佐々木喜善「聽耳草紙」 一四番 淵の主と山伏
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここ。]
一四番 淵の主と山伏
西磐井《にしいはゐ》郡戶河内《へかない》村に琴ケ瀧と云ふがあつて、其の近所に又琵琶(ビワ)ケ瀧と云ふがある。昔此の二つの瀧の淵に男と女の主《ぬし》が棲んで居た。或る時瀧のほとりを山伏が通ると、水際の大石に綺麗な女が腰をかけて憇(やす)んで居て、私を此の川上の瀧の所まで連れて行つてくれと賴んだ。山伏は承知して女を連れて其の瀧壺の所まで往くと、女は私は此所へ入りますが、此の事を口外してくれてはならぬと言つて靜かに瀧壺の中へ入つて行つた。斯《か》うして此の主どもは互に往來して逢瀨を樂しんで居た。
所が其の山伏が次の村里へ行つて、偶然に其の事を人々に話してしまつた。それからは此の二つの主は永久に逢ふことが出來なくなつた。それと同時にまた其の山伏も石に化されて今でも其所に在る。山伏石と云ふのがそれである。瀧壺には今も主が居て、舊曆七月の何日かに、水のよく枯れた時などは其の姿が見えることがあると謂ふ。
(大正九年七月一日附、千葉亞夫氏御報告分の一。)
[やぶちゃん注:「西磐井郡戶河内村」かの中尊寺の後背地の山間を「戸河内川」が流れるが、その周辺の旧村名。岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉町(ひらいずみちょう)平泉広滝(ひらいずみひろたき)に「戸河内公民館」もある(グーグル・マップ・データ航空写真:以下の無指示は同じ)。何より「ひなたGPS」の戦前の図で、「平泉村」の「戶河内(ヘカナイ)」という地名がはっきり見える。さて、現在の先の広滝を拡大すると、この地区内の戸河内川下流に「戸河内川の女滝」が、その上流の、河川遡上実測で五百メートル、陸の実測で三百八十メートル弱位置に「戸河内川の男滝」がある(意想外に、両者はかなり近い)。これが、本篇の舞台である。前者は休憩所もあり、整備されている。その「女滝」の方にある説明半板がサイド・パネルで読めるのだが、結末がちょっと異なる。山伏はこの瀧の主を化け物と断じ、村人を集め祈禱を行うと、二つの主が姿を現し(形状は語られていないが、瀧だから龍形だろう)、山伏と激しく戦ったが、遂に山伏の法力が勝ち、二人の瀧の主は、『滝のほとりの黒い大きな石になったという。そして法力を使い果たした山伏も石となったという』とあるのである。とすれば、どこかに石は三つあるはずだが、その写真は、残念ながら、ない。もう現存しないのかも知れない。さて、では「男滝」も見てみよう。こちらにも標柱はあり、説明板もあるのであるが、ここは少し荒れており、説明版も摩耗している。それを読むと、嘗ては『渓流を走りおりてきた川水が落差三十尺(約十メートル)の淵(ふち)』(☜)『に一条の銀色に輝きながら一気に流れ落ち霧を生じ雲と変じる様子は雄大で雄滝の名にそむかないものでした』とあり、さらに、「ありゃ?」という違った伝承と、意外な民俗資料が記されてある。『この滝の主神(ぬし)は、連銭芦毛(れんせんあしげ)の馬にまたがり、時折りその雄姿を瀑下(ばっか)に現わしました。又常に滝の底を往来して達谷の姫待滝に通うと言い伝えられていました』。『それ以来、戸河内と達谷の滝の上では、芦毛や白毛の馬を飼う家はありませんでした』とあるのである。びっくりするのは、ここにあるこの「雄滝」の主が通う「達谷の姫待滝」は「女滝」ではなく、達谷窟毘沙門堂の下流にある滝で、男滝からは、まさに真北に谷に入り、相応のピークの尾根を幾つか経た直線でも三キロメートルはある「姫待滝」なのである(或いは、「雌滝」は異界の通路であって「姫待滝」に続いているという伝承もあるのかも知れないが。なお、この「姫待滝」の由来は悪路王絡みで、ご存知ない方は、簡潔であるが、サイト「中世歴史めぐり」の「姫待不動堂~平泉:達谷窟毘沙門堂~」を見られたい)。
「琴ケ瀧と云ふがあつて、其の近所に又琵琶(ビワ)ケ瀧と云ふがある。昔此の二つの瀧の淵に男と女の主が棲んで居た」この部分の記載順列に疑問があるが、楽器から見て「琴ケ瀧」が現在の「雌滝」で、「琵琶ケ瀧」が「雄滝」であろう。「雄滝」は前に示した説明板によって、現行(サイド・パネルに瀧と上空からの動画もあるが、十メートルの落差は今はない)と異なり、相応の瀑布であったらしいから、琵琶の方が相応しいと考えたからでもある。
「千葉亞夫」不詳。名は「つぎを」「つぐを」と読むか。]
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