早川孝太郞「三州橫山話」 「水神樣」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]
○水神樣 寒狹川の岸に、水神樣と呼んでゐる碑がありましたが、それには溺死亡粥の文字があって、每年七月十三日の日に川施餓鬼を行ひました。こゝの稍《やや》下寄りに、岩と岩とが、兩岸から出て、川幅が一間許《ばか》しにせばめられた處に、材木などを渡して橋をなしてゐる所を猿橋と謂つて、出水の折を除くと、村の交通機關になつてゐました。鳳來寺の寺記によると、昔、天武天皇の勅使が下向ありし時、此川に橋なく困難の處へ、何處《いづこ》ともなく無數の猿が來て枯木を川に渡して、勅使を渡し參らせし故、其處を猿橋と謂ふとあります。
[やぶちゃん注:「水神樣と呼んでゐる碑がありました」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の下方の右手、寒狹川左岸に『水神祠』とあるのがそれ。「猿橋」はグーグル・マップ・データ(航空写真)でポイントされているが、碑については、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)に(写真二葉あり)、『昔の猿橋は、現在の橋の橋台のところに架かっていた。今の橋でも洪水時には水面より数メートル下に沈む。当時は出水の度にかけた丸太が流され交通止めになった』と記された後に、『水神様を探したのですが、見つけることが出来ませんでした』と附記があるので、現存しないようである。グーグル・マップ・データ「猿橋」のサイド・パネルにも写真が複数あり、別な写真に橋名板「猿橋」も現認出来る。
「溺死亡粥」「できしばうかゆ」と読んでおく。川での水死人の霊を弔う「川施餓鬼」で、その供養に粥を供えたり、流したりすることを言うのであろう。海で亡くなった者や入水自殺した者、及び、難産で亡くなった妊婦の霊を成仏させるために弔う、水辺で行なわれる仏事供養としての「水施餓鬼」に含まれる。通常は、経木を水に流したり、ほとりに竹や板塔婆を立て、それに布を張って、道行く人に水をかけて貰ったりもする。布の色が褪せるまでは亡霊は浮ばれないとされる。「流灌頂」(ながれかんじょう)とも呼ぶ。「小泉八雲 海のほとりにて (大谷正信訳)」に祭壇の画像が載るので、是非、見られたい。
「鳳來寺」横山の東北直近の愛知県新城市門谷(かどや)字鳳来寺の鳳来寺山の山頂附近にある真言宗五智教団煙巌山(えんごんさん)鳳来寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は開山(大宝二(七〇二)年)の利修作とされる薬師如来で、古来、「峯の薬師」と呼ばれた。この山に多く棲息し、愛知県の県鳥であるコノハズク(フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus sunia 。「声の仏法僧(ブッポウソウ)」(「姿の仏法僧」と呼ばれる日本には夏鳥として飛来するブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis との誤認で、この誤りが正されたのは昭和一〇(一九三五)年のことで、実に一千年にも及び、鳴き声を勘違いされてきた))でも有名。詳しくは当該ウィキを参照されたい。
「天武天皇」(?~朱鳥元(六八六)年)は第四十代天皇(在位:天武天皇二(六七三)年~朱鳥(しゅちょう/すちょう/あかみとり)元(六八六)年)。「勅使」とあるが、具体的には指示し難いものの、当該ウィキによれば、『天武天皇は』天武天皇一二(六八三)年十二月十七日に『難波京を置いた』が、彼は『都を二、三置くべきだと考え(複都制)』、『東にも副都を置こうとしたのか』、同一三(六八四)年二月二十八日に『信濃に三野王』(みぬおう/みのおう:敏達天皇の後裔で従四位下・治部卿)『と采女筑羅』(うねめのつくら:貴族。名は竹良・筑羅・竺羅とも表記される。姓は臣(おみ)で後に朝臣。位階は小錦下・後に直大肆・直大弐)を『視察の遣いとして派遣したが、そちらは着手に至らず終わった』とあるのが、横山を通過するという点で、一つの候補とはなろう。]
« 早川孝太郞「三州橫山話」 「セキの地藏」・「山の神」・「行者講」 | トップページ | 早川孝太郞「三州橫山話」 「變つた祠」・「地の神と墓地」・「門の入口」 »