早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「馬の道具で働いた男」・「動いた位牌」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]
種 々 な 人 の 話
○馬の道具で働いた男 四十年ばかり前に亡くなった、早川定平と云ふ男は、何事も我慢な事(大きいとか、恐ろしいとか云ふやうな意味)が好きで、ある時、村で橋普請をする時、二丈に餘る巨大な橋桁の、谷に落かけたのを、俺一人で上から支へてゐるから、者共は全部下の谷へ𢌞れと云つて頑張つたなどゝ云ひます。また若い頃、材木商の元締(代人《だいにん》[やぶちゃん注:代理人。名代(みょうだい)。]のこと)をしてゐた時、五月百姓の忙しい時期に、川狩《かはがり》の人夫を集めに𢌞つた所が、一人も應じる者のないのに業を煮やして、最後、村の山口豐作と云ふ男を賴みにゆくと、これも家内中麥敲《むぎたた》きの最中なので、斷はられて、其麥を敲くのに何程《なにほど》の時間がかゝるかと訊いて、そんな者は俺が一人で敲いてやると云つて、敲き臺の前に立つて、次から次へ、まるで阿修羅の荒れるやうに、滅多矢鱈に敲いて、僅か半時《はんとき》ばかりの間に、家内中が、全《まる》一日かゝる麥を敲き落として了つて、さあ行って吳れと言つて、連れて行つたと云ひます。[やぶちゃん注:「川狩の人夫を集めに𢌞つた」川漁を生業とする連中たちに材木運びを頼もうとしたという意であろう。「全《まる》」の読みは、『日本民俗誌大系』版の当該部のルビに基づいて振った。]
其豐作と云ふ男の話でしたが、普通の男が一度に麥束を二把宛持つて敲くのに、一度に五六把も抱へて、次から次へ敲きまくるので、あたりへ近寄れなかつたばかりか、其麥の跳ね飛んだ一粒が、あつけに取られて見てゐる足へ當つたのが、肉へめり込むやうに痛かつたさうです。後に殘つた麥藁は、目茶目茶になって、何の役にも立たなかつたと云ふことでした。
又此男が秋田圃《あきたんぼ》に麥を播くとき、稻株の土を萬鍬《まんぐは》で振り落とすのに、普通の萬鍬では充分な力が出せぬと云つて、五月田植に、馬に植代《うゑしろ》を搔かせる萬鍬を持つて、振り囘したさうですが、其萬鍬の先にかゝつて跳ね飛された稻株の一ツが、傍《かたはら》に働いてゐた其男の母の橫腹を打つて、其爲めに母は一時氣絕したと云ふ事です。
[やぶちゃん注:「萬鍬」元は「馬鍬」(まぐは・うまぐは)で、それが訛って「まんぐは」となり、別漢字を当てたもの。「まんが」とも呼ぶ。農具の一つ。一メートルほどの横木の下部に、何本もの鉄の歯を附けたもの。牛馬に牽かせて、すき起こした田畑を掻き馴らすのに用いる。「馬歯(うまは)」とも呼んだ。ただ、ここでは、「普通の萬鍬」と区別してことが判るから、「普通の」というのは、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)に写真が載る、「仙波穀機」(せんばこき)のようなコンパクトなものが前者で、定平が用いたそれは、大きなそれであって、大橋寿一郎氏のサイト「石黒の昔の暮らし」(「石黒」は新潟県柏崎市高柳町石黒)の「マングワ」のようなものと考えられる。]
○動いた位牌 此男に弟が一人あつて、其兄弟仲の惡かつた事は、又特別で、隣り合つて家を持ちながら、たゞの一日でも喧嘩の絕えた日はなかつたと云ひます。
この我慢な男も病氣には勝てなかつたと見えて、四十を一期《いちご》として亡くなつたと云ひますが、死ぬ一日前迄、兄弟喧嘩は續いたと云ひました。其後あとに殘つた弟がつくづくと兄弟不和の淺間しかつた事を考へて、思ひ立つて、兄の位牌に向つて念佛を唱へると、感應あつてか位牌がガタガタと、明かに動いたと云ひます。其男は七十餘歲となつて現存してゐて、この話をしましたが、先代は今一倍我慢な人だつたさうです。
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