早川孝太郞「三州橫山話」 「夢枕に立つた淨瑠璃姫」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]
○夢枕に立つた淨瑠璃姫 明治三十年頃、村の早川熊十と云ふ者に、淨瑠璃姫が夢枕に立つて、自分を信仰して吳れゝば、總ての願ひを叶へてやると、三日續けてお告《つげ》があつたと謂つて、其一家の者が連立つて、北山御料林内の笹谷にある姫の祠《ほこら》へ參詣したのから噂を生んで、さかんに參詣者が殺到した事がありました。
村の重立《おもだつ》た者は、每日辨當持で祠の周りに筵などを敷いて詰《つめ》かけて、參詣者に餅を出したりして、新しく賽錢箱を慥《こしら》[やぶちゃん注:ママ。ここまでくると、早川氏の慣用誤記と思われてくる。]へるやら、幟《のぼり》を新調するやら大變な騷ぎで、何處からともなく見も知らぬ坊主が來て、祠の脇に陣取つて、蠟燭を賣つたり祈禱を上げたりしました。縣道から祠に登る道なども、たちまち四尺ほどの廣さに踏み擴げられて、祈願の爲めの紙幟が、白く幾重にも兩側に續いて、喰物店や、お土產を賣る店が、軒を並べるやうになりました。祠が御料林の中にあるので、警察からは每日警戒の巡査が出張して來ました。
明け方から暗くなる迄參詣の人は絕間なく續いて、山の後から越して來る道も新しく出來ました。押し繪の姫の人形などを奉納する女もあつて、早速それを間に合せのお姿にしたりしました。
昔は祠に木彫のお姿が入れてあつたさうですが、村の者が、忘れてゐた頃に、橫山の地續きの村の者が、盜み出して自分の家に祀つてゐるのだと謂つて、今更のやうに口惜しがったのを聞きました。
村では每晚遲くまで賽錢の勘定に忙しく、二十錢の銀貨があつた、一日に五十圓上がつたなどゝ言ひました。
それがいつとなく淋《さび》れて行つて、一年後には、ぱつたり參詣者が跡を絕ちました。
翌年の一月、賽錢の上りで麓で神樂を催ふて、挽囘策を講じましたが、更に効力はなかつたやうでした。
古老の噺しでは、昔も斯樣な事があつて、此時の流行は、丁度三囘目だと謂ひました。
五十年前迄は姫が結んでゐた庵《いほり》が、祠から少し降つた所に殘つてゐたのを記臆してゐるなどと謂ふ者もありました。
傳說に據ると、姫は矢作《やはぎ》の兼高《かねたか》長者の娘で、奧州へ去つた義經の跡を慕つて來て、此處に庵を結んでゐて、果てたと云ひます。時折《ときをり》侍女を連れて芹を摘みに出た姿を里の者は見たと謂ひます。祠のある笹谷を少し山を登つた所をセリ場と謂つて、其處は姫が芹を摘んだ跡だとも謂ひます。姫が臨終の折の遺言に、寶物は全部笹谷の梅の木の根元へ埋めて置くと言つたと傳へて、村の者などは、正月の遊びの日などに、鍬を舁いで、梅の木を探しに行つた者もあつたさうですが、相憎《あひにく》笹谷には梅は一本もないと謂ひました。
祠は石の小さなもので、天明年間に村の連中が建立したことが刻んでありますが、祠に乘つてゐる石垣は、村の早川孫平と云ふ者が、其後獨りで築いたと云ひます。其時、一人石垣を築いて意ゐると、何處からともなく、一疋の赤い蜘蛛が現はれて、石にとまつてゐるので、其日は仕事を中止して歸つて、翌日再び行つて築いてゐると、同じ蜘蛛が現はれたので、石垣の前通りのみを築いて、側面は出來上がらない儘、中止したと謂ひます。姫が夢枕に現はれたのは、其男の孫だそうで、石垣を築いて吳れた御禮に、姫が夢に現はれたのだらうと云ふやうな因緣話もありました。
笹谷の麓に住む者の話では、現今も、時折、非常な遠方から、婦人病に御利益があると云つて、尋ねて來る女などがあるさうですが、祠へ通じた路なども、全然破壞されてしまつて、一寸近づけなくなつて居ります。
[やぶちゃん注:これについては、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十二 鹿の玉』と、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十三 淨瑠璃御前と鹿』に出、私もかなりリキを入れて注釈してあるので、まずはそちらを読まれたい。ここでは、そちらに出ない部分を補足しておく。
「明治三十年」一八九七年。
「笹谷を少し山を登つた所をセリ場と謂つて」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左端上方に『鳳耒寺村』『字峯』とあるところから下っている谷が「笹谷」(「ささだに」と読んでおく)で、その上方に『セリ塲』とあり、その下方に『淨ルリ姬ノ祠』とあり、さらにその下方に『菴址』とあるから、早川氏がこれを書いた頃には、その庵の跡とするものも現認出来たことが判る。「早川孝太郎研究会」の本章(PDF)には、修復された祠と、道標と、そこに国道から入る写真があり、ストリートビューで調べたところ、その画像から、国道二五七号のここが入り口であることが判った(グーグル・マップ・データ航空写真の、この中央附近)。入る道があるが、作業道であるため、ストリートビューでは進入出来ず、道標・祠の位置は指示出来ない。
「天明年間」一七八一年から一七八九年まで。徳川家治・家斉の治世。]
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