柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 天狗の話
[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。
注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。
なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、明治四二(一九〇九)年三月発行の『珍世界』三号の初出である。
「天狗」については、私のブログ記事では枚挙に遑がない。本格的怪奇談の中でも個人的に好きな話は有意に複数あり、特に幾つかを選ぶというのも出来難い。天狗譚を包括的にタイプに分けて詳述したものとしては、やはり柴田宵曲「妖異博物館」がよいと思われる。「秋葉山三尺坊」・「天狗と杣」・「天狗の姿」・「天狗になつた人」・「天狗(慢心)」、そして全三回分割(ブログ・カテゴリ「柴田宵曲」)の「天狗の誘拐」、続く「天狗の夜宴」・「天狗の爪」が必要にして十分であろう。あちこちに色目を使ったウィキの「天狗」記載なんぞより、遙かに豊富であり、読んで面白い。江戸怪談よりも前の古典籍では、まず、『「今昔物語集」卷第十「聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四」』と、「今昔」の中では隠微淫猥度満点の『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』がお勧めで(私の注・現代語訳附き)、それを論考した『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(4) / 卷第十 聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四』も公開済みである。
なお、本論考の常体と敬体が混じっているのはママである。]
天 狗 の 話
一
私が天狗を硏究して居るといふのは無論虛名である。只昔の人の生活を知るために、いろいろの方面から考へて居る間に、自然少しくそんな點にも心ついたのである。從つて天狗に關し何等の結論をも持つて居らぬ。今の人は何でも普通の論理で物を討究しようとするが、おばけにロジックは無いから、不理窟でも現れる。それを嬉しがる私が分らぬのか、當世人が話せないのか、何だか知らぬが、こんな話もあるといふことで聽いて貰ひませう。
我國には一時非常に奇怪な物語を喜び、利口な人が集つては所謂空虛を談ずるといふ、一種デカダン氣風の盛んな時代が有つた。この時代を我々は假に今昔時代といふ。天狗傳說に羽が生えて天下を飛び𢌞つたのはこの時代のことである。今昔時代には只の鬼と天狗とは別種の魔物と考へられて居つて、各々偉大なる勢力を振つて居つた。その後鬼黨は次第に零落して、平凡なる幽靈亡靈の階級まで退却して了つたが、これに反して天狗國は久しく隆々として、田舍及山間を支配して居つた。天狗の社が出來たのは却つてこの次の時代である。今日と雖も決してその領域は縮んでは居らぬ。
但し天狗道にも時代があれば從つて時代の變遷がある。中世の歷史を見ても、南都北嶺の僧侶たちが大多數京師人の子弟である世には、その行ひや殊勝であつたが、一旦武家が勢力を加へてその子弟を坊主にすれば、法師でも强くてあばれる。德川時代に百姓の子が僧になれば又おとなしくなる。正法《しやうほふ》の對象である所の魔道でも、これと同じ道理で、武家時代の天狗にも亦、武士的氣風がある。元來天狗といふものは神の中の武人であります。中世以來の天狗は殆と武士道の精髓を發揮して居る。少なくも武士道中の要目は天狗道に於て悉く現れて居る、殊にその極端を具體して見せて居る。卽ち第一には淸淨を愛する風である、第二には執着の强いことである、第三には復讎を好む風である、第四には任俠の氣質である。儒敎で染返《そめかへ》さぬ武士道はつまりこれである。これ等の道德が中庸に止れば武士道で、極端に走れば卽ち天狗道である。殊に高慢剛腹《がうふく》の風といふものは、今日でも「あの人は天狗だ」などと、諺になつて都會にも行はれて居る。少なくも近代魔道の一大徵侯としてある、王朝時代の天狗に比べると大分變られた點がある。明治の新時代の天狗はこの上更に如何なるアットリビュートを添へられることか、長命をして知りたいものである。この事實は一方から論ずれば又國民性の煥發とでもいふか頗る面白いことである。西洋でも北部歐羅巴に今なほ活動して居るフェアリーの如き、その發祥地である所のケルト民族の特性をよく代表して居る。フェアリーの快活で惡戲好でしかも又人懷《ひとなつ》こいやうな氣風は慥にセルチックである。フェアリーは世界のおばけ中《ちゆう》正《まさ》に一異色である。これに比べると天狗はやゝ幽鬱である。前者が海洋的であればこれは山地的である。日本は内外人の想像して居るよりも一層の山國である。山高きが故に貴からず、高くは無いが深山は甚だ多いのである。我々の祖先は米が食ひたさに爭つて平地に下つた。平地と山地とは今日なほ相併行して入交《いりまじ》らざる二つの生活をして居る、從つて平野居住者が丸々天狗傳說を忘却しても、他の一半の日本に於る魔道の威力は必ずしも衰微したものとはいはれぬのである。
[やぶちゃん注:「アットリビュート」attribute。アトリビュート。対象に元来備わっている(とされる)属性。
「セルチック」Celtic。セルティック。「ケルト人の」「ケルト語の」を意味する形容詞。]
二
併しながらこれがため我々平地人にとつて、所謂天狗道の愈〻了解しにくゝなつたことは亦事實である。語を換へていはゞ百年の昔に比べて不可測の範圍は却つて昔より大いに擴張した。一時神道の學者は好い磯會があつてその一端を窺ふことが出來たものだから、悅び勇んでその說明を試みたけれども、その效果は決して大なりとはいはれぬ。斯道が學者の取扱に適せぬ理由はいくらも有るが、第一に書いた物が少ない。多くの材料は空吹く風の如く消え易い口から口への話である。又幽冥に往來したといふ人の物語、これが史料としての價値はあまり高くない。神童寅吉卽ち高山平馬の話、又は紀州の或學者の筆記した少年の談話の類は五つも七つもあるけれども、その間に何等共通の點が無く、一つの世界の話とは如何にも受取られぬ。成ほど虛誕では無からう、本人は正にかく信じたのであらう、併しこれを以て單純なる靑年の一妄想で無いとする根據に乏しい。何となればその記事は一つも學問のない若者の世間的智識乃至は想像の區域を脫して居らぬ。神道の學者は神道に片よつた幽冥談を悉く信ぜんとするけれども、佛道の方にも靈現記類の書物に佛道に片よつた幽冥談のよくこれに似たものがある。續鑛石集《ぞくくわうかくしふ》の下卷に出て居る阿波國不朽物語などはその一例であつて、形式は全然これに似て居る。立山の地獄、恐山の地獄の話の如きも筆者は人を欺くとも思はれぬから、少くもこれを見たといふ人が有つたのであらう。これ等の話が多く出て來れば來るほどこれを信ずることは困難になる。それよりも今日幽冥に交通して居る極めて少數の人々が、微々として笑つて何もいはないのはいくらゆかしいか知れない。併しそれでは我々の硏究のためには全然無方便である。
[やぶちゃん注:「神童寅吉卽ち高山平馬」平田篤胤の代表的神道書の一つとして知られる「仙境異聞」(全二巻・文政五(一八二二)年刊)。七歳の時、寛永寺の境内で出逢った神仙杉山僧正に誘われて天狗(幽冥)界を訪れ、彼らから呪術を身につけたという少年寅吉(下谷池の端で夜駕籠渡世をする庄吉の弟。後にそちらで高山白石平馬の名を授かる)からの聞書きをまとめたものである。別名「仙童寅吉物語」とも言う。私は若い時から、複数の版本で読んできたが、妄想作話型ではなく、意識的詐欺がパラノイアに高じたものとして、現在は全く評価しない。篤胤は彼を最初に保護していた雑学者山崎美成(よししげ)から強引に引き連れ、数年住まわせて聴き取りを行っている。ファナティクな篤胤は仕方がないにしても、馬琴を怒らせて絶交されてしまう若造ブイブイ高慢の美成がマンマと騙されているのは、痛快ではある。柳田の言うように、寅吉の語る一見整然とした異界の体系は閉鎖系自己完結型であり、検証のしようが一ヶ所もない点で(疑問や不審を問うと寅吉は決まって不機嫌になり、黙ってしまうのであった)、お話にならないのである。
「紀州の或學者の筆記した少年の談話」不詳。この手の話は上記の通りで、私は全く調べる気にならない。或いは南方熊楠の論考にあるのかも知れない。見つけたら、追記する。
「續鑛石集の下卷に出て居る阿波國不朽物語」怪奇談集。享保一二(一七二七)年刊。国文学研究資料館の「国書データベース」のこちらの原本当該部「六二八阿波國不朽物語ノ事」(114コマ目から)を視認出来る。]
誤解をせられてはこまるのは、假令些も硏究の好材料が得られないからといつて、不思議の威力には寸毫も增減する所は無いのである。幽界の消息と稱するものが假に不實であつたとすれば、幽界の勢力の强烈なることは却つて愈々深く感ぜられるのである。この世に不思議が絕えたらとか、近くは寶永年中より六十年に一度づゝ必ず現れる伊勢の御蔭參りはどうであるか、如何な樂天的學者でも單純なる社會心理の現象として說明し得られるか、御蔭參りの年には諸國に無數の御禮が降る、本物の御禮が空から降る、維新の際にも澤山降つた、大神宮の御祓も降れば關東には阿夫利山の御禮も降つた、これ等は學者の說明し得なかつた事實であつて、しかも亦嚴然たる事實である。偶然私と貴方とがこれを見なかつたからといつて、一言の下に否定し得るやうな簡單な問題ではありません。
[やぶちゃん注:「寶永年中より六十年に一度づゝ必ず現れる伊勢の御蔭參り」私のブログ・カテゴリ「兎園小説」(先年末全電子化注完遂)の『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」』以下で数回に亙って詳しく記され、私もかなりリキを入れて注を附してあるので見られたい。集団ヒステリーである爆発的「御蔭參り」の本格的発生は確かに宝永二(一七〇五)年とされるが、この時はまだ「御蔭參り」の呼称はなく、「拔け參り」と呼ばれていた。]
三
これはほんの一例、その他無數の魔界の現象があるが、これには到底門外漢は手を着けられぬのであらうか、今の處では先づ然りと答へるの外はあるまい。唯こゝに少しばかり、私の獨り心づいて居ることがある。昔から殊に近代に於て山中の住民が堅く天狗現象なりと信じて居るものゝ中で、どうもさうで無からうと思ふことがあります。山民は幽界を畏怖するの餘に、凡ての突然現象、異常現象を皆天狗樣に歸して了ふ。併しその一部分は魔王の與《あづか》り知らぬものがある。この濡衣を乾せば魔道の威光は却つて慥に一段を添へるであらうから一寸その話をして見たい。それは外でも無いが日本の諸州の山中には明治の今日と雖も、まだ我々日本人と全然緣の無い一種の人類が住んで居ることである。これは空想では無い、當世のロジックでも說明の出來ることである。順序を立てゝいふが、第一我國は小さな人口稠密な國でありながら、所謂人跡未到の地がまだ中々多い。國と國、縣と縣との境は大半深山である。平安の舊都に接しても、近江丹波若狹に境した山はこれである。吉野の奧伊勢紀州の境も深山である、中國四國九州は比較的よく開けて居るといふが、伯耆の大山《だいせん》、出雲の三甁山《さんべさん》の周圍は村里が甚だ少い。四國の阿波土佐の境山、九州の市房山地方も山が深い。京より東は勿論の事で、美濃飛驒から白山立山へかけての山地、次にはいやな名だが所謂日本アルプスの連山、赤石白根の山系、それから信越より南會津へかけての山々の如き、今日都會の旅人の敢て入込《はいりこ》まぬは勿論、獵師樵夫も容易に往來せぬ區域が隨分と廣いのである。これ等の深山には神武東征の以前から住んで居た蠻民が、我々のために排斥せられ窮迫せられて漸くのことで遁げ籠り、新來の文明民に對しいふべからざる畏怖と憎惡とを抱いて一切の交通を斷つて居る者が大分居るらしいのである。
中學校の歷史では日本の先住民は殘らず北の方へ立退いたやうに書いてあるが、根據の無いことである。佐伯と土蜘と國巢と蝦夷と同じか別かは別問題として、これ等の先住民の子孫は戀々として中々この島を見捨てはせぬ。奧羽六縣は少なくも賴朝の時代までは立派な生蠻地《せいばんち》であつた。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。又この方面の隘勇線《あいゆうせん》より以内にも後世まで生蠻が居つた。大和の吉野山の國巢《くず》といふ人種は蝦蟆《がま》を御馳走とする人民であるが、四方の平地と海岸が凡て文明化した後まで、我々の隣人として往來して居つた。新年に都へ來て舞を舞ひ歌を歌つたのはその中の一部であるか全部であるかは分らぬが、別に他國へ立退いたとも聞かぬ。播磨風土記を見ると、今の播但鐵道の線路近くに數部落の異人種が奈良朝時代の後まで住んで居た。蝦夷が遠く今の靑森縣まで遁げた時代に丹波の大江山にも伊勢の鈴鹿山にも鬼が居て、その鬼は時々京迄も人を取りに來たらしい。九州は殊に異人種の跋扈した地方であつて、奈良朝の世まで肥前の基肄《きい》、肥後の菊地、豐後の大野等の深山に近き郡には城があつた。皆所謂隘勇線であつたのである。故に平家の殘黨などが敗軍して深山に遁げて入ると如何なる山中にも既に住民が居つて、その一部分は娘を貰つたりして歡迎せられたが、他の一部分は或は食べられたかもしれぬ。
[やぶちゃん注:「生蕃」生蕃(中央の教化に服さない周辺の異民族)の来襲に備えるために設けられていた隘勇の歩哨線。長距離に亙り、各地に隘勇(要害を防衛するための警備兵や郷に賦役された人員)を配置した。
「吉野山の國巢」ウィキの「国栖」によれば、『国栖(くず、くにす)とは大和国吉野郡、常陸国茨城郡に居住したといわれる住民である。国巣、国樔とも書く』。「古事記」の『神武天皇の段には、国神イワオシワクノコを「吉野国巣之祖」とする。また』、「日本書紀」の『応神天皇』十九『年の条によれば、応神天皇が吉野宮へ行幸したときに国樔人が来朝し、醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝える。同条では』、『人となり淳朴で山の菓』(このみ)『やカエルを食べたという。交通不便のため』、『古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後』、『国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し』、『風俗歌を奉仕したようで』、「延喜式」では『宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている』。「常陸国風土記」には、『同国の国巣は「つちくも」「やつかはぎ」とも称したとあ』り、『―、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)』と記されてある、とある。
「肥前の基肄」肥前国(現在の佐賀県)にあった旧基肄郡。旧郡域は当該ウィキの本文と地図を参照されたい。]
さてこれ等の山中の蠻民が何れの島からも舟に乘つて悉く他境に立退いたといふことは、とても出來ない想像であつて、なる程その大部分は死に絕え、乃至は平地に降つて我々の文明に同化したでもあらうが、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をして深山の底に踏留《ふみとどま》り野獸に近い生活を續けて、今日迄も生存して來たであらうと想像するのは、强ち不自然なる空想でも無からう。それも田畑を耕し住家を建てればこそ痕跡も殘るであらうが、山中を漂泊して採取を以て生を營んで居る以上は、人に知られずに永い年月を經るのも不思議でなく、況や人の近づかぬ山中は廣いのである。
併し永い年月の間には屢〻我々の祖先にも見られた。常陸風土記にある海岸地方の巨人の跡の話、これは珍しくも無いが唯巨人とあるが注意すべきである。この蠻民を諸國で皆大人《おほひと》といつて居る。出雲松江の大人塚は雲陽志に見えて居る。秋田地方は今でも大人といふとは小田内《おだうち》君の話である。飛驒の山中に大人が住んで居つて獵師がこれと交易をしたといふことを徂徠先生が書いて居る。怖いから大きく見えたのか、その足跡は甚だ大きいといふ記事が作陽志にも有る。併し大人といふよりも分りのよいためか、今日は山男山女といふ方が通用する。又山童《やまわろ》ともいふ。冬は山童夏は川童といふ說は誤《あやまり》であらう。
[やぶちゃん注:「常陸風土記にある海岸地方の巨人の跡の話」「大櫛之岡」。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のこちらで当該部が視認出来る(漢文訓点附き)。茨城県水戸市大串町にその伝説に基づく「だいだらぼう像」(グーグル・マップ・データ)が建つ。ここは「大串貝塚」で、石器時代遺跡の記録された日本最古の例である。
「出雲松江の大人塚」「雲陽志」は「雲陽誌」が正しい。享保二(一七一七)年に松江藩主が命じて作らせた黒沢長顕と斎藤豊仙による出雲地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本で「卷之一」冒頭の「島根郡」の「松江府城」の条に出るが(下段の頭書「大人塚」の部分)、この大人塚は松江城内にあって、『古化現の人なりといひ傳る塚ありしを引ならし地形あれけれはいろいろ怪異多成就も滯りけるにより』(中略)『大人塚をは同郡一成村に移て今宮と號し祭ぬ』とあった(転地した場所は探したが、判らなかった)。
「小田内」小田内通敏(明治八(一八七五)年~昭和二九(一九五四)年)は地理学者・民俗学者。秋田県出身。高等師範卒。旧姓は田所。早大などで教える傍ら、大正一五(一九二六)年に『人文地理』を発刊した。昭和五(一九三〇)年には文部省嘱託となり、尾高豊作らと『郷土教育連盟』を創立、郷土地理研究と郷土教育運動に尽した。戦後は国立(くにたち)音大教授。著作に「郷土地理研究」「日本郷土学」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。
「飛驒の山中に大人が住んで居つて獵師がこれと交易をしたといふことを徂徠先生が書いて居る」荻生徂徠の「飛驒山」が出所であろう。国立国会図書館デジタルコレクションの桑谷正道著「飛驒の系譜」(昭和四六(一九七一)年日本放送出版協会刊のこちらの「飛驒のタクミ」の条の一節を参照されたい。「飛驒山」の引用がある。但し、「交易をした」とは、少なくとも、そこには書かれていない。]
山童に行逢つたといふ話は慥なものだけでも數十件ある。一つ一つの話はこゝには略しますが、凡て皆彼等は一言をも話さぬといつて居る。共通の言語が無い以上は當然である。食物は何であるか知らぬが、やはり吉野の國巢のやうに山菜や魚や菌《きのこ》であらう。米の飯を非常に嬉ぶともあり餅を慾しがつたともあり鹽は好まぬともある。衣服は何も無いこともある。日向の飫肥(をび)の山中で獵師の罠に罹つて死んで居つた山女は髮長く色白く裸體であつたとある。奧州は寒いから上閉伊《あみへい》の山中で逢つた女は普通の縞を着て居つたが、ぼろぼろになつた處を木の葉で綴つて居つた。多くは徒足(すあし)だらうと思ふけれども同じ山中に寢て居つた大人は山笹でこしらへた大きな履物を脫いで居た。
[やぶちゃん注:「日向の飫肥(をび)の山中で獵師の罠に罹つて死んで居つた山女」は「山男の家庭」で既出既注。]
なほ大人の人である證據はいくらでもある。屢〻山の中で死んで居るのを見た者がある。寢て鼾《いびき》をかいて居た山男もある、杣や木樵は近世になつては食物を與へて山男を使役するといふ話がある。先に食物を遣れば仕事を捨てゝ逃げて行く、人の先に立つて行くを好まぬ。その無智であることは餅とまちがへて白石の燒いたのを嚙んで死んだ話がある。
これ等の話を綜合すれば、極めて少數ながら到る處の山中に山男は居る。分布も廣い上に往來も海上の外は自由なのであらう。多くの日本人はこれをしも「おばけ」の列に加へて眞價以上に恐れて居るのである。そこで自分の考では今日でも片田舍でよく聞く神隱しといふことは、少なくも一部分はこの先生の仕事にして天狗樣の冤罪である。彼等も人なり、生殖の願《ねがひ》は强い内部の壓迫であらう。山中の孤獨生涯に堪へ兼ねて、黃昏に人里へ來り美しい少年少女を提げて歸るのは、全く炭燒が酒買ひに來るのと同じである、恐ろしいといふのは此方《こちら》のことで、異人種は別に氣の毒だがとも思ふまい。夕方になると田舍では子供の外に出て居るのをひどく氣遣ふ。地方によつては女はおとなでも夕方は外に居らぬ。山坂を走ることの我々よりも達者なことは思像し得られるが、一度捕はれた男女の還つて來る者の少ないのは、如何なる威力であらうか。或は久しからずして皆死ぬからであらうか。
尤も二年三年の内には隱された者が必ず一度は姿を見せると信じて居る所もある。一昨々年盛岡では近年の神隱しをいくつとなく聞いた。岩鷺山《がんじゆさん》は高くは無いが物深い山である。かの麓にはこの現實の畏怖が止む時も無い。雫石の百姓の娘が嫁に行くとて炬火をつける間に飾馬《かざりうま》の鞍の上から捕へられた。二年の後夜遲く隣村の酒屋へ酒を買ひに來たのがその女であつた。すぐに跡から出て見た者があつたが影が無かつた。
私は珍世界の讀者の助力でなほこの種類の話を蒐集したいと思ふ。舊民族の消息が明白になることは、誠に趣味ある問題といはねばならぬ。
[やぶちゃん注:「岩鷲山」岩手山(グーグル・マップ・データ)の別称。しかし、標高二千三十八メートルで、岩手県の最高峰であり、県のシンボルの一つである山を、「高くは無い」と言うかねぇ?]
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