「曾呂利物語」正規表現版 第二 八 越前の國白鬼女の由來の事 / 第二~了
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]
八 越前國白鬼女(はくきぢよ)の由來の事
越前國(ゑちぜんのくに)、平泉寺(へいせんじ)に住める出家、若き時、京うちまゐりを、おもひ立ち、彼方此方(かなたこなた)を見物して、歸りがてに、かいづの浦に泊まりしが、其の宿に、女旅人(をんなたびびと)ぞ、泊まり合はせける。
かの出家、美僧なる故、件(くだん)の女、僧の閨(ねや)に行き、思ひ入りたる體(てい)なり。
『けしからず。』
とは思へども、其の夜(よ)は、一所(しよ)にぞ、宿りける。
夜あけて、彼の女は巫女(みこ)にて、年の程六十ばかり、かみ、すほに、さも、凄(すさ)まじき姿なり。
則ち、
「いづくまでも、御後(おんあと)を慕ひ申さん。」
とて、又、同じまとり[やぶちゃん注:ママ。岩波文庫版は訂して『泊まり』とする。]にぞ、つきにける。
女房、伴ひ、寺に歸らんこと、いかにも迷惑に思ひければ、
「ここに、逗留し侍らん。」
とて、女を欺(あざむ)き、夜(よ)の明方(あけがた)に、「ひやきち」といふ所まで逃げのびぬ。
巫女の事なれば、珠數(じゆず)を引き、神下(かみおろし)して占ひもてゆくほどに、やがて、追ひつき、かなたこなた、尋ぬれば、大きなる木の空(そら)にかゞみゐたるを、
「さてもさても、情けなきことや。とても、そなたに離るる身にてもあらばこそ。命の内は、離れまじきものを。」
と云ふ。
僧、
「此の上は、力、なし。さらば、同道申さん。」
とて、いまだ夜(よ)をこめて、立ちいで、船渡(ふなわたり)の深みにて、取つて引き寄せ、其のまゝ、淵に沈め、平泉寺をさしてぞ、歸りける。
くたびれける儘に、まづ、我が寮に入りて、晝寐(ひるね)をしゐたり。
師匠の坊、
「新發意(しんぼち)、歸りたるに、逢はん。」
とて、寮へ行きて見れば、長(たけ)十丈ばかりなる白き大蛇、新發意を呑まんとて、かゝりけるに、何(なん)としてか持(も)たれけん、新發意、家に傳はるとて、よしみつの脇差しの有りけるが、己(おのれ)れと拔け出で、彼(か)の大蛇を、切り拂ふ。
これ故、大蛇、左右(さう)なく、寄り得ず。
其の體(てい)ぞ、見て、急ぎ歸り、人々をして、新發意をおこし、都の物語(ものがた[やぶちゃん注:ママ。])など申させ侍る。
師匠、彼(か)の吉光を、常々、望みの有るに、また、奇特を見ければ、いよいよ、欲(ほ)しさぞ、まさりける。
師匠も黃金作(こがねづくり)を持たれけるが、いろいろ、云ひて、よしみつに換へて、取りたりけるに、大蛇、思ひの儘に、寮へ、押し入り、彼の僧を、引き裂きて、やがて、食ひてげり。
それより、彼(か)の所を「はくきぢよ」といふは、此のいはれとぞ、申し侍る。
[やぶちゃん注:「白鬼女」岩波文庫の高田氏の注に、『現在』、『福井県鯖江市の日野川東岸に、北陸道ヘ向かう白鬼女(しらきじょ)の舟渡しがあった』とある。現在、その渡しがあった附近にまさしく「白鬼女橋」が架かる(福井県越前市家久町(いえひさちょう)と鯖江市舟津町(ふなつちょう)を結ぶ。グーグル・マップ・データ)。同橋の右岸直近に「白鬼女観世音菩薩」の小さな堂(昭和三八(一九六三)年建立)がある。その説明板がサイド・パネルのこちらで読めるので、そちらを参照されたい。恐るべき鬼女伝説があったとする説が記されてある一方、この菩薩は「渡河往来の守り神」として古くに建立されてあったが、十七世紀末の大洪水で流出してしまった。ところが、昭和三十七年の災害復旧工事中に、直近下流の福井鉄道日野川橋梁から約八十メートル下流の川底の約三メートル下から菩薩像が発見され、今に至るとあった。菩薩像はこれ。なんとも惹かれる優しい菩薩像である。
「平泉寺」同じく高田氏の注に、『現在』の『福井県勝山市にあった天台宗霊応山平泉寺。白山の大御前(おおみさき)の山神を祀る。修験道道場』として名を馳せたが、明治の悪しき神仏分離で『白山神社と平泉寺に分離』されてしまい、結局、今は平泉寺白山神社(グーグル・マップ・データ)として残る。私も高校時代、奥の弁ヶ滝(べんがたき)まで延々と徒歩で両親と行ったことがある。
「かいづ」「海津」現在の滋賀県高島市マキノ町海津(グーグル・マップ・データ)。同前の高田氏の注に、『琵琶湖北岸。古代から大和、山城と北陸を結ぶ湖上運送の要港』とある。
「かみ、すほに」岩波文庫では「すほに」は『すぼに』とするが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本でも「すほに」である(左丁後ろから五行目冒頭)。高田氏は、『不詳。「髮すぼみ」(髮がばさばさになって、薄いさま)の訛か』とされる。
「ひやきち」同前の高田氏には、『不詳。地名であろう』とある。私も少し探してみたが、この部分、地方が示されておらず、滋賀から福井と広汎であるから、結局、諦めた。
「木の空」高田氏注に『木のてっぺん』とある。しかし、この部分、どうも表現が上手くない。「大きなる木の空(そら)にかゞみゐたるを」は、或いは、「大きなる木の空(そら)にかゞみ」たる、その根元に「ゐたるを」の意ではなかろうか?
「新發意」新たに発心して仏門に入った者。仏門に入って間もない僧を言う。
「十丈」三十・二九メートル。蟒蛇の類いである。しかし、寮の僧の内室で、この長さはちょっと無理がある。蟠っていたのを、推定で延ばして述べたものか。
「よしみつ」「吉光」粟田口吉光(あわたぐちよしみつ 十三世紀頃)は鎌倉中期に京都の粟田口で活動した刀工で、相州鎌倉の岡崎正宗と並ぶ名工とされ、特に短刀作りの名手として知られる。京都の粟田口には古くから刀の名工がいたが、吉光は、安土桃山時代に豊臣秀吉によって正宗・郷義弘(ごうよしひ)とともに「天下の三名工」と称され、徳川吉宗が編纂を命じた「享保名物帳」でも、正宗・郷義弘とともに、最も多くの刀剣が記載され、「名物三作(天下三作)」と呼ばれている。殆んどの作には「吉光」の二字銘を流暢に切っているが、年期銘のある作がなく、あくまで、親や兄弟の作からの類推で鎌倉時代中期に活動したと見られている(ウィキの「粟田口吉光」に拠った)。しかし、この「吉光」を口八丁手八丁で強引に取り替えさせた師匠、地獄に落ちるべきではあろう。]
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