「曾呂利物語」正規表現版 三 女のまうねんは性をかへても忘れぬ事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入する(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(但し、本篇は収録していない)。]
三 女(をんな)のまうねんは性(しやう)をかへても忘れぬ事
年ごろ行ひたる僧の有りけるが、いかゞ思ひけん、一人(ひとり)の女に戯(たはむ)れて還俗(げんぞく)しはべる。かくて、年月(としつき)過ぎけるが、かの僧、
「つくづくと來(こ)し方思ひつゞくれば、一たび、出家の身となりて、うけがたき人身(じんじん)をうけながら、空しく三途(さんづ)に歸らんこと、返す返すも、口惜しけれ。」
とて、あたり近き所に貴(たつと)きひじりのおはしますに、よくよく申して、又、行ひすましてぞ、ゐたりける。
されども、彼(か)の女、をりをり、彼(か)の寺に行き、とぶらひ侍る。
僧、
『うとましきこと。』
に思ひながら、かの女、日頃も、けしからず、心たけきものなりければ、やうやうに、いひ宥(なだ)めて過ぎけるが、ある時、僧、いたはり出(いだ)しけるが、かねて友なる僧に語りけるは、
「かの女、我をたづね來らば、『物まうでをし侍る。』と、いひてたまはれ。」
と、いひあはす。
案の如く、彼(か)の女、來りて尋ねければ、
「その人は、昨日(きのふ)、物まうでの心ざし有りて、何處(いづく)へやらん、出でたまふ。」
といふ。
女、すこし、けしき變りて、歸りぬ。
扨(さて)、其の後(のち)、僧は涅槃に入(い)りぬ。
さる程に、日頃、存じの事なれば、院主(ゐんしゆ)の坊、かの女の方(かた)へ、
「しかじか。」
と、いひつかはす。
いそぎ、女、來りて、少しも歎くけしきもなく、いひけるは、
「彼の僧は、五百生(しやう)以前より、われわれが、敵(かたき)なり。かの者の成佛すべき所をば、色々に形を變(か)へ、身を變じて、障礙(しやうげ)をなして、妨(さまた)げ侍る。此のたび、死目(しにめ)に逢ふならば、往生を遂げらせまじきものを。」
と、怒りけるが、そのたけ、二丈ばかりも有るらんとおほしき[やぶちゃん注:ママ。]、鬼神(きじん)となりて、口より、火焰(くわえん)をいだし、天に、あがり侍る。
[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「女のもうねん生をかへてもふかき」である。後注を参照されたい。]
しばし、雲のすきに、ひらめきて、つひに見えずなりにけり。
かかることは、佛(ほとけ)も說きおき給ふとかや。恐れて、みづから愼むべきこと、とぞ。
[やぶちゃん注:「まうねん」妄念。
「性(しやう)をかへても」この「性」は挿絵のキャプションの「生」の方がしっくりくる。本文にある通り、実に五百回、「生」まれ変わっても、この僧を「敵(かたき)」としてきた執拗(しゅうね)き怨霊(「鬼神」化さえしている)であったのである。女であることから、性別を「變へても」とり憑き続けたとも読めてしまうのであるが、ここは「女は」と頭にあることから、仏教の古くからの性差別である「変生男子」(へんじょうなんし)説(女は男に生まれ変わらないと成仏は出来ないとするもの)が意識の底にあることが判り、彼女は恨みの余り、五百回、女に生まれ変わって、かの僧の前世にもずっと祟り続けてきたのだ、と考えるのが妥当であるように思われる。
「いたはり出(いだ)しける」「勞はり出だしける」で、「(重篤な)病いを煩(わずら)い始め、」の意。
「二丈ばかり」六メートル超。]
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