イカリ針」をリンクさせておく。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 二人(ホフマンスタール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  二   人 ホフマンスタール

 

彼女は彼に盃を持つて來た、

彼女の顎と口とはそれの緣(ふち)のやうであつた。

かるくかるく またしつかりと步いて來て、

彼女は台盃から一しづくもこぼさずに跳びはねた。

彼は、 かるいしつかりした手で、 精に充ちた火のやうな種馬を檢束した。

そして、 だらしのない身振で、

彼は、 ふるへる馬を立ちどまらした。

 

然し、この軽いもので滿された盃をとらうとして

彼の手がさはつたとき、

それがポンドほども重かつた。

その譯は、 彼等の二人がふるへたので

お互の手が分らなかつた、

それで、 暗い酒は地の上にこぼされた。

 

[やぶちゃん注:フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホフマンスタール(Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal 一八七四年~一九二九年)はオーストリアの詩人・作家・劇作家。ウィーン世紀末文化を代表する『青年ウィーン』(Jung-Wien)の一員であり、印象主義的な新ロマン主義の代表的作家である。その文学的早熟性は当該ウィキを読まれたい。作品執筆にはドイツ語を用いた。詩全集は一九〇七年に刊行されている(Gedichte:詩(韻文))。大手拓次の訳は恐らくはフランス語からの重訳と思われるので、原詩は探さない。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 三 狐再度化くる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     三 狐再度(ふたたび)化くる事

 さる何某(なにがし)、召し使ひける男、妻に離れ、幾何(いくばく)もなきに、彼(か)の妻、夜な夜な、來たり侍る。

 彼の男の心、空(そら)にや有りけるやらん、化生(けしやう)の物とも知らず、いつもの如く思ひ、夜な夜な、傍(かたはら)を離れず、云ひ侍る。

 傍輩ども、聞きつけて、

「斯かる不審なる事こそ、なけれ。いざ、持佛堂を見ん。」

とて、彼の者の家に行き、伺ひ見れば、人の云ふに違(たが)はず。

 思ひ呆れたるところに、二人、相向かひてぞ、居たりける。

「とかく、押し入り、女も、男も、捉(とら)へ見ん。」

と、云ひ合はせて、彼(か)の家に押し込み、男女共に、抱きとりけり。

 斯くする内、燈火(ともしび)、消えぬ。

「女を、とり放すな。」

と、聲々に云ひて、外に出で、松明(たいまつ)を點(とも)してあれば、彼の男の主(しう)の飼ひける、唐猫なり。

 脇よりも、

「聊爾(れうじ)を、すな。殿の御祕藏の唐猫なり。」

と云ひければ、抱(いだ)きける者、少し、たゆみける内に、

「くわい、くわい、」

と云ひ、藪の中(うち)に入りぬ。

「さては。狐にてありけるものを。」

と、人々、頭を搔きける、とぞ。

[やぶちゃん注:「空(そら)にや有りけるやらん」岩波文庫の高田氏の注に、『虚脱して、正気でなくなったのか。』とある

「云ひ侍る」同前で、『夫婦のかたらいをしていた』とある。

「持佛堂」主人公は雇人であるから、やはり高田氏の注にある、『ここでは仏壇のある仏間のこと』、或いは、下人で仏間というのも何だから、位牌をおいてある奥の仕切り部屋ということであろう。

「聊爾(れうじ)」(りょうじ)は「軽率・迂闊(うかつ)」或いは「不作法・失礼なこと」で。ここは前者。

「くわい、くわい、」民俗社会での狐の鳴き声のオノマトペイア。「こんくわい」が知られ、漢字では「吼噦」、現代仮名遣「こんかい」。狐の鳴き声から転じて、「こんくわい」は「狐」を指す語ともなった。現在の「こんこん」の古形。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一八番 蜂聟

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     一八番 蜂   聟

 

 或る長者どんに、太郞と勘吉と三藏と云ふ三人の下男があつた。或日勘吉は家に居て馬飼(ウマアツカ)ひをして居《ゐ》、三藏は旦那樣と一緖に町へ行つた。

 太郞は草刈りに行けと言ひつけられて野原へ行く途中で、村の子供等五六人が蜂の巢を見つけて石を投げつけたり小便をしツかけたりして大變蜂をイジメテ居るのを見た。太郞は不不憫に思つて、懷中(フトコロ)に貯えて[やぶちゃん注:ママ。]置いた小錢を出して、その蜂を買ひ取つて、山に連れて行つて放して遣つた。

 それから三日ばかり經つと、旦那樣が三人の下男を呼び寄せて、今日俺が屋根の上から大石を轉がし落すから、それを下に居て地面に落さぬやうに受け止めた者を此の家の一人娘の聟にすると言つた。それを聽いて二人の朋輩どもは、俺こそ此の家の聟殿になれると言つて大威張りで居たが、太郞は自信がないから、相變らず野原さ草刈りに行つた。そして草をさくさくと刈つて居ると、何處かで斯《か》う云ふ歌を唄ふ小さな聲が聞えた。

   太郞どの太郞どのヤ

   屋根から落ちて來る大石は

   石ではなくて澁紙だ

   澁紙だア、ブンブンブン…

 見るとそれは此の前に助けて遣つた蜂であつた。これはよい事敎はつたと思つて勇んで家へ歸つた。

 夕方マヤマヤと暗くなつた頃に、旦那樣は屋根へ上つて、軒下に三人の下男を立たせて置いて、それア誰でも受け止めろツと言つて一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]四方ばかりの大石を棟の上からごろごろと轉がし落して寄越(ヨコ)した。二人の下男はヒンと叫んで遠くへ逃げ去つたが、太郞ばかりは大手を擴げて、やつとばかりにそれを受け止めた。やつぱり澁紙であつた。そしてめでたく長者どんの花聟になつた。

  (昭和四年、角館小學校高女一、鈴木貞子氏の筆記摘要。武藤鐵城氏御報告分の一)

[やぶちゃん注:「マヤマヤと」岩手方言であろうが、不詳。「もやもやと」で「徐々に薄暗く視界がぼんやりしてくるさま」であろう。渋紙の張りぼてがバレぬように、黄昏れ時を選んだのである。]

2023/03/28

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 『鄕土硏究』第一卷第二號を讀む

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では、本篇は「南方雜記」から外して、それの後に配されてある。]

 

      『鄕土硏究』第一卷第二號を讀む

            (大正二年五月『鄕土硏究』第一卷第三號)

 

 「鯨の位牌の話」(九〇頁)に載つた、諏訪の祠官「鹿食無ㇾ穢《しかくひ、ゑ、なし》」の章の異傳が、「諏訪大明神繪詞」に出て居る。是には、延文元年源尊氏奧書があるから、鐮倉時代の行事を記したらしい。其卷下に、『正月一日、祝《はふり》以下の神官・氏人、數百人、荒玉社若宮寶前を拜し、偖《さて》、御手洗河《みたらしがは》に歸りて、漁獵の義を表《あらは》す。七尺の淸瀧の冰《こほり》閉《とぢ》て、一機《ひとはた》の白布、地に布《し》けり。雅樂數輩、斧鉞《ふゑつ》をもて切り碎けば、蝦蟇《がま》、五つ六つ、出現す。每年、不闕《かかざる》の奇特なり。壇上の蛙石《かへるいし》と申す事も故あることにや。神使六人、赤衣きて、小弓・小矢を以て是を射取《いとり》て、各《おのおの》串にさして捧げ持《もち》て、生贄《いけんいへ》の初とす』云々。『業深有情、雖ㇾ放不生故、宿人身、同證佛果〔業深き有情(うじやう)は、放つと雖も、生きざる故に、人身に宿りて、同じく佛果を證す〕』云々と見える。「沙石集」卷一上に、山法師が、琵琶湖の鮒を取《とり》て、「汝、放つまじければ、不ㇾ可ㇾ生〔生(い)くべからず〕、たとひ生《うま》るとも不ㇾ可ㇾ久〔久しかるべからず〕、生ある者は、必ず、死す。汝が身は我が腹に入《いら》ば、我が心は、汝が身に入れり。入我々入《にふががにふ》の故に、我が行業《ぎやうごふ》、汝が行業と成《なり》て、必ず、出離すべし。然《しか》らば、汝を食《くひ》て、汝が菩提を訪《とぶら》ふ可し。」とて、打殺《うちころ》してけり。まことに慈悲和光の心にて有けるにや、又、只、ほしさにころしけるにや、おぼつかなし。信州の諏訪、下野の宇都宮、狩を宗として、鹿、鳥なんどをたむくるも、このよしにや。」と有る。「書紀」卷十、吉野の國、樔人《くすひと》、煮蝦蟆上味〔蝦蟆(かへる)を煮て上味とす〕と有るに參して、本邦、古え[やぶちゃん注:ママ。]、蝦蟇を珍膳とする方俗、處々に有たと知れる。

[やぶちゃん注:「鯨の位牌の話」柳田國男が大正二(一九一三)年四月発行の『鄕土硏究』第三巻第十一号に発表した論考。本篇のために先立って電子化注しておいたので、まずはそちらをお読みあれかし。

「諏訪大明神繪詞」「国立国会図書館デジタルコレクションの『信濃史料叢書』中巻(信濃史料編纂会編・昭和四四(一九六九)年歴史図書社刊)のこちらの右ページ下段から左ページ上段で当該部が視認出来る。一応、校合したが、一部は熊楠の表記に従った。

「延文元年」一三五六年。

「源尊氏」室町幕府将軍足利尊氏。彼は河内源氏義国流足利氏本宗家第八代目棟梁である。延文三(一三五八)年四月三十日に背部の腫瘍で亡くなっている。

『「沙石集」卷一上に、山法師が、……』所持する岩波文庫版(築土鈴寛校訂・一九四三年刊)で校合した。そちらでは、「卷第一」の「八 生類を神明に供ずる不審の事」にあり、所持する岩波の『日本古典文学大系』版の「沙石集」の「拾遺」では、同書の古本にある旨の注がある(同書はかなり異なる伝本が複数ある)。国立国会図書館デジタルコレクションの元和四 (一六一八)年の版本では、「第一下」の中の「生類神明供不審事」のここに出る。

『「書紀」卷十、吉野の國、樔人《くすひと》、煮蝦蟆上味国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫の黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」(昭和六(一九三一)年刊)の当該部をリンクさせておく。「樔人」は古代、現在の奈良県吉野地方にいた土着の住民で、「国栖」「国巣」とも書く。記紀の神武天皇の伝説中に、「石押分」(磐排別:いわおしわけ)の子を「吉野国巣の祖」と注しているのが、文献上の初見である。]

 紀州西牟婁郡朝來《あつそ》村に、大きな諏訪明神の社が有たが、例の合祀で全滅された。其邊に楠本氏の家が多い。信州より移り來たと云ふ。色々、古傳說も有たらしく、異樣の祭儀も有たが、廢祠と俱に信を得難くなつたのは惜しむ可し。和歌山近傍に宇須《うず》明神の社有りしが、是も合祀で滅却された。其邊に諏訪と云ふ侍が有て、藩士が鹿を食ふ前に、その侍の使ふた箸を貰ひに往《いつ》た。岡本柳之助、諏訪秀三郞、其れから、二人の兄に、「諏訪船」とか云ふ物を創製した海軍士官〔名は親昌とて、退職海軍中佐とかで、數年前迄、友人杉村楚人冠《そじんかん》の我孫子《あびこ》の宅の隣りにすみ居たりと、きいた〕、孰れも兄弟で、其家から出た。永々《ながなが》、巴里に寄留する秀三郞君から、右の次第を聞いたが、言語風采、丸で、佛人に成つて了《しま》つた人の事故、由緖等、更に分らぬ。一八六三年板、ミシェル・プレアルの「エルクル・エ・カクス論」六四頁に、移民は、多く祖先來の傳話を、遠地へ將來、持續す、と有るより推すと、件《くだん》の宇須明神は、諏訪氏が古く信州より頒《わか》ち移した者かと思ふ。

[やぶちゃん注:「紀州西牟婁郡朝來村」現在の和歌山県西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)朝来あっそ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。田辺の南東に接する。

「諏訪船」不詳。

「杉村楚人冠」私の「南方熊楠 履歴書(矢吹義夫宛書簡)(その1)」の注を参照されたい。

「我孫子」手賀沼と北の利根川の間に当たる千葉県我孫子市

『ミシェル・プレアルの「エルクル・エ・カクス論」』フランスの言語学者・比較神話学者であったミシェル・ジュール・アルフレード・ブレアル(Michel Jules Alfred Bréal 一八三二年~一九一五年)が一八六三年に刊行した比較神話学書「ヘラクレスとカークス」(Hercule et Cacus:「カークス」はローマ神話に登場する巨人の怪物。火神ウゥルカーヌスの息子)。]

 明治二十六年、予、倫敦で、至つて、貧しく暮らし、居常、斷食して讀書した。直《すぐ》近所に、去年、死んだ博覽多通家アンドリュウ・ラングの邸が有《あつ》て、學友から紹介狀を貰ふたが、街え[やぶちゃん注:ママ。]出ると犬に吠えられる體《てい》故、到頭、會はずに仕舞つた。「梅が香や隣りは」の句を思出して可笑しかつた。仕事が無いから、當時、巴里の「ギメー」博物館に讀書中の土宜法龍師と、以ての他、長い書翰で、每度、雜多の意見を鬪《たたかは》した。何を書いたか、多分は忘れたが、其時の予の翰は、悉《ことごと》く、土宜師の手許に現存すと聞く。一つ確かに覺えて居《を》るのは、吾國に古く銅鐸が出た事と、橘南谿の「東遊記」に見えたる出羽の飛根《とびね》の城跡抔の例を引き、南洋イースター島抔の由緖不知《しれず》の大墟址抔に照《てら》して、吾邦上代に、今日の邦人が思ひも付《つか》ぬ、種類、全く懸隔した開化が有た事を述べ、又、弘法大師が銘を書た茨田池《まむたのいけ/まんたのいけ/まんだのいけ》の碑を例として、中古の物にも、後人が、中々、企て及ばぬ物、有る由を論じた。確か、其時、飛根等の城址を、オハヨ、ミシシッピ谷の諸大城塚に同じく、今日、全滅した民族が建てた物だらうと述《のべ》たと覺えるが、最近の硏究によると、北米の大城塚は、全く跡絕えた民族の作でなく、之を建てた輩の後裔が現存し乍ら、全く其傳を失つた者らしい(「大英類典」十一板、卷十八、九三五頁)。して見ると、文字の用を知《しら》なんだ時代の事は、吾邦にも、多く、其傳を失ふたので、必しも、大城を築いた邦人が絕滅したので無いかとも思ふ。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。

「アンドリュウ・ラング」「南方熊楠 履歴書(その17) 自力更生」の私の注を参照されたい。

「梅が香や隣りは」「梅が香や隣は荻生惣右衞門」は宝井其角の句と言って人口に膾炙する句であるが、現在、この句は杉山杉風の弟子であった松木珪琳のものとされている。私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 梅が香や隣は荻生惣右衞門』を参照されたい。

『「ギメー」博物館』パリにある国立の東洋美術専門美術館であるギメ博物館Musée Guimet)。ギメ東洋美術館(Musée national des arts asiatiques Guimet)とも呼ぶ。

「土宜法龍」(どきほうりゅう 嘉永七(一八五四)年~大正一二(一九二三)年)は尾張出身で、本姓は臼井。真言宗の高僧。上田照遍に師事した。明治二六(一八九三)年にシカゴで行われた「万国宗教大会」に参加した後、ロンドンで熊楠と親交を結んだ。明治三十九年に仁和寺門跡・御室派管長、大正九年には高野派管長となった。熊楠との往復書簡は哲学的に非常に面白いものである。

『橘南谿の「東遊記」に見えたる出羽の飛根の城跡』国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』の第三十四の「東西遊記」(塚本哲三等編・大正六(一九一七)年有朋堂書店刊)のここから視認出来る。この「飛根の城跡」は現在の秋田県能代市二ツ井町(ふたついまち)飛根(グーグル・マップ・データ航空写真)。橘の記載にある「鶴形」(つるがた)も、この西南西直近の秋田県能代市鶴形。但し、現在、何らかの遺跡指定はなされていないようである。

「オハヨ、ミシシッピ谷の諸大城塚」これは、アメリカの古代文化で、現在のアメリカ合衆国中西部・東部・南東部にまで広がっていた、地域によって様々な形態を成した「ミシシッピ文化」のことを指す。「オハヨ」はオハイオ州のことで、この文化は北東部ではそちらまで達していた。マウンド(塚:上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化で、凡そ紀元後八〇〇年から一五〇〇年まで栄えたとされ、参照した当該ウィキによれば、『その人々は持っていた技術からみて』、『ヨーロッパの銅器時代に比定される』とある。]

 偖《さて》、喜田博士が「法苑珠林」から引た、所謂、日本の阿育王塔の聞書は、『珠林」よりは七年前に成た釋道宣の「三寶感通錄」卷一に出て居る。「珠林」に『會丞』と有るに、此書には『會承』と有る。前者爲ㇾ正〔前者を正となす〕の義に隨はば、『承』を正とすべし。「珠林」と少しく文意が差《ちが》ふから、今、全文を擧ぐ。倭國在此洲云々、有會承者、隋時來ㇾ此學、諸子史統及術藝、無事不一ㇾ閑、武德之末猶在、至貞觀五年、方還本國、會問、彼國昧谷東隅、佛法晩至、未已前育王不、會答、文字不ㇾ言、無以承據、驗其事迹、則是所ㇾ歸、何者有人開發土地、往往得古塔露盤佛諸儀相二一、故知素有也。〔倭國は、此の洲の外に在り云々。會承といふ者有り。隋の時、此に來たりて、學ぶ。諸子、史統及び術藝、事として、閑(なら)はざるなし。武德の末、猶、在り。貞觀五年に至りて、方(はじ)めて、本國に還る。會に問ふ、「彼(か)の國は、昧谷(まいこく)の東の隅にて、佛法、晚(おく)れて至る。未だ知らず。已前(いぜん)に育王の及べるや不(いな)や。」と。會、答ふ、「文字は言はず。以つて承據(しやうきよ)すること無けれど、其の事迹(じせき)を驗(けん)するに、則ち、是れ、歸する所なり。何となれば、人の土地を開發する有るに、往往、古塔の露盤・佛の諸(もろもろ)の儀相を得。故に素(もと)有りしことを知んぬ。」と。〕是には、神光を放つ等の虛譚が無い。

[やぶちゃん注:漢文部は熊楠が支持する「三寶感通錄」を「大蔵経データベース」で調べて校合した。一部に漢字をそれで補い、推定で返り点を加えた。

「喜田博士」歴史学者・文学博士で考古学や民俗学も取り入れて学問研究を進めた喜田貞吉(きたさだきち 明治四(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)。この引用の元論考は不明。

「阿育王塔」分骨した釈迦の遺骨を納めるために作られた仏塔のこと。

「貞觀五年」唐代の太宗の治世の元号。六三一年。

「昧谷」日の入る所。]

 和歌浦近き愛宕山の住僧愛宕貫忠師(今九十歲近し)、十年許り前、語られしは、女形役者で高名だつた芳澤《よしざは》あやめは、日高郡山の瀨と云ふ地の產也。其が斯る極《ごく》邊鄙の出に似ず、古今の名人成たので、其頃、所の者が、「山の瀨の瀨の眞菰の中で、菖蒲咲くとは、しほらしや。」と唄ふた(一〇一頁參照[やぶちゃん注:本書のページではない。「選集」に『前田林外「潮来と民謡」』とある。当該記事は確認不能。])。あやめの父は無下の農父だつたが、非常に忰が役者となつたのを恥《はぢ》て、一生、久離《きうり》して音信せなんだ、と。右の唄は、眞僞、如何《いかが》はしいが、此人、日高郡の產に相違なきにや、「紀伊國名所圖會」にも、日高郡の卷に、其肖像を出し有ると記憶する。〔(增[やぶちゃん注:「増補」の意。])福岡彌五四郞の「あやめ草」には、『あやめ、申されしは、「我身、幼少より道頓堀に育ち、『綾之助』と申せし時より」云々』と有て、紀州生れといふ事、見えず。是は、今日、某侯爵や某男爵が、吾祖先は劫盜《ごふたう》[やぶちゃん注:強盗に同じ。]、又、ラヲシカエから立身した、と主張せぬごとく、生所《せいしよ》を隱したのだ。貫忠師、又、言《いひ》しは、紀州家の菩提所、濱中の長保寺の昔しの住職は、無下の水呑百姓の子で有た。僧となりて、幼少より精勉して榮達したと聞いて、その父、悅ばず、「吾れは、菩提の爲に彼《かの》者を出家せしめたのに、諸侯の菩提寺にすはるやうな不所存な者は、後生も、賴まれず。」とて、老夫婦づれで廻國したが、途中で追剝《おひはぎ》に遇《あふ》て殺された、と。此貫忠師は、和歌の名人で、若い時、小林歌城抔と交りあり、色々、珍談、多い人だつた。迚も、今まで生き居る人でないから、聞た丈《だけ》の事、書付けおく。〕

[やぶちゃん注:「和歌浦近き愛宕山の住僧愛宕貫忠」和歌山県和歌山市栄谷(さかえだに)に愛宕山はある。山麓に幾つもの寺はある。「愛宕貫忠」なる僧は不詳。

「芳澤あやめ」初代芳澤あやめ(延宝元(一六七三)年~享保一四(一七二九)年)は元禄から享保にかけて、大坂で活躍した女形歌舞伎役者。当該ウィキによれば、『屋号は橘屋。俳名に春水。本姓は斎藤。通名を橘屋』權七と称した。『紀伊国の中津村(和歌山県日高川町)の生まれ』で、五『歳の時に父を亡くし、その後』、『道頓堀の芝居小屋で色子として抱えられ、吉澤綾之助を名乗った。はじめ三味線を仕込まれたが、丹波亀山の筋目正しい郷士で』、『有徳の人として知られた橘屋五郎左衛門が贔屓となると、その強い勧めで』、『女形としての修行を重ねた。後年』、『女形として大成したあやめは、この橘屋五郎左衛門の恩を一生忘れず、屋号の「橘屋」も彼にあやかって用いるようになったという。のち』、『口上の名手・水島四郎兵衛方に身を置き、初代嵐三右衛門の取り立てで、若衆方として舞台を踏』んだ。元禄五(一六九二)年に『京に上り、元禄』八『年』『に太夫の号を取得して芳澤菊之丞と改名。元禄』十一『年』には「傾城浅間嶽」での『傾城三浦役が人気を博』した。正徳三(一七一三)年十一月には、『江戸に下り、翌年』十一『月に帰京。その』二『年後には役者評判記』「三ヶ津惣芸頭」で『高い評価を受け』た。享保六(一七二一)年には、『立役に転じて』、『芳澤權七を名乗』ったものの、『不評で』、『女形に戻』った。『この前後に「吉澤あやめ」を名乗ったといわれているが、詳細は不明』。享保十三年に隠居したが、翌年、死去した、とある。また、『初代あやめは、舞台だけでなく』、『日常生活でも常に「女性」を意識していなければならない』、『と門人に教えていた』。『食事は、みなから離れて一人で食べなくてはいけない、食べている時に男になってしまったら』、『相方の役者がどう思うか、そこまで考えなくてはいけない、という徹底したものだった。初代のこうした「芸談」は、それを直に見聞きしたという狂言作者の福岡彌五四郎が晩年に口述、この他にも数人の役者の芸談を加えて』「役者論語」に『まとめられた』とある。この内容からも、彼の父の話はデタラメであると断じてよかろう

「久離」「舊離」とも書く。江戸時代、不品行の子弟が失跡などをした際、連帯責任から免れるため、目上の親族が、奉行所に届け出て、失跡者を「人別帳から除名し、縁を切ることを言う。「勘当」と混同されるが、違う。

『「紀伊國名所圖會」にも、日高郡の卷に、其肖像を出し有る』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらでその挿絵を見ることが出来る。

「福岡彌五四郞」(生没年不詳)は江戸前・中期の歌舞伎役者で歌舞伎作者。立役を経て、親仁方・道外方となった。元禄一三(一七〇〇)年、京都夷屋座で福岡弥五四郎を名のり、作者も兼ねた。享保になって、近松門左衛門の「国性爺合戦」を脚色、大当たりをとった。初名は藤村一角。前名は藤村宇左衛門。別名に京屋弥五四郎(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「ラヲシカエ」よく判らぬが、これは「羅宇屋(らうや)」のことではなかろうか。「らう」は煙管(きせる)の火皿と吸口の間を繋ぐ竹管を指す。インドシナ半島のラオス産の黒斑竹を用いたのが、この名の起こりとされる。江戸時代に喫煙が流行するとともに、三都などで「らう」の「すげかえ」を行う「羅宇屋」が生まれた。「らう」は時を「らを」とも記し、「すげ換え」は「仕(し)換へ」と通ずることからの連想である。行商の彼らは、やはり蔑まれた人々であった。

「濱中の長保寺」和歌山県海南市下津町(しもつちょう)上(かみ)にある天台宗慶徳山長保寺。紀州藩主紀州徳川家歴代の墓所がある。当該ウィキによれば、『同地の歴史的な地名は紀伊国海部郡浜中荘上村。長保寺の塔頭・吉祥院は、仁和寺が荘園領家である浜中荘(濱中荘)の荘務を委任されていたことから、浜中荘がまとめた田数目録などの文献のなかには』、『往事の長保寺の伽藍の規模を考察する上での貴重な資料となる記載も多い。浜中荘はこの長保寺を中心にして平安時代末から室町時代にかけて栄えていた』とあった。]

 頭白《ずはく》上人緣起(一一一頁[やぶちゃん注:前と同じく本書のページ数ではない。「選集」に『吉原頼雄「頭白上人縁起伝説」』とある。当該論考は現認出来ない。])は、佐夜中山夜啼石の話と同類らしい。穗積隆彥の「世田谷私記」に、世田谷の吉良賴康の妾《めかけ》常盤、不義の事有《あり》て、懷胎にて殺害せられけるに男子を生めり、といふ事あり。何れも佛經の飜案だらう。劉宋の沮渠京聲《そきよけいせい》譯「旃陀越國王經《せんだおつこくわうきやう》」に、旃陀越王が特寵する小夫人《しやうぶにん》、孕む。他の諸夫人、王が信用する婆羅門に賂《まひなひ》し、此人凶惡、若其生ㇾ子、必爲國患〔此の人は凶惡なり。若(も)し、其れ、子を生まば、必ず、國の患(わざは)ひと爲(な)らん〕と讒《ざん》し、小夫人を、殺し、埋めしむ。塚中で、男兒、生れしを、母の半身、朽《くち》ずして、乳育す。三年、經て、塚、崩れ、兒、出でて、鳥獸と戲れ、夜分、塚に還る。六歲の時、佛、之を愍《あは》れみ、出家せしめ、後、羅漢と成る。佛、命じ、往《ゆき》て父王を敎化せしむ。此僧、王を見て、「何を憂ふるぞ。」と問ひしに、「嗣子無きを憂ふ。」と答ふ。僧、聞き笑ふて許り居るので、王、之を殺さんとす。僧、察し知《しり》て、便輕擧飛翔、上住空中、分身散體、出入無間。〔便(すなは)ち、輕く擧がりて飛翔し、上(ぼ)りて、空中に住(とどま)り、分身、散體して、無間(むけん)に出入す。〕王、之を見て、恐れ入り、伴《ともなひ》て、佛を訪《と》ふ。佛、便ち、因緣を說く。この僧、前身、貧人たりし時、酪酥《らくそ》を比丘に施す。其功德で、王に生まれしが、人の好《よ》き母牛《めうし》、犢《こうし》を孕めるを見、人をして、其牛を殺さしむ。天人、諫めて、犢のみ、殺さしめず。牛主《うしのあるじ》、還つて、牛の腹を破り、犢を取り養ひ、怒つて、「後世《ごぜ》、王をして、此の犢の如く、ならしめん。」と詛《のろ》ふ。王の後身、此僧となり、生れぬ内に、母、殺さる。母は、前世の王夫人也。婆羅門は牛主也。此僧、前世、酪酥を比丘に施したので、今生《こんじやう》にも死《しん》だ母の乳で育つたちう事ぢや。按ずるに、上述、「無間に出入す」と云ふ句に據《よつ》て、「佐夜中山、無間の鐘。」抔と、云出《いひだ》したのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「旃陀越國王經」は、一応、「大蔵経データベース」を確認した。

「頭白上人緣起」サイト「茨城の民話WEBアーカイブ」の「頭白上人伝説:生まれ変わって敵を倒す」、及び、「頭白上人伝説:飴を買う幽霊」を見られたい。

「佐夜中山夜啼石の話」当該ウィキを読まれたい。ここに現在も残る(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

『穗積隆彥の「世田谷私記」』国立国会図書館デジタルコレクションの『世田谷区史料』第一集(昭和三三(一九五八)年)のこちらで当該内容が確認出来る。

「無間」この場合は私は「無限空間」の意ととる。

「酪酥」牛や羊の乳を煮て、又は、発酵させて造ったもの。チーズやヨーグルトの類。

『「無間に出入す」と云ふ句に據《よつ》て、「佐夜中山、無間の鐘。」抔と、云出したのかも知れぬ』ちょっと違うだろう。これは、小夜の中山の近く、静岡県掛川市東山にあった曹洞宗観音寺にあった鐘のことだろう。この鐘をつくと、来世では無間地獄に落ちるが、この世では富豪になるという伝説があった、と小学館「日本国語大辞典」にあった。現在は、その鐘を投げ入れた井戸と称する「無間の井戸」が、「小夜の中山」の北西にある阿波々(あわわ)神社にある。サイド・パネルのこの画像を見られたい。サイト「ハマラボ」の「謎スポット【遠州七不思議】 無間の井戸 〜幸運の鐘と地獄の入り口は隣合わせ〜」が、丁寧にルートを写真で挙げておられて、ヴィジュアルには最もよい。さて、元に戻ると、まあ、それをお手軽に引っ掛けたに過ぎないでしょ? 熊楠先生? 漢文の「旃陀越國王經」の難解な識域を読み解くより、その方が、ずっとショート・カットで、民草も納得だぜ。]

柳田國男 鯨の位牌の話

 

[やぶちゃん注:本篇は大正二(一九一三)年四月刊の『鄕土硏究』第三巻第十一号に発表されたもの。所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」には収録されていない。本電子化は現在進行中の南方熊楠「續南方隨筆」中の「鄕土硏究第一卷第二號を讀む」のために、急遽、電子化する必要が生じたために作成した。されば、注はごく一部に留める。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の「定本 柳田国男集」第二十七巻(昭和四五(一九七〇)年筑摩書房刊)の正字正仮名版を視認した。但し、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は「定本 柳田國男集」第二十七卷(新装版・筑摩書房・一九七〇年初版の一九七二年の三刷)の新字正仮名の当該論考を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。]

 

   鯨 の 位 牌 の 話

 

 狩の前後の儀式には各國とも珍しい慣習が伴つて居る。山狩の後で山の神を祀る祭を弘く狩直し祭と謂ふ。ナホシは機嫌を直すなどのナホシで、物の命を絕つても災をせぬやうにとの趣意であるらしい。佛敎と獨立したよほど古い思想であることは改めて述べたいと思ふが、爰には就中奇拔の一事を擧げて置く。東京人類學會雜誌第百十一號秩父紀行浦山村の條に、獵師熊鹿などを捕りし時には、殺した獸の生肝を取出して山の神に供へ、スハノモン、マイコノモンと唱へるとある。スハ、諏訪であることは次の話でわかるが、マイコはメイゴでは無いか。何のことであるか知らぬが、日向の椎葉山でも、熊の紐解の祕傳として、ナムメイゴノモンと三度唱へる。此事は後狩詞記に載せて置いた。此山村でも獲物の心臟を山の神に供へる。又矢開の祭の祭文の中に、グウグセヒノ物助クルトイヘド助カラズ、人ニ食シテ佛果ニ至レと云ふ語がある。或は引導と稱してヒガフグニセイノ物助クルトイヘド云々とも云ふ。帝國書院本の鹽尻卷五十に、信州諏訪の祠官鹿食無穢の章を出し妄に火を穢す。恐くは佛家の意より出でたり、今其札と云ふを見るに神代の故に非ず、業盡有情、雖放無生、故宿生身、同證佛果と書きたり、是全く佛者の方便の說なりとある。竹抓子(ちくはし)と題する或江戶人の隨筆に、諏訪の神と宇都宮とは祭に鳥獸を供へる。諏訪では中の酉の日の大祭に鹿の頭三十(?)五を生板の上に列べて神前に供へ、別に鹿の肉を料理して社人之を食す、他人も神官より箸を受けて食へば穢無し、又鹿を食ふ者に與へる札がある。業盡有情、雖放不生、故宿人中、同證佛果とあるのは大般若經の文句である云々。大般若經は驚入るが、諏訪の信仰は九州でも天草又は薩摩に迄及んで居るから、椎葉山の祭文も是れから出たものである。

[やぶちゃん注:「浦山村」現在の埼玉県秩父市浦山(グーグル・マップ・データ。以下の無指示は同じ)。

「此事は後狩詞記に載せて置いた」私の『柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「附録」「狩之卷」』を参照されたい。

「鹽尻卷五十に、信州諏訪の祠官鹿食無穢の章を出し……」国立国会図書館デジタルコレクションの「鹽尻」上巻(室松岩雄校訂・明四一(一九〇八)年国学院大学出版部刊)のこちらの右ページ下段の後方で視認出来る。]

 業の盡きたる有情は放つと雖生きず、故に人中に宿して同じく佛果を證せよと云ふのは諏訪明神の託宣であると云ふことは、以前何かの本で見たことがあるが本の名を忘れた。(甲賀三郞終篇)然るに右の山の神の呪文を直に海の獸に對して應用した例がある。長門風土記に依れば、此國大津郡通島は鯨取の盛な島である。此浦の向岸寺の抱なる觀音堂の中に、元祿五年に安置した鯨の位牌がある。立派な位牌で上に梵字を書き眞中に南無阿彌陀佛とあつて、其左右に業盡有情、雖放不生、故宿人天、同證佛果と書いてある。長門仙崎の寺にも之と同樣の位牌があつて、雙方共に每年三月に鯨の供養をする例であつた。人天は人中よりも大分哲學的であるが、兎に角手前勝手な文句である。一休和尙の逸事にも之に似た話がある。手前勝手とは云ひながら之をすら遣らない今の人は笑ふ事は出來ぬ。殺すけれども化けるなは少なくとも一箇の挨拶であつた。昔者は此の如く非類とも精神上の附合をして居たのである。羽後の男鹿半島の光飯寺では每年十月、朔日に鰰の祭をした。鰰は秋田名物八森鰰云々の歌もあつて、此海で澤山に捕られる魚である。風俗問狀答に依れば、此日は浦々の漁民めいめい小石を多く持來る、寺の僧此石に光明眞言を一字づつ書し神前に法樂加持す、漁民之を持歸り五穀を添へ己が漁場の海中へ散し入る。是漁業の利を得んことを折り、且つ數萬の魚の爲に冥福を囘向するとなりとある。米を散すと云ふ一點からも魚の精靈に對する浦人の態度がよく窺はれるのである。

[やぶちゃん注:「大津郡通島」山口県長門市の北の日本海にある青海島(おおみじま/おうみじま)の東部分の通(かよい)地区(グーグル・マップ・データ)。この島は以前は、本土の一部を含めて大津郡仙崎通村(せんざきかよいむら)であった。拡大すると、「くじら資料館」があり、「向岸寺」(浄土宗)も現存する。

「抱なる」「かかへなる」と訓じておく。「所属であって管理している」の意であろう。

「長門仙崎」上記の青海島と陸の岬部分も含む長門市仙崎。「寺」は島に複数あり、岬にもあるので、特定は不能。

「男鹿半島の光飯寺」寺名は「こうぼうじ」と読む。半島岬のど真ん中のここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「鰰」言わずもがな、「はたはた」と読み、スズキ目ハタハタ科ハタハタ属ハタハタ Arctoscopus japonicus

「風俗問狀答に依れば、……」「風俗問狀答」は「ふうぞくとひじやうこたへ」と読み、出羽国秋田領の「答書」(こたえがき)。主な執筆者は秋田藩の藩校明徳館の儒者那珂通博(なかみちひろ)で、跋文により、文化一一(一八一四)年に成立したことが判る。国立国会図書館デジタルコレクションの「諸國風俗問狀答」(中山太郎校註・昭和一七(一九四二)年東洋堂刊)の活字本のここで当該部が視認出来る。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 麥畑のなかの死(デトレフ・フォン・リーリエンクローン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  麥畑のなかの死 クローン

 

罌粟の花と實つた麥のなかに

ひとりの兵士が、 誰にも知れずに、

もう二日二夜といふもの、 繃帶もされず、

うづき出した傷に

死んだやうになつてゐる。

 

熱病のやうに荒い脉搏がはげしく打つてゐる。

死の苦篇のうちに彼は頭をもたげた。

彼は夢のなかに、 とほいとほい過去を見る、

上の方をながめてゐる、 ガラスのやうな眼で。

彼はライ麥のなかにひらめく大きい鎌のさらさらといふ音をきいた。

彼はクローバのおひしげるスヰートな牧場の香を嗅いだ。

「もうさよならだ、 なじみの士地よ、 なじみの古い人々よ、 さよならだ」

彼は頭をさげた、 そして凡てはおしまひだ。

 

[やぶちゃん注:作者は、前の二篇のドイツの詩人リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル(Richard Fedor Leopold Dehmel 一八六三年~一九二〇年)の友人であった、同じドイツの詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)。当該ウィキによれば、『キール出身』で、一八六六『年より軍隊に入り』、『普墺戦争』・『普仏戦争に従軍』し、『負傷』した。『軍隊を退いたあとは』、『一時』、『アメリカ合衆国に渡った。帰国後』、『プロイセンの官吏となり』、三十『代で詩作を始め』、「副官騎行」(Adjutantenritte:一八八三年刊)で『注目を集めた。軍人気質の実直さや』、『文学的な伝統にとらわれない感覚的な詩風で、印象主義の詩人として人気があった。劇作や小説も残している』とある。本篇は従軍中の経験に基づくものであろう。私はドイツ語は判らないし、他言語からの重訳と考えられるので、原詩は探さない。

「罌粟」被子植物門双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum

「ライ麥」単子葉植物綱イネ目イネ科ライムギ属ライムギ Secale cereale

「クローバ」クローバーは被子植物門双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ(車軸草・トリフォリウム)属 Trifolium の総称。世界で二百六十種が植生する。本邦の在来種はシャジクソウ属シャジクソウ Trifolium lupinaster のみであるが、同種はヨーロッパにも分布し、本邦には、知られたヨーロッパ原産のシロツメクサ(シャジクソウ属Trifolium亜属Trifoliastrum節シロツメクサ Trifolium repens )をはじめとする多くの種が牧草・園芸・緑肥などの目的で導入され、帰化植物となった種も多い。されば、シロツメクサをイメージして構わないと思われる。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 二 御池町の化物の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、同書にあるものが、比較的、状態がよいのでそれをトリミング補正した。]

 

     二 御池町(おいけちやう)の化物(ばけもの)の事

 都、御池町、さる者の家に、

「化物、有り。」

といふ事。あり。

 主(あるじ)も、人に家を貸して、外(そと)に出でぬ。

 かくはいへど、定かに見たると云ふ人も、なし。

 爰(こゝ)に、をこの者、二人、寄りあひ、

「さるにても、かの家にゆき、化物あるか無きかを、見とどけずば、あらじ。」

と云ひて、彼(か)の家に、宿(やど)借りて居たる者は、銀細工する者なるが、夜な夜な、變化(へんげ)の物にも怖れず、又、化物も何のわざをも爲(な)さで、上下)じやうげ)、二、三人、居(ゐ)侍る。

 かの宿主に、案内(あんない)云ひて、ある夜、三人、忍び行き、彼の家の有樣(ありさま)、裏に、茂りたる藪、あり。

「是れから、化け物は、出づる。」

など云ひ、裏の戶、固く、しめ、多くの押しをかけ、又、いつも内なる唐臼の上に、俵物(たはらもの)、石(いし)など、多く置き、二十人許りしては、動かし難く拵(こしら)ヘて待ち居たり。

 其の時ばかりに、裏の戶口(とぐち)に、物の音、しけるが、程なく、何者とは知らず、來りぬ。

 二、三人、驚きゐたれば、いつもの如く、唐臼を踏み鳴らす。

 

Oikenoperabou

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「おいけの町のばけ物坊主からうすふむ所」である。]

 

 其の夜、しも、朧月夜(おぼろづきよ)なりしが、三人ながら、臥して隙(すき)を見れば、白きもの着たる坊主、長(たけ)七尺ばかりなるが、目、鼻、口もなきが、唐臼を蹈(ふ)み、後[やぶちゃん注:「うしろ」。]に、三人の方へ、顏を向けける。

 日頃は、

「いかやうなる化け物にも、逢ひたらば、切りなん。」

と云ひしが、息をも、立てず、ゐたり。

 程なく、化け物は、いづくともなく、失せぬ。

 夜明けて、見れば、裏の戶も、唐臼も、宵の儘なり。

 不審とも、怖ろしとも、云はんかた、なし。

[やぶちゃん注:「御池町」岩波文庫の高田氏の注に、『現在では「御池之町」。中京区室町押小路下ル』とある。「御池之町」は「おいけのちょう」、「押小路下ル」は「おしこうじさがる」と読み、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「をこの者」既出既注。

「宿主」借家人の主人である銀細工師。

「案内云ひて」ここに来た理由を正直に述べて。

「押し」突支棒(つっかいぼう)のこと。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一七番 打出の小槌

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   一七番 打出の小槌

 

 或所に婆樣と伜とが居つた。伜も齡頃《としごろ》になつたので、近所の人の世話で隣村から嫁をもらつた。嫁は來た當座は姑婆樣にもよく仕えたが、だんだんと邪魔にし出した。そして折があれば何のかんのと伜に言いつけた。夫(アニ)な夫(アニ)な婆樣は良くネます。ナジヨにもはア汚くて分《わかり》かねますと言つた。婆樣が寢て居て虱をとつて嚙みつぶして居る音を聽き、あれあれ夫な、婆樣はあるもない米を盜んで、あゝして夜晝嚙み食つて居ます。あんな婆樣を家さ置いてはよくないから、奧山へ連れて行つて棄てゝ來てがいと言つた。伜も初めうちはそんなことア言うもんでないと言つて居たが、餘り嫁が言ふし、嫁の言ふ事をきかないと面白くない事ばかりであるから、よしほんだら婆樣を奧山へ連れて行つて棄てゝ來ツからと言つて、婆樣を負(オブ)つて奧山へ行つた。嫁はその時川戶口(カドグチ)まで出て、夫々(アニアニ)山さ行つたら萱《すげ》のトッツペ小屋を作つて、其の中さ婆樣を入れて、火をつけて置いて來てがいと言つた。何でも斯《か》んでも妻(オカタ)の言ふことだら聞く夫は、あゝえゝからえゝからと言つて奧山へ行つた。そして妻の言ふ通りに萱を刈集めてトッツペ小屋を造り、其中に婆樣を入れてから、火をつけて逃げ歸つた。

 婆樣は伜が逃げ歸つた後で、死にたくないから小屋の中から這出《はひだ》した。這ひ出《だし》はしたが何處にも行かれないから、其の小屋の燒け殘りの火にあたつて居た。其中《そのうち》に夜になると、山奧でその火明りを見た鬼の子供等が五六匹、不思議に思つて出て來て見た。すると一人の婆樣が火を焚いてあたつて居たから鬼の子供等もやつぱり近寄つて火に手を翳してあたつた。さうして婆樣の内胯《うちまた》を不思議さうに覗いて見て、婆樣婆樣そこは何だと言つた。婆樣はああこれか、これは鬼の子供等を食ふ口だぞと言ふと、鬼の子等は魂消《たまげ》て騷ぎ立てた。それを見ると婆樣はわざと、大跨《おほまた》をひろげて、さア餓鬼ども取つて食ふぞとおどかすと、子鬼どもはあやまつて、婆樣々々許せ、その代りこの打出の小槌と謂ふ寳物を上げるからと言つた。婆樣は其の小槌をよこしたら、捕つて食ふ事ばかりは許すと言つた。子鬼どもは喜んで婆樣に寳物をあづけて山奧へ歸つて行つた。

 婆樣は子鬼から貰つた打出の小槌をもつて、さあさあ此所《ここ》さ千軒の町が出ろと言つて、トンと地面を打叩くと、其通りぞろりと千軒の町屋が出た。婆樣は其の町星の眞中頃に行つて又、此所さ大きな館(ヤカタ)ア出ろと言つて、トンと地面を叩くと、忽ちに大きな館が出た。それから婆樣は人だの馬だの酒屋だら木綿屋だの、色々な店を打出して、喜んで俺は女殿樣《をんなとのさま》になると言つて、其所の女殿樣になつた。

 或日、伜夫婦は元通りの貧乏なまゝで、瘦馬に薪《たきぎ》をつけて、木賣《きう》ろ木賣ろと呼んで、此の町へ薪賣りに來た。そして其の町一番の立派な館へ行つて、女殿樣を見ると、それは先達《せんだつて》自分等が捨てた家の婆樣であつた。嫁はあの婆(バンゴ)だがアと腹を立てて家に歸つた。そして夫に、俺も婆樣のやうにあんなに立派な人になりたい。俺もあんな女殿樣になりたいと言つて、夫をせがみ立てた。夫も仕方ないものだから、そんだら婆樣のやうに俺さ負さつてあべと言つて、嫁を背負つて婆樣とは別な奧山へ連れて行つた。そして婆樣の時のやうに、彼方此方《あつちこつち》から萱を刈集めて、萱のトッツペゴヤをかけて、其の中に嫁を入れて火をつけた。嫁は燒死んだ。

[やぶちゃん注:姥捨伝説の変形ものだが、なかなか興味深いパートが、複数、ある。

「川戶口(カドグチ)」粗末な家の「門口」の卑称であろう。

「トッツペ小屋」不詳。原義も判らぬが、思うに、柱を立てずに、周囲に茅(かや:単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae 及びイネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae の草本の総称)の茎と穗(綿毛)を老婆の周囲に多く立て掛けて、その頭上で簡易に藁で縛ったもののようなもののように私には思われる。]

早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと 「ジネン殼(自然殼)」・「ツンバラ(茅花)」・「二股のオンバコ(車前草)」・「蕨の綿で織つた着物」 / 草に絡んだこと~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げるが、何故か、以下の四条は同ページには存在しない

 なお、これを以って「草に絡んだこと」は終わっている。]

 

 ○ジネン殼(自然殼) 笹の實を自然殼《じねんから》と謂つてこれがなると、飢饉の前兆であると謂ひます。凡そ五十年程前、これが到る處の根笹は勿論、どんな竹にもなつた事があつたさうですが、貧困者などは每日山へ行つて、此實を採つたといひます。よく臼で搗いて精製すれぱ、麥《むぎ》より味がいゝとも謂ひます。

[やぶちゃん注:「ジネン殼(自然殼)」以下に記されている通り、所謂、「竹の実」「笹の実」である。サイト「笹JAPON」の「竹の実と笹の実・竹の花と笹の花」に詳しいので見られたいが、そこには、『タケ類の開花は珍しく、俗説では』六十『年に一度と言われています』。『そのため、開花は不吉の前兆と考えられることもあります』が、『あくまで俗説であって科学的根拠はありません』とあり、「日本気象協会」のこちらでは、『笹ではおよそ』五十『年』、『マダケの開花は』百二十年とある。私は、小学校を卒業した昭和四五(一九六八)年の三月、今いる鎌倉から富山へ引っ越す直前、家の近くの崖に笹の実が成っているのを見た。母が「不吉だわ。」と言ったのを覚えている。実見はその一度きりで、五十年周期が納得された。

「笹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科 Bambusoideaeのうち、その茎にあたる稈(かん)を包んでいる葉鞘が枯れる時まで残るものだけを総称して「笹」と呼んで区別している。但し、ウィキの「ササ」によれば、『タケとササの分類は必ずしも標準和名と一致しない。分類上、ヤダケ』(矢竹:タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica)『は稈に皮がついたままなのでササ、オカメザサ』(阿亀笹:タケ亜科オカメザサ属オカメザサ Shibataea kumasaca 。本種の自然個体は稀少)『は皮が脱落するのでタケに分類される』とある。則ち、『植物学上』で『はイネ科タケ亜科のうち、タケ』(竹)『は稈が成長するとともに』、『それを包む葉鞘が早く脱落してしまうものを』指すということである。]

 

 ○ツンバラ(茅花)  子供の頃は茅花《ちばな》を喜んで喰べたものでした。茅花の未だ穗に出ない前、葉に包まれてゐる時、引拔いて喰べるのでした。ツンバラ餅はうまいな、などとは拍子をとつて、澤山掌に丸めて、片々《かたがた》の肘《ひぢ》で搗いて喰べたものでした。茅萱《ちがや》の根は、甘い味がして、虎杖《いたどり》や、スイ葉(酸模)の出來ない前、春先きよく喰べたものでした。

[やぶちゃん注:「茅花」三重県四日市市羽津(グーグル・マップ・データ)地区の「羽津地区公式WEBページ」の『羽津の昔「子どもの遊び」』にある「シバの根」の項に、『「つばな」の出る茅』(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica )『のことを「チワラ」といい、これの根を「シバの根」とか「甘根」とか称して、噛むと甘い味がした。土の中から、白く細い根を掘りだすと、洗いもせず』、『手で土をしごき落としたままで、口に入れて噛み』、『残りの繊維は吐き出した』とあり、ウィキの「チガヤ」にも、『この植物は分類学的にサトウキビ』(イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum )『とも近縁で、根茎や茎などの植物体に糖分を蓄える性質がある』。『外に顔を出す前の若い穂はツバナといって』、『噛むとかすかな甘みがあって、昔は野で遊ぶ子供たちがおやつ代わりに噛んでいた』。『地下茎の新芽も食用となったことがある。万葉集にも穂を噛む記述がある』。『晩秋』の十一月から十二月頃に『地上部が枯れてから、細根と節についていた鱗片葉を除いた根茎を掘り起こして、日干しまたは陰干したものは』「茅根(ぼうこん)」『と呼ばれる生薬で、利尿、消炎、浄血、止血に効用がある薬草として使われる』とあった。

「虎杖」ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica既出既注

「スイ葉(酸模)」これは前記のイタドリの別名としても用いられるが、標準和名では、ナデシコ目タデ科スイバ属スイバ Rumex acetosa を指す。実は、私は昔から「すっかんぽ」と呼び、畦道で見つけては、好んでしゃぶったのは、イタドリであるよりも、このスイバであった。スイバという標準和名でも呼んだ。もう、四十年以上、噛んでいないな。]

 

 ○二股のオンバコ(車前草) 二股になつて咲いたオンバコ草の油を採つて、其れで火を點《とも》して肺病忠者の枕邊へ行くと、同じ人が二人、枕を並べて寢て居るのが、見えると謂ひます。其内の一人は病氣の精だから、其を刺し殺せぱ、必す病鼠が治るなどゝ謂ひます。

[やぶちゃん注:「オンバコ草」「車前草」(しやぜんさう(しゃぜんそう):漢名)はお馴染みの「大葉子相撲」でよく知られる、スモトリグサ(相撲取り草)、シソ目オオバコ科オオバコ属オオバコ Plantago asiatica である。しかし、ここで早川氏の記された呪的用法は初めて聞いた。]

 

 ○蕨の綿で織つた着物  蕨の綿で織つた着物や羽織があつたと謂ひます。これを着てゐれば、雨の中を步いても、雫が下へ通らぬと謂ひます。

[やぶちゃん注:「蕨」既出既注。これ、なんとなく納得してしまうから不思議。]

2023/03/27

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 巻第四目録・一 聲よき者をば龍宮より欲しがる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回の本文は、ここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。 にあるものが、比較的、状態がよいのでそれをトリミング補正した。]

 

曾呂利物語卷第四目錄

 

  一 聲よき者をば龍宮より欲しがる事

  二 御池町(おいけちやう)の化物(ばけもの)の事

  三 狐二たび化(ば)くる事

  四 萬(よろづ)の物年(とし)を經ては必ず化くる事

  五 常々の惡業(あくごふ)を死して現はす事

  六 惡緣(あくえん)に逢ふも善心のすゝめとなる事

  七 女の妄念怖(おそろ)しき事

  八 座頭あたまかり合ふ事

  九 耳きれうん市が事

  十 怖ろしくあいなき事

 

 

曾 呂 利 物 語 卷第四

 

      一 聲よき者をば龍宮より欲しがる事

 

 尾張國(をはりのくに)、熱田の宮(みや)に、常に謠(うたひ)を好きて、夜畫ともなく、唄ふ者、ありけり。

 少し、海上に地を築き出(いだ)し、爰(こゝ)に一つの亭(ちん)を造り、彼(か)の一曲、なほ、怠らず。

 ある夜更(よふけ)過ぐるまで、唄ひ侍りけるが、海上一丁[やぶちゃん注:百九メートル。]程(ほど)沖より、大音聲(だいおんじやう)を出(いだ)し、

「いや、いや。」

と、褒めたりけり。

 此の聲、彼(か)の者の耳に留(とま)り、いと堪へ難かりけるが、其の儘、勞(いたは)りつきぬ。

 

Ruuguudassyu

 

[やぶちゃん注:右上のキャプションは「聲よき者はりうぐうゟほしかつてだき取」(とら)「むの所」か。但し、この挿絵のように、主人と異人が見えるシークエンス自体は、本文にはない。]

 

 程經て、心、亂れ、既に末期(まつご)に及ばんとす。

 時に、一門眷族、集まり、歎き悲しむ。

 斯かりけるところに、沖の彼方より、俄(にはか)に震動して、身の毛、よ立ちけるが、丈(たけ)一丈もあるらんと覺しき男の、眼(まなこ)は日月の如く光り輝き、面(おもて)の色、朱をさしたるが如く、左右(さう)の眉は、漆を塗りたるが如くして、眞(まこと)に面(おもて)を向ふるに、魂(やましひ)を失ふ程なるが、彼(か)の座敷に、

「むず」

と居直(ゐなほ)り、

「何(なに)と養生するとも、明日(あす)の暮程に、必ず、迎ひに來(きた)るべし。」

と云ひて、消すが如くに失せにけり。

 とかう、云ふべき方(かた)もなく、

「さあらば、明日は、番を置け。」

とて、弓・胡籙(やなぐひ)を持つて、各(おのおの)、宿直(とのゐ)して、待ちかけたり。

 又、明くる子(ね)の刻と覺しき頃、海上、鳴動して、光、滿ちて、件(くだん)の者、來れり。

 前(まへ)かどは、

「討ちも、とゞめ、射(い)も殺さん。」

と、犇(ひしめ)きしものども、滿ちて、心、茫然として、足も、なえて、俄に、かの氣色(けしき)にて、さまよふ内に、其の儘、彼の病人を抱(いだ)きて、海中に入りぬ。

 此の上は、力、及ばぬ事なれば、亡き跡(あと)、弔(とぶら)ひ歎き居たる座敷へ、又、明くる戌(いぬ)の時[やぶちゃん注:午後八時前後。]ばかりに、彼の男を、寸々(すんずん)に、引き裂きて、

「欲しくば、返さん。」

とて、屋敷へ投げ出(いだ)す。

 如何なる事とも、わきまへかねて。

[やぶちゃん注:ちょっと奇妙な末尾だが、謡の文句のように洒落たものであろうか。湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収。ネットでPDFで入手可能)では、本話の原拠らしいものとして、「今昔物語集」巻第二十七「近衞舍人於常陸國山中詠歌死語第四十五」(近衞舍人(こんゑのとねり)、常陸國(ひたちのくに)の山中(やまなか)にして、歌を詠(うた)ひて死ぬる語(こと)第四十五(しじふご))を掲げてある。所持する小学館『日本古典文学全集』の「今昔物語集」の第四巻を参考に、カタカナをひらがに直し、漢字を概ね正字にして、以下に示す。□は欠字。読み易くするため、私が送りがなに読みの一部を出してある。

   *

 今は昔、□□の比、□□の□□と云ふ近衞舍人、有りけり。神樂舍人(かぐらとねり)などにて有るにや、歌をぞ、微妙(めでた)く詠(うた)ひける。

 其れが、相撲(すまひ)の使ひにて、東國に下だりけるに、陸奧國より常陸の國へ超ゆる山をば、「燒山(やけやま)の關(せき)」とて、極(いみ)じく深き山を通る也。

 其の山を、彼の□□、通りけるに、馬眠(むまねぶり)をして、徒然(つれづれしかりけるに、打ち驚くまゝに、

『此れは。常陸の國ぞかし。遙かにも、來りける者かな。』

と思ひけるに、心細くて、泥障(あふり)を拍子に打ちて、「常陸歌(ひたちうた)」と云ふ歌を詠ひて、二、三返許(ばか)り、押し返して詠ひける時に、極じく深き山の奧に、恐ろし氣なる音(こゑ)を以つて、

「穴(あな)、※(おもしろ)。」[やぶちゃん注:「※」=「言」+「慈」。]

と云ひて、手を、

「はた」

と打ちければ、□□、馬を引き留めて、

「此れは。誰(た)が、云ひつるぞ。」

と、從者共(じうしやども)に尋ねけれども、

「誰が云つるぞとも、聞かず。」

と云ひければ、頭の毛、太りて、

『恐ろし。』と思々(おもふおも)ふ、其(そこ)を過ぎにけり。

 然(さ)て、□□、其の後(のち)、心地惡(あ)しくて、病ひ付きたる樣に思えければ、從者共など、怪しび思ひけるに、其の夜(よ)の宿にして、寢死(ねじに)に死にけり。

 然(しか)れば、然樣(さやう)ならむ歌などをば、深き山中(やまなか)などにては、詠ふべからず。

 「山の神」の、此れを聞きて、目出(めづ)る程に、留(とど)むる也。

 此れを思ふに、其の「常陸歌」は其の國の歌にて有りけるを、其の國の神の、聞き目出(めで)て、取りてけるなめり、とぞ、思(おぼ)ゆる。

 然(しか)れば、此れも、「山の神」などの感じて、留めてけるにこそは。

 由無き事也。

 從者共、奇異(あさま)しく思ひ、歎きけれども、相ひ構へて、京に上(のぼ)りて、語りけるを、聞き繼(つ)ぎて、此(か)く語り傳へたるとや。

   *]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 七 山居の事 / 第三~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。

 今回は傍点を特異的に用いた。

 なお、本書の巻第三は本篇を以って終わっている。]

 

     七 山 居 の 事

 

 世を憂きものに思ひ澄ましたる僧、ありけり。

 都、東山(ひんがしやま)鳥邊野(とりべの)に、柴の庵(いおり)を結びて、年月を送りける。

 彼(か)の僧の俗たりし時の友達、訪(おとな)ひ來りけるが、年久しく隔(へだ)てしかば、いと懃(ねんごろ)に物語し侍りし程に、秋の夜(よ)、いたく更けて、色々の獸(けだもの)の、近く音するも、いと物凄(ものすご)くして、

『斯かる所に唯一人、如何(いかゞ)耐へ忍びけるぞ。』

と思ふところに、何處(いづく)とも知らず、

「今宵、そんじよう、それこそ、空(むな)しくなりぬ。日頃、契約のごとく、御出(おい)で候はば、とりおき給はり候へ。」

と云ふ。

 主(あるじ)、云ふやう、

「今夜は、さり難き約束、御入(おい)り候閒(あひだ)、參るまじき。」

由、云ふ程に、彼の何某(なにがし)、

「何とて、左樣には、宣ふぞ。ことに日頃の契約の上(うへ)は、急ぎ、行き給へ。」

と云ふ。

「さらば、參り候はんずる。……如何にも怖ろしき事……有りとも……あなかしこ、音もせでゐ給へ……頓(やが)て、歸り侍らん。」

とて、出でぬ。

 彼の何某は、常々にも、心に剛(がう)ある者とは云ひながら、唯一人殘りければ、凄(すさ)まじくこそ、思ひけれ。

『漸(やうや)う、寅の刻[やぶちゃん注:午前四時前後。]許りになりぬ。』

と思ふ頃、何處(いづく)ともなく、光りて、内に入りぬ。[やぶちゃん注:ママ。「光り物ありて」ぐらいでないとちょっとおかしい気がする。]

 何某、刀(かたな)の柄(つか)を、

『碎けよ。』

と握りゐたるが、魂(たましひ)は何處(いづく)にか拔けつらん、夢ともなく、門(かど)を守りゐたれば、繪に書ける鬼(おに)の形したる者、一人、内へ押入(おしい)りて、主(あるじ)の閨(ねや)に行きて、少時(しばらく)、物食ふ音しけるが、稍(やや)ありて、彼(か)の者、又、光の中に、何處ともなく失せぬ。

 其の時、少し、人心地、出で來て、

『さるにても、主の部屋の内、不思議。』

に思ひ、垣(かき)の隙(すき)より、覗きければ……

……人の死骸……

……山の如くに……積めり。

『……それを……食ふなるべし。』

 いとゞ恐ろしくぞ、思ひける。

 夜(よ)、明けて、主、歸り、

「さても。不思議の命(いのち)、助かり、斯くの如くの事に遇ひつるは、如何(いかゞ)。」

と語りければ、

「何時(いつ)も左樣の事は、有る事に候。」

と、さらぬ體(てい)にもてなし、ゐ侍る。

 よく是れを案ずるに、何時(いつ)の程(ほど)にか、人を食(く)習ひ、其の罪、果して、一つの鬼となれり。

 夜(よる)、來つる鬼の形なる者は、坊主なるべし。

[やぶちゃん注:所謂、「食人鬼(ぢきにんき)」譚である。言うまでもなく、この鬼は、最終行で初めて、その山居している僧自身が変じたものであることが明かされるというなかなかに構成を考え抜いた一篇ではある。但し、最後の部分、その食人鬼坊主は一向に、その究極の悪業を何ら悔いる様子もなく、それが、本篇を特異な猟奇的カニバリズム・ホラーに仕立てているところが特異と言える。但し、表現にやや問題があり、完全には上手く仕上がってはいない憾みがある。この手の話の最も完成された古文の名品は、何と言っても、上田秋成の「雨月物語」中の「靑頭巾」(⇒やぶちゃん訳やぶちゃんのオリジナル授業ノート)であり、それを元にした小泉八雲のJIKININKI(英文原文)を措いて他にはない。「食人鬼」藪野直史現代語訳もある(孰れも私のサイト版。ブログ版の詳細オリジナル注附きの「小泉八雲 食人鬼(田部隆次訳)」もある)。

「そんじよう」「尊上」ならば「そんじやう」でなくてはならないから違う(仮に、歴史的仮名遣の誤りなら、「目上の者」を敬して言う語であるが、ここは、「ある家の隠居した主人」、或いは「その家の最も年老いた病んだ年上の家人」を指すとはとれる)。とすれば、これは「存(そん)じよう」で「存(ぞん)じよう」(「よう」は形式上の軽い敬意を含んだ推量・意志・勧誘の助動詞)が一般的で、「ご承知の通り(の)」意。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 沈默の町(リヒャルト・デーメル)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  沈默の町 デーメル

 

町は谷のなかに橫はり、

靑白い日はうすれて亡ぴた。

さて、 月が消え、 星の光が失せるのも間もないだらう、

そして夜がただ空を滿すのだ。

 

山々の峯からは、

霧が出て町をとりまく、

畑も、 家も、 また濡れた紅い家根も

この厚い織物を通すことは出来ない。

いや、尖塔や橋でさへも出來はしない。

 

けれど、さすらひ人が身ぶるひするとき。

その暗い丘に

光りの條(すぢ)が彼の心を悅ばす、

そして、 烟と靄と子供らの聲から

讃美の歌がはじめられる。

 

[やぶちゃん注:作者については、前回の私の注を参照されたい。また、そちらと同じ理由で原詩は原詩は示さない。

「橫はり」「よこたはり」。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 お前はまだ知つてゐるか(リヒャルト・デーメル)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  お前はまだ知つてゐるか デーメル

 

まだお前は知つてゐるか、

ひるの數多い接吻のあとで

わたしが五月の夕暮のなかに寢てゐた時に

わたしの上にふるへてゐた水仙が

どんなに靑く、 どんなに白く、

お前のまへの足のさわさわとさはつたのを。

 

六月眞中の藍色の夜のなかに

わたし達が荒い抱擁につかれて

お前の亂れた髮を二人のまはりに絡(から)んだとき、

どんなにやはらかくむされるやうに

水仙の香が呼吸をしてゐたかを

お前はまだ知つてゐるか。

 

またお前の足にひらめいてゐる、

銀のやうなたそがれが輝くとき、

藍色の夜がきらめくとき、

水仙の香は流れてゐる。

まだお前は知つてゐるか、

どんなに暖かつたか、 どんなに白かつたか。

 

[やぶちゃん注:リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル(Richard Fedor Leopold Dehmel 一八六三年~一九二〇年)はドイツの詩人。当該ウィキによれば、『プロイセン、ブランデンブルク州ダーメ=シュプレーヴァルト郡の小村に山林監視人を父として生まれる。教師と対立してギムナジウムを放校されたのち、ベルリンとライプツィヒの大学で自然科学、経済学、文学などを学ぶ。その後火災保険の職に就き、仕事の傍ら』、一八九一『年に処女詩集』「救済」(Erlösungen)を『刊行、これをきっかけに』、詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)『との交際が始ま』った。一八九五から『文筆専業となり』、一八九六『年に代表的な詩集』「女と世界」( Weib und Welt )を『刊行』、一九〇一『年より』、『ハンブルク郊外のブランケネーゼに永住した。一九一四年から一九一六年まで『自ら志願して第一次世界大戦に従軍し』たが、『終戦後の』一九二〇『年に戦争時の傷の後遺症』(静脈炎)『が元で死去』したとあり、『その詩は自然主義的・社会的な傾向を持ちつつ、精神的・形而上学的なエロスによる救済願望に特徴付けられている。童話、劇作などもあり、晩年は第一次世界大戦の従軍記録も残した』。また、『彼の詩には、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、アレクサンドル・ツェムリンスキー、アルノルト・シェーンベルク、アントン・ヴェーベルン、クルト・ヴァイルなど』、『多くの作曲家が曲を付けた。また、彼の詩を元にしたシェーンベルクの弦楽六重奏曲』「浄夜」作品四(Verklärte Nacht:一八九九年作曲)には特に有名である、とあった。シェーンベルクのそれは私の好きな曲である。

 本篇は恐らく英訳或いはフランス語訳からの重訳で、私はドイツ語は判らないので原詩は探さなかった。]

早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと 「かわ茸のシロの噺」・「人の恨みを嫌ふ椎」・「笑ひ茸をとつた男」・「毒茸のクマビラ」・「萬年茸(靈芝)の生へる處」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 かわ茸のシロの噺 かわ茸《たけ》は、秋、松茸より稍《やや》早く北向の雜木林に生へる[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]と謂ひますが、生へるところをシロ(代)と謂つて、シロ以外には生へるものではありません。それですから、代を知ってゐる者は、自分のシロを他の人には覺《おぼえ》られない用心に、採りに行くときは、直接シロのある處へは行かないで、とんでもない方向違ひの所から、林の中をシロのある所へ近づいて行くのです。歸る時も同じようにして來るものです。私が子供の頃、村に居た弘法米と云ふ爺さんに連れられて、かわ茸を採りに行つた事がありましたが、途々爺さんの話に、村の者は、北向《きたむき》の山にしか生へないと思つてゐるけれど、そんな事はないものだ、自分はもう年を老《と》つて、近い内に死んでゆく體《からだ》だから、シロを敎へて置くと謂つて、軈《やが》て連れて行かれた所は、南向の暖かい山で、其處には、見事なかわ茸が、ずつとウネをなして、齒朶《しだ》の中に生へてゐました。

 此爺さんが死んでから、私はコツソリ三年程、コヽでかわ茸を採りました。

[やぶちゃん注:「かわ茸」表記はママ。担子菌門真正担子菌(菌蕈)綱イボタケ目マツバハリタケ科コウタケSarcodon aspratus の異名。平凡社「世界大百科事典」によれば、笠の裏に剛毛状の針が密生しているのを、野獣の毛皮と連想して「カワタケ」(皮茸)と名づけられ(だとすれば、本文の「かわ茸」というのは、歴史的仮名遣では「かはたけ」が正しい)、それが訛って「コウタケ」となった、とする(「香茸」の漢字も当てるが、実はこちらはシイタケ(菌蕈綱ハラタケ亜綱ハラタケ目キシメジ科(又はヒラタケ科、或いはホウライタケ科、或いはツキヨタケ科)シイタケ属シイタケ Lentinula edodesに対して漢字名として宛てられたもので本種を指すものではない)。傘の径は十から二十五センチメートルで、深い漏斗状を成し、中央部には茎の根元まで達する深い窪みがある。表面は淡紅褐色で、濃色の大きなささくれがある。傘の裏面の針は〇・五から一・二センチメートルで、灰白色、後、暗褐色に変わる。胞子は類球形で疣状の突起がある。食用可能であるが、生では中毒を起こす危険がある。

「シロ(代)」「田地」の意を「茸の生える場所」として隠語で言い換えたものであろう。

「弘法米」「こうぼふよね」か。通称のように思われる。

「ウネ」畝・畦。「かわ茸」の生えている部分が周囲の地面より有意に高くなっているのであろう。]

 

 ○人の恨みを嫌ふ椎  椎茸は、人に恨みを受けた者や不運な男が培養したのでは、出ないと謂ひます。

 明治二十年頃、瀧川村の瀧川源三郞と云ふ男が、永い間、椎茸の培養に苦心した結果、非常な豐作を得るやうになつたさうですが、其頃同じ村の某の男の培養したものは少しも生へないので、妬《ねた》ましく思つて、自分が金力のあるを笠に着て、無理矢理に共同を申込んで、二人合同で培養すると、其年は又、稀な豐作であつたさうです。處が、其後利益の分配の事から爭論して、果は裁判沙汰になつて爭ふと、源三郞と云ふ男は文字が讀めなかつた爲めに、其の男の罠にかゝつてゐて、不利な證書に捺印してあつた爲め、敗訴となつて、多年苦勞して出るやうにしたホダ迄、全部其の男に橫取りされてしまつて、悲慘な生活に陷つたさうです。某の男は翌年から、全部自分の所有になつたホダを樂しみにしてゐると、どうした譯か少しも出ないで、來る年も來る年も、更に出なくなつてしまつたので、ホダが腐つたものと諦めて打捨《うつちや》つて置いた處、幾年か後に、ホダの傍で材木を伐つて、其材木を、ホダの上へ落し出して運搬した處が、一旦腐つたと思つて、見返りもしなかつたホダから、殆ど手もつけられないほど群がり生へたと謂ひました。

 椎茸が生へ始めた時は、椎茸小屋へ成べく澤山の人を招いて、椎茸飯を焚いて、大騷ぎして祝つてやると、盛んに生へるなどゝ謂ひます。

 椎茸が出なくなつた時は、何でもホダをビツクリさせるやうな事をしてやると生へると謂つて、棒きれでホダを叩いたり池の中へ轉がし落したりしました。

[やぶちゃん注:「ホダ」「ほた」とも言い、「榾木」(ほだぎ)とも称する。椎茸を、その皮の部分から発生させるための木材。椎・栗・櫟(くぬぎ)などの幹を用いる。]

 

 ○笑ひ茸をとつた男  村のある男が、秋、かわ茸を採りに行つて、カキシメジと云ふ茸《きのこ》に似た初茸《はつたけ》の澤山出て居たのを採つて來て、家内中で喰べると、暫くしてから家の者が、互《たがひ》の顏が可笑しく見えて來て、果は口から涎《よだれ》を流しながら、ゲラゲラ一晚中笑ひ續けて、翌日は、ガツカリしてしまつたと謂ひますが、採つて來た男の話に、名も知らない茸だから、最初採る氣はなかつたのが、餘り見事に出てゐるので、それを見てゐると、急に欲しくなつて、採つて來たのださうです。

[やぶちゃん注:「笑ひ茸」担子菌門ハラタケ綱ハラタケ亜綱ハラタケ目オキナタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus。幻覚作用のあるシロシビン(Psilocybin)を含有する毒キノコとして知られる。当該ウィキによれば、『傘径』二~四センチメートル、『柄の長さ』五~十センチメートル。春から秋にかけて、『牧草地、芝生、牛馬の糞などに発生』し、『しばしば亀甲状に』、『ひび割れる。長らくヒカゲタケ (Panaeolus sphinctrinus)やサイギョウガサ(Panaeolus retirugis)、P.campanulatusと区別されてきたが、これら』四『種は生息環境が違うことによって見た目が変わるだけで』、『最近では同種と考えられている』。六月から十月の『本州に発生し、北海道』や『沖縄の庭の菜園でも観測されている』。『菌類学者の川村清一が古い文献にみられる笑茸を探しており』大正六(一九一七)年の『の石川県』で夫婦が、『栗の木の下で採取したキノコを汁に入れて食べたところ、妻が裸で踊るやら、三味線を弾きだしたやらということであり、 Panaeolus papilionaceus だと同定しワライタケと命名した。その』三『年前の『サイエンス』にはアメリカ、メイン州における男女の中毒例の記載があり、ピアノを弾いたり』、『飛んだり跳ねたり』、『おかしくてたまらず、部屋の花束が自分を巻いているようだというような幻覚が起きたという。この時点では、他にも同様の作用を起こすキノコがあるのではと考えており、ほどなく』、一九二二年に『別の種である』『オオワライタケ Gymnopilus junonius 』が確認された、とある。『幻覚症状シロシビンを含有しているシビレタケ属やヒカゲタケ属のキノコはマジックマッシュルームとして知られているが、ワライタケは一連のキノコよりは毒成分は少ないため』、『重篤な状態に陥ることはない。成分は他にコリン、アセチルコリン』『など。誤食の例は少ない』。『本種を』一『本食した』十一『歳と』、十二『歳の男児には「しびれ・笑い出し」が表』われ、二『時間継続し』、十五『本から』二十『本を食した』三十四『歳の男性には「しびれ・笑い出し・麻痺・呼吸困難」が発生し入院となり、更に「呼吸を忘れる程の愉快な気分」「光る物体、幾何学模様、魚に食べられる体験、湾岸戦争に参加する体験などの幻覚が生じる」といった症状が』十二『時間継続した』。なお、本種は『麻薬及び向精神薬取締法において麻薬原料植物として指定されており、売買は』勿論、『故意の採取や所持も法律で規制されている』。方言では「おどりたけ」とも『呼ばれ、秋田では』、「ばふんきのご」・「きじゃぎじゃもだし」の『方言がある』とあった。]

 

 ○毒茸のクマビラ  鳳來寺村玖老勢《くろぜ》の丸山鐵次郞と云ふ男が、山小屋で仕事をしてゐる時、仲間の一人が名も知らぬ茸を澤山採つて來て、明朝の汁の實にすると云つて小 屋の天井へ吊して置いたのを、其男が寢ながらそれを見ると、夜目にもキラキラと光つて見えるので、てつきり毒茸と思つて、翌日は朝早く起きて、一人で別の汁を煮て喰《た》べて、仲間の者の寢ている中《うち》、默つて仕事に出かけたと謂ひます。其日は一日、殘つた連中が仕事に出て來ないので内心茸に中《あ》てられたなと思ひながら、夕方小屋へ歸つて見ると、殘りの連中が、仕事着を着けたまゝ、口も利けないで、蒼くなつて唸つてゐたさうです。汁の鍋には、茸がまだ澤山殘つてゐたと謂ひました。翌日になつて、やつと中てられた連中も治つたさうですが、それはクマビラと云ふ大變毒のある茸だつたさうです。

[やぶちゃん注:「クマビラ」ハラタケ目ホウライタケ科ツキヨタケ属ツキヨタケ Omphalotus japonicus の異名。当該ウィキによれば、『和名としては』、当初、『提案されていた』のは『クマヒラタケ』あったが、『江戸時代に坂本浩然によって提唱され』ていたことが判明して、命名規約に従い、この名となったとある。『晩夏から秋にかけて主にブナの枯れ木に群生する。子実体には主要な毒成分としてイルジン』(Illudin)『を含有し、その』襞『には』、『発光成分を有する。古くから食用とされてきた無毒のシイタケ・ムキタケ(ハラタケ目ガマノホタケ科ムキタケ属ムキタケ Sarcomyxa serotina)・ヒラタケ(ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus)『などと』似ているため、『誤認されやす』いが、『誤食した場合には下痢や嘔吐といった中毒症状』は勿論、『死亡例も報告されている』、毒キノコとしては、よく挙げられる種である。傘は『半円形』或いは『腎臓形をなし(ごく稀に、倒木の真上に生えた場合に杯状』を形成する『ことがある)、長径』は五~三十センチメートル『程度になり、表面は』、湿っている状態では、幾分、『粘性を示し、幼時は橙褐色から黄褐色で』、時に『微細な鱗片を散在するが、老成するに従って紫褐色または黄褐色となり、にぶい光沢を』現わす、とある。毒成分は『イルジン (Illudin)』で、『摂食後』三十『分から』三『時間で発症し、下痢と嘔吐が中心となり』、或いは『腹痛をも併発する』。『景色が青白く見えるなどの幻覚症状がおこる場合もあり、重篤な場合は、痙攣』、『脱水』、アシドーシス・ショック(acidosis shock:細胞機能の急激な悪化による重篤な発作障害)『などをきたす。死亡例』『も少数報告されているが、キノコの毒成分自体によるものではなく、激しい下痢による脱水症状の』二『次的なものであると考えられる』。『医療機関による処置が必要で、消化器系の症状に対しては、催吐・胃洗浄、あるいは吸着剤(活性炭など)の投与が行われる。また、嘔吐や下痢による水分喪失の改善を目的とした補液も重要視される。重症例では血液吸着 DHPDirect Hemoperfusion:直接血液灌流法)により、血中の毒素の吸着除去が行われることもある』とあった。

「玖老勢」新城市玖老勢(グーグル・マップ・データ航空写真)。南西側で横川と一部が接する。]

 

 ○萬年茸(靈芝)の生へる處  靈芝《れいし》は、楢《なら》の木の根株が腐つた跡へ出るものだと謂ひます。

[やぶちゃん注:「萬年茸(靈芝)」ハラタケ綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum当該ウィキによれば、『民間薬』や『健康食品として』知られるが、『古代中国では霊芝の効能が特に誇大に信じられ、発見者はこれを採取して皇帝に献上することが義務付けられていた。また、官吏などへの賄賂としても使われてきたという』とあるものの、『自然界においては珍しい』稀種でも何でもないとある。『後漢時代』(二五年~二二〇年)に纏められた「神農本草経」に『命を養う延命の霊薬として記載されて以来、中国ではさまざまな目的で薬用に用いられてきた。日本でも民間で同様に用いられてきたが、伝統的な漢方には霊芝を含む処方はない』。他のキノコ類にフックまれる『β-グルカン同様、抗腫瘍作用の報告は多い』ものの、『ヒトでの臨床報告は限られて』ており、その有効性は確かなものではない、といった感じで書かれてある。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 六 をんじやくの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、同書にあるものが、比較的、状態がよいのでそれをトリミング補正した。]

 

     六 をんじやくの事

 信濃國(しなののくに)末木(すゑき)の觀音とて、山の峯に立ちたまふありけり。

 此處(こゝ)に、若き者、寄り合ひ、

「さるにても、誰(たれ)れかある。今夜、觀音堂へ行き、明日まで、居(ゐ)侍らん。」

と云ひければ、言葉の下(もと)に、をこの者、一人、

「それこそ易(やす)き事なれ。さらば、我、行きて見ん。」

と、云ひも敢へず、出でぬ。

 彼(か)の堂は、人家より、二十四町[やぶちゃん注:二キロ六百十八メートル。]行きて、深山(しんざん)なれば、晝だにも、往來(ゆきき)稀なる所にて、狐狼野干(こらうやかん)の聲ならでは、音する物も、無かりけり。

 彼の者、堂の中に入りて、夜(よ)の明くるをぞ、侍ち居たり。

 夜半(やはん)過ぐる程になりて、朧月(おぼろづき)に見れば、座頭一人、琵琶箱を負ひて、杖をつき、堂の内に、入り來たる。

 不思議に思ひ、

『いかさま、唯者(たゞもの)にては、あらじ。』

と、先づ、

「何者なれば、此處(こゝ)に來れるぞ。」

と云ひければ、

「さては。人の坐(おは)しけるか。其方(そなた)は何人(なにびと)ぞ、我は、此の山に居(ゐ)侍る座頭にて、何時(いつ)も、此の觀音に步みを運び、夜(よる)は聲を使ひ候はん爲(ため)、詣で侍る。常に參り通ひ候へども、人の有りける事は、なし。いと、不審にこそ候へ。」

と、咎めければ、

「云々(しかじか)の仔細有りて、來たりたり。扠(さて)は、よき連れにて侍るものかな。向後(きやうこう)は、我等が方(かた)へも來たり候へ。そんぢやうそこ程(ほど)に、居(ゐ)侍る。」

など語り、「平家」を一句所望しければ、

「易きことなり。」とて、琵琶を調ベて、一句、語りければ、

「世の常、『平家』を聞き侍れども、斯やうの面白き事は、なし。節より始め、音聲(おんじやう)、息つき、中々、目を覺ましたる事どもなり。今、一句。」

と、所望すれば、また、語る。

 愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、感に堪ヘにけり。

 「平家」過ぎて後、轉手(てんじゆ)、きしみければ、「をんじやく」を取り出だし、絲(いと)に塗りけるを、

「それは、何と云ふ物ぞ。」

と問ふ。

「これは、『をんじやく』と云ふ物なり。」

「ちと見せ給へ。」

と云ふて、手に取りけるが、左右(さいう)の手に、取り付き、何とすれども、離れず。

 手は、板敷きに著(つ)きて、働かざる時(とき)、彼(か)の座頭、長(たけ)一丈もあるらんと覺しく、頭(かしら)は焰立(ほのほだ)ち、夥(おびたゞ)しき口、大きに裂け、角、生(お)ひて、怖ろしとも云はん方なし。

「汝は、何とて、此處に、來たれるぞ。」

とて、首(かうべ)を、顏を、撫(な)で、色々に、なぶり威(おど)して後(のち)、何處(いづく)ともなく、失せぬ。

 男は、漸(やうや)う、「をんじやく」を、離しけるが、無念、比(たぐひ)もなくてゐたる處に、松明(たいまつ)の、數(かず)數多(あまた)見えて、人、來たれり。

 見れば、宵の座敷に有りつる友達なり。

「やうやう、夜(よ)も明方(あけがた)になれば、迎ひに來たり候。扠(さて)、何事も珍らしき事は、無かりつるか。」

と云へば、

「その事にて候。」

とて、始めよりの事ども、細々(こまごま)と語りければ、皆人(みなひと)、手を打ちて、

「どつ」

と笑ふを見れば、又、件(くだん)の化け物の形なり。

 

Onjyaku

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「しなのゝ国すゑきくわんおんの所」と読める。]

 

 其の時にこそ、消え入りにけり[やぶちゃん注:失神・気絶してしまった。]。

 夜明(よあ)けて、人、來たり、漸(やうや)う、氣を付けけれども、見る人每(ごと)に、

「化け物の、來たりて、吾を、誑(たぶらか)す。」

と、のみ、人に云ひて、少時(しばらく)、人の心地も、なかりしが、遂(つひ)には、本性になりて、斯く、語り侍る。

[やぶちゃん注:「諸國百物語卷之三 一 伊賀の國にて天狗座頭にばけたる事」は、コンセプトをほぼ完全転用している。また、「諸國百物語卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事」シチュエーションの一部が類似する。『東京学芸大学紀要』湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(ネットでPDFでダウン・ロード可能)では、他に、「宿直草卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事」と、「宿直草卷二 第二 蜘蛛、人をとる事」を類話として挙げておられ、類似度は後者の方が高いとされる。個人的には挿絵の影響からか、前者を、まず、想起はした。

「をんじやく」「溫石」。体を暖める用具。蛇紋石(じゃもんせき)等を温(あたた)め、布や綿に包み、懐(ふところ)に入れるものが普通。軽石や滑石などを火で焼いたり、蒟蒻(こんにゃく)を煮て、代用品にしたりもした。「薬用に用いる、ある種の青い滑らかな小石」(「日葡辞書」)、「夏の温石と傾城の心とは冷たい」(「譬喩尽(ひゆづくし)」三)等と言われた。「塩(しお)温石」「焼石(やきいし・やけいし)」等とともに俳諧の冬の季語でもある。なお、転じて、ぼろ裂(ぎれ)に包むところから、「粗末な服装」を嘲る言葉ともなっている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「末木の觀音」岩波の高田氏の注に、『現長野県北佐久郡の釈尊寺か』とある。釈尊寺は長野県小諸市にある天台宗布引山(ぬのびきさん)釈尊寺(グーグル・マップ・データ)。「布引観音」とも呼ばれ、「牛に引かれて善光寺参り」伝説発祥の地とされる。本尊は聖観世音菩薩。「小諸市」公式サイト内の同寺の紹介が、写真もあり、よい。観音堂は布引山の断崖絶壁に建つなかなか凄絶なものであるが、冒頭の「山の峯に立ちたまふありけり」は、それらしい表現ではある。

「をこの者」「癡(痴)・烏滸・尾籠」などと書き、「愚かなこと・馬鹿げたこと・思慮の足りないことを行なうこと」、又は、「不届きなこと・不敵なこと」及びそうしたさまや人をも指す。参照した小学館「日本国語大辞典」によれば、「うこ」の母音交替形で、奈良時代から盛んに用いられ、漢字を当て、漢文脈の文書中にも多く使われた。多くの漢字表記が残っているが、時代で、使う漢字が定まっていたらしい。平安時代の漢字資料では「𢞬𢠇」「溩滸」など、「烏許」を基本に、これに色々な(へん)を付した漢字を用い、院政期には「嗚呼」が優勢となり、鎌倉時代には「尾籠」が現われ、これを音読した和製漢語「びろう(尾籠)」も生まれた、とあった。高田氏の注では、『ここでは無鉄砲なことを好む、馬鹿な奴、の意』とされる。

「そんぢやうそこ程」同じく高田氏の注に、『どこどこの辺に』とある。具体に言った場所を筆者が伏字にしたもの。

「轉手」原題仮名遣「てんじゅ」で「「点手・伝手」とも書く。「デジタル大辞泉」によれば、『琵琶・三味線などで、棹(さお)の頭部に横から差し込んである、弦を巻きつける棒。これを手で回して』、『弦の張りを調節する』。他に「糸巻き」「天柱(てんじ)」「転軫(てんじん)」とも言う。リンク先に琵琶の各部の名称を記したカラー絵図有り。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一六番 瓢簞の話

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     一六番 瓢簞の話

 

        瓢箪の始まり (其の一)

 或所に、多勢のとても育てきれぬほど澤山子供を持つた親があつた。後から後からと順々に生れるので、とうとう[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]生計(クラシ)が立たなくなり、惡いことだとは思ひながら、遂に一番の末子(バツチ)を縊《くび》り殺して土中に埋めた。

 翌春になると、其所から一本の見たことの無い草が生へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]出した。それが成長して多くの不思議な實を結んだ。その實は、みな中程からくびれて居た。其の譯は縊り殺された兒の體から生へ出たものだからであつた。

 親はそれにフクベと名をつけて、街へ持つて行つて賣つて生計を立てた。それが千成瓢簞の始まりである。

  (遠野町、佐々木緣子氏御報告分の一。大正九年秋の頃の分。)

[やぶちゃん注:「大正九年」一九二〇年。]

 

         瓢簞長者(其の二)

 或所に貧乏な爺樣があつた。子供が三人あつたが、その子供等を育てるのにさへ、ひどく困難した。それで山の洞合(ホラアヒ)にアラク(荒畦)を切開いて栗を蒔いたが、秋になつて思いの外のよい收穫があつた。それから年々アラクを切擴げて行つた。それだけ收穫も增えて來て、いくらか生活(クラシ)向きも樂になつた。其のうちに子供等も大きくなつた。

 或年の秋、夜になると山端(ヤマバタ)のアラク畑に鹿や猪どもがついてならぬので、總領息子が鹿追(シヽボ)ひに行つて、鹿追(シヽボ)ひ小屋に泊つて居て、[やぶちゃん注:「鹿追(シヽボ)ひ」の「鹿」(シシ)は猪と鹿を含めた謂いである。]

   しらほウ

   しらほウ

 と呼んで、穀物の穗を切りに來る鹿どもを一生懸命に追つていた。するとどこかで、

  ヤラ瓢簞(フクベ)コひとつ

  ちやんぷく茶釜に毛が生えて

  チャラリン

  チャラリン

と返辭をした。兄は怖(オツカナ)くなつて、夜の明けるのを待ちかねて家へ逃げ歸つた。(そして其事を話した。)

 中面(ナカヅラ)はそれを聞いて、兄(アニ)々、そんな馬鹿氣た話があるべかヤ。ほんだら今夜は俺が行つて見ると言つて、山畑の鹿追ひ小屋に行つて泊つて居た。そしていつものやうに、

  しらほウ

  しらほウ

 と畠荒しの鹿どもを追うて居ると、ほんたうに何所かで、

  ヤラ瓢簞コひとつ

  ちやんぷく茶釜に毛が生へて

  チヤラリン

  チヤラリン

と返辭をした。中兄(ナカヅヒ)も魂消《たまげ》て家へ逃げ歸つた。[やぶちゃん注:「中面(ナカヅラ)」不詳だが、以上の記載から、岩手方言で「次兄」を意味する語である。]

 所の末息(スツパラヒ)はその話を聞いて、兄共(アニド)アなんたらヂクナシ(臆病)ドだでヤ。そんだら今夜は俺が行つて、その化物(バケモノ)を捕(オサ)へて來るでアと言つて、さきのアラク畑の鹿小屋へ行つて泊つて居た。そして今返辭するか、今返辭するかと思ひながら、

[やぶちゃん注:以下、三字下げはママ。]

   しらほウ

   しらほウ

 と大きな聲で呼ぶと、どこかでほんたうに、

   ヤラ瓢簞コひとつ

   ちやんぷく茶釜に毛が生えて

   チヤラリン

   チヤラリン

 と返辭した。弟は物は試しだ、化物の正體を見屆けてやるべえと思つて、しらほウ、しらほウと呼びながら、聲のする方を尋ねて行くと、澤の水のドドメキコに、トベアコな(小さな)瓢簞(フクベ)コが浮んだり沈んだり、ちやんぷく、ちやんぷくと踊コを踊つて居た。息子はそれを見て、これはよい寶物だと思つて、拾ひ上げて懷中に入れて家へ持つて歸つた。そして誰にも見せないで、

   しらほウ

   しらほウ

 と呼ぶと、ふところの中で、

   ヤラ瓢簞コひとつ

  ちやんぷく茶釜に毛が生えて

  チヤラリン

  チヤラリン

 と、返辭をした。[やぶちゃん注:「ドドメキコ」不詳。沢水の浅い淵か、小滝の流れ落ちる淀みを指すか。]

 隣りの長者どんがそれを聞いて、その歌うたひ瓢簞コをひどく欲しがつて、とうとう自

分の身代悉皆(ミンナ)ととりかへつこをした。そこでこの末息子は村一番の長者どんとなつた。

  (鹿追ひ小屋、鹿(シヽ)小屋といつていた。私等の少年の頃までは方々の山畑に其の茅葺きの小屋が殘つてゐたものだが、今日では殆ど無くなつた。それは勿論鹿、猪などが山に居なくなつたからであるが、山村の風趣の點から、それが無くなつたのも物淋しい氣持がする。)

  (昭和二年五月二十九日蒐集。上閉伊郡鱒澤村地方で行はれてゐる話。鈴木重男氏御報告分の一。)

[やぶちゃん注:二つの附記は底本では全体が二字下げ。

「昭和二年」一九二七年。

「上閉伊郡鱒澤村」現在の遠野市宮守町(みやもりちょう)上鱒沢(かみますざわ)・宮守町下鱒沢相当(グーグル・マップ・データ)。]

 

         瓢簞踊り(其の三)

 或所に一人の息子があつた。生れつき餘り利巧では無かつたが、心は至つて正直であつたから村の人達は何も邪魔にはしてゐなかつた。

 或日息子が山へ行くと、谷川の淵の中で、浮んだり沈んだりして、踊を踊つてゐる瓢簞があつた。これは面白いもんだと思つて、それを拾つて持つて歸つて、町に出て見世物にした。ところが大層評判をとつて、しこたま金儲けをした。そして村に歸つて長者どんとなつた。

  (一六番其の一話同斷、其の二話。)

 

         本なり瓢簞(其の四)

 或所に三人の兄弟があつた。父親が死ぬ時、兄弟を一人々々枕もとに呼んで、瓢簞を一個づつ與へて[やぶちゃん注:行末で読点なし。]これこれや[やぶちゃん注:読点が欲しい。]お前達はこれを大事にして、俺の亡き後を繼いでケロ(くれろ)やエ、と遺言した。そして間も無く命(メ)を落(オロ)してしまつた。

 父親が死んだ後(アト)で、兄弟三人が、三人同じやうな瓢簞を貰ひ、亦同じやうなことを遺言されたので各々(テンデ)に、父親の後世(アトセ)を繼ぐのは俺だと言ひ張つた。さうして遂々《たうとう》村の檀那寺の和尙樣の所へ行つて、裁判を附けて貰うことになつた。

 和尙樣は兄弟の言ふことを、とツくりと聽いた。そして、何それは譯もない。一番本(モト)ナリの瓢簞を貰つた者が家督を繼ぐのが當然さと言つた。ほだらモトナリ瓢簞はナゾにすれば分りますべかと云へば、和尙樣はそれは目方に掛けてみれば直ぐ分ると言つた。

 そこで兄弟三人の瓢簞を目方に掛けて見ると、總領のが一番重かつた。それで矢張總領が家督を繼ぐことになつた。

  (一六番其の一同斷、其の三話。)

 

         粉南蕃賣(其の五)

 或所に粉南蕃(コナンバ)(唐辛子)賣りを渡世にして居る男があつた。そして如何《どう》かして一生の中《うち》に一度、紀ノ國の熊野樣へ參脂したいものだと思つて居た。

 それから三年三月と云ふもの、瓢簞で藁を打つて草畦《わらぢ》をつくり、それを履いて商賣のコナンバンを賣りながら旅へ出た。さうして首尾よく熊野詣りをして歸國した。それでもその草畦は切れなかつた。

  (同上其の四話。)

 

         瓢簞の質物(其の六)

 或所に一人の隱居婆樣があつた。小金を廻して質屋をはじめて居た。或日一人の博奕打《ばくちうち》が一個のただの瓢簞を持つて來て、これは黃金(キン)の瓢簞だから百兩借《か》せと言つて、遂々《たうとう》婆樣から百兩借り出して行つた。だが其男は其後一向質物を請けに來なかつた。

 婆樣もこれには困つて、何とかよい工風《くふう》はないかと考へたあげく、近所の子供等を呼び集めてお菓子(クワシ)をくれくれ、斯《か》う謂ふ歌を敎へて流行(ハヤ)らせた。

   質屋の婆樣が

   黃金(キン)の瓢簞(フクベ)コ失《な》くしたとサ

   請人(ウケト)が行つたらば

   ナゾすべなア

 それを聞いて博奕打は、これはよいことを聞いたと喜んだ。そして早速掛合ひに出かけて行つた。質屋の婆樣はひどく當惑顏をして、いつにない酒肴などを出した。そして一寸待つてケてがんせやと言つて奧に引込んで行つてなかなか出て來なかつた。

 博奕打はもうしめたと思つて、大きな聲を立てゝ、何して居れヤ婆樣、俺ア急がしい體だ。質物を早く出して貰うべえ。ほれここに百兩と利息を置くでアと怒鳴つた。婆樣は博奕打が出した金を見た時、はじめて奧から瓢簞を持つて來て渡した。博奕打は舌打ちコをしながら仕方なく、その瓢簞を持つて歸つた。

 

         寶瓢簞(其の七)

 或時、博奕打が勝負にさんざんぱら負けて、夜明方に歸つて來た。すると八幡樣のやうなお宮の大きな松の樹の上に天狗樣が止つて居た。見れば天狗樣は寶瓢簞(タカラフクベ)を持つて居て、ゼアゼア博奕打、博奕打、今夜もまた負けて來たなアと言つた。あゝ誰かと思つたら天狗樣か、俺ア負ける事ア嫌ひだから、ただ貨して來ただけさと負惜しみを言つた。すると天狗は何を思つたか、時に博奕打、ソチア何ア一番怖(オツカナ)いでアと言ふので、博奕打は、俺の一番怖いのは小豆餅さ。ところでさう云ふ天狗樣は何が一番怖いなと問ふと、俺か、俺はまづ鐵砲の音だなアと言つた。

 氣まぐれな天狗樣は一つ博奕打をからかつてやるべと思つて、松の樹のテン上から小豆餅を、ボタボタと落してよこした。博奕打は、ああ怖い、ああ怖いと言ひながら、小豆餅を澤山食べた後で。

   ズトン!

 と鐵砲の眞似をすると、天狗樣はびツくりして飛んで行つた。其の時餘りアワテたので、大事の寶瓢簞を落して行つた。その瓢簞は何でも好きな物が出るので、博奕打は忽ち長者になつた。ドツトハラヒ。

  (田中喜多美氏の御報告分の四。)

[やぶちゃん注:「ドツトハラヒ」感動詞感。昔話の語り終わりや、ものを数え終わったときに言い添える語。「これでおしまい」の意。一説に、「どっと祓ひ」で、その話しをした人物、或いは、それを聴いた人々の心のうちに漂っている言霊(ことだま)を「どつと(総て)祓ふ」ための咒言(じゅごん)とされているようである。

「田中喜多美」既出既注。]

2023/03/26

早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと 「蕨取りの遺恨」・「蕨が結びつけた緣」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]

 

 ○蕨取りの遺恨  四十年ばかり前の事、橫山の者が、川上の布里《ふり》と云ふ村の山へ、春、蕨取《わらびと》りに行くと、其村の者が兼《かね》て待伏せしてゐて、採つた蕨は全部押收して、各自持つてゐた叺《かます》迄も取上げて追歸《おひかへ》したことがあつたさうですが、それは蕨取りが、山を踏荒《ふみあら》すので、其村で最後の手段としてやつたのださうです。處が其年の夏、洪水があつて、布里村の有力な材木商の材木が流れ出して、橫山の村へも、澤山《たくさん》打上《うちあ》げられたのを、後になつて受取りに來ると、春の頃蕨取りの遺恨があるので、村の地内へかゝつた材木は、一本も手を觸れさせないと頑張つたので、其材木商が村へ歸つて、村の者と協議した結果、翌日になつて、春の頃押收した叺に饅頭を一包《ひとつつみ》づつ添えて、橫山の各戶へ詑《わび》を入れて返したので、無事落着したと謂ふ話がありました。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『寄木』と題して注と写真があり、そこには、『 鮎滝から二百メートルほど上流で、寒狭川が大きく曲がっているところを寄木と言います。友釣りの穴場なのですが、洪水の時、水が出れば出るほど、横山側で大きく渦を巻いて、水が引いた後は、材木が山のように溜まっています』。『この話の材木も、この寄木に打上げられたと思われます』とあった。グーグル・マップ・データ航空写真のこの中央部である。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川の左岸『(ヨリ木)』とある(但し、川の流れは曲りを描いてはいない)。読みは「よりき」「よりぎ」の孰れかは不明だが、早川氏は一貫してルビを附さず、「早川孝太郎研究会」のものでもルビがないところを見ると、「よりき」でよいのかなとは思う。

「川上の布里」寒狹川の上流で、横山の対岸の北部地区である、現在の愛知県新城市布里(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「蕨」シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ亜種ワラビ Pteridium aquilinum subsp. japonicum 。ワラビはウィキの「ワラビ中毒」によれば、牛・馬・羊などの家畜などはワラビ摂取によって中毒を起こし、牛では重症化すると死亡することが知られ、ヒトの場合も中毒を起こすことがあり、『適切にアク抜きをせずに食べると』、『ビタミンB1を分解する酵素が』、『他の』摂餌した食物の『ビタミンB1を壊し、体がだるく』、『神経痛のような症状が生じ、脚気になる』場合『もある』。『一方、ワラビ及びゼンマイはビタミンB1を分解する酵素が含まれる事を利用して、精力を落とし』、『身を慎むために、喪に服する人や謹慎の身にある人、非妻帯者・単身赴任者、寺院の僧侶たちはこれを食べると良いとされてきた』とあり、また、発癌性も指摘されており、ウィキの「ワラビ」によれば、発癌物質とされる『プタキロサイド』(ptaquiloside)『はアクの部位に多いが、アク抜きしても発ガン性は残存』し、『ラットの発ガン率は、処理なし78.5%に対し、灰処理25%、重曹処理10%、塩蔵処理4.7%と低下はするものの』、『残存』することが証明されてはいる。

「叺」「かます」は古く「蒲(かま・がま)」の葉で編み作ったところから「蒲簀(かます)」の意とされる。藁莚(わらむしろ)を二つに折って、左右両端を縄で綴った袋。穀物・菜・粉などを入れるのに用いる。「かますだわら」「かまけ」とも呼ぶ。]

 

 ○蕨が結びつけた緣  明治十五年頃の事ださうですが、鳳來寺村字門谷《かどや》の布袋屋と謂ふ大きな宿屋の娘が、橫山の字追分の隱居所へ遊びに來てゐる時、ある日女中を供につれて蕨取りに出かけると、近くの堀[やぶちゃん注:ママ。]立小屋に居た重吉と云ふ者の忰《せがれ》が道案内をすると謂つて、椎平《しひだいら》と云ふ所の板橋を渡る時、其忰が手を引いて半分渡りかけると、雨上りの後で水勢が增してゐたので、娘が眼が眩《くら》んで、あつとよろけたのを、抱き留めやうとする間に、二人共溺れてしまつたと謂ひます。どちらも未だ十三の春を迎へたばかりの子供で、間もなく數町の川下で發見された時は、はたで見る眼《め》も哀れな程、しつかり抱き合つて死んでゐたと謂ひました。男の方がひどい貧乏人の忰なのに、娘の親は、其頃附近に時めいた家だつたので、兎角の噂を厭《きら》つて、翌朝早く葬式を出さうとした處が、何かしらのさまたげが出來て、日の暮方になつたと謂ひますが、棺が家を出るから葬る迄、二人の葬式が、申し合せたやうに、寸分違はぬ時刻になつたと謂ひました。

[やぶちゃん注:涙を誘う無垢の少年少女の哀話である。柳田國男には決して出来ない語りである。

「椎平《しひだいら》と云ふ所の板橋」「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、現在の「椎平橋」の写真とともに、『当時の板橋は橋脚下の岩盤に架かっていたと思われます』とある。ストリートビューのここが現在の椎平橋。読みは、ネット上のバス停留所名で確認し、歴史的仮名遣で入れた。

「鳳來寺村字門谷の布袋屋と謂ふ大きな宿屋」現存しないようだが、山地和史氏のブログ「地図を見ながら」の「鳳来寺山へ(その5)伊勢参宮」によれば、天保一二(一八四一)年、『相模国大山寺の大工棟梁手中敏景の「伊勢道中日記」』『を見ると、閏正月三日「秋葉山参詣」の後、石打村(現浜松市天竜区)で泊まり』、『四日、天気よろ敷、六ツ過ニ出立仕、大ヰニ道あしく、同行ノ皆難義仕、巣山村坂本屋ニ而中食ヲ遣』とあり、この『巣山村は現在の新城市鳳来町巣山、道が悪く難儀したようです』とされた後、『大野村ニ休、鳳来寺山江参詣仕、角屋宿漆屋弥兵衛方止宿仕、暮方ニ着仕候』とあって、『大野村は、JR飯田線の三河大野で、ここから行者越を越えると』、『鳳来寺。彼らは、門前町にあたる角屋(門谷)宿で泊っています』とあるから、古くからの宿屋であったことが判る。

「橫山の字追分」横川追分地区(グーグル・マップ・データ)。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 五 猫またの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     五 猫またの事

 

 山家(やまが)の事なるに、「ぬたまち」とて、山より鹿(しか)の下(くだ)るを、庵(いほり)の中(なか)にて待つこと、あり。

 ある男、宵より行きて、待ちゐたれば、女房、片手に行燈(あんどう)を持ち、杖に縋(すが)りて、來たりて云ふやうは、

「今宵は、殊に寒く、嵐(あらし)烈しく候まま、疾(と)く、歸り給へ。」

と云ふ。

 男、思ふやう、

『何(なに)とて、女房、是れまでは、來たるべし。いかさま、變化(へんげ)の物なるべし。』[やぶちゃん注:助詞の「と」が欲しい。]

「汝、何物なれば、我が心を誑(たぶらか)すらん。矢一つ、參らせん。受けて、みよ。」

と云ひければ、

 女、云ふやう、

「御身(おんみ)は物が憑きて、左樣に宣(のたま)ふか。疾く、疾く、歸り給へ。誘(いざな)ひ參らん。」

と云ふ。

 

Nekomatanokoto

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「ねこまたの事」。]

 

 男、

『たとひ、妻女にてもあらばあれ、夜半(やはん)に、是れまで來たる事、心得ず。』

と思ひければ、大雁股(おほかりまた)を以つて、胴中(どうなか)を、かけず、射通(いとほ)しけるが、手に捧(さゝ)げたる行燈(あんどう)も消えて、行方(ゆきがた)知らずなり終(をは)りぬ。

 男は、

「我が家に、歸らん。斯かる不思議に逢ひぬる夜(よ)は、はかばかしき事は、なきもの。」

と思ひ、歸りければ、門の口に、血、多く、流れて、有り。

「こは、如何に。聊爾(れうじ)を、しつる事かな。」

と、肝を潰し、急ぎ、閨(ねや)に行き訪(おとな)ひければ、女房、

「何とて、今宵は、早く歸らせ給ふ。」

と云へば、さては、恙(つゝが)も、なし。

 それより、血を、とめて、見ければ、飼ひける猫の、年へたるにてぞ、ありける。

 久しく、猫は飼はぬもの、とぞ。

[やぶちゃん注:「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」は本篇の転用であるが、そこでは、狩りの対象が猪で「ぬたまち」(そちらでは「のたまち」)で、私は、そちらの方が躓かない。

「猫また」「猫股・猫又」。年老いた猫で、尾が二またに分かれ、化けて、人を害するといわれるもの。「徒然草」第八十九段で知られる通り、中世前期には定着していた猫の妖怪。「諸國百物語卷之二 七 ゑちごの國猫またの事」の本文と私の注も参照されたい。

「ぬたまち」「沼田待ち」。「沼田」は、「猪が泥の上に枯れ草を集めて寝る」とされることや、泥浴びをする習性から生まれた語で、そうした「ヌタ場」の直近で猪(「いのしし」は「しし」とも読み、「しし」はイノシシとシカをともに指す)を狙って狩ることを言った。岩波文庫版の高田氏の注には、『「にたまち」とも。ふつう、山中で猪が泥浴びをするためのニタツボにやってくるのを、隱れて待ち撃つこと。「濕田待(にたまち)」(『倭文麻環』巻十二)』とあった。書名は「しづのをだまき」で、江戸後期の薩摩藩第八代藩主島津重豪(しげひで:但し、一説には第十代藩主斉興(なりおき)とも)の命で、藩士で記録奉行・物頭にして国学者でもあった白尾国柱(しらおくにしら)が纏めた薩摩に伝わる故事・軍記・怪奇談・人物等を集成したもの。

「庵」とあるが、挿絵で分かる通り、雨を凌ぐための仮屋である。

「聊爾(れうじ)」(りょうじ)は「軽率・迂闊(うかつ)」或いは「不作法・失礼なこと」で。ここは前者。]

早川孝太郞「三州橫山話」 蟲のこと 「クサ木の蟲」・「アセボの木とダニ」・「シラミ屋敷」 / 蟲のこと~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから

 なお、これを以って「蟲のこと」は終わっている。]

 

 ○クサ木の蟲  蜂の子は美味いものだと謂つて食べましたが、クサ木《ぎ》の蟲は子供の藥になると言つて喰べました。とりわけ土用の丑の日は藥になると謂つて捕へて喰べる風習がありました。クサ木の蟲に限らず、山椒魚、ゴーナイ(寄居)、目高、アンコ(山澤に住むハヤに似た小魚)などを、燒いたり、生のまゝ呑んだりしました。

 一般にクサ木の蟲と謂ひますが、クサ木に限らず、虎杖《いたどり》、楊《やなぎ》、サルトリ茨《いばら》などの蟲を捕へて、串にさして、燒いて喰べました。この蟲をとるには、竹筒に鹽水《しほみづ》を入れて用意し、鉈と、細い竹の針を持つて行きます。

 最初に蟲の喰入《くひい》つて、糞の出てゐる所が、虎杖や楊の小枝ならば、其木を伐り取つて、蟲を捕へますが、大木《たいぼく》に喰入つて居るのは、糞を除《のぞ》いて、穴の口から、竹筒で鹽水を吹き込んでやるのです。そして穴の口に、竹針をあてて待つてゐると、蟲が鹽水の爲めに苦しがつて、穴の口へ頭を出しますから、そこを手際よく引出《ひきだ》すのです。

[やぶちゃん注:「くさ木の蟲」「臭木の蟲」。一種ではなく、カミキリムシ類(鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae)や、コウモリガ(鱗翅(チョウ)目コウモリガ科Endoclita 属。タイプ種Endoclita excrescens)などの幼虫で、クサギ(シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum。和名は葉に独特の臭いがあることに由来する。私は「臭い」とは感じない。また、その「臭い」葉は茹でると「お浸し」にして食べられる)などの木に穴を開けて材質を摂餌する。子どもの「疳の薬」とされた。「常山虫」(じょうざんちゅう)とも呼ぶ。

「山椒魚」両生綱有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoideaの多数のサンショウウオ群を指す。サンショウウオ科Hynobiidaeには四十種以上の種がおり、古来から強壮剤として、よく生食や黒焼にして食される。私も某所で黒焼を食べたが、炭のようで味は殆んどしなかった。なお、オオサンショウウオ科 Cryptobranchidaeのオオサンショウウオ属オオサンショウウオAndrias japonicus も食用になる(私の教師時代の先輩は石見出身で、幼少期にはよく茹でて食べたという話を詳しく聴いた)が、横山には棲息しないと思われるので、外す。

「ゴーナイ(寄居)」これが判らない。但し、この並んだリストから淡水産の巻貝であろうということは想像がつく。恐らくは、腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina 辺りではないかと推定する(タニシならタニシと早川氏は書くはずである)。地方では古くから食用にされた。但し、肺吸虫・横川吸虫などの第一中間宿主であるから、注意が必要ではある。

「目高」条鰭綱ダツ目メダカ科メダカ亜科メダカ属 Oryzias。ニホンメダカの異名を持つ本邦のタイプ種はキタノメダカ Oryzias sakaizumii及びミナミメダカ Oryzias latipes である。民俗社会では、古くから食用とされてきた。ウィキの「メダカ」によれば、『新潟県の見附市や阿賀町などでは』、『佃煮にして冬場のタンパク質源として保存食にする習慣がある』。『新潟県中越地方では「うるめ」と呼ばれている。新潟市にある福島潟周辺でも、メダカをとって佃煮にしていた。少量しかとれず、少し季節がずれると味が苦くなるので、春の一時期だけ自家で消費した』。『新潟県長岡市付近では、味噌汁の具にも使われていた』。『近年では養殖も行われているが、これは野生のメダカではなく、養殖が容易なヒメダカ』(緋目高:メダカの突然変異型(品種)の一つで、観賞魚や肉食魚の餌として販売されている)『である』とあった。私は一度、どこか(失念)で佃煮を食べたことがあるが、普通の佃煮の味しか記憶にはない。

「アンコ(山澤に住むハヤに似た小魚)」これもなかなか微妙である。そもそも「ハヤ」という種は存在しない「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」を見られたいが、そこの私の注から転写すると、本邦で「ハヤ」と言った場合は、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称であるから、その中の幼魚と断定してよいと私は考えている。「アンコ」ではネットに掛らない。現地の方で、種が判る方がおられれば、お教え戴けると幸いである。

「虎杖」ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica既出既注。但し、これ以下の植物を摂餌する昆虫は、上に出た「くさ木の蟲」とは異なるものである。私は昆虫には冥いので、それらを挙げることは出来ない。これと思う種はいるが、果してその昆虫が食用になるかどうかが判らない(毒性があるかも知れない)から軽々に示せないという理由もある。

「楊」キントラノオ目ヤナギ科 Salicaceaeの本邦種は三十種を越えるが、単に「やなぎ」と呼んだ場合は、ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica を指すことが多い。

「サルトリ茨」単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属サルトリイバラSmilax china。]

 

 ○アセボの木とダニ  ダニはアセボと云ふ樹の下で湧くなどゝ謂ひます。ヤマギシヤと言ふ種類が多くて毒があると謂ひます。

 山口豐作と云ふ男が、コンニヤクと云ふ所の山へ行つて、草の上に休んでゐると、いゝ心持《こころもち》に眠くなつて、其處へ眠つてしまつて、暫くしてから眼が覺めると、體中が搔《かゆ》くて仕方がないので、着物を脫いで調べて見ると、小さなダニが、一面に體に止まつてゐたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「アセボ」既出既注だが、再掲しておくと、有毒植物として知られるツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ属アセビ亜種アセビ Pieris japonica subsp. japonica の異名「馬酔木」(アシビ)の転訛。無論、特定の木の下で人に吸血するダニ(鋏角亜門クモガタ綱ダニ亜綱 Acari)が湧くはずは、まず、ない。ただ、昔、山の仲間から、とある山の草地でツェルトで仮眠していたところ、妙にムズムズするので目を覚ましたら、下半身にびっちりと大きなダニがたかっていた、という話を聴いたことがある。或いは、猪や鹿などの獣類が寝転がってダニを落とした上に彼は寝てしまったものだろうか。

「ヤマギシヤ」漢字表記は「山」以外は判らぬが、ヒト吸血性であるとなら、鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidae の種ではあろう。嘗つて長女と次女のアリス(ビーグル♀)に、時々、顔面に食いついていて、すっかり血を吸って大きくなっているのを見かけて、渾身の怒りを込めて駆除した(煙草の火を近づけて咬みついている吻部を自ずと外すのを待った。毟り取ると吻だけが残って治りが悪くなる)のを思い出す。

「コンニヤクと云ふ所の山」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左上方のやや中央寄りの『御嶽祠』の下方のピーク、『金掘址』と書いたポイントの左の山に『(コンニヤク)』とあるのが判る。「ひなたGPS」の、この中央の305の附近がそれか。]

 

 ○シラミ屋敷  八名郡山吉田村の新戶《あらと》と謂ふ所の重吉と謂ふ男は久しい前にシラミに喰殺《くひころ》されて死んだと謂つて、この屋敷跡をシラミ屋敷と謂つたさうですが、其家にはシラミが澤山居て、家の人の着物は無論のこと、足袋に迄ぞろぞろと匐つてゐたさうです。其家が沒落して、殘つた家を村の者が集《あつま》つて壞した所が、床下から白い鳩の卵程のものが出て、持つて見ると柔かいものなので、何だらうと思つて破《やぶ》いて見ると、中はシラミばかりであつたと謂ひます。その屋敷跡へは誰も寄りつくものもなかつたさうですが、四十年程前から附近の家で畑にしたと謂ひました。

 この重吉と云ふ男が、或朝江戶へ立たうとして門迄出ると、何か頸筋に喰付《くひつ》いたものがあるので、捕へて見ると一疋の大きなシラミだつたさうです。何氣なく其シラミを紙に包んで柱の割れ目に入れて江戶へ出掛けたと謂ひます。一年程して歸つて來て、ふと其事を思ひ出して、柱の割れ目から紙に包んだシラミを出して見ると、未だ生きてゐたので、其を掌に載せて見てゐると、其シラミが掌へ喰いついたのが原因で、病氣になつて死んだので、それから家が沒落したと謂ふ事です。

[やぶちゃん注:二箇所の「シラミ」の太字は底本では傍点「﹅」。他の「シラミ」には打たれていない。シラミ類(咀顎目シラミ小目シラミ上科 Anoplura)の中で、ヒトに寄生する吸血性のそれは、ヒトジラミ科ヒトジラミ属 ヒトジラミ Pediculus humanusと、ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Pthirus pubis の二種のみであり、これらが多量に寄生したからと言って、それで死に至ることはなく、二種によって媒介される重篤な死に至る感染症は、存在しないと思う(そんな話を聴いたことがない。先に出たマダニは別)。この話全体は、どの場面も現実にはあり得ないと断じてよい。

「八名郡山吉田村の新戶」現在の愛知県新城市下吉田に南新戸・北新戸・上新戸が確認でき、中央には「中新戸集会所」が確認出来るから、この中央広域の旧地名である(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、「新戶」と別に、既に「中新戶」の地名が見えるので、そこは外していいかも知れない。

「床下から白い鳩の卵程のものが出て、持つて見ると柔かいものなので、何だらうと思つて破いて見ると、中はシラミばかりであつた」ヒトジラミの体長は成虫で二~四ミリメートルほどで、ライフ・サイクルにあっても、こんな巨大な卵塊は形成しない。思うに、これはシロアリ(網翅上目ゴキブリ目シロアリ下目 Isoptera のシロアリ類。本邦には、ミゾガシラシロアリ科ヤマトシロアリ Reticulitermes speratus と、イエシロアリ Coptotermes formosanus が普通種である)の崩壊した根太の中の巣を誤認したのだろうと推理する。イエシロアリの形状はシラミが大きくなったようにも見えるからである。

「或朝江戶へ立たうとして門迄出ると、何か頸筋に喰付《くひつ》いたものがあるので、捕へて見ると一疋の大きなシラミだつたさうです。何氣なく其シラミを紙に包んで柱の割れ目に入れて江戶へ出掛けた……」この話、実は明らかな原拠がある。吉田村の物知りがそれを転用してでっち上げた全くの作り話なのである。私の「宿直草卷三 第十四 虱の憤り、人を殺せし事」を見られたいが、その正統なルーツは、実に鎌倉中期の成立である「古今著聞集」の「卷第二十 魚蟲禽獸」に載る「或る京上りの田舍人に白蟲仇を報ずる事」にまで遡るのである。リンク先では原々拠も電子化してあるので、参照されたい。早川氏は古典籍にはあまり通じておられなかったか。民俗学的記載としては、私としては、そこまで是非とも突いて欲しかった気はする。

大手拓次譯詩集「異國の香」 思ひ出(テオ・ヴァン・ビーク)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  思 ひ 出 ビーク

 

水仙よ、 水仙よ。

お前からこぼれるちいさな笑ひ、

日のひかりかがやくなかの絨毯について、

私の戀が思ひだすいろいろ………

私の覺えてゐるあの幸福な、 やさしい戀よ、

お前はどこにゐるのか、 お前はどこにゐるのか?

かつては緣であつたこの牧場(まきば)のうへに、

影のかけぎぬが一面におほうてゐる。

この世が悅びとして誇るすべてのものは、

わかれなければならない。

けれど、 百合の花や、 おまへの笑ひごゑや、

またそれからうまれる思ひ出の夢は、

いつまでも生きてゐる、

ただ私の心のなかに生きてゐる。

 

[やぶちゃん注:テオ・ヴァン・ビークなる詩人は探し得なかった。識者の御教授を乞うものである。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 四 色好みなる男見ぬ戀に手を執る事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     四 色好みなる男見ぬ戀に手を執る事

 

 京より、北陸道を指して、下(くだ)る商人(あきうど)ありけるが、ある宿(やど)に泊まり侍るに、亭主、心ありて、さまざまに歡待(もてな)し、奧の間に請じ入れけるが、連れも無く、すごすごと、臥して居たりけるが、小夜更(さよふ)け方(がた)に、次の間に、如何なる者とは知らず、如何にも氣高き音聲(おんじやう)にて、小唄を唄ひけり。

 男、

『さても、斯樣(かやう)の面白き事は、都にても、未だ聞かざる聲音(こわね)なり。

斯かる田舍にては、不思議なるものかな。」

と、いとゞ寐覺(ねざ)めて、次の間に行き、

「如何なる人にて御入(おい)り候へば、是れへ、御越しありて。」

とて、傍(そば)近く寄りたれば、女の聲にて、

「奧の間には、誰れも坐せぬと思ひ、片腹痛き事どもを申し、返す返すも、御恥(おはづ)かしく候へ。」

とて、なよやかに臥したる御姿(おすがた)なり。

「今宵は、添ひ臥して、御音聲(ごおんじやう)をも承り、御伽(おとぎ)致し候はん。」

と云ふ。

 女、

「是れは、思ひも寄らぬ事を承り候ふものかな。左樣に宣(のたま)はば、はや、外に出でなん。」

と行く。

 男、いとゞ、憬(あこが)れ、

「これに不思議に泊まり候ふも、出雲路の御結び合はせにてこそ、候はめ。」

と、いろいろ、言ひ、恨みければ、女、言ふやう、

「寔(まこと)に左樣に思召(おぼしめ)され候はば、我々、未だ良人(をつと)を持ち參らせ候はねば、永き妻と御定(おさだ)め候はば、兎も角も、御計ひに從ひ候べし。さりながら、堅き御誓言(ごせいごん)無くしては、仇(あだ)し心(こゝろ)は、まことしからず。」

と云へば、あらゆる神に佛(ほとけ)に、誓ひこめて、

「童(わらは)も、妻を持ち候はねば、幸ひに、我が國に伴ひ侍らん。」

と云ふ程に、流石、岩木(いはき)ならねば、打解(うちと)けて、妹背(いもせ)の契り、淺からず、秋の夜(よ)の、千夜(ちよ)も一夜(ひとよ)と歎(かこ)ちける。

 斯(か)くて、夜(よ)も、ほのぼのと明け行く儘に、彼(か)の女を、よくよく見れば、其の姿、あさましく、眉目(みめ)の惡(あ)しき瞽女(ごぜ)にてぞ、坐(いは)しける。

 男、大いに、肝(きも)を消し、亭主に暇(いとま)を乞ひ、奧へは下(くだ)らずして、上方(かみがた)指してぞ上りける。

 ある大河(おほかは)を渡りて、後(あと)を返り見れば、件(くだん)の瞽女、杖、二本に縋(すが)り、

「やるまじ、やるまじ、」

とて、追掛(おつか)くる。

 男、これを見て、馬方に言ふやう、

「其方(そのはう)を、平(ひら)に賴み候ふ間(あひだ)、才覺をもつて、彼(か)の瞽女を、此の川へ、沈めて給はれ。」

とて、やがて、料足(れうそく)を取らせけり。

 これも、慾(よく)、深く、不得心(ふとくしん)なる者なれば、易々(やすやす)と賴まれ、彼の女を、深みに、突き倒(たふ)し、さらぬ體(てい)にて、歸りけり。

 其の後(のち)、商人(あきうど)は、日、暮れければ、ある宿に泊まり侍りけるに、夜半(よは)ばかりに、門を、荒らかに敲き、

「これに、商人の泊まり給ふか。」

と問ひければ、亭主、立ち出で、これを見るに、彼の者の氣色(けしき)、世の常ならず、凄(すさ)まじかりければ、頓(やが)て門を閉(た)て、

「左樣の人は、これには、御泊まりなき。」

由、答ふ。

 そこにて、瞽女、愈(いよいよ)、忿(いか)りをなし、

「いやいや、何と言ふとも、此の内になくては、叶ふまじ。」

とて、戶を押し破り、内へ入り、旅人の隱れてゐたる土藏の中へ、押し込み、鳴神(なるかみ)の如く、震動(しんどう)すること、稍(やゝ)久し。

 

Gozenihikisakarukoto

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、「大藏」(おほくら)「にてこせ」(瞽女(ごぜ))「あき人お引さく」(を引き裂く)「事」である。]

 

 餘りの怖ろしさに、其の夜(よ)は、亭主も近づかず。

 夜明けて見れば、彼の男、其の身、寸々(すんずん)に、裂けて、首(くび)は、見えずなりにけり。

[やぶちゃん注:「諸國百物語卷之二 一 遠江の國見付の宿御前の執心の事」はロケーションを変えただけの転用。まあ、しかし、本篇自体が「道成寺縁起」を下敷きにしているのは、見え見えである。

「出雲路」岩波文庫版の高田氏注に、『出雲路の神の略。縁結びの神。出雲路は京の北部の地名』とある。

「童」私。商人の台詞としては、自身を若く見せるための自称か。

「瞽女」小学館「日本大百科全書」より引く。『盲目の女性旅芸人。三味線を弾き、歌を歌って門付(かどづけ)をしながら、山里を巡行し暮らしをたてた。「ごぜ」の名は、中世の盲御前(めくらごぜ)から出たといわれるが』、『確証はない。座頭のような全国的組織はもたず、地方ごとに集団を組織して統率するとともに、一定の縄張りを歩くことが多かった。近世の諸藩では、駿府』『や越後』『の高田、長岡などのように、瞽女屋敷を与えて』、『これを保護し、集団生活を営ませることによって支配する所もあった』。『今日』、『わずかに命脈を伝える越後の高田瞽女からの聞き書きによれば、高田では親方とよばれる十数人の家持ちの瞽女がいて、親方は』、『さらに座と称する組織を結成し、修業年数の多い瞽女が座元になって座をまとめていたという。仲間内には掟(おきて)があっ』て、『違反者は罰せられて追放された。それを「はなれ」といった。「縁起」や「式目」を伝えている所もある。瞽女は』三『人』、乃至、『数人が一団になって巡遊した。娯楽に乏しい山村では大いに歓迎された。昼間は門付に回り、夜は定宿に集まった人々を前に芸を披露した。葛(くず)の葉(は)子別れや』、『小栗判官(おぐりはんがん)などの段物をはじめ、口説(くどき)、流行唄(はやりうた)というように』、『語物(かたりもの)や』、『多くの唄を管理した。近年は昔話や世間話の伝播(でんぱ)者としても注目を集めている』とあった。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一五番 黃金の牛

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   一五番 黃金の牛

 

 昔、遠野の小友《をとも》村に長者があつた。その家に丁人の下男が居たが、此男は俺は芋を掘ると言つて年がら年中暇さへあれば鍬を持つて近所の山に入り、彼方此方《あちらこちら》と土を掘つて居た。村の人達はあれアまたあの芋掘りア山さ行くぢえと言つて笑つて居た。ところが其男は遂々《たうとう》或年の大晦日の晚方、同村日石(ヒイシ)と云ふ所の谷合で、黃金(キン)のヒに掘り當てた。その黃金の一塊(ヒトカタマリ)を笹の葉に包んで持つて來て、自分の破家(ブツカレエ)の形ばかりの床の間に供へた。するとその光が破戶《ぶつかれど》を透して戶外まで洩れて明るく輝いた。その人は今の遠野の新張(ニバリ)といふ所の人であつたが、それからは、小松殿と言はれる程の長者となつた。

[やぶちゃん注:「遠野の小友村」現在の遠野市街の南西の山間部、岩手県遠野市小友町(おともちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

「ヒ」小学館「日本大百科全書」に、『鉱脈のこと。日本の近世から鉱山用語として使われ始め、露頭から鉱脈に沿って採掘する際』、「ひ追(お)ひ」又は「ひ延(の)べ」等と『称した。現在でも鉱脈を追って』掘り進む『坑道を』「ひ押(お)し坑道」と呼び、『広く使われている』とあった。

「黃金(キン)のヒに掘り當てた」の底本は「掘」は「堀」。ここは流石に前後から誤植と断じ、特異的に訂した。本篇では以下にも同じ誤植を訂したあるが、一々、注はしなかった。

「破戶」普通なら「やれど」であるが、前の「破家(ブツカレエ)」の佐々木の方言に合わせて仮に訓じておいた。]

 小松殿は金掘りになつて、多くの金掘りどもを賴んで每日每日其ヒを掘り傳つて行つた。一年掘つても二年掘つても思つたやうな金は無くて、世間からはまた元の芋掘殿になつたなアと言はれて愚《ぐ》にされて居た。けれども何と言はれてもかまはないで掘つて行くと、丁度全(マル)三年目のやはり大晦日の晚方に、ベココ(牛)の形をした親金(オヤガネ)に掘り當てた。小松殿は大喜びで、すぐに坑外に多勢の金掘りドを集めて大酒宴をして其の夜を明《あか》した。

[やぶちゃん注:「親金(オヤガネ)」古く、山師は、鉱山の鉱床の主要本体の核部を「親金」と呼んだようである。ネット上の「地質ニュース」の高島清氏の論文「金と銀」PDF)の23ページ右下方に(字空けは詰めるか、読点に代え、ピリオド・コンマは句読点に代えた)『金銀に関係のある歴史のほかに、金銀山の開発とか発見にまつわる数多くの物語りの中にまた興味のあるものが多い。伝説として、興味のあるのは〝おそとけ″の話である。現在の岩手県上閉伊郡上郷村付近、大峰鉱山[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データ航空写真のここ。本篇の旧「小友村」とは盆地を隔てて東北十九キロメートルしか離れていない。]のある付近に、〝おそとき″と称する伝説がある。〝おそとけ″とは〝牛徳(おそとき)″が、なまったものと思われるが、慶長年間、あるいはそれより古く、この付近の仙人峠[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データ航空写真のここ。大峰鉱山の東南東約三キロメートル直近。]付近の火石金山で』、(★☞!)『親金が牛の形をした金鉱が発見された』(★☜!)『という。そして、その金塊を引き出すのに、繩をつけて引出す「牛徳」という一正直者は、坑外からの神の呼声で、外に出て、命を助けられ、作業中の鉱夫75人は、巨大なこの金塊と共に埋まっているという』とあるのである。これは驚天動地で(「親金」を補説しようとして、とんでもない金脈を探し当ててしまった感じだ!!!)、以下の展開を見られれば判るが、以上の話は、本話の源泉にある「黄金の牛」伝承そのものルーツであることが判明するのである!

 明くれば元朝の目出度い日で、朝日の登るのと一緖に、改めて坑の入初めの祝ひを擧げた。そして黃金の牛の額の片角《かたづの》に錦の手綱を結び着けて、歌を歌つてみんなに曳かせると、その角がポキリと折れてしまつた。今度はその首に綱を結びつけて引張ると、親金の牛が二步(アク)三步(アク)動いたかと思つた時ドガリと坑《あな》が墜ちて、鑛夫(カネホリ)どもが七十五人死んでしまつた。

 其時炊事男にウソトキと謂ふ男があつた。正直者で、時刻を正しく朝飯夕飯などを呼ばるので、金掘りどもからはあれは融通の利かない男だ、ウソトキだと言はれて居た。家には盲の婆樣(老母)があつて、自分の食物や鍋底のコビ(こげ飯)などを貰つて持つて行つて母親を養つて居た。それぐらゐの孝行者だから色々な雜物などは石の上に並べて置いて鳥どもにやつた。鑛夫《くわうふ》どもからは常に愚者《おろかもの》あつかひにされて居た。

[やぶちゃん注:「ウソトキ」ここでの意味は不詳。先の高島清氏の論文では「おそとき」「おそとけ」とあり、「牛徳(おそとき)」の訛りとされるが、ここでの「ウソトキ」を上手く説明出来ない。「牛の徳」を卑称として「牛のように融通の利かない頑固で鈍重な奴」の意味だろうか? 判らぬ。岩手方言の「うそ」は「噓」であるが、これでは説明不能で、私は一瞬、鳥の「鷽(うそ)」、スズメ目アトリ科ウソ属ウソ Pyrrhula pyrrhula をイメージした。何故かと言えば、この鳥の「うそ」は古語の「うそ」で「口笛」を意味するからである。私はこの「炊事男」の「ウソトキ」は、食事時を正確に鉱夫らに伝えて「呼ば」わったとあるのを、『彼は坑道に入って「口笛」を吹いてそれを告げたのではなかったか?』と夢想したことによる。思いつきだが、結構、私は気に入っているので、ここに記しおくこととする。なお、最後の私の注で引用した佐々木の注が、これを実は解読しているので読まれたい。私の妄想は一蹴される。]

 其日の親金曳きに、一人でも多い方がよいからと謂ふので、このウソトキも坑中に連れ込まれて綱に取りついて居た。すると不意に坑口で、ウソトキ、ウソトキと呼ぶ聲がした。あれア誰か俺を呼ばつて居ると思つて、綱を放して坑口に駈出《かけだ》して外を見れば、誰も居なかつた。これは俺の空耳だべと思つて、また坑穴に入つて綱を引張つて居ると、またこそ、けたたましく、ウソトキッと呼ぶ聲がした。あれアまた呼ぶと思つて出て見たが、矢張り前の通りで誰も居なかつた。どうもおかしいと思ひながら復《また》坑中に入つてまた綱を引いて居た。すると今度は以前よりも高く、ウソトキッと呼ぶ聲がした。誰だッと思つて綱を放して駈出して坑口から片足の踵《かかと》の出るか出ぬ間に、ドチンと坑が墜ちた。斯《か》うして七十五人ある鑛夫の中にたつた一人ウソトキばかり助かつた。

  (この墜坑《ついこう》口碑は私の「東奧異聞」にその一端を發表したやうに、奧州の鑛山地帶には至る所にある譚で、さうして又話の内容も少しづゝ異つてゐる。こゝには數ある同話の中から昔話になつてゐる遠野の小松長者の譚をより出して見た。)

 (詳しくは私の東奧異聞の中の「黃金の牛」と謂ふ短篇に書いておいたが、あの本を出した後また續々と同じ口碑を方々から聽かして貰つて居る。)

[やぶちゃん注:最後の附記は底本では、最初の丸括弧附記が全体が二字さげポイント落ちで、二番目の頭だけは一字下げで次行は二字下げ(全体ポイント落ちは同じ)となっている。

「東奧異聞」佐々木が大正一五(一九二六)年三月に坂本書店の『閑話叢書』の一冊として刊行した東北地方の民譚の研究書である(研究書と書いたのは、他の殆んどの民譚集成書群は、あくまで、それら採集した民譚に紹介・報告の体(てい)を出ないのであるが、この書だけは民話の分類や内容考証にまで及んでいるからである。佐々木の指示したそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの平凡社『世界教養全集』第二十一巻(一九六一年刊)のこちらの「黄金のウシの話」で視認出来る(新字新仮名)。また、「青空文庫」のこちらでも、同書底本で電子化されてある。佐々木はそこで前に述べたように、特異的な考証注を附しており、その中に「ウソトキ」の解読が示されてある。前後の注も含めて以下に示す。なお、「青空文庫」のものを加工データとして原底本の当該部と校合した(底本では、各注の頭の丸括弧数字のみが一字下げで、二行目以降は、全体が二字下げで全部ポイント落ちであるが、再現していない。地名のうち、読みに躓いたものは、検索可能だったものについては私が注で補った)。

   *

(1)盛岡地方にもこの口碑があるとみえて、同地の金山踊りの唄に左のようなものがあります。「金のウシ(ベココ)[やぶちゃん注:「ウシ」へのルビ。]の錦の手綱おらも曳きたい、ハアカラメテカラメテ、シッカリカラメテ、掘った手綱はうっかり放すな」というのや、また本話の小松長者の黄金のウシを曳くときに歌わせたのは、「金のウシこに錦の手綱、おらも曳きたい曳かせたい」といったと言います。

(2)ウソトキ、オソトキについては、これもあとで誰かの解釈でしょうが、この男はあまり正直者で、御飯をきちんと正確な時間にしか出さなかったので、鉱夫どもは逆に偽時[やぶちゃん注:「うそとき」。]だといって諷したとも言い、またこの男は時を知らす役目であったが、あまり正確に時間を守るのでみんなからそう逆諷[やぶちゃん注:「ぎゃくふう」事実とは反対に当てこすって言うこと。]されたとも言います。これはどこの金山の口碑でもこの助かり役の者をオソトキ、ウソトキということであることに注意を願います。ほかには女をもそう呼んでおります。すなわち陸前国気仙郡竹駒村玉山金山の炊事役は女でウソトキといったとなっております。また同郡唐丹(とうに)村、今手(いまで)山金鉱での口碑には三郎となっておりまして、やはり炊事係でありますが、これにはこの男が流し下に溜まる飯粒を克明に拾い集めておき、毎日それをカラスにやったと言い、墜坑のとき呼び出したのはたぶんそのカラスであったろうというような情合い談[やぶちゃん注:「じょうあいだん」。]もあります。同所の山谷の間に三郎墓(さぶはか)といって、この男の墓まで残っております。その他は青森県でも秋田県でも同様ウソトキで通っております。

(3)女であったというところは本文のほかに、前註の気仙郡玉山金山のウソトキなどでありますが、こちらは同郡広田村の及川与惣治氏の報告ですとオソイトという名まえになっております。また本文の上郷村左比内のオトタツ女なども、同郡釜石方面では男となってよそと同様にウソトキといわれているように、じつに区々[やぶちゃん注:「まちまち」。]であります。

(4)この口碑のある金山およびその跡について私の手帳に控えた一端を申しますと、

[やぶちゃん注:以下、底本ではリスト部分は全体が三字下げ。]

陸前国気仙郡竹駒村、玉山金山、ウソイト、ウソトキ  同郡唐丹村今手山金山、三郎  陸中国和賀郡田瀬村、黄金(こがね)沢、ウソトキ  稗貫郡湯本村字日影坂万人沢、ウソトキ  江刺郡米里村字古歌葉[やぶちゃん注:「よねざとむらあざこがよう」。]、千人沢、ウソトキ  上閉伊郡上郷村字左比内、千人沢、オトタツ  同郡同村仙人峠の長者洞[やぶちゃん注:「ちょうじゃほら」。]、ウソトキ  同郡土淵村字恩徳金山[やぶちゃん注:「おんどくきんざん」。]、ウソトキ  同郡栗橋村字青木金山、オソトキ  同郡甲子村字大橋日影沢(?)ウソトキ  同郡小友村日石[やぶちゃん注:「おともむらひいし」。]金山跡、オソトキ  紫波郡佐比内村[やぶちゃん注:「しわぐんさひないむら」。]銅ヶ沢金山、ウソトキ(?)  同郡彦部星山[やぶちゃん注:「ひこべほしやま」。]赤坂金山、ウソトキ(?)  陸奥岩木山麓百人沢、ウソトキ  羽後国鉱山地方某所、ウソトキなど親金が黄金のウシであることは、いずれも同様であります。

   *]

2023/03/25

早川孝太郞「三州橫山話」 蟲のこと 「双尾の蜥蜴」・「蜂の巢と暴風」・「蜂の戰爭」・「蜂の巢のとりかた」・「蜂の巢の探し方」・「眼白を殺した蜂」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○双尾の蜥蝪  フタマタ(双尾)の蜥蝪《とかげ》を見れば、思ふことが叶ふと言つたり、これを捕らへ來て飼つて置くと、金銀が自然に集つて來るとも謂ひます。

 春彼岸前に蜥蝪を見ても、其年は運がいゝなどゝ謂ひますが、それが靑蜥蜴では惡いとも謂ひました。

[やぶちゃん注:底本では「悪」の後に一字分空白(行末)があるが、誤植と断じ、詰めた。二叉尾のトカゲ類はとりたてて稀なものではない。先天的な奇形ではなく、自切後や尾部周辺で傷を負ったりすると、彼らは再生力が強いので、尾が切れたと再生システムが起動し、二股の尾が出現するケースが多いのではなかろうか。因みに、私は高校時代、演劇部と生物部を掛け持ちしていたが、後者で専ら担当したのが、イモリの再生実験であった。尾のみならず、前肢・後肢を人工的に切断して行った。前肢では中央を突にして、根本付近で三角形にカットしたところ、腕の指がその両側に発生した。但し、大抵は再生途中で腐敗して失敗した。高校レベルの装置では、細菌感染を予防するシステムや、抗生物質の投入などは金が掛かり過ぎて出来なかったからである。今考えれば、私は血塗られたマッドなサージャリーに過ぎなかったのだ。]

 

 ○蜂の巢と暴風  蜂が人家の軒や屋根棟へ巢を造ると、その家が榮える前兆であると謂ひまして、わざわざ蜂の巢をとつて來て門に置く風習もありました。

 人家の棟などに、大きな籠のやうな巢を造るのは、赤蜂と云ふ種類で、これが橋の下や、其他低い所へ巢を造つた年は、暴風があると謂ひました。

[やぶちゃん注:嘗つて、山登りをしに色々な地方の山村を登山口にしたが、酒屋でもない大きな民家の軒先に『杉玉があるな。』とよく勘違いし、近づいて見ると、明かにどこからか持ってきて、そこにわざわざ飾ってある、蜂のいなくなったスズメバチ類の巢であったことを何度も体験した。まさに、こうした民俗に基づくものであったのである。

「赤蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科チャイロスズメバチVespa dybowskii の異名と思われる。体長一・七~二・七センチメートルで、全身が黒から茶・くすんだ赤の深い色に覆われている。北方系種で、日本では中部地方以北に棲息していたが、近年、中部以南にも分布を広げており、二〇〇〇年代初頭までに、山口県を除く本州全域で棲息が確認されており、都市部にも進出しているから、だんだんに被害は増えそうな、如何にも、見た目(ネット上で見た)、特異的に赤黒と文字通り異色に派手で、兇悪そうな感じに見える種ではある(私は自然界では、今のところ、幸いにして現認したことがない)。]

 

 ○蜂の戰爭  私の子供の頃に、私の家と溪を隔《へだて》て、竝んでゐる三軒の家の土藏へ、同じやうに赤蜂が巢を造つた事がありました。秋も遲くなつて、巢が充分大きくなつた頃、一番端の家の巢へ、熊蜂の群が襲つて來て、赤蜂の群を喰《く》ひ殺して、中の子を咥へ出して持つて行つた事がありましたが、其翌日は、次の家へ襲つて來て、同じやうに全滅させてしまひました。三日目の晝過ぎ頃、私の家の巢へやつて來ました。最初は二つ程熊蜂が來て赤蜂と爭つてゐるやうでしたが、だんだん熊蜂の數が增えてきて、約二時ばかり盛んな戰爭をした結果、赤蜂は殆ど全滅してしまひました。戰爭してゐる最中は、一ツの熊蜂へ、三つ四つ程も赤蜂が絡まつて落ちて來ては、盛んに嚙合つてゐました。巢の下の地面が、赤蜂の死骸で赤く染まつたやうに見えました。巢の中からは、熊蜂が子を咥へ出しては、何處ともなく運んで行きました。時々一ツ位赤蜂が歸つて來ても忽ち喰ひ殺されてしまひました。

 後で、蜂の死骸を檢《あらた》めますと、赤蜂が二十に對して、熊蜂の死骸は一ツ位の割合でした。

 又或年の秋、屋根裏に集まつてゐる小蜂を、熊蜂が捕へるのを見た事がありましたが、捕へたと思ふと、一度地上に落ちて來て、再び提け[やぶちゃん注:ママ。後の『日本民俗誌大系』版では『提げ』である。]上げて屋根の上へ持つて行きました。

[やぶちゃん注:「熊蜂」これは私は「クマンバチ」と呼ぶ花蜜・花粉食の温厚な膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属クマバチ Xylocopa violacea ではなく、肉食性の細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属 Vespa の大型の一種、或いはその中で最悪最強のオオスズメバチ Vespa mandarinia の異名である。]

 

 ○蜂の巢のとりかた  秋、彼岸が過ぎると、蜂の巢が實ると謂つて巢をとりました。

 ヘボと謂ふ、虻程の蜂や熊蜂は、地下に巢が造つてあつて、其處には幾層にも重なつた巢があつて、大きな巢になると、子が一斗[やぶちゃん注:十八リットル。]あつたなどと云ひました。

 これ等の巢をとるには、夜、穴の傍で麥藁などを燃やして置いて、鍬で掘りましたが、中から蜂が飛び出して來て、羽を燒かれてしまふのですが、人間の方も、必ず刺されるものでした。それが煙火を使つてとるやうになつてからは、雜作なくとれました。穴の口に、筒花火を向けて、火を全部穴の中へ放出して置いてから堀[やぶちゃん注:ママ。]ると、蜂は全部麻醉劑にかゝつたやうになつてゐました。

 晝間、竹竿などの先に、麥藁を結へつけて、其に火をつけて巢の近くに差し出したりして、惡戲をすると、その竹竿を蜂が傳つて來るものでした。

[やぶちゃん注:「ヘボと謂ふ、虻程の蜂」: スズメバチ亜科クロスズメバチ属クロスズメバチVespula flaviceps を代表とする地蜂類を指す。体長一~一・八センチメートル。小型で、全身が黒く、白又は淡黄色の横縞模様を特徴とする。ウィキの「スズメバチ」によれば、『日本では地方によってヘボ、ジバチ、タカブ、スガレなどと呼ばれて養殖も行われ、幼虫やさなぎを食用にする。長野県では缶詰にされる。クロスズメバチを伝統的に食用とする地方の一部では「ヘボコンテスト」等と称し、秋の巣の大きさを競う趣味人の大会も行われている。岐阜県でもヘボとして食文化が発達して』いるとある。小さく黒いことから、まさにアブと間違えやすく、それで刺されてしまうこともあるので、注意が必要。但し、攻撃性はそれほど高くなく、毒性もあまり強くない(但し、蜂毒は、その毒性の強弱に限らず、寧ろ、二回目に刺された際のアナフィラキシー・ショック(anaphylaxis shock)の方が生命に関わる危険性がある)。「へぼ」の異名については、「農林水産省」公式サイト内の「うちの郷土料理」の「へぼ飯 愛知県」で確認でき、次の条に出る、その巣を探す方法も記されてある。

「熊蜂」前掲の広義のスズメバチ属 Vespa の中・大型の種群。]

 

 ○蜂の巢の探し方  秋、蛙の肉やバツタなどを、棒切れの先につけて持つてゐると、何處からともなく蜂がやつて來て、其肉を喰千切《くひちぎ》つて持つてゆくので、其行衞を見定めて少しづゝ巢へ近づいて行くものでした。其時、蜂の體へ、眞綿を千切つて引つかけてやつて、眼印にする方法もありました。

 熊蜂などの、體の大きなものは、澄んだ空を疑視めて[やぶちゃん注:ママ。「凝視」の誤植。後の『日本民俗誌大系』版では『凝視(みつ)めて』とルビもある。]蜂の去來する姿をみて、巢に近づいて行きました。

 

 ○眼白を殺した蜂  子供の頃、眼白《めじろ》が熊蜂に喰殺《くひころ》された事がありました。それは眼白を入れた籠を、裏口に掛けて置いたら、熊蜂が眼白の頸を喰切《くひき》つて其の肉を食べてゐました。私が近づくと、蜂は一塊の肉を持つて逃げて行きました。

[やぶちゃん注:「眼白」スズメ目メジロ科メジロ属メジロ Zosterops japonicus であるが、本邦で見られるのは五亜種。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 眼白鳥(めじろどり) (メジロ)」を参照されたい。]

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 三 蓮臺野にて化け物に逢ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、状態がかなりいいので、その岩波文庫版からトリミング補正したものを用いた。]

 

     三 蓮臺野にて化け物に逢ふ事

 

 都、蓮臺野に、大いなる塚の中に、不思議なる塚、二つ、ありけり。

 其の間、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]ばかりありけるが、一つの塚は、夜な夜な、燃えけり。

 今一つの塚は、夜每に如何にも凄(すさ)まじき聲して、

「こはや、こはや、」

と呼ばはる。

 京中の貴賤、恐れ戰(おのゝ)き、夕(ゆふべ)になれば、其の邊(へん)に立ち寄る者、なし。

 爰(こゝ)に、若き者、集(あつ)まりて、

「さても。誰(たれ)れか、今夜、蓮臺野に行きて、彼(か)の塚にて、呼ばはる聲の、不審を霽(は)らしなんや。」

と云ひければ、其の中(なか)に、力、勝れ、心、あくまで不敵なる男、進み出でて、云ひけるは、

「我こそ、行きて、見屆け侍らん。」

と、云ひも敢へず、座敷を立ち、蓮臺野にぞ、赴きける。

 其の夜、折しも、殊に暗く、めざすとも知らぬに、雨さヘ降りて、もの凄まじとも云はん方、なし。

 則ち、彼の塚に立寄りつつ、聞きけるに、言ひしに違はず、

「こはや、こはや、」

とぞ、呼ばはりける。

 

Rendaino

 

[やぶちゃん注:以上では右上端の「キャプションが半分切れてしまって見えないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像で、「れんだい野にて二ツつかばけ物の事」と読める。]

 

 此の男、

「何者なれば、夜每に、斯くは、言ふぞ。」

と罵(のゝし)りければ、其の時、塚の内より、年頃四十餘りなる女の、色靑く、黃ばみたるが、立ち出でて、

「斯樣(かやう)に申す事、別の仔細にても、なし。あれに見えたる燃ゆる塚に、我を具(ぐ)して、行き給へ。」

と云ひければ、男、恐ろしくは思へども、思ひ設(まふ)けたる事なれば、易々(やすやす)と請け合ひて、彼の塚へと、伴ひ行きぬ。

 さる程に、彼の者、塚の内に入るかと思へば、鳴動すること、稍(やゝ)久し。

 暫くあれば、彼の女、鬼神(きじん)の姿と成りて、眼(まなこ)は、日月(じつげつ)の如くにて、光り輝き、身には、鱗、生(お)ひ、眞(まこと)に面(おもて)を向くべきやうも、なし。

 さりければ、又、

「舊(もと)の塚に、連れて歸れ。」

と云ふ。

 此の度(たび)は、氣も、魂(たましひ)も、失せけれども、兎角、遁(のが)るべき方(かた)なければ、舊の塚に、負ひて、歸る。

 扠(さて)、彼(か)の塚へ入(い)り、少し、程經(ほどへ)て、又、元の姿に現はれて、

「さてさて、其方(そのはう)のやうなる、剛(がう)なる人こそ、おはせね。今は、望みを達し、滿足、身(み)に餘り候。」

とて、小さき袋に、何とは知らず、重き物を入れて、與(あた)ヘけるが、彼の男、鰐(わに)の口を遁(のが)れたる心地してぞ、急ぎ、家路に歸りける。

 前の友達に逢ひ、

「爾々(しかじか)。」

と語りければ、各(おのおの)、手がらの程を感じける。

 彼(か)の袋に入れたる物は、如何なる物にかありけん、知らまほし。

[やぶちゃん注:この手の短い怪談集では、こうした最後の最後まで引っ張っておいて、消化不良にさせることが、続いて話を読ませるナニクソ力(ぢから)を発揮させるから、上手い手である。「諸國百物語卷之一 七 蓮臺野二つ塚ばけ物の事」は転用。但し、袋の中身を最後に明らかにしている。やはり、それは、お読みになれば、誰もが、「つまならない」と感じられるであろう。寧ろ、ブラック・ボックスであることが、怪奇の余韻を燻ぶらせるとも言えるよい例なのである。

「蓮臺野」洛北の船岡山西麓から現在の天神川(旧称は紙屋川)に至る一帯にあった野。古来、東の「鳥辺野(鳥辺山)」、西の「化野(あだしの)」とともに葬地として知られた。後冷泉天皇・近衛天皇の火葬塚がある。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)

「思ひ設けたる」ある程度までの覚悟や、心構えはしていたことを指す。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 二 離魂と云ふ病ひの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     二 離魂(りこん)と云ふ病(わづら)ひの事

 

 何時(いつ)の頃にかありけん、出羽國(ではのくに)守護何某(なにがし)とかや、ある夜(よ)の事なるに、妻女、雪隱(せつちん)に行きけるに、稍(やゝ)ありて、歸り、戶をたてて、寢(い)ねけり。

 又、暫く、女の聲して、戶を開けて、内に入りぬ。

 彼(か)の何某、不思議に思ひ、夜(よ)明くるまで、守(まも)り明かして、彼の女を、二所(ふたところ)に分けて、色々、詮索しけれども、いづれに、疑はしき事、なかりしかば、

『如何(いかゞ)せん。』

と、案じ煩(わづら)ふところに、ある者、

「一人の女體(によたい)、疑はしき事、侍り。」

と、申しければ、猶、詮索致してより後(のち)、卽ち、頸(くび)をぞ、刎(は)ねてける。

 疑ふ所もなき、人間にてぞ、坐(おは)しける。

「今一人こそ、變化(へんげ)の物なるべし。」

とて、それをも、頓(やが)て切りたりけり。

 これも又、同じ人間にてぞ候ひける。

 扠(さて)、死骸を、數日(すじつ)、置きて見たれども、變はる事、なし。

 如何なる事とも、辨(わきま)へ兼ねたるが、或(ある)人の曰く、

「『離魂』と云ふ病(わづら)ひなり。」

と。

[やぶちゃん注:ここで言う「離魂病」とは、江戸時代になって一般的に「影の病ひ」などと呼称された、奇体な離人症(通常の精神疾患では自身の見当識があるにも拘わらず、自分にそっくりな人物を垣間見たり、その人物が自分の意志とは無関係に異なった行動をとったりするように見える視覚型の重い妄想を指すが、最近では、旧「多重人格」、「解離性同一性障害」の産物と見做すことが多いようである)である。芥川龍之介が自ら蒐集した怪奇談集「椒圖志異」にも、正篇の最後に引用している、

   *

      3 影の病

 

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

が、創作ではない貴重な「影の病ひ」=「離魂病」の事実(但し、聞き書きではある)記載である。私は真葛の「奥州ばなし」を「附・曲亭馬琴註 附・藪野直史注」を縦書ルビ附・PDF版で電子化しているが、その「二十一 影の病」(69コマ目)が、その引用元である。PDFが見られない方は、ブログ版「奥州ばなし 影の病」もある。近年はドイツ語由来の「ドッペルゲンガー」(Doppelgänger:「Doppel」(合成用語で名詞や形容詞を作り、英語の double と同語源。意味は「二重」「二倍」「写し」「コピー」の意)+「gänger」(「歩く人・行く者」))の方が一般化した。これは狭義には自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象を指す。しかし、本篇はそれを完全に突き抜けて、妻が二人に分離し、しかも、孰れも夫や家人にも見える状態にあるという点で、完全にブッ飛んでいる怪奇談で、さらに、結果的に、二人ともに夫が化け物と断じて、殺害してしまっている。しかも最後まで二体の死体には何らの変容もなく、二体ともに同じ妻の遺体なのである。これは最早、怪奇異というより、猟奇というべきスプラッター的死体変相的リアリズムの凄惨である。また、私には敬愛する芥川龍之介の向こうを張った怪奇蒐集「淵藪志異」があるが、その中の「十五」は、私が直に沖縄出身の女性から聴き取った二重身で、自身は風邪をひいて学校を休んだのに、同級生がその日、ガジュマルの上にいる彼女と話しをしたという驚愕のもので、沖縄では「生きまぶい」(生霊の分離出現)と呼ぶ現象である。彼女がユタから受けたそれを鎮める呪法も、簡単だが、記してある。未見の方は、是非、読まれたい。なお、芥川龍之介自身、自ら自分のドッペルゲンガーを見たと、晩年に証言している。これは、二年前にブログで『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』として公開してある。これは、一つにネット上に、「芥川龍之介が自殺した原因は彼が自分のドッペルゲンガーを見たからである」などという、無責任極まりない非科学的な糞都市伝説が横行していることを正したいという思いから電子化したものであるが、未見の方は読まれたい。なお、「諸國百物語卷之一 十一 出羽の國杉山兵部が妻かげの煩の事」は本篇の転用である。因みに、近代幻想小説中で、離人症を扱った嚆矢は芥川龍之介が敬愛してやまなかった泉鏡花で、それは鎌倉を舞台とした「星あかり」(明治三一(一八九八)年八月発表)である(リンク先は昨年五月に公開した私の正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版である)。]

「曾呂利物語」正規表現版 第三 / 第三目録・一 いかなる化生の物も名作の物には怖るゝ事

「曾呂利物語」正規表現版 第三 一 いかなる化生の物も名作の物には怖るゝ事

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇には挿絵があるので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどくみえにくくなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。

 

曾呂利物語卷第三目錄

 

 一 いかなる化生(けしやう)の物も名作の物には怖るゝ事

 二 離魂と云ふ病(わづら)ひの事

 三 蓮臺野にて化物(ばけもの)に遇ふ事

 四 色好みなる男見ぬ戀に手を執る事

 五 猫またの事

 六 をんじやくの事

 七 山居(さんきよ)の事

 

 

曾 呂 利 物 語 卷 第 三

 

     一 いかなる化生の物も名作の物には怖るゝ事

 

 ある座頭、都の者にておはしけるが、

「田舍へ下り侍る。」

とて、山里を通りしが、道に行き暮れて、とある辻堂にぞ泊りける。

 弟子一人を召し具しけるが、夜半ばかりに、女の聲して、

「こは。何處(いづく)よりの客人(きやくじん)にて、渡らせ給ふぞ。妾(わらは)が庵(いほ)、見苦しくは候へども、是れに御入り候はんよりは、一夜(や)を明し給へ。」

と云ふ。

 座頭、

「御志(おこゝろざし)は有り難(がた)う侍れども、旅の習ひにて候へば、是れとても、苦しからず。其の上、早(はや)、夜の程もなく候間、參るまじ。」

と云ふ。

「さあらば、此の子を少しの間、預け參らせ候べし。」

とてさし出す。

「いやいや盲目の事にて候へば、御子(みこ)など、えこそ預り候まじ。」

と云へば、

「それは、情なし。すこしの間にて候まゝ、平(ひら)に賴み奉る。」

とて、さし出せば、弟子なる座頭ぞ、あづかりける。

 師匠の座頭、

「沙汰の限りなること。」

と忿(いか)りければ、

「少しの程。よも、別の事は、あらじ。」

とて、懷に入れにけり。

 扠(さて)、彼(か)の女は何處(いづこ)ともなう歸りぬ。

 とかくする中(うち)に、

「此の子、少し大きになり候は、如何に。」

と云へば、

「さればこそ、無用の事を、しつる。」

と云ひも敢へぬに、十二、三、四程に、なりぬ。

 

Satoumeisakunitetasukarukoto

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「めいさくのかたなにて命たすかる所」とある。]

 

 扠、座頭を頭(あたま)より喰(く)ひまはる程に、

「あら、悲しや、何(なに)となるべき。」

と、泣き悲しむ中(うち)に、はや、喰(く)ひ殺しぬ。

 斯かりけるところに、女、來り、

「何とてあの師匠の座頭は、喰はぬぞ。」

と云ひければ、「何としても、寄られ候はぬ。」

と云ふ。

 其の中(うち)に、座頭の家に傳はる三條の小鍛冶宗近(むねちか)を、琵琶箱より取り出して、

「何者なりとも、たゞ、一うちたるべし。」

とて、四方八方を、盲切りに、切り拂へば、あへて近づく者も、なし。

 しばらくあつて、彼の女は何處(いづく)ともなく、失せぬ。

 扠も、

『怖ろしき事にて、ありける物かな。』

と思ひて、猶も、脇差を離さで居(ゐ)たる中(うち)に、早、夜(よ)も明けぬ。

『さらば、立ち出でん。』

と思ひ、道にかゝりて、行く。

 又、女ありて、云ふやうは、

「座頭は何處(いづく)に泊られ候。」

と云へば、

「あれに候ひつる。」

と答ふ。

「それは。化物ありて、容易(たやす)く人の泊る所にては、なし。不思議の命、助かり給ふことから。此方(こなた)へ入らせ給へ。」

とて、吾が家(いへ)へ連れて行く。

 扠、

「彼(か)の脇差を、ちと、御見せあれ。」

と云ふ。

 座頭、分別して、

「此の脇差は、總別(そうべつ)、人に見せ候はず。」

とて、鎺元(はゞきもと)を拔きくつろげてぞ、ゐたりける。

 又、そばより云ふやう、

「見せずは、唯(たゞ)喰ひ殺せ。」

とて、數多(あまた)の聲こそ、したりけれ。

「扠は。化物、ついたり。」

と云ふ儘に、脇差を拔き、四方を拂へば、彼の者共、かゝり得ず。

 少時(しばし)、戰へば、眞(まこと)の夜(よ)こそ、明けにけれ。

 邊[やぶちゃん注:「あたり」。]を探れば、元の辻堂に、唯、一人ぞ、居たりける。

 それより、座頭、辛き命、助かりて、斯くぞ、語り侍るとぞ。

[やぶちゃん注:「諸國百物語卷之一 二 座頭旅にてばけ物にあひし事」は完全転用。

「夜の程もなく候間」「夜半」になっているから、「夜も程なく明くる頃合いで御座いますから」という謂いであろう。

「三條の小鍛冶宗近」は平安時代の刀工。当該ウィキによれば、『山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある』。『古来、一条天皇の治世、永延頃』(九八七年~九八九年)『の刀工と伝える。観智院本』「銘尽」には、『「一条院御宇」の項に、「宗近 三条のこかちといふ、後とはのゐんの御つるきうきまるといふ太刀を作、少納言しんせいのこきつねおなし作也(三条の小鍛冶と言う。後鳥羽院の御剣うきまると云う太刀を作り、少納言信西の小狐同じ作なり)」とある』。『日本刀が直刀から反りのある彎刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている』。『実年代については、資料によって』十~十二世紀と『幅がある』。『現存する有銘の作刀は極めて少なく』、『「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」』であるとある。

「總別」副詞で「総じて・概して・およそ・だいたい」の意。

「鎺元(はゞきもと)」刀剣などの鍔元(つばもと)。鎺金(はばきがね:刀や薙刀などの刀身の区際(まちぎわ:刀剣の柄に出ている本体の刃と背の部分)に嵌めて、鍔(つば)の動きを止め、刀身が抜けないようにする、鞘口の形をした金具を指す語。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 善光寺詣りの出處

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

 

   南 方 雜 記

 

     善光寺詣りの出處 (大正二年四月『鄕土硏究』第一卷第二號)

 

 牛に牽かれて善光寺詣りの話の出處ならんとて、『鄕土硏究』(第一卷一號三〇頁)に載せたる、釋迦如來、舍衞郊外、毘富羅山《びぶらせん》(「寫」は「富」の誤)說法の時、采女輩《うねめはい》が、花に牽かれて、佛の所に詣りし話は、隋朝に闍那崛多《じやなくつた》が譯せし「無所有菩薩經《むしようぼさつきやう》」卷四に出づ。但し、正しく牛に牽かれて如來詣りの根本は、劉宋の朝に所ㇾ譯〔譯す所〕の「雜阿含經」卷四十四に、一時佛住毘舍離國大林精舍、一時有毘利耶婆羅豆婆遮婆羅門、晨朝買ㇾ牛、未ㇾ償其價、即日失ㇾ牛、六日不ㇾ見、時婆羅門爲ㇾ覓ㇾ牛故、至大林精舍二一、遙見世尊坐一樹下。〔一時、佛、毘舍離國(びしやりこく)の大林精舍に住す。一時、毘利耶婆羅豆遮婆羅門(びりやばらずしやばらもん)有り。晨朝(あした)に牛を買ひ、未だ其の價(あたひ)を償(つぎな)はざるに、卽日、牛を失ふ。六日、見(あらは)れず。時に、婆羅門、牛を覓(もと)めんが爲め、故(ゆゑ)に、大林精舍に至り、遙かに世尊の一樹の下(もと)に坐せるを見る。〕其容貌・形・色の異常を見、敎化《きやうげ》を受け、出家得道せる由を載せたる、是なるべし。

[やぶちゃん注:熊楠の「雜阿含經」の引用は「大蔵経データベース」で校合した。熊楠は判り易くするに経典をいじっている。一部は復元した。

「牛に牽かれて善光寺詣りの話の出處ならんとて、『鄕土硏究』(第一卷一號三〇頁)に載せたる」「選集」に編者の割注があり、これは高木敏雄の論考「牛の神話伝説補遺」とある。

「毘富羅山」梵語「ヴィプラ」の漢訳で、原義は「広々と大きい」の意。王舎城を囲む五山の一つで、王舎城の東北に当たる。「雑阿含経」第四十九に「王舎城の第一なるを毘富羅山と名づく。」とあり、有名な山であったと、個人サイト「日蓮大聖人と私」の「女人成仏抄・第三章 経を挙げて六道の衆苦を示す」にあった。

「采女」ここは単に広く中・下級民の女性を、中国や本邦の食膳などに奉仕した下級女官のそれに仮に当てたもの。漢訳経典には多く出る。]

 これに反し、元魏譯「雜寶藏經」四に、人あり、亡牛を尋ねて、辟支佛が坐禪する所に至り、一日一夜、誹謗せし因緣で、後身、羅漢と成つても、所持品、悉く、牛の身分に見え、牛、失いし者に、「その牛。盜めり。」と疑はれ、獄に繫がるゝ話あり。牛に牽かれて罪造りと謂ふべし。

 また、「百喩經」(蕭齊の代に譯さる)に、愚人、所有の二百五十牛の一を、虎に殺されて、燒けになり、二百四十九牛を自ら坑殺《こうさつ》せし事あり。

[やぶちゃん注:「坑殺」地面に穴を掘って生き埋めにして殺すこと。]

 序でに言ふ。借りた物を返さぬ人、牛に生まれた話(『鄕土硏究』一卷三一頁)、佛經に見えたるを、二、三。擧ぐ。

 西晉竺法護譯「佛銳生經《ぶつえいしやうきやう》」卷四に、釋尊、過去世に轉輪王たり。其の舊知が、五十金を償ふ能はず、債主《さいしゆ》に、樹に縛られ、去るを得ざるを見、「之を、倍し、贖《あがな》ふべし。」とて、解かしめけるに、其人、「此外にも、尙、百兩の債あり。」と云ふを聞いて、「其をも。贖ひやるべし。」と誓ふ。扨、臣下、五十金を拂ひしも、百兩金を拂はず。彼《かの》人、死して、牛に生れ、前世の債主の爲に賣られんとする時、佛、來《きた》るを見て、牛、走り就《つい》て、前世の債金の支拂ひを求めし事、出づ。

 吳の支謙譯「犢子經《とくしきやう》」、又、晉の竺法護譯「乳光佛經」、ともに多欲の高利貸、死して、十六劫間《こふかん》、牛と生れ、釋尊の聲を聞いて、死して、天に生れ、次に羅漢と成り、二十劫の後、乳光佛となるべしと、佛が予言せし由を說けり。

 梁の僧旻《そうみん/そうびん》等の「經律異相」四七には、「譬喩經」を引き、借金一千錢不拂《ふばらひ》の人、三たび、牛に生まれて、業《ごふ》、なほ、了《をは》らず。二人、還さぬ覺悟で、牛の主人より、金十萬を借らんとするを立聞き、牛、自分を例證として、之を諫止し、解放されし譚を載せたり。(三月十八日)

[やぶちゃん注:「二人」「大蔵経データベース」で同巻を見て見たが、これ、意味不明。二人の人物が共謀して牛である自分を騙し取ろうとしたということか。

 底本では、以上で終わっているのだが、「選集」には、「追記」として以下の文章が載る。転記(新字新仮名)しておく。

   *

【追記】

 三十二年前、予が和歌山中学校で画学を授かった中村玄晴先生は、もと藩侯の御絵師で、いろいろ故実を知っておられた。ある日教課に、黒板へ少年が奔牛を追うところを描いた。予その訳を問いしに、この無智の牧童、逃ぐる牛を追い走るうち、日が暮れて、十五夜の月まさに出づるところを観て悟りを開いたのだ、と教えられた。呉牛月に喘ぐという支那の古言を、前に引いた、婆羅門(ばらもん)牛を尋ねて仏に詣(いた)り得道せし話に合わせて、作り出した話らしいが、今に出処を見出だしえぬ。

   (大正二年七月『郷土研究』一巻五号)

   *

「三十二年前」数えで計算しているとして、明治一三(一八八〇)年。南方熊楠満十四歲で、同中学校二年次。

「中村玄晴」不詳。

「今に出処を見出だしえぬ」南方先生、教師というのは、知っている知識を勝手に作り変えてオリジナルな話をでっち上げるのは特異なんですよ。私は朗読で演出はしましたが、捏造はしませんでしたがね。……私の伏木高校時代の古典の蟹谷徹先生は、中国の怪談話を、えらくリアルに面白く語って呉れたが、即日、図書室に行って漢文大系で読んでみたら、どれも原文の表現は痩せていて、怖くも何ともなくて、思わず、先生にその感想を正直に言ったら、ニヤりと笑って「そうでしたか。」と一言言って、満足げに去って行かれたのを思い出す。かくあれかし! 現役の国語教師よ!]

「曾呂利物語」正規表現版 第二 八 越前の國白鬼女の由來の事 / 第二~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

      八 越前國白鬼女(はくきぢよ)の由來の事

 越前國(ゑちぜんのくに)、平泉寺(へいせんじ)に住める出家、若き時、京うちまゐりを、おもひ立ち、彼方此方(かなたこなた)を見物して、歸りがてに、かいづの浦に泊まりしが、其の宿に、女旅人(をんなたびびと)ぞ、泊まり合はせける。

 かの出家、美僧なる故、件(くだん)の女、僧の閨(ねや)に行き、思ひ入りたる體(てい)なり。

『けしからず。』

とは思へども、其の夜(よ)は、一所(しよ)にぞ、宿りける。

 夜あけて、彼の女は巫女(みこ)にて、年の程六十ばかり、かみ、すほに、さも、凄(すさ)まじき姿なり。

 則ち、

「いづくまでも、御後(おんあと)を慕ひ申さん。」

とて、又、同じまとり[やぶちゃん注:ママ。岩波文庫版は訂して『泊まり』とする。]にぞ、つきにける。

 女房、伴ひ、寺に歸らんこと、いかにも迷惑に思ひければ、

「ここに、逗留し侍らん。」

とて、女を欺(あざむ)き、夜(よ)の明方(あけがた)に、「ひやきち」といふ所まで逃げのびぬ。

 巫女の事なれば、珠數(じゆず)を引き、神下(かみおろし)して占ひもてゆくほどに、やがて、追ひつき、かなたこなた、尋ぬれば、大きなる木の空(そら)にかゞみゐたるを、

「さてもさても、情けなきことや。とても、そなたに離るる身にてもあらばこそ。命の内は、離れまじきものを。」

と云ふ。

 僧、

「此の上は、力、なし。さらば、同道申さん。」

とて、いまだ夜(よ)をこめて、立ちいで、船渡(ふなわたり)の深みにて、取つて引き寄せ、其のまゝ、淵に沈め、平泉寺をさしてぞ、歸りける。

 くたびれける儘に、まづ、我が寮に入りて、晝寐(ひるね)をしゐたり。

 師匠の坊、

「新發意(しんぼち)、歸りたるに、逢はん。」

とて、寮へ行きて見れば、長(たけ)十丈ばかりなる白き大蛇、新發意を呑まんとて、かゝりけるに、何(なん)としてか持(も)たれけん、新發意、家に傳はるとて、よしみつの脇差しの有りけるが、己(おのれ)れと拔け出で、彼(か)の大蛇を、切り拂ふ。

 これ故、大蛇、左右(さう)なく、寄り得ず。

 其の體(てい)ぞ、見て、急ぎ歸り、人々をして、新發意をおこし、都の物語(ものがた[やぶちゃん注:ママ。])など申させ侍る。

 師匠、彼(か)の吉光を、常々、望みの有るに、また、奇特を見ければ、いよいよ、欲(ほ)しさぞ、まさりける。

 師匠も黃金作(こがねづくり)を持たれけるが、いろいろ、云ひて、よしみつに換へて、取りたりけるに、大蛇、思ひの儘に、寮へ、押し入り、彼の僧を、引き裂きて、やがて、食ひてげり。

 それより、彼(か)の所を「はくきぢよ」といふは、此のいはれとぞ、申し侍る。

[やぶちゃん注:「白鬼女」岩波文庫の高田氏の注に、『現在』、『福井県鯖江市の日野川東岸に、北陸道ヘ向かう白鬼女(しらきじょ)の舟渡しがあった』とある。現在、その渡しがあった附近にまさしく「白鬼女橋」が架かる(福井県越前市家久町(いえひさちょう)と鯖江市舟津町(ふなつちょう)を結ぶ。グーグル・マップ・データ)。同橋の右岸直近に「白鬼女観世音菩薩」の小さな堂(昭和三八(一九六三)年建立)がある。その説明板がサイド・パネルのこちらで読めるので、そちらを参照されたい。恐るべき鬼女伝説があったとする説が記されてある一方、この菩薩は「渡河往来の守り神」として古くに建立されてあったが、十七世紀末の大洪水で流出してしまった。ところが、昭和三十七年の災害復旧工事中に、直近下流の福井鉄道日野川橋梁から約八十メートル下流の川底の約三メートル下から菩薩像が発見され、今に至るとあった。菩薩像はこれ。なんとも惹かれる優しい菩薩像である。

「平泉寺」同じく高田氏の注に、『現在』の『福井県勝山市にあった天台宗霊応山平泉寺。白山の大御前(おおみさき)の山神を祀る。修験道道場』として名を馳せたが、明治の悪しき神仏分離で『白山神社と平泉寺に分離』されてしまい、結局、今は平泉寺白山神社(グーグル・マップ・データ)として残る。私も高校時代、奥の弁ヶ滝(べんがたき)まで延々と徒歩で両親と行ったことがある。

「かいづ」「海津」現在の滋賀県高島市マキノ町海津(グーグル・マップ・データ)。同前の高田氏の注に、『琵琶湖北岸。古代から大和、山城と北陸を結ぶ湖上運送の要港』とある。

「かみ、すほに」岩波文庫では「すほに」は『すぼに』とするが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本でも「すほに」である(左丁後ろから五行目冒頭)。高田氏は、『不詳。「髮すぼみ」(髮がばさばさになって、薄いさま)の訛か』とされる。

「ひやきち」同前の高田氏には、『不詳。地名であろう』とある。私も少し探してみたが、この部分、地方が示されておらず、滋賀から福井と広汎であるから、結局、諦めた。

「木の空」高田氏注に『木のてっぺん』とある。しかし、この部分、どうも表現が上手くない。「大きなる木の空(そら)にかゞみゐたるを」は、或いは、「大きなる木の空(そら)にかゞみ」たる、その根元に「ゐたるを」の意ではなかろうか?

「新發意」新たに発心して仏門に入った者。仏門に入って間もない僧を言う。

「十丈」三十・二九メートル。蟒蛇の類いである。しかし、寮の僧の内室で、この長さはちょっと無理がある。蟠っていたのを、推定で延ばして述べたものか。

「よしみつ」「吉光」粟田口吉光(あわたぐちよしみつ 十三世紀頃)は鎌倉中期に京都の粟田口で活動した刀工で、相州鎌倉の岡崎正宗と並ぶ名工とされ、特に短刀作りの名手として知られる。京都の粟田口には古くから刀の名工がいたが、吉光は、安土桃山時代に豊臣秀吉によって正宗・郷義弘(ごうよしひ)とともに「天下の三名工」と称され、徳川吉宗が編纂を命じた「享保名物帳」でも、正宗・郷義弘とともに、最も多くの刀剣が記載され、「名物三作(天下三作)」と呼ばれている。殆んどの作には「吉光」の二字銘を流暢に切っているが、年期銘のある作がなく、あくまで、親や兄弟の作からの類推で鎌倉時代中期に活動したと見られている(ウィキの「粟田口吉光」に拠った)。しかし、この「吉光」を口八丁手八丁で強引に取り替えさせた師匠、地獄に落ちるべきではあろう。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一四番 淵の主と山伏

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここ。]

 

   一四番 淵の主と山伏

 

 西磐井《にしいはゐ》郡戶河内《へかない》村に琴ケ瀧と云ふがあつて、其の近所に又琵琶(ビワ)ケ瀧と云ふがある。昔此の二つの瀧の淵に男と女の主《ぬし》が棲んで居た。或る時瀧のほとりを山伏が通ると、水際の大石に綺麗な女が腰をかけて憇(やす)んで居て、私を此の川上の瀧の所まで連れて行つてくれと賴んだ。山伏は承知して女を連れて其の瀧壺の所まで往くと、女は私は此所へ入りますが、此の事を口外してくれてはならぬと言つて靜かに瀧壺の中へ入つて行つた。斯《か》うして此の主どもは互に往來して逢瀨を樂しんで居た。

 所が其の山伏が次の村里へ行つて、偶然に其の事を人々に話してしまつた。それからは此の二つの主は永久に逢ふことが出來なくなつた。それと同時にまた其の山伏も石に化されて今でも其所に在る。山伏石と云ふのがそれである。瀧壺には今も主が居て、舊曆七月の何日かに、水のよく枯れた時などは其の姿が見えることがあると謂ふ。

  (大正九年七月一日附、千葉亞夫氏御報告分の一。)

[やぶちゃん注:「西磐井郡戶河内村」かの中尊寺の後背地の山間を「戸河内川」が流れるが、その周辺の旧村名。岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉町(ひらいずみちょう)平泉広滝(ひらいずみひろたき)に「戸河内公民館」もある(グーグル・マップ・データ航空写真:以下の無指示は同じ)。何より「ひなたGPS」の戦前の図で、「平泉村」の「戶河内(ヘカナイ)」という地名がはっきり見える。さて、現在の先の広滝を拡大すると、この地区内の戸河内川下流に「戸河内川の女滝」が、その上流の、河川遡上実測で五百メートル、陸の実測で三百八十メートル弱位置に「戸河内川の男滝」がある(意想外に、両者はかなり近い)。これが、本篇の舞台である。前者は休憩所もあり、整備されている。その「女滝」の方にある説明半板がサイド・パネルで読めるのだが、結末がちょっと異なる。山伏はこの瀧の主を化け物と断じ、村人を集め祈禱を行うと、二つの主が姿を現し(形状は語られていないが、瀧だから龍形だろう)、山伏と激しく戦ったが、遂に山伏の法力が勝ち、二人の瀧の主は、『滝のほとりの黒い大きな石になったという。そして法力を使い果たした山伏も石となったという』とあるのである。とすれば、どこかに石は三つあるはずだが、その写真は、残念ながら、ない。もう現存しないのかも知れない。さて、では「男滝」も見てみよう。こちらにも標柱はあり、説明板もあるのであるが、ここは少し荒れており、説明版も摩耗している。それを読むと、嘗ては『渓流を走りおりてきた川水が落差三十尺(約十メートル)の淵(ふち)』()『に一条の銀色に輝きながら一気に流れ落ち霧を生じ雲と変じる様子は雄大で雄滝の名にそむかないものでした』とあり、さらに、「ありゃ?」という違った伝承と、意外な民俗資料が記されてある。『この滝の主神(ぬし)は、連銭芦毛(れんせんあしげ)の馬にまたがり、時折りその雄姿を瀑下(ばっか)に現わしました。又常に滝の底を往来して達谷の姫待滝に通うと言い伝えられていました』。『それ以来、戸河内と達谷の滝の上では、芦毛や白毛の馬を飼う家はありませんでした』とあるのである。びっくりするのは、ここにあるこの「雄滝」の主が通う「達谷の姫待滝」は「女滝」ではなく、達谷窟毘沙門堂の下流にある滝で、男滝からは、まさに真北に谷に入り、相応のピークの尾根を幾つか経た直線でも三キロメートルはある「姫待滝」なのである(或いは、「雌滝」は異界の通路であって「姫待滝」に続いているという伝承もあるのかも知れないが。なお、この「姫待滝」の由来は悪路王絡みで、ご存知ない方は、簡潔であるが、サイト「中世歴史めぐり」の「姫待不動堂~平泉:達谷窟毘沙門堂~」を見られたい)。

「琴ケ瀧と云ふがあつて、其の近所に又琵琶(ビワ)ケ瀧と云ふがある。昔此の二つの瀧の淵に男と女の主が棲んで居た」この部分の記載順列に疑問があるが、楽器から見て「琴ケ瀧」が現在の「雌滝」で、「琵琶ケ瀧」が「雄滝」であろう。「雄滝」は前に示した説明板によって、現行(サイド・パネルに瀧と上空からの動画もあるが、十メートルの落差は今はない)と異なり、相応の瀑布であったらしいから、琵琶の方が相応しいと考えたからでもある。

「千葉亞夫」不詳。名は「つぎを」「つぐを」と読むか。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三番 上下の河童

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     一三番 上下《かみしも》の河童

 

 

 ある男が、夕方急いで川端の途を通ると、一人の男が雜魚(ザツコ)釣りをして居て、其の男を呼び止めて、下の方の淵のほとりにも一人の雜魚釣りが居る筈だから、此の手紙を屆けてくれと言つて、一封の手紙を男に託した。

 男は何氣なしに、一曲り曲つた淵のほとりに居る雜魚つりの男に其の手紙を渡すと、默つて開いて見て居たが、一寸待つてくれ、今淵に落しものをしたからと言つて、ザンブリと淵の中へ飛び込んだ。暫くすると出て來て、俺は本當は此の淵に居る河童だが、實は今川上の河童から、此の男は紫尻でうまいアセだから捕つて食へと言つて來たけれども、お前が餘り正直だから、捕つて食ふどころか、かへつて此の寶物をやると言つて、黃金包《こがねづつみ》みをくれた。そして此の事は誰にも言つてはならぬぞと言つて、河童は再び淵の中に入つて行つた。

 それから此の男は金持ち長者となつた。

  (田中喜多美氏の御報告分の三。摘要。大正十五年六月、田植の時、簗場《やなば》留藏より聽いたもの。此の人、元御所《ごしよ》村の生れだと云ふ。)

[やぶちゃん注:最後の附記は全体が二字下げポイント落ち。

「紫尻」水怪は、尻に青や紫の痣のある人間が食用のお好みのようである。「一二番 兄弟淵」の「靑臀」の私の注を参照。

[やぶちゃん注:「アセ」この語源は、方言ではなく、上古よりの古語である「吾兄(あせ)」ではあるまいか。二人称代名詞で、女子が男子を親しんで呼ぶ語であり、上代の歌謡では、多く間投助詞「を」を伴って歌の囃子詞に用いられてある。

「田中喜多美」既出既注

「大正十五年」一九一六年。

「御所村」現在の御所湖を中心とした岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)及び岩手県盛岡市繋(つなぎ:グーグル・マップ・データ)の旧村名。]

2023/03/24

早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「女を追ふ蛇」・「蟻に化した蛇」・「砂を吐く蛇」・「蛇の神樣」・「兩頭蛇」・「トカゲを追ふ蛇」・「蛇の苦手」 / 蛇の話~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから

 以下に出る蛇の各種は、回の記事の私の注を見られたい。

 なお、これを以って「蛇の話」パートは終わっている。]

 

 ○女を追ふ蛇  女が石垣の上から小便をすると、蛇が陰部へ這入《はい》るなどゝ謂ひます。昔、ある處で、女が石垣の上から小便をして、其處を行過《ゆきす》ぎようとすると、石垣の間から蛇が頸を出して追ふので、通る事が出來ずにゐると、其處へ一人の武士が通りかゝつて、石垣の蛇のゐる穴の上に刄《かたな》を十字に擬して女を通してやると、蛇が四つに裂けながら、女の後を追つて行つたと云ふ話もあります。

[やぶちゃん注:dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-』の「蛇と女(蛇が女性に侵入する時…。)」に、筆者の『高校時代に、遠野は小友町の荷沢峠で』起った、バス・ガイドの女性の陰部にマムシが侵入し、彼女は亡ったという、驚天動地の事件が記されてあった。古い説話集にも類似譚は数多ある。そちらでも紹介されてある「耳嚢 蛇穴へ入るを取出す良法の事」も私のものをリンクさせておく。]

 

 ○蟻に化した蛇  所は忘れましたが、ある家でツバメの巢へ蛇が來ては、卵をとつて仕方がないので、其蛇を殺して、土中に埋めました。處が、それから蛇は少しも來なくなりましたが、その代りに、ツバメが少しも育たないのに、不審に思つて巢を檢《あらた》めると、澤山の蟻が來て、ツバメの子をみんな食ひ殺してゐましたので、だんだん其蟻の來る道を辿つて行つて見ると、前に蛇を殺して埋めた場所へ行つてゐるので、其處を掘り返してみたら、蛇の體が蟻になつてゐたなどゝ云ふ話がありました。

 

 ○砂を吐く蛇  之も母から聞いた話ですが、ある處で、蛇が鷄の巢に來て、卵を呑んで仕方がないので、その家の若者が、卵の殼に砂を詰めて鷄の巢に置くと、蛇が其を知らずに呑んでしまつたと謂ひます。其後蛇が背戶口に出て、其砂を吐き出して置いて行つたのを、若者が知らずに踏付《ふみつ》けると、其日から足か[やぶちゃん注:ママ。「が」の誤植。]痛み出して、どんなに療治しても治らず、しまい[やぶちゃん注:ママ。]にビツコになつたと言ひます。八名郡の宇里と云ふ所にもかうした話があつた事を聞きました。

[やぶちゃん注:「八名郡の宇里」愛知県新城市富岡を中心にした旧村のことと思われる。そのグーグル・マップ・データの地区を貫流する川は「宇利川」で、東方域外に「宇利城跡」も確認出来る。]

 

 ○蛇の神樣  鳳來寺村字門谷《かどや》の、里人が白岩樣と呼ぶ神樣は、お神體が蛇で、此神に願《ぐわん》を掛けた時は、お禮に白米を供へると云ひます。昔は蛇が姿を見せて其米を喰べたと云ひますが、現今は蛇の體が大きくなつた爲め、穴より外に出る事が出來なくなつて、里人にも見る事は出來ないと謂ひます。此神が、門谷の庚申堂の尼に思ひをかけて美男に化けて每夜尼の許へ通つた爲め、尼は日每に衰弱して遂に死んでしまつたなどゝ云ひました。其尼の許へ通つて來る若い男の姿を見たものはあつても、白岩樣と知るものはなかつたのを、尼が自慢に、附近の者に、話したとも謂ひます。近年此神に靈驗ありと傳へて、立派な御堂などを寄進するものがあつて、非常な繁盛をしてゐると話を聞きました。

[やぶちゃん注:「門谷」既出既注

「白岩樣」「早川孝太郎研究会」の本篇(PDFの注に、三葉の写真入りで、『門谷の鳳来寺表参道の一番奥、そこからは石段が始まる所の右方に、雲竜荘という宿屋があります』(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)『その雲竜荘の駐車場から、如何にも蛇が棲みそうな、苔生した大小の岩が積み重なった間にある石段をのぼって行くと、白岩大龍王のお幟が立っていました。龍になってしまってはよほどの穴でないと出て来れないと思います。その分、霊験も大きくなったと思われますので、願い事がある人は一度お参りしてはいかがでしょうか』という解説があった。何時か、行ってみたい。]

 

 ○兩頭蛇  兩頭蛇と云ふ奴は、蛇が蛇を呑んで、呑まれた奴が、呑んだ方の腹を食ひ破つて頭を出して、出來ると謂ひます。この蛇を人間が見つけた時は、中央から二つに切つてやるものだと謂ひます。

 橫山の山口豐作と云ふ男が、相知刈《あひちがり》と云ふ所の山で仕事をしてゐると、傍で、縞蛇の大きな奴が、同じ大きさの山かゞしを、半分程呑みかけてゐたそう[やぶちゃん注:ママ。]ですが、一日仕事をして、夕方歸りがけに見ると、まだ全部呑み切らないでゐたさうです。蛇が仲間喰いする事は珍しくないと見えて、或年、籔坂と云ふ所を通りかゝると、丈三寸ばかりの小蛇を、同じ山カヾシが、頭から呑みかけてゐるのを實見した事がありました。又子供の頃、雨乞ひをするとて村の辨天の池の水を替へて、岸へ上つて休んでゐると、烏蛇の四尺ほどもある奴が、同じ程の縞蛇を追ひかけてゆくのを見た事がありました。

[やぶちゃん注:古いところでは、「谷の響 二の卷 十七 兩頭蛇」の私の注で、頭部の二重体奇形である双頭の蛇の話に触れてあり、最近のものでは、二〇二一年八月の、やはり二重体の絵入りで、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩頭蛇』があるので、見られたい。無論、早川氏の言われる通り、蛇は、よく共食いをするので、その呑まれた蛇が、いちばんありそうなのは、腹を食い破るのではなくて、蛇の総排泄腔から頭を出した状態のものであろうか(小さな頃にぼろぼろになるまで眺めた図鑑に貪欲なヤマメが蛇を飲み込み、肛門からそれが首を出している絵を思い出す)。

「相知刈」既出の「相知の入」はここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の左の上方に『字相知ノ入』とあるこの地区の内か、辺縁と推定される。]

 

 ○トカゲを追ふ蛇  私が少年の頃、村の寄木と云ふ所の道を通りかゝると、道に沿つて赤土を掘り取った跡に、靑大將が、赤土の面《おもて》に頸を突込んでをるのを見かけ、不審に思つて二三間[やぶちゃん注:約三・六四~五・四五メートル。]離れた場所から見てゐると、蛇の首から五寸許りはなれたところの土がポンと跳ね上がつて、其處から一疋の、大きなトカゲが飛び出し、道に向けて走つて來ました。蛇もあとから追つて來て、幅二間程の道を橫ぎつて、あと二尺程で、反對の側の草むらにトカゲが逃げ入るかと思ふ時、私の眼にも、トカゲが跳ね上つたと思はれましたが、そのまゝトカゲの姿が見えなくなりました。蛇も見失つたと見えて、其處に留まつて、頸を高く上げた儘頻りに胸の邊りを波打たせてゐました。私にも、トカゲが草むらの中へ這入つた樣にも思はれないので、不思議に思つてよく見ると、トカゲは體を一つ𢌞轉して、蛇の胸の下に、腹の方に頭を向けてこれも胸を波打たせて、ぢつと、すくんでゐました。蛇が今一寸程動けば腹がトカゲの頭に觸れる處です。危機一髮[やぶちゃん注:底本では、「危」がない。誤植。『日本民俗誌大系』版で補った。]とでも云ひましようか、何とも言へず此爭ひが怖ろしくなつて、そつと足を後《うしろ》に運んで逃げ歸りましたが、暫くしてから再び其處へ行つて見た時は、もう何も居ませんでした。

[やぶちゃん注:四箇所の「トカゲ」の太字は底本では傍点「﹅」。但し、「私の眼にも、トカゲが」の箇所は底本では傍点がずれて、「も、ト」の部分に振られてあったので、訂した。なお、後の「トカゲ」には傍点はない。それにしても、この観察力は民俗学者のそれというより、生物学者のそれである。最後まで見届けられなかったのは、早川少年のトカゲが襲われるかもしれない悲惨の瞬間を見られない優しさ故である。柳田國男なんぞのインキ臭い奴らの及ぶところではない。素晴らしい!

「寄木」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川右岸に『(ヨリ木)』とあるのが判る。グーグル・マップ・データ航空写真のこの中央附近と推定する。]

 

 ○蛇の苦手  人間に、ニガテと云ふ特殊な手の所有者があつて、此ニガテの者に握られると、蛇の自由が利かなくなると謂ひます。それは男にも女にもあつて、ニガテの人の子供が、必ずしも、ニガテとは定まらぬやうです。或人は、掌の筋が特別な形をしてゐるとも云ひましたが、私の實驗では、それも判然と區別はされぬやうに思はれます。現在私の記臆の中にも、女に一人、男に二人、此ニガテの所有者があります。

 ナメクジの肌が觸れると蛇の體が腐るとは矢張り言ふことですが、百足は蛇の急所を知ってゐて、百足と蛇と爭ふ時は、蛇が急所を刺されて、非常な苦しみをすると云ひますが、果して急所は、どこであるか聞いた事はありません。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『もしかしたらニガテ?? ◆◇マムシの掴みかた教えます◆◇』という、写真入りの伝授注がある。是非、見られたい。因みに、私は「ニガテ」の持ち主であるのかも知れない。幼稚園から小学一年の間、私は、父母が外交官であった伯父の甥っ子らを預かった関係上、練馬の大泉学園で二年半ほど過ごした。幼稚園から帰ると、友だちと一緒に近くの白子川沿いにある弁天池に遊びに行くのが常だった。周囲は田圃(半ばは休耕田であった)の広がる葦原と湿地で、水田の中にはシマヘビが鏡花好みなほど、さわに、いた。友だちと私は、その中の大物を捕るのを一番の楽しみとした。最後に首を持って垂らし、長さを競ったものだった(その後は、自然に返してやった)。一度も恐ろしいと思ったり、咬まれたことはなかった。今でも私は蛇を全く以って怖いとは思わないのである。

早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「引越して行つた蛇」・「群をした蛇」・「ヒバカリの塊り」・「烏蛇の恨」・「ツト蛇」・「人の血を吸ふ蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから

 以下に出る蛇の各種は、前回の記事の私の注を見られたい。]

 

 ○引越して行つた蛇  橫山の字池代(いけしろ)、柳久保と云ふ所の田の畔に、山カヾシの大きな奴が居るとは、私の祖父の若い頃からの言ひ傳へたさうですが[やぶちゃん注:ママ。『日本民俗誌大系』をみると、「だ」となっているので誤植。]、私の父なども、每年二三囘は必ず見かけたと云ひました。大蛇と云ふ程ではないが、長さが二間[やぶちゃん注:約三メートル六十四センチメートル。]程あつたと謂ひます。草刈りに行つて見た者の話には、草むらの中に長くなつてゐるので、蛇の居るまわりだけ草を刈り殘して、他の部分を刈つてゐると、蛇がいつか刈り取つた方へ引き移つてゐるので、後から殘した處を刈つたと云ひます。その蛇がこの二十年來、見えないのは、餘り軀が大きくなつたので、何處か、深山へ引越したのだらうと云ひましたが、其後、村の山口伊久と云ふが、近くの山で、藤蔓を採つてゐて見た蛇が、それだらうと云ひましたが、それ以後は、見かけた事を聞きません。

 私の家の前の石垣に、每年秋の彼岸頃に姿を見せる、三疋一交《つが》ひだと云ふ山カヾシがありましたが、これが近年何處かへ引越したものか、居なくなつたさうです。大分遠方迄遊んで步くと見えて、澤を越して五六町[やぶちゃん注:約五百四十五~七百六十四メートル。]も隔つた場所に遊んでゐるのを見た事がありました。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「橫山の字池代」現在の愛知県新城市横川池代(よこがわいけしろ:グーグル・マップ・データ)

「柳久保」不詳。現在、新城市海老柳久保(えびやなぎくぼ)があるが、ここは横川地区を外れた、ずっと北にあるので、ここではない。消えてしまった池代地区の小字のようである。

「長さが二間」は錯覚の類いである。ヤマカガシは最大長でも一メートル五十センチである。]

 

 ○群をした蛇  蝮《まむし》は魔虫《まむし》だから、これを殺して、桑の木(楊《やなぎ》とも云ふ)や、ウツギの木で皮を剝ぐと、其處いら、一面の蝮になると云ひます。橫山の早川定平と云ふ四十年前に亡くなつた男の話ださうですが、此男が若い時、家を壞したあとの、古木の積み重ねた下から、蝮が一ツ頭を出してゐるのを見つけて、殺して皮を剝ぐと、同じ場所にまだ一ツ頭を出してゐるので、其も殺して皮を剝ぐと、あとから後から、同じやうに一ツ宛居るのに、たうとう十三迄殺してもまだ一ツ同じやうに居るので、豪氣な男故、何程居るのかと言つて、棒切《ぼうきれ》で、其の木を持ち上げてみると、中に何百と數知れぬ蝮がゐたと謂ひます。

  何等か眼のせいで、假に蝮に見えたのではなからうかと云つて、殺した蝮を串にさして、軒に吊るして置いたさうですが、何時迄たつても、蝮に變りはなかつたと謂ひます。其時何の木で皮を剝いだか聞きませんが、蝮には、斯うした話が、他にも三ツ四ツあります。

 現今八十餘歲になる小野田ぎんと云ふ老婆の話ですが、此老婆が子供の頃、村の北澤と云ふ幅一間半[やぶちゃん注:約二・七三メートル。]ほどの小川の岸で、山口豐作と云ふ友達と遊んでゐると、川下から、何千と數知れぬ蝮の群が、ぞろぞろと水も見えない程登って來るのを見て恐ろしくなって、近くの家の、早川彌三郞と云ふ男を呼んで來ると、其男が棒切れを持つて、岸に這ひ上らうとする蝮を、拂落《はらひおと》としたと云ひますが、大部分は、川上へ登つて行つたさうですが、後から後から果てしなく續いて來るので、一旦家へ歸つて、再び行つて見た時は、もう一ツも居なかつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「桑の木」バラ目クワ科クワ属 Morus は変種や品種が多いが、本邦で一般に自生するそれは、ヤマグワMorus bombycis である。「どどめ」と呼ばれるそれを、小さな頃は裏山でとって食べたのを思い出す。美味いけれど、唇や舌が強力な紫色に染まり、習合果の粒々の間の毛が、舌にイライラしたのものだった。

「楊」キントラノオ目ヤナギ科 Salicaceaeの本邦種は三十種を越えるが、単に「やなぎ」と呼んだ場合は、ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica を指すことが多い。

「ウツギ」ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata 。初夏に咲く「卯の花」は本種である。和名は「空木」で、幹(茎)が中空であることに由来するとされる。私が中・高を過ごしたのは富山県高岡市伏木の二上山麓で、しばしば山中を跋渉したが、この花を見つけると、人気のない山中でも心落ち着いたことを思い出す。

「北澤」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川に「北澤」と指示がある。「ひなたGPS」のこの小流れがそれである。]

 

 ○ヒバカリの磈り  ヒバカリは、奇麗な赤色をした小蛇で滅多に居ない蛇ですが、これに咬まれると、その時刻が朝なれば夕方、夕方なれば朝までしか壽命がないから、それでヒバカリと云ふのださうですが、咬まれて死んだと云ふ話は聞いた事はありません。

 私の母方の祖父が子供の時、八名郡山吉田村字新戶の實家の裏の畑で見たと言ふのは、ヒバカリが、一ツの大きな磈《かたまり》になつて、轉がつてゐたさうですが、一ツ轉がつては、全部の蛇が頭を上げて、あたりを見たと謂ひます。附近からは、何處から來るともなく、無數ノヒバカリが、ゾロゾロと其れに向かつて集つて來たと云ひますが、遠い所から來るやうにはなく、ふつと其所いらから、湧《わい》て來るやうに見えたさうです。家の人達が全部仕事に出たあとで、隣の子供と見て居て、何時迄も果てしがないのに、一旦家へ入つて、再び出て見た時は、もう一ツも居なかつたと謂ひます。

 ヒバカリに限らず、どんな蛇でも、かうして磈になつてゐる時は、中に玉を持つてゐて其玉を人が奪つて來ると、金銀が自然に集つて來るなどゝ謂ひます。又其磈の中へカンザシを入れてやると、其玉を置いて行くとも謂ひます。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。ヒバカリが無毒蛇であること、その誤った和名の由来は前回の私の注でも示しておいた。]

 

 ○烏蛇の恨《うらみ》  蛇が鐮首(頸を高く上ける事[やぶちゃん注:「け」はママ。「げ」の誤植。])を上げて怒つた時は、ちよつと撲《う》つても、すぐ頸が飛ぶといひます。飛んだ頸は必ずさがして殺して奥ものと謂ひます。

 烏蛇は、蛇の中でも最も執念深く、又强いものださうで、これに馬の沓《くつ》を投げつけると、すぐ鐮首を上げて追ふと謂ひ、とりわけ芦毛馬《あしげうま》の沓には、怒つて果しなく追ふさうです。ある時、山吉田村の滿光寺の小坊主が、門前に遊んでゐて、烏蛇を見つけ、馬の沓を放りつけた所が、何處までも追つて來て、遂に逃げ場がなく、本堂の須彌壇《しゆみだん》の上に驅け上がつたので、蛇がすべつて登ることが出來ないでゐると、其物音を聞きつけた方丈が、此有樣を見て、掃木《はうき》を持つて來て、其蛇を拂ふと、蛇の頸が飛んで行衞が知れずなつたと云ひます。其夜から小坊主が發熱して頻りに渴きを訴へるので、寺女が水甕の水を汲んで來ては飮まして介抱してゐると、明方になつて遂に息が絕えたと謂ひます。朝になつて、其女が水甕の傍へ行くと、甕の中で何か音がするので、覗いて見ると、中に前日の蛇の頭が泳いでゐたといふ事です。

 同じ村の豐田某と云ふ農夫(名前を聞きたれ共《ども》記臆せず)が、秋、山間の田で仕事をしてゐて、烏蛇を見かけ、馬の沓を放りつけると怒ると言ふ話を思ひ出して、投げつけて見ると、果して鐮首を上げて追つて來たので、素早く稻叢《いなむら》の影に隱れて待つてゐて、追つて來た蛇を鍬で打つと、矢張り頸が飛んで其行衞が知れなくなつたので、其日は仕事を中止して家へ歸つて、再び其處へは行かなかつた。ところが、翌る年の春、そんな事は忘れてしまつて、雨の降る日に、其田へ行つて春田(春、田を耕す事を春田と云ふ)をしてゐると、「何處からともなく幽かなうなり聲がすると共に、小石程のものが、咽喉の所へ飛んで來て、ぶつかつたので、簑を脫いで檢《あらた》めると、一つの蛇の頭が、簑の紐に喰付《くひつ》いてゐたと謂ひました。大方《おほかた》秋の頃殺した烏蛇の頸が、恨みを晴らしに來たのが、簑を着てゐた爲、咽喉に喰付く事が出來なかつたのだらうと云ふことでした。私の母が子供の折、本人から聞いたと謂ひました。

[やぶちゃん注:ここで早川氏が挙げた二話は、本書の中でも、近代怪談譚として自信を以って推薦出来る優れたリアルなホラーと言えるものである。

「烏蛇」は既に述べた通り、アオダイショウの異名である。

「山吉田村」現在の愛知県新城市下吉田五反田山吉田(グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近の広域旧村名。

「滿光寺」愛知県新城市下吉田田中に現存する曹洞宗青龍山満光寺。本尊は十一面観世音菩薩。

「須彌壇」仏像を安置する台座。仏教の世界観で、その中心に聳える須彌山(しゅみせん)に象ったことが名の由来。

「方丈」もとは禅宗で寺の長老・住職を指す。後に他宗でも、かく呼ばれた。]

 

 ○ツト蛇  ツトツコとも、槌蛇《つちへび》とも謂ひます。ツトのやうな格好だとも、又槌の形をしてゐるとも、槌のやうに短かいのだとも謂ひます。蛇の頸ばかりになつたのが、死なゝいでゐて、其れに短かい尾のやうなものが生へるのだとも謂ひます。山や、澤などにゐて、非常な毒を持つたもので、これに咬まれると命はないなどゝ謂ひます。私の母の幼友《をさなとも》だちは、この蛇に咬まれて一日程患つて死んだと聞きましたが、それは澤にゐたのだと謂ひました。東鄕村出澤の鈴木戶作と云ふ木挽《こびき》の話でしたが、鳳來寺村門谷《かどや》から、東門谷と云ふ所へ行く道で、某と云ふ男が見たのは、藁を打つ槌程の大《おほき》さで、丈《たけ》が二尺ほどのものであつたと謂ひます。道の傍の山を、轉がつてゐたと云ひました。

 澤などにゐるのは、蛇ではなく、鰻の頭ばかしなのがなつたのだと云ふ人もありました。

[やぶちゃん注:所謂、幻の空想の異蛇「つちのこ」である。古くから「野槌」などと呼んだ(当該ウィキによれば、鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」には、『徳のない僧侶は深山に住む槌型の蛇に生まれ変わるとされて』おり、『生前に口だけが達者で智慧の眼も信の手も戒めの足もなかったため、野槌は口だけがあって目や手足のない姿』なのだとあるとし、「古事記」「日本書紀」に登場する『草の女神』とされる『カヤノヒメの別名に野椎神(ノヅチノカミ)があ』るとし、『記紀神話にはカヤノヒメを蛇とする記述は見られないものの、夫のオオヤマツミを蛇体とする説があることから』、『カヤノヒメも蛇体の神だと考えられている』とはある。しかし、これらを以って、上代や鎌倉まで「ツチノコ」のルーツが探れるとするのは如何なものかと私は思う。例えば、「沙石集」のそれは、所持する岩波文庫版(一九四三年刊)で示すと、『野槌(づち)といふは常にもなき獸なり。深山の中に希にありと云へり。形大にして、目鼻手足もなくして、只、口ばかりある物の人をとりて食ふと云へり。是は佛法を一向名利のために學し、勝負諍論して、或は瞋恚を起し、或は怨讎を結び、慢憍勝他等の心にて學すれば、妄執のうすらぐ事もなく、行解のおだやかなる事もなし。さるままに、口ばかりわさかしけれども、知惠のもなく、、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかるをそろしき物に生たるにこそ。』とあり、口だけの存在とあって、蛇とも言っていない。而してこれは、仏僧が架空した不心得の学僧の畜生道に落ちたもののカリカチャアに過ぎず、「つちのこ」の正統なる祖先とはとても言えないのである)、奇体な全くの未確認蛇類である。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇崇拜(18:野槌)」の私の詳細な注を見られたい。但し、私は実在を全く信じていないので、悪しからず。

「ツトツコ」「ツト」は「苞」で、土産や携帯用の、藁などで包んだ入れ物。「野槌」は、首と短い尾以外の胴体部は、五平餅をややスマートにした形状で、全体にずんぐりむっくりして、まさにその「苞」に似ているとされたことによる。

「東鄕村出澤」横山の寒狹川の対岸の、現在の愛知県新城市出沢

「鳳來寺村門谷から、東門谷と云ふ所へ行く道」「門谷」は鳳来寺の門前町を含む鳳来寺山の周囲の地域を指す。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。「東門谷」はその南東部の山間。「ひなたGPS」の戦前の地図と、現在の国土地理院図でも地名が確認出来る。]

 

 ○人の血を吸ふ蛇  靑大將は、人家の天井にゐて、病人などの血を吸ふと謂ひます。さうした時は、病人の體から、見えるともなく、糸のやうなものが、するすると天井に昇つてゆくなどゝ謂ひます。

 鳳來寺字長良の、ある家の隱居が、久しく患つてゐて格別何處が惡いと云ふのでもなく、每日炬燵にばかり這入つてゐて、だんだん衰弱して行くので、家の中が陰氣でならないからと、春の彼岸に家の大掃除をやり、九重《ここのへ》の守《おまも》りと云ふものは、靈驗があると云ふ噺を聞いて、近くの村にあるのを借りて來て祀つて置いて、其れから一ケ月程たつてから、何となく炬燵の中が氣味が惡いから、一度檢《しら》べて吳れと、老人が再三訴へて聞かないので、炬燵の檐[やぶちゃん注:ママ。『日本民俗誌大系』版の当該部を見ると、『櫓(やぐら)』となっていて誤植と判る。]を取除《とりの》けて見ると、中に靑大將の三尺程もあるのが、二つ丸くなつてゐたと云ふことでした。大掃除をした時には更にそんな物の姿は見かけなかつたと謂つて不思議がつてゐました。蛇は、二つ共裏口の方へ逃げてしまつたさうですが、病人は、其れからめきめき全快したさうです。

[やぶちゃん注:「鳳來寺字長良」前にも疑問を掲げたが、これは「長樂」の誤りではなかろうか。旧鳳来寺村には「長良」はなく、「長樂(ながら)」ならあるからである。「ひなたGPS」のこちらを見て戴くと、現在も地名として生きていることが判る。

「九重の守」サイト「奈良寺社ガイド」の「天川村」の「最強のお守り 九重守」に、『大峰山系中七十五靡(なびき)中の神仏像数基を壱巻の軸に修録した霊験あらたかなるお守りで』、『家庭内に困難・心病の極限に当たった場合、この守軸を開封すればご利益ありと伝えられ』、因みに、『一度も開封しなければ、一家が無事平穏で安泰だった証明』とある、こりゃまた、完全万能なる御守りのことらしい。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 長柄の人柱 / 「話俗隨筆」パート~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた(今回は例外あり)。

 なお、本書の「話俗隨筆」パートはこれで終わっている。]

 

     長 柄 の 人 柱 (大正四年二月『民俗』第三年第一報)

        (『民俗』第二年一報三二頁參照)

 

 雉を射つるを見て瘖女《おしをんな》が初めて聲を出した話は、支那にも有る。「左傳」に、賈大夫惡、娶妻而美、三年不言不笑、御以如臯、射雉獲之、其妻始笑而言〔昔、賈の大夫、惡《みに》くし。妻を娶つて美なり。三年、言(ものい)はず、笑わず。御(ぎよ)して以つて皋(さhじゃ)に如(ゆ)き、雉を射て、之れを獲(う)。其の妻、始めて笑ひて言(ものい)ふ。〕と晉の叔向が言《いつ》た其頃以前よりの傳說だ。

[やぶちゃん注:「選集」では、標題の後の「(『民俗』第二年一報三二頁參照)」の代わりに、『藤田好古「長柄の人柱」参照』とある。藤田好古は不詳。

「射中つる」「選集」では『射』(い)『中(あ)つる』とある。

『「左傳」に、賈大夫惡、……』「中國哲學書電子化計劃」の「春秋經傳集解」の「六」の影印本(ここから次の画像まで)で校合し、修正を加えた。「春秋左氏傳」の魯の第二十五代君主昭公二十八(紀元前五一四年)の秋の記載の中の知られた挿入譚。「賈」は国名で、西周から春秋時代(紀元前十一世紀~紀元前六七八年)の諸侯国。

「羊舌肸」(ようぜつきつ 生没年不詳)は春秋時代の晋(紀元前十一世紀~紀元前三七六年)の公族・政治家。姓は姫、氏は羊舌、諱は肸。]

 又、長柄長者《ながらちやうじや》が、「袴につぎの當りたる者を、牲《いけにへ》にすべし。」と言《いふ》て、自ら牲されたと言ふに似た事は、西洋にも有る。ヂドが、智略もて、カーセージ市を建てた後(『民俗』二年一報二八頁に出《いづ》)、蠻王ヤルバス、其强盛を妬み、カーセージの貴人十人を召し、「ヂド、吾に妻たるべし。しからずんば、兵戈《へいくわ》相見えん。」と言た。十人の者、還つて、事實をジドに語るを憚り、詐《いつはり》て、「『誰なりとも、一人、カーセージより、ヤルバス方へ[やぶちゃん注:底本は「カーセージよオリヤルバス方え」であるが、「選集」で訂した。]來て、文明の作法を敎《をしへ》て欲しい。』と望まれた。」と報ずると、誰も蠻民の中へ[やぶちゃん注:底本は「え」。同前。]往《ゆか》うと[やぶちゃん注:ママ。「といふ」。]望み手が無《なか》つた。ヂド、之を見て、「自國の爲となら、生命すら辭すべきでない。」と一同を叱る。十人の者、「左樣なら、實を述べん。」迚《とて》、「彼《かの》王、ヂドと婚《えんぐみ》せん。然らずば、此國を伐つべし。」と言つた、と語る。ヂド、「今は駟《し》も舌に及ばず、何とも辭せん樣《やう》も無いから、如何にも國の爲に、吾、彼《か》の王の妻となるべし。」と言て、準備の爲とて、三ケ月を過す。其間、市の一端《ひとすみ》に柴を積み、婚嫁[やぶちゃん注:底本は「婚家」。「選集」を採用した。]の期、到りて、畜《かちく》を多く牲し、斯《かく》て、亡夫アセルボスの靈を鎭むと云た。其から、一劍を提《とり》て、柴、堆《つん》んだ上に登り、人民に向ひ、「汝ら、望《のぞみ》通り、吾、今、吾夫の方へ往く也。」と言て、胸を刺して自殺した。カーセージの民、此を「義」として、國、續いた間、ヂドを神として祀つた(スミス「希臘羅馬人傳神誌字彙」一八四五年板、卷一)[やぶちゃん注:最後の丸括弧の出典は底本には、ない。「選集」を参考に正字で補った。]。

[やぶちゃん注:『長柄長者が、「袴につぎの當りたる者を、牲にすべし。」と言て、自ら牲された』『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その2)』を参照されたい。Yoshi氏のサイト「大阪再発見」の「長柄の人柱」にも詳しい解説があるので、見られたい。

「ヂド」『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 少許を乞て廣い地面を手に入れた話』に出た。そちらを参照されたい。

『スミス「希臘羅馬人傳神誌字彙」一八四五年板、卷一』イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」(Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology)。恐らくは、一八四九年版であるが、「Internet archive」のこちらの「DIDO」の条に拠るものと思われる。]

「曾呂利物語」正規表現版 第二 七 天狗の鼻つまみの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどくみえにくくなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     七 天狗の鼻つまみの事

 

 參河國(みかはのくに)に「だうしん」といふ坊主、萬(よろづ)に付け、恐ろしきといふこと、露ほども、なかりしこそ、不審なれ。

 平岡の奧に、一つの宮、有りけるに、此所(こゝ)は、人跡絕えて、深山幽谷なれば、いつしか、宮(みや)つ子も、いづちともなく失せて、跡を、とどめず。

 しか、しけるほどに、「だうしん」、社僧となりて、年月(としつき)、仕へ侍りしが、糧料(かてれう)など、乏しくて、有りけり。人家まで程遠しといへども、心ざし有る人にたよりて、齋(とき)・非時(ひじ)を乞ひ侍る。

 ある時、在所に出でて、暮れ程に歸り侍りけるに、寺近き所に、死人(しにん)、有り。

 道のほとりなりければ、腹、蹈(ふ)みて通るに、彼(か)の死人、坊主の裾をくはへて、引きとどむ。

 立ちもどり、腹をおさへければ、放しけり。

『蹈みけるとき、口を開き、足を擧(あ)げたるに、くはへ侍る。さも、有りぬべき事。』

と思ひ、通りしが、

『何者なれば、路頭に、斯(か)く。』

と、不審におぼえ、

『まづ、夜(よ)、あけば、取り置き侍らん。』

と思ひ、寺の門前なる大木(たいぼく)に、したたかに縛(いまし)め置き、「だうしん」は、内に入りて、いね侍る。

 夜更けて、

「だうしん、だうしん、」

といふもの、有り。

 例の、萬に驚かぬ者なれば、ねぶさに、音(おと)もせでゐたり。

 されども、彼(か)のもの、呼びやまで、

「我を、何(なに)とて、縛りけるぞ、解けや、解けや、」

といへども、猶、とりあはず。

「さらば、解かん。」

とて、繩を、

「ふつふつ」

と、切りて、寺に入り、戶、二重(ふたへ)を入(い)りける時、

「何者なれば、憎(にく)し。」

とて、太刀を拔き、はひる所を斬りけるが、右の腕を、節(ふし)の際(きは)より、

「ふつ」

と、切り落とす。

「あ。」

といふ聲より、姿も、見えずなりぬ。

 程なく、五更の空も明けにけり。[やぶちゃん注:「五更」午前三時から五時までの間。ここは既に曙の頃。]

 

Tenguninattaotoko
[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「参川の国の天狗のはなつまみの事」か。]

 

 彼(か)の社(やしろ)に、朝な朝な、詣でくる老女の有りけるが、いつも、音づれ侍るが、此の度(たび)も來たりて、云ふやう、

「今夜(こよひ)、御坊(おばう)さまは、恐ろしき事に逢はせ給ふよし、聞き侍る。まことか。」

と云ふ。

「いやいや、恐ろしくはなく候ふが、過ぎし夜、しかじかの事、侍る。」

と語り、

「その手を、見せ給へ。」

と云ひけるほどに、取り出(いだ)し見せければ、

「我等が手にて、はべる。」

とて、我が手に、さし接(つ)ぎ、門外へ出でけると思へば、又、もとの暗闇(くらやみ)になりぬ。

 此の時にこそ、初めて驚き、消え入るばかりに成りにけり。

 次第に、夜(よ)、あけて、いつもの老女が來たつて、音づれければ、人心地、おはせざりけるほどに、在所に行つて、人、多く、呼び寄せ、養生しければ、生き出でぬ。

 それより、此の坊主、世の常の臆病になりて、此所(こゝ)にもゐ侍らざりしとかや。

「常に自慢しける故、天狗の、鼻を、つまみける。」

とぞ。

 何事によらず、よろづ、高慢なる者、わざはひに逢へること、これに限るべからず。

[やぶちゃん注:時制を眩惑して騙すというところが、実にワイドな幻術として読者に意外感を与える。「諸國百物語卷之一 三 河内の國闇峠道珍天狗に鼻はぢかるゝ事」と、「宿直草卷二 第六 女は天性、肝ふとき事」は本篇のインスパイア。後者は、主人公を男の元に通う女の疑似的怪異体験に変え、それを物理的現象として説明し、それを別に現実的に、本来の女性が汎用属性として持っている(と筆者の主張するところの)現実に対する先天的な〈肝の太さ〉という〈女の本性の恐ろしさ〉への指弾(というか、その「げに恐ろしきは女の本性」というホラー性という点では立派に怪談ではある)というテーマへとずらしてある。

「平岡」岩波文庫の高田氏の注に、『不詳。三河一の宮に近い平尾村(現豊川市)の誤記か』とされる。愛知県豊川市平尾町はここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。豊川の市街の北西であるが、南を除く三方は元山間である。「ひなたGPS」の戦前図を参照されたい。もしここならば、「奥」にある「宮」としては、現存するものでは、この稲束(いねづか)神社(グーグル・マップ・データ航空写真)が候補となろうか。近くに寺もある(江戸時代までは神社は別当寺を持つのが普通であり、廃れた社祠の管理を寺が請け負うのは普通であった)。但し、現社地は昭和三(一九一八)年に移されたものとあり、それ以前の元地は判らない。しかし、グーグル・マップ・データのサイド・パネルの境内地写真を見るに、それほど新しくは見えないし、山奥では全くないが、それらしい淋しい雰囲気はある。

「宮(みや)つ子」神主。

「齋(とき)・非時(ひじ)」ここは「僧侶の食事・その糧」の意。狭義のそれは以下。仏教僧は原則、食事は午前中に一度しか摂れないとされ、それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際には、それでは身が持たないので「非時」と称して午後も食事をした。

「節(ふし)の際(きは)」肘を指す。

「天狗の、鼻を、つまみける」同前の高田氏の注に、『天狗が来て、自慢の鼻をひしぎ折った』とある。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二番 兄弟淵

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

      一二番 兄 弟 淵

 

 川井村腹帶(ハラタイ)の淵の邊りを、ある娘が通ると、淵から立派な美男が出て來て、これこれ娘この手紙を御行(オギヨウ[やぶちゃん注:ママ。])の淵へ持つて行つておくれ、淵の岸に立つて手を三度打つと、中から人が出て來るから其人に渡せと言つて賴まれた。娘はその手紙を持つて行くと、向ふから旅の六部が來て、お前の手に持つて居るものは何だと言ふから、これこれの事で賴まれて來た手紙だと言つた。すると六部はハテそれは如何にも不思議な話である。どれ俺にその手紙を一寸貸せと言つて、開いて中を見ると、ただの白紙であつた。六部曰く、これは水の物の手紙であるから水に浸して見れば分ると言つて、水に浸すと、この娘は靑臀《あをけつ》だから取つて食つてもよろしく候と謂ふ文句が現はれた。六部はそれを讀んで、これは大變だ[やぶちゃん注:読点なし。続きも同じ。]よし俺が別に書き替えてやるからと言つて、路傍の南瓜《かぼちや》の莖を採つて、此女は靑臀なれども決して取り申間敷候。かへつて金を多く與へ可申候事と書いてくれた。

 娘は六部に書き替えてもらつた手紙を持つて、御行の淵へ行き、岸に立つて手を三度叩くと、中から一人の美男が現はれた。そして娘が渡した手紙を見て厭な顏をして居たが、一寸待つて居れと言つて淵の中に入つて行つて、金を持つて來て娘に渡した。娘はその金を持つて逃げて歸つた。

 元は腹帶の淵と御行の淵とは仲の良い兄弟で、腹帶の方から行く靑脊の者をば、御行へ手紙をつけて取らせ、御行の方から來る同じ者をば、腹帶へ手紙をつけて遣つて取つて食はせて居たが、其娘のいきさつの事から非常に仲が惡くなつた。さうしてそれからはどつちでも知らせぬから、今日ではどんな靑臀の者が通つても大丈夫だと謂ふことである。

   (今の下閉伊郡川井村。此淵についての色々な口碑は「遠野物語」其他にも出て居る。其中最も有名なのは、釜石の板ケ澤の女の人が此淵へ嫁に行つた話。また近年は此淵近 くの農家の娘が假死して淵の主へ嫁に行つた等の話である。盛岡から宮古へ行く縣道のすぐ緣にある閉伊川の流中である。御行の淵も同じ川の中である。)
  (靑臀(アヲケツ)、臀部に靑い斑點のある者は川の物(主に河童)に取られるという言ひ傳へが此地方にある。紫臀(ケツ)の上上臀《じやうじやうけつ》等と謂ふのである。)
  (本話は大正九年八月十日、村の菊池永作氏の談。)

[やぶちゃん注:最後の三つの附記は全体が二字下げポイント落ち。

「川井村」「腹帶(ハラタイ)の淵」「御行(オギヨウ)の淵」二つの淵の位置は確認出来ないが、この「川井村」は遠野の北北東外、早池峰山の東の山間部、閉伊川と小国川の合流地点である岩手県宮古市川井(グーグル・マップ・データ航空写真)である(「ひなたGPS」で戦前の地図も見たが、淵名は確認出来なかった)。但し、この「腹帶の淵」には疑問がある。それは佐々木が最後の附記で述べている通り、これと非常によく似た話(特に六部は書き換えをするという設定)が「遠野物語」の「二七」にあるが、そこでは、『早地峯(ハヤチネ)より出でゝ東北の方宮古(ミヤコ)の海に流れ入る川を閉伊(ヘイ)川と云ふ。其流域は卽ち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池(イケ)の端(ハタ)と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての歸るさ、此川の原臺(ハラダイ)の淵(フチ)」『と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す』と冒頭にあり、そこでは「原臺(ハラダイ)の淵(フチ)」となっているからである。

「六部」既出既注

「靑臀」尻の部分に青い痣(あざ)があること。蒙古斑の残痕(私は小学六年生の時、友人の臀部の上方にしっかり残っているのを日光の修学旅行の入浴の際に見たのを覚えている)とは別の尋常性の痣のようである。

「南瓜の莖」カボチャの維管束の汁で字が書けるというのは初耳であった。

「其中最も有名なのは、釜石の板ケ澤の女の人が此淵へ嫁に行つた話」不詳。発見したら、追記する。

「近年は此淵近くの農家の娘が假死して淵の主へ嫁に行つた等の話」同前。

「大正九年」一九二〇年。]

2023/03/23

早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「蛇のいろいろ」・「昇天する蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○蛇のいろいろ  最も數多く居るのは、山カヾシで、靑大將(ナマズと謂ふ)[やぶちゃん注:読点なしはママ。]蝮《まむし》、縞蛇《しまへび》(シロオロチとも謂ふ)[やぶちゃん注:読点なしはママ。]烏蛇《からすへび》、ヒバカリなどで、稀に、ヂモグリと云ふ、地の中をモグツてあるく、蚯蚓《みみず》の大きいやうな、真赤な蛇があると云ひます。

[やぶちゃん注:「山カヾシ」爬虫綱有鱗目ナミヘビ(並蛇)科ユウダ(游蛇)亜科ヤマカガシ(赤楝蛇・山楝蛇)属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus認識が甘い人が多いが、ヤマカガシは立派な毒蛇である。同種は後牙類(口腔後方に毒牙を有する蛇類の総称)で、奥歯の根元にデュベルノワ腺(Duvernoy's gland)という毒腺を持っている。出血毒であるが、血中の血小板に作用して、かなり速いスピードで、それを崩壊させる。激痛や腫脹が起こらないため、安易に放置し勝ちであるが、凝固機能を失った血液は、全身性の皮下出血を引き起こし、内臓出血から腎機能低下へ進み、場合によっては脳内出血を引き起こして、最悪の場合は死に至る。実際に一九七二年に動脈のヤマカガシ咬症によって中学生が死亡する事故が発生している。深く頤の奥で咬まれた場合は、至急に止血帯を施し、医療機関に直行する必要がある。和名の「カガシ」は、古語で「蛇」を意味し、「山の蛇」の意。である。水辺を好み、上手く泳ぐことも出来る。私は昔、富山の高岡市伏木の家の裏山の中型の貯水池で、悠々と中央を横切って泳ぎ渡る彼を見て、惚れ惚れしたのを忘れない。

「蝮」クサリヘビ(鎖蛇)科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii。「マムシ」は恐らく有毒の広義の一部獣類を含む「蟲類」の強毒のチャンピオンという意味の「眞蟲」が語源と推定される。毒性はハブよりも強いが、体が小さいため、注入される毒量は少ない。マムシ咬症の一般的病態は、出血(但し、咬傷を受けた部位にもよろうが、咬んだ部分は小さいため、通常ならば、それほど目立たないようであるが、動脈を咬まれた場合は、凝固反応が阻害された出血症状が顕著に起こる)・血圧低下・腫脹(顔面及び眼球の腫脹が暫くして発生する)・皮下出血(体外出血が顕著でなくても、これは普通に広く見られる)・発熱・眩暈(めまい)・リンパ節の腫脹及び圧痛(これは受傷後一~二時間後)、重症の場合は意識混濁・腫脹部の筋肉の壊死・眼筋麻痺からの視力低下等を示す。適切な治療を受けないと。二~九日後には、急性腎不全による排尿障害・蛋白尿・血尿等の循環器障害を呈し、後遺症として腎機能障害が残るリスクは高い。致命的なケースは極めて少ないと言えるが、甘く見てはいけない。

「縞蛇(シロオロチとも謂ふ)」ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata。本種は普通は淡黄色の体色に四本の黒い縦縞模様が入る)種小名「quadrivirgata」は「四本の縞」の意)が、縞が全くない個体や頤の辺りが黄色い個体もおり、腹板が目立つ模様はなく、クリーム色・黄色・淡紅色を呈することから、白系へ偏った箇所が他の蛇類よりも目立つことから「白大蛇(しろおろち)」という異名となったものか。或いは、しばしば認められる「神使」と崇められるシマヘビのアルビノ(albino:白化個体)が縁起担ぎで転用されたものかも知れない。但し、個人的には、後に出るヒバカリの強い白系に偏移した個体を形状の似たシマヘビと誤認したではないかと私は思っている。

「烏蛇」これはアオダイショウ(青大将:ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora)、及び前記のシマヘビ、或いは先のニホンマムシの孰れかを指す広汎な地方名である。「カラスヘビ」は文字通り、烏のように「黒い蛇」を通称総称するものであり、種名ではない。

「ヒバカリ」ナミヘビ科ヒバカリ属ヒバカリ Hebius vibakari当該ウィキによれば、北海道を除いて、本州・四国・九州・壱岐・隠岐・屋久島などに棲息する。全長四十~六十五センチメートルで、『胴体の斜めに列になった背面の鱗の数(体列鱗数)は』、『総排出口までの腹面にある幅の広い鱗の数(腹板数)』で百四十二から百五十三枚、『総排出口から後部の鱗の数(尾下板数)は左右に』六十二から八十二枚ずつを数える。『背面の色彩は淡褐色や褐色』(白偏移の個体も多い)で、『吻端から口角、頸部にかけて』、『白や淡黄色の斑紋が入る』。『腹面を覆う鱗(腹板)の色彩は黄白色で、外側に黒い斑点が入る』とある。和名のそれは「日計」「日量」で、これは、『無毒種』であるが、嘗つては『毒蛇とみなされていた』ことから、『「噛まれたら命がその日ばかり」に由来する』ものである。

「ヂモグリと云ふ、地の中をモグツてあるく、蚯蚓《みみず》の大きいやうな、真赤な蛇」ナミヘビ科ナメラ属ジムグリ属ジムグリ Elaphe conspicillata。当該ウィキによれば、全長は七十センチメートルから一メートルで、『体色は赤みがかった茶褐色で、黒い斑点が入る』。『個体により、ジグザグ状になる』。『斑点は成長に伴い』、『消失する。腹面の鱗(腹板)には黒い斑紋が入り、市松模様(元禄模様)状になるため』、『別名、元禄蛇とも呼ばれる』。『頭部に』『「V」字の模様があり、この線が眼にかかるところが』、『学名の由来(鼻眼鏡の意)となっている。上顎は下顎に覆い被さる』。『頸部は太く、頭部と胴体の境目が不明瞭』である。和名の「地潜」で、『特に林床を好み、よく地中や石の下等に潜ること』に由来する、とある。]

 

 ○昇天する蛇  山カヾシは天に昇ると謂ひます。又山カヾシの、軀が太くどす黑い奴は能無しで、引締まった軀の、赤色の勝つた蛇が、昇るのだとも謂ひます。

[やぶちゃん注:以下、底本では、「午後二時頃だつたと云ひます。」までが全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

 昇つたのではなからうかと云ふ噺  大正四年の夏、橫山の近藤福太郞と云ふ男が、早川明と云ふ當時十三歲の少年と二人で、字仲平の桑畑の中で桑を摘んでゐると、傍の桑の木へ、小さな山カヾシが梢に近くなると、軀[やぶちゃん注:底本では「驅」。『日本民俗誌大系』版で訂した。]の重さで、梢が曲るのに落《おつ》こちては登つて行き、登つては落ちしてゐたさうですが、ふと眼を他へそらした間に、其蛇が皆目知れなくなつたので、二人してあたりを探したさうですが、遂に見つからなかつたと云ひました。餘まり不思議故、天に昇つたのではなからうかと云つてゐました。よく晴れた日の、午後二時頃だつたと云《いひ》ます。

[やぶちゃん注:古来からある「蛇の龍への昇天」に基づく認識である。思うに、猛禽類が攫っていったものと私は思う。]

 

 三河に近い、遠江の引佐《いなさ》郡井伊谷《ゐいのや》村のジグジと云ふ所の、ジグン寺と云ふ寺の門前に、六月、田植の人達が雨やどりしてゐると、門前にある大きな桑の木に、山カヾシの赤く輝くやうな奴が卷きついて、篠突く夕立の中に、昵《じつ》と頭を空に向けてゐたと云ひますが、其人達が、あの蛇は、何をしてゐるのかと、不思議がつて、何だか先刻より思ふと、蛇の頭が少し長くなつたやうだと、囁き云ふ中《うち》、ふと眼を他にそらしたか、と思ふ瞬間、其處に居合した者の眼にも、蛇の行衞が更に知れなくなつたと、其中の一人の女が、私の母に話したのを聞きました。

[やぶちゃん注:これは衆目の中で起こったことで、複数の目撃者がいる以上、猛禽類に捕えられたとするには、ちょっと問題のある真正の怪異である。

「引佐郡井伊谷村のジグジ」現在の浜松市北区引佐町(いなさちょう)井伊谷(いいのや:グーグル・マップ・データ)の地区内に飛地として存在する浜松市北区神宮寺町(じんぐうじちょう:同前)であろう。

「ジグン寺」現在の神宮寺町にはそれらしい寺はない。一つ思ったのは、南直近の井伊谷にある井伊谷宮(いいのやぐう:同前)の旧別当寺(廃寺か)ではなかったろうか? と感じはした。

 以下、同前。同じ処理をした。]

 

 昇つたのを實見した話 名前は今記憶してゐませんが、私の母方の祖母の從弟で、八名郡下川村字下條《げじやう》と云ふ村へ、婿養子に行つた男が、夏、畑に出て綿を採つてゐると、傍へ小さな山カヾシが來て、空に向つて高く頸を上げてゐるので、不思議に思つて、仕事の手を休めて視てゐると、其蛇が、尾をぶるぶると顫はせたと思ふ間に、するする空に向つて昇つて行くので、驚いて、附近に働いている人たちを呼集め、蛇がだんだん高く昇つて最後にヒラヒラと小さく見えずなる迄、見物したとひました。其日は空に雲一ツない、よく晴れた日であつたと言います。其男が祖母に話したのを聞きましたが、同じ男が、其處此處で幾度も其事を物語つたと云ひます。

 

[やぶちゃん注:これも目撃者が複数おり、やはり怪異である。

「八名郡下川村字下條」Geoshapeリポジトリ」のこちらで旧村域が確認出来る。愛知県豊橋市下条東町(げじょうひがしまち:同前)附近か。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一番 天人子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。

 なお、標題の「錢緡」は「ぜにさし」(「錢差」)と読み(「ぜんびん」の読みもあるが、読みの用例は圧倒的に前者)円形方孔の穴開き銭の穴に通して銭を束ねるのに用いる細い紐を指し、藁、又は、麻で作られた保管又は運搬用の銭の束の組みを指す。「錢繩(ぜになは)」「錢貫(ぜにつら)」とも言い、「ぜにざし」とも読み、頭を略して二字で単に「さし」とも呼称した。束には「百文差(ざ)し」・「三百文差し」「一貫文(=千文)差し」等がある。グーグル画像検索「銭緡」をリンクさせておく。]

 

   一一番 天 人 子

 

 昔、六角牛山(ロクカウシサン)の麓の里に百姓惣助と云ふ男があつた。其の近所に七ツの池があり、其の中に巫女石(ミコイシ)と云ふ石のある池があつた。池には多くの雜魚(ザツコ)がゐたので、或日惣助が魚釣りに行くと、六角牛山の天人子(テンニンコ)が飛んで來て、巫女石に着物をぬいで懸けて置いて、水浴をしてゐた。

[やぶちゃん注:「六角牛山」(ろっこうしさん)は岩手県遠野市と釜石市との境にある北山山地の高峰(グーグル・マップ・データ航空写真)。標高は千二百九十四メートル。「遠野小富士」の異名を持つ。

「麓の里」「ひなたGPS」の戦前に地図で見ると、六角牛山の西麓は扇状地になった旧「靑笹村」(現在は青笹町)で、その扇状辺縁には、現在の国土地理院図にも「踊鹿(おどろか)堤」といういかにも民話的な貯水池を始めとして五つ以上の沼沢らしきものを現認出来る。まず、この「靑笹村」を比定してよいと思われる。

「巫女石のある池」不詳だが、地図を見ていると気になる池がある。前に出した「踊鹿堤」で、この池、国土地理院図でも確認出来るのだが、中央に小さな島があるのである。グーグル・マップ・データ航空写真で拡大(以下同じ)しておく。ただ、これは私が気になっただけで、この「巫女石」だというわけではない。但し、dostoev氏のサイト「不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-」の「遠野物語拾遺97(荒滝と巫女石)」で、当該話を示された上で、『「遠野物語拾遺97」の冒頭にしか出てこない荒滝の話だが、実際荒滝は六角牛の女神から石を授かり大力となったと云い、その石を「御ご石」と云ったという伝承が青笹町に伝わっている。この「御ご石」とは、実際は「巫女石(みごいし)」であるとも云われている。また力士となった荒滝の名前も、六角牛山から授かったものだと云う』とあって、『六神石神社の右脇に白龍神が祀られているのは、古来から六角牛山は雨乞い祈祷をされてきた歴史もあるのだと思う』と続き、最後に『ちなみに六角牛山の「巫女石」は、元宮司であった千葉氏によれば、六角牛山中腹の不動の滝にあるという』とある。この「大瀧神社」か。しかし話柄は麓と言っているから、「六神石(ろっこうし)神社」附近が元ロケーションか。

「天人子(テンニンコ)」天女。本話は所謂、「天の羽衣」譚の遠野ヴァージョンである。]

 惣助は其の着物が餘りに美しくて珍らしかつたから、窃(ソツ)と盜んでハキゴ(腰籠)に入れて家へ持つて歸つた。

 天人子は着物を盜まれたので天へ飛んで還ることが出來なかつた。それで仕方なく朴(ホウ)ノ葉をとつて體を蔽ふて、着物を尋ねて里邊の方へ下がつて來た。池の近くに一軒家があつたから其所へ寄つて、今池へ釣りに來た男の家は此の邊ではないかと訊くと、その家から爺樣が出て來て、その男ならこれから少し行くと家が三軒あるが、その眞中の家の者だと敎へた。そこで天人子はその家へ行つて、先刻お前は妾《わらは》の着物を持つては來なかつたか、あの着物が無いと、私は天へ還ることが出來ないからどうか返してくれと言ふと、惣助は、如何にもあの池の巫女石に懸かつてあつた見たことのない着物は俺が持つて來たが、あまりに美しく珍しい物だから、今、殿樣に献(ア)げて來たばかりの所であると僞言(ボガ)を吹いた。

[やぶちゃん注:「朴」朴葉味噌でお馴染みの、モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovate。葉身は倒卵形から倒卵状長楕円形を成し、非常に大きく、長さ二十~四十センチメートルにも達し、幅は十~二十五センチメートル、全縁で波状、基部は鈍形、先端は鈍頭、表面は明緑色、裏面は白色を帯び、長軟毛が散生する(当該ウィキに拠った)。]

 天人子は大層歎いて、妾は裸體(ハダカ)のまゝでは天へも還られない。さう言つて暫時《しばらく》泣いて居たが、やがて惣助に向つて、それでは妾に田を三人役(ヤク)(凡そ三反步)ばかり貸してクナさい。其の田に蓮華の花を植えて糸を取つて機を織つて、それで着物をこしらへねばなりませんからと言つた。惣助も今では女の身の上が憐れになつて、女の云ふ通りに三人役の田を貸し、なひ其の上に巫女石のある池の傍《ほと》りに、笹小屋を建てゝ、其所に天人子を入れて置いた。

 蓮華の花が田一面に咲いた。それから糸を採つて、天人子は笹小屋の中で每日每日機を織つて居た。女は機を織りながら、たゞの人間ではないやうな佳(ヨ)い聲で歌をうたつて居た。そして小屋の内を覗いて見てくれてはならないと謂ふのだけれども、惣助が堪りかねて覗いて見れば、梭(オサ)の音は聽えるけれども、女の姿は見えなかつた。それで、これは多分、六角牛山で天人子の織つて居る機の音が、かう聞えるのだらうと思つて居た。後(アト)で惣助は天人子の着物をば眞實に殿樣へ献上した。

 天人子は間もなく、マンダラと謂ふ布を織り上げた。そして惣助に、これを殿樣へ献げてクナさいと賴んだ。惣助は天人子から賴まれたから、其のマンダラを殿樣に献げると、殿樣はそれを見て、これは珍しい織物である。この布を織つた女を見たい。また何か望みでもあるならば申出ろと言ふことであつた。

 惣助は歸つて來て、其の事を天人子に言ふと、天人子は妾は別に何の望みもないが、ただ殿樣の御殿に御奉公がして見たいと言つた。惣助はまた殿樣の所へ行つて其の事を申上げると、それでは早速連れて來て見ろと言つた。殿樣は天人子を見ると、世にも類ひ無いやうな美しい女であつたから、喜んで御殿に置いた。

 天人子はそんなに美しかつたけれども、一向物も食はず物を言はず、また仕事もしなかつた。そして始終ぶらぶらして居た。其の年の夏になつて、お城でも土用干しをした。其の時惣助から献上した天人子の着物も出して干された。天人子は𨻶を見て、其の着物を取つて手早く體に着けて、六角牛山の方へ飛んで行つた。

 殿樣は其の後、歎いて居たが、天人子のことだから仕方がないと思つてあきらめた。そして天人子の織つたマンダラをば、これは尊いものだからと言つて、今の綾織村の光明寺に納めさせた。(その綾のマンダラと云ふ物があるので今の綾織と謂ふ村の名前が起つた。)

 (この話は、岩手縣上閉伊郡遠野鄕の話。綾織村の光明寺には現にそのマンダラであると稱する古巾(フルキレ)が殘つてゐる。昭和三年三月二十八日、早池峯山神社社掌、宮本愛次郞氏談。)

[やぶちゃん注:最後の附記は底本では全体が二字下げポイント落ち。

「綾織村の光明寺」現在の岩手県遠野市綾織町(あやおりちょう)上綾織(かみあやおり)の曹洞宗照牛山光明寺で、ここに現存する(グーグル・マップ・データ)。風琳堂主人氏のブログ「月の抒情、瀧の激情」の「天女の行方──六角牛神社と綾織・光明寺伝説」には、本譚に関わる考証が驚くべき細部まで記されてあるので是非、読まれたいが、『光明寺へうかがえば、この天女伝説ゆかりの「曼荼羅」を見せてもらえる』とあって、写真も添えられてある。

「昭和三年」一九二八年。

「早池峯山神社」早池峰山は岩手県にある標高千九百十七メートルの山。北上山地の最高峰であり、ここに出る六角牛山、及び、石上山とともに「遠野三山」と呼ばれる。山岳信仰のメッカで、山自体が神体であり、麓などの周辺には複数の早池峰神社が存在する。グーグル・マップ・データでは山頂に近いそれをポイントした。]

「曾呂利物語」正規表現版 第二 六 將棊倒しの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵の中の複数の人物の表情が、ひどくみえにくくなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(右丁)がそれ)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     六 將棊倒(しやうぎだふ)しの事

 

 關東に、ある侍(あぶらひ)、主(しう)の命(めい)に背き、とうがん寺といふ寺にて、腹を切りけるを、

「明日(あす)、葬禮をせん。」

とて、庫裏(くり)には、其の用意をし、彼(か)の死人(しにん)を棺(くわん)に入れ、客殿におき、坊主十人ばかり、番をしてゐたりけり。

 更けゆく儘(まゝ)に、皆、壁に寄りかゝり、居睡(ゐねぶ)りけるに、其の中に、下座なる坊主二人は、未(いま)だ寢入(ねい)らで、物語りして侍るに、かの棺、震動して、死人、棺を打破(うちやぶ)り、立ち出で、さも、凄まじき有樣(ありさま)にて、燈火(ともしび)の下(もと)に行き、紙燭(しそく)をして、火を付け、土器(かはらけ)なる油を、ねぶる。[やぶちゃん注:この「ねぶる」は通常の「舐める」の意。]

 

Syaugidahusi

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「しやうぎたふしの事ひそくはな入る所」(「ひそく」はママ。)である。亡者からは未だに切腹の血が鮮やかに滴っているのも奇異を添えている。]

 

 其の後(のち)、上座(かみざ)にある坊主の鼻へ、紙燭を入れて、ねぶり、次第に、下座(げざ)まで、鼻へ入れて、ねぶりねぶり、しける。[やぶちゃん注:ここに出る「ねぶる」は特異な用法で、「吸引して舐める」のであるが、岩波文庫の高田氏の脚注に、『鼻の穴へ、こよりをさして、生者の「気」をなめ取ることをい』っているのである。挿絵も、その一瞬を切り取っているのである。]

 二人の僧、あまり、恐ろしさに、息も立てず居(ゐ)たりけるが、次第に、近づきければ、逃ぐるともなく、走るともなく、庫裏へ倒れ入りぬ。

 各(おのおの)、肝を潰し、

「これは、如何なる事ぞ。」

と、いひければ、

「しかじか。」

と云ふ。おのおの、急ぎ行き見れば、彼(か)の幽靈も、なし。

 棺を見れば、別の事も、なし。

 坊主たちを、起こしければ、將棊倒しの如く、いづれも死に入りにけり。

 いろいろ、氣を付けけれども、遂に、生き出でずなりにけり。

[やぶちゃん注:「諸國百物語卷之二 四 仙臺にて侍の死靈の事」は芸のない転用物。

「東岸寺」岩波文庫の高田氏の注に、『不詳。同名の寺は下野国都賀』(つが)『郡、下総国海上』(古くは「うなかみ」、近代は「かいじょう」)『郡などにあったが、いずれも該当せず』とある。]

2023/03/22

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 五 行の達したる僧には必ずしるしある事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。]

 

     五 行(ぎやう)の達したる僧には必ずしるしある事

 

 一所不住の僧、武藏國を修行しはべりしが、をりふし、道に行き暮れて、泊るべき宿(やど)もなし、野原の露に、袖を片敷きて、明しける。

 をりしも、秋のなかば、月の夜すがら、まどろむひまもなかりけるに、笛の音、幽(かすか)に聞えけり。

『不思議や。此の邊には、人里も、なかりつるに、いかなる物やらん。』

と思ひけるが、次第に近づきて、程なく、僧のあたりへ來(く)るを見れば、年の程、二八(にはち)ばかりなる少人(せうじん)の、其のさま、優なるよそほひなり。

 やんごとなき姿を見るに付けても、

『疑ひなき、變化の物なるべし。』

と思ひをる。彼の少人、いひけるは、

「お僧は、何(なに)とて、かかる野原に、たゞ一人、ましますぞ。」

と、有りければ、僧、答へて曰く、

「かかる、里離れなる所とも存ぜず、行きくれて候。御身は、いかなる人にてわたらせ給ふぞ。」

と、いうて、おそろげなる有樣なり。此のけしきを見て、

「我をば、變化(へんげ)の物とや、おぼしめすらん。さやうの物にては、候はず、月夜になれば、笛を吹きありき、心を慰むる者なり。さいはひに、童(わらは)が宿にともなひ奉らん。いざ、給へ。」

と有りければ、僧、おぼつかなく思ひながら、

『變化の物ならば、こゝに有りても、よも安穩(あんをん)にては、おかじ。』

と思ひ、

「御心ざし、有り難う侍る。」

とて、則ち、連れたちて、行きにけり。

 とある里に至りぬれば、ゆゝしき一つの、城郭、有り、彼(か)の内に誘(いざな)ひ入りぬ。

 宮殿・樓閣を通り、奧に小さく設(しつら)ひたる座敷、有り。

 少人、いひけるは、

「此處(こゝ)に、御泊りあれ。旅の疲れにや、おはすらん。」

とて、障子を、あけられ、火を持ちて出で、僧に與へ、 茶など、參らせて、心、殊にもてなし、

「我は此の障子の內に寢(い)ね參らせ候。御用の事候はば、我等が臥(ふ)しどへ、音なひ給へ。」

とて、入りぬ。

 僧は、

『かかる不思議なる所へも、きつる物かな。』

と、まどろむ暇(ひま)もなく、光明眞言などを唱へ、心を澄ましけるが、やうやう、八聲(やこゑ)の鳥も告げわたり、鐘の音(ね)も、物すごくこそ、聞えけれ。

 しかる所に、人、あまた、來りて、

「こゝに不思議なる坊主有り。何者なれば、かやうの奧まで、忍び入りけるぞや。たゞ事にあらず。いかさま、變化の物なるべし。蟇目(ひきめ)にて射よ。さらずば、鼻を、ふすべよ。」

とて、まづ、諫めんとす。

 僧、

「ことわりを申さん程の、いとまを、賜はれ。」

とて、宵のありさま、こまごまと語りけり。

 咎めつる者ども、これを聞いて、思ひの外に、うちしめり、淚をながす人も有り。

 ことを、委しく尋ぬるに、其の城主の若君、其の年の春の比(ころ)、身まかり給ひけるが、その亡靈にてぞおはしける。

 常に、笛を手なれるに、佛前に、漢竹(かんちく)の横笛を置きけるなり。

 茶の具、靈供を供へおきはべるを、僧には、與へ給ふらん。

「お僧、貴(たつと)う思はれける故なれば、しばらく、爰に逗留し給へ。」

とて、色々の追善を營み、其の後(のち)、僧は歸り給ひけり。

[やぶちゃん注:本話は、個人的には好みである。但し、ややあっさりとしている感じはする。これを換骨奪胎して優れて映像的に、しかも設定をリアルに細敍して見事にインスパイアしたものが、「伽婢子卷之八 幽靈出て僧にまみゆ」であり、そちらに軍配を挙げたいと思う。なお、「諸國百物語卷之一 十 下野の國にて修行者亡靈にあひし事」は、ほぼ転用。

「八聲(やこゑ)の鳥」「八」は多いことを示し、夜の明け方にしばしば鳴く鷄を指す。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 母衣

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた(今回は例外あり)。]

 

      母 衣(ほ ろ) (大正三年四月『民俗』第二年第二報)

 

 始于漢樊噲、出陣時、母脫ㇾ衣爲餞別、噲毎戰被衣於鎧、奮勇殊拔群(一說非樊噲、爲後漢王陵故事。)其後馳驅武者用ㇾ之(「和漢三才圖會卷廿」)[やぶちゃん注:本篇に先立ってブログで「和漢三才圖會 卷第二十 母衣」として電子化注を公開しておいた。なお、ウィキの「母衣」の内容も侮れないので、一見をお勧めする。]。

 新井白石の「本朝軍器考」卷九に、『保呂と云ふ物、その因て來《きた》る事、定かならず、又定まれる文字も有《あら》ず。古《いにしへ》には保侶(「三代實錄」)、保呂(「扶桑略記」)、母廬(「東鑑」)抔書きしを、其後は、縨、又は、母衣抔《など》、記《しる》せり。「下學集」には、縨を母衣と書く事、本《もと》と、是れ、胎衣(えな)[やぶちゃん注:写本では「タイヘ」とルビする。]に象《かたど》れる由を載せ、又「壒嚢(あいのう)抄」には、『母の小袖抔、縨に掛《かけ》し事の有るを、未だ其因(いわれ[やぶちゃん注:ママ。])の知れざる事も有るにや。』と書(しる)しぬ(『「縨」の字は韻書等にも見えず。「幌」の字は有り、是は「帷幔《いまん》」也。』と註す。)。其餘、世に云習《いひならは》せる文字も多けれど、皆な、信《うけ》難し(「武羅(ほろ)」、「神衣(ほろ)」、「綿衣(ほろ)」等、是也。)。神功皇后、三韓、討《うた》せ給ひし時、住吉の神、作り出《いだ》して進《まゐ》らせしと云《いふ》說あれど、正しき史には、見えず。貞觀十二年[やぶちゃん注:八七〇年。]三月、對馬守小野朝臣春風、奏せし所に、軍旅之儲、啻在介冑、介冑雖ㇾ薄助以保侶〔軍旅の儲(まうけ)は、啻(ただ)に介冑《かつちう》に在り。介冑は薄しと雖も、助くるに保侶を以つてす。〕。調布《つきぬの》をもて、保侶衣(ほろぎぬ)千領を縫《ぬひ》作り、不慮に備へんと望み請《こひ》し事、見え(「三代實錄」)、又、寬平六年[やぶちゃん注:八九四年。]九月、新羅の賊船、四十五艘來りて、對馬島を犯す事有り。守(かみ)文屋(ふみや《の》)善友、迎へ戰ふて、彼《かの》大將軍三人、副將軍十一人を始《はじめ》て、三百二人を射殺《いころ》して、取る所の大將軍の甲冑・大刀・弓・胡籙《やなぐひ》・保呂等、各《おのおの》一具、脚力に附《つけ》て進《まゐ》らせし由、見ゆ(「扶桑略記」)』と有て、次に、其師順庵の說なりとて、「母衣」てふ字は「羽衣(うい)」を誤寫せるにて、是れ、「毦(じ)」と云物也。「毦(じ)」の字は羽毛の飾り、一に言《いは》く、羽を績《つむぎ》て衣とす、一に言く、兜鍪上《かぶとのうへ》の飾なり云々。「三國志」に、蜀の先生の結びしは、犛牛《りぎう》の尾と見え、梁の庾信《ゆしん》が詩に、『金覊翠毦《きんきすいじ》』と云りしは、翠羽《すいう》を以て作りたれば、羽を績て、衣とす、と云ふ註に合ひぬるにや云々。思ふに毦と云物は、三國の頃、專ら、軍容の飾りと成せし物にぞ有ける。「後漢書」の内に、其と覺しき物、既に見ゆ。三韓の地にも其製に倣ひ來り、寬平の御時の賊帥も、之を負ひたるにこそ。我國の軍裝に、保呂掛け・總角《あげまき》付《つく》るは、神代よりの事と見ゆ。「六月晦大祓祝詞《ろくぐわつこもりおおほはらへのつと》」に、比禮挂伴男《ひれかくるとものを》、手纏挂伴男《たすきかくるとものを》と云《いふ》、卽《すなはち》、此也。古時、「比禮《ひれ》」と云しを、後ち、「保侶」と云、其語、轉ぜしなり。春風が奏せし所に據るに、其代には、此物、介冑を助け、身を保つべき物と見ゆ。軍裝とのみも、云可《いふべか》らず。只、其制の如き、今、はた、知らるべきにも非ず。古き繪共に、保呂、掛し物を、𤲿きしを見るに、近き世の制と大《おほい》に異なり、古《いにしへ》は、是を着《つ》くべき樣《よう》も、兵《つはもの》の家、傳ふる所の故實、ある事なりき云々、今樣は、帛《はく》の長《たけ》も長く、其幅の數も多く成し程に、保呂籠と云物に引覆ひて、前に「はだし」と云物、立て、串をもて、鎧の後《うしろ》にさす事に成にけり。斯る制、元弘、建武の頃よりや始まりぬらむ。近き頃まで、東國の方にては、多くは古《いにしへ》の制を用ひて、今樣の物をば、提灯保呂《てうちんほろ》抔云し由云々、又、「近代より、羽織と云物をもて、軍裝とする事、有りけり。古えには、斯る物有りとも、聞こえず。されど、古に羽を績ぎて衣とすと云しは、此物の類也。扨こそ、斯くは、名《なづ》けたらめ。」と云人、有り。近代迄、有りつる昔、保呂と云ひける物、此物に似たる所もあれば、かの羽を績ぐと云ひしも、羽を織ると云はんも、其義の、相遠《あひとほ》からねば、其名を、斯《かく》、名づけたりけんも知《しら》ず。』と論じ居る。

[やぶちゃん注:『新井白石の「本朝軍器考」』全十二巻から成る故実書。享保七(一七二二)年跋、元文五(一七四〇)年刊。古代からの軍器の制度・構造・沿革などについて、旗幟・弓矢・甲冑等に部類して考証したもの。全十二類百五十一条から成る。付考として、白石の義弟朝倉景衡(かげひら)の編に成る「本朝軍器考集古図説」がある。国立国会図書館デジタルコレクションのここから、非常に状態の良く、判読も容易な美しい写本の当該部を視認出来たので、それを元に南方熊楠の引用の誤り或いは誤植と思われるものを、一部、訂した。熊楠のものの方が読み易く、意味が変わらないと判断したものはそちらを採用した。但し、「云々」で分かる通り、原文はもっと長く、熊楠は途中にかなり手を加えて書き変えてあるので、まずは、原文を見られんことを強くお勧めする。以上の注は、やりだすと、だらだらと労多くして益少なきものになるのは、目に見えているので、一部を文中注とし、注を入れた方がいいと考えた箇所のみ以下に注する。

「三韓」紀元前二世紀末から紀元後四世紀頃にかけて、朝鮮半島南部の三つの部族連合で、馬韓・辰韓・弁韓を含む。

「小野朝臣春風」(おののはるかぜ 生没年不詳)は平安前期の貴族・歌人。従五位上。小野石雄の子。当該ウィキによれば、貞観一二(八七〇)年『正月に従五位下に叙爵するとともに、新羅の入寇への対応を行うべく、対馬守に任ぜられる。対馬守在任時に、甲冑の防御機能を強化するための保侶衣』一千領、()『及び』、『兵糧を携帯するための革袋』一千『枚の必要性を朝廷に訴え、大宰府に保管されていた布でこれらが製作された』とあるのを指す。

「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文徳天皇実録」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九百一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

「文屋(ふみや《の》)善友」(ふんやのよしとも 生没年不詳)は平安前期の官人。官職は上総大掾・対馬守。当該ウィキによれば、元慶七(八八三)年に『上総国で起きた俘囚の乱を上総大掾として諸郡の兵』一千名を『率いて鎮圧した経験を有していた。この時期、新羅の海賊が対馬国・九州北部沿岸を襲う事件がたびたび起こり』、前に述べた小野春風が貞観一五(八七三)年に『対馬守に赴任』、『朝廷に』上奏して『軍備の拡充を行ってい』たが、寛平五(八九三)年にも『新羅の賊が九州北部の人家を焼くという事件があり、翌寛平』六年四月、『新羅の船大小』百『艘に乗った』二千五百『人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に来襲した。この知らせを受けた朝廷は、参議・藤原国経を大宰権帥に任命して討伐を命じるなどの対策に追われ』、当時、対馬守であった善友は、それを迎え撃った。九月五日の』『朝、対馬に押し寄せたのは』四十五『隻』で、『善友は』、先ず『前司の田村高良に部隊を整えさせ、対馬嶋分寺の上座面均と上県郡の副大領下今主を押領使とし、百『人の兵士を各』五『名ずつ』二十『番に分け』、最初に四十『人の弱軍をもって敵を善友の前までおびき寄せ、弩』(おおゆみ)『による射撃戦を挑んだ。矢が雨の如しという戦いののち、逃走しようとする敵を』、『さらに追撃』、大将三人、副将十一人を含む賊三百二人を『射殺した。また』、船十一隻、甲冑、保呂』()。『銀作太刀および太刀』五十『柄、桙』一千『基、弓』百十『張、弓胡(やなぐい)』百十、『置き楯』三百十二『枚など』、『莫大な兵器を捕獲し』、『賊』一『人を生け捕っ』ている。而して、『この捕虜が述べるには』、『これは私掠ではなく新羅政府によるものであり、「飢饉により王城不安であり食料や絹を獲るため」、『王の命を受けた船」百『隻』、二千五百もの『兵を各地に派遣した」と』述べ、『対馬を襲ったこの』四十五『艘も』、『その一部隊であった。また』、『逃げ帰った中には優れた将軍が』三『人おり、その中でも一人の唐人が強大であると述べた』とあり、さらに、『当時は律令軍制の最末期であり、またその装備である弩が蝦夷以外の対外勢力との戦いで使われた数少ない例である』とある。

「扶桑略記」歴史書。元三十巻。天台僧皇円の著になり、平安末期に成立した。漢文体による神武天皇から堀河天皇に至る間の編年史書。仏教関係の記事が主で、現存するのは十六巻分と抄本である。

「其師順庵」新井白石の師であった儒学者木下順庵(元和七(一六二一)年~元禄一一(一六九九)年)。甲府徳川家のお抱え儒学者を探しに来た際、順庵は新井白石を推薦している。

「梁の庾信」(五一三年~五八一年)は南北朝時代の文人。初め、南朝の梁に仕え、武康県侯に封ぜられたが、北周に使いした際、留められ、その後、梁が滅亡したため、そのまま北周に仕えた。驃騎将軍・開府儀同三司となり、その華麗な美文は、梁・陳に仕えた文人政治家徐陵とともに「徐庾体」と称される。但し、「金覊翠毦」の文字列は、私が調べた限りでは魏の武帝の古楽府、梁の元帝の「燕歌行」の一節にしか見当たらない。

「三國の頃」後漢滅亡後の二二〇年から~二八〇年、華北の魏・江南の呉・四川の蜀の三国が分立した時代。

「後漢書」南朝宋の范曄(はんよう)及び晉の司馬彪の撰。四三二年成立。

「六月晦大祓祝詞《ろくぐわつこもりおおほはらへのつと》」七鍵氏のサイト「Key:雑学事典」の「六月晦日大祓とは」を参照されたい。]

 「康煕字典」に按服虔通俗文、毛飾曰ㇾ毦、則凡絲羽革草之下垂者、並可以毦名矣〔服虔《ふくけん》の「通俗文」を按ずるに、毛の飾(かざ)りを「毦」と曰ふ。則ち、凡そ絲羽革草の下がり垂るる者、並(みな)、「毦」を以つて名づくべし。〕と有る。熊楠謂ふに、其字、「耳」と「毛」より成る。角鴟(みゝづく)や猫に近いリンクス獸抔[やぶちゃん注:底本は「等」は空白で脱字。「選集」の『など』から、この熊楠の好きな字で補った。]、耳の尖《さき》に、長毛、有り。最初、其形容に用ひた字で、後には、冑《かぶと》や帽の後《うしろ》に垂《たれ》た飾《かざり》を言《いつ》たので、「博雅」の、一日績ㇾ羽爲ㇾ衣〔一(いつ)に曰はく、「羽を績いで、衣と爲す。」と。〕と有るは、ほんの異說に過ぎぬのだろ。吳の甘寧が敵を襲ふ迚《とて》、毦(じ)を負ひ、鈴を帶ぶべく、兵卒に令せしは、主として敵と混ぜぬ樣、徽章《きしやう》としたらしい。

[やぶちゃん注:「康煕字典」。清の一七一六年に完成した字書。全四十二巻。康煕帝の勅命により、張玉書・陳廷敬ら三十人が五年を費やして、十二支の順に十二集(各々に上・中・下巻がある)に分け、四万七千三十五字を収める。「説文解字」(漢。許愼撰)・「玉篇」(梁。顧野王撰)・「唐韻」(唐。孫愐(そんめん)撰)・「広韻」(宋。陳彭年(ちんほうねん)らの奉勅撰)・「集韻」(宋。丁度(ていたく)らの奉勅撰)・「古今韻会挙要」(元。熊忠(ゆうちゅう)撰)・「洪武正韻」(明。宋濂(そうれん)らの奉勅撰)などの歴代の代表的字書を参照したものであるが、特に「字彙」(明・梅膺祚(ばいようそ)撰)と「正字通」(明。張自烈撰)に基づいた部分が多い。楷書の部首画数順による配列法を採用、字音・字義を示し、古典に於ける用例を挙げ、この種の字書としては、最も完備したものとされる。但し、熟語は収録していない(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「服虔」後漢の古文学者(生没年不詳)。河南の出身。清貧の中で志を立てて大学に学び、論説の卓抜さを称された。霊帝の中平(一八四年~一八九年)の末年には、官は九江太守に至っている。

「角鴟(みゝづく)」フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称で、古名は「ツク」で「ヅク(ズク)」とも呼ぶ。俗称に於いては、フクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称である(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」を見られたい。

「猫に近いリンクス獸」ネコ科オオヤマネコ属オオヤマネコ Lynx lynx のこと。当該ウィキによれば、十一亜種(但し、分類は混乱しており、確定亜種ではない)が挙げられてある。そちらの生体の野生画像を見れば判る通り、耳の先端から有意に毛が生えてシュッと立っていることが判る。

「吳の甘寧」(?~二一五年?)は後漢末期の武将。孫権に仕えた。]

 古今、歐州にも冑や帽に毦を垂るゝ事多きは、ラクロアの「中世軍事宗敎生活(ミリタリ・エンド・レリジアス・ライフ・イン・ザ・ミツドル・エイジス)」英譯や知友ウェプ氏の「衣裝の傳歷(ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレス)」(一九一二年板)に其圖多し。毦(じ)は、本來、羽毛より成たが、後には布帛《ふはく》を以て作つた大きなものも出來、隨つて身を護り、兵を避《さく》るの具とも成たらしい。ラクロアの書一一七頁、ゴドフロア・ド・プーヨンの肖像など見て知るべし。陣羽織を鳥羽で織つたから羽織と云た、と聞く。確か秀吉が著たとか云う鳥羽で織《をつ》たものを大英博物館で見たと記憶する。歐州では、十三世紀の終り迄鳥羽を裝飾に用ひること稀だつた(「大英類典」卷十)。之に反し、未開民中、鳥羽を裝飾とする、精巧を極めた者あり。例せば、布哇《ハワイ》では、以前、羽細工、最も精巧を極め、鳥の羽もて、兜や、假面や、節(セプトル)や、冠や、頸環や、上衣を作る職人、頗る重んぜられた(英譯、ラッツェル「人類史(ヒストリー・オヴ・マンカインド)」一八九六年板、卷一、頁一九八、羽製の諸品は、一五五頁に對せる圖版に載す。英譯、フロベニウス「人類の幼稚期(ゼ・チヤイルドフツド・オヴ・マン)」一九〇九年板、六二頁)。南米のムンヅルク人、尤も妙麗なる羽細工もて、上衣や節や帽を作るも、特殊の迷信的觀想を存し、容易《たやす》く外人に賣らず(ベイツ「亞馬孫河畔之博物學者(ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス)」一八六三年板、第九章)。墨西哥《メキシコ》發見の時、トラスカラン族の諸酋長と重臣、身に厚さ二吋《インチ》[やぶちゃん注:五センチメートル。]にて其國の兵器が徹り得ぬ綿入れの下著を著《き》、上に薄き金、又、銀板の甲を被《かぶり》、其上に莊嚴を極めたる鳥羽の外套を被り、美麗、口筆に絕した(プレスコット「墨西哥征伐史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》」ボーン文庫本、一九〇一年板、卷一、頁四七及び四三二頁)。歐州の將士、中古、サーコートとて、吾國の鎧直垂《よろひひたたれ》樣の物を鎧の上に著た。その狀は、ウェブの著(上に引た)八四、八五、八八の諸圖を見れば、分かる。惟《おも》ふに「三代實錄」等に見えた保呂衣は、介冑を助けて兵器を防ぐ爲め、古墨西哥人の下著、又、歐州中古のサーコート樣の者だつたのが、追々、變化して、後世の提灯保呂と成たんだろ。提灯保呂は、矢のみか、一寸した鐵砲をも防ぐと聞たが、實際を見ぬ故、果して然りやを、予は知らぬ。

[やぶちゃん注:『ラクロアの「中世軍事宗敎生活(ミリタリ・エンド・レリジアス・ライフ・イン・ザ・ミツドル・エイジス)」英譯』フランスの作家ポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)の英訳本「中世の軍事的宗教的生活」。原本はVie militaire et religieuse au Moyen Áge et à l'époque de la Renaissance(「中世とルネッサンス時代の軍事的宗教的生活)。英訳本は「Internet archive」のこちらで見られる。

『知友ウェプ氏の「衣裝の傳歷(ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレス)」(一九一二年板)』『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 忠を盡して殺された話』(大正二年九月『民俗』第一年第二報)で既出既注であるが、再掲すると、『リンネ学会』会員で博物学者であったウィルフレッド・マーク・ウェッブ(Wilfred Mark Webb 一八六八年~一九五二年:熊楠より一つ下)の‘The Heritage of Dress’(「ドレスの伝統」一九一九刊)。

「節(セプトル)」よく判らぬが、「節」は「ふし」で木片を平たく削った板のことではないかと踏んだ。そこから「セプトル」の発音に似たものとして、私は「scepter」(セプター)、所謂、汎世界的に、王権の表象として王が持つ「笏(しゃく)」とか何かを指したり、探ったり、こじとったりする「箆(へら)」のような実用を兼ねたアクセサリーのようなものを言っているのではないかと推理した。

『ラッツェル「人類史(ヒストリー・オヴ・マンカインド)」』一八九六年板、卷一、頁一九八、羽製の諸品は、一五五頁に對せる圖版に載す」ドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本‘History of Mankind’ trans. Butler)。「Internet archive」の英訳原本のこちらの左ページが当該部。残念ながら、リンク先のそれは、画像の殆んどがカットされているが、思うに、熊楠の指示するのは、辛うじて見られるこれようにも思われる。また、以下で同書第二巻を探していたら、同じ絵と、美麗なカラー図版(左ページ)を見出せたので、こちらを是非、見られたい。

『フロベニウス「人類の幼稚期(ゼ・チヤイルドフツド・オヴ・マン)」』一九〇九年板、六二頁』「Frobenius, ‘The Childhood of Man’, London. 1909, p. 242」ドイツの在野の民族学者・考古学者で、ドイツ民族学の要人であったレオ・ヴィクトル・フロベニウス(Leo Viktor Frobenius 一八七三年~一九三八年)の英訳本「人類の幼年期」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られる。

「ムンヅルク人」“Mundurucú”。ムンドゥルク族。アマゾン川南部に住むラテン・アメリカ・インディアンの一民族。言語はトゥピ諸語に属する。嘗つては首狩りを行う民族として知られていた。マニオク(キャッサバ)栽培と採集漁労を営む。 三十家族ほどで集落を形成。男子結社があり、成人男子は家族の家には住まず、男性の家に住む。儀礼も女性・子供の参加を禁じている。一方、家屋は母系で継承されるという、男性と女性の対立原理の明確な社会である。現在では野生ゴムの樹液を日用品と交換しており,宗教的にはキリスト教化している(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『ベイツ「亞馬孫河畔之博物學者(ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス)」一八六三年板、第九章)』イギリスの博物学者・昆虫学者・探検家ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)は、「ウォレス線」で知られる博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)とともに、アマゾンで多様な動植物を収集し、進化論の発展に寄与した人物で、「ベイツ型擬態」(本来、無害な種が、捕食者による攻撃から免れるため、有害な種に自らを似せる生物擬態)に名を残している。原著書名はThe Naturalist on the River Amazons(「アマゾン川の博物学者」)。一九四三年版であるが、「Internet archive」の同書の当該章はここからだが、調べたところ、南方熊楠が紹介している部分は「245」ページが当該引用と推定されることが判った。

「トラスカラン族」 “Tlaxcala”で「トラスカラ」が正しい。「トランカラ族の」の意の“Tezcucan”(次注の原文を参照されたい)を熊楠が補正して意訳したものと思われる。現在のメキシコ中部のトラスカラ州の州都トランスカラ(正式名称はトラスカラデシコテンカトル Tlaxcala de Xicohténcatl)はメキシコ市の東約百キロメートルの、ラマリンチェ火山北西麓の標高約 二千二百五十メートルの高高度の地にあり、サワパン川に臨む。周辺の農業地帯の中心地で、トウモロコシ・豆類・家畜などを集散するほか,繊維工業が発達し、綿織物毛織物・合成繊維などが生産される。スペインによる征服前からインディオのトラスカラ族が住んでいた地域で、正式名称の「シコテンカトル」は、トラスカラ族がメキシコ征服者エルナン・.コルテス(Hernán Cortés 一四八五年~一五四七年)に協力することに、強く反対した首長の名を記念したものである。コルテスは 一五一九年に市を制圧し、二年後にアメリカ大陸最初のキリスト教の聖堂「聖フランシスコ聖堂)」を建設した。近くにオコトラン神殿やティサトラン遺跡などがある、と「ブリタニカ国際大百科事典」にあった。

『プレスコット「墨西哥征伐史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》」ボーン文庫本、一九〇一年板、卷一、頁四七及び四三二頁)』アメリカの歴史家で、特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が一八四三年刊行したもの(The History of the Conquest of Mexico:「メキシコの征服の歴史」)。一八四八年版だが、「Internet archive」のこちらの47ではなく、その前の46ページにそれらしい記載はあった。432ページは?。

「サーコート」Surcoatウィキの「シュールコー」(フランス語:surcotte:「コット」(オーバーオール。昔の上着)の上に重ねるもの」の意)によれば、『男性は』十二『世紀の末(女性は』十三『世紀に入ってから)』十四『世紀半ばまで、西欧の男女に着られた丈長の上着のこと。シクラス、サーコート』『とも』呼んだ、『コットという丈の長いチュニックの上に重ねて着る緩やかな外出用の上着で、男性は長くても踝丈』(くるぶしだけ)まで、『女性は床に引きずる程度の長さであった。長袖のものは』、『やや珍しく、大半が袖無しもしくは半袖程度の短い袖』であった。十四『世紀に入って、タイトなコットが流行すると』、『シュールコートゥベールという脇を大きく刳ったタイプが大流行する』。元来は『シクラスという十字軍兵士が鎧の上から羽織る白麻の上着であった』(☜・☞)。『金属でできた鎧が光を反射するのを抑えるためと、雨による錆を抑えるために着るようになったものだが、戦場で乱戦となった時に』(☜・☞)『他の騎士と見分けがつきやすいように盾に付けていた自分の紋章などを大きく飾る場合もあった。イングランド王ヘンリー』Ⅲ『世は、最上の赤地の金襴で仕立てられ』、『前後に三匹の獅子を刺繍したシクラスを身に着けていた』。十二『世紀末に、十字軍からの帰還兵士を中心に日常着となる。初めは白麻などで作った白無地のものが多かったが、コットと同じようなウールの色物が一般的になっていった。フランス王室の』一三五二『年の会計録には、シャルル王太子(後のシャルル』Ⅴ『世)の着る袖付きシュールコーの表地のために赤色と藍色のビロードと金襴、裏地のためにヴェール(リスの毛皮)を購入した旨が記載されている』とあった。

「ウェブの著(上に引た)八四、八五、八八の諸圖」「Internet archive」のこちらで原本が視認でき、当該部は図「八四」(84)がここ、図「八五」(85)がここ、図「八八」(88)がここである。

「提燈保呂は、矢のみか、一寸した鐵砲をも防ぐと聞たが、實際を見ぬ故、果して然りやを、予は知らぬ」ネットで調べたが、判らぬ。画像検索で提灯のように上下が絞られた、それらしいものを一つ見つけたが、ウィルス・ソフトが「不審」とするサイトであったので、見るのはやめた。]

 扨、一九〇八年、ラスムッセンの「北氷洋之民(ゼ・ピープル・オブ・ゼ・ポラール・ノールス)」英譯一八〇頁に、「或村でエスキモ人が殺されて、少時《しばらく》有《あつ》て、村民、皆な、狩りに出立《いでたつ》つ。村に留《とどま》るは、殺された人の妻と牝犬一疋だつたが、兩《ふた》つながら、姙娠中だつた。頓《やが》て其女、男兒を產み、自分と兒の食物を求めに出で、蹄《わな》で鴉を多く捉へ、翅を捨て、其羽で、自身と兒の衣類を拵えた[やぶちゃん注:ママ。]。所ろで、牝犬、亦、一子を生んだので、彼女、其子と狗兒とを咒《まじなひ》し、一年の間に、全く成長させ、長途を旅して、見も知らぬ人民の所に往《いつ》た。其處で、聊かの事から、母が彼《かの》人民と口論を始めると、其兒が彼等に向ひ、「彼是云ふより、我等を射《い》て見よ。」と云ふ。彼輩、弓矢を執つて母共に射掛ける。母、兒の前に立塞がり、兒が嬰兒だつた時、背に負ふに用ひた囊《ふくろ》の皮紐を振つて矢を打落すと、悉く外れて、一つも中《あた》らぬ。其後《そのご》、[やぶちゃん注:「其の後、」は「選集:」で補った。]其兒が、弓を執つて、敵衆を射盡《いつく》し、又、進んで他の新しい國に往《いつ》た。」と有て、此譚を著者に語つた者、吾、此譚を大海の他の側から來た人に聞《きい》たと言ふた、と附記し居る。吾國にも羽で衣を作つた事、「日本紀」一に、少彥名命《すくなびこな》、白蘞皮(かゞみのかは)を舟とし、鷦鷯羽(さざきのはね)を衣として海に浮《うか》み、出雲の小汀《おはま》に到る。是は、其頃、樹皮もて、舟を作り、諸鳥の羽を衣と作る事、行はれたので、此神、特に、身、小さい故、斯《かか》る小舟に乘り、斯る最小鳥の羽を衣としたと謂《いつ》たんだろ。

[やぶちゃん注:『一九〇八年、ラスムッセンの「北氷洋之民(ゼ・ピープル・オブ・ゼ・ポラール・ノールス)」英譯一八〇頁』グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年:デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である)の英訳本The People of the Polar North(「極北の人々」)はイヌイットの風俗を纏めた旅行記。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ

『「日本紀」一に、少彥名命、白蘞皮(かゞみのかは)を舟とし、鷦鷯羽(さざきのはね)を衣として海に浮み、出雲の小汀に到る』国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓讀 上卷」(昭和八(一九三三)年岩波文庫刊)の当該部をリンクさせておく。大己貴命(おおなむち:大国主神)と彼が初めて出逢うシーンの直前である。「白蘞皮(かゞみのかは)」は種同定されていないが、蔓性植物で、巻ひげを持つもとされる。但し、少彥名命は体が極度に小さいので、中・大型の蔓性類は外せる。小型の蔓草でよいのである。「鷦鷯羽(さざきのはね)」(私は上代の文学は清音傾向主義で「そささき」と読みたい)は現在の「みそさざい」(鷦鷯)の古名。スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytesは本邦産の鳥類の中でも最小種の一つで、全長約十一センチメートル、翼開長でも約十六センチメートルで、体重も七~十三グラムしかない。囀りともに私の好きな鳥である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい。]

 一體エスキモ人は綠州《グリーンランド》より亞細亞の最東瑞の地、北亞細亞や北歐州で誰も棲得《すみえ》ぬ程の沍寒貧澁《ごかんひんじふ》の地に棲む民で、生態萬端、餘程、諸他の民族と異り居る。因て、其根源に就ても、學說、區々たり。だが、予が僻地に在乍ら、知り得た最近の報告に據ると、エスキモ人は、體質、全く、蒙古種《モンゴリアン》の者との事だ(チスホルム輯「ゼ・ブリタニカ・イヤーブック」、一九一三年板、一五四頁)。ラスムッセンに上述の話をしたエスキモが、大海の他の側から來た人に聞たは、漠として何の事か知れがたいが、先《まづ》は、當人が住む綠州から、餘程、北氷洋に沿つて隔つた地、乃《すなは》ち亞細亞の東端に近い地から來たエスキモ人に聞たと云ふ事だらう。ボアス博士が、一九〇二年出した、北太平洋遠征の調査書に據《よれ》ば、東北亞細亞の端に住む、チュクチ、コリヤク、カムチャダル、ユカギル等は、亞細亞民と云ふよりは亜米利加民と云ふべき程、人文の性質が亜米利加土人に似て居ると云ふから、無論、古くよりエスキモと交際しただろう。然《しか》る上は、日本人の祖先及び其近處《きんじよ》の古民族中に、曾て、羽を衣としたり、又、白石が推論した通り、比禮、即ち、原始態の母衣を掛て、兵箭《へいせん》を防ぐ風《ふう》が有たのを、東北亞細亞の諸族から聞傳えて、ラスムッセンが聞た樣な漠然たる譚がエスキモ人の中に殘つたので無《なか》ろうか。本邦で、樊噲や王陵の母が、子に與へた衣が、母衣の始めと云ひ、エスキモ譚に、母が、曾て、其子が幼なかつた時に、包んだ嚢の紐で、子の爲に、矢を防いだと言うが、酷《よく》似て居る。但し、サンタ・カタリナの墓窟から、エスキモの遺物を掘出した中に、馴鹿《となかい》の毛と、鳥の羽で織つた蓆《むしろ》が有つた(ラッツェル「人類史」、二卷、頁一二一)と云ふから、エスキモ人も、古くは、羽で衣を作る事を知て居《をつ》たかも知れぬ。從つて、鳥の羽で衣を作り、子を包む嚢の紐で矢を禦いだのが、史實かも知れぬ。然るときは、羽を衣としたり、嚢樣の物で、矢を防ぐ風が、日本から東北亞細亞を通じて、北米の北端に住むエスキモ人迄の間に廣く古く行はれ居た譯となる。序に云ふ。十七年斗り前、大英博物館東洋圖書部長ダグラス男の官房へ、予、每度出入《でいり》した時、老婦人、各を忘れたが、屢ば、來り、曾て、宣敎に往《いつ》た序に、エスキモと、支那人の兒が產まれた時、必ず、臀に異樣の痣《あざ》有るに氣付き、精査すると、區別出來ぬ程、能《よく》似て居つたが、日本の赤子の痣は何樣《どん》な形かと、每度、問ふを、予、極《きはめ》て五月蠅く思ひ、其老婦の顏見ると、事に托して迯《にげ》て來たが、其後、又、雜誌に投書して、此事を質問し居た。予、一向知ぬ事乍ら、何かの參考にでも成る事かと、焉《ここ》に記付《しるしつ》く。

[やぶちゃん注:「沍寒貧澁」「冱寒」は「一面に凍り塞がって、寒気の激しいこと」で「極寒」に同じ。「貧澁」は見慣れない熟語だが、「自然と生活の全般が、極めて乏しく貧困な様態にあって、ずっとその状態が滞って続いている厳しい環境であること」を指してはいよう。

『チスホルム輯「ゼ・ブリタニカ・イヤーブック」、一九一三年板、一五四頁)』かのEncyclopædia Britannicaに盛り込まれた情報や、統計数値を、常に最新に保つため収集された資料に基づき、毎年刊行されている百科年鑑。「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る(編者にはHUGH CHISHOLMM.A., OXON の名が載る)。ページの頭にすぐ出て来る。

「ボアス博士が、一九〇二年出した、北太平洋遠征の調査書」恐らくは、ドイツ生まれのアメリカの人類学者フランツ・ボアズ博士(Franz Boas 一八五八年~一九四二年)のそれと思われる。

「チュクチ」主にロシアのシベリア北東端のチュクチ半島(チュコト半島)(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)に住んでいる民族。その居住域は、ほぼツンドラ気候に属する。かつてオホーツク海沿岸に住んでいた人々が起源と考えられている。現在の総人口は凡そ一万六千人(当該ウィキに拠った)。

「コリヤク」コリャーク人。ロシア連邦極東のカムチャツカ地方の先住民族で、ベーリング海沿岸地帯からアナディリ川流域南部及びチギリ村を南限とするカムチャツカ半島極北部にかけて居住している。体つきや生活習慣などが極めて似ているチュクチ人と同系である。現在の総人口は八千七百四十三人(当該ウィキに拠った)。

「カムチャダル」この名称は二十世紀に入る頃に当地に居住していた先住民、或いは、先住民と混血したロシア人を指した呼称で、「イテリメン」が自称。ロシア・カムチャツカ半島に居住する同地の先住民族。現在の総人口は三千二百十一人(当該ウィキに拠った。居住地域は同ウィキの地図を参照)。

「ユカギル」ユカギール人はシベリア東部に住む先住民族で北東アジアで最も古い民族の一つと考えられ、古くはバイカル湖から北極海まで住んでいたとされる。現在の総人口は千六百三人(当該ウィキに拠った。居住地域は同ウィキの地図を参照)。

「サンタ・カタリナの墓窟」次注リンク先で綴りは“Santa  Catarina”であることは判ったが、北米の北西部とあるが、位置不詳。

「馴鹿」哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus 。和名トナカイはアイヌ語での同種への呼称である「トゥナカイ」又は「トゥナッカイ」に由来する。トナカイは樺太の北部域に棲息(現在)しているものの、アイヌの民が本種を見知ることは少なかったかと思われ、このアイヌ語も、より北方の極東民族の言語からの外来語と考えられてはいる。

『ラッツェル「人類史」、二卷、頁一二一』「Internet archive」の英訳原本のこちらの右ページの下から二段落目が当該部。

「大英博物館東洋圖書部長ダグラス男」複数回既出既注。こちらを参照されたい。

「臀に異樣の痣有る」蒙古斑。

「日本の赤子の痣は何樣な形かと、每度、問ふを、予、極て五月蠅く思ひ、其老婦の顏見ると、事に托して迯て來た」熊先生、「マダムは私のケツでも見とう御座いますか?」といって、尻をベロっと出してやれば、よかったッスよ。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 十番 盡きぬ錢緡

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。

 なお、標題の「錢緡」は「ぜにさし」(「錢差」)と読み(「ぜんびん」の読みもあるが、読みの用例は圧倒的に前者)円形方孔の穴開き銭の穴に通して銭を束ねるのに用いる細い紐を指し、藁、又は、麻で作られた保管又は運搬用の銭の束の組みを指す。「錢繩(ぜになは)」「錢貫(ぜにつら)」とも言い、「ぜにざし」とも読み、頭を略して二字で単に「さし」とも呼称した。束には「百文差(ざ)し」・「三百文差し」「一貫文(=千文)差し」等がある。グーグル画像検索「銭緡」をリンクさせておく。]

 

    十番 盡きぬ錢緡

 

 昔、大槌(オホツチ)濱(今の上閉伊郡)の吉里(キリ)々々の里に善平と云ふ者があつた。家がごく貧乏でつまらない生活(クラシ)をして居たけれども、大層正直者で世間からも褒められ者で通つて居た。或年村の人達が揃つて伊勢參宮に立つと云ふので、善平も村の義理で誘はれたが、いくら行きたいと思つても路銀がないので其の事ばかりはと思ひ煩つて居た。そのうちに村の人達は旅立ちしてしまつた。

[やぶちゃん注:「大槌(オホツチ)濱(今の上閉伊郡)の吉里(キリ)々々」現在の岩手県上閉伊郡大槌町(おおつちちょう)吉里々々(きりきり:グーグル・マップ・データ。以上の地図の現地名では「々々」を用いているが(郵政上の地名表記それも「々」)、国土地理院図では「吉里吉里」であり、「ひなたGPS」の戦前の地図でも「々」は使用されていない。「々」は本邦で作られた独自の記号(漢字ではない)であるから(最近は中国でも逆輸入されて用いることがあるらしい)、私はあくまで「吉里吉里」とすべきであると考えている。なお、この地名は、井上ひさしの小説「吉里吉里人」で全国的に知られるに至ったが、同小說の「吉里吉里」は東北本線沿いの宮城県・岩手県県境付近に設定されており、実際の吉里吉里とは別の場所であって、架空地名である。江戸時代は遠野と同じ盛岡(南部)藩内である。]

 さうなると善平も參宮がしたくて、矢も盾も堪らず、かねて蓄へて置いた百文錢を持つて、村の人達の後を追つてとにかく旅へ出た。そして少しも早く仙臺領へ出て、村の人達に追(カ)ツつくべと、急いで行くと、方角を間違へて、飛んでもない秋田樣の領分の方へ山越えして行つてしまつた。峠の上から眺めると、遙か向ふの方に大きな沼の水が光つて見えるから、あれは音に聞く仙臺の姉沼と云ふ沼であンベと思つて行くと、さうではなくて其れは秋田ノ國の黑沼と云ふ大きな沼であつた。

[やぶちゃん注:「仙臺の姉沼」仙台(伊達)藩の「姉沼」は不詳。東北の「姉沼」と言えば、青森の「姉沼」(グーグル・マップ・データ)であるが、ここは広域の旧盛岡藩である。

「秋田ノ國の黑沼」秋田県横手市山内大松川に現存する黒沼(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「神が宿るところ」のこちらがよい(写真有り)。『「黒沼」は』、天長四(八二七)年の『大地震により出現したと伝えられる陥没湖で、水深は』十二メートル『あるいは』十七メートル『という。旱魃のときも水位が下がらないとされ、傍らの「黒沼神社」は別名「蛇王神社」といって、古来から竜神信仰による雨乞いの神として平鹿・仙北地方の農家の信仰を集めたという。また、この「黒沼」と、南西約』五キロメートル『にある「鶴ヶ池」(横手市山内土渕字鶴ヶ池。「塩湯彦神社 鶴ヶ池里宮」』『)とは水底で繋がっているというトンデモな伝説もある』。『「黒沼」に関する伝説は他にもある(というか、こちらが本筋。)。伝説であるから、いろいろなヴァリエイションがあるが、最も簡単なものは「貧しい旅人が南部(旧・南部藩領?)で若い女から黒沼に住む妹に手紙を渡すように頼まれ、手紙を届けたお礼に三角形の重たいものをもらった。それは黄金の塊で、旅人は忽ち大金持ちになった。」というものである。ここで示唆されるのは、当地に金の鉱山があったことと、その富に由来する長者が居たということだろう。注目されるのは、この長者の名が「地福長者」というところである。かつて、「黒沼」の更に奥に、「大松川ダム」建設によって集団移転した「福万」という、めでたい地名の集落があった。江戸時代の紀行家・菅江真澄は、「地福長者」の福と、「満徳長者」の満(万)を合わせた地名ではないかとしている。「満徳長者」は、出家して保昌坊と名乗り、「湯ノ峰白滝観音」』『の施主になったと伝えられている』とあった。この「福万」、「ひなたGPS」で現在の「大松川ダム」の「みたけ湖」の最奥の箇所の北の谷相当地区に、戦前の地図で「福萬」を見出せた。但し、最後に佐々木の不審な附記がある。]

 その沼の少し手前へ差しかゝると、それこそ俄に黑雲の大嵐が起つて、一寸先へも進まれない程であつたが何とかして少しでも早く村の人達に追(カ)ツつきたいものだと思つて、大風雨の中を押切つて、脇見もせずに沼のほとりを大急ぎで行くと、不意に後(ウシロ)から、善平どの、善平どの、ちよつと待つておくれあンセと云ふ聲がした。善平が振返つて見ると、十七、八ぐらゐの美しい娘が子どもを抱いた姿で、沼の中から出て來た。

 善平が不思議に思つて小立ちをして居ると、その女は善平に近寄つて來て、お前を呼びとめたのは外でも無いが、妾はこの沼の主である。お前を故鄕(フルサト)の吉里々々から此處まで呼び寄せたのも實はこの妾である。妾はわざとお前に同行の人達とは違った道をとらせて、この沼のほとりへ來て貰つたのである、妾はこの沼へ嫁に來てから三年にもなるけれども、まだ一度も故鄕の父母のもとへ歸ったことがない、それでその父母が戀(コヨ)しくてならぬ。それでお前を見込んでの賴みである。この手紙を私の故鄕の父母の許へ屆けてもらいひたい。私の故鄕と云ふのは大阪の西の赤沼と云ふ沼である。どうかお賴み申します。それからこの手紙を持つて行つたら、私の父母はきつとお前に何かお禮をすることであらうから受けてクナさい。そしてこれはほんの僅かの錢ではあるけれども、私の心差しだから、旅の費用として使つてクナさい。ただこの錢は緡(サシ)から、みんな取らずに一文でも五文でも殘して置くと翌朝になれば復《また》、元の通りになつて居ります。必ず妾の言葉を疑つてはなりませんと言つて、一貫緡(サシ)の錢と、一封の手紙を善平に手渡した。

[やぶちゃん注:「小立ち」ちょっと立ち止まっていることか。

「大阪の西の赤沼と云ふ沼」不詳。]

 善平は沼の主から一封の手紙と錢緡(サシ)とを受取つて、それから大阪表へ行つた。人傳《ひとづて》に聞くと、赤沼といふ所は、何處かにあるにはあるが、其所へ行つた者に二度と歸つて來た者がない。それは大變な魔所であるから、そんな所へはお前も行かぬ方がよいと、聞く人每に言ふのであつた。さうは言はれても善平はあれ程までに堅く賴まれたものだからと思つて、思ひきつてその赤沼の方へ行つた。向うの方に大きな沼が見え出した。善平が沼の邊まで行くと、その少し手前から俄に黑雲が起り大嵐になつて一寸先きも見えなくなつた。それでも怖れないで沼の岸へ行つて、トントンと手を打つと、沼の逆卷く浪の眞中から一つの小船が現はれた。その船の中には一人の爺樣が居て舟を岸邊に着けた。そしてこれはこれは南部の善平どのであつたか、よくこそ娘の手紙を持つて來てクナされた。まづまづこの船に乘つて私の家にアエデ[やぶちゃん注:東北方言の「行つて」であろう。]おくれエあれと言つた。善平は何も惡いことをした覺えもなし、別に怖れることもないから、言はれるまゝに爺樣と一緖に船サ乘つて沼の眞中へ行くと、舟はズブンと沈んでしまつた。あツと思ふ拍子に善平は實に立派な座敷の中に坐つて居た。其所へ一人の品のよい婆樣が出て來て、善平が出した手紙を見たり、なほ善平から秋田の黑沼の娘が孫までも抱いて居たツけと謂ふ話などを聽いたりして、お前の話を聽いて娘に逢つたと二つない[やぶちゃん注:「全く同じくした」の意であろう。]喜びだと言つてひどく喜んだ。そして色々と善平をもてなした。善平はすゝめられるまゝに其の夜は沼の底の館に泊まつた。翌朝起きると、直ぐに見たこともない多くの御馳走が出た。そして朱塗りの盆に山ほどの黃金を盛つてくれた。それからまた舟で沼の岸邊まで送り屆けて貰つて、無事に陸へ上つた。

 善平はそれから大阪表へ引返すと、街中で故鄕の參宮の人達と出會つた。あれア村の善平ではないか。お前ナンして來てヤと、皆が驚いて言つた。善平は俺はお前達の後(アト)を追うて此所まで來たが、お前たちは四國へ渡つたかと訊くと、アア其所からの歸りだと言ふので、それでは俺もこれから四國へ渡ると言つて、故鄕の人達と別れて四國へ渡り金比羅詣りも無事に濟まし、西國巡りも札場々々を變りなく踏んで(打つて)首尾能く奧州に歸つて來た。そしてその黃金や盡きぬ錢緡などで、忽ち長者となり、奧州東濱では一とあつて二とはないと言はれるほどの並ぶ者ない、吉里々々の善平長者と呼ばはれる身分身上とはなつた。

 この善平長者は、每年秋田の黑沼へお禮參りに行くのが慣例であつた。その時には餅米一斗を餅に搗いて、戶板に乘せて沼の上に浮べると、それがひとりでに、しらしらと水の上を走つて沼の眞中へ行つて、餅は沈んで、戶板ばかりがもとの岸邊に戾つて來るのであつた。これは善平長者代々の吉例であつた。ところが近代の主人が、それを否消(ヒゲ)して、その行事を怠つたために忽ちに貧乏になつた。今では後世(アトセ)も無くなつて、その邸跡には大きな礎石ばかりが殘つて居る。

  (黑沼と云ふ沼は、話者は秋田の國と話した。私の想像では田澤湖ではないかと思つたりした。外に斯樣《かやう》な沼のあると云ふことを此國では聞かぬからである。)

[やぶちゃん注:最後の附記は底本では全体が二字下げポイント落ち。

「田澤湖」ここ。しかし、ここでは吉里吉里から北西に当たり、西に向かう善平がそこまで方向違いに間違えるのは、ルングワンダリングとしても方向が明後日過ぎて、認め難い。「黒沼」は吉里吉里から真西であり、北上で南下しなかったのは不審であるが、何らかの神秘的な誘いによって、どんどん西へ向かって山中に入ったとすれば、田沢湖よりは無理がない。単に佐々木は中古以来ある黒沼の実在を知らなかったのであろう。]

2023/03/21

和漢三才圖會 卷第二十 母衣

 

[やぶちゃん注:〔 〕は私の補塡。矢印は私の補正。【 】は二行割注。画像は「東洋文庫」(島田勇雄他訳注・第四巻・一九九六年刊)のものをトリミング補正した。]

 

Horo

 

ほろ   母羅 縨【俗字】

母衣   【保呂】

 

母衣五幅五尺【七幅七尺八幅八尺】近代六幅七尺

中錄緒 一尺二寸【或二尺八寸】幅六分自上三尺下附之

波不立緒 長九尺、周六分組絲也

𧚥【比太】 如六幅の母衣除兩端二幅以中四幅寄八𧚥

籠【加古】 竹骨三十二本或三十或十二本

 如以母衣飾之臺槃髙一尺九寸方八寸【下闊方二尺五寸】

 串波不立緒與串結置之

 母衣始于漢樊噲出陣時母脫衣爲餞別噲毎戰被衣

 於鎧奮勇殊拔群【一說非樊噲爲後漢王陵故事】其後馳驅武者用之

   *

ほろ   母羅〔(ほろ)〕 縨〔(ほろ)〕【俗字。】

母衣   【保呂】

 

母衣、五幅〔(いつの)〕五尺【七幅七尺、八幅八尺。】、近代、六幅七尺。

中錄〔(ちゆうろく)〕の緒〔(を)〕は、一尺二寸【或〔いは〕、二尺八寸。】、幅〔(の)〕六分、上より三尺下に、之〔れを〕附く。

波立〔(なみたた)〕ずの緒は、長〔(たけ)〕九尺、周〔(めぐり)〕六分の組絲〔(くみいと)〕なり。

𧚥(ひた〔→ひだ〕)【比太。】 六幅〔(むつの)〕の母衣の如きは、兩端二幅〔(ふたの)〕を除き、以中〔(なかの)〕四幅〔(よの)〕に八𧚥を寄〔(よそ)〕ふ。

籠(かこ〔→かご〕)【加古。】 竹の骨、三十二本、或〔いは〕、三十、或、十二本。

 如〔(も)〕し、母衣を以〔て〕、之〔を〕飾るには、臺槃〔(だいばん)〕髙さ一尺九寸、方八寸【下の闊〔(ひろさ)〕、方二尺五寸。】、二〔→(ここに)〕、串を立〔て〕、「波立ずの緒」を、串〔と〕與(〔と〕)もに、結〔びて〕、之を置〔く〕。

母衣は、漢の樊噲〔(はんくわい)〕に始〔(はじま)〕る。出陣の時、母、衣を脫〔(ぬぎ)〕て、餞別(はなむけ)と爲〔(な)〕す。噲、戰〔(いくさ)の〕毎〔(たび)〕に、衣を鎧に被(かつ)け、勇を奮つて、殊に拔群なり【一說に樊噲〔に〕非〔ず〕、後漢の王陵か〔→が〕故事と爲〔す〕。】。其れより後、馳驅〔(ちく)〕の武者(むしや)、之〔を〕用〔ふ〕。

[やぶちゃん注:図のキャプション(部位名その他)は、右下方に「並不立緖」、中央上に「日之緖」、中央(左方向に指示線有り)に「四天ノ緖」、そのやや左上に「姓氏字」(「字」は「あざな」)、左上から「大奮威緖」(だいふんいのを)、「中録緖」とある。

「母衣」小学館「日本大百科全書」によれば、『甲冑の背につけた幅の広い布で、風にはためかせたり、風をはらませるようにして、矢などを防ぐ具とした。五幅(いつの)』(約一・五メートル:「幅(の)」は布帛類の幅(はば)を表わす単位。現在では通常は鯨尺八寸(約三十センチメートル)或いは一尺(約三十八センチメートル)の幅を指す)、乃至、三幅(みの)(約九十センチメートル)『程度の細長い布である。中世以降、色を染めたり、紋章をつけて旗幟(きし)のかわりともした』。「三代実録」の貞観一二(八七〇)年の条に、『その名称があって甲冑の補助とするとあり』、「本朝世紀」の久安三(一一四七)年の『条に、幅広い布を鎧武者(よろいむしゃ)がまとい、これを世人が「保侶(ほろ)」とよんだとし、また中世』、「吾妻鏡」の建仁三(一二〇三)年の『条に母衣の故実』『の記事がみえる。絵画としては』、「平治物語絵巻」(六波羅合戦)や、『法隆寺の絵殿の太子絵伝に母衣着用の騎馬の甲冑姿がある』。「保元物語」「平家物語」「太平記」などに『登場する華麗な戦衣でもある。近世に至って、神秘的な付会もされ、種々な故実も生じた。古くは十幅』(約三メートル)で、一丈(約三メートル)『などという大きなものがあったが、ほぼ』一・五『メートル四方程度となった。しかしとくに一定した寸法の定めはない。上辺と下辺に紐』『をつけて背に結び、あるいは、竹籠』『を母衣串(ほろぐし)につけてこれを包み、背後の受け筒に挿したりして、一種の旗指物(はたさしもの)ともなった。別に背に負うた矢を包む母衣状の矢母衣(やぼろ)もある』とある。

「𧚥」「籠」母衣の各種の部分名のようである。

「臺槃」図の下方にあるように、母衣を安置する支えの台のようである。但し、「槃」の字自体は「平たい鉢・盥」をいう漢語である。

「樊噲」漢文の教科書で必ずやる「鴻門之会」でお馴染みの、前漢の高祖劉邦の功臣。劉邦と同郷で沛(はい)の人。紀元前二〇六年、楚王項羽と劉邦とが鴻門に会した際、謀殺されそうになった劉邦を機転を以って脱出させた。のち、劉邦が漢王になると、将軍に任ぜられ、功を成した。紀元前前一八九年没。

「王陵」前漢の宰相で、同じく沛の人。項羽との戦いで、劉邦に味方した。東洋文庫の注によれば、『項羽は陵の母を捕え、陵を自陣につけようとしたが、母は自殺して陵をはげましたという』とある。安国侯に封ぜられ、後、恵帝の右丞相となった。紀元前一七七年没。]

早川孝太郞「三州橫山話」 鳥の話 「ニホヒ鳥」・「ウイ鳥」・「佛法僧の鳴き聲」・「雨を降らせる水戀鳥」・「シヨウビン(翡翠)の巢」・「弟を疑つた杜鵑」・「鶺鴒のこと」・「種々な鳥の鳴聲」 / 鳥の話~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○ニホヒ鳥  ニホヒ鳥が病人のある家を中にはさんで鳴き交はすと、其病人は助からぬと謂ひます。鳴く聲がちようど[やぶちゃん注:ママ。]病人の呻吟するやうに聞えるのでつけた名と謂ひますが呻吟することを、ニホフと謂ひます。

 日の暮れ方か明け方日の出前に、谷間の木立や、山の窪のやうな所で鳴きましたが、眼の前に瀕死の病人が呻《うめ》いてゐるかと思ふ程で、淋しいものでした。姿を見た者はないと謂ひます。

[やぶちゃん注:「ニホヒ鳥」「匂ひ鳥」と漢字を当てる。スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone の別名。本邦に棲息する種及び博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす) (ウグイス)」を参照されたいが、私はホトトギスの鳴き声(ね)を不吉とする伝承はよく見かけるが、ウグイスは、まず、聞かないので、ちょっと意外であった。ウグイスの「チャッチャッ」という地鳴きを指すか。

「呻吟することを、ニホフと謂ひます」当地の方言のようである。]

 

 ○ウイ鳥  これも夏の明け方に、ニオヒ鳥と同じやうな場所で鳴く鳥で、スーツ、スーツと云ふやうな聲で鳴きました。川を隔てた遠くの山などで鳴くのが、朝の靜かな中で淋しく響きました。この鳥とニオヒ鳥が鳴き交《かは》すと、矢張人が死ぬと謂ひました。

[やぶちゃん注:「ウイ鳥」ツバメを「烏衣鳥」(ういどり)と別称するが、どうも違う。思うに、これは季節かみて、「チョットコイ」で知られるキジ目キジ科コジュケイ属コジュケイ(小綬鶏)Bambusicola thoracicus thoracicusの地鳴きを指しているように思われる。YouTubeの川上悠介氏の「コジュケイ 地鳴き」を聴かれたい。]

 

 ○佛法僧の鳴き聲  佛法僧は、鳳來寺山にも棲むと云ひますが、雄はブツポウと鳴き、雌は、ソウと鳴くと謂ひます。私が聞いた聲は、單にホウホウと謂ふやうに聞へました。其後北山御料林で、夜鳴いてゐた鳥が、同じ鳴音《なきね》と思つたので、居合せた瀧川村の山田廣造と云ふ人に訊きますと、鳩程の大きさの鳥で、目の圍《まは》りに黃色い羽毛のある鳥だと謂ひました。

[やぶちゃん注:「佛法僧」先行する「水神樣」の「鳳來寺」の私の注を参照されたいが、「私が聞いた聲は、單にホウホウと謂ふやうに聞へました」というのは、頗る正しい感想で、これが「声の仏法僧」=フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus sunia であり(姿は学名のグーグル画像検索を見られたい)、「鳩程の大きさの鳥で、目の圍《まは》りに黃色い羽毛のある鳥」(これは嘴の色の誤認。学名のグーグル画像検索を見られたい)というのが、「姿の仏法僧」と呼ばれる、日本には夏鳥として飛来するブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis である。この誤認が正されたのは、本書刊行から十四年後の昭和一〇(一九三五)年のことで、実に一千年にも及び、鳴き声を勘違いされてきたことで知られる。

 

 ○雨を降らせる水戀鳥  水戀鳥《みづこひどり》が鳴けば雨が降ると謂ひます。夏の初め呼子の笛を吹くような聲で鳴きます。

 水戀鳥は前世は女であつて、家の人達が仕事に出た留守を預かつてゐて、馬に水を與へる事を怠つた爲めに、其罰で鳥に生まれて來たと謂ひます。水を飮まうとして川へ行くと體が紅《あか》い所から、其れが水に映つて、火に見えるので飮む事が出來ないで、空に向つて鳴いて雨を喚ぶと謂ひます。雨が降れば其《その》滴《しづく》で喉を潤してゐるのだと謂ひます。

[やぶちゃん注:「水戀鳥」これは現行では、ブッポウソウ目カワセミ科ショウビン亜科ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromanda の何とも哀しい美しい異名和名である。カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis との類似性が気にはなるが、「體が紅い」というのは、より体全体が赤みを帯びているアカショウビンに相応しいのでそれに比定しておく。]

 

 ○シヨウビン(翡翠)の巢  シヨウビンの巢は川に沿った崖などに橫に穴を造つてあると謂ひますが、巢の繞《まは》りに、ナメクジの這つた跡が幾重にもついてゐると謂ひます。それは蛇を防ぐ爲めだと謂ひますが、どうしてナメクジを連れて來るか、その事は聞きません。

[やぶちゃん注:「シヨウビン(翡翠)」これは先行する「水潜りの名人」から、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis と比定する。ナメクジと関係性は生態学的には私は不詳である。]

 

 ○弟を疑つた杜鵑   杜鵑《ほととぎす》は、カツチヤン、カケタカと云つて鳴くと謂ひますが、また弟戀《おととこひ》しやと鳴くとも言います。それについて、こんな話があります。

 杜鵑は、昔盲目で、弟と二人暮らしであつたさうですが、家が貧しくて、碌に美味いものも喰べられないので、或時、弟が山へ行つて山芋(自然薯)を堀つて[やぶちゃん注:ママ。]來て、自分は皮や固い不味いところばかり喰べて、兄の杜鵑には、柔かで美味いところを選んで喰べさせると、兄の杜鵑は其味のいゝのに驚いて、盲目の兄にくれた所がこんなに美味いのでは、眼の見える弟の喰べたところは、どんなに美味からうと、一人言《ひとりごと》を云つて、目の見えぬ事を嘆いたので、弟が其れを聞いて口惜しく思つて、兄さんは眼が見えないので、特別に美味いところを差上げたけれど、それ程に疑ふのならば、私の食べたのを腹を立割《たちわつ》て見せてあげたいと言ふと、杜鵑は、すぐ弟の腹を斷つて、だんだん腹の中を探つて行くと、眼の見えぬ杜鵑にも判る程、ゴツゴツした味もないやうなところばかり喰べてゐたのに、初めて弟を疑つて殺してしまつたのを後悔して、氣も狂ほしくなって、弟戀しやと叫びながら、家を迷ひ出でゝ鳴くのだと謂ひます。

[やぶちゃん注:「杜鵑」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を参照されたい。そこにもあるが、この悲しい「兄弟殺し」譚のルーツは中国である。]

 

 ○鶺鴒のこと 鶺鴒《せきれい》はゴシンドリと呼んで、庚申のお使鳥《つかひどり》だと謂ひます。それ故この鳥を殺せば神罰があると謂ひます。

[やぶちゃん注:横山の位置から、スズメ目セキレイ科セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ Motacilla alba lugens(北海道及び東日本中心)、或いは、セキレイ属セグロセキレイ Motacilla grandis と比定出来る。博物誌は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 白頭翁(せぐろせきれい) (セキレイ)」を見られたい。

「ゴシンドリ」不詳。「御神鳥」(根っこは伊耶那岐・伊耶那美に「みとのまぐはひ」を教えたことからであろうか)或いは「護身鳥」か?

「庚申のお使鳥」私には初耳である。調べてはみたが、納得出来る記載はちょっと見当たらなかった。]

 

 ○種々な鳥の鳴き聲  頰白は、テントニシユマケタ、シンシロイチヤ二十八日と鳴くと謂ひます。燕は、トキワの國では、芋喰《く》つて豆喰つて、ベーチヤクチヤ、クーチヤクチヤと鳴くと謂ひます。

 梟は、ゴロスケと呼んでゐて、ゴロスケホーコ、去年も奉公、今年も奉公と鳴くなどゝ謂ひます。

 早川種次郞と云ふ男が、子供の頃、首ツチヨと云ふ罠を裏の山へかけた時、それにかゝった鳩の形した鳥は、猫と少しも違はぬ鳴聲を立てゝゐたと謂ひました。

[やぶちゃん注:「頰白」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsis。博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 畫眉鳥(ホウジロ) (ホウジロ・ガビチョウ・ミヤマホオジロ・ホオアカ)」を参照されたい。

「テントニシユマケタ、シンシロイチヤ二十八日」「一筆啓上仕候」「源平つつじ白つつじ」等のそれはあるが、この聴きなしの意味は私には不明。

「トキワの國」「常盤(常磐)の國」。平凡社「世界大百科事典」に、中世の物語草子や説経節などの語り物、或いは、諸国の田植歌などに現われる国の名。戌亥(北西)の方角にある祖霊のいる国とされ、富や豊饒の源泉と考えられ、燕・時鳥・鶯などの、祖霊の使者とか、乗物と考えられている鳥が媒(なかだ)ちをすると考えられた。「常磐」は「常にその性質を変えずに存続する岩」の意であるが、これを「とこよ(常世)」と混同して、ほぼ「常世」と同義に用いられたものらしい、とある。

「首ツチヨ」「首っちょ」で野鳥の小鳥の首を挟み込んで捕獲する発条仕掛けの罠。植田光晴氏のサイトのこちらに詳しい解説がなされてあるので、見られたい。また、NISSIE'S Home Page」内の「首っちょ」に実際の罠の写真と、構造図が示されてあるので、そちらも参照されたい。

「鳩の形した鳥は、猫と少しも違はぬ鳴聲を立てゝゐた」種不詳。]

早川孝太郞「三州橫山話」 鳥の話 「人を化かす山鳥」・「肉の臭い山鳥」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○人を化かす山鳥  山鳥の尾に一三の斑《まだら》のあるものは、人を化かすと謂ひます。又山鳥の、人閒が近づいても逃げないやうな奴は、決して構ふものではないと謂ひます。明治三十年頃、私の家に子守をしてゐた山口末吉と云ふ當時十五六歲の子供が、山鳥に化かされたと云つた事がありましたが、何でも子供を背負つて裏の山へ行くと、眼の前に大きな山鳥がゐたので、其を捕へやうとして、尾を握《つか》むと、スルリと拔けて、鳥は五六尺前へ逃げるので、又後を追って握むと、矢張スルリと拔けてしまつたさうです。斯うして段々山深く、日が暮れるのも忘れて、山へ入つたと謂ひました。

 又、尾に十三段の斑があるものが、夜、山から山へ越す時は、人魂のやうな、長く尾を引いた火に見えると謂ひます。

 山鳥の尾は魔除けになると謂つて、人家の門口にさしてあるのを、よく見かけますが、十三段の斑のあるものは、井戶を掘る時、豫《あらかじ》め掘らうとする場所へ立てゝ置くと、一夜の内に、水のある深さ迄露が昇つてゐると謂ひます。例へば斑の十段目に露があれば、十ひろの深さに水がある兆しだと謂ふのです。

[やぶちゃん注:日本固有種であるヤマドリは、

キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans

ウスアカヤマドリ(薄赤山鳥)Syrmaticus soemmerringii subrufus

シコクヤマドリ(四国山鳥)Syrmaticus soemmerringii intermedius

アカヤマドリ(赤山鳥)Syrmaticus soemmerringii soemmerringii(基亜種)

コシジロヤマドリ(腰白山鳥)Syrmaticus soemmerringii ijimae

の五亜種がいるが、横山周辺で見られるのは、ヤマドリと、ウスアカヤマドリである(リンク先は学名のグーグル画像検索。尾の段々が明瞭に見てとれる)。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を見られたい。

「明治三十年」一八九七年。

「私の家に子守をしてゐた」著者早川孝太郎は明治二二(一八八九)年生まれであるから、満で八つの頃である。

「十ひろ」約十八メートル。]

 

 ○肉の臭い山鳥  山鳥には、非常に肉の臭いものがあつて、折角擊つても喰べる事が出來ないと謂ひます。

 又別の話では、肉が臭いのではなく、擊ち所が惡いと臭いのだとも謂ひます。

[やぶちゃん注:小学館「日本大百科全書」の「ヤマドリ」の「食用」の項には、『肉質、風味ともキジ』(キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor)『肉に似ている。猟鳥なので、山間部や観光地での郷土料理としてすき焼き、炊(た)き込みご飯、つけ焼き、から揚げなどにして食べられている。内臓のにおいが強いため、肉にも』、『いくぶんにおい』(山鳥の糞は臭いことで知られる)『が残るが、みそ、ショウガ、ネギなどを用いるとにおい消しができる』とあった。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 うた(ギユスターブ・カアン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  う た カアン

 

おおはなやかなきれいな四月、

おまへの陽氣な唄のこゑ、

白いリラ、 さんざしの花、 枝をもれくる黃金(こがね)の日ざし、

でもわたしに何であろ、

可愛い女は遠くへはなれ、

北國のさ霧のなかにゐるものを。

 

おおはなやかなきれいな四月、

二度の逢瀨はつれないゆめよ、

おおはなやかなきれいな四月、

かあい女がまたやつてくる。

リラの花、 黃金(きん)の日ざしの花かざり、

もう、 わたしは有頂天、

 

はなやかなきれいな四月。

 

[やぶちゃん注:ギュスターヴ・カーン(Gustave Kahn 一八五九年~一九三六年)はフランスの詩人。サイト「鹿島茂コレクション」の「18,19世紀の古書・版画のストックフォト」のこちらによれば、メッス生まれ。国立古文書学校を卒業後、四年間、アフリカに滞在した。その後、パリで『ヴォーグ』(La Vogue:「流行・人気」の意)、『独立評論』(Revue independante)の『両誌で、編集者としてアルチュール・ランボー、ジュール・ラフォルグらの作品を積極的に紹介し、また、自ら』も、詩人として「自由詩」(Vers libre)を『実践することで当時の文学運動の中心的存在となった。また美術批評も多く残しており、紹介文を書いている』美術評論家『フェリクス・フェネオン Felix Feneon』(一八六一年~一九四四年)『とともに後期印象派の画家たちを擁護した』とある人物である。幾つかのフランス語の単語で検索したが、原詩は遂に見当たらなかった。

「リラ」フランス語「Lilas」。モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ライラック Syringa vulgaris のこと。紫色の花がよく知られるが、白いものもある。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「さんざし」「山査子・山樝子」で落葉低木のバラ目バラ科サンザシ属 Crataegus。タイプ種はサンザシ Crataegus cuneata同前(属名)でリンクを張っておく。]

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 四 足高蜘の變化の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]

 

     足高蜘(あしたかぐも)の變化(へんげ)の事

 

Asidakagumonokai

 

[やぶちゃん注:上では、右上端にあるキャプションが完全に切れて映っていないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで見ると、「ある山里にて大也」(なる)「くもばける所」と読める。]

 

 ある山里に住みける者、いと靜かなる夕月夜に、慰みに出でたるに、大きなる栗の木の叉(また)に、六十許りになる女(をんな)、鐵漿(かね)をつけ、髮のかすかに見えたるを、四方に亂し、彼(か)の男を見て、けしからず、笑ふ。

 男、肝(きも)を消し、家に歸りて後(のち)、少しまどろみけるに、さきに見えける女、現(うつゝ)のやうに遮(さへぎ)りける故、心凄くて、起きもせず、寢もせで、ゐたる所に、月影に、うつろふ者、あり。

 晝、見つる女の姿、髮の亂れたる體(てい)、少しも變はらず、恐ろしさ、比(たぐひ)なくて、刀(かたな)を拔きかけて、

『いかさま、内(うち)に入りなば、斬らんずるものを。』

と、思ひ設(まう)けてゐたる所に、明障子(あかりしやうじ)をあけて、内に入りぬ。

 男、刀を拔き、胴中(どうなか)を、かけて切つて落としたり。

 化け物、斬られて弱るかと見えしが、男も、一刀(かたな)切つて、心を取り失ひける時、

「や。」

といふ聲に驚き、各(おのおの)、出であひ見るに、男、死に入りてぞ、ゐたりける。[やぶちゃん注:気絶・失神したのである。]

 やうやう、氣をつけられ、舊(もと)の如くになりにけり。

 化け物と覺しき物は無かりしが、大(だい)なる蜘蛛の足ぞ、切り散らしてぞ、侍る。

 かかる物も、星霜(せいさう)經(ふ)れば、化け侍るものとぞ。

[やぶちゃん注:「足高蜘」挿絵の右上には巣の網が描かれてあり、変化の原様態の形状を描いたそれを見るに、私は節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Trichonephila clavata をモデルとするものであろうと推理する。なお、現在の本邦には、クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモHeteropoda venatoria がおり、現在の本邦に棲息する徘徊性のクモとしては最大種で、人家に棲息する最大級のクモとしてもよく知られるそれがいる。我が家では昔からの馴染みで、若い頃、深夜、寝ていたところ、顔に掌大の彼が登り、その八つの脚のクッと構えた感じが顔面全体で、ありありと感じられて、眼を覚まし、大乱闘の末、外に逃がしたこともあった。しかし、本篇の蜘蛛は、このアシダカグモでは、ないのである。何故なら、江戸時代にはアシダカグモは本邦いなかったからである。当該ウィキによれば、『原産地はインドと考えられるが、全世界の熱帯・亜熱帯・温帯に広く分布している』。『アシダカグモは外来種で、元来は日本には生息していなかったが』、明治一一(一八七八)年に『長崎県で初めて報告された』。『移入した原因としては、輸入品に紛れ込んでいた可能性が考えられる』とあるのである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 九番 黃金の臼

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   九番 黃金の臼

 

 昔、橫田村(今の遠野町)に孫四郞といふ百姓があつた。或日の朝、草苅りに物見山へ行つて、嶺(ミネ)の沼のほとりで草を苅つて居ると、不意に、孫四郞殿、孫四郞殿と自分の名を呼ぶ者があつた。誰かと思つて四邊を見たが人影もない。これは俺の心の迷ひだべと思つて、なほも草を苅り續けて居るとまた孫四郞殿、孫四郞殿と呼ぶ聲がする。初めて氣がつくと、沼のほとりに美しい女が立つて、こちらを手招ぎをしていた。孫四郞はこれは魔えん魔神(マシン)のものではないかと思つて魂消(タマゲ)て見て居ると、女は笑ひかけて、私は大阪の鴻ノ池《こうのいけ》の娘であるが、先年この沼へ嫁に來てから永い間實家(サト)の方サも便りをしたことがない。お前樣は近い中《うち》に伊勢參宮に上(ノボ)ると謂ふから、その序《ついで》にこの手紙を私の實家(サト)へ屆けてクナさいと言つて、一封の手紙を出した。そして大阪の鴻ノ池に往く路筋(ミチスヂ)や、いろいろな事を斯《か》うしろあゝしろと敎へた。そしてこれは、ほんのシルシばかりだが道中の饌だと言つて錢百文を渡したうへ、この錢は皆んな使はないで一文でも二文でも殘して置くと、翌朝にはまた元の通りに百文になつてゐるから必ず少しは殘して置けと言ひ聞かせた。孫四郞は賴まれるまゝに女から手紙と錢百文を受取つて其の日は家に歸つた。

[やぶちゃん注:「橫田村(今の遠野町)」現在の岩手県遠野市のこの中央附近であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「物見山」現在の遠野町市街地の南背の遠野市綾織町下綾織にある物見山(同前)。標高九百十六メートル。

「大阪の鴻ノ池」大坂の富商。寛永二(一六二五)年に初代善右衛門が海運業を始め、主として諸侯の運送等を引き受け、のち両替商として大をなした。

「魔えん」「魔緣」は、厳密には、仏教に於いて正道を妨げる障魔となる悪縁(三障四魔)を指すが、同時に、特にそうした仏道修行を妨げる魔王である第六天魔王波旬(他化自在天)をも指し、さらに広義には、所謂、慢心した山伏らが変じた妖怪としての天狗、即ち、魔界である天狗道に堕ちた者たちの総称としても用いる。ここは「悪鬼」の謂いであろう。

「道中の饌」「饌」は「供え物・飲食すること」で、音は「セン・サン」であるが、「ちくま文庫」版では『餞(はなむけ)』とある。その方が、躓かない。]

 それから間もなく村の衆どもに、伊勢參宮に往くべえという話が持ちあがり、話が順々に進んで、孫四郞もその同行の丁人に加つて上方へのぼつた。ところが沼の女からもらつた錢が、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に幾何《いくら》使つても使つても翌朝はもとの通りになつて居た。さうして漸く大阪に着いて諸所を見物してから、俺は一寸用達《ようた》しに行つて來ると言つて、同行に別れて物見山の女に敎はつた通りの道を行つた。すると一々樹木の立つてゐる樣や山の樣子が女の言つた通りであつた。山の中に入つて行くが行くが行くと、廣い池があつた。此所だと思つて、池のほとりに立つてタンタンタンと三度手を叩くと、一人の若い女が池の中から現はれた。孫四郞は俺は奧州の遠野といふ所の者だが、物見山の沼の姉樣から斯謂《かういふ》手紙を賴まれて來た。受取つてケてがんせと言つて出すと、その女は手紙を手に取つて見てから、ひどく喜んで、お前樣のお蔭で永年逢はない妹が無事で居ると謂ふことが分つて、これ程嬉しいことはない。この返事を遣《や》りたいから暫時(シバラク)待つてクナさいと言つて、其儘池の中に入つて行つたが、直ぐに一封の手紙を持つて來て、これをまた物見山の沼の妹のもとへ持つて行つて貰ひたいと言つた。孫四郞が心よく賴まれると、女はさもさも嬉しさうに禮を言つて、お前樣は私の爲めに同行に遲れたのだから是から馬で送つて上ませう。一寸(チヨツト)待つてクナさいと言つて、するすると水の中に入つて行つたが、直ぐに一疋の葦毛馬を引いて來て、さアこれに乘つて行きなさい。そして同行に追(カツ)ついたら此馬を乘り捨てるとよい。さうすれば獨りでに此所へ歸つて來るからと言つた。孫四郞は女に言はれるままに馬に乘つた。すると女は、目を瞑(ツム)つて開(ア)くなと言ふ。何もかにも女の言ふが儘にして居ると、馬は二搖(ユ)り三搖り動いて脚を止めた。孫四郞が目を開いて見ると、同行は目の前の道中の茶星で憩《やす》んで居る處であつたから、孫四郞は馬から下りた。すると馬はそのまゝもと來た道へと駈け戾つたやうであつたが、ヒラツと見えなくなつた。

 同行の者等は驚いて、孫四郞お前は何處さ行つて來てア、彼《あ》の馬は何所から乘つて來たと口々に尋ねた。また其所の茶店の亭主も、お前樣の行かれたと謂ふ路に入つた者に今迄一人として戾つて來た者が無いから今も其話をして心配して居たところだつた。お前樣はどんな所へ行つて來たと頻りに仔細を問ふた。けれども孫四郞はただ夢のやうで、何が何だか一向分らないと言つて何にも言はなかつた。一同はともかくも孫四郞が無事に歸つて來たことを喜んだ。そうして[やぶちゃん注:ママ。]伊勢參宮も無事にすまして遠野に歸つた。

 孫四郞は鴻ノ池の主(ヌシ)から、ことづかつた手紙を持つて物見山の沼へ行つた。そしてタンタンタンと三度手を打つと、いつかの女が出て來た。孫四郞はお蔭で無事に參宮して來たことの禮を言つた後、お前樣の手紙を鴻ノ池の姉樣に屆けると、この手紙を、よこしたと言つて手紙を渡した。女は大層喜んで、この手紙を讀んで姉と逢つたと二つない喜びだ。これも是も皆お前樣のお蔭だ。けれども何もお禮に上《あげ》る物はないが、この挽臼《ひきうす》を上るから大事にしろ。この挽臼は一日に米一粒づゝ入れて一回轉(ヒトカヘリ)廻(マワ)せば、金粒が一つづゝ出る。決して一カエリの上、廻すなと言つて、小さな石の挽臼をくれた。そして女は沼の中に入つて行つてしまつた。

 孫四郞はその挽臼を大事に神棚に上げて、每日、米一粒入れて廻しては金粒一個(ヒトツ)づゝ出して、次第次第に長者になつた。ところが或日、夫の留守に其の妻が、家の人はこの臼コから獨りで金を取つて居るが、おれもホマツをすべと思つた。それには何時(イツ)も彼時(カツ)もさう勝手には出來ないから、一度にうんと金粒を出さうと思つて、ケセネ櫃《びつ》から米を大椀で一盃持つて來て、ザワリと其の挽臼に入れて、ガラガラと挽き廻した。すると挽臼はごろごろと神棚から轉び落ち、主人が每朝あげた水をこぽして、自然に小池となつて居た水溜りに滑り入つて見えなくなつてしまつた。

  (この譚は「遠野物語」にも話し、また別話ではあるが物見山の沼の譚は「老媼夜譚」にも採錄してある。ただし本話は内容が變つているから又採記錄した。決して重複ではないのである。[やぶちゃん注:丸括弧閉じるがないのはママ。]

  (孫四郞の末孫と謂ふのが、今現に遠野町にいる池ノ端(ハタ)と謂ふ家である。挽臼の轉び入つたと謂ふ池もあつたが、明治二十三年のこの町の大火の時に埋沒して今は無いとのことである。)

  (同譚の類話は氣仙郡廣田村の五郞沼から八郞沼と云ふに手紙を持つて行つて、萬年臼という黃金を挽き出す寶臼《たからうす》をもらつて歸つたと謂ふ男の話もある。大正十一年五月九日。釜石尾崎《をさき》神社社司山本若次郞氏談話。)

[やぶちゃん注:最後の附記は三条とも全体が二字下げのポイント落ちである。本話は同一の起源に基づく伝承が、附記の最初にある通り、「遠野物語」の「二七」に記されてある。

「ホマツ」「穗末」で、「豊饒の残りに与(あず)かること」の意であろう。

「ケセネ櫃」柳田國男の「食料名彙」(初出『民間傳承』昭和一七(一九四二)年六月~十二月)の「ケシネ」の条に(国立国会図書館デジタルコレクションの「定本 柳田國男集」第二十九卷(一九七〇筑摩書房刊)を視認して示した)、

   *

ケシネ 語原はケ(褻)の稻であらうから、米だけに限つたものであらうが、信州でも越後でも又九州は福岡・大分・佐賀の三県でも共に弘く雑食の穀物を含めていふことは、ちやうど標準語のハンマイ(飯米)も同じである。東北では発音をケセネまたはキスネと訛つていふ者が多く、岩手縣北部の諸郡でそれを稗のことだといひ、又米以外の穀物に限るやうにもいふ土地があるのは(野邊地方言集)、つまりは常の日にそれを食して居ることを意味するものである。南秋田郡にはケシネゴメといふ語があって、是は不幸の場合などの贈り物に、布の袋に入れて持つて行くものに限つた名として居る。さうして其中には又粟を入れることもあるのである。家の経済に応じて屑米雜穀の割合をきめ、かねて多量を調合して貯藏し置き、端から桝又は古椀の類を以て量り出す。その容器にはケセネギツ、もしくはキシネビツといふのもある。ヒツもキツも本来は同じ言葉なのだが、今は一方を大きな箱の類、他は家屋に作り附けの、落し戶の押入れのやうなものゝ名として居る地方が東北には多い。九州の方のケシネは甕に入れ貯藏する。之をケシネガメと謂つて居る。

   *

とある。ここでは、「米を大椀で一盃持つて來て」とあるから、米櫃である。

『「老媼夜譚」にも採錄してある』同書の「四番 黃金丸犬」を指す(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部)。

「明治二十三年」一八九〇年。

「氣仙郡廣田村」現在の陸前高田市広田町(ひろたちょう:グーグル・マップ・データ・。以下同じ)。沼の名は確認出来ない。

「大正十一年」一九二二年。

「釜石尾崎神社」岩手県釜石市平田にある尾崎(おさき)神社。三陸海岸総鎮守を名乗り、当該ウィキによれば、『当社縁起によると、日本武尊が東征の折の足跡の最北端であり、最終地点が尾崎半島であり、その足跡の標として半島の中程に剣を建ておかれたものを、土地の人々が敬い祀った事が当社の起こりであり、祭神は日本武尊であるとされる』とある。]

2023/03/20

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 三 怨念深き者の魂迷ひ步く事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]

 

     三 怨念深き者の魂迷ひ步く事

 

 會津若松といふ所に、「いよ」と云ふ者、有り。

 彼(かれ)が家に、色々、不思議なる事多き中に、まづ、一番に、ある日の酉の刻[やぶちゃん注:午後六時前後。]に、大きなる家を、地震の搖(ゆ)る樣(やう)に、動かす。

 次の日の同じ時に、何とは知らず、家の内へ入り、裏口の戶を叩き、

「初花(はつはな)、初花。」

と、よばはる。

 主(あるじ)の女房、聞きつけて。

「なんぢ、何ものなれば、夜中に來たり、斯くは云ふぞ。」

と叱(しか)らる。

 ばけもの、叱れて、右の方(かた)に、又、口、有りけるが、折りしも、戶をあけおきけるに、其所(そこ)へ、きたりける。

 

Iyokewnokaii

 

[やぶちゃん注:上では、右上端にあるキャプションが完全に切れて映っていないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで見ると、「おんねんふかき者のたましいまよふ事」と読め、また、家の女房が右手に持つ「御祓箱」(以下の本文に出る)の蓋の上には、「太神宮」の文字が書かれているのもはっきりと判る。なお、この「御祓箱」とは、中世から近世にかけて、伊勢神宮の御師(おんし:「御師」(おし)は特定の社寺に所属して、その社寺への参詣者や信者の求める護符の配布や祈禱、或いは、実際の参拝時の案内及び宿泊などの世話をする別当僧や神職を指すが、特に伊勢神宮の場合のみ、差別化して「おし」と呼ぶ)が、毎年、諸国の信者に配って歩いた伊勢神宮の厄除けの大麻(たいま:本来は「おおぬさ」と読むが、「ぬさ」とは「木綿・麻」などを指す。「大麻」とは、お祓いに用いられる用具である細い木に細かく切った紙片をつけた「祓串」(はらえぐし)を指す)を納めた小箱。「はらへ(え)ばこ」とも呼ぶ。]

 

 その姿を見れば、肌には、白き物を著(き)、上には、黑き物を著て、いかにも色白き女房、髮を捌(さば)き、内へ入(い)らんとしけるを、あるじの女房、

『これは、只事ならず。』[やぶちゃん注:後に助詞の「と」が欲しい。]

思ひて、御祓箱(おはらひばこ[やぶちゃん注:ママ。])の有りけるを、取りいだし、

「汝、これに、恐れずや。」

とて、投げつけければ、其のまゝ消えぬ。

 三日目には、申の刻[やぶちゃん注:午前四時前後。]許りに、かの女房[やぶちゃん注:ここは変化の女のこと。]、臺所の大釜の前に來りて、火を焚きて、ゐたり。

 うちの者ども、これを、

「いかに。」

と騷ぎければ、又、消え亡(う)せぬ。

 四日めの晚のことなるに、鄰(となり)の女房、裏へ出でければ、彼(か)の女、垣(かき)に立ちそひ、家の内を見入(みい)れてゐたりけるを見付けて、肝(きも)を消し、

「鄰の化物こそ、こゝに、居て候へ。」

と呼ばはれば、化物、いひけるは、

「汝が所へさへ行かずば、音もせで、ゐよ。」[やぶちゃん注:「お前の所には、さらさら行く気はないのだから、五月蠅い声を挙げずに、黙って、おれよ。」の意。中古以来の「ずは」(「~でなくて」、或いは打消の順接仮定条件を示す「もし~でないならば」。打消の助動詞「ず」の連用形+係助詞「は」か、接続助詞「ば」とする説もある)が近世初期に打消の確定条件に転用されてしまった慣用表現である。真正の物の怪の、抑制した制止であり、それが、また、なかなか、キョワい!]

と云ひて、又、消え亡せぬ。

 五日めの事なるに、臺所の庭に來て、打杵(うちきね)をもつて、庭を、

「とうとう」

と、打ちて、𢌞る。

「此の上は、御念佛(ごねんぶつ)ごとより外の事は、有るまじ。」

とて、さまざまの祈りをぞ、初めける。

 眞に神明(しんめい)・佛陀の納受(なふじゆ)有る故か、其の次の日は、來(きた)らざり。

「すべて、ばけ物、こゝに來(きた)る事、五たびなり。此の上は、何事も、あらじ。」

と、いひもはてぬに、虛空(こくう)より、女の聲にて、

「五たびには、限り候はじ。」

と呼ばはりける。[やぶちゃん注:追い打ちをかける凄みのあるキレのある台詞である。なかなか、心理戦に長けた物の怪と見える。]

 扠(さて)、其の夜(よ)の事なるに、いつも、主の女房、いねざま[やぶちゃん注:「寢ね態」で「就寝する頃合い」の意。]になれば、蠟燭を立ておきけるを、彼(か)の化け物、姿を現はして、蠟燭を、吹き消しぬ。

 主(あるじ)の女房、肝を消し、絕入(ぜつじゆ)[やぶちゃん注:失神。気絶。]する折りも、有り。

 七日めの夜は、女夫(めをと)臥したる枕許に立ち寄り、頭(あたま)どちを、寄せがまちにし、其の上、夜(よる)の物を、裾よりまくり、冷(つめた)き手にて、足を撫でければ、夫婦(ふうふ)の者は、魂(たましひ)を消すのみならず、しばし、物ぐるはしくなりける、とぞ。

[やぶちゃん注:この波状的な怪異の襲来は、なかなかに名品と言える。特に、六日目の物の怪の本領発揮の巧妙な仕儀も、確信犯で、人間どもを油断させるための巧妙な手段であって、実は出現はしなかったのは、「神明・佛陀の納受」のお蔭でも何でもなく、サウンド・エフェクトだけで、震えあがらせているところなど、実にホラーとしての勘所を、逆に押さえているとさえ言えるのである。さても、本書の後に怪奇談を書く作者なら、これを再話しない手は、ない。「諸國百物語卷之一 四 松浦伊予が家にばけ物すむ事」がそれである。ただ、この話、虚心に読むと、「いよ」というのが、女の名のように錯覚させる(ただ、冒頭「彼(かれ)の家」とあるから、男主人が「いよ」なんだろうとは思うのだが)。確かに再話のように、旦那の通り名が「伊予」なのだろうかも知れぬが、本篇は、最後まで「いよ」の家の主人の姿が、これ、まともに見えてこないのでる。七日目の閨房のシーンでも、夫の映像が浮かばないように意図的に描かれているように感ずる。ここに何らかの作者の隠された意図、或いは、特別なある心理上の拘りがあるように思われるのだが、その核心は、私には、未だよく判らないのである。或いは、霊が呼びかける「初花」(女房の名ではないことは、彼女の反応からみて間違いない)という言葉に何かヒントがあるような気がする。

「寄せがまちにし」「寄せがまち」は「寄せ框(がまち)」で、商家などの入り口の取り外しが出来る敷居のことで、昼間は外しておき、夜、戸を閉める時に取り付けるようにしたもの指す。岩波文庫の高田氏の注によれば、『寄框のように直角に頭を突き合わせること』とある。]

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 二 老女を獵師が射たる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]

 

     二 老女を獵師が射たる事

 

 伊賀國(いがのくに)なんばりといふ所より、辰巳(たつみ)[やぶちゃん注:南東。]にあたりて、山里あり。

 かの所に、夜な夜な、人、ひとりづゝ、失せぬ。

「如何なる事にか。」

と、皆人(みなひと)、不審しあへり。

 其の村に獵人(かりびと)の有りけるが、ある時、夜(よ)に入り、山に入らんとしける所に、山の奧より、年(とし)、百にも及びなんとおぼしき老女、髮には雪をいたゞき、眼(まなこ)は、あたりも、輝き、さもすさまじく出できたる。

 

Roujyokariudouti

 

[やぶちゃん注:以上では右端上にあるキャプションが完全にカットされて見えないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの単体画像で、『伊賀の国なんばりといふ所にての事』と読める。]

 

 獵人は、

『何者にてもあれ、矢つぼは、違(たが)へじ。』

と、大かりまたを持つて、胴中(どうなか)を射通(いとほ)す。

 射られて、いづくともなく、逃げうせぬ。

 獵人は、前々なかりし不思議に逢ひしかば、まづ、其の夜は歸りぬ。

 夜明(よあ)けて、彼(か)の物、射たる所を見ければ、道もなき山の奧を、かなたこなたと、血(のり)を引きける程に、それをしるべに求めければ、我が在所の方(かた)へ有り。

 不思議に思ひ、見れば、莊屋(しやうや)が家(いへ)の、後ろなる小家(こいへ)のうちへ、ひき入(い)りたり。

 さて、莊屋かたへ行き、

「ちか頃(ごろ)、率爾(そつじ)なる事ながら。」[やぶちゃん注:後に引用の助詞「と」が欲しい。]

過ぎし夜の事共(ことども)、ねんごろに語りければ、莊屋、不思議にたへかね、

「此の家は、我等が母のゐ所(どころ)にて侍るが、夕べより、『風の心地。』とて、我にも逢はで、事の外、うめきゐられ候ふが、心もとなく候。」

とて、行きて見れば、家のあたり、戸口より、血(のり)、したゝかに、引きたり。

 いよいよ、怪しみ、

「押し入りて、見ん。」

とすれば、雷電(らいでん)の如く、鳴り、はためきて、母は、家の内より、拔け出でぬ。

 件(くだん)の矢は、食ひ折りて、軒(のき)にさしてぞ、有りける。

 さて、ゐたる跡を見れば、夥しく、血(のり)、流れ有り。

 牀(ゆか)を、はづし、此處彼處(こゝかしこ)を見れば、人の骨、山の如し。

 それより、在所の者共、山々へわけ入りて、見れば、深山(しんざん)の奧に、大(だい)なる洞(ほら)あり。

 此の洞のうちに、古狸(ふるだぬき)の大きなるが、胸板(むないた)を射貫(いぬ)かれながら、死してぞ、ゐたりける。

 これを案ずるに、莊屋の母をば、疾(と)く食ひ殺し、我が身、母になりてぞ。

[やぶちゃん注:「伊賀國なんばり」岩波文庫版では本文で『南張』とあり、注に、『現在の三重県志摩郡』とある。但し、ここは逆立ちしても絶対に「伊賀國」ではないから、これは筆者の誤りであろう。現在は合併により、三重県志摩市浜島町南張(はまじまちょうなんばり)である(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。当該ウィキによれば、『南張メロンの栽培や酪農が展開される農業地域であるとともに、南張海水浴場を擁する海の町でもある』とあり、どうも変な感じがする。同町の集落拠点は完全に南端の英虞湾の入口の南の海岸であって、そこの「辰巳」は海である。百歩譲って、東の、海に迫った山間部のここに当たるか。しかし、寧ろ、この話、内陸の伊賀の方が遙かに相応しい。「ひなたGPS」で戦前の地図で伊賀地方を調べたが、「南張」はない。ただ、三重県西部の伊賀地方に含まれる名張市(なばりし)が目に止まったここは南東部はガッツり、山間地である。私はここを真のロケ地としたい。実は、本話を転用した「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」では御覧の通り、名張になっているのである。さらに、そちらでは、『東京学芸大学紀要』湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(ネットでPDFでダウン・ロード可能)で、やはり、ロケーションを三重県名張市と規定しておられる。さらに湯浅氏は先行する非常に知られた、「今昔物語集 第二十七卷」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと)第二十二)を挙げておられる(私は微妙にそれを原拠とすることには躊躇する)のを受けて、それも電子化してある。さらに、そこで類話として別に掲げてある、「伽婢子卷之九 人鬼」や、「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」も電子化注済みであるので、参照されたい。

「大かりまた」「大雁股」。既出既注。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 八番 山神の相談

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     八番 山神の相談

 或る時、六部《ろくぶ》が或村へ來て、山神の御堂に宿つて居た。眞夜中に人語がすると思つて眼を覺ますと、山神と山神とで話をしていた。今夜は行かなかつたな。あゝ、お客があつて行かなかつたが首尾は如何《どう》だつた。うん、母(アンバ)も子(ワラシ)も丈夫だ。それで何歲(ナンボ)までかな、イダマスども七歲(ナヽツ)までだ。そしてチヨウナン(釿《てうな》)で死ぬ……

 六部は何の話かと思つて聽いて居た。其の後七年經つて、六部が又其の村へ行くと、在る家で大工であつた親父が、子供を傍《そば》に寢かして置いて仕事をして居たが、子供の寢顏に虻(アブ)がタカツたので、手に持つてゐた釿で追ひ拂はふとして子供の頭を斬り割つたと云つて大騷ぎをして居るところであつた。

 六部は七年前の御堂での山神樣達の話を思ひ出して、あゝ神樣達はこの事を言つたのだなアと始めて思ひ當つた。

  (田中喜多美氏の御報告分の二、摘要。)

[やぶちゃん注:「六部」「六十六部」の略で、本来は全国六十六ヶ所の霊場に、一部ずつ納経するために書写された六十六部の「法華経」のことを指したが、後に、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚僧のことを指すようになった。別称を「回国行者」とも称した。本邦特有のもので、その始まりは、聖武天皇(在位:七二四年~七四九年)の時とも、最澄在世(七六六年~八二二年)の頃とも、或いは、ずっと下って鎌倉時代の源頼朝・北条時政の時代ともされ、定かではない。実際には、恐らく鎌倉末期に始まったもので、室町を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく、民間人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲・脚絆、甲掛(こうがけ:履き物に添える補助具。主に足の甲を保護するためのもので、形は足袋によく似ているが、底はない。材料は白若しくは紺の木綿で、強度を増すために刺子にすることが多い。これをつけるのは草鞋を履く時で、甲に紐を巻きつける際、甲や側面に擦り傷がつくのを防ぐ)、股引をつけ、背に仏像を入れた厨子を背負い、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。彼らは、地域社会では異邦人・異人であり、各地に、迎えておいて、騙して殺害して金品等を奪ったが、その後に生まれた子が殺した六部の生まれ変わりで、仇(あだ)を成すといったタイプの「六部殺し」怪奇譚でも知られる(当該ウィキを参照されたい)。

「イダマスども」東北地方及び岩手方言で「いだましねえども」で「惜しい(傷ましい)ことだけれども」の意。

「チヨウナン(釿)」歴史的仮名遣「てうな」は現代仮名遣で「ちょうな」。大工道具の一つ。「手斧」と書く方が一般的。柄の先が曲がっていて、先に平らな刃が柄に対して左右に伸びた形で付けた、小型の鍬のような形をした斧に似た刃物。木材の表面を平らに仕上げるために、初めに「荒削り」をするのに用いる。「ちやうな(ちょうな)」は「ておの」が転訛したもの(講談社「家とインテリアの用語がわかる辞典」を主文に用いたが、使用している絵と画像は「広辞苑無料検索」のこちらの写真がよい)。

「田中喜多美」既出既注。]

2023/03/19

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 / 目録・一 信心深ければ必ず利生ある事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

曾呂利物語卷第二目錄

 

  一 信心深ければ必ず利生(りしやう)ある事

  二 老女を獵師が射たる事

  三 怨念深きものの魂(たましひ)迷ひありく事

  四 足高蜘(あしたかぐも)の變化(へんげ)の事

  五 行(ぎやう)の達したる僧には必ずしるし有る事

  六 將棊倒(しやうぎだふ)しの事

  七 天狗鼻(はな)つまみの事

  八 越前國(ゑちぜんのくに)鬼女(きぢよ)の由來の事

 

 

     一 信心深ければ必ず利生ある事

 南郡興福寺の衆徒、なにがしの律師とかや、いふ人、有り。

 又、かすが山の麓に、「しのやの地藏堂」とて、靈驗あらたなる地藏、おはしけり。

 彼(か)の律師、年月、步みを運びけるが、ある日、少し紛(まぎ)るゝこと有りて、日、已に暮れて、酉(とり)の終り[やぶちゃん注:午後六時半過ぎ。]よりぞ、詣でける。

 道芝の露、拂ふ人もなくて、心凄(こゝろすご)きところに、何處(いづく)より來りけるともおもえず、一人の稚兒(ちご)、忽然として、佇みたり。

「いかなる人にておはしければ、こゝには御入(おい)り候ぞ。」

ちごのいはく、

「そなた、いづ方へ通らせたまふぞ。まづ、わが方(かた)ざまへ、入(い)らせたまへ。こゝのほどこそ、わらはが庵にて候へ。」

といふ。

「いや、これは、地藏へ參り候へば、それへは、參るまじき。」

といふ。

 ちご、重ねて、

「まづ、立ちよらせ給へ。」

とて、強ひて、手をとりてゆく。

 月かげに、色あひ、定かならねど、蘭奢(らんじや)の匀(にほ)ひなつかしく、いとあてなる裝(よそほ)ひに、覺えず、心ときめきして、やがて、誘はれ行くかと思へば、程なく、かの家に至りぬ。

 彼(か)の體(てい)、世の常ならず、宮殿・樓閣なり。

『不思議や。此の邊(へん)には、斯樣(かやう)の家居(いへゐ)は、なかりつるものを。』

と思ひたれば、衆從眷屬(しゆじゆけんぞく)、あまた出であひ、いろいろにもてなし、酒宴、さまざまなり。

 あるじの稚兒も醉(ゑ)ひ、客の僧も醉ひ臥しぬ。

 夜(よ)、ふけぬれば、たゞ假臥(かりぶし)とは思ひながら、行くすゑまでのかね言(ごと)も淺からずこそ契りける。[やぶちゃん注:「かね言」「予言(かねごと)」で、「前もって言っておいた言葉」、則ち、若衆道の「互いの睦びの約束の言葉」である。]

 曉方に、ふと、夢さめて、あたりを見れば、ともし火、かすかにして有りけるに、かの稚兒、繪にかける鬼(おに)の形(かたち)なり。

 恐ろしとも、いはん方、なし。

 扠(さて)、ぬき足して、次の座敷を見れば、こゝに臥したるもの、十人ばかり、皆、鬼なり。

『いかゞして、拔け出でん。』

と、かたがた、見まはしけれども、隙間も無く、造り續けたる家なれば、もれて出づべきやうも、なし。

 

Tigooniinusinjin

[やぶちゃん注:「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入した。右上端のキャプションは、「しん心ふかきゆへ利生をゑたる事」である。]

 

 まづ、緣の戶をあけて見れば、彼(か)の律師が飼ひける犬、何處(いづく)より來(きた)るともなく、尾を振りて、出で來りぬ。

『不思議なること。』

に思ひぬ。

 彼の犬、僧の裾を、くはヘ、門外へ出でぬ。

 宵に稚兒に逢ひたる所に、引きて行く。

 僧は、つくづくと、犬を守り、

「汝は禽獸なれども、主(しう)を守る心、奇特(きどく)さよ。此の世ならぬ緣なれば、當來(たうらい)は、必ず、佛果菩提に至るべし。」

と、いうて、常に持ちたる念珠を、頸にかけてぞ、放しける。

 未だ、夜(よ)深ければ、僧は、それより、地藏堂へ詣でけり。

 暫く拜し、歸らんとしけるが、本尊を見れば、犬の頸に掛けたる珠數の、かゝりてぞ、侍りける。

「年月、每日怠らず、詣で侍りしが、其の日は、暮に及びしが、道にて稚兒に迷ひし事、犬の導きつる事、地藏の化現(けげん)にて、たうしんの眞諦(しんたい)を示し給ふにや。」

と、信心、肝(きも)に銘じしかば、いよいよ、步みを運びけるとかや。

「今生、後生、たのもしかりける悲願かな。」

と、感淚を押へかねてぞ。

[やぶちゃん注:個人的には、この話、好きだ。

『かすが山の麓に、「しのやの地藏堂」とて、靈驗あらたなる地藏、おはしけり』興福寺の東方が春日大社であるが、「地藏堂」は不詳。荒木又右衛門が試し斬りをしたと伝えられる、鎌倉時代の作の石地蔵で「首切り地蔵」が春日山の東方の谷のかなり奥にあるが、堂はない(グーグル・マップ・データ。実測、四キロメートルだが、半分は登攀路である)、軽々に比定は出来ない。

「紛(まぎ)るゝこと」ちょっと手のかかる仕事があって。

「蘭奢」ここは単に類い稀れなる奥床しい香の香りを喩えて言ったものであろう。狭義のそれについては、そうさ、「小泉八雲 香 (大谷正信訳)」の「ランジヤタイ」の私の注でもお読み下され。

「たうしんの眞諦(しんたい)」「眞諦」は、仏教で唯一無二の真実にして平等の不変の真理を指す。「たうしん」は「當身」であろうか。化現(けげん)でも垂迹でもないところのそのまま(等身)の「絶対の実体」に相「当」する物「身」の意か。]

早川孝太郞「三州橫山話」 鳥の話 「鷹の眼玉」・「鷹を擊つ方法」・「鷹の羽藏」・「クラマの鷹」・「鷄を襲ふ鷹」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○鷹の眼玉  鷹の眼玉は黃疸の藥と云つて珍重しますが、又、眼病の靈藥とも謂ひます。これを用うるには、藥鑵に水を入れ火に掛けて、其上に眼玉を糸で吊るして置くと、水が煮立つにつれて、湯氣が懸つて、眼玉から垂れた滴で、中の湯が黃色に染まるから、其を飮ませると謂ひます。

[やぶちゃん注:これは、本邦の鳥類ピラミッドの頂点に位置する猛禽であること、希少であること、及び、多分に類感呪術的な要素(黄疸は直ちに眼球の黄色となって示されること・鷹の遠くを見通せる視力こと)からの伝承であろう。成分上からそれらに実際効果があるとは全く思われない。エキスの抽出法も如何にも怪しい呪的な方法ではないか。但し、ウィキの「鷹」によれば、『縄文時代の遺跡からは』、『タカ類の骨が発掘されており、当時は人間の食料であったと考えられている』とある。なお、「鷹」は新顎上目タカ目 Accipitriformesタカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、比較的、大きさが小さめの種群を指す一般通称である。同前のウィキによれば、オオタカ(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis:(和名は「蒼鷹」「大鷹」で、由来は前者で、羽の色が青みがかった灰色を呈することからの「あをたか」が訛ったものに由来する)・ハイタカ(ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus:灰鷹・鷂)・クマタカ(クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensi:角鷹・熊鷹・鵰)などが知られる種である。タカ科に分類される種の中でも、比較的、大きいものを「鷲」(わし:Eagle)、小さめのものを「鷹」(Hawk)と呼び分けてはいるが、これは明確な区別ではなく、古くからの慣習に従って呼び分けているに過ぎず、生物学的区分ではない。また、大きさからも明確に分けられているわけでもなく、『例えば』上記の『クマタカはタカ科の中でも大型の種であり大きさからはワシ類といえるし、カンムリワシ』(タカ科カンムリワシ属カンムリワシ Spilornis cheela)『は大きさはノスリ』(タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus)『程度であるからタカ類といってもおかしくない』とある。より詳しくは、古い私のリキの入った「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」を参照されたい。]

 

 ○鷹を擊つ方法  鷹を擊てば、其家が一代續かぬと謂ひます。獵師が鷹を擊つ方法だと云つて、こんな話があります。ます不断《ふだん》[やぶちゃん注:ママ。]鷹の休む樹を見つけて、其傍に穴を掘つて、其には脫け穴を造つて置いて、樹の枝には鷹の好む兎や猿の肉を吊るして置いて、穴に隱れて待つてゐる内、鷹が來ると、其肉を一口喰べて見て、二日目には提げて行かうとするものださうですから、其處の呼吸を計つて、ドンと放すが否や、鐵砲を放り出して、後《うしろ》をも見ず脫穴《ぬけあな》へ身を避けると謂ひます。必ず雌雄二羽居るもの故、片々《かたがた》の鷹が擊つと殆ど同時に穴の口へ襲つて來ると謂ひます。

[やぶちゃん注:「必ず雌雄二羽居る」鳥は詳しくなく、これが、どの種を指しているか不詳だが、「必ず」というのは私には、到底、信じられない。]

 

 ○鷹の羽藏  鷹の羽藏《はねぐら》を發見すれば、夫婦差向《さしむか》いで、一代左團扇で暮せるなどゝ謂つたさうですが、それは深山の岩石の聳えてゐるやうな所に、岩と岩との間の雨や風のかゝらぬ所に、きれいに羽が積重ねてあると謂ひます。鷹は自分の體から脫けた羽は、みんな其處へ持つて行つて藏《しま》つて置くので、其を見つけた時は、鷹の留守にそつと出掛けて行つて、積んである下から少し宛拔いて來るのださうです。四十年ばかり前鳳來寺山にあるのを發見した者があつたさうですが、遠くからは羽の積んであるのが見えてゐても、險しい場所で近づく事が出來なかつたさうです。

[やぶちゃん注:聞いたことがないし、ネット検索でも掛かってこない。そのような習性はタカ類にはないであろう。]

 

 ○クラマの鷹  明治二十年頃のこと、北設樂《きたしたら》郡名倉村の鎭守の森へ、鳥とも獸ともつかぬ、奇怪なものが來て、樹の枝に留まつた盡《まま》[やぶちゃん注:漢字はママ。]、昵《じつ》としてゐて、幾日經つても動かないので、村のものが怪しんで鐵砲で擊殺《うちころ》して見ると、それは大變年を老《と》つた鷹で、羽に鞍馬と云ふ文字が現れていたと云ひました。

[やぶちゃん注:「明治二十年」一八八七年。

「北設樂郡名倉村」横山の真北の十四キロほど先の、現在の愛知県北設楽郡設楽町(「ひなたGPS」の戦前の地図で「名倉村」を確認出来るが、現在は地名として残っていない)。Geoshapeリポジトリ」の「愛知県北設楽郡名倉村」の旧村域を見るに、完全に現在の設楽町と一致することが判る。設楽町役場はこの中央(グーグル・マップ・データ航空写真)。かなりの山間地である。

「羽に鞍馬と云ふ文字が現れていた」白羽の中の黒羽の交りが「鞍馬」の崩し字に見えたと感じたのであろうことは、想像に難くない。「鞍馬」は天狗の本拠地であり、一般には鳶が眷属だが、鷹もそこに連なっていると考えたとしても、意外ではない。]

 

 ○鷄を襲ふ鷹  鷄が鷹に襲はれた時は、必ず雄が殺されて、雌は助かると謂ひますが、それは雄が雌を庇護《かば》つて、鷹と鬪ふからだと謂ひます。山口文吉と云ふ人が、鷹と鬪鷄と盛《さかん》に格鬪してゐるのを實見した時は、三十分も爭つてゐる中《うち》、鬪鷄の勢《いきおひ》が猛烈なため、鷹も諦めて逃げて行つたさうです。最も其は小さなマグソ鷹だつたと謂ひます。

 私が子供の頃、家の鷄の雄が鷹に襲はれた事がありまして、家のものが發見した時は、もう背中を喰破《きふやぶ》つて、其處から腸を引出して持つてゆきましたが、鷄は昵《じつ》と地に坐つた儘、未だ生きてゐました。

[やぶちゃん注:「鬪鷄」ニワトリ(鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリGallus gallus domesticusの♂を使用するが、特に一品種である軍鶏(シャモ)が闘鶏用として知られた(もとは江戸期にタイから輸入された種であるとされる)。

「マグソ鷹」「馬糞鷹」でハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculusの差別異名である。当該ウィキによれば、和名の『語源は不明だが、吉田金彦は、蜻蛉(トンボ)の方言の一つである「ゲンザンボー」が由来ではないかと提唱している』。『チョウゲンボウが滑空している姿は、下から見ると』、『トンボが飛んでいる姿を』髣髴『とさせることがあると言われ』、『それゆえ、「鳥ゲンザンボー」と呼ばれるようになり、いつしかそれが「チョウゲンボウ」という呼称になったと考えられている』とあり、また、『学名の「Falco tinnunculus」はラテン語でFalcoが「鎌」に由来し、tinnunculusが「チンチンと鳴く」を意味する』とあった。『全長は』♂が約三十三センチメートル、♀が約三十九センチメートルで、『翼を広げると』六十五~八十センチメートル になる。体重は♂で百五十グラム、♀で百九十グラム程度あり、性的二型である。『羽毛は赤褐色で黒斑があ』り、♂の『頭と尾は青灰色』であるのに対し、♀は『褐色で翼の先が尖っている。ハヤブサ科の中では最も尾が長い』とある。]

「曾呂利物語」正規表現版 十 狐を威してやがて仇をなす事 / 卷一~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     十 狐(きつね)を威(おど)してやがて仇(あた)をなす事

 

 ある山伏、「大(おほ)みね」より、かけ出で、ある野を通りけるに、こゝに、狐、晝寢してゐたりけるを、立ちより、耳の元にて、ほらの貝を、したゝかに吹きければ、狐、肝(きも)を潰し、行き方(がた)知らず、逃げにけり。

 其の後(のち)、山伏は、猶、ゆきけるが、

『いまだ未(ひつじ)の刻ばかりにや。』[やぶちゃん注:午後二時前後。]

と思ふ頃、空、かき曇り、日、暮れぬ。

 不思議に思ひ、道を急ぎけれども、野、遠くして、とまるべき宿も、なし。

 ある三昧(さんまい)に行きて、火屋(ひや)の天井に上がりて、臥しにけり。[やぶちゃん注:「三昧」火葬場。「火屋」同じく火葬場の意であるが、ここは敷設するお堂か、遺体を一時置いておく控えの小屋(霊安室)であろう。]

 かかりける所に、何處(いづこ)ともなく、幽(かすか)に、光り、あまた見えけるが、次第に近づくまゝに、よく見れば、其の三昧へ、葬禮するなり。

 凡そ、二、三百人もあらんとおぼしくて、その、てい、美々しく、引導など、過ぎて、やがて、死骸に、火をかけ、各(おのおの)、かへりぬ。

 山伏は、

『折りしもあれ、かかる所に來たりぬる事。』

と思ふに、やうやう、燒けぬべき所、死人(しにん)、火の中より、身ぶるひして、飛びいで、あたりを、

「きつ」

と見まはしけるが、山伏を見つけて、

「何者なれば、そこにおはしますぞ。知らぬ道を、ひとり行くは、おぼつかなきに、我と共に、いざ、給へ。」

と、山伏に飛びかゝりければ、そのまゝ山伏は、消え入りぬ[やぶちゃん注:気絶した。]。

 やゝしばらく有りて、やうやう、氣をとり直し見れば、いまだ晝の七ツ時分[やぶちゃん注:定時法で午後四時前後。]にて、しかも三昧にても、なかりけり。

 さてこそ、貝に驚きし狐の意趣とは、知られけり。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収。ネットでPDFで入手可能)によれば、「今昔物語集」の巻第二十七の「於播磨國印南野殺野猪語第三十六」(播磨國(はりまのくに)印南野(いんなみの)にして野猪(やちよ)を殺したる語(こと)第三十六)を先行する原話として挙げておられる。主人公は飛脚であり、最終的に真相は猪が彼を化かしたという点では異なるが、中間部の展開のコンセプトは明らかに酷似しており(「今昔」のそれはもっとシークエンスが細かく長い)、本篇の原拠の一つであることは疑いようがない(但し、本篇の山伏の法螺貝の悪戯と、それへの狐の仕返しという部分は、私は非常に面白い構成と感じている)。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたものが読める。また、「諸國百物語卷之一 六 狐山伏にあだをなす事」は本篇の完全な転用である。

「大みね」大峰山(おおみねさん)。奈良県南部にある山脈で、狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ:グーグル・マップ・データ)を指し、そこは修験道の聖地として知られる。]

「曾呂利物語」正規表現版 九 舟越大蛇を平らぐる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今までは、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入してきたが(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)、裏映りを消すために補正すると、薄くなるか、全体が黄色くなるかで、今一つ気に入らない。そこで、状態がかなりいい、上記岩波文庫版に挿絵の載るものは、それを画像で取り込み、トリミング補正することとした(今回はそれである)。

 なお、標題は「船越(ふなこし)、大蛇(だいじや)を平(たひ)らぐる事」である。]

 

     九 舟越大蛇を平らぐる事

 いつの頃にか有りけん、淡路國(あはぢのくに)に、「舟越」とて、弓矢を取つて、名を得し有りけり。

 彼の知行所に、

「大蛇、住みける。」

といふ池あり。

 廣さ二町四方[やぶちゃん注:約二百十八メートル四方。]も有るべし、眞(まこと)に凄まじき池の心(こゝろ)なり。[やぶちゃん注:「心」ここは様子・有様・雰囲気の意で用いている。]

 しかるに、每年、人御供(ひとごく)をそなふること、久し。怠りぬれば、必ず、洪水し、多くの田畠(たはた)、損じけり。[やぶちゃん注:「人御供」人身御供(ひとみごくう)。]

 さるによつて、今も在所の女を、一人(ひとり)づつ、池の中に牀(ゆか)をして、供ヘ置けば、大蛇、來たりて、是を、とる。

 舟越、つくづく思ふやう、

『かくしつつ、はてはては、我が知行所に、女といふもの、たゆべし。縱(たと)ひ、さなきとて、我が領する下(もと)に、斯樣(かやう)の事あらんを、いかで、打捨(うちす)てては置くべき。いかさまにしるしを見せでは、適(かな)ふまじ。』

と思ひ、重籐(しげどう)の弓に、山どりの尾にて矧(は)いだる大(おほ)かりまた一つがひ、あし毛の馬に、うち乘つて、かの池を、さして行く。

 馬の太腹(ふとばら)、ひたるほど、乘りこみて、大音聲(だいおんじやう)にて、のたまひけるは、

「抑(そもそも)、我ならで、此の池に、主(ぬし)有るべき事、心得ず。そのうへ、地下(ぢげ)の女子(によし)を御供にとる、供へざれば、洪水して、多くの田地を損ふ事、かれこれ、以つて、奇怪なり。まこと、此の池の主たらば、只今。出でて、我と、勝負をあらはせ。」

と、高らかにこそ、呼ばはつたれ。

 その時、水の面(おもて)、俄に騷ぎ、鳴動すること、やゝ久しうして、たけ一丈ばかりなる大蛇、いで、角を振りたて、紅(くれなゐ)の舌をいだして、舟越を目掛けて、かゝりける。

 待ち設(まう)けたる事なれば、矢、ひとつ、打番(うちつが)ひ、其の間(あひだ)、十四、五間(けん)[やぶちゃん注:二十五・五~二十七・三メートル。]もあるらんとおぼしき頃、

「もと筈(はず)、うら筈、一つに、なれ。」

と、よつぴき、

「ひやう」

と放つ。

 此の矢、誤またず、大蛇の口に、

「つつ」

と、入る。

 乙矢(おや)を射る間のあらざれば、駒を、はやめて、逃げ來たる。

 大蛇は、のがさじと、追つかくる。

 

Bueihunakosi

 

[やぶちゃん注:以上では切れてみえないが、「国書データベース」で確認すると、キャプションは「ふなこし大しやたいらく事」と読める。]

 

 舟越、我が屋に驅け込み、門を、

「はた」

と、たてければ、門の上へ、及びかゝる所を、内より、乙矢(おとや)を放ちければ、手ごたへして、

「はた」

と當たり、さすが大兵と云ひ、二の負ひ手、なじかは以つて、たまるべき、門の上に及びながら、大蛇は、忽ち、死してけり。

 されども、舟越も其のまま、氣を、とり失ひ、三日(か)めに、空しくなる。

 かの葦毛(あしげ)の駒(こま)も、死にけるとかや。

[やぶちゃん注:ダイナミックでリアリズムがある悲壮なる英雄の大蛇退治譚である。この話、以前に電子化注した後代の「老媼茶話 武將感狀記 船越、大蛇を殺す」と同話であり、そちらで、この舟越なる人物について、私なりにモデルを比定してあるので(知人の指摘を受けて二〇二三年三月二十日に修正した)、是非、読まれたい。なお、湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収)では、類話について、膨大なそれらを掲げておられるので、興味のある方は、一読を強くお薦めするものである。

「重籐(しげどう)の弓」「滋藤」とも書き、「しげとう」とも読む。弓の束(つか)を黒漆塗りにし、その上を籐(とう)で強く巻いたもの。大将などの持つ弓で、籐の巻き方などによって多くの種類がある。正式には握り下に二十八ヶ所、握り上に三十六ヶ所を巻く。参照した「goo辞書」のこちらに、当該の弓の図があるので見られたい。

「矧(は)いだる」竹に羽をつけて矢を作ることを言う。

「大(おほ)かりまた」大雁股。「雁股」は鏃(やじり)の一種で、先端を二股にし、その内側に刃をつけたもの。飛ぶ中・大型の鳥や、走っている鹿や猪などの足を一矢で射切るのに用いる。ここはそれを矢の先に装着した矢を言う。参照した「コトバンク」の「精選版 日本国語大辞典」のこちらに、その鏃をつけた矢の先の図があるので、参照されたい。

「一つがひ」同一の大雁股の矢二本。

「もと筈(はず)、うら筈」岩波文庫版の高田氏の注に、『弓の兩端の弦(つる)をかける所。弓を射る時、上になる方を末筈』(うらはず)、『下になる方を本筈』(もとはず)『という』とある。ここは、強力に弓を引いて射て、大蛇を仕留めるための窮極の勲(いさおし)である。

「乙矢」第二番目に射る矢のこと。

「二の負ひ手」同前の高田氏の注に、『二つの重い傷』とある。無論、大蛇の受けたそれである。

「なじかは」副詞で、ここでは「どうして~か、いや、~ない」で反語の意を表わす。「なにしにかは」→「なにしかは」→「なんしかは」→「なじかは」と変化・縮約されて出来た語。]

「曾呂利物語」正規表現版 八 狐人にむかつてわびごとする事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(本篇は載らない)。本篇はここから。]

 

     八 狐人にむかつてわびごとする事

 寬永八年ひつじのとし、關東武藏國(むさしのくに)、さる御方(おんかた)さまの屋敷に、植込あるため池、あり。

 そのうちに、白鴈(はくがん)を放し飼ひおかるゝ所に、狐、これを取りはべりしかば、あるじの殿(との)、腹(はら)を立て、近習の人々にまうし付けらるゝは、

「かひ鳥(どり)を、狐めが、とる事、にくき仕合(しあはせ)なり。明日は、うゑこみの中を狩り、きつね、穴にあらん程に、盡く、殺せ。」

と、云ひつくる。

 人々、

「かしこまる。」

と申す。

 しかれば、其の夜(よ)、宿直(とのゐ)する人の夢に、

「殿の御飼ひなされ候(さふらふ)鳥を、植込に住ひする狐がとりたるとて、御腹立遊ばし候事、御尤もに候へども、さりながら、さにはあらず、他の狐がわざなり。すなはち、成敗して差上げ候はんまゝ、明日(あす)の狐狩は、御赦し給ふやうに賴み奉る。」

由、現(うつゝ)の如く見えしかば、

『ふしぎなる夢を見申したるものかな。』

と思ひながら、かくともいはで、其の日は暮れぬ。

 扠(さて)、その日は、殿に、客人(まらうど)、しげく有りしかば、狐狩も、沙汰なくて過ぎぬ。

 又、其の夜(よ)の夢も、同じく見えて、

「情(なさけ)なき事よ、ゆうべの程、御詫言(おわびこと)を申すに、訴へも給はらぬことよ、御客人あればこそ、昨日の命は助かりたれ、明日は、すでに、御成敗、きはまりぬ。」

と、二夜(ふたよ)まで、有り有りと見えしかば、餘りの事の不思議さに、御前(ごぜん)に參り、此の由を、こまごまと、申し上ぐる。

 殿も、

「今夜、不思議の夢を見つるなり。さらば、まづ、今日の狩をば、やめよ。」

と宣(のたま)ひける。

 扠(さて)、明くるつとに、大きなる狐、五匹を殺して、緣に、もておくと、なん。

 これは、昔物語のたぐひにはあらぬを、不思議なるまゝに書きつけ侍るとぞ。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収)によれば、これは鎌倉中期に成立した説話集「古今著聞集」の「變化」の中の一章「大納言泰通、狐狩を催さんとするに、老狐夢枕に立つ事」を先行類話として挙げておられる。古典テクスト・サイト「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたものが読める。

「寬永八年ひつじのとし」寛永には、八年辛未(一六三一年)と、二十年癸未(一六四三年)がある。

「白鴈(はくがん)」カモ目カモ科マガン属ハクガン Anser caerulescens 。カナダ北部・アラスカ州・ウランゲリ島・シベリア東部で繁殖し、冬季になると、北アメリカ大陸西部へ南下して越冬するが、日本には、越冬のため、極く稀れに冬鳥として飛来する。

「つと」「つとめて」の縮約。早朝。夜明け方。]

「曾呂利物語」正規表現版 七 罪ふかきもの今生より業をさらす事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(本篇は載らない)。なお、本篇には挿絵があるので、国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入した。

 

     七 罪ふかきもの今生(このじやう)より業(ごふ)をさらす事

 

 宮古(みやこ)[やぶちゃん注:京都。]北野近(ちか)うに慳貪(けんどん)なる女、あり。まことに、善根なる心ざしは露ほども無(な)うして、惡業(あくごふ)は須彌(しゆみ)の巓(いたゞき)にも越えつべし。

 さるつれあひの男、用の事有りて、一條戾橋(でうもどりばし)の邊(へん)を、曉方(あかつきがた)に通りしが、橋の下に死人(しにん)の有りけるを、老女が、引き裂き、引き裂き、食ひけるを、よくよく見れば、我が子の母なり。

 

Hitokuihaha

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、「罪ふかき者今生ゟ」(より)「ごう」(ママ)「をさらす所」である。]

 

 不思議といふも愚かにて、急ぎ、我が屋に立ちかへり、母の、いまだ、臥して有るを、起しければ、驚き、起きあがりて、

「さてさて、おそろしき夢を見つる中(うち)に、嬉しくも、おこさせ給ふものかな。」

といふ。

「いかなる夢を見給ひつる。」

と謂へば、

「橋の下に、死人のあるを、引きさきて食ふと思ひしが、夢心にも、『こは、淺ましきことかな。』と思ひしながらも、食ふは嬉しき心地ぞかし。」

といふ。

 程なく、彼のもの、身まかりにけるが、今生の罪業深かりしかば、來世はさこそと思ひやるさへ、不便(ふびん)なり。

[やぶちゃん注:同時期に出版されたもので、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』は展開部のコンセプトに強い類似性が認められる。また、後発の「諸國百物語卷之一 五 木屋の助五郎が母夢に死人をくひける事」は明らかに本篇の転用である。なお、『西原未達「新御伽婢子」 人喰老婆』は、京都が舞台で、橋の袂に「人喰姥(ひとくひうば)」が出現するというコンセプトが親和性を持っている(以上は総て私の過去の電子化注である)。

「さるつれあひの男」「我が子の母なり」という表現が、私には妙に躓く。「さる」には、この女が複数の男と関係を持っていたことを暗示しておきながら、家にいる子は、確かにこの男の「我が子」であり、産んだのは、妻であるという変なニュアンスを嗅がせるためであろうか?

「一條戾橋」既出既注。]

「曾呂利物語」正規表現版 六 人をうしなひて身に報ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今までは、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入してきたが(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)、裏映りを消すために補正すると、薄くなるか、全体が黄色くなるかで、今一つ気に入らない。そこで、状態がかなりいい、上記岩波文庫版に挿絵の載るものは、それを画像で取り込み、トリミング補正することとした(今回はそれである)。

 

     六 人をうしなひて身に報ふ事

 

 津の國大坂に、「兵衞(ひやうゑ)の次郞(じらう)」とかや云ふもの、有り、いろを好む心、ふかうして、召使(めしつか)ひける女を、忍びて、褄(つま)を重ねけり。

 本妻は、例(れい)より、物(もの)ねたみ、いとはしたなくて、かく、雨夜(あまよ)のものがたりに、左馬頭(さまのかみ)がゆびを食ひきりしには、猶、こえたり。

 さるに、なにがし、他行(たぎやう)のひまに、かの女を、とらへ、井(ゐ)のうちへさかさまにおとし、ふしづけにこそしたりけれ。

 なにがし此の事、夢にも知らず、月頃(つきごろ)すごしけるに、一人(ひとり)の寵愛の男子(だんし)有りけるが、以ての外に勞(いたは)りけるを、色々、養生・祈念・祈禱をしけれども、其のしるし、なし。[やぶちゃん注:「以ての外に勞(いたは)りけるを」尋常でない重い病気に罹ってしまったので。]

 其の頃、「あまのふてらやの四郞右衞門」といふ針(はり)たて[やぶちゃん注:針医(はりい)。]、天下無雙の聞え有りけるを、招き、一日、二日のうち、養生す。

 ある夜(よ)、月のあきらかなるに、四郞右衞門、緣に出(で)て有りけるが、何處(いづく)ともなく、いとあてやなる女、きたりて、四郞右衞門にうちむかひ、さめざめと泣きゐたり。

 不思議なることに思ひ、

「いかなるものぞ。」

と、尋ねければ、

「恥かしながら、此の世を、去りしものなり。あるじの北の方、あまりに情(なさけ)なきことの有りしにより、うらみ申しに、來りたり。其の子は、何と針をたて給ふとも、さらに甲斐、あるまじ、いそぎ、そなたは歸りたまへ。さなくば、眼前にうきめを見せ侍らん。」

と云ふ。

 四郞右衞門、肝(きも)をけし、

「さては、亡靈にて有りけるかや。たゞし、如何(いか)やうの恨みぞ。其方の跡をば、ねんごろにとぶらはせ侍らんに、恨みを、晴らし給へ。」

といふ。

「いやとよ、此の子を取り殺さでは、おくまじ。」

とて、歸らんとするを、餘りの不思議さに、袖を控へ、

「さるにても、いかなる恨みの侍るぞ。」

といへば、

「しかじかの事、さふらひし。」[やぶちゃん注:以下の頭に「と、」を入れたい。]

折檻は世の常、あまりに情なき事ども、ありのまゝにぞ語りける。

 

Hitowokorositeminimukuu

 

[やぶちゃん注:キャプションは以上では切れて確定的には読めないが、最も状態のよい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像(これは残念ながら許可なくして使用は出来ない)を見るに、「ひとをころし身にむくう事」と判読出来る。]

 

 扨(さて)、女は、たけ、一丈もあるらんと思(おぼ)しくて、そらざまに生(お)ひたち、髮は白がねの針をならべたる如く、角さへおひて、朱(しゆ)まなこ、牙(きば)を嚙みたる有樣、たとへて、云はん方も、なし。[やぶちゃん注:ここで亡霊は瞬時に鬼形(きぎょう)に変じているのである。]

 四郞右衞門、一目見(めみ)、あはせて、そのまま消え入り侍りしが、あるじ、來たりて、[やぶちゃん注:「一目見、あはせて」(ひとめみ)で、「一瞬、その亡霊と目を見合わせた途端」の意。]

「此は、いかに。」

と、やうやう、助けものして、事の仔細を問ひければ、

「かやうかやうの姿を、一目見しより、夢うつつともわきまへず、たえ入り候。」

といふ。

 猶も、委しく尋ぬれば、はじめ、終はり、事(こと)こまかにぞ語りける。

 兵衞の次郞、これを聞き、

『いかゞすべき。』

と思ひ患(わづら)ひ、又、一兩日のほど過ぎて、四郞右衞門を呼びに遣(つか)はし、

「いかゞすべき。」

と談合しけるが、又、其の夜、四郞右衞門が枕上に來り、

「如何に言ふとも、かなふまじ。日こそ隔たるとも、一門眷屬、次第々々に取りて、北の方に、思ひ知らせん。」

と、いふかと思へば、屋根より、大磐石(だいばんじやく)をおとしけるが、彼(か)の子は、微塵に碎けて、亡(う)せぬ。

 母は、月花(つきはな)とも眺めしひとり子(ご)を、かく恐ろしき事にして、歎き悲しみ侍りしが、それより打續(うちつゞ)き、母の一門、盡(ことごと)く滅びて、つひには、母、重き病(やまひ)の牀(とこ)にふす。

 人に憂き目を見せければ、かかりける事、有りとは、昔物語にこそ聞きしが、今も有ることにこそ。

[やぶちゃん注:本篇は「諸國百物語卷之五 十一 芝田主馬が女ばう嫉妬の事」で、コンセプトを転用しつつ、よりリアルに換骨奪胎している。

「雨夜(あまよ)のものがたりに、左馬頭(さまのかみ)がゆびを食ひきりし」非常に知られた「源氏物語」の「帚木」(ははきぎ)の帖の、光源氏(数え十七歳)が色好みに覚醒する、所謂、「雨夜の品定め」の中の、左馬頭の経験談を指す。サイト「源氏物語の世界 再編集版」のこちらの冒頭がそれ(原文・二種の現代語訳附き)。私の教師時代のシノプシスのダイジェスト・プリントから引く。

   *

◇左馬頭の経験談――「指喰(ゆびく)いの女」(嫉妬深い女)――若い頃に付き合った女がいたが、これが、あまりに嫉妬深く、わざと薄情な素振りを見せたところが、「女も、えさめぬ筋(すぢ)にて、指(および)ひとつ、引き寄せて、喰ひはべりし」。その後、ちょっと意地を張って会わぬうちに、亡くなってしまった。気の毒をした。

   *

「ふしづけ」「柴漬け」と書く。体を簀巻きなどにして、水に投げ入れること。元は拷問や刑罰・私刑としてあった。

「あまのふてらやの四郞右衞門」岩波文庫版の高田氏の注に、『不詳。地名であろう。尼野江寺か』とある。但し、そちらの本文は『あまのふてら四郎右衛門』である。

「いやとよ」「否とよ」で感動詞。元は感動詞「いや(否)」+連語「とよ」。「いや! そうではない!」「いや! 違う!」と言った感じで、相手の発言を強く否定する際に発する語。

「助けものして」岩波文庫版の高田氏の注に、『正気づかせて』とある。「ものす」で他動詞(サ変)で「(ある動作を)する」の意の代動詞。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七番 炭燒長者

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

   七番 炭燒長者

 

 或る所に、隣同志の仲の良い父(トヽ)共があつて、木を伐りに山へ行き、其處の山神の御堂に入つて泊つて居ると、二人は言ひ合はしたやうに、同じ夢を見た。その夢は、自分等が泊つて居る御堂へ何處からか多勢の神々が寄り集つて、がやがやと何事か相談し合つてゐるところである。其の中の一人の神樣が、やいやい此所《ここ》の主の山神が見えぬが如何《どう》したと言つた。これは本當に可笑しい、如何したのだらうと言ひ合つて居る所に、外から其の山神が還つて來た。如何した、何處へ行つて居たといふ神々の問ひに、山神の言ふには、留守にして居て濟まなかつた。實は此の下の村に、お產があつたものだから、それを產ませてから來ようと思つて、思はず暇をつぶしたが、先づ何れも無事で此の世の中に又二人の人間が出たから喜べと言ふ。神々は、それはよかつた。して產れた子は男か女かと問ふと、山神は男と女だ、隣合つて一緖だつたと言つた。そうか、そして其の子供等の持運《もちうん》は如何だつた。そうさ、女の兒の方は鹽一升に盃一個と言ふ所だが、男の兒は米一升しか持つて居なかつたと言ふ。緣は、と又神々が訊いた。緣か、緣は初めは隣同志だから二人を一緖にしようと思ふが、とにかくそうして置いてから復(マタ)考へてみようと言つた…と思うと不圖《ふと》二人の父(トヽ)は目を覺《さま》した。そしてその夢を言ひ合つて互に不思議に堪えられず、まだ夜も明けなかつたが、共々家へ歸つた。家へ歸つて見ると、夢の通り兩方に男と女の兒が產れて居た。

 二人の子供は大きくなつて、夫婦になつた。其の家は俄に富み榮えて繁昌した。その女房は、神樣から授つたやうに、一日に鹽一升を使ひ盃が手から放れないで、出入の者にザンブゴンブと酒を飮ませた。それだから其の家の門前はいつも市のやうに賑かであつた。夫はそれを見てひどく面白くなかつた。何でもかんでも湯水のやうに使ふても、こんなに物がたまるのだから、妻が居《を》らなかつたら此上どんなに長者になれるか知れないと考へて、或る日妻を追出《おひだ》した。妻は泣いて詫びたけれども遂に許されなかつた。

 妻は夫の家を出て、何處といふ目的(アテ)もなしに步いて行つたが、其の中に日が暮れた。腹が空いてたまらぬので、路傍の畑に入つて大根を一本拔いて食べようと思つて、大根を拔くと、其の跡(アト)から佳い酒の香りがして水が湧き出した。それを掬つて飮むと水ではなくて酒であつた。妻はお蔭で元氣を取り返して、斯《か》う歌つた。

   古酒(フルサケ)香(カ)がする

   泉の酒が湧くやら

 そして自分で自分に力をつけて、道を步いて行つた。すると向ふの山の方に赤い灯の明りが見えた。女房はそれを目宛(メアテ)に辿つて其處へ行つて見ると、一人の爺が鍛冶をしてゐた。女房は火の側へ寄つて行つて、今夜泊めてクナさいと言つた。爺は見らるゝ通りの貧乏だから、とても泊めることは出來ぬと答へた。すると女房は、お前が貧乏だと言ふなら、世の中に長者はあるまい。見申《みまを》さい、この腰掛石や敷石や臺石を、これを何だと思ひますと言ふと、爺はこれはただの石だと言つた。否々これは皆《みな》金だ、金だから町へ持つて行つて賣《う》ンもさいと女房が敎へた。

 爺は翌日其の中の一個を町へ持つて行つて見た。町では[やぶちゃん注:底本は「見た 町 は」であるが、「ちくま文庫」版で訂した。]何處でもこれは大したものだ。とてもこれに引換へるだけの金(カネ)を爺一人で背負つて行けるものではないと言はれた。さう言はれる程の多くの金を爺は叺《かます》に入れて背負つて歸つた。山の鍛冶小屋の附近は一體にそれであつたから、爺と女房は忽ちに長者となつた。そしてまた女房の方では、土を掘ると前のやうに酒が湧き出たので、これも酒屋をはじめ其の山は俄に町となつた。女房の先夫は、ひどく貧乏になつて、息子と二人で薪木《たきぎ》を背負つて其の町へ賣りに來たりした。

  (和賀《わが》郡黑澤尻町《くろさはじりちやう》邊にある話、家内の知つていた分。)

[やぶちゃん注:「炭燒長者」譚は日本各地に伝承される長者譚である。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の「柳田國男 炭燒小五郞がこと」(全十二回分割)を参照されたい

「和賀郡黑澤尻町」現在、岩手県北上市黒沢尻(グーグル・マップ・データ)があるが、旧町域は遙かに広い。「ひなたGPS戦前の地図を確認されたい。

「家内」私は佐々木喜善の詳細年譜を所持しないが、この謂いからは彼の妻女はその黒沢尻の出身であったのであろう。【二〇二三年三月二十七日削除・追記】DekunobouMiyazawakenjiClub氏のサイト「気圏オペラの役者たち」の「民話」の「賢治と意外な接点をもっていた、遠野物語の語り手 佐々木喜善」に詳細な年譜があるのを見つけた。それによれば、彼は明治四三(一九一〇)年(この年、彼は満二十四歳)の時、『岩手県胆沢』(いさわ)『郡金ヶ崎』(かねがさき)『村』(ここ。グーグル・マップ・データ)『出身の看護婦千田マツノと親の反対を押し切り同棲する』とあり、大正三(一九一四)年(同前で二十八歳)の一月二十日に、『内縁の妻マツノと正式に婚姻入籍』しているとあったので、黒沢尻出身ではない。但し、金ヶ崎は黒沢尻の南西に近くので、伝え聴いてたものであろう。

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「鹽を好む山犬」・「馬には見える山犬の姿」・「煙草の火と間違へた山犬の眼」・「水に映る姿」 / 山の獸~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○鹽を好む山犬  山犬のことを山ノ犬、オイヌサマなどと謂ひ、これに後《あと》をつけられることを送られると謂ひます。夜《よる》山道などを通つて送られた時は、御禮に門口へ鹽を置くと謂ひます。又送つて來る時は轉んだら喰べようと云ふから、轉ばぬ用心が第一とも謂ひます。五十年ばかり前に亡くなつた早川孫三郞と云ふ男は、山犬に送られた事があつたと云ふ事ですが、其時、お禮に門口へ鹽を出したら、姿を顯はして喰べたと謂ひます。送る時は人の後から隨つて來ないで、路に沿つた木立の中を、時折肢音《あしおと》をさせて來ると謂ふ事です。

 又山犬は火を嫌ふから、夜道をする時は、切火繩《きりひなは》を持つて步くものと言います。

 山犬は、山の神に誓言《せいごん》して、枯草に鳴いて、靑山には鳴きませんと言つたから、夏は鳴かぬと謂ひます。これを山の神の御誓言と云ふさうです。

[やぶちゃん注:ここで言う「山犬」「山ノ犬」「オイヌサマ」は、本邦の近代までの民俗社会では、これらは「野犬」(のいぬ/やけん:哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属オオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris。私は犬が野生化した個体や、その個体群を、恰も生物種のように「ノイヌ」と表記することに反対である)ではなく、「狼信仰」で霊験を持つとも考えられた、絶滅近かったニホンオオカミ(イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax:確実な最後の生息最終確認個体は明治三八(一九〇五)年一月二十三日に奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村大字小川(グーグル・マップ・データ))で捕獲された若いオスである。著者早川孝太郎氏は明治二二(一八八九)年の生まれである)を原則的には指すので、注意が必要である。「山犬」「豺」(やまいぬ)という呼称も非常に古くからあるが、これは野犬ではなく、ニホンオオカミの別名である可能背が高いとする説が有力である。但し、ごく最近、我々が絶滅させてしまったニホンオオカミの標本のDNA解析が行われ、それが、ニホンオオカミと野犬の雑種であることが判明しており、高い確率で、近代までには、既にしてニホンオオカミと野生化したイエイヌの雑種群が広く存在していた(している)可能性が高いようには思われる。

「鹽」野生や飼育している草食動物が盛んに自然塩水や岩塩・海水塩などを摂取することは知られているが、肉食動物の場合は得物である草食動物の血液や骨から塩分を摂取するので、動物摂取が上手く行っていない場合を除いて、ニホンオオカミが積極的に置かれた塩を食べることはないはずである。野生の草食性或いは雑種摂取の動物が舐めたのを誤認したと考える方が妥当であろう。

「切火繩」適当な長さに切った火縄。火縄銃に点火する以外に、煙草に火をつけたりするほか、時間を計るのにも回して火が消えぬようにしつつ、携帯して用いた。]

 

 ○馬には見える山犬の姿  馬方が夜にかけて稼げば、大變利益があるけれど、馬が山犬を怖れて瘦せると謂ひます。またびつしより汗を搔いてゐるなどとも謂ひます。

 早川柳策と云ふ男が、暮方鳳來寺村の長良と云ふ所から馬を曳いて來て、村を出離《ではな》れて、ふだん山犬が出ると云ふ噂のある、行者樣《ぎやうじやさま》と云うふ處へさしかゝると、突然馬が手綱を振切《ふりき》つて、もと來た道を馳せ歸つたと謂ひました。馬は人家の前で、村の者が捕へて吳れたと云ひましたが、未だ人の顏がぼんやり見える程の時刻だつたさうです。

[やぶちゃん注:「長良」であるが、次の話にも出るのだが、これは「長樂」の誤りではなかろうか。旧鳳来寺村には「長良」はなく、「長樂(ながら)」ならあるからである。「ひなたGPS」のこちらを見て戴くと、現在も地名として生きていることが判る。

「行者樣」先行する「行者講」に出た「行者樣と呼んでゐる石像」と同じであろう。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の右の方の『(萬燈山)』の麓の道がカーブする南東の山側部分に『行人石像』とあるのがそれであろう。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)になくてはならないはずだが、見当たらない。ストリートビューでも確認出来ない。]

 

 ○煙草の火と間違へた山犬の眼  ある煙草好きの男が、海老《えび》へ行く街道を急用があつて夜中に步いて行く途中で、長良と云ふ處を出離れて玖老勢《くろぜ》へ越す杉林の中で、煙草の火を切らしてしまつて、煙草を煙管《きせる》へ詰めたまゝ口に咥《くは》へ行くと、行手に煙草を喫つてゐるらしい火が一ツ見えるので、急いで近づいて行つて、どうぞ火を一ツと、煙管を差出すと、それは山犬の眼であつたのに仰天して、其處に尻餅を撞《つ》いて氣絕してしまつたと謂ひますが、山犬の方でも閉口して傍の草叢へ飛込んだと謂ふ話があります。

[やぶちゃん注:「海老」橫山からは北方の山間部である新城市海老(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「長良」前条の私の注を参照されたい。

「玖老勢」新城市玖老勢(同前)。南西側で横川と一部が接する。]

 

 ○水に映る姿  遠江の山住樣《やまずみさま》や、春野山は山犬の神樣だと謂つて、狐憑《きつねつ》きなどのある時は、幾日間と期間を定めてお姿を借りて來ると謂ひます。其折は豫《あらかじ》め神主に依賴すると神主が、神樣に御都合を伺つて、行くと仰しやれば、初めてお札を渡すので、それを受取つたら決して後《うしろ》を見ないで、どんどん歸つて來るのだと謂ひます。もし後を見返ればお犬樣が歸つてしまうと謂ひます。それで途中川などがあつて、橋を渡つたり、渡し船に乘つた時などは山犬の姿が水に映つて見えると謂ひます。

 家へ着くと、山犬が先づ其屋敷を三度廻るものと謂ひますが、八名郡の山吉田村字畑中と云ふ處のある家で迎へて來た時は、姿は見えないで、門口で三聲恐ろしい聲で吠へた[やぶちゃん注:ママ。]と謂ふ事です。

[やぶちゃん注:「遠江の山住樣」狼を神使とする、横山からは東北に直線でも四十キロ離れた、静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼちょう)山住の山中にある山住神社(同前)。

「春野山は山犬の神樣」同じく天竜区の春野町(はるのちょう)花島(はなじま:同前)の峻険な花野山の山頂に立つ行基開山と伝える埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)。横川からほぼ東に直線で約四十一キロ離れる。本堂の前に狼が左右に配されてある(同サイド・パネル)。御茶農家八蔵園の鈴木猛氏のサイト内の「春野の観光」の「春埜山大光寺 山犬」に、左右合成の写真とともに、『春埜山大光寺の山犬です。この地には神様の使いである動物である、狼=山犬信仰があります。昔は焼畑をしていましたが、猪やウサギなど野生動物の害がありました。狼はその害を防いでくれる、代わりに山の民は塩をある場所に置いたといわれます。お互い姿は見せずとも、そこには信頼がおかれていたといいます』。『逆に信頼を裏切ると、その仕返しはたいへんなものだったそうです。この風土が受け継がれたものなのか、現在』で『もおもしろいのは、この地に暮らす山の民の気質で、人からうけた信頼はとことんかえすけれども、信頼を裏切られるとたいへんなのだそうです。山に生きる術が狼信仰として残り、それが今でもみなの心に息づいているということでしょう』とあった。また、サイト「寿福@参道」内の「狼神話 春埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)」には、 『地元の人たちから「お犬様」と呼び親しまれている大光寺は、曹洞宗、神仏混交の修験の山として知られています。春埜山は秋葉山と対になり、奥の院である山住神社』(☜)『の里宮であったという説もあります。大光寺の本堂前には、狼の狛犬が控えていて、ここが修験道の狼信仰の山であったことがうかがえます』。『守護神の太白坊は春埜山に住む天狗であると言われ、本尊である三尊天を守護するとされています。また、その眷属である狼を派遣し、信者の祈願成就を助けるとのことです』。『大光寺の開山は、養老』二(七一八)年に『行基菩薩がこの山頂に庵を開いたことが始まりとされています。境内には行基菩薩お手植えと伝えられる、樹齢』千三百『年の春野杉があり、県の天然記念物に指定されています。寛文年間』(一六六一年~一六七三年)『には一時』、『無人となったこともありましたが』、後に『復興し、明治の神仏分離令のときにも神仏習合を通し』(あっぱれ!)、『今日に至っています』とある。

「狐憑きなどのある時は、幾日間と期間を定めてお姿を借りて來る」旧民俗社会の獣類の頂点にニホンオオカミがいたことがよく判る。

「八名郡の山吉田村字畑中」この中央附近が旧山吉田地区(グーグル・マップ・データ)。]

2023/03/18

「曾呂利物語」正規表現版 五 ばけ物女になりて人を迷はす事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今までは、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入してきたが(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)、裏映りを消すために補正すると、薄くなるか、全体が黄色くなるかで、今一つ気に入らない。そこで、状態がかなりいい、上記岩波文庫版に挿絵の載るものは、それを画像で取り込み、トリミング補正することとした(今回はそれである)。

 

     五 ばけ物(もの)女(をんな)になりて人を迷はす事

 ある人、奉公の心ざし有りて、加賀國(かかのくに)へ罷りけるが、町屋に宿(やど)を借りてぞ、ゐたりける。

 かのあるじの息女、みめ美しく、形、優(いう)に侍るが、彼(かの)の者、物の隙(ひま)より見そめ、ひたすら思ひ沈みて、召し使ひける侍(さぶらひ)に、いひあはせて、色々、さまざま、心ざしの淺からぬ由(よし)、つたへければ、女も、いつしか、心、とけて、たがひに、むつまじくなりにけり。

 もとより、人目を忍ぶ事なれば、夜ふけ、人しづまりて後(のち)、かの男のもとへ通ひ侍りしが、ある夜(よ)、女、をとこのねやに有りながら、又、あるじのあたりにも、彼(か)の女の聲しけるを、なかだち、

『怪し。』

と思ひ、あるじのあたりヘ、何となく音(おと)づれて見れば、紛(まぎ)るゝ所も、なし。

 

Bakemonoonnaninaru

[やぶちゃん注:以上の岩波版では右上端のキャプションが見えないが、「国書データベース」で確認すると、「ばけ物女に成て人まよはす所」と確認出来る。]

 

 あまりの不審さに、なにがしの許(もと)へ行き、かたかげへ呼び寄せ、

「かかる事の侍る。」

由、ささやきければ、怪しみて、

『いかさま、我が心をたぶらかさんと、變化(へんげ)の物の態(わざ)にてぞ、あるらん。』

と思ひ、何となう、もてなすやうにして、とりて、引きよせ、一刀(ひとかたな)、させば、

「あつ。」

と云ふ聲のうちより、姿は、見えずなりにけり。

 さて、夜明けて、血をとめて、見れば、二里ばかり行きて、山、有り、山、又、山をわけ入りて見れば、大いなる岩あなの中(なか)に、かの女の姿をしてぞ、ゐたりける。

 日數(ひかず)すぎ行くまゝに、常の死人(しにん)の如くに、涸(か)れゆきぬ。

 主の娘も、恙(つゝが)なし。

 如何なる事とも、わきまへかねたる事どもなり。

[やぶちゃん注:本篇をほぼそのまま転用したものに、「諸國百物語卷之二 六 加賀の國にて土蜘女にばけたる事」ある。

「とめて」求めて。跡を追って。]

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「ノシ餅を運ぶ鼬」・「鼬の鳴聲」・「カマイタチ」・「鼬の最後屁」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○ノシ餅を運ぶ鼬  正月の切餅を鼬が自分の巢へ運ぶ時は、スーと云ふやうな聲を盛《さかん》に立てると謂ひます。それは鼬が嬉しくて立てるのだと言ふ人もありました。早川安太郞と云ふ男が、夕方畑の道を步いてゐると、行く手から白い布のやうな物が地を這つて來るので、足元へ近づいてから、不意に怒鳴ると、其處から鼬が飛び出して逃げて行つたと謂ひます。白い布のやうに見えたのは、伸餅《のしもち》であつたさうです。鼬が自分の體で餅を冠つて持つて來たのだらうと謂ひました。鼬は餅に限らず何でも自分が見つけただけは、全部巢へ運んでしまつて最後に屁をかけておくと謂ひます。

[やぶちゃん注:「鼬」食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela に属する多様な種群を指す。本邦には四種七亜種ほどが棲息するが、タイプ種は日本固有種のニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsiで、本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入)である。実は、本邦では古くから、キツネやタヌキと同様に化けるとも言われ、妖怪獣の一種に数えられた。後に出るイイズナも同属である。詳しい博物誌は私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を読まれたい。

「最後に屁をかけておく」所謂、「イタチの最後っ屁」であるが、これは彼らの食性による糞の臭い、及び、肛門の周辺にある強い液体を噴射する臭腺に拠るものである。詳しくは有害動物駆除会社の公式サイト「駆除PLUS」の「イタチの最後っ屁やふんの悪臭・対策について解説」が判り易く詳しい。]

 

 ○鼬の鳴聲  鼬の鳴聲で吉凶を占ふ風習があつて、一聲鳴《ひとこゑなき》は凶事の前兆と謂ひます。又鼬が行く手を橫ぎつた時は、行先に凶事がある故、三步後《うしろ》に退《さが》つて呪文を唱へて行くものと謂ひます。呪文は後《あと》に記す。

[やぶちゃん注:「呪文は後に記す」本書の末尾に『○種々な咒ひの歌』の条があり、そこに、

   *

鼬が行手《ゆくて》を橫切つた時は、三步後《うしろ》に戾つて、

 イタチ道チ道チカ道チガヒ道、ワガユク先ハアラヽギノ里、と三度唱へて行く。

   *

とあるのを指す。]

 

 ○カマイタチ  カマイタチは旋風に乘つて橫行し、人の生血《いきち》を吸ふと謂ひます。又飯綱《いひづな/いづな》ともいつて、昔飯綱師が弟子に傳授の時、封じ方を傳へなかつた爲め橫行《わうかう》して惡者になつたと謂ひます。別の說では、飯綱師ではなく、尾張鍛冶とも謂ひます。

[やぶちゃん注:「カマイタチ」この妖怪というか、奇怪な現象については、私は、散々、書いてきたので(中学時代、「カマイタチだ」とする事件の現場に私は居合わせた経験がある)、特にここでは注記しないが、「耳嚢 巻之七 旋風怪の事」及び「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」等の私の注を参照されんことを望む。

「飯綱」これは、一応、実在する動物としては、ネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ属イイズナ Mustela nivalis の標準和名に当てる。この「妖怪獣」や民俗伝承についても、私は、複数回、注してきたので、例えば、「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」、及び、「老媼茶話巻之六 飯綱(イヅナ)の法」の本文及び私の注を読んで戴けると幸いである。なお、「早川孝太郎研究会」の当該箇所(PDF)には、以下の注記がある。『飯綱(いづな)は、飯繩とか伊豆那とも書かれる』。『人間に憑くといわれる妖獣で、狐憑き(狐の霊につかれること)の1種。体長9~12㎝くらいの鼬のような小動物。毛は柔らかく、尾は箒のようで尾先がふつくらとしている』。『4本の脚が互い違いに並んでおり、指は5本、手と耳は人間に似ている。民間宗教家のような特殊な人間の命令で動くもので、憑きものとしては犬神やくだ狐ほど一般的ではないという。人間にとり憑いた場合、その人は狂つたように何かを口走り、やたらと大食いになるが、水に溺れさせると飯綱は逃げるとされる。お金に憑くと勝手に増えるともいう』。『飯綱の正体はコエゾイタチであるらしい』(コエゾイタチ(小蝦夷鼬鼠)は前に掲げたイイズナの異名)。『飯綱を使役することができ、使役するものを飯綱使い、操る方法を飯綱の術といい、山伏や呪術師が利用していた』とある。]

 

 ○鼬の最後屁《さいごつぺ》  鼬の屁は最後の斷末魔に出すと言つてこれに當てられたが最後、犬でも顏色が變ると云ひますが、ある男が厩の傍で鼬を撲《なぐ》つたら屁を出して、その爲め馬が三日ばかりは糧馬を喰べなかつたと謂ひます。

 私が子供の頃、鼬捕りの箱で鼬を捕つた時、中にゴトゴト藻搔いてゐる奴を、其儘池の中へ沈めて殺した事がありましたが、後で引き出した時は、更に臭ひはなかつたやうでした。

 八名郡大野町の生田福三郞と云ふ人の噺に、若い頃、鼬寄せをした時に寄つた鼬は東京の兩國橋の下で生れたと謂つたさうですが、其折鼬の乘移《のりう》つてゐると云ふ男が、水を所望するので、茶碗に入れて與へると、恰《あたか》も鼬が水を飮む格好をして飮んださうです。殘りの水を後で其生田と云ふ人が飮まうとすると、其水が鼬の最後屁と少しも違はぬ匂ひがしたさうです。よく視ると、茶碗の緣が黃色く染まつてゐたさうです。居合《ゐあは》した數人の者に嗅がして見たさうですが、誰しも辟易とせぬものはなかつたと謂ひました。

[やぶちゃん注:早川氏の自身の体験に基づく強烈な二段落目が素晴らしい。机上で安易に勝手な推論を建てて自己満足に酔っているどこかの学者連中とは違って、実に説得力のある確かな「語り」ではないか。これこそが、本来の民俗学のあるべき原点である。生物学と同じでフィールド・ワークこそが要(かなめ)である。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 Nereid(アレクサンドル・ブーシキン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  Nereid ブーシキン

 

タウリスの黃金の岸辺に接吻する白綠の波にあひだに、

私は海の女神を見た、 曙が空のはてにひらめくとき。

私はオリーブの木の間にかくれて吐息をつかうとした、

この若い半神の女神が海のうへにのぼるとき。

彼女のわかい白鳥のやうに白い胸は高まる水の上にみえ、

彼女のやはらかい髮の毛から浮める花環のなかに泡をしぼり出す。

 

[やぶちゃん注:二行目末は底本では、何かが打たれているようだが、甚だ薄く、句点か読点かは不明である。取り敢えず、四行目に倣って句点を配した。作者は言うまでもないが、ロシア近代文学の嚆矢とされる大詩人アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин/ラテン文字転写:Aleksandr Sergeyevich Pushkin 一七九九年~一八三七年)である。恐らくは、英訳からの重訳と思われる。ロシア語の原詩と英訳が載るこちらの英文サイトをリンクしておく。

Nereid」英語音写は「ネレイド」。ギリシア神話に登場する海に棲む女神たち、或いはニンフたちの総称。「ネーレーイス」「ネレイス」(以上、単数形)「ネーレーイデス」「ネレイデス」(以上、複数形)と呼ばれる。当該ウィキによれば、『彼女たちは「海の老人」ネーレウスとオーケアノスの娘ドーリスの娘たちで』、『姉妹の数は』五十『人とも』百『人ともいわれ』、『エーゲ海の海底にある銀の洞窟で父ネーレウスとともに暮らし、イルカやヒッポカムポス』(神獣で半馬半魚の海馬)『などの海獣の背に乗って海を移動するとされた』とある。

「タウリス」Taurus(英語の音写は「トォーラス」)。西洋の占星術で「黄道十二宮」(the signs of the zodiac:獣帯(じゅうたい)とも言う)の「牡牛座」(おうしざ:金牛宮(きんじゅうきゅう))を指す。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 唄(ジョン・リチャード・モーアランド)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

    モーアランド

 

かなしみをもてわれをとらへ、 いましめよ、

なほも、 恐れをもてわが心を 刺(さ)せよ、

もえあがるよろこびのちさきほのほを

なみだもて消せよ。

 

汝(な)が知れるかぎりの敏(さと)き手だてを試みよ、

すべてのたくみなるわざを用ゐよ………

されど されど わが心のなかのうたごゑを

なれはとめえじ!

 

[やぶちゃん注:アメリカの詩人・作家ジョン・リチャード・モーアランド(John Richard Moreland 一八七八年~一九四七年)はバージニア州ノーフォークで生まれで、同地で没した。一九二一年に詩誌『poetry』を創刊している。原詩は探し得なかった。

「用ゐよ」はママ。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 若い女のやうな春(ローラ・ベンネット)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  若い女のやうな春 ベンネツト

 

おほきく眼をひらいた街のかなたに

子を產んだ若い女のやうな春が

ためらひがちな足どりでやつてきた。

鋼(はがね)のやうな冷(つめ)たい霙がふり、

さけたみどりの莖のやうに吹きあれた風も

もはや たえだえになり、

その眼のかげにかくれてゐる

ヒヤシンス色の夜のとばりも

菫と薔薇とのおぼろのなかに消えうせる。

 

[やぶちゃん注:Laura Bennettで探してみたが、人物も詩篇も見出せなかった。識者の御教授を乞う。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 六番 一目千兩

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     六番 一目千兩

 

 昔、奧州に一人のヤモメ男があつた。何とかして金儲けをしたいと思つて居た。そのうちに盆が來たので、蓮の葉を江戶へ持つて行つて、一儲けしやうと考へた。田舍で蓮の葉を買い集めると恰度《ちやうど》船で三艘あつた。それを江戶のお盆に間に合ふやうにと急いだが、江戶に着いてみると、昨日で盆が過ぎたと云ふところだつたので落膽した。

 男は甚だ困つたが、思ひきつて殿樣に謁見に及んで、私は今度奧州から美事な蓮の葉を運んで來ましたが、昨日でお盆が濟んで不用なものになりました。何卒もう一度御盆のやり直しを、殿樣から御布令《おふれ》して頂きたうございますと願ひ出た。すると殿樣は御聽き上げになつて、家來を集めて、今度奧州から珍しい蓮の葉が屆いたから、改めて又盆をしろと布令出させた。三艘の船の蓮の葉が、一艘一千兩づつに賣れて忽ちのうちに男は三千兩の大金を儲けた。

 その頃、日本中で一番美しいと云はれる女が江戶に居たが、なかなか人に顏を見せなかつた。一目見ると千兩と云ふ莫大な金が入るから、誰も三度見たことが無かつた。ただ女の居間の障子がスウと開いてすぐパタンと閉めたきりで千兩と云ふのだから、皆呆れて歸つて行くのであつた。

 奧州の男も、國の土產(ミヤゲ)に一度見て歸りたいと思い、その女の所へ出かけて行つた。まづ千兩出して賴むと障子が兩方ヘスウと開いて、忽ちバタンと閉まつた。成程女の顏は花のやうに美しかつたが、どうも夢のやうではつきり見えなかつたので、もう千兩出して賴むと、また先刻の通りであつた。それでも猶諦めかねて、三度目にまた千兩出して賴むと、またスウト障子が開いたが、今度は女が笑つて居た。けれども男は持つてゐた三千兩の金をば皆無くしてしまつたので、これからどうして國へ歸つたらよかろうかと思案して居ると、女が出て來て、お前さんはどうしてそんなに思案顏して居るかと言つた。男は俺はもう一文も無いので奧州へ歸る工夫をして居ると言ふと、女は今迄二度までは見てくれても、三度まで妾《わらは》を見てくれた者がないのにお前さんは持ち金全部を出して見てくれた、それで私はお前さんの氣象に惚れた、どうか私を女房にして奧州へ連れて行つて下さいと言つた。そして女の持ち金全部を持つて、共に奧州に歸つて長者となつた。

  (岩手郡雫石《しづくいし》村、田中喜多美氏の御報告の一《いち》、摘要。)

[やぶちゃん注:「岩手郡雫石村」岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう:グーグル・マップ・データ)。

「田中喜多美」(明治三三(一九〇〇)年〜平成二(一九九〇)年:佐々木より四つ年下)は岩手県雫石町出身の民俗学者・郷土史家。尋常高等小学校を卒業後、高等科に進学するものの、家庭の事情により退学、農業に従事しながら、全くの独学で勉学読書に励んだ。後に岩手県教育会・岩手県庁に勤務し、岩手県の歴史と文化についての研究・振興に多大な功績をあげた(サイト「神奈川大学 国際常民文化研究機構」のこちらに拠った)。]

「曾呂利物語」正規表現版 四 一條もどり橋のばけ物の由來の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入する(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)。なお、この図は底本(保護期間満了)にもあり、底本のものも手を加えずに並べて参考に供した。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     四 一條もどり橋のばけ物の由來の事

 いつの頃にか有りけん、

「都(みやこ)、『もどりばし』の邊(へん)に、よなよな、變化(へんげ)のもの、有り。」

と、いひわたる事、あり。

 こゝに、そのかみ、名(な)ある武士(ぶし)、その頃は、世を憂きものに思ひて、洛中に徘徊して侍りしが、ゆたかなる餘慶(よけい)にて、今に所狹(ところせ)きさまなりしが、此の事を聞き、

『さるにても、いかなるものぞ。見屆け侍らん。』

と思ひ、ある夜(よ)、かの橋の邊(ほとり)に棧敷(さじき)を打ちて、妻女諸共(もろとも)に、行きて、密(ひそ)かに待ちてぞ、ゐられける。

 さる程に、常に立ち入りし座頭の有りけるが、其の夜(よ)しも、來たりて、

「殿(との)は。」

と問へば、

「しかじかの事。」

と云ふ。

「『人、多くては、化物(ばけもの)、來(きた)らじ。』とて、「上下(うへした)、二、三人して、坐(おは)して侍る間(あひだ)、御伽(おとぎ)に參られよかし。」

と、いひければ、

「尤(もつと)もの御事(おんこと)なり。さらば。」

とて、彼(か)のさじきに行きぬ。

 何某、なのめならず、悅び、宵の程は、「平家」など語らせて慰みけるが、夜更けて、人、靜まりぬれば、夫婦(ふうふ)ながら、ことの外、眠くなりて、

「ばけもの見ん事も、なるまじき。」

と、互(たがひ)に、起こし、制するほどこそあれ、後(のち)には性根(しやうね)を失ひ、我(われ)かの氣色(けしき)にて、うかうかと、ねぶりけり。

 かかる所に、二人のなかへ、彼(か)の座頭、飛びかゝり、長き手を、さしのべて、頭(かしら)をおさへける。

 

Kumonokai

 

Teihokumonokai

 

[やぶちゃん注:前者が「国書データベース」のものを補正したもの、後者が底本(『近代日本文學大系』第十三巻 怪異小説集・昭和二(一九二七)年刊)のもの(補正せず)。右上端のキャプションは「条もどりはしばけ物の事」(「一」はなし)である。]

 

 男、驚き、

「得たりや、かしこし。」

と、起きあがり、太刀に手を掛けんとすれども、網にかゝれる如くにて、手足に搦(から)まり侍るを、漸(やうや)うに押しくつろげ、相傳(さうでん)の「來國光(らいくにみつ)」を以つて、拂ひ切りにぞ、したりける。

 化物、一刀(ひとたち)、きられて、少しひるむ所を、續けさまに、五刀(いつかたな)、剌して、さて、火を點(とも)し見給へば、手足は龍(りよう)の如くにて、長さ一丈三尺五寸、かしらは、繪にかける酒顚童子(しゆてんどうじ)の如くなり。これぞ、蜘(くも)といふ蟲の、功(こう)[やぶちゃん注:ママ。]を經て、人をばかかしけるなり。

 其の後(のち)、橋にさらして、諸人(しよにん)に、これを見せけるとぞ。

[やぶちゃん注:「一條もどり橋」怪奇出来(しゅったい)にこれほど恰好なロケーションはない。そもそもが「橋」自体が古代の民俗社会に於ける「異界との通路」であった。当該ウィキによれば、『一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、京都市上京区の、堀川に架けられている一条通の橋で』、『単に戻橋ともいう』(ここ。グーグル・マップ・データ)。延暦一三(七九四)年の『平安京造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋された。橋そのものは何度も作り直されているが、現在も当時と同じ場所にある。平安中期以降、堀川右岸から右京にかけては衰退著しかったために、堀川を渡ること、即ち』、『戻り橋を渡ることには特別の意味が生じ、さまざまな伝承や風習が生まれる背景となった』。『「戻橋」という名前の由来については』、「撰集抄」巻七で、延喜一八年十二月(ユリウス暦やグレゴリオ暦換算でも既に九一九年)に『漢学者三善清行の葬列が』、『この橋を通った際、父の死を聞いて』、『急ぎ』、『帰ってきた』、『熊野で修行中の子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという』。「平家物語」の「剣巻」には、『次のような話がある。摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされる』。『戻橋は橋占の名所でもあった』。「源平盛衰記」巻十に『よれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき』、十二『人の童子が手を打ち鳴らしながら』、『橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという』。『戦国時代には』、『細川晴元により』、『三好長慶の家臣和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により』、『島津歳久と千利休が梟首された』(後者には異説がある。リンク先参照)。『また』、『秀吉のキリスト教禁教令』下の慶長二(一五九七)年には、『日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎へと向かわされた』。『嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習がある。逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願ってこの橋に渡りに来ることがあった』とある。あらゆる時代を通じて、ここは霊界との通底器であったのである。

「世を憂きものに思ひて、洛中に徘徊して侍りしが、ゆたかなる餘慶(よけい)にて、今に所狹(ところせ)きさまなりし」「この世をつまらぬものと感じつつ」も、「嘗つての先祖の名声の余香もあり、また、その余禄で、経済的には苦労はない」ものの、どうもそうした自負心も残っておればこそ、世間的には過去の人のように思われているであろうことを考えると、「何やらん、精神的に気詰まりな内心を抱えていた」と、所謂、主人公の心理的に複雑にして微妙な不安定さが捩じれた形で意識的に示されてあり、それが怪奇への偏頗な嗜好を促しもし、ひいては、物の怪が手を出しやすい𨻶が生じていることをも、前触れているのである。

「我か」「我か人か」の略。意識が朦朧として、見当識が消失していることを言う。

「來國光」鎌倉後期の相模国で活動した刀工新藤五国光(しんとうご くにみつ 生没年不詳)の作になる名刀。

「酒顚童子」大江山の鬼、酒呑童子(しゅてんどうじ)のこと。当該ウィキを参照。]

「曾呂利物語」正規表現版 三 女のまうねんは性をかへても忘れぬ事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入する(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(但し、本篇は収録していない)。]

 

     三 女(をんな)のまうねんは性(しやう)をかへても忘れぬ事

 年ごろ行ひたる僧の有りけるが、いかゞ思ひけん、一人(ひとり)の女に戯(たはむ)れて還俗(げんぞく)しはべる。かくて、年月(としつき)過ぎけるが、かの僧、

「つくづくと來(こ)し方思ひつゞくれば、一たび、出家の身となりて、うけがたき人身(じんじん)をうけながら、空しく三途(さんづ)に歸らんこと、返す返すも、口惜しけれ。」

とて、あたり近き所に貴(たつと)きひじりのおはしますに、よくよく申して、又、行ひすましてぞ、ゐたりける。

 されども、彼(か)の女、をりをり、彼(か)の寺に行き、とぶらひ侍る。

 僧、

『うとましきこと。』

に思ひながら、かの女、日頃も、けしからず、心たけきものなりければ、やうやうに、いひ宥(なだ)めて過ぎけるが、ある時、僧、いたはり出(いだ)しけるが、かねて友なる僧に語りけるは、

「かの女、我をたづね來らば、『物まうでをし侍る。』と、いひてたまはれ。」

と、いひあはす。

 案の如く、彼(か)の女、來りて尋ねければ、

「その人は、昨日(きのふ)、物まうでの心ざし有りて、何處(いづく)へやらん、出でたまふ。」

といふ。

 女、すこし、けしき變りて、歸りぬ。

 扨(さて)、其の後(のち)、僧は涅槃に入(い)りぬ。

 さる程に、日頃、存じの事なれば、院主(ゐんしゆ)の坊、かの女の方(かた)へ、

「しかじか。」

と、いひつかはす。

 いそぎ、女、來りて、少しも歎くけしきもなく、いひけるは、

「彼の僧は、五百生(しやう)以前より、われわれが、敵(かたき)なり。かの者の成佛すべき所をば、色々に形を變(か)へ、身を變じて、障礙(しやうげ)をなして、妨(さまた)げ侍る。此のたび、死目(しにめ)に逢ふならば、往生を遂げらせまじきものを。」

と、怒りけるが、そのたけ、二丈ばかりも有るらんとおほしき[やぶちゃん注:ママ。]、鬼神(きじん)となりて、口より、火焰(くわえん)をいだし、天に、あがり侍る。

 

Onnakijinn

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「女のもうねん生をかへてもふかき」である。後注を参照されたい。]

 

 しばし、雲のすきに、ひらめきて、つひに見えずなりにけり。

 かかることは、佛(ほとけ)も說きおき給ふとかや。恐れて、みづから愼むべきこと、とぞ。

[やぶちゃん注:「まうねん」妄念。

「性(しやう)をかへても」この「性」は挿絵のキャプションの「生」の方がしっくりくる。本文にある通り、実に五百回、「生」まれ変わっても、この僧を「敵(かたき)」としてきた執拗(しゅうね)き怨霊(「鬼神」化さえしている)であったのである。女であることから、性別を「變へても」とり憑き続けたとも読めてしまうのであるが、ここは「女は」と頭にあることから、仏教の古くからの性差別である「変生男子」(へんじょうなんし)説(女は男に生まれ変わらないと成仏は出来ないとするもの)が意識の底にあることが判り、彼女は恨みの余り、五百回、女に生まれ変わって、かの僧の前世にもずっと祟り続けてきたのだ、と考えるのが妥当であるように思われる。

「いたはり出(いだ)しける」「勞はり出だしける」で、「(重篤な)病いを煩(わずら)い始め、」の意。

「二丈ばかり」六メートル超。]

「曾呂利物語」正規表現版 二 女の妄念迷ひ步く事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入する(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     二 女の妄念迷ひ步く事

 越前の北の莊(しやう)といふ所に、ある者、

「上方へ、まだ、夜(よ)をこめて、上る(のぼ)る。」

とて、「さはや」といふ所に、大いなる石塔、有りける。

 その下より、鷄(にはとり)、一つ、たちて、道におるゝ。

 月夜影(つきよかげ)に、よくよく見れば、女の首、なり。

 彼(か)の男(をとこ)を見て、けしからず、笑ふ。

 

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[やぶちゃん注:右上端にキャプションがあり、「ゑちぜんの国北庄にての事」とある。]

 

 男、少しも騷がず、刀をぬきて、切つてかゝれば、そのまま、道筋をかへて、上(うへ)のかた、よりくる。

 續いて追ふほどに、府中の町(まち)「かみひぢ」といふ所まで、追ひつけて見れば、ある家の窓より、うちへ飛び入る

『不思議なること。』

に思ひ、しばし、立ちやすらひて、内(うち)の樣(やう)を聞けば、女房の聲にて、男を起(おこ)し、

「あら、おそろしや、只今(たゞいま)の夢に、『「さはや野」を通りしが、男一人(ひとり)、我を斬らんとて、追ふ程に、これまで、逃げける。』と思へば、夢、さめぬ。汗水(あせみづ)になりし。」

などいひて、大息(おほいき)ついて、語る。

 門(かど)にある男、此(ここ)の由(よし)を聞き、戶を叩き、

「聊爾(れうじ)なる申しごとにて候へども、申すべき事あり、開けさせ給へ。」

とて、内に入り、

「たゞ今、おひ參らせ候(さふらふ)は、我等にて候。扨(さて)は、人間(にんげん)にて渡らせ給ひけるか。罪業(ざいごふ)の程こそ、あさましけれ。」

とて、通り侍る。

 女も、身の程をなげき、

「此のありさまにては、男に添ひさふらふことも、心うし。」

とて京へのぼり、北野(きたの)眞西寺(しんせいじ)に取りこもり、ひとへに後世(ごせ)をぞ、祈りける。まことに、あり難きためしにぞ。

[やぶちゃん注:所謂、妖怪としての「轆轤首」ではなく、睡眠中に首が抜け出るという夢中体験をするそれ(中国由来の妖怪では「飛頭盤」(ひとうばん)という名もある)である。江戸時代にはメジャーな妖怪として持て囃されるようになるが、本篇はそうした首抜け女のケースの比較的古層の一篇と言えるもので、妖怪というよりも、ここに出るように「生霊の首が抜けて飛ぶ因果な忌まわしい病気」と認識されていた記載も江戸期を通じて、実は、甚だ多いのである(そうした噂の轆轤首女の実話ハーピー・エンド譚「耳嚢 巻之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」もお薦めである)。私の怪奇談でも、枚挙に遑がないが、纏めたものとしては、「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」がよろしかろう。なお、「轆轤首」を真に日本の妖怪(但し、そこに出るそれは強い渡来の「飛頭盤」の色彩が濃厚である)として周知せしめた名品は「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」以外にはないと考えている。

「越前の北の莊」福井城跡がある、現在の福井県福井市(城があったのは同市大手。グーグル・マップ・データ)の旧称である越前国足羽(あすわ)郡北ノ庄。後に「福居」と改め、さらに「福井」となった。

「まだ」ここは「さらに」の意。

「さはや」岩波文庫版では「沢谷」。しかし、現行の福井県の福井市南部に「沢谷」の地名は見当たらない(以下の展開から福井県南部でなくてはならない)。

「鷄(にはとり)、一つ、たちて、道におるゝ」言わずもがな、「鷄」がひょいと現れて、道に降りてきた「ように見えた」のであって、誤認であり、それが生きた女の首だったという、主人公の順視認の視線を用いた誤認と、怪異出来(しゅったい)の転換点である。

「けしからず」「異しからず・怪しからず」。「けし」の打消形ではあるが、この場合は打消の意味ではなく、「変である」ことの強調形として添えられたもの。「いかにも怪しく・異様に・不気味な感じで」の意。

「道筋をかへて、上(うへ)のかた、よりくる」抜刀して斬ろうとしたのに驚いた生首が、それを避けるために、空中の「より」高い「上(うへ)」の「かた」(方)に「寄」せて飛び来たった(逃げた)という謂いである。

『府中の町(まち)、「かみひぢ」といふ所』福井県の府中であるなら、現在の越前市(グーグル・マップ・データ)の旧称である。岩波文庫(同書のルビについては歴史的仮名遣ではないので注意)では本文を『府中の町上比志(かみひじ)』とするが、現行地名に「比志」はなく、「ひなたGPS」で戦前地図も閲したが、ない。但し、本篇を殆んど転用した「諸國百物語卷之二 三 越前の國府中ろくろくびの事」の注で、私は、湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収。ネットでPDFで入手可能)から、『「かみひぢ」は「上市」』で、『「上市」は福井県武生市上市町か(現在の越前市武生柳町・若竹町)』というのを引用してある。ただ、柳町はここ若竹町はここであるが、両者はかなり離れている(グーグル・マップ・データ)。なお、本篇の類話として湯浅氏は先の「諸國百物語」の他に、「太平百物語」の「卅六 百々茂左衞門ろくろ首に逢し事」も類話として挙げておられる。同書も私は全電子化注を終わっているので、リンク先を見られたい。

「さはや野」岩波文庫は『沢谷野(さわやの)』。先の不詳の地である「澤谷」の「野」原。

「聊爾(れうじ)なる」元は「考えのない軽率な行為」を指すが、ここは,謙辞で「ぶしつけ乍ら」「失礼では御座るが」の意。

「人間にて渡らせ給ひけるか」「渡る」は中世以降に「せ給ふ」「せおはします」などとともに用いて、「ある」「居る」の尊敬語となった。「正真正銘の人間でいらっしゃいましたか!」「~あられましたか!」。

「北野(きたの)眞西寺(しんせいじ)」北野天満宮の東直近にある、現在の京都府京都市上京区真盛町(しんせいちょう)の天台宗真盛山西方尼寺(さいほうにじ:グーグル・マップ・データ)。寺伝によれば、文明年間(一四六九年~一四八七年)に真盛を開山として大北山の地に尼僧の道場として建立され、永正年間(一五〇四年~一五二一年)に現在の地に移って、「西方寺」と改めた。本尊阿弥陀如来像は椅子に腰かけた中品中生の印を結ぶ珍しい仏像であり、重要文化財指定の「絹本著色観経曼荼羅図」は大和当麻寺の中将姫所縁の著名な「綴織観経曼荼羅」(当麻曼荼羅)を鎌倉時代に転写したものである。また、境内には秀吉の北野大茶会に於いて、千利休が用いたとされる「利休の井」が残る(以上は「京都市上京区」公式サイト内の「上京区の史蹟百選/西方尼寺」の記載に拠った)。]

2023/03/17

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「狐の穴」・「屋根へ登る狐」・「蠟燭を奪る狐」・「人を化す法」・「仇をされたのだらうと云ふ話」・「化かされて絹糸を燒いた噺」・「氣樓を見せた狐」・「クダ狐」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○狐の穴  私の子供の頃には、人家に近い木立の中などに幾ケ所も狐の穴があつて、それが一ケ所に六ツもかたまつてあつたもので、冬になると、芋穴の芋を掘り出したり、每晚のやうに鷄を襲つたりしたものです。雪の降つた朝には、必ず狐の肢跡《あしあと》が家の圍りに續いてゐました。其狐の穴が、何時となしに埋まつてしまつて、この二十年來、めつきり狐が居なくなつたと謂ひます。

 狐は仇をする獸だと謂つて、狐に惡戲をしたり、陰口などつくと、アタン(仇)をすると謂つて怖ろしがつたものでした。又狐の糞を踏むと、足が痛くなると云つて、子供の時など足が痛いなどゝ言へば、どんな所を步いたとか、狐の糞を踏んだのではないかなどゝ訊かれたものでした。

 

 ○屋根へ登る狐  夜《よる》狐が人家の棟に登ると、眠つてゐる者が魘《うな》されると言つて、夜梯子を屋根に立て掛けておくことを戒めました。又狐が鷄を捕る時は、外に居て戶の𨻶や節穴から鷄の巢を覗いて、法を使ふので、鷄が巢から飛出して捕られるのだとも謂ひました。又ある所で、子供が夜泣きをして仕方がないので、或晚男がそつと裏口へ廻つて見てゐると、狐が裏の椽側《えんがは》へ登るとはげしく子供が泣いて、下に降りると靜まるので、其狐を追拂ふと、夜泣きが止んだなどの噺がありました。

 

 ○蠟燭を奪《と》る狐  狐は火を灯《とも》すと云ひます。狐の火は、靑い色をしてゐるとも、又特に赤い色をしてゐて、輝きがないとも謂ひますが、狐は油や蠟燭を好むから、夜《よる》油を持つて步くと、不思議に奪られたり零《こぼ》したりすると謂ひます。又提灯を灯して步く時、前に提げると蠟燭を奪られるから、後《うしろ》に背負へばいゝなどと謂ひます。村の早川虎造と云ふ男は、若い頃、惡い狐の住んでゐると云ふ馬崩れと云ふ處を通る時、いつか持つていた提灯をカゾー(楮《かうぞ》)の株とすり替へられながら、家迄持つて來ました、[やぶちゃん注:読点はママ。]そして家の者に言はれる迄は、其が明るいと思つてゐたと謂ひました。

[やぶちゃん注:「馬崩れ」後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十四 狸の怪と若者』に『村を出離れて、長篠へ越す途中の、馬崩れの森は、田圃を三四町[やぶちゃん注:凡そ三百二十八~四百三十六メートル。]過ぎた所に、一叢大木が茂つて居て、日中でも薄氣味の惡い處だつた。こゝからずつと長篠の入口迄山續きになるのである。此處にも又惡狸が居て、通る者を時折嚇すと言うた。或は又山犬も惡い狐も出ると言うて、何れにしても問題の場所だつたのである。自分などの此處を通つた經驗でもさうであるが、暮方など未だ明るい田圃道から、暗い森の中へ足を運んで行と[やぶちゃん注:ママ。「ゆくと」。]、地の下へでも入るやうで自づと心持迄滅入つて來る。又反對に暗い森の中から、田圃道へ出るとホツとするが、それだけに何だか後から引張られでもするやうに不氣味を感じたものである。そんな譯でもあるまいが、田圃の手前の、村の取付にある家へは、以前は夜分眞蒼になつた男が、時折驅込んで來たさうである』と、より詳しく説明されてあり、私はそこに附した注で、「馬崩れの森」について、『この中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)の寒狭川左岸の道と思われる。現在の横川地区南端辺りからこの森の辺りまではまさに四百メートルほどに当たる』と比定した。

 

 ○人を化す法  狐が人を化《ばか》すには、尻尾で化すと云ひますが、人間の方が用心深くて化す機會のない時は、足許へ近づいて、足袋の紐を解いて、人間が足袋の紐を結んでゐる𨻶に化すとも謂《いひ》ます。

  明治三十年頃、村の早川德平と云ふ家に下男をしてゐた留吉と云ふ男が出遇《であ》はせた事ださうですが、それは盆の十五日の夜、友達と三人連《づれ》で豐川稻荷へ參詣に出かけて眞夜中頃、途中の本野ケ原《ほんのがはら》と云ふ處迄來ると、傍の畑の中に若い女と、男が二人風呂敷包《づつみ》を背負つて、三人共《とも》尻を端折《はしよ》つて妙な恰好をして步いてゐるので、不審に思つて、其處に立つて、煙草を喫ひながら見てゐると、近くの畑の肥溜《こえだめ》の屋根に白い狐がゐて、頻りに尾を振つてゐた。初めて狐に化かされてゐるのだなと感づいたので、三人して大きな聲で怒鳴ると、狐は其處に人がゐることを知らずにゐたのか、丸くなつて逃げて行つたさうで、化かされてゐた連中も正氣に還つたと云ふことでした。だんだん譯を聞くと、この人達は近くの一鍬田《ひとくはだ》村の者で、若い女が嫁に行くので、父親と下男とが仕度の着物を豐川の町へ買ひに行つた歸りを、その畑の中が一面の川に見えて、どうしても其處が渡り切れなかつたので、そこで尻端折りをしたのださうです。其時、若い女の尻を端折つた股の所に大きな痣《あざ》らしいものがあつて、月の光で明瞭に見えたと云ひました。

[やぶちゃん注:「明治三十年」一八九七年。

「豐川稻荷」ここ(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗圓福山妙厳寺の境内にある。

「本野ケ原」現在の愛知県豊川市本野ケ原(グーグル・マップ・データ)。

「一鍬田村」現在の愛知県新城市一鍬田(同前)。]

 

 ○仇をされたのだらうと云ふ話  早川丑太郞と云ふ男は現在五十幾歲になつて、長篠驛に出て俥夫をしてゐますが、此男が十三四の折、隣村へ使ひに行つて還りに、途中迄は、確かに歸つて來たと思つたのが、どう間違へたのか道が判らなくなつて、山から山と一晚迷つて步いて、翌朝、遠くの山へ朝日が映つたのを見て初めて正氣づいて家へ歸つたと謂ひましたが、よくよく考へて見ると、前日、裏の山に新しく出來た狐の穴に獵師を案内して見せた爲めに、其穴の狐が仇をしたのだらうと云ふとでした。同じ男が、二十歲位の時、近くの峯村へ仕事に行つて、夕方仕事が濟んでから、其家の、狐が憑いてゐると云ふ婆さんの枕邊へ行つて、子供の頃狐に化《ばか》された腹癒《はらい》せに、散々狐の惡口を言つて、俺を化かせるものなら化かして見ろ、と言置《いひお》いて、夜遲くなつて暇《いとま》を告げて歸つて來ると、途中分垂(ブンダレ)と云ふ處の橋を渡る時、半は[やぶちゃん注:ママ。「半ば」。]渡つてふと氣がついて見ると、自分の立つてゐる所は黑く川に見えて、橋は白く傍に架かつてゐるやうに見えるので、これはと思つて其方《そつち》へ足を運ぶと、忽ち川の中へ落ちたと謂ひます。起上《おきあが》らうとすると、何者かゞ上から押へつけてゐるやうで、身動きが出來ないので、一生懸命怒鳴りながら懷中のマツチを探つてゐると、やつと體が輕くなつたので、早々《さうさう》川から這出《はひだ》して、づぶ濡れになつて歸つて來たと謂ひました。

[やぶちゃん注:「峯村」現在の愛知県新城市市川峯か(グーグル・マップ・データ)。

「分垂(ブンダレ)と云ふ處の橋」現在、新城市門谷下分垂の地名があるから、この地区か(グーグル・マップ・データ航空写真)。この地区には一箇所橋がある(同前)。]

 

 ○化かされて絹糸を燒いた噺  これは母から聞いた噺《はなし》でしたが、某と云ふ男が、十一月のこと、新城《しんしろ》の町へ用足しに出かけて、歸りに紺屋《こうや》へ寄つて、正月の仕着《しきせ》に織る絹の染糸《そめいと》を受取《うけと》つて、風呂敷に包んで背負つて、日の暮れ暮れに、須長《すなが》と云ふ村へさしかゝつた邊りで、子供を背負つた年增女と道連れになつたので、種々《いろいろ》と秋の收穫の話などしながら步いてゐる中《うち》に、奇麗な芝草の續いた原へ出たので、こんな所は無かつた筈だと不思議に思つてゐると、女が、大層奇麗な草原ですから草履を脫いで步きませうと云つて自分から脫いだので、男も同じやうに脫いで步いてゐると、大分寒くなつたやうですから、其處《そこ》らで焚火をしませうと、女が言ひながら、何處からともなく、一抱《ひとかかへ》の杉の枯葉を持つて來たので、其男が袂からマツチを出して火をつけて、共に溫《あつ》たまつてゐる中《うち》に、とろとろ眠氣《ねむけ》を催ほして、其儘眠つてしまつたところが、暫くしてから體中がぞくぞく寒いやうに感じて眼を覺《さま》すと、もう夜が明けて朝日がチラチラと射してゐるのに、氣がついて見ると、女の姿はなくて、自分は眞白《まつしろ》に霜の降りた田圃の中に寢てゐるのであつた、傍には紺屋から持つて來た絹糸が黑く灰になつて、燃殘《もえのこ》りが五寸許り、束になつてゐたと云ふことでした。杉の枯葉と思つて燃《もや》したのは現在自分が背負つてゐた絹糸だつたのかと、口惜しがつて、燃殘りの糸を持つて、他人に見られない中《うち》にと急いで歸つて來たさうですが、奇麗な芝草の原と思つて步いたのが、石ころの道でもあつたのか、足の裏が赤く腫れ上つて、痛くて步かれなかつたと謂ひます。其男の名は記憶してゐませんが、今から三十年ばかり前の事ださうです。

[やぶちゃん注:「須長」愛知県新城市須長(グーグル・マップ・データ航空写真)。

 以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。]

この噺を狐に化かされたとするには、少し疑問があつた、果して狐に化かされたものか、どうか、狐の方で化したとも何とも言つてゐる譯でなく、又化かした狐を見たのでもなく、狐に惡戲をされる覺《おぼえ》もないので、人の方で勝手に化かされたと信じてゐて、疑へば何か譯がわからなくなりますが、本人も狐に化かされたのだと信じ、又村で噺をして狐に化かされたのだと云つても疑問を抱く者もない程ですから、假に狐の部へ入れておきました。次の噺も同じ事です。

 

 ○氣樓を見せた狐  これも狐に化かされたのだと一般に信じてゐる事で、狐だと云ふ確證のない噺です。

 十四五年前の事、村の集會の歸りの者が、夜更けてから、掘割と云ふ處を通りかゝると、橋の傍の險しい崖の上で、頻りに信經を唱へる聲がするのを聞咎《ききとが》めて、尋ねて行つて見ると、早川モトと云ふ七十餘歲の老婆が、狐に化かされて、其處へ迷ひ込んだと云つてゐたさうです。其老婆に其折の模樣を尋ねたところが、何でも日の暮方、隣村から歸つて來て、あの邊《あたり》が自分の家だと思ふ所迄來ると、路は皆目判らなくなつて、山の裾に奇麗な二階家がずつと列んでゐて、其の家に悉く灯がついて、中では笛や太鼓で賑かに何事か唄つてゐる聲が手にとるやうに聞えるので、必定《ひつぢやう》狐の惡戲と思つて、其場に座り込んで眞經を唱へ始めたのだと云ふことでした。

[やぶちゃん注:「信經」「眞經」はママ。後の『日本民俗誌大系』版では、孰れも『心経』であるから、「心經」(「般若心経」)が正しい。

「氣樓」は蜃気楼のこと。

「掘割」不詳。]

 

 ○クダ狐  狐に管狐と云ふ一種があつて、單にクダともクダン狐とも謂ひます。鼬《いたち》によく似て、鼬より體が小さく、毛の色が心持ち黑味を帶びてゐると謂ひます。

 狐使ひの家などで使ふのはこの類で、種々な通力《つうりき》を持つてゐると謂ひますが、これに、白飯に人糞をかけて喰べさせると、通力を失つて馬鹿になると謂ひます。

[やぶちゃん注:「クダ狐」「管狐」については、「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」の私の「飯綱(いづな)の法(はう)」の注を参照されたい。私の「想山著聞奇集 卷の四 信州にて、くだと云怪獸を刺殺たる事」には図も出る。他にも私の記事では管狐は常連である。]

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「老婆を喰殺した狸」・「狸の腹鼓」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]

 

 ○老婆を喰殺した狸  字池代の大久保と云ふ山に住んでゐた狸は全身白毛の古狸で、近くの深澤と云ふ處の路に出て、坊主に化けて人を嚇すなどと謂ひましたが、明治の初め頃、こゝに近くの早川孫總と云ふ家で、老婆を一人留守に置いて柴刈に出かけたあとで、此狸が婆さんを喰殺《くひころ》して、山へ持つて行つたと云ひました。翌日山を探すと、婆さんの頭と肢が、離ればなれの處にあつたのを拾つて來て埋めたなどゝ謂ひました。此老婆は眼が不自由で、いつも緣側に日向ぼつこをしてゐたさうです。

 

 ○狸の腹鼓  山へ仕事に行っていると、狸が呼ばると謂つて、タンタンと音して、向ひの山で木を伐つては、ホイと呼ぶのに、うつかり返事をすると、それは狸だつたので仕事を中止して歸つたなどゝ謂ひました。

 人間でいえば苦しそうな聲で、ホーイと幽かに呼ぶとも謂ひます。夜一人でゐる時は、狸が呼ぶから、うつかり返事してはならないとも云ひました。

 夜《よる》狸と呼び交はして、自在の茶釜を飮み干したとか、木魚を返事の代りに叩いて夜《よ》を明かしたなどの噺《はなし》は、幾つも聞いたものでした。

 狸の腹鼓は、月夜のものと謂ひますが、八名《やな》郡七鄕《ななさと》村の生田三省という人の實驗した話によると雨の降りさうな、眞つ暗な夜、破れた太鼓でも敲くやうな音を時々させたと謂ひます。最もこれは檻の中に飼つてある狸だつたさうですが、同じ男が、鳳來寺の山中で、雨夜に聞いた腹鼓も同じやうな音だつたさうです。

 狸と貉《むじな》とは一寸見別《みわ》けがつかないさうですが、冬は跂《あし》を見れば直ぐわかると謂ひます。狸の跂にはアカギレ(皸傷)が一面に切れてゐると謂ひます。

[やぶちゃん注:「八名郡七鄕村」旧南設楽郡鳳来町、現在の愛知県新城市七郷一色附近。完全な山間部(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「狸と貉」「一寸見別けがつかない」と言っているからには、この狢(むじな)というのはタヌキ(哺乳綱食肉目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)と同義である。ムジナという標準和名の動物は存在しない。地方によっては、アナグマ(食肉目イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakum)やハクビシン(食肉目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata:私は十中八九、近代の外来種と断じている)を「ムジナ」と呼んでいるケースもあるが(但し、彼らは素人でもタヌキとは容易に弁別出来る)、圧倒的に「ムジナ」は「タヌキ」である。ウィキの「たぬき・むじな事件」を見られれば判る通り、戦前までは、ムジナというタヌキに似た別種が存在すると猟師たちでさえ思っていた事実錯誤がある。

「跂《あし》」この漢字は「あし」とは読めない。音は「キ・ギ」で、訓は「つまだてる」「はう」。意味は「つまだつ・つまさきだつ・踵(かかと)を上げて遠くを見る」或いは「這う・這って歩く」の意味しかない。

 なお、狸については、早川孝太郎の「猪・鹿・狸」の「狸」パート(全三十一章)が非常に詳しいので読まれたい。

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「猿の祟り」・「猿のキンヰ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから

 初篇の標題及び本文中の「崇り」の二箇所はママ。「祟り」(たたり)の誤植であろう。]

 

 ○猿の崇り  猿は、昔は空模樣でも變はりそうなときに、幾十となく群れて來て、栗や黍を荒らしたものださうで、其中の一ツは必ず小高い處に立つて、物見の役を勤めて居たと云ひます。山で椎茸を培養する時は、猿が來て喰べて仕方がないと云ふ事を聞きました。

 北設樂郡のタナヘと云ふ處の源次と云ふ男の話に、若い頃獵師をしてゐた時、或る朝早く山へ獵に行くと、松の大木《たいぼく》に大きな猿が居るのを見かけて擊つた處が、相憎《あひにく》急所を外れたので、猿が松の枝に隱れてしまつたので、腹を立てゝ其木に登つて行つて山刀《やまがたな》を振上げて斬らうとすると、其猿が腹を指さしては、片一方の掌で拜むを用捨なく打殺《うちころ》して持つて歸ったところが、それは子持猿《こもちざる》であつたさうです。其年から不幸が續いて、家内が八人と、馬を十三匹失つても未だ不幸が續くのは、まつたく彼《か》の折の猿の崇りだと言つてゐました。

[やぶちゃん注:「北設樂郡のタナヘ」『日本民俗誌大系]版では、『タナエ』となっているが、ウィキの「北設楽郡」の沿革の旧村名には、この発音と思しいものは見出せない。「ひなたGPS」で戦前の地図の旧郡域を調べたが、やはりそれらしいものは発見出来なかった。識者の御教授を乞う。]

 

 ○猿のキンヰ  猿のヰも、猪のヰと同じやうに、人體に効能のあるものださうですが、其中にも猿のキンヰと云ふのがあつて、これは非常に老年な猿でなくてはないと云ひます。鳳來寺村字玖老勢《くろぜ》の丸山鐵次郞と云ふ男が、若い頃鳳來寺の山で擊つた猿には、このキンヰがあつたと云ひました。黃金色《こがねいろ》をしてゐて、入梅にも決して黴《かび》が生へなかつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「キンヰ」「金膽」。「猪のヰ」とともに先行するこちらの「シシの井(猪の膽)」の私の注を参照されたい。

「鳳來寺村字玖老勢」愛知県新城市玖老勢(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

「曾呂利物語」正規表現版電子化注始動 / 「曾呂利はなしはし書」・「卷第一目錄」・「一 板垣の三郞高名の事」

「曾呂利物語」正規表現版電子化注始動 / 「曾呂利はなしはし書」・「卷第一目錄」・「一 板垣の三郞高名の事」

[やぶちゃん注:以前からやりたかった江戸前期の、江戸前期の怪奇談集の濫觴の一つと言える「曾呂利物語」(そろりものがたり)の電子化注を始動する。「曾呂利物語」は仮名草子で寛文三(一六六三)年刊で全五巻。当該ウィキによれば、『妖怪などの登場するはなしを集めた奇談集で』、『編者は不明。おとぎばなしの名手として当時知られていた安土桃山時代の人物』で豊臣秀吉の御伽衆として知られる『曽呂利新左衛門』(当該ウィキの初代を参照されたい)『の名を題名に借用しており』(無論、仮託である)、先行する「曽呂利狂歌咄」などを『意識したものと見られる。古くから』「曽呂利物語」の『名で広く知られるが』、『これは内題で、外題簽には』「曾呂利快談話」である(後に示す早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像の表紙を見られたい)。但し、『巻第一の』以下に示す「はし書」には「曾呂利はなし」とも『あって一定はしていない』。また、『ひろく普及した後刷』本では「曾呂利諸國話」と『いう題が付けられている』とある。「諸國百物語」は『本書と似た主題の』怪奇談集で『あるが、その内容には本書を典拠としたと見られる同一素材のものが』二十『話以上あ』り、「諸國百物語」が『巻頭の第一話としてあつかっている話』(私の「諸國百物語 附やぶちゃん注 始動 / 諸國百物語卷之一 一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事」を指す)『も、本書の第一巻第一話と同じもの(剛胆をほこる板垣三郎が妖怪たちによって命をとられる話)で、その影響は大きい』とある。因みに私は、そこに出る「諸國百物語」(第四代将軍徳川家綱の治世の延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものはないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集と言える全電子化注を二〇一六年にこちらで完遂している。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認する(驚いたのだが、底本が拠ったものの書誌が解題その他に示されていない。以下の各種を比較しても有意にひらがな表記が多いもので、以下の早稲田大本・立教大本と同じ後刷本であろうと思われる)が、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)をダウン・ロードして適切と思われる位置に挿入する。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録する(同書の底本は国立国会図書館本で後刷本で合本三冊本)ものは、OCRで読み込み、加工データとした。

 読みは底本は本文内は総ルビに近いが、読みが振れるもの、難読と判断したもののみのみに限った。踊り字は生理的に厭なので正字化する。読み易さを考え、句読点や記号を適宜、変更・追加し、段落を成形した。注はストイックに附すが、前掲の「江戸怪談集(中)」にある注は、必要と感じたものに就いては、引用させて貰うこととする。頭の標題は先に示した早稲田大学図書館「古典総合データベース」の表紙の題題簽を出した。【二〇二三年三月十七日始動:藪野直史】]

 

   曾呂利快談話 

 

曾呂利はなしはし書

 

 人の心を慰むることわざ、限りなくさまざまなれども、貴賤貧富のさかひありて、心に任せぬもて遊び事(ごと)又多し。其の中に上(かみ)がかみより下(しも)まで隔てなきたのしみは、見るもの聞く事を口にまかせ語りなぐさむに如くはなし。爰(こゝ)に、天正の頃ほひ、曾呂利と云へる雜談(ざうだん)の上手(じやうず)あり。大樹(たいじゆ)秀吉公に召されて、常にかれを愛したまふ。其の詞(ことば)のたくみに花やかなる事は、齊(せい)の田辨(でんべん)が天口(てんこう)の辯、晉の裴頠(はいき[やぶちゃん注:「き」はママ。正しくは「ぎ」。])が林藪(りんそう)の詞(ことば)にも超えたり。まことにすさまじき事を論じては、目に見えぬ鬼神も速早(すは)こゝに出できたる心地にうしろこそばゆく、艷(えん)に哀れなる事を談ずれば、たけき武士もよわよわと淚もろし。その辯舌博覽の名譽なる事は、壺中(こちう)の天地をこめ、瓢簞(へうたん)より駒(こま)を出(いだ)せし術にも過ぎたり。ある夜大樹のまへにておどろおどろしき事を語れろのたまふに、十づゝ十に及べり。近習(きんじふ)の人々是れを書きとめしに、年久しく反故(ほご)にまじはり、多くは散り失せぬ。わづかに殘りしをかいやり捨つるも惜(を)しと、其の品(しな)にたぐへる物がたりの不思議なるを一つ二つ加へて、今また書き改むるもの歟。

[やぶちゃん注:同書の端書(序文)。

「天正」一五七三年から一五九二年までであるが、秀吉の御伽衆となって以降だから、「本能寺の変」より後と思われ、天正一〇(一五八二)年より後の話であろう。

「齊の田辨が天口の辯」不詳。識者の御教授を乞う。

「晉の裴頠が林藪の詞」裴頠(はいぎ 二六七年~三〇〇年)は西晋の政治家で思想家。当該ウィキによれば、『ある時、楽広』なる人物が、『裴頠と清談を行』ったところ、『彼を言い負かしたいと思ったが、裴頠は豊富な知識と巧みな話術を有していたので、楽広は笑ってごまかすばかりで』、『答えることが出来なかった。世の人は』、それを聴き、『裴頠の事を言談の林薮』(対象とする知識が多く集まっていることを指す語。「淵藪」に同じ)『であると称えたという』とある。

 以下、巻第一の目録。左ページから本文が始まる。]

 

 

曾呂利物語卷第一目錄

 

一 板垣の三郞高名の事

二 女のまうねん迷ひありく事

三 女のまうねん生(しやう)をかへても忘れぬ事

四 一條もどり橋の化物(ばけもの)の由來の事

五 ばけもの女になりて人を迷はす事

六 人を亡(うしな)ひて身に報ふ事

七 罪(つみ)ふかきもの今生(このじやう)より業(ごふをさらす事

八 狐(きつね)人にむかひてわびごとする事

九 船越(ふなこし)大蛇(だいじや)をたひらぐる事

十 狐を威してやがて仇(あた)をなす事

 

 

曾呂利物語卷第一

 

     一 板垣の三郞高名の事

 

 駿河國(するがのくに)大(おほ)もり、「今川藤(いまがはふじ)」と聞こえし人、府中に在城し給ひけるが、ある夜のつれづれに、家の子・らうどうを集め、酒宴、數刻に(すこく)及ぶ時、

「さても。たれれか、有る。今夜、千本(せんぼん)の上の社(やしろ)まで行(ゆ)いて來たらん。」

と、のたまひければ、ひごろ、手がらを現はす者、多しといへども、これは聞ゆる魔所なれば、あへてまゐらんといふ者、なし。

 爰(こゝ)に甲斐國(かひのくに)の住人に「板垣の三郞」とて、代々、弓矢をとつては、隱れなき勇者、あり。

「すなはち、私(わたくし)こそ、參り候はん。」

と、申しあぐる。

 大森、なのめにおぼしめして、やがて、しるしを、たぶ。

 板垣は、大剛(たいがう)の者にて、少しも恐るゝけしきなく、殿中より、すぐに、千本へぞ、參りける。

 頃は九月中旬の事なれば、月、いと白く、木(こ)の葉、ふり敷き、物すさまじき森のうちを過ぎて、石だんを通りけるが、杉の木の上より、小さきもの、一つ、ひらめきて、足もとへ落ちけるが、あやしみて、これを見るに、ヘぎ、一枚なり。

『かかる所に、何とて、有りけるぞ。』

と思ひながら、蹈(ふ)み割りてこそ、通りけれ。

 われたる音の山彥(やまびこ)にこたへ、夥(おびたゞ)しく聞えけるを、不審に思ひながら、別の事もなくて、上(うへ)のやしろの前にて一禮して、しるしの札(ふだ)をたて置き、歸りしが、いづくともなく、白き、ねりの一重を被(かづ)きて、女房、一人、來(きた)れり。

『扨(さて)は。音に聞きつる變化(へんげ)の物、わが心をたぶらすらん。』

と思ひ、走りよりて、被きたるきぬを、引きのけて見れば、大(おほ)いなる目、一つ、有りて、振分髮(ふりわけがみ)の下(した)よりも、ならべたる角(つの)、おひたるが、薄化粧に、鐵漿(かね)、くろぐろと、つけたり。恐ろしとも云はん方なし。

 されども、板垣、少しもたゞよはず、

「何ものなれば。」

とて、太刀(たち)をぬかんとすれば、かき消す如くに、失せぬ。

 不審なる事ながら、せんかたもなく、立ちかへり、大もりの前に參り、

「しるしを立てて歸りさふらふ。御檢使(ごけんし)をたてて、御らん候へ。」

と申し上ぐる。

「まことに、板垣にてなくば、恙(つゝが)なくは、歸らじ。」

と、一同に感じあへり。

「扨(さて、何事にも、あひ候はぬか。」

と、御尋ね有りければ、

「いや、何語も怪しき事は、御ざなき。」

と申す。

 かかりける所に、座敷も、隈(くま)なき月の夜(よ)なるが、俄(にはか)に、かき曇り、ふる雨、車軸を流しける。

 酒宴、興を失ふをりふし、虛空(こくう)にしはがれ聲(ごゑ)して、

「いかに、板垣。前に、我等が腹を、何(なに)とて、踏みわりけるぞ、懺悔(さんげ)、せよ。」

と、よばはりける。

 其の時、おのおの、まとゐして、

「見申(みまう)したる事あらば、御前(ごぜん)にて、申し上げよ。」

と、めんめん、せめければ、板垣、千本にての有り樣、殘さず、申し上ぐる。

 然(しか)れども、雨風(あめかぜ)、猶、やまず、稻妻、夥しく、神(かみ)さへ、鳴りて、殿中、もの騷がしければ、

「いかさま、此の體(てい)にては、板垣を、とられなんと、覺ゆ。」

とて、唐櫃(からびつ)の中(なか)に入れ、各々(おのおの)、番をして、夜(よ)の明くるをぞ、待ちゐたる。

 さて、いかづちも、次第に、やみ、天の光(ひかり)も、はれ行きて、五更も明け行けば、

「板垣を、出(いだ)せ。」

とて、櫃の蓋(ふた)を、取りて、見れば、忽然として、何も、無し。

「これは。いかなる事。」

と、みな人(ひと)、奇異の思ひをなす所に、又、虛空より、二、三千人の聲して、

「どつ」

と、笑ふ。

 走り出(いで)て見れば、板垣が首を、緣上(えんうへ)に、落としてけり。

 かかる不思議も、有ることに、こそ。

[やぶちゃん注:「板垣の三郞」不詳。

「駿河國大(おほ)もり」不詳。但し、以下の「千本」の位置が判るので、その周辺(現在の静岡市葵区の南部。グーグル・マップ・データ)ということになる。

「千本」岩波文庫の脚注に、『靜岡市の賤機(しずはた)山の古称。古く山頂に祠があった』とあることから、駿府城跡の北北西にあるそれと判る(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「なのめに」「斜(なの)めに」。平安から中世前期の原義は「おざなりだ」「ありふれて平凡」だ」の意であったが、中世以降になると、「なのめに」の形で、「並一通りでなく、格別に」の意の「なのめならず」と同義に用いるようになった。

におぼしめして、やがて、しるしを、たぶ。

「ヘぎ」檜(ひのき)や杉などの木材を薄く剝いだ板、「へぎ板」、或いは、それで製した「折敷(をしき)」を指す。岩波版脚注では、ただ前の意のみを載せるが、ここは、そんなちんまい板切れではおかしくも不思議にも不審にも思われないから、断然、後者のへぎで出来た「折敷」でとるべきである。

「たゞよはず」「漂はず」。この場合の「漂ふ」は「落ち着かない」の意で、「怯(ひる)むことなく」の謂いである。

「まとゐ」「圓居」(まどゐ)で、「車座になって」の意。

「神(かみ)さへ」雷(かみなり)さえも。

「いかさま」「如何樣」。副詞で「きっと・確かに・(自分の判断であることを示して)どう見ても」の意。

「五更」午前三時から五時までの間。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五番 尾張中納言

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   五番 尾張中納言

 

 美女の繪姿を見て、さう云ふ女を探して千日の旅をした男があつた。その繪姿が尾張の國のお城に一枚、生家に一枚、日本國中に一枚ある。其の男は或る日床屋に一枚あるのを見て、五十兩出して其れを求めた。

 それから其の女を探し尋ねて日本國中を步いた。尋ね倦(アグ)んで山中に迷入《まよひい》つた。道を迷つて山中の孤(ヒトツ)屋にたどり着いた。其の家の門前に男禁ずと云ふ立札があつた。其の家には老婆が一人居た。其の家に泊つた。其の老婆の顏が繪姿の女の顏に似てゐたので譯を糺して訊くと、其の人の娘だと言つた。其の娘は今は尾張の國のお城の中に居ると言つた。

 男は尾張の國のお城に忍び込んだ。外門《そともん》には番人が八人、三《さん》の門には赤鬼丸と云ふ犬が居てなかなか入れなかつた。また人間一人入れば一の花が二つ咲くと云ふ花園もあつた。

  其の男は中納言になつた。(この間の内容は話者が忘れて居て、どうしても思ひ出せなかつた。)[やぶちゃん注:二字下げはママ。]

 (大正十年十一月三日、村の犬松爺の話の中の一《いち》。)

[やぶちゃん注:この話、非常に興味深いのだが、中途部分の大事な転回点が失われているのは非常に惜しい。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四番 蕪燒笹四郞

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

    四番 蕪燒笹四郞

 

 或る所に蕪燒《かぶやき》笹四郞といふ極く貧乏な、そのくせ、働き嫌ひな男があつた。日々每日(ヒニチマイニチ)蕪ばかり燒いて食つて居るので、誰言ふとなくさう謂ふ名前がついて朋輩どもも見るに見兼て居た。

 或る日の夕方何處から來たか一人の旅の女が、笹四郞の家の玄關に立つて、今晚一夜泊めてクナさいと言つた。笹四郞は俺の所には食ふ物も飮む物も無いから、外の家さ行つて宿を乞ふて見ろと言つた。すると其女は、例へ飮むものも無くてもよいからどうか泊めてクナさいと言つてきかなかつた。笹四郞も仕方がないから、ほんだら泊れと言つた。女は其晚泊つたが、それから其翌日も其次の日も立つフウがなかつた。さうして笹四郞と夫婦になつた。

 其女は極く々々利巧な才智のある女であつた。良人がさうして每日蕪ばかり燒いて食つて居るのを見て、これは困つたことだ。何とかして一人前の人間にしたいものだと思つて、自分の衣類や髮飾等を賣拂つて旅金《りよぎん》を作り、これこれ此金を持つて何處へでもいゝから行つて一仕事して來てがんせ。そのうち私は此家に待つて居るからと言つた。笹四郞もそんだら俺もさうするからと言つて家を出て行つた。ところが其日の夕方ぶらりと家へ戾つて來た。そして俺はどうしてもお前が戀しくて旅には出られないから還つて來たと言つた。それでは私の繪姿を畫《か》いてやるからそれを持つて行つたらよいと言つて、女房は自分の姿を繪に畫いて夫に渡した。

 笹四郞は女房の繪姿を持つて再び旅に出た。途中も女房が戀しくて堪らず、懷中(フトコロ)から繪姿を出して見い見い行つた。そして或る峠の上でまた出して擴げて見て居ると、ぱツと風が吹いて來て姿繪をバエラ吹き飛ばしてしまつた。笹四郞はこれは大變だと思つて、泣くばかりになつて其處邊《そこらへん》をいろいろと探してみたけれども、如何《どう》しても見付からなかつた。仕方がないから復《また》女房の許へ戾つて來た。女房はお前がそれほど妾《わらは》を戀しいなら何處へも行かないで、家で草鞋《わらぢ》でも作つて居てがんせと言つた。笹四郞は喜んでそれではさうすべえと言つて、女房の側《そば》にいて、每日々々草鞋を作つて居た。[やぶちゃん注:「バエラ」「ばっと」のオノマトペイアの方言であろう。]

 笹四郞が女房の繪姿を風に攫はれた翌日、所の殿樣が多勢の家來を連れて其の峠を通つた。高嶺に登つて眺めると餘り景色がよいものだから、四邊の景色に見惚れて居た。すると或る木の枝に美しい女の繪姿が引懸つてゐるのを見付けた。あれは何だ。あれを取つて來いと家來に言ひつけて、手元に取り寄せた。殿樣はそれを見て、世にも斯《こ》んなに美しい女があるものか、誰か此女を見知つて居るものはないかと言つた。すると家來のうちに、それは此峠の下の蕪燒笹四郞と云ふ者の女房であると言ふ者があつた。それでは其女を見たいと言つて俄に用事を變へて、笹四郞の家へ寄つた。寄つて見ると、其の女房は繪姿にも增さる美女であつたので、厭(ヤンタ)がるのを無理やりに自分の駕籠に入れて、お城へ連れて行つた。

 笹四郞はたつた獨りになつて心配して居た。其所へ朋輩が來て、笹四郞お前は何をそんなに心配顏をして居ると言つた。笹四郞は斯々《かくかく》の譯だ、ナゾにすべえと言ふと、朋輩はそれでは俺の言ふ通りにして見ろと言つて、ある智惠を授けた。

 笹四郞はその翌日、ボテ笊《ざる》に柿や梨の實等を入れて擔いで、梨や柿やアとフレながら殿樣のお城へ行つた。笹四郞の女房はその聲を聽きつけて、はてはて自分の夫の聲に似たなアと思つて、柿賣の男を見たいと殿樣に言つた。何でもかんでも女房の言ふことは聽く殿樣だから、そんだらその柿賣をお庭に廻せと家來に言ひつけた。女房は柿賣り[やぶちゃん注:ここ以降では「り」を送っている。]の入つて來たのを見ると如何にも自分の夫であつたので思わず莞爾(ニツコリ)と笑つた。[やぶちゃん注:「ボテ笊」「ボテ」は「ぼてふり(棒手振り)」の略で、その「てんびん棒」で擔(かつ)ぐ笊籠を言う。]

 今迄どんなに機嫌を取つても、なぞな事をしても、笑顏を見せなかつた女が初めて笑つたので、殿樣はこれは此女はあんな裝(フウ)な物賣りの姿が氣に入るんだなと思つた。そこで喜んで、こりや柿賣屋お前の衣物も道具も皆此方《こつち》さ寄こせと言つて、笹四郞から衣物《きもの》だの物賣り道具などを取上げて御自分の體に着たり持つたりした。それから自分の立派な衣裳をば笹四郞に着せて、自分の居座《ゐぐら》にすわらせた。そして御自分で柿の入つたボテ笊を擔いで、はい柿や梨やアと物賣りのまねをして、庭中《にはぢゆう》を彼方此方と步いた。それを見て女房は大層可笑しく思つて體を屈めて笑つた。すると殿樣はまた大きに興に乘つて、果ては道化《だうけ》たまねまでして、いよいよ大聲に叫んで、屋敷の中を彼方此方と步き廻つた。其時笹四郞は女房に敎へられて斯《か》う聲をかけた。狼籍者がまぎれ込んだア。早く外へ追ひ出せ追ひ出せと言つた。其の聲を聞きつけて多勢《おほぜい》の家來共が走《は》せて來て、厭がる殿樣を城の外に追ひ出した。

 さうして笹四郞夫婦はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]其のお城の殿樣となつた。

  (同前の三)

[やぶちゃん注:「王子と乞食」型の昔話である。柳田國男は「炭燒小五郞が事 八」及び同「一〇」でも、この話に言及している(リンク先は私のブログの電子化注)。

「同前」はと、前の前の話柄の附記(情報提供者その他)を指示する。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 濕氣ある月(アンリ・バタイユ)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

 濕 氣 あ る 月 バタイユ

 

洗濯場の灰色の玻璃窓から、

そこに、 秋の夜の傾くのを見た。

誰かしら、 雨水の溜つた溝に沿うて步いてゆく、

旅人よ、 昔の旅人よ、

羊飼が山から降る時に

お前の行く所に急げよ。

お前の行く所に竈(かまど)の火は消えてゐる。

お前がたどりつく國には門が閉ざされてゐる。

廣い路は空しく、 馬ごやしの響(ひびき)は恐ろしいやうに遠くの方から鳴つて來る、

急いで行けよ。

古びた馬車のともしびが瞬いてゐる、

これが秋だらう。

秋はしつかりとして、 ひややかに眠つてゐる、

厨房(くりや)の底の藁の椅子の上に、

秋は葡萄の蔓(つる)の枯れた中に歌つてゐる。

此時に、 見出されない屍、

靑白い溺死者は波間に漂ひながら夢見てゐる。

起り來る冷たさを先づ覺えて、

深い深い甕(かめ)のなかに隱れやうと沈んでゐる。

 

[やぶちゃん注:アンリ・バタイユ(Henry Bataille 一八七二 年~一九二二年)はフランスの詩人で劇作家。ニーム生まれ。美術学校に入り、画家を志したが、二十二歳で文学に転じた。一八九五年、詩人としての処女詩集「白い部屋」(La Chambre blanche)を出し、「美しき航海」(Le Beau Voyage一九〇四年)などを発表したが、評価されず、後に戯曲転校して成功を収め、当該ウィキによれば、『第一次世界大戦前のフランス劇壇の流行児となった』。『生前は』、『現代生活における愛や感情の危機を描いてもてはやされたが、今日では』、『彼の言う「正確なリリシズム」なるものが、不健康な主題や』、『あいまいな境遇を』、『ロマン的な虚飾で飾り立てたものに過ぎないと見なされて』おり、彼の『作品が上演されることは』、『ほとんどない』とある。原詩は発見出来なかった。

 最終行の「隱れやう」はママ。

 なお、本篇は原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)に収録されているのであるが、明かに有意に本篇とは異なった原稿に拠ったものと思われるものであるので助詞・表記(「ゐる」の一部が複数「る」となっている)・句読点・改行違い・行空け(原氏のそれは三連構成。但し、これは原氏が原詩に基づいて行った仕儀の可能性が高いが、そのままそれを採用する)と、明確な異同が、多数、ある)、以下に、以上の本篇をベースとして、その復元(原氏のそれは新字体)を試みる。

   *

 

 濕 氣 あ る 月 アンリ・バタイユ

 

洗濯場の灰色の玻璃窓から、

そこに、 秋の夜の傾くのを見た。

誰かしら、 雨水の溜つた溝に沿うて步いて行く、

旅人よ、 昔の旅人よ、

羊飼が山から降りる時に

お前の行く所に、 急げよ。

 

お前の行く所に竈(かまど)の火は消えてゐる。

お前のたどりつく國には門が閉ざされてゐる。

廣い路は空しく、 馬ごやしの響(ひびき)は恐ろしいやうに遠くの方から鳴つて來る。 急いで行けよ。

古びた馬車の燈火(ともしび)が瞬いてる、

これが秋だらう。

 

秋はしつかりとして、 ひややかに眠つてる、

厨房(くりや)の底の藁の椅子の上に、

秋は葡萄の蔓(つる)の枯れた中に歌つてる。

此時に見出されない屍、

靑白い溺死者は波間に漂ひながら夢みてる。

起り來る冷たさを先づ覺えて、

深い深い甕(かめ)のなかに隱れようと沈んでゐる。

 

   *]

2023/03/16

大手拓次譯詩集「異國の香」 郡の市場(ミンナ・イルビング)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  郡 の 市 場 イルビング

 

馬と騾馬、 牛と羊、

犬小屋のなかの犬、 檻(をり)のなかの豚、

ひよつこと鳩、 北京鴨(ぺきんがも)、

七面鳥に鵞鳥にほろほろてう、

りんごと梨とさつまいも、 穀物

めづらしい寳石のやうに綺麗なジエリー、

黃色い南瓜(とうなす)と薄荷棒(はつかぼう)、

郡(ぐん)の市場へおいでなさい。

ぴゆるぴゆる、 ひんひん、

めえめえ、 わんわん、

けつこう、 こつこ、 チユーチユー、 ギヤーギヤー、

もうもう、 クウクウ、 またゴウルゴウル、

けえけえいふ角笛、 とキーキーいふ車のわだち、

よろこんで大さわぎする叫びこゑ、

『おい、 そりやじやうだんだよ、 君』

大笑ひと、 いちやつきと、 レモン水、

郡の市場へおいでなさい。

 

[やぶちゃん注:巻末の目次に「ミンナ・イルビング」とあるのだが、ミンナ・アーヴィングでMinna Irvingの綴りで調べると、同名で生没年の異なる女性詩人がいるのだが、当該詩篇を見出せず、お手上げ。

「騾馬」哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus  。♂のロバ(ウマ属ロバ亜属アフリカノロバ 亜種ロバ Equus africanus asinusと♀のウマの交雑種の家畜、北米・アジア(特に中国)・メキシコに多く、スペインやアルゼンチンでも飼育されている。逆の交配(♂のウマと♀のロバの配合)で生まれる家畜をケッテイ(駃騠:ウマ属ケッテイ Equus caballus × Equus asinus)と呼ぶが、ケッテイと比較すると、ラバは育てるのが容易であり、体格も大きいため、より広く飼育されている。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)」を参照されたい。]

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「獵師に追はれた鹿」・「鹿の鳴音」・「鹿笛」・「タラの芽と鹿の角」・「鹿の玉」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○獵師に追はれた鹿  鹿が獵犬に追はれて、頭の角をベツタリ背に寢せて、ヒーヒー鳴きながら、逃げ場を失つて、人家の軒などを通つて遁げて行くのを、昔はよく見かけたと云ひますが、子供の頃、長畑と云ふ所の畑の道を、大きな鹿が驅けてゆくのを實見した事がありましたが、畑を隔てた路をば、獵師が筒口を鹿に向けて、走つてゐました。

 又ある時、字神田と云ふ所の街道で、子供が道の傍《かたはら》に積んである材木の上に乘つて遊んでゐると、鹿が獵師に追はれて、其道を走つて來て、子供連《れん》の傍を通り拔けて、川の中へ飛込んだと云ひました。すると其處に、川狩の人夫が材木を流してゐて、鳶口で其鹿を打ち殺したなどゝ云ひました。

[やぶちゃん注:「長畑」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「神田」ここ(同前)。]

 

 ○鹿の鳴音  猪に比べて、鹿の方は、非常に數も少なく、現今では、最早や鹿の鳴聲も聞かれないさうです。

 鹿はカンヨーと鳴くと云つて、鹿の事を別に、カンヨーとも呼んでゐました。子供の頃丘の上に登つて、カンヨー來い、々々と續けて呼んでは、そら鹿が來たなどゝ言つて吾先きに丘の下に逃げ込むやうな遊びをしたものでした。橫山の字追分と云ふ所の向ひの山で日の暮方よく鳴くと云ひますが、キヨーと闇を透して物凄く響くと云ひます。或人の說ではキヨーと鳴く聲が、雄の聲と、雌の聲と一緖になつて、初めてカンヨーと聞えるのだとも云ひました。

[やぶちゃん注:ワンダーフォーゲル部の顧問をしていた頃、丹沢での夜営のテント内でよく聴いた。

「追分」ここ(同前)。]

 

 ○鹿笛  獵師が持つ鹿笛を造るについて、こんな話があります。それは蟇《ひきがへる》の皮が最もいゝと云つて、先づ最初に成るべく大きな蟇を見つけて、其皮を剝いで逃がしてやると云ひます。そして一年經つてから、又同じ蟇を見出して二度目の皮を剝ぐと云ひます。かくして皮を剝ぎ剝ぎ、同じ事を六年繰返して、七年目に出來た薄い皮を剝いで、其皮で造つた鹿笛を吹けば、如何に狡猾な鹿でも、其音に誘はれて來ると謂ひます。皮を剝がれる蟇の方でも心得たもので、皮を剝がれ出して、三年目頃からは、皮を剝がれるべく、剝がれた場所へ、自分から出掛けて待つてゐるなどと謂ひます。

[やぶちゃん注:「蟇《ひきがへる》」の読みは、『日本民俗誌大系版のルビを参考にした。本邦では、両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus が棲息するが、横山の位置では後者の分布域である。詳しくは、私の「大和本草卷十四 陸蟲 蟾蜍(ひきがへる) (ヒキガエル)」を参照されたい。]

 

 ○タラの芽と鹿の角  春、若芽のふく時に、鹿が山にあるタラの芽を喰べると、角が落ちると謂ひます。山などで、時折拾うことのあるのは、さうした時落ちたのだと謂ひます(タラの芽は春、蕨と同じ頃出るもので、一面トゲのある棒のやうな莖から房々とした芽が出て、食用にします)。タラの芽と鹿についてはこんな話もありました。

 鹿が親に別れるとき、親鹿に、自分の角が大切と思つたなら、どんなに美味《うま》さうに見えても、タラの芽ばかりは喰べるなと、吳々《くれぐれ》も戒められたのを、春芽のふく頃、タラの芽を見ると、如何にも美味さうなので、恐々《こはごは》一口食べて見ると、其味のよさが忘れかねて、次から次と喰べて、あの見事な角がポツクリと落ちたのに、初めて、親の戒めを破つた事を後悔して、非常に悲しんで、其時は聲をあげて鳴くと云ひます。

[やぶちゃん注:セリ目ウコギ科タラノキ属タラノキAralia elata の若芽。私の大好物で、嘗つてやはり丹沢の本棚・下棚の谷の入り口で採取して湯がいて味噌あえにして食った時の味が忘れられない。なお、ここに言うような鹿の角を落とす作用は、無論、ない。本邦産のシカの内、ここは哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科シカ属ニホンジカ Cervus nippon。亜種分類ではホンシュウジカ Cervus nippon aplodontus )となるが、角は♂特有のもので、毎年三月頃になると、自然に根元部分から脱落して新しく生え替わるものである。]

 

 ○鹿の玉  鹿の玉と云ふものがあつて、大變年を老《と》つた鹿の胎内にあるもので、この玉を中にして鹿の同類が澤山集まつて遊ぶのだと謂《いひ》ますが、人間の家に此玉を持つて居れば、金銀が自然と集まつて來ると謂ひます。又金銀がすつかり集つてしまふと、其玉が、中から段々崩れて來るとも謂ふさうです。八名郡舟著《ふなつけ》村[やぶちゃん注:「著」はママ。]字乘本の、金原某と云ふ家にあるのを實見したことがありましたが、鷄の卵の大きさで、極めて輕いものでした。淡紅色をしてゐて、草などの纖維を永い間搗き固めたとでも言つたもので、表面がつるつると滑かなものでした。獵師から買ひ取つたと聞きましたが、二個あつて、一個は、未だ完全に玉になり了《おほ》せないやうに、半ば崩れたやうでした。

[やぶちゃん注:「鹿の玉」「鮓荅」(さとう)或いは「へいさらばさら」「へいたらばさる」と呼ぶ、広く各種の獣類の胎内に生じた結石、或いは、悪性・良性の腫瘍や、免疫システムが形成した異物等を称するものである。詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」を参照されたい。

「八名郡舟著村字乘本」新城市乗本(グーグル・マップ・データ航空写真)。前にも示したが、繰り返すと、「ひなたGPS」の戦前の地図で見ると、村の名の由来となった山の表記は「舩着山」で村名は「船着村」、本書で先行する箇所でも「船着村」とするので、誤字か誤植の可能性が疑われる。

 なお、鹿については、後発の『早川孝太郞「猪・鹿・狸」 鹿』(全十九章)がより詳しい(こちらからどうぞ)。

佐々木喜善「聽耳草紙」 三番 田螺長者

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

    三番 田螺長者

 

 昔、或る所に大層な長者どんがあつた。田地、田畠、山林、原野もあり餘るほどあつて、村の人達からは彼所《あそこ》の長者どんでは何も不自由だと謂ふことを知らないこツたと云はれてゐた。

 所がその長者どんの田を作つて居る名子(ナゴ)の中に、其の日の煙《けぶ》りも立てゝ行けぬほどの貧乏な夫婦があつた。夫婦ははア四十も越して居たが、子供と云ふものがない。夜などは嘆いて、ナゾにかして子供を一人欲しいもんだ。吾が子と名の付いたもんだら、ビツキ(蛙)でもいゝ、ツブ(田螺)でもいゝ。さう言つて御水神樣へ詣つて願掛けをした。御水神樣は水の神樣であるから百姓には此れ位ありがたい神樣はないのであつた。[やぶちゃん注:「名子」中世以降、荘園領主や有力名主に隷属した下層零細農民。農繁期には領主・名主の農地耕作などを手伝い、農閑期には山林労働に従事したりして生活を支えた。「脇名百姓」(わきみょうびゃくしょう)「小百姓」(こびやくしょう)などと、荘園によって呼び名が色々あった。なお、地方によっては、近世に至っても、本百姓に隷属している者もあった(主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 或日のこと、女房は田の草取りに行つてゐて、いつものやうに日なが時なが、御水神樣もうし、其所《そこ》ら邊りにゐる田螺のやうな子供でもよいから、どうぞ俺ラに子供を一人授けて賜(タ)もれや、あゝ尊度(トウタ)い々々々と思つたり言つたりしてゐると、急に腹が痛くなつて、なやなやめいて來た。忍耐(ガマン)すればする程痛みが增して來るので、遂々《たうとう》耐(タマ)りかねて家ヘ屈(コヾ)み々々歸ると、夫は心配して、いろいろと介抱をしたが、どうしても直らなかつた。お醫者樣を賴みたいにも金はなし、はてナゾにしたらよからうと思つた。近所に幸ひコナサセ產婆(婆樣)があつたから、少し筋道は違ふと思つたけれども、賴んで來て診て貰ふと、婆樣はこれは普通(タヾ)の腹痛ではない。女房(ガカ)が身持ちになつて、兒どもが生れるところだと言つた。それを聞いて夫婦は喜んで、にわかに神棚にお燈明を上げたりなどして、一心に安產させて下さいと願ふと、やや一時(ヒトトキ)あつて、一匹の小さな田螺(ツブ)が生れた。[やぶちゃん注:「コナサセ產婆」岩手の方言で「ナサ」は同氏「なす」で「産む」の意であり、その使役形で「子を産まさせる者」。「產婆」の畳語である。]

            ×

 生れた田螺の子には皆驚いたが、これは何でも御水神樣の申し子だからと云ふので、お椀に水を入れて、其の中へ入れ、神棚に上げて、大事にして育てゝ居たが、不思議なことに、其の田螺の子は生れてから二十年にもなるが、少しも大きくならなかつた。それでも御飯などは普通に食べるが物は一聲《ひとこゑ》も言へなかつた。

 或る日のこと、齡取つた親父は、大家(オホヤ)の長者どんに納める年貢米を馬につけながら、さてさて切角《せつかく》御水神樣から申し子を授かつて、やれ嬉しやと思ふと、あらう事かそれが田螺の息子である。田螺の息子であつて見れば何の役にも立たない。俺は斯《か》うして一生働いて妻子を養はなければなるまいと歎くと、それでは父親(トヽ)々々、今日は俺がその米を持つて行く…と云ふ聲が何所《どこ》かでした。父親は驚いて四邊をきよろきよろ見廻したけれども誰も居らぬ。不思議に思つて、そんな事を言ふのは誰だと云ふと、俺だ々々、田螺の息子だ。今迄長い間えらい御恩を受けたが、もうそろそろ俺も世の中に出る時が來たから、今日は俺が父親(トヽ)の代りになつて、檀那樣の所へ、年貢米を持つて行くと言つた。どうして馬を曳いて行けヤと訊くと、俺は田螺だから馬を曳いて行くことは叶はぬが、米荷の間に乘せてくれさへすれば、何の苦もなく馬を自由に曳いて行けると言ふ。父親は今まで物も云はなかつた田螺が物を云ひ出したばかりか、自分の代りに年貢米を納めに行くと謂ふのであるから大變驚いた。然しこれも御水神樣の申し子の言ふことだ。背いたなら又どんな罰《ばち》が當るかも知れないと思つて、馬三匹に米俵をつけて、言はれる通りに、神棚のお椀の中に居る田螺をつまんで來て、其の荷の間に乘せて遣ると、田螺は普通の人間のやうな聲で、それでは父親(トト)も母親(ガカ)も行つて來る。ハイどう、どう、しツしツと上手に馬どもを馭《ぎよ》して家のジヨノクチを出て行つた。

 父親は出しには出して遣つたが、息子のことが心配でならぬので、その後を見えがくれについて往くと、丁度人間がやるやうに水溜りや橋のやうな所をば、はアい、はアいと聲がけして、シヤン、シヤンと進んで行く。そればかりか美しい聲を張り上げて、ほのほのと馬方節《うまかたぶし》などを歌つて行くが、馬もその聲に足並を合はせて、首の鈴をジャンガ、ゴンガと振り鳴らし勇みに勇んで行く。往來や田圃に居る人達はこの有樣を見て驚いて、聲はすれども姿は見えぬとは此の事だ。あの馬は慥かにあの貧乏百姓の瘦馬に相違ないが、一體あの聲は何所で誰が歌つて居ることだと、不思議がつて眺めて居た。

 それを見た父親は大變に思つて、直ぐに家へ引返して、神棚の前に行つて、もしもし御水神樣、今迄は何にも知らなかつたものだから、田螺をあゝして置きましたが、大變ありがたい子供をお授け下されんした。それにつけても無事息災に向ふへ行き屆くやうに、あの子や馬の上を、どうぞお護り有(ヤ)つてクナさいと、夫婦で一心萬望《いつしんまんばう》神樣を拜んで居つた。

            ×

 田螺はそんな事には頓着なく、どんどん馬を馭して、長者どんのもとへ行つた。下男どもが、それ年貢米が來たと言つて出て見ると、馬ばかりで誰も人間がついて居ない。どうして斯う馬ばかり寄こしたベツて話して居ると、米を持つて來たから、どうか下(オロ)してケデがいと云ふ聲が馬の中荷の所でした。何だ誰がそんな所に居《ゐ》れヤ。誰もいないぢやないかと云つて、中荷の脇を覗いて見ると、小さな田螺が一ツ乘つて居た。田螺は俺はこんな體で馬から荷物を下すことが出來ないから、申譯ないが下してケデがい。俺の體も潰さないやうに、椽側《えんがは》の端の上にでもそつと置いてケテガムと言つた。下男どもは驚いて、檀那樣シ檀那樣シ田螺が米を持つて來《き》んしたと聞かせると、檀那樣も驚いていそいそ出て來て見れば、如何にも下男の云ふ通りであつた。そのうちに家の人達もぞろぞろと出て來て見る。そして皆々不思議なことだと話し合つた。

 其の中に田螺の指示で米俵も馬から下して倉に積み、馬には飼葉を遣り、田螺をば内に入れて御馳走を出した。お膳の緣《ふち》にタカつて居る田螺は、他人の目には見えぬが、お椀の御飯がまづ無くなり、其の次には汁物が、魚がと云ふ風に無くなつて、仕舞ひにはもう充分頂きんした、どうぞお湯をなどと云ふのであつた。檀那樣は、かねて御水神樣の申し子が田螺の息子だと云ふことは聞いて居たが、こんなに不思議な物とは思つて居なかつた。恰度人間のやうに物を言つたり働いたりするべとは居なかを思はなかつたので[やぶちゃん注:「居なかを」はママ。現行の衍文か、誤植であろう。]、これを自分の家の寶物にしたいと思つた。そして、田螺殿々々々お前の家と俺の家とはお互に祖父樣達《じいさまたち》の代から代々出入りの間柄の仲だ。俺の所に娘が二人居るが、其の中の一人をお前のお嫁に遣つてもよいと云つた。こんな寶物をたゞで家のものに、することは出來まいと思つたからであつた。

 田螺はそれを聽いて大層喜んで、それは眞實《まこと》かと念を押した、檀那樣は、本當だとも、二人の娘のうち一人を上げやうと堅い約束をして、其の日は田螺に色々な御馳走をして還した。

            ×

 父親母親は、田螺のこと、なんたら歸りが遲かベヤ、何か途中で間違ひでもなければよいがと案じて居るところに、田螺は三匹の馬を連れてえらい元氣で歸つて來た。そして夕飯時に、俺は今日長者どんの娘さんをお嫁に貰つて來たと云つた。父母はそんな事が有る筈がないと目を睜《みは》つたけれども、何云ふも御水神樣の中子の云ふことだから、一應長者どんに人を遣つて訊いて見べえと思つて、伯母を賴んで聞きに遣ると、田螺の云ふのは眞實のことであつた。

 そこで檀那樣は二人の娘を呼んで、お前達のうち誰か田螺の所にお嫁に行つてケろと言うと、姉娘は誰が蟲螻(ムシケラ)のところなんかさ嫁《い》く者があんべや、 [やぶちゃん注:字空けはママ。]俺厭《や》んだと云つてドタバタと荒い足音を立てゝ座を蹴立てゝ行つてしまつた。それでも優しい妹娘の方は、父樣(トヽ)が切角あゝ云ふて約束された事なんだから、田螺の所には私が嫁くから心配してがんすなと云つて慰めた。伯母はさう謂ふ長者どんからの返辭を持つて歸つて來て知らせた。

            ×

 長者どんの乙娘《おとむすめ》[やぶちゃん注:「下の娘」の意。]の嫁入り道具は、七疋の馬にも荷物がつけきれないほどで簞笥長持が七棹づつ、其の外の手荷物は有り餘るほどで、貧乏家にはそれが入れ切れないから、長者どんでは別に倉を建てゝくれた。聟の家には何にもない。親類も無いから、父母と伯母と近所の婆樣とを呼んで來て目出度い婚禮をした。

 花コよりも美しい嫁子《あねこ》を貰つて、父母の喜びは物の例へにも並べられない。それにまた娘が實の父母よりも親切に仕へる。野良へも出て働いてくれるので、前よりはずつと生活(クラシ)向きも樂になつた。これも皆神樣のお影だと云つて、父母は一生懸命に御水神樣を拜んで居た。

 其の中に月日が經《た》つ…お里歸りを何日にしやうと相談すると、やつぱり四月八日の村の鎭守の藥師樣の祭禮が濟んでからと謂ふことにした。さうして居る中に春になつた。花コも咲けば鳥コらも飛んで來て鳴くやうになつた。いよいよ四月八日のお藥師樣の御祭日になつた。

 娘は祭禮を見に行くとて、美しく化粧して、長持の中から綺麗な着物を出して着た。見れば見るほど天人とも例(タト)へられない。花コだとも例へられないほど美しい。仕度が出來上つてから、田螺の夫に向つて、お前も一緖にお祭を見に參りませうと言ふと、さうかそれでは俺も連れて行つてケ申せ。今日は幸ひお天氣もいゝから久しぶりで外の景色でも眺めて來るべなどと云ふ。そこで娘は自分の帶の結び目に夫の田螺を入れて、お祭禮場さして出かけて行つた。

 その途中も二人は睦ましく四方山《よもやま》の話をしながら行く。道往く人や行摺《ゆきず》りの人達は、あれあんなに美しい娘子が、獨りで笑つたり語つたりして行く。可愛想に氣でも違つたものだべなアと言つて眺めて行く。そんな風で二人は遂々《たうとう》お藥師樣の一の鳥居の前まで來た。すると田螺は、これこれ俺は譯あつて、これから先きへは入《はひ》れぬから、どうか道傍(ミチバタ)の田の畔の上に置いてケろ。そしてお前が一人で御堂に行つて拜んで來てケろ。そのうち俺は此所で待つて居るからと云つた。それでは氣をつけて烏などに見付けられないやうにして待つて居てクナさい。私は一寸行つて拜んで來るからと言つて、娘は御坂を登つて行つた。そして御堂に參詣して歸つて來て見ると、大事な良人の田螺が居なかつた。

 娘は驚いて、此所彼所《ここかしこ》と探して見たがどうしても見付からない。鳥が啄んで飛んで行つたのか、それとも田の中に落ちてしまつたかと思つて、田の中に入つて探したが、四月にもなつたから田の中には澤山の田螺がゐる…それを一つ一つ拾ひ上げて見るけれども、どれもこれも自分の夫の田螺には似もつかぬものばかり…

  田螺(ツブ)や田螺(ツブ)や

  わが夫(ツマ)や

  今年の春になつたれば

  烏(カラス)といふ馬鹿鳥に

  ちツくらもツくら

  剌されたか…

 と歌つて、田から田に入つてこぎ探して居るうちに、顏には泥がかゝり、美しい衣物《きもの》は汚れてしまひ、そのうちに日暮時ともなつて、祭禮の人達はぞろぞろと皆家路に還る。そして嫁子《あねこ》の態《さま》を見て、あれあれあんな綺麗な娘子が氣でも違つたか、可愛想な…と口々に云つて眺めて通つた。

 娘はいくら探しても夫の田螺が見つからぬから、これは一層《いつそ》のこと田の中の谷地眼(ヤチマナコ)の深泥(ヒドロ)の中さ入つて死んだ方がいゝと思つて、谷地マナコに飛び込もうとして居ると、後《うしろ》から、これこれ娘何をすると聲かけられる。振り向いて見ると、水の垂れるやうな美男が、深編笠をかぶつて腰には一本の尺八笛をさして立つてゐる。娘は今迄の事を話して、私は死んでしまうからと言ふと、其の美男はそれならば何も心配することはない。其許(ソナタ)の尋ねる田螺はこの私であると言ふ。娘はさうではないと言ふと、若者は其の疑ひは尤もだが、俺は御水神樣の申し子で今迄は田螺の姿で居たが、それが今日、お前が藥師樣に參詣してくれたために、斯《こ》のやうに人間の姿となつた。俺は御水神樣にお禮參りをして此所へ還つて來ると、お前が居ないので、今迄方々尋ねて居たのだと言つた。そこで二人は喜んで一緖に家へ歸つた。

            ×

 娘を美しいと思つたが、田螺の息子がまたそれにも增さるほどの美しい若者で、似合ひの若夫婦が揃つて家へ還つた。父親母親の驚きと喜びやうツたら話にも昔にもないほどである。直ぐに長者どんの方へも知らせると、檀那樣も奧樣(カヽサマ)も一緖に田螺の家へ來て見て、大喜びで、こんなに光るやうな息子を聟殿を、こんなむさい家には置かれないと言つて、町の一番よい場所どころに立派な家を建てゝ、其所で此の若夫婦に商業(アキナヒ)をさせることにした。ところが田螺の息子と云ふことが世間に評判になつて、うんと繁昌して忽ちのうちに町一番の物持ちとなつた。そして老いた父親母親も樂隱居をし、一人の伯母子も良い所ヘ嫁に行き、田螺の長者どんと呼ばれて、親族緣者みな喜び繁昌した。

  (同前の二。)

[やぶちゃん注:所謂、異類婚姻・貴種流離譚の大団円型一つで、姉妹で運命が異なる「猿の婿入り」型のモチーフも含まれていると言えよう。「田螺長者」譚の最も典型的な記載例である。小学館「日本大百科全書」によれば、『小さな動物の姿で生まれた人の冒険を主題にする異常誕生譚』『の一つ。子供のいない夫婦が神に子授けを願い、タニシを授かる。タニシは一人前の年齢になると、馬を引いて働く。長者と親しくなり、長者の娘を見そめる。米を袋に入れて持ち、長者の家に行き泊まる。米の袋をたいせつなものであるといって、長者に預ける。長者は、預かった米をなくしたら、なんでも好きなものをやると約束する。夜中に、タニシはその袋から米を出し、娘の口の周りに生米をかんだものをつけておく。翌朝タニシは、米の袋がなくなっていると騒ぐ。娘の口に米がついているので、約束どおり、長者はタニシに娘をやる。娘がタニシといっしょに祭りに行くとき、タニシがカラスにつつかれて田の中に落ちる。娘が泣いていると、タニシはりっぱな男の姿になって現れる。婚礼をやり直し、タニシの若者は栄え、長者になる。主人公をカエルにした類話も多い』。『小さなものが突然にりっぱな若者に変身し、幸福な結婚をするところに特色があるが、そうした物語形式は昔話や御伽草子』『の「一寸法師」と共通している。「田螺長者」には、打ち出の小槌』『で打つと一人前の若者になったという例もあり、「田螺長者」と「一寸法師」とは、ただの混交とは思えない全体的な交錯がある。朝鮮、中国、ビルマ(ミャンマー)など東アジアにも、主人公が他の巻き貝類やカエルやヘビになった類話がある。動物の殻や皮を脱ぎ捨てて人間になるという変身の趣向が語られているのが普通である。巻き貝が殻をもち、カエルやヘビが変態・脱皮をすることが、これらの動物がこの昔話の主人公になっている理由であろう。日本ではタニシを水神の使者とする信仰があり、この昔話は、そうした宗教的観念を背景にして成り立っていたらしい』とある。当該ウィキも三諸されたいが、そこには、『田螺の方から呼びかける例、子になるべき田螺を野外で偶然発見する例など』や、『田螺でなくカタツムリ(新潟・群馬)カエル(九州)サザエ(鳥取・岡山)ナメクジ(島根)などの例が存在する。また』、『人間への変化も殻の破壊、湯または水による変化、参詣による変化などがある』とある。

 なお、タニシ(腹足綱新生腹足上目原始紐舌目タニシ科Viviparidae に属する巻貝の総称。本邦にはアフリカヒメタニシ亜科 Bellamyinae(特異性が強く、アフリカヒメタニシ科 Bellamyidae として扱う説もある)の四種が棲息する)の博物誌は、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」や、「本朝食鑑 鱗介部之三 田螺」、及び、サイト版の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「たにし たつび 田螺」の項を参照されたい。

「同前」前回の「二番 觀音の申子」を指す。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二番 觀音の申子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。「申子」は「まをしご」。]

 

    二番 觀 音 の 申 子

 

 或る所に爺樣と婆樣があつた。もはや六十にも餘る齡《とし》であつたが、子供がないので如何《どう》しても一人欲しいものだと日頃信心して居る觀音樣に行つて願かけをした。それから丁度百目目の滿願の日に、觀音樣が婆樣の枕神に立つて、お前たち夫婦に授ける子寶とては草葉《くさば》の下を探したとて、川原の小石の間を尋ねたとて無いのだけれども、餘り切ない願掛けだから、今度だけは聞いてやると云つた。それから當る十月(トヅキ)目になつて生れたのが玉のやうな男の子であつた。

 爺、婆の喜びは話の外(ホカ)で、爺樣は每日々々山から柴を刈つて來て、それを町へ持つて行つて賣つて、子供のためにいろいろなベザエモノ(菓子)類を買つて來たり、また自分等は三度々々の食物さへも控目《ひかへめ》にして子供大事と育てて居つた。けれども、どうにも斯《か》うにも爺樣婆樣は段々齡を取つてしまつて、柴刈りも洗濯も出來なくなつたので、又二人は觀音樣へ行つて、觀音樣申し觀音樣申しお前樣から授かつた此の子の事で、あがりました。とてもこの爺イ婆二人は老いてしまつて、大事なこの子を育て上げることが叶はなくなつたから、どうか觀音樣が引き取つて育てゝクナさい。どうぞお願ひでありますと言つた。觀音樣も日頃の爺イ婆の心掛けを知つて居るものだから、あゝよいからよいからと言つて、其の子を引き取つて御自分の手許に置くことにした。

 さうはしたが實は觀音樣も差し當り何斯《なにか》にと困つて、まづ自分の上衣を一枚脫いで子どもに着せ、參詣人の持つて來て上げる僅かのオハネ米《まい》などで、如何《どう》やら斯うやら其の日其の日の事をば足《た》して許た。そして子どもには色々な學問諸藝を授けて居た。其の子どもは又何しろただの子どもでは無いのだから、利發なことは驚くほどで、一を聽いては十を知ると云ふやうな利口ぶりであつた。さうして觀音樣の許《もと》で二十の齡(トシ)まで育てられて居た。[やぶちゃん注:「オハネ米」「御刎米」で、「刎米」とは、江戸時代、貢米納入の際に品質不良のために受納されない米を指す。]

 或る日のこと、觀音樣は息子にむかつて、お前も二十《はたち》にもなつたし、俺の目から見ればそれで一通りの學問諸藝を授けたつもりである。このまゝ此所《ここ》に居つてもつまらないから、どうだこれから諸國を廻《まは》つて修業をして立身出世をしろ。そして老齡(トシヨリ)の爺樣婆樣を養へと言つた。さう云はれて息子も喜んで諸國修業の門出をした。

 息子は觀音樣から貰つた衣物を着て深編笠をかぶつて、尺八を吹いて廻國した。そしてそれから何年目かの或る日大層大きな町に差しかゝつて、その町の一番の長者どんの家の門前に立つて尺八を吹いて居た。すると其の隣りの小さな家から婆樣が出て來て、その笛の音色を聽いて居たが、なんと思つたか、息子の側《かたはら》へ寄つて來て、虛無僧樣ちょツと私の家サ寄つて憩《やす》んで行けと言葉をかけた。息子も疲れて居つたから、云はれるまゝに内ヘ入ると、婆樣はお茶や菓子などを取り出してもてなし、それから、これこれ旅の虛無僧樣、實はこの隣りの長者どんではこの頃若者一人欲しいと云つて居たが、何とお前樣が行つてみる氣はないかと言つた。息子も永い年月の間旅をして淋しかつたものだから、さう云ふ所があつたら、暫く足止めをしてみてもよいと思つたので、婆樣それでは行つてみてもよいと云ふと、婆樣は喜んで、さうかそれがよい。だがお前のその着物ではワリから、この着物と着替《きがへ》ろと言つて、一枚の粗末なボロ着物を取り出して息子に與へた。はいはいと言つて息子は婆樣の云ふ通りに、其のボロ着物に着代へて、婆樣に連れられて長者どんの館《やかた》に行つた。長者どんの檀那樣は息子に三八と云ふ名前をつけて、竃場《かまどば》の火焚き男に使ふことにした。三八は何事も檀那樣の云ふ通りに、はいはいと云つて、奉公大事に每日々々働いて居た。

 この長者どんの館には家來下人が七十五人あつた。それから分家出店《でみせ》が諸國諸方に七十五軒もあつた。檀那樣には娘が二人あつて姉をお花、妹をお照と云つた。或る時鎭守の祭禮に、檀那樣は娘二人を馬に乘せて遣《や》ると云ふたら、姉のお花はオラは馬に乘つてもよいと言つたが、妹のお照はオラは馬に乘るのがあぶなくて嫌だ、駕籠で往くと言つた。それで姉は馬に乘り、妹は駕籠で行くことにした。ところが向《むかふ》から深編笠をかぶつて尺八を吹いて來る若衆《わかしゆ》があつた。馬で行つた姉のお花はひよつと見ると、その人は水の滴りさうな美男(イイヲトコ)であつた。それからは祭禮を見ても何を見ても一向面白くなくなつた。お照の方は駕籠で行つたものだから何も知らなかつた。お花は其の日祭禮から歸ると、オラ案配(アンバイ)がワリますと言つて、下女に奧の間に床をとらせて寢てしまつた。

 父親母親は大層心配して、醫者山伏を每日のやう賴んで來て診《み》せるが、誰一人お花の病氣を直せる者がなかつた。すると或る夜、親たちのところに觀音樣が夢枕に立つて、心配するな娘の病氣は家族の中に想ふ男がある故(セイ)だから、其の者と一緖にすれば直ぐ治(ナヲ)ると云ふお告げがあつた。そこで長者どんでは三日三夜の間家來下男どもを休ませて、娘の御機嫌を伺ひさせることにした。

 七十五人の家來下男どもは、喜んで俺こそ之《こ》の長者どんの美しい娘樣の聟殿になるにいゝかと思つて、朝から湯に入つて顏を洗つて、一人々々奧の一間のお座敷に寢て居るお花の枕邊へ行つて、姉さま、お案配はナンテがんすと言つた。それでもお花は一向見るフリもしなかつた。其の中《うち》に皆伺ひ盡して後(アト)には竃の火焚き男の三八ばかりがたつた一人殘つた。アレにもと云ふ者もあつたが、何しろ俺達が行つてさへ一向見向きもしないのだもの、あんなに汚い男が行つたら、尙更御アンバイがワルくなるべたらと、皆して聲を揃へて笑つた。すると其所へ隣家の婆樣が來て、とにかくあの竃の火焚き男も遣つて見ろ、アレも男だものと云つた。そこで三八も俄に風呂に入つて髮を結つて、觀音樣から貰つた衣裝を出して着て、靜かに奧の間へ通ふると[やぶちゃん注:ママ。]、お花は一目見て顏を赤くして、何か聽えない位の聲で云つて、息子を放さなかつた。そして見て居るうちに病氣もすつかり直つた。

 其の時息子の美しい男ブリを見て、妹のお照もあの人を自分の聟樣にしたいと云つて床に就いた。親々もそれには困つて、これは如何(ナゾ)にしたらよいかと息子に相談した。すると息子はそれでは斯《か》うしなさい。庭前(ニハサキ)の梅の木の小枝にアレあの通り雀がとまつて居りますが、あの小枝を雀がとまつたまゝ飛ばさぬやうに手折《たを》つて來た方を妻に貰ひませうと言つた。

 親たちは姉妹を呼んで其の事を話すと、それではと云つて早速妹娘が庭前に駈け下《お》りて、梅の木の側《そば》に行くと、雀はブルンと飛んで行つてしまつた。妹は顏を眞赤にして戾つて來た。

 その𨻶にまた雀が飛んで來て元の梅の木の小枝にとまつた。今度は姉娘が降りて行くと、雀はそれを喜ぶやうに、チユツチユツと鳴いて、そして枝コをパリツと折つても飛ばなかつた。それを其のまゝ持つて來て息子の手に持たせた。二人は目出度く夫婦の盃事《さかずきごと》をした。其の後息子は鄕里(クニ)から爺樣婆樣を呼び寄せて、觀音樣の云つた通りに親孝行をして孫《まご》繁《し》げた。それこそ世間に名高い三八大盡《さんぱちだいぢん》と呼ばれる長者となつた。

 それから妹のお照の方にも、其の中《うち》に良緣があつて、分家になつてこれも相當榮えて繁昌したと云ふことである。

  (遠野町《とほのまち》、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一《いち》。大正九年の冬の採集の分。)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧の佐々木の補注は、底本では、全体が二字下げのポイント落ちである。本篇は典型的な貴種流離譚のハッピー・エンド譚である。

「小笠原金藏」不詳。

「松田龜太郞」不詳。

「大正九年」一九二〇年。]

佐々木喜善「聽耳草紙」(正規表現版)始動 / 序(柳田國男)・凡例・「一番 聽耳草紙」

 

[やぶちゃん注:以前からやりたかった佐々木喜善の「聽耳草紙」を正規表現で電子化注を始動する。本書は昭和六(一九三一)年二月、三元社から刊行された佐々木の故郷遠野に伝わる民話を採集した昔話集成の一つで、全百八十三章からなり、再録された話は実に三百三話に上り、佐々木の「遠野物語」(「佐々木の」としたことについては後述する)を含めて五冊ある代表的な昔話集では、最大の話数を誇るものである。「ちくま文庫」版「聴耳草紙」の益田勝実氏の「解題」によれば、本書を読んだ小説家宇野浩二は『このように面白いものは類をみないとまで賞め』た、とある。現在、ネット上には全電子化はなされていない。

 佐々木喜善(ささききぜん 明治一九(一八八六)年十月五日~昭和八(一九三三)年九月二十九日:名は「繁」とも称した)は民俗学者で作家。既に「遠野物語」電子化注の冒頭で述べたが、今回、新たにブログ・カテゴリとして「佐々木喜善」を設けるに当たって、それを概ねそのまま転写する。ウィキの「佐々木喜善」によれば、『一般には学者として扱われるが』、『佐々木自身は、資料収集者であり』、『学者ではないと述べている』。『オシラサマやザシキワラシなどの研究と』、四百『編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される』。『岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。祖父は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、上京して哲学館(現在の東洋大学)に入学するが、文学を志し』、『早稲田大学文学科に転じ』、明治三八(一九〇五)年頃より、『佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を発表し始め』た。明治四一(一九〇八)年頃、『柳田國男に知己を得、喜善の語った遠野の話を基に柳田が『遠野物語』を著す。このとき、喜善は学者とばかり思っていた柳田の役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らったという。晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている』。明治四三(一九一〇)年に『病気で大学を休学し、岩手病院へ入院後、郷里に帰る。その後も作家活動と民話の収集・研究を続ける傍ら、土淵村村会議員・村長』(在任期間は大正一四(一九二五)年九月二十七日から昭和四(一九二九)年四月四日)『を務め』たが、『慣れない重責に対しての心労が重なり』、『職を辞』した。『同時に』、『多額の負債を負った喜善は』、『家財を整理し』、『仙台に移住』、『以後』、『生来の病弱に加え』、生活も困窮、満四十六歳で持病の腎臓病のため、病没した。『神棚の前で「ウッ」と一声唸っての大往生だったという』。彼に与えられた『「日本のグリム」の名は、喜善病没の報を聞いた言語学者の金田一京助によるもの』である。また、大正八(一九一九)年、『「ザシキワラシ」の調査のために照会状を出して以来』、二年ほど、「アイヌ物語」『の著者である武隈徳三郎と文通があ』り、また、かの宮沢賢治(私はリンク先で宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版・附全注釈を完遂している)『とも交友があった』。昭和三(一九二八)年、賢治の童話「ざしき童子のはなし」(詩人尾形龜之助(私はリンク先その他で彼の多くの電子化を手掛けている)主宰の雑誌『月曜』(大正一五(一九二六)年二月号に掲載された)の『内容を自著に紹介するために手紙を送ったことがそのきっかけで』、その後、昭和七(一九三二)年には、喜善が『賢治の実家を訪れて数回』、『面談し』ている。『賢治は当時既に病床に伏していたが、賢治が居住していた花巻町(現:岩手県花巻市)と遠野市の地理的な近さもあり、晩年の賢治は』、『病を押して積極的に喜善と会っていたことが伺われる』。喜善は『幼少期から怪奇譚への嗜好があり、哲学館へ入学したのは井上円了の妖怪学の講義を聞くためだった』から『という。しかし、実際は臆病な性格だったらしく、幼少時、祖父から怪談話を聞いた夜は一人布団に包まってガタガタ震えていたこともあった。また、巫女や祈祷師にすがったり、村長をつとめていた際も』、『自身の見た夢が悪かったため出勤しないなどの行動があった』。明治三六(一九〇三)年『にはキリスト教徒となるが』、後、昭和二(一九二七)年には『神主の資格を取得』、二年後の昭和四年には、『京都府亀岡町(現:亀岡市)の出口王仁三郎』(おにさぶろう)『を訪問し、地元に大本教』(おおもときょう)『の支部を作っている。また、佐々木は一般に流布しているイメージのような「素朴な田舎の語り部」ではなく、モダン好みの作家志望者であり、彼が昔話の蒐集を始めるようになったのは、作家として挫折したためである』。主な著作に昔話集「紫波(しわ)郡昔話」「江刺郡昔話」「東奥異聞」「農民俚譚」「聴耳草紙」「老媼夜譚(ろうおうやたん)」、研究及び随筆としては「奥州のザシキワラシの話」「オシラ神に就いての小報告」「遠野手帖」「鳥虫木石伝」他がある。以上の引用に出た、晩年の柳田が「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」というのは、「遠野物語」成立に就いて、しばしば語られるエピソードであるが、これ自体が、柳田が本書を自作の代表作と自負し、それを正当化するために述べた言い訳としか私には思われない。実際、後の佐々木の本書「聴耳草紙」や「老媼夜譚」を読むに――「遠野物語」など、とても書けそうもない、方言丸出しで、それが直せそうもないレベルの人品をそこに見ることは全く不可能――である。勿論、柳田が聴き取りを整序するに、『漢文訓読体に近い独特の』『文語文体を採用した』ことが『他に類を見ない深い陰影に富んだ独特の文学的世界を獲得し』(「ちくま文庫」版全集の永池健二氏の「解説」より)得た事実は、認めよう。しかし――柳田國男は狭義の文学者・作家ではなく――農務官僚・貴族院書記官長・枢密顧問官などを歴任した――辛気臭くお上のご機嫌を伺うことままある官僚――であり、民俗学なんたるやの右も左も判らない時代の多分に権威的な民俗学者の一人に過ぎない。また、私は、彼と折口信夫の間には、性的象徴問題を民俗学で扱うことについて、意図的に制限しようというような密約があったのではないかとずっと疑っている。実際に南方熊楠は柳田國男のそうした偏頗を鋭く批判している。それほど、本邦の民俗学は、現在でも未だに、どこか妙に一般的に非現実的に健全に過ぎ、嘘臭く、漂白剤の臭いがする。私は彼の一部の考察には面白さ(但し、都合の悪い事例を除いて仮説を構築するという学者としては許されない資料操作も多々ある)を感じ、「蝸牛考」や「一つ目小僧その他」等の電子化注もこのカテゴリ「柳田國男」で手掛けてきたが、柳田國男の文体や表現が――文学的に洗練されているとは私は逆立ちしても思わない――。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の原本(リンク先は扉)を視認する。但し、所持する「ちくま文庫」版「聴耳草紙」(一九九三年刊)をOCRで読み込んだものを加工データとして使用する。

 踊り字「〱」「〲」は生理的に受けつけないので正字化する。ルビがないもので、読みが振れると判断したものは、《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。なお、カタカナの「ア」は本文中にあっても、やや右寄りでひらがなの活字と比べると、小振りであるのだが、これ、全篇を通じてそうなっており、感動詞的小文字でない箇所も総て同じ活字である。されば、総てを普通の大きさの「ア」で統一した。不審箇所は「ちくま文庫」版を参考にした。注はストイックに附す。一日一章以上の電子化注を心掛けるが、それでも総てを終わるのには半年はかかる。【二〇二三年三月十六日:藪野直史】]

 

 

 

 佐佐木喜善著

 

  

 

        東 京 

 

[やぶちゃん注:以上は扉。表紙は底本では作り直してあるため、判らない。ネット画像で原本表紙を探したが、新版(昭和八(一九三三)年中外書房刊)のものしか見当たらなかった。全体が薄い罫線に囲まれてある。標題の下地に老翁が大きな樹の根元にしゃがんでいる絵がやはり薄色で描かれてある。

 以下、柳田國男の序文。底本ではここから。]

 

 

   

 

 佐々木喜善君のこれ迄の蒐集は本になつただけでも、すでに三つある。その三つのうち一番古いのは「江剌郡昔話」であつて、これは我々の仲間では紀念の多い書物である。二十二年程前、初めて佐々木君が遠野の話をした時分には、昔話はさ程同君の興味を惹いてゐなかつた。遠野物語の中には、所謂「むかしむかし」が二つ出てゐるが、二つとも未だ採集の體裁をなしてゐなかつた。それが貴重な古い口頭記錄の斷片であるといふ事はずつと後になつて初めて我々が心づいたことである。それから十年餘りしてから我々が松本君と三人で、東北の海岸を暫く一緖に步いたことがある。その時に丁度佐々木君は江剌郡から來ている炭燒きと懇意になつて、しばしば山小屋へ出掛けて、いくつかの昔話を筆記してきたといふ話を私にした。それは非常に面白いから出來るだけもとの形に近いものを公けにする方がいゝと、いふことを、私が同君に勸請したのもその時である。それから二年過ぎて、私が外國に遊んでゐる間に「江刺郡昔話」が出版せられた。新たに「江剌郡昔話」を取出して讀んでみると佐々木君が、先づ第一に、聞いた話の分類に迷つてゐる事がよくわかる。口碑と言つている中には、社寺や舊家の歷史の破片と共に昔話から變形したものもまじつてゐるのだから、今の言葉で言へば傳說にあたるものである。それから民話と言つてゐる部分は近頃何人かゞ實見した話として傳へられてゐるのだから、直接「むかしむかし」の中に入れられないのは當然だが、これとても又「むかしむかし」と内容の一致があつて何人かゞ「むかしむかし」からこれへ移入したといふ事が想像出來る。そしてこれが、我々が興味を以て考へようとしている世間噺といふものである。世間噺は新聞などの力で事實と非常に近くなつたけれども、以前は交通が不便で、そうそうは噺の種もないから、勢ひ古くからの文藝がその中へまぎれこんでゐたのである。東北といふ地方は、何時までも昔話を子供の世界へ引渡さずに大人も參加して樂しんでヰた結果昔話がより多く近代的な發達を經てゐる、[やぶちゃん注:句点はママ。]この事實が、この本で可成りはつきり證明された。その事實に最も多く參加した盲法師、すなわち奧州で「ボサマ」と言つてゐるものの活動の後を跡づけてみようと私が思つた大いなる動機は此處にある。

 「ボサマ」の歷史は近頃になつてから、全く別の方面からも、おひおひ知られて來たけれども、純粹なフォークロアの方法によってゞも、東北地方でなら調《しらべ》ることが出來る。例へば南部で言ふ「ガントリ爺」が、我々のお伽噺の「花咲爺」になつてくる迄の經過は、あちらではこれを文藝として改造した作品が現に殘つてゐるのだから、可成り具體的にその過程を說く事が來る[やぶちゃん注:ママ。「出來る」の脱字。誤植であろう。]。「ボサマ」は人を喜ばせるのが職務だから、或程度迄の繰返しを重ねると今度は意外なつくりかへ若しくは後日譚の方へ出て行かうとする。眞面目であつた話をやゝ下品な滑稽へ持つて行かうとする。從つて話題が發達してくる。同時にこれを聞く者の態度も幼少な子供等とは違つて、少しも、昔ならそんな事があつたかも知れんといふやうな信仰を持たずに、これを純空想の作品として受け入れやう[やぶちゃん注:ママ。]とする、卽ち今日の落語なり滑稽文學なりの文字以前の基礎をつくつてしまつたのである。大げさに言ふなら、今日の文藝と昔の文藝との間に橋をかけたやうなものだとも言へる。半分以上類似したやうな話でもこの意味から、出來るだけ多く集めてみやう[やぶちゃん注:ママ。]とした理由が、初めて此處に生じた。それには恰度佐々木君のやうな飽きずに何時迄も集められる蒐集家が非常に役立つた。

 佐々木君も初めは、多くの東北人のやうに、夢の多い銳敏といふ程度まで感覺の發達した人として當然あまり下品な部分を切り捨てたり、我意に從つて取捨を行なつたりする傾向の見えた人であつた。それが殆んど自分の性癖を抑へきつて、僅かばかりしかない將來の硏究者のためにこういふ客觀の記錄を殘す氣になつたのは、決して自然の傾向ではなく、大變な努力の結果である。

 これ迄普通に鄕里を語らうとしてゐた者のしばしば陷り易い文飾といふものを、殊にこの方面に趣味の發達した人が、己をむなしふして捨て去つたといふ事は、可成り大きな努力であつたと思はれる。問題は、將來の硏究者が、こういふ特殊の苦心を、どの程度迄感謝する事が出來るかといふ事にある。私は以前「紫波《しは》郡昔話集」「老媼夜譚《らうあうやたん》」が出來た時にも、常にこの人知れぬ辛苦に同情しつゝ、他方では、同君自身の文藝になつてしまひはせぬかと警戒する役に廻つてゐた。もう現在では、その必要は殆んど無からうと思ふ。能《あた》ふべくんば、この採集者に若干の餘裕を與へて、これほど骨折つて集めて來たものを、先づ自分で味ふやうにさせたい事である。それには、單純な共鳴者が此處彼處《ここかしこ》に起るだけでなく、この人と略々《ほぼ》同じやうな態度を以て、將來自分の地方の「むかしむかし」を出來るだけ數多く集めてみる人々が、次々に現れ來ることである。

 

   昭 和 五 年 十 二 月

           柳  田  國  男

 

[やぶちゃん注:個人的には、「自分のことを棚に上げてよく言うぜ!」とカチンとくるところが、複数箇所あるが、それは冒頭の私の鬱憤でお判り戴けるであろうから、敢えて指示や注はしない。

「江剌郡昔話」郷土研究社『炉辺叢書』の一冊として大正一一(一九二二)年に刊行されたもの。昔話二十話・民話十話・口碑四十六話から成る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本を視認出来る。

「松本君」松本信廣(のぶひろ 明治三〇(一八九七)年~昭和五六(一九八一)年)は民俗学者・神話学者。事績は当該ウィキを参照されたいが、そこにも書かれている通り、彼は戦中に『「大東亜戦争の民族史的意義」を唱え、南進論を主張』し、一九三〇『年代に、大日本帝国が南進政策を展開しはじめると、日本神話と南方の神話の類似を指摘する松本の研究は、日本が南方に進出し、植民地支配を正当化する根拠を示すという点で、政治的な意味を持つようにな』った結果を惹起しており、好きでない。

「紫波郡昔話集」郷土研究社『炉辺叢書』で大正一五(一九二六)年に佐々木が刊行した岩手県紫波(しわ)郡の民譚集。同旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「老媼夜譚」同じく佐々木が郷土研究社『郷土研究社第二叢書』の一冊として昭和二年に刊行した、岩手県上閉伊(かみへい)郡で採取した昔話集。全百三話を収録する。]

 

 

      凡 例

 今度の昔話集は私の一番初めの「江刺郡昔話」の當時(大正十一年頃)集めた資料から、つい最近までの採集分をも交へて、一つの寄せ集めを作つて見たのである。

 分類と索引とを附けたかつたが、これは兩方ともかなり復雜[やぶちゃん注:ママ。]な技術と經驗とを要するので、俄には出來さうも無いから後日のことにした。實はこれくらゐの話集をせめてあと一二册も纏め、話數の千か或はそれ以上も集めて見て始めて可能な仕事である。私はこれまでに五百六十餘種の說話を土から掘り起して明るみに出したと思ふけれどもそれは重《おも》に東北の陸中の中央部に殘存して居たものを集めて見たに過ぎなかつた。この興味が全國的に盛んになつて、方々の山蔭の里や渚邊《なぎさあたり》の村々に埋れてゐる昔話が千も二千も現はれ來《きた》る其日もさう遠くはあるまいと感じて居る。その曉に於てこそ充分に比較硏究と分類方法とが餘薀《ようん》なく執《と》らるべきであらう。

 この集には百八十三番、凡そ三百三話ばかりの話を採錄して見た。話の中《うち》全然從來の所謂昔噺と云ふ槪念からは遠い、寧ろ傳說の部類に編入すべきもの、例へば諸々の神祠の緣起由來譚らしいものや、又簡單至極な話、例へば「土食い婆樣」其他の話のやうな、單に或老人が土を食つて生きて居《を》つたと謂ふやうなものも取つた。私は殊更にこれだけの物をも收錄して見た。これは私の一つの試みであつた。私の考へでは或一部の說話群の基礎根元をなした種子が、或は斯《か》う云ふものではなかつたのではあるまいかと謂ふ想像からで、これらの集合や組立てでもつて、一つの話が構成され且成長されたかのやうな暗示もあつたからである。

 又一方、際無し話のやうな、極く單純な、ただ言葉の調子だけのやうなものをも出來るだけ採錄した。一部の昔話の生のまゝの形が暗示される材料であるからであつた。

 斯うして見ると、或觀方《みかた》によつて分類して行つたならば、ほんの四五種類の部屬に配列することが出來ると思ふ。例へば、

 1 自然天然の物を目宛《めあて》に語り出した話の群。

 2 巫女や山伏等が語り出した說話群。

 3 座頭坊の語り出した話の群。

 4 話と傳說の中間を行つたもの、或は傳說と話との混合

   がまだ整頓しきれずに殘つてゐる話の群。

 5 及び普通の物語と云ふものの類。

 である。なほ又これを細別して見たなら、幾つかの部屬ができるであらう。例へば、子守唄的な語りものから、單純な調子のみの語りもの、動物主人公の話から、和尙小僧譚、愚かしやかな者の可笑しな話の群、輕口噺のやうな部類、又別に生贊譚型、冒險譚型、花咲爺型、瓜子姬型からシンデレラ型、さうして緣起由來譚から、普通の物語と云ふやうにもなり、或は考へやう觀方の相異では、どんなにも分類配列することが出來やうと思ふのである。

 然し私はこの集では、ただ重に便利上《べんりじやう》話の中の主人役とか、又は内容の多少似寄つたものを、比較的近くに寄せて配列して見たに過ぎなかつた。だから餘りに暢氣《のんき》な整理の仕方であると云ふ謗《そし》りはまぬかれぬであらう。

 此集中の話で特に私の爲に御面倒を見て御報告をして下された方々の分には、一々御芳名を明かにして置いた。何の記號もない分は私の記憶其他である。

 なほ此集を世に出すに當つて、貴重なる資料を下された諸兄に、さうして亦特に私の爲に序文を書いて下された柳田先生及び三元社の萩原正德氏に一方ならぬ御世話になつたことを、玆《ここ》に謹んで御禮を申上げる次第である。

 

   昭和六年一月

 

               佐 佐 木 喜 善

 

[やぶちゃん注:以下、底本では目次となるが、これは総ての電子化注が終わった後に附すこととする。

 以下、本文に入る前の標題ページ。]

 

 

  本書を柳田國男先生に捧ぐ

 

 

    聽 耳 草 紙     佐 佐 木 喜 善

 

 

     一番 聽耳草紙

 

 或る所に貧乏な爺樣があつた。今年の年季もずうツと押詰まつたから、年取仕度《としとりじたく》に町仕《まちつか》ひに行くべと思つて野路を行くと、路傍(ミチバタ)の草むらの中に死馬(ソマ)があつて、それに犬どもがズツパリ(多く)たかって、居た。それを此方(コツチ)の藪の蔭コから一疋の瘦せた跛狐(ビツコキツネ)が、さもさもケナリ(羨し)さうに見て居たが、犬どもが怖(オツカナ)いもんだから側(ソバ)に近寄りかねて居た。それを見た爺樣はあの狐がモゼ(不憫)と思つて、しいツしいツと言つて、犬共(イヌド)ば追(ボ)つたくツて、死馬の肉を取つて狐に投げて遣つた。さウれ、さウれそれを食つたら早く山さ歸れ、お前がいつまでもこんな所に居るのアよくないこツた、と言つて聽かせて町へ行つた。

 その歸りしなに、爺樣が小柴立ちの山の麓を通りかゝると、今朝の瘦狐が居て、爺樣々々俺ア先刻(サツキ)から此所《ここ》で爺樣を待つて居た。ちよツと此方(コツチ)に來てケてがんせと言つて、爺樣の袖を食わへて引張るから、何をすれヤと言つてついて行くと、其山のトカヘ(後(ウシロ))の方さ連れて行つた。其所《そこ》まで行つたら狐は、爺樣々々一寸(チヨツト)眼(マナグ)を瞑《つむ》つて居てゲと言ふ。爺樣が眼を瞑つて居ると、狐は爺樣眼開(ア)けてもええまツちやと言ふから開(ア)くと、爺樣はいつの間にかひどく立派な座敷に通つて居た。そこへ齡取《としと》つた狐が二匹出て來て、今朝ほどア俺所(オラトコ)の息子が大層お世話になつてありがたかつた。俺達はこんなに齡取つてしまつて、ハゲミに出るにも出られないで每日每日斯うやつて家にばかり居ります。その上に息子が片輪者で困つて居ります。今夜の年越もナゾにすべやエと心配して居ると、爺樣のお影で、まづまづ上々吉相の年取りも出來て結構でござります。そのお禮に爺樣に何か上げたいと思ふけれども、御覽の通りの貧乏暮しだから大したことも出來ぬが、これを上げます。これは聽耳草紙と謂ふもので、これを耳に當てがると、鳥や獸や蟲ケラの啼聲囀聲《さへづりごゑ》まで、何でもかんでも人の言葉に聽き取られる。これを上げるから持つて歸つてケテがんせと言つて、一册の古曆《ふるごよみ》ほどの草紙コを爺樣の前に出した。爺樣はそんだら貰つて行くと言つて喜んで、その本コを手さ持つて、又先刻の跛狐に送られて野原の道まで出て、家へ歸つた。

 正月ノ二日の事始めの日の朝であつた。爺樣は朝(アサマ)早く起きて、東西南北を眺めわたすと、吾が家の屋棟《やむね》の上に一羽の烏がとまつて居た。すると又西の方から一羽の烏が飛んで來てカアカアと鳴いた。こゝだ、あの草紙コを試して見る時はと思つて、爺樣は急いで家の中さ入つて、古草紙コを出して來て耳さ押し當てゝ聽くと、烏共の言ふ言葉が手に取るやうによく解つた。その言ふことは、どうだモラヒ(朋輩)どの、此頃に何か變つたことアないかアと言ふと、西から來た烏は、何も別段珍しい話もないが、此頃城下の或る長者どんの一人娘が懷姙したが、それが產月になつても兒どもが生れないので、娘が大變苦しんで居る。あれは何でもない、古曆と縫針(ハリ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]とを煎じて飮ませれば兒どもも直ぐに生れるし苦痛(クルシミ)もなくなるものだのに、人間テものは案外淺量(アサハカ)なもので、そんなことも知らないと見える。はてさてモゾヤ(哀れ)なものだよ、カアカアと言つた。

 爺樣はそれをすつかり聽き取つて、これはよいこと聽いたもんだ。婆樣やエ婆樣やエ俺ア烏からよいこと聽いたから、これから城下さ行つて八卦《はつけ》置いて來るから仕度《したく》せえと言つて、婆樣に旅仕度して貰つて、城下町さして出かけて行つた。行つて見ると、其家は聞きにも增さつて立派な長者どんであつた。如何にもその長者どんの一人娘は難產で四苦八苦の苦しみをして居ると云ふことを、町さ入ると直ぐ聞いた。行つて見ると、屋方《やかた》には多勢《おほぜい》の醫者や法者《はふしや》が詰めかけて額を寄せて居るけれども、何とも手の出しやうがなくて、只うろうろしてばかり居た。そこへ汚い爺樣が行つて、私は表の立札の表について參つた者だが、お娘御樣が難產でござるさうな、この爺々が安產おさせ申上ますべえと言つた。あまり身成りが汚いものだから、其所に居た連中が、こんな百姓爺々に何が出來るもんかと、皆馬鹿にして居た。けれども長者どんでは、若《も》しやにかられて爺樣を座敷へ通すと、爺樣は六尺屛風を借りてぐるりと立廻《たちまは》し、その中に入つて、唐銅火鉢《からかねひばち》にカンカンと火を熾《おこ》して貰ひ、それに土瓶を借りてかけて、持つて行つた古曆と縫針(ハリ)とを入れてぐたぐたに煎《せ》んじて、娘に飮ませた。すると直ぐに娘の苦しみが拭(ヌグ)ふやうに取れて、おぎやア、おぎやアと、玉のやうな男の兒を生み落した。

 さあ長者どん一家の喜びは申すに不及《およばず》、上下と喜び繁昌して居るうちに、其所に居つた多勢の醫者や法者は何時《いつ》去るともなしに、一人去り二人去りして、遂々《たうとう》散り散りばらばらに立つて皆居なくなつて居た。そこで爺樣は長者どんから大層なお禮を貰つて、家へ歸つて榮えて活(クラ)したと。ハイハイどんど祓《はら》ひ、法螺《ほら》の貝ツコをポウポウと吹いたとさ。

  (昭和二年四月二十日、村の字《あざ》土淵《つちぶち》足洗川《あしあらひ》の小沼秀君の話の一《いち》。私の家に桑苗木を堪えに來て居て[やぶちゃん注:「堪え」はママ。「ちくま文庫」版は『植え』。誤植。]、デエデエラ野と云ふ山畠のほとりに憩《やす》みながら語つた。私は話の筋としてはさう珍しくなく、曩《さき》の老媼夜譚第二十三話聽耳頭巾と系統を同じくするものではあるが、便宜上これを第一話に置いて直ちに、これを此集の名前にした。)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧の佐々木の補注は、底本では、全体が二字下げのポイント落ちである。

「法者」民間の呪術者。山伏や巫女(みこ)のような連中を指す。

「昭和二年」一九二七年。

「村の字土淵足洗川」現在の岩手県遠野市土淵町土淵六地割にある地名(グーグル・マップ・データ)。

「小沼秀」不詳。

「デエデエラ野」佐々木喜善の生家の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。現行では「デンデラノ(野)」と表記される。

「老媼夜譚第二十三話聽耳頭巾」国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで視認出来る。]

2023/03/15

大手拓次譯詩集「異國の香」 野のチユーリツプ(ヒルダ・コンクリング)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  野のチユーリツプ コンクリング

 

鬼百合の葉のやうにまだらがあり、

まつくろい頸飾(くびかざ)りをつけたチユーリツプを

(そこにはみどりの覆ひをもつてゐる)

神樣はこしらへたのだ、

また、 神樣は動いてゆく寶石のやうな氷河をつくつた、

神樣は日にかがやく眞赤な雲のやうなチユーリツプをもつくつた。

けれど私にはわからないよ、

どうして、 それが花になつたり、

また大きな夢のやうな氷河になつたりするのか?

 

[やぶちゃん注:作者のついては、前回の私の注を参照されたい。本篇は、前回の詩篇と同じく、彼女の詩集「Shoes of the wind」の「Wild Tulipである。以上の原著の当該部を参考にして原詩を引く。

   *

 

   WILD TULIP

 

Mottled like the tiger-lily leaf,

With black necklace clinging,

( Of course it has a green cloak I )

God has made a tulip.

He made the glacier like a moving jewel.

He made the tulip

Like a red cloud lighted by the sun.

I wonder how it feels to make a flower

Or a glacier like a great dream !

 

   *]

大手拓次譯詩集「異國の香」 古い眞鍮の壺(ヒルダ・コンクリング)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  古い眞鍮の壺 コンクリング

 

ふるい眞鍮の壺が隅のはうにゐてちかちかひかり、

臺所の鍋(パン)にむかつてしかめつつらをしてゐる。

強情な王樣のやうに

ぢつとすわりこんで不氣嫌な顏をして……

私が見えなくなると

ほかの者を追ひつかふ。

あの壺は女神(めがみ)からもらつた賜なのだ。

私はどうしたらいいだらう?

 

私がほしいといへば、

壺はお米を煮てくれる。

お汁(つゆ)がほしいといへば、

それもこしらへてくれる。

あいつは魔怯だ、

けれど始終ぶつぷつつぶやいてゐる。

あいつさへゐなければ、

私の小屋(こや)もほんとに樂しく愉快なのだけれど、

窓のそとにはウイスタリアの花がひろびろと咲いてゐて……

私はどうしたらいいだらう?

 

壺はフライパンに

鈎(かぎ)の上にとまれといひつけた……

それからきぴしいこゑで

ほかの鍋(パン)にもいひつけた……

みんな私のこぢんまりした臺所で

幸福にくらせるのに!

敎へてください――きつと貴方はそつと敎へてくれるにちがひない――

私はどうしたらいいだらう?

 

[やぶちゃん注:詩人ヒルダ・コンクリング(Hilda Conkling 一九一〇年~一九八六年)については、本書巻末の目次の名の後に、『(十三歲の少年詩人)』とある(編者の逸見享氏による書き入れか)。私は知らなかったし、日本語で検索をかけても、誰も書いていない。名前の英文綴りを適当に調べて検索したところ、英文ウィキのこちらで、発見した。而して、この詩人は「少年」ではなく、「少女」である。大手拓次は昭和九(一九三四)年四月十八日に亡くなっているが、その時点でも彼女は二十四歳である。そのウィキによれば、彼女の父はマサチューセッツ州ノーサンプトンにあるスミス大学の英語の助教授で、ヒルダはニューヨーク州生まれ。父親は彼女が四歳の時に亡くなっている。未だ幼い四歳から十四歳にかけて、その詩の殆んどを作り、彼女自身は、それらを自分では書き留めていなかった。しかし、彼女の母親が会話の中に出てくるそれらの詩篇をその場で、或いは後で記憶をもとに書き留めておいた、とある。ヒルダが大きくなるにつれ、母は詩を記録することをやめ、また、ヒルダ自身、成人になってからは、自ら詩を書いたことも知られていない、とある。ヒルダの詩の殆どは自然に関わるもので、時には単に説明的なものもあれば、ファンタジーの要素が混じったものもある。他の多くのテーマは、母親への愛、物語や空想、彼女を喜ばせた写真や本を対象としているが、これらのテーマの多くは独立してあるのではなく、絡み合っていている、とある。彼女は、植物や動物の描写にしばしば比喩を利用している、ともあった。ヒルダの詩が収められた三冊の詩集は、彼女の生前に出版されており、「幼い少女の詩」(Poems by a Little Girl :一九二〇 年刊。アメリカの古典復興への回帰を主唱したイマジスト派の女流詩人エイミー・ローレンス・ローウェル(Amy Lawrence Lowell 一八七四 年 ~一九二五 年)の序文附き)・「風の靴」(Shoes of the Wind:一九二二 年刊)、「銀の角」(Silverhorn:一九二四年) がそれである。彼女の詩は、二種の詩のアンソロジーにも採られてあり、彼女については、詩を含め、その最初の詩集以前に、多くの雑誌に掲載された、ともある。第一詩集に載る彼女ポートレートはこれである。しかし、「Internet archive」の彼女のページを見るに、他にも著作があることが判る。

 さて、そこで調べてみたところ、本篇は、詩集「Shoes of the wind」の「The old brass potであることが判った。原著の当該部を参考にして原詩を引く。

   *

 

   THE OLD BRASS POT

 

The old brass pot in the comer

Shines and scowls at the kitchen pans;

Like a stubborn king

He sits and frowns . . .

Orders them about

When I’m not looking.

He was a gift from the fairy queen . .

What can I do ?

 

He boils rice when I want it,

Makes broth when it is needed.

He is magic

But he growls all day.

Without him it would be pleasant and comfortable

In my little cottage

With wistaria growing over the open windows . . .

What can I do ?

 

He tells the frying pan

To stay on its hook . . .

He shouts at the other pans

In a gruff voice . . .

They all might be so happy

In my cozy kitchen !

Tell me . . . but you must whisper . . .

what can I do ?

 

   *

「ウイスタリア」(wistaria)は「wisteria」と同じで、「藤」、マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属 Wisteria のフジ類を指す。本邦で愛されるフジ(ノダフジ) Wisteria floribundaとヤマフジ Wisteria brachybotrys は日本固有種であるが、アメリカにはアメリカ固有種のアメリカフジ Wisteria frutescens が植生するから、それである。]

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「雨夜を好む猪」・「要心深い猪」・「昔の猪と今の猪」・「シシの井(猪の膽)」・「猪の牙」・「猪と鹿」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○雨夜を好む猪  猪は闇の夜を好んで出ると云ひますが、殊に雨のそぼ降る夜などは、好等の書入《かきい》れ時だと謂《いひ》ます。

[やぶちゃん注:確かに、猪は雨の夜を好まない傾向はない。猪については、後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪』(本カテゴリで全十九章)も参照されたい。

「好等」ママ。「奴等」の誤植か。]

 

 ○要心深い猪  猪は田甫《たんぼ》へ近づいてからは、極く靜かに要心深く步いて、崖を飛降りたり、堀を越したりする時のほかは、滅多に肢音《あしおと》を立てぬと云ひます。矢トーなどにかゝるのは、崖などを飛降りる時、かゝるのだと云ふ人もありました。又、田圃へ入る時でも、田圃に最も近い茂みの中から來ると云ひます。たとひ其處が大變な𢌞り道でも。

[やぶちゃん注:「田甫」前にもあったが、ここでは後を「田圃」と書いており、誤植の可能性が疑わられる。

「矢トー」前回の注を参照されたい。]

 

 ○昔の猪と今の猪  猪も明治三七八年頃には、殆ど出なくなつて、猪の害と云ふものを聞かなくなりましたが、それもほんの僅かな期間で、明治四十年頃から、再び出始めた猪は、古老の話によると、四五十年來、なかつたと云ふ程出るやうになつて、畑の甘藷を堀[やぶちゃん注:ママ。]つたり、軒端に積んで置いた稻を喰べたなどゝ云ひました。それに其頃出る猪は、性質なども昔とは一變したやうに、出る場所は大槪きまつてゐたものが、殆ど想像もつかぬ所へ出たり、又、巾が四尺以上もある人間の道路などは、決して橫切らなかつたものが、そんな事は平氣で、涉《わた》つて步いて[やぶちゃん注:ここに読点が欲しい。]出る處がさつぱり見當がつかないと云ひます。

 昔の猪は夜の間、田や畑を荒して、晝間は附近の山の中に寢て居たもので、女が草刈りに山へ行つたら、猪がボロー(雜草や蔓草などが亂れ茂つた處)に鼾《いびき》をかいて寢てゐたとか、男が日が暮れてから山に仕事をしてゐたら、猪が子供を連れて其處へ出かけて來たのに、吃驚して逃げて來たなどゝ云ふ話もありました。近來の猪は、遠く十里も十五里もの奧山から、峯傳ひに來て、夜が明けぬ間に歸つてしまふので、昔のやうに、擊つ事が出來ないと、獵師が話しました。

 猪も每年少なくなつて行くと云ひますが、現今でも時々出て、なかなか油斷はならないと云ひます。

[やぶちゃん注:猪も生存のために学習し、習性が人間の都市社会にさえ適応していることは、昨今の市街地での騒動でも明白である。猪を侮ってはいけない。そもそも、彼らは非常に頭がいい。猪が家畜化された豚は、まず、調教しても芸が出来ないが、猪は芸が出来る。昔、妻と行った「天城いのしし村」(二〇〇八年十一月三十日閉園)が懐かしいな。

「明治三七八年」一九〇四、五年。]

 

 ○シシの井(猪の膽)  シシのヰは、人間の體に、非常な效能のあるものと言つて、貴重なものとされてゐました。瀕死の病人などでも、これを飮んで囘復しないのは、よくよく壽命がないものだと云つてゐました。

 獵師の家には、何時でも貯へてありましたが、普通の家でも大切に保存してゐる家がありました。私の家などでも、シヽのヰや、油を、昔は獵師の家から歲暮に貰つものださうです。

[やぶちゃん注:「シシの井(猪の膽)」「シシのヰ」猪胆(ちょたん:乾燥した猪の胆囊)は中国古代から漢方薬として用いられている。本邦でも珍重されたことは、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十四 猪買と狩人』や、同「猪 十五 猪の膽」を読んでも判る。但し、その乾燥品で急性E型肝炎を発症したケースがネット上で確認出来るので、注意されたい。]

 

 ○猪の牙  猪の牙は魔除けになると云つて、大切に藏《しま》つてある家がありました。

[やぶちゃん注:これは猟師やマタギらの古来からの習慣でもある。牙だけでなく、毛や鬣(たてがみ)が魔除けになるといって、現在、ネットでも販売されている。]

 

 ○猪と鹿  猪はどんな急所を擊つても、決して一度では斃れぬと云ひますが、鹿の方は、屛風を倒すやうに、見事に倒れると謂ひます。又、手負《ておひ》猪は次第に山深く遁げ入り、手負鹿は、段々里近く、水のある所へ出て來るものと謂ひます。

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「猪のソメ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

     山 の 獸

 

 ○猪のソメ(案山子《かかし》)  秋の彼岸過から、猪が田や畑へ出て作物を荒らすと云つて、山に沿つた處には、頑丈な栅や陷穽《おとしあな》や、長い堀などが造つてありましたが、私が物心覺えた明治二十八年頃なども、山峽《やまかひ》の田圃へ稻を喰ひに出ると言つて、其處へ作る稻は、猪の喰べにくいやうに、特に髯《ひげ》澤山な種類を作つたりして、いろいろと防ぐ工夫を考案したものでした。

 藁人形のソメ位では猪の方で承知してゐて、更に感じないので、材木の片端を穿《うが》つて穴を造つて、木の中心へ心棒を通し、水車の出來損ない見たいなものを拵へて、これに筧《かけひ》で水を流しかけて、水が穴に滿ちると、重量で下つて、水を明けてしまつて、材木が舊《もと》の位置へ返る時、片端が後《うしろ》に置いてある臺の板を、バタンと音して打つ仕掛《しかけ》などもありました。これをボツトリと謂つて、昔しは、これに杵《きね》をつけて、粟や稗《ひえ》を搗いたものだと謂ひます。これを田の傍《かたはら》の澤に設けておきました。

 又自分達が、石油の臭ひが嫌い[やぶちゃん注:ママ。]なところから思ひついて、これをボロに浸して竹の先に結びつけて畔《あぜ》に幾ケ所も立てゝ、これなら如何《いか》な圖々しい猪でも、臭いのに閉口するだらうなどゝ云ひました。臭いものではこの外に、女の髮の毛を燃《もや》して竹に揷んで立てたり、又ボロを繩になつて、其端に火をつけて、一晚、黃臭《きなくさ》い匂ひを漂はしておくのもありました。

 カンテラに火を灯して、高く竿の先に吊るして、暮方から夜の明方まで、田甫[やぶちゃん注:ママ。「田圃」(たんぼ)。]の中に灯しておくのもありました。來る晚も來る晚も灯して置いたら猪の方で覺えてしまつて、カンテラの點《とも》つて居る傍で稻を喰べて行つたなどと云ふ話もありました。

  矢トーと言ふのは昔からやつた事ださうですが、靑竹を三尺ほどの長さに切つて、先を尖らせて火にあぶつて一層銳くして、猪の來る路へ、矢來のやうに立て置くものでした。これに猪がかゝつて、五寸ほど血を滲ませておいて行ったのを實見した事がありました。

 昔から行《おこな》つた事で、完全に効力があつたのは、田から田へ鳴子《なるこ》を引き渡して、田の畔に晚小屋を造つて、每晚、其處に寢泊りして、爐に向つてホダを燃しながら、夜通し其綱を引いて居るものでした。近い頃、字《あざ》相知の入《いり》と云ふ所の田甫へ每晚この鳴子の綱を引きに出て居た男が、たつた一晚風邪を引いて番小屋を休んだら、其晚に猪が出て、一度に稻を喰べられたなどゝ云ひました。

[やぶちゃん注:「ソメ(案山子)」非常によく書けてあるウィキの「かかし」によれば、『「かかし」の直接の語源は「嗅がし」ではないかとも言われる。鳥獣を避けるため』、『獣肉を焼き焦がして』、『串に通し、地に立てたものもカカシと呼ばれるためである。』『これは嗅覚による方法であり、これが本来のかかしの形であったと考えられる。また、「カガシ」とも呼ばれ、日葡辞書』(十七』『世紀に発行された外国人の手による日本語辞典)にもこちらで掲載されている。またカカシではなく』、『ソメ(あるいはシメ)という地方もあり、これは「占め」に連なる語であろう』とあり、「ソメ」に納得した。また、そこ以下に『「案山子」という字をあてる理由について、以下のような記述が北慎言(きたちかのぶ:北静盧(きたせいろ 明和二(一七六五)年~嘉永元(一八四八)年)は江戸中期の民間学者。慎言は本名)「梅園日記」』(弘化元・二(一八四五)年)にあるとして引かれているものも甚だ興味深いものである。なお、後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 五 猪の案山子』も参照されたい。早川氏手書きの絵も見られる。また、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『最近は、猪と猿の害が特にひどくなって困っています。当時のように夜通し番をする訳にもいかず、ラジオをかけたり、爆竹を鳴らしたり、番犬を繋いだり、いろいろするのですが結局最後には慣れてしまいます。触れるとショックが来る、この電気柵が効果があって、今では殆んどの田圃に柵があります』。『(柵が無い田圃に這入られる)』と写真入りで注があるので見られたい。

「明治二十八年」一八九五年。

「髯《ひげ》」穀類で禾(のぎ)の尖ったもの、多いものを指すのであろう。

澤山な種類を作つたりして、いろいろと防ぐ工夫を考案したものでした。

「材木の片端を穿《うが》つて穴を造つて、木の中心へ心棒を通し、水車の出來損ない見たいなものを拵へて、これに筧《かけひ》で水を流しかけて、水が穴に滿ちると、重量で下つて、水を明けてしまつて、材木が舊《もと》の位置へ返る時、片端が後《うしろ》に置いてある臺の板を、バタンと音して打つ仕掛《しかけ》などもありました」所謂、「鹿威し」である。「ボツトリ」は落ちる音に基づくか。

「矢トー」「矢塔」「矢戸」辺りか。後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 三 猪の禍ひ』で詳しく語られてあるが、そこでは、『ヤトオは本來オトシアナの中に立てゝ、陷ちた猪を突刺すための物の具であつたが、別に崖の下垣根の内等にも置いて、獲物を捕る事にも使つた。單に猪を嚇す爲めの、防禦の具に用ひたのは、せつない時の思付であつたかも知れぬ。それをつくる矢竹の茂りが、山の處々に、未だ忘れたやうに殘つてゐた』とあり、それだと、「矢塔」が相応しい感じはする。

「相知の入」現在の横川相知ノ入(よこがわあいちのいり:グーグル・マップ・データ)。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「湯に入らぬ男」・「馬に祟られた男」・「木の葉を喫ふ男」・「死ぬまで繩を綯つた男」 / 種々な人の話~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○湯に入らぬ男  山口伊久と云ふ男も、魚を捕る事が好きで、夏は、鮎瀧へ行けば、如何なる日でも居ると云ひました。どんなに煆《や》けつくやうな炎天でも、ぢつと身動きもしないで、鮎を捕つてゐると云ひました。いつも股引に脚絆を肌から離さず、湯には一年も二年も入らぬと云ふ評判でした。それでゐて顏の色はいつも艶々してゐました。餘り家計が豐かでもないのに、百姓は嫌《いや》だと云つて、夏《なつ》川へ行くほかは、山へ行つて、木を伐つたりかわたけをとつたり、又はフシの實を探したりしてゐました。家の中は奇麗に掃除して塵一本もないやうにして、多くは炉に向つてぢつと坐つてゐました。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」(以下の注の引用では「●」)。

「山口伊久」「やまぐちいきう」と読んでおく。

「鮎瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川に「鮎滝」の指示がある。グーグル・マップ・データでもポイントされてあり、サイド・パネルにも、多数の写真がある。この説明板の写真が一番読み易い。それによれば、ここでの独特の鮎の漁法(山口伊久の釣り方はこれではないようにも見えなくはないのだが)について、『この瀧の瀑布を二間』(約三・六四メートル)『余跳躍し遡上する鮎を、二間お竹竿の先に付けた笠網(被(かぶ)り笠)を両手で把持氏し、瀧壺の巌頭に待ちうけて、魚が空中い飛躍する一瞬にこれを掬(すく)い捉(と)る漁法(鮎汲みともいう)に因み、瀧川三之瀧(たきがわさんのたき)の愛称となったことによる』とあり、以下、非常に細かい江戸時代からの、この流域の開発や鮎漁の歴史等、非常によく書かれてある。この瀧遡上の写真は現地にある説明版の写真を写したものであるが、これは壮観である。網代網漁の鮎漁は見たことがあるが、如何にもいやらしく可哀そうで厭だが、ここのこの鮎の雄姿は、なかなか見られない。

かわたけ」担子菌門イボタケ目 マツバハリタケ科コウタケSarcodon aspratus の異名。「皮茸」「革茸」であろう。独特の芳香を持ち、傘上には大きな鱗片が並ぶ。傘裏には長さ五ミリ程度の針状突起が並んで、寧ろ裏側の方が革っぽい。傘の径はしばしば三十センチメートルに達する。乾燥と全体的に黒くなり、より皮革に似る。松茸より希少ともされ、美味である。

「フシの實」「フシ」は「五倍子」で、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の葉に、ヌルデシロアブラムシ(半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensi)が寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっており、この虫癭はタンニンが豊富に含まれていうことから、古来、皮鞣(かわなめ)しに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつぶしいろ:灰色がかった淡い茶色。サイト「伝統色のいろは」こちらで色を確認出来る)と呼ばれる伝統的な色を作り出す。インキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の習慣であったお歯黒にも用いられた。また、生薬として「五倍子(ごばいし)」あるいは「付子(ふし)」と呼ばれ、腫れ物や歯痛などに用いられた。主に参照したウィキの「ヌルデ」によれば、『但し、猛毒のあるトリカブトの根「附子」も「付子」』『と書かれることがあるので、混同しないよう注意を要する』。さらに、『ヌルデの果実は塩麩子(えんぶし)といい、下痢や咳の薬として用いられた』とある。ここの「實」は前者の虫癭でとってよかろうが、後者の実際の実も採っていたではあろう。]

 

 ○馬に祟られた男  ハヤセの梅と云ふ男が、三月神樂の連中に混ざつて必ずやつて來ました。始終口から涎《よだれ》を流してゐる、五十格好の赤ら顏の男でした。馬が死んだ、赤馬が死んだぞと言ふと、自分の二の腕に喰ひついて、泣きながら、聲の主を追ひかけて行きました。その爲め二の腕はいつも赤く腫れ上つてゐました。遠江の者で實家は、中々の物持だと云ふう事ですが、馬の祟りで氣狂ひになつと云ふ事でした。其後死んだと云つて來なくなりましたが、近くの物持の家へ生まれ替つて來たとも云ひました。

[やぶちゃん注:面白がって誰彼が彼にそう呼び掛けてやらせたのだろうが、私はあたかもその場にいたかのようなフラッシュ・バックを起こし、「ハヤセの梅」が、自身の二の腕にガブッツと噛みつくモノクロームの映像が切なく見えてくるのである。]

 

 ○木の葉を喫ふ男  山口豐作と云ふ男は、三年前に亡くなりましたが、大變つましい男で、十年ほど前までは、石油を使ふのは勿體ないと云つて、昔のまゝの松を、明《あか》しに燃《もや》していました。煙草が好きで、ふだん口から煙管《きせる》を離しませんでしたが、煙草が官營になってからは、買つては喫《の》まないで、秋、霜が來てから、山へ行つて種々《いろいろ》な木や草の葉を採つて來て、煙草のやうに、繩にはさんで、天井に吊るして置いて、其れを刻んで喫んでゐました。

 山牛蒡《やまごばう》の葉や、虎杖《いたどり》の葉や、蕗の葉、ゴード茨《いばら》の葉などが喫めると言ひました。桑の魯桑《ろさう》と云ふ種類も色が奇麗だと云ひました、赤松の葉を煮出して、石の上で叩くと刻煙草《きざみたばこ》のやうになる事も其男から聞きました。

[やぶちゃん注:「三年前」大正一〇(一九二一)年十二月で、序文のクレジットは「大正十年八月」であるから、大正七年となろう。

「煙草が官營になってから」正式には明治三七(一九〇四)年七月に施行された「煙草専売法」以降となる。

「山牛蒡《やまごばう》」正式和名のそれは多年草の双子葉植物綱ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca acinosa 或いはPhytolacca esculenta で、日本全土及び東アジアの温帯に分布し。人家付近に植生する。根は肥大し、円柱形。茎は太く、直立し、高さ一メートル内外となり、大型で楕円形の葉を互生する。六〜八月、茎の頂きに長さ五~十二センチの総状花序が直立する。花は白色で径約八ミリ、花弁はなく、萼片は五枚。果実は扁球形の液果で、黒紫色に熟し、果穂も直立する。果汁は紫色。有毒植物であるが、葉は食用となる。近縁のヨウシュヤマゴボウPhytolacca americanaは北米原産で、花穂や果穂は下垂する。市街地には、この方が普通に見られる。但し、「山牛蒡の漬物」として販売され、寿司屋等で呼ぶそれは、キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis・オニアザミ(鬼薊)Cirsium borealinipponense・キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ(雄山火口)Synurus pungens の根であることは、あまり知られているとは思われない。但し。ここでは「山牛蒡の葉」と言っているので、真正の前者ヤマゴボウであろう。

「虎杖《いたどり》」ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica。私などは別名のスカンポ(酸模)の方が親しい。当該ウィキによれば、『春』『の紅紫色でタケノコ状の新芽・若い茎はやわらかく、「スカンポ」などと称して食用になり、根際から折り取って採取して皮をむき山菜と』し、また『やわらかい葉も食用にされ』る。『新芽は生でも食べられ、ぬらめきがあり珍味であると形容されている』。『かつては子供が外皮をむいて独特の酸味を楽しんだ』(私もよくやった)。『この酸味はシュウ酸で、多少のえぐみもあり、そのまま大量摂取すると』、『下痢をおこす原因になり、健康への悪影響も考えられ注意が必要となる』。『山菜として採った新芽は外皮を取り除いて生食するか、かるく湯通しして灰汁を抜き、酢の物、油炒めにして醤油・塩・胡椒で味付けしたり、短冊状に切って肉や魚などと一緒に煮付けにして食べられている』。『また、塩漬けにして保存し、食べるときに水にさらして塩抜きして食べられている』(これも美味い)とある。

「蕗」キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus。私の建て替える前の裏庭には鬱蒼と茂り、よく近所のおばさんが貰いに来たものであった。

「ゴード茨《いばら》」不詳。識者の御教授を乞う。

「魯桑《ろさう》」バラ目クワ科クワ属マグワ Morus alba 品種ロソウMorus alba var. multicaulis(或いはMorus multicaulis)。中国浙江省の原産で、ログワ・マルグワ・モチグワなどとも呼ばれる。幹は根際で分枝し、叢生する。葉は長さ十五~三十センチメートルで、短楕円形で、浅い鈍鋸歯があり、上面は平滑で光沢がある。養蚕のため、本邦で栽培されるクワは、この種の園芸品種が多く、特に三倍体が多い。

「赤松」球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツPinus densiflora。松脂があるから、香りはあるであろう。]

 

 ○死ぬまで繩を綯《な》つた男  私の祖父の弟で、遠江の堀の内に居た夏目周吉と云ふ男は五年前に亡なりましたが、若い時から律義者で、又大變な儉約家であつたさうです。

 若い頃、親類の家に厄介になちてゐる時など、盆と正月に、𢌞禮《くわいれい》に行くのに、家を出る時は着物に羽織を着て出掛けても、途中、村を出放《ではな》れて家のない所へ來ると、早速羽織を脫いで、棒切を拾つて其先に引掛《ひつか》けて、其をかついで行つて、人家のある處にさしかゝると、再び其羽織を着て步いたと云ひました。盆に𢌞禮する時などは、村はづれの村の入口迄、着物を脫いで、矢張棒の先に引掛けて、褌《ふんどし》一ツになつて步いて來たさうです。祖母がよく言つて笑ひましたが、七十幾歲になつて、私の家へ每年墓參りに來るのに、其男が二十《はたち》の年に、叔母から貰つた着物を着て來ると云ひました。

 此男が年を老《と》つて、死期が近づいた二三年は、ボケてしまつて、朝起きると、其日の天候を家の者に訊いて、三州へ墓參りに行かなくてはならないと、一人諾《うなづ》いては土閒へ降りて草鞋《わらぢ》を造るのが日課であつたさうですが、草鞋に緖を附けるのを忘れてしまつて、二尺ほどもある長い草鞋を幾つも作つたと言ひました。

 いよいよ臨終と云ふ日には、床の中で其日の天候を訊いて、手に唾をつけては、頻りに繩を綯ふ眞似をしてゐて、最後に息を引取る迄、其手附は休《や》めないで、安らかに息を引取つたと云ひます。

[やぶちゃん注:何か面白くも、ペーソスを滲ませたいい話である。芥川龍之介が読んだら、きっと褒めたに違いない。

「五年前」(大正五(一九一六)年頃。

「遠江の堀の内」現在の静岡県藤枝市堀之内。]

2023/03/14

譚海 卷之五 薩摩家豐臣秀賴公の眞蹟進獻の事 附江戶赤坂山王權現神職の事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加し、段落を成形した。「あん人、生きとってごわした!」トンデモ話である。]

○享保年中、薩摩家老猿渡某、江戶へ出府して、老中松平左近將監殿宅ヘ參じ、

「ひそかに申上る用事にて、出府致(いたし)たる。」

由、申ければ、對面ありし時、猿渡、墨塗の箱、封印したるを指出(さしいだ)し、

「薩摩守、申上候。在所にて、去年、彼(かの)人、死去仕候に付、かやうのもの、所持致し候ても、却(かへつ)て御當家(ごたうけ)の御恥辱にも相成可ㇾ申儀と、恐(おそれ)ながら奉ㇾ存候間、ひそかに返上仕候。仍(よつ)て持參致し候。」

由、演說せしかば、右の箱を、左近將監殿、御請取在(あり)て、卽刻、登城あり、右の次第、言上に及(および)しかば、有德院公方樣[やぶちゃん注:吉宗。]、開封、御覽有しに、豐臣家へ、東照宮より遣(つかは)されたる「起鐙文」也。

「秀賴、十五歲に及ばば、政務の事、返し、屬せらるべき。」

よしの文言とぞ。

 何の上意もなく、只、

「彼(かの)人、何歲にて死去ありしや。子孫も在しや。委敷(くはしく)承候やうに。」

上意あり。

 左近將監殿、歸宅の後、猿渡をめされ、御尋ありしに、

「彼人、去年百三拾七歲にて、死去いたされ候。百廿一歲のとき、男子、出生に付(つき)、當時、存命いたし罷在候。其以前も、男子壹人、出生いたし在ㇾ之候得共(さうらえども)、死去いたし、當時、存命のものは、壹人に御座候。外に、女子、三人在レ之候。何れも家老どもへ、緣組いたし候。」

よし申ければ、右の通り上聞に達せしに、

「來春、薩摩守、參勤のせつ、右の男子、同道いたし候やうに。」

と上意にて、猿渡、歸國せり。

 翌年、薩摩守殿、右男子、同道にて、參勤ありしよし、言上に及びければ、何となく御目見得仰付られ、則(すなはち)、右の男へ、新知(しんち)五百石、賜はり、赤坂山王の神主(かんぬし)に仰付られ、「樹下民部(きのしたみんぶ)」と名を下され、子孫、今に相續せり。

 しかれば、大坂落城のとき、豐臣内府は、薩摩へ落(おち)られたるものか。

 但(ただし)、百三拾七歲まで存命の事、めづらしき事也。「樹下」は、則、「木下」の意なり、とぞ。

[やぶちゃん注:「彼人」底本の竹内利美氏の注に、『豊臣秀頼は大坂落城の際、実は死亡せず、ひそかに薩摩に脱出し、そこで余生を終えたという話は、かなりひろく流布していた。その一例である。この話は起請文や』、『その子孫民部のことまで添えられ、百三十七歳という高齢さえもっともらしくきこえる。なお』、『老中松平左近将監は、佐倉の領主松平乗邑』(のりさと)『である』とあった。]

譚海 卷之五 江戶淺草觀世音幷彌惣左衞門稻荷繪馬額等の事 附湯島靈雲寺・神田聖堂・音羽町護國寺・品川東海寺。角田川興福寺・淺草御藏前閻魔堂額の事

 

[やぶちゃん注:だらだら羅列で読み難いので、特定的に句読点を変更・追加し、記号を加え、段落を成形した。額や絵馬や絵の名数で、一向に興味がないし、労多くして益無しと断じ、気になった一箇所のみの他には注しないことにした。読みだけは検証して附した。悪しからず。]

○金龍山淺草寺境内彌惣左衞門稻荷の社頭に、寬永年中奉納せし繪馬あり。菱川某の繪にて、境町芝居の圖をゑがきたり。其頃の芝居の、但今(ただいま)、見るが如し。三階の棧敷(さじき)あり、戲者(ぎしや)の風俗も甚(はなはだ)古質(こしつ)なるもの也。此外に寶永の比の繪馬、社頭に多し、めづらしき觀物(みもの)也。

 又、同所二王門外に「地主(ぢしゆ)の稻荷」といふ有(あり)。是(ここ)にも元祿年中の繪馬あり。力士一人、碁を圍みたる體(てい)にて、甚(はなはだ)猛勇にみゆ。側(かたはら)に少人(しやうにん)、麻上下(あさがみしも)にて傍觀の體(てい)をゑがけり。「駒形若者中奉納」としるし在(あり)。今時(こんじ)の無類(むるゐ)の者の物數寄(ものずき)とは、格別に變りたる事に覺ゆ。

 また、本堂觀世音の階(きざはし)の上にかけたる額、華人の筆にて「觀音堂」と楷書し、左右に本朝の年號と、「福縣昌郡」の姓名をしるしたり。筆勢(ひつせい)、みつベき物也。

 山門に「淺草寺」と、八分(はつぷん)にて書(かき)たるは、三國堂海堂といふ人の書たるよし。又、今時の物にあらず。

 又、湯島靈雲寺本堂のうしろ成(なる)堂に、「寶瞳閣」(ほうどうかく)と楷書にて書たる額あり。華人の書なり。大字にて殊に組、妙、也。

 又、神田聖堂の正面に「大成殿」(たいせいでん)とある額は、常憲院公方樣の御筆也。「仰高入德門杏檀」の額は、竹内殿筆蹟のよしを云(いふ)。

 其外、東叡山護國院の額、音羽町護國寺の額、何れも、みつべし。護國寺地内、護持院諸堂の額は、みな、隆光僧正の筆也。是又、見るべきもの也。

 又、品川東海寺の壁は、探幽法印、「加茂競馬」をゑがきたり。是は、「臺德院公方樣、御居間の繪のよし。」を云傳(いひつた)ふ。其外、張付板戶の畫、見所、おほし。諸堂の額は洋庵和尙の筆と云へり。

 又、隅田川興福寺方丈に「獅子吼(ししく)」と書たる額あり。「興福寺開山の師匠の墨蹟にて、中華より書(かき)てこしたり。」と、いへり。此書、殊に天骨(てんこつ)を得たるもの也。同じ書院に明の趙瑞圖(ちやうずいづ)が、「西舍黃梁夜舂」と書たる懸物、在。又、見るべし。そのほか、本所囘向院の額、藏前閱魔王殿の額、みつべきものなり。

 [やぶちゃん注:「八分」「八分體」(はっぷんたい)で、「書道専門店大阪教材社」の公式サイト内のこちらによれば、『隷書の書体の一つ』とあり、『素朴な要素を残す古隷から発展し、波磔』(はたく:波のようにうねって見える線を言う)『をもつ装飾的な要素が備わった書体で』、『横画を強調』し、『文字が横長という特徴があ』るとある。『名前の由来は諸説あ』るものの、『八の字を書くように横画の用筆で、逆入筆し、収筆で跳ね上げるところから』、『このように呼ばれてい』るとあった。

大手拓次譯詩集「異國の香」 薔薇の連禱(レミ・ド・グールモン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

 

   薔 薇 の 連 禱 グルモン

 

         ――上田敏氏の譯し落した部分から――

 

 靑銅の色の薔薇の花、 太陽に灼(や)かれた煉粉、 靑銅の色の薔薇の花、 烈しい投槍がお前の肌にあたつて潰(つぶ)れる、 僞善の花、 無言の花。

 

 火の色の薔薇の花、 背いた肉のために特別な坩堝(るつぼ)、 火の色の薔薇の花、 おゝ子供の時の同盟者の天命、 僞善の花、 無言の花。

 

 肉色の薔薇の花、 魯鈍な、 健康の滿ちた薔薇の花、 肉色の薔薇の花、 お前は吾等に非常に赤い又溫和な酒を飮ませて、 そそのかす、 僞善の花、 無言の花。

 

 櫻色の繻子の薔薇の花、 凱旋した唇の優美な寬大、 櫻色の繻子の薔薇の花、 彩(いろど)つたお前の口は吾等の肉の上に、 迷想(めいさう)の葡萄色の印章を置いた。

 

 處女の心の薔薇の花、 まだ話したことのない、 ぼんやりした淡紅色(ときいろ)の靑年、 處女の心の薔薇の花、 お前は吾等に何も言はなかつた、 僞善の花、 無言の花。

 

 すぐり色の薔薇の花、 汚辱と可笑(をか)しい罪惡の赤い色、 すぐり色の薔薇の花、 人々がお前の外衣(うはおほひ)を大層皺(しわ)にした、 僞善の花、 無言の花。

 

 夕暮の色の善薇の花、 退屈に半ば死んだ人、 晚霞の煙、 夕暮の色の薔薇の花、お前は勞れたお前の手を接吻しながら戀わづらひをする、 僞善の花、 無言の花。

 

 紫水晶の薔薇の花、 朝の星、 司敎の慈愛、 紫水晶の善薇の花、 お前は信心深い、 やはらかい胸の上に眠る、 聖母マリアに捧げた寶玉、 おゝ玉のやうな修道女、 僞善の花、 無言の花。

 

 濃紅色の薔薇の花、 羅馬敎會の血の色の薔薇の花、 濃紅色の薔薇の花、 お前は戀人の大きい眼を想ひ出させる、 彼女の靴下留めの結び目にひとりならずお前をさすだらう、 僞善の花、 無言の花。

 

 法王の薔薇の花、 世界を祝福する御手から水そそぐ薔薇の花、 法王の薔薇の花、 黃金のお前の心は銅のやうである、 空しい花冠の上に珠となる淚は、 それはクリストのおなげきである、 僞善の花、 無言の花。

 僞善の花。

 無言の花。

 

[やぶちゃん注:レミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont 一八五八年~一九一五年)はフランスの批評家・詩人・小説家。ノルマンディーの名門の出身で、カーン大学に学び、後、パリの国立図書館司書となるが、免官された。『メルキュール・ド・フランス』(Mercure de France)誌に載せた論文「愛国心という玩具」(Le Joujou patriotisme:一八九一年四月)の過激な反愛国主義的口調のためであった。その頃、今一つの不幸が彼をみまう。「真性皮膚結核(true cutaneous tuberculosis)」の「尋常性狼瘡(ろうそう)(lupus vulgaris)」(皮膚結核の一型。病態により違いがあるが、私がネットで確認出来たものでは、かなり激しい顔面の特に頬に出現することが多い、不整形の強い紅色を呈した凹凸が生じ、ひどくなると顔が崩れたように見える)という病いが醜い跡を顔に残して、一層の孤独幽閉の生活を強いられたからである。この二つの出来事と重なり合って始まる彼の文学活動は、象徴主義的風土と充実した生の現実、知的生活と感覚的生活、プラトニックな恋愛と官能的恋愛の間を、絶え間なく微妙に揺れ動きつつ、バランスを保った。有名な「シモーヌ」(Simone, poème champêtre:一九〇一年)詩編を含む「慰戯詩集」(Divertissements. Poèmes en vers:一九一二年)、二十世紀を見事に先取りした作品「シクスティーヌ或いは頭脳小説」(Sixtine, roman de la vie cérébrale:一八九〇年)、そして、特に傑作とされる「悍婦(アマゾーヌ)への手紙」(Lettres à l'Amazone:一九一四年)等、孰れも前記のテーマに沿っている。批評家としての彼は、「観念分離」なる用語を用いて、観念、或いは、イメージの月並み部分を排除することを説いたが、実をいうと、例の反愛国主義的論文も、それの一例であった。批評での知られた作品が多い(以上は小学館「日本大百科全書」を主文に用いた)。

 本詩篇の原形は彼の最初期の詩篇で、一八九二年『メルキュール・ド・フランス』社刊の「薔薇連禱」(Litanies de la rose)の一部である。但し、所持する一九六二年岩波文庫「上田敏全訳詩集」(山内義雄・矢野峰人編)の「解題」に従うなら、上田が行った抜粋訳は同社の一八九六年刊の‘Le Pèlerin du silence, contes et nouvelles’(「沈黙の巡礼者、物語と短編小説」)に載る版を元にした訳で大正二(一九一三)年一月発行の北原白秋編集の文芸誌『朱欒(ザンボア)』(三ノ一)に発表されたものである。原詩全体はフランス語サイトのこちらにある四十八連(冒頭の「Fleur hypocrite,」と下げの「Fleur du silence.」、及び最後の「Fleur hypocrite,」と「Fleur du silence.」を独立一連と数えた)からなるものが初版のものである。上田敏の訳した分は、彼の訳詩集「牧羊神」(上田の死から四年後の大正九年十月に金尾文淵堂から刊行)に載り、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから視認出来るが、六十三連を数える。読み難ければ、「青空文庫」のこちらに、概ね正字化(残念ながら、題名が「薔薇連祷」なのは鼻白んだ)されてあるので見られたいが、異様に連数が多いのはやはり、「沈黙の巡礼者、物語と短編小説」に載る版をもとにしているからであろうか。そちらの後発版の原詩を探す気には、もう、なれない。悪しからず。

 なお、以上の本文では、一箇所だけ、操作を加えた。それは第七連目の「晚霞の煙、 」の箇所である。この「晚霞の煙」は底本では行末にきており、読む分には改行で意識上では無意識にブレイクが入って違和感がないのであるが、以下に示す岩波の原子朗氏の版では、「晚霞の煙、」となっているのである。これは物理的に、底本の版組が、行末に禁則処理としての読点を打てない組版であったが故に、かくなったものと考えられるからである。そもそも「晚霞の煙夕暮の色の薔薇の花、」では、詩句として全く以って成立していない。されば、「、 」を挿入したものである。

「すぐり色」「赤い色」と続くから、これはユキノシタ目スグリ科スグリ属フサスグリ Ribes rubrum ととる。漢字では「房酸塊」で、当該ウィキによれば、『ヨーロッパ原産。果実の色が赤色の系統をアカスグリ(赤すぐり、レッドカーラント)、白色の系統をシロスグリ(白すぐり)と呼ぶ。黒色のクロスグリ(カシス)は別種である。別名としてフランス語由来でグロゼイユ(Groseille)とも』あり、まさに上記の初版詩篇にもこの一連はあった。

   *

Rose groseille, honte et rougeur des péchés ridicules, rose groseille, on a trop chiffonné ta robe, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

である。

 但し、どうも、拓次の本詩集の本篇は、不全なものであるらしい。原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)に載るものは、二十三連あるからである。以下に本底本詩集に合わせて恣意的に概ね正字化し、操作(原氏のもので添えられてある一部の読みを添えた。これは拓次が振ったもので、読みが振れると判断されたものを原氏がチョイスして挿入したものである。拓次の原稿は概ね漢字にルビを振ってあるのだそうである)を加えたものを以下に示す。原氏のそれでは、各連の頭が行頭で、二行目に及ぶ時は、二行目以降は総て一字下げであるが、ブログではブラウザの不具合が生ずるので無視し、本詩集と同様にした。而して、これは初版のフレーズやコンセプトと概ね一致を見る

   *

 

   薔 薇 の 連 禱 グルモン

 

         ――上田敏氏の譯し落した部分から――

 

 靑銅の色の薔薇の花、 太陽に灼(や)かれた煉粉、 靑銅の色の薔薇の花、 烈しい投槍がお前の肌にあたつて潰(つぶ)れる、 僞善の花、 無言の花。

 

 火の色の薔薇の花、 背いた肉のために特別な坩堝(るつぼ)、 火の色の薔薇の花、 おゝ子供の時の同盟者の天命、 僞善の花、 無言の花。

 

 肉色の薔薇の花、 魯鈍な、 健康の滿ちた薔薇の花、 肉色の薔薇の花、 お前は吾等に非常に赤い又溫和な酒を飮ませて、 そそのかす、 僞善の花、 無言の花。

 

 櫻色の繻子の薔薇の花、 凱旋した脣の優美な寬大、 櫻色の繻子の薔薇の花、 彩(いろど)つたお前の口は吾等の肉の上に、 迷想(めいさう)の葡萄色の印章を置いた。

 

 處女(をとめ)の心の薔薇の花、 まだ話したことのない、 ぼんやりした淡紅色(ときいろ)の靑年、 處女の心の薔薇の花、 お前は吾等に何も言はなかつた。 僞善の花、 無言の花。

 

 すぐり色の薔薇の花、 汚辱と可笑(をか)しい罪惡の赤い色、 すぐり色の薔薇の花、 人人がお前の外衣(うはおほひ)を大層皺(しわ)にした、 僞善の花、 無言の花。

 

 夕暮の色の善薇の花、 退屈に半ば死んだ人、 晚霞(ゆふやけ)の煙、 夕暮の色の薔薇の花、 お前は勞(つか)れたお前の手を接吻しながら戀わづらひをする、 僞善の花、 無言の花。

 

 あをい薔薇の花、 虹色の薔薇の花、 シメールの眼の花の怪物、 あをい薔薇の花、 お前の瞼(まぶた)をすこしお開(あ)け、 お前はお前が人に見られるのが怖いのか、 眼のなかの眼シメールよ、 僞善の花、 無言の花。

 

 みどりの薔薇の花、 海の色の薔薇の花、 女怪(シレーヌ)の臍(へそ)、 みどりの薔薇の花、 波のやうにゆらゆらする又物語めいた寶玉、 指がお前に觸れたなら、 そのままお前は水になる、 僞善の花、 無言の花。

 

 紅玉色の薔薇の花、 龍の黑い額に咲いた薔薇の花、 紅玉色の薔薇の花、 お前は帶の留金にすぎない、 僞善の花、 無言の花。

 

 朱色の薔薇の花、 溝のなかに寢ころんでゐる戀された田舍娘、 朱色の薔薇の花、 牧者はお前を熱望し、 また牡山羊はお前を食べた、 僞善の花、 無言の花。

 

 墓場の薔薇の花、 屍(しかばね)から發散する冷氣、 全く可愛らしい淡紅色(ときいろ)の墓場の薔薇の花、 美しい腐敗の心持の好い薰、 お前は食物(たべもの)の風(ふり)をする、 僞善の花、 無言の花。

 

 暗褐色の薔薇の花、 陰鬱な桃花心木(アカジウ)の色、 暗褐色の薔薇の花、 正しい悅び、 智慧、愼重と豫知、 お前は赤い眼で吾等を視る、 僞善の花、 無言の花。

 

 罌粟色(けしいろ)の薔薇の花、 一樣な娘達のリボン、 罌粟色の薔薇の花、 少さい人形の名譽、 お前は愚かか狡猾か、 少さい兄弟の玩具(おもちや)よ、 僞善の花、 無言の花。

 

 赤と黑との薔薇の花、 怠惰と祕密の薔薇の花、 赤と黑との薔薇の花、 お前の怠惰とお前の赤は德をつくる讓和(じやうわ)のなかに靑白くなつた、 僞善の花、 無言の花。

 

 石盤色の薔薇の花、 ぼんやりした德の鼠地(ねずぢ)の浮彫(うきぼり)、 石盤色の薔薇の花、 お前は、 年とつた寂しい長椅子にのぼり、 そのまはりに花をひらく、 夕暮の薔薇の花、 僞善の花、 無言の花。

 

 芍藥色の薔薇の花、 豐かな庭の謙讓な虛榮、 芍藥色の薔薇の花、 風は偶然にお前の葉を捲きあげるばかりだ、 それでお前は不滿ではなかつた、 僞善の花、 無言の花。

 

 雪のやうな薔薇の花、 雪とそして鵠(はくてう)の羽の色、 雪のやうな薔薇の花、 お前は雪が脆いことを知つてゐて、 お前はもつとめづらしい時でなければお前の鵠の羽をひらかない、 僞善の花、 無言の花。

 

 透明な薔薇の花、 輝く泉の色が草のなかから噴き出る、 透明な薔薇の花、 Hylas(イラス)はお前の眼を愛した事から死んだ、 僞善の花、 無言の花。

 

 蛋白石の薔薇の花、 おお、 女部屋の匂ひのなかに寢かされたトルコ皇后、 蛋白石の薔薇の花、 變らない愛撫のけだるさ、 お前の心は、 滿足した不德の深い平和を知つてゐる、 僞善の花、 無言の花。

 

 紫水晶の薔薇の花、 朝の星、 司敎の慈愛、 紫水晶の善薇の花、 お前は信心深い、 やはらかい胸の上に眠る、 聖母マリアに捧げた寶玉、 おお玉のやうな修道女、 僞善の花、 無言の花。

 

 濃紅色の薔薇の花、 羅馬(ローマ)敎會の血の色の薔薇の花、 濃紅色の薔薇の花、 お前は戀人の大きい眼を想ひ出させる、 彼女の靴下留めの結び目にひとりならずお前をさすだらう、 僞善の花、 無言の花。

 

 法王の薔薇の花、 世界を祝福する御手から水そそぐ薔薇の花、 法王の薔薇の花、 黃金のお前の心は銅のやうである、 空しい花冠の上に珠となる淚は、 それはクリストのおなげきである、 僞善の花、 無言の花。

 僞善の花。

 無言の花。

 

   *

二箇所の「少」(ちひ)「さい」の漢字表記はママ。

「シメール」は、初出の以下に出る。

   *

Rose bleue, rose iridine, monstre couleur des yeux de la Chimère, rose bleue, lève un peu tes paupières : as-tu peur qu'on te regarde, les yeux dans les yeux, Chimère, fleur hypocrite, fleur du silence !

   *

この「Chimère」は生物学の「キメラ細胞」(chimer:同一の個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態及びそうした生物個体)の語源であるギリシア神話に登場するハイブリッドの怪物キマイラ(Chimaira)のフランス語である(音写は「スィメール」)。

「女怪(シレーヌ)」も初出に出る。

   *

Rose verte, rose couleur de mer, ô nombril des sirènes, rose verte, gemme ondoyante et fabuleuse, tu n'es plus que de l'eau dès qu'un doigt t'a touchée, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

sirènes」はギリシア神話で同じみの歌声で船乗りを誘惑する人魚型妖怪「セイレン」。音写は「シレェーヌ」。

「桃花心木(アカジウ)」初出の以下。

   *

Rose brune, couleur des mornes acajous, rose brune, plaisirs permis, sagesse, prudence et prévoyance, tu nous regardes avec des yeux rogues, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

acajous」(アカジュゥ)はマホガニーのこと。高級家具材・楽器材として知られるムクロジ目センダン科マホガニー属 Swietenia は北アメリカのフロリダや西インド諸島原産で、心材は赤み掛かった色をしている。

「讓和」相手のことを思いやり、譲る気持ちがあれば、双方の利益が調和し、互いに幸せになることが出来る状態を指す。出雲大社に伝わる教えにある語だが、それを拓次は知っていて使ったものかどうかは判らぬ。

「鵠(はくてう)」平安以来の白鳥(はくちょう)の古名。「くひ」「くくひ」。広義の「白鳥」(鳥綱カモ目カモ科ハクチョウ属 Cygnus 或いは類似した白い鳥)の古名であるが、辞書によっては、ハクチョウ属コハクチョウ亜種コハクチョウ Cygnus columbianus bewickii ともする。本邦ならそれだが、初出は以下。

   *

Rose neigeuse, couleur de la neige et des plumes du cygne, rose neigeuse, tu sais que la neige est fragile et tu n'ouvres tes plumes de cygne qu'aux plus insignes, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

フランス語の「cygne」(スィーニャ)は、ここではまず、ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus cygnus であろう。

Hylas(イラス)」初版のここ。

   *

Rose hyaline, couleur des sources claires jaillies d'entre les herbes, rose hyaline. Hylas est mort d'avoir aimé tes yeux, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

Hylas」(ユーラス)はギリシア神話のヒュラース。ヘーラクレースに仕え、彼に愛された美少年。しかしヘーラクレースに従って黄金の羊を求めるための「アルゴ探検隊」に参加したものの、美しさ故に泉のニンフに攫われて失踪したとされる。

「蛋白石」「opale」(オパァル)で「オパール」のこと。初版の以下。

   *

Rose opale, ô sultane endorrnie dans l'odeur du harem, rose opale, langueur des constantes caresses, ton cœur connaît la paix profonde des vices satisfaits, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

この「トルコ皇后」は「sultane」(シュルタンナ)、トルコ語で「厳しく立ち入ることが管理された女性の居室」を言う「ハレム」で寝ているオスマン・トルコ皇帝の妻を指す。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「鯉龜」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]

 

 ○鯉龜  鯉龜《こひがめ》と云ふ爺さんは、本名を早川龜太郞と謂つて、もう六年程前に亡くなりましたが、ふだん魚を捕つたり、籠を慥《こしら》へたりしてゐました。無論百姓もしましたが、村の生砂神《うぶすながみ》の神主の代理もやつてゐました。屋敷の内へ池を造つて鯉を飼つてゐたので、鯉龜と云ふ渾名《あだな》がついたと聞きました。夏は無論のこと、冬、人の魚を餘り捕らぬ時に、大仕掛《おほじかけ》な事をして魚を捕つて行くので、他の村へ行くと、橫山のポンがきたと云はれたさうでした。此爺さんが一生の中《うち》に、一番大きいと思はれる魚を捕つたのは、長篠の水神下《すいじんした》と言ふ所で、夜網にかゝつた鱸《すずき》で、筵を縱に折つて包んでも、未だ頭と尻尾が出てゐたと云ふことでした。鳥の大きな奴は、熊鷹《くまたか》の大きいのを見た事があるが、何分空を高く飛んでゐるので、判然《はつきり》とは言へないが、其あとに隨つてゆく、澤山の鳥や鳶《とび》が普通の鳶と小雀位の比較に見えたと云ひました。二囘許り宙を𢌞つて北の方へ飛んで行つたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「村の生砂神」既出既注

「ポン」前回で既出既注。

「長篠の水神下」現在の愛知県新城市能登瀬壱輪(のとせひとわ)にある水神宮(白岩温泉)の宇連川(うれがわ)の下流であろう(グーグル・マップ・データ)。この附近は「ひなたGPSの戦前に地図を見ると、広域の「長篠村」であったことが判る。

「鱸」鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。この場所は、豊川を下って実に五十キロメートルも上流の山間であるが、スズキはいる。多くの海水魚が、分類学上、スズキ目 Perciformes に属することから、スズキを海水魚と思っている方が多いが、海水域も純淡水域も全く自由に回遊するので、スズキは淡水魚であると言った方がよりよいと私は考えている。海水魚とする記載も多く見かけるが、では、同じくライフ・サイクルに於いて、海に下って稚魚が海水・汽水域で生まれて川に戻る種群を海水魚とは言わないし、海水魚図鑑にも載らないウナギ・アユ・サケ(サケが成魚として甚だしく大きくなるのは総て海でであり、後に産卵のために母川回帰する)を考えれば、この謂いは、やはり、おかしいことが判る。但し、生物学的に産卵と発生が純淡水ではなく、海水・汽水で行われる魚類を淡水魚とする考え方も根強いため、誤りとは言えない。というより、淡水魚・海水魚という分類は既に古典的分類学に属するもので、将来的には何か別な分類呼称を用意すべきであるように私には思われる。私の「大和本草卷之十三 魚之上 河鱸 (スズキ)」も参照されたい。

「熊鷹」タカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalis。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)」を見られたいが、全長は♂で約七十五センチメートル、♀で約八十センチメートル。翼開長は約一メートル六十センチメートルから一メートル七十センチメートルに達し、本邦に分布するタカ科の構成種では、大型であることが、和名の由来(熊=「大きく強い」の意)である。

「鳶」タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus。タカ科の中では比較的大型であり、全長は六十~六十五センチメートルほどで、ここに出るカラスより一回りは大きい。翼開長は一メートル五十から一メートル六十センチメートルほどになるから、よほど、このクマタカは大物であったことが判る。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「昔を語る老爺」・「一本足の男」・「水潜りの名人」・「ポン」・「犬をつれて山にゐる男」・「山小屋へ鹽を無心に來た女」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。

 ここには近代に残っていた世間との関係を基本的には絶って、山中に棲んでいた山の民たちをリアルに描いていて、非常に興味深い。]

 

 ○昔を語る老爺  字瀧川《たきがは》の瀧川兼松という老爺は、七年前に亡くなりましたが、記臆のよい男で、一度聞いた事は必ず忘れぬと云ふ程で、瀧川と橫山の昔の事は、どんな事でも知らぬ事はなかつたさうで、酒が好きなので、酒を呑ませると、樂しさうに昔の事を諄々《じゆんじゆん》と話して聞かせたと云ふことです。家が貧しくて、悲慘な最後を遂げたと云ふ事ですが、此老人に、一度ゆつくり遇つて、話を聞く機會のなかつた事を殊に殘念に思ひます。

 記臆が確かと思つた事は、日露戰爭の始まつた當時、露西亞の内地から石伯利《シベリア》地方の地名や、又人名などを、明瞭に暗誦してゐるのに、子供心に驚いた事がありました。

[やぶちゃん注:「瀧川」横山の北部分の寒狹川の対岸の字名。グーグル・マップ・データではここであるが、「ひなたGPS」で戦前は「瀧川」と表記したことが判る。]

 

 ○一本足の男  村の者が山雀(やまがら)と呼んでゐた爺さんは、一本足に下駄を履いて、釣竿と魚籠《びく》を持つて、前の寒狹川に釣りをしてゐました。

 岩から岩を、山雀が撞木《しゆもく》を渡るやうな格好で飛んで步くので、山雀と云ふ名前があるとも云ひました。夏は餘り見かけた事を聞きませんが、冬の寒い日にはよく見かけました。今其處《そこ》にゐたと思つたら、もう五六町も川上で見たなどと云ひました。親しく口を聞いたことも聞きません。又里の道を步いてゐるのを見掛た事も聞きません。川に沿つて、何處かへ行つたやうです。久しぶりに今日は山雀を見たなどと云つてから、もう來なくなりました。

[やぶちゃん注:横山の村人と一切の交流を持たず、村落内の道も歩かないこの爺さん、片目も不自由だったら、これはまさに現実の「一本だたら」ではないか!(妖怪のそれは当該ウィキを参照)

「山雀」ここは人の綽名であるが、鳥類のそれのタイプ種はスズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ亜種ヤマガラ Parus varius variusである。詳しくは、博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 山雀(やまがら) (ヤマガラ)」を参照されたい。]

 

 ○水潜りの名人  シヨウビン(翡翠《かはせみ》のこと)と呼ぶ爺さんは水潜りの名人で、村で溺死人の死體が見つからぬ時は、最後は必ず此爺さんが賴まれて來ました。水底に潜つて行つて、三十分間位は浮んで來なかつたさうです。其間に川底で二囘呼吸をするとも謂ひました。何處の者とも判らず、村に近く、何處かしらに遊んでゐたものださうですが、三四年前村に身投げ女があつて其死體の知れなかつた時、村の者が段々尋ねて岡崎迄行つて聞くと、十年程も前に死んでしまつたと謂ふ事でした。

 シヨウビンは、ポンだと云ふ人もありました。

[やぶちゃん注:「シヨウビン(翡翠のこと)」ここに出るのは、早川氏の「翡翠」への言い換えからみて、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis としてよいだろう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を見られたい。「しょうびん」は古語の「そに(青土)」(広義の美しい羽色)が「そび」となり、而して「しようび」→「しょうびん」と変じたものとされ、「かはせみ」の「せみ」は、同じ「そに」が「しよに」となり、以下、「そな」→「せな」→「せみ」と転訛したものとされている。但し、現在の標準和名ではカワセミ科ショウビン亜科ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromanda などに使用されている。本邦で普通に見られる(但し、なななか見られないが)カワセミ類は、カワセミ科ヤマセミ亜科ヤマセミ属ヤマセミ Megaceryle lugubris の以上、三種のみである。]

 

 ○ポン  夏から秋にかけて、ポンが前の寒狹川の河原に來て、幾組も天幕を張つてゐました。又これをポンスケとも謂ひました。日が暮れてから急に雨が劇しく降つて來て、河の水が大變增へたから、ポンの天幕はどうしたらうなどゝ云つて、行つて見ると、もう何處へ行つたのか、影も形も見えませんでした。男は每日魚や龜を捕り、女はヤス(笟)を賣つて步いたり、乞食をして步いたりしてゐました。

 ポンが來ると、私たちが散々荒らしてしまつて、鰻など一ツだつてゐないと思ふやうな、小さな流れから、幾つでも鰻を捕へました。鰻の穴を探すにも、眼で見ないで手で探るやうでしたが、針を穴に入れてやつたと思ふとすぐさげ出しました。

 一年每に減つて行つて、近來では、天幕を張つてゐるのを更に見かけなくなつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「ポン」所謂、「さんか(山窩)」の異名。「ブリタニカ国際大百科事典」から引くと、定住することなく、山間水辺に漂泊生活をした日本の漂泊民の差別呼称で、九州以東から関東にかけて居住していた。「セブリ」と呼ばれるテント又は仮小屋に住みながら、移動生活をおくり、男はスッポン・ウナギなどの川魚の漁獲をし、女は箕(み)・笊(ざる)・籠(かご)などの竹細工製造を生業とした。嘗つては「オゲ」「ノアイ」「カンジン」「ポンス」或いは「河原乞食」などと蔑称された。「山窩」の称も、その由来は明らかではないが,前身が中世の傀儡師(かいらいし/くぐつし) であるとする説が有力である。人口も調査困難のため、明確にされておらず。昭和二四(一九四九)年九月の「全日本箕作製作者組合」結成時には約一万 四千人とされたが、実数はこれを上回ったと考えられる、とある。敗戦後には急速に姿を消した。]

 

 ○犬をつれて山にゐる男  村の者から犬乞食と呼ばれてゐた男は、小さな犬を幾つも連れて步いてゐましたが、人の門に立つて乞食をしたことは聞きません。或日此男が山から出て來たのを見て、鈴木智惠松と云ふ男が、何の爲めに犬を連れてゐるのかと聞いたら、寒い晚に蒲團の代りにすると答へたさうです。瘦せ型の背の高い男で、眼白(めじろ)や山雀(やまがら)などを一ツの籠に澤山入れて提げてゆくのを見たなどゝ謂ひました。しばらく犬乞食を見ないなどゝ云ふと、ひよつこり山道を步くのを見たとも云ひました。

 近來《ちかごろ》は、滅多に見なくなつたと謂ひますが、二三年前立派な服裝をして、豐橋の町を通つたのが、犬乞食に違ひなかつたと謂ふやうな話を聞きました。

[やぶちゃん注:「眼白」スズメ目メジロ科メジロ属メジロ Zosterops japonicus であるが、本邦で見られるのは五亜種。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 眼白鳥(めじろどり) (メジロ)」を参照されたい。]

 

 ○山小屋へ鹽を無心に來た女  出澤村《すざはむら》の鈴木戶作と云ふ男の話でしたが、或時北設樂郡の山小屋で仕事をしてゐる處へ、木の葉などを綴り合せたボロボロの着物を着た女が、鹽を無心に來たから、何處の者だと聞くと、紀州だと答へたさうです。

 又或る男は同じやうな姿をした坊主が、鹽を無心に來たのに出遇つたと謂ひました。

[やぶちゃん注:「出澤村」現在の新城市出沢(すざわ:グーグル・マップ・データ航空写真)。横山の中央部の寒狹川を隔てた右岸で殆どが山間である。

「北設樂郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたいが、横山地区の北部一帯と考えてよい。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「五十里を一日に步いた男」・「無い物無しの店」・「日本三家」・「俵に入れたヒヨーソク(秉燭)」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○五十里を一日に步いた男  長篠村字内金《うちがね》の久保屋と云ふ家は今もありますが、此家の先代の主人は、體格も特に勝れてゐたさうで、道を步くのが殊に早く、商用で、長篠から名古屋へ二十五里の道を、一日に往復したと云ひます。その當時を記憶してゐる者の話に、三度笠を胸にあて、其笠が下に落ちない位の早さに步いたと云ひます。此人には種々變つた話があつて、次のやうな事も此人の代の事ださうです。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、この久保屋(望月家)についての詳しい注が載り、関連写真が四葉載るので、是非、見られたい。その説明の『現在は JR 飯田線と国道 151 号線が久保屋の敷地を貫通して』(☜)おり、『右は旧国道、その先が施所橋・左手は飯田線がある』。『現在残っている土地だけでもかなり広い。往時はこの付近一帯は全て久保屋の土地だったとのこと』とあることと、そこに載る写真から、この元の「久保屋」望月氏の敷地は、現在の愛知県新城市長篠施所橋(ながしのせしょばし)と新城市長篠段子(ながしのだんこ)を含むこの中央附近であったと推定される(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。

「内金」「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、ここは以前は内金(村)の内にあったらしいことが推定出来る。現在の新城市長篠内金は、まさに上記二地区の間の東北に貫入する形であるのである。

「二十五里の道を、一日に往復した」五十里は百九十六・三六三キロメートルで、単純計算(二十四で割る)だと実に時速八・一八キロメートルとなる。]

 

 ○無い物無しの店  この家は萬《よろづ》雜貨商で、主としては米の賣買をやつてゐたさうですが何《いかなる》品に依らず、お客から尋ねられて、無いと云ふ事が嫌い[やぶちゃん注:ママ。]だとあつて、如何なる品でも無いのものはなかつたと云ひます。

 それについての話ですが、或時近くの作手《つくで》村で、太神樂《だいかぐら》の獅子の面や其他の付屬品が入用とあつて、村の總代の者が、遙々名古屋から大阪まで尋ね𢌞つた所が、そんな物の出來合は無いと斷はられて、歸途再び名古屋の商人の許に立寄ると、もしや長篠の久保屋と云ふ家には持合せがあるかも知れないが、若《もし》一[やぶちゃん注:ママ。「し」の誤植かと思ったが、後の『日本民俗誌大系』版では、「万一」となっている。]其處に無ければ、例へ江戶迄尋ねてもないと敎ゑられ[やぶちゃん注:ママ。]、半信半疑で歸つて來て、久保屋を尋ねると、幾組御入用かと訊かれて、面喰つたと云ふ事です。事實此家には三組迄揃つてあつたと云ひます。[やぶちゃん注:この話は「江戶」と出るから、江戸後末期のことらしい。]

  村の者などが買物に行つても、品物は一ツ宛藏から出して來て見せ、これでは少し小さいなどゝ云はうものなら、度外れた大きな物を出して來て困らせたさうです。ある時、夕立に遇つた男が、傘を買ひに飛込んで行つて、出して來た傘を見て、今少し大きい奴が欲しいと云つたため、直徑が二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]もある大傘を出して來たので、困つてしまつて、これはまた少し過ぎると云ふと、そんな勝手を言ふ人には賣りませんと云はれて閉口したと云ふ話があります。傘に限らず、何でも度外れた大きな物から豆のやうに小さい物迄悉く用意してあつて、奉公人が又此主人の變つた氣象をよく受けてゐたさうです。

[やぶちゃん注:「作手村」旧村域は、このポイント部を大きく含む「作手~」と地名がつく広域。]

 

 ○日本三家  この家が又圖拔けて大きな建物で、矢張其當時の主人が建てたものださうですが、村の者が、日本に三つの大きな家があると謂つて、日本三家の一ツだなどと云つてゐました。屋根の鬼瓦の高さが九尺あつて、これを屋根へ載せた時は、二尺角の欅《けやき》の柱が曲がつたなどと云ひました。此鬼瓦が、川を隔て、八名郡の小川村の、菅沼と云ふ家の鬼瓦と瞰合《みあ》つてゐて、菅沼家の鬼瓦が負けて其家は絕えず病人が出來て、遂に沒落したなどゝ云ふ話もありました。

 この人は長篠から、北設樂郡の川合へ通ずる四里の道路を、獨力で開拓したと云ふ事です。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、この豪壮な家について、『久保屋は屋号で苗字は望月と言います。長篠望月の本家は望月清重さん宅で、久保屋は九代(約 270 年)』(元文(一七三六年~一七四一年前後。徳川吉宗の治世)年間頃)『ほど前に分家したとのことです。こんな田舎に何故そんな大きな家があったのかと不思議に思って尋ねたところ、この辺りは明治の中ごろまで、豊川を舟で運ばれてきた物資がここで陸揚げされ、伊那街道を通り飯田へと向かう物流の拠点であったそうです。久保屋は言わばミニ廻船問屋だったのです』とあり、ここで語られてある望月家(久保屋)の「一の蔵の鬼瓦」の現存品の写真もある。]

 

 ○俵に入れたヒヨーソク(秉燭)  先代の沒後、現今の主人が家政を整理した時、藏に幾十年となく納めてあった品を殆ど賣拂つたと云ひますが、今日は瀨戶物、明日は傘の日と云ふ具合に、一つの品物を朝から晚まで賣つたと云ひます。酒樽などは、同じやうな樽を、三日も續けてつ糶たと云ふことでした。[やぶちゃん注:「つ糶た」はママ。これは誤植で「糶つた」で「糶」(音「チョウ」)は「競売・せり」の意であるから、「うつた」「せりうつた」であろうと思ったが、後の『日本民俗誌大系』版では、「糶(せ)った」となっていた。]

 數年前私が此家を訪ねた時、店に(現今の店は、昔の物置と云ふ事です)昔女が髮油の容器に用いた陶製の油壺が、ずつと五十程も埃に埋れて並んでゐるのを見て、珍らしいと言ふと未だ藏にもありますと言つて、見せて吳れましたが、俵に入れて昔のまゝになつてゐて、傍《かたはら》に、燈明に使う秉燭が、これも俵に入れて三俵程ありました。

 六七年前現在の主人が縣會議員の候補に立つた時の話に、投票の前日運動員に出した提灯が、何百張となく全部同じ形で、それが又同じ時代に張替へたらしい古さであつたと謂ひました。此提灯が、相手方を壓迫して勝利を獲たなどと云ひました。

[やぶちゃん注:「ヒヨーソク(秉燭)」「秉燭」(歴史的仮名遣は「ひやうそく」。「ひやう(ひょう)」も「そく」もともに呉音。現代仮名遣「ひょうそく」)は「秉燭」(へいしよく(へいしょく))とも呼ぶ(但し、「へいしょく」の場合は、「火の灯し頃」で、「夕方」の時刻を意味する場合もある)。灯火器具の一つ。油皿の中央に臍(ほぞ)のようなものがあるものや、皿の一部を片口にするものなど、様々なものがあるが、それに灯心を立てて点火する多様なものを広く指す。単独で使う場合もあるが、行灯のように内部に油皿を置き、これに菜種油などの植物性油を溜め、灯心を入れて点火する。この灯心を皿の中央に立てるように工夫したものも、「秉燭」(ひょうそく)と呼ぶ。これは、普通の油皿よりも火持ちがよく、しかも、油が皿裏に廻ることもないので、多くは掛行灯などに使用された。「タンコロ」とも呼んだ(HIMOROGI文化財Wiki」の当該項に拠った。写真が三葉ある。「秉燭」のグーグル画像検索もリンクさせておく)。「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)にも写真と丁寧な解説があるので、見られたい。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 赤穗郡高田の鄕石に小鷹の形有事 / 「西播怪談實記」電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、底本には、最後の部分(「立寄(たちより)て、一見(いつけん)せしまゝ、」以下)の影印画像があるが、特に必要を感じないので、画像としては載せなかった。但し、電子化では底本の活字に拠らず、その画像を元に字の大きさや位置を再現した。

 途中で底本が変わるハプニングがあったが、以上を以って、「西播怪談實記」の電子化注を終わる。]

 

 ○赤穗郡(あかほごほり)高田(たかだ)の鄕(ごう)石(いし)に小鷹(こたか)の形(かたち)有(ある)事

 赤穗郡高田の鄕に、石、在(あり)。道の、少(ちと)、上なり。但(ただし)、西國(さいこく)の順路には、あらず。佐用郡(さよごほり)より、赤穗郡加里屋(かりや)へ行(ゆく)路(みち)なり。

 

Kotaka

 

 此石に、小鷹の形、あり。架(ほこ)にすはりて居(い)る形にして、足組(へを)等(とう)あり。

 則(すなはち)、其所(そのところ)を「小鷹」といへり。

 天和(てんわ)の比(ころ)とかや、淺野内匠頭殿、刈屋(かりや)の御城主たりし時、石工(いしや)に仰付(おほせつけ)られ、彼(かの)小鷹の石を、切(きり)とらせ給ひ、御前栽(ごせんざい)へ、移(うつさ)れし、とや。

 然(しかる)に、幾程(いくほど)なくて、御庭(おんには)の鷹の形は、消失(きへうせ)て、こなたの石の切口(きりくち)に、又、元のごとく、形、あらはれたり。不思議といふも、おろかなり。

 以前は、小鷹の形、ありありと、みへて、直庵(ちよくあん)が筆跡も及ばれぬ勢(いきほひ)なりしが、近年(きんねん)は、少(ちと)、苔、生(をい)て、間近く寄(よら)ざれば、さだかには、見へず、とかや。

 彼邊(かのへん)、往來の人は立寄(たちより)て見るべし。

 予も、先年、其邊へ、まかりしかば、立寄(たちより)て、一見(いつけん)せしまゝ、其趣《そのもむき》を書《かき》つたふもの也。

 西播怪談實記 四

    以上前編終 後編跡より出申候

      播陽佐用住

       春名忠成集錄 

  寶曆四年申戌仲秋吉

     書 肆 定栄堂藏

 

[やぶちゃん注:「赤穗郡高田の鄕」「Geoshapeリポジトリ」の「兵庫県赤穂郡高田村」で旧村域が確認出来る。現在の兵庫県赤穂(あこう)郡上郡町(かみごおりちょう)高田台(たかただい)周辺まで限定出来るか(グーグル・マップ・データ)。但し、「小鷹の石」は現存しないようである。

「架(ほこ)」この一字で「たかほこ」とも読む。「鷹槊」。鷹狩の鷹をとまらせておく木。春は梅、夏は樫、秋は檜、冬は松を用いる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「足組(へを)」「攣」「綜緒」と書く。現代仮名遣では「へお」。鷹の足に附ける紐。鷹狩の際、鷹を飛ばせるまで、足に結びつけておく紐。足緒(同前)。

「赤穗郡加里屋」「苅屋」現在の赤穂城跡の近くに分布する「加里屋」「上仮屋南」「上仮屋北」「加里屋中州」等の広域地区であろう。

「天和(てんわ)」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。而して後の「淺野内匠頭殿」は、かの「赤穂事件」の浅野長矩である。当該ウィキから当該年代の部分を引いておく。天和元(一六八一)年三月、『幕府より江戸神田橋御番を拝命』し、翌年三月には、『幕府より朝鮮通信使饗応役の』一『人に選ばれ、長矩は、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを』八月九日に『伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した』。天和三年二月には、『霊元天皇の勅使として江戸に下向予定の花山院定誠』(かさんのいんさだのぶ)『・千種有能』(ちくさありよし)『の饗応役を拝命し』、三『月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。このとき』、『高家・吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。なお』、『この際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主・土方雄豊であった。雄豊の娘は後に長矩の弟・浅野長広と結婚している。この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる』。『勅使饗応役のお役目が終わった直後の』五『月に阿久里と正式に結婚。また』、『この結婚と前後する』五月には、『家老・大石良重(大石良雄の大叔父、また浅野家の親族)が江戸で死去している。大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し』、二『人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である』。『しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。長矩は依然』、『数え年で』十七『歳』『であり、国許の大石良雄も』、『すでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で』二十五『歳にすぎない。したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣・大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる』。『この年の』六月二十三日(八月十五日)に、初めて(☜)『所領の赤穂に入り、大石良雄以下』、『国許の家臣達と対面した。以降、参勤交代で』一『年交代に江戸と赤穂を行き来する』こととなった。同年(一六八四)年八月二十八日、『又従兄の稲葉正休』(まさやす)『が江戸城にて、堀田正俊に刃傷に及ぶ。正休はその場にて老中らに斬殺される。長矩、遠慮の儀を老中・戸田忠昌へ伺ったところ「然るべき」との指図あり出仕遠慮した』とある。これから考えると、本話柄が事実であるなら、教義に限定するならば、天和三年六月二十三日から天和四年二月二十一日(グレゴリオ暦一六八四年四月五日)の貞享への改元までの、赤穂在城の折りに限定出来ることになる。

「直庵」安土桃山から江戸初期にかけての絵師曽我直庵(?~慶長年間(一五九六年~一六一五年)没)のことか。当該ウィキによれば、『狩野永徳、長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人であるが、その画力に比べて史料が少なく、謎が多い絵師である』。『生い立ちや経歴は不明だが、作品の年記や着賛者の在世年代によって』、十六『世紀後期から』十七『世紀初頭に「蛇足六世」を名乗って堺で活躍した』。『水墨画や漢画の手法を取り入れた豪快な筆致で、鷹図などの鷙鳥画や花鳥画に優れた作品を残した』。『曽我二直菴は息子か、少なくとも直庵の画系を継いだことは間違いない。他に弟子とされる画人に、田村直翁がいる』とある。彼は多くの架鷹図(かようず)を描いている。但し、曽我二直菴(?~ 明暦二(一六五六)年以降没)は直庵から印章を継承しており、「直庵」と記すこともあった(法号も「直庵順蠅」)し、師と同じく架鷹図も書いているので彼を候補の一人とはなろう。

「後編跡より出申候」底本の「近世民間異聞怪談集成」の北条伸子氏の「解題」を見ると、本「西播怪談實記」は、同書底本の『五冊本を含め、五種の版が存在する。刊年未詳の四冊本は、五冊本の同版刷本である。また続編『世説麒麟談』四冊を加えて八冊本とするものもある』とある。調べると、「世説麒麟談」は「せせつきりんだん」と読み、宝暦一一(一七六一)年に板行されており、同じ春名忠成の作である。「国文学研究資料館」の「国書データベース」のこちらで、その「世説麒麟談」の巻三を視認出来る。ざっと見るに、文章の書き方(特に各章末部の決まり文句の評言)等も確かに正編に一致している。

「寶曆四年申戌仲秋」「仲秋」は陰暦「八月」で、グレゴリオ暦では一七五四年九月十七日から十月十五日に当たる。

「書 肆 定栄堂」大坂・定栄堂。主人は吉文字屋市兵衛。]

2023/03/13

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 城の山唐猫谷にて山猫を見し事附リ越部の庄といへる古跡の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○城(き)の山(やま)唐猫谷(からねこだに)にて山猫を見し事附越部(こしべ)の庄(せう)といへる古跡(こせき)の事

 佐用郡佐用村の大工に三大夫といひしもの、在(あり)。其業(わざ)に委(くはしく)して、名を、近鄕にしられけり。

 享保年中の事なりしに、龍野御城下(たつのごじやうか)の近在に、恩德寺といへる靈地あり。此普請を請合(うけあひ)て滯留す。

 折しも、三月三日、休日なれば、中間(なかま)の大工、近所の者共、七、八人、誘合(さそいあい)て、

「『城(き)の山(やま)』を、見物せん。」

とて、出立(いでたち)けり。

 是(これ)は建弘の比(ころ)、赤松黨、暫(しばし)、楯籠(たてこもり)し陣所(ぢんしよ)にして、今に、其跡、現然たり。

 元來(もとより)、山、嶮岨(けんそ)にして、殊更、「魔所」といひ傳へぬれば、往(ゆく)人、希(まれ)なり。

 觜崎(はしさき)の船渡(ふねわたし)より、西に當れる山、則(すなはち)、「城の山」なり。後(うしろ)の方(かた)は、岩石、峨々(がゝ)と嶙(そびへ)て、鳥ならでは、かよふべくもなく、物すごき所也。

 爰に「唐猫谷」とて、岩と岩との間、谷、切(きれ)て、數十丈、諸木、兩方より生茂(はへしげり)て、中(なか)は見へず、たゞ、谷の面影のみ、見ゆる。

 右、連中にて、三大夫、人に先立(さきだち)て、彼(かの)唐猫谷の頭(かしら)にいたるに、猫、一つ、岩の上に居《ゐ》たり。

 三大夫、

「里遠き深山(しんざん)に、猫の居《を》る事、不思議なり。」

と、見ゐたるに、跡より、來(き)つどふ人音(ひとおと)に、谷へ、入《いり》て、失(うせ)ぬ。

 其容(そのかたち)、世の常にして、少(ちと)、大(おほき)く、尾は、長く垂(たれ)たり。

 尤(もつとも)、瘦(やせ)ては見へしかど、目の光、甚(はなはだ)、强し。

 三大夫、跡よりの面々に、

「しかじか。」

のよしを語れば、

「是、必(かならず)、山猫なるべし。」

と恐(おそれ)あへりけり。

 かくて、荒々(あらあら)見物して、麓に下(をり)て、棵子(わりご)・小竹筒(さゝゑ)抔(など)つかふて、越部の古跡に詣でつゝ、暮方に恩德寺に歸(かへり)て、住持の僧に、猫の次第を語るに、住持の曰、

「昔より、『唐猫谷に、猫、居る。』と、いひ傳ヘぬれど、常に往還(わうへん[やぶちゃん注:ママ。])する人もなく、適々(たまたま)、見物に行(ゆく)人ありても、猫を見る人は、なし。されば、彼(かの)谷を『唐猫谷』といふ事、猫の居るゆへに名附(なづけ)しか。又は、古來の名にして、自然(しぜん)と猫の住(すみ)けるにや。其來由(そのらいゆ)を、しらず。」

となん、咄(はなせ)しとかや。

 三大夫、歸て、予に物語の趣を書傳ふもの也。

 爰(こゝ)に越部の庄は、揖西郡(いつさいごほり)にして、則(すなはち)、「城の山」の麓なり。此(この)御墓所(おんはかしよ)は、「市(いち)の保(ほ)村」といへる所にして、村翁(そんをう)、語(かたり)つたヘしは、「俊成卿(しゆんぜいきやう)の墓」共《とも》いひ、又は、「阿佛(あぶつ)の墓」とも、いへりしに、寬延三年三月、觜崎村、石井氏何某(いしいうぢなにがし)、上京の折から、禁裏御築地(おんついぢ)の邊(へん)、徘徊して、上冷泉家(かみれいぜいけ)の家司(けし)に近付(ちかづき)、

「播州越部の者。」

のよしを語(かたり)、御墓所の事を演說(ゑんぜつ)せしかば、右の家司、卽(すなはち)、中納言家へ申達(《まをし》たつ)しけるよしにて、爲村卿(ためむらきやう)、直(すぐ)に御對面有(あり)て、委(くはし)く御尋(おんたづね)なされけるに、御家(おんいへ)の御記錄に、ひしと、合申(あい《まをす》)に付《つき》、家司安藤喜内(あんどうきない)をもて、念比(ねんごろ)に御饗應なされ、御香奠(ごかうでん)とも、下され、御染筆(ごしんひつ[やぶちゃん注:ママ。])を下(くだ)し給ふ。

 

  花のゝちみやこをすみうかれて

  野中の淸水をすくとて

   皇太后宮大夫俊成女(こうたいごうぐうたゆふしゆんぜいのむすめ)

 わすらるゝもとの心のありがほに

     野中のし水かげをだに見じ

 

 又、安藤喜内より、書記(しよき)して、わたさるゝは、

 

越部禪尼(こしべのぜんに) 五條三位俊成卿御女(ごじやうのさんい[やぶちゃん注:ママ。]しゆんぜいきやうおんむすめ) 京極中納言定家卿御妹(きやうごくちうなごんていかおんいもと)也(なり) 官女(くわんぢよ)ニテ八條院三條(はちでうのいんのさんでう)申(まをす) 出家後(しゆつけのゝち) 住越部(こしべにすむ) 仍(よつて)申越部之禪尼(こしべのぜんにとまをす) 御忌日(ごきにち) 二月六日 件(くだん)の御墓前(おんはかしよ[やぶちゃん注:ママ。])は驛路(ゑきろ)よりは南西(みなみにし)の山際(やまぎは)にして 觜崎(はしざき)の宿(しゆく)と平野村(ひらのむら)の間(あいだ)なり

 

[やぶちゃん注:最後の「御染筆」と「書記」されたものは、底本では二つとも、全体が二字下げであるが、ブラウザでの不具合を考えて、引き上げてある。和歌の前書・作者・和歌も改行を加えた。句読点は原書を想定して、字空けとした。この二種は特異的に読みを総て附した。特に二箇所は前後を空けた。

「城(き)の山(やま)」第一巻の「新宮水谷何某化物に逢し事」で既出既注であるが、再掲する(地図リンクの位置を少し変えた)。たつの市新宮町(しんぐうちょう)の南にある城山城跡(きのやまじょうせき)のある山サイト「西播磨遊記」の「城山城跡」に、『播磨の守護職赤松満祐が時の将軍、足利義教を京の自邸で殺害した「嘉吉の乱」』(一四四一年)『の舞台』で、『京都から播磨に引き揚げた満祐は、山名持豊(宗全)等の率いる二万の追討軍を迎えて各地に戦った末、ここを最後の拠点とし』た『が、遂に戦況の挽回はならず、満祐以下』五百『余名は』、『この山城で非業の最後を遂げ』たとある。また、『山頂の供養塔付近から約』百メートル『ほど行くと、神話の伝説を持つ亀の池があ』るともあった。思うに、最初のリンクを見られたいが、如何なる伝説かは判らなかったが、「亀岩」・「亀の池」へ向かうピークに「亀山(きのやま)」があり、これが元の「きのやま」であったものを、後に城が建ったことから「城」にも代替させたものであろう。

「唐猫谷(からねこだに)」兵庫県立歴史博物館公式サイト内の「ひょうご伝説紀行―妖怪と自然の世界―」の「近世西播磨の怪談」の本書の紹介記事の中に、「城山城跡搦手への登山口 (唐猫谷)」とキャプションする写真があるのだが、この写真位置が判らなかった。しかし、しみけん氏のブログ「播磨の山々」の「兵庫県たつの市の城山城(きのやまじょう)跡縦走」に載る、地図に「唐猫谷」の記載があり、そこは「亀山」のずっと北の新宮町市之保(いちのほ:後に出る「市(いち)の保(ほ)村」である)から入る、この附近の谷(グーグル・マップ・データ航空写真)であることが判明した。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「龍野御城」現在のここに龍野城跡がある(グーグル・マップ・データ)。

「恩德寺」現在のここに同名の浄土宗の寺があるが、ここか(グーグル・マップ・データ)。

「建弘」不審。こんな元号は本邦にはない。私年号にもない。似たものも、赤松党の時代にないので、何を誤認したものかも判らない。

「觜崎(はしさき)の船渡(ふねわたし)」新宮町觜崎の南端に「觜崎宿と寝釈迦の渡し」という史跡があるが(グーグル・マップ・データ)、ここであろう。

『「俊成卿(しゆんぜいきやう)の墓」共《とも》いひ、又は、「阿佛(あぶつ)の墓」とも、いへりし』これは、現在、「てんかさま(越部禅尼の墓)」として、グーグル・マップ・データにポイントされてあるものである。サイド・パネルで説明板が読め、「たつの市」公式サイト内の「市内の指定・登録文化財」の「てんかさん」に、『新宮町市野保(いちのほ)にある祠(ほこら)で』、「千載和歌集」の『選者である藤原俊成(ふじわらのとしなり・しゅんぜい)の孫娘』(☜)『にして』、「新古今和歌集」の『選者である藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)の姪、越部禅尼(こしべぜんに)の墓と伝えられ、禅尼は越部でその生涯を終えたとされている』。『祠には鎌倉時代後期と思われる阿弥陀如来(あみだにょらい)の石仏が納められ、人々の信仰を集めている』とある。トンデモ・レベルだが、俊成の墓とか、同時代の阿仏尼の墓という誤認伝承も、まあ、後注に示すように、誤認が誤認を生んだとして、判らぬではない。

「寬延三年」一七四八年から一七五一年まで。徳川家重の治世。

「上冷泉家」原型である冷泉家は藤原定家三男であった大納言藤原為家の四男の、権中納言冷泉為相(母は阿仏尼)を祖とする。この辺りの公家の話には興味が湧かない。ウィキの「冷泉家」をリンクさせるに留める。

「播州越部の者。」

「中納言家」「爲村卿(ためむらきやう)」不詳。第十三代下冷泉家の当主に冷泉為栄(ためひで)、第十四代冷泉為訓(ためさと)がいるが、このどちらかであろう。前者は最終官位が權中納言、後者は大納言。「村」と誤りそうなのは後者か。

「安藤喜内」不詳。あんまり調べる気も起らぬ。

「うかれて」「憂かれて」であろう。「いやになって」。

「すく」「好く」。

「わすらるゝもとの心のありがほに野中のし水かげをだに見じ」この歌、不詳。

「平野村」現在の新宮町平野(グーグル・マップ・データ)。市之保の北直近。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 眞盛村山伏母が亡靈によつて狂し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○眞盛村(まさもりむら)山伏(やまぶし)母(はゝ)が亡靈によつて狂(くるい)し事

 佐用郡眞盛村に大行院(だいぎやういん)といへる山伏、在(あり)。

 母は遠州濱松の產なり。

 享保年中の事なりしに、大行院、所用に付(つき)、作州へ行(ゆき)けるが、其跡にて、母、急病によつて、死去す。

 近所に一家(いつけ)もなく、元來(ぐはんらい)、貧しきものなれば、村中、寄合(よりあひ)て、死骸を莚(むしろ)に包(つゝみ)て、後(うしろ)の山際に堀埋(ほりうづみ)けり[やぶちゃん注:「堀」はママ。]。

 葬禮の儀式、引導の僧もなく、湯灌(ゆくはん)さへ、せざれば、聞(きく)人、あはれに思ひけり。

 然所(しかるところ)に、山伏も、ほどなく歸宅して、急死の容須(ようす)[やぶちゃん注:ママ。]、幷(ならびに)、其儘、埋(うづみ)し事をきゝて、歎悲(なげきなか)しみけれども、再葬(さいそう)にも及《およば》ず、打過《うちすぎ》ける。

 其比(そのころ)、佐用、笠屋喜右衞門といふもの、山脇(やまわき)村、慈山寺(じさん《じ》)へ【山脇と眞盛と、相隔《あひへだつ》る事、三町。】、張物細工に行《ゆき》て滯留(たいりう)し、玄關に臥居(ふしい)たりけるに、夜半の比、玄關の前より、

「申《まを》、申、」

といふ聲、鹽(しほ)から聲(こゑ)にて、

『いかなるものにや。』

と、戶の内より、

「誰(た)そ。」

と問(とへ)ば、

「生國(せうこく)は遠州濱松のものなるが、いかに、我子(わがこ)の留守なればとて、『ゆくはん』もせず、貧敷(まづしき)身なれば、『葬送の儀式』とは、おもはねども、せめて、御經(おんきやう)の一ツ卷(くわん)も、讀誦して下されかし。犬猫を埋(うづみ)たるやうなる事、近比、口惜(くちをし)。是《これ》を、お賴申(たのみ《まをし》)たく、參《まゐり》たり。」

といふ。

 喜右衞門、住持の寢間へ行(ゆき)て、

「しかじか。」

の樣子を、いへば、

「不便(ふびん)なる事なり。」

とて、起出(をきいで)て見れば、山伏なり。

 かゝる所へ、大勢の聲にて、どさめき[やぶちゃん注:「どよめき」の原本の誤記であろう。但し、ママ注記は底本にはない。]來(く)るを見れば、眞盛村のものにて、住持に、いふやう、

「大行院、今日(こんにち)、歸(かへり)しが、晚方(ばんかた)より、狂氣の如(ごとく)になり、口ばしる樣子、『母が死靈』と存(ぞんじ)、銘々(めいめい)、寄合(よりあい)、すくめ置(をき)候所、いつの間(ま)に、ぬけ出參(いでまいり)侯哉(や)。連歸(つれかへり)申べし。」

といふ。

 住持、

「委細、聞屆(きゝゞけ)たり。能々(よくよく)、とぶらひ得(ゑ)さすべし。」

とて、歸(かへ)され、翌日、住持、彼(かの)埋(うづみ)し所へ行(ゆき)て、讀經し、念比(ねんごろ)に、とぶらひつゝ、卒塔婆(そとば)など立(たて)ければ、死靈(しりやう)も、坐(しづまり)て、其後(そのゝち)は、何の子細もなかりしとかや。

 右、喜右衞門は、予が町内にて、殊に滯留の中の事なれば、直(じき)に見聞(けんぶん)せし次第を、物語の趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「佐用郡眞盛村」現在の兵庫県佐用郡佐用町真盛(グーグル・マップ・データ)。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「作州」美作国(みまさかのくに)。現在の岡山県美作市・勝央町(しょうおうちょう)・奈義(なぎ)町・美咲(みさき)町・津山市・鏡野(かがみの)町・真庭(まにわ)市・新庄村(しんじょうそん)・西粟倉村(にしあわくらそん)・久米南(くめなん)町を含む岡山県北エリアに相当する。佐用郡の西の、この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「山脇(やまわき)村」佐用町山脇。真盛地区の佐用川の対岸(左岸)。

「慈山寺」佐用川川畔に現存する。真言宗。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 出合村孫次郞死し不思議の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ○出合(であい)村孫次郞死(しせ)し不思議の事

 揖東郡(いつとうごほり)出合村に、孫次郞といふて、年、四十斗(ばかり)の男なるが、年比(としごろ)、京・大坂(おほざか)に通(かよい)て、小間物を商ひけり。

 年は享保の半(なかば)、五月十七日の事なりしに、近所を迥(まは)りて、

「私(わたし)事、明後十九日に上方へ罷登り申侯間、何にても、御用仰付《おほせつけ》られ下さるべし。」

と、いふて、歸(かへり)けるが、既に其日も暮(くれ)て、翌(あくれ)ば、十八日の朝未明に、隣(となり)へ行(ゆき)て、戶を叩(たゝ)く。

 亭主、

「誰(た)そ。」

と、いへば、

「孫次良《まごじらう》[やぶちゃん注:ママ。]なるが、我を、今日、連(つれ)に來(く)るもの、在(あり)。恐(おそろし)き事、限(かぎり)なし。いかやうともして、隱して給(たまは)れ。」

といふ。

 亭主、

『亂氣(きやうき)。』[やぶちゃん注:ママ。]

と思ひ、

「成程(なるほど)、心得たり。後程(のちほど)、來(こ)られよ。」

と、いへば、宅(たく)へ歸(かへり)て、脇差・鎌を腰に指(さし)、二階へ上(あが)る。

 妻子(さいし)も心得ず、跡より上りて見れば、窓を、切破(きりやぶ)て、差覗(さしのぞき)て居れば、

「何を、し給ふ。」

と問(とへ)ば、

「けふ、我を連に來るもの在。何方(いづかた)より來るぞ、見てゐる。」

と答ふ。

 それより、二階を下(をり)れば、妻子も、常ならず思ひて、續(つゞい)て下(をり)るに、孫次郞は、又、彼(かの)隣へ行(ゆき)て、

「早々、隱し給れ。」

と、いへば、

「心得たる。」

とて、戶棚を明(あく)れば、這入(はいいり)、片隅に小成(ちさくなり)て居《ゐ》けるが、出《いで》て、いふやう、

「戶棚の中にも、身の毛彌竪(よだち)て、ゐる事、叶(かなは)ず。櫃(ひつ)へ入(これ)て、其上に、居《ゐ》て給れ。」

と、いふによりて、則(すなはち)、櫃を取出(とりいだ)し、入(いれ)けるに、大(だい)の男の、小(ちさ)くゞまりて、入(いり)けるぞ、不思議なれ。

 然所(しかるところ)に、妻子、連(つれ)に來たりければ、櫃共《とも》に、下部(しもべ)に、かゝせて、送りけり。

 

Ransin

 

 かくて、妻子、櫃のうへへ、上居(あがりい)て、番をしけるに、ほどなく、未の刻も下(さが)る[やぶちゃん注:午後二時から三時の間。]斗(ばかり)なるに、櫃の中にて、

「きやつ。」

といふ聲に、驚き、蓋(ふた)を明(あけ)て見れば、黑血(くろち)を吐(はい)て、死(しん)でゐければ、妻子、泣悲(なきかな)しむこゑに、近所のものも、走寄(はしりより)て見るに、聊(いさゝか)も、疵は、なかりしと也。

 かくて、翌日、葬送をしけるに、何の故障(こしやう)もなく、野邊の煙(けぶり)となし果(はて)けるとかや。

「右、孫次良は、常々、親へ不孝、其上、我(わが)剛强(がうきやう)にまかせて、人にも恥辱をあたへければ、村中は勿論、近鄕よりも、憎(にくみ)し。」

と也。

 其餘(そのよ)の隱惡(いんあく)はしらねども、終(つい)に、かゝる怪死に及ぶ。

 後世(こうせい)の人、愼(つゝしま)ざるべきや。

 右は、其節、其近村(きんむら)に滯留したる吳服屋、此邊(このへん)へも、來たりて、物語の趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:病態は、重い追跡妄想を伴う、恐らくは統合失調症と思われるが、黒い血を吐いて死んでいるところは、重篤な胃潰瘍或いは胃癌も併発していたものか。

「揖東郡(いつとうごほり)出合村」不詳。「出合村」自体が見当たらない。揖東郡であれば、現在の揖保郡太子町(全域)、及び、姫路市の一部、たつの市の一部に相当するものと思われるが、判らない。識者の御教授を乞う。

「享保の半(なかば)」享保は二十一年まであるので、享保一〇(一七二五)年前後。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 佐用角屋久右衞門宅にて蜘百足を取し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。

 今回は、視認する対象を判り易くするために、ダッシュと改行を多用した。]

 

 ○佐用角屋(すみや)久右衞門宅にて蜘(くも)百足(むかで)を取(とり)し事

 佐用郡(さよごほり)佐用邑(むら)に角屋久右衞門といひしもの、在(あり)。

 年は享保の初つ方、ある夏の夕暮の事成(なり)しに、行燈(あんどう)[やぶちゃん注:底本自体が「燈」を用いている。]の側に煙草を吞(のみ)、寄來(よりく)る蚊を團(うちは)をもて、打拂(うちはらい)、打拂、涼みてゐたりけるに、

――二寸斗(ばかり)の百足、這出(はいいで)て、行燈に上(のぼ)る

を、元來(もとより)、おほやうなる生質(むまれつき)の男にて、取(とつ)て捨(すて)んともせず、見てゐるに、

――頓(やが)て、行燈の上の隅なる蜘の巢に這懸(はいかゝれ)ば、

――蜘、走出(はしりいで)て、取懸(とりかゝ)つて見るに、百足なれば、

――遠(とほい)から[やぶちゃん注:名詞的用法で、相対的に「遠い方(かた)から」の意であろう。]、脚(あし)を差出(さしいだ)して、いぎを附(つけ)てみれども、こたへず。[やぶちゃん注:「いぎ」「威儀」であろう。威嚇の姿勢である。]

――百足は、蜘の巢に、足をまつはれて、跡へも、先へも、得這(ゑはは)ず、たゝそやり迥(まはり)て居けるに、

――蜘は、走退(のき)て、行方(ゆきかた)しれずなりぬ。[やぶちゃん注:「たゝそやり」意味不明。底本にはママ注記はない。しかし、見知った単語にはない。「ただ、そやりて」か。「そやる」というのは、「座る」の訛りで、「そこにじっとしたままで」の意か。判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

 久右衞門、思ふやう、

『百足なれば、いかんともする事ならずして、迯(にげ)たるなるべし。』

と、猶、見ゐたる所に、

――初の蜘、

――少(ちと)、大ぶりなる蜘と、二つに成(なり)て歸(かへり)、

――兩方より、いぎにて、卷(まか)んとして、一つの蜘、尾の方(かた)より、足を出して、いぎを付(つけ)んとすれば、

――百足、尾の方へ、反歸(そりかへ)れば、其儘、迯退(にげのく)を相圖に、

――一つの蜘頭の方より、いぎを付(つく)れば、跡へ反戾(そりもど)れば、又、尾の方より付る。

「初のほどは、百足の勢(せい)、强(つよく)、中々、取(とり)うべきとも、見へざりしが、段々に、いぎを付て、後(のち)には、百足の、みヘぬほどに、卷(まき)て、念(ねん)なふ、取(とり)てけり。」

と、久右衞門、直(ぢき)の物語の趣を書つたふもの也。

 按(あんずる)に、小(ちさ)蜘、風情さへ、友を雇來(やとひき)て、二つして、取(とる)、智惠、在(あり)。人は、萬物の靈にして、天地に次(つげ)ども、愚(ぐ)なるものと知(しる)べし。

[やぶちゃん注:珍しく、筆者の感懐の評言が載る。細部の描写も見事である。

「享保初つ方」享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年まで。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 片嶋村次郞右衞門と問答せし狐死し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○片嶋(かたしま)村次郞右衞門と問答せし狐(きつね)死(しせ)し事

 揖西郡(いつさいごほり)片嶋村に、次郞右衞門といふもの有(あり)しが、不幸にして妻子を先立(さきだて)、本卦(ほんけ)の年に及(および)ても寡(やもめ)にて、獨住(ひとりずみ)をし、元來(もとより)、貧しけれども、「苦し」ともおもはず、垣生(はにふ)の小屋[やぶちゃん注:ママ。「埴生の小屋」で、「土間の土の上に莚(むしろ)などを敷いただけの小さな家。或いは、土で塗っただけの小さい家。転じて、広く「みすぼらしい粗末な家」の意。]に起臥(をきふし)、心に任せつゝ、昼も枕を高くし、夜(よる)は峰に棚引(たなびく)橫雲を限(かぎり)に遊びありけども、盜(ぬすみ)せぬ身は、人にも、とがめられずして、世をわたりし。

 然(しか)るに、享保初つ方の或夏の事成《なり》しに、晝の暑(あつさ)につかれて、まだ、宵より臥(ふし)けるが、表の方(かた)の窓より、

「次郞右衞門の、うん、つくよ。」

といふ。

 次郞右衞門、眼(め)を、すりすり、

『是(これ)、若きものゝ、たはぶれならん。』

と思ひければ、

「己(おのれ)こそ、うん、つくよ。」

と、いへば、又、外より、

「次郞右衞門の、うん、つくよ。」

と、いふて、互《たがひ》に、負(まけ)じおとらじと、いひ合《あひ》て、時を移す。

 次郞右衞門、夢ともなくうつゝともなく、思ふやう、

『人ならば、同じ事を、操返(くりかへ)し、操返し、いふて、時を移べきやう、なし。是、人には、あらじ。必定(ひつじやう)、狐なるべし。『いひまけては、死ぬる。』と聞傳(きゝつた)ふれば、まけては、ならぬ。』

と、起直(をきなを)りて、

「うんつくよ、うんつくよ、うんつく、うんつく、うんつく、」

と、せりかけ、せきかけ、いひかくれば、外よりは、律儀に、始終、

「次郞右衞門の、うん、つくよ。」

(と)いふにより[やぶちゃん注:「(と)」は底本編者の補訂。]、迥遠(まはどほ)なれば、終(つい)に、いひまけ、後には、何の音もせねば、次郞右衞門、思ふやう、

『偖(さて)は。いひ負(まけ)て歸(かへり)けるにや。』

と、相手なければ、心もたゆみ、頻(しきり)にねぶくて、其儘、打臥、夜の明(あけ)たるもしらず、臥(ふし)ゐたり。

 時に、表の戶を叩(たゝき)て、

「次郞右衞門、次郞右衞門。」

といふ聲に、目を覺して、

「誰(た)そ。」

と、いへば、外より、

「稀有(けう)の事あり。早く、起(をき)られよ。」

といふに、おどろき、次郞右衞門、帶もせずして、立出(たちいづ)れば、

「是、見られよ。狐、窓の下に、死(しゝ)て、あり。いかなるゆへにや。」

といふに、次郞右衞門、有(あり)し子細を語れば、聞(きく)人、橫手を打し、とかや。

「此段(このだん)、何(なに)とやらん、邪氣亂(じやけらな)事ながら、世にいひつたふ通(とをり)、『狐といひ合(あい)ては、まけし方(かた)、死ぬる。』といふ事、寔(まこと)なるにや。」

と、予が知音(ちいん)の人、物語(ものかたり)の趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:「物ぐさ太郎」系の話として面白い。「言上げ」を負けずに応じることで難を遁れるというのも、民俗社会の常套的手法であるが、類い稀なる応酬で勝利したところが、いい。

「揖西郡(いつさいごほり)片嶋村」現在の兵庫県たつの市揖保川町(いぼがわちょう)片島(かたしま:グーグル・マップ・データ)。

「本卦(ほんけ)の年」「本卦還りの年」で還暦のこと。

「享保初つ方」享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年まで。

「迥遠(まはどほ)」「𢌞(まは)り遠(どほ)い」、則ち、「まわりくどい」の意の名詞形であろう。

「邪氣亂(じやけらな)事」「じゃけらな」。語源は未詳。漢字は当て字である。「取るに足りないこと」を指す。江戸初期の造語か。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 段村火難の時本尊木に懸ゐ給ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○段村(だんむら)火難(くはなん)の時(とき)本尊(ほんぞん)木に懸(かゝり)ゐ給ふ事

 享保年中の事成(なり)しに、佐用郡段村に、出火、有《あり》て、類燒、五、六軒なり。

 其内に、長兵衞といひし農夫、眞宗にて、「後世者(ごせしや)」とも沙汰するほどのもの成(なり)けるが、火本(ひもと)の隣(となり)にて、殊に曉の事なれば、とかふする内に、火、移(うつり)、家内、漸(やうやう)、起出(おきいで)たれども、周章迥(あはてまはり)て、得(ゑ)働(はたら)かず、家財、殘らず、燒失しけり。[やぶちゃん注:「得(ゑ)」は呼応の不可能の副詞「え」の当て字。読みは誤り。]

 然(しかれ)ども、長兵衞、家財の燒(やけ)し事は、一言(《いち》ごん)も、「惜(おし[やぶちゃん注:ママ。])し」と、いはず、只、本尊を初(はじめ)、佛壇の燒(やけ)にし事のみ、いふて、本意(ほい)なき風情なりしが、程なく、火も治(おさまり)、翌日は、近村よりも、大勢、合力(がうりよく)にきたりて、灰(はい)を片付(かたづけ)けり。

 長兵衞裏の畑(はたけ)の隅に、大なる柹木(かきのき)有《あり》ければ、其下にて、人足、煙草を吞(のみ)て居(い)けるが、ある人足、柹木を見上(みあげ)て、

「こは、不思議や。佛樣の懸てゐ給ふ。」

と、いふて、急(いそぎ)、長兵衞に告(つぐ)れば、走寄(はしりより)て見るに、年來(ねんらい)、御馳走(ごちさう)申《まをし》たりし本尊なれば、感淚を流し、卷奉(まきたてまつ)りて、其村の一家(いつけ)の方(かた)へ、預置(あづけをき)ける。

 是を聞(きく)人每(ごと)に、奇異の思ひを成(なし)、段村へ行(ゆき)て拜み奉り、彌(いよいよ)、佛恩を悅(よろこび)けり。

 其後(そのゝち)、普請(ふしん)、出來立(できたち)、佛檀[やぶちゃん注:ママ。]も相調(あいとゝのい)ければ、迎入(むかへいれ)奉りて、今に御馳走申《まをす》事、他念なし、とかや。

「寔(まこと)に、不思議の靈佛。」

と、沙汰せし趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「段村」現在の兵庫県宍粟(しそう)市山崎町(たまさきちょう)段(だん)であろう(グーグル・マップ・データ)。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「後世者(ごせしや)」ひたすら、極楽往生を願う人のこと。「ごせにん・ごせびと・ごせもの」とも呼ぶ。浄土宗・浄土真宗の信徒。

「御馳走」ここは「心を込めて信心し申し上げること」を言う。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 德久村小四郞を誑むとせし狐の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○德久村(とくさむら)小四郞を誑(たぶらかさ)むとせし狐(きつね)の事

 佐用郡(さよごほり)西德久村(にしとくさむら)に、彌三右衞門といひて、古き農家あり。

 享保初方(はじめかた)の事なりしに、惣領の小四郞、部屋ずみたりし時、夜更て、折々、門の戶、明(あく)音、しければ、

『盜賊にや。』

と、心を附(つけ)て見れば、戶は明(あい)て在(あり)ながら、何の子細も、なし。

 かくする事、度々(たびたび)成(なり)しが、後(のち)には、折にふれて、小四郞、部屋より見馴ぬ女、朝、とく、立出(たちいで)て歸(かへる)を見し家來も有(あり)ければ、元來(もとより)、若き小四郞なれば、いつしか、浮名、立(たち)て、誰(たれ)いふとしはなけれども、小四郞耳(みゝ)へも、

「しかじか。」

のよし、入(いり)ければ、

「こは、露も覺(おぼへ)なき身の、かく、あだ名の立(たつ)事、いぶかし。いかさま、此ほど、門の戶の明(あい)てある事、たゞならず。若(もし)や、化生(けしやう)のものゝ、仕業にや。」

と、彌《いよいよ》、油斷もせずして居《をり》たりけるが、比《ころ》は、水無月の半(なかば)にて、晝は、あつさの凌難(しのぎがた)ければ、

『朝、とく、行(ゆき)て、作物を見ん。』

と思ひ、また、東雲(しのゝめ)に起出(をき《いづ》)るに、蚊帳(かや)の外に、純子(どんす)・繻子(しゆす)などにて仕立たるやうなる、くゝり枕、壱つ、在(あり)。

「こは。ふ思議[やぶちゃん注:ママ。]なり。かゝる枕の、我(わが)部屋に有(ある)べきやう、なし。日比の浮名、是ならん。」

と、枕刀(まくらがたな)を、手早(てばや)に拔(ぬき)て切付(きりつく)れば、消(きへ)て、跡なく成(なり)しが、折ふし、家來は、

「朝、草を刈(かり)に行(ゆく)。」

とて、打連(うちつれ)て、門口(もんぐち)へ出(いで)たりけるが、

「座敷より、狐が出《いで》たるは。」

と、銘々(めいめい)に、棒を振(ふり)て追(をい)ければ、狐は、後(うしろ)の山へぞ迯入(にげいり)ける。

 其後(そのゝち)は、戶の明(あく)事もなく、自然(しぜん)と、浮名も、止(やみ)けるよし。

 予が緣家(ゑんか)にて、直(じき)に聞侍(きゝはべ)る趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「佐用郡(さよごほり)西德久村」現在の兵庫県佐用郡佐用町西徳久(グーグル・マップ・データ)。

「享保初方」享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年まで。

「惣領の小四郞、部屋ずみなりし」ここでの「部屋住み」は「総領」=嫡男ではあるが、未だ家督を相続していないことを言っている。

「純子(どんす)」通常は「緞子」(どんす)と書く。織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして、紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた以下に出る「繻子」(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出したものを指す。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。

「後の山」現在の「西徳久」をグーグル・マップ・データ航空写真で見ると、この地区の、北西の、地区の殆んどの部分が山間であったことが判る。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 螢(ラビンドラナート・タゴール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

   タゴオル

 

わが空想はほたるなり

闇にまばたく

うるはしき光の點點

 

みちのべのすみれのこゑは

心なきながしめをいざなはず

まばらにありて つぶやけるのみ

 

ほのぐらきうつらうつらの心のひまに

夢こそは その巢をつくれ

日の旅人のおとしゆきにしかけらもて

 

春は枝々に花びらをまきちらす

すゑの果(み)をむすぶにあらで

ひとときの移り氣に咲く花びらを

 

地のまどろみの手よりのがれたる悅びは

あまたたび 木の葉のなかに驅(か)けり入り

ひもすがら 空のかなたにをどるなり

かりそめの わがことのはも

としつきの波のうへにぞ かろやかにをどるなり

おもかりしわが難行(なんぎやう)の

いや果(は)つるとき

 

こころの底のかげろふは

うすきつばさの生(お)ふるがに

はや わかれわかれに舞ひゆけり

しづかなる ゆふべのそらヘ

 

胡蝶は月を敎へず

瞬間(またたき)の數をかぞへて

生(い)くる時ゆたかなり

 

[やぶちゃん注:「詩聖」と称されたラビンドラナート・タゴール(ベンガル語/ロビンドロナート・タクゥル ヒンディー語/ラビーンドラナート・タークゥル 英語/Rabindranath Tagore 一八六一年~一九四一年)はインドの詩人・思想家。一九一三年にはその詩集「ギタンジャリ」によってノーベル文学賞を受賞した(アジア人で初のノーベル賞受賞者)。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。本詩篇の原詩は、一九二八年に本人が自ら英訳して出版した詩集「蛍」(Fireflies:ニュー・ヨークのマックミラン社刊)の冒頭部である。「Internet archive」のこちらで英訳原本が視認出来る。英文原詩の相当箇所は以下である。そこでの本文はここから、ここまでの八連である。

   *

 

   Fireflies   Rabindranath Tagore

 

My fancies are fireflies,—

Specks of living light

twinkling in the dark.

 

The voice of wayside pansies,

that do not attract the careless glance,

murmurs in these desultory lines.

 

In the drowsy dark caves of the mind

dreams build their nest with fragments

dropped from day’s caravan.

 

Spring scatters the petals of flowers

that are not for the fruits of the future,

but for the moment’s whim.

 

Joy freed from the bond of earth’s slumber

rushes into numberless leaves,

and dances in the air for a day.

 

My words that are slight

may lightly dance upon time’s waves

when my works heavy with import have

gone down.

 

Mind’s underground moths

grow filmy wings

and take a farewell flight

in the sunset sky.

 

The butterfly counts not months but moments,

and has time enough.

 

   *

一部の連構成は勿論、訳もかなり拓次の確信犯で改変が行われている。但し、私は第三文明社刊の「タゴール著作集」の詩集部(二巻)を所持するが、そこで(第二版巻「詩集Ⅱ」一九八四年刊)の大岡信の訳を見るに、同じ版を訳したとすれば、それも、甚だ不審な箇所があって、原文に即するとなら、寧ろ、拓次の訳の方が腑に落ちたことを言い添えておく。]

――七十二年目の花幻忌に――原民喜「心願の國」(昭和二八(一九五三)年角川書店刊「原民喜作品集」第二巻による《特殊》な正規表現版)

 

[やぶちゃん注:原民喜は昭和二六(一九五一)年三月十三日午後十一時三十一分、国鉄中央線吉祥寺駅―西荻窪駅間の鉄路に身を横たえて自死した。満四十五歳であった。本「心願の國」は彼の死後、二ヶ月後の同年五月号『群像』に初出し、書籍では底本とした以下の角川書店版作品集に初めて収録された。

 国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で正字正仮名版の昭和二八(一九五三)年角川書店刊の「原民喜作品集」第二巻の画像が入手出来たので、当該作を見たところ、本書の「心願の國」はその編纂委員によって、他では見られない驚きのエンディングを示していることが判明した。まず、誰にも想像出来ないものであり、しかもそれは確信犯の仕儀である。人によっては、こうした処理やり過ぎだ、と思うかも知れない。私は、しかし、冷徹な全集・作品集の書誌学的厳格は、当の民喜自身が最も嫌ったものだったのではないかと思う。白玉楼中の人となったダダイスト民喜は、この終りを読んで、悪戯っぽい笑みを浮かべたに違いないと感ずる。されば、これは、大いにあっていいものだ、と私は思うのである。これは、是が非でも、電子化したいと感じた。

 当該部はここから。加工データとして、所持する青土社版「底本 原民喜全集Ⅱ」の「心願の国」本文(新字正仮名)他を加工データとした。

 本文終りの方にある「灝氣」は「かうき(こうき)」と読み、「広々として澄み渡った大気」の意。

 ネタバレにならぬように、ここでは、ここまでにしておく。兎も角も、お読みあれかし。――七十二年目の花幻忌の未明――【二〇二三年三月十三日 藪野直史】]

 

 

 心 願 の 國

 

 

 <一九五一年 武藏野市>

 

 夜あけ近く、僕は寢床のなかで小鳥の啼聲をきいてゐる。あれは今、この部屋の屋根の上で、僕にむかつて啼いてゐるのだ。含み聲の優しい銳い抑揚は美しい豫感にふるへてゐるのだ。小鳥たちは時間のなかでも最も微妙な時間を感じとり、それを無邪氣に合圖しあつてゐるのだらうか。僕は寢床のなかで、くすりと笑ふ。今にも僕はあの小鳥たちの言葉がわかりさうなのだ。さうだ、もう少しで、もう少しで僕にはあれがわかるかもしれない。……僕がこんど小鳥に生れかはつて、小鳥たちの國へ訪ねて行つたとしたら、僕は小鳥たちから、どんな風に迎へられるのだらうか。その時も、僕は幼稚園にはじめて連れて行かれた子供のやうに、隅つこで指を嚙んでゐるのだらうか。それとも、世に拗ねた詩人の憂鬱な眼ざしで、あたりをぢつと見まはさうとするのだらうか。だが、駄目なんだ。そんなことをしようたつて、僕はもう小鳥に生れかはつてゐる。ふと僕は湖水のほとりの森の徑で、今は小鳥になつてゐる僕の親しかつた者たちと大勢出あふ。

 「おや、あなたも……」

 「あ、君もゐたのだね」

 寢床のなかで、何かに魅せられたやうに、僕はこの世ならぬものを考へ耽けつてゐる。僕に親しかつたものは、僕から亡び去ることはあるまい。死が僕を攫つて行く瞬間まで、僕は小鳥のやうに素直に生きてゐたいのだが……。

 

 今でも、僕の存在はこなごなに粉碎され、はてしらぬところへ押流されてゐるのだらうか。僕がこの下宿へ移つてからもう一年になるのだが、人間の孤絕感も僕にとつては殆ど底をついてしまつたのではないか。僕にはもうこの世で、とりすがれる一つかみの藁屑もない。だから、僕には僕の上にさりげなく覆ひかぶさる夜空の星星や、僕とはなれて地上に立つてゐる樹木の姿が、だんだん僕の位置と接近して、やがて僕と入替つてしまひさうなのだ。どんなに僕が今、零落した男であらうと、どんなに僕の核心が冷えきつてゐようと、あの星星や樹木たちは、もつと、はてしらぬものを湛へて、毅然としてゐるではないか。……僕は自分の星を見つけてしまつた。ある夜、吉祥寺驛から下宿までの暗い路上で、ふと頭上の星空を振仰いだとたん、無數の星のなかから、たつた一つだけ僕の眼に沁み、僕にむかつて頷いてゐてくれる星があつたのだ。それはどういふ意味なのだらうか。だが、僕には意味を考へる前に大きな感動が僕の眼を熱くしてしまつたのだ。

 孤絕は空氣のなかに溶け込んでしまつてゐるやうだ。眼のなかに塵が入つて睫毛に淚がたまつてゐたお前……。指にたつた、ささくれを針のさきで、ほぐしてくれた母……。些細な、あまりにも些細な出來事が、誰もゐない時期になつて、ぽつかりと僕のなかに浮上つてくる。……僕はある朝、齒の夢をみてゐた。夢のなかで、死んだお前が現れて來た。

 「どこが痛いの」

と、お前は指さきで無造作に僕の齒をくるりと撫でた。その指の感觸で目がさめ、僕の齒の痛みはとれてゐたのだ。

 

 うとうとと睡りかかつた僕の頭が、一瞬電擊を受けてヂーンと爆發する。がくんと全身が痙攣した後、後は何ごともない靜けさなのだ。僕は眼をみひらいて自分の感覺をしらべてみる。どこにも異狀はなささうなのだ。それだのに、さつき、さきほどはどうして、僕の意志を無視して僕を爆發させたのだらうか。あれはどこから來る。あれはどこから來るのだ? だが、僕にはよくわからない。……僕のこの世でなしとげなかつた無數のものが、僕のなかに鬱積して爆發するのだらうか。それとも、あの原爆の朝の一瞬の記憶が、今になつて僕に飛びかかつてくるのだらうか。僕にはよくわからない。僕は廣島の慘劇のなかでは、精神に何の異狀もなかつたとおもふ。だが、あの時の衝擊が、僕や僕と同じ被害者たちを、いつかは發狂ささうと、つねにどこかから覘つてゐるのであらうか。

 ふと僕はねむれない寢床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寢床に侵入してくる。僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。僕は僕を生存させてゐる地球に呼びかけてみる。すると地球の姿がぼんやりと僕のなかに浮かぶ。哀れな地球、冷えきつた大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億萬年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮んでくる。その圓球の内側の中核には眞赤な火の塊りがとろとろと渦卷いてゐる。あの鎔鑛爐のなかには何が存在するのだらうか。まだ發見されない物質、まだ發想されたことのない神祕、そんなものが混つてゐるのかもしれない。そして、それらが一齊に地表に噴きだすとき、この世は一たいどうなるのだらうか。人人はみな地下の寶庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救濟か、何とも知れない未來にむかつて……。

 だが、人人の一人一人の心の底に靜かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉碎されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は隨分昔から夢みてゐたやうな氣がする。

 

 ここは僕のよく通る踏切なのだが、僕はよくここで遮斷機が下りて、しばらく待たされるのだ。電車は西荻窪の方から現れたり、吉祥寺驛の方からやつて來る。電車が近づいて來るにしたがつて、ここの軌道は上下にはつきりと搖れ動いてゐるのだ。しかし、電車はガーツと全速力でここを通り越す。僕はあの速度に何か胸のすくやうな氣持がするのだ。全速力でこの人生を橫切つてゆける人を僕は羨んでゐるのかもしれない。だが、僕の眼には、もつと悄然とこの線路に眼をとめてゐる人たちの姿が浮んでくる。人の世の生活に破れて、あがいてももがいても、もうどうにもならない場に突落されてゐる人の影が、いつもこの線路のほとりを彷徨つてゐるやうにおもへるのだ。だが、さういふことを思ひ耽けりながら、この踏切で立ちどまつてゐる僕は、……僕の影もいつとはなしにこの線路のまはりを彷徨つてゐるのではないか。

 

 僕は日沒前の街道をゆつくり步いてゐたことがある。ふと靑空がふしぎに澄み亙つて、一ところ貝殼のやうな靑い光を放つてゐる部分があつた。僕の眼がわざと、そこを撰んでつかみとつたのだらうか。しかし、僕の眼は、その靑い光がすつきりと立ならぶ落葉樹の上にふりそそいでゐるのを知つた。木木はすらりとした姿勢で、今しづかに何ごとかが行はれてゐるらしかつた。僕の眼が一本のすつきりした木の梢にとまつたとき、大きな褐色の枯葉が枝を離れた。枝を離れた朽葉は幹に添つてまつすぐ滑り墜ちて行つた。そして根元の地面の朽葉の上に重なりあつた。それは殆ど何ものにも喩へやうのない微妙な速度だつた。梢から地面までの距離のなかで、あの一枚の枯葉は恐らくこの地上のすべてを見さだめてゐたにちがひない。……いつごろから僕は、地上の眺めの見をさめを考へてゐるのだらう。ある日も僕は一年前僕が住んでゐた神田の方へ出掛けて行く。すると見憶えのある書店街の雜沓が僕の前に展がる。僕はそのなかをくぐり拔けて、何か自分の影を探してゐるのではないか。とあるコンクリートの塀に枯木と枯木の影が淡く溶けあつてゐるのが、僕の眼に映る。あんな淡い、ひつそりとした、おどろきばかりが、僕の眼をおどろかしてゐるのだらうか。

 

 部屋にじつとしてゐると凍てついてしまひさうなので、外に出かけて行つた。昨日降つた雪がまだそのまま殘つてゐて、あたりはすつかり見違へるやうなのだ。雪の上を步いてゐるうちに、僕はだんだん心に彈みがついて、身裡が溫まつてくる。冷んやりとした空氣が快く肺に沁みる。(さうだ、あの廣島の廢墟の上にはじめて雪が降つた日も、僕はこんな風な空氣を胸一杯すつて心がわくわくしてゐたものだ。)僕は雪の讚歌をまだ書いてゐないのに氣づいた。スイスの高原の雪のなかを心呆けて、どこまでもどこまでも行けたら、どんなにいいだらう。凍死の美しい幻想が僕をしめつける。僕は喫茶店に入つて、煙草を吸ひながら、ぼんやりしてゐる。バッハの音樂が隅から流れ、ガラス戸棚のなかにデコレイションケーキが瞬いてゐる。僕がこの世にゐなくなつても、僕のやうな氣質の靑年がやはり、こんな風にこんな時刻に、ぼんやりと、この世の片隅に坐つてゐることだらう。僕は喫茶店を出て、また雪の路を步いて行く。あまり人通りのない路だ。向から跛の靑年がとぼとぼと步いてくる。僕はどうして彼がわざわざこんな雪の日に出步いてゐるのか、それがぢかにわかるやうだ。(しつかりやつて下さい)すれちがひざま僕は心のなかで相手にむかつて呼びかけてゐる。

 

 我我の心を痛め、我我の咽喉を締めつける一切の悲慘を見せつけられてゐるにもかかはらず、我我は、自らを高めようとする抑壓することのできない本能を持つてゐる。(パスカル)

 まだ僕が六つばかりの子供だつた、夏の午後のことだ。家の土藏の石段のところで、僕はひとり遊んでゐた。石段の左手には、濃く繁つた櫻の樹にギラギラと陽の光がもつれてゐた。陽の光は石段のすぐ側にある山吹の葉にも洩れてゐた。が、僕の屈んでゐる石段の上には、爽やかな空氣が流れてゐるのだつた。何か僕はうつとりとした氣分で、花崗石の上の砂をいぢくつてゐた。ふと僕の掌の近くに一匹の蟻が忙しさうに這つて來た。僕は何氣なく、それを指で壓へつけた。と、蟻はもう動かなくなつてゐた。暫くすると、また一匹、蟻がやつて來た。僕はまたそれを指で捻り潰してゐた。蟻はつぎつぎに僕のところへやつて來るし、僕はつぎつぎにそれを潰した。だんだん僕の頭の芯は火照り、無我夢中の時間が過ぎて行つた。僕は自分が何をしてゐるのか、その時はまるで分らなかつた。が、日が暮れて、あたりが薄暗くなつてから、急に僕は不思議な幻覺のなかに突落されてゐた。僕は家のうちにゐた。が、僕は自分がどこにゐるのか、わからなくなつた。ぐるぐると眞赤な炎の河が流れ去つた。すると、僕のまだ見たこともない奇怪な生きものたちが、薄闇のなかで僕の方を眺め、ひそひそと靜かに怨じてゐた。(あの朧氣な地獄繪は、僕がその後、もう一度はつきりと肉眼で見せつけられた廣島の地獄の前觸れだつたのだらうか。)

 僕は一人の薄弱で敏感すぎる比類のない子供を書いてみたかつた。一ふきの風でへし折られてしまふ細い神經のなかには、かへつて、みごとな宇宙が潛んでゐさうにおもへる。

 

 心のなかで、ほんとうに微笑めることが、一つぐらゐはあるのだらうか。やはり、あの少女に對する、ささやかな抒情詩だけが僕を慰めてくれるのかもしれない。U……とはじめて知りあつた一昨年の眞夏、僕はこの世ならぬ心のわななきをおぼえたのだ。それはもう僕にとつて、地上の別離が近づいてゐること、急に晚年が頭上にすべり落ちてくる豫感だつた。いつも僕は全く淸らかな氣持で、その美しい少女を懷しむことができた。いつも僕はその少女と別れぎはに、雨の中の美しい虹を感じた。それから心のなかで指を組み、ひそかに彼女の幸福を祈つたものだ。

 

 また、暖かいものや、冷たいものの交錯がしきりに感じられて、近づいて來る「春」のきざしが僕を茫然とさせてしまふ。この彈みのある、輕い、やさしい、たくみな、天使たちの誘惑には手もなく僕は負けてしまひさうなのだ。花花が一せいに咲き、鳥が歌ひだす、眩しい祭典の豫感は、一すぢの陽の光のなかにも溢れてゐる。すると、なにかそはそはして、じつとしてゐられないものが、心のなかでゆらぎだす。滅んだふるさとの街の花祭が僕の眼に見えてくる。死んだ母や姉たちの晴着姿がふと僕のなかに浮ぶ。それが今ではまるで娘たちか何かのやうに可憐な姿におもへてくるのだ。詩や繪や音樂で讚へられてゐる「春」の姿が僕に囁きかけ、僕をくらくらさす。だが、僕はやはり冷んやりしてゐて、少し悲しいのだ。

 あの頃、お前は寢床で訪れてくる「春」の豫感にうちふるへてゐたのにちがひない。死の近づいて來たお前には、すべてが透視され、天の灝氣はすぐ身近かにあつたのではないか。あの頃、お前が病床で夢みてゐたものは何なのだらうか。

 

 僕は今しきりに夢みる、眞晝の麥畑から飛びたつて、靑く焦げる大空に舞ひのぼる雲雀の姿を……。(あれは死んだお前だらうか。それとも僕のイメージだらうか)雲雀は高く高く一直線に全速力で無限に高く高く進んでゆく。そして今はもう昇つてゆくのでも墜ちてゆくのでもない。ただ生命の燃燒がパツと光を放ち、既に生物の限界を脫して、雲雀は一つの流星となつてゐるのだ。(あれは僕ではない。だが、僕の心願の姿にちがひない。一つの生涯がみごとに燃燒し、すべての刹那が美しく充實してゐたなら……。)

 

佐々木基一への手紙   

 ながい間、いろいろ親切にして頂いたことを嬉しく思ひます。僕はいま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だつたやうな気がします。

 岸を離れて行く船の甲板から眺めると、陸地は次第に点のやうになつて行きます。僕の文学も、僕の眼には点となり、やがて消えるでせう。

 去年、遠藤周作がフランスへ旅立つた時の情景を僕は憶ひ出します。マルセイユ號の甲板から彼はこちらを見下ろしてゐました。棧橋の方で僕と鈴木重雄と冗談を云ひながら、出帆前のざわめく甲板を見上げてゐたのです。と、僕にはどうも遠藤がこちら側にゐて、やはり僕たちと同じやうに甲板を見上げてゐるやうな氣がしたものです。

 では御元気で……。

 

U……におくる悲歌   

濠端の柳にはや綠さしぐみ

雨靄につつまれて頰笑む空の下

 

水ははつきりと たたずまひ

私のなかに悲歌をもとめる

 

すべての別離がさりげなく とりかはされ

すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ

祝福がまだ ほのぼのと向うに見えてゐるやうに

 

私は步み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ

透明のなかに 永遠のかなたに

 

 

[やぶちゃん注:言わずもがな、「心願の國」の本文は『ただ生命の燃燒がパツと光を放ち、既に生物の限界を脫して、雲雀は一つの流星となつてゐるのだ。(あれは僕ではない。だが、僕の心願の姿にちがひない。一つの生涯がみごとに燃燒し、すべての刹那が美しく充實してゐたなら……。)』で終わっている。

 ここで、その次に出る「佐々木基一への手紙」は底本全集(青土社版全集も)の編者の一人にして、友人で義弟(貞恵夫人の弟)の文芸評論家佐々木基一(大正三(一九一四)年~平成五(一九九三)年)への遺書の一部である。但し、所持する青土社版全集(新字正仮名)の「遺書」パートのそれは、以下の通りで、異なる。

   *

 

 佐々木基一宛

 

 ながい間、いろいろ親切にして頂いたことを嬉しく思ひます。僕はいま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だつたやうな気がします。

 岸を離れて行く船の甲板から眺めると、陸地は次第に点のやうになつて行きます。僕の文学も、僕の眼には点となり、やがて消えるでせう。

 今迄発表した作品は一まとめにして折カバンの中に入れておきました。もしも万一、僕の選集でも出ることがあれば、山本健吉と二人で編纂して下さい。そして著書の印税は、原時彦に相読させて下さい。

 折カバンと黒いトランク(内味とも)をかたみに受取つて下さい。

 甥(三四郎)が中野打越一三 平田方に居ます。

 では御元気で……。

 

   *

編者の一人であるから、何とも言えないが、やはり、以下の前年の遠藤周作のフランス遊学出帆のシークエンスがあってこそ、前文の謂いが、明確に映像化されるから、確かに、遺書にはそれがあったと考えるのが、自然である。或いは、佐々木は、この角川版でやらかした驚天動地の「心願の國」との一般常識から言えば、とんでもない掟破りのカップリング底本の目次には「心願の國」としかないから、やはり確信犯の編者らの共同正犯である。因みに編纂委員は扉の裏のここにある通り、「佐藤春夫・坪田讓治・中島健藏・伊藤整・丸岡明・山本健吉・佐々木基一」である。因みに、その左ページには民喜自筆の、現在、原爆ドームの側に建つ絶唱「碑銘」(私のブログ記事で碑の写真もある。また、その初期形も「原民喜・昭和二五(一九五十)年十二月二十三日附・長光太宛書簡(含・後の「家なき子のクリスマス」及び「碑銘」の詩稿)」で電子化してある)の詩が書かれてある)というこの仕儀を後に後悔し、青土社版では遺書の全公開も、かくつまらなくカットして控えてしまったようにも感じられるのである。

 次に「U……におくる悲歌」であるが、これは、初出は昭和二六(一九五一)年七月細川書店刊の「原民喜詩集」であるが、実はこの詩は「U」こと祖田祐子さん宛遺書と、友人の詩人藤島宇内宛遺書に同封された(青土社全集Ⅲの編者注記に従った)詩篇あった。しかも、祖田祐子さんは晩年の民喜が最後に想いを寄せていた女性でもあったのである。現行、一般にこの「悲歌」と標題する詩篇は彼女に捧げられた惜別の一篇であったと考えるべきものとされている。彼女宛ての遺書本文を青土社版で示す。

   *

 祖田祐子氏宛

 

 祐子さま

 とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます 僕は消えてしまひますが あなたはいつまでも お元気で生きて行つて下さい

 この僕の荒凉とした人生の晩年に あなたのやうな美しい優しいひとと知りあひになれたことは奇蹟のやうでした

 あなたとご一緒にすごした時間はほんとに懐しく清らかな素晴らしい時間でした

 あなたにはまだまだ娯しいことが一ぱいやつて来るでせう いつも美しく元気で立派に生きてゐて下さい

 あなたを祝福する心で一杯のまま お別れ致します

 お母さんにもよろしくお伝へ下さい

 

   *

以上の冒頭に出る「雲雀になつて」……これについては、まず、同じく遠藤周作宛て遺書を示す。

   *

 

 遠藤周作氏宛

 

 これが最後の手紙です。去年の春はたのしかつたね。では元気で。

 

   *

この「去年の春」が「雲雀」と直結するのである。遠藤の文章を引くことが出来ないのが甚だもどかしいのだが、彼女と遠藤との春の玉川でのボート遊びの民喜の思い出(『新潮』昭和三九(一九六四)年五月発行に載った遠藤周作「原民喜」に詳細が描かれる。私は盟友民喜を追懐した周作の一篇を民喜論の第一の名品と信じて止まない。教員時代、一度だけ、この全文を生徒に朗読したことがある。恐らく、こんなことをした国語教師は今も昔もそう多くはあるまい、と思う)の中の民喜の肉声『ぼくはね、ヒバリです』『ヒバリになっていつか空に行きます』という呟きに、総てが、ダイレクトに繋がるのである。「遙かな旅 原民喜 附やぶちゃん注 (正規表現版)」も参照されたい。]

2023/03/12

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 姬路外堀にて人を吞んとせし鯰の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ○姬路外堀にて人を吞(のま)んとせし鯰(なまず)の事

 姬路元鹽(もとしほ)町の裏借家(うらしやくや)に、太郞兵衞といひて、其日暮(そのひぐらし)のもの在(あり)しが、其妻、洗濯ものをして、三左衞門殿堀(《さんざゑもんんどの》ほり)へ【是は、往昔《そのかみ》、池田家領地の時、輝政公、掘《ほら》せ給ふによつて、號す。】、すゝぎに行(ゆき)て、先へすゝぎしは、前なる石の上に置(おき)て、跡なるを、すゞき[やぶちゃん注:ママ。底本にママ注記がないのは不審。]居《をり》けるに、沖(おき)の方(かた)より、水波(みづなみ)、すさまじく立來(たちき)て、段々と、磯の方へ、寄來(よりく)る。

 

Onamazu

 

 女、初(はじめ)のほどは、

「獺(かはうそ)などの、魚(うを)を取(とる)にや。」

と、見ゐたりけるに、我(わが)前近く寄(よる)をみれば、何かはしらず、波の中に、大(おほき)なる口を明(あけ)、たゞ一吞(のみ)と、目懸(めがけ)し勢(いきほい)に、膽(きも)を潰し、何(なに)かを、捨置(すておき)、迯退(にげのき)て、跡をみれば、彼(かの)石の上に置(おき)たる、白き浴衣(ゆかた)を、引(ひつ)くはへて、沖の方へぞ、歸(かへり)ける。

 女、走歸(はしりかへり)て、夫に、

「かく。」

と告(つげ)れば、太郞兵衞、行(ゆき)て、捨置(すておき)たる洗濯もの・桶・酌(しやく)などを、取集(とりあつめ)て歸(かへり)しが、此事、專(もはら)、沙汰有(あり)けるに、或人の曰、

「是は三左衞門殿堀の主(ぬし)といひ傳へたるが、二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]斗(ばかり)有(ある)、鯰なり。我も、去年(きよねん)、堀の邊(ほとり)へ凉(すゞみ)に行《ゆき》て、初《はじめ》て見たり。子どもなど、堀の邊へは、遣(つかはす)まじき事なり。」

と、いひしとかや。

「此事、正德年中の事也。」と、我(わが)知音(ちいん)の人の、物語せし趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「姬路元鹽(もとしほ)町」兵庫県姫路市元塩町(もとしおまち:グーグル・マップ・データ)。姫路城の南東直近。

「三左衞門殿堀(《さんざゑもんんどの》ほり)」「是は、往昔《そのかみ》、池田家領地の時、輝政公、掘《ほら》せ給ふによつて、號す。」既出既注だが、再掲しておく。現在、店名に「三左衛門堀」を冠した店がこの附近に集中している。姫路本町地区からは南南西二キロほど離れている。流石に姫路城の濠ではない。ここは実際に兵庫県姫路市三左衛門堀(さんざえもんほり)西の町(にしのまち)という地名である。池田輝政は姫路藩初代藩主。彼の別名は「三左衞門」であった。事績は当該ウィキを見られたい。ここでは「沖」と言い、「磯」と言っているからには、この堀(濠)は、江戸時代には、かなり広さのあるものであったようである。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、東の市川の流れの半分から三分の一ほどの堀幅があることが判る。

「獺」日本人が滅ぼしてしまった食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。博物誌は「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたい。なお、正しい歴史的仮名遣は「かはをそ」とされ、例えば、所持する大学以来の愛用の角川新版「古語辞典」(久松潜一・佐藤健三編・昭和五一(一九六六)年五十五版)の見出し語は「かはをそ」である。しかし、所持する小学館「日本国語大辞典」では、「かはをそ」を歴史的仮名遣の表記として載せていない。一般に、「かは」は「川」であるが、「をそ」或いは「おそ」の語源の方は実は不確かで、「恐ろしい」の意とも、人を騙(だま)して「襲う」妖獣であると考えられたことから、「襲ふ」の意とも、また、人を騙すことから、「嘘」や「嘯く」に由来するなど、諸説があり、未詳である。但し、これらの語源説は、「かはをそ」を正規の歴史的仮名遣とする根拠には、ならないので、私には不審ではある。

「鯰」本邦の代表種は条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属マナマズ(ナマズ)Silurus asotus でこれは東アジア広域に渡って分布し、本邦では現在では(益軒は箱根以東に棲息しないとするが)沖縄などの離島を除く全国各地の淡水・汽水域に広く分布している。但し、その体長は六十~七十センチメートル程までで、一メートルを超える個体自体、聴いたことがない。誤認とは言え、この話柄のそれはデカ過ぎる。淡水で、一メートル程度まで大きくなり、獰猛な種というと、外来種のスズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科タイワンドジョウ属カムルチー Channa argus がおり、近年、江戸時代にも既に進入していたことが確認されているらしいから、水鳥を襲ったりするので、白い浴衣を噛んで引きずり込む辺りは、そっちの方が頗る相応しい気がする。なお、マナマズの他には、日本固有種である三種が棲息する。それらは私の「大和本草卷之十三 魚之上 鮧魚(なまづ) (ナマズ)」を参照されたい。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 宍粟郡鹿が壺の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○宍粟郡(しそうごほり)鹿(しか)が壺(つぼ)の事

 宍粟郡皆河村(みなごむら)の内に「鹿が壺」といふ所、在《あり》。安志村(あんじむら)より三里半、山奧、揖西郡(いつさいごほり)林田(はやしだ)へながるゝ川上の留(とまり)なり。

 爰(こゝ)に、凡(およそ)十四、五丈[やぶちゃん注:約四十二~四十五メートル半。]、面(めん)の平岩(ひらいわ)、在(あり)。其上を、谷水、ながるゝ也。

 此岩に、大(おほき[やぶちゃん注:ママ。])、寸、水甁(みづがめ)、又は、茶碗のごとき、自然の穴、あり。

 其數、三、四拾斗《ばかり》なるが、深何(なに)ほどとも、しれず。

 此穴に、何(なに)にても、入(いる)時は、三日の内に、大風雨、發(おこり)て、洪水を成(なし)、民家を損ず。

 よつて、人を、禁ず。

 其迥(まは)り、二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]餘、大(おほい)に生繁(はへしげり)て、其所(そのところ)のものとても、行(ゆか)ず。

 是《これ》によつて、「鹿が壺」と尋(たづぬ)るものには、村中、堅(かたく)申合(《まをし》あはせ)て、其所を敎(おしへ)ず、とかや。

 或說には、

「昔、『いさゝ尾(を)』といへる鹿、此岩窟にすみて、『其(その)伏(ふし)たる跡』とて、鹿の形、今に、ありありと、みゆる。長(たけ)二丈斗《ばかり》とかや。則(すなはち)、此所の山神(さんじん)と現(あらは)る。然後(しかりしのち)、『鹿が壺』と、いひつたへたる。」

となり。

 往年、能化(のうけ)、魚崎(うをさき)の西福寺(さいふくじ)へ、『鹿が壺』の事を、委細に語る人、ありしに、つくづくと聞給ひ、

「其所は、必《かならず》、仙境なるべし。」

と、いはれしとかや。

 寔(まことに)、餘國(よこく)にも類希(たぐいまれ)なる怪地にして、自然(しぜん)も、

「人、行《ゆく》時は、必、凶事、有《あり》。」

と、聞及ぶ趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「宍粟郡皆河村(みなごむら)の内」「鹿が壺」現在の兵庫県宍粟郡安富町(やすとみちょう)皆河(みなご:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、「鹿が壺」は現存するが、そこの上流域の林田川の左岸の分岐した谷川にあり、ここは、すぐ河村に近いものの、現在は兵庫県姫路市安富町関の内に相当する。サイド・パネルに多数の写真があり、その解説板に日本でも有数の一枚板の岩盤に生じた甌穴で、最大のものが、この「鹿が壺」であるとあり、別の解説板では、その甌穴の形が上から見ると、鹿が寝そべった形に似ていることからの命名とあり、その『「底無し壺」には主が住んでいてそれは赤い蛇だとか、竿を入れると大雨が降るなどの伝説があ』るとあったが、今は、普通に観光地となっているようである。

「安志村」林田川中流にある山間の盆地である兵庫県姫路市安富町安志(あんじ)。

「揖西郡(いつさいごほり)林田」兵庫県姫路市林田町

「能化」一宗派の指導的地位にある長老・学頭などを称する語。

「魚崎の西福寺」兵庫県神戸市東灘区魚崎北町のこちらに現存する浄土宗妙楽山歓喜光院西福寺。

「自然(しぜん)も」(知れる者は)おのづから。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 殿町の醫師化物に逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○殿町(とのまち)の醫師(いし)化物(ばけもの)に逢(あい)し事

 佐用郡(さよごほり)殿町といへる所に、三村何某(みむらなにがし)といへる醫師、在(あり)。

 寶永年中の、ある卯月下旬の事なりしに、所用に付(つき)て金近(かねちか)村へ行《ゆき》しに、又、菴(いほり)村へ行て、内談せざれば、濟(すま)ざるによつて、直(すぐ)に、菴村へ山越(《やま》ごへ)をして行《ゆく》【其間、壱里。】。

 元來、此道は九折(つゞらをり)なるが、古木(こぼく)、生繁(はへしげり)て、いと心すごき所なり。前々より、

「化物、出《いづ》る。」

と、いひ傳へけれども、三村、血氣、盛なる比《ころ》なれば、敢(あへ)て恐(おそろ)しとも、おもはず、持(もち)し鐵炮に、火繩を取添(とりそへ)て立出(たちいで)、山路(《やま》ぢ)に懸る比は、申の刻[やぶちゃん注:午後四時前後。]斗《ばかり》なれば、

「菴村へは、暮(くる)るべし。」

と、指急(さしいそげ)共《ども》、新樹、蒼々(そうそう)として、空に覆(おゝひ)、朽殘(くちのこり)たる木(こ)の葉の、埋果(うづみはて)たる細道なれば、はかどらず。

『今は、半(なかば)も過(すぐ)べし。』

と思ふ時、日は、西の山の端に、入《いり》ぬ。

 かくて、何となく、物恐(ものおそろし)く成行(なりゆけ)ば、

『世上の噂の、化物、出《いづ》るにや。』

と、持たる火繩を、ほどきて、數多(あまた)に切(きり)わけ、十筋(とすじ)斗にして、火を移し【大切の場にて、火繩を數多にする事、嗜《たしなみ》也。】、

『出《いで》なば、鐵炮にて打《うた》むものを。』

と、しづしづと、あゆみ行《ゆく》。

 此勢(いきほひ)にや恐(おそれ)けん、何《なに》も目にはみへざりけるが、林の中にて

「アハ、アハ、」

と高わらひしたる聲、耳の底へぬけて、恐(おそろし)さ、いはん方なし。

 難なく、菴村へ着(つき)て、暫(しばし)は、物も、いはざりけるを、亭主、早く、さとりて、

「今日、御出の道は、名ある所なるが、何(なに)にも、逢(あい)給はざりけるや。」

と、念比(ねんごろ)にとふに付《つき》て、

「しかじか。」

のよしを語れば、亭主、聞《きき》て、

「されば、去々年(おとゝし)、我(わが)一家(いつけ)のもの、

『用事、有て、平福(ひらふく)へ行(ゆく)。』

とて、其妻にいふやうは、

『今日、用談、濟ざれば、滯留すべし。晚方、迎(むかい)を差越(さしこす)に及《およば》ず。』

と、いふて、平福へ行しに、先方(さきがた)、金近(かねちか)へ行(ゆき)て、留守成(なり)ければ、直(すぐ)に跡を追ふて、金近へ行、對談し、要用(ようやう)、濟(すみ)しかば、山越(やまこへ)に當村(とうむら)へ歸(かへる)に、ほどなく晚方(ばんかた)になりけるに、向(むかふ)より來(く)るもの、在(あり)。近寄(ちかより)てみれば、召遣(めしつかい)の牛飼(うしかい)にて、

『旦那樣、お迎(むかい)に參《まゐり》たり。』

といふ。

『大儀なり。』

と答て、

『我(われ)、此道、不案内(ぶあんない)也。其方(そのかた)は金近ものなれば、よく存(ぞんじ)たるべし。案内すべし。』

といふて、先に立行(たてゆき)、つくづくと思ふやう、

『我、今朝、出《いで》し時、迎(むかい)を指留置(さしとめをき)たり。其上、此道を歸(かへる)事は、平福にて、俄分別(にはかふんべつ)なれば、しるべきやう、なし。此奴(このやつ)、必定(ひつぢやう)、聞及(きゝおよび)し化物なるべし。近寄(ちかよつ)て、切(きる)べし。萬一、寔(まこと)の牛飼なれば、是非もなし。』

と、心中に一決して、折を窺(うかゞふ)に、とかく二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]ほどづゝ、隔(へだゝ)て[やぶちゃん注:ママ。底本では「へだゝりて」の脱字とする。]、手寄(てより)ざりしを、透(すき)を見合(みあはせ)、走懸(はしりかゝり)て切付(きりつく)れば、

『きやつ、きやつ、』

と、いふて、林の中へ迯(にげ)こみぬ。脇差の切先(きつさき)に、少(すこし)、血、付(つき)たりけるが、難所の林の中なれば、尋(たづね)むやうもなく、當村(とうむら)へ歸(かへり)て、我に、始終を咄けるが、偖(さて)は、其節の疵、薄手にて、今日、又、其元(そこもと)を、おびやかせしよ。」

など、語けるよし。

 近比(ちかごろ)、右、三村氏に參會(さんくはい)せしに、右の始末を語(かたり)、

「今に、彼(かの)笑ひ聲、耳に止(とゞま)りて、思ひ出《いづ》るも、身の毛も、彌竪(よだつ)。」

と、きこへぬる趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「殿町(とのまち)」「ひなたGPS」の二画面画像で国土地理院図の地名に確認出来る(逆に戦前の地図には載らない)。

「寶永年中」一七〇四年から一七一一年まで。

「金近」同じく前の「ひなたGPS」を南東に動いた位置の尾根を越えた南部分に「奥金近」と、その西南に「口金近」と、現旧ともに地名で確認出来る。

「菴村」は「殿村」の北のここにある(同前)。金近から庵に至る山越えというのは、同前でこの戦前の地図の南北を越えて行くわけであるから、昼間ならまだしも、夕刻からは、甚だしんどいルートと思われる。なお、怪事の起こった場所は、その庵へ向かう北部分と限定出来るから、グーグル・マップ・データ航空写真のこの附近が怪異ロケーションと考えてよかろう。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「馬の道具で働いた男」・「動いた位牌」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 

       種 々 な 人 の 話

 

 ○馬の道具で働いた男 四十年ばかり前に亡くなった、早川定平と云ふ男は、何事も我慢な事(大きいとか、恐ろしいとか云ふやうな意味)が好きで、ある時、村で橋普請をする時、二丈に餘る巨大な橋桁の、谷に落かけたのを、俺一人で上から支へてゐるから、者共は全部下の谷へ𢌞れと云つて頑張つたなどゝ云ひます。また若い頃、材木商の元締(代人《だいにん》[やぶちゃん注:代理人。名代(みょうだい)。]のこと)をしてゐた時、五月百姓の忙しい時期に、川狩《かはがり》の人夫を集めに𢌞つた所が、一人も應じる者のないのに業を煮やして、最後、村の山口豐作と云ふ男を賴みにゆくと、これも家内中麥敲《むぎたた》きの最中なので、斷はられて、其麥を敲くのに何程《なにほど》の時間がかゝるかと訊いて、そんな者は俺が一人で敲いてやると云つて、敲き臺の前に立つて、次から次へ、まるで阿修羅の荒れるやうに、滅多矢鱈に敲いて、僅か半時《はんとき》ばかりの間に、家内中が、全《まる》一日かゝる麥を敲き落として了つて、さあ行って吳れと言つて、連れて行つたと云ひます。[やぶちゃん注:「川狩の人夫を集めに𢌞つた」川漁を生業とする連中たちに材木運びを頼もうとしたという意であろう。「全《まる》」の読みは、『日本民俗誌大系』の当該部のルビに基づいて振った。]

 其豐作と云ふ男の話でしたが、普通の男が一度に麥束を二把宛持つて敲くのに、一度に五六把も抱へて、次から次へ敲きまくるので、あたりへ近寄れなかつたばかりか、其麥の跳ね飛んだ一粒が、あつけに取られて見てゐる足へ當つたのが、肉へめり込むやうに痛かつたさうです。後に殘つた麥藁は、目茶目茶になって、何の役にも立たなかつたと云ふことでした。

 又此男が秋田圃《あきたんぼ》に麥を播くとき、稻株の土を萬鍬《まんぐは》で振り落とすのに、普通の萬鍬では充分な力が出せぬと云つて、五月田植に、馬に植代《うゑしろ》を搔かせる萬鍬を持つて、振り囘したさうですが、其萬鍬の先にかゝつて跳ね飛された稻株の一ツが、傍《かたはら》に働いてゐた其男の母の橫腹を打つて、其爲めに母は一時氣絕したと云ふ事です。

[やぶちゃん注:「萬鍬」元は「馬鍬」(まぐは・うまぐは)で、それが訛って「まんぐは」となり、別漢字を当てたもの。「まんが」とも呼ぶ。農具の一つ。一メートルほどの横木の下部に、何本もの鉄の歯を附けたもの。牛馬に牽かせて、すき起こした田畑を掻き馴らすのに用いる。「馬歯(うまは)」とも呼んだ。ただ、ここでは、「普通の萬鍬」と区別してことが判るから、「普通の」というのは、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)に写真が載る、「仙波穀機」(せんばこき)のようなコンパクトなものが前者で、定平が用いたそれは、大きなそれであって、大橋寿一郎氏のサイト「石黒の昔の暮らし」(「石黒」は新潟県柏崎市高柳町石黒)の「マングワ」のようなものと考えられる。]

 

 ○動いた位牌  此男に弟が一人あつて、其兄弟仲の惡かつた事は、又特別で、隣り合つて家を持ちながら、たゞの一日でも喧嘩の絕えた日はなかつたと云ひます。

 この我慢な男も病氣には勝てなかつたと見えて、四十を一期《いちご》として亡くなつたと云ひますが、死ぬ一日前迄、兄弟喧嘩は續いたと云ひました。其後あとに殘つた弟がつくづくと兄弟不和の淺間しかつた事を考へて、思ひ立つて、兄の位牌に向つて念佛を唱へると、感應あつてか位牌がガタガタと、明かに動いたと云ひます。其男は七十餘歲となつて現存してゐて、この話をしましたが、先代は今一倍我慢な人だつたさうです。

 

大手拓次譯詩集「異國の香」 STANCES(ジャン・モレアス)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。「🦋」は底本では、もっと白抜きのシンプルなものである。同じものがないので、ワードで使用可能なこれに代えた。]

 

 STANCES モレアス

 

わたしの愛してゐる薔薇は日每に葉がおちる

季節がきても、 あたらしいとび色の芽は見えない

そよ風はいつまでもいつまでもふいてゐたのだけれど。

これはね、 あの流れをさへもこほらせる

無慈悲な北風のしわざだよ。

 

よろこびよ、なぜお前はさうこゑをおほきくしたいのか

また憂鬱にひたつてゐる絃(いと)を

わたしの指のしたにさそうて、 わけもなくお前がくるときに

それはたいへんないたづらだといふことを、 おまへはちつとも知らないのか

 

     🦋

 

墓場のわきをゆくやうにかなしみながら

  谷のうつろのなかをとほつていつたとき

おちてくる木の葉のために黃金色(こがねいろ)にかざられた

  あのいたましい北風よ

北風はなにを話しかけたのか

  美しい果物や花をゆすぶつてゐる小枝に

十一月の太陽に、 おそ咲きのあけぼのに

  わたしのたましひに、 わたしのこころに。

 

     🦋

 

わたしはあらしの風とともに野原のなかをあるいた

あをじろい朝にひくい雲のしたに。

いううつの鴉はわたしの旅をみおくり

らひさな水たまりのなかには、 わたしの足おとがひびけた。

 

むかうのはてに電(いなづま)はそのほのほをはしらせ

さうして北風はそのながい嘆息をつのらせた

けれどもあらしは、 わたしの魂にはあんまりよわすぎた

たましひはその鼓動をもつて雷鳴(かみなり)を消してしまふから。

 

秦皮(とねりこ)の黃金色(こがねいろ)の剝皮(むけかは)と楓とで

秋はそのかがやく獲物をつくつた

鴉はつねにむじやうなる翔(かけ)りをつづけて

わたしの運命にかげをなげながらわたしのあとについてきた。

 

[やぶちゃん注:ジャン・モレアス(Jean Moréas 一八五六年~一九一〇年)はギリシャのアテネ生まれの象徴主義の詩人。当該ウィキによれば、『今日よく知られているのは通称であり、本名はヨアニス・A・パパディアマンドープロス』『という。フランス語で作品を書き、パリ』『を活動の拠点とした。サン=マンデ(フランスのイル=ド=フランス地域圏に当たるヴァル・ド・マルヌ県)で』亡くなったとあり、一八八六年九月十八日附の日刊新聞『フィガロ』(Le Figaro)に「象徴主義宣言」(Le Symbolisme)を『掲載し、実質的に象徴主義を定義・提唱した人物である』ともあった。フランス語の彼のウィキの方が遙かに詳しい。

「ひびけた」はママ。「響けた」で「響きた」「響いた」。

 以上の詩は、ワン・セットのものではなく、モレアスが一八九九年から一九〇五年に一度、纏められて刊行された詩集「スタンース」(Stances:フランス語で「同型の詩節から成る悲劇的叙情詩」を指す)の中から恣意的に大手拓次が選んだものと思われる。原詩集はフランス語の「Wikisource」にあるが、私の乏しいフランス語力では、各詩篇を具体的に同定して指摘する力はないので、原詩は示せない(少し試みたが、百%これだと断定出来る詩句を見出せないように感じたので、やめた)。ただ、この詩集、フランス語の彼のウィキでは、一八九九年から一九〇一年に書かれ、死後の一九二〇年に完全版が出ている。しかも、所持する原子朗氏の一九七八年牧神社刊の「定本 大手拓次研究」に載る大手拓次が所蔵していた「フランス語蔵書目録」では、二四三ページに『Jean MORÉASLStancesMercure de France,1920)』とあるので、その最終版でないと原詩は載っていない可能性も高いようにも思われる。悪しからず。

 なお、原子朗氏の岩波文庫「大手拓次詩集」(一九九一年刊)では、読点・改行違い・行空け・読み(ルビ)等の表記が異なる箇所が有意にあるので、以上の正字化の本文を用いつつ、そちらの異同を含むそれを以下に示しておく。読点の後の字空けはナシにした。蝶々マークはないので、そちらの「*」に代えた。

   *

 

 STANCES モレアス

 

わたしの愛してゐる薔薇は日每に葉がおちる、

季節がきても、あたらしいとび色の芽は見えない、

そよ風はいつまでもいつまでもふいてゐたのだけれど。

これはね、あの流れをさへもこほらせる無慈悲な北風のしわざだよ。

 

よろこびよ、なぜお前はさうこゑをおほきくしたいのか、

また憂鬱にひたつてゐる絃(いと)を

わたしの指のしたにさそうて、わけもなくお前がくるときに、

それはたいへんないたづらだといふことを、おまへはちつとも知らないのか。

 

     *

 

墓場のわきをゆくやうにかなしみながら

  谷のうつろのなかをとほつていつたとき

おちてくる木の葉のために黃金色(こがねいろ)にかざられた

  あのいたましい北風よ

 

北風はなにを話しかけたのか

  美しい果物や花をゆすぶつてゐる小枝に

十一月の太陽に、おそ咲きのあけぼのに

  わたしのたましひに、わたしのこころに。

 

     *

 

わたしはあらしの風とともに野原のなかをあるいた

あをじろい朝にひくい雲のしたに。

いううつの鴉(からす)はわたしの旅をみおくり

らひさな水たまりのなかには、わたしの足おとがひびけた。

 

むかうのはてに電(いなづま)はそのほのほをはしらせ

さうして北風はそのながい嘆息をつのらせた

けれどもあらしは、わたしの魂にはあんまりよわすぎた

たましひはその鼓動をもつて雷鳴(かみなり)を消してしまふから。

 

秦皮(とねりこ)の黃金色(こがねいろ)の剝皮(むけかは)と楓(かへで)とで

秋はそのかがやく獲物をつくつた

鴉はつねにむじやうなる翔(かけ)りをつづけて

わたしの運命にかげをなげながらわたしのあとについてきた。

 

   *]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 西播怪談實記四目録・姬路櫻谷寺の住持幽靈に逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、以下の「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

西播怪談實記四

 

一 姬路(ひめぢ)樓谷寺(ようこくじ)住持(ぢうじ)幽靈(ゆうれい)に逢(あひ)し事

一 殿町(とのまち)の醫師(いし)化物(ばけもの)に逢(あひ)し事

一 宍粟郡(しそうごほり)鹿(しか)が壺(つぼ)の事

一 姬路(ひめぢ)外堀(そとほり)にて人を吞(のま)んとせし鯰(なまづ)の事

一 德久村(とくさむら)小四郞を誑(たぶらかさ)んとせし狐(きつね)の事

一 段村(だんむら)火難(くはなん)の時(とき)本尊(ほんぞん)木(き)に懸(かゝり)ゐ給ふ事

一 片嶋(かたしま)村次郞右衞門と問答(もんどう)せし狐(きつね)死(しせ)し事

一 佐用(さよ)角屋(かどや)久右衞門宅にて蜘(くも)百足(むかで)を取(とり)し事

一 出合(であい)村孫次郞死(しせ)し不思議(ふしぎ)の事

一 眞盛(さねもり)村山伏(やまぶし)母(はゝ)が亡靈(ぼうれい)によつて狂(くるひ)し事

一 城(き)の山(やま)唐猫谷(からねこだに)にて山猫(やまねこ)を見し事附越部(こしべ)の庄(せう)といへる古跡(こせき)の事

一 赤穗郡(あかほごほり)高田(たかだ)の鄕(ごう)石(いし)に小鷹(こたか)の形(かたち)有(ある)事

 

 ○姬路櫻谷寺の住持幽靈に逢し事

 姬路櫻谷寺の住持は、佐用の產なりしが、後(のち)に隱居して、「閑居(かんきよ)」と、いへり。蹴鞠(しうきく)幷《ならび》に三面(さんめん)の達者にて、其名、近鄕に鳴(なる)。折々、佐用へも見へければ、予も、心安く、かたらひける。[やぶちゃん注:「三面」不詳。識者の御教授を乞う。以下、特異的に傍点を用いた。]

 ある時、雜談(ぞうだん)の次手(ついで)、咄(はなさ)れしは、

……寶永年中の事にて、我、住職たりし時、檀家の娘、十七、八なるが、久しく病の床に臥(ふし)て有(あり)けるを、折々は、問侍(といはべ)りけるに、或日、我を枕元に近付(ちかづけ)て、いふやう、

「みづから事、此度(このたび)は、迚(とて)も、本復(ほんぶく)は、得仕(ゑ《つかまつら》)ず。近き内に、死出の旅路に趣(おもむき)候べし。されば、兩親にをくれ申べき身の、かく、先立(さきだつ)事、我(わが)妄執の第一なる。」

などゝ、有增(あらまし)、事のきこへぬるは、いと哀なりき。我、いふやう、

「誰(たれ)とても、愛念の道は、さる事ながら、老少不定(ろうせうぶぢやう)の世のならひなれば、貴(たか)も、賤(いやし)きも、死の道斗《ばかり》は、力に及《およば》ず。此上は、後世(ごせ)、一通(ひととをり)に成《なり》て、臨終正念に往生をとげらるゝこそ、なき跡迄の、親への孝行とも、なるべし。」[やぶちゃん注:「後世、一通に成て」「御身自身の決められた後世(ごぜ)を正しく見据えて」の意か。]

と敎訓して、淨土の領解(りやうげ)、念比(ねんごろ)にいひ聞《きか》せ、十念を授(さづく)るに、娘も得心(とくしん)して、泪を流しけるが、それよりは、念佛、絕間(たへま)なくして、終(つい)に其曉(そのあかつき)に、むなしくなる。

 かくて、翌日、我(わが)、引導して、葬(ほうぶり)、其家の佛前へ、逮夜(たいや)に參《まゐり》て、夜更(よふけ)て、立歸(たちかへる。比(ころ)しも、彌生の廿日あまり、月もまた、出《いで》やらず、町々も、寢しづまりて、ひつそとしたるに、僕(ぼく)は挑灯(てうちん)、釣(つり)ながら、

「何とやら、今夜は、恐(おそろ)しく候。御急(《お》いそぎ)なさるべし。」

と、足早(あしばや)に行(ゆく)。

 我も、そゞろに急(いそぎ)しが、とある藪陰(やぶかげ)の築地(ついぢ)の本(もと)より、

「見しり給ふか。」

と、いふをみれば、髮を亂し、齒の眞白(まつしろ)なるが、

「完爾(につこ)」

と、笑ひしさまを見て、僕は、

「わつ。」

と、いふて、迯去(にげさり)ぬ。

 唯(たゞ)すり違(ちがい)の言葉斗《ばかり》にて、東西へ別れしが、彼(かの)娘の幽靈なるや、又は、狐などの、『拙僧をためしてみん。』とて、かくしたるにや、今に、いぶかし。……

と聞へぬる趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「姬路櫻谷寺」「姫路市Webマップ」のこちらによれば、雲城山桜谷寺であるが、明治期に東光(とうこう)中学校(明治八(一八七五)年に現在地に移転)及び姫路高等女学校(こちらの開校は明治四三(一九一〇)年 四月一日)建設に伴って廃寺となったとある。なお、その寺の観音堂に祀られていた十一面観音菩薩像を昭和四(一九二九)年に引き受けている心光寺は浄土宗であるから、桜谷寺も浄土宗であろう(主人公の僧の語りでも念仏が出てくる)。問題はその桜谷寺のあった場所であるが、姫路高等女学校は現在の兵庫県立姫路北高等学校でここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)であるのに対して、姫路市立東光中学校はここであって、敷地が広過ぎる。取り敢えずは、後者の地にあったものと推理しておく。その根拠は、高女はずっと後の開校であることと、「ひなたGPS」の戦前の地図では、中学の方の「文」記号はあるが、高女のある形跡は全く見当たらない(野原。当初は別な場所に置かれたものかも知れない)からである。

「寶永年中」一七〇四年から一七一一年まで。

「領解(りやうげ)」仏の教えを聞いて悟ること。

「十念」ここでは浄土宗と断定したから、導師が信者に「南無阿弥陀仏」の名号を唱えて授け、仏縁を得させることを指す。

「逮夜(たいや)」「大夜」とも書き、「宿夜」(しゅくや)とも呼ぶ。「大夜」とは「大行(だいぎょう:「死」のこと)の夜」を言う。また、一昼夜を「六時」(日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜・晨朝(じんじょう)・日中)に分けるが、その「日没時」を指すとも言われる。「逮」の原義は「明日に及ぶ」という意味であって、仏式の葬儀では「前夜」の意味に転用され、「葬式・年忌法要の前夜」の意に転用されている。

「すり違(ちがい)の言葉」当初、相互に意思疎通が全く出来ない状態を指しているかなどと穿ってしまったが、単にすれ違いざまの一瞬の向こうからの声掛けという意であろう。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「凧揚げ」・「七月十三日」・「法歌」 / 冒頭第一パート~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○凧揚げ  五月に近づいてからは、風の方向が一定して來るものと謂つて凧を揚げましたが、初《はつ》の節句のある家へは、五月一日に村のものが集つて凧張りをやつて、それをお祝いに持つて行く風習がありました。凧の大きさは、大抵西の内紙六十枚だから百二三十枚で家の貧富によつて異なつてゐました。そして其を揚げるべく、晴れた日には、村の各戶から男が出て每日揚げに行きました。貰つた方の家では、煮〆や酒などを用意して、凧揚げの後を追つて步いて振舞ひました。丁度麥の收獲[やぶちゃん注:ママ。]の濟んだ頃で、畑がみんな取片附けられた跡を自由に飛步《とびある》いて揚げました。初の節句の家へは、知人や親戚などからも、鯉幟の外に凧を祝ひ物にするので、それをもみんな、手分けして揚げてやるのでした。

 晴れた日には、心地よい南風に送られて、次から次と大凧小凧が、空を覆つて揚つてゐて、其等が立てる樣々な唸りの聲に、心も自づと沸き立つやうで、年取つた男などでも、凧揚げの間は仕事が手につかないと謂ひました。大凧が切れたなどゝ謂つて、辨當持《べんたうもち》で遠くの村へ探しに行くものもありました。五月五日を最後として、其日は念入りな振舞があつて、日の暮れる迄名殘を惜しんだものでした。其日折惡しく雨が降つた爲め凧揚げが出來ない鬱憤に、村の重立《おもだ》つた者に糸をつけて、其が凧になつて座敷を踊り步いたなどの話がありました。

 五月六日の一日だけは、特に糸干(イトボシ)と云ふ名目で、揚げる事を許されてゐると謂ひましたが、其後は、どんな子供までが揚げない習はしで、田植が濟んで、村の農休みの日には、一日揚げても差支《さしつかへ》ないものと謂ひました。

[やぶちゃん注:「其日折惡しく雨が降つた爲め凧揚げが出來ない鬱憤に、村の重立《おもだ》つた者に糸をつけて、其が凧になつて座敷を踊り步いた」何故か、見もしないのに、懐かしさの擬似的なフラッシュ・バックが起こる。私は、凧揚げは、幼稚園児だった頃、大泉学園の家の隣りの空き地で、泣きながら、地面を引きずった記憶しかなく、揚げたことは、ないくせに、である。

「初の節句のある家」言うまでもないが、「初節句」(はつぜっく)で、子が生まれて最初に迎えるそれ。女児は三月三日、男児は五月五日がそれに当たる。]

 

 ○七月十三日 新竹《しんちく/しんだけ》にて花壺を拵へて、墓地や地の神や家の入り口に立てます。此日の夕方靈迎《りやうむか》へに墓地へ行つて、松火《たいまつ》を焚きました(佛に供へる松火は藁にて二ケ所結《ゆは》へ、神に供へるものは、三ケ所結《むす》ぶ)。其松火の火を持つて來て佛壇に移します。門の入口の道の傍《かたはら》には、新竹を六尺程の長さに切つて、枝を一ツ殘したものを立てゝ、其に松火を結びつけて、十五日夜迄每夜焚きました。これを高張《たかばり》と謂つて精靈《しやうりやう》に眼印《めじるし》と謂ひました。

 

 ○法歌  法歌《ほふか》は陰曆七月十五日の夜、新佛《にひぼとけ》のある家で行ふ一種の念佛踊りで、歌枕と音頭取りと、笛と鉦と太鼓から成立《なりた》つてゐて、鉦敲きの男と向ひ合つて、五尺程もある團扇《うちは》を背負つて胸に太鼓をつるした男が三人縱列に列んで、次にサヽラを背負つた男が續きます。其等の人々の裝束は、油紙を覆つた菅笠を冠つて、手甲《てつかふ》と脚絆《きやはん》をつけて、着物は腰のところでくゝし上げて膝の上あたり迄に短かく着て、紙の緖《を》の草履を履いてゐます。團扇は、背中に靑竹を三叉《みつまた》に組合せたものに、竹で支柱を立て、それへ魚の背鰭の向《むき》に縛りつけて、それを白木綿《しろもめん》で背負つてゐました。其團扇には紋が描いてあつて、先登《せんとう》が鷹の羽《は》で、あとは、丸に十や、カタバミなどでした。踊る時は、笛や歌枕の者は、列の側面に竝んでゐるものでした。

 盆が近づいて來ると、村の者は、每晚寺へ集つて、法歌の稽古をして、老人の差圖によつて、若い者は團扇を背負つては踊るので、背中へ、タコが出來たなどゝ云ひました。十四日の夜になると、寺から行列を調へて新佛のある家へ、練つて行きました。これを道行きと謂つて、五彩の萬燈《まんとう》を弓の柄に吊《つる》して先登に立ちました。これを露拂《つゆはらひ》と謂ひました。新佛のある家では、表に百八の松火を焚いて迎へます。多勢《おほぜい》の見物人を隨へた行列は靜かに繰り込んで來て、萬燈は表の一番上手に立てられます。それから歌枕の調子に合せて、團扇を背負つた者は、兩手で太鼓を敲きながら、鉦につれて足拍子をとつて、前後に進退して踊りました。其家の新佛によつて、歌枕が異なつてゐて、乳呑兒《ちのみご》を殘して逝《ゆ》いた若い母親の靈を慰める文句を哀れに歌ふ時などは、見物の女の淚を絞つたと謂ひます。わけて子供の爲めに塞《さい》[やぶちゃん注:ママ。後の『日本民俗誌大系』版では「賽」となっている。]の河原の歌枕などは、幾度聞いても、あかぬものであつたと謂ふ女もありました。

 一囘踊りが濟むと、團扇を下《おろ》して休みますが、其時に小豆粥の振舞が出て、裕福な家などでは、赤飯や酒などを出しました。此振舞に預かつてから今度は御禮と謂つて、オネリと云ふ踊りをやりましたが、これは身に何の道具も附けないで、各自が歌ひながら入り亂れて踊りました。この踊りにも巧拙があつて、樣々な假裝をして踊るもありました。オネリを始めると謂ふと、早速見物の中へ飛込んで、女の着物を借りて踊つたり、又前々から仕度して置いて、モヤ(薪)の束を背負つて、赤い腰卷一つて[やぶちゃん注:ママ。「で」の誤植。]踊つて見物をあつと謂はせたなどゝ謂ひました。[やぶちゃん注:太字傍線は底本では「傍点「﹅」。]

 此日橫山の南方に聳立《そび》えてゐる[やぶちゃん注:漢字はママ。]舟着山《ふなつけやま》の中腹の市川と云ふ村で、山一ぱいに鍋弦《なべづる》の形に萬燈を焚くので、其が明《あきら》かに眺められて、遙かに興を添へるやうでした。

 茶法歌《ちやほふか》と謂ふのは、三年忌に當る佛の爲め、簡單に踊るものでした。法歌も明治三十二三年頃迄は、每年行つたものでしたが、寺が燒けて道具を全部燒いてしまつたのを境に、行はれなくなりました。佐々木九左衞門と云ふ男が歌枕の上手で、又法歌の故實に詳しかつたさうですが、此男の亡きあとは、早川虎造と熊十と云ふ男が歌枕と音頭取であつたさうですが、今は熊十一人が、名殘を留めてゐるのみと云ひます。

[やぶちゃん注:早川氏がかく記されてより百二年が過ぎた。この如何にも素朴なオリジナリティに富んでいた横山独特の法歌や踊りは、これ、果して、今も伝承されているのであろうか。

「舟着山」既注であるが、再掲しておくと、現在の愛知県新城市市川山中(グーグル・マップ・データ)に船着山(ふなつきやま:現行の山名)があるが、ここは少なくとも豊川左岸までは旧舟着(ふなつけ)村であろうと思われる。「ひなたGPS」の戦前の地図では村名には「フナツケ」とあり、そちらでは、村名は「船着村」であるが、山は「舩着山」の表記となっている。

「明治三十二三年」一八九九年、一九〇〇年。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 安川村佐右衞門猫堂を建し事 / 西播怪談實記三~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○安川村(やすかはむら)佐右衞門猫堂(ねこどう)を建(たて)し事

 佐用郡(さよごほり)安川村に佐右衞門といひし農民あり。

 元錄年中のある夏の事なりしに、旱(ひでり)續(つゞき)て、河水、絕々なれば、鮎は淵にぞ集(あつまり)ける。

 佐右衞門、網を持(もち)て行(ゆき)、元來、水練の達者にて、いかなる淵の底にもいたり、魚(うを)を手取(てどり)にもするほどなれば、其日も、多く取歸(とりかへり)て、料理して炙(やき)てゐたりけるに、手飼(てがい)の猫、中にも大きなる魚を串共(くし《とも》)にくはヘて、椽(ゑん)の下へ這入(はひ《いり》)て喰(くらひ)ければ、佐右衞門、大(おほき)に立腹してゐたりける所へ、又、出《いで》て取(とら)んとせしを、側(そば)に有合(ありあはせ)たる火吹竹をもて、打《うつ》に、猫の運や盡(つき)たりけん、唯、壱つにて、死(しに)ければ、佐右衞門、

「殺(ころさ)んともおもはざるに、不便(ふびん)や。」

とて、則(すなはち)、前の川原にぞ埋(うづ)みける。

 然(しかる)に、翌年、女房、安產して、七夜(しちや)に當るたそかれ時、納戶(なんど)に寢させ置(をき)ける赤子、

「きやつ。」

といふ聲に、おどろき、走行(はしりゆき)て見れば、瘦衰(やせおとろへ)たる猫、赤子をくはへ、椽の下へ迯入(にげ《いら》)むとせしを、急に追(をひ)ける故、猫は子を捨(すて)て、行方(ゆきかた)しれず成《なり》にけり。

 子は直(すぐ)に、息絕(いきたへ)けれども、

「若(もし)や。」

と、いろいろ、治療すれ共《ども》、蘇生せざれば、荼毘(だび)の用意して、泣々(なくなく)、野邊へぞ送(をくり)ける。

 其後(そのゝち)、彼(かの)猫を心懸(《こころ》かく)るといへども、終(つい)に見へず。

 中壱年して、又、安產すれば、初(はじめ)にこりて、油斷もせざりしが、ある夜(よ)の中(うち)に、行方、しれず。

「こは、いかに。」

と、家内のもの、驚周章(おどろきさはぎ)て、尋𢌞(たづねまは)れば、裏の畑に喰殺(くいころ)して、あり。

 佐右衞門、淚の𨻶(ひま)に齒喰(はがみ)すれども、せん方なく、かくてあるべきにあらねば、野邊に葬(ほうぶり)て埋(うづみ)ぬ。

 是より、

「猫の業(わざ)。」

と、決しぬれば、

「先年殺したる猫の亡魂、きたりて、恨(うらみ)をなすにや。」

と、專(もはら)、沙汰し侍りし。

 程なく、又、懷姙しければ、所々へ祈躊をたのみ、

「堅固ならしめ給へ。」

と立願(りうぎはん)しけるに、月、滿(みち)て、男子(なんし)出生(しゆつせう)すれば、彌(いよいよ)、延命の御符(ごふ)を戴せなどして、一家は、晝夜、かはるがはる、二、三人づゝ、小兒(せうに)の側(そば)を離(はなれ)ず、番をしけるが、ある夜(よ)、頻(しきり)に居眠(いねむり)て、覺(おぼへ)ず、まどろみけるが、

「はつ。」

と心附(《こころ》つき)て、小兒を、みれば、上にかづけ置(をき)たる單物(ひとへもの)、なし。

「南無三寶。」

と探(さぐり)みるに、小兒は子細もみへざれども、

「單ものゝ、とれてあるは、いぶかし。」

とて、能々(よく《よく》)氣を付(つけ)てみれば、身には、少(すこし)、煖(ぬくみ)あれども、息のかよはねば、急(いそぎ)、抱上(いだきあげ)て見るに、身の内に疵はなし。

 佐右衞門を起して、

「かく。」

と告(つぐ)るに、少(すこし)もおどろかずして、いふやう、

「今宵(こよひ)、夢を、みたり。瘦(やせ)たる猫、來たりて、手前(てまへ)に向(むかい)、

『我は、先年殺されし猫なり。今宵迄に三人、其方の子を取殺(とりころ)せども、猶、恨は、はれず。此後(このゝち)、幾人(いくたり)出來(いでき)て、たとへ、鐵(くろがね)の櫃(ひつ)に入置(いれをき)給ふとも、命をとらで、置べきか。』

ち、忿(いか)る體(てい)にせのびする、と、見へしが、搔消(かきけす)やうに失(うせ)けり。彌《いよいよ》、殺(ころし)たる猫の仕業、疑ふ所、なし。」

と、いへば、一家を初(はじめ)、是を聞もの、大(おほき)に恐(おそれ)て、

「此上は、追善供養して、彼(かの)猫の怨靈を、なだむべし。」

と相談一決して、小堂(せうどう)を建立して、彼(かの)菩提をとぶらひけるが、是《ここ》に、納受(のふじゆ)やしたりけん、其後(そのゝち)、出生の子、無難(ぶなん)に成長をとげて、今に、存命せり。

 予が近在の事にて、慥(たしか)に聞侍(きゝはべ)る趣を書傳ふもの也。

 按ずるに、都(すべ)て、怨念は、恐敷(おそろしき)ものなる中(うち)に、とりわけ、猫の恨をなせし事、古來、數(まゝ)、多し。鷄犬(けいけん)の主恩を報ぜし事、猫の其主(そのしゆ)に害をなせし類(たぐひ)、寔(まこと)に、同じ畜生ながら、其性(せう)、懸隔せり。

 

西播怪談實記三終

 

[やぶちゃん注:執拗(しゅうね)き猫の怨霊譚である。なお、本篇については、兵庫県立歴史博物館公式サイト内の「佐用安川の猫堂 魚を盗んだ猫のとむらい」に現代語訳が載り、他に、本書に載る他の猫絡みの怪奇談三篇を別ページ「化け猫」で梗概を記してあるので見られたい。但し、そこに載る一篇は先行する二巻所収の「六九谷村の猫物謂し事」であり、今一つは、次の最後の四巻の「城(き)の山(やま)唐猫谷(からねこだに)にて山猫(やまねこ)を見し事附《つけた》リ越部(こしべ)の庄(せう)といへる古跡(こせき)の事」の前半であるが、最初の記されてある、『現在のたつの市新宮町香山(しんぐうちょうこうやま)の伝説で』、『久太夫(きゅうだゆう)という村人が、飼っている鶏が毎晩夜鳴きをするのでよくないきざしと考え、村の前を流れる揖保川(いぼがわ)に捨てた。するとその鶏が、たまたま香山に商売でやってきて川原で昼寝をしていた塩商人の夢枕に立ち、「どこかへ行ってしまっていた久太夫の飼い猫が戻ってきて、久太夫の命をねらっている。自分はそれに気づいたので毎晩早鳴きをして猫を追い払っているのだ。」と告げた。商人はびっくりして久太夫にこのことを告げ、久太夫は猫を見つけて殺した、とされている』とある話柄は、前底本にも、また「近世民間異聞怪談集成」にも所収しない。後者の「解題」を見ると、本「西播怪談實記」は、同書底本の『五冊本を含め、五種の版が存在する。刊年未詳の四冊本は、五冊本の同版刷本である。また続編『世説麒麟談』四冊を加えて八冊本とするものもある』とあるから、最後に私が紹介した話は、それらのどこかに入っている話であろうと推察される。原文を見たいが、方途がない。残念である。

「佐用郡(さよごほり)安川村」現在の兵庫県佐用郡佐用町安川(グーグル・マップ・データ)。

「元錄年中」一六八八年から一七〇四年まで。

「河」同旧村域の川漁であるから、志文川(しぶみがわ)であろう(グーグル・マップ・データ)。]

2023/03/11

西播怪談實記(恣意的正字化版) 龍野林田屋の下女火の車を追ふて手幷着物を炙し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ○龍野(たつの)林田屋(はやしだや)の下女火(ひ)の車(くるま)を追ふて手《て》幷《ならびに》着物を炙(やき)し事

 揖東郡(いつとうごほり)龍野町に林田屋といへる、在(あり)。

 家產、豐にして、久しき商家なり。

 是《ここ》に、久しく出入(でいり)の姥(むば)あり。其娘をば、幼少より召つかひけり。

 享保年中の事なりしに、彼(かの)姥、來たりて、滯留せしが、風氣(ふうき)になやまされつゝ、日をへて、をもく[やぶちゃん注:「重く」。悪化し。]、元來、彼ものども、奉公する風情のものなれば、

「宿へ歸(かへり)て療治するとも、はかばかしからじ。」

と、主(あるじ)の何某(なにがし)哀(あはれ)みをかけて、良醫を招き、心を盡すといへども、其驗(しるし)もなく、熟氣(ねつき)[やぶちゃん注:ママ。以下でも同じ。]、いや、ましになりて、身心、惱亂すれば、娘、泣(なき)かなしみて、片時(へんじ)も側(そば)を去(さら)ず、看病のいとまには、念佛をのみ、すゝむるといへども、狂氣の如くなる熟病(ねつびやう)なれば、一言(いちごん)の稱名(せうめう)もきこヘず。

 かくて、次第次第に弱(よはり)つゝ、ある夕間暮(ゆふまぐれ)に、「今般(いまは)の時」とも見へしかば、傍輩(ほうばい)のものも、傳(つどい)[やぶちゃん注:ママ。]ゐて、口々に念佛をぞ、すゝめける。

 時に、娘、

「のふ、かなしや。母をのせて、いぬるは。」

と、いふて、周章(あはて)ふためき、なんぞ、止(とゞむ)る體(てい)に見へて、表のかたへ、走出(はしり《いづ》)ると否や、病人は、終(つい)に、事切(こときれ)たり。

 かくて、主の夫婦、ならびに、手代・下部(しもべ)の男女(なんによ)、

「なんと、娘、かなしみに堪兼(たへかね)て、狂氣しけるにや。」

と、表の戶口に追出(をいいで)て、止(とゞむ)るに、忽(たちまち)、氣絕しければ、口に水をそゝぎつゝ、呼生(よびいけ)られ、漸(やうやう)、正氣に成《なり》て、

「あら、熱(あつ)や。」

といふに、人々、おどろき、見れば、袖の下に、火(ひ)、付(つき)て、ふすぼりゐけるを、もみ消(けし)しに、右の手の内は、燒(やけ)たゞれてありけるをも、いとはず、母の死骸の側(そば)に行(ゆき)て、身もだへして泣(なき)ゐたりける。

 人々、娘に向(むかい)て、

「其方(そのかた)、先ほど、走出(はしり《いで》)たる時に、姥(むば)は、息、絕(たへ)たり。いかなる事にて、大事の臨終際(りんじうぎは)に走出たるや。」

と問(とふ)に、娘、漸(やうやう)に、顏を、もたげて、なみだを拭ひ、ふるいふるい、いひけるは、

「されば、先ほど、母が末期(まつご)と存《ぞん》ぜし時、何國(いづく)より來たるともしらず、繪に書(かき)し鬼(おに)の姿、思ひ出《いづ》るも、身の毛も、彌竪(よだつ)、頰(つら)[やぶちゃん注:ママ。特に違和感はない。]なるが、火のもゆる車を、引《ひき》きたりて、母を引狐(ふつつかみ)み、彼(かの)火の中へ投(なげ)こみ、表をさして引(ひき)て行(ゆく)を、『母を取返し度《たき》』一念にて、恐しともおもはず、追(をつ)かけ出(いで)、車に手を懸(かけ)て止(とゞめ)んとするに、引《ひき》もぎ、虛空(こくう)へ上(あが)ると迄は存ぜしが、其跡は、存ぜず。先(まづ)、母が死骸には、別條も、なかりけるよ。」

と、淚と共に申《まをし》けり。

 

Hinokuruma

 

「偖《さて》しも、あるべきにあらず。」

とて、主(あるじ)、心を附(つけ)て荼毘(だび)の事など、念比(ねんごろ)に取繕(とりつくろひ)て、翌朝(よくてう)、野邊に、をくりて、灰となしけるとかや。

 此段を聞(きか)ん人、少《すこし》も、疑心を懷(いだ)かず、五常の道は勿論、後生(ごせう)の市大事を心に懸(かく)べし。

 是、露も僞(いとぁり)に、あらず。慥(たしか)なる正說(せうせつ)の趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:孝行娘の、何とも言えず、涙を誘う話柄である。

「火の車」地獄にあって、火が燃えているとされる車。「火車」(かしゃ)の訓読み。獄卒が生前悪事を犯した亡者をこれに乗せ、責めたてながら、地獄に運ぶようすが、地獄を描いた絵巻などに描かれている。「火車」は私の怪奇談集にも枚挙に遑がないが、例えば、「多滿寸太禮卷第四 火車の說」の本文及び私の注のリンク先を見られたい。

「揖東郡(いつとうごほり)龍野町」現在の兵庫県たつの市市街であろう(グーグル・マップ・データ)。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「風氣(ふうき)」「風邪」以外に「腸内にガスが滞留する疾患」の他、「皮膚疾患の一種で、皮膚に赤い腫物ができて、痛くはないが、移動して痒みを覚える風腫」という疾患も指す。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 早瀨村五助大入道に逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○早瀨村五助大入道に逢し事

 佐用郡(さよごほり)早瀨村に、五介といふもの、在《あり》。

 享保年中の事なりしに、久しく眼病を患(うれい)て、近鄕にて療治に預(あづかれ)ども、平癒せず、難儀に及(およぶ)所に、佐用、大工長右衞門といふものも、永々(ながなが)目を煩(わづらひ)てゐければ、互(たがい)に、さそひ合(あい)て、姬路へ行(ゆき)、暫(しばし)、滯留の中(うち)に順快(じゆんくはい)なれば、又、同心して、立歸(たちかへる)。

 比《ころ》は、十月半(なかば)なれば、姬路を、とく立出《たちいで》て、急ぐといへども、短日(たんじつ)なれば、林崎(はやしざき)といふ所より、暮(くれ)てたどりしに、漸(やうやう)、佐用の町端(まちはづれ)に成‘まり)て、五助、長右衞門が袖を引(ひき)て、

「今のを、みられしや。」

と、ふるひ聲にていへば、長右衞門は、

「何も、見ず。」

といふに、「沓懸(くつかけ)の、少(ちと)、上手(うはて)に【「沓懸」は道ノ字《あざ》。】、長(たけ)壱丈餘の大入道(おほにうどう)、立(たち)はだかりゐたる體(てい)、二目(ふため)とも見られず、あまりの恐さに、脇差を探(さぐり)て見るに、手、こゞまりて、少(すこし)も、働かず。足は、そなたにひかれて、漸(やうやう)に戾(もどり)しなり。」

と、大息を、つぎ、

「かゝる億病[やぶちゃん注:ママ。]にては、脇差持(もち)たりとて、何の役にか立(たつ)べき。自今以後(じこんいご)は、必、脇差をば、持(もつ)まじき事なり。」

と笑合(わらひ《あは》)し、となり。

 兩人(ふたり)とも、今に存命にて、直物語(ぢきものがたり)の趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「早瀨村」現在の兵庫県佐用郡佐用町早瀬(グーグル・マップ・データ)。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「林崎」佐用町林崎(グーグル・マップ・データ)。佐用の中心街から南東四キロほどの位置に当たる。

「沓懸」ルートから考えると、「ひなたGPS」の戦前の地図にある「佐用坂」の佐用町近くであろうと思われる。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 佐用福岡氏化生のものに逢し事 江戸時代の第三種接近遭遇か?

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○佐用(さよ)福岡氏(ふくおかうぢ)化生(けせう)のものに逢(あい)し事

 佐用郡(さよごほり)佐用邑《むら》に福岡氏の人、あり。

 享保初《はじめ》つ方《かた》の事成《なり》しに、町内へ噺(はなし)に出《いで》て、夜も、いたく更て、立歸(たちかへる)。

 比《ころ》しも、二月の十日比なれば、月は、早(はや)、入果(いりはて)て、いと暗く、世間も、ひつそと、閑(しづか)に成て、我家(わがや)も近く戾(もどり)けるに、隣の壁(かべ)ねに、十二、三なる子、すげ笠(がさ)をきて、立《たち》ゐたれば、

『參宮の子共《こども》ならんか、夜更(よふけ)て、爰(こゝ)にひとり居《を》る事の、不便(ふびん)や。』

と思ひ、何心(なに《ごころ》)なく立寄(たちより)て、指覗(さしのぞけ)ば、彼(かの)子共、管笠、をきながら、地を壱尺斗《ばかり》、離(はなれ)て中(ちう)を行(ゆく)。

『こは、不思議。』

と見る内に、段々と高く上(あがり)て、終(つい)に隣の家の棟(むね)を越(こし)て、行方(ゆきかた)しれず、失(うせ)にけり。

 定(さだめ)て狐なるべけれども、失たるあと、

「ぞつ」

と、したりて、其まゝ歸《かへり》けるとなり。

 右の人、今に存命にて、物語の趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:三十センチも地面から離れた空中を移動し――隣りの家屋の甍を越えて消えた少年のように背が低い者――とくれば、元UFO研究家であった私に言わせれば、これ、現代なら、グレイ型宇宙人との遭遇にピッタりな話柄である。私が直ちに想起したのは、驚くべき第三種接近遭遇である一九八〇年十二月二十七日にイギリスのサフォーク州のイギリス空軍のウッドブリッジ基地近くの「レンデルシャムの森」で発生したUFO+搭乗者との遭遇事件である(基地に駐留していた米軍警備兵ら複数が目撃した)「レンデルシャムの森事件」(Rendlesham Forest incident)であった。イギリスでのUFO事件では最も知られたものである。知らない方は当該ウィキをどうぞ。UFO自体が小型で、米空軍基地司令官チャールズ・ホルト中佐が背の低い搭乗者三人(空中を浮遊)と会談したともされ、また、UFOは一瞬にして夜空にかき消えたとするものである。

「享保初つ方」享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年まで。

「參宮」佐用町で由緒ある神社となら、佐用郡佐用町本位田(ほんいでん)にある佐用都比賣(さよつひめ)神社である(グーグル・マップ・データ)。創建は西暦七百年代(奈良・平安以前)で、「播磨国風土記」にも記載のある古社。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 櫛田村不動堂の鰐口奇瑞幷瀧川の鱗片目の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○櫛田村(くしだむら)不動堂の鰐口(わにぐち)奇瑞(きずい)幷《ならびに》瀧川(たきかは)の鱗(うろくず)片目(かため)の事

 佐用郡多賀村(たがむら)に善右衞門といひしもの、あり。農業のいとまには、材木を商ふて、大坂に通ふ事、久し。

 爰に隣(となり)村櫛田といふ所に、靈驗(れいげん)あらたなる瀧、在。

 里を離れて二十餘町、巖(いわほ)、屛風のごとく重(かさなり)、水の落(おつ)るは、千筋(ちすじ)のいとのごとくにして、凡(およそ)十丈を過(すぎ)たり。寔(まこと)に「飛瀧(ひりう)直下二千尺」ともいふべし。[やぶちゃん注:「飛瀧(ひりう)」は底本では『飛滝(ひりう)』とあって、ママ注記がある。なお、私が一貫してここで「滝」を「瀧」に書き換えている理由は、ロケーションである「櫛田」に近い瀧のある箇所は「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、「瀧谷」(☜)という地名表記になっていることに拠るものであり、私の趣味でそれにしている訳ではない(但し、私は「滝」は嫌いで、自分は使わないし、「瀧」が圧倒的に好みではある)のでお断りしておく。

 側(かたはら)側に、小堂を建て、聖德太子御作(おんさく)の不動の尊像を安置せり。

 享保の初方(はじめかた)、鰐口を寄進するものありて、彼(かの)善右衞門に、

「此鰐口を、調(とゝのへ)くれよ。」

といふ。

 善右衞門、元來、信仰の瀧なれば、共々に世話して、大坂にて八寸の鰐口を整(とゝのへ)、年號・施主の名を切(きら)せて持下(もちくだり)しが、比《ころ》しも、水無月のすゑ、

「暑(あつさ)を除(よけ)ん。」

と、明石へ、夜船(よふね)に乘(のり)けるに、摩耶(まや)の沖にて、俄(にはか)に白雨(ゆふだち)の、風に波を卷(まき)、船頭迄も、方角を失ひ、櫓(ろ)のたてばも、しどろなれば、皆、

「荷物を捨(すて)て、命を、たすからむ。」

と、船中(せんちう)、さはぎ立《たて》しが、此善右衞門も、雜物(ざうもつ)を捨(すて)て、鰐口斗《ばかり》を首(くび)に懸(かけ)、不動の眞言をくりて、[やぶちゃん注:「くりて」「繰りて」。くり返し唱えて。]

『この難を、助け給へ。』

と、一念に祈(いのり)しかば、何國(いづく)ともなく、火の、みへければ、船人(ふな《びと》)、力を得て、此火の方へ漕附(こぎつけ)しが、程なく、陸に着(つき)て上(あがり)けれども、雨、頻(しきり)に降(ふり)て、くらければ、いづこをさして行べきやうもなく、思ひわづらひけるに、鰐口より、光を放(はなち)て、道を照す事、明松(たいまつ)の如(ごとく)なれば、彌《いよいよ》、信心、肝(きも)にめいじ、乘合(のりあい)の人々も、此光(ひかり)に付(つき)て、「脇(わき)の濱」といふ所に着(つき)たるは、有難(ありがたき)事ども也。

 今に、善右衞門が子孫、彼(かの)瀧を信仰する事、一方《ひとかた》ならず、六月・八月の朔日・十五日には、諸人(しよにん)、參詣して、鰐口を打《うち》ならして、諸病を祈るに、奇瑞あり。

 爰(こゝ)に又、一つの不思議あり。

 其瀧川の鱗(うろくず)、休堂(やすみだう)より奧は、悉(ことごとく)、片目也。

 諸人、是を喰(くふ)事、なし。

 休堂より川下へ成(なり)ては、世の常の鱗なり。

「不動尊、片目ゆへに、かく。」

と、いひつたへたり。

 何分、休堂を堺(さかい)にて、わかちある事、不思議ならずや。

 予が近所にて、直《ぢき》に見聞《けんぶん》せし趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「櫛田村」以下の多賀に東北で接する佐用町櫛田(グーグル・マップ・データ航空写真)。同地区の山中には(近くまで自動車道がある)「飛龍の滝」(同前)があるが、これが本篇で言う「瀧」である。ストリートビューに糸田仁氏の定点三百六十度写真が一箇所ある。前のサイド・パネルには多数の写真があるのだが、失礼乍ら、こちらは、どれもあまり上手く撮れていない。「不動堂」は四阿風の隙間だらけのものが滝の直ぐ前にあってそれらしく、別なこの写真では祠の前面に鰐口がある。その当時のものであるかどうかは判らないが、新しいものではないようだ

「鰐口」仏具。私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。図有り。

「佐用郡多賀村」現在の兵庫県佐用郡佐用町多賀(グーグル・マップ・データ)。

「材木商ふ」本書の作者も佐用村の材木商春名忠成(屋号は「那波屋」)であるから、親しい人物でもあったのかも知れない。

「二十餘町」二キロ百八十二メートル超。櫛田の町中から谷川沿いに実測すると、二・五キロメートルはある。

「摩耶(まや)の沖」現在の兵庫県神戸市灘区の六甲山地の中央に位置する標高七百二メートルの摩耶山(まやさん:グーグル・マップ・データ。西方に「明石」)見える神戸の大阪湾の沖合。

「不動の眞言」不動真言の小咒(しょうしゅ)は「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」である。

「火の、みへければ」不動明王の光背は大火炎模様が常套である。

「脇(わき)の濱」現在の兵庫県神戸市中央区脇浜(わきのはま)海岸通附近(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう。拡大して貰うと判るが、まさに摩耶山の真南に当たる

「不動尊、片目」トンデモ誤り。中世以降の不動明王像の一つの特徴に「天地眼」(てんちげん:右目はかっと開いて天を見渡し、左目は地に向けて半眼にしているのを、誤認したものである。「片目の魚」となると、柳田國男の領分だが、これは誤認だから、リンクさせようがちょっとない。寧ろ、総てのそこの川魚が片目というのが興味深い(通常の民俗社会の「片目の魚」は魚種が限定されるのが普通)が、特定流域のみに多数種に集中するというのは、生物学的に見て、まず、あり得ないことである(棲息域が洞穴等の特殊環境ならまだしもだが)。

「休堂」瀧へのアプローチがそれなりにあるので、途中にあった休憩のための堂であろう。ストリートビューで見たところ、ここに飛龍の瀧への道標の石らしき古いものが二つ見出せる。ここに「休堂」があったのかも知れない(グーグル・マップ・データでは、この中央の川が西から東へカクッと交差しているカーブのところ)。

早川孝太郞「三州橫山話」 「お年取り」・「クチアケ」・「ニユウ木」・「モチ井」・「節分」・「田植の事」・「ウンカ送り」・「ギオン送リ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○お年取り  大晦日はお年取りと謂つて、年男は座敷の眞中に吳蓙を敷いて、其上で注繩[やぶちゃん注:ママ。「注連繩」の脱字。「しめなは」。]を綯《よ》つて、其にユズリ葉、裏白《うらじろ》を結びつけて、門口、神棚、佛壇、惠比須棚、立臼《たてうす》、竈 、厩 、井戶などに懸けて、地の神の祠や、墓地、山の神の祠、其他屋敷に近接した祠などがあれば其にもかけました。

 其をお祀りと謂つて、其が濟むと、家内揃つてお年取の膳を祝つて、それから神參りなどに出掛けました。

[やぶちゃん注:「ユズリ葉」ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum subsp. macropodum の葉。当該ウィキによれば、『ユズリハは、新しい葉が古い葉と入れ替わるように出てくる性質から「親が子を育てて家が代々続いていく」ことを連想させる縁起木とされ、正月の鏡餅飾りや庭木に使われる』この三年ばかり、連れ合いの買ってくる門松の「ゆずり葉」がプラスチックになって、なにやらん、侘しい限りである。

「裏白」シダ植物門シダ綱ウラジロ科ウラジロ属ウラジロ Gleichenia japonica。和名は葉の表は非常に光沢(つや)があるが、裏面は粉を吹いて白っぽいことに由来する。当該ウィキによれば、『葉が正月飾りに使われ、注連縄、ダイダイの下に垂れ下げられている。ただし、その由来については、「裏が白い=共に白髪が生えるまで」という意味だと解釈されているが実際は不明である』とあった。

「惠比須棚」五穀豊穣・商売繁盛・大獵(漁)・子孫繁栄などを齎すとされる「えびす様」と「大黒様」との像を祀ってある神棚。本来の神棚とは別に作るのが普通。孰れもルーツは仏教以前の古代インドの神である。]

 

 ○クチアケ 十一日をクチアケと言って、この日朝早く田圃へ行って、(田のないものは畑)惠方へ向つて、三鍬程土を掘つて、其處へ其年の月の數程薄の穗を結へて立てゝ來ます。

[やぶちゃん注:農事開始の年初の民俗習慣。「口開け・口明け」などと表記する。]

 

 ○ニユウ木 十一日に山から櫟《くぬぎ》の木の直徑三四寸のものを切つて來て、其を一寸五尺ほどの長さに切つて、二ツ割りにする、これをもクチアケと謂ひました。そして十四日の朝、茄子の莖を燒いた炭を溶《と》いて、藤の枝の筆で割口へ、平年なれば十二月、閏年なれば十三月と書いて二つを一組として、家の出入口、神棚等、總て、大晦日注連繩を飾る場所に立てゝ、小豆粥を煮て、其頭に一匙宛のせて祭りました。十五日の朝は、それに雜煮を供へるのもありました。十五、十六と三日間祭つて、十七日の朝に取片附けました。あとの木は、屋敷の裏などへ積んでおきましたが、近い頃になつてからは、薪にして焚《た》く家もあつたと云ふことです。

 神棚、佛壇などに立てるものは、タマの木(桂)で丈五寸程の小さなものを造つて、橫に月の數程の線を引きました。

[やぶちゃん注:「ニユウ木」「乳木(にゆうもく)」由来か。本来は仏語で、護摩に用いる木を指し、乳汁の多い生木を用い、火勢を強めるものだが、一派には松・杉・檜などが用いられる。

「櫟」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima であるが、何故、櫟なのかはよく判らない。ただ、昔から薪炭木として重宝されたことから、山村の横山では極めて身近な利用木として親しみがあった樹木ではあろう。

「タマの木(桂)」ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum は、当該ウィキによれば、『和名』『は葉の香りに由来し、落葉した葉は甘い香りを発することから、香りが出ることを意味する「香出(かづ)る」が名前の由来といわれている』とあり、また、材も『香りがよく、広葉樹の中では材質は腐りにくくて耐久性があり』、『軽くて柔らかく加工しやすい上、狂いがない特性を持っている』。『ヒノキの生えない東北地方では、木彫りの用材にもなった』とあって、さらに、本邦では、『直立する幹が仏像の一本づくりに使われたことから、カツラの前で手を合わせる習慣もある』とあった。]

 

 ○モチ井  正月十四日から十六日までをモチイと言って一四日には餅を搗き、再びお年取を祝ひます。この日、米の粉で團子、繭、綿の花、立臼、ふくら雀、粟穗、稻穗などの形を造って、野生の梅の枝にさして、神棚や臺所の柱にさして飾りました。これも十七日の朝迄おいて、其朝汁粉を煮て中に入れて食べました。

[やぶちゃん注:旧正月由来の儀式である。

「モチ井」「もちひ」が正しい「餅」をかく読む。「糯(もち)の飯(いひ)」が原義で「餅」に同じである。平安からある古語である。]

 

 ○節分  節分には、クロモジの枝に、煮干の頭をさし、それにアセボと云ふ木の枝を添へて、家の出入口にさしました。

 また籠を倒さに吊《つる》して、中に古簑《ふるみの》と笠を入れて、それを棒の先につけて、表に立てました。

 豆撒きの後、家内揃つて圍爐裡《ゐろり》の傍に集つて、豆を食べながら、豆で種々な占ひをしました。茶釜の中へ、豆を一握り程投げ込んで、其茶を汲み出して飮んで、豆が入つて來ると、其年幸福があるなどゝ謂ひました。又、オキョー葉といって、タマの樹の葉より少し大きな木の葉を採って來て、それに、火炭を載せて、葉に現はれる火のあとの形によつて、文字占《もじうらなひ》をやりました。如何にして占つたか記臆してゐませんが、鍋弦《なべづる》が出たなどゝ云つた事を記臆してゐます。

[やぶちゃん注:この前半の飾りは、ウィキの「節分」を見られたいが、その前者は一般に「柊鰯」(ひいらぎいわし)で知られる魔除けで、通常は柊の小枝と、焼いた鰯の頭を家の門口に挿した。ウィキの「柊鰯」によれば、『西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう』とあり、『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)』とある。後者は、「目籠」(めかご)と呼ばれるそれで、前の方のリンク先に、「目籠」の項があり、『千葉県では目籠を逆さまにして竹竿に吊るし、鰯の頭を大豆の枝に刺したものとヒイラギ・グミの枝を束ねて門口に刺し、鬼が近づかないようにする』。『静岡県の中西部では、目籠にハナノキとビンカを結び付けて竹竿に吊るし、軒先高くに掲げて鬼を払う「鬼おどし」と呼ばれる習慣がある』。『山梨県では、目籠とネズの枝をしばり付けた長い竹竿を庭先に立て、籠の目を鬼の目として豆を投げてこの目をたくさんつぶすと一年の災いや不幸が減少するという信仰があり、昭和』三十『年代まで盛んに行われていた』。『岐阜県恵那地方では、割り箸に刺したイワシの頭としっぽ、柊または馬酔木の枝を目籠に挿して、玄関に置く。鬼が玄関前で立ち止まり、籠の目を数え始めるとされる』(数えだしてきりがなくなって疲れ切り、侵入を禦ぐというのであろうか)。ここで早川氏の言っているものは、鬼に対抗する異形の一本足の物の怪のハリボテというニュアンスが強く感じられる。

「クロモジ」「黑文字」はクスノキ目クスノキ科クロモジ属クロモジLindera umbellata のこと。当該ウィキによれば、『特に生薬名はないが、枝と葉は薬用になり、材から爪楊枝』や箸『を作る』ことで知られ、爪楊枝の異名にもなっている。さらに近年、『抗ウイルス作用が知られ』るようにもなった。民俗社会では、そうした効用が素朴な知識として古くから意識されていたものであろう。

「アセボ」有毒植物として知られるツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ属アセビ亜種アセビ Pieris japonica subsp. japonica の異名「馬酔木」(アシビ)の転訛。毒を以って鬼や凶を制するわけである。個人的にはあの小さな壺型の花が好きでたまらない。

「オキョー葉」は思うに「御經葉」であろう。古代インドに於いて紙がなかった頃、御経を木の葉に刻んだ貝葉経(ばいようきょう)があったが、それがルーツと思われる。Tobifudoson Shoboin氏のサイト「やさしい仏教入門」の「貝葉経」で実物の写真を見ることが出来る。頗る妖しい詐欺同前の「アガスティアの葉」(知らない方は当該ウィキをどうぞ)のように、葉に書かれる文字というのに人は神秘を感じ、惹かれやすく、騙されるのである(私は、まるまる一冊、その追跡と暴露を記した本を読んだ)。

「鍋弦が出たなどゝ云つた」意味不明。]

 

 ○田植の事  春苗代を作る事をフムと謂つて、鍬を使はないで、柴を足で田の底へ踏込みました。又苗代の肥《こや》しは、石菖を入れるものと謂つて、これを肥しにする風習がありました。石菖のやうな、腰のしつかりした苗の出來るやうに肥しにするのだと謂ひました。

 苗代に籾を播いて、家へ歸つて剃刀を使ふと、其籾が全部跳ね出してしまふと謂ひました。

 又、妻の姙娠中、新しく田の水口を切ると、生れる子供が三ツ口になると謂ひました。三ツ口のことをグチョーと謂ひました。

 田植の時、植代を造ることをカクと言つて、多く馬でカキました。馬を挽いて大騷ぎをしてやると豐作だと云ひました。シロカキには裸體の上に蓑を着て、足の脛《すね》に藁を結びつけました。馬の口をとるを、ハナドリと謂ひました。

 苗取りの時、苗を結《ゆ》へる藁は結切《むすびき》らぬものと謂つて、又これを切る事も土の中へ踏み込むことも禁じました。又苗を一ツの田に植へ[やぶちゃん注:ママ。]かけて、中止する事も厭《いと》ひました。植了《うゑをは》ると、皆の者が畦に立つて、見事だ見事だと謂つて譽めると豐作がとれると謂ひました。自分の家の田植が濟むと、他の家へ手傳《てつだひ》に行くものでしたがこれをお見舞と謂ひました。

[やぶちゃん注:「土の中へ踏み込むことも禁じました」ちょっと意味がとり難い。藁で結びきってしまった苗を持ってうっかり田地に立ち入ることを禁じたということか。

「見事だ見事だと謂つて譽めると豐作がとれる」祝祭系の予祝型共感呪術の典型である。]

 

 ○ウンカ送り  これは明治二七八年頃まで行つたさうですが、附近の村で、ウンカ送りをやつたと聞くと、早速《さつそく》村の者が遠江の秋葉山《あきはさん》へ行つて御火《おんひ》を火繩につけて迎へて來て、この火を高張提燈に移し、火繩は竹の先に揷《はさ》んで、其を先頭にして、太鼓、鉦、笛の鳴物入りで、幣帛《へいはく》を持つて田面《たづら》を拂ひながら、未だウンカ送りの濟まない村の境まで練《ね》つて行つて、其處で、幣帛を燒き捨てるのでした。

[やぶちゃん注:「虫送り」である。農作物に着く害虫を駆除・駆逐し、その年の豊作を祈願する呪術的農行事。「虫追い」とも言い、西日本では「実盛送り」「実盛祭(さねもりまつり)」など数多くの別名がある。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい。これは、同一地域では共時的行わないと、虫がまだやっていない地区へ移動してしまう限定おっぱなしタイプの呪術であるから、ここに出るような慌てふためいた仕儀が起こるのである。なお、「ウンカ」という標準和名を持つ生物、昆虫はいない。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚋子(ぶと)の「「浮塵子〔(ふじんし)〕」の注を参照されたい。

「明治二七八年頃」一八九四、五年。

「遠江の秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端にある標高八百六十六メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。古くより修験道の聖地とされ、山頂近くに、「火防(ひぶせ)の神」として知られる「秋葉大権現」の後身である「秋葉山本宮秋葉神社」と、神仏分離令で分かれた「秋葉山秋葉寺(あきはさんあきはじ)」がある。まさに「火伏の神」であるからして、そこの火はあらたかな神火なのである。]

 

 ○ギオン送リ これは四十年程前迄行つたさうですが、六月七日の日に、大人は村の御堂に集つて祈禱をして、子供連《づれ》が幣帛の先に、其年の初小麥を紙に包んで結ひつけて、鉦太鼓で賑かに村境迄送り出して行つたと謂ひます。又六月十五日をギオンと謂つて、此日は一切川へ行く事を忌みました。ギオンには下駄の齒の跡の水溜りにもジヤが居ると謂ひました。

[やぶちゃん注:これも前の「虫送り」と同じ五穀豊穣に基づく悪霊退散の行事である。元来は、牛頭天王と素戔嗚尊を崇める神仏習合の祇園信仰がルーツである。

「ジヤ」「邪」。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 東本鄕村蝮蝎を殺し報の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、前回の冒頭注で示した通り、前回より最後までは、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して続行する凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。

 なお、「蝮蝎(うはばみ)」は誤表記ではない。超巨大な大蛇「蟒蛇(うはばみ)」はこの漢字表記もする。所謂「まむし」と「さそり」ではあるが、それらは広く悪類獣の喩えとしてそれに当て字するのである。例せば、日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらのタイトルは「ウワバミ」としつつ、漢字表記を『蝮蝎』と当てており、出典は神谷養勇軒の説話集「新著聞集」(寛延二(一七四九)年刊)である。因みに本書は、宝暦四(一七五四)年刊である。]

 

 ○東本鄕村(ひがしほんごうむら)蝮蝎(うはばみ)を殺(ころせ)し報(むくひ)の事

 佐用郡東本鄕村、さる農夫の所持の田の邊(ほとり)に、榎(ゑのき)の古木(こぼく)在(あり)しが、眞(しん)[やぶちゃん注:「芯」。幹(みき)。]は朽(くち)て、皮斗《ばかり》のやうに見へけれども、年々、葉を出す事、若木にも替(かは)らざりけり。

 正德年中の事なりしに、其榎の邊(へん)に、いつ集(あつめ)しともなく、蜷(にな)のから、有(あり)しが、段々に、多く成(なり)て、めだつ斗(ばかり)にも成ければ、

「誰(たが)持(もち)きたりて、爰には、捨(すて)るにや。」

と、農夫も怪(あやし)み、人にかたりても、多(おほく)は、不審をぞ、なしにける。

 ある時、𢌞國(くわいこく)の僧、立寄(たちより)て、茶を所望してゐけるに、

「しかじか。」

の、よしを語るに、僧のいふやう、

「其榎には、必定(ふつでう)、蝮蝎(うはばみ)、住(すみ)たるなるべし。其蜷のからは、餌(ゑ)にしたる、から、なり。いかにといふに、其蝮蝎に、もろもろの小蛇(こへび)、蜷、壱つづゝ、くはへ來《きたり》て饋(おく)るもの也。」

と、いひければ、

「げにも。さもあらん。」

と、聞人每(《きく》ひとごと)に、恐(をそれ)て、彼(かの)榎の邊(へん)へは壱人《ひとり》も行《ゆく》もの、なし。

 夫(ふ)、つくづくと思ひけるは、

『秋田(あきた)には守(もり)を【「守」とは、菰莚《こもむしろ》などにて仕立《したて》、夜《よる》、行《ゆき》て、田を守《まもる》所なり。】懸(かけ)て、よなよな、行(ゆく)なり。それに、かく恐ては、難儀の事なれば、いで、燒殺すべし。』[やぶちゃん注:「秋田」は一般名詞で「秋の稔りの成った田」の意。]

と了簡を極(きは)め、彼榎の四方に、柴を積上(つみあげ)、火を放(はなち)けるに、餘煙(よゑん)、谷に滿(みち)て、終(つい)に榎も灰燼(くわいじん)となれば、人皆(《ひと》みな)、興(けう)を、さましける。

 しかれども、蝮蝎は、始終、目には見へねども[やぶちゃん注:ママ。「見えねば」が相応しい。]、

「定(さだめ)て、燒殺(やきころ)さるべし。」

と沙汰しけるとかや。

 かくて、一兩年、過《すぎ》て、秋、守(もり)を懸(かく)るに、燒失(やけうせ)たる榎の跡より、杖(つゑ)ほどなる若生(わかはへ)、二、三本、出(いで)けるを、こだてに取(とり)てかけ置(をき)けるが、ある夜(よ)、自身(じしん)に守に行(ゆき)て、前後もしらず、伏(ふし)ゐたりけるに、ほぐしの火、もえ出《いで》て、守に移(うつり)、一時(いちどき)に火に成(なり)ければ、とやかくする内に、惣身(そうみ)、燒(やけ)て、漸(やうやう)に這出(はひいで)、歸(かへり)て、色々と治療すれども、大疵(おほきず)なれば、叶(かなは)ずして、終(つい)に死《しに》けり。

 是を、きく人、

「疑(うたがい)もなき、蝮蝎の報(むくひ)ぞ。」

と沙汰しける趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:「佐用郡東本鄕村」「ひなたGPS」でも「東本鄕」は見当たらないので、現在の佐用町本郷(グーグル・マップ・データ航空写真)の東ととっておく。佐用町の中心地より東へ五キロほど行った山間の幕山川沿岸に当たる。

「一兩年」一、二年。

「ほぐし」「火串」。火をつけた松明(たいまつ)を挟んで地に立てる木。狭義には、夏場に、これに鹿などの近寄るのを待って射取ったりするものだが、ここは秋の夜の田守の照明用である。]

西播怪談實記(ここ以下は恣意的正字化版に変更) 河虎骨繼の妙藥を傳へし事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。しかし、前回の最後の注で述べた通り、これまで底本としてきた「国文学研究資料館」のこちらの写本は実は不全写本で、以下の巻三の七話と卷四総て(全十二話)が載っていない。私自身が完本写本と思い込んで始め、最近になって不完全写本であることに気づいたていたらくであった。しかし、ここで尻切れ蜻蛉で終わらせる気は、毛頭、ない。その昔は原本を見ることが出來ない時、歴史的仮名遣は温存している敗戦直後まで近現代小説でよくやったのだが、以降は、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して続行することとする凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 今回は「……」を使用した。]

 

 ○河虎(かはとら)骨繼(ほねつぎ)の妙藥を傳へし事

 佐用郡、さる御家中より「骨繼の妙藥」を出《いだ》さる。其功、甚(はなはだ)多し。尤《もつとも》、世に、

「河虎の傳(でん)。」

とて、信仰せり。

 其所謂(いわれ)を聞(きく)に、寶永の比《ころ》とかや、七月下旬の事成《なり》しに、殘暑、强(つよく)して、駒も廏(うまや)に、けだへければ、野飼(のがい)のため、河邊へ出《いだ》し、木陰の小き柳に繫置(つなぎをき)たり。[やぶちゃん注:「けだへ」は見かけない語である。「けだちければ」なら、「蹴立ちければ」で暑さに上気した馬が、「後ろ足で蹴って起き上がって」「荒々しく立ち上がって」の意でとれるのだが。「氣絕(けだ)へ」なら、「暑さにやられて、ぐったりしてしまう」の意ともとれようか。]

 然(しかる)に、駒(こま)、何かはしらず、引《ひき》ずり歸(かへり)て、廠ヘ、一さんに走入(はしりいる)。

 仲間、

「何事やらむ。」

と、行《ゆき》てみれば、片隅に、猿のやうなるもの、手綱を身にまといて、かゞみ居《ゐ》る。

 


Kawatora

 

 駒は、向(むかい)の方にて、息を繼(つぎ)ゐたるを、柱に繫置、彼(かの)ものを、引出《ひきいだ》し、庭の柹(かき)の木に結付(ゆいつけ)て、能々(よく《よく》)みれば……

容(かたち)……猿に似て……猿にあらず……

頭上(づぜう)に……少(ちと)……窪みあり……

髮は……赤松葉のごとくにして……

……大《おほい》猿程なり……

「是、聞《きき》及ぶ河虎(かはとら)なるべし。」

と、寄々(より《より》)、評判の最中に、檀那、歸(かへり)て、件(くだん)の子細を聞《きき》、

「己(をのれ)、憎奴(にくきやつ)なり。此川筋(このかはすじ)にて、折々、人も失(うせ)るは、己(をのれ)が仕業(しわざ)なるべし。なぶり殺にしてくれん。」

と大(だい)の眼(め)をいからし、脇差を拔(ぬき)て、右の手を打落(うちをと)せば、河虎、

「しほしほ」

として、淚をながしていふやう、

「我、今日《けふ》、馬を淵へ曳入(ひきいれ)むとして、誤(あやまつ)て引(ひき)ずられきたりて、うきめにあふ。命(いのち)を助(たすけ)給へ。今より、御一門はいふに及(をよば)ず、當村(とうむら)の衆(しう)へ、少(すこし)も手を出《だ》すべからず。」

といへば、旦那、

「其方を殺したりとて、躬(み)が手柄にもならねば、品(しな)により免(ゆる)しても、とらすべし。『誤證文(あやまりしやうもん)』を書(かく)べし。」[やぶちゃん注:「誤證文」「謝り證文」。所謂、「詫び証文」である。]

といふ。

 河虎、荅(こたへ)て、

「元來、物書事(ものかくこと)は、ならず。其上、手も、なし。免し給ひ、御慈悲に、先刻、切(きり)給ふ手も、御返し下され。」

といふ。

 旦那、

「切たる手をかへしたりとて、繼(つぐ)事も成(なる)まじ。此方(このかた)に置(をき)て己(をのれ)とらヘし印(しるし)とせん。」

といへば、一向(ひたすら)頭(づ)を下(さげ)て、

「是非とも、御かへし下さるべし。罷歸《まかりかへり》候へば、今宵の中(うち)に元の如く繼(つぎ)申す。」

といふ。

 旦那、

「其藥(そのくすり)は己(をのれ)が調合するか。」

といへば、

「なるほど、拵(こしらへ)申す。」

といふ。

「しからば、手を戾すべし。其藥方(やくほう)を、我につたへよ。」

といひければ、

「命の代(かはり)なれば、安き事なり。」

とて、人をはらひ、密(ひそか)に祕藥(ひやく)を傳(つたふ)れば、念比(ねんごろ)に認(したゝめ)とりて、彼(かの)手を返し、河虎は川へ送(をくら)せけるが、其後(そのゝち)、其所(そのところ)にては、人も、失(うせ)ず。

「殊更、藥方、奇(き)にして、子孫に傳はりしは、此いはれ。」

と、聞《きき》ふれし趣《おもむき》を書《かき》つたふもの也。

[やぶちゃん注:「河虎」は「河童」類の中国由来(但し、本邦の河童とはヒト型形状の異種幻獣である。ウィキの「水虎」(すいこ)を参照されたい)の別名。「かはこ」とも読む。典型的な河童駒引譚である。私の「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(11) 「河童ノ詫證文」(2)」にも引用されてある。柳田國男のその「河童駒引」パートは、私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で、ここを初回として全四十一分割で、電子化注してあるので、参照されたい。

「寶永」一七〇四年から一七一一年まで。徳川綱吉・家宣の治世。]

2023/03/10

西播怪談實記 下德久村法覺寺本堂の下にて死し狐の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから(標題のみで本文はここから)。]

 

 ○牧谷《まきたに》村平右衞門《へいゑもん》狐火(きつね《び》)を奪(むはい[やぶちゃん注:ママ。])し事

 宍粟郡(しそう《のこほり》)牧谷村といへる所は、元來、山、深くして、土地、狹く、寔《まこと》の片山里《かたやまさと》なり。

 爰《ここ》に平右衞門といひし農民あり。

 正德年中のある七月の事成《なり》しに、夜更(よふけ)て、自用(しよう)に行《ゆき》、雪隱(せつちん)の下、谷川なれども、照《てり》つゝきたる殘暑にて、水も絕々(たへ《だえ》)なり。時に十間斗《ばかり》先にて、明松(たいまつ)をともすを、窓よりのぞきて見れば、狐火也。

 段々、谷川をつたひて、此方ヘ來《きた》るを見るに、蟹(あかにこ[やぶちゃん注:ママ。この読みは不詳。但し、サワガニを指すことは間違いない。])を、取《とり》て喰(くら)ひ、火は三味線の「ばち」のやうなるものを、口に、くはへて、ふれは[やぶちゃん注:「振れば」。]、火、とほる。

 平右衞門、つくづくと、是をみて、

『さても。重宝(でうほう)なるものなり。何とぞ、奪(むは)ひ取《とら》ん。』

と思ふ内に、はや、雪隱の眞下へ來《きたり》ければ、内より、平右衞門、

「わつ。」

と、いふて、飛出(とび《いづ》)るに、狐、大《おほき》に周章(しうせう)して迯(にけ)けるに、何やら、足本《あしもと》へ、

「からり」

と落(をと)しけるを、

「彼(かの)ものにや。」

と探𢌞(さくり《まは》)り、漸(やうやう)、取得(《とり》ゑ)てみれば、「ばち」に似て、牛の骨のやうなるものなり。

 開《ひらけ》る方《かた》を上(かみ)ヘして、ふれば、

「はつ」

と、もゆる事、小《ちさき》明松(たいまつ)の如く、細き方を上へすれば、忽(たち《まち》)、消(きゆ)る。

「是を所持すれば、烑燈(てうちん)・明松の入《い》るにこそ。」

と独笑(ひとりゑみ)して、大事に懸箱《かけばこ》に納《いれ》てぞ、伏《ふし》たりける。

 然るに、翌《あく》る夜、家内(かない)も寢しづまりて、平右衞門が寢間の戶を叩きて、

「今のを、返せ、返せ。」

と、二、三人斗《ばかり》の声にて、いへば、内より、

「返す事は、ならぬぞ。いね、いね。」

と、いふて、臥(ふし)ゐたり。

 又、翌夜(よくよ)は、二、三十人斗、きたりて、

「戾せ、戾せ、」

と、いふに、平右衞門、敵《てき》ものにて、そしらぬ體(てい)にて、臥(ふし)ゐたり。

 三夜《よ》めには、百四、五十人もきたるやうにて、家の四方を取卷(とりまき)、

「返せ、返せ、返さぬと怨(あた)を、なすぞ。」

といふに、家内《かない》のもの共、恐《おそろし》ければ、平右衞門、止事(やむを)を得ずして、彼ものを取(とり)出し、戶を明《あけ》て、

「返すそ、請取《うけと》れ。」

と、いふて、庭へ抛出(なけ《いだ》)し、戶をさして、入《いれ》けるが、其後《そののち》は、何の音も、せざりけり。

 されば、世閒にて、誰(たれ)慥(たしか)に見しものは、なけれども、

「狐火《きつねび》は、牛の骨なり。」

と、いひ傳へり。

「誠に、似たるものにて、骨には、あらす。」

と、佐用村の大工、三大夫といひしもの、

「牧村《まきむら》へ細工(さいく)に行《ゆき》て、右の平右衞門、直噺《ぢきばなし》を聞《きき》ける。」

とて、物語の趣を書傳者也《かきつたふものなり》。

[やぶちゃん注:類話を読んだことがない。オリジナリティ満載の「狐の火附け器」は面白い!

「宍粟郡牧谷村」現在の兵庫県宍粟市山崎町上牧谷(かみまきだに)の周辺地区。佐用の東北東。可能性としては、南北に貫流する伊沢川沿いに家があったものと推察する。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。徳川家宣・家継の治世。

「自用(しよう)に行」「じよう」。私事(わたくしごと)。ここは便所に行くこと。

「雪隱(せつちん)の下、谷川なれども」文字通りの「厠」(かはや:川屋)で、恐らくは伊沢川に張り出した、下は川岸に開いた解放式の便所である。以下の叙述から、河原の様子が見えることから、かなり高い位置にあることが判る。こうした雪隠については、谷崎潤一郎の「厠のいろいろ (正字正仮名版)」を読むにしくはない。

「十間」約十八メートル。

「牧村」この周辺ではあろう(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」でここだが、特に「牧村」の表示は、もう、ない。

 なお、実は底本の本篇最後の部分には、ご覧の通り、

   *

 ○西播怪談實記三

   *

とあり、二丁空けると、また、例によって、

   *

 寛政十三年

   酉正月中旬写之

      上州碓氷郡八幡村

             矢口牧太郎

                書之

(以下は左丁下方)   拾□□□(落款カブリ)

   *

という筆写者の記名があって(□は判読不能字)、全巻が終わっている。「寛政十三年」は一八〇一年。本書の板行は宝暦四(一七五四)年であるから、四十七年後である。「上州碓氷郡八幡村」は群馬県高崎市八幡町(やわたまち:グーグル・マップ・データ)に相当する。「矢口政太郞」は不詳。

 ところが、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」では、まだ「巻三」は七話を残し、しかも「巻四」が、まだ、あるのである。全く以って私は大呆けで、電子化開始時に、底本が不完全であることを知らずに始め、最近になって、不全写本であることが判ったのであった。しかし、他にネットで視認出来るものはない。されば、以降は、北城信子氏校訂の上記「近世民間異聞怪談集成」の本文を恣意的に正字化(嘗つてはよくやった)して続行することとする。悪しからず。

早川孝太郞「三州橫山話」 「臼と土公神」

早川孝太郞「三州橫山話」 「臼と土公神」・

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○臼と土公神  家の入口を、は入つたところの土間をニハと謂つて、正面に立臼《たてうす》が二ツ据《す》え[やぶちゃん注:ママ。「据う」は本来、ワ行下二段動詞である。]てありました。左手は座敷で、オヱだのオデヱだのと謂つて、右に厩《うまや》が設けてあつて、鷄の巢は多く厩の上に造つてありました。

 臼は北山御料林が伐り拂ひになつた度に各戶へ一組宛下されたものださうで、一ツでは餅を搗き、一ツは手杵《てぎね》で、粟や黍《きび》を搗くに用ひました。餅を搗く方が上手に据へ[やぶちゃん注:ママ。]てありました[やぶちゃん注:『日本民俗誌大系』第五巻版でも『据えてありました』であるが、思うに、「据へてありました」は「拵」(こしら)「へてありました」の誤りではなかろうか?]。

 臼を尊重する風習があつて、女が杵を跨げば何より重い罪だと云つて、過つて跨いだ時は、其杵を負つて、屋根棟を越えさせられるものと謂ひました。又子供が生れて、初めて母親の里へ連れて行つた時は、第一番に内いそぎをしない樣にと云つて、臼の中へ入れる風習がありました。

 臼の据わつて[やぶちゃん注:ママ。]ゐる奧に竈《かまど》が設けてあって、其處に土公神が祀つてありました。多くは其がカマ屋の大黑柱になつてゐるので、其柱にお札などを入れる所が造つてありました。竈のことをクドと謂ひました。土公神は鷄を好むと云つて、鷄を描いた繪などが柱に張つてありました。又松を供へるものとも謂ひました。

 萬歲は土公神を祭るものと謂つて、每年𢌞つて來る萬歲はきまつてゐて、それが來た時は先づ座敷に通して、盆に白米とオヒネリを添へて差出しました、[やぶちゃん注:ママ。]萬歲の方からは、火の用心の札だの惠比壽大黑の札を置いて行きました。奉祝萬歲樂などの文字を書いた札を置いてゆくのもありました。大澤佐重だの森下金太夫など、云ふ名を持つた萬歲が來ました。大澤佐重の僞者《にせもの》が來たなどと言つて騷いだ事がありました。

[やぶちゃん注:「左手は座敷で、オヱだのオデヱだのと謂つて」この「オヱ」「オデヱ」は推理に過ぎないのだが、「土間・庭に対して、畳の敷いてある座敷」を江戸時代に言った「御上」(おうへ(おうえ))の転訛したものではなかろうか?

「臼を尊重する風習があつて、女が杵を跨げば何より重い罪だと云つて」これには、恐らく性的な象徴関係が一面では強く作用しているものと思われる。「物事の逆さまなことの喩え」に「臼から杵」があるが、これは形状と使用法から「臼」は「女」、「杵」は「男」の象徴であって、これは「(男から女に言いよるのが普通であるのに)女から男に働きかけること」の意である。

「内いそぎをしない樣に」意味がよく判らない。家内で早々と亡くなったりしないようにの意か? いや、女性器の象徴たる臼に「戻す」ことで、出征時間を更新し、初潮の始まりをゆっくらとする儀式か? どなたか、御教授願いたい。

「土公神」当該ウィキによれば、「どくしん・どこうしん」とは、『陰陽道における神の一人。土をつかさどるとされ、仏教における「堅牢地神」(けんろうちしん=地天)と同体とされる。地域によっては土公様(どこうさま)とも呼ばれ、仏教における普賢菩薩を本地とするとされる』とし、『土をつかさどるこの神は、季節によって遊行するとされ、春はかまど(古い時代かまどは土間に置かれ、土や石でできていた)、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいるとされた。遊行している季節ごとにかまどや門、井戸、庭に関して土を動かす工事を行うと土公神の怒りをかい、祟りがあるという』。『また、土公神は』「かまどの神(かまど神)」とも『され、かまどにまつり』、『朝晩に灯明を捧げることとされる。この神は、不浄を嫌い、刃物をかまどに向けてはならないとされる』とある。

「萬歲」「千秋万歳を言祝ぐ」の意で、新年を祝う歌舞、及び、その歌舞をする大道芸・大道芸人を指す。鎌倉初期以来、宮中に参入するものを「千秋万歳」(せんずまんざい)と呼び、織豊・徳川の頃には単に「万歳」と呼んだ。江戸時代、関東へ来るものは、三河国から出るので「三河万歳」、京都へは大和国から出るので「大和万歳」と称し、服装は、初めは折烏帽子・素袍(すおう)であったが、後には風折(かざおり)烏帽子に大紋(だいもん)の直垂(ひたたれ)を着、腰鼓(こしつづみ)を打ちながら、賀詞を歌って舞い歩いた(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「大澤佐重」不詳。萬歳師の著名な名か。識者の御教授を乞うものである。

西播怪談實記 下德久村法覺寺本堂の下にて死し狐の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。]

 

 ○下德久《しもとくさ》村法覚寺《ほふかくじ》本堂の下にて死(しせ)し狐の事

 佐用郡下德久村に法覚寺といへる眞宗の道場、在《あり》。

 正德年中の六月の事なりしに、住持、暑(あつき)に堪兼(たへかね)て、本堂に續《つづき》たる客殿(きやくでん)、凉しかりければ、書院の際(きわ)に、枕を取《とり》て休(やすみ)けるに、何所《いづこ》ともわかず、寄合(より《あひ》)、鳴(なく)聲の、かすかに、聞へけり。

 暫(しはし)ありて、餅をつく音も聞へけれは、

「さては。花足(けそく)をするならむ。村の中《うち》に、大病人も聞《きか》ざりしが、頓死など、しけるにや。」

と、世の無常も思ひ出られ、哀(あはれ)を催しながら、庫裡(くり)へ出て、

「誰(た)そ、村の中《うち》に、死けるや。」

と問(とふ)に、

「何の噂もなく、殊更、村の中に病人有《あり》とも、きかず。定(さため)て、晝寢の中《うち》に、夢を見給ふにや。」

と、口々に荅(こたへ)て、笑ければ、又、以前の書院へ立歸《たちかへり》て聞《きく》に、何の音もせざれば、

「堵は。我、少《すこし》の内にまどろみ、夢を見たるにや。」

と、其後は噂もせすして居《をり》けるに、翌、朝陰(あさかけ)に、前栽(せんさい)へ、供養の花を切《きり》に出《いで》けるに、本堂の北の側《がは》に、狐、壱ツ、死《しし》てゐければ、

「偖は。きのふの音は、是ならん。」

と、寺内(しない)のものを呼《よび》て見せ、後(うしろ)の山に埋(うつ)み、寺僧ども、「阿弥陀經」を讀誦(とくしゆ)して遣はしけるよし。

 予が檀那寺なれば、直噺(ちきはなし)をきゝける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「法覚寺」兵庫県佐用郡佐用町下徳久に現存する(グーグル・マップ・データ)。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。

「華足」「花足」とも書く。ここでは「仏に供える餅」を指す。元々は、机や台などの脚の先端を、外側に巻き返して蕨手(わらびて)とした脚の附いた供え物を盛る器のことを指したものが、転訛したもの。

「朝陰」「朝影」。原義は「朝日の光り」で、朝日が射しかかってくる頃。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 秋(アルベール・サマン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

   サマン

 

うづまく風は扉をたふし、

そのしたに森は髮のやうに身をもだえる。

かちあふ木々の幹は砂(いさご)の輾轉する海のひびきのやうに、

はげしい風鳴りをたかめてゐる。

 

おぼろな丘(をか)におりてくる秋は、

重い步みのうちにわたし達の心をふるへさせる。

そしてどんなにいたはしく萎れた薔薇のめめしい失望を、

かなしんでやるかをごらんなさい。

 

休みなくぶんぶんいつた黃金色の蜂の翔けりも沈默した。

閂は錆のついた門格子にきりきりとなる。

あを蔦(つた)の棚はふるへ、 地はしめつてきた。

そして白いリンネルは圍(かこ)ひ地のなかに、 うろたへてかさかさとする。

 

さびれた庭は微笑する、

死がくるときに、 ながながとお前に別れをいふやさしい顏のやうに。

ただ鐵砧(かなしき)のおとか、 それとも、 犬のなきごゑか、

うつたうしくしめきつた窓ガラスにやつてくる。

 

母子草と黃楊(つげ)の樹の瞑想をさましつつ、

鐘はひくいねに檀家の人の心になりいでる、

また光りは苦悶のはてしない身ぶるひをして、

空のふかみに、ながいながい夜のくるのをきいてゐる。

 

このものあはれな長夜(ながよ)も明日(あす)になつたらかはるだらう、

すがすがしい朝とひややかな又うつけな朝と、

たくさんの白い蝶は葉牡丹(はぼたん)のなかにひらめきながら、

また物音はこころよい微風の中にさはやかになりながら。

 

それはさておき、 この家はお前のことを嘆きもしないで、

その木蔦と燕の巢とでお前をもてなしてくれる、

そして自分のわきに放蕩者のかへるのを待ちうけて、

ながい藍色の屋根の波にけむりをのぼらせる。

 

命(いのち)がやぶれ、 ながれいで、 もえあがるとき、

うき世のつよい酒にゑひしれて、

血の盃(さかづき)のうへにおもい髮の毛がたれかかれば、

よごれた魂はちやうど遊女のやうである。

 

けれども、 鴉は空のなかに數しれずむらがる、

そしてもはや、 さわがしい狂氣をすてて、

その魂は、 旅人が歸り旅のみちすがら、

なじみの調度にめぐりあふたのしい嘆息をおしのける。

 

夏の花びらは花梗のうへに黑くしをれてゐる。

おまへの室にまたはひり、 おまへのマントを釘にかける。

水のなかの薔薇のやうなお前のゆめは、

仲のよいランプのあまい太陽にひらいてくる。

 

思ひにしづんでゐる時計では、

知らせの鈴(りん)がひそかに沈默の心をうつ、

窓ぎはの孤獨はその氣づかひをひろめてゆき、

かがみながら姊のやうにおまへの額に接物する。

これは申分のない隱(かく)れ家(が)だ、 これは氣持のよい住居(すまひ)だ。

あつたかい壁の密室、 ひまもない竃(かまど)、

そこで極めて稀なる越栗幾失兒(エリキシル)のやうに、

内心の生命(いのち)のうつくしい本質をつくりあげる。

 

そこに、 お前は假面と重荷とをとりのけることが出來る。

騷擾からはなれて、 いな虛飾から遠くのがれて、

いとしいものの匂ひを、 カーテンの襞(ひだ)のなかにあらはになつてゐる。

おまへの胸にばかりただよはせるために。

 

このときこそ、 心おきなく仕事にいそしんでまことの神を禮拜し、

神々しい身ぶるひがお前の年若さと淸らかさとを、

はればれとあらはすやうになつてくる。

秋はこのためにたぐひないよい季節である。

 

すべてのものはしづかに、 風は廊下の奧にすすりなき、

お前の精神はおろかなる鎖をたちきつた。

そしてうごかない時の水のうへに裸のままうなだれて、

そのふさはしい鏡のきれいな水晶に自分の姿をうつす。

 

それは消えかかつた火のわきの裸の女神(めがみ)である、

あたらしい空氣のなかに船出(ふなで)するぼんやりとした大きな船である、

肉感的な、また物思はしい接吻のするどい液(しる)と、

人に知られない水のうへの日沒である………

 

[やぶちゃん注:アルベール・ヴィクトル・サマン(Albert Victor Samain 一八五八年~ 一九〇〇 年 )は〈秋と黄昏(たそがれ)の詩人〉と称えられたフランス象徴派の詩人。リール生まれ。パリに出て文芸雑誌『メルキュール・ド・フランス』(Mercure de France)創刊に協力した。代表作に象徴派風の第一詩集「王女の庭で」(Au Jardin de l'Infante :一八九三年)、高踏派風の第二詩集「壺の肌に」(Au flanc du vase:一八九八年)がある。ボードレールから強い影響を受け、ヴェルレーヌの詩にも感化された、やや病的なエレジーを得意とした。

「おまへの室にまたはひり、 おまへのマントを釘にかける。」の一行中、「はひり」の後には読点らしきものがない(左手に微かな汚損はある)が、前後に徵して、読点を打った。

「閂」は「かんぬき」と読む。

 以下にフランス語サイトのこちらにある原詩を引いて示す。それのよれば、一八九四年十月、パリ南西近郊のイヴリーヌ県にあるマニー=レ=ザモー(Magny-les-Hameaux:グーグル・マップ・データ)での作。

   *

 

   Automne   Albert Samain

 

Le vent tourbillonnant, qui rabat les volets,

Là-bas tord la forêt comme une chevelure.

Des troncs entrechoqués monte un puissant murmure

Pareil au bruit des mers, rouleuses de galets.

 

L’Automne qui descend les collines voilées

Fait, sous ses pas profonds, tressaillir notre coeur ;

Et voici que s’afflige avec plus de ferveur

Le tendre désespoir des roses envolées.

 

Le vol des guêpes d’or qui vibrait sans repos

S’est tu ; le pêne grince à la grille rouillée ;

La tonnelle grelotte et la terre est mouillée,

Et le linge blanc claque, éperdu, dans l’enclos.

 

Le jardin nu sourit comme une face aimée

Qui vous dit longuement adieu, quand la mort vient ;

Seul, le son d’une enclume ou l’aboiement d’un chien

Monte, mélancolique, à la vitre fermée.

 

Suscitant des pensers d’immortelle et de buis,

La cloche sonne, grave, au coeur de la paroisse ;

Et la lumière, avec un long frisson d’angoisse,

Ecoute au fond du ciel venir des longues nuits…

 

Les longues nuits demain remplaceront, lugubres,

Les limpides matins, les matins frais et fous,

Pleins de papillons blancs chavirant dans les choux

Et de voix sonnant clair dans les brises salubres.

 

Qu’importe, la maison, sans se plaindre de toi,

T’accueille avec son lierre et ses nids d’hirondelle,

Et, fêtant le retour du prodigue près d’elle,

Fait sortir la fumée à longs flots bleus du toit.

 

Lorsque la vie éclate et ruisselle et flamboie,

Ivre du vin trop fort de la terre, et laissant

Pendre ses cheveux lourds sur la coupe du sang,

L’âme impure est pareille à la fille de joie.

 

Mais les corbeaux au ciel s’assemblent par milliers,

Et déjà, reniant sa folie orageuse,

L’âme pousse un soupir joyeux de voyageuse

Qui retrouve, en rentrant, ses meubles familiers.

 

L’étendard de l’été pend noirci sur sa hampe.

Remonte dans ta chambre, accroche ton manteau ;

Et que ton rêve, ainsi qu’une rose dans l’eau,

S’entr’ouvre au doux soleil intime de la lampe.

 

Dans l’horloge pensive, au timbre avertisseur,

Mystérieusement bat le coeur du Silence.

La Solitude au seuil étend sa vigilance,

Et baise, en se penchant, ton front comme une soeur.

 

C’est le refuge élu, c’est la bonne demeure,

La cellule aux murs chauds, l’âtre au subtil loisir,

Où s’élabore, ainsi qu’un très rare élixir,

L’essence fine de la vie intérieure.

 

Là, tu peux déposer le masque et les fardeaux,

Loin de la foule et libre, enfin, des simagrées,

Afin que le parfum des choses préférées

Flotte, seul, pour ton coeur dans les plis des rideaux.

 

C’est la bonne saison, entre toutes féconde,

D’adorer tes vrais dieux, sans honte, à ta façon,

Et de descendre en toi jusqu’au divin frisson

De te découvrir jeune et vierge comme un monde !

 

Tout est calme ; le vent pleure au fond du couloir ;

Ton esprit a rompu ses chaînes imbéciles,

Et, nu, penché sur l’eau des heures immobiles,

Se mire au pur cristal de son propre miroir :

 

Et, près du feu qui meurt, ce sont des Grâces nues,

Des départs de vaisseaux haut voilés dans l’air vif,

L’âpre suc d’un baiser sensuel et pensif,

Et des soleils couchants sur des eaux inconnues…

 

   *

「母子草」原詩の「immortelle」の訳だが、誤り。そもそもキク目キク科キク亜科ハハコグサ連ハハコグサ属ハハコグサ Gnaphalium affine (「ホウコグサ・ホオコグサ」の異名でも知られる)は、日本以外では中国・インドシナ・マレーシア・インドに分布する(本邦では全国的に見られるが、古代に中国か朝鮮から帰化したものと考えられている)が、フランスには自生しないから、まず、サマンはハハコグサ自体を知らない、見たことがないと考えてよいし、だいたいからして季節が合わない(「春の七草」の一つで、本邦では知らぬ人もあるまいが、学名画像検索をリンクさせておく)。 或いは、拓次の持つ辞典にそう誤解させるいい加減な記載があったのかも知れぬが、私の所持する辞書では、固有名詞では『麦藁菊(むぎわらぎく)』とする(因みにこの単語は一般名詞で「不滅の存在」「神」の意がある)。これは、キク目キク科ムギワラギク属ムギワラギク Helichrysum bracteatum であり、オーストラリア原産(以下も合わせてフランス語の当該ウィキに拠る)で、一八五〇年代にドイツで換喩植物として繁殖が行われ、多様な品種が生み出された。学名画像検索を示しておくが、比較するべくもなく、ハハコグサとは、赤の他人で似たところは微塵もないから、これは、やはりトンデモ語訳とするしかない

「越栗幾失兒(エリキシル)」「élixir」。音写は「エリィキスィール」。本来は「植物等から抽出精製した「精分」であるが、ここでは「霊薬・秘薬」の意。

 なお、例の原子朗編「大手拓次詩集」では、原詩に則り、十連目が二つに分離されている。以上の正規表現版を用いて、それを再現しておく。

   *

 

   サマン

 

うづまく風は扉をたふし、

そのしたに森は髮のやうに身をもだえる。

かちあふ木々の幹は砂(いさご)の輾轉する海のひびきのやうに、

はげしい風鳴りをたかめてゐる。

 

おぼろな丘(をか)におりてくる秋は、

重い步みのうちにわたし達の心をふるへさせる。

そしてどんなにいたはしく萎れた薔薇のめめしい失望を、

かなしんでやるかをごらんなさい。

 

休みなくぶんぶんいつた黃金色の蜂の翔けりも沈默した。

閂は錆のついた門格子にきりきりとなる。

あを蔦(つた)の棚はふるへ、地はしめつてきた。

そして白いリンネルは圍(かこ)ひ地のなかに、 うろたへてかさかさとする。

 

さびれた庭は微笑する、

死がくるときに、 ながながとお前に別れをいふやさしい顏のやうに。

ただ鐵砧(かなしき)のおとか、 それとも、 犬のなきごゑか、

うつたうしくしめきつた窓ガラスにやつてくる。

 

母子草と黃楊(つげ)の樹の瞑想をさましつつ、

鐘はひくいねに檀家の人の心になりいでる、

また光りは苦悶のはてしない身ぶるひをして、

空のふかみに、ながいながい夜のくるのをきいてゐる。

 

このものあはれな長夜(ながよ)も明日(あす)になつたらかはるだらう、

すがすがしい朝とひややかな又うつけな朝と、

たくさんの白い蝶は葉牡丹(はぼたん)のなかにひらめきながら、

また物音はこころよい微風の中にさはやかになりながら。

 

それはさておき、 この家はお前のことを嘆きもしないで、

その木蔦と燕の巢とでお前をもてなしてくれる、

そして自分のわきに放蕩者のかへるのを待ちうけて、

ながい藍色の屋根の波にけむりをのぼらせる。

 

命(いのち)がやぶれ、ながれいで、もえあがるとき、

うき世のつよい酒にゑひしれて、

血の盃(さかづき)のうへにおもい髮の毛がたれかかれば、

よごれた魂はちやうど遊女のやうである。

 

けれども、 鴉は空のなかに數しれずむらがる、

そしてもはや、 さわがしい狂氣をすてて、

その魂は、旅人が歸り旅のみちすがら、

なじみの調度にめぐりあふたのしい嘆息をおしのける。

 

夏の花びらは花梗のうへに黑くしをれてゐる。

おまへの室にまたはひり おまへのマントを釘にかける。

水のなかの薔薇のやうなお前のゆめは、

仲のよいランプのあまい太陽にひらいてくる。

 

思ひにしづんでゐる時計では、

知らせの鈴(りん)がひそかに沈默の心をうつ、

窓ぎはの孤獨はその氣づかひをひろめてゆき、

かがみながら姊のやうにおまへの額に接物する。

 

これは申分のない隱(かく)れ家(が)だ、これは氣持のよい住居(すまひ)だ。

あつたかい壁の密室、ひまもない竃(かまど)、

そこで極めて稀なる越栗幾失兒(エリキシル)のやうに、

内心の生命(いのち)のうつくしい本質をつくりあげる。

 

そこに、 お前は假面と重荷とをとりのけることが出來る。

騷擾(そうぜう)からはなれて、 いな虛飾から遠くのがれて、

いとしいものの匂ひを、 カーテンの襞(ひだ)のなかにあらはになつてゐる。

おまへの胸にばかりただよはせるために。

 

このときこそ、 心おきなく仕事にいそしんでまことの神を禮拜し、

神神しい身ぶるひがお前の年若さと淸らかさとを、

はればれとあらはすやうになつてくる。

秋はこのためにたぐひないよい季節である。

 

すべてのものはしづかに、 風は廊下の奧にすすりなき、

お前の精神はおろかなる鎖をたちきつた。

そしてうごかない時の水のうへに裸のままうなだれて、

そのふさはしい鏡のきれいな水晶に自分の姿をうつす。

 

それは消えかかつた火のわきの裸の女神(めがみ)である、

あたらしい空氣のなかに船出(ふなで)するぼんやりとした大きな船である、

肉感的な、また物思はしい接吻のするどい液(しる)と、

人に知られない水のうへの日沒である………

 

   *]

西播怪談實記 姬路を乘物にて通りし狐の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。

 消息文は雰囲気を出すために句読点を打たなかった。]

 

 ○姬路を乘物にて通りし狐の事

 正德の年號も、まだ、初方《はじめつかた》の事なりしに、姬路の年行司所《ねんぎやうじどころ》へ、先觸《さきぶれ》壱通、到來す。其文に曰《いはく》、

「此度(このたひ) 御典藥(ごてんやく)木下雲菴(うんあん)壱人 肥前國長崎藥草御改爲(をんあらため)御用被遣(さしつかはさるゝ)付 御朱印 人足四人 被下置間(くたしをかるゝあいた) 員數(いんしゆ) 御證文(《ご》しや《う》もん)之通《とほり》 徃來共(わうらい《ども》) 宿々《しゆくじゆく》 無滯(とゝこをり《なく》)可差出者也《さしいだすべきものなり》 正德二年三月日」

 包紙(つつみ)の上に、

「御證文之写(うつし)」

と在《あり》、外壱通、在、其文に曰、

「覚《おぼえ》 人足四人 右者 此度 木下雲庵 藥草御改爲御用[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、ルビに『として』が添えられてある。] 肥前國長崎罷越侯付 被下候間 宿々 無滯差出可給候以上 辰ノ三月日 木下雲庵内《うち》 山本伴七(《やま》もとはん《しち》」

とある觸書、到來によつて、宿役《しゆくやく》のもの、人足、用意して待《まち》ゐたりける。

 然《しかる》に、翌日、出來《いでき》たる乘物、結講[やぶちゃん注:ママ。](けつかう)にして、醫者、年、五十斗《ばかり》に見へて、有髮(うはつ)なるが、乘物の内にて、卷臺(けんだい)に向居(むかいい)たり。

 其器量、宜(よろ)し。

 若黨・草履取・長刀持(なぎなた《もち》)狹箱(はさみばこ)、供𢌞(とも《まはり》)は三人也《なり》しか、狹箱には、

「御用」

と有《ある》札《ふだ》を立《たて》、正条《せいてう》の驛(しゆく)ヘ越《こし》にけり。

 かくて、三日後に、又、壱通、到來す。其文に曰、

「此間《このあひだ》 藥草御改爲御用[やぶちゃん注:同前で『として』とある。]醫師壱人從者(すさ)三人 肥前國長崎相下(あいくたり) 宿々 御朱印 人足にて 相通り候旨《むね》 粗(ほゝ)相聞《あひきこ》付 追々 遂(とげ)吟味(きんみ)候所 右之者共 狐而《て》 宿々 誑(たふらかし) 相通《あひとほ》候樣子 相聞候 此後(このゝち)右之共 罷歸候者(まかりかへり《さふらはば》) 搦捕(からめとり) 其所之者共 如何樣(いかやう)共《とも》可(へき)相斗(あいはかる)者也 月日 宿々」

と在《あり》。

 是を聞《きく》ものども、橫手(よこて)を打《うち》けるが、後《のち》に聞《きけ》ば、

「播州斗《ばかり》の事。」

と聞へし。

「跡よりの觸書《ふれがき》も、狐の仕業(しはさ)。」

と聞へて、觸出(ふれた)し・觸留《ふれどめ》もなく、二度、恂(ひつくり)しけるよし。

 聞つたふ趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:怪奇談というより、私の好きなニコライ・ゴーゴリの戯曲「検察官」(一八三六年初演)並みに面白い騙しの擬似テクニカル・ホラーである。事実あったこととすると、甚だ痛快ではないか!

「年行司所」都市の経済的に裕福な町衆や商工業者から選ばれた代表が、一年期限で務めた当該地区に於ける自治組織。

「御典藥(ごてんやく)」朝廷・将軍家及び大大名お抱えの医師。ここは幕府方のそれであろう。

「正德二年三月」壬辰。グレゴリ曆では一七一二年四月六日から五月五日までの間。

「宿役」年行司所の中の、宿の手配と接待を兼ねた担当者であろう。

「卷臺(けんだい)」「見臺」のことであろう。「書見臺」の略。書物を載せて読むための台。

「若黨・草履取・長刀持(なぎなた《もち》)狹箱(はさみばこ)、供𢌞(とも《まはり》)は三人也」ちょっと不審。「長刀持ち」と「挾箱持ち」は一緒に持つことは物理的に出来ないと思う。

「正条の驛(しゆく)ヘ越《こし》にけり」現在の兵庫県たつの市揖保川町正條(いぼがわちょうしょうじょう)にあった西国街道を横切る揖保川の東の「正條宿(グーグル・マップ・データ)へと向かった」の意。

「罷歸」この部分、「罷」は底本(右丁七行目下)では逆立ちしてもちょっと判読出来ないものであるが、「近世民間異聞怪談集成」に従って翻刻した。

「橫手(よこて)を打ける」思わず両手を打ち合わせる。意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた。」と思い当たったりしたときなどにする動作。

「恂(ひつくり)」この漢字は「まこと・まことに」「またたく・目がくらむ」の他に「怖れる・恐れ戦く」の意がある。「吃驚」に同じ。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「變つた祠」・「地の神と墓地」・「門の入口」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○變つた祠  馬が死んで建てた馬頭觀音や、愛宕神の祠などは、路傍に一團宛になつて幾ケ所もありましたが、生砂神《うぶすながみ》の境内には、風の神の祠と云ふのがあります。字神田には、近年発電所工事の折に、慘死した二人の工夫の碑が建てられましたが、それには、風前頓悟信士、諸行寂定信士の文字がありました。

[やぶちゃん注:「馬頭觀音や、愛宕神の祠」先行する「張切りの松」の私の注を参照されたい。

「生砂神の境内には、風の神の祠と云ふのがあります」「生砂神」は既出既注であるが(現在の白鳥神社。グーグル・マップ・データ)、「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の右端の「生砂神社」の左に『風の神祠』とあるのが、それ。サイド・パネルの画像を見ても、それらしい位置にはないようであるが、或いは、現在の白鳥神社の左に小さな祠が見え、或いは、これかも知れない。

「神田」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。長篠発電所が視認出来る。「早川孝太郎研究会」の本篇には、『発電所から猿橋に下りる道の途中にある工夫の碑風前頓悟信士、諸行寂定信士の文字が読み取れます』とキャプションした、写真が載る。]

 

 ○地の神と墓地 何處の家にも、代々の墓地が屋敷の傍にあつて(多くは一段高い所)其傍に地の神が祀つてありました。其處には觀音の像や、南無阿彌陀佛と刻んだ碑や馬頭觀音の碑などが、五ツ六ツ位建つてゐました。

 家々の墓地は、現今は形ちのみで、死人のあつた場合は、村の共同墓地へ葬る規定ですが、四十九日の忌明《きあけ》が濟めば、埋めた所の土だけ持つて來て、代々の墓地へ引越してしまふので、其處には新しい碑も建ちますが、共同墓地には、今以て一つの碑も出來ない有樣です。それは現在の共同墓地が、未だ充分村のものに親しめない爲めもあつて、あの人一人あんな所へやつて置くのは可愛さうだなどゝ謂つて、一緖にする事も理由の一つで、また一つには參詣などに不便な點もあるらしいのです。

 何れの家にも、何々の屋敷址とか門あとゝいったものが屋敷の近くにあって、其等が畑の中や路の傍に、第二の地の神位《ぐらゐ》の待遇を受けてゐて、盆とか正月には、新しく花壺も立て替へられ、松火《たいまつ》も焚きました。

[やぶちゃん注:「現在の共同墓地」位置不詳。思うに、これは明治になって墓制が寺院や共同墓地に限定された結果生じた現象でることが判る。一般に両墓制は単墓制よりも古いとされるが、少なくともここ横山では、新しい。だから、共同墓地には碑を建てないのである。一部の民俗学者は、敷地内に死の穢れを齎すことを怖れて、埋葬を家屋外に配したという説には私は敢然と反対するものである。]

 

 ○門の入口 道路から屋敷へは入《い》る所は、家の神棚や佛壇と同じやうに、每朝線香を立てたり茶誦をしたりしました。道から門へ眞つすぐに入口をつけると、魔がさすとも謂ひました。家は普通主家《おもや》とカマ家《や》の二ツに別れて間に樋《とひ》が懸つてゐました。

[やぶちゃん注:「茶誦」「ちやじゆ(ちゃじゅ)」と読んでおく。見慣れない単語であるが、ある対象(屋敷神或いは祖先)に茶を捧げ、お祈りや感謝の言葉を誦(とな)えることであろう。住居の入口に神が宿り、家を守るという信仰は縄文時代から見られる極めて古層の信仰形態である。

「道から門へ眞つすぐに入口をつけると、魔がさす」沖縄の伝統的な家屋の門にある魔物除けの壁「ひんぷん」を想起させる。この中国の屏風由来とされる壁は、魔物が、直接、家の中に入ってこれないように配されるから、「魔がさす」(魔の視線が家屋の奥まで刺し通す・指し示して災いを齎す)という謂いが実にしっくりくる。

「カマ家」「竃家」で竃(かまど)がある厨房のことであろう。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「水神樣」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]

 

 ○水神樣 寒狹川の岸に、水神樣と呼んでゐる碑がありましたが、それには溺死亡粥の文字があって、每年七月十三日の日に川施餓鬼を行ひました。こゝの稍《やや》下寄りに、岩と岩とが、兩岸から出て、川幅が一間許《ばか》しにせばめられた處に、材木などを渡して橋をなしてゐる所を猿橋と謂つて、出水の折を除くと、村の交通機關になつてゐました。鳳來寺の寺記によると、昔、天武天皇の勅使が下向ありし時、此川に橋なく困難の處へ、何處《いづこ》ともなく無數の猿が來て枯木を川に渡して、勅使を渡し參らせし故、其處を猿橋と謂ふとあります。

[やぶちゃん注:「水神樣と呼んでゐる碑がありました」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の下方の右手、寒狹川左岸に『水神祠』とあるのがそれ。「猿橋」はグーグル・マップ・データ(航空写真)でポイントされているが、碑については、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)に(写真二葉あり)、『昔の猿橋は、現在の橋の橋台のところに架かっていた。今の橋でも洪水時には水面より数メートル下に沈む。当時は出水の度にかけた丸太が流され交通止めになった』と記された後に、『水神様を探したのですが、見つけることが出来ませんでした』と附記があるので、現存しないようである。グーグル・マップ・データ「猿橋」のサイド・パネルにも写真が複数あり、別な写真に橋名板「猿橋」も現認出来る。

「溺死亡粥」「できしばうかゆ」と読んでおく。川での水死人の霊を弔う「川施餓鬼」で、その供養に粥を供えたり、流したりすることを言うのであろう。海で亡くなった者や入水自殺した者、及び、難産で亡くなった妊婦の霊を成仏させるために弔う、水辺で行なわれる仏事供養としての「水施餓鬼」に含まれる。通常は、経木を水に流したり、ほとりに竹や板塔婆を立て、それに布を張って、道行く人に水をかけて貰ったりもする。布の色が褪せるまでは亡霊は浮ばれないとされる。「流灌頂」(ながれかんじょう)とも呼ぶ。「小泉八雲 海のほとりにて  (大谷正信訳)」に祭壇の画像が載るので、是非、見られたい。

「鳳來寺」横山の東北直近の愛知県新城市門谷(かどや)字鳳来寺の鳳来寺山の山頂附近にある真言宗五智教団煙巌山(えんごんさん)鳳来寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は開山(大宝二(七〇二)年)の利修作とされる薬師如来で、古来、「峯の薬師」と呼ばれた。この山に多く棲息し、愛知県の県鳥であるコノハズク(フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus sunia 。「声の仏法僧(ブッポウソウ)」(「姿の仏法僧」と呼ばれる日本には夏鳥として飛来するブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis との誤認で、この誤りが正されたのは昭和一〇(一九三五)年のことで、実に一千年にも及び、鳴き声を勘違いされてきた))でも有名。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「天武天皇」(?~朱鳥元(六八六)年)は第四十代天皇(在位:天武天皇二(六七三)年~朱鳥(しゅちょう/すちょう/あかみとり)元(六八六)年)。「勅使」とあるが、具体的には指示し難いものの、当該ウィキによれば、『天武天皇は』天武天皇一二(六八三)年十二月十七日に『難波京を置いた』が、彼は『都を二、三置くべきだと考え(複都制)』、『東にも副都を置こうとしたのか』、同一三(六八四)年二月二十八日に『信濃に三野王』(みぬおう/みのおう:敏達天皇の後裔で従四位下・治部卿)『と采女筑羅』(うねめのつくら:貴族。名は竹良・筑羅・竺羅とも表記される。姓は臣(おみ)で後に朝臣。位階は小錦下・後に直大肆・直大弐)を『視察の遣いとして派遣したが、そちらは着手に至らず終わった』とあるのが、横山を通過するという点で、一つの候補とはなろう。]

 

早川孝太郞「三州橫山話」 「セキの地藏」・「山の神」・「行者講」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○セキの地藏  字仲平の路傍に、村の者が、セキの地藏と呼んでゐる綿にくるまつた小さな石の地藏尊がありました。風をひいた時は、此地藏の綿を借りて來て、着物に縫ひ込んで置き、全快すると新しい綿を奉納する風習がありました。

[やぶちゃん注:「仲平」ここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川へ『カラ澤』と『北澤』の中間の内地に『セキノ地藏』とある。ここは、現在のこのグーグル・マップ・データ航空写真の中央附近に当たるのであるが、ここは現在、国道二五七号部分が長い陸橋(橋名は「横山橋」)となっており、陸側の道も可能な部分を辿ってみたが、この地蔵は、残念ながら、現認出来なかった。しかし、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には注記と二枚の写真があり、まさにこの『横川字仲平・横山橋の下』に現存し、『今でもお参りする人があると見えて、お地蔵様は新しい綿に包まれています』とあった。何か、ホンワカとしてくる画像である。必見!]

 

 ○山の神  山の神の祠は、山には幾ケ所もありましたが、現今村で山の神の祠として祀つてゐるものは、字相知《あひち》の入《いり》にあるもので、他はみんな昔の祠だと云ひます。一月七日と十一月七日が山の神の祭日で、此日は仕事を休んで山の講の日待ちがありました。オトー(月番)に當つた家から、酒や五目飯の振舞があつて、山の神の爲めにある神代《かみしろ》から上つた年貢米は、オトーの家へ納まる事になつてゐました。

 月の七日は山の神の日と謂つて、此日は山へ入ることを忌む風習がありましたが、現今は行はれなくなりました。

 一月四日は初山と謂つて、此日は山へ入つて、一本でも木を伐るものと謂ひます。山の入り口で山の神を祭りますが、此時は、白紙を注連《しめ》のやうに裂いて、それを路傍の木の上に結びつけ、洗米や、小さな餅などを供へて、九字《くじ》をきりましたが、供物の代りに、木の葉などを供へて置くのもありました。

[やぶちゃん注:「相知の入」ここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の左の方に『山ノ神祠』とある。ここはストリートビューが通っていないので現認出来ない。但し、同地図には他にも、左の中央やや右手の双耳峰の鞍部の下方に「山ノ神祠」が、右中央やや上の山の麓(『(字池代)』の谷の奥)にも『山ノ祠』とある。

「日待ち」決った夜に行う忌籠(いみこも)りの一つで、月の出を待つ「月待ち」に対するもので、現行では正月・五月・九月の中旬に行われることが多く、その夜は村人たちが当番の家に寄合って忌籠りし、翌朝、日の出を拝して解散する。「まち」は、元は「まつり」(祀り・祭り)の意と考えられており、本来は人々が集って神とともに共同飲食する神人共食に由来する「祭り」が、次第に「日を待つ」の意へと転訛したものと思われている。「夜籠り」は、もともと、厳しい斎戒を伴うものであり、その夜は各々の家の火を清め、当番宿では女を避け、総て、男子の手で行う決まりであった(現在、その風を守って居る地方もある)が、次第に庚申講などと同じく酒宴を伴う遊宴へと変化した。

「神代《かみしろ》」は私の推定読みだが、明かに稲の豊作を祈って特別に植えた神聖な田地を指していると考えた。所謂、「田の神」に捧げる「初穗」を収穫するためのそれである。

「九字」当該ウィキによれば、『道家に』よって、『呪力を持つとされた』九『つの漢字』を指す語。『西晋と東晋の葛洪が著した』「抱朴子」内篇巻十七「登渉篇」に、『抱朴子が「入山宜知六甲秘祝 祝曰 臨兵鬥者 皆陣列前行 凡九字 常當密祝之 無所不辟 要道不煩 此之謂也」と入山時に唱えるべき「六甲秘祝」として、「臨兵鬥者皆陣列前行」があると言った、と記されており、以後古代中国の道家によって行われた。これが日本に伝えられ、修験道、陰陽道等で主に護身のための呪文として』複数の九字が『行われた』。『この文句を唱えながら、手で印を結ぶか』、『指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守ると信じられてきた』。但し、「抱朴子」の『中では、手印や四縦五横に切るといった所作は見られないため、所作自体は後世の付加物であるとされる(九字護身法)。また、十字といって、九字の後に一文字の漢字を加えて効果を一点に特化させるのもある。一文字の漢字は特化させたい効果によって異なる』とあり、以下、十種の例が載る。]

 

 ○行者講  村の中央の路傍から少し高い所に行者樣と呼んでゐる石像が祀つてありまして、昔は吉野の大峯山《おほみねさん》へ參詣の講社があつたさうで、現今では、一月と六月十一月の各六日の夜、行者講と云ふのを行ひます。オトー(月番)に當つた家では、各戶から白米三合宛を集めて、祭事が濟んでから膳部を振舞ひましたが、祭事をお勤めと云つて、其模樣は床の間へ祭壇を設けて、先達につれて、最初、我昔所造諸惡行《がしやくしよざうしよあくぎやう》云々の呪文を唱へ、次に哥詞《かし》といって、大峯參拜の順路を歌に詠んだものを唱へました。これは記臆してゐませんが、なかに、大峯の西の覗きに身を投げて彌陀の淨土へ行くぞうれしき、吉野なる黑染櫻……云々と言つたものがありました。それから山探しと云つて、吉野山附近一帶の神佛を唱へて、懺悔々々六根淸淨、大峯八大金剛童子、三丈本地南無釋迦藏王權現、一に禮拜《らいはい》南無行者大菩薩と二十一遍唱へて、次に念佛を百遍唱へました。

 行者講の外に、庚申講、伊勢講などの講もありましたが、庚申講だけは、集める米が五合で、オトーに當つた家へ一泊して、翌朝土產に、祭壇へ供へた小豆餅を二つ宛貰つて歸る事になつてゐました。

 これ等に用ふる神像や行事の次第を書いた書附などは總てオトーの家で、次の行事迄保管する規定になつてゐました。

[やぶちゃん注:「行者講」(ぎやうじやこう(ぎょうじゃこう))は大和の金峰山の蔵王権現を信仰し、奉加・寄進・参詣をする信者で構成される扶助団体。「山上講」(さんじょうこう)とも呼ぶ。

「行者樣と呼んでゐる石像」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の右の方の『(萬燈山)』の麓の道がカーブする南東の山側部分に『行人石像』とあるのがそれであろう。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)になくてはならないはずだが、見当たらない。ストリートビューでも確認出来ない。

「吉野の大峯山」奈良県吉野郡天川村にある大峯山山上ヶ岳。山頂に修験道寺院である大峯山寺がある。平安初期以来、現在に至るまで女人禁制の寺として知られる。

「我昔所造諸惡行」「華厳経」四十巻本の「普賢菩薩行願品」(ふげんぼさつぎょうがんぼん)から採った偈文(げもん)。「懺悔偈」(さんげげ)が正式な呼称だが、「懺悔文」(さんげもん)と呼ばれることが多い。以上は第一句であるが、最後の「惡行」は誤りで、「惡業(あくごふ)」である。但し、これは筆者の誤りではなく、行者講で唱えられたものを写したものと推察する。なお、正しい全文は、

   *

我昔所造諸惡業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)

從身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)

一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

   *

参考にした当該ウィキによれば、第三句は禅宗系では『從身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)』とする旨の注記がある。

「庚申講」「北越奇談 巻之三 玉石 其七(光る石)」の私の「庚申塚」の注を参照されたい。

「伊勢講」伊勢参宮を目的とした講(寺社への参詣・寄進を主目的に構成された地域の信者の互助団体。旅費を積み立て、籤で選んだ代表が交代で参詣出来るシステムをとった)。中世末から近世にかけて大山講(現神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社)や富士講と共に盛んに行われた。]

2023/03/09

早川孝太郞「三州橫山話」 「ウマツクロイ場の松」・「馬捨場」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○ウマツクロイ場の松  萬燈山の麓に、村の馬繕場があって、其處に妙な形をした松が二株、道路を覆つてゐました。其松の下に馬喰《ばくらう》が腰をかけてゐて、家々から引き出して行つた馬の蹄を切つたものでした。明治三五六年頃、此松が伐られたと同じ頃に、馬繕ひもなくなりました・

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の右やや中央寄りの既出の『(萬燈山)』の下方(南西)麓の道を隔てたカーブの内側に『馬ツクロノ塲』とあり、その左に並んで『松二本』とある。グーグル・マップ・データ航空写真のこのカーブがそれである。

「明治三五六年」一九〇二、三年。]

 

 ○馬捨場  字長畑と云ふ所から、寒狹川に面した崖の上に、雜木林の中にありました。其處には、馬の白骨が澤山轉がつてゐて、村で馬が死ぬと、村中の者が出て、莚で覆つた死骸を舁いで行つて捨てました。夜になると皮剝ぎが來て、火を焚きながら皮を剝ぐと云ひました。

[やぶちゃん注:「長畑」ここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川の『鮎滝』(グーグル・マップ・データ航空写真)の左岸直近に『山捨塲』とある(リンク先の中央、現在の国道二五七号附近となろう。道の両側に農地や人工物があるので、ストリートビューは控える)。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「村に缺けていた辨天樣」・「張切りの松」・「ヒチリコウの樹(木犀)」・「楠の柱の家」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○村に缺けてゐた辨天樣  字仲平にある辨天の祠《ほこら》は、矢張天明年間に建てたさうですが、最初の動機は、村に樣々な神樣の祠が一通り揃つたに拘らず、辨天樣だけが未だ缺けていたので、欲しくて堪らないで、豐川の三明寺《さんみやうじ》から迎へて來て祀つたものだと謂ひます。

[やぶちゃん注:「字仲平にある辨天の祠」「仲平」は横川仲平(グーグル・マップ・データ)「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左中央に『辨天祠』とあるのが、それ。現在、「滝坂弁財尊天」として国道四二〇号脇にある(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルに十枚の写真があるので見られたい。『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十二 狸か川獺か』でも言及されてある。

「天明年間」一七八一年から一七八九年まで。

「豐川の三明寺」愛知県豊川市豊川町(とよかわちょう)波通(はどおり)にある曹洞宗龍雲山妙音閣三明禅寺(グーグル・マップ・データ)。「豊川弁財天」の通称で知られる。]

 

 ○張切りの松  此辨天樣の祠の傍《そば》の路傍に、張切りの松と言ふのがあつて、此松に注連繩《しめなは》を張つて、村へ惡疫の入らぬ豫防をしたと謂ひます。此處には、馬頭觀音や、村中安全などの碑が立つてゐて、愛宕神《あたごがみ》の祠などもあつて、橫山の北の端になつてゐました。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左中央の「辨天祠」の道を隔てた山側に『張切の松』と『道祖神』とあって、その少し奥に『愛宕神祠』ともある。ストリートビューで国道四二〇号脇の「張切の松」のあった位置に表示版が認められ、その右手すぐ近くには、馬頭観音らしき石像を暗がりに垣間見ることも出来る。]

 

 ○ヒチリコウの樹(木犀)  字仲平にヒチリコウと云ふ大樹がありました。花の香りが、七里の遠くまで香ると謂つて、名があると謂ひました。夏菜莉花《まつりくわ》に似た黃色い花を持つて花の盛りには、風の吹き𢌞しによつて、約一里を隔てた長篠の小學校の邊りまで、其香が聞かれたと謂ひます。樹の下に立つと、眞《まこと》に咽《むせ》るやうで、無數の虻や蜂が集まつてゐて、黃《きい》ろい花のこぼれが、あたり一面に敷いたやうになつて、其上を步くのは惜しいやうだなどゝ謂ひました。明治三八九年頃、其頃盛《さかん》に流行し出した養蠶に香りが害があると謂つて伐り倒されてしまつて、あとは芽も出なくなりました。

[やぶちゃん注:「ヒチリコウの樹(木犀)」「七里香」で、ここでは双子葉植物綱シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ変種キンモクセイ Osmanthus fragrans var. aurantiacus のことと思われる。但し、単に「木犀」と言った場合は、原種であるモクセイOsmanthus fragrans を指す(孰れも中国原産)。しかし、恐らく本邦で好まれ、最も分布を広げていて、香りが強いのは、圧倒的にキンモクセイであるから、そちらに比定しておく。また、「七里香」という別名は、現行では、双子葉植物綱フトモモ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属ジンチョウゲ Daphne odora の異名として知られているので、注意が必要である。

「菜莉花」本邦には自生せず、インド・スリランカ・イラン・東南アジアなどに自生植生するモクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum のジャスミン類の内、概ねマツリカ(アラビアジャスミン) Jasminum sambac を指す。

「明治三八九年」一九〇五、六年。]

 

 ○楠の柱の家  この七里香の樹のあった家を仲平と呼んでゐて、隣の北平と云ふ家と共に、元祿年間に早川孫三郞と云ふ家から分れたと謂ひますが、一人は田地を所望した爲め、北平と云ふ所に、前に廣い畑を控へて屋敷を造り、一人は立派な家を望んだので、村一番の眺望のいゝ仲平に、全部楠《くすのき》の柱に樫の敷居で家を建て、分家したと謂ひますが、其建物が、十五六年前迄殘つてゐましたが、今は改築したのでありません。

[やぶちゃん注:「元祿年間」一六八八年から一七〇四年まで。]

西播怪談實記 佐用角屋久右衞門狐の化たるに逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。]

 

 ○佐用角屋久右衞門狐の化(はけ)たるに逢し事

 佐用郡佐用村に角屋久右衞門といひしもの、在《あり》。

 正德年中の事成《なり》しに、近村へ、商(あきない)に行《ゆき》て、たそかれ時に歸《かへ》けるが、大坪《おほつぼ》村の前に、川除(《かは》よけ)の土手、在(あり)、則(すなはち)、雲伯(うんはく)作(さく)の驛路(えきろ)なり。

 爰へ戾懸(もとり《かか》)るに、十間斗《ばかり》先にて、下《した》より、土手の上ヘ輕(かろ)輕と.飛上り、先へ行《ゆく》。

 黑羽織(《くろ》はをり)を着て、大(おほき)なる男なり。

 久右衞門、思ひけるは、

『さても、身輕なるもの也。追付(をつ《つ》き)見ん。』

と、足早に行《ゆけ》ば、彼《かの》男も足早に行。

 又、ゆるく行《ゆけ》ば、

「ゆるゆる」

と行《ゆく》に、心付《こころづき》て、

「偖(さて)は。狐なるべし。我を、たぶらかさんためにこそ。」

と、あざ笑(わらひ)て歸《かへり》しか、山平《やまひら》といへる村の前に、大《おほき》なる水門ありしが、其際(そのきは)にて、彼男、消失(きへうせ)けると否や、

「ぞつ」

と、したり。

「されば、目に見へたる中《うち》は、『狐』と心得、何ともなかりしか、消失《きえうせ》ると、身の毛も、彌竪(よたつ)斗《ばかり》なりしは、一方《ひとかた》ならぬ畜生なり。」

と。

 予か近所にて、折々、右の噺を聞ける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。

「大坪村」「Geoshapeリポジトリ」の「兵庫県佐用郡佐用町佐用大坪」で旧地域が確認出来る。佐用町中心地の南直近の地域である。

「雲伯」(うんぱく)は令制国で言う出雲国(島根県東部)と伯耆国(鳥取県西部)の併称。かなり古い時代に作られた街道(出雲街道)ということになる。

「十間」十八・一八メートル。

「山平」「ひなたGPS」のここで、大坪のすぐ北の佐用中心街に接する佐用川左岸地域であることが判る(現在の国土地理院図にも地名として残る)。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「夢枕に立つた淨瑠璃姫」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○夢枕に立つた淨瑠璃姫  明治三十年頃、村の早川熊十と云ふ者に、淨瑠璃姫が夢枕に立つて、自分を信仰して吳れゝば、總ての願ひを叶へてやると、三日續けてお告《つげ》があつたと謂つて、其一家の者が連立つて、北山御料林内の笹谷にある姫の祠《ほこら》へ參詣したのから噂を生んで、さかんに參詣者が殺到した事がありました。

 村の重立《おもだつ》た者は、每日辨當持で祠の周りに筵などを敷いて詰《つめ》かけて、參詣者に餅を出したりして、新しく賽錢箱を慥《こしら》[やぶちゃん注:ママ。ここまでくると、早川氏の慣用誤記と思われてくる。]へるやら、幟《のぼり》を新調するやら大變な騷ぎで、何處からともなく見も知らぬ坊主が來て、祠の脇に陣取つて、蠟燭を賣つたり祈禱を上げたりしました。縣道から祠に登る道なども、たちまち四尺ほどの廣さに踏み擴げられて、祈願の爲めの紙幟が、白く幾重にも兩側に續いて、喰物店や、お土產を賣る店が、軒を並べるやうになりました。祠が御料林の中にあるので、警察からは每日警戒の巡査が出張して來ました。

 明け方から暗くなる迄參詣の人は絕間なく續いて、山の後から越して來る道も新しく出來ました。押し繪の姫の人形などを奉納する女もあつて、早速それを間に合せのお姿にしたりしました。

 昔は祠に木彫のお姿が入れてあつたさうですが、村の者が、忘れてゐた頃に、橫山の地續きの村の者が、盜み出して自分の家に祀つてゐるのだと謂つて、今更のやうに口惜しがったのを聞きました。

 村では每晚遲くまで賽錢の勘定に忙しく、二十錢の銀貨があつた、一日に五十圓上がつたなどゝ言ひました。

 それがいつとなく淋《さび》れて行つて、一年後には、ぱつたり參詣者が跡を絕ちました。

 翌年の一月、賽錢の上りで麓で神樂を催ふて、挽囘策を講じましたが、更に効力はなかつたやうでした。

 古老の噺しでは、昔も斯樣な事があつて、此時の流行は、丁度三囘目だと謂ひました。

 五十年前迄は姫が結んでゐた庵《いほり》が、祠から少し降つた所に殘つてゐたのを記臆してゐるなどと謂ふ者もありました。

 傳說に據ると、姫は矢作《やはぎ》の兼高《かねたか》長者の娘で、奧州へ去つた義經の跡を慕つて來て、此處に庵を結んでゐて、果てたと云ひます。時折《ときをり》侍女を連れて芹を摘みに出た姿を里の者は見たと謂ひます。祠のある笹谷を少し山を登つた所をセリ場と謂つて、其處は姫が芹を摘んだ跡だとも謂ひます。姫が臨終の折の遺言に、寶物は全部笹谷の梅の木の根元へ埋めて置くと言つたと傳へて、村の者などは、正月の遊びの日などに、鍬を舁いで、梅の木を探しに行つた者もあつたさうですが、相憎《あひにく》笹谷には梅は一本もないと謂ひました。

 祠は石の小さなもので、天明年間に村の連中が建立したことが刻んでありますが、祠に乘つてゐる石垣は、村の早川孫平と云ふ者が、其後獨りで築いたと云ひます。其時、一人石垣を築いて意ゐると、何處からともなく、一疋の赤い蜘蛛が現はれて、石にとまつてゐるので、其日は仕事を中止して歸つて、翌日再び行つて築いてゐると、同じ蜘蛛が現はれたので、石垣の前通りのみを築いて、側面は出來上がらない儘、中止したと謂ひます。姫が夢枕に現はれたのは、其男の孫だそうで、石垣を築いて吳れた御禮に、姫が夢に現はれたのだらうと云ふやうな因緣話もありました。

 笹谷の麓に住む者の話では、現今も、時折、非常な遠方から、婦人病に御利益があると云つて、尋ねて來る女などがあるさうですが、祠へ通じた路なども、全然破壞されてしまつて、一寸近づけなくなつて居ります。

[やぶちゃん注:これについては、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十二 鹿の玉』と、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十三 淨瑠璃御前と鹿』に出、私もかなりリキを入れて注釈してあるので、まずはそちらを読まれたい。ここでは、そちらに出ない部分を補足しておく。

「明治三十年」一八九七年。

「笹谷を少し山を登つた所をセリ場と謂つて」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左端上方に『鳳耒寺村』『字峯』とあるところから下っている谷が「笹谷」(「ささだに」と読んでおく)で、その上方に『セリ塲』とあり、その下方に『淨ルリ姬ノ祠』とあり、さらにその下方に『菴址』とあるから、早川氏がこれを書いた頃には、その庵の跡とするものも現認出来たことが判る。「早川孝太郎研究会」の本章PDF)には、修復された祠と、道標と、そこに国道から入る写真があり、ストリートビューで調べたところ、その画像から、国道二五七号のここが入り口であることが判った(グーグル・マップ・データ航空写真の、この中央附近)。入る道があるが、作業道であるため、ストリートビューでは進入出来ず、道標・祠の位置は指示出来ない。

「天明年間」一七八一年から一七八九年まで。徳川家治・家斉の治世。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「伽籃樣(ガランサマ)」・「鄕倉(ゴークラ)」・「山へ捨てられた辻堂」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○伽籃樣(ガランサマ)  萬燈山の北よりの字《あざ》長畑に、ガラン樣と呼んでゐる堂があつて、これに安置した佛像は、おはらこもりの本尊と謂つて、胎内に小佛を藏してゐるもので、村の者は、比類のない名作と信じてゐたと謂ふ事ですが、明治初年の神佛合祀の禁令に觸れる事があると謂つて、堂を取り壞した時、村の報恩寺へ持込んで置いて、明治三十四年報恩寺の燒失と同時に烏有に歸したと謂ひます。

 境内に見事な紅葉の樹と、巨きなタマの樹(桂)があつたさうですが、紅葉の樹は、明治十五、六年頃、附近の家に一宿を求めた若い御嶽講《みたけこう》の道者が、如何な事情のあつてか、翌朝未明に出立《しゆつたつ》して、この紅葉の枝で縊死した爲め、其折《そのをり》伐り除つてしまつたと謂ひますが、タマの樹は堂と一緖に伐り拂はれたさうです。

 その後久しい間、堂の跡は空地になつてゐて、雜草の茂るに委せてあつて、此處の草を刈れば、蛇の祟りがあるなど謂つて、近づく者もなく、タマの樹の根株と、昔からの、ガラン樣の祠《ほこら》が殘つてゐましたが、近年村で共有地の整理をするについて、村の某と云ふ者に賣渡したさうです。その男は神も佛もない男で、忽ち雜草を刈り取つて、開墾して畑にしたさうですが、何の祟りもないと謂ひます。最もこゝに祀つてあつたガラン樣の祠を、報恩寺の境内へ祀り替へたからとも謂ひます。

[やぶちゃん注:「萬燈山の北よりの字長畑に、ガラン樣と呼んでゐる堂があつて」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の『(萬燈山)』の麓の北西に『ガラン址』とあるのがそれ。長畑は現在の地名にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、思うに、その長畑と南西で接する「横山入リ」部分との間かとも思われる。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、「長畑」に近い「入リ」のここに有意な空き地があるので、ここが堂があった一つの候補地(或いはその前庭部)となろうか。

「明治初年」(一八六八年)「の神佛合祀の禁令」忌まわしい「神仏判然令」は慶応四年三月十三日(グレゴリオ暦一八六八年四月五日:この慶応四年九月八日(一八六八年十月二十三日に明治に改元)から明治元年十月十八日(一八六八年十二月一日)までに波状的に出された太政官布告・神祇官事務局達・太政官達等の一連の通達の総称である。私は「廃仏毀釈令」と名指したい悪名高い国家神道政策の一つであり、多くの旧信仰の祠や信仰対象神・仏教寺院が損壊され、貴重な芸術品の多くが廃棄され、海外に二束三文で流れてしまった近代史の一大汚点である。なお、明治政府の新暦改暦は明治五年十二月二日(グレゴリオ暦十二月三十一日)を以って「天保暦」が廃止され(これによって明治五年の十二月はたった二日間となり、一年の長さは三百二十七日間となってしまった)、明治六年一月一日で一八七三年一月一日となり、「明治改暦」が初めて施行されている(この部分はウィキの「新暦」に拠った)。

「明治三十四年」一三〇一年。

「報恩寺」この寺(曹洞宗)は横川字宮貝津に現存する(グーグル・マップ・データ航空写真)。但し、現在の境内地はストリートビューの定点で見ると、この状態である。この端にある仏像が気になるが、「報恩寺の燒失と同時に烏有に歸した」とあるからには、他仏の空似で、違うであろう。ただ、ここで気になることが一つある。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図を見ると、「ガラン址」の南西、白山神祠の道を隔てた南の所に『ガラン祠』『堂址』とあることである。これは、どう考えても、この「伽籃樣」を移した「堂」の「址」とした読めない点である。以下で、早川氏は「この堂の傍らに鄕倉」があったと言っており、手書き図には確かに、その西直近に「郷倉」とあるのだから、間違いない。とすれば、実は現在の「報恩寺」は元はここにあったのではなかったろうか? 「ひなたGPS」を見ると、この部分には「卍」記号はない。しかし、同時に現在の報恩寺の位置にも「卍」はないのである(この地図は昭和戦前期のもの)。土地の方に聴けば、一発で氷解することではあるのだが。因みに、早川氏の地図(本書刊行の大正一〇(一九二一)年の作製と推定してよい)にも、現在の報恩寺のマーキングは、ない、のである。]

 

 ○郷倉(ゴークラ)  德川時代には、この堂の傍らに鄕倉と謂つて、村の年貢米を一時納入して置いた建物があつたさうですが、明治十年頃取壞したと謂ひます。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図を参照されたい。中央少し下方の『ガラン祠』の左手。

「明治十年」一八七七年。]

 

 ○山へ捨てられた辻堂  神佛合祀の禁令に觸れたものは、堂の外《ほか》に、字追分の、飯田街道から鳳來寺への岐れ道に建つてゐた辻堂があつたさうです。中に安置された本尊は石彫の千手觀音で、高さが三尺もある物だつたさうですが、蓮臺だけは取つて、辻の路標の臺にして、辻堂は佛像を入れたまゝ、村の者が總出で舁いで村境の山へ捨てたと謂ひます。其後、辻堂は腐つて、中にあつた佛像のみが蔓草の絡むに委せて轉がつてゐたのを、五六年前迄は見たと云ひます。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左端上方に『鳳耒寺川』とあり、その下流から一つ目の橋と、二つ目の橋のこちら側のルートがぶつかるところに、『辻堂』とあるのがそれ。横川追分地区である(グーグル・マップ・データ)。はっきりとそれとは断定出来ないが、ストリートビューの辻位置にあるこれは、明瞭でないが、「鳳來寺」と彫ったような道標に見える。それらしい感じもするのだが、どうも、昔と道が異なっている感も強くあるので、調べてみると、少し手前の方に、やはり「右ほうらい寺」としっかりある道標があり、こちらが正しいそれのように思われた。それにしても、惨(むご)い話ではないか。

早川孝太郞「三州橫山話」 「金白(コンパク)大王」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○金白(コンパク)天王  村の中央に萬燈山と云ふ眺望のいゝ山があつて、往時は七月十五日夜、村の各戶から松火を十二把宛持ち寄つて、萬燈を焚いたと謂ひますが、現今は六月十五日に、尾張の津島神宮からお札を迎へて來て、山の裾に、檜の葉でオタチク樣と云ふ祠《ほこら》の代用見たやうなものを慥へて[やぶちゃん注:ママ。また出てきた。「拵へて」の誤植。]、其中にお札を祀つて、豆提灯などを連ねて祭りをしました。

 山の頂上に、稻荷と天王を祀つた祠が並んでゐて、天王樣と呼んでゐましたが、明治の初年に、此の稻荷が一時非常に流行つた事があつたと謂ひます。現今は殆ど參詣者もなく荒廢してゐますが、近年麓に住む山口吉三郞と云ふ者が、狐を捕らうとして、罠を懸けた處が、其夜の夢に白髮の老翁が顯はれて、吾は萬燈山に住むコンパク大王なり、早々罠を取拂へよと命じて、忽然と消え失せたなどゝ謂ひました。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央やや右寄りの位置に『(萬燈山)』とあり、その頂上に二つの黒丸(●)があってそこに『稲荷祠』と『天王』と記されてあるのがそこ。ここを「ひなたGPS」の戦前の地図と現在の国土地理院図で示すと、位置的に見て、この246のピークの西のピークがそれであろう。グーグル・マップ・データでは、この中央附近がそこらしく感じている。「稲荷と天王を祀つた祠が並んでゐて、天王樣と呼んでゐました」とあるのは、この萬燈山の二基の異なった祠を合わせて「天王樣」と呼んでいたことを意味する。「村の各戶から松火を十二把宛持ち寄つて、萬燈を焚いたと謂」うとあって、現在は山上の祠ではそれをしないことが示されている。これは恐らく主たる理由は火の管理が防災上、問題だからであろう。

「尾張の津島神宮」愛知県津島市神明町(しんめいちょう)のここ(グーグル・マップ・データ)にある。公式サイト内の「由緒」に、古くは「津島牛頭天王社」と称し、今も一般に「津島のお天王さま」と尊称されているとある。祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと=素戔嗚尊(すさのおのみこと))で、欽明天皇元(五四〇)年の鎮座とする(因みに、私の最近では、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 大人彌五郞』で柳田が取り上げている)。

「山の裾に、檜の葉でオタチク樣と云ふ祠の代用見たやうなものを慥へて」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の『(萬燈山)』の北西の麓部分に『ゴズ天王祠』とある。この謂いから、ここは、常時、祠が存在するのではなく、祭祀の規定日に仮の行宮を、毎回、山上ではなく、麓に作ることを意味している。但し、これは一方で先に述べた現実の防災上の意味合いでも管理し易い位置ではあるが、私は以下に示す通り、寒狭川(豊川)に近い位置に行宮がなくてはならないと推定したこのすぐ近くの麓の道をストリートビューで探したところ、ここに「金白天王(津島様)」への登り口を示す掲示板をも発見することが出来た。これによって、推定したピークが正しく「萬燈山」であることが証明された。オタチク樣」とは、「関西大学学術リポジトリ」のこちらにある、黒田一充氏の論文「津島信仰のお仮屋」(『関西大学博物館紀要』巻十五所収・PDF)の「四 愛知県東部のお仮屋」の中で、本篇が引かれて、『このような、津島神社の神札を納めた祠を棚の上に安置し、檜葉を円錐状に覆ったものをお川社(オタチクサマ)と呼び、川の沢などに祀ることは新城市内で広く行われていたが、同市富永の』(ここ)『ように檜葉のお仮屋から銅板葺きの祠に変わるなど古い形態を残していない』とあった。黒田氏は論文の冒頭で、『代表的な夏祭りは、祇園祭や天王祭であり、関西では京都の祇園祭が有名だが、東海地方ではむしろ愛知県津島市の津島神社の津島祭の方が有名である』とされ、同神社も、実際に『木曽川下流の輪中の東岸に位置して木曽川支流の天王川に面している』とあって、この祭事が、所謂、「水神祭」であることを意味している。横山のそれも、さればこそ、祭りの本旨である水神を祀るために迎えるためには、川に近い位置に行宮(仮屋)がなくてはならないと私は思うのである。だから、「麓」なのだ。問題は、「オタチク」の語源だが、これが、判らない(「川社」を「おたちく」とは読めない)。黒田氏は木曽川東岸で「オミヨシサン」と呼ばれているとある。これは「水押・舳・船首(みよし)」を連想させる。或いは、その祭りの子ども版では「オミッコシサン」と呼ばれる所があるが、これは「オミヨシサン」が子らにとっては意味不詳である故に、子ら自身がその形状から「お神輿さん」と判り易く言い換えたと合点される。黒田氏の論文には多数の各地の仮屋の写真があるので、それらを見られたいが、ものによっては、小さな社祠か、脚付きのコンパクトな神輿のようにも見えるのである。三島市清水町戸田では、「オフクラ」(「御蔵」「御福倉」辺りか)、三重県では「オシャトウ」(これは簡明で仮屋が配される「御社頭」であろうかと思われる)とあった。「オタチク」は招聘神であるから、「御立(おたち)ち来(く)」る神「様」などを想起はした。]

2023/03/08

西播怪談實記 西播怪談實記三目録・山脇村慈山寺にて生霊を追し人の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。目録(ここから)の読みは総て採用した。挿絵は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 西播怪談實記  人

 

西播怪談實記三

一 山脇(やまわき)村慈山寺(し《→じ》《さんじ》)にて生霊(いきりやう)を追し人の事

一 佐用角屋(すみ《や》)久右衞門狐の化たるに逢し事

一 姬路を乘物にて通りし狐の事

一 下德久村法覚寺本堂の下にて死し狐の事

一 牧谷村平右衞門狐火を奪(うはい)し事

一 河虎(かはとら)骨繼(ほねつき)の妙藥(めうやく)を傳(つた)へし事

一 東本鄕村蝮蝎(うはばみ)を殺し報(むくひ)の事[やぶちゃん注:「蝮蝎」はママ。]

一 櫛田(くした)村不動堂(ふとうどう)の鰐口(わにくち)奇瑞(きすい)并《ならびに》滝川の鱗(うろく《ず》)片目(かため)の事

一 佐用福岡氏化生(けせう)のものに逢し事

一 早瀨(はや《せ》)村五介大入道に逢し事

一 龍㙒(たつの)林田(はやした)屋の下女火の車を追ふて手并《ならびに》着物(きもの)を炙(やき)し事

一 安川村佐右衞門猫堂(ねこ《だう》》を建(たて)し事

 

 

 ○山脇村慈山寺(しさんじ)にて生霊(いきりやう)を追(をい)し人の事

 佐用郡山脇村に慈山寺とて眞言宗の寺、在《あり》。住持の僧は、文殊院とて、知行(ちかう)兼備し、別して、善心厚(あつ)ければ、近國、尊《とうと》みあへりける。

 元來、

「施(ほとこし)に。」

とて、囘國(くはいこく)の修行者(すぎやうしや)、斗藪(とそう)の隱者(いん《じや》)、其外、四民(しみん)を撰(えら)ばず、善惡自他の隔(へたて)なく、一宿、二宿、或は、五日、三日、心次第に止(とゝめ)て、旅行のつかれを休(やすま)せ、聊(いさゝか)も謝禮を受(うけ)ざれば、人皆《ひとみな》、有難(ありかたき)事におもひける。

 然《しか》るに、正德年中の事なりしに、何國(いつぐ)のものともしれぬ旅人、暮方に來たりて、一夜の宿を乞《こひ》ければ、

「安き事成《なり》。」

とて、出來合か(てきあい)の一飯(はん)を、食《くは》せ置《おき》、住持は勤行に懸《かかり》ける中《うち》に、右の旅人は、本堂の片隅に、すやすやと寢て居たりける。

 勤行、終りて、住持は寢所《ねどころ》へ入《いり》ければ、寺僧、召遣(めしつかい)の小者迄、銘々の部屋へぞ、入にける。

 良(やゝ)夜(よ)も更(ふけ)て、本堂の方(かた)、立《たち》さはぐ音、しければ、

「何事なるにや。」

と、近所(きんしよ)に寢て居るもの共、起出(おきいで)、起出、住持もろ共に、本堂に行《ゆき》て見れば、彼《かの》旅人、拔身(ぬきみ)を持《もち》て、

「己(をのれ)、憎き奴(やつ)なり。いつ迄、したひ來るぞ。」

と、常燈(ぜうとう)の邊(へん)を、獨言(ひとりこと)、いひて、たぞ、追廻(をいまは)る有樣(ありさま)なり。

 

Ikiryou

 

 寺内《じない》のもの、

「乱心ものにや。」

と恐れたるに、戶・障子を明(あけ)、外へ追行《おひゆく》風情なりしか、暫(しはし)ありて立歸《たちかへ》るを見れば、拔身を鞘(さや)へ納《をさめ》て、何の子細もなければ、住持、側(そば)へ呼(よひ)て、

「御邊(ごへへん)の風情、其意を得ず。いかなる子細にや。」

と、問れて、旅人、落淚して、いふやう、

「我、生國(せうこく)は都方《みやこがた》のものなるが、色慾(しきよく)の事につけ、聊(いさゝか)の誤(あやまり)出來《いでき》て、親の勘氣を得、都の住居(すまい)。相叶《あひかなは》ず、西國の方《かた》に知音(ちいん)の有《ある》に便(たより)て、兩年過《すぐ》しけるに、都の女の生㚑(《いき》りやう)、きたりて、なやまさる。有驗(うけん)の髙僧・貴僧をたのみ、いろいろと致ぬれど、其驗(しるし)なく、終《つひ》に、西國の住居も叶ず、何國(いつく)を當所(あてと)ともなく立出《たちいで》、今日《けふ》迄は、みへざりしかば、『嬉しや。此世の苦患は、のかれし。』と思ひしに、又侯《またぞろ》哉《や》、したひ來り、かゝる品(しな)に及ぶ事、各樣《かやう》の前《まへ》、面皮(めんひ)なく、我運の拙(つたな)さ、彼是《かれこで》おもへば、『不孝の報(むくひ)。』と、かへらぬ事ながら、千悔(せんくわい)仕る。」

と、打《うち》しほれてぞ申《まをし》ける。

 住持を初《はじめ》、『不便の事』におもひけれども、せん方なし。

 かくて、翌朝(よくてう)、いとまを乞(こひ)ければ、住持、壱包(《いつ》ふう)を與(あたふ)れば、弥《いよいよ》恩を謝(ちや[やぶちゃん注:ママ。])して、立出《たちいで》、東を指(さし)て行《ゆき》けるに、當國さる御領内にて、又、生㚑(《いき》れう)、追付《おひつき》たりければ、脇指を拔(ぬき)て追《おひ》しに、製札(せいさつ)[やぶちゃん注:漢字はママ。「制札」。]の下へ隱(かくれ)しを、すかさず、切《きり》つくるに、誤(あやまつ)て、切先(きつさき)、製札に當(あたり)、疵付(きす《つけ》)ければ、

「氣狂(きちかい)、製札を切《きり》し。」

と、追々、註進しけるにより、早速、搦捕(からめとら)れ、吟味の上、件《くだん》の子細を言上《ごんじやう》すれば、不便《ふびん》に思召《おぼしめす》といへども、其罪、のがれん方なく、終に、死刑に行(をこなは)れけるよし。

 聞及ぶ趣を、書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「佐用郡山脇村」現在の兵庫県佐用郡佐用町山脇(やまわき:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。佐用町の中心地である佐用の南に接する。

「慈山寺」現存する

「斗藪(とそう)」「抖擻」とも書く。仏語。サンスクリット語の「ドゥータ」の漢音写。「頭陀」と同義。身心を修錬して衣食住に対する欲望を払い除けること、或は、その修行。さらにそれに一、二種の戒を加えることもある。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 信天翁(ボードレール) / シャルル・ボードレール分~了

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。

 第二連の三行目の頭の「櫂」(かい)は底本では「擢」となっているが、これは誤字或いは誤植であることは間違いなく、「擢」では躓くだけなので、特異的に原子朗編「大手拓次詩集」で修正した。同じ連の終行末には句読点がないが、これも同書で句点を打って修正した。

 本篇を以って本詩集のボードレールの訳詩は終わっている。

 

  信 天 翁 ボードレール

 

乘組の人人は、ときどきの慰みに、

海のおほきな鳥である信天翁(あほうどり)をとりこにする、

その鳥は、航海の怠惰な友として、

さびしい深みの上をすべる船について來る。

 

板(いた)のうへに彼等がそれを置くやいなや

この扱ひにくい、 内氣な靑空の主(ぬし)は、

櫂のやうに、 その白い大きな羽をすぼめて、

あはれげにしなだれる。

 

この翼ある旅人は、 なんと固くるしく、 弱いのだらう!

彼は、 をかしく醜いけれど、 なほうつくしいのだ!

ある者は、 短い瀨戶煙管(きせる)で其嘴をからかひ、

他の者は、 びつこをひきながら、 とぶこの廢疾者(かたはもの)の身ぶりをまねる!

 

詩人は、嵐と交り、射手をあざける

雲の皇子(プランス)によく似てゐるが、

下界に追はれ、 喚聲を浴びては大きな彼の翼は邪魔になるばかりだ。

 

[やぶちゃん注:今回はフランス語のウィキの単独の当該詩篇ページにあるものを引いて示す。

   *

 

   L'Albatros   Charles Baudelaire.

 

Souvent, pour s’amuser, les hommes d’équipage

Prennent des albatros, vastes oiseaux des mers,

Qui suivent, indolents compagnons de voyage,

Le navire glissant sur les gouffres amers.

 

À peine les ont-ils déposés sur les planches,

Que ces rois de l'azur, maladroits et honteux,

Laissent piteusement leurs grandes ailes blanches

Comme des avirons traîner à côté d'eux.

 

Ce voyageur ailé, comme il est gauche et veule !

Lui, naguère si beau, qu'il est comique et laid !

L'un agace son bec avec un brûle-gueule,

L'autre mime, en boitant, l'infirme qui volait !

 

Le Poète est semblable au prince des nuées

Qui hante la tempête et se rit de l'archer ;

Exilé sur le sol au milieu des huées,

Ses ailes de géant l'empêchent de marcher.

 

   *

「信天翁」ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご) (ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))」を参照されたい。なお、当該ウィキによれば、「阿呆鳥」『という和名は、人間が接近しても地表での動きが緩怠で、捕殺が容易だったことに由来する』。『日本付近にはアホウドリ類が』三『種(本種のほか、コアホウドリ』(Phoebastria  immutabilis)『クロアシアホウドリ』(Phoebastria nigripes)『)が生息するが、古くはそれらを区別せず、京都北部沿岸地方や沖縄で「あほうどり」、伊豆諸島の八丈島や小笠原諸島では「ばかどり(馬鹿鳥)」などと呼んだ』。『その他の地方名として、「沖にすむ美しい鳥・立派な鳥」の意味合いのある「おきのたゆう(沖の太夫)」「おきのじょう(沖の尉)」(山口県日本海沿岸部)』、『クジラとともにやって来ることから「らい」「らいのとり」(九州北部沿岸地方)があり』、『そのほか』、『「とうくろう」(高知県)』『などがある。また、八丈島や小笠原諸島では、本種を「しろぶ」あるいは「しらぶ」、クロアシアホウドリを「くろぶ」と呼び分ける用法もあった』。『アホウドリという名称は蔑称であるとして、山口県の日本海沿岸部で古くから呼ばれているオキノタユウ(沖の太夫、沖にすむ大きくて美しい鳥)に改名しようとする動きもある』とあり、また、『漢字表記として「信天翁」があり、音読みにして「しんてんおう」とも呼ばれる。「信天翁」という言葉については、他の鳥が取り落とした魚が天から降ってくるのを待つ鳥と考えられていたことから来た名前である(明代の』「丹鉛総録」『に記述があるが、この「信天翁」という鳥は中国内陸部の雲南省に住むとされ、本種を指すかは疑わしい)』。『なお、尖閣諸島の久場島にはこの名にちなんだ「信天山」という山がある。このほか日本では漢語的表現として「海鵝」(かいが)などが使われたことがある』。『英語名称は Short-tailed albatross が一般的に用いられるが、アホウドリ類のほかの種に比べて特別に尾が短いわけではない』とする。また、『ドイツの哲学者にして詩人のフリードリヒ・ニーチェ』(一八四四年~一九〇〇年:ボードレールより二十三年下)は『「あほう鳥」と題する詩において、空高く、漂うように飛んでいるあほう鳥に向かって「ぼくもまた永遠の衝動によって高処をめざす」(円子修平訳)と詠っている』とある。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 高翔(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  高  翔 ボードレール

 

池よりも高く、 谿よりも高く、

山よりも、 林よりも、 雲よりも、 海よりも、

太陽の彼方に、 エーテルの彼方に、

まきちらされた星の世界の境界の彼方に、

 

わたしの精靈よ、 お前は敏捷にうごく、

そして、 波のなかに眩惑する好い泳ぎ手のやうに

お前は、 いひつくせない又男らしい佚樂をもつて

快活に奥深い無限に畦(うね)を作つてゐる。

この病欝の瘴氣から遠くとび去れ、

上層の大氣のなかにお前を淸めに行け、

そして、 芳醇な神酒のやうな

淸澄な空間を滿たすところの煌く火も飮め

倦怠と、 霧に朦朧とした現実の重荷を擔うてゐる大きい憂愁とを越えて

力强い翼をもって、 明かな靜かな靜かな野の方に

天翔けることの出來る者は幸福である。

 

その思想が雲雀のやうに、 明け方の空の彼方へ

自由に飛揚しうるものは、

また生命の上を翔けり、 努力無くして花の言葉と

沈默の言葉とを理解する者は幸福である。

 

[やぶちゃん注:今回はフランス語ウィキの本篇の単独ページのそれを引いて示す。

   *

 

   Élévation   Charles Baudelaire

 

Au-dessus des étangs, au-dessus des vallées,

Des montagnes, des bois, des nuages, des mers,

Par delà le soleil, par delà les éthers,

Par delà les confins des sphères étoilées ;

 

Mon esprit, tu te meus avec agilité,

Et, comme un bon nageur qui se pâme dans l'onde,

Tu sillonnes gaiement l'immensité profonde

Avec une indicible et mâle volupté.

 

Envole-toi bien loin de ces miasmes morbides,

Va te purifier dans l'air supérieur,

Et bois, comme une pure et divine liqueur,

Le feu clair qui remplit les espaces limpides.

 

Derrière les ennuis et les vastes chagrins

Qui chargent de leur poids l'existence brumeuse,

Heureux celui qui peut d'une aile vigoureuse

S'élancer vers les champs lumineux et sereins ;

 

Celui dont les pensers, comme des alouettes,

Vers les cieux le matin prennent un libre essor,

– Qui plane sur la vie, et comprend sans effort

Le langage des fleurs et des choses muettes !

 

   *

ここまでくると、拓次の訳詩の連分けはやはり確信犯であることが明瞭となる。底本の本篇はここであるが、「この病欝の瘴氣から遠くとび去れ、」と「上層の大氣のなかにお前を淸めに行け、」の間は見開き改ページであるものの、物理的な版組みに於いては、一行空けは存在しない。ここで行空けを仮想したとしても、原詩と比較すれば、それでもまだ一連足りないのである。しかも、この改ページ部分は、寧ろ、続けて読まれるように訳されていると考えた方が、自然であることが判る。私はこの訳が甚だ好きである。

「エーテル」「éthers」。これは「ether」複数形で「光素」などと訳されるところの、古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の物質の名称である。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地・水・火・風に加えて、「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では、全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対し、「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱し、「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いている。堀口大學などは、『虛空(こくう)の際涯(はてし)』などと訳しているが、ここは断然、「エーテルの彼方に」がいい。

「瘴氣」「miasmes」。音写「ミィアスマ」。通常、このように複数形で、「腐敗物などから発生する有毒なガス=瘴気(しょうき)」を言う。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 病める詩神(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  病 め る 詩 神 ボードレール

 

噫 あはれな詩神よ!

今朝(けさ)お前はどうしたのか?

お前の深いまなこに幻の夜の歌が群れ、

そして私は、 かはるがはりお前の顏に顯れる

冷やかなは沈默の、 惑亂と恐懼とを見る。

 

綠の惡魔とばらいろの妖鬼、

彼等は自分の甕(かめ)の恐怖と愛戀とをお前に注いだ、

夢魔は、 暴虐と執拗の拳をもつて

奇しきマンテユールスの底にお前を沈めた。

 

私は健康の匂を放ちながら

强い思索のお前の胸と常に往(ゆ)き交(か)うて

キリスト敎のお前の血潮を

調べよき彼に流せよ

 

古い調べの豊かな響きのやうに、

歌の父フヱービユスの收穫の大神パンとが

かはるがはるしろしめしたまふのだ。

 

[やぶちゃん注:まず、原詩をフランス語サイトのこちらから引いて示す。

   *

 

   La muse malade   Charles Baudelaire

 

Ma pauvre muse, hélas ! qu'as-tu donc ce matin ?

Tes yeux creux sont peuplés de visions nocturnes,

Et je vois tour à tour réfléchis sur ton teint

La folie et l'horreur, froides et taciturnes.

 

Le succube verdâtre et le rose lutin

T'ont-ils versé la peur et l'amour de leurs urnes ?

Le cauchemar, d'un poing despotique et mutin,

T'a-t-il noyée au fond d'un fabuleux Minturnes ?

 

Je voudrais qu'exhalant l'odeur de la santé

Ton sein de pensers forts fût toujours fréquenté,

Et que ton sang chrétien coulât à flots rythmiques,

 

Comme les sons nombreux des syllabes antiques,

Où règnent tour à tour le père des chansons,

Phoebus, et le grand Pan, le seigneur des moissons.

 

   *

壺齋散人引地博信氏のサイト「フランス文学と詩の世界」の本詩篇のページ「病気のミューズ(ボードレール:悪の華)」によれば、壺齋散人氏の訳の後に、

   《引用開始》

「病気のミューズ」は特定の女性をイメージして書いたのではなく、時代精神の堕落と、その開放への願いを歌ったものである。「悪の華」の初版のためにかいたものと思われる。

 

Le succube は、女の形をとって男たちを誘惑する悪魔の手先。また、Minturnes は、ローマ時代の都市の名で、周囲を沼地に囲まれていた。そこにマリウスが逃げ込んで、ローマの迫害を逃れたとされる。ボードレールはこれらのイメージを借りて、現代社会が悪意によって蝕まれているさまを匂わせている。

 

最後の6節は、現代社会の解放を願った部分だ。ボードレールはその解放の導き手として、歌の神フェビュスと収穫の神パーンを上げている。調和と豊穣の神々である。

   《引用終了》

succube」は音写「シュキュベ」で、所謂、「スクブス」「サッキュバス」(英語:Succubus)とで、壺齋散人氏の言われる通り、女性の姿をとって人を惑わす夢魔を指す。対語である男性の姿のそれは、「incube」(音写「オキュベ」)で「インキュバス」(Incubus)である(総てラテン語由来)。

Minturnes」の音写は「ミントゥルナエ」。

「マリウス」は共和政ローマ末期の軍人・政治家ガイウス・マリウス(ラテン語: Gaius Marius 紀元前一五七年~紀元前八六年)のこと。彼については、当該日本語のウィキを参照されたいが、この事件については、フランス語ウィキの「Marius prisonnier à Minturnes(「ミントゥルナエの囚人マリウス」の歴史画)を見られたい。

Phoebus」の音写は「フェビュス」。ギリシアの光の男神で、予言・詩歌・音楽及び治癒を司る神。 ゼウスとレートーの息子。

Pan」「パーン」。言わずと知れたギリシア神話の牧羊神パーン。造形とキリスト教の認識から先に示した「インキュバス」と通性が強い。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「片目の生砂神」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。

 因みに、「生砂神」は「うぶすながみ」で「產土神」の当て字である。人の生まれた土地の守護神で、「うぶす」は「生産」、「な」は「土地」の意で、本来は地縁的集団を守護する神であって、所謂「氏神」や「鎮守神」等とは本質的に異なるものである。但し、地縁的・共同体意識の発達した中世以降になると、氏神と同一視された(ここは「旺文社日本史事典」に拠った)。]

 

 ○片目の生砂神  村の生砂神は、早川孫三郞家の地の神であつたと云ふ理由で、其人の思ふが儘に、現在ある地へ、當時の芝刈山《しばかりやま》へ移されたと謂ひますが、今日では最早立派な境内になって、昔ながらの鎭守の森らしく見えます。

  この神片眼なる爲め、村に片眠[やぶちゃん注:ママ。「眼」の誤植。]の者が多いとも、又田螺を厭ひ給ふ故、村内に田螺《たにし》が育たぬとも謂ひますが、神名は白鳥六社大名神《しらとりろくしやだいみやうじん》と謂つて、舊曆八月十四、五の兩日が例祭に當《あたつ》て、其日は拜殿の下にある舞臺で、村の者が芝居を演《や》つたもので、これを地狂言と謂つ[やぶちゃん注:ママ。「つて」の脱字誤植。]明治三十年頃迄行ひました。この外は境内へ釜を築いて、甘酒を振舞ふ位のものでしはた[やぶちゃん注:ママ。「は」は衍字誤植。]。昔は男女の生殖器を模造した飾物などしたと謂ふ事で、私の記臆にある頃にも、桐の木や、南瓜《かぼちや》で慥へて[やぶちゃん注:ママ。「拵へて」の誤植。]飾つて置いて、駐在の巡査が巡囘して来たのに驚いて引込めたことなどがありました。

[やぶちゃん注:「芝刈山」国立国会図書館デジタルコレクションの池田弥三郎等編『日本民俗誌大系』「第五巻 中部」(一九七四年角川書店刊)に所収する新字新仮名版の当該部では、『芝刈り山』とあり、これは固有名詞ではなく、横山での通称地名と推定される。「早川孝太郎研究会」の早川氏の「橫山略圖」の右中央に「生砂神社」とある地がそこである。現在の白鳥(しらとり)神社(グーグル・マップ・データ)がそれである。ただ、この神社のルーツについては、『早川孝太郞「猪・鹿・狸」 鹿 一 淵に逃げこんだ鹿』では、早川氏によって複雑な説が示されており、私もいろいろ考証してみたので、参照されたい。

「この神片眼なる」『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十三 山の神と狩人』では、『一眼一本脚の大漢[やぶちゃん注:「おほおとこ」と読んでおく。]であるとも謂うた』と出、そちらで詳細な私の考証注を附してあるので読まれたい。

「田螺を厭ひ給ふ」という理由は判然としないが、その神が片目を傷つけた由来に直接、田螺が関わるものではあろう。その答えにはなっていないが、『柳田國男「水の神としての田螺」』では、一目眇(すがめ)の鮒の話と、『白田羸(シロタニシ)』のことが述べられており、迂遠で朦朧としつつも、片目の神と田螺の連関が認められるようにも思われる。有力なデータは、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(6) 神人目を奉る』であろう。この白鳥神社のことが、本篇を元に記されてある。また、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、以下の注と同社の現在の写真が載る。

   《引用開始》

白鳥神社

 現在の白鳥神社は、山口忠利さんの裏の小高い丘の上にあります。鳥居は昭和になってから建てられたようですが、鳥居の前の石燈籠には「白鳥六社大明神」の文字と共に「元文五年」(1740 年)と刻まれています。この時ここに立てられたのか、その後移設されたものかは判りませんが、これは今から 265 年前の 8 代将軍吉宗の時代のものです。

  一時途絶えていた地狂言も 20 年ほど前に復活し、秋祭りの(10 月第一日曜)神事の後、奉納余興として演じられています。

   《引用終了》

とある。やはり本産土神のここへの鎮座には、今でも不明な部分があることが判る。

「昔は男女の生殖器を模造した飾物などしたと謂ふ事で、私の記臆にある頃にも、桐の木や、南瓜で慥へて飾つて置いて、駐在の巡査が巡囘して来たのに驚いて引込めたことなどがありました」とても興味深い性器崇拝(豊饒崇拝)で、エピソードとしても微笑ましいものなのであるが、今に残っていないらしいのは残念である。]

西播怪談實記 下河㙒村大蛇の事 / 西播怪談實記二~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。また、挿絵も所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ○下河㙒(けこの)村大蛇《だいじや》の事

 宍粟郡(しそう《のこほり》)千草(ちくさ)といへる所に船越山瑠璃寺(ふなこしさんるり《じ》)とて、眞言宗の寺、在《あり》。五拾石の御朱印地なり。

 本尊は藥師如來なるが、行基の作佛にして、㚑驗(れいけん)あらたなれば[やぶちゃん注:ママ。]、二季(にき)の彼岸には、別して、參詣、多し。

 正德年中の事なりしに、寺僧、下河㙒といへる村の旦家(たんか)へ齋(とき)に行けるに、元來、深山(み《やま》)なれば、道は九折(つゞらをり)なり。

 然《しかる》に、手飼(てかい)の犬、主《しゆ》の跡をしたふて、來《き》けるか、跡《あと》へ戾(もどり)、向《むかふ》の谷へ走行(はしり《ゆけ》)ば、

『鹿(しか)猿などの出《いで》て居《を》るにや。』

と、立止(たちとま)りて見るに、岩の上に、蓑笠を着てゐるやうにみゆるもの、在《あり》。

 犬は、それを目がけて、ほゆる。

 

Uwabami

 

 僧、遙(はるか)比方(こなた)より、声を立て、呼(よへ)ば、犬は、猶、近く寄《より》て、嚴敷(きひしく)、ほゆる時に、口を、

「くわつ」

と明《あけ》たる所、箕(み)を合《あはせ》たるごとく、口の中(うち)、赤き事、紅染(べにそめ)のごとし。

 犬、恐《おそれ》て、退(のけ)ば、口を塞(ふさぎ)、又、近寄《ちかよれ》ば、口を明《あく》る事、前の如し。

 犬を吞(のま)んともせず、甚(はなはた)、鷹揚なり。

 僧は、奧山家《おくやまが》の育(そたち)にて、常に壱丈内外の虵(くちなは)は見馴けれとも、余(あまり)の大蛇にて、恐しく思ひながら、旦家(たんか)へ到(いたり)けるに、犬は跡より來りて、暫(しはし)、庭に居《ゐ》けるが、先へ立歸《たちかへり》ける。

 僧は、勤行、終(をはり)て、歸路(《かへり》みち)は、山、壱越(こし)、虵(くちなは)の居《ゐ》ける後(うしろ)の谷を過(すく)るに、そこに尾(お)の有《ある》を見て、氣も䰟(たましい)も失(うせ)て、漸々(やうやう)、寺へ歸《かへり》、廿日斗《ばかり》煩ひ、後《のち》に此事を人に語るに、聞もの、大に怪み、

「余(あまり)の叓《こと》なれば。」

とて、後(のち)に其所《そのところ》へ行《ゆき》て、間數(けんすう)を積(つも)るに、山越(《やま》こへ)百間《けん》に及《およべ》り。

 人皆《ひとみな》、舌を卷(まき)て、恐れあへりしとかや。

 聞人《きくひと》、疑べからず。

 是は、同村《どうむら》、茂右衞門といふもの、久しくか家へ出入《でいり》のものなるが、誓言(せいごん)を立《たて》て、噺ける趣を書傳ふもの也。

 

 西播怪談實記二

 

[やぶちゃん注:底本の最後の部分の左丁に(□は判読不能字)、

   *

 

           □□□□(印)

  寛政十三

 

      上野國

        上州八幡村

           矢口政太郞

 

   *

という書写した人物の記載が載る。寛政十三年は一八〇一年。本書の板行は宝暦四(一七五四)年であるから、四十七年後である。「上州八幡村」は群馬県高崎市八幡町(やわたまち:グーグル・マップ・データ)に相当する。「矢口政太郞」は不詳。

「宍粟郡千草」現在の兵庫県宍粟市千種町千草を中心とした千種町広域に相当するが、やや不審なのは、「船越山瑠璃寺」は現在の兵庫県佐用郡佐用町船越にあり、現在の千種地区の外の南方にあることであったが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、「琉璃寺」は「南光坊」とあり、東北部に「千種村」とあるから、或いは、江戸時代のこの頃は、千種村の内であったものかとも思われる。調べると、ウィキの「瑠璃寺(兵庫県佐用町)」があり、そこに、『兵庫県佐用郡佐用町にある高野山真言宗の別格本山の寺院。山号は船越山。本尊は千手観世音菩薩。詳しくは船越山南光坊瑠璃寺と称する』。『寺伝では神亀』五(七二八)年、『聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝える。本堂、金堂、奥の院、十二坊舎、その他七十二宇の伽藍があったとされる』。『南北朝時代に覚祐を中興開山として』、『赤松則祐により再興された。以来、室町時代を通じ守護大名赤松氏との関係が深かった』。『創建以来、修験道の行場となっており、京都にある天台宗寺門派の聖護院に所属し、江戸時代には南光坊と称した』。『現在、南光坊は当寺の本坊となっている』とあり、名刹であることが判る。しかし、『本尊は藥師如來』という謂いとは齟齬する。ただ、「佐用町指定有形文化財」の項に、「薬師如来坐像」とはある

「二季の彼岸」旧暦の春と夏の彼岸。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。

「下河㙒」兵庫県宍粟市千種町下河野瑠璃寺のある兵庫県佐用郡佐用町船越に東北で接している。これで不審はほぼ解けた。

「百間」百八十一・八メートル。見かけ上の見積もりの長さとはいえ、驚くべき長大なる蟒蛇(うわばみ)である。以上の叙述から、大蛇のいたロケーションはここに限られる(グーグル・マップ・データ航空写真)。ごっつう山奥である。

 

2023/03/07

早川孝太郞「三州橫山話」正規表現版始動 / 「ことわりがき」・目次・「位置」・「橫山の名稱」・「村の草分け」

 

[やぶちゃん注:本書は東京市小石川区の郷土研究社から大正一〇(一九二一)年十二月に鄕土硏究社『爐邊叢書』第十二冊として刊行されたものである。内容は筆者早川孝太郎氏の郷里である愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城市横川(よこがわ)。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ。国土地理院図では現在でも「横山」が広域地名で、その中に「横川」がある形をとっている。「ひなたGPS」のこちらを参照)を中心とした民譚集である。

 著者早川孝太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年:パブリック・ドメイン)は民俗学者・画家。画家を志して松岡映丘(本名は輝夫)に師事、映丘の兄柳田國男(彼は松岡家から柳田家の養嗣子となった)を知り、民俗学者となった。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し、昭和五(一九三〇)年に同祭りを中心に三河地方の祭りを論じた大著「花祭」を刊行した(国立国会図書館デジタルコレクションでログインなしで「前編」「後編」が視認出来る)。他にも精力的に農山村民俗の実地調査を行っている。

 私は既にブログ・カテゴリ『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』で本篇の後に出したそれを、分割で全電子化注を三年前に終えている。その電子化の最初のきっかけは、当該書の好意的な書評を芥川龍之介が発表しているからであった(大正一五(一九二六)年十二月六日発行の『東京日日新聞』の「ブックレヴィュー」欄に掲載された。当該作品は私の「《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)  猪・鹿・狸」を見られたい)」が、電子化注する内に、完全に早川ワールドに魅せられてしまい、電子化注を終えて暫くの間、「早川孝太郎ロス」に悩まされたほどであった。

 今回は、国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本を見ることが出来たので、それを視認して電子化注を開始する。また、不審な箇所は同じ限定で視認出来る国立国会図書館デジタルコレクションの池田弥三郎等編『日本民俗誌大系』「第五巻 中部Ⅰ」(一九七四年角川書店刊)に所収する新字新仮名版を参考とする。それに伴い、ブログ・カテゴリ名を『早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】+「三州橫山話」』と変更することとした。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢(すざわ)のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 底本に従い、可能な限り、正規表現で電子化する。ルビが殆んどないが、地名等で気になる箇所には《 》で読みを歴史的仮名遣で添えた。( )は筆者のルビである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。「猪・鹿・狸」と同じく、私自身が躓いたり、掘り下げたいと考えた箇所は、徹底的に注を附す。【二〇二三年三月七日始動・藪野直史】]

 

 

書 叢 邊 爐

―――――――

 

話 山 橫 州 三

 

郞 太 孝 川 早

 

 

行 發 社 究 硏 土 鄕

 

[やぶちゃん注:表紙。★部分に筆者のデッサン画がある。画像を載せるためには、国立国会図書館の転載許諾を受ける必要があるので、行わない。「本登録」をされ、御自身で見られたい。]

 

 

話 山 橫 州 三

 

郞 太 孝 川 早

 

 

行 發 社 究 硏 土 鄕

 

[やぶちゃん注:。※部分に筆者のデッサン画がある。前の表紙の絵とは異なる。同前。]

 

 

 

     ことわりがき

 

 三州橫山話としましたが、必ずしも橫山の話ぱかりでなく。近くは隣村のことから、遠くは遠江の引佐郡あたりの話までも集錄して居ります。しかし。此處に集めた話は全部、私が明治二十二年橫山に生れて、物心覺えた明治二十八九年頃から三十九年春、橫山を出る迄の間と、其後大正九年春迄、每年三四囘、時に五六囘も歸省した時に見聞した事ぱかりであります。極く幼少の頃に聞いた話などは、記憶から正に消えようとしてゐて、人名や地名、年代などは覺えてゐる限りは記しましたが、約何年前とか、明治何年頃と記したものゝ中には、記臆[やぶちゃん注:ママ。これは筆者の慣用表現で、以下、頻繁に出るので注は後は略す。]にある材料から推定したもののあることは事實であります。人名で、明記するに忍びないと思つたものは。故意に記さなかつたものもありますが。これはほんの二三に過ぎません。

 内容の分類と、話の順序は隨分不自然で、また怪しいものがおります。例へぱ狐に化かされたと云ふ話で、果して狐に化かされたのか、どうか、全然判斷のつかぬやうなものもありますが、これ等は、すべて聞いた儘に記して置きました事をお斷りして置きます。 

  大正十年八月 

           早 川 孝 太 郞

 

 

[やぶちゃん注:以下、「目次」であるが、リーダとページ数は省略した。]

 

    目  次

 

ことわりがき

橫山の話

種々な人

山 の 獸

鳥 の 話

蛇 の 話

蟲のこと

草に絡んだこと

川に沿つた話

天狗の話

種々なこと 

 

 

[やぶちゃん注:以下、以下の記事に続いて次の見開きにある筆者による手書きの「橫山略圖」の前に添えられたキャプション。底本ではページ中央に全体がある。]

 

      圖 略 山 橫

 

   此の頃のやうに、橫山迄川下から船がは
   いつたのと反對に、以前は地圖にあるや
   うに、川上から流して來た材木は橫山か
   ら筏に組んだもので、其處をアバと謂ひ
   ました。川狩の人夫は多く美濃方面から
   渡つて來たものださうで、橫山の前を流
   れる二の瀧の難所を踏んだものならば、
   何處の川へ行つても怖ろしい事はないと
   謂つたものだと、橫山の者は謂ひました。 

[やぶちゃん注:ここに「横山略圖」(右から左書き)が載る。これは本書を読み解く上で必須の貴重なアイテムであるのだが、底本の画像を転載許可を得て載せるのが一番いいのだが、個人的には、本文の加工データとして使用させて戴く「早川孝太郎研究会」にある、JPG画像の当該地図をリンクさせておくのが、そちらへの御礼代りになろうかと思うことから、必要な時は、そちらの同地図の画像を常にリンクさせて示すこととする(この地図は「猪・鹿・狸」でも大いに参考にさせて戴いた大事な地図なのである)。なお、地図には非常に細かい解説が随所の書かれてある。一つだけ、「凡例」の最後の附記のみを電子化しておくと、

   *

畑、田ヲ除キタル處ハ總テ草木茂リ山ニハ禿山ナシ北山御料林ハ靣積九十六町歩アリ村ノ全靣積ノ七分ヲ占ム

   *

とある。「九十六町歩」は〇・九五二平方キロメートル。「御料林」は明治中期になって、官林の一部が皇族に移管されて、皇族の財産及び収入源とされたものを指す。「北山御料林」は旧長篠村内にあったことが、三戸幸久氏の論文「愛知県におけるニホンザルの分布変化と猿害」PDF)で確認は出来た。旧村域はここ(愛知県南設楽郡長篠村・歴史的行政区域データセットβ版。横山も南西で含まれる)。その資料によれば、別に「砥山(とやま)御料林」もあった。それは新城市横川砥山で、豊川の対岸のここである。対岸に西山の地名があり、その東北に「上北地」という地名がある。さらに決定打は例の早川氏の手書き地図にある。図の左の「寒峽川」(豊川の上流域の名)の左岸に「御料林」と書いてあるのがそれで、則ち、この中央南北一帯が「北山御料林」であったのである。]

 

 

三  州  橫  山  話

 

 

 ○位置  三河の西を流れてゐる矢作川《やはぎがは》に對して、東側を縱斷してゐる豐川《とよがは》の流域に開拓された平地が、地圖に據つて見ると、上流に溯るに從つて、東の方、遠江に境した連山と、西側の本宮山《ほんぐうさん》を基點として北へ走つた山々に段々せばめられて行つて、最後に平地が微かに消えてしまはうとする所で、川が二つに別れてゐる處があります。東から流れてゐる川を三輪川と云ひ、西から流れる川を寒狹川《かんさがは》と呼んで、豐かな川と書いた豐川の名稱は此處で盡きて、水の流れも急に谿川の形に變ると同時にこれから北へ、三河の東北隅一帶を占めてゐる、山地が深く續いてゐます。

 この二ツの川に挾まれた三角面を、西から流れる寒狹川に沿つて十數町溯つた東岸にある部落が橫山の地です。

 この三角形の地が南設樂郡長篠村で、三角形の突端が戰國時代の長篠の城址で、三輪川を隔てた、八名《やな》郡の、舟着《ふなつけ》村寒狹川を隔てた南設樂郡の東鄕《ひがしがう》村あたりへかけて長篠の古戰場になります。

 豐橋から起つてゐる飯田街道は、豐川の西岸を一直線に橫山の對岸迄來て、こゝから寒狹川の溪谷に入つて山峽を北設樂郡の寒地を巡つて、信州の飯田へ通じてゐます。往時はこの街道を飯田から信州產の綿を馬力で運搬して來て、橫山から船に積んで川を下つたさうですが、明治十七八年頃を最後にして、來なくなつたと謂ひます。

 傳說によると、太古此附近一帶は、一面の海で、橫山の南東、豐川の東岸に聳えてゐる舟着山の頂上の岩へ船を繫いだなどと謂つて、附近の、大海《おほみ》、有海《あるみ》、岩出、乘本《のりもと》などの地名は、その頃の名殘だなどとも謂ひます。

 舟着山の麓を、豐川から三輪川に沿つて、北設樂郡の本鄕を經て信州の飯田へ通ずる別な道があつて、舟着山の北の麓を山峽を通つて、山吉田村から遠江の引佐《いなさ》郡へ通じてゐる街道もあります。

[やぶちゃん注:「矢作川」ここ

「豐川」ここ

「本宮山」愛知県岡崎市・新城市・豊川市に跨る標高七百八十九メートルの山。ここ。別名を「三河富士」と称する。古来より山岳信仰の対象とされてきた山であった。

「川が二つに別れてゐる處があります。東から流れてゐる川を三輪川と云ひ、西から流れる川を寒狹川と呼んで」三輪川は現行の地図上では宇連川とあるのと同じ川の別名である。分岐地点はここで、「三角形の突端が戰國時代の長篠の城址」と有る通り、長篠城跡の南面直下である。但し、東に折れて北上する川は現行では豊川をそのまま記してある。しかし、「ひなたGPS」の戦前の地図のここを見られたい。私の言った通り、今の「宇連川」の部分には「三輪川」とあり、分岐した東上流の流れには、まさに「寒狹(カンサ)川」と書いてあるのである。

「橫山」愛知県新城市横川

「南設樂郡長篠村」横山と北西で接している。

「舟着村」現在の愛知県新城市市川山中に船着山(ふなつきやま:現行の山名)があるが、ここは少なくとも豊川左岸までは旧舟着(ふなつけ)村であろうと思われる。「ひなたGPS」の戦前の地図では村名には「フナツケ」とあるのである。

「東鄕」愛知県新城市川路東郷(かわじひがしごう)。

「飯田」長野県飯田市まで、横山からは直線でも六十七キロメートルある。

「明治十七八年頃」一八八四、五年。

「大海」新城市大海

「有海」新城市有海

「岩出」不詳。

「乘本」新城市乗本

「本鄕」愛知県北設楽郡東栄町(とうえいちょう)本郷

「山吉田村」新城市下吉田五反田附近

「遠江の引佐郡」現在の静岡県浜松市北区の大部分に当たる旧郡。]

 

 

 ○橫山の名稱   東海道線を豐橋から分岐して、北に走っている豐川鐵道の終點、長篠驛の東北に、谿を隔てて山の裾に、西南に面して、南北に細く一列に家の並んでいる部落がそれで、現今南設樂郡長篠村大字橫川字橫山組と呼んでいる戶數三十戶程の部落ですが、以前は設樂郡橫山村と云ふ獨立した村で、現今大字橫川をなしている對岸の瀧川村と共に、德川氏直接管領の地で、赤坂代官所へ納入の年貢米は、僅々六十二石餘に過ぎなかつたさうですが、村の者は、自から天領と稱へてゐたと云ひます。

  ずつと昔は知りませんが、現今橫山組で保管してゐる村の記錄に據りますと、天正以來云ひ習はした地名らしく、當時は寺が一ツ、家が十一戶しか無かつたやうですが、其後六戶まで減つた時を最少として、追々地類を增やして現今に至つたやうです。

[やぶちゃん注:「長篠驛」「早川孝太郎研究会」の当該箇所(PDF)には、以下の注記がある。『飯田線は、明治』三三(一九〇〇)年、『豊川鉄道により吉田(現・豊橋)~長篠(現・大海)間が開業、鳳来寺鉄道により大海~三河川合間が開業し』、『「本長篠駅」が出来たのは』大正一二(一九二三)年『のことです。この本が書かれた大正の初期には、終点は長篠駅(大海駅)でした』とある。

「瀧川」「ひなたGPSで見られたい。「国土地理院図」に滝川、戦前の地図に「瀧川」とある。

「天正以來」同前で、天正元年は一五七三年であり、「長篠の戦い」は天正三(一五七五)年のことであった旨の注がなされてある。]

 

 ○村の草分け   村の草分けとも謂ふべき舊家は、字《あざ》神田《じんでん》の山口と云ふ家だとも、宮貝津《みやがひづ》の早川孫三郞と謂ふ家だとも謂ひ、字神田の長者平は、昔長者の屋敷跡とも謂ひますが、近い頃まで榮えてゐたのはこの二軒だけでしたが、今はどちらも沒落してありません。

  山口と謂ふ家は百年ほど前までは非常に榮えてゐたさうで、今でも立派な屋敷跡がありますが、ある時此家の召使が、過つて茶釜に紡錘を當てた爲に、其夜座敷に住んでゐた福の神が遁げだしたので、其から段々家運が衰へてしまつたと謂ふ事です。福の神の姿を見たとは云ひませんが、翌朝裏口に、非常に巨きな足跡がたつた一ツ、後の山の方に向けてあつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が二字下げ。]

茶釜や茶釜の蓋へ紡錘を當てる事を厭む風習があつて、蓋へ當つたかしら、と云ふ位でも早速修驗者を招いて祈禱をして、其蓋は川へ流したなどの事實を微かに記臆してゐます。紡錘を當てるのは、ツム倒れと云つて厭むとも謂ひます。

  早川孫三郎と云ふ家は、今から四十年前に、一家を擧げて東京へ引払つたさうで、今は屋敷跡は畑になつてゐますが、此家の没落は、村の鎭守が、昔は自分の家の地の神であつたと云ふ理由で、その森を伐り拂つて、鎭守を自分の所有の芝刈山へ遷座した罰とも謂ひます。家運の亂れるそもそもの最初は、ある朝、この家の家内が井戶で水を汲まうとすると、井戶車へ、ぱつと優曇華《うどんげ》が咲いたと謂つて、アレ優曇華が、と謂つて見返す間に、消えてなくなつたとも云ひました。橫山の御館《おやかた》と謂へば、近鄕に鳴り響いた家柄で座敷の緣側に立つて、眼に入る限りの山や畑が、全部此家の所有であつたと謂ひます。傳說には、先祖が橫山の字コンニヤクと謂ふ所の岩山で金を掘つて富を獲たとも謂つて、其處を現今でも金堀[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]りと称へて居りますが、別の話では其處は後世堀りかけて中止した跡だとも云ひます。

 橫山の村の者などは、二、三のものを除いては、對談の叶ふものはなく、全部が召使のやうで、此家の田植に出なかつた爲め、村を追はれる處を、詫びを入れてやつとゆるされたなどの話がありました。全盛の最後の人は、村の者が俗に今樣と呼んだ人で、體格も勝れて立派であつたと謂ふ事ですが、子供の頃は類ひ稀な美少年で、ある年の田植に、畔に立つて苗を運んでゐる姿を、通りすがりの道者が見て、こんな山深い土地に、かく迄美しい子供があるものかと見とれて行つたと謂ふやうな話もありました。

 鎭守の森を伐り拂つた時は、今から九十年前ださうですが、故老の話に、幾百年を經過したともはかり知れない古木が、鬱蒼と茂つてゐて、川を隔てゝ大海《おほみ》村の鎭守の森と、枝と枝とが相接した間に、無數の群猿が遊んでゐた光景は見事なものであつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:この話は、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十九 古茶釜の話』で注で私が引用して注を入れてあるので、そちらを見られたい。特に加えるべき新事実を確認していない。

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その9) / ヤギヤウサン・クビナシウマ・後記 / 柳田國男「妖怪談義」(全)電子化注~了

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここ。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。

 これを以って、柳田國男の単行本「妖怪談義」の全篇電子化注を完遂した。]

 

ヤギヤウサン 阿波の夜行樣《やぎやうさま》といふ鬼の話は民間傳承にも出て居る(三卷二號)。節分の晚に來る髭の生えた一つ目の鬼といひ、今は嚇《おど》されるのは小兒だけになつたが、以前は節分・大晦日・庚申の夜の外に、夜行日といふ日があつて夜行さんが、首の切れた馬に乘つて道路を徘徊した。これに出逢ふと投げられ又は蹴殺《けころ》される。草鞋を頭に載せて地に伏して居ればよいといつて居た(土の鈴一一號)。夜行日は拾芥抄《しふがいしやう》に百鬼夜行日とあるのがそれであらう。正月は子の日、二月は午の日、三月は巳の日と、月によつて日が定まつて居た。

[やぶちゃん注:ウィキの「夜行さん」を見られたい。そこには、大晦日・節分・庚申の日・夜行日(陰陽道による忌み日。正月と二月の子の日、三月と四月の午の日、五月と六月の巳の日、七月と八月の戌の日、九月と十月の未の日、十一月と十二月の辰の日)に現われる鬼形の物とする。

「土の鈴」民俗学者本山桂川(『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ひだる神のこと』で既出既注)が編集していた民俗学雑誌。

「拾芥抄」本邦で中世に編纂された類書(百科事典)。全三巻。詳しくは当該ウィキを見られたい。国立国会図書館デジタルコレクションの慶長年間の板本の第三巻のここに、

   *

夜行夜途中歌

 カタシハヤエカセニクリニタメルサケテヱヒアシエヒ我シコニケリ

   *

とあるのは、百鬼夜行に出逢わないように唱える防御のための呪文らしい。底本では最後の「我シコニケリ」の「コ」が右向きに反転しているが、ネット上の複数の記載で「コ」と訂した。或いはこの反転自体が何らかの呪術である可能性もあろうか。それらの記載では、次のように切っているものが多い(以下はこちらに従った)。

   *

 カタシハヤ エカセニクリニ タメルサケ テヱヒ アシエヒ 我シコニケリ

   *]

クビナシウマ 首無し馬の出て來るといつた地方は越前の福井にあり、又壹岐島にも首切れ馬が出た。四國でも阿波ばかりでなくそちこちに出る。神樣が乘つて、又は馬だけで、又は首の方ばかり飛びまはるといふ話もある。

[やぶちゃん注: 先のウィキの「夜行さん」には、鬼の「夜行さん」は首切れ馬(首のない馬の妖怪)に乗って徘徊するとある。但し、ウィキには独立した妖怪としての「首切れ馬」もある。

 以下は、一行空けの後、底本では全体が一字下げ。]

 

 示現《じげん》諸相の中でも、最も信者の少ない妖怪のいひ傳へは、實在の言葉で採錄して置くより他に、その形體を把捉するの途が無いので、諸君の力を借り、出來るだけ多くの名と說明とを集めて見ようとするのである。まだ中々續きさうなので、これからは時々中絕するつもりであるが、中絕しても蒐集を止めて居るのではない。五十音順にでも整理して置いて、なほ續々不足を補はれんことを希望する。

[やぶちゃん注:「五十音順にでも整理して」せめても本篇自体をそうして欲しかったな、柳田先生。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その8) / ヒトリマ・ヒヲカセ・ミノムシ・キツネタイマツ・テンピ・トビモノ・ワタリビシヤク・トウジ・ゴツタイビ・イゲボ・ケチビ・ヰネンビ・タクラウビ・ジヤンジヤンビ・バウズビ・アブラバウ・ゴンゴロウビ・ヲサビ・カネノカミノヒ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。

 以上の十九条は総てが、怪火の怪であるから、長いが、ソリッドに纏めた。

 

ヒトリマ 火取魔といふ名はたゞ一つ、加賀山中溫泉の例が本誌に報告せられたのみであるが(民間傳承三卷九號)、路傍に惡い狐が居て蠟燭の火を取るといふ類の話は諸處にある。果してこの獸が蠟燭などを食ふものかどうか。或は怪物の力で提燈の火が一時細くなるといふ石川縣のやうないひ傳へが、他にもあるのでないかどうか。確めて見たい。

[やぶちゃん注:「火取り魔」当該ウィキを参照。

「果してこの獸が蠟燭などを食ふものかどうか」人間も食用に出来る蜜蝋なら食わぬでもなかろうが、通常の蝋燭を雑食性のホンドギツネか食うとは私にはちょっと思われない。

「怪物の力で提燈の火が一時細くなる」当該ウィキにある、加賀山中温泉の『こおろぎ橋』(ここ)『の近くに姥の懐』(うばのふところ)『と呼ばれる場所があり、夜にここを人が提灯を灯して通ると、提灯の火がまるで吸い取られるように細くなり、そこを通り過ぎるとまた元通り明るくなるという』。『土地の住民からは、この現象は火取り魔という妖怪の仕業と呼ばれており』、当『温泉ではキツネが悪さをしているともいう』。『河童が正体ともいわれる』とあるのを指す。「姥の懐」であるが、choraku氏のブログ「山中温泉のてんこもり」の「姥のふところってどこよの巻」で古地図も示されて推理されておられるので、見られたい。]

ヒヲカセ 火を貸せといふ路の怪が出る場處が、三河の北設樂《きたしたら》郡にはある。昔鬼久左《おにきうざ》といふ大力の男が夜路を行くと、さきへ行くおかつぱの女の童がふりかへつて火を貸せといつた。煙管を揮つて打据ゑようとして却つて自分が氣絕してしまつた。淵の神の子であつたらうといふ(愛知縣傳說集)。或はこれとは反對に、夜分人が通ると提燈のやうな火が出て送つて來るといふやうな所もあつた。或村の古榎の木の下まで來ると消える。それでその古木を伐つてしまつたら出なくなつたといふ(同上)。

[やぶちゃん注:「北設樂郡」愛知県の北東部の郡名。旧域は当該ウィキ地図を見られたい。

「愛知縣傳說集」国立国会図書館デジタルコレクションの愛知県教育会編で郷土研究社昭和一二(一九三七)年刊の原本のここの「59 龜淵の河小僧(北設樂郡)」で視認出来る。但し、主人公の「鬼久左」はそちらでは、『鬼久左右衞門』であり、前の「58 山犬(北設樂郡)」にも登場しており、本名は『小石久右衞門、俗に鬼久右衞門と言ふ名の三人力又五人力といはれる力持』ちであったとある。

「夜分人が通ると提燈のやうな火が出て送つて來るといふやうな所もあつた。或村の古榎……」同原本のここの「65 おくり火(寶飯郡)」である。]

ミノムシ 越後では評判の路の怪で或は鼬のしわざともいふ。小雨の降る晚などに火が現れて蓑の端にくつゝき、拂へば拂ふほど全身を包む。但し熱くはないといふ(西頸城郡鄕土史稿二)。信濃川の流域にはこの話が多く、或はミノボシともいふ。多人數であるいて居ても一人だけにこの事があり、他の者の眼には見えない(井上氏妖怪學四七九頁)。[やぶちゃん注:底本に句点はないが、おかしいので、「ちくま文庫」版で補った。]雨の滴が火の子のやうに見えるのだともいふ(三條南鄕談)。越前坂井郡でも雨の晚に野路を行くとき、笠の雫の大きいのが正面に垂れ下り、手で拂はうとすると脇へのき、やがて又大きい水玉が下り、次第に數を增して眼をくらます。狸のしわざといひ、大工と石屋とにはつかぬといふのが珍しい(南越民俗二)。秋田縣の仙北地方で蓑蟲といふのは、寒い晴れた日の早天に、蓑や被り物の端についてきらきら光るもので幾ら拂つても盡きないといふから、これは火では無い(旅と傳說七卷五號)。利根川圖誌に印旛沼のカハボタルといつて居るのは、これは夜中に出るので火に見えた。これも越後のミノムシと同じものだらうといつて居る。

[やぶちゃん注:ウィキの怪火(擬似も含む)「蓑火」(みのび)を参照されたいが、そこでは冒頭に『近江国(現・滋賀県)彦根に伝わる怪火』とするが、ここの「越後」は、「概要」部に、『同種の怪火は各地に伝承があり、秋田県仙北郡、新潟県中蒲原郡、新潟市、三条市、福井県坂井郡(現・坂井市)などでは蓑虫(みのむし)、蓑虫の火(みのむしのひ)、蓑虫火(みのむしび)、ミノボシ、ミーボシ、ミームシなどという。信濃川流域に多いもので、主に雨の日の夜道や船上で蓑、傘、衣服に蛍状の火がまとわりつくもので、慌てて払うと』、『火は勢いを増して体中を包み込むという。大勢でいるときでも一人にしか見えず、同行者には見えないことがあり、この状態は「蓑虫に憑かれた」と呼ばれる。逆に居合わせた人々全員に憑くこともあり、マッチなどで火を灯すか、しばらく待てば』、『消え去るという。中蒲原郡大秋村では、秋に最も多く出るという』とあることで、問題ない。

「井上氏妖怪學四七九頁」国立国会図書館デジタルコレクションのここ(479ページ)の同原本の左ページ五行目から視認出来る。かなり長く、485ページ末まで続く。所持する一九九九年柏書房刊の「井上円了・妖怪学全集」では第一巻の「妖怪学講義」の「第二 理学部門」の五三三ページ以降に載っている。電子化してもいいが、長過ぎるこれは、科学的に妖怪殲滅を標榜する円了が大嫌いな柳田國男には不愉快だろうから、敢えてやめておく。是非と懇望されれば、当該部を別記事で電子化するので、ご連絡戴きたい。

「三條南鄕談」『日本民俗誌大系』第七巻(北陸)に載る外山暦郎著「越後三条南郷談」である。国立国会図書館デジタルコレクションの同書の「怪火」の章の「蓑虫」の項である。

「寒い晴れた日の早天に、蓑や被り物の端についてきらきら光るもので幾ら拂つても盡きない」これは所謂、「ダイヤモンド・ダスト」のことであろう。

「利根川圖誌に印旛沼のカハボタルといつて居るのは、これは夜中に出るので火に見えた。これも越後のミノムシと同じものだらうといつて居る」「埼玉県立図書館」デジタルライブラリーのビューア版の第四巻11コマ目から「利根川圖志」(医師赤松宗旦が著した利根川中・下流域の地誌。安政五(一八五八)年刊)原版本の当該部が読める。非常に読み易いが、本書は私の愛読書でもあるので、電子化しておく。私は使い勝手のいいPDF一括版を用いた。「﹆」があるが、句読点・記号を私の判断で変更・追加した。読みは一部に留めた。下線は原本では二重右傍線。臨場感がある文章なので、読み易さも考え、段落を成形した。【 】は二行割注。

   *

カハボタル 俚言にカハボタルといふものあり。亡者の陰火なる由。

 形ち、丸くして、大さ、蹴鞠の如く、光りは螢(ほたる)火の色に似たり。夏秋の夜、あらはるゝ。雨の夜は、至つて、多し。水上、一、二尺離れて、いくつも出(いで)て、遊行するが如し。或は聚り、或は散じ、又は髙く、また、低く、はしる時は、矢のごとし。久雨(きうう)の節(せつ)は、夜な夜な、多く、是を見る。また、花嶋山[やぶちゃん注:「はなしまやま」。この条の後に出る通り、印旛沼の中にあった島の旧名。そこで既に『今は田畑となれり。島の廽(めぐ)り一里といへり。此絶頂にむかし寺あり大日本寺といふ。今は不動堂と篭り堂のみ殘れり』とある。「今昔マップ」を調べたが、旧地は見当たらなかったが、「利根川図志」の前の方に出る(一括版7コマ目)の絵図の「筑波山」と「吉高」の配置から推定すると、この中央附近にあったのではないかと踏んだ。]へ龍燈(りやうとう)の上ることあり。[やぶちゃん注:「龍燈」は南方熊楠の「龍燈に就て」(私の注附き一括PDF縦書版)を参照されたいが、「今昔マップ」の旧印旛沼の全体の形はまさに龍に相応しく、実際に龍伝承が印旛沼にはある。ウィキの「印旛沼の竜伝承」を読まれたい。

 さて、陰火・龍燈のたぐひ、種々(くさぐさ)の書に多く見ゆれど、詳かなるは、春暉[やぶちゃん注:医師で旅行家として多くの機構を残した橘南谿の本名宮川春暉(はるあきら)の名。但し、礼儀上、宗旦は音読みして「しゆんき」と読んでいるはずである。]が見たるとて、「西遊記」にしるしたる『筑紫(つくし)のしらぬ火』、また、越後國新道村(しんだうむら)飯塚氏の咄しを、牧之(ぼくし)老人雪譜[やぶちゃん注:これまた私の偏愛する「北越雪譜」。]に出したる、『頸城郡(くびきごほり)米山(よねやま)[やぶちゃん注:ここ。]の竜燈』なり。

 こゝに又、一竒說を擧ぐ。

 義知[やぶちゃん注:宗旦の本名。]壯年の頃、印旛江の邊(ほと)り、吉髙(よしたか)【「和名抄」に云『印旛郡吉髙』。】にありしとき、頃は五月の末なりしが、朋友(ともだち)來りて云ひけるやう、

「今宵は、そらもはれて、いと靜かなれば、慰みに釣に行べし。」

と、いひけるゆゑ、予も、

『幸(さいはひ)の事なり。』

と思ひ、早速、仕度とゝのへ、二人、連立ち、河岸(かし)に行き、手に手に、小舟に、うち乘り、江の半に至り、朋友(ともだち)の舟と、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ばかり隔(へだて)て、棹、つき立て、舟を繫ぎ、釣をたれて居(ゐ)たりけるに、最早、子刻(よなか)ともおぼしき頃、俄(にはか)に、空、かき曇り、朦𪱨(もうろう)として、物さびしく、程なく、大風、吹起り、雨、降りいだし、誠に、しんの闇となり、十間計りはなれ居たる朋友の舟も、見えずなりぬ。

『こは、いぶかし。』

と思ふ内、幽(かすか)に、遠き水中より、一つの靑き火、

「閃々(ひらひら)」

と燃(もえ)あがりぬ。

『是なん、かの亡者のカハボタルならん。』

と見居たるに、だんだんと、わが方に近付き來りぬ。

『逃げかへらん。』

と思へども、風、つよければ、舟を動かす事もならず、衣服はぬれて、戰慄(ぞつと)するに、心をしづめ、

『朋友を、呼ばん。』

とすれど、更に声も出(いで)ず。

『如何がはせん。』

と、ためらふ内、カハボタルは、わがふねの舳(へ)さきに乘(のり)たり。

『こは、かなはじ。』

と思へども、すべきやうなく、たゞ、目をとぢて、一心に念佛するのみなり。

 暫(しばらく)して、雨、やみ、風も、ちと靜まりぬれば、こはごはと、目を開き見るに、はや、カハボタルは何𠙚(いづこ)へか消(きえ)うせ、空も、少し晴れて、朋友(ともだち)の舟、もとの𠙚に居たり。

 このとき、はじめて、こゑをいだし、

「今の、カハボタルを、見しや。」

と問へば、

「我も見たれ共、おそろしさに、物も云はず。」

と荅(こた)ふ。

 やうやう、人心地(こゝち)付て、早々、我家にかへり來りぬ。

 翌朝、漁師ども、大勢居たる所にて、右の咄しを、くはしく物語せしに、猟師ども、云けるは、

「其くらゐの事は、度々のことなり。我らは、一昨夜、漁に出しに、彼(かの)カハボタル、我か舟に乘(のり)たり。其時は、大勢ゆゑ、おそろしとも思はず、舟棹(ふなざを)を以て、力に任せ、打たゝきし所、碎(くだ)け散(ちつ)て、舟一面に火となり、塗(ぬり)付けたる如く、その腥(なまぐさ)き叓[やぶちゃん注:「事」の異体字。]、譬(たと)ふべき物なし[やぶちゃん注:「譬」は底本では、「壁」の左上部分を「石」にした字体。表示出来ないので以上に代えた。]。其質(しつ)、油の如く、阿膠(にかは)の如く、ぬるぬる、ひかひかとして、落ず[やぶちゃん注:「おちず」。]。みなみな、打寄り、やうやうと、洗ひ落しぬ。」

と、大勢の物語なり。

 又、其内一人の云ひけるは、

「四、五年以前の叓なるが、われ、或夜、投網(とあみ)うちの艫漕(ともこぎ)に出でし所、彼(かの)カハボタル、いくつともなく出來り、舟近く、ふはふはと、飛(とび)めぐる。網とりは剛氣(かうき)の男ゆゑ、此時、小声にて、我に、さとしければ、我も、うなづきながら、舟を廽(めぐ)らし、かのカハボタルを、追ひかけまはす。網とりは、あみを小脇に引かまへ、舟の舳(へ)さきに突立(つゝたち)あがり、手頃(てごろ)を見さだめ、『こゝぞ。』と網を投(うち)ければ、按(あん)にたがはず、カハボタル一ツを、打かぶせぬ。其時も、腥きこと、いはん方なく、網の中は、一面に、青き火となり、ぬるぬるして、落(おち)ず。いかんともすべきやうなく、手にて、もみ洗ひければ、其手、二、三日も腥かりし故、一昨夜も、大勢にて、舟を洗ひしが、我は以前にこりて居(おり)しゆゑ、それと云はず、手を付けざりし。」

と、いひて、大に笑ひぬ。

 かのカハボタルといふものを生捕りて、その形質をあらはししは、印旛江の猟師なるべし。

   *

個人的には、潰すと腥く、臭いが残るというのは、ホタル類の属性と一致するし、淡水の水辺で多量に発生し、夜間に発光し、しかも飛翔するのは、それ以外には考えられない。]

キツネタイマツ 狐火と同じものらしいが、羽後の梨木羽場といふ村では、何か村内に好い事のある際には、その前兆として數多く現れたといつて居る(雪の出羽路、平鹿《ひらか》郡十一)。どうして狐だといふことが判つたかゞ、寧ろより大きな不思議である。中央部では普通に狐の嫁入といふが、これは行列の火が嫁入と似て居て、どこにも嫁取が無いからさう想像したのであらうが、それから更に進んで、狐が嫁入の人々を化かし、又は化けて來たといふ話も多く出來て居る。

[やぶちゃん注:「羽後の梨木羽場」秋田県横手市十文字町梨木羽場下(なしのきはばした)附近。

「雪の出羽路、平鹿郡十一」国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田叢書』第七巻のこちらにやっと見つけた(「○梨木羽奈場村(一)」の「○古名字地」の末尾)。左ページ一行目半ばから。『きつね松明(たいえまつ)』とあり、『村に幸なる事あれば、數もしらず千々の狐火を燭(とも)す』とあって、これは半端ない凄い数だ。因みに、私の父は敗戦直後、考古学調査に行った鬼石(おにし:群馬県藤岡市鬼石)で実際の山を登ってゆく狐火の列を目撃している。泊った村の人がそう教えて呉れたそうである。]

テンピ 天火。これは殆と主の知れない怪火《くわいくわ》で、大きさは提燈ほどで人玉のやうに尾を曳かない。それが屋の上に落ちて來ると火事を起すと肥後の玉名郡ではいひ(南關方言集)、肥前東松浦の山村では、家に入ると病人が出來るといつて、鉦を叩いて追出した。或はただ單に天氣がよくなるともいつたさうである。

[やぶちゃん注:当該ウィキを参照されたい。

「肥後の玉名郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「南關方言集」不詳。この「南關」というのは。熊本県玉名郡南関町のことであろう。当該書籍は確認出来なかった。

「肥前東松浦」郡域は当該ウィキの地図を見られたいが、「山村」とあるから、これは現在の唐津市の南東部の、この中央附近と考えるのが妥当であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

トビモノ 光り物といふ言葉は中世には色々の怪火を呼んで居る。この中には流星もあり、又もつと近い處を飛ぶ火もあつた。茨城縣北部では現在も飛び物といつて居る。蒟蒻玉が飛びものになつて光を放つて飛ぶことがあるといふ。山鳥が夜飛ぶと光つて飛びものとまちがへることがあるともいふ。京都でも古椿の根が光つて飛んだといふ話などが元はあつた。

[やぶちゃん注:所持する柴田宵曲編「奇談異聞辞典」(二〇〇八年「ちくま学芸文庫」刊)に二箇所の記載がある(柴田はパブリック・ドメイン。私は既にブログ・カテゴリ「柴田宵曲」で彼の「妖異博物館」の正・続の総ての電子化注を終わっている)。

   *

 飛物(とびもの) 〔反古のうらがき巻一〕四ツ谷裏町〈東京都新宿区内〉の与力某打寄りて、棊(ご)を打ちけるが、夜深けて各〻(おのおの)家に帰るとて立出しに、一声がんといひて光り物飛び出で、連立ちし某がながしもとあたりと思ふ所へ落ちたり。直に打連れて其所に至り、挑燈(ちょうちん)振りてらして尋ねけるに、何もなし。明(あく)る朝主人立出て見るに、流し元のうごもてる土の内に、ひもの付きたる真鍮の大鈴一ツ打込みてあり。神前などにかけたる物と覚えて、ふるびも付きたり。かゝる物の此所に打捨て有るべき道理もなければ、定めて夜前の光り物はこれなるべしと云へり。この大鈴何故光りを放して飛び来けるや、その訳解しがたし。天保初年の事なり。この二十年ばかり前、十月の頃八ツ時(午後二時)頃なるに、晴天に少し薄雲ありて、〈鈴本桃野〉が家より少々西によりて、南より北に向ひて、遠雷の声鳴渡りけり。時ならぬこととばかり思ひて止みぬ。一二日ありて聞くに、早稲田と榎町〈共に新宿区内〉との間、とゞめきといふ所に町医師ありて、その玄関前に二尺に一尺ばかりの玄蕃石(げんばいし)[やぶちゃん注:長方形の板石。敷石又は蓋石に用いる。]の如き切り石落ちて二つに割れたり。焼石と見えて余程あたゝかなり。其所にては響も厲(はげ)しかりしよし。浅尾大嶽その頃そのわたりに住居して、親しく見たりとて余に語る。これも何の故といふことをしる者なかりし。後に考ふるに、南の遠国にて山焼ありて吹上げたる者なるべし。切石といふも方直に切りたる石にてはなく、へげたる物なるべし。

   *

 白昼の飛び物(はくちゅうのとびもの) 〔梅翁随筆巻八〕己未の十月十四日、天気快晴にて風もなく、霞めるごとくにて、さながら二三月頃にことならず。この日大坂にて、淀川の方より天王寺の方へ、蜘蛛の巣のごときもの、先は丸くかたまりたる物、いくらといふ事なく引つゞき飛行、落ちんとしてまた上りて行く多し。その中に一ツ二ツ地に落ちたるを取て見るに、全く蜘蛛の囲[やぶちゃん注:「ゐ」。]のごとくにて、その糸よほど太し。掌に入れてもめば、皆消え行きて跡にものなし。この日昼頃より飛びはじめて、昼過ぐる頃ことに多く飛びて、八ツ時半(午後二時)頃にいたりてやみぬ。何ゆゑといふ事を知らず。翌日も天気昨日のごとく快晴なり。風は少々あり。きのふみぬ人も多ければ、朝とくより暮れがたまで心がけ居たれども、いさゝかの飛ものもなし。これらの事は、いかなるゆゑならんといぶかし。

   *

UFO研究家の私としては、後者はまさに「エンジェル・ヘア」である。御存じない方は、「カラパイア」の「UFOの目撃情報と関連して報告されるエンジェルヘア現象とは?」を見られたい。UFO絡みでは、一九五二年のフランスのオロロンで発生した事件が最も知られる。「exciteニュース」の『UFO出現で降り注ぐ粘着物質「エンジェルヘア」とは? 1500年間で225例、科学者も熱視線』を読まれたい。]

ワタリビシヤク 丹波の知井の山村などでは光り物が三種あるといふ。その一はテンビ、二は人ダマ、三はこのワタリビシャクで蒼白い杓子形のものでふわふわと飛ぶといふ。名の起りはほゞ明らかだが、何がこれになるのかは知られて居ない。

[やぶちゃん注:「丹波の知井」現在の京都府美山町地区。]

トウジ 暴風雨中に起る怪光をトウジといふ(土佐方言の硏究)。不明。

[やぶちゃん注:「土佐方言の硏究」高知県女子師範学校郷土室編・昭一一(一九三六)念高知県女子師範学校刊。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のこちらの方言リストの中に「トージ」として出る。]

ゴツタイビ 鬼火のことゝいふ(阿山《あやま》郡方言集)。

[やぶちゃん注:「阿山郡方言集」阿山は三重県にあった旧郡。旧郡域は当該ウィキを見られたい。三重県西北部端である。本書は正しくは明治三七(一九〇四)年阿山郡教育会編刊の「阿山郡方言訛語集」である(日文研「怪異・妖怪伝承データベース」の「ゴッタイビ」で確認)。]

イゲボ 伊勢度會《わたらひ》郡で鬼火をイゲボといふ。他ではまだ耳にせぬので、名の由來を想像し難い。

[やぶちゃん注:「伊勢度會郡」旧郡域は当該ウィキを見られたい。]

キカ 薩摩の下甑島《しもこしきじま》で火の玉のことだといふ。大きな火の玉の細かく分れるものといふ。鬼火の漢語がいつの間にか、こんな處に來て土着してゐるのである。

[やぶちゃん注:「下甑島」鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市下甑島。]

ケチビ 土佐には殊にこの話が多い。大抵は人の怨靈の化するものと解せられて居る(土佐風俗と傳說)。竹の皮草履を三つ叩いて喚べば近よるといひ(鄕土硏究一卷八號)、又は草履の裏に唾を吐きかけて招けば來るといふのは(民俗學三卷五號)、もとは人の無禮を宥《ゆる》さぬといふ意味であつたらしい。佐渡の外海府にも人魂をケチといふ語がある。

[やぶちゃん注:「土佐風俗と傳說」寺石正路編。国立国会図書館デジタルコレクションで『爐邊叢書』二十七のここから読める。柳田の記載は短いが、原本では「其七 怪火火玉」で膨大な「怪火(けちび)」の記載が読める。

「佐渡の外海府」大佐渡の大陸側の約五十キロメートルの長大な海岸線を指す。]

ヰネンビ 沖繩では亡靈を遺念と呼び從つて遺念火の話が多い(山原《やんばる》の土俗)。二つの注意すべき點は、大抵は定まつた土地と結び付き、さう自由に遠くへは飛んで行かぬことゝ、次には男女二つの靈の火が、往々つれ立つて出ることである。これは他府縣でもよく聽く話で古い形であらうと思ふ。但し亡靈火と現在よばれて居るのは、專ら海上の怪火《くわいくわ》のことで、これは群を爲し又よく移動する。

[やぶちゃん注:「ヰネンビ」とあるが、沖縄方言では「いにんびー」である。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」の「イニンビー」で確認した。そこには百『年くらい前に美しい娘がいて、若者と恋に落ちた。それを島の若者たちに囃したてられた娘は、恥ずかしさと驚きから、崖から落ちて自殺した。それをみた恋人の若者も後を追って自殺した。浮かばれない二人の怨霊が遺念火の由来である』という悲恋譚がちゃんと記されてある。同様に「亡靈火」という語も出典を明らかにして欲しかった。甚だ不満である。]

タクラウビ 備後御調《みつぎ》郡の海上に現れるといふ怪火で、火の數は二つといふから起りは「比べ火」であらう。藝藩通志卷九九に見えて居るがこの頃はもういはぬやうである。藝備の境の航路には又京女郞筑紫女郞といふ二つの婦人の形をした岩の話などもあつて、もとは通行の船の信仰から起つたことを想像せしめる。

[やぶちゃん注:「備後御調郡」「ひなたGPS」で旧「御調郡」を中央にポイントした。この海岸部である。

「藝藩通志卷九九」国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここで視認出来る。下段の「多久良火」であるが、柳田の紹介は杜撰。かなりちゃんと書かれている。読まれたい。]

ジャンジャンビ 奈良縣中部にはこの名をもつて呼ばれる火の怪の話が多い。飛ぶときにジャンジャンといふ音がするからともいふ。火は二つで、二つはいつ迄も逢ふことが出來ぬといひ、これに伴なふ乙女夫川《めをとがは》・打合ひ橋などの傳說が處々にあつた(旅と傳說八卷五號)。柳本《やなぎもと》の十市城主の怨靈の火と傳ふるものは、又一にホイホイ火ともいふ。人が城址の山に向つてホイホイと二度三度喚ぶと、必ずジャンジャンと飛んで來る。これを見た者は病むといふから(大和の傳說)、さう度々は試みなかつたらうが今でも至つて有名である。

[やぶちゃん注:私の好きな怪火。ウィキの「じゃんじゃん火」を見られたい。

「柳本の十市城」十市城跡は奈良県橿原市十市町のここ。現在の柳本地区(奈良県天理市柳本町(やなぎもとちょう))はその北東に当たる。次注参照。

「大和の傳說」国立国会図書館デジタルコレクションの大和史蹟研究会刊高田十郎ら編の同書の増補版(昭和三四(一九五九)年版)のこちら(「一八九、ホイホイ火 天理市柳本町 (旧磯城郡[やぶちゃん注:「しきぐん」。]柳本町柳本)」)を参照。]

バウズビ 加賀の鳥越村では坊主火といふ火の玉が、飛びあるくことが有名である。昔油を賣る男が惡巧みをして鬢附けを桝の隅に塗つて桝目を盜んだ。その罰で死んでからこの火になつたといつて居る(能美郡誌)。しかし油商人なら坊主といふのは少しをかしい。

[やぶちゃん注:日文研「怪異・妖怪伝承データベース」の「ボウズビ」に、同じ典拠で、『油を売る男が悪巧みをして鬢付け油を桝の隅に塗って桝目を盗んだ。その罰で、男は死んでからこの坊主火になったといわれている。まずは数百の火光列を作ってあちこちにいって、やがて一直線状、そして一個となってから上空に消えたという。しばしば見られるという』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「石川縣能美郡誌」(大正一二(一九二三)年刊)のここで視認出来る。

「油商人なら坊主といふのは少しをかしい」火の玉の形状を坊主頭のミミクリーとするなら、おかしくはあるまい。]

アブラバウ 近江野洲《やす》郡の欲賀(ほしか)といふ村では、春の末から夏にかけて夜分に出現する怪火《くわいくわ》を油坊といふ。その火の焰の中には多くの僧形を認めるといつてこの名がある。昔比叡山の僧侶で燈油料を盜んだ者の亡靈がこの火になつたと傳へられる(鄕土硏究五卷五號)。河内枚岡《ひらをか》の御社に近い姥《うば》が火を始めとしてこの怪し火には油を盜んだ話がよく附いて居る。或は民間の松の火が、燈油の火に進化した時代に、盛んにこの空想が燃え立つた名殘かも知れぬ。越後南蒲原の或舊家に昔アブラナセといふ妖怪が居て家の者が油を粗末に使ふとすぐに出て來てアブラナセ、卽ち油を返濟せよといつたといふ話がある(三條南鄕談)。鬼火では無いがこれと關係があるらしい。以前は菜種は無く皆《みな》胡麻油であつた。つまり今日よりも遙かに貴重だつたのである。

[やぶちゃん注:「近江野洲郡の欲賀」滋賀県の旧郡。郡域は当該ウィキの地図を見られたい。「欲賀」は現在の滋賀県守山市欲賀町(ほしかちょう)。

「三條南鄕談」既出既注の『日本民俗誌大系』第七巻(北陸)に載る外山暦郎著「越後三条南郷談」。国立国会図書館デジタルコレクションの同書の「怪火」の章の「油なせ」の項である。]

ゴンゴロウビ 越後本成寺《ほんじやうじ》村には、五十野《ごじゆうな》の權五郞といふ博徒が、殺された遺念といつてこの名の火の燃える場處がある。今では附近の農家ではこれを雨の兆《きざし》とし、この火を見ると急いで稻架《はさ》を取込むといふ(三條南鄕談)。

[やぶちゃん注:前注のリンク先と同じ個所に所載する。読みはそこに拠った。

「越後本成寺村」現在の新潟県三条市西本成寺。]

ヲサビ 日向の延岡附近の三角池といふ池では、雨の降る晚には筬火(をさび)といふのが二つ出る。明治のなかば迄は折々これを見た人があつた。昔二人の女が筬を返せ返したで爭ひをして池に落ちて死んだ。それで今なほ二つの火が現れて喧嘩をするのだと傳へて居る(延岡雜記)。二つの火が一しよに出るといふ話は、名古屋附近にもあつた。これは勘太郞火と稱してその婆と二人づれであつた。

[やぶちゃん注:「三角池」不詳。一部のネットで心霊スポットとされる金堂(こんどう)ヶ池が候補となるか。

「勘太郞火」ryhrt氏(東洋大学非常勤講師廣田龍平氏)のブログ「妖怪と、人類学的な雑記」の「勘太郎火と勘五郎火」が不審を明らかにして(「その婆と二人づれ」とは勘太郎とその母の霊である)詳細に解説して呉れている。必見!]

カネノカミノヒ 伊豫の怒和(ぬわ)島では大晦日の夜更に、氏神樣の後《うしろ》に提燈のやうな火が下り、わめくやうな聲を聽く者がある。老人はこれを歲德神《としとくじん》が來られるのだといふさうである。肥後の天草島では大晦日の眞夜中に、金《カネ》ン主《ヌシ》といふ怪物が出る。これと力くらべをして勝てば大金持になるといひ、武士の姿をして現れるともいつた(民俗誌)。多くの土地ではこれは一つの昔話だつたやうである。夜半に松明をともして澤山の荷馬が通る。その先頭の馬を斫《き》れば黃金だつたのに、氣おくれがして漸く三番目の馬を斫つたら、荷物は全部銅錢であつて、それでも結構長者になつたなどといつて居る(吾妻昔物語)。

[やぶちゃん注:「伊豫の怒和(ぬわ)島」愛媛県松山市に属する島。ここ

「民俗誌」「天草民俗誌」。浜田隆一著。国立国会図書館デジタルコレクションの『諸國叢書』第一編(昭和七(一九三三)年郷土研究社刊)のここ「(八)金(カネ)ン主(ヌシ)」が視認出来る。

「吾妻昔物語」これは「吾妻むかし物語」か。国立国会図書館デジタルコレクションの『南部叢書』第九冊の同書を見たが、下巻の「第四 瀨川淸助俄に有德に成し事」が、かなり酷似した話柄であるが、柳田國男の梗概とは一致を見ない。或いは、別伝本があるか。]

2023/03/06

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その7) / オイテケボリ・オツパシヨイシ・シヤクシイハ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。]

 

オイテケボリ 置いてけ堀といふ處は川越地方にもある。魚を釣るとよく釣れるが、歸るとなるとどこからとも無く、置いてけ置いてけといふ聲がする。魚を全部返すまでこの聲が止まぬといふ。本所七不思議の置いてけ堀などは、何を置いて行くのか判らぬやうになつたが、元はそれも多分魚の主《ぬし》が物をいつた例であらう。

[やぶちゃん注:「本所七不思議」の一つとしてよく知られるもの。「本所七不思議」は旧本所(現在の東京都墨田区のこの広域の旧地域)に江戸時代頃から伝承される怪奇談の名数。当該ウィキによれば、『伝承によって登場する物語が一部異なっていることから』八『種類以上のエピソードが存在する』とあって、「置行堀」・「送り提灯」・「送り拍子木」・「燈無蕎麦(あかりなしそば:別名「消えずの行灯(あんどん)」)・「足洗邸(あしあらいやしき)」・「片葉(かたは)の葦」・「落葉なき椎」・「狸囃子」(別名「馬鹿囃子」)・「津軽の太鼓」が挙がっており、総て独立リンクがあるので参照されたい。因みに、「置いてけ堀」の正式名は「錦糸堀」で、江東区登録史跡としての「おいてけ堀跡」はここにあり、その声の主(ぬし)を河童とするモニュメントはこちらにある。

「置いてけ堀といふ處は川越地方にもある」サイト「妖怪伝説の旅」の「おいてけ堀/置行堀(宮代町、川越市、越谷市)」には、標題にあるように、川越周辺外にもあるようである。それによれば、川越のそれは現在の埼玉県川越市吉田とされているらしい。]

オツパシヨイシ 土地によつてはウバリオン、又はバウロ石などともいふ。路傍の石が負うてくれといふのである。德島郊外のオッパショ石などは、或力士がそんなら負はれいといつて負うたら段々重くなつた。それを投げたところが二つに割れ、それきりこの怪は絕えたと傳へられて、永くその割れた石があつた(阿波傳說物語)。昔話の正直爺さんが、取付かば取付けといふと、どさりと大判小判が背の上に乘つたといふのと、系統を一つにする世間話で、實は格別こはくない例である。

[やぶちゃん注:「オツパシヨイシ」「オッパショ石」。当該ウィキによれば、『もとは徳島市二軒屋町』(ここ)『に存在し、名のある力士の墓石とされていた』。『この墓ができてから』二、三『ヶ月後、石が「オッパショ」と声を出し始めたので、この名前で呼ばれるようになった』とする。『「オッパショ」とは「背負ってくれ」という意味で、言われるがままに石を背負うと、最初は軽く感じるものの、次第に重さを増したという』。『この噂が高まったためにこの石のそばを通る者は少なくなったが、噂を聞きつけた力自慢の男が石のもとを訪れ』、『確かに「オッパショ」と声を上げるので背負ったところ、次第に重くなり始めた』。『この石には何者かが取り憑いていると直感した男は、石を力任せに地面に叩きつけたところ、石は真っ二つに割れた』。『その後、石が声を出すことは無くなったという』とあり、『現在ではこの石は、徳島市西二軒屋町と城南町境にある焼香庵跡墓地』(ここ)『に存在する』とあった。グーグル・マップ・データ航空写真を視認し、墓群とまさに「オッパショ大明神」を発見した。サイド・パネルの画像を見られたい。柳田は「妖怪談義」(狭義の正篇)の「八」でも言及している。

「ウバリオン」、新潟県三条市に伝わる妖怪「おばりよん」であろう。当該ウィキによれば、『大正時代の新潟の民俗誌』「越後三条南郷談」には、『「ばりよん」の名で記載があり』、『他にも「おんぶおばけ」「うばりよん』」『「おぼさりてい」とも言われる』とある。

「バウロ石」前掲と同系統の妖怪石。「ばうろ」とは、やはり、「おばうて呉れ」と言葉を発する「石」の意であろう。

「阿波傳說物語」国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで「オツパシヨ石の由來」が視認出来る。]

シヤクシイハ 作州箱村の箱神社の近傍に在る杓子岩は、夜間人が通ると味噌をくれといつて杓子を突出したのでこの名があるといふ(苫田《とまた》郡誌)。味噌を持つてあるく人もさう有るまいから、これはもと味噌を供へて祭つた石かと思はれる。

[やぶちゃん注:「作州箱村の箱神社」不詳。以下の「苫田郡誌」を国立国会図書館デジタルコレクションで見ると、ここに当該部があったが、その「(六)杓子岩」の項には、『泉村大字箱舊箱神社の近傍に在り』とある。旧苫田郡を探ってみると、岡山県苫田郡鏡野町(かがみのちょう)の中に「鏡野町 泉公民館」を見出せた。この近くの「泉神社」のサイド・パネルの画像を見たところ、多量の氏神合祀を記した解説板の中に、『箱字茅ノ葉尻』として、『村社』『箱中神社』というのに目が止まった。しかして、遅ればせながら、この南西直近に岡山県苫田郡鏡野町箱(はこ)を発見出来た。ここのどこかに、この「箱神社」は在ったと考えてよい。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その6) / ヌリカベ・イツタンモメン・ノブスマ・シロバウズ・タカバウズ・シダイダカ・ノリコシ・ミアゲニフダウ・ニフダウバウズ・ソデヒキコゾウ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。]

 

ヌリカベ 筑前遠賀《をんが》郡の海岸でいふ。夜路をあるいて居ると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といつて怖れられて居る。棒を以て下を拂ふと消えるが、上の方を敲《たた》いてもどうもならぬといふ。壹岐島でヌリボウといふのも似たものらしい。夜間路側《みちばた》の山から突出《つきだ》すといふ。出る場處も定まり色々の言ひ傳へがある(續方言集)。

[やぶちゃん注:やはり水木しげるによって全国的に知られるようになった、個人的には好きな妖怪の一つである。当該ウィキを見られたい。

「筑前遠賀郡」福岡県のその旧郡域は広い。当該ウィキの地図を参照。海岸線は、ほぼ九州の日本海側北東端部分を占める。

「續方言集」これは山口麻太郎著の「續壹岐島方言集」のことであろう。国立国会図書館デジタルコレクションの「山口麻太郎著作集 二(方言と諺篇)」の当該書のここで視認出来る。但し、そこでの見出しは「リボー」(下線はアクセント不明を示す)である。]

イツタンモメン 一反木綿といふ名の怪物。さういふ形のものが現れてひらひらとして夜間人を襲ふと、大隅高山《かうやま》地方ではいふ。

[やぶちゃん注:当該ウィキを読まれたいが、本来は近代以前にはメジャーな妖怪ではなかった。『一反木綿は古典の妖怪絵巻などによる妖怪画が確認されていないため、かつては比較的無名な妖怪だったが、水木しげるの漫画』「ゲゲゲの鬼太郎」に『登場してから一躍、名が知られることとなった』。『現在では同作での九州弁のトークと気のいい性格や、ユニークな飛行の姿などの理由で知名度も高く、人を襲うという本来の伝承とは裏腹に人気も高』く、『水木の出身地・鳥取県境港市の観光協会による』「第一回妖怪人気投票」『では』一『位に選ばれた』とある。私の亡き母の生地は以下の伝承地に比較的近いが、母は全く知らなかった。

「大隅高山地方」現在は地名変更で肝属(きもつき)郡肝付町(きもつきちょう)後田(うしろだ)となった。]

ノブスマ 土佐の幡多《はた》郡でいふ。前面に壁のやうに立塞《たちふさ》がり、上下左右ともに果《はて》が無い。腰を下して煙草をのんで居ると消えるといふ(民俗學三卷五號)。東京などでいふ野衾《のぶすま》は鼠(むささび)か蝙蝠《かうもり》のやうなもので、ふわりと來て人の目口を覆ふやうにいふが、これは一種の節約であつた。佐渡ではこれを單にフスマといひ、夜中後《うしろ》からとも無く前からとも無く、大きな風呂敷のやうなものが來て頭を包んでしまふ。如何なる名刀で切つても切れぬが、一度でも鐵漿《かね》を染めたことある齒で嚙切《かみき》ればたやすく切れる。それ故に昔は男でも鐵漿をつけて居たものだといひ、現に近年まで島では男の齒黑《はぐろ》めが見られた(佐渡の昔話)。用心深い話である。

[やぶちゃん注:当該ウィキもあるが、ここは私の「古今百物語評判卷之四 第三 野衾の事」がよかろう

「土佐の幡多《はた》郡」旧郡域は高知県の西部広域。当該ウィキの地図を参照。

「佐渡の昔話」不苦楽庵主人著(昭一三(一九三八)年池田商店出版部刊)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部が視認出来る。]

シロバウズ 泉州では夜分路の上でこの怪に遭ふといふ畏怖が今もまだ少し殘つて居る。狸が化けるものゝやうにいふが無論確な話でない。狐は藍縞《あゐじま》の着物を着て出るといふから、この白坊主とは別である。

[やぶちゃん注:当該ウィキがある。確かに「白坊主」は本邦の妖狐にして稲荷神である「白蔵主・伯蔵主・白蔵司(はくぞうす)」、所謂、狂言の「釣狐」(つりぎつね)のそれを直ちに想起するのだが(そちらの当該ウィキはこちら)、「白坊主」の「大阪府」の項で、『南部では、夜道で人が出遭うといわれるのみで、それ以上の具体的な話は残されていない。タヌキが化けたものという説があるが、定かではない』。『大阪の和泉では目・鼻・口・手足のはっきりしない、絣の着物を着た全身真っ白な坊主とも』、『風船のように大きくて丸い妖怪ともいい』、『いずれも人を脅かすだけで危害を与えることはない』。『キツネが化けたものともいうが、土地の古老によれば、この地方のキツネは藍染めの縞模様の着物を着て現れるため、キツネではないという』。『見越入道に類するものとする説もあるが、見越入道のように出遭った人間の前で背が伸びてゆくといった特徴は見られない』。『のっぺらぼうの一種とする説もある』と確かにあった。]

タカバウズ 讃岐の木田《きた》郡などで評判する怪物。背の途法も無く高い坊主で、道の四辻に居るといふ。阿波の山城谷《やましろだに》などでは高入道《たかにふだう》、正夫谷《しやうぶだに》といふ處に出る。見下せば小さくなるといふ(三好郡誌)。

[やぶちゃん注:「讃岐の木田郡」旧郡域は当該ウィキの地図を参照。

「阿波の山城谷」現在の徳島県三好市山城町(やましろちょう)白川(しらかわ)。簡易郵便局名に旧地名が冠されてある。

「正夫谷」徳島県三好市井川町(いかわちょう)井内東(うちひがし)正夫谷はここ。ちょっと山城谷からは東にずれる。バス停検索では読みは「まさおたに」かも知れない、とあった。]

シダイダカ 阿波の高入道とよく似た怪物を、長門の各郡では次第高といふ。人間の形をして居て高いと思へば段々高くなり、見下してやると低くなるといふ。

[やぶちゃん注:ウィキの「次第高」があるので見られたい。言い得て妙なる名である。]

ノリコシ 影法師のやうなもので、最初は目の前に小さな坊主頭で現れるが、はつきりせぬのでよく見ようとすると、そのたびにめきめきと大きくなり、屋根を乘越して行つたといふ話もある。下へ下へと見おろして行けばよいといふ(遠野物語再版)。

[やぶちゃん注:「遠野物語再版」昭和一〇(一九三五)年刊の「遠野物語 增補版」のこと。その柳田國男の補填した「遠野物語拾遺」の「一七〇」。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここ。電子化しておく。【 】は底本の頭書を適当な箇所に挟んだもの。

   *

一七〇 ノリコシと謂ふ化け物は影法師の樣なものださうな。最初は見る人の目の前に小さな坊主頭になつて現はれるが、はつきりしないのでよく視ると、その度にめきめきと丈(たけ)がのびて、遂に見上げる迄に大きくなるのださうである【見越入道】。だからノリコシが現はれた時には、最初に頭の方から見始めて、段々に下へ見下(おろ)して行けば消えてしまふものだと謂はれて居る。土淵村の権蔵といふ鍛冶屋が、師匠の所へ徒弟に行つて居た頃、或夜遲く餘所から歸つて來ると、家の中では師匠の女房が燈を明るく灯して縫物をして居る樣子であつた。それを障子の外で一人の男が𨻶見をして居る。誰であらうかと近寄つて行くと、その男は段々と後退(ずさ)りをして【不氣味な後退り】、雨打ち石のあたりまで退いた。さうして急に丈がするすると高くなり、たうとう屋根を乗り越して、蔭の方へ消え去つたと謂ふ。

   *]

オヒガカリ 備後の比婆郡などでいふ化物の一種。あるいて居ると後から覆ひかゝつて來るものといふ。

[やぶちゃん注:現代仮名遣では「オイガカリ」だが、柳田の説明からは「覆(おお)い懸り」となろうか。「負ひ懸り」もありだろう。かの猿人「ヒバゴン」(リンクは当該ウィキ)はその先祖返りかのぅ?

「備後の比婆郡」明治三一(一八九八)年に行政区画として発足した当時の郡域は、広島県庄原市の大部分(東城町新免・東城町三坂・総領町各町を除く)と、島根県仁多(にた)郡奥出雲町の一部(八川字三井野)。この附近。]

ノビアガリ 伸上り、見るほど高くなつて行くといふ化け物。川獺が化けるのだといふ。地上一尺ぐらゐの處を蹴るとよいといひ、又目をそらすと見えなくなるともいふ(北宇和)。かういふ種類の妖怪の、物をいつたといふ話は曾て傳はつて居ない。出て來るのではなくて、人が見るのである。

[やぶちゃん注:日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の「ノビアガリ」愛媛県西予(せいよ)市城川町(しろかわちょう)採取として、『土居』(どい:ここ)『のアカハゲ』(不詳)『という所の大木に人が花を見ようと行くと、化け物がいた。顔はつるつるで、始めは奇妙な丸い大石のような物で手と足はあるようでない。それを見つめるとだんだん細長く大きくなり、見上げれば見上げるほど大きくなる。誰言うとなくノビアガリといって恐れた』とある。

「北宇和」愛媛県の郡。旧郡域は当該ウィキの地図を参照。]

ミアゲニフダウ 東京などの子供が見越し入道といふのも同じもの、佐渡では多く夜中に小坂路を登つて行く時に出る。始めは小坊主のやうな形で行く手に立塞がり、おやと思つて見上げると高くなり、後には後へ仰けに倒れるといふ。これに氣づいたときは、

   見上げ入道見こした

といふ呪文を唱へ、前に打伏せば消え去るといひ傳へて居る(佐渡の昔話)。壹岐では東京と同じに見越し入道といふが、夜中路をあるいて居ると頭の上でわらわらと笹の音を立てる。その時默つて通ると竹が倒れかゝつて死ぬから、やはり「見こし入道見拔いた」といはなければならぬといつて居る(續方言集)。

[やぶちゃん注:ウィキの「見上入道」を参照。

「小坂路」固有地名ではなく、一般名詞のようである。

「佐渡の昔話」前掲の国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここの「見上げ入道」で視認出来る。]

ニフダウバウズ 入道坊主、見越し入道のことである。三河の作手《つくで》村で曾てこれを見たといふ話がある。始めは三尺足らずの小坊主、近づくにつれて七八尺一丈にもなる。先づこちらから見て居たぞと聲を掛ければよし、向ふからいはれると死ぬといふ(愛知縣傳說集)。

[やぶちゃん注:「三河の作手村」愛知県新城市の作手地区

「愛知縣傳說集」国立国会図書館デジタルコレクションの愛知県教育会編の原本(昭和一二(一九三七)年郷土研究社刊のこちらで当該部が視認出来る。]

ソデヒキコゾウ 埼玉縣西部では袖引小僧の怪を說く村が多い。時は夕方路を通ると後から袖を引く者がある。驚いて振返ると誰も居ない。あるき出すと又引かれる(川越地方鄕土硏究)。

[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、『埼玉県比企郡川島町中山上廓』(じょうかく:この附近)『や埼玉県南部付近に伝承が残る妖怪』とする。

「川越地方郷土研究」後の版だが、国立国会図書館デジタルコレクションの埼玉県立川越高等女学校編で一九八二年国書刊行会刊のここで視認出来る。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その5) / タンタンコロリン・キシンボウ・フクロサゲ・ヤカンヅル・アブラスマシ・サガリ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここ。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。]

 

タンタンコロリン 仙臺で、古い柿の木の化けた大入道だといふ。柿の實を取らずに置くとこれになつたともいふから、コロリンのもとは轉がつて來るといつて居たのであらう。

[やぶちゃん注:ウィキの「タンタンコロリン」が存在する。そこには、『老いた柿の木が化けた妖怪で、柿の実を採らずに放置しておくと現れるという』。『姿は僧侶のような姿で、柿の精霊の化身という説もある』。『ある言い伝えでは、沢山の実がなった柿の木のある家から夕暮れ時にタンタンコロリンが現れ、服の袂の中に柿の実を大量に入れて町の中を歩きつつ、柿の種を撒き散らすために実をポトポトと落として行き、町を一回りした末に、もとの家の前で姿を消したという』とあり、さらに、『タンタンコロリンと同様、宮城には柿が人間に化けるという話がよくある』として、『ある民話では』、『ある寺の小僧のもとに男がやって来て、自分の糞をすり鉢ですって食べろと言った。小僧は嫌がったが、男が怒るので仕方なく食べると、とても美味しい柿の味がした。不思議に思った小僧が、寺の和尚にわけを話し、ともに男を捜し出して跡をつけた。男は山奥へ入って行って姿を消し、そこには大きな柿の木があって、実がたくさん落ちていた。和尚は、きっとこの柿の実が化けたのだろうと、柿の実を拾い集めて持って帰ったところ、男は現れなくなったという』とあって、また、『宮城県栗原郡(現・栗原市)には「柿の精」と題し、以下のような民話がある。ある屋敷に仕える女が、庭に実る柿を見てなんとか食べたいと思っていたところ、夜中に真っ赤な顔の大男が現れ、尻をほじって嘗めろと言う。言われるままにその男の尻をほじって嘗めたところ、甘い柿の味がした。翌朝に柿の木を見ると、その実には抉り取った跡があったという』とある。これは、『佐々木喜善の著書』「聴耳草紙」『にも、「柿男」と題して同様の話がある』と記す。私は佐々木の「聴耳草紙」が好きで、かなり以前から、いつか正規表現で電子化したいと思っている。今回、国立国会図書館デジタルコレクションで昭六(一九三一)年刊の原本を視認出来たので、以下に電子化しておく。

   *

 

   一六八番 柿 男

 

 昔々或所に奥さんと下女があった。そこの家の井戶端に柿の木があって、柿が甘さうに實つてゐた[やぶちゃん注:所持する「ちくま文庫」版では「甘さうに」には『うまそうに』となっている。]。下女はその柿が食ひたくて食いたくて堪らなかつた。何とかして一ッ喰ひ度いものだと考へてゐたら、或晩、表の戶を叩いて、此所あけろ此所あけろと云ふ者があつた。下女は、ハテ夜中に誰だべと思つて、今誰も居ませんから開けられないと斷つたが、いいから開けろいいから開けろと云ふので下女はこ怖々そうツと戶を開けたら、背のとても高い眞赤な色をした男が立つてゐた。下女はもう靑くなってブルブル慄へてゐると、その眞赤な男が室の中さ入つて來て、串持つて來いと云つた。下女が串を持つて行くと、赤い男は、俺の尻くぢれ、俺の尻くぢれと云ふ。下女が慄へながら男の尻をえぐると、今度は、なめろなめろと云つて歸つた。下女がその串をなめたらとても甘い柿の味がした。

  (昭和五年四月八日夜蒐集されたものとして、三原良吉氏の御報告の分。)

   *]

キシンボウ 肥後では椿の木を擂木に用ゐると、後に木心坊になるといふさうである(民族と歷史六卷五號)。古椿が化けて火の玉になつたといふ話は、記錄にも二三見えて居る。以前京都でもいつたことである。恐らくこの木は擂木にしなかつたのであらう。

[やぶちゃん注:これ、「宮城県史」第二十一巻「民俗三」の「妖怪変化・幽霊」(茂木徳郎著)のこちらに「バケツバキ(化け椿)」として、石川・岐阜の例を記すのが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。しかし、「宮城県史」なのに、このパート全体が宮城県と無関係に全国的な記載になっており、何だか、ちょっと? どうなの? という気はする。]

ツルベオトシ 釣瓶落し又は釣瓶卸《おろ》しといふ怪物が道に出るといふ話は、近畿、四國、九州にも分布して居る。井戶の桔槹(きつかう)といふものが始めて用ゐられた當座、その突如たる運動に印象づけられた人々の、いひ始めた名と思はれる。この妖怪も大木の梢などから出しぬけに下つて來るといふので怖れられたのである。或は大きな杉に鬼が住んで居て、下を人が通ると金の釣瓶ですくひ上げたといふ話もある(愛知縣傳說集)。人をさらふためだけなら金にも及ばなかつたらう。何かこれには隱れた意味が有りさうである。

[やぶちゃん注:日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらには、三重県多気郡多気町(たきちょう)採取で、『大きな木の下には「つるべおとし」がいて、木の下で何か落ちているものを拾おうとすると、上に引っ張られる』とあり、また、同データベースには、別立てで、福井県敦賀市採取として、『夫達が毎晩囲碁に興じて帰りが遅かったので、妻の一人がタモノキの枝から釣瓶を落として脅すと』、『夫はその音に驚き、以後』、『碁会は夜にせず昼にするようになった』という話を載せる。「タモノキ」とは日本原産で東北地方から中部地方にかけての温暖な山地に自生するシソ目モクセイ科トネリコ属トネリコFraxinus japonica の異名。北陸地方では田の畦に稲架木(はざぎ)として植えられてきた経緯があり、異名を「ハサ」とも呼ぶ(現在は殆んど見られなくなってしまった)。漢字表記は「秦皮」「梣」で、和名の由来は、参照した当該ウィキによれば、『本種の樹皮に付着しているイボタロウムシ』有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科カタカイガラムシ科イボタロウカイガラムシ属イボタロウカイガラムシ Ericerus pela(一属一種)]『が分泌する蝋物質(イボタロウ:いぼた蝋)にあり、動きの悪くなった敷居の溝にこの白蝋を塗って滑りを良くすることから』「戸に塗る木(ト-ニヌルキ)」と『されたのが、やがて転訛して「トネリコ」と発音されるようになったものと考えられている』とある。

「桔槹(きつかう)」の読みは慣用読みで、正しくは「けつかう(けっこう)」。跳ね釣瓶のこと。語としては平安後期には既に存在したが、跳ね釣瓶の機構自体は「日本書紀」の頃にはあった。

「或は大きな杉に鬼が住んで居て、金の釣瓶ですくひ上げたといふ話もある(愛知縣傳說集)」国立国会図書館デジタルコレクションの愛知県教育会編「愛知縣傳說集」(昭和一二(一九三七)年郷土研究社刊)の当該部を見ると(太字は底本では傍点「﹅」。「か」には打たれていない)、

   *

       64 杉に住む鬼 (北設樂郡)

 一宮(いちのみや)村江島(えじま)にある杉林に大きな杉があつた。この樹には鬼が住んでゐて下を通る人をかなつるべでさらつたといふ。

   *

となっている。「江島」は現在の愛知県豊川市江島町。柳田先生、「かなつるべ」であって「金」(きん:ゴールド)の釣瓶じゃあありませんぜ? 「鐵釣瓶」なら、怪力の鬼が使って壊れず、何の不審もないと思いますがねぇ。]

フクロサゲ 信州大町の附近には、昔狸が出て白い袋を下げたので、袋下げといつて居る處がある。田屋の下の飯つぎ轉ばしといふのも同じ怪であつたといふ(北安曇郡鄕土誌稿卷七)。

[やぶちゃん注:「信州大町」長野県大町市

「袋下げ」地名としては現認出来ない。

「北安曇郡鄕土誌稿卷七」新しい一九七九年版で国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで前の部分の当該部が視認出来る。「九 動物・變怪民譚 附獵の話」の「2 狸と狢の話」の冒頭で、

   *

昔狸が大町附近には澤山ゐて、「たやのたのめしつぎころばし」といつて化けたり、木を切り倒す音をさせて人を驚ろかしたりした。又狸ねいいりといつて寢てゐる眞似をして人をだました。或時に繁った高い木の上へ上つてゐて其の林の中を通ると、木の上から白い袋を下げたりなどした。それ故人が袋下げといつた。(佐藤きよの)

   *

とある。しかし後者の「田屋の下の飯つぎ轉ばし」云々は見当たらない。不審。]

ヤカンヅル 夜遲く森の中を通ると樹の上から藥罐が下るといつて居る(長野附近俗信集)。

[やぶちゃん注:ウィキの「薬缶吊る」によれば、『薬缶吊る(やかんづる)は、長野県長野地方に伝わる妖怪』で、「ヤカンズル」・「薬鑵ズル」とも『表記する』、『やかんの姿をした妖怪。夜遅い時間に森の中を歩いていると、木の上からぶら下がって来るといわれる』。『同様に森の中や山中で』、『木から器物がぶら下がる系統の妖怪は日本各地に伝承があり、青森県の』「エンツコ下がり」、『主に西日本に伝わる』「釣瓶落とし」、『岡山県の』「さがり」、『高知県の』「茶袋」『などがある』。『出現する場所が決まっているのでこれを避けて歩くこともできるが、これを目にすると病気になってしまうとの説もある』。『なお、木の上から下がってくるので目撃した人は驚くが、特に危害は加えないという説もある』。『小説家・山田野理夫による児童向け書籍には、「喉が渇いた」「水が欲しい」という類の言葉を口にすると薬缶吊るが下りてきて、口を付けて中の水を飲むと、甘い味がしたという民話がある』。四世紀に東晋の干宝が著した志怪小説集「捜神記」には、『貧苦に喘ぐ上に家人の死が続いて不幸な家が、占い師の助言に従い、町で鞭を買って桑の木に掛けておいたところ』、三『年後に井戸がえをした際に大量の銭、銅器、鉄器などが出てきたという話があり』「薬缶吊る」は、『この話に関連しているとの説もある』とある。]

アブラスマシ 肥後天草島の草隅越《くさずみごえ》といふ山路では、かういふ名の怪物が出る。或時孫を連れた一人の婆樣が、こゝを通つてこの話を思ひ出し、こゝには昔油甁下げたのが出たさうだといふと、「今も出るぞ」といつて油すましが出て來たといふ話もある(天草島民俗誌)。スマシといふ語の意味は不明である。

[やぶちゃん注:「肥後天草島の草隅越」「熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト」の「草隅越の油すまし」に、『妖怪「油すまし」のルーツは天草だった』として以下の記載と、墓と伝えるものの写真及び当該地の地図が載る。必見!

   《引用開始》

天草に濱田隆一という民俗学の草分け期に活躍した民俗学者がいました。この人が1932年、天草の様々な伝承文化を記した「天草島民俗誌」という本を出版しました。この中に次のような話が出ています。

栖本町河内(すもとまちかわち)と本渡市下浦との境に草隅越(くさずみごえ)というところがあります。ある時、一人のおばあさんが孫の手を引きながらここを通り、昔、油すましが出たという話を思い出し「ここにゃむかし、油びんがさげたとん出よらいたちゅぞ。」と言うと、「今もー出るーぞー」といって油すましが出てきたそうです。」

この話に興味を持ったのが日本の民俗学の創始者で指導者であった柳田國男です。柳田はこの話を「民間伝承」という雑誌に38年から連載した「妖怪名彙」で紹介しました。これを読んだ漫画家の水木しげるが人気漫画「ゲゲゲの鬼太郎」の中で名脇役として登場させたことから、油すましは全国的に知られるようになりました。

さて、この油すましの墓と言われるものが栖本町河内地区に残っています。栖本町中心部から河内方面に県道を進み、旧河内小学校を過ぎて50m程の所で左折。数軒ある民家から山に登る道の入り口にある雑木林(ぞうきばやし)を10m程、はい上がるとお目当ての石像があります。 お地蔵さんのような石像ですが、首から上はありません。 石像の近くにも小さく古びた墓が残っていますが、年代を見ると文政(ぶんせい)・天明(てんめい)などと記してあるところから、江戸中期から末期に造られた物のようです。

当時の天草は飢饉(ききん)などに苦しみ、食糧(しょくりょう)に困った時代です。 以前は天草の各地で「かたし油」と言って、椿やサザンカなどの実から油が絞られていました。特にここ河内地区ではかたし油作りが盛んだったということです。

このような話を聞くと、この油すまし、実は当時貴重品であった油の神様であり、「油をそまつに使ったらいけませんよ。」という先人の教えが原点にあるように思えてきます。

   《引用終了》

ウィキの「油すまし」もリンクさせておくが、そこに、現在の知られたイメージの元は『水木しげるの妖怪画だが、これは伝承とは無関係に描かれた創作であり、本来の天草の伝承像とは大きく異なるものと考えられている』。『雑誌『怪』での京極奨励賞を受賞した評論によれば、文楽に用いられる「蟹首」という名称の人形の頭がこの妖怪画のモチーフと指摘されており、妖怪研究家・京極夏彦も自著においてこの説を支持している』。『書籍によっては、すまし顔であることが「すまし」の名の由来とされているが』、ここに出る通り、柳田國男は『「すまし」の名の由来は不明とされる』とする一方、二〇〇四『年には栖本町河内地区で「油すましどん」と呼ばれる石像の一部が発見された』。『これは栖本町中の門・すべりみちという場所に安置されていたものが町道拡張工事で山中の私有地に移転されたもので、首のない石像が両手を合せた姿をしている』。『土地の伝承者によれば、かつては子供がこのすべりみちで遊んでいると「油すましどんが出る」と言って恐れたという』とあり、さらに『地元では』、「天草島民俗誌」とは『異なり、「油すまし」の名で発音されているが、「油をしぼる」ことを現地では「油をすめる」と表現したらしく、油絞りの職人が祀られて神になったものが、時を経て妖怪に変じたとの説もある』とあった。

「天草島民俗誌」民俗学者濱田隆一著。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本民俗誌大系』第二巻 (九州)(一九七五年角川書店刊)のこちらで当該部が視認出来る。]

サガリ 道の傍の古い榎樹《えのき》から、馬の首がぶら下るといふ話のある場處は多い。備前邑久《おく》郡にも二つまであつて、その一つは地名をサガリといつて居る(岡山文化資料二卷六號)。

[やぶちゃん注:「備前邑久郡」旧郡域は当該ウィキの地図を参照されたい。

「地名をサガリといつて居る」「ひなたGPS」で戦前の地図も調べたが、見当たらない。所持する「民俗地名語彙事典」(松永美吉)の「サカリ、サガリ」の項にも当地は例示されていない。]

2023/03/05

ブログ1,930,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和二十八年三月

 

[やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題でも『掲載紙。発表月日ともに未詳』とあるから、梅崎春生の原稿から起こしたものであろう。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合を除いて、一切、注しない。悪しからず。

 既に述べているが、梅崎春生の短編小説は、最早、上記底本全集のものは、「青空文庫」(ここ)で私よりも先行電子化された分の以下の私の底本全集中の十一篇(「日の果て」「風宴」「蜆」「黄色い日日」「Sの背中」「ボロ家の春秋」「庭の眺め」「魚の餌」「凡人凡語」「記憶」「狂い凧」。以上は順列を私の底本全集の並びに変えてある)を除き、これで、総て電子化を終えている(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」及びブログ版梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】梅崎春生日記【完】を参照)。残るのは、長編「つむじ風」のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も含めれば、実に七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、先ほど、1,930,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年三月五日 藪野直史】]

 

   昭和二十八年三月

 

 雑誌小説といえども、ある程度の枚数がないと、どうも物足りない感じがする。今月は各雑誌とも中編が多く、かなり読みごたえがあった。

 「新潮」三月号は中編小説特集、五編の中で問題作は武田泰淳の「流人島にて」であろう。日記体の記述で、私という主人公がH群島のQ島に行く。はじめのうちは紀行文じみているが、だんだん読み進んで行くうちに、大嶽という男に対する復讐の本筋がでてくる。なかなか工夫をこらした構成であるが、Q島の風物や点景人物は実に生き生きしているにもかかわらず、復讐の本筋はどとかあいまいなところがあり大嶽という奇怪な人物の風貌、姿勢は不明瞭である。極言すれば私と大嶽は精緻に描かれた書き割にはめこまれた不細工なでくの棒にすぎない。本筋の具象化の失敗というべきか。

 張赫宙「脅迫」は終戦後作者が民族の裏切者として、脅迫された話。一種の私小説であろうが、ここでは作者の切実な苦悩をぶちまけるというより、しどろもどろな弁明に終っている。この作品を支えているものは、むしろ非文学的な精神だろう。これにくらべれば同誌上林暁「ロマネスク」は、確実な文学でありその精神はゆるぎない。私小説というものは、近来とやかく論議されてはいるが、ゆるぎなき誠実の一点で文学を守っていることにおいて、大いに認められていい。

 これも私小説の中に入れていいと思うが、「群像」の丸岡明「同時代に生きる人」は、ヨーロッパに渡り少年時代好きであった異国の少女をさがして歩く物語。けれんはったりもない淡々たる筆致で、清冽な抒情もある。旅人の孤独感も、かなり深くとらえられていた。パリのホテルの中庭で、夜鶏が鳴くところ、中庭に身をおどらせて飛び降りたくだりの描写には、リアリティがある。この作者としては「にせキリスト」以来の力作であり佳品と言えよう。

 以上の現実密着の諸作品にくらべると、「文学界」の安部公房「R62号の発明」[やぶちゃん注:「R62」は底本では全角三字総て縦書。]、「群像」の石川淳「鷹」は、現実をばらばらに解体し、観念的に再編成することで、小説をつくっている。ともに超現実的な構成であるが、その編成の操作において、両者とも必ずしも成功しているとは言い難い。この二編には、こまかい端々において、奇妙な類似性あるいは暗合がある。両編とも、最初にいきなり運河がでてくるし、主人公は両方ともレッドパージで勤め先をクピになり、居所も家族もはっきりしない。つまり社会的条件をすっかり奪いさられた抽象的人間である。こういう抽象的主人公を設定するところにこの二作に共通した面白味もあるが、同時に知的な操作にのみたよって現実を遊離した弱味もありありと感じられる。文学を効用性によってのみ評価するのはもちろんよろしくないことであるが、これらは手はこんでいても栄養もカロリーもとぼしい、きれいごとの料理にすぎないようである。

 「中央公論」の上田芳江という新人の「座を失った女」。ある期待をもって読みはじめたが、女流作家によくみられる末端の方ばかりにとらわれて、根本の大切なところが脱落している。そういう欠点があるために、最後まで読み通せなかった。文章もせっかちで、論理的ではなかった。

[やぶちゃん注:「張赫宙」(一九〇五年~一九九七年)又は「野口赫宙(のぐちかくちゅう)」。植民地期の代表的な朝鮮人日本語作家で、金史良とともに「在日朝鮮人文学」の嚆矢ともされる。私は全く知らなかった。当該ウィキを参照されたい。

「レッドパージ」GHQがホワイト・パージから一転、共産主義団体の非合法化・左派の団体や個人への弾圧へと反転させた日本の占領地政策。昭和二五(一九五〇)年五月以降に発生した

「上田芳江」不詳。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 無題(わたしは隣りの町を忘れなかつた、……)(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  無  題 ボードレール

 

わたしは隣りの町を忘れなかつた、

われらの質素な家、 小さいけれど極く靜かな、

石膏のポモオヌと年とつたヴエナスとが

裸の四肢をかくしつつ、 小さな叢のなかに、

うらうらと流れる壯麗な太陽と夕暮よ、

それは、光りの束の碎かれたガラス板の向ふに、

物好きな空のなかに開いた大きい眼、

粗末なテーブル掛とセルの幕の上に

大蠟燭美しい反射をひろやかにとぼしながら

長いそして沈默な食事を考へさせるやうに思はれる

 

[やぶちゃん注:所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊の本篇(堀口氏の標題訳は「(僕はまだ忘れずにゐる)」である)の訳者註に、エルネスト・『ブラロンによれは一八四四年の作だといふ(作者二十四歲)』とあり、ボードレールは『父の死後』(フランス・ジョセフ・ボードレール。一八二七年二月、享年六十八。シャルルは七歳)、『母』(カロリーヌ・アルシンボール・デュフェイ。当時三十四)『が再婚するまでの短い期間を』(再婚は父の死の翌年)、『ボードレールは、彼女と一緖にヌイイ』(ヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)。パリ西部近郊にあるコミューン。パリ中心から西北六・八キロメートルの距離にある都市。ここ。グーグル・マップ・データ)『で暮らしたが、この詩はその當時の幼年の日の思ひ出を歌ったものだといふ』とある。以下、原詩を見られれば判る通り、「無題」という題ではなく、題がないのである。

「ポモオヌ」「Pomone」。音写は「ポォーモンヌ」が近いか。ローマ神話の果実とその栽培を司る女神ポーモーナ。「poma」は「果物」の意。

「ヴエナス」「Vénus」。言わずと知れた、ヴィーナス。フランス語では「ヴェニュゥス」が近い。ローマ神話で愛と美の女神とされるが、元来、彼女は菜園を司る女神であった。因みに、性別記号の「♀」は本来は彼女を意味するものであった。

「セル」「cierge」。フランス語は「シャルゥジュ」。阿蘭陀語の「セルジ」を「セル地」と誤解し、その「地」を略した語。梳毛(そもう)糸を、平織又は綾織や斜子(ななこ)織(経緯(たてよこ)ともに二本以上の糸を引き揃えにして織ったもので、平織を縦・横に拡大した組織りを指す)にした薄地の毛織物。綿・絹を用いた交織(こうしょく)もある。

 原詩をフランス語版「Wikisource」の「Les Fleurs du mal」(各篇単独)のこちらページから引く。

   *

 

Je n’ai pas oublié, voisine de la ville,

Notre blanche maison, petite mais tranquille,

Sa Pomone de plâtre et sa vieille Vénus

Dans un bosquet chétif cachant leurs membres nus ;

— Et le soleil, le soir, ruisselant et superbe,

Qui, derrière la vitre où se brisait sa gerbe,

 

Semblait, grand œil ouvert dans le ciel curieux,

Contempler nos dîners longs et silencieux,

Et versait largement ses beaux reflets de cierge

Sur la nappe frugale et les rideaux de serge.

 

   *

幼年懐古詩篇であるため、後に曲が作られ、例えば、こちらで男性歌手のものを聴くことが出来る。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その4) / イシナゲンジヨ・シバカキ・スナカケババ・スナマキダヌキ・コソコソイハ・オクリスズメ・オクリイヌ・ムカヘイヌ・オクリイタチ・ビシヤガツク・スネコスリ・アシマガリ・ヤカンザカ・テンコロコロバシ・ツチコロビ・ヨコヅチヘビ・ツトヘビ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。]

 

イシナゲンジヨ 肥前江ノ島でいふ海姬、磯女などの同系らしい。五月靄の深い晚に漁をして居ると、突然に岩が大きな音をして崩れ落ちるやうに聞える。次の日そこに行つて見ても、何の變つたことも無いといふ。

[やぶちゃん注:原拠が示されていないが、日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の「イシナゲンジョ」によれば、桜田勝徳氏の「船幽霊と水死人」(『俚俗と民譚』昭和八(一九三三)年五月発行)がそれであろう。『江島にはイシナゲンジョがいるという』。五『月の霧深い夜、漁をしていると突然、岩が崩れ落ちるような大きな音がし、翌日行ってみるが何もないという。イシナゲンジョは石投女の意とも考えられる』とあった。

「肥前江ノ島」佐賀県鳥栖(とす)市江島町(えじままち)。ここは完全な内陸であるから、「漁」は川漁である。同地は筑後川右岸直近である。

「肥前江ノ島でいふ海姬、磯女などの同系らしい。」この一文は記載が不全である。「肥前江ノ島でいふ。海姬、磯女などの同系らしい。」とあるべきところである。

「海姬、磯女」日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の「イソオンナ」・「ウミヒメサマ」によれば、長崎県北松浦郡小値賀町(おぢかちょう:五島列島の北部島嶼群)での採取で、『磯女と海姫様は同じもの。正体は水死者。凪の日に女の姿で出て、海の中にある魂を陸に帰してくれるよう、船頭に頼む』とある。]

シバカキ 夜分に路傍で石を投げる怪物だといふ(玉名)。シバは多分短い草の生えた處のことで、そこを引搔くやうな音もさせるのであらう。

[やぶちゃん注:「玉名」熊本県北部の有明海沿岸の玉名市。]

スナカケババ 奈良縣では處々でいふ。御社の淋しい森の蔭などを通ると砂をばら/\と振掛けて人を嚇す。姿を見た人は無いといふ(大和昔譚)のに婆といつて居る。

[やぶちゃん注:これも水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」でメジャー・デビューした。当該ウィキを読まれたいが、こ『の話の出所は柳田の友人』で『医学博士の』『沢田四郎作(さわたしろうさく)の』「大和昔譚」『である。同書には「おばけのうちにスナカケババといふものあり、人淋しき森のかげ、神社のかげを通れば、砂をバラバラふりかけておどろかすといふもの、その姿見たる人なし」とある』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションの『奈良文化』(集成本の内の二十一号所載)で当該部「二十一 すなかけばゝ」が視認出来る。さらに調べたところ、伝承地は近畿地方集中しており、奈良県・兵庫県・滋賀県の他、京都周辺にも棲息するらしい(以下の引用からの推定。但し、そこでは『京都在住の一読者』の体験とのみあり、必ずしも怪異体験が京都府内であるとは限定出来ない)。所持する水木しげるの「圖說 日本妖怪大全」(一九九四年講談社+α文庫刊)の「砂(すな)かけ婆(ばばあ)」に、『奈良県や兵庫県に出没する妖怪のようで、神社の近くにあるさびしい森陰などにひそんでいて、通る人に砂をばらばらと振りかけておびやかす。姿を見たものはいないという。どうやら、近畿地方に集中しているようで、京都市在住の一読者はわざわざ手紙で報告してくれた』。『それによると、彼女はお宮参りをした帰りに、藪の中から砂をあびせられたというのである。そして勇敢にも、竹の棒を持って藪の中に躍りこんで、「砂をかけたのは、どこのどいつやぁ」といった。あたりはシーンとして人の気配はなく、返事をするものもなかった。ふと足もとを見ると、直径一メートルぐらいの石が横たわっているばかりである』。『「まさか石が砂を投げるわけもなく、こんなにもゾーッとしたことははじめてです」とは彼女の談であるが、これは砂かけ婆にまちがいない。妖怪が出現しにくくなった昨今では、これはまったく貴重な体験であろう』と述べられた上で、水木氏は、『利根川の近くだったと思うが、狸が木の上に登って砂をまくとか、鳥が空を飛ぶときに砂を落とすとかする。これを「砂かけ婆」とか「砂まき狸」というのではないかという話を聞いたことがある。空を飛んでいる鳥が砂を落とせば、高ければ高いほどジェット機ではないが、鳥は遠くに行ってしまっているから見えないわけである。砂を落とされた人間は、相手の正体がわからないものだから不思議がる、といったところかもしれない』と添えておられる。この利根川の「砂まき狸」は、本「妖怪談義」の単行本の「自序」で柳田國男自身の体験談として「砂まき狸」のことが記されてある。或いは、水木氏のそれは、これがネタ元かも知れぬ。

スナマキダヌキ 砂撒狸は佐渡のものが著名であるが、越後にも津輕にも又備中阿哲《あてつ》郡にも、砂まきといふ怪物が居るといひ(郡誌)、越後のは狸とも又鼬の所屬ともいふ(三條南鄕談)。筑後久留米の市中、又三井郡宮陣村などでは佐渡と同じに砂撤狸と呼んで居る。利根川中流の或堤防の樹でも、狸が川砂を身にまぶして登つて居り、人が通ると身を振つて砂を落したといふ話が殘つて居る(たぬき)。

[やぶちゃん注:「備中阿哲郡」岡山県新見(にいみ)市

「三條南鄕談」『日本民俗誌大系』第七巻(北陸)に載る外山暦郎著「越後三条南郷談」であろうが、調べてみると、ちょっと違うようだ。国立国会図書館デジタルコレクションの同書の「動物の話」の章の「鼬」の項に『大面』(おおも)『村字矢田の翁坂に砂撒き鼬が出る。後肢で砂を蹴り撒くるということだ』とある。不審。なお、採取地は現在の新潟県三条市大面

「三井郡宮陣村」福岡県久留米市宮ノ陣

「利根川中流の或堤防の樹でも、……」前掲の本「妖怪談義」の単行本の「自序」で柳田國男自身の体験談を参照されたい。]

コソコソイハ 備前御津《みつ》郡圓城村《ゑんじやうそん》にこの名の岩がある。幅五尺ほど、夜分その側を通ると、こそこそと物いふ音がする(岡山文化資料)。

[やぶちゃん注:「備前御津郡圓城村」は岡山県加賀郡吉備中央町(ちょう)円城が名を負う地であるが、こちら(複数の方によるブログらしい)の「細田 三谷原   コソコソ岩(1)」には、『昔、備前国の御津郡円城村細田』(ほそだ)『にこそこそ岩が有って、夜分そこを通るとコソコソと言う物音がしたと言われます。この岩は幅』五『尺(約』一・五メートル)『の岩で、女性の妖精が棲むと言われています』とあって、出典を同じ「岡山文化資料」と記すので、ここは円城の北西に接する吉備中央町細田が当該地である。但し、どうもこの岩は現存しないようである。]

オクリスズメ 山路を夜行くとき、ちちちちと鳴いて後先を飛ぶ小鳥がある(南紀土俗資料)。聲によつて蒿雀《あをじ》かといふ人もあるが、夜飛ぶのだから鳥ではあるまい(動物文學三三號)。那智の妙法山の路にも以前はよく出た。紀州は一般に、送雀が鳴くと狼がついて來るといひ、又は送狼がついて居るしらせだともいふ(有田民俗誌)。伊豫の南宇和郡では、ヨスズメといふ一種の蛾がある。夜路にあるけなくなる程飛んで來ることがある。そのヨスズメは山犬のさきぶれだといふ(南豫民俗二號)。

[やぶちゃん注:「南紀土俗資料」国立国会図書館デジタルコレクションの森彦太郎編(一九七四年名著出版刊)を見たが、それに似ているものは(後の狼云々を含めて)、ここの(五六)の(太字は底本では傍点「﹅」)、

   *

(五六) 送雀とて夜行のとき、ちんちん鳴くを聞けば、後より狼追ひ來る。(山路鄕)

   *

しか見つからなかった。ざっと見ただけなので、どこかにあるのかも知れない。

「蒿雀」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属アオジ亜種アオジ Emberiza podocephala personata。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 蒿雀(あをじ) (アオジ)」を見られたい。

「那智の妙法山」ここ

「有田民俗誌」笠松彬雄(あきお)著。民俗誌の語を最も早くに附した書物とされる。国立国会図書館デジタルコレクションの『炉辺叢書』十四の同書のここの「俗信」の三項目にある。

「伊豫の南宇和郡」愛媛県愛南町(あいなんちょう)南宇和郡。なお、当該ウィキによれば、四国地方の郡の内で、発足以来、一度も郡域の変更が行われたことがないのは、ここと、香川県小豆郡の二郡のみである。

「ヨスズメといふ一種の蛾」鱗翅(チョウ)目カイコガ上科スズメガ科 Sphingidaeのスズメガの一種であろう。]

オクリイヌ 又送狼ともいふも同じである。これに關する話は全國に充ち、その種類が三つ四つを出でない。狼に二種あつて、旅犬は群を爲して恐ろしく、送犬はそれを防衞してくれるといふやうに說くものと、轉べば食はうと思つて跟《つ》いて來るといふのとの中間に、幸ひに轉ばずに家まで歸り着くと、送つて貰つた御禮に草鞋片足と握飯一つを投げて與へると、飯を喰ひ草鞋を口にくはへて還つて行つたなどといふ話もある(播磨加東)。轉んでも「先づ一服」と休むやうな掛聲をすればそれでも食はうとしない。つまり害意よりも好意の方が、まだ若干は多いやうに想像せられて居るのである。

[やぶちゃん注:当該ウィキを参照されたい。そこでも「送り狼」と同義とする。

「播磨加東」旧加東郡であろう。現在の加東市と、その南西に接する小野市が旧郡域。]

ムカヘイヌ 信州下伊那郡でムケエイヌといふ狼の話は、更に一段とこの獸の性質を不明にして居る。送狼のやうに跡からついて來るので無く、深夜山中で人の來るのを待受け、人が通り過ぎるとその頭上を飛越えて、又前へまはるなどといつて居る(下伊那)。多分送犬の信仰が衰へてからの分化であらう。

[やぶちゃん注:「下伊那郡」旧郡域は当該ウィキの地図を参照されたい。長野県最南端部の広域。]

オクリイタチ 伊豆北部でいふこと。夜間道行く人の跡について來るといふ。草履を投げて遣ればそれからはついて來るのを止めるともいふ(鄕土硏究二卷七號)。

ベトベトサン 大和の宇陀郡で、獨り道を行くとき、ふと後から誰かゞつけて來るやうな足音を覺えることがある。その時は道の片脇へ寄つて、

   ベトベトさん、さきへおこし

といふと、足音がしなくなるといふ(民俗學二卷五號)。

[やぶちゃん注:当該ウィキを参照されたい。

「大和の宇陀郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。]

ビシヤガツク 越前坂井郡では冬の霙雪《あられゆき》の降る夜路を行くと、背後からびしやびしやと足音が聽えることがあるといふ。それをビシャがつくといつて居る。

[やぶちゃん注:「越前坂井郡」旧郡で現存しない。郡域は当該ウィキの地図を見られたい。福井県北端部海側である。]

スネコスリ 犬の形をして、雨の降る晚に、道行人の足の間をこすつて通るといふ怪物(備中小田)。

[やぶちゃん注:当該ウィキを参照されたいが、正直言うと、前掲の水木しげるの「圖說 日本妖怪大全」が恐らく最も情報が豊富で、類縁候補として、奄美の妖怪「耳無豚(ミンキラウワ)」「片耳豚(カタキラウワ)」、徳之島の「ムィティチゴロ」まで挙げられてあり、まっこと、楽しい。是非、未見の方は御購入あれかし。

「備中小田」岡山県小田郡。旧郡域は当該ウィキの地図を参照されたい。]

アシマガリ 狸のしわざだといふ。正體を見せず、綿のやうなものを往來の人の足にからみつけて、苦しめることがあるというて居る(讃岐高松叢誌)。

[やぶちゃん注:同前で、水木氏のそれに一ページ分しっかり資料が載る。]

ヤカンザカ 東京の近くにも、藥罐坂といふ氣味の惡い處があつた。夜分獨り通ると藥罐が轉がり出すなどといつて居た(豐多摩郡誌)。

[やぶちゃん注:ここがそれかどうかは判らないが、東京都文京区小日向に「薬罐坂」が現存する。]

テンコロコロバシ 備前邑久《おく》郡の或地に出るといふ怪物。夜分こゝを通るとテンコロがころころと坂路を轉がつて行くのを見るといふ。テンコロは砧卽ち衣打ち臺のことだが、それに使ふ柄の直ぐに附いた木槌をもテンコロといつて居る。又茶碗轉ばしの出るといふ場處もあつた(岡山文化資料二卷六號)。

[やぶちゃん注:「備前邑久郡」岡山県瀬戸内市邑久町は広域で、この中心附近。]

ツチコロビ 小豆洗ひの正體は藁打ち槌の形で、一面に毛が生えて居り、人が通ると轉げかゝるといつて居る地方も九州にはあるが(鄕土硏究一卷五號)、これは野槌《のづち》などといふ道の怪との混同らしい。野槌はたけの至つて短い槌のやうな形をした蛇で、道の上を轉がつて來て通行人を襲ふと傳へられ、中部地方の山地にはそれが出るといふ峠路《たうげみち》も多かつたといふが(飛驒の鳥)、この空想は名稱から後に生れたものと思はれる。ツチはミヅチが水の靈であると同樣に、本來はたゞ野の靈といふに過ぎなかつたことは、古く學者もこれを說いて居る。しかし現在はこの槌形の怪は全國に弘まり、伯耆中津の山間の村でも、槌轉びといふくちなはが居て、足もとに轉がつて來て咬ひ付くといつて居る。

[やぶちゃん注:「小豆洗ひ」本篇で先行する「アヅキトギ」なんぞより、論考『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 小豆洗ひ』を参照されたい。

「野槌」当該ウィキはお手軽だが、私の「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)」、及び、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「のづちへび 野槌蛇」の項を強くお勧めする。後者ではテツテ的にオリジナルに考証している。

「飛驒の鳥」川口孫治郎著。国立国会図書館デジタルコレクションの『炉辺叢書』二十で原本が見られる。当該部はここ(「ノヅチの正體」)。因みに、その冒頭い出る「想山著聞奇集」のそれは、私の『「想山著聞奇集 卷の參」 「大蛇の事」』である。

「ツチはミヅチが水の靈であると同樣に、本來はたゞ野の靈といふに過ぎなかつたことは、古く學者もこれを說いて居る」私はこの見解を留保する。従来の民俗学は机上の思いつきで、実際の根拠もなしに、ある音と、ある音を安易に元来は同一対象を指すと考えがちである。それが、民俗学を人文科学のレベル内で大きく低下させていると考えている。

「伯耆中津」鳥取県東伯郡三朝町(みささちょう)中津。]

ヨコヅチヘビ 越後南蒲原郡の或堤防の上の路には、以前ヨコヅツヘンビ(橫槌蛇)といふものが居たといふ。頭も尾も一樣の太さで、ぴよんぴよんと跳ねて動いて居た云々(三條南鄕談)。

[やぶちゃん注:個人的には実在しない仮想蛇である「野槌」=「ツチノコ」(「槌の子」。以下の「ツトヘビ」「ツトッコ」も同類と断じてよい。そもそもどちらも生態や標本がない癖に「野槌」と「槌の子」の違いを云々する言説などからもいかにこれらが想像の産物であり、非科学的・非生物学的な意味のないものであることは明白である。私はニホンカワウソやニホンオオカミの生存説を唱える人間とは同じ空気を吸いたくない人種でもある)と同じものと考えている。ウィキの「ツチノコ」も参照されたい。

「越後南蒲原郡」旧郡域は当該ウィキの地図を参照。

「三條南鄕談」は既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの同書の「動物の話」の章の「蛇」の項のここ(左ページ後ろの短い段落部)で視認出来る。]

ツトヘビ 又はツトッコといふ蛇が居るといふことを、三河の山村ではいひ傳へて居る。或は槌蛇とも野槌ともいひ、槌の形又は苞の形をして居て、非常に毒を持ち、咬まれると命が無いと怖れられて居た(三州橫山話)。或は又常の蛇が鎌首をもたげて來た所を打つと、すぐにその首が飛んで行つてしまふ、それを探してよく殺して置かぬと、後にツトッコといふ蛇になつて仇《あだ》をするともいつて居た(鄕土硏究三卷二號)。見たといふ人はあつても、なほ實在の動物では無かつた。

[やぶちゃん注:「三州橫山話」柳田國男の弟子で民俗学者の早川孝太郎の優れた彼の生まれた愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城(しんしろ)市横川(よこがわ)。ここ)を中心とした民譚集で、大正一〇(一九三五)年に『炉辺叢書』(十二)として名著出版から刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、当該部の「ツト蛇」が視認出来る。電子化しておく。

   *

 ○ツト蛇  ツトツコとも、槌蛇とも謂ひます。ツトのやうな格好だとも、又槌の形ちをしているとも、槌のやうに短かいのだとも謂ひます。蛇の頸ばかりになつたのが、死なゝいでゐて、それに短かい尾のやうなものが生へるのだとも謂ひます。山や、澤などにゐて、非常な毒を持つたもので、これに咬まれると命はないなどゝ謂ひます。私の母の幼な友逹は、この蛇に咬まれて一日程患つて死んだと聞きましたが、それは澤にゐたのだと謂ひました。東鄕村出澤の鈴木戶作と云ふ木挽[やぶちゃん注:「こびき」。]の話でしたが、鳳來寺村門谷から、東門谷と云ふ所へ行く道で、某と云ふ男が見たのは、藁を打つ槌程の大さで、丈が二尺程のものであつたと謂ひます。道の傍の山を、轉がつてゐたと云ひました。

  澤などにゐるのは、蛇ではなく、鰻の頭ばかしなのがなつたのだと云ふ人もありました。

   *

私は実は既にブログ・カテゴリ『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』で、彼のその一冊の電子化注を終えている(二〇二〇年三月~四月)。それを終えた時、私は「早川孝太郎ロス」に暫く襲われたのを思い出した。それほど面白かったし、注をするのが楽しかった。行ったこともない横山をストリートビューで確認しているうちに、完全に地形を記憶し、遂にはそこに住んでいたことがあるような錯覚までも生じたほどだった。今回、以上を視認出来るようになったので、近日中に「三州橫山話」の全電子化注を始動する。暫くお待ちあれ。

「ツトッコ」は携帯食用や納豆を作るのに使う藁苞(わらつと)の方言である。彼らの体幹が藁苞の如くにずんぐりとしていることからの比喩呼称である。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その3) / コナキヂヂ・カヒフキバウ・コクウダイコ・カハツヅミ・ヤマハヤシ・タケキリダヌキ・テングナメシ・ソラキガヘシ・フルソマ・オラビソウケ・ヨブコ・ヤマノコゾウ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。]

 

コナキヂヂ 阿波の山分の村々で、山奧に居るといふ怪。形は爺だといふが赤兒の啼聲をする。或は赤兒の形に化けて山中で啼いてゐるともいふのはこしらへ話らしい。人が哀れに思つて抱上げると俄かに重く放さうとしてもしがみ付いて離れず、しまひにはその人の命を取るなどと、ウブメやウバリオンと近い話になつて居る。木屋平《こやだひら》の村でゴギャ啼キが來るといつて子供を嚇すのも、この兒啼爺のことをいふらしい。ゴギャゴキャと啼いて山中をうろつく一本足の怪物といひ、又この物が啼くと地震があるともいふ。

[やぶちゃん注:これも水木しげるで大ブレイクした妖怪である。ウィキの「小泣き爺」に譲る。

「阿波の山分」地名かも知れぬが、「村々」が引っかかるので、単なる山間の奥部の意ととっておく。

「木屋平」現在の徳島県美馬市木屋平

「ウブメ」『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』の本文及び私の注、及び私の「宿直草卷五 第一 うぶめの事」、また、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」も参照されたい。

「ウバリオン」ウィキの「おばりよん」を参照されたい。]

カヒフキバウ 備前和氣郡の熊山古城址に居たといふもの。聲は法螺の貝を吹くやうで在りかを知らず、その貌を見た者も無い。土地では貝吹坊と呼んで居た(東備郡村誌卷四)。

[やぶちゃん注:「備前和氣郡の熊山古城址」岡山県赤磐(あかいわ)市東区奥吉原(おくよしはら)の熊山城跡

「東備郡村誌卷四」「吉備群書集成」第貳輯の活字本の、国立国会図書館デジタルコレクションのここで当該部が視認出来る(左ページ二行目)。]

コクウダイコ 周防の大畠《おほばたけ》の瀨戶《せと》で舊六月の頃に、何處とも知れず太鼓の音が聽える。これを虛空太鼓といふ。昔宮島樣の御祭の日に、輕わざ師の一行がこゝで難船して死んでからといふ(鄕土硏究一卷五號)。

[やぶちゃん注:「大畠の瀨戶」山口県南東部に位置し、本州(大畠)と屋代島(周防大島)とに挟まれた瀬戸。ここ。]

カハツヅミ 信州の小谷《おたり》地方では、川童《かつぱ》は人を取る二日前に祭をするのでその鼓の音が聽えるといふ。それを川童の川鼓といつて大いに怖れる(小谷口碑集)。

[やぶちゃん注:「信州の小谷地方」長野県北安曇郡小谷村。糸魚川に近い。

「小谷口碑集」国立国会図書館デジタルコレクションの「炉辺叢書」十三のここで当該部「河童の河鼓」が視認出来る。]

ヤマバヤシ 山中で深夜どことも無く神樂の囃子がすることがある。遠州阿多古《あたこ》ではこれを山ばやしといひ、狸のわざとして居る。熊《くんま》村では日中にもこれを催すことがあつて、現に狸が腹鼓を打つて居るのを見たといふ者さへある(秋風帖)。

[やぶちゃん注:「遠州阿多古」静岡県浜松市天竜区のこの附近の旧地名。

「熊村」静岡県浜松市天竜区熊(くま)。但し、地元では「くんま」と呼び慣わしており(当該ウィキを見よ)、引用元(次注参照)でもそうルビしているので、本文ではそちらを採用した。

「秋風帖」柳田國男自身の中部地方・佐渡・熊野を旅した紀行。昭和七(一九三二)梓書房刊。国立国会図書館デジタルコレクションで原著の当該部を視認出来る。「狼去狸來」の章だが、自分のものだけに、かなり書き換えが激しい。]

タケキリダヌキ 竹伐狸。夜分竹を伐る音がする。ちょんちょんと小枝を拂ふ音、やがて株を挽き切つてざゝと倒れる音がする。翌朝往つて見ると何事も無い。丹波の保津《ほづ》村などは竹伐狸のわざといつて居る(旅と傳說一〇卷九號)。

[やぶちゃん注:「丹波の保津村」現在の亀岡市保津町。]

テングナメシ 普通には天狗倒しといふが陸中上閉伊《かみへい》郡などは天狗なめし、ナメシの語の意味は不明である。木を伐る斧の音、木の倒れる葉風の感じなどもあつて、翌朝その場を見ると一本も倒れた木などは無い(遠野物語)。

[やぶちゃん注:「陸中上閉伊郡」現在は大槌町(おおつちちょう)のみであるが、旧郡域は、西で接する内陸の遠野市の全域と、南で接する釜石市の大部分に相当する広域。

「遠野物語」とあるが、「遠野物語拾遺」の誤り。正統な本篇には載っていない。「遠野物語拾遺」は、昭和一〇(一九三五)年の再版「遠野物語」に増補という形で附属されたものである。「遠野物語」の続編を正編に合わせたものと思われる「廣遠野物語」を目論んだ柳田国男が、引き続き佐々木喜善から資料提供を受けたものの、原稿量が膨大であったため、物語の選択に時間をとられ、出版が遅れたとされている(怪しい)。しかし、その間に佐々木が他界してしまったため、一冊の本としてではなく「遠野物語」の「拾遺」集という形態をとり、「増補版」と銘打って柳田が勝手にカプリングしたものである。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの同原本のここの「一六四」話である。]

ソラキガヘシ 天狗倒しのことを福島縣の田村郡、又會津でもさういつて居る。鹿兒島縣の東部でも空木倒しといふ。斧の音、木の倒れる音はして、地に着く音だけはしないと前者ではいひ、他の一方でも丸で木を倒す通りの音をさせるが、たつた一つ材木の端に牛の綱を通す穴をあける音だけはさせぬので、眞僞を聽き分けることが出來るといふ。その音のする場所は一定して居る。

[やぶちゃん注:「福島縣の田村郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい(福島県東部の中央部相当)。]

フルソマ 土佐長岡郡の山中で、古杣といふのは伐木に打たれて死んだ者の靈だといふ。深山で日中もこの聲を聽くことがある。始めに「行くぞう行くぞう」と呼ぶ聲が山に鳴り渡り、やがてばりばりと樹の折れる響。ざアんどオンと大木の倒れる音がする。行つて見れば何の事も無い(鄕土硏究三卷四號)。

[やぶちゃん注:「土佐長岡郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたいが、ここでは「山中」であるから、現行郡域相当の本山町(もとやまちょう)とその東に接する大豊(おおとよ)町附近と考えてよかろう。]

オラビソウケ 肥前東松浦郡の山間でいふ。山でこの怪物に遭ひ、おらぴかけるとおらび返すといふ。筑後八女《やめ》郡ではヤマオラビといふ。オラブとは大聲に叫ぶことであるが、ソウケといふ意味は判らぬ。山彥は別であつて、これは山響きといつて居る。

ヨブコ 鳥取地方では山彥卽ち反響を呼子又は呼子鳥といふ(因伯民談一卷四號)。何かさういふ者が居てこの聲を發すると考へる者もある。

[やぶちゃん注:「肥前東松浦郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたいが、同じく「山間」とあるから、これは現在の唐津市の南東部の、この中央附近と考えるのが妥当であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「筑後八女郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたいが、同前で山間部でないとおかしいから(但し、現在の唯一残る福岡県八女郡広川町を除くと旧郡の殆んどは山間地である)、この中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう。]

ヤマノコゾウ 伊豆賀茂郡では山彥を山の小僧といふ。駿河でも山の婆々、遠江には山のおんばアといふ名もある。山彥といふ名も山の男といふことだから元は一つである。或はこれを又アマンジャクといふ土地も關東にはある。天の邪鬼とも書いて、人の意に逆らふ惡德をもつといふのも、やはりこの山中での經驗では無かつたかと思ふ。サトリといふ怪物があつて人の心中を見拔くといふ昔話も、起りは口眞似からさういふ想像に走つたのであらう。

[やぶちゃん注:「サトリ」「山の神のチンコロ」で既出既注だが、再掲しておくと、「覺(さとり)」由来。毛むくじゃらの山男として描かれる場合が多い。当該ウィキを読まれたい。「サトリ」ではないが、私はどうも「山男」や「さとり」の類いを見ると、無条件反射で「北越奇談 巻之四 怪談 其十(山男)」に載る葛飾北斎の挿絵を想起してしまう人種である。また、「サトリ」の名にふさわしいエピソードを確かに電子化しているのだが、探し得ない。21,949件もブログ記事を書いていると、探し出せなくなる記事も出てきた。発見したら、ここに追記する。]

2023/03/04

西播怪談實記 姬路本町にて殺し犬形變する事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]

 

 ○姬路本町(ひめちほんまち)にて殺(ころせ)し犬(いぬ)形(かたち)變(へん)する事

 寶永年中の事なりしに、姬路の町内を、白犬(しろいぬ)、よなよな、徘徊し、

「あそこにては、何をとられた。」

「爰にては、何を喰(くは)れた。」

なとゝ、三、四年の間も沙汰しけるが、右の犬、築地(ついぢ)を越(こへ)、やねをつたひけるを、稀には、見し人も有《あり》とかや。

 本町には、蚊帳(かや)商賣の家、多(おほく)、仕立蚊屋(したてかや)も多し。

 ある家にて、夜更るまで打寄(うちより)、蚊屋を縫(ぬい)て居《をり》けるに、奧の間の障子を、外より。

「そろり」と

明《あけ》る音、しければ、其内、独(ひとり)、指(さし)のぞき、

『誰(たれ)ならん。』

と見れば、小(ちさき)白犬なり。

「やれ。彼(かの)盜犬(ぬすみいぬ)よ。」

と、声を立《たつ》れば、有合(《あり》あふ)ものども、手手《てんでに》に、側(そは)に有合たる割木(わりき)、火吹竹(ひふきたけ)なんどを持《もち》て、追廻(をいまはる)るに、犬の運(うん)や、尽(つき)たりけん、惡水拔(《あくすい》ぬき)の溝(みそ)へ飛込《とびこみ》、あがらむ、あがらむと、せし所を、たゝみ懸(かけ)たゝみ懸、打《うち》ける程に、終(つい)に打殺(《うち》ころ)して、

「偖(さて)。夜まきれに、『三左衞門殿堀』へ、捨(すて)よ。」

と、いふて、首に縄を付《つけ》、二、三人して、引ずり行(ゆき)、深みへ、

「ざんぶ」

と打込置《うちこみおき》、立歸《たちかへり》て、煙草を吞(のみ)て居(い)けるに、ほどなく、跡より、縄の付《つき》たる白犬、

「ふらふら」

と立歸(たちかへる)を、よくよく見れば、彼《かの》犬也。

 人々、おどろき、又、打殺して、口に「はぢかみ」を打《うち》、引ずり行《ゆき》、

「初《はじめ》は、堀へ捨しゆへ、水を吞、蘇生したるならん。」

と、後《のち》には、堀端にぞ、捨置《すておき》ける。

 かくて、翌朝(よくてう)、

「めづら敷《しき》大犬、捨《すて》て、ある。」

とて、我も我も、見物に行《ゆけ》ば、彼《かの》殺したるものも、そしらぬ顏にて行《ゆき》てみるに、大き馬ほとに成《なり》て有《あり》けるか、終(つい)に何國(いつく)の犬とも、きこへざりし。

 或人の曰、

「犬も長生《ながいき》して、自然(しせん)と自由(しゆう)を得るもあり、とかや。此犬、其類(るい)にや。小(ちさく)、身を變じて、徘徊し、死後、本躰(ほんたい)に成《なり》たるにや。」

と、評判しけるよし。

 其比《そのころ》、見ける人の物語の趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「姬路本町」姫路城の直下辺縁相当の現在の兵庫県姫路市本町

「寶永年中」一七〇四年から一七一一年まで。徳川綱吉及び家宣の治世。宝宝永六(一七〇九)年一月十日に綱吉は死去しており、ウィキの「生類憐れみの令」によれば、『綱吉は死に臨んで世嗣の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残したが』、亡くなった『同月には犬小屋の廃止の方針などが』、『早速』、『公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止されていった』とあるから、まんず、城下町の城にごく近いここで、かく出来たからには、家宣の治世になってからのことではあろう。

「三左衞門殿堀」現在、店名に「三左衛門堀」を冠した店がこの附近に集中している。姫路本町地区からは南南西二キロほど離れている。流石に姫路城の濠ではない。ここは実際に兵庫県姫路市三左衛門堀(さんざえもんほり)西の町(にしのまち)という地名である。

「はぢかみ」山椒(さんしょう)の木の枝或いはそれで出来た擂り粉木を噛ませて、縛ったのであろう。強い辛み成分であるサンショオールは邪気除けになり、実際に撲殺するのに用いた擂り粉木を以ってそうしたものかも知れない。]

西播怪談實記 佐用沖内夫婦雷に打れし事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]

 

 ○佐用沖内(をきない)夫婦(ふうふ)雷(らい)に打(うた)れし事

 佐用郡佐用邑の髮結に沖内といひしもの、在(あり)。

 寶永年中[やぶちゃん注:一七〇四年から一七一一年まで。]の、比《ころ》は七月十七日、草木もゆるがぬ暑(あつさ)にて、火氣(くわき)、熖(ほのほ)をふく斗《ばかり》なる晴天に、俄(にはか)に黑雲、一むら、覆(おふい)來たり、段々と曇(くもり)ふたがりて、世界は暗闇(くらやみ)のごとくなれば、

「是、たゝ事に、あらず。」

と、家々、門戶(もんこ)を指廽(さしまは)す。

 折しも、戌亥(いぬい)[やぶちゃん注:北西。]の方より、一陣の風、吹(ふき)きたりて、雷鳴、はためく事、いはん方なく、窓をもり來(く)る電(いなひかり)に、家内(かない)は、あたかも、日の淸明(せいめい)たるに、ことならず。

 降來(ふりく)る雨の脚音(あしをと)は、大波の寄來《よせく》るやうにて、外面(そとも)は、車軸を流しければ、恐しといふも、中々、おろかなり。

 須臾(しはらく)ありて、雷電(らいてん)、少(すこし)鎭(しつまり)、雨も小降《こぶり》に成けるに、

「沖内が宅(いへ)へ、雷(かみなり)、落(をち)たり。」

と、町内を、わめきありく。

 人々、驚(おどろき)て、かけ付《つく》るに、其近所は、唯(たゝ)、熖硝(ゑんせう)の匂ひ、甚し。

 沖内が相屋(あいや)に平六といふもの在しが、雷《らい》に恐《おそれ》て、閉篭居(とちこもり《をり》)ければ、聊(いさゝか)も、しらず。餘所(よそ)より寄來(よりきた)る人に驚《おどろき》て、初《はじめ》て知(しる)ほど也。是は、嚴敷(きひしき)雷に、家内、恐て、臥具(くはく)などを、かぶり居《ゐ》て、耳をも塞居(ふさき《ゐ》)ける故とぞ聞(きこへ)し。

 大戶店(おほとみせ)の椽(ゑん)なども、碎(くたけ)て飛(とひ)たり。

 人々、家内(かない)へ入《いり》てみるに、煙、ぬまひたり[やぶちゃん注:ママ。「近世民間異聞怪談集成」も同じで、ママ注記で『(ぬぼり)』とするが、「ぬぼる」と言う語も私は知らない。ともかくも「煙が充満しているという」意ではあろう。]。

 沖内は、裏の戶を、二、三寸、明《あけ》て、外の氣色(けしき)を覗(のそき)ゐたる体(てい)、其儘、死(しゝ)て居《ゐ》けり。

 女房は、沖内へ茶を出《いだ》しける時、打れしと見へて、打臥(うつふし)に成《なり》て死し、茶碗なども、手もとにあり。

 兩人(ふたり)とも、疵は、見へず。

 平生(へいせい)、猫を愛し、其時も、つなきて有けるが、何の子細もなかりければ、

「※(けたもの)は雷の難には、遭(あは)ざるものにや。」[やぶちゃん注:「※」は特異な字体で、「犭」(へん)に、(つくり)は「獸」の(へん)の崩し字で「巢」の下方を「大」にしたもの。]

と沙汰しあへりける。

 沖内は夫婦斗《ばかり》の事なれば、町内の世話にて、其夕暮、二人の死骸を銘々のくわんへ入て、二を一所に葬(ほうふり)ければ、見る人、

「いかなる過去の業因にや。」

と、あはれみ侍ける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:二人とも雷撃を直接受けて、即死したものと思われる。実話で、何だか、あまりの悲惨にして哀れな一篇である。――猫だけが知っている一瞬の惨劇…………]

西播怪談實記 六九谷村の猫物謂し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]

 

 ○六九谷村(むく《たにむら》)の猫(ねこ)物謂(ものいひ)し事

 揖東郡《いつとうのこほり》六九谷村に三木何某(みきなにかし)といへる農家あり。

 產業、豐(ゆたか)にして、代々、庄官(せくわん)たり。

 祖(そ)、騎乘の奧義(おふき)を極(きはめ)て、世に鳴(なる。今に名作の鞍(くら)など、傳けるとかや。

 往昔(そのかみ)、豐臣の殿下(てんか)、姬路御在城の節(せつ)は、鷹野(たかの)の御往還には、必《かならず》、御腰(おんこし)を懸られしとかや。

 寶永年中の事成《なり》しに、家に誓古(せい《こ》)といへる尼ありしが、用ありて、寢間(ねま)のふすまを明(あけ)ける時、後(うしろ)より、

「誓古、何をしらるゝ。」

と、いふを見れば、久しく馴(なれ)し手飼(《て》かい)の猫なり。

 誓古は、女ながらも、氣のすこやかなる生質(うまれつき)なれば、少《すこし》もおどろかず、密(ひそか)に夫(をつと)何某(なにがし)に、

「かく。」

と告(つげ)ければ、

「是、必《かならず》、後(のち)には、人に害をなすべし。」

とて、工夫(くふう)ありけれども、

「人手にて殺しては、死期(しこ)の念、恐(をそろ)し。」

とて、蹄(わな)を懸置《かけおき》けるに、物をいふほどに年(とし)へても、畜生の淺ましさは、早速(さつ《そく》)、懸《かかり》て死(しに)けると也。

 同所の何某、佐用へ來《きたり》し比《ころ》、我、近所にて、

「慥なる事。」

とて、物語の趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「六九谷村」現在の兵庫県姫路市林田町(はやしだちょう)六九谷(むくだに:グーグル・マップ・データ)。

「豐臣の殿下、姬路御在城の節」天正八(一五八〇)年、羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田孝高は姫路城を秀吉に献上している。秀吉は三層の天守閣を築き、翌年に完成している。しかし、天正一一(一五八三)年、天下統一の拠点として築いた大坂城へ移っている。この三年ほどのこととなる。

「鷹野」不詳。地名ではなく、鷹狩のための野の意か。

「寶永年中」一七〇四年から一七一一年まで。]

西播怪談實記 東本鄕村太郞左衞門火熖を探て手靑く成し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]

 

 ○東本鄕村太郞左衞門火熖(くわゑん)を探(さぐり)て手靑く成《なり》し事

 佐用郡東本鄕村に太郞左衞門といひし古き農人(のうにん)在《あり》しが、家產、乏しからずして、奴婢(ぬひ)も數多(あまた)召《めし》つかひけり。

 元錄年中[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]の或九月上旬の事成しに、所用に付《つき》、近村《きんむら》へ行《ゆき》、夜更て歸《かへり》しが、折あしく、雨、そぼふりて、くらき夜なれとも、年比、通馴(かよひなれ)たる道なれば、笠をさして、そろりそろりと歸しに、とある藪陰(やふかけ)にて、火のもゆるを見て、

『是なん、聞及《ききおよび》し火熖なるべし。今夜は、慥に見屆くべし。』

と思ひ、足音もせぬやうに步行(ありき)、今、三、四間[やぶちゃん注:五・四五~七・二七メートル。]と思ふ時、

「はた」

と消て、跡形(あとかた)も見へず。

『又、燃(もえる)事もや。』

と暫(しはし)待(まち)けれども、たゝ、虫の声斗《ばかり》なれば、

「さては。待《まつ》とも、詮(せん)、有《ある》まし。寔《まこと》の火熖ならば、其所、煖(あたゝか)なるべし。若(もし)、狐狸(きつねたぬき)の業(わざ)ならば、何の子細も有まし。」

と、彼所《かしこ》にいたり、

『慥《たしか》、此あたり。』

と思ふ所を探𢌞(さくりまはせ)とも、それと思ふ斗《ばかり》の事もなけれは、我屋(わかや)へ歸(かへり)てぞ、臥(ふし)にける。

 かくて、翌朝(よくてう)、起(をき)て、手水(てうず)に懸《かかり》て、見れは、左右(さう)の手の肘(ひち)より先、眞靑(まあを)に成て在《あり》。

「さては。夜部(よんべ)の火熖の所を撫(なて)たるゆへ。」

と、洗(あらへ)とも落(をち)ず。

 二、三日は、其色、はげゆざりしが[やぶちゃん注:ママ。「剝げなかったが」「消えなかったが」。]、段々、薄(うすく)成て、後《のち》には、失《うせ》ける、となん。

 予が緣家(ゑんか)にて、慥に聞ける趣を書傳ふ者也。

[やぶちゃん注:「佐用郡東本鄕村」今回、兵庫県立歴史博物館作成になる「ひょうご伝説紀行 妖怪・自然の世界」PDF)を見つけた(本話が紹介されてある)。それによれば、ここは現在のの佐用町上本郷、及び、下本郷の附近とあった(グーグル・マップ・データ)。]

西播怪談實記 德久村西蓮寺本尊の告によつて火難を免し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]

 

 ○德久《とくさ》村西蓮寺(さいれん《じ》)本尊の告《つげ》によつて火難(くわなん)を免(まぬかれ)し事

 佐用郡德久村に、西蓮寺といへる眞宗の道場、在《あり》。

 元錄年中[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]のある六月の事なりしに、住持の泰圓(たいゑん)、暮方(《くれ》かた)に讀經(とくきやう)して、本堂の椽《えん》へ出《いで》て、凉(すすみし)か、暑(あつき)につかれたる折柄にて、凉風(りやう《ふう》)、いとゞ心よく、

「寔《まこと》に夏は、夕暮(ゆふ《ぐれ》)なくは、いかでか、昼の暑(あつき)を忍(しのば)ん。」

と、團(うちは)をとつて、蚊をはらひ、

「夏の月蚊を疵(きず)にして五百兩」

と、其角が句を吟じ、

「げにも。」

と誹人《はいじん》の腸(はらはた)迄、おもひやりて、すゝろに睡眠を催しけるに、内陣より、

「泰圓、泰圓、」

と、聲、高く聞ゆるに、驚急(おどろきいそぎ[やぶちゃん注:ママ。])ぎ、入《いり》てみれば、香爐の火よりや、移(うつり)けん、打敷(うちしき)、火に成(なり)て、前机(まへしう[やぶちゃん注:ママ。])にも移居(うつり《をり》)けるを、漸(やうやう)に消留(けしとめ)けり。

 其節、内陣はいふに及ず、下陣、两余間(りやうよま)の中《うち》にも、人とてはなかりけるに、内陣より呼(よび)給へば、正《まさ》しく、本尊の告、疑ふべくもなく、

「寔に、かゝる㚑驗(れいげん)なくば、一時(いつとき)の灰燼(くわいしん)とならんものを。」

と、住持の僧、隨㐂(ずい《き》)の泪を流し、弥《いよいよ》、信心堅固になりて、朝暮(てうぼ)の勤行、懈怠《けたい》なく、是を聞《きく》人、檀家はいふに及ず、他門他宗迄、貴(たうと)みあへりけり。

 右、予が近所にて正說(しやうせつ)を聞ける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「德久村西蓮寺」兵庫県佐用郡佐用町西徳久のここに現存する。

「夏の月蚊を疵にして五百兩」宝井其角の一句としてよく知られるものである。所持する堀切実編注「蕉門名家句選(上)」の同句の解説によれば、「五元集拾遺」や「温故集」に載り、蘇東坡の詩「春夜」に出る「春宵一刻値千金 花に淸香有り 月に陰(いん)有り」のゝを踏まえたものとあり、謡曲「田村」にも同詩に基づく「春宵一刻値千金 花に淸香、月に影、げに千金も代へじ」があるとある。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 夙慧の兒、大人を閉口させた話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。

 標題の「夙慧」は「しゆつけい(しゅつけい)」と読み、「夙」は「早い」の意で、「幼少時から賢いこと」の意である。]

 

     夙慧の兒、大人を閉口させた話 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 伊太利人フランコ・サツケツチが十四世紀に書いた「新話(ノヴエレ)」第六七譚に、フロレンスのヴワロレ、惡謔(わるじやれ)、度《たび》なく、常に人をへこませ、娛樂とするに、よく敵する者、なし。ロマニアの官人ペルガミノの子十四歲、ヴワロレを訪ねて問答して之をやりこめた。ヴワロレ、傍人《ばうじん》に向つて、「小さい時非常に賢(かし)こい子が長じて、非常に馬鹿にならぬは、なし。」といふと、かの少年、「そんなら君は小さい時無類に賢かったはず」と卽座に擊ち返し、ヴワロレ、ますます辟易してフロレンスに逃げ還つた、とある。ポツジオ(一三八〇年生れ、一四五九年歿す)の「笑話(フアツエチエ)」には、一小兒、羅馬法皇前に演舌した時、ある高僧が評するを、小兒が右の通り擊ち返した、と作る。

[やぶちゃん注:『フランコ・サツケツチが十四世紀に書いた「新話(ノヴエレ)」「新話(ノヴエレ)」は「選集」では『デレ・ノヴエレ』とルビする。フランコ・サケッティ(Franco Sacchetti 一三三五年~一四〇〇年頃)はイタリア・フィレンツェの詩人で小説家。“Il Trecentonovelle” (トレセントノヴェッレ:「三百十九の短篇小説」)のことであろう。現在は二百二十三話のみ残る。これはイタリア語の「Wikisource」の「Il Trecentonovelle/LXVII」で原文が載る。私は読めないが、機械翻訳で、なんとか読める。「フローレンス」フィレンツェの英語。「ヴワロレ」は「Valore」、「ロマニア」は現在のエミリア=ロマーニャ州(Emilia-Romagna)で、イタリア共和国北東部に位置する州。州都はボローニャ。「ペルガミノ」は「Bergamino」或いは「Bergolino」とある。

『ポツジオ(一三八〇年生れ、一四五九年歿す)の「笑話(フアツエチエ)」』ジョアン・フランシスコ・ポッジョ・ブラッチョリーニ(Gian Francesco Poggio Bracciolini 一三八〇年~一四五九年)はルネサンス期イタリアの人文主義者。古代のラテン語文献を見出したことで知られる。‘Facetiae’は死後の一四七〇年に刊行された「ルネッサンス期の最も有名な笑話集」とされ、スカトロジックな話柄が含まれていることで知られる。]

 こんな話はサツケツチより凡そ九百年前、支那にすでに行なわれた。劉宋の朝成《なつ》た「後漢書」と「世說」に、後漢の末、孔融、十歲で異才あり。其頃、名高い李膺《りよう》を訪ふと、一寸會《あつ》て吳《くれ》ぬから、一計を案じ、累代の通家《しりあい》たる者がきたと、振れ込み、輙《たや》すく膺の目通りへ出た。膺、怪しんで、「君は、予と、どんな舊緣があるぞ。」と問ふと、「李聃《りたん》(老子)は孔子の師だつたから、かく申した。」と言《いつ》たので、一座、その夙慧に驚いた。陳韙《ちんい》てふ老官人が居合せて、「人、小さい時、聰(さか)しきは、大きく成《なり》て必《かならず》しも奇才とならぬ。」と評す。融、聲に應じて、「そんな言《こと》を吐く君は、見たところ、一向、平凡故、定めし、小さい時、よほど夙慧だつたらう。」と言つた。李膺、大いに笑つて、「高明(融の字)、必ず、偉器たらん。」と言った、とある。此拙考は明治卅一年頃の『ノーツ・エンド・キーリス』に載せた。

[やぶちゃん注:「世說」は「世說新語」のこと。南北朝時代の南朝宋の臨川王劉義慶が編纂した後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集。当該話は「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの最後の割注部(次の丁にかけて)で視認出来る。

「李膺」(?~一六九年)は後漢の官僚。事績は当該ウィキを参照されたい。

「明治卅一年」一八九八年。ちょっと調べたが、同年の同誌にはないようである。]

追 記(大正十五年八月二十七日記)

 文化中、一九作「落咄彌次郞口《おとしばなしやじらうぐち》」に、『「旦那、人と云《いふ》物は變つた物で、幼少の時、馬鹿な者は成人すると、極めて利口になり、又、子供の時、利口な者は大きくなると、果てのばかになる者だ。」と云と、側に聞て居《をつ》たる男、「左樣ならば、憚り乍ら、旦那樣は、御幼少の時は、嘸《さぞ》お利口で厶《ござ》りましたらう。」とあるは、明らかに件《くだん》の孔融の咄を丸取りだ。

[やぶちゃん注:「落咄彌次郞口」十返舎一九が文化一三(一八一六)年に刊行した小話(落し話)集。国立国会図書館デジタルコレクションの「一九全集」(続帝国文庫)のここで当該部が視認出来る(左ページ後ろから五行目。多少、アレンジしてあるようだ)。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 「踊る蛇」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  踊 る 蛇 ボードレール

 

わたしはどんなに見たいのか ふしだらな戀人よ、

お前のうつくしいからだから

きらめく星のやうに

肌のひかりのながれるのを!

 

きついにほひの、

ふさふさとしたお前の髮のうへに、

靑と茶色の波はもつれ

かんばしく ただよふ海、

 

朝ふく風に

目覺(めざめ)める船のやうに、

ゆめみる わたしの魂は

とほい空へと 船出の用意する。

 

やさしさも きびしさも

すこしもみせない お前の眼は、

黃金(きん)と鐵とのとけあつた

つめたいふたつの寶石である。

 

氣儘な戀人よ、

お前が 足どりかろくゆくのをみれば、

鞭のさきに へらへらと

をどる蛇かとおもはれる。

 

お前の こどもあたまは

懶惰の重荷にたへかねて

象の子のやうに

なよらなよら とゆれうごき、

 

お前のからだは こごこんだり のびたり、

ちやうど あちらこちらにゆらめいて

みづのなかに帆架(ほげた)をひたす

しなやかな船のやう。

 

がうがうと 氷河のとけるにつれて

あふれてきた波のやうにも、

お前の唾(つば)のしたたりが

齒のふちにうかみでるとき、

 

にがいけれども うつとりと

ボヘミアの酒をのむかのおもひがする

ああ わたしのこころに

星をまきちらす きれいな空よ!

 

[やぶちゃん注:「目覺(めざめ)める」はママ。衍字か誤植かは不明。

 「ジャンヌ・デュバル詩篇」の一つ。フランス語サイトのこちらから引く。朗読も聴ける。

   *

 

   Le serpent qui danse   Charles Baudelaire

 

Que j'aime voir, chère indolente,

            De ton corps si beau,

Comme une étoffe vacillante,

            Miroiter la peau !

 

Sur ta chevelure profonde

            Aux âcres parfums,

Mer odorante et vagabonde

            Aux flots bleus et bruns,

 

Comme un navire qui s'éveille

            Au vent du matin,

Mon âme rêveuse appareille

            Pour un ciel lointain.

 

Tes yeux où rien ne se révèle

            De doux ni d'amer,

Sont deux bijoux froids où se mêlent

            L’or avec le fer.

 

A te voir marcher en cadence,

            Belle d'abandon,

On dirait un serpent qui danse

            Au bout d'un bâton.

 

Sous le fardeau de ta paresse

            Ta tête d'enfant

Se balance avec la mollesse

            D’un jeune éléphant,

 

Et ton corps se penche et s'allonge

            Comme un fin vaisseau

Qui roule bord sur bord et plonge

            Ses vergues dans l'eau.

 

Comme un flot grossi par la fonte

            Des glaciers grondants,

Quand l'eau de ta bouche remonte

            Au bord de tes dents,

 

Je crois boire un vin de bohême,

            Amer et vainqueur,

Un ciel liquide qui parsème

            D’étoiles mon cœur !

 

   *

原子朗「定本 大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)の一八八~一八九ページに拓次の訳出したボードレールの『悪の華』からの詩篇リストがあるが、それによれば、この「踊る蛇」には『同題異稿あり』とあり、原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)の「翻訳篇」に載る初期訳のものは、その異稿である。以下に以上の本篇を参考に恣意的に正字化し、一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添えたものを示す。かなり有意に異なるなお、後に再訳したものが以上の本篇だが、原氏の「大手拓次詩集」では、それも載っているのだが、最終連二行目の末尾が、「ボヘミアの酒をのむかのおもひがする、」と読点が打たれている点のみが異なる。これが正しい再訳稿であると思う。ただ、流石に読点だけの異同なので、全篇を再掲することはしない。

   *

 

  踊 る 蛇 ボードレール

 

わたしが見るのを好む愛らしい怠惰者(なまけもの)、

お前のからだは左樣に美しく、

ゆらめく星のやうにその皮がきらきらとする。

 

辛い匂ひを持つてゐる濃い髮の上に

海は靑と褐色の波をもつて

かをりつつ又波浪する。

 

朝の風に覺(めざ)める船のやうに

空想に沈むわたしの魂は

遠い空へと船出の用意する。

 

溫良も苦味もこればかりもあらはれないお前の眼は

黃金と鐵との交りゐる

冷たい二つの寶玉である。

 

歩調とりながら進むお前を見て

放逸の美しさ――

人は杖の端にをどる所の蛇とよぶだらう。

 

懶惰(らんだ)の重荷の下に

赤んぼのお前の頭は

年若い象の遊惰(いうだ)のやうにゆらゆらする。

 

お前のからだは美しい船のやうに

ちぢかまつたりまた長くのびたりする、

暗礁から暗礁とこぎまはり、水の中の帆桁(ほげた)をしづめてる。

 

つぶやく氷山の溶解によつて

波が大きくなるやうに、

お前の口の水が齒の緣にのつかるとき、

 

わたしは苦いうつとりとするボヘミアの酒を飮まうと思ふ、

私の心に星を撒きちらす液體の空よ。

 

   *

原氏は特異な読み以外は省略しておられるので(大手拓次は漢字には殆んどにルビを振っていると原氏は岩波文庫版で述べておられる)、「黃金」は「きん」とは読まず、「わうごん」と読んでいるものと推察する。個人的には、この異稿の方がよい。]

西播怪談實記 網干村獵夫發心の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]

 

 ○網干《あぼし》村獵夫《りやうふ》發心(ほつしん)の事

 揖東《いつとう》郡網干村に、獵師、在(あり)。夏は漁をし、冬になれば、雁(かん)鴨(かも)を取《とり》て、世わたりのいとなみにしけり。

 妻と男子《なんし》壱人《ひとり》、娘壱人、家内四人を身一つのいとなみにて過《すぐ》しけり。

 天和年中の十一月下旬の事なりしに、近所さる大名より、御用の鴨、壱番(ひとつがい)仰付《おほせつけ》られ、役人、來りて、其村に逗留して待居《まちゐ》たり。

 獵師は、用意して、暮方(くれかた)より出《いで》て行《ゆき》けり。

 翌(あくる)未明に、彼(かの)役人、きたりて、

「いかに内儀、亭主は、まだ歸ずや。今日の御用の鳥、間違(まちかい)ては、氣の毒なり。」

といふ。

 妻、荅(こたへ)て、

「鳥は番(つかい)、慥(たしか)に取《とり》たり。御氣をせられす待《まち》給へ。」

といふ中《うち》に、亭主、番の鳥を提(さけ)て立歸《たちかへ》れば、役人、見るより、

「いかに、亭主。内儀より先達(《さき》だつ)て番(つかい)取(とり)たるとは聞《きき》しかと、目に見されは、覺束(おほつか)なくおもひしに、大切の御用、間違なく、躬(み)[やぶちゃん注:我らも。役人の自称。]も大慶(たいけい)致す。價(あたい)は追(おつ)て、當村庄屋より、相渡べし。」

とて、鳥を請取(うけとり)て立歸る。

 跡にて、其妻に問けるは、

「其方、鳥のとれたると、とれぬとを、先達て知べきやう、なし。それに『慥に、番、取し』など、胡乱論(うろん)[やぶちゃん注:「論」はママ。「胡亂」。]なる事をいふ事、心得ず。」

といへば、女房、泪(まみた)を流し、

「慥に知《しる》事有《あり》て申《まをし》たり。」

といふ。

 夫《をつと》、あやしみ、

「それは、いかに。」

といへば、女房、顏をもたげ、

「されば、そこにも惡敷(あしき)こ[やぶちゃん注:底本では(右丁二行目下方)、この「こ」の後は以下の「けふ迄は殺生の……」に続いてしまっており、意味が通じない。書写する際に飛ばしてしまったものらしい。「近世民間異聞怪談集成」を参考に補訂した。]とゝ知《しり》て志《し》給ふは、別に渡世すべきやうなき故也。先《まづ》、けふ迄は殺生のかげ[やぶちゃん注:「御蔭」。]にて、親子四人の命をつなぐ。それに打あけて申さんは、そこの心、よはり、『どもならむ。』と、いたはしければ、たゞ今迄は、つゝしみて、申さず。寔《まことは》は獵に行《ゆき》給ふ留守の夜《よ》は、兄弟の子共を、左右(さう)にねせ侍るに、兄がおびゑ、妹(いもと)がおびゆる夜半(よは)もあり。初《はじめ》のほとは、不審成(なり)しか、能能《よくよく》思ひ合すれば、兄がおびゑたる夜は、雄鳥(をとり)を取《とり》て歸られ、妹がおびゑぬれば、女鳥、違(たかふ)事なく、夜部(よんべ)[やぶちゃん注:今夜。]は、兄弟共に、おびゑしぞかし。しかるに、彼侍(かのさふらひ)、『大切の御用。』とて、氣をせかるれば、安堵させましたく、『慥に、番ひ取たる。』と申たるを、かく根(ね)を押(をし)て問(とい)給ふも、宿善時(しゆくぜん《どき》)の、到來なるべし。身に替(かへ)てもと思ふ子共の、かく此世(このよ)から地獄の相(さう)をあらはす事、『不便(ふびん)や、かなしや。』と、おもへば、一盃(いつはい)の水も、咽(のと)を、こさす。そなたにも、子共不便と思ひ給はゞ、殺生は夜部(よんべ)を限(かぎり)に、おもひ切(きり)給へ。生《いき》たるものには、餌食(ゑしき)あるときけば、餓死する程の事も有まじ。よし、又、道路に倒るゝとも、業因(かうい《ん》)のひくひく[やぶちゃん注:ママ。衍字であろう。]所ならば、是非も、なし。」

と、淚と共にかきくとけば、夫も、さるものにて、一〻聞屆(きゝとゝけ)、側(そは)なる剃刀(かみそり)をもて、髻(もとゝろ)を切放(きりはな)して、いふやう、

「是迄も、よからぬ事とは思ひしかども、今日の渡世に止(やむ)事を得ず、殺生は、しけるぞや。子共のさやうなる事も、あなた[やぶちゃん注:浄土。]からの御催促、そなたは寔《まこと》の善知識ぞや。」

と、互《たがひ》に、一念發起しへるが、後《のち》には、世わたりのいとなみも出來《いでき》、娘も緣につきぬれば、兄に世を渡し、弥《いよいよ》、佛念、おこたらず、寺參《てらまゐり》を夫婦の仕事として暮しけるが、終《つひ》に一向專念無量壽佛(いつかうせん《ねんむ》りやうしゆふつ)の安心に住(ちう)して、目出度、往生をとげぬると、聞つたふ趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:本篇も殺生改心発心譚としては、細部に至るまで非常によく描かれてあって、全体のリアリズムが揺るぎない。私はこのありがちな類話の中では最上級クラスの作品と思う。

「揖東郡網干村」兵庫県姫路市網干(あぼし)区(グーグル・マップ・データ)。

「天和年中」一六八一年から一六八四年まで。

「近所さる大名」これは普通に考えるなら、姫路藩内であるから、その藩主と考えるのが普通だが(近くの他藩から役人がここに出向いてくるというのは、通常は考えられない)、何故か、ぼかしてある。思うに、これは、時制に関わるのではないか? 天和年間は、かの徳川綱吉の治世で、当時の「生類憐れみの令」に抵触すると筆者は考えたからではなかろうか?

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その2) / アヅキトギ・センダクキツネ・ソロバンバウズ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。]

 

アヅキトギ 又小豆洗ひとも、小豆さらさらともいふ。水のほとりで小豆を磨ぐやうな音がするといひ、かういふ名の化け物が居て音をさせるともいふ。その場處はきまつて居て、どこへでも自由に出るといふわけで無い。大晦日の晚だけ出るといふ處もある(阿哲《あてつ》)。或は貉《むじな》の所行といひ(東筑摩)、又は蝦蟇《がま》が小豆磨ぎに化けるともいふ(雄勝《をがち》)。不思議は寧ろその分布の弘い點に在る。西は中國、四國、九州、中部、關東、奧羽にも居らぬといふ處は殆と無い。何故に物は見もせずに、磨ぐのを小豆ときめたかも奇怪である。或はこの怪を小豆磨ぎ婆樣、又は米磨ぎ婆と呼ぶ例もある(芳賀)。信州北佐久郡の某地の井では、大昔荒神《かうじん》樣が白裝束で出て、

   お米とぎやしよか人取つて食ひやしよかショキショキ

といひながら、米を磨いでは井の中へこぼしたと傳へ、今でも水の色の白い井戶が殘つて居る(口碑集)。この言葉も全國諸處の小豆磨ぎの怪が、口にするといふ文句であつてその話の分布も中々弘い。

[やぶちゃん注:柳田國男は本「妖怪談義」の先行する一篇「小豆洗ひ」(大正五(一九一六)年五月発行『鄕土硏究』初出)で独立論考をしているので、そちらを見られたい。また、所持する日本民俗文化資料集成第八巻「妖怪」に所収する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊)の「長野県」の「アズキトギ」には前半を柳田の本文から引き、その後に、『駒ヶ根市では単にサクサクだが、アズキゴシャゴシャ(長野市)、小豆とぎゃしょか 人取って食いやしょか ショキショキ(佐久市)というのもある』とある。

「阿哲」阿哲郡。岡山県の旧郡名。現在の新見(にいみ)市に相当する。

「東筑摩」長野県に現存する郡名だが、旧郡域は松本市・塩尻市・安曇野市の一部を包含しており、ほぼ長野県の中央部を占めた。当該ウィキの地図を参照されたい。

「雄勝」秋田県最南部の山形・宮城両県に接する雄勝郡の旧町名。役内(やくない)川流域を占め、米作を主体として、他に林檎・苺・大根などを産する。また、鯉養殖が盛んである。現在の湯沢市の西部の一画を締めた。この附近で現行でも多く「雄勝」(おがち)を冠する多くの施設が確認され、「ひなたGPS」の戦前の地図で旧地名「雄勝」が確認出来る。

「芳賀」栃木県に現存する郡名だが、旧郡域は真岡市及び宇都宮市の一部(桑島町を除く鬼怒川以東)を包含しており、栃木県の南東部の角を占めた。

「北佐久郡」長野県に飛び地で現存する群だが、旧郡は現在のこの中央部(長野県東部の出っ張りの北部分)の殆んどを占めた。]

センダクキツネ 洗濯狐。夜になると水の岸に出て、ざぶざぶと物を洗ふ音をさせる怪。遠州西部ではその作者を狐ときめて居る(靜岡縣傳說昔話集)。

[やぶちゃん注:「靜岡縣傳說昔話集」静岡県女子師範学校郷土研究会編・静岡谷島屋書店・昭和九(一九三四)年刊で国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該箇所が読める。電子化しておく。「引佐郡麁玉村」は「ひきさぐんあらたまむら」と読み、この附近

    *

  ○洗  濯  狐 (引佐郡麁玉村)

 引佐郡麁玉村宮口東に平釜川といはれてゐる二間位の巾の流れがある。附近に寺があり、木が茂つて居る所があるが、夜になると狐が出て川岸でザブザブ物を洗ふ音が通る人に聞えると云はれて居る。普通洗濯狐といはれてゐる。狐の居る事は事實ださうだが、洗濯するかどうかは、はつきりしない。(大西とき子)

   *]

ソロバンバウズ 路ばたの木の下などに居て、算盤を彈《はじ》くやうな音をさせるから算盤坊主(口丹波口碑集)。

[やぶちゃん注:「口丹波口碑集」国立国会図書館デジタルコレクションの池田弥三郎等編『日本民俗誌大系』第四巻(近畿)(昭和五〇(一九七五)年角川書店刊)で同書(垣田五百次(いおじ)・坪井忠彦著)の当該部が視認出来る。以下に電子化する。

   *

算盤坊主 西別院村笑路の西光寺の傍に、一本の榧の木があって、そこを夜おそく通ると、坊主のような風体の男が、その木の下で盛んに算盤を弾きだすと云う事である。俗に算盤坊主と云って、狸の仕業かもしれないと謂っているが、何でも昔この寺の小坊主が、計算の事から和尚に罵られ、この木で首を吊って死んだのだと云う話もある。

   *]

2023/03/03

西播怪談實記 新宮村農夫天狗に抓れし事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]

 

 ○新宮村農夫天狗に抓(つかま)れし事

 揖東郡(いつとう《のこほり》)新宮《しんぐう》村に、七兵衞といひし土民ありしが、正德年中の事なりしに、山へ薪(たきゝ)を樵(こり)に行《ゆき》て、終(つい)に歸らざれば、親兄弟、歎き悲み、二(ふた)と勢(せ)[やぶちゃん注:「二年(ふたとせ)」に同じ。]をふりしに、或夜(あるよ)、同村の後(うしろ)の山へ來たりて、

「七兵衞が戾(もどり)たるぞ、戾たるぞ、」

と、大聲にて、よばふ。

 親兄弟、元來《もとより》、きゝ知《しつ》たる聲なれば、よろこびて、山へ走行《はしりゆけ》ば、近所よりも聞付《ききつけ》、走(はしり)、麓へゆくまでは、蜂に、聲、しけるが、尋上(《たづね》のぼ)りて見れば、居《をら》ず。

「慥に、此あたりなる。」

と、追々、行集(《ゆき》あつま)る人、其近辺を、殘るくまなく尋求(《たづね》もとむ)れども、終(つい)に見へざれば、爲方(せんかた)なく、皆々、歸(かへり)て、

「偖《さて》は。天狗に抓(つかま)れ、奴《やつこ》と成《なり》たるならん。」

と沙汰しあへりけり。

 其後《そののち》、同村のもの、久しく東武に在《あり》て歸國せし折から、沖津(をき《つ》)の宿《しゆく》にて出會(てあい)、物いひかはしたるよしなれば、

「東國を、徘徊して居《を》るにや。」

と、あづまへ下る人には、必《かならず》、たのみけれども、逢(あい)たるものもなく、風の音信(をとつれ)さへ、絕果(たけはて)し、とかや。

 右、一度、山へ歸《かへり》し比《ころ》、共々に尋行《たづねゆき》し人の、年へて後《のち》、物語の趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:本篇は、先般、ブログで電子化注した『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山男の家庭』にも引かれてあるので、参照されたい。

「播州揖東郡新宮村」現在の兵庫県たつの市新宮町新宮附近(グーグル・マップ・データ)。

「興津」静岡県静岡市清水区興津地区(グーグル・マップ・データ)。]

西播怪談實記 德久村兵左衞門誑れし狐を殺し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。また、挿絵も所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ○德久《とくさ》村兵左衞門誑(たふらかさ)れし狐を殺《ころせ》し事

 佐用郡德久村に、兵左衞門といひし農家あり。

 產業、乏しからず。ことに、力、强く、相僕《すまふ》を好《このん》て、其名、近國に鳴(なる)。

 元來(もとより)、殺生を數寄(すき)て、山川を徘徊して慰(なくさみ)とす。

 正德年中の、ある十月初方(はしめ《かた》)の事なりしに、夜(よ)ふかに出《いで》て、鳥屋(とや)へ行《ゆく》【「鳥屋」とは雉子(きじ)の出《いづ》る所に菰莚《こもむしろ》の類《たぐゐ》にて仕立《したて》、さまを明《あけ》たるもの也。】。

 夜の明《あけ》待ゐたるに、霧、立籠(たいこ)めし東雲(しのゝめ)に、雉子の出(いつ)るを、

「今や、今や、」

と待《まち》おほれて、挾間(さま)より、のぞき見るに、年をへたる狐壱つ、犬(いぬ)つくばひして、居《をり》けり。

 兵左衞門、おもひけるは、

『今朝(けさ)は、きやつ、居れば、雉子も出《いで》まじ。打《うつ》て腹《はら》をゐん。』

と、

『思ふ矢壺を、違(たか)へじ。』

と、ねらひすまして、打出《うちいだ》す。

 音に應じて、

「ころころ」

と、ころぶ。

「我(わか)年來(ねんらい)鍛練の手の内、矢比《やごろ》といひ、いかなる狐にもせよ、などかは、助かるべき。」

と、心地よく、鳥屋を立出《たちいで》、取《とり》て歸らむとすれば、狐、

「むくむく」

と起(おき)て、迯失(にけうせ)ける。

 兵左衞門、

「こは。口惜(《くち》をし)。」

と、噛喰(はかみ)をすれども、せんかたなく、立歸(たちかへり)、翌朝、又、右の鳥屋へ行《ゆか》むと立出《たちいづ》るに、早(はや)、橫雲(よこ《ぐも》)は棚引(たな《びき》)て、

「時分は、よし。」

と進行(すゝみ《ゆく》)に、狐、壱、側(かたはら)より走出《はしりいで》、先に立《たち》て見えつ、かくれつ、行《ゆき》て、矢表に、居直《ゐなほ》る。

 兵左衞門、

『昨日の狐なり。』

と、弥(いよいよ)、念を入《いれ》て打出す音とひとしく、ころび、死(しゝ)たる風情して、良(やゝ)ありて、起(をき)て去《さる》事、前の如し。

 是より、兵左衞門、人にも噺(はなさ)ず、心を尽しけれども、幾度(いくたひ)にても、前のごとくなる事、廿日斗《ばかり》なれば、心氣(しんき)も、つかれ、おもひ煩(わつらひ)しに、近所の鉄炮友達に弥七郞といふもの在《あり》しが、つかれたる樣子を聞《きき》、見舞に來たりて、念比(ねん《ごろ》)に尋《たづぬ》れば、兵左衞門、心を尽したる事を、委細に語る。

 弥七郞、いふやう、

「鉄炮を、はづすなるべし。我、宵より行《ゆき》て待《まつ》べし。例のごとく、明朝、來《きた》るべし。二人して、打《うた》むに、などかは、仕損(しそんず)べし。」

と約束して、立歸る。

 翌朝、兵左衞門、まだ、篠目(しのゝめ)に立出《たちいづ》れば、狐、先立行《さきだちゆく》事、前のごとくにして、矢表に直(なを)るを、兵左衞門、ねらひて打《うて》ば、又、

「ころころ」

と、ころぶ所を、弥七郞、すかさす打《うつ》に、元來(もとより)、狐は、例の通《とほり》、壱人と思ひ、油斷の折(をり)なれば、矢壷を、思ふまゝに打《うち》ぬかれながら、猶、兵左衞門を目に懸《かけ》て、喰付(くひ《つか》)んと、にじり寄(よる)を、

「はた」

と、ねめ付《つけ》、

「我を、日比、誑したる報(むくひ)を、おもひしれ。」

といふまゝに、側(そは)なる大石(おほいし)をとつて、打付《うちつく》れば、頭(かしら)、碎(くだけ)て、死《しに》けると也。

 

Kituneuti

 

 予、幼少の時分に、兵左衞門直噺(ちき《ばなし》)をきゝける趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:本篇は細部がよく描かれてあり、リアリズムを上手く出している。

「德久村」既出既注であるが、再掲すると、現在の兵庫県佐用郡佐用町西徳久(にしとくさ:グーグル・マップ・データ)。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。

「さまを明たるもの」の「さま」とは、直後の「挾間(さま)」で、鳥撃ちのための、菰莚で粗製した狩り小屋の、外を覗き見る隙間を開けたそれを指す。

「犬(いぬ)つくばひ」犬が腹這うようにちょこんといることであろう。

「矢壺」老婆心ながら、以下、「矢比」「矢表」などと言っているが、これは古くの弓道からの比喩表現であって、兵左衛門が使用しているのは、あくまで鉄砲であるので、お間違えなきように。]

西播怪談實記 大屋村次郞大夫異形の足跡を見し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]

 

 ○大屋(おほや)村次郞大夫異形(いきやう)の足跡を見し事

 揖西郡(いつさい《こほり》)大屋村に、次郞大夫とて、古き農家、在《あり》。常に鉄炮を數寄(すき)て、慰《なぐさみ》とせり。

 正德年中の霜月の事なりしに、薄雪(うすゆき)のふりける朝(あさ)、雉子(きし)を打《うち》に出《いで》けるに、ある山陰の細道に、六、七尺を、一またげにしたる足跡あり。

『怪し。』

と思ひ、指(ゆひ)にて、寸を取《とり》て見れば、竪(たて)、三尺斗《ばかり》に、橫、九寸余(よ)あり。

 三ツ指(ゆひ)にして、爪跡、土へ入《いり》たり。

『聞《きき》ふれし、「鬼」の足跡か。』

と怪(あやし)まる。

 次郞大夫は、元來、氣の丈夫なる男にて、雪の消(きへ)ぬ内に、此足跡を、つなき行《ゆき》[やぶちゃん注:「繫ぎ行き」。跡を辿って行き。]、

『歸(かへり)たる所を見屆《みとどく》ベし。』

と、したひ行《ゆけ》ば、谷深く入《いり》て、大岩(おほいは)、在り。

 其下に、洞穴(ほらあな)ありて、其所へ、入《いり》しなり。

『偖(さて)は。狸なるべし。「此岩穴に、古狸、居る。」と聞傳へたるが、化(ばけ)て、俳徊したる足跡なるべし。」

と思ひ、立歸《たちかへり》けり。

 其後(そのゝち)、又、雪の降《ふり》たる朝(あさ)、行(ゆき)て見るに、此度《このたび》は、丸盆(まるほん)の大《おほき》さにて、爪跡、前後に、六つ、あり。

 熊の足の大きなる足跡のごとくなれば、又、つなぎ行て見るに、右の岩穴へ、入けり。

「偖は。いろいろに化(ばけ)て出《いで》たるにや。」

と思ひ、

「珎(めつら)しからねば、其後(《その》のち)は、氣を付《つけ》て見ねども、定《さだめ》て、今も其足跡、あるべし。」

と、予が緣家(ゑんか)にて、右の噺を、直(ちき)に聞ける趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:「揖西郡大屋村」現在の兵庫県養父市大屋町であるが、グーグル・マップ・データでは、示し難いので、「ひなたGPS」の戦前の地図で示した。佐用村の直線で四十キロメートル北東に当たる。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。]

西播怪談實記 佐用那波屋長太郞怪風を見し事 ミステリー・サークル第二弾!

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]

 

 ○佐用那波屋(なは《や》)長太郞怪風(くはいふう)を見し事

 佐用郡佐用邑に那波屋長太郞といひしものあり。

 正德年中のある六月、晴天なる日の申の刻[やぶちゃん注:午後三時から五時頃。]斗《ばかり》に、居宅の裏の田に、空より、物の落(をち)たる音、しけり。

 其音、大門の戶びらを水面(すいめん)にまろくに打付《うちつけ》たるやう也。

 されども、物も、見えず。

 不思議に思ひ、出《いで》て見るに、四角なる田の未申(ひつじさる)[やぶちゃん注:南西。]の角(すみ)二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]四方斗、水波(みつなみ)、丸く輪立(わたち)て、眞中(まんなか)二尺四方ばかりは、水、急(きう)にめぐりて、長(たけ)壱尺斗の稻《いね》、ひたひたと、水に打《うち》ふして、輸になれり。

 かくのごとくにして、戌亥(いぬい)[やぶちゃん注:北西。]の角(すみ)へ行《ゆき》、丑寅[やぶちゃん注:東北。]の角より、辰巳[やぶちゃん注:南東。]の角へ行、終(つい)に元の角へ戾りて、止(やみ)けり。

 岸の下《した》へめぐりし時、眞上(まうへ)より能《よく》見けれども、物は、見へず。

 又、稻のたをれしも、急なる水の所さへ過《すぐ》れば、速(むしやか)に起(をき)て、少(ちと)も、いたみ、なかりしとかや。

 是は予か亡父(ほうふ)にて、若輩(ちやくてい[やぶちゃん注:ママ。])の比(ころ)、祖父より別に店(みせ)を出し、商(あきない)を仕習(しなはら)せける時の事にて、存命の内、世談(せたん)の次手《ついで》には、此噺《このはなし》も出《いで》て、聞ける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「林田村農夫火熖を見し事」に続くミステリー・サークル第二弾である。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。徳川家宣・家継の治世。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その1) / 序文・シヅカモチ・タタミタタキ・タヌキバヤシ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。

 

     妖 怪 名 彙

 

 怖畏《ふい》と信仰との關係を明らかにして見たいと思つて、所謂オバケの名前を集め始めてから、もう大分の年數になる。まだ分類の方法が立たぬのも、原因は主として語彙の不足に在ると思ふから、今少し諸君の記憶にあたつて見たい。或は時期が既に遲いかも知れぬが。

 分類には二つの計畫を私はもつて居る。その一つは出現の場所によるもの、これは行路・家屋・山中・水上の大よそ四つに分けられる。行路が最も多く、從つて又最も茫漠として居る。第二には信仰度の濃淡によるものだが、大體に今は確信するものが稀で、次第に昔話化する傾向を示して居る。化け物が有るとは信じないが話を聽けば氣味が惡いといふものがその中間に居る。常の日は否認して居て、時あつて不思議を見、やゝ考へ方が後戾りをするものがこれと境を接して居る。耳とか目とか觸感とか、又はその綜合とかにも分けられるが、それも直接實驗者には就けないのだから、結局は世間話の數多くを、大よそ二つの分類案の順序によつて排列して見るの他は無い。要するにこれは資料であり、說明といふものからは遠いのだが、出所を揭げて置けば後の人の參考にはなるだらう。どうかこれに近い話があつたら追加してもらひたい。

 

シヅカモチ 下野益子《しもつけましこ》邊でいふ(芳賀郡鄕士硏究報)。夜中にこつこつこつこつと、遠方で餅の粉をはたくやうな音が人によつて聽える。その音が段々と近づくのを搗込《つきこ》まれるといひ、遠ざかつて行くのを搗出《つきだ》されるといひ、靜《しづ》か餅《もち》を搗出されると運が衰へる。搗込まれた人は、箕《み》を後手《うしろで》に出すと財產が入るともいふ。或は又隱れ里の米搗きともいひ、この音を聽いた人は長者になるといふ話もあつた。攝陽群談、攝津打出《うちで》の里の條にもある話で、古くから各地でいふことである。

[やぶちゃん注:「下野益子」益子焼で知られる栃木県芳賀郡益子町(ましこまち:グーグル・マップ・データ。以下、本篇では無指示は同じ)。

「攝陽群談」摂西陳人岡田溪志(けいし)が伝承や古文献を参照に元禄一一(一六九八)年から編纂を開始、同一四(一七〇一)年に完成した摂津地誌。同地誌として記述が最も詳しく、和歌名所も多く収録されている。全十七巻。『大日本地誌大系』の、ここの「討出濱」と、ここの「隱里」を参照されたい。但し、そこでは、昔、長者が持っていた霊験あらたかな「打出の小槌」を伝承元としている。

「攝津打出の里」兵庫県芦屋市の東部の宮川流域で、六甲山地南麓から大阪湾へかけての段丘・沖積地に当たる地域。現在の兵庫県芦屋市打出町及びその北西の打出小槌町を中心とした南北に亙ってあった旧打出村。「ひなたGPS」の戦前図のこちらの附近に相当する。]

タタミタタキ 夜中に疊を叩くやうな音を立てる怪物。土佐ではこれを狸の所爲として居る(土佐風俗と傳說)。和歌山附近ではこれをバタバタといひ、冬の夜に限られ、續風土記には又宇治のこたまといふ話もある。廣島でも冬の夜多くは西北風の吹出しに、この聲が六丁目七曲りの邊に起ると碌々雜話に見えて居る。そこには人が觸れると瘧《おこり》になるといふ石があり、或はこの石の精がなすわざとも傳へられ、仍てこの石をバタバタ石と呼んで居た。

[やぶちゃん注:ウィキの「畳叩き」を参照されたいが、『和歌山県、山口県、広島県、高知県に伝わる怪音現象』とある。柳田の典拠による日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の当該項も見られたい。そこでは怪音の主は確かに『古狸』としてある。「ニュース和歌山」の「妖怪大図鑑 〜 其の四 畳叩き」には、『和歌山市宇治など』として、『夜中に畳を叩くような音が聞こえる現象。和歌山では宇治という町に出たので「宇治のこたま」、冬の夜明け頃にバタバタという音が東から西へ去っていくので「バタバタ」とも呼んだ。今も昔も物好きな男がいたもので、ある男が音の正体を確かめようと、音のなるほうへ行ってみると、不思議な事にその音はひとつの石から聞こえてくる。石をよく見ると、なんと中から小人が現れて、バタバタと石を叩くではないか。男が捕まえようと手を伸ばすと、小人は慌てて石の中へ戻ってしまった。しかたがないので、その石を持って帰ったところ、顔に石と同じ大きさのアザができた。男は怖くなって石をもとの場所に戻すと、またたく間にアザも消えたという』とある。]

タヌキバヤシ 狸囃子、深夜にどこでとも無く太鼓が聞えて來るもの。東京では番町の七不思議の一つに數へられ(風俗畫報四五八號)、今でもまだこれを聽いて不思議がる者がある。東京のは地神樂《ぢかぐら》の馬鹿ばやしに近く、加賀金澤のは笛が入つて居るといふが、それを何と呼んで居るかを知らない。山中では又山かぐら、天狗囃子などといひ、これに由つて御神樂嶽《みかぐらだけ》といふ山の名もある。

[やぶちゃん注:私の『柴田宵曲 妖異博物館 「狸囃子」』を参照されたい。

「地神樂」地方の神社の民間の「里神楽」(さとかぐら)、及び、江戸末期から寄席芸能として広く大衆の人気を集めた日本の総合演芸で、神楽の一種である「太神楽」(だいかぐら:主に獅子を舞わせて悪魔払いなどを祈祷する獅子舞をはじめとした「舞」と、傘回しをはじめとした「曲」(曲芸)がある)の意であろう。

「加賀金澤」日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の「タヌキバヤシ」・「マタヤマカグラ」・「テングバヤシ」の項は本記事に基づき、『深夜にどこからともなく太鼓を叩くような音が聞こえてくる。笛の音もするといわれている』とある。]

2023/03/02

西播怪談實記 山﨑の狐人を殺し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。【 】は二行割注。]

 

 ○山﨑の狐《きつね》人を殺(ころせ)し事

 宍栗(しそう)郡山﨑《やまさき》の御藏本《おくらもと》、出石《おんくらもといだいし》といふ所に在《あり》【町を六、七町、隔《へだつ》。】。

 正德年中の事なりしに、此所(この《ところ》)の米藏に、狐、子(こ)を產(うみ)けり。

 ある時、山﨑の町人、彌兵衞といふものゝ子、あそびに行《ゆき》て、彼(かの)狐の子を、壱つ、取出(とり《いだ》)し、もてあそびしに、いかゞしたりけん、死(しに)けり。

 それより、四、五日も過《すぎ》て、彌兵衞が妻、其子をつれて、夜に入《いり》て、出《いで》て歸《かへら》ねば、更(ふけ)て、町内を尋迥(たづねまは)りけれども、行方(ゆきかた)、しれず。

「いかなる事にや。」

と、一家(いつけ)は申《まをす》に及《およば》ず、隣(となり)町のもの迄、來《きたり》つどひ、翌日は、手わけをして尋(たつね)ければ、子は、出石川《いだしがは》に、沉(しつみ)に懸《かけ》て在《あり》、母は、「ひじ村」といふ所の「七里が岡」といふ峠に、葛(かつら)にて、幾重ともなく、留(とめ)もなく卷《まき》て、大きなる松の枝に、三、四間、引上(ひき《あげ》)られ、死居《しにゐ》けり。

「是、狐の仕業(しはさ)。」

と決しければ、剌史(しし)、是(これ)を聞《きき》給ひ、

「憎き狐の仕業かな。子壱つに、あたら、人間を二人迄殺(ころし)し事、きくわい千萬也。狐狩(きつねかり)をして、我(わが)領内の狐は、壱つも、助《たすけ》まじ。」

と、家中・百姓迄に、嚴密に仰出(おほせ《いだ》)され、既に、日限、定(さたまり)たる前夜に、出石の藏奉行伊呂波立右衞門(いろは《たちゑもん》)といふものゝ庭に、狐、二つ、來たりて、つくばい居たり。

 立右衞門、いひけるは、

「汝、子の代(かはり)に、人を、二人迄殺(ころせ)し事、あまりなる致方(しかた)なり。是によつて、旦那、御立腹(《ご》りつぷく)つよく、明日(あす)、狩をして、汝等を悉く殺(ころさ)んと計(はか《り》)給ふ。汝等、又、不便(ふびん)也。今宵の内に、急ぎ、何方(いつかた)へも、立退(たちのく)べし。」

と、いひければ、狐二ッ、踏段(ふみ《だん》)の下に頭(かしら)を伏(ふせ)て、後(のち)に立去《たちさり》しが、翌日、さばかり嚴重の狩に、狐壱つも得給はず、とかや。

 後に或人、申《まをし》けるは、

「夜更《よふけ》て、『狐の子のかわゆきも、人の子のかわゆきも、同じ事なり。』といひて、三、四人づれにて、通りたる音しけるが、偖《さて》は、其節《そのせつ》、たぶらかして出《いで》たるにや。」

と沙汰しけると也。

 此事、山﨑の肉緣(にくゑん)のものより聞ける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「宍栗(しそう)郡山﨑」現在の中心地は兵庫県宍粟市山崎町山崎(やまさきちょう:グーグル・マップ・データ)附近。

「六、七町」約六百五十五~七百六十四メートル。

「御藏本」村の年貢の集積や凶荒・非常時のための米蔵と思われる。

「出石」グーグル・マップでは見当たらなかったが、「ひなたGPS」の戦前の地図と現在の国土地理院図を並べたところ、前者のここに「出(イダ)石」があり、現在の地理院図にも「出石」の地名が確認出来た

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。

「狐、子を產けり」ホンドギツネ(本州・九州・四国に分布する食肉目イヌ科キツネ属アカギツネの日本固有亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica)の繁殖期は、地域によって差があるが、十二月から二月頃の冬季で、♀の妊娠期間は五十二日前後とされている。 通常は平均して一回の出産で四、五匹を出産するが、多い時は十匹前後を産むことがある。

「出石川」伊保川の出石での部分名呼称、或いは、この附近の左岸に複数見られる小流れの名であろう。

「沉(しつみ)に懸て在」殆んど沈みかかった状態で遺体が見つかったのである。

『「ひじ村」といふ所の「七里が岡」といふ峠』「ひなたGPS」のここで、現在の山崎町にもあるが、上・中・下を冠する「比地」(ひじ)の地名(旧地図では「城下(ジヤウシタ)」村である)が確認でき、幾つかの山越えルートがあるので、この辺りの峠の名と推定される。

「留(とめ)もなく卷て」どこかを松の枝のどこかに巻き縛ったり、結び目を作ったりせずに、完全にぐるぐる巻きにぎゅっと巻きつけてあることを言うのであろう。普通、人がやれば、緩みが生じないように、途中で結んでコマを作るであろう。異様な力で一気に一本の葛の蔓でもってぎっちりと隙間なく松に縛りつけている辺りが、人間技(わざ)ではないわけである。

「三、四間」五・四五~七・二七メートル。

「剌史(しし)」国司の唐名。ここでは当地を当時支配していた本多家山崎藩一万石の当主を指す。当時は初代藩主本多忠英(ほんだただひで)であった。山崎町は同藩の城下町(後に陣屋町)として繁栄していた。]

西播怪談實記 林田村農夫火熖を見し事 ミステリー・サークルの江戸版?

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。【 】は二行割注。目録(ここから)の読みは総て採用した。挿絵は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ○林田村農夫火熖(くはゑん)を見し事

 享保年中の六月の事なりしに、揖東郡《いつとうのこほり》林田村の農夫、夜(よ)、水を曳《ひき》に行(ゆき)しに、道の側(そば)にて、火(ひ)、熱(もゆる)。

 兩人(りやう《にん》)、私語(さゝやき)、そろそろ、近寄(ちかより)て見れば、細(こまか)なる虫(むし)、草の中より、

「むらむら」

と出《いで》て、立上(たちあかり)、又、下《くだる》事、俗にいふ、「あまこ」に似(に《た》)り。

 又、少(すこし)、隔(へた)て見れば、いかにも、火、也。

 能(よく)其所を見置(をい)て、翌朝、行《ゆき》て見るに、草むら、少、輪立(わ《だち》てあり。

 尤(もとも)、草も、輸立の内は、勢(ゆき《ほひ》[やぶちゃん注:「ゆき」はママ。])、おとれり。

 されば、墓(はか)ならでは、火熖、なきやうに、世の人、思へり。

 右の所、「墓、あり。」といひ傳へもなく、何の子細も聞(きかす[やぶちゃん注:ダブりはママ。])ず。

 自然(しぜん)と、かゝる所も有《ある》にや。

「見る人、怪(あやしむ)べからず。」

と、林田の人の物語の趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:ミステリー・サークルの江戸版か!?!

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「揖東郡林田村」姫路市林田町(はやしだちょう:グーグル・マップ・データ)。

「農夫」後に「兩人」と出るから、二人(或いはそれ以上)である。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 「美しい船」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  美しい船 ボードレール

 

わたしはおまへに話したい おお よわよわしい たをやめよ

おまへの若さをかざる さまざまの美しさを、

わたしはおまへをゑがいてみたい

おとなびてゆく をさな姿の美しさを。

 

おまへが ひろいもすそで 風をはらひながらゆくときは

沖へでてゆく 美しい船ともみえる、

亞麻布(リンネル)をつみ ただよひながら

こころよい またものうい しづかな調(しらべ)につれて うねりゆく。

 

おまへの おほきいまるい頸(くび)のうへに ふつくりとした肩のうへに

おまへのあたまは ふしぎな媚をみせびらかす、

おだやかで また かちほこつたやうな風(ふり)をして

おまへは みちをゆきすぎる いかめしい子供よ。

 

わたしはおまへに話したい おお よわよわしい たをやめよ

おまへの若さをかざる さまざまの美しさを、

わたしはおまへをゑがいてみたい

おとなびてゆく をさな姿の美しさを。

 

つきだして 波模樣の絹をはりひろげる おまへの胸は

揚揚(やうやう)としたおまへの胸は うつくしい衣裳戶棚、

楯のやうにあざやかな そのふくらんだ鏡板(かがみいた)は

かがやくひらめきを とめてゐる。

 

ばらいろの星でよろうた そそのかすやうな楯よ!

葡萄酒と 香料と 芳香(リクウル)と

美しいものにみちみち 心やあたまを狂はせる

あまい 祕密の衣裳戶棚よ!

 

おまへが ひろいもすそで 風をはらいながらゆくときは

沖へでてゆく 美しい船ともみえる、

亞麻布(リンネル)をつみ ただよひながら

こころよい またものうい しづかな調(しらべ)につれて うねりゆく。

 

おひのける もすそのしたにみやびたおまへのふたつの脛(はぎ)は

ふかい甕(かめ)のなかで くろい媚藥(ほれぐすり)を煉つてゐる

ふたりの魔術師のやうにも

えもわかぬ望みをくるしめ そそりたてる。

 

早熟な怪力者(エルキユウル)をなぶるやうなおまへの腕は

かがやく蛇の たくましい好敵手、

また おまへの胸におしつけるやうに 戀人を

しふねくも だきしめるのにふさはしい。

 

おまへの おほきいまるい頸(くび)のうへに ふつくりとした肩のうへに

おまへのあたまは ふしぎな媚をみせびらかす

おだやかで また かちほこつたやうな風(ふり)をして

おまへは みちをゆきすぎる いかめしい子供よ。

 

[やぶちゃん注:見るからに判る「ジャンヌ・デュバル詩篇」の一つ。実は第五連と第六連は改ページとなっていて、物理的には行空けがない。しかし、第五連の最終行の句点と、全体のバランスから考えても、何より、後に掲げる原詩からも、ここは行空けが相当である。改ページであることから、編者逸見氏が気にしなかったものとも思われるので、特異的に一行空けて分離した。それ以外に、ちょっと不審がある。それは、第五連の「芳香(リクウル)」で、これは原詩を見るまでもなく、「リクウル」から「芳香酒」とあるべきところであろう。原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)でも、そうなっている(恐らくは同氏の「大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)の一八八~一八九ページに拓次の訳出したボードレールの『悪の華』からの詩篇リストにある『同題遺稿あり』とあるものに基づくものかと思う)。原詩をフランス語サイトのこちらのものを使用した。

   *

 

   Le beau navire   Charles Baudelaire

 

Je veux te raconter, ô molle enchanteresse !

Les diverses beautés qui parent ta jeunesse ;

Je veux te peindre ta beauté,

Où l'enfance s'allie à la maturité.

 

Quand tu vas balayant l'air de ta jupe large,

Tu fais l'effet d'un beau vaisseau qui prend le large,

Chargé de toile, et va roulant

Suivant un rythme doux, et paresseux, et lent.

 

Sur ton cou large et rond, sur tes épaules grasses,

Ta tête se pavane avec d'étranges grâces ;

D'un air placide et triomphant

Tu passes ton chemin, majestueuse enfant.

 

Je veux te raconter, ô molle enchanteresse !

Les diverses beautés qui parent ta jeunesse ;

Je veux te peindre ta beauté,

Où l'enfance s'allie à la maturité.

 

Ta gorge qui s'avance et qui pousse la moire,

Ta gorge triomphante est une belle armoire

Dont les panneaux bombés et clairs

Comme les boucliers accrochent des éclairs,

 

Boucliers provoquants, armés de pointes roses !

Armoire à doux secrets, pleine de bonnes choses,

De vins, de parfums, de liqueurs

Qui feraient délirer les cerveaux et les coeurs !

 

Quand tu vas balayant l'air de ta jupe large,

Tu fais l'effet d'un beau vaisseau qui prend le large,

Chargé de toile, et va roulant

Suivant un rythme doux, et paresseux, et lent.

 

Tes nobles jambes, sous les volants qu'elles chassent,

Tourmentent les désirs obscurs et les agacent,

Comme deux sorcières qui font

Tourner un philtre noir dans un vase profond.

 

Tes bras, qui se joueraient des précoces hercules,

Sont des boas luisants les solides émules,

Faits pour serrer obstinément,

Comme pour l'imprimer dans ton coeur, ton amant.

 

Sur ton cou large et rond, sur tes épaules grasses,

Ta tête se pavane avec d'étranges grâces ;

D'un air placide et triomphant

Tu passes ton chemin, majestueuse enfant.

 

   *

「怪力者(エルキユウル)」原詩の「hercules」は音写は「エルキュレェ」で、ギリシャ神話のヘラクレスに基づく怪力無双の人を指す。ここは「précoces hercules」で「自信に満ち満ちた腕自慢の若者」の意。

 原子朗編「大手拓次詩集」の異稿を以上の正字版を用いて手を加えて以下に示す。

   *

 

  美しい船 ボードレール

 

わたしはおまへに話したい おお よわよわしい たをやめよ

おまへの若さをかざる さまざまの美しさを、

わたしはおまへをゑがいてみたい

おとなびてゆく をさな姿の美しさを。

 

おまへが ひろいもすそで 風をはらひながらゆくときは

沖へでてゆく 美しい船ともみえる、

亞麻布(リンネル)をつみ ただよひながら

こころよい またものうい しづかな調(しらべ)につれて うねりゆく。

 

おまへの おほきいまるい頸(くび)のうへに ふつくりとした肩のうへに

おまへのあたまは ふしぎな媚(こび)をみせびらかす、

おだやかで また かちほこつたやうな風(ふり)をして

おまへは みちをゆきすぎる いかめしい子供よ。

 

わたしはおまへに話したい おお よわよわしい たをやめよ

おまへの若さをかざる さまざまの美しさを、

わたしはおまへをゑがいてみたい

おとなびてゆく をさな姿の美しさを。

 

つきだして 波模樣の絹をはりひろげる おまへの胸は

揚揚(やうやう)としたおまへの胸は うつくしい衣裳戶棚、

楯のやうにあざやかな そのふくらんだ鏡板(かがみいた)は

かがやくひらめきを とめてゐる。

 

ばらいろの星でよろうた そそのかすやうな楯よ!

葡萄酒と 香料と 芳香酒(リクウル)と

美しいものにみちみち 心やあたまを狂はせる

あまい 祕密の衣裳戶棚よ!

 

おまへが ひろいもすそで 風をはらいながらゆくときは

沖へでてゆく 美しい船ともみえる、

亞麻布(リンネル)をつみ ただよひながら

こころよい またものうい しづかな調(しらべ)につれて うねりゆく。

 

おひのける もすそのしたに みやびたおまへのふたつの脛(はぎ)は

ふかい甕(かめ)のなかで くろい媚藥(ほれぐすり)を煉(ね)つてゐる

ふたりの魔術師のやうにも

えもわかぬ望みをくるしめ そそりたてる。

 

早熟な怪力者(エルキユウル)をなぶるやうなおまへの腕は

かがやく蛇の たくましい好敵手、

また おまへの胸におしつけるやうに 戀人を

しふねくも だきしめるのにふさはしい。

 

おまへの おほきいまるい頸(くび)のうへに ふつくりとした肩のうへに

おまへのあたまは ふしぎな媚をみせびらかす、

おだやかで また かちほこつたやうな風(ふり)をして

おまへは みちをゆきすぎる いかめしい子供よ。

 

   *

前に示した「芳香(リクウル)」が「芳香酒(リクウル)」となっており、さらに第八連の一行目「おひのける もすそのしたに みやびたおまへのふたつの脛(はぎ)は」と二つ目の字空けがあること、最終連二行目「おまへのあたまは ふしぎな媚をみせびらかす、」の末に、かく読点が打たれている点が違う。しかし、これは異稿というより、「詩集」版の組の杜撰さが疑われるようにも思われる。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 天狗の話

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、明治四二(一九〇九)年三月発行の『珍世界』三号の初出である。

 「天狗」については、私のブログ記事では枚挙に遑がない。本格的怪奇談の中でも個人的に好きな話は有意に複数あり、特に幾つかを選ぶというのも出来難い。天狗譚を包括的にタイプに分けて詳述したものとしては、やはり柴田宵曲「妖異博物館」がよいと思われる。「秋葉山三尺坊」「天狗と杣」「天狗の姿」「天狗になつた人」「天狗(慢心)」、そして全三回分割(ブログ・カテゴリ「柴田宵曲」)の「天狗の誘拐」、続く「天狗の夜宴」「天狗の爪」が必要にして十分であろう。あちこちに色目を使ったウィキの「天狗」記載なんぞより、遙かに豊富であり、読んで面白い。江戸怪談よりも前の古典籍では、まず、『「今昔物語集」卷第十「聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四」』と、「今昔」の中では隠微淫猥度満点の『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』がお勧めで(私の注・現代語訳附き)、それを論考した『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(4) / 卷第十 聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四』も公開済みである。

 なお、本論考の常体と敬体が混じっているのはママである。]

 

     天 狗 の 話

 

 

          

 

 私が天狗を硏究して居るといふのは無論虛名である。只昔の人の生活を知るために、いろいろの方面から考へて居る間に、自然少しくそんな點にも心ついたのである。從つて天狗に關し何等の結論をも持つて居らぬ。今の人は何でも普通の論理で物を討究しようとするが、おばけにロジックは無いから、不理窟でも現れる。それを嬉しがる私が分らぬのか、當世人が話せないのか、何だか知らぬが、こんな話もあるといふことで聽いて貰ひませう。

 我國には一時非常に奇怪な物語を喜び、利口な人が集つては所謂空虛を談ずるといふ、一種デカダン氣風の盛んな時代が有つた。この時代を我々は假に今昔時代といふ。天狗傳說に羽が生えて天下を飛び𢌞つたのはこの時代のことである。今昔時代には只の鬼と天狗とは別種の魔物と考へられて居つて、各々偉大なる勢力を振つて居つた。その後鬼黨は次第に零落して、平凡なる幽靈亡靈の階級まで退却して了つたが、これに反して天狗國は久しく隆々として、田舍及山間を支配して居つた。天狗の社が出來たのは却つてこの次の時代である。今日と雖も決してその領域は縮んでは居らぬ。

 但し天狗道にも時代があれば從つて時代の變遷がある。中世の歷史を見ても、南都北嶺の僧侶たちが大多數京師人の子弟である世には、その行ひや殊勝であつたが、一旦武家が勢力を加へてその子弟を坊主にすれば、法師でも强くてあばれる。德川時代に百姓の子が僧になれば又おとなしくなる。正法《しやうほふ》の對象である所の魔道でも、これと同じ道理で、武家時代の天狗にも亦、武士的氣風がある。元來天狗といふものは神の中の武人であります。中世以來の天狗は殆と武士道の精髓を發揮して居る。少なくも武士道中の要目は天狗道に於て悉く現れて居る、殊にその極端を具體して見せて居る。卽ち第一には淸淨を愛する風である、第二には執着の强いことである、第三には復讎を好む風である、第四には任俠の氣質である。儒敎で染返《そめかへ》さぬ武士道はつまりこれである。これ等の道德が中庸に止れば武士道で、極端に走れば卽ち天狗道である。殊に高慢剛腹《がうふく》の風といふものは、今日でも「あの人は天狗だ」などと、諺になつて都會にも行はれて居る。少なくも近代魔道の一大徵侯としてある、王朝時代の天狗に比べると大分變られた點がある。明治の新時代の天狗はこの上更に如何なるアットリビュートを添へられることか、長命をして知りたいものである。この事實は一方から論ずれば又國民性の煥發とでもいふか頗る面白いことである。西洋でも北部歐羅巴に今なほ活動して居るフェアリーの如き、その發祥地である所のケルト民族の特性をよく代表して居る。フェアリーの快活で惡戲好でしかも又人懷《ひとなつ》こいやうな氣風は慥にセルチックである。フェアリーは世界のおばけ中《ちゆう》正《まさ》に一異色である。これに比べると天狗はやゝ幽鬱である。前者が海洋的であればこれは山地的である。日本は内外人の想像して居るよりも一層の山國である。山高きが故に貴からず、高くは無いが深山は甚だ多いのである。我々の祖先は米が食ひたさに爭つて平地に下つた。平地と山地とは今日なほ相併行して入交《いりまじ》らざる二つの生活をして居る、從つて平野居住者が丸々天狗傳說を忘却しても、他の一半の日本に於る魔道の威力は必ずしも衰微したものとはいはれぬのである。

[やぶちゃん注:「アットリビュート」attribute。アトリビュート。対象に元来備わっている(とされる)属性。

「セルチック」Celtic。セルティック。「ケルト人の」「ケルト語の」を意味する形容詞。]

 

          

 

 併しながらこれがため我々平地人にとつて、所謂天狗道の愈了解しにくゝなつたことは亦事實である。語を換へていはゞ百年の昔に比べて不可測の範圍は却つて昔より大いに擴張した。一時神道の學者は好い磯會があつてその一端を窺ふことが出來たものだから、悅び勇んでその說明を試みたけれども、その效果は決して大なりとはいはれぬ。斯道が學者の取扱に適せぬ理由はいくらも有るが、第一に書いた物が少ない。多くの材料は空吹く風の如く消え易い口から口への話である。又幽冥に往來したといふ人の物語、これが史料としての價値はあまり高くない。神童寅吉卽ち高山平馬の話、又は紀州の或學者の筆記した少年の談話の類は五つも七つもあるけれども、その間に何等共通の點が無く、一つの世界の話とは如何にも受取られぬ。成ほど虛誕では無からう、本人は正にかく信じたのであらう、併しこれを以て單純なる靑年の一妄想で無いとする根據に乏しい。何となればその記事は一つも學問のない若者の世間的智識乃至は想像の區域を脫して居らぬ。神道の學者は神道に片よつた幽冥談を悉く信ぜんとするけれども、佛道の方にも靈現記類の書物に佛道に片よつた幽冥談のよくこれに似たものがある。續鑛石集《ぞくくわうかくしふ》の下卷に出て居る阿波國不朽物語などはその一例であつて、形式は全然これに似て居る。立山の地獄、恐山の地獄の話の如きも筆者は人を欺くとも思はれぬから、少くもこれを見たといふ人が有つたのであらう。これ等の話が多く出て來れば來るほどこれを信ずることは困難になる。それよりも今日幽冥に交通して居る極めて少數の人々が、微々として笑つて何もいはないのはいくらゆかしいか知れない。併しそれでは我々の硏究のためには全然無方便である。

[やぶちゃん注:「神童寅吉卽ち高山平馬」平田篤胤の代表的神道書の一つとして知られる「仙境異聞」(全二巻・文政五(一八二二)年刊)。七歳の時、寛永寺の境内で出逢った神仙杉山僧正に誘われて天狗(幽冥)界を訪れ、彼らから呪術を身につけたという少年寅吉(下谷池の端で夜駕籠渡世をする庄吉の弟。後にそちらで高山白石平馬の名を授かる)からの聞書きをまとめたものである。別名「仙童寅吉物語」とも言う。私は若い時から、複数の版本で読んできたが、妄想作話型ではなく、意識的詐欺がパラノイアに高じたものとして、現在は全く評価しない。篤胤は彼を最初に保護していた雑学者山崎美成(よししげ)から強引に引き連れ、数年住まわせて聴き取りを行っている。ファナティクな篤胤は仕方がないにしても、馬琴を怒らせて絶交されてしまう若造ブイブイ高慢の美成がマンマと騙されているのは、痛快ではある。柳田の言うように、寅吉の語る一見整然とした異界の体系は閉鎖系自己完結型であり、検証のしようが一ヶ所もない点で(疑問や不審を問うと寅吉は決まって不機嫌になり、黙ってしまうのであった)、お話にならないのである。

「紀州の或學者の筆記した少年の談話」不詳。この手の話は上記の通りで、私は全く調べる気にならない。或いは南方熊楠の論考にあるのかも知れない。見つけたら、追記する。

「續鑛石集の下卷に出て居る阿波國不朽物語」怪奇談集。享保一二(一七二七)年刊。国文学研究資料館の「国書データベース」のこちらの原本当該部「六二八阿波國不朽物語ノ事」114コマ目から)を視認出来る。]

 誤解をせられてはこまるのは、假令些も硏究の好材料が得られないからといつて、不思議の威力には寸毫も增減する所は無いのである。幽界の消息と稱するものが假に不實であつたとすれば、幽界の勢力の强烈なることは却つて愈々深く感ぜられるのである。この世に不思議が絕えたらとか、近くは寶永年中より六十年に一度づゝ必ず現れる伊勢の御蔭參りはどうであるか、如何な樂天的學者でも單純なる社會心理の現象として說明し得られるか、御蔭參りの年には諸國に無數の御禮が降る、本物の御禮が空から降る、維新の際にも澤山降つた、大神宮の御祓も降れば關東には阿夫利山の御禮も降つた、これ等は學者の說明し得なかつた事實であつて、しかも亦嚴然たる事實である。偶然私と貴方とがこれを見なかつたからといつて、一言の下に否定し得るやうな簡單な問題ではありません。

[やぶちゃん注:「寶永年中より六十年に一度づゝ必ず現れる伊勢の御蔭參り」私のブログ・カテゴリ「兎園小説」(先年末全電子化注完遂)の『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」』以下で数回に亙って詳しく記され、私もかなりリキを入れて注を附してあるので見られたい。集団ヒステリーである爆発的「御蔭參り」の本格的発生は確かに宝永二(一七〇五)年とされるが、この時はまだ「御蔭參り」の呼称はなく、「拔け參り」と呼ばれていた。]

 

          

 

 これはほんの一例、その他無數の魔界の現象があるが、これには到底門外漢は手を着けられぬのであらうか、今の處では先づ然りと答へるの外はあるまい。唯こゝに少しばかり、私の獨り心づいて居ることがある。昔から殊に近代に於て山中の住民が堅く天狗現象なりと信じて居るものゝ中で、どうもさうで無からうと思ふことがあります。山民は幽界を畏怖するの餘に、凡ての突然現象、異常現象を皆天狗樣に歸して了ふ。併しその一部分は魔王の與《あづか》り知らぬものがある。この濡衣を乾せば魔道の威光は却つて慥に一段を添へるであらうから一寸その話をして見たい。それは外でも無いが日本の諸州の山中には明治の今日と雖も、まだ我々日本人と全然緣の無い一種の人類が住んで居ることである。これは空想では無い、當世のロジックでも說明の出來ることである。順序を立てゝいふが、第一我國は小さな人口稠密な國でありながら、所謂人跡未到の地がまだ中々多い。國と國、縣と縣との境は大半深山である。平安の舊都に接しても、近江丹波若狹に境した山はこれである。吉野の奧伊勢紀州の境も深山である、中國四國九州は比較的よく開けて居るといふが、伯耆の大山《だいせん》、出雲の三甁山《さんべさん》の周圍は村里が甚だ少い。四國の阿波土佐の境山、九州の市房山地方も山が深い。京より東は勿論の事で、美濃飛驒から白山立山へかけての山地、次にはいやな名だが所謂日本アルプスの連山、赤石白根の山系、それから信越より南會津へかけての山々の如き、今日都會の旅人の敢て入込《はいりこ》まぬは勿論、獵師樵夫も容易に往來せぬ區域が隨分と廣いのである。これ等の深山には神武東征の以前から住んで居た蠻民が、我々のために排斥せられ窮迫せられて漸くのことで遁げ籠り、新來の文明民に對しいふべからざる畏怖と憎惡とを抱いて一切の交通を斷つて居る者が大分居るらしいのである。

 中學校の歷史では日本の先住民は殘らず北の方へ立退いたやうに書いてあるが、根據の無いことである。佐伯と土蜘と國巢と蝦夷と同じか別かは別問題として、これ等の先住民の子孫は戀々として中々この島を見捨てはせぬ。奧羽六縣は少なくも賴朝の時代までは立派な生蠻地《せいばんち》であつた。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。又この方面の隘勇線《あいゆうせん》より以内にも後世まで生蠻が居つた。大和の吉野山の國巢《くず》といふ人種は蝦蟆《がま》を御馳走とする人民であるが、四方の平地と海岸が凡て文明化した後まで、我々の隣人として往來して居つた。新年に都へ來て舞を舞ひ歌を歌つたのはその中の一部であるか全部であるかは分らぬが、別に他國へ立退いたとも聞かぬ。播磨風土記を見ると、今の播但鐵道の線路近くに數部落の異人種が奈良朝時代の後まで住んで居た。蝦夷が遠く今の靑森縣まで遁げた時代に丹波の大江山にも伊勢の鈴鹿山にも鬼が居て、その鬼は時々京迄も人を取りに來たらしい。九州は殊に異人種の跋扈した地方であつて、奈良朝の世まで肥前の基肄《きい》、肥後の菊地、豐後の大野等の深山に近き郡には城があつた。皆所謂隘勇線であつたのである。故に平家の殘黨などが敗軍して深山に遁げて入ると如何なる山中にも既に住民が居つて、その一部分は娘を貰つたりして歡迎せられたが、他の一部分は或は食べられたかもしれぬ。

[やぶちゃん注:「生蕃」生蕃(中央の教化に服さない周辺の異民族)の来襲に備えるために設けられていた隘勇の歩哨線。長距離に亙り、各地に隘勇(要害を防衛するための警備兵や郷に賦役された人員)を配置した。

「吉野山の國巢」ウィキの「国栖」によれば、『国栖(くず、くにす)とは大和国吉野郡、常陸国茨城郡に居住したといわれる住民である。国巣、国樔とも書く』。「古事記」の『神武天皇の段には、国神イワオシワクノコを「吉野国巣之祖」とする。また』、「日本書紀」の『応神天皇』十九『年の条によれば、応神天皇が吉野宮へ行幸したときに国樔人が来朝し、醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝える。同条では』、『人となり淳朴で山の菓』(このみ)『やカエルを食べたという。交通不便のため』、『古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後』、『国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し』、『風俗歌を奉仕したようで』、「延喜式」では『宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている』。「常陸国風土記」には、『同国の国巣は「つちくも」「やつかはぎ」とも称したとあ』り、『―、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)』と記されてある、とある。

「肥前の基肄」肥前国(現在の佐賀県)にあった旧基肄郡。旧郡域は当該ウィキの本文と地図を参照されたい。]

 さてこれ等の山中の蠻民が何れの島からも舟に乘つて悉く他境に立退いたといふことは、とても出來ない想像であつて、なる程その大部分は死に絕え、乃至は平地に降つて我々の文明に同化したでもあらうが、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をして深山の底に踏留《ふみとどま》り野獸に近い生活を續けて、今日迄も生存して來たであらうと想像するのは、强ち不自然なる空想でも無からう。それも田畑を耕し住家を建てればこそ痕跡も殘るであらうが、山中を漂泊して採取を以て生を營んで居る以上は、人に知られずに永い年月を經るのも不思議でなく、況や人の近づかぬ山中は廣いのである。

 併し永い年月の間には屢我々の祖先にも見られた。常陸風土記にある海岸地方の巨人の跡の話、これは珍しくも無いが唯巨人とあるが注意すべきである。この蠻民を諸國で皆大人《おほひと》といつて居る。出雲松江の大人塚は雲陽志に見えて居る。秋田地方は今でも大人といふとは小田内《おだうち》君の話である。飛驒の山中に大人が住んで居つて獵師がこれと交易をしたといふことを徂徠先生が書いて居る。怖いから大きく見えたのか、その足跡は甚だ大きいといふ記事が作陽志にも有る。併し大人といふよりも分りのよいためか、今日は山男山女といふ方が通用する。又山童《やまわろ》ともいふ。冬は山童夏は川童といふ說は誤《あやまり》であらう。

[やぶちゃん注:「常陸風土記にある海岸地方の巨人の跡の話」「大櫛之岡」。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のこちらで当該部が視認出来る(漢文訓点附き)。茨城県水戸市大串町にその伝説に基づく「だいだらぼう像」(グーグル・マップ・データ)が建つ。ここは「大串貝塚」で、石器時代遺跡の記録された日本最古の例である。

「出雲松江の大人塚」「雲陽志」は「雲陽誌」が正しい。享保二(一七一七)年に松江藩主が命じて作らせた黒沢長顕と斎藤豊仙による出雲地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本で「卷之一」冒頭の「島根郡」の「松江府城」の条に出るが(下段の頭書「大人塚」の部分)、この大人塚は松江城内にあって、『古化現の人なりといひ傳る塚ありしを引ならし地形あれけれはいろいろ怪異多成就も滯りけるにより』(中略)『大人塚をは同郡一成村に移て今宮と號し祭ぬ』とあった(転地した場所は探したが、判らなかった)。

「小田内」小田内通敏(明治八(一八七五)年~昭和二九(一九五四)年)は地理学者・民俗学者。秋田県出身。高等師範卒。旧姓は田所。早大などで教える傍ら、大正一五(一九二六)年に『人文地理』を発刊した。昭和五(一九三〇)年には文部省嘱託となり、尾高豊作らと『郷土教育連盟』を創立、郷土地理研究と郷土教育運動に尽した。戦後は国立(くにたち)音大教授。著作に「郷土地理研究」「日本郷土学」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「飛驒の山中に大人が住んで居つて獵師がこれと交易をしたといふことを徂徠先生が書いて居る」荻生徂徠の「飛驒山」が出所であろう。国立国会図書館デジタルコレクションの桑谷正道著「飛驒の系譜」(昭和四六(一九七一)年日本放送出版協会刊のこちらの「飛驒のタクミ」の条の一節を参照されたい。「飛驒山」の引用がある。但し、「交易をした」とは、少なくとも、そこには書かれていない。]

 山童に行逢つたといふ話は慥なものだけでも數十件ある。一つ一つの話はこゝには略しますが、凡て皆彼等は一言をも話さぬといつて居る。共通の言語が無い以上は當然である。食物は何であるか知らぬが、やはり吉野の國巢のやうに山菜や魚や菌《きのこ》であらう。米の飯を非常に嬉ぶともあり餅を慾しがつたともあり鹽は好まぬともある。衣服は何も無いこともある。日向の飫肥(をび)の山中で獵師の罠に罹つて死んで居つた山女は髮長く色白く裸體であつたとある。奧州は寒いから上閉伊《あみへい》の山中で逢つた女は普通の縞を着て居つたが、ぼろぼろになつた處を木の葉で綴つて居つた。多くは徒足(すあし)だらうと思ふけれども同じ山中に寢て居つた大人は山笹でこしらへた大きな履物を脫いで居た。

[やぶちゃん注:「日向の飫肥(をび)の山中で獵師の罠に罹つて死んで居つた山女」は「山男の家庭」で既出既注。]

 なほ大人の人である證據はいくらでもある。屢山の中で死んで居るのを見た者がある。寢て鼾《いびき》をかいて居た山男もある、杣や木樵は近世になつては食物を與へて山男を使役するといふ話がある。先に食物を遣れば仕事を捨てゝ逃げて行く、人の先に立つて行くを好まぬ。その無智であることは餅とまちがへて白石の燒いたのを嚙んで死んだ話がある。

 これ等の話を綜合すれば、極めて少數ながら到る處の山中に山男は居る。分布も廣い上に往來も海上の外は自由なのであらう。多くの日本人はこれをしも「おばけ」の列に加へて眞價以上に恐れて居るのである。そこで自分の考では今日でも片田舍でよく聞く神隱しといふことは、少なくも一部分はこの先生の仕事にして天狗樣の冤罪である。彼等も人なり、生殖の願《ねがひ》は强い内部の壓迫であらう。山中の孤獨生涯に堪へ兼ねて、黃昏に人里へ來り美しい少年少女を提げて歸るのは、全く炭燒が酒買ひに來るのと同じである、恐ろしいといふのは此方《こちら》のことで、異人種は別に氣の毒だがとも思ふまい。夕方になると田舍では子供の外に出て居るのをひどく氣遣ふ。地方によつては女はおとなでも夕方は外に居らぬ。山坂を走ることの我々よりも達者なことは思像し得られるが、一度捕はれた男女の還つて來る者の少ないのは、如何なる威力であらうか。或は久しからずして皆死ぬからであらうか。

 尤も二年三年の内には隱された者が必ず一度は姿を見せると信じて居る所もある。一昨々年盛岡では近年の神隱しをいくつとなく聞いた。岩鷺山《がんじゆさん》は高くは無いが物深い山である。かの麓にはこの現實の畏怖が止む時も無い。雫石の百姓の娘が嫁に行くとて炬火をつける間に飾馬《かざりうま》の鞍の上から捕へられた。二年の後夜遲く隣村の酒屋へ酒を買ひに來たのがその女であつた。すぐに跡から出て見た者があつたが影が無かつた。

 私は珍世界の讀者の助力でなほこの種類の話を蒐集したいと思ふ。舊民族の消息が明白になることは、誠に趣味ある問題といはねばならぬ。

[やぶちゃん注:「岩鷲山」岩手山(グーグル・マップ・データ)の別称。しかし、標高二千三十八メートルで、岩手県の最高峰であり、県のシンボルの一つである山を、「高くは無い」と言うかねぇ?]

2023/03/01

原節子さんの夢 附 寺山修司歓談夢

昨日から今朝にかけて私の愛する原節子さんと映画で共演する夢を、まず、見た。

古い国鉄の電車の中で撮影が始まった。戦時中の空襲の直前のシーンだった。私は学生役であった。彼女は二十代後半と思われ、やはり美しく、そうして相手役の私に、終始、優しかった。

それが終わると、私は高校教師になっている。初任校の最上階の自分のクラスの「八組」で現代国語を教えていると、廊下のドアに影がさした。原節子さんであった。教室に入ると、

「病気に罹っているので、お暇に参りました。」

と私に言った。生徒たちは、その美しさに惹かれ、皆、教卓の前に集まって、彼女を質問攻めする。

私は彼女と二人になりたかったのだが、生徒がそうさせては呉れない。彼女は微笑みながら、眼に涙を浮かべ、階段を降りて行った――

私は「先生とあの人はどんな関係なの?」と詰め寄る生徒たちを振り切って玄関口へと走ったが、彼女の姿はなく、見知らぬ老爺が校門のところで私を待っていた。そうして、

「彼女は天に召されたよ……」

と言ってその姿も――ふっと――消えてしまった…………。

   *

ここのところ、毎日夢を見ないことはないのだが、ほぼ一と月に一度、同じスパンで、超弩級の人物との夢を朝まで見る。

一月前は、寺山修司と酒を飲みながら、延々一夜、語り合い続ける夢だった。

私は批判的にではなく、彼の俳句や短歌や芝居が、何の剽窃かを指摘するのだが、彼は、それらを悉く、肯定するのだった。朝起きた時に、『あれとこれも言っておくべきだったな』と思ったが、ひどく清々しく感じたのを忘れない。

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 片足神

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここ。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正五(一九一六)年十二月発行の『鄕土硏究』初出である。]

 

     片 足 神

 

 土佐山中に住む怪物で山ヂイとも山鬼ともいふもの一本足であるといふ俗信[やぶちゃん注:前の「一眼一足の怪」を指す。]と思ひ合さるゝは、南路志の同國安藝郡室戶村大字船戶の條に、「片足神、社は巖窟也、此神片足なりとて半金剛(はんこんがう)の片足を寄進すること古來の風なり」とあることである。土佐では岩穴の中に神を祀る例同書に多く見えて居り、必ずしも山の神とは定まつて居らぬ。草履の類を捧げ物にする神は諸國に幾らもあり、その一二は常に片足のみ供へて居るが、未だ神一足といふ說明は聞かぬ。秩父の橫瀨川入《かはいり》の孤屋(ひとつや)で自分が目擊した正月に竈神に上げるといふ馬の沓《くつ》なども、大きいのを只片方だけであつた。書物の名は忘れたが江戶の人の紀行に、甲州の郡内某村に於て一足鬼形《きぎやう》の石體を祭る社ありといひ、虁(き)といふ神かと記してあつた(徂徠であつたかも知れぬ)。山中先生の「甲斐の落葉《おちば》」に依れば、その地では今は既にそれを虁といふ神にして了つて居るさうである。しかも實物を見ると只の狛犬の片足毀(と)れたのであるとて圖迄出して笑つて居られた。併しこれを耳に疎い支那の神にしたのは法外としても、或は土佐の例の如く片足として尊崇する信仰がこの邊《あたり》の民間に有つたのかも知れぬ。今一段問たゞしてみねばならぬ事である。

[やぶちゃん注:「南路志」前回で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(一九五九年高知県文教協会刊)のここの右上段の「岩戸大明神【岩戸】」の最後に、『社記云社巌窟【但此神ハ片足之由昔より半こんがらう片足寄進仕也】』とあった。……柳田先生、私は一発で不審に思ったのですが、「金剛」じゃありんせんぜ? それこそ、これ、先生のお好きな大人の名「五郞」で、「金五郎」から判り易い仏教系の「金剛」(青面金剛或いは金剛童子)像辺りに転じたんじゃ、ありんせんかねえ?

「秩父の橫瀨川入」という地名は見当たらない(「ひなたGPS」の戦前の地図でもないが、横瀬川の「山入」するところなら、ここの「根古谷」辺りが臭う。上流に「川地」があるし)。

「馬の沓」この場合は蹄鉄ではなく、馬の蹄(ひづめ)が割れたり、磨り減ったりして傷つくのを防ぐために、蹄の裏に附ける藁製の履き物。「馬の草鞋(わらぢ)」を指す。

『山中先生の「甲斐の落葉」』「山中」は牧師で民俗学者・考古学者山中笑(えむ 嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年)。ペンネームは山中共古。「南方熊楠 南方隨筆  画像解説・編者序(中村太郞)・本邦に於ける動物崇拜(1:猿)」の私の「山中笑」の注を参照されたい。明治一九(一八八六)年、彼は甲府教会や結城無二三の開いた日下部教会を拠点に山梨県の各地で伝道活動を行う一方、そこで接した庶民の生活史を見聞し、その成果を『東京人類學會雜誌』へ発表、それらを後に「甲斐の落葉」として郷土研究社 かから大正一五(一九二六)年十一月に集成して刊行している。

「虁(き)」中国神話上の龍の一種、或いは、牛に似たような一本足の妖獣、或いは妖怪の名。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犛牛(らいぎう) (ヤク)」の「犩牛(き〔ぎう〕)」の注の引用を読まれたい。序でに、私が電子化した『山中笑「本邦に於ける動物崇拜」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」の執筆動機となった論文)』もリンクさせておく。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 一眼一足の怪

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正五(一九一六)年十一月発行の『鄕土硏究』初出である。]

 

     一 眼 一 足 の 怪

 

 紀伊國續風土記卷八十、牟婁郡色川鄕樫原《かしはら》の條に、昔一蹈鞴(ひとつたゝら)と稱する妖賊ありて、熊野の神寶を奪ひ雲取の旅人を掠む。狩場刑部左衞門なる者三山衆徒の賴みに應じこれを退治しその功を以て三千町ある寺山を色川鄕十八村の立合山にしてもらひ、死して後はこの地に王子權現と祀られたとある。南方先生は曰く、右のヒトツダヽラは只の泥坊ではあるまい。熊野の山中には今でも「一本ダヽラ」といふ怪物住むといふ。その形は見たものが無いが、幅一尺ばかりの大足跡を一足づゝ雪の上に印して行つた跡を見るといふ。このダヽラは多分かのダイダラ法師のダイダラと同じく大人を意味する語で、漢字に書けば大太郞で、卽ち元は大男の異名であつたらう云々。何太郞を何ダラといふ例は三太郞法師をサンダラボッチ、沖繩の芝居にも京太郞と書いてキョーダラといふのがある。又大力の男を大太郞といふのは、宇治拾遺には盜賊の頭の大太郞、盛衰記には日向媼嶽《ひうがうばだけ》の神の子に大太童《だいだわらは》などがある。又一足の怪といふことは熊野ばかりの話では無い。安藝の宮島でも雪の晨《あした》に𢌞廓の屋根舞臺の上などに、常人の足を三つ四つも合せた程の大足跡が、一丈ばかり隔てゝ雪の上に印して居ることがあるといひ(藝藩通志十七)、土佐でも高岡郡大野見鄕島ノ川の山中で、文政の頃官命を以て香蕈(かうたけ)を養殖して居る頃、雪中に大なる足跡の一二間を隔てゝ左足ばかり續いて居るのを見た者がある。或は右足ばかりの跡もある。これは「一つ足」と稱して常にある者である。香美《かみ》郡にも有るといふ話である(土佐海續編)。宮島の方は左右の足で大股に步いたのかも知れず、土佐の「一つ足」も只片足で飛んだのかも知れぬが、土佐にはずつと前から隻脚にして更に片目なる怪物が山奧に居ると傳へられ、しかもそれは山男のことだとの說もある。高知藩御山方《おやまかた》の役人春木次郞八繁則といふ者、寶曆元年四十歲で土佐郡本川鄕《ほんがはがう》の山村に在役中見聞を筆記した書物に「山鬼といふものあり、年七十ばかりの老人の如し。人に以たり、眼一つ足一つ、蓑のやうなる物を着す。本川の人『山ヂイ』と謂ふ。俗にいふ『山チヽ』なるべし。變化《へんげ》の物に非ず、獸の類なる由、されど常に人に見ゆること無し。大雪の時足の跡あり、人往來の道を通る。六七尺に一足づゝ足跡あり、丸き物なり、徑四寸ばかり、例へば杵《きね》にて押したるやうに足跡あり、飛び飛びして行くよし、足跡は見けれども其姿を見ず、越裏門(ゑりもん)村の忠右衞門といふ者の母は行逢《ゆきあ》ひたる由、晝のことなり、人の如くたこりて來ると也。忠右衞門母は行ちがひけれども、見返りたれば行方《ゆきがた》無しといふ。あまり膽を潰し家へ立歸り、行く所へ行かずやめたり、何事もなし。昨日のことゝ語りしまゝに書付け置く也」とあり、又その次には「山鬼と蛇と百足と道行くことを爭ひたるといふ書あり、其書の名を忘れたり、サンキはけだもの也」ともある(寺川鄕談)。この話は多分足の一本の者と無い者と百ある者との爭《あらそひ》であらう。されば山城八瀨村の元祖の如くいふ山鬼などと別で、この邊では山鬼は足一本ときまつて居たのである。これよりは時代は大分後かと思はれる土佐の怪談集の中に又こんな說もある。「或人云、此一眼の者は土佐の山中には見る者多し、其名を山爺といふ。形人に以て長(たけ)三四尺、惣身《そうしん》に鼠色の短毛あり、一眼は甚《はなはだ》大にして光あり、一眼甚小さし。ちよつと見れば一眼と見ゆるなり。人多くこれを知らず、一眼一足と云ふ。齒甚强き物にして、猪猿などの首を人が大根類を喰ふ如くたべ候由。狼この物を甚恐れ候故、獵師この山爺を懷《なつ》け獸の骨などを與へ、小屋に掛けたる獸の皮を狼の夜分に盜取るを防がする由、土州の人の話なり」(南路志續編稿草廿三)。本川鄕の山爺には身長の記事が無いが、六七尺に一足跡とあるからは三四尺の小男とは到底思はれぬが、それにしても杵で押したやうな丸い跡とあるなど熊野の話とも打合《うちあ》はず、しかも見たことは無いといふ本物の話ばかりが一致するのも妙である。又雪の中の足跡などに右とか左とかゞさう明瞭に分るわけは無いから、結局山中の怪物が片足だといふことは、別に何かかく想像すべき理由があつたのではあるまいか。片目といふ方は愈々以て空な話のやうに思はれる。併しこれをいふのは土佐ばかりでは無かつた。阿州奇事雜話卷二の山父山姥の話は、半分以上笈埃隨筆や西遊記などの受賣と見受けるが、しかもその末に錄した同國三好郡の深山で山父が小屋へ來て、例の如く人の心を讀んだといふ話の中に、その山父が一眼であつたことを述べて居る。落穗餘談卷五には又次のやうな話もある。「豐後の或山村の庄屋山中に獵する時、山上二三尺のくぼたまりたる池の端に、七八歲の小兒惣身赤くして一眼なる者五六人居て、庄屋を見て龍の髭の中に隱る。之を狙ひ擊つに當らず、家に歸れば妻に物憑きて狂死す。我は雷神なり、たまたま遊びに出たるに何として打ちけるぞといひけり。之を本人より聞きたる者話すと云へり」山猱《さんどう》一足にして反踵《はんしよう》とは支那の書物にもあるさうだが、これ等山に居る大小いろいろの一つ目が、何故に一つ目と傳へられて居るかについては、なほ硏究せねばならぬと思ふ。

[やぶちゃん注:「紀伊國續風土記卷八十」国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここの「牟婁郡第十二」の「色川鄕」の「寺山樫實」の一節。右上段の十行目から。

「牟婁郡色川鄕樫原」現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町樫原(かしわら:グーグル・マップ・データ)

「宇治拾遺には盜賊の頭の大太郞」「宇治拾遺物語」の「大太郞(だいたらう)、盗人(ぬすびと)の事」。「やたがらすナビ」のこちらで新字であるが、読める。

「盛衰記には日向《ひうが》媼嶽《うばだけ》の神の子に大太童《だいたわらは》」「源平盛衰記」の第三十三巻の冒頭の「太神宮(たいしんぐう)勅使◦緒方三郎平家を責むる事」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの板本。左丁後ろから五行目)。

「藝藩通志」複数の筆者によって編纂された安芸国広島藩の地誌。文政八(一八二五)年完成。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のこちらの右ページ上段の「雪の跡」で視認出来る。

「高岡郡大野見鄕島ノ川」現在の高知県高岡郡中土佐町(なかとさちょう)大野見島ノ川(おおのみしまのかわ:グーグル・マップ・データ)。

「文政」一八一八年から一八三〇年まで。天保の前。

「香蕈(かうたけ)」椎茸の別名。

「一二間」一・八~三・六メートル。

「香美郡」高知県の東中部の旧郡。旧郡域は当該ウィキを見られたい。

「土佐海續編」不詳。

「春木次郞八繁則」以下の出典である「寺川鄕談」(前文署名に宝暦二(一七五二)年とある)の作者ともされる。同書については、吉野忠氏の論文「寺川郷談の題号と作者」PDF)に詳しい。

「寶曆元年」一七五一年。

「土佐郡本川鄕」現在の吾川(あがわ)郡いの町(ちょう)の北部に当たる(グーグル・マップ・データ)。

「山鬼」「一目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注 始動 / 自序及び「一目小僧」(一)~(三)」の「三」では、柳田は「えき」というルビを振っている。但し、「寺川鄕談」の原著を見ること出来ないので、本文中に振るのは避けた。但し、そこでは『土佐の山村では』と前振りしていることから、「えき」の読みである可能性は極めて高いとも言える。

「越裏門(ゑりもん)村」高知県吾川郡いの町越裏門(グーグル・マップ・データ)。

たこりて」不詳。「人のごとく」とあるから、「直立二足歩行をして」の意か。

「南路志續編稿草廿三」「南路志」は高知城下の豪商美濃屋武藤致和と平道父子が二代に亙って作り上げた土佐の歴史・地理・民俗・宗教・文学などに関する様々な資料を百二十巻に纏めたもので、文化一〇(一八一三)年に完成した一大叢書で、「紀伊続風土記」や「芸藩通志」を凌ぐとされる(サイト「高知県内地誌」のこちらの記載に拠った)。

「阿州奇事雜話卷二の山父山姥の話」横井希純作。寛政九(一七九七)以後の成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『阿波叢書』第一巻の活字本のここで視認出来る。柳田が指摘する話は、その左ページ「七六 山父山姥」の本文五行目からである。

「落穗餘談」不詳。但し、「続国史大系」第九巻の引用書目中に書名は見出せ、国立国会図書館の書誌データにも三巻本とは出る。

「龍の髭」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ(蛇の鬚)属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus

「山猱(さんどう)」テナガザルの一種。

「反踵」足の踵(かかと)が外側に向いていることを指す。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 一つ目小僧

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正六(一九一七)年三月発行の『鄕土硏究』初出である。]

 

     一 つ 目 小 僧

 

 舌切雀の重い葛籠の中へ、やたらに詰込まれたやうな有合せのおばけにも、尋ねて見れば由緖もあり系圖もあるといふのは、斯道《しだう》に心を寄せる我々に取つて誠に張合のあることである。深夜に少年の笠を目深《まぶ》かに被つて酒買ひに行くのを、すれ違ひさまによく見ると顏の眞中に圓い眼が一つあつたといふ話など、今は五歲の幼童も承認せぬやうな事件であるが、或時代にはこれを固く信じた人々も多かつたと見える。拙者などはこれは狸が化けるので、狸は飄逸にして而も智謀周密で無かつたゝめに、かゝる類《たぐひ》の妖怪を現ずるのだといふやうに聞いて居たと記憶する。然るに拙者よりは年下の住廣造《すみかうざう》氏の言に依るに、飛州高山などでは雪入道と稱して目が一つ足が一本の大入道の話が、同氏子供の頃にも語り傳へられて居たといふ。雪の降る夜の明け方に出るものといふことである。高瀨敏彥氏の報ぜられた紀州伊都郡のユキンボも雪夜に飛びあるくとあるが、一本脚とのみあつて目の沙汰は何とも無い。且つ小兒のやうな形といふ。前に出した熊野山中の「一本ダタラ」(鄕土硏究四卷)も同樣に、雪の朝樹木の下などに出來る圓形の窪みを以てその足跡といふ由で世にいふ雪女又は雪の精の如く、雪降るに由つて始めて現れる者とも考へられて居たので無く、雪は寧ろ足跡の話について居るのであらう。越中の舊事を錄した肯構泉達錄《こうこうせんたつろく》卷十五に、婦負《ねひ》郡蘇夫嶽《そふだけ》の山靈は一眼隻脚の妖怪にして、曾て炭を燒く者二人これに殺され、少し水ある蘆茅《あしかや》に投げ棄てゝあり、又麓の桂原《かつらはら》と謂ふ里の者夫妻薪《たきぎ》を採りに登りて殺さる。腦を吸ふと見え頂《いただき》に大なる穴が明いて居た。山海經にいふ所の獨脚鬼ならんか云々とある。石川日觀石川泰惠二人の話を集めた故に觀惠交話《かんけんかうわ》と題してある一書にも、何れの地方のことかまだ知らぬが次のやうな一條がある。曰く「左衞門佐《さゑもんのすけ》殿領分の山にセコ子といふ者あり。三四尺程にて眼は面の眞中に只一つあり。その外は皆《みな》人と同じ。身に毛も無く何も着ず。二三十づゝ程連立《つれだ》ちありく。人これに逢へども害を爲さず。大工の墨壺をことの外欲しがれども遣れば惡しとて遣らずと杣ども語りけり。言葉は聞えず、聲はヒウヒウと高く響く由なり」と。害はせずとあるが一つ目小僧が隊を爲して橫行したら相應に怖しいであらう。又日東本草圖彙といふ書には插圖《さしゑ》まで添へてこんな話を揭げて居る。上州の草津溫泉は每年十月八日になると小屋を片づけて里へ下る習であつた。或年仕舞ひおくれ二三人跡に殘つた者、夜中酒を求めに里へ下るとて溫泉の傍《かたはら》を通ると、湯瀧の瀧壺の中に白髮銀の如き老女が居て、どこへ行くか己も行かうといふのをよく見ると顏の正中に一つしか眼が無く、その眼が的然と照り輝やいて居たので、小屋へ飛んで歸つて氣絕した云々。佛經などの中には搜せばこの類の鬼も居るかも知らぬが、人間竝に男女あり老幼あり、上野にも越中にも飛驒にも近江にも土佐にも、見た聞いたといふ話がかう多いのには、何か又然るべき仔細が無ければならぬ。一本足で飛びあるくといふに至つては何分にも手がつけられぬが、これも平瀨氏報告の如く單に山の神はちんばといふだけになれば(鄕土硏究四卷一一號)有り得べき想像になる。所謂顏の眞中に眼が一つもこれと同樣の誇張で、本來は山の神が眇者(すがめ)であるといふたのを、今も用ゐる語法で「目が一つ」と言ひ傳へたとすれば、則ち亦神の片目の一例に他ならぬ。磐城平地方で山神樣はかんかちだから十月にも出雲へは行かれぬといふ由《よし》高木氏の報ぜられたのは、恰もその證據であらうと考へる。この序でにいふが、神が目を傷つけられたといふ昔話は、片目魚考に引かれた外にも、伯耆伊豆新島等本誌に多くの報告が見えて居る。又片目の魚の話の中でも殊に好參考となるのは、遠州橫須賀邊で天狗が夜炬火《たいまつ》を持つて泥鰌《どぢやう》を漁しその目を拔いて行くので、この邊の泥鰌に片目が多いといふ一條である。本年一月十八日の東京日々新聞に、琉球ではハブ(蛇)を捕へてその左の目を抉つて呑むと精力を增すといふ俗信があつて今もこれをやるのを聞いて、東京の某富豪も近頃ハブの左眼を本場の琉球から取寄せて密かに用ゐて居るとある。これも何かの關係があるらしく思はれる。

[やぶちゃん注:「住廣造」飛驒の民俗史家のようである。著作に氏が収集した郷土史料目録。飛騨の林業史に関わる史料等を纏めた「住香草文庫目録」などがある。

「高瀨敏彥」和歌山の民俗研究家らしい。『鄕土硏究』への「紀州伊都郡俗信」など論文投稿が確認出来る。

『熊野山中の「一本ダタラ」(鄕土硏究四卷)』日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこれで、執筆者久米長目は柳田國男のぺン・ネームである。梗概に、『熊野の山中には今でも一本ダタラという怪物が住むという。その形を見た者はいないが、幅一尺ばかりの足跡を一足ずつ雪の上に残してあるのを見たという』とある。「一目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注 始動 / 自序及び「一目小僧」(一)~(三)」の「二」でも「一踏鞴(ひとたゝら)」として言及している。

「肯構泉達錄」「国立国会図書館サーチ」のこちらに、『越中通史の先駆けともいえる壮大な物語記録で、文化』一二(一八一五)年の『完成。野崎雅明の祖父伝助は富山藩に御前物書役として仕え』、『「喚起泉達録」を著した。その志を継いで業をなしたことから「肯搆」と名付けた。雅明は学問熱心であり、享和』二(一八〇二)『年から藩校広徳館の学正を勤めた』とある。富山県立図書館の「古絵図・貴重書ギャラリー」のこちらの「巻之15」をクリックし、その26コマ目で、当該部が視認出来る。

「桂原」現在の富山県富山市八尾町(やつおまち)桂原(かつらはら)地区(グーグル・マップ・データ)の外、西直近の「祖父岳」が「蘇夫嶽」である。

「觀惠交話」底本の「山の人生」(大正一四(一九二五)年『アサヒグラフ』初出)の「二〇 深山に小兒を見るといふ事」の中(左ページ十行目)で『約二百年程前の書物』と記す雑記集。この言いが正しいなら、享保一〇(一七二六)年前後となる。二著者の事績はかなり地位の高い武家らしいが、不詳。

「日東本草圖彙」内閣文庫以外には伝本がない稀少な本草書。全十二巻。「序」には安永九(一七八〇)年をクレジットし、作者は姓不詳の玄紀なる人物。姓は神田で、「日東魚譜」を書いた神田玄泉(図がしょぼいので私が放置プレイしているブログ・カテゴリ「日東魚譜」参照)の縁者ともされる。

「平瀨瀨氏報告の如く單に山の神はちんば」『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(五)』にそれが出る。「平瀨麥雨」とあり、私は歌人・民俗研究家として知られる胡桃沢勘内(くるみざわかんない 明治一八(一八八五)年~昭和一五(一九四〇)年)のことと推定した。

「高木氏」名著「日本傳説集」を書いた、ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)のことであろう。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ぢんだら沼記事

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年十二月発行の『讃岐民俗』初出である。]

 

     ぢ ん だ ら 沼 記 事

 

 相模野のまん中、今の橫濱線淵野邊の驛から東南へ小一里のところに大沼小沼といふ二つの沼がある。これが以前「鄕土硏究」へ報告せられたぢんだらの沼であることは、他にはもう沼らしいものが無いのだから推定してよからう。あの奇拔な人を樂しましめる傳統が果して現在どういふ形で行はれて居るかを試すべくこの十一月末の晴れた或日落葉を踏んで訪ねて行つて見た。昭和五年に出た二萬五千分一圖に比べると地形はもう大分變つて居て、附近には開いたばかりの畑が多い。場處は正確にいへば神奈川縣高座郡大野村で大字鵜野森《うのもり》に屬する東の方の小沼は僅かな水溜りと堀とを殘してあら方《かた》一毛作の水田になつて居る。一方それから西に竝んで居る大沼の方はことごとく蘆原となつて居て、舟も無く小高いところも無いから、中央に水面があるのやら無いのやらも確かめることが出來ない。たゞその西北岸の大沼神社と、それから南北に連なる大沼新田の民居とによつて以前の沼の位置を誤らないだけである。

[やぶちゃん注:「ぢんだら沼」「大沼小沼」現在の神奈川県相模原市南区東大沼地区内に大沼(グーグル・マップ・データ)が、小沼はその東の若松地区内であるが、二ヶ所の沼地は大沼の残痕が大沼神社の周囲に僅かに認められるだけで、小沼は消滅している模様である。「今昔マップ」の戦前の地図を見ると、有意に確認出来る。そちらで変遷を地図を見ると、敗戦後に急激に埋没していることが判る。]

 大沼新田の廣い通りの四つ角には、寬延の年號を刻した石地藏がある。もうその頃から表向きの名が大沼であつたことは疑ひが無い。しかし此方《こちら》は面積が八町步ばかり今一つの方も大よそ同じ廣さで、これを小沼といふことは少しく當つて居ない。單に同じ位な沼が二つ竝んで居て、一方が早く開けて大沼と呼ばれることになると、勢ひ第二のものは口拍子でも、小沼とならなければならなかつたのであらう。地圖の上だけでは想像もつかぬことは、この所謂大沼の北に連なつて街道と併行した細長い窪地があつて、現在はこれが最も沼らしく靑々とした水を湛へ、周圍の畠地の緣へ水苔などを多く漂着させて居る。その岸に住む農夫に尋ねて見ると、今は水窪と呼んで居るさうだが、これが多分ぢんだら沼に對する、ふんどし窪なるものゝことであらう。

[やぶちゃん注:「寬延」一七四八年から一七五一年まで。徳川家重の治世。

「石地藏」それらしい箇所を、複数、ストリートビューで確認したが、現認出来なかった。

「大沼の北に連なつて街道と併行した細長い窪地があつて、現在はこれが最も沼らしく靑々とした水を湛へ、周圍の畠地の緣へ水苔などを多く漂着させて居る」「今昔マップ」のこの附近だが、柳田の言う通り、地図上では全く判らない。]

 周圍の地形を見てもよくわかるが、大沼、小沼は二つとも元はほゞまん丸な恰好をして居た。それが或時期の一部の人の間にもせよ、とにかくぢんだらといふ名稱が行はれた原因かと思ふと、獨りで眺めて居ても思はず笑ひたくなる。

 關西の諸君には或はわかるまいが、ヂンダラはこちらの方言で尻餅を搗くことである。それも後へ倒れてたゞ一度だけつくので無く、兩足を前へ投げ出してはたはたさせ、そのために尻のふくらみを土に印することで、卽ち亦ヂダンダといふ語とも緣を引くかと思はれる。漢語で頓足《とんそく》といふのがこれに當るであらう。口惜しくてたまらぬがどうすることも出來ぬといふ場合に、昔はあぐらで居たからこれをよくしたのだが今日はもう幼な兒にもこんな擧動は見られなくなり、そのために又ダダヲコネルといふ複合動詞が一段と意味不明になつて居る。關西の方では尻餅と地團太《ぢだんだ》とは、全然緣の無いやうに考へられて居るであらうが、たつた一ぺんだけ尻を土につけることを餅を搗くといふのも實はをかしく、立つて居て足ばかり上下させるといふことも誰にでも可能な藝當では無い。こんな小さな常人の習癖でも世と共にいつかは變遷し、言葉は案外に長く傳はるのである。爪彈《つまはじ》きとか後指をさゝれるとかいふことも今日は既に一種の修辭であつて滅多に我々はさういふ擧動をする者を見かけなくなつて居るのである。

 近頃の方言集の中には東國のヂンダラを地團太と譯して居るものも折々はあるやうだが、それをどういふことをするのかと問ひ返して見ると、恐らくは答はもう區々《まちまち》であらうと思ふ。

 ところが相模野のぢんだら沼では現にその痕が沼の形で殘つて居るのだから明らかに古い方の尻餅であつたことが知れる。大昔大太良坊といふ滅法界に巨きな人があつてこゝへ來てヂンダラを踏んだので尻の跡が窪み、この八町步餘の二つの沼が出來たといひ又その折に前に垂れて居たものを、引摺《ひきず》つた跡がふんどし窪になつたともいふのである。私は大沼新田の村人たちが今でもこのいひ傳へを保存して居るか否かを知りたくて色々の形で話を引出さうとして見たが、もうこの名を口にする者に出逢はなかつた。元はヂンダラ沼といつたさうぢやないかとも水を向けて見たが、ちやうどこのふんどし窪の北側に一軒はなれて住んで居る農家の主は何だか變つた表情をして知らぬと答へた。ヂンダラといふのはこの邊では尻を突く事だがといつたのを見ると全くさういふ話は聽いて居らぬ樣子である。傳說はこれを信ずる者が少なくなつて寧ろ止めども無く展開するものだが、それも大きな背景があつての上のことで元が弱つてしまへばこれだけでは獨りあるきが出來ないものと見える。ともかくも曾て相模野の荒々しい火山灰農業に僅な潤ひを與へて居た笑の傳承の一つは、もう消え去らうとして居るのである。

 どうして又その大太良坊《だいだらばう》といふ人はこゝへ來てぢんだらを踏んだかといふとそれは「鄕土硏究」の報告者は聽いて居なかつたやうだが、別に高田與淸の松屋筆記の中に、この大沼の事を書いたものがある。大だら坊は富士山を背負つて行かうとして、その綱にする蔓を搜したが無かつた。それで腹を立てゝ去つたから、今でもこの附近には葛《かづら》ふぢの類が生えぬのだといひ傳へると記して居る。これも關西地方の巨人傳說ではいはぬことだが、こちらでは處々にこれと似た話がある。實際に土性その他の原因からこの植物の妙に少ない野山があつて、それをかういふ風に戲れて說明することが、以前は流行して居たらしいのである。富士山をかついで行かうとしたなども、勿論この御山の見えぬ地方では考へ出せさうも無い話であるが全國を通じて今も知られて居る巨人のいひ傳へは、綱が切れたとか、擔ひ棒が折れたとか、何か最後の一點で思ひ通りにならず殘念がつたまゝで行つてしまつたといふことになつて居るのが普通である。眞面目に理由を考へて見てもよい問題だが自分の想像ではこれは第二次的にこの國土を支配した神々の、更に立ち優れて有力であつたことを說くためで、卽ち又現在の多くの舊社に巨人を統御なされたといふ物語があり、もしくはわざをぎの行はれたのと、同じ信仰の表裏とも考へられ、六つかしい語でいへば國津神思想、或は地祇信仰の殘留とも解せられるのである。

[やぶちゃん注:「松屋筆記」は国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。当該箇所は、国立国会図書館デジタルコレクションの同書の活字本「第一」(明四一(一九〇八)年国書刊行会刊)の「卷之五」の冒頭(右ページ下段)で視認出来る。]

 磯戶内海から西の方のオホヒトは、名は巨人であつても形がずつと小さく力は萬人に匹敵するやうにいつて居ても、足跡は尋常のものからさう圖拔けては大きくないらしい。それで時としては武藏坊辨慶の逸話にも托せられ、さうで無くてもよほど人間味が多く加はつて居り、同じ誇張でも、關東で見るやうな笑ひ話の種にはなりにくい。これも自分の解釋は神敵觀との融合があつて、神の勝利の花々しい光景を胸にゑがくためには、あんまり大きくては始末が惡かつたからでは無いかと思ふ。しかし播磨風土記の多可郡の條には、天につかへて屈んであるいたといふ人の記事もあり、九州でも筑後の矢部川の奧には、谷を蹴開《けりひら》いたといふ巨靈の話が傳はつて居る。さういふ昔語りも學者の手にかゝると何とかかんとか古史の記錄を調和させようとし、又は時代の常識で合理化させなければ承知しないが、文字の無い人々が舊い事を傳へようとした動機には、それとは又格別なものがあつたらしいのである。第一には親々の固く信じたといふことに同情して、それをいつ迄も覺えで置かうといふ心持ち、第二には「昔」といふ時の中にはどれだけ多くの神祕奇瑞があつたか知れぬといふ一種の憬慕、更に又現在生活の不如意と不安とを、しばしばかういふ思ひ出によつて忘れようとした、素朴な藝術欲などと、これから進んで我々が明らかにしなければならぬものが、まだ幾らでもあるのである。

[やぶちゃん注:「播磨風土記の多可郡の條には、天につかへて屈んであるいたといふ人の記事もあり」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を訓読する。

   *

託賀郡(たかのこほり)

右、託賀と名づくる所以は、昔、大人(おほひと)在り,常に勾(かが)まり行(ゆ)けり。南の海より北の海に到り、東より巡り行きし時、此の土(くに)に到-來(きた)りて、云はく、「他(あだ)し土は卑(きく)ければ、常に勾まり伏して行しに、此の土は高ければ、申(の)びて行けり。高きかも。」と。故(かれ)、「託賀郡」と曰(い)ふ。其の踰(こ)えし跡處(あとどころ)、數-數(あまた)成る沼と成れり。

   *

この「託賀郡」は現在の兵庫県多可郡周辺(グーグル・マップ・データ)。]

 學問が段々と民間に普及するにつれてかういふ省みられなかつたものが省みられることは、自然であり又我々の努力を要せぬかも知れぬが、讃岐は舊國であり且つよく開けた地方であるが故に、大切な資料も利用者のまだ出て來ぬうちに、消えたり改まつたりしてしまふ懸念が多い。行く行くこの會に熱意ある會員の數を增して、互ひに他の人のまだ心付かぬ文化現象に手分けをして觀察の步を進め、末には巨人の尻餅や地團太といふやうな埋沒した古い信仰の痕跡までが、一目に見渡されるやうにしてもらひたいものである。學問は興味から、もしくは好奇心から入つたものが最も根强い。さういふ考へに基づいて、私はこの頓狂な一つの話題を提供する。

 

  附  大太法師傳說四種

 (一) 昔デエラボッチといふ非常に大きな人がゐた。或時富士山を背負はうとして、相模原の原中をふぢ蔓を見つけて步いたが、どうしても山を背負ふだけのふぢ蔓が見付からない。それを殘念がつてヂンダラ蹈んだその跡が、今原の中ほどに在る鹿沼(かぬま)と菖蒲沼とである。

[やぶちゃん注:以下、「〇」二項は底本では全体が二字下げ。以下同じ]

○ヂンダラとは「地圖太」といふのと同じで、臀を地に下し手足を振動かし、體を搖りつゝ口惜しき表情をなすこと。

○菖蒲沼の西の端を橫濱線の鐵路が通つて居る。鹿沼に水の湛へてゐる時は、淵野邊の停車場で汽車の窓から見る。二つの沼の距離は三四町位[やぶちゃん注:約三百二十七~四百三十六メートル。]。

 (二) 相模原の中ほどに幅一町ばかり南北に長く凹んでゐる褌窪といふ凹地がある。デエラボッチが褌をひきずつた跡ださうな。

 (三) 南多摩郡由井村字小比企(こびき)から南、同村宇津貫(うつぬき)へ越える所に、俗に池の窪と稱する凹地がある。東西に長くて(長さ十五六間幅十間位)、ちよつと足跡といへばさうも見られる形をしてをる。昔デエラボッチが富士の山を背負はうとして一跨ぎ蹈張つた。一足が駿河の國に、他の一足が此處に印せられたのだと言ひ傳へてをる。

○池の窪はふだんは乾いてをるが、五月雨頃などには水を湛へて湖水のやうになる。

 (四) 同郡川口村山入小字繩切(なぎれ)に、附近の山から一つ飛離れた小山がある。これは昔デエラボッチが何處からか背負つて來たのであるが、此處まで來ると繩が切れて落ちた。デエラボッチは繩を繫がうと思つてふぢ蔓を搜したが見つからなかつたので口惜しがつて「この山へふぢは生えるな」といつたから、今以て葛(ふぢ)が生えない。背負つて來た山は此處に殘つて繩切といふ字の名がその由來を語つてをる。

○同郡由木村にも一つ巨人に關する傳說がある。但しデエラボッチとはいはず。(中村成文)

 

(附記)

 この問題に關しては「一目小僧その他」の中の「ダイダラ坊の足跡」をおよみ下さると參考になると思ふ。

[やぶちゃん注:私の「『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡』(全九回分割)」を読まれたい。

「中村成文」これだけ『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 二 デエラ坊の山作り』の注を引いておくと、「せいぶん」と読み、八王子の民俗研究家と思われる(『郷土研究』等に投稿論文が多数ある)。大正四(一九一五)年には文華堂から「高尾山写真帖」を出版しており、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。]

西播怪談實記 西播怪談實記二目録・佐用笠屋和兵衞異形の女を追し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。【 】は二行割注。目録(ここから)の読みは総て採用した。挿絵は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 

 西播怪談實記  地

 

 

西播怪談實記二

一 佐用(さよ《う》)笠屋和兵衞異形(いきやう)の女を追《おひ》し事

一 林田(はやした)村農夫(のうふ)火熖(くはゑん)を見し事

一 山崎の狐(きつね)人を殺(ころせ)し事

一 佐用那波屋(なは《や》)長太郞怪風(くはいふう)を見し事

一 大屋(おほ《や》)村次郞太夫異形(いぎやう)の足跡(あしおあとを[やぶちゃん注:ダブりはママ。])を見し事

一 德久(とくさ)村兵左衞門誑(たふふらかせ)し狐を殺(ころせ)し事

一 新宮村農夫(のうふ)天狗に抓(つかま)れし事

一 網干(あほし)村獵夫(りやう《ふ》)發心(ほつしん)の事

一 德久村西蓮寺(さいれん《じ》)本尊(ほんそん)の告(つけ)によつて火難(くはなん)を免(まぬかれ)し事

一 東本鄕(ひかしほんこう)村太郞左衞門火熖(くはゑん)を探(さくり)て手(て)靑(あを)く成し事

一 六九谷(むく《たに》》村猫(ねこ)物謂(ものいひ)し事

一 佐用沖内(をきない)夫婦(ふうふ)雷に(らい)打(うた)れし事

一 姫路本町(ひめちほんまち)にて殺(ころせ)し犬(いぬ)形(かたち)變(へん)する事

一 下河㙒(しもかはの)村大蛇(《だい》じや)の事

[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では「下河㙒村」には「げこのむら」と振る。]

 

 

 ◉佐用笠屋和兵衞異形(いぎやう)の女を追《おひ》し事

 比《ころ》は元祿末つかたの事なりしに、佐用郡(こほり)佐用邑(むら)に笠屋和兵衞といふもの、在《あり》。

 恐《おそろ》しといふ事を知らぬ大膽ものなりしが、ある夜、自身番(じしんばん)に當(あたつ)て、町中を𢌞る。

 比しも、霜月廿日過(すき)、下弦の月も、明方近き霜に照(てり)そひ、嵐《あらし》は、肌(はたへ)に徹(とをる)斗《ばかり》なれば、甲頭巾(かふとづきん)に、目《め》斗《ばかり》を出《いだ》し、のさのさと、あゆみ、橫町《よこまち》半《なかば》を過《すぐ》るに、とある家の壁に、大きなる女の首斗の影、髮は、嶋田《しまだ》に結(ゆひ)、櫛・竿(かんざし)の影迄も、ありありと見ゆる。

 

Onnankubi

 

『こは。怪し。』

と、おもひ、あたりを見𢌞せば、西側の家の棟に、天窓斗を出して、和兵衞を見て、

「完爾完爾(にこにこ)」

と笑ふ。

 和兵衞、

「急(きつ)」

度(と)、ねめ附《つけ》て、

「己(をのれ)、此(この)和兵衞を誑(たぶらかさ)んために出《いで》たるや。いで、物を見せん。」

と、いふまゝに、脇指(わきざし)を、

「するり」

と、ぬく。

 此勢(いきほひ)にや恐(おそれ)けん、やねより、下(をり)て、㙒道(の《みち》)を眞下(ま《した》)に迯(にげ)て行《ゆく》を、

「のがさじ。」

と、壱町(いつてう)斗、追行(をいゆき)、

『今少(いますこし)にて追付べき。』

と思ふに、行方《ゆきかた》しれず、失(うせ)にけり。

 和兵衞も、目に、さへぎるものもなく、相手なければ、わが家(や)へ立歸《たちかへ》に、夜は、ほのぼのと明《あけ》し、とかや。

 右、和兵衞、享保の比迄(ころまて)は、存命にて、予、直(ぢき)に此物語を聞ける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:一種の巨大な「轆轤首」(ろくろっくび)である。

「自身番(じしんばん)」近世において、家の主人が、その成員とともに自身の家や村落・町内を治安・防衛するために警戒に当たること、また、その任務に当たる者。

「元祿末つかた」元禄は十七年までで三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日) 宝永に改元している。「霜月廿日」は元禄十六年ならば、グレゴリオ暦一七〇三年十二月二十八日、改元したその年なら、一七〇四年一二月十六日となる。

「甲頭巾」(かぶとづきん)江戸時代の火事装束の一つ。騎馬の武士が被った兜形の鉢を細工した頭巾で、錏(しころ:鉢の左右・後方に附けて垂らし、首から襟の防御とするもの)の部分を羅紗(ラシャ)で作り、金糸などで縫い取りを施したもの。挿絵を参照。

「橫町」佐用村のそれは判らない。

「壱町」百九メートル。

「享保」一七一六年から一七三六年まで。著者春名忠成は宝永(一七〇四―一一)から正徳』(一七一一年から一七一六年まで)の初め頃に生まれ、寛政八(一七九六)年に没した可能性が高いとされるから、二十代の若き日の聞き書きとなろう。]

西播怪談實記 廣山村葬場神の咎有し事 / 西播怪談實記一終

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。【 】は二行割注。]

 

 ◉廣山村葬場(そうは)神の咎(とかめ)有《あり》し事

 揖東(いつとう)郡廣山村に、八幡宮、在《あり》。

 靈驗、揭焉(いちしるしく)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]して、繁榮なり。

 往昔(そのかみ)、豫州河野(かうのゝ)七郞通弘(みちひろ)、遁世して、当國(とうこく)にわたりしに、行暮《ゆきくれ》て、宿もなく、幸《さひはひ》と此拜殿に通夜《つや》せしに、五更の比《ころ》、けだかき御聲(みこゑ)にて、

「汝、『言語同斷心行所滅(ごんごとうたんしんきやうしょめつ)』といへる意を、しれりや。」

との給ふ。通弘、

「いまた、存せす。仰願(あふきねかは)くは、承(うけ給り[やぶちゃん注:読みはママ。])奉らん。」

と申上れは、

「とこ とはに 南無あみだ佛を唱(となふ)れば 南無あみだぶに生れこそすれ」

と、一首の神詠(《しん》えい)にて、告(つけ)給へば、通弘、

「はつ。」

と平伏し、感淚、數行(すかう)に及ひしが、是より、

「歌は、よく理(ことはり)を、さとすものなり。」

と、執心してよみけるが、今に到り、遊行上人は、代々、歌をよみ、又、回國の節は、必《かならず》、爰(こゝ)に社參するは、此因緣とぞ、きこへし。

 其後、通弘は、行脚の中(うち)に、知識と成(なり)、「遊行一遍上人」と号し、則《すなはち》、今の遊行の祖なり。

 然《しか》るに、廣山村の葬場は、北に向《むき》て、僧・俗、儀式を、つとむ。

 其來由(らいゆ)を聞《きく》に、都(すへ)ては、導師、南へ向(むき)、死人(しに《ん》)を北へむけ、引導する事、通例なれども、其格《そのかく》にしては、忽(たちまち)、數人(すにん)一所に、逆(さかしま)に抛(なけら)るゝによつて、葬送の儀式、勤(つとま)らず。

 此故に、北へむく事、古來の仕來り也。

 宝永の末つかた、能化《のうけ》【當国、魚崎村西福寺。今は眞乘寺と改号す。】、つくづくと、社檀の容須、葬場の次第を聞《きき》て、いはれけるは、

「世間の通りにては、導師、南へ向、死人を北へ向《むけ》るゆへ、社《やしろ》の正面に指向《さしむか》ふゆへ、神慮に叶(かなは)ずして、其ごとく、變の、有《ある》なるべし。重(かさね)ては、新菰(あらころも)を社檀の前に引張(ひつはり)、神前を見通し見通されぬやうに隔(へたて)なば、定《さだめ》て、子細も有まじき歟《か》。」

と、いはるゝにまかせて、かさねて、能化の敎(をしへ)のごとく致(いたし)ければ、何の故障(こしやう)もなく濟《すみ》けるにより、其神㚑のあらたなる事、ならびに、能化の德を感じけると也。右、正說(《しやう》せつ)を聞ける趣を書つたふもの也。

 

 西播怪談實記一

 

[やぶちゃん注:前半は歴史的な本八幡宮の神仏混交の霊験譚で、後者は神社で仏僧が葬儀をする際の位置関係の特異的な習俗の神意の咎めを語るという、かなり変わったものである。

なお、最後の丁の左には附記がある。原写本者の名とそれをさらに書き写した人のものか。一行目下方のそれ(その下方部は落款を被る)は適当に判読した。自信はない。

   *

          松四郞之丞

寬政十三

  前編書已

 

         矢口牧太郞書之

   *

ここの「寬政十三年」は一八〇一年。

「揖東郡廣山村に、八幡宮、在」現在の兵庫県たつの市誉田町(ほんだちょう)広山にある阿宗神社(グーグル・マップ・データ)は旧社名を弘山八幡宮と呼ぶ。

「河野七郞通弘」これは時宗の開祖一遍の実父河野通広(かわのみちひろ ?~ 弘長三(一二六三)年:鎌倉時代の武将。「承久の乱」の時には、法然の高弟西山上人証空の下で如仏として出家していたため、どちらにも参加していない。但し、その後に還俗し所領も持っていた)の誤認。彼の第二子(幼名松寿丸)で、出家して随縁と称し、諱を智真という。後、他力念仏に目覚めて一遍と改めた。十歳の時、母と死別し、父の勧めによって出家、建長三(一二五一)年十三歳の時、九州に赴き、浄土宗西山派の法然の高弟証空の弟子聖達に入門、仏教の学問を修めた。その間に智真と名を改めている。弘長三(一二六三)年、父の死を知って、伊予に帰って還俗して家督を継いだものの、一族の所領争いなどで希望を失い、再出家した。善光寺等を行脚した後、郷里に戻り、三年の間、草庵に籠もって念仏を修し、「十一不二頌」(じゅういちふにじゅ:十劫の昔に実現している弥陀の正覚と、衆生の現在の一念による往生は、一体のもので二つのものではないという思想を詩にしたもの)を作った。後、現在の愛媛県にある岩屋に参籠し、修験的な行にも挑戦している。 文永一一(一二七四)年(蒙古襲来の年)三十六歳で、超一・超二らを伴って念仏を勧化する旅に出た(超一・超二は彼の妻と娘とする説もある)。四天王寺・高野山を経て熊野に詣で、本宮の証誠殿に百ヶ日の参籠をしている際、「衆生の浄土往生は信・不信や浄・不浄に関わりなく阿弥陀如来の名号によって定まる」という熊野権現の夢告を受け、それを機に名を一遍と改め、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と記した札を人々に配る「賦算の行」を開始、これを以って時宗は開宗されたと言ってよい。 以後、九州・四国・山陽・京都の各地を巡り、四十一歳の時、信濃国の伴野(長野県佐久市)を訪れ、「踊り念仏」を始めた。平安時代の空也の念仏に倣ったものだが、民衆の人気を博し、彼の遊行・伝道の生活に欠かせないものとなった。次いで奥州を巡って関東へと旅を続け、再度の蒙古来襲のあった翌年の弘安五(一二八二)年には鎌倉に入ろうとしたが、幕府に阻まれ、果たせず、藤沢から東海道に出、弘安七年、再び京都に入って、熱狂的に受け入れられた。その後も四国・山陽道・山陰道と、とり憑かれたような行脚を続け、正応二(一二八九)年、摂津国の和田岬(神戸市)の観音堂で示寂した。享年五十一歳であった。生涯を、文字通り、「一所不住」の旅に過ごし、「救いは南無阿弥陀仏の名号そのものにあり」として、一切を放棄する「捨て聖」の境涯を貫いた。浄土信仰の極致をきり開いたといってもよく、「踊り念仏」の普及とともに民衆のあいだにダイナミックな宗教運動を展開した点で特筆される(主文を朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」の山折哲雄氏の解説に拠った)。

「五更」凡そ午前三時又は四時からの二時間を指す。

「言語同斷心行所滅」「仏が悟った境涯(仏界)は言葉では表明仕様がなく、凡夫の思考も全く以って及ぶものではない」の意。

「宝永の末つかた」宝永八年までで同年四月二十五日(グレゴリオ暦一七一一年六月十一日) 正徳に改元している。

「能化」一宗派の指導的地位にある長老・学頭などを称する語。

「魚崎村西福寺。今は眞乘寺と改号す」現在の兵庫県神戸市東灘区魚崎北町に浄土宗西福寺(さいふくじ:グーグル・マップ・データ)ならある。

「容須」ママ。様子。或いは弘山八幡宮社壇のことを解説者が仏僧であるから、本尊を祀る「須弥壇」に引かれて、かく原著者が書いたものか。

「神前を見通し見通されぬやうに隔(へたて)なば」衍文ではない。「神前の祭壇が見通しにしないで、新しい綺麗な薦(こも)を垂らして、見通せぬようにして視覚的に隔てを置いておけば、」の意。]

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