薩摩家豐臣秀賴公の眞蹟進獻の事 附江戶赤坂山王權現神職の事
[やぶちゃん注:読点・記号を追加し、段落を成形した。「あん人、生きとってごわした!」トンデモ話である。]
○享保年中、薩摩家老猿渡某、江戶へ出府して、老中松平左近將監殿宅ヘ參じ、
「ひそかに申上る用事にて、出府致(いたし)たる。」
由、申ければ、對面ありし時、猿渡、墨塗の箱、封印したるを指出(さしいだ)し、
「薩摩守、申上候。在所にて、去年、彼(かの)人、死去仕候に付、かやうのもの、所持致し候ても、却(かへつ)て御當家(ごたうけ)の御恥辱にも相成可ㇾ申儀と、恐(おそれ)ながら奉ㇾ存候間、ひそかに返上仕候。仍(よつ)て持參致し候。」
由、演說せしかば、右の箱を、左近將監殿、御請取在(あり)て、卽刻、登城あり、右の次第、言上に及(および)しかば、有德院公方樣[やぶちゃん注:吉宗。]、開封、御覽有しに、豐臣家へ、東照宮より遣(つかは)されたる「起鐙文」也。
「秀賴、十五歲に及ばば、政務の事、返し、屬せらるべき。」
よしの文言とぞ。
何の上意もなく、只、
「彼(かの)人、何歲にて死去ありしや。子孫も在しや。委敷(くはしく)承候やうに。」
上意あり。
左近將監殿、歸宅の後、猿渡をめされ、御尋ありしに、
「彼人、去年百三拾七歲にて、死去いたされ候。百廿一歲のとき、男子、出生に付(つき)、當時、存命いたし罷在候。其以前も、男子壹人、出生いたし在ㇾ之候得共(さうらえども)、死去いたし、當時、存命のものは、壹人に御座候。外に、女子、三人在レ之候。何れも家老どもへ、緣組いたし候。」
よし申ければ、右の通り上聞に達せしに、
「來春、薩摩守、參勤のせつ、右の男子、同道いたし候やうに。」
と上意にて、猿渡、歸國せり。
翌年、薩摩守殿、右男子、同道にて、參勤ありしよし、言上に及びければ、何となく御目見得仰付られ、則(すなはち)、右の男へ、新知(しんち)五百石、賜はり、赤坂山王の神主(かんぬし)に仰付られ、「樹下民部(きのしたみんぶ)」と名を下され、子孫、今に相續せり。
しかれば、大坂落城のとき、豐臣内府は、薩摩へ落(おち)られたるものか。
但(ただし)、百三拾七歲まで存命の事、めづらしき事也。「樹下」は、則、「木下」の意なり、とぞ。
[やぶちゃん注:「彼人」底本の竹内利美氏の注に、『豊臣秀頼は大坂落城の際、実は死亡せず、ひそかに薩摩に脱出し、そこで余生を終えたという話は、かなりひろく流布していた。その一例である。この話は起請文や』、『その子孫民部のことまで添えられ、百三十七歳という高齢さえもっともらしくきこえる。なお』、『老中松平左近将監は、佐倉の領主松平乗邑』(のりさと)『である』とあった。]
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