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2023/03/16

佐々木喜善「聽耳草紙」(正規表現版)始動 / 序(柳田國男)・凡例・「一番 聽耳草紙」

 

[やぶちゃん注:以前からやりたかった佐々木喜善の「聽耳草紙」を正規表現で電子化注を始動する。本書は昭和六(一九三一)年二月、三元社から刊行された佐々木の故郷遠野に伝わる民話を採集した昔話集成の一つで、全百八十三章からなり、再録された話は実に三百三話に上り、佐々木の「遠野物語」(「佐々木の」としたことについては後述する)を含めて五冊ある代表的な昔話集では、最大の話数を誇るものである。「ちくま文庫」版「聴耳草紙」の益田勝実氏の「解題」によれば、本書を読んだ小説家宇野浩二は『このように面白いものは類をみないとまで賞め』た、とある。現在、ネット上には全電子化はなされていない。

 佐々木喜善(ささききぜん 明治一九(一八八六)年十月五日~昭和八(一九三三)年九月二十九日:名は「繁」とも称した)は民俗学者で作家。既に「遠野物語」電子化注の冒頭で述べたが、今回、新たにブログ・カテゴリとして「佐々木喜善」を設けるに当たって、それを概ねそのまま転写する。ウィキの「佐々木喜善」によれば、『一般には学者として扱われるが』、『佐々木自身は、資料収集者であり』、『学者ではないと述べている』。『オシラサマやザシキワラシなどの研究と』、四百『編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される』。『岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。祖父は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、上京して哲学館(現在の東洋大学)に入学するが、文学を志し』、『早稲田大学文学科に転じ』、明治三八(一九〇五)年頃より、『佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を発表し始め』た。明治四一(一九〇八)年頃、『柳田國男に知己を得、喜善の語った遠野の話を基に柳田が『遠野物語』を著す。このとき、喜善は学者とばかり思っていた柳田の役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らったという。晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている』。明治四三(一九一〇)年に『病気で大学を休学し、岩手病院へ入院後、郷里に帰る。その後も作家活動と民話の収集・研究を続ける傍ら、土淵村村会議員・村長』(在任期間は大正一四(一九二五)年九月二十七日から昭和四(一九二九)年四月四日)『を務め』たが、『慣れない重責に対しての心労が重なり』、『職を辞』した。『同時に』、『多額の負債を負った喜善は』、『家財を整理し』、『仙台に移住』、『以後』、『生来の病弱に加え』、生活も困窮、満四十六歳で持病の腎臓病のため、病没した。『神棚の前で「ウッ」と一声唸っての大往生だったという』。彼に与えられた『「日本のグリム」の名は、喜善病没の報を聞いた言語学者の金田一京助によるもの』である。また、大正八(一九一九)年、『「ザシキワラシ」の調査のために照会状を出して以来』、二年ほど、「アイヌ物語」『の著者である武隈徳三郎と文通があ』り、また、かの宮沢賢治(私はリンク先で宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版・附全注釈を完遂している)『とも交友があった』。昭和三(一九二八)年、賢治の童話「ざしき童子のはなし」(詩人尾形龜之助(私はリンク先その他で彼の多くの電子化を手掛けている)主宰の雑誌『月曜』(大正一五(一九二六)年二月号に掲載された)の『内容を自著に紹介するために手紙を送ったことがそのきっかけで』、その後、昭和七(一九三二)年には、喜善が『賢治の実家を訪れて数回』、『面談し』ている。『賢治は当時既に病床に伏していたが、賢治が居住していた花巻町(現:岩手県花巻市)と遠野市の地理的な近さもあり、晩年の賢治は』、『病を押して積極的に喜善と会っていたことが伺われる』。喜善は『幼少期から怪奇譚への嗜好があり、哲学館へ入学したのは井上円了の妖怪学の講義を聞くためだった』から『という。しかし、実際は臆病な性格だったらしく、幼少時、祖父から怪談話を聞いた夜は一人布団に包まってガタガタ震えていたこともあった。また、巫女や祈祷師にすがったり、村長をつとめていた際も』、『自身の見た夢が悪かったため出勤しないなどの行動があった』。明治三六(一九〇三)年『にはキリスト教徒となるが』、後、昭和二(一九二七)年には『神主の資格を取得』、二年後の昭和四年には、『京都府亀岡町(現:亀岡市)の出口王仁三郎』(おにさぶろう)『を訪問し、地元に大本教』(おおもときょう)『の支部を作っている。また、佐々木は一般に流布しているイメージのような「素朴な田舎の語り部」ではなく、モダン好みの作家志望者であり、彼が昔話の蒐集を始めるようになったのは、作家として挫折したためである』。主な著作に昔話集「紫波(しわ)郡昔話」「江刺郡昔話」「東奥異聞」「農民俚譚」「聴耳草紙」「老媼夜譚(ろうおうやたん)」、研究及び随筆としては「奥州のザシキワラシの話」「オシラ神に就いての小報告」「遠野手帖」「鳥虫木石伝」他がある。以上の引用に出た、晩年の柳田が「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」というのは、「遠野物語」成立に就いて、しばしば語られるエピソードであるが、これ自体が、柳田が本書を自作の代表作と自負し、それを正当化するために述べた言い訳としか私には思われない。実際、後の佐々木の本書「聴耳草紙」や「老媼夜譚」を読むに――「遠野物語」など、とても書けそうもない、方言丸出しで、それが直せそうもないレベルの人品をそこに見ることは全く不可能――である。勿論、柳田が聴き取りを整序するに、『漢文訓読体に近い独特の』『文語文体を採用した』ことが『他に類を見ない深い陰影に富んだ独特の文学的世界を獲得し』(「ちくま文庫」版全集の永池健二氏の「解説」より)得た事実は、認めよう。しかし――柳田國男は狭義の文学者・作家ではなく――農務官僚・貴族院書記官長・枢密顧問官などを歴任した――辛気臭くお上のご機嫌を伺うことままある官僚――であり、民俗学なんたるやの右も左も判らない時代の多分に権威的な民俗学者の一人に過ぎない。また、私は、彼と折口信夫の間には、性的象徴問題を民俗学で扱うことについて、意図的に制限しようというような密約があったのではないかとずっと疑っている。実際に南方熊楠は柳田國男のそうした偏頗を鋭く批判している。それほど、本邦の民俗学は、現在でも未だに、どこか妙に一般的に非現実的に健全に過ぎ、嘘臭く、漂白剤の臭いがする。私は彼の一部の考察には面白さ(但し、都合の悪い事例を除いて仮説を構築するという学者としては許されない資料操作も多々ある)を感じ、「蝸牛考」や「一つ目小僧その他」等の電子化注もこのカテゴリ「柳田國男」で手掛けてきたが、柳田國男の文体や表現が――文学的に洗練されているとは私は逆立ちしても思わない――。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の原本(リンク先は扉)を視認する。但し、所持する「ちくま文庫」版「聴耳草紙」(一九九三年刊)をOCRで読み込んだものを加工データとして使用する。

 踊り字「〱」「〲」は生理的に受けつけないので正字化する。ルビがないもので、読みが振れると判断したものは、《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。なお、カタカナの「ア」は本文中にあっても、やや右寄りでひらがなの活字と比べると、小振りであるのだが、これ、全篇を通じてそうなっており、感動詞的小文字でない箇所も総て同じ活字である。されば、総てを普通の大きさの「ア」で統一した。不審箇所は「ちくま文庫」版を参考にした。注はストイックに附す。一日一章以上の電子化注を心掛けるが、それでも総てを終わるのには半年はかかる。【二〇二三年三月十六日:藪野直史】]

 

 

 

 佐佐木喜善著

 

  

 

        東 京 

 

[やぶちゃん注:以上は扉。表紙は底本では作り直してあるため、判らない。ネット画像で原本表紙を探したが、新版(昭和八(一九三三)年中外書房刊)のものしか見当たらなかった。全体が薄い罫線に囲まれてある。標題の下地に老翁が大きな樹の根元にしゃがんでいる絵がやはり薄色で描かれてある。

 以下、柳田國男の序文。底本ではここから。]

 

 

   

 

 佐々木喜善君のこれ迄の蒐集は本になつただけでも、すでに三つある。その三つのうち一番古いのは「江剌郡昔話」であつて、これは我々の仲間では紀念の多い書物である。二十二年程前、初めて佐々木君が遠野の話をした時分には、昔話はさ程同君の興味を惹いてゐなかつた。遠野物語の中には、所謂「むかしむかし」が二つ出てゐるが、二つとも未だ採集の體裁をなしてゐなかつた。それが貴重な古い口頭記錄の斷片であるといふ事はずつと後になつて初めて我々が心づいたことである。それから十年餘りしてから我々が松本君と三人で、東北の海岸を暫く一緖に步いたことがある。その時に丁度佐々木君は江剌郡から來ている炭燒きと懇意になつて、しばしば山小屋へ出掛けて、いくつかの昔話を筆記してきたといふ話を私にした。それは非常に面白いから出來るだけもとの形に近いものを公けにする方がいゝと、いふことを、私が同君に勸請したのもその時である。それから二年過ぎて、私が外國に遊んでゐる間に「江刺郡昔話」が出版せられた。新たに「江剌郡昔話」を取出して讀んでみると佐々木君が、先づ第一に、聞いた話の分類に迷つてゐる事がよくわかる。口碑と言つている中には、社寺や舊家の歷史の破片と共に昔話から變形したものもまじつてゐるのだから、今の言葉で言へば傳說にあたるものである。それから民話と言つてゐる部分は近頃何人かゞ實見した話として傳へられてゐるのだから、直接「むかしむかし」の中に入れられないのは當然だが、これとても又「むかしむかし」と内容の一致があつて何人かゞ「むかしむかし」からこれへ移入したといふ事が想像出來る。そしてこれが、我々が興味を以て考へようとしている世間噺といふものである。世間噺は新聞などの力で事實と非常に近くなつたけれども、以前は交通が不便で、そうそうは噺の種もないから、勢ひ古くからの文藝がその中へまぎれこんでゐたのである。東北といふ地方は、何時までも昔話を子供の世界へ引渡さずに大人も參加して樂しんでヰた結果昔話がより多く近代的な發達を經てゐる、[やぶちゃん注:句点はママ。]この事實が、この本で可成りはつきり證明された。その事實に最も多く參加した盲法師、すなわち奧州で「ボサマ」と言つてゐるものの活動の後を跡づけてみようと私が思つた大いなる動機は此處にある。

 「ボサマ」の歷史は近頃になつてから、全く別の方面からも、おひおひ知られて來たけれども、純粹なフォークロアの方法によってゞも、東北地方でなら調《しらべ》ることが出來る。例へば南部で言ふ「ガントリ爺」が、我々のお伽噺の「花咲爺」になつてくる迄の經過は、あちらではこれを文藝として改造した作品が現に殘つてゐるのだから、可成り具體的にその過程を說く事が來る[やぶちゃん注:ママ。「出來る」の脱字。誤植であろう。]。「ボサマ」は人を喜ばせるのが職務だから、或程度迄の繰返しを重ねると今度は意外なつくりかへ若しくは後日譚の方へ出て行かうとする。眞面目であつた話をやゝ下品な滑稽へ持つて行かうとする。從つて話題が發達してくる。同時にこれを聞く者の態度も幼少な子供等とは違つて、少しも、昔ならそんな事があつたかも知れんといふやうな信仰を持たずに、これを純空想の作品として受け入れやう[やぶちゃん注:ママ。]とする、卽ち今日の落語なり滑稽文學なりの文字以前の基礎をつくつてしまつたのである。大げさに言ふなら、今日の文藝と昔の文藝との間に橋をかけたやうなものだとも言へる。半分以上類似したやうな話でもこの意味から、出來るだけ多く集めてみやう[やぶちゃん注:ママ。]とした理由が、初めて此處に生じた。それには恰度佐々木君のやうな飽きずに何時迄も集められる蒐集家が非常に役立つた。

 佐々木君も初めは、多くの東北人のやうに、夢の多い銳敏といふ程度まで感覺の發達した人として當然あまり下品な部分を切り捨てたり、我意に從つて取捨を行なつたりする傾向の見えた人であつた。それが殆んど自分の性癖を抑へきつて、僅かばかりしかない將來の硏究者のためにこういふ客觀の記錄を殘す氣になつたのは、決して自然の傾向ではなく、大變な努力の結果である。

 これ迄普通に鄕里を語らうとしてゐた者のしばしば陷り易い文飾といふものを、殊にこの方面に趣味の發達した人が、己をむなしふして捨て去つたといふ事は、可成り大きな努力であつたと思はれる。問題は、將來の硏究者が、こういふ特殊の苦心を、どの程度迄感謝する事が出來るかといふ事にある。私は以前「紫波《しは》郡昔話集」「老媼夜譚《らうあうやたん》」が出來た時にも、常にこの人知れぬ辛苦に同情しつゝ、他方では、同君自身の文藝になつてしまひはせぬかと警戒する役に廻つてゐた。もう現在では、その必要は殆んど無からうと思ふ。能《あた》ふべくんば、この採集者に若干の餘裕を與へて、これほど骨折つて集めて來たものを、先づ自分で味ふやうにさせたい事である。それには、單純な共鳴者が此處彼處《ここかしこ》に起るだけでなく、この人と略々《ほぼ》同じやうな態度を以て、將來自分の地方の「むかしむかし」を出來るだけ數多く集めてみる人々が、次々に現れ來ることである。

 

   昭 和 五 年 十 二 月

           柳  田  國  男

 

[やぶちゃん注:個人的には、「自分のことを棚に上げてよく言うぜ!」とカチンとくるところが、複数箇所あるが、それは冒頭の私の鬱憤でお判り戴けるであろうから、敢えて指示や注はしない。

「江剌郡昔話」郷土研究社『炉辺叢書』の一冊として大正一一(一九二二)年に刊行されたもの。昔話二十話・民話十話・口碑四十六話から成る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本を視認出来る。

「松本君」松本信廣(のぶひろ 明治三〇(一八九七)年~昭和五六(一九八一)年)は民俗学者・神話学者。事績は当該ウィキを参照されたいが、そこにも書かれている通り、彼は戦中に『「大東亜戦争の民族史的意義」を唱え、南進論を主張』し、一九三〇『年代に、大日本帝国が南進政策を展開しはじめると、日本神話と南方の神話の類似を指摘する松本の研究は、日本が南方に進出し、植民地支配を正当化する根拠を示すという点で、政治的な意味を持つようにな』った結果を惹起しており、好きでない。

「紫波郡昔話集」郷土研究社『炉辺叢書』で大正一五(一九二六)年に佐々木が刊行した岩手県紫波(しわ)郡の民譚集。同旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「老媼夜譚」同じく佐々木が郷土研究社『郷土研究社第二叢書』の一冊として昭和二年に刊行した、岩手県上閉伊(かみへい)郡で採取した昔話集。全百三話を収録する。]

 

 

      凡 例

 今度の昔話集は私の一番初めの「江刺郡昔話」の當時(大正十一年頃)集めた資料から、つい最近までの採集分をも交へて、一つの寄せ集めを作つて見たのである。

 分類と索引とを附けたかつたが、これは兩方ともかなり復雜[やぶちゃん注:ママ。]な技術と經驗とを要するので、俄には出來さうも無いから後日のことにした。實はこれくらゐの話集をせめてあと一二册も纏め、話數の千か或はそれ以上も集めて見て始めて可能な仕事である。私はこれまでに五百六十餘種の說話を土から掘り起して明るみに出したと思ふけれどもそれは重《おも》に東北の陸中の中央部に殘存して居たものを集めて見たに過ぎなかつた。この興味が全國的に盛んになつて、方々の山蔭の里や渚邊《なぎさあたり》の村々に埋れてゐる昔話が千も二千も現はれ來《きた》る其日もさう遠くはあるまいと感じて居る。その曉に於てこそ充分に比較硏究と分類方法とが餘薀《ようん》なく執《と》らるべきであらう。

 この集には百八十三番、凡そ三百三話ばかりの話を採錄して見た。話の中《うち》全然從來の所謂昔噺と云ふ槪念からは遠い、寧ろ傳說の部類に編入すべきもの、例へば諸々の神祠の緣起由來譚らしいものや、又簡單至極な話、例へば「土食い婆樣」其他の話のやうな、單に或老人が土を食つて生きて居《を》つたと謂ふやうなものも取つた。私は殊更にこれだけの物をも收錄して見た。これは私の一つの試みであつた。私の考へでは或一部の說話群の基礎根元をなした種子が、或は斯《か》う云ふものではなかつたのではあるまいかと謂ふ想像からで、これらの集合や組立てでもつて、一つの話が構成され且成長されたかのやうな暗示もあつたからである。

 又一方、際無し話のやうな、極く單純な、ただ言葉の調子だけのやうなものをも出來るだけ採錄した。一部の昔話の生のまゝの形が暗示される材料であるからであつた。

 斯うして見ると、或觀方《みかた》によつて分類して行つたならば、ほんの四五種類の部屬に配列することが出來ると思ふ。例へば、

 1 自然天然の物を目宛《めあて》に語り出した話の群。

 2 巫女や山伏等が語り出した說話群。

 3 座頭坊の語り出した話の群。

 4 話と傳說の中間を行つたもの、或は傳說と話との混合

   がまだ整頓しきれずに殘つてゐる話の群。

 5 及び普通の物語と云ふものの類。

 である。なほ又これを細別して見たなら、幾つかの部屬ができるであらう。例へば、子守唄的な語りものから、單純な調子のみの語りもの、動物主人公の話から、和尙小僧譚、愚かしやかな者の可笑しな話の群、輕口噺のやうな部類、又別に生贊譚型、冒險譚型、花咲爺型、瓜子姬型からシンデレラ型、さうして緣起由來譚から、普通の物語と云ふやうにもなり、或は考へやう觀方の相異では、どんなにも分類配列することが出來やうと思ふのである。

 然し私はこの集では、ただ重に便利上《べんりじやう》話の中の主人役とか、又は内容の多少似寄つたものを、比較的近くに寄せて配列して見たに過ぎなかつた。だから餘りに暢氣《のんき》な整理の仕方であると云ふ謗《そし》りはまぬかれぬであらう。

 此集中の話で特に私の爲に御面倒を見て御報告をして下された方々の分には、一々御芳名を明かにして置いた。何の記號もない分は私の記憶其他である。

 なほ此集を世に出すに當つて、貴重なる資料を下された諸兄に、さうして亦特に私の爲に序文を書いて下された柳田先生及び三元社の萩原正德氏に一方ならぬ御世話になつたことを、玆《ここ》に謹んで御禮を申上げる次第である。

 

   昭和六年一月

 

               佐 佐 木 喜 善

 

[やぶちゃん注:以下、底本では目次となるが、これは総ての電子化注が終わった後に附すこととする。

 以下、本文に入る前の標題ページ。]

 

 

  本書を柳田國男先生に捧ぐ

 

 

    聽 耳 草 紙     佐 佐 木 喜 善

 

 

     一番 聽耳草紙

 

 或る所に貧乏な爺樣があつた。今年の年季もずうツと押詰まつたから、年取仕度《としとりじたく》に町仕《まちつか》ひに行くべと思つて野路を行くと、路傍(ミチバタ)の草むらの中に死馬(ソマ)があつて、それに犬どもがズツパリ(多く)たかって、居た。それを此方(コツチ)の藪の蔭コから一疋の瘦せた跛狐(ビツコキツネ)が、さもさもケナリ(羨し)さうに見て居たが、犬どもが怖(オツカナ)いもんだから側(ソバ)に近寄りかねて居た。それを見た爺樣はあの狐がモゼ(不憫)と思つて、しいツしいツと言つて、犬共(イヌド)ば追(ボ)つたくツて、死馬の肉を取つて狐に投げて遣つた。さウれ、さウれそれを食つたら早く山さ歸れ、お前がいつまでもこんな所に居るのアよくないこツた、と言つて聽かせて町へ行つた。

 その歸りしなに、爺樣が小柴立ちの山の麓を通りかゝると、今朝の瘦狐が居て、爺樣々々俺ア先刻(サツキ)から此所《ここ》で爺樣を待つて居た。ちよツと此方(コツチ)に來てケてがんせと言つて、爺樣の袖を食わへて引張るから、何をすれヤと言つてついて行くと、其山のトカヘ(後(ウシロ))の方さ連れて行つた。其所《そこ》まで行つたら狐は、爺樣々々一寸(チヨツト)眼(マナグ)を瞑《つむ》つて居てゲと言ふ。爺樣が眼を瞑つて居ると、狐は爺樣眼開(ア)けてもええまツちやと言ふから開(ア)くと、爺樣はいつの間にかひどく立派な座敷に通つて居た。そこへ齡取《としと》つた狐が二匹出て來て、今朝ほどア俺所(オラトコ)の息子が大層お世話になつてありがたかつた。俺達はこんなに齡取つてしまつて、ハゲミに出るにも出られないで每日每日斯うやつて家にばかり居ります。その上に息子が片輪者で困つて居ります。今夜の年越もナゾにすべやエと心配して居ると、爺樣のお影で、まづまづ上々吉相の年取りも出來て結構でござります。そのお禮に爺樣に何か上げたいと思ふけれども、御覽の通りの貧乏暮しだから大したことも出來ぬが、これを上げます。これは聽耳草紙と謂ふもので、これを耳に當てがると、鳥や獸や蟲ケラの啼聲囀聲《さへづりごゑ》まで、何でもかんでも人の言葉に聽き取られる。これを上げるから持つて歸つてケテがんせと言つて、一册の古曆《ふるごよみ》ほどの草紙コを爺樣の前に出した。爺樣はそんだら貰つて行くと言つて喜んで、その本コを手さ持つて、又先刻の跛狐に送られて野原の道まで出て、家へ歸つた。

 正月ノ二日の事始めの日の朝であつた。爺樣は朝(アサマ)早く起きて、東西南北を眺めわたすと、吾が家の屋棟《やむね》の上に一羽の烏がとまつて居た。すると又西の方から一羽の烏が飛んで來てカアカアと鳴いた。こゝだ、あの草紙コを試して見る時はと思つて、爺樣は急いで家の中さ入つて、古草紙コを出して來て耳さ押し當てゝ聽くと、烏共の言ふ言葉が手に取るやうによく解つた。その言ふことは、どうだモラヒ(朋輩)どの、此頃に何か變つたことアないかアと言ふと、西から來た烏は、何も別段珍しい話もないが、此頃城下の或る長者どんの一人娘が懷姙したが、それが產月になつても兒どもが生れないので、娘が大變苦しんで居る。あれは何でもない、古曆と縫針(ハリ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]とを煎じて飮ませれば兒どもも直ぐに生れるし苦痛(クルシミ)もなくなるものだのに、人間テものは案外淺量(アサハカ)なもので、そんなことも知らないと見える。はてさてモゾヤ(哀れ)なものだよ、カアカアと言つた。

 爺樣はそれをすつかり聽き取つて、これはよいこと聽いたもんだ。婆樣やエ婆樣やエ俺ア烏からよいこと聽いたから、これから城下さ行つて八卦《はつけ》置いて來るから仕度《したく》せえと言つて、婆樣に旅仕度して貰つて、城下町さして出かけて行つた。行つて見ると、其家は聞きにも增さつて立派な長者どんであつた。如何にもその長者どんの一人娘は難產で四苦八苦の苦しみをして居ると云ふことを、町さ入ると直ぐ聞いた。行つて見ると、屋方《やかた》には多勢《おほぜい》の醫者や法者《はふしや》が詰めかけて額を寄せて居るけれども、何とも手の出しやうがなくて、只うろうろしてばかり居た。そこへ汚い爺樣が行つて、私は表の立札の表について參つた者だが、お娘御樣が難產でござるさうな、この爺々が安產おさせ申上ますべえと言つた。あまり身成りが汚いものだから、其所に居た連中が、こんな百姓爺々に何が出來るもんかと、皆馬鹿にして居た。けれども長者どんでは、若《も》しやにかられて爺樣を座敷へ通すと、爺樣は六尺屛風を借りてぐるりと立廻《たちまは》し、その中に入つて、唐銅火鉢《からかねひばち》にカンカンと火を熾《おこ》して貰ひ、それに土瓶を借りてかけて、持つて行つた古曆と縫針(ハリ)とを入れてぐたぐたに煎《せ》んじて、娘に飮ませた。すると直ぐに娘の苦しみが拭(ヌグ)ふやうに取れて、おぎやア、おぎやアと、玉のやうな男の兒を生み落した。

 さあ長者どん一家の喜びは申すに不及《およばず》、上下と喜び繁昌して居るうちに、其所に居つた多勢の醫者や法者は何時《いつ》去るともなしに、一人去り二人去りして、遂々《たうとう》散り散りばらばらに立つて皆居なくなつて居た。そこで爺樣は長者どんから大層なお禮を貰つて、家へ歸つて榮えて活(クラ)したと。ハイハイどんど祓《はら》ひ、法螺《ほら》の貝ツコをポウポウと吹いたとさ。

  (昭和二年四月二十日、村の字《あざ》土淵《つちぶち》足洗川《あしあらひ》の小沼秀君の話の一《いち》。私の家に桑苗木を堪えに來て居て[やぶちゃん注:「堪え」はママ。「ちくま文庫」版は『植え』。誤植。]、デエデエラ野と云ふ山畠のほとりに憩《やす》みながら語つた。私は話の筋としてはさう珍しくなく、曩《さき》の老媼夜譚第二十三話聽耳頭巾と系統を同じくするものではあるが、便宜上これを第一話に置いて直ちに、これを此集の名前にした。)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧の佐々木の補注は、底本では、全体が二字下げのポイント落ちである。

「法者」民間の呪術者。山伏や巫女(みこ)のような連中を指す。

「昭和二年」一九二七年。

「村の字土淵足洗川」現在の岩手県遠野市土淵町土淵六地割にある地名(グーグル・マップ・データ)。

「小沼秀」不詳。

「デエデエラ野」佐々木喜善の生家の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。現行では「デンデラノ(野)」と表記される。

「老媼夜譚第二十三話聽耳頭巾」国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで視認出来る。]

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