早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「雨夜を好む猪」・「要心深い猪」・「昔の猪と今の猪」・「シシの井(猪の膽)」・「猪の牙」・「猪と鹿」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]
○雨夜を好む猪 猪は闇の夜を好んで出ると云ひますが、殊に雨のそぼ降る夜などは、好等の書入《かきい》れ時だと謂《いひ》ます。
[やぶちゃん注:確かに、猪は雨の夜を好まない傾向はない。猪については、後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪』(本カテゴリで全十九章)も参照されたい。
「好等」ママ。「奴等」の誤植か。]
○要心深い猪 猪は田甫《たんぼ》へ近づいてからは、極く靜かに要心深く步いて、崖を飛降りたり、堀を越したりする時のほかは、滅多に肢音《あしおと》を立てぬと云ひます。矢トーなどにかゝるのは、崖などを飛降りる時、かゝるのだと云ふ人もありました。又、田圃へ入る時でも、田圃に最も近い茂みの中から來ると云ひます。たとひ其處が大變な𢌞り道でも。
[やぶちゃん注:「田甫」前にもあったが、ここでは後を「田圃」と書いており、誤植の可能性が疑わられる。
「矢トー」前回の注を参照されたい。]
○昔の猪と今の猪 猪も明治三七八年頃には、殆ど出なくなつて、猪の害と云ふものを聞かなくなりましたが、それもほんの僅かな期間で、明治四十年頃から、再び出始めた猪は、古老の話によると、四五十年來、なかつたと云ふ程出るやうになつて、畑の甘藷を堀[やぶちゃん注:ママ。]つたり、軒端に積んで置いた稻を喰べたなどゝ云ひました。それに其頃出る猪は、性質なども昔とは一變したやうに、出る場所は大槪きまつてゐたものが、殆ど想像もつかぬ所へ出たり、又、巾が四尺以上もある人間の道路などは、決して橫切らなかつたものが、そんな事は平氣で、涉《わた》つて步いて[やぶちゃん注:ここに読点が欲しい。]出る處がさつぱり見當がつかないと云ひます。
昔の猪は夜の間、田や畑を荒して、晝間は附近の山の中に寢て居たもので、女が草刈りに山へ行つたら、猪がボロー(雜草や蔓草などが亂れ茂つた處)に鼾《いびき》をかいて寢てゐたとか、男が日が暮れてから山に仕事をしてゐたら、猪が子供を連れて其處へ出かけて來たのに、吃驚して逃げて來たなどゝ云ふ話もありました。近來の猪は、遠く十里も十五里もの奧山から、峯傳ひに來て、夜が明けぬ間に歸つてしまふので、昔のやうに、擊つ事が出來ないと、獵師が話しました。
猪も每年少なくなつて行くと云ひますが、現今でも時々出て、なかなか油斷はならないと云ひます。
[やぶちゃん注:猪も生存のために学習し、習性が人間の都市社会にさえ適応していることは、昨今の市街地での騒動でも明白である。猪を侮ってはいけない。そもそも、彼らは非常に頭がいい。猪が家畜化された豚は、まず、調教しても芸が出来ないが、猪は芸が出来る。昔、妻と行った「天城いのしし村」(二〇〇八年十一月三十日閉園)が懐かしいな。
「明治三七八年」一九〇四、五年。]
○シシの井(猪の膽) シシのヰは、人間の體に、非常な效能のあるものと言つて、貴重なものとされてゐました。瀕死の病人などでも、これを飮んで囘復しないのは、よくよく壽命がないものだと云つてゐました。
獵師の家には、何時でも貯へてありましたが、普通の家でも大切に保存してゐる家がありました。私の家などでも、シヽのヰや、油を、昔は獵師の家から歲暮に貰つものださうです。
[やぶちゃん注:「シシの井(猪の膽)」「シシのヰ」猪胆(ちょたん:乾燥した猪の胆囊)は中国古代から漢方薬として用いられている。本邦でも珍重されたことは、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十四 猪買と狩人』や、同「猪 十五 猪の膽」を読んでも判る。但し、その乾燥品で急性E型肝炎を発症したケースがネット上で確認出来るので、注意されたい。]
○猪の牙 猪の牙は魔除けになると云つて、大切に藏《しま》つてある家がありました。
[やぶちゃん注:これは猟師やマタギらの古来からの習慣でもある。牙だけでなく、毛や鬣(たてがみ)が魔除けになるといって、現在、ネットでも販売されている。]
○猪と鹿 猪はどんな急所を擊つても、決して一度では斃れぬと云ひますが、鹿の方は、屛風を倒すやうに、見事に倒れると謂ひます。又、手負《ておひ》猪は次第に山深く遁げ入り、手負鹿は、段々里近く、水のある所へ出て來るものと謂ひます。
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