早川孝太郞「三州橫山話」 「變つた祠」・「地の神と墓地」・「門の入口」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]
○變つた祠 馬が死んで建てた馬頭觀音や、愛宕神の祠などは、路傍に一團宛になつて幾ケ所もありましたが、生砂神《うぶすながみ》の境内には、風の神の祠と云ふのがあります。字神田には、近年発電所工事の折に、慘死した二人の工夫の碑が建てられましたが、それには、風前頓悟信士、諸行寂定信士の文字がありました。
[やぶちゃん注:「馬頭觀音や、愛宕神の祠」先行する「張切りの松」の私の注を参照されたい。
「生砂神の境内には、風の神の祠と云ふのがあります」「生砂神」は既出既注であるが(現在の白鳥神社。グーグル・マップ・データ)、「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の右端の「生砂神社」の左に『風の神祠』とあるのが、それ。サイド・パネルの画像を見ても、それらしい位置にはないようであるが、或いは、現在の白鳥神社の左に小さな祠が見え、或いは、これかも知れない。
「神田」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。長篠発電所が視認出来る。「早川孝太郎研究会」の本篇には、『発電所から猿橋に下りる道の途中にある工夫の碑風前頓悟信士、諸行寂定信士の文字が読み取れます』とキャプションした、写真が載る。]
○地の神と墓地 何處の家にも、代々の墓地が屋敷の傍にあつて(多くは一段高い所)其傍に地の神が祀つてありました。其處には觀音の像や、南無阿彌陀佛と刻んだ碑や馬頭觀音の碑などが、五ツ六ツ位建つてゐました。
家々の墓地は、現今は形ちのみで、死人のあつた場合は、村の共同墓地へ葬る規定ですが、四十九日の忌明《きあけ》が濟めば、埋めた所の土だけ持つて來て、代々の墓地へ引越してしまふので、其處には新しい碑も建ちますが、共同墓地には、今以て一つの碑も出來ない有樣です。それは現在の共同墓地が、未だ充分村のものに親しめない爲めもあつて、あの人一人あんな所へやつて置くのは可愛さうだなどゝ謂つて、一緖にする事も理由の一つで、また一つには參詣などに不便な點もあるらしいのです。
何れの家にも、何々の屋敷址とか門あとゝいったものが屋敷の近くにあって、其等が畑の中や路の傍に、第二の地の神位《ぐらゐ》の待遇を受けてゐて、盆とか正月には、新しく花壺も立て替へられ、松火《たいまつ》も焚きました。
[やぶちゃん注:「現在の共同墓地」位置不詳。思うに、これは明治になって墓制が寺院や共同墓地に限定された結果生じた現象でることが判る。一般に両墓制は単墓制よりも古いとされるが、少なくともここ横山では、新しい。だから、共同墓地には碑を建てないのである。一部の民俗学者は、敷地内に死の穢れを齎すことを怖れて、埋葬を家屋外に配したという説には私は敢然と反対するものである。]
○門の入口 道路から屋敷へは入《い》る所は、家の神棚や佛壇と同じやうに、每朝線香を立てたり茶誦をしたりしました。道から門へ眞つすぐに入口をつけると、魔がさすとも謂ひました。家は普通主家《おもや》とカマ家《や》の二ツに別れて間に樋《とひ》が懸つてゐました。
[やぶちゃん注:「茶誦」「ちやじゆ(ちゃじゅ)」と読んでおく。見慣れない単語であるが、ある対象(屋敷神或いは祖先)に茶を捧げ、お祈りや感謝の言葉を誦(とな)えることであろう。住居の入口に神が宿り、家を守るという信仰は縄文時代から見られる極めて古層の信仰形態である。
「道から門へ眞つすぐに入口をつけると、魔がさす」沖縄の伝統的な家屋の門にある魔物除けの壁「ひんぷん」を想起させる。この中国の屏風由来とされる壁は、魔物が、直接、家の中に入ってこれないように配されるから、「魔がさす」(魔の視線が家屋の奥まで刺し通す・指し示して災いを齎す)という謂いが実にしっくりくる。
「カマ家」「竃家」で竃(かまど)がある厨房のことであろう。]