西播怪談實記 山﨑の狐人を殺し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。【 】は二行割注。]
○山﨑の狐《きつね》人を殺(ころせ)し事
宍栗(しそう)郡山﨑《やまさき》の御藏本《おくらもと》、出石《おんくらもといだいし》といふ所に在《あり》【町を六、七町、隔《へだつ》。】。
正德年中の事なりしに、此所(この《ところ》)の米藏に、狐、子(こ)を產(うみ)けり。
ある時、山﨑の町人、彌兵衞といふものゝ子、あそびに行《ゆき》て、彼(かの)狐の子を、壱つ、取出(とり《いだ》)し、もてあそびしに、いかゞしたりけん、死(しに)けり。
それより、四、五日も過《すぎ》て、彌兵衞が妻、其子をつれて、夜に入《いり》て、出《いで》て歸《かへら》ねば、更(ふけ)て、町内を尋迥(たづねまは)りけれども、行方(ゆきかた)、しれず。
「いかなる事にや。」
と、一家(いつけ)は申《まをす》に及《およば》ず、隣(となり)町のもの迄、來《きたり》つどひ、翌日は、手わけをして尋(たつね)ければ、子は、出石川《いだしがは》に、沉(しつみ)に懸《かけ》て在《あり》、母は、「ひじ村」といふ所の「七里が岡」といふ峠に、葛(かつら)にて、幾重ともなく、留(とめ)もなく卷《まき》て、大きなる松の枝に、三、四間、引上(ひき《あげ》)られ、死居《しにゐ》けり。
「是、狐の仕業(しはさ)。」
と決しければ、剌史(しし)、是(これ)を聞《きき》給ひ、
「憎き狐の仕業かな。子壱つに、あたら、人間を二人迄殺(ころし)し事、きくわい千萬也。狐狩(きつねかり)をして、我(わが)領内の狐は、壱つも、助《たすけ》まじ。」
と、家中・百姓迄に、嚴密に仰出(おほせ《いだ》)され、既に、日限、定(さたまり)たる前夜に、出石の藏奉行伊呂波立右衞門(いろは《たちゑもん》)といふものゝ庭に、狐、二つ、來たりて、つくばい居たり。
立右衞門、いひけるは、
「汝、子の代(かはり)に、人を、二人迄殺(ころせ)し事、あまりなる致方(しかた)なり。是によつて、旦那、御立腹(《ご》りつぷく)つよく、明日(あす)、狩をして、汝等を悉く殺(ころさ)んと計(はか《り》)給ふ。汝等、又、不便(ふびん)也。今宵の内に、急ぎ、何方(いつかた)へも、立退(たちのく)べし。」
と、いひければ、狐二ッ、踏段(ふみ《だん》)の下に頭(かしら)を伏(ふせ)て、後(のち)に立去《たちさり》しが、翌日、さばかり嚴重の狩に、狐壱つも得給はず、とかや。
後に或人、申《まをし》けるは、
「夜更《よふけ》て、『狐の子のかわゆきも、人の子のかわゆきも、同じ事なり。』といひて、三、四人づれにて、通りたる音しけるが、偖《さて》は、其節《そのせつ》、たぶらかして出《いで》たるにや。」
と沙汰しけると也。
此事、山﨑の肉緣(にくゑん)のものより聞ける趣を書つたふもの也。
[やぶちゃん注:「宍栗(しそう)郡山﨑」現在の中心地は兵庫県宍粟市山崎町山崎(やまさきちょう:グーグル・マップ・データ)附近。
「六、七町」約六百五十五~七百六十四メートル。
「御藏本」村の年貢の集積や凶荒・非常時のための米蔵と思われる。
「出石」グーグル・マップでは見当たらなかったが、「ひなたGPS」の戦前の地図と現在の国土地理院図を並べたところ、前者のここに「出(イダ)石」があり、現在の地理院図にも「出石」の地名が確認出来た。
「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。
「狐、子を產けり」ホンドギツネ(本州・九州・四国に分布する食肉目イヌ科キツネ属アカギツネの日本固有亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica)の繁殖期は、地域によって差があるが、十二月から二月頃の冬季で、♀の妊娠期間は五十二日前後とされている。 通常は平均して一回の出産で四、五匹を出産するが、多い時は十匹前後を産むことがある。
「出石川」伊保川の出石での部分名呼称、或いは、この附近の左岸に複数見られる小流れの名であろう。
「沉(しつみ)に懸て在」殆んど沈みかかった状態で遺体が見つかったのである。
『「ひじ村」といふ所の「七里が岡」といふ峠』「ひなたGPS」のここで、現在の山崎町にもあるが、上・中・下を冠する「比地」(ひじ)の地名(旧地図では「城下(ジヤウシタ)」村である)が確認でき、幾つかの山越えルートがあるので、この辺りの峠の名と推定される。
「留(とめ)もなく卷て」どこかを松の枝のどこかに巻き縛ったり、結び目を作ったりせずに、完全にぐるぐる巻きにぎゅっと巻きつけてあることを言うのであろう。普通、人がやれば、緩みが生じないように、途中で結んでコマを作るであろう。異様な力で一気に一本の葛の蔓でもってぎっちりと隙間なく松に縛りつけている辺りが、人間技(わざ)ではないわけである。
「三、四間」五・四五~七・二七メートル。
「剌史(しし)」国司の唐名。ここでは当地を当時支配していた本多家山崎藩一万石の当主を指す。当時は初代藩主本多忠英(ほんだただひで)であった。山崎町は同藩の城下町(後に陣屋町)として繁栄していた。]
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