西播怪談實記 德久村西蓮寺本尊の告によつて火難を免し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]
○德久《とくさ》村西蓮寺(さいれん《じ》)本尊の告《つげ》によつて火難(くわなん)を免(まぬかれ)し事
佐用郡德久村に、西蓮寺といへる眞宗の道場、在《あり》。
元錄年中[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]のある六月の事なりしに、住持の泰圓(たいゑん)、暮方(《くれ》かた)に讀經(とくきやう)して、本堂の椽《えん》へ出《いで》て、凉(すすみし)か、暑(あつき)につかれたる折柄にて、凉風(りやう《ふう》)、いとゞ心よく、
「寔《まこと》に夏は、夕暮(ゆふ《ぐれ》)なくは、いかでか、昼の暑(あつき)を忍(しのば)ん。」
と、團(うちは)をとつて、蚊をはらひ、
「夏の月蚊を疵(きず)にして五百兩」
と、其角が句を吟じ、
「げにも。」
と誹人《はいじん》の腸(はらはた)迄、おもひやりて、すゝろに睡眠を催しけるに、内陣より、
「泰圓、泰圓、」
と、聲、高く聞ゆるに、驚急(おどろきいそぎ[やぶちゃん注:ママ。])ぎ、入《いり》てみれば、香爐の火よりや、移(うつり)けん、打敷(うちしき)、火に成(なり)て、前机(まへしう[やぶちゃん注:ママ。])にも移居(うつり《をり》)けるを、漸(やうやう)に消留(けしとめ)けり。
其節、内陣はいふに及ず、下陣、两余間(りやうよま)の中《うち》にも、人とてはなかりけるに、内陣より呼(よび)給へば、正《まさ》しく、本尊の告、疑ふべくもなく、
「寔に、かゝる㚑驗(れいげん)なくば、一時(いつとき)の灰燼(くわいしん)とならんものを。」
と、住持の僧、隨㐂(ずい《き》)の泪を流し、弥《いよいよ》、信心堅固になりて、朝暮(てうぼ)の勤行、懈怠《けたい》なく、是を聞《きく》人、檀家はいふに及ず、他門他宗迄、貴(たうと)みあへりけり。
右、予が近所にて正說(しやうせつ)を聞ける趣を書つたふもの也。
[やぶちゃん注:「德久村西蓮寺」兵庫県佐用郡佐用町西徳久のここに現存する。
「夏の月蚊を疵にして五百兩」宝井其角の一句としてよく知られるものである。所持する堀切実編注「蕉門名家句選(上)」の同句の解説によれば、「五元集拾遺」や「温故集」に載り、蘇東坡の詩「春夜」に出る「春宵一刻値千金 花に淸香有り 月に陰(いん)有り」のゝを踏まえたものとあり、謡曲「田村」にも同詩に基づく「春宵一刻値千金 花に淸香、月に影、げに千金も代へじ」があるとある。]
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