佐々木喜善「聽耳草紙」 一二番 兄弟淵
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]
一二番 兄 弟 淵
川井村腹帶(ハラタイ)の淵の邊りを、ある娘が通ると、淵から立派な美男が出て來て、これこれ娘この手紙を御行(オギヨウ[やぶちゃん注:ママ。])の淵へ持つて行つておくれ、淵の岸に立つて手を三度打つと、中から人が出て來るから其人に渡せと言つて賴まれた。娘はその手紙を持つて行くと、向ふから旅の六部が來て、お前の手に持つて居るものは何だと言ふから、これこれの事で賴まれて來た手紙だと言つた。すると六部はハテそれは如何にも不思議な話である。どれ俺にその手紙を一寸貸せと言つて、開いて中を見ると、ただの白紙であつた。六部曰く、これは水の物の手紙であるから水に浸して見れば分ると言つて、水に浸すと、この娘は靑臀《あをけつ》だから取つて食つてもよろしく候と謂ふ文句が現はれた。六部はそれを讀んで、これは大變だ[やぶちゃん注:読点なし。続きも同じ。]よし俺が別に書き替えてやるからと言つて、路傍の南瓜《かぼちや》の莖を採つて、此女は靑臀なれども決して取り申間敷候。かへつて金を多く與へ可申候事と書いてくれた。
娘は六部に書き替えてもらつた手紙を持つて、御行の淵へ行き、岸に立つて手を三度叩くと、中から一人の美男が現はれた。そして娘が渡した手紙を見て厭な顏をして居たが、一寸待つて居れと言つて淵の中に入つて行つて、金を持つて來て娘に渡した。娘はその金を持つて逃げて歸つた。
元は腹帶の淵と御行の淵とは仲の良い兄弟で、腹帶の方から行く靑脊の者をば、御行へ手紙をつけて取らせ、御行の方から來る同じ者をば、腹帶へ手紙をつけて遣つて取つて食はせて居たが、其娘のいきさつの事から非常に仲が惡くなつた。さうしてそれからはどつちでも知らせぬから、今日ではどんな靑臀の者が通つても大丈夫だと謂ふことである。
(今の下閉伊郡川井村。此淵についての色々な口碑は「遠野物語」其他にも出て居る。其中最も有名なのは、釜石の板ケ澤の女の人が此淵へ嫁に行つた話。また近年は此淵近 くの農家の娘が假死して淵の主へ嫁に行つた等の話である。盛岡から宮古へ行く縣道のすぐ緣にある閉伊川の流中である。御行の淵も同じ川の中である。)
(靑臀(アヲケツ)、臀部に靑い斑點のある者は川の物(主に河童)に取られるという言ひ傳へが此地方にある。紫臀(ケツ)の上上臀《じやうじやうけつ》等と謂ふのである。)
(本話は大正九年八月十日、村の菊池永作氏の談。)
[やぶちゃん注:最後の三つの附記は全体が二字下げポイント落ち。
「川井村」「腹帶(ハラタイ)の淵」「御行(オギヨウ)の淵」二つの淵の位置は確認出来ないが、この「川井村」は遠野の北北東外、早池峰山の東の山間部、閉伊川と小国川の合流地点である岩手県宮古市川井(グーグル・マップ・データ航空写真)である(「ひなたGPS」で戦前の地図も見たが、淵名は確認出来なかった)。但し、この「腹帶の淵」には疑問がある。それは佐々木が最後の附記で述べている通り、これと非常によく似た話(特に六部は書き換えをするという設定)が「遠野物語」の「二七」にあるが、そこでは、『早地峯(ハヤチネ)より出でゝ東北の方宮古(ミヤコ)の海に流れ入る川を閉伊(ヘイ)川と云ふ。其流域は卽ち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池(イケ)の端(ハタ)と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての歸るさ、此川の原臺(ハラダイ)の淵(フチ)」『と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す』と冒頭にあり、そこでは「原臺(ハラダイ)の淵(フチ)」となっているからである。
「六部」既出既注。
「靑臀」尻の部分に青い痣(あざ)があること。蒙古斑の残痕(私は小学六年生の時、友人の臀部の上方にしっかり残っているのを日光の修学旅行の入浴の際に見たのを覚えている)とは別の尋常性の痣のようである。
「南瓜の莖」カボチャの維管束の汁で字が書けるというのは初耳であった。
「其中最も有名なのは、釜石の板ケ澤の女の人が此淵へ嫁に行つた話」不詳。発見したら、追記する。
「近年は此淵近くの農家の娘が假死して淵の主へ嫁に行つた等の話」同前。
「大正九年」一九二〇年。]
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