「曾呂利物語」正規表現版 二 女の妄念迷ひ步く事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入する(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]
二 女の妄念迷ひ步く事
越前の北の莊(しやう)といふ所に、ある者、
「上方へ、まだ、夜(よ)をこめて、上る(のぼ)る。」
とて、「さはや」といふ所に、大いなる石塔、有りける。
その下より、鷄(にはとり)、一つ、たちて、道におるゝ。
月夜影(つきよかげ)に、よくよく見れば、女の首、なり。
彼(か)の男(をとこ)を見て、けしからず、笑ふ。
[やぶちゃん注:右上端にキャプションがあり、「ゑちぜんの国北庄にての事」とある。]
男、少しも騷がず、刀をぬきて、切つてかゝれば、そのまま、道筋をかへて、上(うへ)のかた、よりくる。
續いて追ふほどに、府中の町(まち)「かみひぢ」といふ所まで、追ひつけて見れば、ある家の窓より、うちへ飛び入る
『不思議なること。』
に思ひ、しばし、立ちやすらひて、内(うち)の樣(やう)を聞けば、女房の聲にて、男を起(おこ)し、
「あら、おそろしや、只今(たゞいま)の夢に、『「さはや野」を通りしが、男一人(ひとり)、我を斬らんとて、追ふ程に、これまで、逃げける。』と思へば、夢、さめぬ。汗水(あせみづ)になりし。」
などいひて、大息(おほいき)ついて、語る。
門(かど)にある男、此(ここ)の由(よし)を聞き、戶を叩き、
「聊爾(れうじ)なる申しごとにて候へども、申すべき事あり、開けさせ給へ。」
とて、内に入り、
「たゞ今、おひ參らせ候(さふらふ)は、我等にて候。扨(さて)は、人間(にんげん)にて渡らせ給ひけるか。罪業(ざいごふ)の程こそ、あさましけれ。」
とて、通り侍る。
女も、身の程をなげき、
「此のありさまにては、男に添ひさふらふことも、心うし。」
とて京へのぼり、北野(きたの)眞西寺(しんせいじ)に取りこもり、ひとへに後世(ごせ)をぞ、祈りける。まことに、あり難きためしにぞ。
[やぶちゃん注:所謂、妖怪としての「轆轤首」ではなく、睡眠中に首が抜け出るという夢中体験をするそれ(中国由来の妖怪では「飛頭盤」(ひとうばん)という名もある)である。江戸時代にはメジャーな妖怪として持て囃されるようになるが、本篇はそうした首抜け女のケースの比較的古層の一篇と言えるもので、妖怪というよりも、ここに出るように「生霊の首が抜けて飛ぶ因果な忌まわしい病気」と認識されていた記載も江戸期を通じて、実は、甚だ多いのである(そうした噂の轆轤首女の実話ハーピー・エンド譚「耳嚢 巻之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」もお薦めである)。私の怪奇談でも、枚挙に遑がないが、纏めたものとしては、「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」がよろしかろう。なお、「轆轤首」を真に日本の妖怪(但し、そこに出るそれは強い渡来の「飛頭盤」の色彩が濃厚である)として周知せしめた名品は「小泉八雲 ろくろ首 (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」以外にはないと考えている。
「越前の北の莊」福井城跡がある、現在の福井県福井市(城があったのは同市大手。グーグル・マップ・データ)の旧称である越前国足羽(あすわ)郡北ノ庄。後に「福居」と改め、さらに「福井」となった。
「まだ」ここは「さらに」の意。
「さはや」岩波文庫版では「沢谷」。しかし、現行の福井県の福井市南部に「沢谷」の地名は見当たらない(以下の展開から福井県南部でなくてはならない)。
「鷄(にはとり)、一つ、たちて、道におるゝ」言わずもがな、「鷄」がひょいと現れて、道に降りてきた「ように見えた」のであって、誤認であり、それが生きた女の首だったという、主人公の順視認の視線を用いた誤認と、怪異出来(しゅったい)の転換点である。
「けしからず」「異しからず・怪しからず」。「けし」の打消形ではあるが、この場合は打消の意味ではなく、「変である」ことの強調形として添えられたもの。「いかにも怪しく・異様に・不気味な感じで」の意。
「道筋をかへて、上(うへ)のかた、よりくる」抜刀して斬ろうとしたのに驚いた生首が、それを避けるために、空中の「より」高い「上(うへ)」の「かた」(方)に「寄」せて飛び来たった(逃げた)という謂いである。
『府中の町(まち)、「かみひぢ」といふ所』福井県の府中であるなら、現在の越前市(グーグル・マップ・データ)の旧称である。岩波文庫(同書のルビについては歴史的仮名遣ではないので注意)では本文を『府中の町上比志(かみひじ)』とするが、現行地名に「比志」はなく、「ひなたGPS」で戦前地図も閲したが、ない。但し、本篇を殆んど転用した「諸國百物語卷之二 三 越前の國府中ろくろくびの事」の注で、私は、湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収。ネットでPDFで入手可能)から、『「かみひぢ」は「上市」』で、『「上市」は福井県武生市上市町か(現在の越前市武生柳町・若竹町)』というのを引用してある。ただ、柳町はここ、若竹町はここであるが、両者はかなり離れている(グーグル・マップ・データ)。なお、本篇の類話として湯浅氏は先の「諸國百物語」の他に、「太平百物語」の「卅六 百々茂左衞門ろくろ首に逢し事」も類話として挙げておられる。同書も私は全電子化注を終わっているので、リンク先を見られたい。
「さはや野」岩波文庫は『沢谷野(さわやの)』。先の不詳の地である「澤谷」の「野」原。
「聊爾(れうじ)なる」元は「考えのない軽率な行為」を指すが、ここは,謙辞で「ぶしつけ乍ら」「失礼では御座るが」の意。
「人間にて渡らせ給ひけるか」「渡る」は中世以降に「せ給ふ」「せおはします」などとともに用いて、「ある」「居る」の尊敬語となった。「正真正銘の人間でいらっしゃいましたか!」「~あられましたか!」。
「北野(きたの)眞西寺(しんせいじ)」北野天満宮の東直近にある、現在の京都府京都市上京区真盛町(しんせいちょう)の天台宗真盛山西方尼寺(さいほうにじ:グーグル・マップ・データ)。寺伝によれば、文明年間(一四六九年~一四八七年)に真盛を開山として大北山の地に尼僧の道場として建立され、永正年間(一五〇四年~一五二一年)に現在の地に移って、「西方寺」と改めた。本尊阿弥陀如来像は椅子に腰かけた中品中生の印を結ぶ珍しい仏像であり、重要文化財指定の「絹本著色観経曼荼羅図」は大和当麻寺の中将姫所縁の著名な「綴織観経曼荼羅」(当麻曼荼羅)を鎌倉時代に転写したものである。また、境内には秀吉の北野大茶会に於いて、千利休が用いたとされる「利休の井」が残る(以上は「京都市上京区」公式サイト内の「上京区の史蹟百選/西方尼寺」の記載に拠った)。]
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