「曾呂利物語」正規表現版 七 罪ふかきもの今生より業をさらす事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(本篇は載らない)。なお、本篇には挿絵があるので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入した。]
七 罪ふかきもの今生(このじやう)より業(ごふ)をさらす事
宮古(みやこ)[やぶちゃん注:京都。]北野近(ちか)うに慳貪(けんどん)なる女、あり。まことに、善根なる心ざしは露ほども無(な)うして、惡業(あくごふ)は須彌(しゆみ)の巓(いたゞき)にも越えつべし。
さるつれあひの男、用の事有りて、一條戾橋(でうもどりばし)の邊(へん)を、曉方(あかつきがた)に通りしが、橋の下に死人(しにん)の有りけるを、老女が、引き裂き、引き裂き、食ひけるを、よくよく見れば、我が子の母なり。
[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、「罪ふかき者今生ゟ」(より)「ごう」(ママ)「をさらす所」である。]
不思議といふも愚かにて、急ぎ、我が屋に立ちかへり、母の、いまだ、臥して有るを、起しければ、驚き、起きあがりて、
「さてさて、おそろしき夢を見つる中(うち)に、嬉しくも、おこさせ給ふものかな。」
といふ。
「いかなる夢を見給ひつる。」
と謂へば、
「橋の下に、死人のあるを、引きさきて食ふと思ひしが、夢心にも、『こは、淺ましきことかな。』と思ひしながらも、食ふは嬉しき心地ぞかし。」
といふ。
程なく、彼のもの、身まかりにけるが、今生の罪業深かりしかば、來世はさこそと思ひやるさへ、不便(ふびん)なり。
[やぶちゃん注:同時期に出版されたもので、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』は展開部のコンセプトに強い類似性が認められる。また、後発の「諸國百物語卷之一 五 木屋の助五郎が母夢に死人をくひける事」は明らかに本篇の転用である。なお、『西原未達「新御伽婢子」 人喰老婆』は、京都が舞台で、橋の袂に「人喰姥(ひとくひうば)」が出現するというコンセプトが親和性を持っている(以上は総て私の過去の電子化注である)。
「さるつれあひの男」「我が子の母なり」という表現が、私には妙に躓く。「さる」には、この女が複数の男と関係を持っていたことを暗示しておきながら、家にいる子は、確かにこの男の「我が子」であり、産んだのは、妻であるという変なニュアンスを嗅がせるためであろうか?
「一條戾橋」既出既注。]
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