西播怪談實記 姬路を乘物にて通りし狐の事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。
消息文は雰囲気を出すために句読点を打たなかった。]
○姬路を乘物にて通りし狐の事
正德の年號も、まだ、初方《はじめつかた》の事なりしに、姬路の年行司所《ねんぎやうじどころ》へ、先觸《さきぶれ》壱通、到來す。其文に曰《いはく》、
「此度(このたひ) 御典藥(ごてんやく)木下雲菴(うんあん)壱人 肥前國長崎江藥草御改爲(をんあらため)御用被遣(さしつかはさるゝ)ニ付 御朱印 人足四人 被下置間(くたしをかるゝあいた) 員數(いんしゆ) 御證文(《ご》しや《う》もん)之通《とほり》 徃來共(わうらい《ども》) 宿々《しゆくじゆく》 無滯(とゝこをり《なく》)可差出者也《さしいだすべきものなり》 正德二年辰三月日」
包紙(つつみ)の上に、
「御證文之写(うつし)」
と在《あり》、外ニ壱通、在、其文に曰、
「覚《おぼえ》 人足四人 右者 此度 木下雲庵 藥草御改爲御用[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、ルビに『として』が添えられてある。] 肥前國長崎江罷越侯ニ付 被下候間 宿々 無滯差出可給候以上 辰ノ三月日 木下雲庵内《うち》 山本伴七(《やま》もとはん《しち》」
とある觸書、到來によつて、宿役《しゆくやく》のもの、人足、用意して待《まち》ゐたりける。
然《しかる》に、翌日、出來《いでき》たる乘物、結講[やぶちゃん注:ママ。](けつかう)にして、醫者、年、五十斗《ばかり》に見へて、有髮(うはつ)なるが、乘物の内にて、卷臺(けんだい)に向居(むかいい)たり。
其器量、宜(よろ)し。
若黨・草履取・長刀持(なぎなた《もち》)狹箱(はさみばこ)、供𢌞(とも《まはり》)は三人也《なり》しか、狹箱には、
「御用」
と有《ある》札《ふだ》を立《たて》、正条《せいてう》の驛(しゆく)ヘ越《こし》にけり。
かくて、三日後に、又、壱通、到來す。其文に曰、
「此間《このあひだ》 藥草御改爲御用[やぶちゃん注:同前で『として』とある。]醫師壱人并從者(すさ)三人 肥前國長崎江相下(あいくたり) 宿々 御朱印 人足にて 相通り候旨《むね》 粗(ほゝ)相聞《あひきこ》江候ニ付 追々 遂(とげ)吟味(きんみ)候所 右之者共 狐ニ而《て》 宿々 誑(たふらかし) 相通《あひとほ》リ候樣子 相聞江候 此後(このゝち)右之共 罷歸候者(まかりかへり《さふらはば》) 搦捕(からめとり) 其所之者共 如何樣(いかやう)共《とも》可(へき)相斗(あいはかる)者也 月日 宿々」
と在《あり》。
是を聞《きく》ものども、橫手(よこて)を打《うち》けるが、後《のち》に聞《きけ》ば、
「播州斗《ばかり》の事。」
と聞へし。
「跡よりの觸書《ふれがき》も、狐の仕業(しはさ)。」
と聞へて、觸出(ふれた)し・觸留《ふれどめ》もなく、二度、恂(ひつくり)しけるよし。
聞つたふ趣を書傳ふもの也。
[やぶちゃん注:怪奇談というより、私の好きなニコライ・ゴーゴリの戯曲「検察官」(一八三六年初演)並みに面白い騙しの擬似テクニカル・ホラーである。事実あったこととすると、甚だ痛快ではないか!
「年行司所」都市の経済的に裕福な町衆や商工業者から選ばれた代表が、一年期限で務めた当該地区に於ける自治組織。
「御典藥(ごてんやく)」朝廷・将軍家及び大大名お抱えの医師。ここは幕府方のそれであろう。
「正德二年辰三月」壬辰。グレゴリ曆では一七一二年四月六日から五月五日までの間。
「宿役」年行司所の中の、宿の手配と接待を兼ねた担当者であろう。
「卷臺(けんだい)」「見臺」のことであろう。「書見臺」の略。書物を載せて読むための台。
「若黨・草履取・長刀持(なぎなた《もち》)狹箱(はさみばこ)、供𢌞(とも《まはり》)は三人也」ちょっと不審。「長刀持ち」と「挾箱持ち」は一緒に持つことは物理的に出来ないと思う。
「正条の驛(しゆく)ヘ越《こし》にけり」現在の兵庫県たつの市揖保川町正條(いぼがわちょうしょうじょう)にあった西国街道を横切る揖保川の東の「正條宿(グーグル・マップ・データ)へと向かった」の意。
「罷歸」この部分、「罷」は底本(右丁七行目下)では逆立ちしてもちょっと判読出来ないものであるが、「近世民間異聞怪談集成」に従って翻刻した。
「橫手(よこて)を打ける」思わず両手を打ち合わせる。意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた。」と思い当たったりしたときなどにする動作。
「恂(ひつくり)」この漢字は「まこと・まことに」「またたく・目がくらむ」の他に「怖れる・恐れ戦く」の意がある。「吃驚」に同じ。]
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