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2023/03/10

早川孝太郞「三州橫山話」 「臼と土公神」

早川孝太郞「三州橫山話」 「臼と土公神」・

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○臼と土公神  家の入口を、は入つたところの土間をニハと謂つて、正面に立臼《たてうす》が二ツ据《す》え[やぶちゃん注:ママ。「据う」は本来、ワ行下二段動詞である。]てありました。左手は座敷で、オヱだのオデヱだのと謂つて、右に厩《うまや》が設けてあつて、鷄の巢は多く厩の上に造つてありました。

 臼は北山御料林が伐り拂ひになつた度に各戶へ一組宛下されたものださうで、一ツでは餅を搗き、一ツは手杵《てぎね》で、粟や黍《きび》を搗くに用ひました。餅を搗く方が上手に据へ[やぶちゃん注:ママ。]てありました[やぶちゃん注:『日本民俗誌大系』第五巻版でも『据えてありました』であるが、思うに、「据へてありました」は「拵」(こしら)「へてありました」の誤りではなかろうか?]。

 臼を尊重する風習があつて、女が杵を跨げば何より重い罪だと云つて、過つて跨いだ時は、其杵を負つて、屋根棟を越えさせられるものと謂ひました。又子供が生れて、初めて母親の里へ連れて行つた時は、第一番に内いそぎをしない樣にと云つて、臼の中へ入れる風習がありました。

 臼の据わつて[やぶちゃん注:ママ。]ゐる奧に竈《かまど》が設けてあって、其處に土公神が祀つてありました。多くは其がカマ屋の大黑柱になつてゐるので、其柱にお札などを入れる所が造つてありました。竈のことをクドと謂ひました。土公神は鷄を好むと云つて、鷄を描いた繪などが柱に張つてありました。又松を供へるものとも謂ひました。

 萬歲は土公神を祭るものと謂つて、每年𢌞つて來る萬歲はきまつてゐて、それが來た時は先づ座敷に通して、盆に白米とオヒネリを添へて差出しました、[やぶちゃん注:ママ。]萬歲の方からは、火の用心の札だの惠比壽大黑の札を置いて行きました。奉祝萬歲樂などの文字を書いた札を置いてゆくのもありました。大澤佐重だの森下金太夫など、云ふ名を持つた萬歲が來ました。大澤佐重の僞者《にせもの》が來たなどと言つて騷いだ事がありました。

[やぶちゃん注:「左手は座敷で、オヱだのオデヱだのと謂つて」この「オヱ」「オデヱ」は推理に過ぎないのだが、「土間・庭に対して、畳の敷いてある座敷」を江戸時代に言った「御上」(おうへ(おうえ))の転訛したものではなかろうか?

「臼を尊重する風習があつて、女が杵を跨げば何より重い罪だと云つて」これには、恐らく性的な象徴関係が一面では強く作用しているものと思われる。「物事の逆さまなことの喩え」に「臼から杵」があるが、これは形状と使用法から「臼」は「女」、「杵」は「男」の象徴であって、これは「(男から女に言いよるのが普通であるのに)女から男に働きかけること」の意である。

「内いそぎをしない樣に」意味がよく判らない。家内で早々と亡くなったりしないようにの意か? いや、女性器の象徴たる臼に「戻す」ことで、出征時間を更新し、初潮の始まりをゆっくらとする儀式か? どなたか、御教授願いたい。

「土公神」当該ウィキによれば、「どくしん・どこうしん」とは、『陰陽道における神の一人。土をつかさどるとされ、仏教における「堅牢地神」(けんろうちしん=地天)と同体とされる。地域によっては土公様(どこうさま)とも呼ばれ、仏教における普賢菩薩を本地とするとされる』とし、『土をつかさどるこの神は、季節によって遊行するとされ、春はかまど(古い時代かまどは土間に置かれ、土や石でできていた)、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいるとされた。遊行している季節ごとにかまどや門、井戸、庭に関して土を動かす工事を行うと土公神の怒りをかい、祟りがあるという』。『また、土公神は』「かまどの神(かまど神)」とも『され、かまどにまつり』、『朝晩に灯明を捧げることとされる。この神は、不浄を嫌い、刃物をかまどに向けてはならないとされる』とある。

「萬歲」「千秋万歳を言祝ぐ」の意で、新年を祝う歌舞、及び、その歌舞をする大道芸・大道芸人を指す。鎌倉初期以来、宮中に参入するものを「千秋万歳」(せんずまんざい)と呼び、織豊・徳川の頃には単に「万歳」と呼んだ。江戸時代、関東へ来るものは、三河国から出るので「三河万歳」、京都へは大和国から出るので「大和万歳」と称し、服装は、初めは折烏帽子・素袍(すおう)であったが、後には風折(かざおり)烏帽子に大紋(だいもん)の直垂(ひたたれ)を着、腰鼓(こしつづみ)を打ちながら、賀詞を歌って舞い歩いた(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「大澤佐重」不詳。萬歳師の著名な名か。識者の御教授を乞うものである。

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