早川孝太郞「三州橫山話」 「凧揚げ」・「七月十三日」・「法歌」 / 冒頭第一パート~了
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]
○凧揚げ 五月に近づいてからは、風の方向が一定して來るものと謂つて凧を揚げましたが、初《はつ》の節句のある家へは、五月一日に村のものが集つて凧張りをやつて、それをお祝いに持つて行く風習がありました。凧の大きさは、大抵西の内紙六十枚だから百二三十枚で家の貧富によつて異なつてゐました。そして其を揚げるべく、晴れた日には、村の各戶から男が出て每日揚げに行きました。貰つた方の家では、煮〆や酒などを用意して、凧揚げの後を追つて步いて振舞ひました。丁度麥の收獲[やぶちゃん注:ママ。]の濟んだ頃で、畑がみんな取片附けられた跡を自由に飛步《とびある》いて揚げました。初の節句の家へは、知人や親戚などからも、鯉幟の外に凧を祝ひ物にするので、それをもみんな、手分けして揚げてやるのでした。
晴れた日には、心地よい南風に送られて、次から次と大凧小凧が、空を覆つて揚つてゐて、其等が立てる樣々な唸りの聲に、心も自づと沸き立つやうで、年取つた男などでも、凧揚げの間は仕事が手につかないと謂ひました。大凧が切れたなどゝ謂つて、辨當持《べんたうもち》で遠くの村へ探しに行くものもありました。五月五日を最後として、其日は念入りな振舞があつて、日の暮れる迄名殘を惜しんだものでした。其日折惡しく雨が降つた爲め凧揚げが出來ない鬱憤に、村の重立《おもだ》つた者に糸をつけて、其が凧になつて座敷を踊り步いたなどの話がありました。
五月六日の一日だけは、特に糸干(イトボシ)と云ふ名目で、揚げる事を許されてゐると謂ひましたが、其後は、どんな子供までが揚げない習はしで、田植が濟んで、村の農休みの日には、一日揚げても差支《さしつかへ》ないものと謂ひました。
[やぶちゃん注:「其日折惡しく雨が降つた爲め凧揚げが出來ない鬱憤に、村の重立《おもだ》つた者に糸をつけて、其が凧になつて座敷を踊り步いた」何故か、見もしないのに、懐かしさの擬似的なフラッシュ・バックが起こる。私は、凧揚げは、幼稚園児だった頃、大泉学園の家の隣りの空き地で、泣きながら、地面を引きずった記憶しかなく、揚げたことは、ないくせに、である。
「初の節句のある家」言うまでもないが、「初節句」(はつぜっく)で、子が生まれて最初に迎えるそれ。女児は三月三日、男児は五月五日がそれに当たる。]
○七月十三日 新竹《しんちく/しんだけ》にて花壺を拵へて、墓地や地の神や家の入り口に立てます。此日の夕方靈迎《りやうむか》へに墓地へ行つて、松火《たいまつ》を焚きました(佛に供へる松火は藁にて二ケ所結《ゆは》へ、神に供へるものは、三ケ所結《むす》ぶ)。其松火の火を持つて來て佛壇に移します。門の入口の道の傍《かたはら》には、新竹を六尺程の長さに切つて、枝を一ツ殘したものを立てゝ、其に松火を結びつけて、十五日夜迄每夜焚きました。これを高張《たかばり》と謂つて精靈《しやうりやう》に眼印《めじるし》と謂ひました。
○法歌 法歌《ほふか》は陰曆七月十五日の夜、新佛《にひぼとけ》のある家で行ふ一種の念佛踊りで、歌枕と音頭取りと、笛と鉦と太鼓から成立《なりた》つてゐて、鉦敲きの男と向ひ合つて、五尺程もある團扇《うちは》を背負つて胸に太鼓をつるした男が三人縱列に列んで、次にサヽラを背負つた男が續きます。其等の人々の裝束は、油紙を覆つた菅笠を冠つて、手甲《てつかふ》と脚絆《きやはん》をつけて、着物は腰のところでくゝし上げて膝の上あたり迄に短かく着て、紙の緖《を》の草履を履いてゐます。團扇は、背中に靑竹を三叉《みつまた》に組合せたものに、竹で支柱を立て、それへ魚の背鰭の向《むき》に縛りつけて、それを白木綿《しろもめん》で背負つてゐました。其團扇には紋が描いてあつて、先登《せんとう》が鷹の羽《は》で、あとは、丸に十や、カタバミなどでした。踊る時は、笛や歌枕の者は、列の側面に竝んでゐるものでした。
盆が近づいて來ると、村の者は、每晚寺へ集つて、法歌の稽古をして、老人の差圖によつて、若い者は團扇を背負つては踊るので、背中へ、タコが出來たなどゝ云ひました。十四日の夜になると、寺から行列を調へて新佛のある家へ、練つて行きました。これを道行きと謂つて、五彩の萬燈《まんとう》を弓の柄に吊《つる》して先登に立ちました。これを露拂《つゆはらひ》と謂ひました。新佛のある家では、表に百八の松火を焚いて迎へます。多勢《おほぜい》の見物人を隨へた行列は靜かに繰り込んで來て、萬燈は表の一番上手に立てられます。それから歌枕の調子に合せて、團扇を背負つた者は、兩手で太鼓を敲きながら、鉦につれて足拍子をとつて、前後に進退して踊りました。其家の新佛によつて、歌枕が異なつてゐて、乳呑兒《ちのみご》を殘して逝《ゆ》いた若い母親の靈を慰める文句を哀れに歌ふ時などは、見物の女の淚を絞つたと謂ひます。わけて子供の爲めに塞《さい》[やぶちゃん注:ママ。後の『日本民俗誌大系』版では「賽」となっている。]の河原の歌枕などは、幾度聞いても、あかぬものであつたと謂ふ女もありました。
一囘踊りが濟むと、團扇を下《おろ》して休みますが、其時に小豆粥の振舞が出て、裕福な家などでは、赤飯や酒などを出しました。此振舞に預かつてから今度は御禮と謂つて、オネリと云ふ踊りをやりましたが、これは身に何の道具も附けないで、各自が歌ひながら入り亂れて踊りました。この踊りにも巧拙があつて、樣々な假裝をして踊るもありました。オネリを始めると謂ふと、早速見物の中へ飛込んで、女の着物を借りて踊つたり、又前々から仕度して置いて、モヤ(薪)の束を背負つて、赤い腰卷一つて[やぶちゃん注:ママ。「で」の誤植。]踊つて見物をあつと謂はせたなどゝ謂ひました。[やぶちゃん注:太字傍線は底本では「傍点「﹅」。]
此日橫山の南方に聳立《そび》えてゐる[やぶちゃん注:漢字はママ。]舟着山《ふなつけやま》の中腹の市川と云ふ村で、山一ぱいに鍋弦《なべづる》の形に萬燈を焚くので、其が明《あきら》かに眺められて、遙かに興を添へるやうでした。
茶法歌《ちやほふか》と謂ふのは、三年忌に當る佛の爲め、簡單に踊るものでした。法歌も明治三十二三年頃迄は、每年行つたものでしたが、寺が燒けて道具を全部燒いてしまつたのを境に、行はれなくなりました。佐々木九左衞門と云ふ男が歌枕の上手で、又法歌の故實に詳しかつたさうですが、此男の亡きあとは、早川虎造と熊十と云ふ男が歌枕と音頭取であつたさうですが、今は熊十一人が、名殘を留めてゐるのみと云ひます。
[やぶちゃん注:早川氏がかく記されてより百二年が過ぎた。この如何にも素朴なオリジナリティに富んでいた横山独特の法歌や踊りは、これ、果して、今も伝承されているのであろうか。
「舟着山」既注であるが、再掲しておくと、現在の愛知県新城市市川山中(グーグル・マップ・データ)に船着山(ふなつきやま:現行の山名)があるが、ここは少なくとも豊川左岸までは旧舟着(ふなつけ)村であろうと思われる。「ひなたGPS」の戦前の地図では村名には「フナツケ」とあり、そちらでは、村名は「船着村」であるが、山は「舩着山」の表記となっている。
「明治三十二三年」一八九九年、一九〇〇年。]
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