佐々木喜善「聽耳草紙」 二番 觀音の申子
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。「申子」は「まをしご」。]
二番 觀 音 の 申 子
或る所に爺樣と婆樣があつた。もはや六十にも餘る齡《とし》であつたが、子供がないので如何《どう》しても一人欲しいものだと日頃信心して居る觀音樣に行つて願かけをした。それから丁度百目目の滿願の日に、觀音樣が婆樣の枕神に立つて、お前たち夫婦に授ける子寶とては草葉《くさば》の下を探したとて、川原の小石の間を尋ねたとて無いのだけれども、餘り切ない願掛けだから、今度だけは聞いてやると云つた。それから當る十月(トヅキ)目になつて生れたのが玉のやうな男の子であつた。
爺、婆の喜びは話の外(ホカ)で、爺樣は每日々々山から柴を刈つて來て、それを町へ持つて行つて賣つて、子供のためにいろいろなベザエモノ(菓子)類を買つて來たり、また自分等は三度々々の食物さへも控目《ひかへめ》にして子供大事と育てて居つた。けれども、どうにも斯《か》うにも爺樣婆樣は段々齡を取つてしまつて、柴刈りも洗濯も出來なくなつたので、又二人は觀音樣へ行つて、觀音樣申し觀音樣申しお前樣から授かつた此の子の事で、あがりました。とてもこの爺イ婆二人は老いてしまつて、大事なこの子を育て上げることが叶はなくなつたから、どうか觀音樣が引き取つて育てゝクナさい。どうぞお願ひでありますと言つた。觀音樣も日頃の爺イ婆の心掛けを知つて居るものだから、あゝよいからよいからと言つて、其の子を引き取つて御自分の手許に置くことにした。
さうはしたが實は觀音樣も差し當り何斯《なにか》にと困つて、まづ自分の上衣を一枚脫いで子どもに着せ、參詣人の持つて來て上げる僅かのオハネ米《まい》などで、如何《どう》やら斯うやら其の日其の日の事をば足《た》して許た。そして子どもには色々な學問諸藝を授けて居た。其の子どもは又何しろただの子どもでは無いのだから、利發なことは驚くほどで、一を聽いては十を知ると云ふやうな利口ぶりであつた。さうして觀音樣の許《もと》で二十の齡(トシ)まで育てられて居た。[やぶちゃん注:「オハネ米」「御刎米」で、「刎米」とは、江戸時代、貢米納入の際に品質不良のために受納されない米を指す。]
或る日のこと、觀音樣は息子にむかつて、お前も二十《はたち》にもなつたし、俺の目から見ればそれで一通りの學問諸藝を授けたつもりである。このまゝ此所《ここ》に居つてもつまらないから、どうだこれから諸國を廻《まは》つて修業をして立身出世をしろ。そして老齡(トシヨリ)の爺樣婆樣を養へと言つた。さう云はれて息子も喜んで諸國修業の門出をした。
息子は觀音樣から貰つた衣物を着て深編笠をかぶつて、尺八を吹いて廻國した。そしてそれから何年目かの或る日大層大きな町に差しかゝつて、その町の一番の長者どんの家の門前に立つて尺八を吹いて居た。すると其の隣りの小さな家から婆樣が出て來て、その笛の音色を聽いて居たが、なんと思つたか、息子の側《かたはら》へ寄つて來て、虛無僧樣ちょツと私の家サ寄つて憩《やす》んで行けと言葉をかけた。息子も疲れて居つたから、云はれるまゝに内ヘ入ると、婆樣はお茶や菓子などを取り出してもてなし、それから、これこれ旅の虛無僧樣、實はこの隣りの長者どんではこの頃若者一人欲しいと云つて居たが、何とお前樣が行つてみる氣はないかと言つた。息子も永い年月の間旅をして淋しかつたものだから、さう云ふ所があつたら、暫く足止めをしてみてもよいと思つたので、婆樣それでは行つてみてもよいと云ふと、婆樣は喜んで、さうかそれがよい。だがお前のその着物ではワリから、この着物と着替《きがへ》ろと言つて、一枚の粗末なボロ着物を取り出して息子に與へた。はいはいと言つて息子は婆樣の云ふ通りに、其のボロ着物に着代へて、婆樣に連れられて長者どんの館《やかた》に行つた。長者どんの檀那樣は息子に三八と云ふ名前をつけて、竃場《かまどば》の火焚き男に使ふことにした。三八は何事も檀那樣の云ふ通りに、はいはいと云つて、奉公大事に每日々々働いて居た。
この長者どんの館には家來下人が七十五人あつた。それから分家出店《でみせ》が諸國諸方に七十五軒もあつた。檀那樣には娘が二人あつて姉をお花、妹をお照と云つた。或る時鎭守の祭禮に、檀那樣は娘二人を馬に乘せて遣《や》ると云ふたら、姉のお花はオラは馬に乘つてもよいと言つたが、妹のお照はオラは馬に乘るのがあぶなくて嫌だ、駕籠で往くと言つた。それで姉は馬に乘り、妹は駕籠で行くことにした。ところが向《むかふ》から深編笠をかぶつて尺八を吹いて來る若衆《わかしゆ》があつた。馬で行つた姉のお花はひよつと見ると、その人は水の滴りさうな美男(イイヲトコ)であつた。それからは祭禮を見ても何を見ても一向面白くなくなつた。お照の方は駕籠で行つたものだから何も知らなかつた。お花は其の日祭禮から歸ると、オラ案配(アンバイ)がワリますと言つて、下女に奧の間に床をとらせて寢てしまつた。
父親母親は大層心配して、醫者山伏を每日のやう賴んで來て診《み》せるが、誰一人お花の病氣を直せる者がなかつた。すると或る夜、親たちのところに觀音樣が夢枕に立つて、心配するな娘の病氣は家族の中に想ふ男がある故(セイ)だから、其の者と一緖にすれば直ぐ治(ナヲ)ると云ふお告げがあつた。そこで長者どんでは三日三夜の間家來下男どもを休ませて、娘の御機嫌を伺ひさせることにした。
七十五人の家來下男どもは、喜んで俺こそ之《こ》の長者どんの美しい娘樣の聟殿になるにいゝかと思つて、朝から湯に入つて顏を洗つて、一人々々奧の一間のお座敷に寢て居るお花の枕邊へ行つて、姉さま、お案配はナンテがんすと言つた。それでもお花は一向見るフリもしなかつた。其の中《うち》に皆伺ひ盡して後(アト)には竃の火焚き男の三八ばかりがたつた一人殘つた。アレにもと云ふ者もあつたが、何しろ俺達が行つてさへ一向見向きもしないのだもの、あんなに汚い男が行つたら、尙更御アンバイがワルくなるべたらと、皆して聲を揃へて笑つた。すると其所へ隣家の婆樣が來て、とにかくあの竃の火焚き男も遣つて見ろ、アレも男だものと云つた。そこで三八も俄に風呂に入つて髮を結つて、觀音樣から貰つた衣裝を出して着て、靜かに奧の間へ通ふると[やぶちゃん注:ママ。]、お花は一目見て顏を赤くして、何か聽えない位の聲で云つて、息子を放さなかつた。そして見て居るうちに病氣もすつかり直つた。
其の時息子の美しい男ブリを見て、妹のお照もあの人を自分の聟樣にしたいと云つて床に就いた。親々もそれには困つて、これは如何(ナゾ)にしたらよいかと息子に相談した。すると息子はそれでは斯《か》うしなさい。庭前(ニハサキ)の梅の木の小枝にアレあの通り雀がとまつて居りますが、あの小枝を雀がとまつたまゝ飛ばさぬやうに手折《たを》つて來た方を妻に貰ひませうと言つた。
親たちは姉妹を呼んで其の事を話すと、それではと云つて早速妹娘が庭前に駈け下《お》りて、梅の木の側《そば》に行くと、雀はブルンと飛んで行つてしまつた。妹は顏を眞赤にして戾つて來た。
その𨻶にまた雀が飛んで來て元の梅の木の小枝にとまつた。今度は姉娘が降りて行くと、雀はそれを喜ぶやうに、チユツチユツと鳴いて、そして枝コをパリツと折つても飛ばなかつた。それを其のまゝ持つて來て息子の手に持たせた。二人は目出度く夫婦の盃事《さかずきごと》をした。其の後息子は鄕里(クニ)から爺樣婆樣を呼び寄せて、觀音樣の云つた通りに親孝行をして孫《まご》繁《し》げた。それこそ世間に名高い三八大盡《さんぱちだいぢん》と呼ばれる長者となつた。
それから妹のお照の方にも、其の中《うち》に良緣があつて、分家になつてこれも相當榮えて繁昌したと云ふことである。
(遠野町《とほのまち》、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一《いち》。大正九年の冬の採集の分。)
[やぶちゃん注:最後の丸括弧の佐々木の補注は、底本では、全体が二字下げのポイント落ちである。本篇は典型的な貴種流離譚のハッピー・エンド譚である。
「小笠原金藏」不詳。
「松田龜太郞」不詳。
「大正九年」一九二〇年。]
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